徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔115〕親不知海岸・糸魚川駅・フォッサマグナミュージアム・月不見の池(只今、更新中です)

天険・親不知子不知海岸

 

◎親不知海岸を散策する

海岸線を国道8号線から眺める

 親不知・子不知海岸は、北陸本線青海駅から市振駅までの名称で、このうち、「天険・親不知子不知」として知られる断崖絶壁は約10キロほどの距離がある。親不知駅を起点として、西側の市振駅までが親不知、東側の青海駅までが子不知を指し示すそうだ。だとすると、糸魚川市街に近いほうが子不知、遠いほうが親不知となって、逆のような感じもするが、それは東京を日本の中心とする見方であり、明治維新以後の考え方であって、令制国の国名を考えれば分かるように、大和・奈良・京都が中心なのである。それゆえ、福井が越前、富山が越中、新潟が越後なのだ。そう考えれば、京に近いほうが親不知、遠いほうが子不知となづけられたのは当然のことである。

 なお、以下の説明文では親不知・子不知と記すのは面倒なので、一括して親不知海岸と表記することにした。

ブラタモリでも放映された海岸線

 親不知海岸は、北アルプス飛騨山脈)の北端が日本海の荒波によって浸食されてできたもので、高さ400~500mの断崖が絶壁となって海に落ち込んでいる。明治16(1883)年に道路が開通するまで、人々は約10キロの道程を海岸線を伝って移動したのである。

 写真からも分かる通り、ところどころに狭い砂利浜があるが、大半は浅瀬を絶壁に近い浅瀬を選んで移動し、波が高い時には移動はせず、波の親やかな日を選んで歩き始め、海が荒れ始めて移動が困難なときは、砂利浜や小さな海蝕洞に避難して波が収まるのを待ったのだ。

 写真の砂利浜は「大懐」と呼ばれていた避難場所で、NHKで放映されていた「ブラタモリ」でも紹介されていた。

 海岸線をよく見ると、海は結構、遠浅で、海底には大きな石や岩盤が多いことが分かる。だからこそ、どうにか通行が可能だったのだ。

 「親不知・子不知」の名の由来は諸説あるが、私がもっとも妥当性があると思うものは以下の通りである。

 平清盛の弟の平頼盛が越後に移り住んだので、彼の妻は2歳の子供を連れて訪ねることにした。ところがこの親不知海岸を行くときに子供は波にさらわれ行方不明になってしまった。そのことを憐れみ、妻は以下の歌を詠んだ。

 親知らず 子はこの浦の 波枕 越路の磯の あわと消えゆく

 この歌が広まったことから、いつしかこの地は、親不知・子不知と呼ばれるようになった。

日本アルプスの名を世界に広めたウェストンの像

 国道8号線沿いにある「親不知観光ホテル」の南側に車が10数台置ける駐車スペースが整備されているのでそこに車をとめて、少しだけ時間をとって周囲を散策してみることにした。

 親不知海岸に道が通ったのは明治16(1883)年のことで、それまでは江戸時代以前と同様に崖下の海岸線を人々は行き来したのだった。道路の開通を祝って、壁に「如砥如矢」の文字を彫った。その道は現在、コミュティロードとして親不知海岸を展望する遊歩道として整備されている。

 如砥如矢とは開かれた道は砥石のように平らで矢のように真っ直ぐだ、という意味のようだ。実際にはそれなりに曲がりくねっているのだけれど、今までの極めて危険極まりない海岸線に比べれば、天と地ほどの差がある道なのだ。私はその4文字を写真に収めたのだけれど、なんとピンボケで使い物にならなかった。ここで改めて、苦難の工事を続けて道を切り開いた人々にお詫びを申し上げたい。

 このコミュニティロードには、写真のように展望所(休憩所)と、その隣にウォルター・ウェストン(1861~1940)の彫像があった。ウェストンは1888から1915年にかけて日本に3度訪れた。キリスト教の宣教師であった彼は登山が趣味であったため、日本各地の山に登り、とりわけ飛騨山脈木曽山脈赤石山脈を気に入り、日本アルプスとしてその名を世界に広めた人物で、日本山岳会の設立も勧めた。いうなれば、日本近代登山の父ともいえる存在なのだ。彼の像は各地にあるそうだが、ここ親不知は先に触れたとおり北アルプスの北端に位置するので、この場所にあっても何の不思議はない。

眼下の海岸線で石を集める若者たち

 親不知海岸までは比高が80mほどもある。せめて旧北陸本線のトンネル跡ぐらいは見てみようと急な階段を下りてみた。すると、トンネルよりも先に、海岸線に集う若者のグループが目に入った。こうして海岸線を見下ろすと、私にも下りられるような気がしたので、意を決して海岸線を目指すことにした。

北陸本線のトンネル跡

 写真は、トンネル跡だが、こちらはがけ崩れが進んでいるので近づくことはできない。反対側にはレンガ造りのトンネルがきちんと残っていて、トンネル内を自由に行き来することが出来る。

 当初はトンネル巡りが目的で急坂を下りてきたのだが、ここで体力を消耗してしまうと帰りの登りが辛くなると考え、トンネル巡りはパスして海岸線を目指すことにした。

80m下の海岸線に下りてみた

 汀には砂らしきものも集まってはいるものの、基本的には砂利浜で、思った以上の広さがあった。が、ここは水遊びのための場所ではなく、もっとも古い北陸道の一部なのだ。こうした避難場所があるからこそ、人々はなんとか糸魚川と市振との間を往来することができたのだった。

芭蕉はこの海岸線を歩いて市振に向かった

 浅瀬を選んで写真の岩の向こうへ行く元気も勇気もなかったものの、約300年前に私が敬愛してやまない芭蕉師匠がここを歩いたのだと思うと感慨深かったので、この砂利道を何度も歩き回ってしまった。

波が高い時に人々は、こうした場所に避難した

 上の写真は、この浜の西側で、写真は東側(糸魚川方向)を展望したものである。若者たちはそちら側に集まって石拾いをしていた。初めはヒスイ探しをしていると思っていたのだが、実際には色々な模様の異なる石を集め、リーダーと思しき人が集めた石の成り立ちや特徴をかなり細かに説明していた。つまり、この若者たちは地質学を学ぶためにこの海岸に来ていたのだ。

 思えば、駐車場には3台の車がとまっていて、そのうちの2台が横浜ナンバーだった。つまり東京か神奈川近辺に住む若者がわざわざ親不知までやってきて調査をおこなっていたのだ。

 岩石の調査であれば三浦半島の城ケ島でも十分におこなえると思うのだが、太平洋側と日本海側との違いを知ることも、きっと大切なことなのだろう。

 思えば、足尾銅山鉱毒事件で国と争った田中正造は全財産をなげうって奮闘したため、彼に残されたのは小袋ひとつで、その中に小石が3つ入っていた。彼は石拾いが趣味だったようで、渡良瀬川の河原で変わった姿をしている石ころを探していたのだろう。石には無数の色や文様がある。一人として同じ人間が存在していないごとくに。

若者たちは岩石の調査をしていた

 調査を終えた若者たちが引き上げていったので、私は彼、彼女らが集っていた東側部分に移動した。写真の左手にある三角形をした岩の周りには、若者たちが集めた数多くの種類の石が並べられていた。そのひとつひとつについて、リーダーは説明を加えていたようだった。

海は案外、浅い場所が多い

 汀を覗いてみた。写真から分かる通り、やや沖目まで浅瀬が続いていることがよく分かる。こうした浅瀬と砂浜がなければ人々は往来できるはずもなかった。それでも、波にさらわれて行方不明になった旅人は大勢いたらしい。

 穏やかに見える日本海も豹変して荒れ狂うときがある。もちろん、晩秋から春にかけては北西の季節風と大雪のため、穏やかな日はほとんどないが、初夏であっても天候は急変する。実際、翌々日は北からの風が猛烈に吹き付けてきたため、私はすべての予定を変更して、上越市のホテルに逃げ込んだのだった。

いろんなところに海蝕洞がある

 写真のような小さな海蝕洞が、こちら側にもあった。子供ぐらいならば雨宿りができるだろうか。

滝を眺めながら急坂を上る

 この海岸では30分ほど過ごし、いよいよ車に戻ることにした。80mの高低差を一気にこなすことは不可能に近かったので、写真にある滝を眺めながら、牛歩戦術を用いてなんとか駐車場に戻り着くことができた。

糸魚川駅界隈を歩く

国道沿いにあった奴奈川姫と建御名方の像

 糸魚川駅の北側の海岸線沿いを走る国道8号線のバイパスに無料の駐車場があった。そこは、下の写真にある「日本海展望台」を訪ねる人のために整備されたものであるが、実際には、糸魚川駅界隈を散策する人が利用する割合が高いらしい。

 私はその場所に車をとめ、展望台に行く前に、駅に通じる道の反対側にある公園内に建つ「奴奈川姫像」を見物した。糸魚川を語る際には必ず、この姫の名前が登場するというのが、その像に接する理由だった。

 この姫は『古事記』では「沼河比売」、『出雲風土記』では「奴奈宣波比売命」の名で登場するらしい。それらによれば、大国主は日本中に沢山の妻を探したけれど満足できる女性に出会うことはなかった。おりしも、越(高志)国(広義では今の北陸地方)に賢くて美しい女性がいると聞き求婚のために越に足を運んだ。

 一日目の「夜這い」は失敗に帰したが、二晩目には成就し、やがてその女性は身ごもり、子は建御名方(たけみなかた)と名付けられた。この子は成長すると信濃から諏訪地域を開拓した。彼の末裔が諏訪氏だとのことだ。

 古事記出雲風土記には、大国主の夜這いが成功したところまでしか記述されていないようだが、糸魚川界隈にはこの奴奈川姫伝説が数多く残り、そこではヒスイを支配する祭祀女王として扱われているそうだ。糸魚川=唯一のヒスイ産地だけに、当地ではこの姫は絶対に欠かすことのできない存在なのである。

虹色?の「日本海展望台」

 向かいの展望台へは、地下道を通って海岸側に行く。アーチの下にある建物を出て、右手の階段を上がったところに展望台がある。

展望台から駅方向を眺める

 

 私は海側ではなく、まず糸魚川駅方向を眺めた。手前の小高い山のどこかにフォッサマグナミュージアム長者ケ原遺跡があるはずだ。

 その向こうにあるのが「妙高戸隠連山」だが、雲がかかっているために焼山(標高2400m)は見えず、その手前にある昼間山(1841m)と、右手にある雪を多く残している金山(2245m)がかろうじて姿わ現していた。

日本海の眺め~能登は見えなかった

 今度は海側を眺めた。海岸線には消波ブロックが並べられているために降りることはできない。はるか先に能登半島が見えることを期待したが、やはりその方向にも雲が覆っているためか、その姿は視認できなかった。

北陸新幹線駅もある糸魚川駅

 展望台を降りて地下道をくぐり、駐車場の東端にある道を真っ直ぐ南に進むと糸魚川駅に着く。その距離はわずか350mに過ぎない。

 駅舎が立派なのは、2015年に北陸新幹線が開通して新たに糸魚川駅が出来たことによる。この駅には、新幹線のほか、えちごトキめき鉄道(旧北陸本線)の「日本海ひすいライン」、JR大糸線、JR貨物が乗り入れている。ただし、新幹線駅だけが二階にあり、その他の駅は一階にある。

 左手にある建物には「ヒスイ王国館」の名前があるが、この中には糸魚川観光物産センターや観光案内所もあるらしい。 

8年前の大火災から復興を遂げた北口駅前

 糸魚川と言えば、8年前(2016年)の大火災が記憶に新しい。12月22日午後10時20分、ラーメン店から出火した火の手は折からの”姫川おろし”と呼ばれる南からの強風によって瞬く間に延焼し、鎮火までには30時間を要した。被害は147棟に及んだ。

 被災したのは、「魚民」の入っているビルのすぐ左手(西側)で、駅前ということもあって密集した家屋が並んでいたために被害が広がったのである。その被災地も大半は復興を遂げており、併せて被害を受けていない駅前通りも新たに整備されたようだった。

駅前ロータリーにも奴奈川姫像があった

 写真のようにこの駅前ロータリーにも「奴奈川姫像」があった。こちらの像には建御名方の姿はなく、代わって姫はこの地の名産品であるヒスイを手にしている。

駅舎内の一階にある大糸線の旧車両

 駅舎の一階をうろついてみた。この地の特産物なども展示されていたが、私の目を真っ先に止めたのは写真の大糸線で活躍していた車両であった。2010年の3月まで三両が活躍していたが、引退後はそのうちの一両がこうして駅舎内に展示してあり、車内に自由に入ることができる。

 フォッサマグナ・パークの項では根知川を渡る新車両を挙げたが、やはり、ローカル線にはこの写真のような車両がよく似あう。

ヒスイの原石が置かれていた

 ここにもヒスイの原石が置かれていた。小滝川から発見されたそうだが、やはりヒスイは「深緑」が見栄えが良く、展示してあった白色では貴重さは感じられない。

 なお、ヒスイにはこのほか、ピンク、ラベンダー、青、黒、黄色などがあるそうだ。

フォッサマグナミュージアム~少しがっかり

かなりの規模の建物だったが

 今回の旅でもっとも気になっていた存在が、写真の「フォッサマグナミュージアム」だった。フォッサマグナには東西問題と南北問題があり、南北問題は研究者の間では意見がほぼ一致しているものの、東西問題はまったくの解決を見ていない。それどころか、研究が進むほど混迷を深めていると思われる。

 「大きな地溝」というからにはそれなりの幅と深さがあるはずで、その西端は糸魚川・静岡構造線あることはほぼ一致を見ているのだが、東端については諸説あるというよりいささかあり過ぎるため、慎重な学者は東端については議論を避け、議論をほぼ北部と南部の相違に集中させているのである。

 もちろん、溝の深さについての研究もあり、何度かボーリング調査がおこなわれている。つまり、地中深く掘り下げて、基盤岩に到達すれば深さが分かるのである。しかし、6000mまで掘り進めても未だ基盤岩に突き当たらないため、現在のところでは、深さは6000m以上あるということ以上のことは言えないようだ。

 が、糸魚川フォッサマグナミュージアムでは、東端は「柏崎・千葉構造線」、深さは6000mと断定しており、実際、21年11月、NHKで放映された「ブラタモリ」では、ミュージアムの館長が登場してタモリにそのように解説をしていた。その記憶があったため、私はミュージアムに乗り込み、館長には会えなくとも、学芸員か誰かに、その論拠を質したいと意気込んでいたのである。

 男鹿や下仁田南紀熊野の各ジオパークでは見物客が少なかったこともあって、それぞれの場所で2~4時間程、学芸員や案内係の人にじっくり話を聞くことができたのだが、このフォッサマグナミュージアムでは大勢の見物客が訪れていたこともあって、係の人に質問することすらできなかったのある。

 また、大半の見物客はフォッサマグナよりもヒスイに関心があるようで、そちらの展示場のほうに人が多く集まり、そのために案内係の人はほとんどヒスイのほうにかかりっきりになっていた。

 結局、フォッサマグナについては何も質問できず、ただフォッサマグナの深さが6000m、東端は柏崎・千葉構造線という「ブラタモリ」でも紹介されていた展示を見るだけで終わってしまったのである。

フォッサマグナの南北は八ヶ岳で区分する

 上の写真は、JR小海線野辺山駅付近から八ヶ岳を望んだものである。なぜ、唐突にこの場所を紹介したかと言えば、フォッサマグナの「発見」者かつ命名者であるナウマンは、この小海線が通るルート(長野県小諸市から北杜市小淵沢駅)をフォッサマグナの東端と考えていたからである。

 また、先ほど、フォッサマグナは東西問題よりも南北問題のほうが遥かに重要であるということに触れたが、その南北の分岐点が写真の八ヶ岳にあるということはほぼ学者間では一致を見ているからである。

 このことは日本列島の成り立ち(約2000万年前から1500万年前)から触れなければならないので、今回は残念ながら述べることはできないが、いずれ折を見て、この点についてじっくり語ってみたいと考えている。

フォッサマグナよりもヒスイがメイン

 

新潟県の石に認定されたらしい

糸静線の西側で発掘された白亜紀の化石

色とりどりの石英

方解石は石灰岩の主成分

長者ケ原遺跡~ヒスイ加工の拠点

広大な敷地を有する遺跡

縄文時代中期の遺跡

竪穴の痕跡

発掘された数々のものが展示されている

縄文式土器の数々

大型の土偶

ヒスイはここから日本各地に広まった

半加工されたヒスイも数多い

◎月不見(つきみず)の池~地滑りによって生まれた池

こちらのほうが見応えがあった

この鳥居の先に池がある

池に「浮かぶ」転石

池を見守る弁才天

池の水の大半は湧水

樹木や蔦に覆われているので月は見えない

月は見えなくとも池の姿は美しい

池の周囲にも転石は数多い

いくら拝んでも、私のボケは治らない

 

〔114〕仁科三湖、塩の道、そして糸魚川へ

松川右岸から白馬三山を望む

◎仁科三湖 

木崎湖を望む

 私は糸魚川市を目指して北へ進んだ。安曇野、そして高瀬川が開析して造った大町の平地を過ぎると今までの開けた道とは異なり、道の左右からは山が迫ってくる。その先にあるのが、木崎湖(標高760m)、中綱湖(819m)、青木湖(825m)のいわゆる仁科三湖である。

 私の友人は、よく生物の調査でこの三湖を訪れたらしいが、私の場合はただ国道148号線を北に進むばかりで、立ち寄ったことは一度もなかった。が、今回は少しだけ時間的な余裕があるし、友人からは何度も三湖の話を聞かされていたこともあり、このままその姿をしっかりと見ぬままで死んでゆくのも情けない話なので、少しばかり寄り道をして、それらの姿に触れてみることにした。とはいえ、三湖とも国道からはそう遠くない場所にあるので、「寄り道」といったほどの時間は要さないのだが。

微かに北アルプスの峰が見えた

 「仁科」の名は、木崎湖の南に小さな「仁科郷」があるばかりで、それ以外にとくにこの三湖に仁科の名を付する理由は不明だったが、いざ調べてみると理由は意外に簡単明瞭であった。伊勢神宮領仁科御厨の荘官であった仁科氏が、かつてこの地域を支配していたからとのことだ。

 もっとも、仁科氏が何故仁科を名乗ったのかは不明のままだ。「科」は傾斜地を意味し、実際、蓼科や明科、豊科など長野県には科の付く地名は多い。さらに言えば、信濃の「信」だって、もともとは「科」を用いていた。

 ただ、「仁」のほうは定かではない。一般に「仁」といえば儒教の最高徳目を現し、さらに「人」や「果実の核」を意味することもある。「真心や思いやりのある傾斜地」では何のことかさっぱり分からない。

一番小さな中綱湖

 仁科三湖はかつて「断層湖」と考えらえていた。ここにはあまりにも有名な「糸魚川静岡構造線」(糸静線)が走っているからである。しかし、近年の研究では、農具川が度重なる崖崩れによって埋め立てられた「堰止湖」であると考えられている。

透明度が高いという噂だったが

 仁科三湖の周囲にはキャンプ場が多く、水遊びや釣り客で賑わうそうだ。雪解け水や伏流水が多く流れ込むこともあって透明度が高い湖だと聞いていたが、私が見た限りでは噂とは異なり、どこにでもある湖と同じ程度だと思えた。また、標高の高い場所にある湖としての「神秘性」も感じられなかった。

 それでも、周囲には緑が多く、なにより、ほど近い場所に北アルプスの峰々が連なっていることから、すこぶる景観の良い場所もあったことは事実である。

三湖は農具川でつながっている

 写真は農具川で、青木湖に源を有し、中綱湖、木崎湖を結んで、大町市の南端で高瀬川に合流する。その高瀬川安曇野の明科付近で犀川に流れ込み、その犀川長野市内で千曲川に、その千曲川新潟県に入ると信濃川に名前を変える。ということは、農具川は信濃川水系に属し、その三次支川ということになる。

一番大きな青木湖

 仁科三湖ではもっとも大きく、さらにもっとも北に位置する青木湖畔からは北アルプスの姿がよく見えた。私には山の名はよく分からないが、位置関係から写真にある雪を抱いた峰は白馬岳である可能性が高い。

◎白馬三山を望む

白馬大橋から白馬三山を望む

 次の目的地は小谷村(おたりむら)だった。ただし、途中にとても良い景色に触れられる場所があるので、国道148号線をそのまま進まず、大糸線の飯森駅のすぐ先にある交差点を左折して、県道33号線(白馬岳線)に移動して八方尾根スキー場方向に進んだ。

 私はスキーはまったく行わないので、この周辺にあるスキー場に足を踏み入れたことはないが、兄や姉は若い時分によく出掛けていたので、八方尾根や岩岳、栂池(つがいけ)の名はしばしば耳にしていた。

 スキーに全く関心がない私が、なぜ八方尾根方向に寄り道をするかというと、上の写真にある景色を眺めるためである。八方尾根と岩岳とをつなぐ道路の途中に松川が流れていて、その川に架かる「白馬大橋」(標高758m)からの景観がすこぶる素敵であることを今から10数年前に知った。以来、特別に急ぎでない限り、糸魚川方向に進むときか糸魚川から安曇野方向に進む際には必ずと言って良いほどこの橋に立ち寄っているのである。

パラグライダーが飛んでいた

 橋の上から白馬三山(左から白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳)が松川の流れの上に浮かんでいる。生憎、大雨の後だったために川の流れは白濁していたが、晴天が続いた日に橋の上に立つと、極めて透明度の高い流れと美しい傾斜を有する稜線とのコントラストに圧倒されるのだ。

 もちろん、橋の上に車を駐車するわけにはいかないので、橋の両詰めにある駐車スペースに車をとめ、橋上だけではなく、河原に降り立ってこのパノラマに接するのである。本項の冒頭の写真は川の右岸から川と山を眺めたものだ。

 さらに八方尾根方向を眺めると、写真では分かりづらいが、パラグライダーがゆったりと空を旅している姿が見て取れた。私の場合、そのパラグライダーを見ると、今では必ず、『愛の不時着』を思い浮かべてしまうのだが。もっとも、ここから北朝鮮まで飛んでゆくことはあり得ないだろう。

◎塩の道(千国(ちくに)街道)を行く

牛方宿

 「敵に塩を送る」という言葉は誰もが知っており、しかも送った人物と送られた人物も、もちろんよく知られている。しかし、その塩が送られた道が、この項で取り上げる「塩の道」(千国街道、松本街道、糸魚川街道、安曇野街道、仁科街道)であったことはあまり知られていない。

 もっとも、今日では上杉謙信武田信玄に塩を送ったということは後世の作り話であるということが定説化しているので、あたかも事実であったかのように話をすると失笑される蓋然性は高いので、あくまで「なんちゃって話」に留めて置きたい。

 しかし、糸魚川から松本盆地まで塩が送られていたことは事実であり、おそらくそれは数千年前からおこなわれていたはずである。なぜなら、日本では岩塩が産出されることは滅多にないため、内陸に住む人々(縄文人?)は海辺の人々から塩を調達する必要があったからである。

幕末に建てられた塩の倉庫

 上に挙げたようにこの塩の道は「千国街道」として知られているが、2002年に「松本街道」として国の史跡に指定された。個人的にはこれはとても残念なことだと思うが、この道を全国に広めるためには「千国」よりも「松本」のほうが遥かに知名度が高いためにやむを得ない措置だったのかもしれない。

 それはともかく、私は白馬大橋を離れたあと、この塩の道の一端に触れるべく、栂池(つがいけ)から県道433号線(千国北城線)を「千国の庄」方向に進んだ。途中で「この先工事中のために通行止め」との標識があったが、その通行止めの箇所がどこだか分からなかったので、かまわずにそのまま進んだ。

 まもなく、「牛方宿」(標高756m)という標識が目に入り、ひとつ上の写真にある「牛方宿」とかかれた古い建物(1800年頃のものらしい)と、上の「塩倉」と書かれた建物(幕末頃のものらしい)が見えたので、その傍にあった空き地に車をとめて見物することにした。

 「牛方宿」は宿場の名前ではないようで、牛方、つまり牛の背中に塩の入った2俵を積んで山道を進む人と牛のための休息所(宿泊所)を言うらしい。この辺りは沓掛(くつかけ)という地名なので、あえて宿場名を言えば「沓掛宿」となるようだ。

 塩の道は遊歩道としてよく整備され、近年ではハイキング客が多いらしいが、道はともかくとして往時を偲ばせる建物は案外少なく、千国街道にある建物としてはよく保存された貴重な建物だとのことだ。

 人間は寄棟造りで、間口が6間、奥行きが10間の牛方宿に泊まり、牛と塩は塩蔵に置かれたそうだ。塩蔵の中は見られなかったが、1階に牛が、2階に塩の入った俵が置かれたらしい。

塩の道を少しだけ歩く

 すぐそばに写真にある「塩の道」の標識があったので、少しだけ歩いてみることにした。

かなり険しい道もある

 写真では分かりづらいが、結構な斜度のある山坂道なので傾斜のきつい場所では牛が、傾斜の緩い場所では馬が使われたそうだ。もっとも、雪のない時期(1年の半分は雪道となる)は牛や馬を用いたが、積雪の時期は人が塩俵を担いで街道を行き来したとのこと。なお、塩俵は1俵で47キロの重さがあったというから大変な重労働であった。

各所にある道祖神

 塩の道を使って内陸に塩や海産物を運ぶ人を歩荷(ぼっか)という。かつて歩荷は「かちに」と訓で読まれていたそうだ。なお、馬や牛を使って荷物を運ぶことを「駄荷」と呼ぶとのことだ。

 歩荷と同じように荷物を背負って運搬する人に強力(ごうりき)がいるが、現在ではおもに登山者のための荷物を運ぶ人をそのように呼んでいるようだ。また、歩荷は地域によって他の名前で呼ばれることがあり、「丁持ち」「持子」「オネコ」「サンド」「仲歩」「物荷」「棒架」「北荷」などが知られている。

 いずれにせよ、険しい道を重い荷物を背負って進む歩荷の安全を祈願するためか、道の随所に写真のような道祖神が置かれていた。

◎千国の庄資料館

千国番所の入り口

 千国の名は、現在では小谷(おたり)村のいち字名に過ぎないが、かつては皇室と関係の深い六条院領・千国庄が置かれていたこともあり、姫川上流一帯ではもっとも開けた場所であった。そのためにここには政所が設置されていた。その後、千国街道が整備され、北回り船が糸魚川に立ち寄るようになってからは数多くの物資が千国街道を通って松本盆地に運ばれるようになった。

 戦国時代(永禄年間と考えられている)には、この千国の庄に口留番所ができ、当初、その守衛には千国氏がその任にあたった。 

番所の役人(の模型)

 北回り船によって糸魚川にはいろいろな物資が入津した。塩は地元のものは少なく、多くは瀬戸内海産の物がほとんどで、そのほか、乾物、越中の木綿や金物、能登の輪島塗、加賀の九谷焼、九州伊万里唐津の陶磁器なども港に入り、千国街道をへて松本盆地に運ばれた。一方、信州からは麻、漬けわらび、たばこなどが入った。

 こうした物資の出入りをチェックするために番所が置かれたのだが、その番所の姿やかつての生活様式を再現するために、千国には現在、「千国の庄資料館」が設置・一般公開されている。

 先に挙げた「牛方宿」からは2.5キロしか離れてはいないのだが、県道433号線は牛方宿から1キロ先のところで通行止めになっていたことから、私はいったん県道を栂池方向に戻り、さらにグーグルナビにしたがって隘路を下り、何とか国道148号線に出て(白馬大池駅付近)から3.5キロほど北上し、千国駅付近から県道433号線に入って、目指す資料館に到達することができた。

資料館

 受付所の後方には大きな建物があり、ここには番所の姿を復元した様子だけではなく、往時の栄華を再現した数々の品々が展示されていた。

豊かな民芸品・調度品も飾られていた

 資料館の2階には、かなり豪華な民芸品や調度品が数多く展示されていた。盆暮れには市がたち、その際には無商札で商売がおこなわたために、その賑わいは大変なものだったらしい。なにしろ、村の人は商人に商売をする場所をその時に貸すだけで、一年分の炭や油を賄えたほどの収入が得られたそうだ。そうして豊かになった在郷の人々は、写真のような品々を手に入れることができたのだった。

塩を入れる背負子

 一方、千国街道の険しい山道を重たい荷物(47キロの塩)を担ぐための背負子(しょいこ)が一階の奥に展示されていた。

漁労のための用具

 さらに、姫川でサケやマスを捕獲するための用具も展示されていた。

塩やその他の物資を運ぶための馬(の模型)

 険しい山道は牛に頼る必要があったが、比較的平坦な道では馬が使われた。もっとも、雪の多い地方なので、一年の半分は先に挙げた歩荷、つまり牛馬には頼らず、山人の汗と力によって運ばれたのであった。

農民たちの姿を再現

 資料館の庭には、往時の農民たちや牛の姿を再現した像が置かれていた。比較的豊かだったとされる千国の人々だったが、それでも今では想像もつかないほど困難な作業を強いられていたことは確かではある。

フォッサマグナパーク

この景色に触れてナウマンは、のちにフォッサマグナ命名した

 今から50年以上も前のことだが、大学の夏休みに友人と能登半島先端の珠洲市に帰省しているやはり大学の友人の家を訪ねるために国道20号線、19号線から147号線、さらに148号線を使って糸魚川方向に進んだ。

 小谷の中心部を過ぎると国道は長いトンネルに入り、北小谷に近づくとやっとトンネルから開放された。その時、左手の崖下に姫川の広い河原、さらに左岸側には相当に広めの荒れ地が視界に入った。私も友人も、その姿を見て「フォッサマグナだ!」と叫んだのだった。愚かにも、それまでは(そのあとしばらくも)、フォッサマグナは線であり、「糸魚川静岡構造線断層帯」の別名だと考えていたのである。まぁ、「フォッサマグマ」と言わなかっただけ少しマシだったかもしれないが。

 今回の旅の目的のひとつに「フォッサマグナ」についてより深く知るということがあった。さすがに、今ではそれが「線」ではなく「面」、それも立体的な面?であることは認識している。

ここが日本の東西の境目

 フォッサマグナの名付け親は、「ナウマンゾウ」の発見でも知られているナウマンで、ドイツのマイセンで生まれ(1854年)ミュンヘン大学で学び、20歳のときに博士号を得た。その翌年、明治政府に招聘されて文部省の金石取調所⇒東京開成学校⇒東京大学⇒地質調査所で日本人に地質学を教授した。

 1875年の秋、来日するとすぐに日本の地質調査旅行に出かけた。碓氷峠、軽井沢、浅間山などを調査した後に南に下り、野辺山のすぐ南にある平沢峠付近から南アルプス方向を望んだとき、眼前に広がる景観に驚愕したのだった。ひとつ上の写真が、ナウマンが目にしたものに近い場所から撮影したものである。彼が見たとされる場所には現在、多くの樹木が覆い茂っているために、南アルプスの姿は見られなくなってしまっているために、写真の場所はそれよりもやや高度の低い地点なのだけれど、おおよその姿は捉えていると思われる。

 平沢峠の標高は1448m、そこから斜面を下ると標高600mのところに釜無川が流れ、今度は地面が急激に盛り上がり、甲斐駒ヶ岳(標高2967m)、北岳(3193m)、鳳凰三山(2841m)など、3000m級の山々が連なっているのである。

 ナウマンは、こうした地形は世界のどこにもないと考え、ドイツに帰国したのちに論文でこの地形を「グロッサー・グラーベン」(大きな低地帯)と記述した。が、しかし、グラーベンは地質学では「断層」を意味するため、彼はその名を改め、ラテン語で「フォッサ・マグナ」(大きな地溝)と表現したのである。「断層」でも「地溝」でもあまり変わりがないように思えるが、前者だと「線的」、後者だと「面的(立体的)」になるので、ナウマンは初めからフォッサマグナを断層ではなく、もっと大きな広がりを有する場所だと考えていたと思われる。

糸静線を確認する

 フォッサマグナミュージアムには翌日に出掛けるので、この日はフォッサマグナ・パークにだけ立ち寄ることにした。姫川の支流である根知川の右岸近くにあり、国道に造られた駐車場からよく整備された山坂道を10分ほど歩くと、写真ではよく見慣れた糸魚川・静岡構造線(糸静線)の露頭が見られる場所に到着する。

 フォッサマグナ自体は「大きな地溝」であって、その位置は確定していないが、その西端は糸静線であることがほぼ定説化している。一方、東端は諸説ありすぎて同定は困難を極めている。

 写真は糸静線を意図的に露出されており、日本列島の東西の相違点がしっかりと確認できる。西側(左手)は約3億年前の変斑糲岩(へんはんれいがん)で、東側は約1600年前の安山岩でできている。その間に2mほどの断層破砕帯があるが、何度となく圧縮を繰り返しているためなに岩が粉々に砕かれ、砂礫や粘土層になっている。

大糸線を眺める

 糸静線の露頭までの山坂道からは、大糸線気動車根知川を渡る鉄橋を糸魚川に向かう姿を見ることができた。近年のJR線の気動車も電車同様に新規のものに順次、入れ替えられているので、今一つ、ローカル線という感じがしない。一両編成という点を除けば。

◎小滝川と明星山と

明星山と高浪の池

 フォッサマグナ・パークを離れ、次の目的地である小滝川を目指した。この川には天然の翡翠(ヒスイ)がある。というより、1938年にヒスイはこの川で発見されたのである。

 フォッサマグナ・パークから国道を南(小谷村方向)に進み、4キロほどのところにある姫川を渡る橋の先のY字路を右折して、県道483号線(山之坊大峰小滝線)を進む。その道の途中に三差路があり、そこで県道と分かれ、「平山線」と名付けられた林道を進む。地図で調べた限りかなり狭そうな道と思え、対向車があるとすれ違いに難儀すると思われた。が、実際には行きも帰りも車とは一台もすれ違わなかった。

 途中に、「高浪の池展望台」という場所があり、たいそう眺めが良さそうな場所だったので、車をとめて景色を眺めた。写真のように眼下には池があり、その先に石灰岩でできた特徴的な山容を有する明星山(標高1188m)があった。

 小滝川では、この山の南麓と川が接しているところでヒスイの原石が産出されるのである。

石灰岩でできた山

 明星山は丸ごと石灰岩でできた山であり、約3億年前のサンゴ礁が隆起したものである。この険しそうな山容から、ロッククライマーに人気があるそうだ。小滝川と並んで、この山の姿に触れたくて、私はこの地を目指したのである。

小滝川はヒスイの宝庫

 日本では、この小滝川と、近くにある青海川でしかヒスイの硬玉は産出されない。もっとも、この川であればどこにでも存在するという訳ではないそうで、下に挙げる場所にほぼ限られるそうだ。

この流れがヒスイを砕く

 川が明星山とその向かいの清水山の北西麓によって川が絞られた荒瀬付近にのみヒスイは存在するそうだ。

 ヒスイはこのきつい流れによって砕かれ、それが小滝川からその本流である姫川に流され、最終的には糸魚川周辺の海岸線にたどり着いて、そこで大半が発見・採集される。

まだまだ大きなヒスイが存在

 ここにはまだ大きなヒスイの原石があり、中には5から10立方mものが存在しているそうだ。もっとも、この周辺ではヒスイの採集は禁じられているので、ヒスイを探すなら、ヒスイ海岸と呼ばれる糸魚川周辺の海岸線がお勧めである。

 なぜ、この場所でしかヒスイが産出されないかと言えば、ヒスイは蛇紋岩中に存在するからである。この蛇紋岩は地殻の下のマントルに多く含まれる橄欖岩(かんらんがん)が水分を含んで変質したもので、この岩が地表に現れるのは稀でプレート境界付近に限られると言われている。これらの場所ではマグマが上昇しやすいため、それに乗って蛇紋岩も上昇し、たまたまこの小滝川近くに蛇紋岩とヒスイが地表に現れたのだと考えられているのだ。

神秘的な高浪の池

 この池は南南西にある赤禿山(標高1158m)の地滑りによって出来たもので、標高は540mのところにある。大きさはあまりないが鬱蒼と茂った森に囲まれているので、なかなか神秘的な雰囲気を醸し出している。

巨大なコイが存在するらしい

 もちろん伝説に過ぎないだろうが、ここには体長が4mと3mもある2匹の魚がいると言い伝えられているそうだ。写真の絵にあるように、4mのものは浪太郎、3mのほうはみどりと名付けられている。

巨大ゴイのモニュメント

 湖畔にはその強大な魚を現すモニュメントが設置されていたが、その姿から想像するに、ここに住んでいるという魚はコイに違いない。

 コイには「登竜門」という言い伝えがあるので、ナイアガラやエンジェルフォールを登りきるものには4mの大きさが必要かもしれない。

大きなアオダモの樹も特徴的

 池の周囲はよく整備され、散策に適した場所になっている。写真の大木はアオダモで、通常では5m前後のものが多いだけに、これだけ大きくなるものは珍しい。

 成長が遅いこともあり、幹は非常に硬く粘り気のあるので、木製バットの素材としてよく使われる。これだけ大きいとさぞかし多くのバットが生産されるだろうが、ここでは池を見守る「神」的な存在として扱われているので、永遠にここで育ち、巨大ゴイを見守っていくのだろうと思われる。

◎旧市振宿~芭蕉の名句が生まれた場所

桔梗屋があったとされる場所

 一家(ひとつや)に 遊女もねたり 萩と月

 これは芭蕉の『おくのほそ道』のなかでも、もっとも興味深い作品である。私はこの作品を初めて知った時(15歳のとき)、なかなか色気のある句だと思った。が、それはただこの句を表面的に理解したに過ぎず、芭蕉の作品には実際に体験したこととは異なることを表現したものが多いことを理解したとき、この句は芭蕉の心象風景を言葉にしたことに気づいた。

 こうした芭蕉の句風は、「古池や」から始まったと言われている。実際にあったことをそのまま言葉にするのではなく、ある事象に触れたときに心に浮かび上がった風景や感情を十七文字の言葉に託すのである。

 それゆえ、親不知子不知の難所を越えた場所にある市振の関の宿に泊まったとき、ただ隣の部屋から女性の声が聞こえただけなのに、それを「遊女」に置き換えたのかも知れず、さらに言えば、浜から聞こえてくる波の音を「遊女の声」として心に写っただけだったかもしれないのだ。

 その意味で、この作品は芭蕉の句風(蕉風)の完成形と言えるかもしれない。そう考えるようになった私は、糸魚川を訪ねるとき、糸魚川を通過して富山に向かうとき、必ず、この市振に立ち寄るのであった。すでに桔梗屋は存在していないけれども、私には芭蕉の姿が心に写るのである。

市振漁港

 親不知は海岸線ギリギリまで山が迫っているけれど、それを越えた市振にはわずかではあるけれど、歩きやすい平地が存在している。

 写真の先には境川が流れ込んでいて、それからは越中富山県朝日町)になる。

 

親不知とは異なる地形

 市振の海岸には、2人の年配者が海岸線を歩いたり、ときには海の中を覗いたりしていた。もしかしたら、ヒスイを探していたのかも知れなかった。

険しい親不知海岸を望む

 振り返れば、親不知海岸が目に入った。そこは北アルプスの北端部で、山がそのまま海に落ち込んでゆく場所だ。写真から分かるように、今では山腹には国道8号線のシェルターやトンネルが続いている。そこには平坦な場所などないのだ。こうした難所を越えてきたからこそ、芭蕉は上記のような名句を生むことが出来たのだ。

 今では自動車で簡単に越えることができるし、写真にはないが、山中には北陸自動車道が通じている。

 便利になってしまった分だけ、人の心象風景は貧しくなり、今は見えるものだけを、しかもそれは表面だけ、何者かが加工したしたものだけの世界を生きるようになってしまったのである。

 私もそのひとりになり果ててしまった。要反省!

〔113〕我が心の故郷のひとつ~安曇野を散策

安曇野を象徴する常念岳

◎久し振りの安曇野

これぞ安曇野の景観

 府中から中央道などを使えば3時間足らずで安曇野に出掛けられるので、以前は数年に一度はその温かさに包まれた姿に触れるだけのために訪ねたものだった。10代の頃は何度か黒部ダム(当時はクロヨンと呼ばれていた)に出掛けたので、安曇野は通過するだけだったが、臼井吉見の『安曇野』という小説を読んでからは、安曇野そのものが目的地となったことから、それ以降はダム巡りは2度しかしていない。今回は、安曇野糸魚川を巡るのが主眼の旅だったこともあり、まずは安曇野が最初の目的地となった。

 安曇の名は、746年の「正倉院御物の布袴銘」に「信濃国安曇郡前科郷戸主安曇部真羊 調布一端」とあるのが初出である。ただし、安曇という地名は全国各地にあり、大和国、摂津、伯耆国筑前国近江国(ここでは”あど”と読む)、美濃国(ここでは厚見)、三河国(ここでは渥美)など。また、氏族としては山城国淡路国讃岐国播磨国隠岐国豊後国筑前国武蔵国などに見られる。

 安曇氏の出自としては、『新撰姓氏録』(815年)に「海神綿津豊玉彦(わたのかみわかつとよたまひこ)の子「穂高見命(ほたかのみこと)の後なり」と記され、『日本書紀』には「海人の宰(みこともち)に任じられた」とあるので、海人族であるのは確かなようだ。元は出雲に住んでいたとのことなので、朝鮮半島から渡来した氏族の末裔というのが事実に近いと考えられる。

 そんな海人がなぜ、信濃に移り住んだのかは謎であるが、おそらく糸魚川市にある姫川を遡って、北アルプスの豊富な水が生み出した複合扇状地や盆地に移動したのだろう。このルートは「塩の道」としても良く知られ、かなり前に本ブログでも、このルートで日本に初めて馬が持ち込まれたということを紹介したように、日本海と内陸部、さらに武蔵国美濃国を結びつける重要な道だったのである。そうした点から、安曇族の一部が、すこぶる景観の良い、そして水に恵まれた安曇野の住み着いたのだろうことは容易に想像できる。

水の多い安曇野は水車が多い

 中央道・安曇野インターを下りて、まずは安曇野を象徴する山である常念岳に挨拶するために北アルプス方面に向かったのだが、その途中にあった「安曇野水車公園」がいかにも安曇野の特徴のひとつをよく表現しているように思われたので、私はその場所に車をとめ、公園やその近辺を少しだけ散策した。

 大小、様々な水車が所狭しと並べられていたが、私が一番気に入ったのは水車とは全く関係のない、シロクマくんと、ハロウィンに使うであろうカボチャを掲げたサルとであった。私にとって、サルはライバルであると同時によき隣人?なので、その姿に触れただけでも、えも言われぬ嬉しさがこみ上げてくるのである。

常念岳安曇野のランドマーク

 公園の近くに展望の良さそうな細い道があったので、常念岳(2857m)と対面するために歩いて移動した。

 前常念岳に春、徳利を手にした常念坊という雪形が現れることから「常念岳」の名前が付けられたそうで、この雪形が現れたときにこの地域では田植えが始まると言われている。

 北アルプスの山々のうちでは登りやすい山としてよく知られており、ここで登山の基礎を身につけてから、槍ヶ岳などの本格的な山に挑むのがこの地の人々の仕来りだという話を何度か聞いたことがある。もっとも、私には山登りをする趣味はないので、撮影地点から比高が2209mもある常念岳には、たとえ初心者向きの山であっても登ることは決したなかったのだが。

 ただし、ピラミッド形のピークをもつこの山は安曇野のどこにいてもすぐにその存在が分かる。まさに、安曇野のランドマークなのである。

信濃富士と呼ばれる有明

 信濃なる 有明山を 西にみて こころほそ野の 道を行くなり  西行

 ひと声の ゆくへもみえて 有明の 山ほととぎす 月に鳴なり  塙保己一

 ほのぼのと たかねの雪も あらわれて 朝日になりぬ 有明の山 柳田国男

 有明山(2268m)は北アルプスの山としては標高は低くその姿も単調なので、登山者にはまったく興味の対象にはされていないが、上のように歌人文人には数多く歌われている。また、この山を詠んだ漢詩も三十三編もある。

 こうしたことから、常念岳安曇野のランドマークだとすれば、有明山は安曇野の心の山なのである。もちろん、信仰の対象にもなっており、修験者の山としての歴史も有している。つまり、里がこの世の世界であるのに対し、北アルプスの山々は異界であり、その入り口に有明山が存在しているのである。

 そう思うと、常念岳は点として存在するのに対し、有明山は面として我々の前に広がっているのである。今回、この山の姿にじっくりと触れたことから、私にとって北アルプスで好きな山を挙げよと問われた際には、かつてなら槍、穂高、白馬、大天井、鹿島槍と答えていたが、今回以降は有明山と即答するはずだ。絶対に。

碌山美術館

荻原碌山の作品を数多く展示

 荻原碌山(本名は荻原守衛、1879~1910年)の存在を知ったのは臼井吉見の大作『安曇野』を読んでからである。彼の芸術活動を支えた相馬愛蔵・黒光夫妻を知ったのも同書である。しかし、相馬夫妻が開いた「新宿中村屋」は小さい頃からよく知っていたが。

 府中人は新宿に行くことを「東京に行く」と言っていた。東京はあくまで多摩の田舎ではなく、立派なデパートや店舗がある新宿や銀座でなければならなかった。そして、カレーや中華まんは中村屋のものでなければならなかった。

 そんなことから、『安曇野』という作品には大いに知らされることが多かったけれど、やはり一番に関心を抱いたのは荻原碌山の生き様であった。とはいえ、私には美術鑑賞力が全くないので、碌山美術館の存在を知ってはいても、その中に入って碌山や彼の芸術活動を支えた高村光太郎の作品群をわざわざ目にするまでには至らなかった。

 しかし、いつまた安曇野を訪れる機会があるかどうかは分からないので、私の鑑賞眼は度外視して、碌山の作品に触れてみることにした。

入口すぐに置かれていた名作のひとつ

 碌山の彫刻作品はすべて石膏で造られていたが、1958年に碌山美術館を開館するにあたり、そのすべての作品をブロンズ化した。そのため、彼の代表作のひとつである「労働者」という作品も、写真のように野外に展示することが可能になった。

教会風の建物の中に碌山の作品が陳列されている

 美術館はいくつかの棟に分かれているが、碌山の作品は写真のような教会風の建物の中に収められている。

 萩原碌山萩原守衛)は安曇野で生まれ少年期をこの自然豊かな土地で過ごした。16歳の時に心臓病で倒れたこともあるが、その後は地元の名士であった相馬愛蔵が結成した東穂高禁酒会に入り、多くの人との交流が生まれた。

 1897年、相馬愛蔵は東京から嫁をもらった。その人物こそ、碌山の生き方を決定づけた相馬黒光であった。彼女は明治女学校を卒業したばかりで、相馬家に嫁いだ際にはオルガンや油絵用具を持参するなど、田舎の生活にはおよそ似合わない出で立ちであり、その姿は碌山にとって衝撃的だったようで、その黒光との出会いが碌山の心に大きな影響を与えた。人の出会いはすべて偶然でしかないが、その出会いが生き方を変えてしまうほどまでの波紋を与えてしまうとき、それは運命と呼べるのかも知れない。

さりげなく名作が並べられている

 1899年、碌山は洋画家を志して東京に出た。そして本郷にあった不同舎に入塾した。そこには、のちに若くして日本の美術史上の大傑作を次々と生み出した青木繁(1882~1911年)がいた。碌山は31歳の若さで死没したが、青木繁はさらに3歳若い28歳でこの世を去った。1910年に碌山が、翌11年に青木繁が亡くなった。このことは日本の美術界にとっては大損失であったことだろう。

 碌山は1901年にニューヨークに渡り絵画の技法を深め、さらに03年にはパリに渡った。そこでロダンの「考える人」に出会い芸術の持つ奥深さを知ると同時に、絵画から彫刻へと転身することを決断した。

 06年にニューヨークに戻った碌山は、彫刻の技法を習得するためには人体学を深める必要性を痛感し、その学習も専念した。その甲斐があって、パリで開催されたアカデミー・ジュリアンの展覧会では5回連続、彫刻の部で入賞した。

代表作の坑夫

 アカデミー・ジュリアンでの最終作品が写真の「坑夫」であった。第3回文部省美術展覧会で賞を得たこの作品を高村光太郎は激賞した。「この展覧会に来て、初めて一箇の芸術作品に接したような感じがした……この作品には人間が見えるのだ」と高村はのちに語っている。

文覚~帰国後の第一作

 文覚(1139?~1203?)は俗名を遠藤盛遠といい北面武士として鳥羽上皇に仕えていた。しかし、同僚の妻に横恋慕し、その同僚を殺害しようとしたが誤って妻を殺してしまった。そのことが切っ掛けとなって出家し、真言宗の僧となった。

 空海を崇拝していた文覚は空海の旧跡で荒廃していた神護寺や東寺の修復に努めた。が、後白河法皇の逆鱗に触れたために伊豆に配流された。そこで源頼朝に出会い決起を促したとされている。

 碌山が帰国後の第一作として文覚を選んだのは、僧侶としての彼ではなく、同僚の妻に横恋慕した遠藤盛遠が、恩人の妻である相馬黒光に愛情を抱いてしまった自分の生き写しのように思えたからであろう。

 そうした罪意識と苦悩を、碌山は文覚に見出したことから彼を彫像の対象に選んだのであろう。その点で、文覚という作品は自分の心を外面化したものであると考えられる。そう思うと、この文覚は頼朝に決起を促した存在としてではなく、心に罪悪感を抱き続けた人間として表現されている。

デスペア~碌山自身の苦悩と絶望

 デスペアとは絶望の意味である。碌山が愛した黒光には夫や子供がいて、その夫には愛人がいる。さらに、黒光は次の子を孕んでいた。こうした情況に碌山は苦悩し続けながら作品を生み出そうとしていた。ある面、彫刻に没入することが碌山に取って絶望からの逃避行動であったかもしれない。

 これをキルケゴールの有名な言葉を使って(といっても、キルケゴールが言いたかった本来の意味とはほとんど重なってはいないような気もするのだけれど)表現するならば、このデスペアを製作していた時の碌山はまだ「絶望して自分自身であろうとしない」状態だったのだろう。それゆえ、モデルの女性は顔も体も完全に伏してしまっているのである。

碌山の絶作

 これに対し、碌山の最後の作品である「女」は顔を天に向けている。これは「絶望して自分自身であろうとしている」状態だと表現しうる。彼は自分の死がそう遠くないことを予期した上で、この作品を造り上げている。

 デスペアも女も言うまでもなく黒光をモデルにしている(想像上で)が、実は、碌山の内面がモデルであることは論を待たない。

 私はこの二つの作品を前にして、かつて本ブログで大塚国際美術館にて『エデンの園』という絵画と対面し、生まれて初めてというべき芸術に対する感銘を受けたということを取り上げたが、そのときと同じぐらいの衝撃を受けたのであった。

 ただ、このことは、臼井吉見の『安曇野」を何度も読み返していたことで、碌山と黒光との関係を知っていたという点も大きく作用していた点で、『エデンの園』のほうが、衝撃の継続性は長続きしているのだが。

 ともあれ、遅ればせながら、「碌山美術館」に立ち寄ったことだけを取り上げても、私の安曇野訪問は大収穫であったと十分に表明できるのである。

◎早春賦の碑と御宝田遊水池(ごほおうでんゆうすいち)

早春賦は安曇野のまだ寒い春がテーマ

 学校での音楽の授業はまったく関心がなく、教科書に出てくる歌をきちんと歌ったことは一度もないが、なぜか、この『早春賦』だけは今でも歌うことはできる(一番だけだけれど)。そこで、穂高川の右岸にこの早春賦の歌碑があるというので立ち寄ってみることにした。

歌はこうした景観の下で生まれた

 この歌の詞は吉丸一昌という人物が生み出したそうっだ。歌が出来たのは1913年とのことなので、今から100年以上も前のことだ。吉丸は旧制中野県立大町中学校の校歌の作詞を依頼されたことから安曇野を訪れたのだが、その時の体験がこの詞を生む契機となった。その後、この作品は歌は大町実科高等女学校で愛唱歌として歌い継がれるうちに全国に広まることになった。

 それだけでなく、これも誰もが知っている『知床旅情』は、この歌との類似性が指摘されるに及んで、さらに知名度は上がった。

早春賦の歌詞

 歌碑のある場所には大きな石が3つ置いてあり、それぞれ、歌詞と楽譜と由緒書が刻んである。

石に刻まれた楽譜と由緒書

 周囲は小公園として整備され、ベンチなどが置かれているが、早春賦そのものとはあまり関係がなさそうなおじさんたちがそこを占領していた。この歌碑が目当でなければわざわざ訪れるような場所にあるのでないため、それも致し方ないのかもしれない。

 それにしても、安曇野はどの場所に居ても絵になるようなところばかりであるのが羨ましいかぎりである。

遊水池から常念岳有明山方向を望む

 次は、近年ではもっとも訪れる人が多いと思われる「大王わさび農場」に向かう予定ではあったが、近くに「御宝田遊水池」があることを地図で発見したため、少しだけ立ち寄ってみることにした。

 犀川の右岸にあるここには毎冬、白鳥が飛来することから「犀川白鳥池」と同じぐらい人気のある場所らしいが、5月には白鳥は存在せず、その代わりに、土手にはヘビがたくさんいた。アユ釣りをしているとよくヘビが川を渡る姿を目にするので、この長虫の存在には免疫ができているために特に逃げ出したいとは思わないが、かといってお友達にもなりたくはない。

どちらを見ても美しい山ばかり

 白鳥は存在せずとも、北アルプス方面を眺めれば、その美しさに十分すぎるほど満足できる。水と豊かな緑、そして白雪を頂いた山並み、本当に贅沢な自然である。

◎大王わさび農場を歩く

清流の中で育つワサビを眺めるために

 今や、安曇野では一番の集客力を誇っているのが、写真の「大王わさび農場」である。年間では120万人が訪れるそうだが、私が出掛けた日には外国人観光客が数台のバスに乗って押し寄せてきていた。

 入口を撮影したときはたまたま入場客が途絶えた刹那だったので、いささか閑散としていると思われるかもしれないが、このあとすぐに団体客が到着したのだった。

前日の大雨で川は濁っていた

 わさび農場は入場無料なので、とくに入場券を購入する必要はなく、多くの場所に立入ることができる。もちろん、わさび田の中に入ることはできないが。

 写真は、クリアボートで透明度の高い蓼川(たでかわ)を行き来する(乗船客が全員で漕ぐ)ものだが、この日は前日が大雨であったために隣の万水川からの影響を受けて濁り水が入り込んできていたことから、透明度は大きく低下していた。そのため、この一時間後にボートの運行は中止となったようだった。

 確かに、透き通った流れを期待して大枚1200円(繁忙期は1400円)を払い、かつ自分で漕ぐ必要のあるボートを、多摩川並みの透明度の川を行き来するのは面白くもなんともないはずだ。

湧水は透明度を維持

 一方、わさび田の中を流れる水は100%が湧水なので、写真のように透明度は極めて高い。わさびは年間を通して12度程度の水温でなければ育たないため、当然のごとく他の川の水が入り込まないようにしっかりと護岸されている。

ワサビ田の隣を流れる川の透明度はまずまず

 わさび田から流れ出た水は100%湧水なので、田の外に出ても写真のように相当に高い透明度を保持している。先に挙げたクリアボートが行き来する蓼川の濁り度とは大きく異なっている。

暖かい時期のワサビ田は遮光シートに覆われている

 暖かい陽射しを受けてしまうと湧水といえどもわさびの株の間を流れているうちに水温が上がってしまうため、田の一帯は黒い遮光シートに覆われている。約60万株がある(収穫量は毎年130トン)わさびを覆うシート群の姿もまた、ある面では見応えがある。

5月の象徴

 5月はこいのぼりの季節でもあるので、写真のように「幸いのかけ橋」の南側にはたくさんのコイたちが空に向かって泳いでいた。

大王屈

 大王わさび農場は、1917年に開拓がはじまった。砂利ばかりの荒れ地を整備して、23年に古畑、26年に大王畑、35年に新畑が完成し、約15万平米の敷地を有する日本最大のわさび畑が完成した。

 わさびには周年、約12度の水が必要となるが、この荒れ地には北アルプスに育まれた豊かな伏流水が多くあったため、開墾さえすればその水を利用してわさび田を造ることができるとこの地の人々は信じて作業を続けたのである。今では年間に約120万にが訪れ、安曇野随一の観光地になっている。

 「大王」の名は、古くから安曇野の地にいた魏石鬼(ぎしき)八面大王に由来する。坂上田村麻呂に倒された大王はあまりにも強かったため、その遺体はバラバラにされてあちらこちらに埋められたそうで、このわさび田のある場所には胴体が埋められたと言われている。

 中央政府には忌み嫌われた大王であったが、安曇野では先に挙げた有明山を中心にして古くから安曇野一帯では篤く信仰されていた存在であったらしい。坂上田村麻呂といえば「蝦夷征伐」でよく知られているが、安曇野も元を辿ると半島から渡来した出雲族の末裔なので、中央集権化には反対をしていたのかもしれない。

 ともあれ、八面大王は安曇野の地では愛された存在でもあったため、その胴体が埋まっているとされるこの地に「大王」の名が付されたのは、けだし当然のことと思われる。

大王さまの見張台

 大王屈のすぐ隣には、大きな岩が積み上げられた高台がある。「大王さまの見張台」と名付けられたこの高台は展望がよく、ずっとわさびたちの生長を見守っている。

湧水に守られて元気に育つ

 一部に遮光シートがめくられている場所があったので、よく育っているわさびの姿を見ることが出来た。極めて美しく澄んだ水に守られながら、わさびたちは立派に生長し、やがて私たちの食生活に良い意味での刺激を与えてくれるのである。

 私はわさびそのものは購入しなかったものの、わさび味のソフトクリームを食してみた。ほのかにわさびの味がするだけでなく、傍らには生わさびが添えられた美味しいソフトだった。日差しの強い日だったこともあり、このソフトクリームは心も体もソフトに癒してくれた。

穂高神社日本アルプスの総鎮守

神社の境内

 写真左手に見える鳥居から入るのが通常なのだろうが、駐車場は境内の脇にあることから、写真の場所から境内に足を踏み入れた。信仰心のない私には、いわゆる仕来りは通用しないのだ。

 穂高神社穂高見命(ほたかみのみこと)を御祭神とし、海神(わたつみ)族を祖神(おやがみ)とする安曇族が開いたとされている。奥宮は上高地、嶺宮は奥穂高岳山頂にあるとのこと。なお、上高地(私も行ったことがある)や明神池は観光地として絶大な人気があるが、そこは穂高神社の神域であり、上高地の名は「神垣内」を語源とするそうだ。

拝殿

 本殿は、写真の拝殿の奥に三殿が並んでいる(そうだ)。中央に「穂高見命)、左手に綿津見命、右手に瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が鎮座している。

 この三殿は二十年ごとに一殿ずつ造り替える式年遷宮を1483年以降より欠かさずおこなっているとのことだ。

楽殿

 鳥居と拝殿の間には、写真の立派な神楽殿がある。様々な行事がここで行われるようで、四方から内部を眺めることができる。造り自体は見事なもので、極めて存在感を感じさせるものであった。私は拝殿はやや遠目から眺めただけだが、この神楽殿はしげしげと見入ってしまった。

神池~濁り水が残念

 拝殿の西隣には神池があった。前日の大雨が影響してか、池の水が相当に濁っていたのが残念だった。北アルプスの天然水が流れ込んでいるはずなので、透明感を抱かせるものであってほしかった。

若宮社

 若宮社とは通常、本宮の摂社・末社として主祭神の御子を神に祀るものを言うが、ときには、非業の死を遂げた怨霊を慰め鎮めるために祀った社を言う場合もある。

 この若宮は後者の意味を有するもののようで、天智天皇の命によって水軍を率いて朝鮮半島に渡り、白村江の戦いで戦死した「阿曇比羅命」を祀っているとのことだ。

ステンレス製の道祖神

 安曇野と言えば「双道体道祖神」が多いことでもよく知られている。確かに田んぼ道を歩いていると石造りの小さな道祖神によく出会うし、古い道を車で走っていてもそれらを見掛けることも多い。

 この神社には、写真のようにかなり大きなステンレス製の双道体道祖神が置かれていた。「松本平から安曇野にかけての地方ほど、道祖伸信仰の盛んなところはない」という言葉通り、道祖伸は安曇野を象徴する存在のひとつである。

◎国営アルプスあずみの公園

人面岩というけれど

 常念岳に源を有する烏川が生み出した扇状地の扇頂付近の緩やかな斜面を利用して整備されたのが「国営あるぷすあずみの公園・堀金・穂高地区」である。ここを訪れるのは今回が2度目であるが、一度目は敷地があまりに広大な割には山々の姿を眺める場所が少ないためにすぐに退散してしまった。が、今回は安曇野では最後に訪れる場所となったことから閉園時間まではあまり余裕はないものの入場してみることにした。

 ただその前に、公園の少し上流付近に「人面岩」なるケッタイな自然の造形があるというので、公園に入る前に林道を少し進んで眺めてみることにした。

 川の左岸から右岸側の岩に「人面」らしき姿があるとのことだったが、私にはどう見てもただの岩にしか見えず、その姿から「人面」を見出すのは困難に思えた。ゲシュタルト的に言えば、一度見出すことが出来さえすればあとは「人面」にしか見えなくなるはずなのだが、十分ほど眺めても無理だと分かった。ともあれ、写真撮影だけはしたので、もしかしたら、時間を経れば突然、人面を見出すことができるかもしれない。

よく整備された庭園

 烏川の水を利用して、水のある豊かな広場が演出されている。この公園は「自然と文化に抱かれた豊かな自由時間活動の実現」がテーマになっているそうだ。確かに、たっぷりと時間をとってのんびりと園内を散策すればその「豊かさ」にめぐりあうことは可能なように思われたが、セッカチな私には、それを見出すのは困難なように思われた。

花が少ない時期なのが残念

 ここの上部域には「段々花畑」が整備されており、いろいろな種類の花が植えられているのだが、春の花の開花は終わり、花畑では夏の花の準備に忙しいようで、苗の植え替えを大勢の人がおこなっていた。仕方なく、最下部にある池を巡ってみたのだが、残念ながら地元の公園にも咲いているような花にしか出会うことはできなかった。

 

豊富すぎる北アルプスの雪解け水

 ただ、段々花畑の隣には、写真のような豊かな雪解け水が、段々に造られた水路を伝って下り落ちていた。この水の多くは常念岳が抱いていた雪が解けたものであることを思うと、こればまぎれもなく安曇野の天然水であって、この水が荻原碌山相馬黒光の生活を支えていたのだということに思いを馳せることができた。

 その思いが想念されただけでも、この公園に立ち寄った甲斐があったということを実感した。

〔112〕碓氷峠(めがね橋)、横川(釜めし)、そして妙義山(日本三大奇景)

さくらの里から妙義山を望む

碓氷峠のめがね橋を歩く

碓氷第三橋梁~通称めがね橋

 昨年の初夏には下仁田町の地質を調べるために群馬県に出掛けた。もっとも半分は神流川での鮎釣りを兼ねていたので、下仁田周辺と妙義山にしか出掛ける余裕はなかった。そこで今回は、もう少しじっくりと妙義山下仁田町を見物して、ついでに碓氷峠の「めがね橋」や横川界隈にも足を伸ばしてみた。

 碓氷峠は片峠であるために、トンネルを掘って峠越をすることはできない。そのため、鉄道には独特の「アプト式」が採用された。が、現在は横川駅から軽井沢駅の間の信越本線は廃止され、代わりに北陸新幹線が通っている。もっとも新幹線は高崎から大きく北方向に迂回しているため、横川・軽井沢間には鉄道はまったくない。一方、軽井沢から先は「しなの鉄道線」が長野県の篠ノ井駅まで通じていて、これが信越本線を代替している。

 という訳で、かつての信越本線の線路があった場所は鉄路が撤去され、ここには「アプトの道」という名の遊歩道が整備されている。その白眉が、写真の碓氷第三橋梁で、私はこの優雅な姿に触れるために、これまで何度も出掛けてきた。

 片峠を登り切れば軽井沢に出るのだけれど、そこは私の生活空間とは全く異にした場所なので、今まで、その町を何度も通過したことはある(浅間山に触れるため)ものの、町中を歩いたことは一度もない。また、今後も断じてないと思っている。

廃線となった線路跡は「アプトの道」として整備

 写真のめがね橋は標高603m地点にある。ちなみに、横川駅は387m、碓氷峠の頂点は960m、そして軽井沢駅は942mとなっている。ということは、めがね橋は横川駅からまだ約200mほど高いところにあるだけで、峠の頂点に達するにはあと400m近く登らなければならないのだ。

 それゆえ、私は碓氷峠に出掛けてきた訳ではなく、ただ、その途中にある橋梁見物にやって来たことに過ぎないのである。

 廃線跡は「アプトの道」として遊歩道に整備されているということはすでに触れた。この道は横川駅横にある「鉄道文化むら」の敷地から始まり、ここで取り上げためがね橋を通り過ぎ、1.4キロ先にある「旧熊ノ平駅」まで通じている。その駅は691m地点にあるので、峠まではまだ300m近くある。こうした急峻な道(路線)であるがゆえに、「アプト式」という独特の技術が用いられたのである。

 私はめがね橋近くの駐車スペースに車を置いて、まずは国道18号線(中山道)から橋を眺めた。ここの標高は580mで、橋の上は603mのところにある。比高は僅か23mなので、わたしにでも十分に上がれる高さである。とはいえ、この橋には何度か訪れているにも関わらず、上がってみたのは今回が初めてだった。

トンネル内を目指す

 この第三橋梁は、1891(明治24)年に着工され、93年に竣工している。先の写真からもわかる通り4連のアーチ橋で、約200万個ものレンガが使用されている。 

 橋の下31mのところには碓氷川が流れている。高所が苦手な私は、道路からこの華麗な姿の橋を見上げることは可能だが、橋上から真下の碓氷川を見下ろす勇気はなかった。

 先にも触れたように、ここは「アプトの道」ではもっとも人気の高い場所なのだが、わざわざ横川駅から4.7キロの道のりを歩いてここまで訪れる奇特な人は少ないだろう。ほとんどの人は国道に整備された駐車場に車を置いてここを訪ねる。

 また、碓氷峠はサイクリングでチャレンジする人も意外に多いので、軽井沢までの急坂の途中にあるこの場所を休憩地点のひとつとして選び、ついでに橋を見学するという人たちも結構、見掛けた。

結構明るいので安心して歩ける

 日中には散策者のためにトンネル内の電灯に火が入れられているため、思いのほか明るい。もっとも、こうした閉所は私の好むところではないので、早々に引き上げたのだが。

写真撮影を終えるとすぐに転進

 トンネル内からこうして外部を見ると、木々たちの緑が一層、華やいで見える。

橋の下には碓氷川が流れている

 以前に訪れたときには「落書き」が目立つのがかなり気になったが、今回はとくに目立つものはなかった。それでも、一部にはレンガを切り刻んで自分の名前を残したと思しきものは残っていた。こういう馬鹿者には是非とも、橋上から下を流れる碓氷川へのダイビングもチャレンジしてほしいと思う次第である。

中山道から妙義山を眺める

 第三橋梁から上は目指さず、次の目的地である横川駅に行くために坂道を下った。途中で、明日に訪れる予定の妙義山の姿が目に入ったので、路肩に車をとめて少しだけ眺めることにした。誠に奇妙奇天烈な山容を有する妙義山は、どの角度から見てもすぐにそれと分かる。

 なお、木々の間に見える道路は上信越自動車道で、軽井沢へ急ぐ人はこの道を西(写真でいえば右手)に進み、少し先にある碓氷軽井沢ICで下りて、それから北上する。

◎横川駅~峠の釜めし

横川駅名物~1300円也

 信越本線には2回乗った記憶がある。当然のことながら、行きも帰りも横川駅名物『峠の釜めし』を購入した。もちろん、お土産として家に持ち帰った。中身は空の陶器の入れ物だけだったけれど。

 その後、何度かは国道18号線を利用したことがあるが、横川駅付近の売店で購入したこともあった。そのころは懐具合が多少、暖かったこともあったので、今度は中身の入ったものをお土産として購入した。

 今回は、宿での夕食にするつもりで購入した。税込み1300円は中身からするとやや高額のような気もするが、「名物に旨いものなし」の言葉がある以上に「名物に安いものなし」を無数に経験している私としては、横川に立ち寄った記憶のひとつに加えるために敢えて購入した次第であった。

 まあ、料金の中には高そうな容器代が含まれていることだし、味もまあ合格点は付けてもいいかも。 

国道18号線沿いにある「おきのや横川店」

 国道18号線を使って碓氷峠や軽井沢に向かう人で、先を急ぐ人は松井田妙義ICから上信越自動車道に移って峠までの難所をカットするだろう。が、のんびりと峠の麓にある坂本宿、そしてめがね橋など、碓氷峠の景観を楽しみながら軽井沢に向かう人は中山道を使う。その道は横川駅のすぐ南側を通っているが、わざわざ駅に立ち寄ってまで「釜めし」を購入する人はそれほど多くないかもしれない。

 そのため、「おぎのや」は中山道沿いに写真にある大きな店を構え、数多くの旅人を受け入れられるように準備している。ここには、釜めしだけでなく、ラーメン、うどん、カフェなどもあり、さらに地元の食材(有名なのは下仁田こんにゃく)などの販売もおこなっている。

 さらに、団体客も受け入れられるように、一度に600人を収容できるレストランまで備えているのだ。

 こうした場所は便利ではあるが旅情は感じられないので、私は駐車場だけを利用させてもらって、横川駅周辺を少しだけ散策し、釜めしは駅の北側にある本店で購入することにした。

横川駅

 横川駅は国道からは80mほど離れているし、道路よりも少し高い場所にあるため、駅の全貌に触れるためには少しだけ歩く必要があった。さらに、改札口は国道側にはないので、こちら側では上にある写真撮影だけをおこない、北側に移動した。

 横川駅は終点なので、踏切や跨線橋を渡る必要はなく、ただ、少しだけ西に進んで回り込めば、改札口のある北側に出ることができる。

横川駅舎と「おぎのや横川駅店」

 駅舎の西端にも釜めし店があったが、ここのメインは立ち食いうどんのようで釜めしはすでに売り切れだとのことだった。

駅舎とD51とアプト式

 駅舎入口の隣には、日本全国で活躍したD51の写真と、険しい碓氷峠を上るために造られた「アプト式」の車輪が置かれていた。

おぎのや本店と購入した釜めし

 駅前に「おきのや」の本店があった。電車の利用客は別として、わざわざこちら側までやってきて釜めしを購入する人は居ないようで、私以外には誰も(店の人は別にして)いなかった。

 信越本線が軽井沢まで通じていた頃にはここの本店が本拠地となって「峠の釜めし」を製造し、列車が到着すると待ち構えていた売り子たちが釜めしをもって、車窓から購入しようとする人、ホームに降りて購入しようとする人たちに売りさばいていたのである。この風景は、信越本線の一大名物となっており、テレビなどにもよく取り上げられていた。

 私も、その売り子から釜めしを購入したことが一度だけある。釜めしはズシリと重く、食い意地の張っていた私はそのことに欣喜雀躍したが、いざ中を覗いてみると、重さの多くは器のものであり、中身はそれほどの量はなかった。

 先に挙げた釜めしはその日の夕食用に購入したもので、食が細くなった私には丁度良い量であった。器は記念のために持ち帰ったが、戸棚に置いたままで、帰ってからは一度もその姿を見てはいない。

碓氷峠鉄道文化むら

横川駅の隣にある鉄道博物館

 横川駅の西側には広大な敷地を有する「横川運転区」があったが、横川・軽井沢間が廃線になったことから、その敷地に造られたのが、写真の「碓氷峠鉄道文化むら」(愛称・ポッポタウン)である。

 かつて碓氷峠で活躍していた車両だけでなく、全国から集めた車両が30以上も展示され、さらに大きなジオラマや、碓氷峠を越えた鉄道の歴史資料などを集めた「鉄道資料館」が併設されており、鉄道ファンには見どころが数多くある鉄道博物館である。

 私は小学生の頃、何度か神田駅近くにあった「交通博物館」に出掛け、巨大なジオラマをよだれを垂らしながら食い入るように見つめ、将来は新幹線の運ちゃんになるということを心に誓ったものだった。

 ただ、多摩のサルとして、府中の森や多摩川での遊びが中心だったため、鉄道に対する思いは消えなかったけれど、次第に別の道を歩むようになってしまった。思えば、どこかの動物園にはサルが運転するおもちゃの機関車があったような気がするが。

 今回は、少し時間があったために、交通博物館ならぬ鉄道文化むらに立ち寄ることを事前に決めていた。少年時代の夢はほぼすっかり消え去っていたいたものの、ここでいろいろな車両を目にしたとき、幼いころの思い出が少しだけ蘇った。

かつて信越線を走っていた189系特急あさま

 信越線は軽井沢や浅間山の麓を通るため、特急には「あさま号」というものがあった。ただし、急勾配の碓氷峠を自力で登ることはできないため、下の写真にある「EF63」という電気機関車の力を借りる必要があった。

碓氷峠越えのための直流電気機関車

  このEF63には粘着運行方式という装置が取り付けられている。ただの鉄輪ではレールとの摩擦力が小さいので、傾斜の強い場所では車輪が空回りして推進力を得ることができない。私たちでも、雨の日に電車に乗るとよく気が付くのだが、駅から離れるとき車輪がスリップしているような状態になり、なんとなくギクシャクした動きを感じることがある。平坦な場所でも鉄輪は必ず、少しは空回りしながら走っているのだが、坂になるとこの空回りが大きくなるので、通常は25パーミルパーミル、‰、千分率)、つまり1000mで25m登る坂が限度とされている。

 ただし、実際にはその限度は安全率を見積もっており、実際には、連続勾配では35‰、短い区間では38‰とJRは考えている。もっとも、場所によっては40~50‰の鉄路が日本にもあるそうだ。

 ところで、碓氷峠では最大66.7‰の場所があったために、ドイツで開発された「アプト式」を採用していたが、これでは最高時速でも9.8キロしか出せなかったため、車輪に電磁石を備えて車輪をレールに吸い付かせる粘着運行方式を採用した。この結果、横川から軽井沢まで80分掛かっていたものが、17分にまで短縮できたのである。

 この粘着運行方式を備えた電気機関車が写真の車両で、上り坂の時は「特急あさま」などの列車の後ろに連結して、車両を押し上げたのだった。また、下り坂の時は列車の前に連結して、後方の車両が滑り落ちるのを防いだのだった。

 写真の粘着運行方式を備えた電気機関車は横川・軽井沢間専用のものだったので、「能登」まで行くことはない。これは、今年の正月に発生した大地震によって大きな被害を受けた能登半島の人々を励ますために、あえてこのプレートを取り付けたのであろう。 

数々の車両が青空展示

 先に触れたように、この公園には数多くの車両が展示してあるが、大半は全国各地から集めたものなので、横川や信越線とはまったく関わりのないものである。

 写真の蒸気機関車D51は、荒川の長瀞でSLホテルとして利用されたものを移設したとのことだ。蒸気機関車といえばデゴイチが代名詞のような存在なので、ここに展示されるのは一般者向けには妥当なのかも。

左は関門トンネル用に用いられた電気機関車

 左側のEF30は関門トンネル専用に用いられたもの。これは山陽本線鹿児島本線との電化方式が異なるため、トンネル専用の機関車が必要となった。1200トンもの貨物列車が牽引でき、かつ22‰の勾配を乗り切る能力をもつものとして開発された。

 右側のEF58は旅客列車、とりわけ特急列車を牽引するために開発された。前面が流線形をしているため、それまでの武骨な機関車とは異なる形をしている。そのことから鉄道ファンには人気を博し、私が少年時代にHOゲージの模型に嵌っていたときに、この機関車(模型の)を購入した記憶がある。

昭和7年に製造された電気機関車(手前側)

 写真のEF53は旅客車を牽引するために1932(昭和7)年に製造が始まった。当初は東海道本線に利用され、のちには高崎線に移動された。

古い車両を見るだけで楽しい

 展示車両の多くには解説板が用意されている。その車両を眺めつつ解説を読み、どこで活躍していたのかを知ると、その地域の風景が脳裏に浮かんでくる。私の旅行は99%が自動車になったけれど、日本全国を回っているので、各都道府県の情景はすべて記憶の中に存在している。その旅先で、少しだけローカル線に乗車する。そのことは本ブログでも何度か紹介している。

アプト式鉄道を再現

 碓氷峠を乗り越えるために、アプト式のシステムが採用されていたことはすでに述べた。現在では大井川鉄道にのみ残っている方式だが、我々が通常「アプト式」と聞くと、すぐに思い浮かべるのは碓氷峠のもので、1893(明治26)年に採用された。

 写真のように、レールの間に3枚のラックレールを敷き、車輪に付けたピニオンギアを嚙合わせることで、66.7‰の急勾配を機関車が登って(下って)ゆくのである。 当初はドイツから輸入したアプト式蒸気機関車を輸入したが、のちに国産化した。

 なお、アプト式とは1882年にドイツの鉄道技師のカールローマン・アプト(abt)が開発したことからそう呼ばれる。かつてはローマ字読みで「アブト」と言われてきたが、のちにドイツ語の発音に近い「アプト」になった。とはいえ、私は今でも「アブト」と発音してしまうことが多い。これは、この方式を知った時には「アブト」と呼ばれていたからである。

 急勾配の山坂道を進む鉄道の方式としては、このほかに「スイッチバック式」「ループ式」などがある。

HOゲージの鉄道模型

 鉄道資料館にも入ってみた。資料を調べるためではなく、写真にあるHOゲージの鉄道模型レイアウトを見物するためである。いかにも群馬県らしい風景を造り出し、その中にいろいろな模型車両が走る姿を見るのはとても楽しい体験であった。

 先に触れたように、神田にあった交通博物館のレイアウトはさらに巨大であって、当時に走り始めた東海道新幹線の模型も存在した。新幹線は開通まもなく親に連れられて東京・京都間を乗車していた。

 それゆえ、私の子供時代の夢は新幹線の運ちゃんだった。けれど、日本の鉄道は時間を厳格に守る必要があるため、私は不適格者であることを知り、その夢は断念し、自由で気楽そうな教員になったものの、やはりそれなりに時間に縛られることから、最終的には漁師(実際は釣り師)の道を選んだのだが。

 本心を言えば、私はサルになりたかった

◎松井田城跡を少しだけ訪ねる

無人の案内所

 松井田城は松井田宿の北方の尾根(標高413m)にあって、北は東山道、南は中山道が通り、碓氷峠に抜けるルートの要衝に位置する。東西に1.5キロ、南北に1キロ、総面積75ヘクタールの広さを有する山城である。

 築城年は不明だが、1560年頃に地元の豪族であった安中氏が整備したとされているが、その後に城主は変遷し、最終的には小田原北条氏の氏直の配下であった大道寺政繁が主となった。

土塁

 尾根を城郭化した山城のため、目立った建造物は存在しないが、現在でも土塁や堀切、虎口、石垣などが残っている。麓から比高は130mもあるため、見学するには相当の覚悟がいる。

堀切

 河越(現在では川越)城主であった大道寺政繁(1533~90)は、1582年、信長を失った織田勢を率いた滝川一益神流川の戦いで、北条氏直・氏邦の下で勲功をあげ、さらに北条氏が家康勢と和解したことから、関東の要衝のひとつである碓氷峠の守りを固めるために、松井田城主も兼任することになった。

 ちなみに、関東と言えば「関所の東側」という意味になるが、この関所というのは箱根と碓氷峠を指すと考えられている。

クマに注意

 しかし、小田原北条氏は豊臣秀吉と対立を深め、ついに1590年、秀吉の「小田原征伐」が始まった。秀吉率いる本隊は東海道を東に下ったが、前田利家上杉景勝、真田正幸率いる北国支隊3万5千の軍勢は中山道を進み、遂に碓氷峠で北条側である大道寺政繁との決戦が始まった。

 大道寺側の勢力は約3000、一方の北国支隊は35000、これでは大道寺側に地の利があるとしても勝ち目はなく、約一か月は耐えたものの降伏のやむなきに至った。

 この戦いの後、大道寺は北国支隊側に付き、その先導役を務めることになった。その結果、忍城、武蔵松山城鉢形城が攻め落とされ、ついには武蔵国の要衝である八王子城まで攻め入られ、僅か一日で陥落してしまった。

 難攻不落と考えられていた八王子城だったが、大道寺が搦め手がこの城の唯一の弱点であることを教えたことが、短時間で落城したと考えられている。八王子城好きの私としては、この一点をもって、大道寺政繁を認めることはできない。

 なお、以上の流れは、本ブログでは第40回、第66回にやや詳しく紹介しているので、関心のある方は参照していただきたい。

これを叩きながら歩くそうな

 「裏切者」の居城であった松井田城だが、この日は安中市内のビジネスホテルに入るにはまだ少し早いということもあって、山道を登って(もちろん車で)松井田城見学を試みた。

地蜂も多いとのこと

 しかし写真に挙げたように、山道はすでに薄暗くなっており、おまけに「熊」「地蜂」「ヤマヒル」に注意の張り紙に怯えた私は、案内小屋のすぐ近くにあった土塁や堀切だけを見て、早々に退散することにした。

おまけに「ヤマヒル」もいっぱい

ヒル撃退用の濃塩水も準備

 ヤマヒルには「濃塩水」が効くとのことだが、いつ飛び掛かられるか分からない状態では、とても対応しきれない。ましてや地蜂の巣は至るところにありそうだし、熊との対面だって十分に考えられる。

 広大な松井田城を見学するためには、用意を周到におこない、かなりの覚悟を持って荒れた道を進まなければならない。

 臆病な私には、滝山城八王子城、あるいは鉢形城で十分に満足できる。

妙義山~日本三大奇景のひとつ

畑の脇から山を望む

  山に登るのは苦手だが、山を見るのは大好きだ。地元の府中市から見える丹沢山系、大菩薩連嶺、秩父山系を見ているだけでも飽きることはない。さすがに多摩丘陵浅間山(せんげんやま)だけでは満足できないが。

 もちろん、標高の高い富士山や日本アルプスも良いが、今回出掛けた妙義山は、標高こそ高くはないものの、その独特な山容は、一度見たら決して忘れることができないほど特異な形状をしているおり、私がもっとも好む山のひとつである。大菩薩嶺は私の心に安らぎを与えるが、妙義山は胸躍らせるものがあるのだ。

「大文字」がよく見えた

 妙義山にはピークがいくつもあるが、もっともよく知られているのは白雲山と金洞山であろうか。私は松井田側から県道191号(妙義山線)を進み、妙義山の南麓を走る県道196号線(上小坂四ツ妙義線)を南西に進んだ。そのため、まずは白雲山系が目に入り、その中腹にある「大文字」が目にとまった。

 「大文字」はここが修験道の山であったことから「妙義大権現」を省略して「大」の字を掲げたもの。妙義神社にお参りできない人のために大の字を山の中腹に掲げ、中山道からその大の字に向かって手を合わせて参拝できるようにしたものらしい。

妙義神社に参詣

 妙義神社は537年に創建されたとされている。古くは波己曽神社と呼ばれ、のちに妙義神社と改められた。

 古くより朝野の崇敬ことに篤く、開運、商売繁盛の神、火防の神、学業児童の神、縁結びの神、農耕養蚕の神として知られていたという。  

見事な総門

 その一方で、山岳信仰の山として修験者の修行の場ともなっていたようだ。かつては神仏習合が当たり前だったので、神も仏も同居していたのかもしれない。

 神社には上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があり、写真の総門は、石塔寺の仁王門だったとのことだ。

総門から唐門までは約200段ある。

 総門からは長い階段が続く。といっても165段なので、私にも登れないことはない。そこには随神門があり、そして今度は短い階段があって写真の唐門にたどり着く。

極めて美しい拝殿

 唐門から中に入ると、そこには煌びやかな拝殿があり、その後ろに幣殿、本殿が鎮座している。例によって私は参拝はしないので、ただその美しい姿を眺めただけであった。

旧本殿

 周囲を散策した後、登ってきた階段とは異なる道を通って下った。総門と唐門との間には銅鳥居があった。その近くに写真の旧本殿があった。現在の本殿は先に挙げた拝殿の裏手に造られているため、写真の旧本殿は古の名を取って波己曽社と呼ばれている。

誠に奇異なる山容

 妙義神社を離れ、県道を南西に進み、今度は誠に奇異なる姿をした妙義の山々をじっくりと観察することにした。

 写真は金洞山と総称されているが、一つ一つのピークに名前が付けられている。このピークを縦走するのが登山家にとって「憧れ」のひとつになっているそうだが、転落事故がとても多く、登山の難易度は最上級クラスとされているそうだ。

 妙義山榛名山赤城山とならんで「上毛三山」と称されているが、榛名や赤城も見る方向によっては実に「へんてこ」な形をしているが、それでも妙義山の奇抜さには遥かに及ばない。

 「日本三大なんとか」というのはいろいろあるが、ここ妙義山は「日本三大奇景」のひとつとされている。あとの二つは、大分県中津市の「耶馬渓」、香川県小豆島の「寒霞渓」である。確かにこの二つも奇抜ではあるが、私個人としては妙義山がその第一だと思っている。

さくらの里から奇岩群を眺める

 「さくらの里」では八重桜が満開になっていたので立ち寄ってみた。ここではボリュームのある「カンザン」という種類の八重桜が多く、一つ一つの花がとても大きいので、ソメイヨシノとはまったく異なる景観を披歴してくれる。

 写真のように、奇岩とサクラのコラボはこの上もない見応えで、他の場所で同じような景色を見ることはまず不可能に近いだろうと思われた。

あちらに見える荒船山は平担

 県道に出てみると、サクラの向こうに平坦なピークをもつ荒船山が見えた。妙義山と同じ時期にできた山にも関わらず、あちらはギザギザした山容ではない点が興味深い。

 この辺りは600~500万年ほど前に陸地化して、500~200万年前に火山活動によって一部が陥没してカルデラ化したと考えられている。

 岩質は凝灰角礫岩が中心で、一部に砂質の凝灰岩や、火成岩である安山岩が含まれている。凝灰岩が風化しやすいために妙義山のような不思議な形をした山を生み出したが、その一方で、天辺を風化しにくい安山岩が偶然に乗ったために、荒船山のような形を造ったのだろう。本ブログでは第82回に四国の屋島を紹介したが、荒船山の形はそれと同じ成り立ちをしている。地質学の世界では、これを「メサ」と呼んでいる。

大國神社の鳥居

 白雲山系から西に移動し、今度は金洞山系を眺めることにした。もちろん、「さくらの里」からの眺めも金洞山系のものだが、中之嶽神社前の駐車場からはその姿がよりはっきり見えるだけでなく、そこには登山道があって、私のようなひ弱な人間でも少しだけだが登山気分を味わうことができるのだ。

日本一大きい大黒天

 中之嶽神社の登るために、まずは麓にある「大國神社」の参道を歩くことになる。その途中に、写真のような金ぴかの、しかも大型の大黒天が出迎えてくれる。いささか下品に見えなくもないが、かの奈良の大仏だってもともとは金ぴかだったので、神仏はきっと派手な色を好むのかも知れない。

 高さ20m、重さ8.5トンもあるだけでなく、手には小槌ではなく大型の剣を持っている。顔は笑っているが、実はとても怖そうに見える。病、厄、悪性を祓ってくれるとのことだが、あまりお近づきにはなりたくないと思った。 

大國神社

 わが府中には大國魂神社があるが、こちらは大國神社である。といって魂が抜けているわけではないだろうが。言い伝えによれば、藤原冬嗣空海が中之嶽神社に登獄した際に、大国主命を奉斎せよと命じたことから、麓にこの神社が建立されたとのことである。本当に空海がここまでやって来たかどうかは不明だが。

中之嶽神社を仰ぎ見る

 中之嶽神社までは、大國神社横にある急な階段を上る必要があった。始めは止めようかとも思ったが、階段の比高は29.2m(大國神社の標高は723.6m、中之嶽神社は752.8m)なので、手すりを掴みながらゆっくり上がってゆけば何とかなるだろうと思い、神頼みではなく自分頼みでごく低速で上ってみた。

岩の一部を削って建てられた社殿

 いざ上ってみると案外、楽なものであった。ここは金洞山登山道の出発点にもなっており、結構、道が整備されているので少しだけ歩いてみることにした。小さな沢が近くにあってなかなか清々しい気分になれた。

 しかし、ここは最上級の難度で、滑落死する人が絶えない場所ということなので、怪我をしないうちにと、早々に引き上げた。

 写真のように、神社の建物はローソクのような形をしている轟岩を少しくり抜いた形で建造されている。いかにも、奇岩だらけの山に相応しい造りをしている神社であった。

 私の知人(20歳ぐらい若い)が今度、妙義山登山にチャレンジするそうだが、はたして無事に帰還できるだろうか?個人的には止めたほうがいいと思うのだが、何ごとも理屈通りに行動できないのが人間の性なのである。

〔111〕柴又・水元公園、そして草加松原へ

寅さんとさくらの像

◎寅さんの故郷、葛飾の柴又へ

柴又駅

 映画『男はつらいよ』を見たのは、1970年8月に公開された第五作「望郷編」が最初だった。もっとも、この映画を見るために映画館に出掛けたという訳ではなく、今は無き「浅草国際劇場」で演歌の星・藤圭子の初のワンマンショーを観覧することが目的であった。

 以前にも記したような記憶があるが、私は自分の部屋には一切、カレンダー以外のものを壁に貼ったことはない。これは今現在も同様で、三方の壁に小さめのカレンダーを掛けてあるだけだ。これも触れたような気がするが、友人の大半は麻田奈美の「リンゴヌード」が貼っており、その他、アイドルの写真やら映画のポスターやら名画のイミテーションやらが壁を賑わせていたが、私の部屋の壁は見事なぐらいすっきりしていた。

 唯一の例外が、1969年に『新宿の女』でデビューした藤圭子が白いギターを抱えた大きめのポスターを貼ったことである。これは、彼女のファーストアルバム『演歌の星・藤圭子のすべて』に付属されていたもので、彼女の歌の上手さに”ぞっこん”となってしまっていた私は、自分でも気が付かないうちにそのポスターをもっとも見やすい場所に貼っていたのだった。

 その後、『女のブルース』「圭子の夢は夜ひらく』と大ヒット曲を立て続けにリリースした藤圭子は、70年に先に挙げた浅草国際劇場でワンマンショーを開催することになったのである。私はそのプラチナチケットをもって浅草まで出掛け、今か今かと藤圭子の登場を待っていたのだが、なんとショーはすぐに始まらず、その前座として『男はつらいよ・望郷編』が放映されたのであった。

 渥美清主演のこのドラマはフジテレビで放送されており、家族は笑い転げながらそれを見ていたが、私はほとんど無関心で、一、二作程度をちらりと見ただけですぐに茶の間を離れ、漫画を見ていたのであった。

 『男がつらいよ』が映画になっていたのは知っていたが全く関心はなかったので、ショーの前につまらない映画を見せられることに大いなる不満を抱いた。しかし、他にすることがないので致し方なくスクリーンを見ているうちに次第に映像に引き込まれ、遂には、スクリーンと自分自身とが同化し、車寅次郎は私自身であるという認識を抱くまでに至ったのである。

 もちろん、藤圭子のショーには感激したが、私には藤圭子の姿よりも渥美清の存在ののほうが心により強く響き、以来、場末の映画館を探しては『男はつらいよ』の過去の作品を見て歩くようになったのである。並行して、時を経ずに藤圭子のポスターは壁から外され、すぐに行方不明となり、私の部屋の壁は再び、殺風景さを取り戻したのであった。

さくらを見つめる寅さん像

 寅さんの存在は私の写し鏡のように思えた。帰るところがあるにもかかわらず、あたかもデラシネ(根無し草)のようにあちこちを放浪するところが、である。先に象潟のところで触れたように、私には放浪癖があった。というより、今でもその癖は持ち合わせたままなのだが。

 また、『男はつらいよ』では日本各地の「名所」が出てくるので、その点も私の旅には大いに参考になった。青森の鯵ヶ沢、秋田の鹿角、長野の奈良井、木曽福島、山形の寒河江、京都の伊根、岡山の備中高梁、島根の津和野、広島の因島など、この映画で取り上げられた場所に行きたくなった、あるいは再び訪れてみたというところが数多くある。今こうして、寅さんが訪ねた場所を検索してみると、今一度、出掛けてみたくなるような場所がいくつもあるのだ。

お兄ちゃんを見送るさくら像

 新橋駅近くにあった松竹系の映画館ではよく「寅さん祭り」といって、『男はつらいよ』の三本立てを開催していた。そんなこんなで同じ作品を何度見たかは数え切れない。もちろん、テレビ放映された時も時間があるときは見ていた。

 と言いながらも、49作をすべて見たわけではなく、渥美清が老いて、諏訪満男(吉岡秀隆)と及川泉(後藤久美子)の恋愛話が中心になってきた第42作辺りから興味が薄れてきたため、最後の数作は一度も見ていない。

 マドンナとして登場した女優も数多いが、やはり、吉永小百合浅丘ルリ子大原麗子がベストスリーだと思える。また、車竜造(おいちゃん)は、森川信松村達雄下条正巳と変遷するが、おいちゃんとしての存在感は森川信がダントツで、松村、下条の順で落ちていった。

 舞台となった柴又には今まで3度訪れ、今回が4度目だった。京成電鉄で出掛けたのは最初だけで、今回を含め、あとの3回は車利用だった。映画の雰囲気を味わうのならば面倒でも電車を利用すべきだろうと思う。柴又駅は寅さんとさくらとの別れの場面では欠かせない存在なのだ。

 写真に挙げたように、駅前広場には、去ってゆく寅さんと、寂しそうに見送るさくらの像が置かれていた。両者は適度な距離を保つように設置されていた。この距離の取り方はなかなか秀逸に思われた。

駅前の不思議な土産物店

 寅さん・さくら像のすぐ後ろ側には、やや風変わりなお土産店があった。店主らしきおばさんに存在感があり、かつ、私が最も苦手とするタイプだと思われたので近づくことが躊躇われた。というより実際、そのおばさんが別の客を相手にしていることをいいことに、やや遠めの位置から店の姿を撮影した。

 「金のうんこ」は初め「金のうこん」だと思ったが、何度見ても「金のうんこ」だった。どんな商品なのか相当に気になったのだが、あまり近づくと店のおばさんから声を掛けられると大変なことになりそうだと思われたので、撮影終了後は、早々にこの場を立ち去った。

 それにしても、「金のうんこ」と堂々と表示できる度胸には敬意を表したいが、とはいえ、お近づきにはなりなくないので、すぐに立ち去ったことは正解だったと思われた。

帝釈天の参道

 「金のうんこ」の店の脇から帝釈天の参道が始まるが、しばらくは店は少なく、寅さんの映画でよく登場する商店街は、約40m先に見える「柴又街道」を越えた場所から始まる。

男はつらいよ』でよく登場する商店街

 写真が、映画でよく登場し、寅さんの実家の草団子屋の「とらや」(のちには「くるまや」となる)がある賑やかな参道となる。

 

寅さんの実家として「利用」された団子店

 映画の撮影に使われたのは写真の「高木屋老舗」ではないが、この店の内部が寅さんの実家の姿のモデルになっている。撮影の際には、この店に出演者が待機したり、衣装や小物、撮影器具が置かれたりしていたとのことだ。

二天門

 この参道を150mほど歩くと、写真の「二天門」に出る。佐藤蛾次郎が演じる寺男の源ちゃん(源吉、源公)が、この山門の周りで子供たちと遊んだり、寅さんに追い掛け回されたりする場面が映画にはよく登場した。

 二天門とは、四天王のうち、南方守護の「増長天」と西方守護の「広目天」が納められているいるからで、残りの二天(持国天多聞天)は帝釈堂の内部に安置されている。

大鐘楼堂

 二天門のすぐ北側には写真の「大鐘楼堂」がある。意外に新しく、1955年(昭和30年)に造営されたとのこと。ということは、私よりも若いお堂なのである。

 ちなみに、二天門は1896年(明治29年)に、十四世の日孝上人のときに造営されている。

帝釈堂

 柴又帝釈天は経栄山題経寺という山号をもつ日蓮宗の寺院で、1629年、下総中山法華寺第十九世の禅那院日忠上人によって開基され、次の題経院日栄によって開山された。

 本尊は、日蓮上人が御親刻したと言い伝えがある帝釈天。長さ二尺五寸、幅一尺、厚さ5分の板で、片面の中央には南無妙法蓮華経、その両脇に経文が書かれ、もう片面には帝釈天の姿が彫られている(そうだ)。

 帝釈天とは、バラモン教(インドラ)やヒンズー教ゾロアスター教の神で、軍神、武勇神として十二天のひとつとして東方を守る存在と考えられてきたが、のちには梵天とともに仏法を保護する神とされるようになった。

 この帝釈天が彫られた板は一時、行方不明となっていたが、第九世の日敬上人がお堂の中から発見し、その後は大切に守られてきた。そうした経緯もあって、題経寺と呼ばれるよりも柴又帝釈天と言われることがほとんどだ。

 ただ、映画『男はつらいよ』のなかで寅さんは、笠智衆演じる日奏上人(御前様)を「題経寺の和尚」ときちんと呼んでいる。

 それはともかく、帝釈天は須弥山の山頂にある忉利天(とうりてん)の喜見城に住んでいることになっているので、柴又帝釈天にも、帝釈堂の裏手に喜見城が造営されている。

本堂

 帝釈堂の右隣に題経寺の本堂があるが、写真のようにここをお参りする人はほとんどいない。

釈迦堂

 ましてや、写真の釈迦堂などは見向きもされない。

金町浄水場

 柴又帝釈天のすぐ北側には、写真の「金町浄水場」がある。江戸川から取水し浄化して水道水として供給している。かつては「日本一まずい水」と言われたほどカビ臭い水だったが、現在は高度処理が進んだこと、水道水のネットワーク化によって多摩川の水などもブレンドされるようになったことで、この辺りの水道水もかなり飲めるようになったそうだ。

 もっとも、多摩川水系では現在、有機フッ素化合物の混入が年々、非道くなっているため、多摩川の水だから、地下水をブレンドしているから、などの理屈は成り立たなくなっているのが現状だ。

 なんとか、帝釈天や弁天様にお出まし願って、水道水の浄化の徹底をお願いしたい。

◎柴又公園と矢切の渡し

柴又公園

 柴又公園は、江戸川の土手上を走る都道451号の西側にある「山本亭」と「寅さん記念館」、それに江戸川の右岸河川敷に整備された広場からなる。山本亭は木造2階建ての建物と日本庭園からなり、寅さん記念館は『男はつらいよ』のすべてが分かる資料館であるが、前者は特に外から眺めただけで中には入らなかったし、『男はつらいよ』はほとんどの作品を見ているし、中には10回ほど見直している作品すらあるので、あえて解説を受ける意義を感じなかったので立ち寄ることはしなかった。

 一方、河川敷のほうはよく整備されたチューリップをメインにした花壇や、寅さんファミリーが遊んだ野球場、それに、小説『野菊の墓』や演歌でよく知られた「矢切の渡し」がある場所なので、結構時間を掛けて散策するつもりでいた。

寄贈されたチューリップ

 公園内には数多くのチューリップが満開を迎えていたが、この花たちは新潟県五泉市から寄贈されたものとのことだ。五泉市と言えばボタン栽培でよく知られているが、チューリップも栽培品種のひとつで、この町のチューリップ祭りは全国的な知名度がある。

ここからもスカイツリーが見える

 公園からは写真のように、スカイツリーがよく見える。先般、NHKで「プロジェクトX」が再開されたが、その第一回目はこのスカイツリー建設にまつわる話が取り上げられていた。番組構成もなかなか見ごたえのあるものだったが、この番組の良さはなんといっても中島みゆきの歌で、『地上の星』もエンディングの『ヘッドライト・テールライト』も番組内容にふさわしいものだ。とりわけ『地上の星」はこの番組のために創られたもので、無名の人々の目に見えない活躍を見事に表現している。

 番組の80%は、中島みゆきの歌が貢献しているのだ。

渡し船の乗り場

 この公園に来た理由の一つは、写真の「矢切の渡し」に触れるためだった。もちろん、私の興味は演歌のほうではなく、小説のほうだ。

 伊藤佐千夫の『野菊の墓』でこの「矢切の渡し」が絶妙な形で登場する。そのこともあり、私は松戸市下矢切にある「野菊の墓文学碑」へ、この渡し船を利用して、松戸側の舟着き場から1キロほど歩いて出掛ける心づもりであった。

何故か怒り気味の船頭

 ところが、私が船の到着をまって渡し船を撮影しようとしたところ、若い船頭が「写真を撮るな!」と怒鳴り、写真にあるように私を睨みつけていた。そのことで、私はこの渡し舟への思いはいっぺんに冷めてしまい、利用することを止めたのだった。

 『野菊の墓』に対する私の思いにはまったく変化はないが、矢切の渡しに対する心象は著しく悪化した。

◎都立水元公園~見どころ満載

公園の入り口

 帝釈天から北へ3キロほどのところにある都内では唯一、水郷の景観を有する公園として知られる都立水元公園へ出かけた。ここは1965年4月に開園され、面積はなんと97万平米もある。

 ここは江戸時代に徳川吉宗の命で、中川の支流である大場川の一部を堰き止めて造られた用水池で、周囲の村の水源となった。そのことからこの用水池は「水元」と呼ばれるようになったとのこと。

 この用水池は「小合溜」と言い、その周囲にはバードサンチュアリー、バーべキュー広場、ポプラ並木、メタセコイアの林、冒険広場、ドッグラン、水辺の生きもの館、金魚展示場、ヒガンバナの丘など数多くの施設がある。

水元大橋

 中央入口のすぐ前には写真の「水元大橋」がある。水路が蛇行しているため行き来しやすいように造られたもので、小さいながら意外に目立ち、この公園のランドマークになっている。

対岸にも大きな広場がある

 対岸にも大きな広場があるが、そちらは「みさと公園」(埼玉県営)の名がつけられており、埼玉県三郷市に属している。そちらに行くには相当に遠回りする必要があるので、車でぐるりと小合浦を回って、みさと公園の駐車場を利用するのが便利である。

内溜は釣り人がいっぱい

 写真の「内溜」は釣り堀として開放されているようで、かなりの数の人が竿を出していた。釣り方を見ている限り、ヘラブナ狙いと思われたが、見学中には誰も竿を曲げていなかったため、獲物に関しては不明だ。もしかしたら、魚よりも人の数のほうが多いのかもしれない。

 淡水魚は持ち帰って食する人は滅多にいないので、おそらく、再放流されているので魚の警戒心は極限まで高まっているので、なかなかハリ掛かりに至ることがないようだ。だからこそ、釣りは面白いのであるが。

変わった鳥を遊ばせている人が

 チューリップが多く飾ってあった花壇の近くでは、珍しい鳥を手にしている人がいた。結構多くの人が興味深くその姿を見物していたので、私もその輪に加わった。そして、許可をいただいて写真撮影を行なった。

ワシミミズクはフクロウの仲間

 この鳥は「ワシミミズク」という種類だそうで、フクロウのような顔つきと耳の羽角が特徴的だ。飼い主にはよく懐いているようだが、この鳥の別名は「夜の猛禽」と言って、日中は大人しいが、夜になると狩りをおこなう(もちろん自然界では)そうだ。視覚が非常に優れているために、僅かな光があれば獲物を見つけることができるらしい。

 このようにペットとして飼育する人は少なからずいるらしいが、価格は50から100万円程度もするらしい。平均寿命は20から30年で、中には50年も生きる個体もいるそうなので、飼う人も相当に根気が必要だろう。

 

公園の名物、メタセコイアの林が見えた

 この公園で一番見たかったのは、メタセコイアの林で、ワシミミズクを観察したあとにその林に向かった。

湿地帯にはいろいろな生物が生息

 途中には写真のような湿地帯があり、ここには貴重な動植物が保護されているらしい。単なる遊び場ではないところが、この公園の魅力である、と思った。

「生きている化石」メタセコイアの林に入る

 メタセコイア白亜紀から古第三紀には北半球に広く分布していたが、約80万年前に気候変動で絶滅したと考えられていた。しかし、中国南西部に生き残っていることが分かり「生きている化石」と呼ばれるようになった。

 ヒノキ科(スギ科とも)メタセコイア属の落葉高木で、成長が早く、一年で1から1.5mも成長する。樹高は50mに達するものも珍しくなく、中国には115mに成長したものもあると言われている。

 日本には1950年にアメリカで育成された苗が100本入り、それから全国各地に植えられるようになった。私がこの木を知ったのは小学生の時で、私が通っていた学校にも1本のメタセコイアがあると、教師が自慢していたのを記憶している。

逆光で見ると不思議な雰囲気が

 ひとつ上の写真のように、普通の光で撮影すると何の変哲のない木に見えることから、私はド逆光でこの林を写してみた。すると、ただのスギのように思えた「生きている化石」が、長い年月を経て生き残った樹木のように見えた。

 なお、メタセコイアの苗木は1本500円程度で入手できる。ただ、先述したように成長スピードがものすごく速いので、狭い庭に植えたためしには数年後、周囲の家から苦情が殺到することは間違いなしである。

小川ではタナゴが釣れるそうだ

 公園内には、写真のような小川も流れている。ここにはクチボソやタイリクバラタナゴが生息しており、小物釣り師が結構な数、竿を出していた。タナゴ釣りの場合、他の魚とは異なり、小さいサイズのものを数釣ることが誉れになる。そのため、写真の人のように極細の短竿で狙うことになる。高木のメタセコイア、小さいほど珍重されるタナゴ。それらが同居しているのがこの水元公園なのである。

 今回はまだまだ広大な公園の十分の一ほどしか探訪できなかったので、いずれ機会を見て再訪してみたい。そう思わせるほど、魅力と変化に富んだ場所ではあった。

草加市・松原の続く旧日光街道

草加と言えば「草加せんべい

 草加の地名を聞くとすぐに思い起こすのは「草加せんべい」で、その硬めの歯ごたえは、いかにも”せんべいの味”(実際、せんべいなので)で、せいべいといえば「草加せんべい」がすぐに連想される。現在でこそ、無数のせんべいが発売されているようだが、私にとっては今でも、せんべいと言えば「草加せんべい」でなくてはならないのである。

 次に、草加と言えば、1960年代の前半に生きた人にとっては「草加次郎」を思い起こすかもしれない。数々の事件を起こしながら未だに犯人が特定されていないという、こんなことで誉めてはいけないのだが、犯罪者としては「理想的」な生き方をしたのかもしれない。もっとも、本心では逮捕されることを望んでいた可能性は否定できない。

 ただ私は、15歳の末に『おくのほそ道』を知ってからは、草加の名を聞くと松尾芭蕉が旅の最初に泊まった宿が存在する(実際には春日部だったのだが)場所と反応するようになった。

硬いせんべいが特徴的

 そんな草加だが、実は、実際に草加に出掛けたのは今回が初めてである。実際に芭蕉が歩いたとされる日光街道には「草加松原」が綾瀬川沿いに1.5キロほど整備されているとのことだったので、元禄二年(1689年)の時代に戻って、私もその道を辿ってみたいと考えたのである。

 もっとも、最初に訪れたのはひとつ上の写真にある「草加せんべい発祥の地」の碑であったが。

 写真は、その碑のすぐ近くにあったせんべい店で購入したもので、すぐその場で食してみたが、味の記憶は全く蘇らなかったものの、その歯ごたえは、確かに草加せんべいのそれであった。

しだれ桜(そうかザクラ)が満開

 綾瀬川の右岸に「旧日光街道」があり、草加松原のある左岸側に、写真の「まつばら綾瀬川公園」があり、私が出掛けた時は、しだれ桜が満開を迎えていた。この桜は役所にあった桜から枝を切って苗を作り、それを公園内に移植したものであり、草加で生まれ育った桜なので、「そうか桜」と命名されている。

よく整備された「まつばら綾瀬川公園」

 写真は、公園を川の右岸側から見たもので、園内には散策路やスポーツ広場が整備されている。

矢立橋

 旧日光街道は、並行して走る県道49号線(足立越谷線)の東側にある。かつては旧日光街道が県道として利用されていたが、芭蕉が歩いた道であり、かつ、古くから道の両脇には松並木が続いていたことから、「草加松原」として遊歩道を造り、その隣に県道を整備した。このため、かなり広い遊歩道が出来上がり、芭蕉の旅を連想させるには効果的な道となっている。

 町の中心部に近い場所にあるため、比較的交通量の多い道路が49号線と交差している。綾瀬川公園に近い場所にある道としては、南側に「草加流山線」(県道29号線)、北側には「松原文化通り」(県道403号線)がある。

 もちろん、交差点には横断歩道があるが、折角の散策路が横断歩道で途切れてしまうのは味気ないと考えたのか、写真のような歩道橋が設置されている。しかも、変哲のない歩道橋ではなく、江戸時代の木製の橋を連想されるような姿に造られている。ただし、木製ではなく金属製であるのが少々、残念ではあるが、管理の面を考えれば致し方ないだろう。

橋上から下流方向を望む

 この南側の歩道橋は「矢立橋」と名付けられている。これは、『おくのほそ道』の「旅立ち」の項から引用したものである。

  行春や 鳥啼魚の 目は泪

 これを矢立の初として、行道なおすすまず。

 この文章から「矢立」という言葉を借りて、矢立橋と名付けたのである。

上流方向に続く散策路

 私はあえて横断歩道を利用せず、矢立橋と名付けられた歩道橋を渡って、旧日光街道を北へ進んだのである。

日光街道の両脇に松林が続く

 現在は松並木の中に遊歩道があるが、1982年まではこの並木の中を日光街道(県道49号線の上り車線があったそうだが、85年からは上り車線も並木の西側に移り、遊歩道として整備されて現在に至っている。

 松並木は17世紀に始まったという説があるが、現実には1792年に1230本の松が植えられたという説が一般的になっている。それゆえ、芭蕉がここを歩いたときは、今のような松並木があった蓋然性は低い。ただし、松並木自体はどの街道にもよくあるものなので、ここに松が全くなかったということも考えられない。

 モータリゼーションの進展で松は枯れ、松の数は60本程度まで減少したらしい。そこで地元の有志が松並木保存会を結成して植樹を行い、現在では600本以上の松が残されており、かなり見ごたえのある景観が展開されている。

ドナルド・キーンの書が石碑に

 1987年には「日本の道100選」に選ばれ、2014年には「おくのほそ道の風景草加松原」として国の名勝に指定されている。

 写真の石碑は、そのことを記念して建てられたものであり、日本文化研究家として優れた業績を残した故ドナルド・キーン氏の書として、そのことが記されている。

ドナルド・キーンが植えた松と「おくのほそ道」の書き出し

 ドナルド・キーン氏の記念植樹の松と、『おくのほそ道』の発端の部分が書かれた石碑が置かれていた。

百代橋を上る人も旅人なり

 その先には、先の「矢立橋」と同様、歩道橋として「百代橋」が設置されていた。こちらも矢立橋同様に鉄骨で組まれているが、木橋のような風采に見て取れる。下を通る道がやや狭いこともあって、矢立橋よりはやや小ぶりである。

 「百代橋」の名は、もちろん『おくのほそ道』の発端にある「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」から付けられたものである。

橋上から旧日光街道を望む

 百代橋の上から、旧日光街道(現在は遊歩道)を望んだ。もちろん、芭蕉はこの橋を歩いたわけではないが、こうして芭蕉が進んでいった奥州方向を眺めてみると、この先で芭蕉が出会った数々の邂逅や苦難が偲ばれる。

ここにも「おくのほそ道」の石碑が

 ここにも石碑があった。文字はかなり薄くなっていたことから、何を記してあるのかはっきりとは分からなかった。草加にある碑だけに、『おくのほそ道』の草加の項である蓋然性は高いのだけれど。

草加宿があった場所

  草加は旧日光街道の第2番目の宿場があったところで、写真の芭蕉像や望楼があるところあたりが宿場の中心地だったらしい。

松尾芭蕉翁像

 『おくのほそ道』の「草加」の項には、「奥州長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといえ共、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生きて帰らばと、定なき頼の末をかけ、其日漸(やうやう)早加と云宿にたどり着きにけり。」とあり、旅の初日に草加に宿泊したと記してある。

 しかし、1943年に発見された『曾良旅日記』によれば、この日は粕壁(春日部)に宿泊したと記されている。この日記によって芭蕉の旅程が明らかになったことにより、『おくのほそ道』には相当分、虚実が入り混じっていることが判明している。

 芭蕉はこの旅の五年後に死去しているが、彼は死の床につくまでこの作品に手を入れていたことが分かっている。それゆえ、『おくのほそ道』は単なる旅日記ではなく、かれが全人生をかけた創作物であると考えるほうが得心できるのである。

 第109回で「立石寺」に触れた時にも述べたように、「閑さや……」の句もセミの種類を議論するなど愚かな行為というほかはなく、芭蕉の心にはそう感じられたのだと、この作品を味わうべきである。

河合曾良

 写真の「曾良像」は芭蕉像とは少し離れたところに建っていた。これはやや残念なことであり、是非とも芭蕉像の近くに移転していただきたいと強く願っている次第だ。

旧荷札場と綾瀬川と矢立橋と

 草加は宿場町として栄えたが、当然のごとく、ここには多くの荷物が綾瀬川を道筋として運ばれてきた。写真の手前側はその旧荷札場を再建したものであり、その向こうに見える小さな建物は「草加宿芭蕉庵」というお休み処で、各種資料だけでなく売店もあり、草加せんべいも売られている。

 その先に見える丸い橋が矢立橋で、こうしてやや遠めに見ると、草加松原にマッチした丸橋になっている。木製でないのはやや残念ではあるけれど。

〔110〕平林寺・野火止用水・清瀬金山緑地公園を訪ねて

大河内松平家廟所

◎平林寺~松平信綱(知恵伊豆)が眠る禅寺

平林寺大門通りと総門

 埼玉県新座市にある平林寺は紅葉狩りの名所としてよく知られており、シーズンになると不信心の人も含めて数多くの見物客が集まる。私も2回、見学に訪れたことがあるが、確かに人の数は半端なく多いが、境内が広いこともあって”ごった返す”といったほどではないので、美しい景観を存分に楽しむことが出来た。

 一方、3月下旬のこの時期は花の数がさほど多くはないので、境内は閑散としており、いかにも古き良き武蔵野の姿にじっくりと触れることが出来る。田山花袋が「武蔵野の昔の武蔵野の匂いを嗅ごうとするには野火止の平林寺付近が良いね……」と語った気持ちがよく分かる情景が、今でもよく残されている貴重な場所なのである。

総門と参拝受付所

 平林寺は臨済宗妙心寺派の別格本山で、1375年、現在のさいたま市岩槻区を拠点とする岩槻城主太田備中守の命で、鎌倉建長寺の住侍であった石室善玖禅師によって開山された。が、1590年、秀吉の岩槻城攻めで伽藍の大半を焼失したが92年、鷹狩りで岩槻を訪れた徳川家康の命で、駿河国臨済寺の鉄山宗鈍を迎えて中興開山した。

ここは金鳳山・平林寺という名の禅寺である

 この寺の大檀那であった大河内秀綱が死去するとここが大河内家が霊廟とされた。さらに、孫の信綱が大河内家から松平家に養子に入り、のちに大河内松平家を興すと、この平林寺が祖廟となった。ただし、信綱は平林寺を岩槻から自分の領地である野火止に移すことを企図してはいたが、存命中には完成をみなかった。

 この寺の山号は「金鳳山」であるが、写真のように総門には京都詩仙堂石川丈山が揮毫した扁額が掲げられている。約400年前のものなので、現在は新しく塗られているが、文字そのものは丈山のものを生かしている。

 なお、山号の金鳳山は、開祖が中国の元の金陵(南京)にある鳳台山で修業したことから、その”金”と”鳳”をとったものである。

移設された山門

 総門から入って正面を見ると、写真のような山門が見える。これは平林寺が岩槻にあったときのものを1663年に解体してこの地に移築補修したものである。

歴史を感じさせる建造物

 茅葺重層入母屋造りのこの山門は、数ある平林寺の建造物の中では最も見応えのあるものだ。楼上桟戸の両側には花頭窓があり、その内部には松平信綱が寄進した釈迦、文殊、普賢の三尊仏と十六羅漢像が収められているとのことだ。

凌霄閣(りょうしょうかく)の扁額

 山門の扁額も、総門のものと同じく、京都詩仙堂石川丈山が揮毫したものを塗り直している。「凌霄閣」のうち、凌と閣は分かるが、霄(しょう)がよく分からない。案内によれば、霄は空と同義だそうなので、言い換えれば、空を凌ぐ建物ということになる。つまり、空を凌ぐほど志が高いという意味のようだ。

阿形の金剛力士

 山門の左右には、お定まりのように阿形と吽形の金剛力士像が安置されている。もちろん誰もが知っている通り、”阿”は梵字十二音の最初、“吽”は最後の文字で、それぞれ始原と終局を意味している。その限りで、山門を通るということは、全宇宙の只中を通過するということになるのかも知れない。もっとも、信心のない私は、ただボーッとしたままに通りすぎ、宇宙を感じることはまったくなかった。

仏殿

 山門の先には仏殿がある。生憎、正面からでは茅葺きの大きな屋根に陽がさえぎられてしまうため、扁額や花頭窓などはまったく写真に収まらないことから、やや斜め側から見たものを掲載した。

無形元寂寥と書かれた扁額

 ここには「無形元寂寥」と書かれた扁額が掲げられていた。中には本尊の釈迦如来坐像と両脇侍として阿難尊者と迦葉(かしょう)尊者が安置されている(らしい)。

 この仏殿も、やはり岩槻から移築されたものとのことだった。

仏殿の横には用水路が

 仏殿の脇には写真のような用水路が走っていた。もちろん、これは野火止用水から分岐された平林寺堀からの水である。

観音像が安置されている戴渓堂

 用水路の近くには、写真の戴渓堂があった。茅葺の宝形造りの建物で、中には「天外一閑人」と称した明の僧であった独立性易禅師の座像が安置されている(らしい)。どんな人物だか私には不明だが、「天外一閑人」という生き方は私としては激しく同意できる。

豊富な水量に支えらえた放生池

 放生池(ほうじょうち、ほうじょういけ)とは捕らえた魚類などを放してやるために池で、寺院などではよく見かける存在だ。供養のためだそうだが、それならば元々、捕獲しなければ良さそうなものだが、不信心者があまたいるので、そうした人々が仏心に目覚めさせるために置かれたものなのだろうか?

 私は小さい頃、こうした池でよく魚やカメなどを捕まえてきて自宅の池に放生した。これは信心からではなく、ただ生き物を飼うのが好きだったからである。もっとも、管理が悪いのでよく殺生したものだが。

池中央に置かれた祠

 池の中心の島には写真のような小さな祠があった。池の中、あるいは畔にある祠と言えば、「弁天様」を安置しているに相違ない。

水路近くに集まる色鯉

 放生された?コイたちがこちらを向いているのは私がエサを与えているからではなく、平林寺堀からの流れがここに入り込んでいるからだ。魚は一般的に流れが来る方向に泳ぐことが多い。これは、餌となるものが上流から流れてくるからだろうか。

半僧坊感応殿

 半僧坊とは、浜松にある方広寺を縁起とする天狗の姿に似た大権現とのこと。山の鎮守として現世の諸願を叶えてくれるそうだ。私の願いは磯で大きなメジナが釣れることだが、これが簡単に実現したら釣りはかえって面白みのないものになってしまうので、願うことは止めにした。もっとも、信心そのものがないのだけれど。

天狗に似た大権現が祀られている

 当然のごとく、内部には天狗によく似た大権現が祀られている(らしい)。三大半僧坊というのがあって、方広寺、鎌倉の建長寺、それにここ平林寺だそうで、年に一度(4月17日)、大祭が催されるとのことだ。

◎広大な境内林を歩く

境内林を進む

 平林寺の魅力は、初めのほうでも述べたように、広大な自然林が存在しているからだ。1968年には国の天然記念物に指定されているが、確かに、ここには古き良き武蔵野の面影が残っている。私の住む府中市にだって、子供の頃はあちこちにこうした自然林が存在していたが、今では大半が住宅地になってしまい、僅かに府中崖線や国分寺崖線の斜面に少しだけ残されているだけである。

平和観音像

 ただ、下で取り上げる「大河内松平家廟所」まではところどころに墓地や写真のような記念像が置かれているので、ありのままの自然林の空気を感じるには、今少し先まで歩く必要がある。

石仏群

 ただ、道の傍らにある写真のような石仏群を見るのは決して嫌いなわけではない。ひとつひとつ表情が異なっているのを見出すことは結構、興味深い”遊び”ではある。

野火止用水・平林寺堀

 野火止用水から分岐された水の流れは平林寺堀となって境内の中を進んでゆく。

島原・天草の一揆供養塔

 平林寺を岩槻から野火止の地に移したのは松平信綱(1596~1662)である。もっとも実際に野火止に移転されたのは1663年のことなので、先にも触れたように信綱自身は移転の完了を見てはいない。あくまで信綱の遺命によって野火止に移されたということになっている。

 写真は、「島原・天草の一揆供養塔」である。当時忍(おし)藩の藩主で幕府の家老だった信綱は1637に起きた島原の乱を鎮圧するために総大将として島原に派遣された。この反乱はキリシタンの弾圧によって発生したというより、藩主・松倉勝家に暴政によるところが大きかった。が、結果としては反乱に加担したもの全員が処刑されている。だだし、徳川家光松倉勝家にも責任を取らせ、藩主としては江戸時代唯一の斬首の刑に処せられている。

 ともあれ、キリシタンを中心とした反乱に加担した3万人以上が処刑され、信綱が鎮圧軍の総大将であったということの事実からか、平林寺境内には写真のような供養塔が設置されることになった。

 この供養塔は建てられたのは1861年で、大河内松平家の家臣であった大嶋左源太によるものとのことだ。供養されているのは島原の乱で命を落とした兵卒や庶民ということらしいが、その庶民の中に処刑されたキリシタンが加わっているかどうかは不明だが、信綱に由来するとするなら、私はキリシタンも含まれていると信じたい。

安松金右衛門の墓

 松平信綱の最大の業績と言えば、やはり玉川上水・野火止上水の開削であろう。玉川上水の開削については本ブログの第28回から30回まで、3回に分けて詳しく紹介している。

 島原の乱の平定の勲功によって信綱は、1639年に忍藩3万石から川越藩6万石に移封された。そこで信綱は川越を流れる新河岸川(荒川の一次支川)の整備など、川越の発展に大きく寄与した。さらに、田畑の整備によって食糧の増産を図るため、全く手が付けられないでいた野火止の地の開墾を計画した。しかし、この地は北の柳瀬川、南の黒目川(ともに新河岸川の支流)に挟まれたやや台地の形状をしているために水に恵まれてはいなかった。

 そんな時、信綱は徳川家光から、急発展しつつあった江戸の水不足を解消するために玉川上水の開削を命じられたのであった。当初は玉川兄弟に指揮を取らせたが、水喰土(みずくらいど)に何度か苦しみ彼らの計画はとん挫した。

 そこで、信綱は川越藩士の安松金右衛門に指揮を命じて、玉川上水開削を進めさせて見事に完成をみた。そればかりでなく、安松は小川の地(現在は立川市幸町)に取水口を造り約3分の1の水を分水させ、小川から野火止を通り新河岸川までの25キロにわたる野火止用水を完成させたのであった。しかもこの開削にはわずか40日しか費やしていなかった。この結果、野火止ではそれまで200石しか産出されなかったものが、この用水のおかげで2000石と10倍もの増産に成功したのであった。

 こうした業績があったことから、安松の墓は大河内松平家の廟所のすぐ隣に置かれたのだった。

大河内松平家一族の墓

 平林寺境内林の中に、広大な「大河内松平家」の廟所がある。これは平林寺の本堂(一般者は立入ることができない)の裏手に位置し、写真から分かる通りかなりの面積(約3000坪)を占めている。

 信綱は家康の家臣であった大河内久綱の長男として生まれた。ただ身分がやや低いため、これでは出世が出来ないと考えて松平右衛門大夫正綱の養子となった。このことで、信綱の一族は大河内松平家と呼ばれるようになったのである。

 類稀な才能を生かして家光や家綱を補佐し、徳川の幕藩体制の基礎を確立した。知恵が湧くように出たことから「知恵伊豆」と呼ばれるようになった。また、川越藩主として川越の町を整備し、「小江戸」と呼ばれるようになるまでの発展を遂げる立役者となった。

松平信綱夫妻の墓

 向かって左側の墓が信綱のもので、地輪正面には「河越侍従松平伊豆守信綱 松林院殿乾徳全梁大居士 寛文二壬寅三月十六日」と刻まれている(そうだ)。

野火止塚

 この廟所の裏手に回ると、いよいよ自然豊かな平林寺境内林が広がっている。なにしろ境内は全部で13万坪(43万平米)の面積があるのだ。

 その一角に、写真の「野火止塚」と名付けられた土盛りがあった。由来や用途は不明らしいが、推測するに、この地では焼き畑農業がおこなわれており、水が乏しいことから野火が広がりやすく、それを監視するための高台だったと想像できる。

 なお、平林寺が岩槻からこの地に移設されたときにはすでに存在していたとのことなので、資料となるものはないことからただ推察するだけである。

野火止塚の石標

 塚の天辺には写真の石標がある。周囲には近年になって造られた囲い(あるいは石標)の残骸らしきものが転がっていた。これだけを見ると、何かの工事の廃棄物が積まれ、それを隠すために土盛りがされたようにも思える。もっとも、廟所のすぐ裏にそんなものを残すはずはないのだが。

何故か「業平塚」も存在

 野火止塚のさらに北側の林の中には、写真のような「業平塚」があった。ここは、業平が東下りの折に、武蔵野が原に駒を止めて休んだところとの言い伝えがある。かつてここには、「むさし野に かたり伝えし 在原の その名を偲ぶ 露の古塚」という歌碑があったとのことだ。

 なにやら怪しげな伝承ではあるが、真偽を確かめるには都鳥にでも問うてみなければならないだろうか?

国史跡指定の平林寺境内林

 野火止塚や業平塚のほかには、写真のような林が広がっている。ただし、古木も多いことから、この景観を保存するために適宜、植え替えをおこなっているようだ。

平林寺堀の石標

 ひと通り、平林寺の境内を徘徊したので、次の目的地に移動することにした。平林寺堀の傍らには、写真のような石碑が置かれていた。こちらは用水の分流ではあるものの、野火止用水の一部には違いはない。

用水は境内の外に流れ下る

 写真のように用水は境内を出て、平林寺大門通りの脇を新座市役所方向へと進んでゆく。ただし、市役所の北角にある新座市役所交差点で暗渠化されてしまっているので、その先を追うことはできない。

野火止用水

野火止用水本流

 平林寺を出て、私は歩いて寺の南西角まで行くことにした。寺の西側に沿うようにして、野火止用水の本流が走っており、それを見学することが目的だった。

 写真は「陣屋通り」と名付けられた市道野火止用水を越える「伊豆殿橋」の真下を覗いてみたものだ。思いのほか水量は豊富だ。もっとも、本ブログの第30回で触れたように、玉川上水自体の流れは自前のものではなく、小平監視所立川市幸町)から下流部は浄水場の処理水(有機フッ素化合物が多めに含まれているので、汚染水かもしれない)が上水の流れを復活するために人工的に流されているので、この野火止用水の水もその処理水の一部である。

右手が平林寺境内林

 写真のように野火止用水は平林寺の西側に沿って流れ下り、国道254号線と突き当たる辺りで暗渠化され、新河岸川に流れ込む場所まで、もはやその姿を視認することはできない。

橋には用水開削の功労者の名が

 写真のように陣屋通りの橋は先にも触れたように、野火止用水開削の功労者である松平信綱の官職名(伊豆守)から名付けられている。

安全と発展を祈願

 橋の傍らには石仏が置かれていて、花や果物がそえられていた。道を通る人の幾人かは、この石仏の前で手を合わせていた。私には到底できないことだが。

 ところで、新座は令制国時代は武蔵国新座郡(にいくらぐん)に属していた。これは多くの新羅系の渡来人がこの地に移住して、農業の発展に寄与したためであると言われている。

用水路の脇には遊歩道が整備

 開渠になっているにせよ暗渠になっているにせよ、野火止用水の水路に沿って道路が造らられており、小平から東久留米まで通りは「野火止通り」の名が、新座に入ると今度は「水道道路」と名付けられている。

 写真は、その水道道路に沿って流れている用水を撮影したもの。ここでは暗渠になったり開渠になったりを繰り返しており、いずれにしても道路の脇には遊歩道が整備されている。もちろん、開渠の場所では狭く、暗渠の場所では道は広めに造られている。

遅咲きのスイセンが用水を飾る

 一部には花壇を整備して美しく飾られている場所もあるが、写真のように遅咲きのスイセンが疎らに植えられているところもあった。いずれにしても、格好の散策路として、野火止用水に沿っている遊歩道は多くの人に愛されているようだ。

玉川上水との分岐点のすぐ下流

 折角なので、野火止用水の「源流」も訪ねてみた。多くは第30回を参考にしていただきたいのだが、そこでも記したように玉川上水から分水された野火止用水は暗渠化されているので、その分岐点を直接、見ることはできない。しかも、上の写真のように用水の上には立派な散策路が造られている。

 なお、左手に見えるのは西武鉄道拝島線である。

東大和市駅東側から開渠となる

 西武拝島線玉川上水の隣駅(小川側)である東大和市駅のすぐ東側から、やっと野火止用水は顔をのぞかせる。上の写真は、用水が初めて地表に顔を現した場所である。

用水に沿って遊歩道が続く

 このように、人々の前に姿を見せた用水はしばらくは遊歩道を伴って東に進み、西武多摩湖線八坂駅の東側まで姿を現し続ける。そこでまた、900mほど暗渠化され、東村山市恩多町にあるボーリング場の裏手で再び、人々の前に姿を見せることになる。

◎柳瀬川と清瀬金山緑地公園

柳瀬川

 柳瀬川については、すでに本ブログの第52回で多摩湖狭山湖を紹介した際に少しだけ触れている。この川の源流は狭山丘陵の谷にあって、多摩湖(山口貯水池)が造られる前には、この川の流域にいくつかの集落があった。ただし、貯水池が出来ると源流域はほとんど水没してしまい、僅かに六道山公園の東側の谷に源流点らしき痕跡が残るのみである。

 第52回、53回に紹介した狭山丘陵の項で紹介した空堀川はこの柳瀬川の支流で、野山北公園の谷を水源として狭山丘陵の南側を流れ下り、清瀬市中里で柳瀬川に合流している。 

左岸の河原ではバーベキューも可能

 この合流点から1.6キロほど下流の左岸側にあるのが、ここで取り上げた清瀬金山緑地公園で、よく整備された池を中心ににして周囲には雑木林が残り、河川敷の一部では、写真のように野外バーべキューが楽しめる場所もある。ただし、バーベキューが可能なのは河川敷のみで、緑地公園内では不可である。

小魚を狙う釣り人

 川には大きなコイが数多く泳いでいたが、小魚も豊富なようで、写真のような短めの竿を用いて小物釣りを楽しむこともできる。

 以前にも触れたように、この柳瀬川もその支流の空堀川も、そして黒目川もすべて古多摩川の流路に当たる名残河川で、かつて古多摩川は荒川方向に向かって流れていた。それが関東山地の隆起によって流路を変更したという点についても本ブログでは何度か触れている。

意外に水量は豊富

 私がこの公園の存在を知ったのは、今から20数年前のことだった。取材で関越自動車道をよく使うことになったとき、所沢ICを入口に利用するのが一番便利だと気付いてからのことだった。

 距離的には大泉ICのほうが近いし、私は若い時分に練馬区の某都立高校の教員をしていた(担当はなんと倫理・社会)ので、練馬近辺の道にはかなり詳しくなっていた。ただ、大泉ICに至るまでは西武線の踏切を2度超える必要があったし、西武線の遮断機は京王線に比べると閉まるのは早いし、開くのは遅いので、相当に朝早い時間でないとその踏切を渡るのに難儀した。

 そこで東村山経由で所沢に至るルートに変更してみたが、そこでも西武線の踏切が行く手を遮るので、やはり時間の短縮は難しかった。

 結果、地図を詳細に調べてみると、清瀬市役所脇から細い道に入り、柳瀬川を渡ってから道を東に取ると、所沢ICのすぐ近くに出られることが判明した。その際、柳瀬川にかかる橋は「金山橋」であり、渡った先には広い公園があることが分かった。

 いつか立ち寄ってみたいとそのころから考えていたが、実現したのは今回が初めてとなったのだけれど。

 もっとも、大泉ICへの道では2つの踏切が廃止された(ひとつはアンダーパス、ひとつは西武線の高架化)ことで、近年はまた大泉ICを利用することになったので、公園の存在はすっかり忘却していたのだけれど。

公園内の大きな池

 川から水を導入したのか、それとも近くの伏流水が流れ込んだのかは不明だが、約2万平米の広さを有する公園の中心にあるのが写真の池である。

 この公園のテーマは「武蔵野の風と光」だそうだが、雑木林から流れ込む風は確かに柔らかく感じ、それが池に小さな波を生み出し、水面は明るい陽射しを受けてキラキラと輝いている。

しだれ桜にやっと春が到来

 池のほとりには、写真のしだれ桜が数本、植えられている。これは福島県の三春町から移植されたとのこと。三春のしだれと言えば全国的によく知られたブランド桜である。

伏流水を池に導入

 おそらく伏流水であろうか?池の西側には写真のような流れがあり、これが自然のままに残された草むらの中に小さな川を形成している。ここではホタルを育成しているとのことで、流れの近辺は立入り禁止になっている。

置物その1

置物その2

 上の2枚の写真にある通り、流れの脇には石が配置され、その上には2種類の小動物を模したキャラクターグッズが置かれていた。私は可愛らしいと思うのだが、私の友人の一人はカエルが大の苦手なので、この存在を知った途端に、この公園の存在そのものを毛嫌いすると思われる。河原にはカエルは付き物だと思うのだけれど。

 

池に自作の船を浮かべる人

 その流れの先に件の池がある。この写真を見る限り、確かに「風と光」をテーマにしていることがよく分かる。

 池に浮かんでいるのは模型の自走式の船で、ラジコンでコントロールしながら池の上を悠々と走らせている。

船遊びは2グループいた

 この船遊びは2組の年配者がそれぞれ自慢の作品を見物客に披露していた。私には模型を製作するという技能や根性がまったく欠けているので、こうした遊びをしたことはない。それほど困難な作業ではないと思うが、それなりの情熱は必要なのだろうと思う。

 私は小さな船が池の上を進む姿をしばらく眺めていた。水を見ればすぐさま釣りを、釣りだけを連想してしまう自分にとって、極めて新鮮な感情が少しだけ生じた。

 遊びは人の数だけ、いや人の数をはるかに凌駕するほど存在する。

金山調節池

 金山橋の下流側には有料駐車場があり、そのすぐ東側に写真の「金山調節池」があった。柳瀬川が増水したときにはここに水を導入し、下流での越水を防ぐのである。

 この調節池の傍らに整備された道を一人、中年の女性が散策していた。その先には、豊かな自然の草むらや林があった。

 この姿こそ、かつての武蔵野の情景だったのかもしれない。

〔109〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(4)山形城、立石寺、亀岡文殊、米沢城跡など

この場所で芭蕉は「閑さや~」の句を着想したらしい

◎日本一公園(楯山公園)からの眺め

気宇壮大な公園名

 月山を離れ、この日に宿泊する山形市へ向かった。国道112号線を寒河江川に沿って東南東に進み、当初の予定では寒河江市に入り、その地の高台から月山の全容を眺めるつもりでいたが、相変わらず月山山頂は雲の帽子を被っていた。

 そこでルートを変更して、大江町にある「楯山公園」に向かうことにした。この公園の高台からは最上川の大蛇行が見られるとのことで、写真にあるように通称は「日本一公園」といい、「最上川ビューポイント」に認定されている。

 それにしても、「日本一公園」とはよく名付けたもので、その誇りの高さに敬服してしまった。

確かに眺めはかなり良い

 写真のように、北上してきた最上川は、この高台に衝突するために行く手を南方向に360度近く変更させられるのである。日本一はやや言い過ぎだとしても、確かに景観は相当に良い。

 公園一帯は地元の豪族である大江氏が城を築いた場所で、正式名称は「左沢(あてらざわ)楯山城史跡公園」と言い、この「日本一公園」はその敷地のほぼ南側に位置する。

 最上川左岸の左沢(写真では川の右手)をなぜ「あてらざわ」と読むのかには諸説あるようだ。一番説得力があるのは、左沢が川の左岸側にあり、右岸側を”こちら”とするなら、左岸側は”あちら”となり、川の”あちら”が転化して「あてら」になったとするものだ。

 ともあれ、「佐沢」は難読地名のひとつには違いない。

大蛇行する最上川

 川の右岸側(日本一公園からすればあちら側)の一部には河原があるが、蛇行直前の右岸には砂岩・泥岩の互層が見られ、しかもかなり褶曲していることがよく分かる。

 それはともかくとして、佐沢の崖が最上川を大蛇行させたことは事実であるにせよ、何故、こうなったのかはよく分からないというのが実感であった。

◎霞城(山形城)公園内を少しだけ歩く

山形城跡への出入口

 ホテルに入るにはまだ時間があったので、JR山形駅のすぐ北側にある山形城跡(霞城(かじょう)公園)に立ち寄ってみた。建造物はほとんどなく、いずれ本丸のあった場所を整備するための基礎的な発掘調査がおこなわれているばかりなので、城をイメージして出掛けるとがっかり度は高い。

 その一方、かつては51万石の大大名の城郭があった場所なので、敷地は広々としていて、散歩をする目的であれば失望感は少なくて済む。

 復興された建造物は敷地の東側に集中して存在するので、写真にある堀に架かった橋を渡って城の中に入ることにした。

橋の下には新幹線も走っている

 写真は堀に架かる橋だが、手前にはもうひとつ橋があり、その下には山形新幹線仙山線左沢線(あてらざわせん)が走っている。お堀の水は澱んでいて奇麗ではないので、私は鉄道の線路のほうに興味を抱いてしまって、そちらの見物に時間をかけてしまった。

二ノ丸東大手

 敷地内に入ると、写真の「二ノ丸東大手門」が姿を現した。もちろん、守りを重視するために枡形虎口をしている。往時はお堀に張り出す形の「外枡形」だったそうだが、1991年に竣工した現在のものは内升形という普通のものになってしまっている。

城主・最上義光顕彰詞碑

 二ノ丸に入ると、そこは広場になっていて、その中心には写真の「最上義光(もがみよしあき)」の像があった。後ろ足の2本で立ち上がっている姿はなかなか結構なものだったので、東大手門よりは存在感に溢れていた。

 最上義光(1546~1614)は山形藩51万石の初代藩主。関ヶ原の戦い(1600年)では、伊達政宗とともに東軍(家康側)につき、西軍側の上杉景勝と戦って(出羽合戦)勝利し、山形の地を安堵された。

 身長が180センチ(推定)もあった義光は武術はもちろんのこと、文化人としても優れており、『伊勢物語』や『源氏物語』を愛した。また数多くの連歌を残し、仏教の保護もおこなった。のちに挙げる立石寺の再建も、義光の時代におこなわれた。

 全国的な知名度はないが、なかなかの傑物であったことは確かである。

山形市立郷土館

 中には入らなかったが、建物自体には魅力を感じたことから、いろいろな角度から見て回った。1878年に洋風をまねて造られた県立病院(済生館)で、1904年に市立病院に移管された。1966年に国の重要文化財に指定されたことから、建物を霞城公園内に移設・復元されたとのこと。71年に市立の郷土館として利用され、郷土史や医療関係の資料が保管、展示されている。

 日本全国に増殖中の高層ビルはどれもみな同じような姿で誠につまらない造形物であるが、このような明治期の建物にはそれぞれ個性があって、見ているだけでも清々しい気持ちになる。 

山形城を発掘調査中

 山形藩は51万石を誇る大藩であったことから、さぞかし立派な城郭を有していたと思われるが、その大半は姿を消してしまっている。現在はその復元の第一歩として発掘調査などがおこなわれているようだが、私が見た限り、なかなかはかどってはいないようだ。写真の通り、半ば“ほったらかし”状態のところが大部分なので、「城」を期待して訪れるとがっかり度は高いが、公園として考えるなら、結構な広さを有しているので、足腰を鍛えるには格好な場所かもしれない。

立石寺(山寺)を散策

JR仙山線山寺駅

 芭蕉ファンにも関わらず、近くには何度も訪れているにも関わらず、立石寺(山寺)の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。何しろ、奥の院までは1050段の階段を上る必要があると聞いていたからだ。

 しかし、今回初めて立入ってみて、1050段といっても階段には段差があまりないので、その段数の割にはさほどの苦労はいらなかった。実際、写真の山寺駅や境内の一番下の標高は237mで、もっともよく知られている開山堂は367m、奥の院でも401mなので、比高は最大でも164mしかなののだ。

 ちなみに、東京郊外にある高尾山は標高は599mだが、その玄関口となる京王線高尾山口駅は190m地点にあるため、比高は409mとなる。それゆえ、立石寺奥の院までは高尾山登山の40%の労力で済むことになる。

 もっとも高尾山にはケーブルカーがあり、それを使えば比高270mを稼げるので、実質は139mとなるのだけれど。これは開山堂までの比高130mとほぼ同等である。つまり、ケーブルカーを使った高尾山登山と同程度の労力で立石寺の主だった場所が見物できるのだ。これを知っていれば、もっと早くに立石寺を訪ねていたはずだ。いまさらながら、自分の阿保度加減に呆れる始末だった。とはいえ、遅まきながらも立石寺訪問が実現したので、それはそれで満足度は高かった。

 写真は仙山線山寺駅で、山形駅からは20分、仙台駅からは50分の所にある。もっとも私は車で出掛けたので、駅はただその姿を見るだけに立ち寄ったのだけれど。

参道にあった看板

 平日にもかかわらず、立石寺には大勢の個人客、団体客、見物客、参拝客が訪れていた。860年に慈覚大師円仁が開基したといわれる天台宗の寺であるが、断崖の上に立つ見応えのある寺だから大勢の人が集まるという訳ではなく、やはりその大半は芭蕉の句に惹かれてこの地を訪れるのであろう。そんなことから、芭蕉は写真の看板のように団子にもなってしまうのであった。

 私はその看板に興味を抱いただけで、団子には関心がなかった。それゆえ、どんな形をした、あるいはどんな味の団子だかは不明だ。もしかしたら、セミの形をしていたかも知れない。食味は「セミ味」でないことは確かだけれど。

麓から釈迦堂を望む

 まずは麓から山を見上げた。以前に感じた時よりは高さはあまり感じられなかった。写真にある釈迦堂は修行者以外は立入ることのできない場所で、標高380mのところにある。私が撮影している場所は237m地点なので、比高は143mである。

 主だった建物は急峻な崖の上にあるので、どうしても山坂道を歩く必要がある。今回の旅の主要な目的地のひとつなので、麓から見上げて”はい、おしまい”という訳にはゆかない。

おくのほそ道の標識

 写真のように、参道には小さなお堂と、「奥の細道」の標識があった。芭蕉は『おくのほそ道』と記しているのだが、象潟にもあったように漢字で『奥の細道』と記している場所がかなりあった。どちらでもいいような気がしないではないが、芭蕉ファンとしては少し気になるところではあった。

いよいよ境内へと進む

 この場所に、立石寺の境内に入る階段がある。ここでは入り口と出口が分けられているので、「登山者」はここからお山に入ることになる。

 石標には「山寺」とあるがこれは通称で、正式には「宝珠山立石寺」という。芭蕉の頃は「りょうしゃくじ」と読んでいたようだが、現在では「りっしゃくじ」という。

最初に目に付くのが根本中堂

 まず最初に出会うのが、写真の「根本中堂」で、ここが33万坪の広さを有する寺全体の本堂である。1356年の建造で、ブナ材を用いた建物としては日本最古のものと考えられている。

 ここには慈覚大師作と言われる「薬師如来坐像」があり、比叡山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」が灯っている。

 私は相変わらずお参りはしないので、ただ遠目から眺めただけで、すぐに次の場所に移動した。

芭蕉

 立石寺知名度を全国に広めたのは、ひとえに芭蕉の句であろう。

 閑さや 岩にしみ入 蝉の声

 この句を知らない人はまずいないと思うが、誰もが単純に疑問に思うのは、セミがガンガン鳴いているので、決して「静か」ではないだろうということだ。そのため、このセミニイニイゼミだろうかアブラゼミだろうかという実に下らない論争まで起こった。ニイニイゼミのほうが鳴き声が小さいので、大方はこちらのセミに軍配を上げているようだが、これはただ、この作品の表面をなぞった解釈に過ぎない。

 芭蕉の句が大きく変わったのは、以下の句からだと考えられている。

 古池や 蛙飛びこむ 水の音

 これは芭蕉が「おくのほそ道」の旅に出る3年前の作品である。件のセミ論争に加わる人は、この句をただ、古池にカエルが飛び込む音を聞いた、というように解釈しているのと同じことになる。そうであるなら、「古池や」ではなく「古池に」でよいことになる。

 「や」はいわゆる「切れ字」で、「古池や」と「蛙飛び込む水の音」とは次元の異なる表象なのだ。それゆえ、古池にカエルが飛び込んだという情景を句にしたのではなく、カエルが飛び込む音を聞いた時、芭蕉は古池を心象風景として抱いたのである。

お馴染みの句が刻んである

 同様に、「閑さや」は芭蕉が心に浮かんだ世界であって、実際にはどんなに騒々しくセミが鳴こうとも、彼が触れた立石寺の情景は、森閑とした世界として心に思い描かれ、それゆえにセミの鳴き声すら岩に染み入ってしまうほど静謐な景趣に思えたのである。

 これは余談ではあるが、下に続く写真から分かるように、立石寺の岩は角礫凝灰岩からなり、至るところにタフォニや風穴が存在する。そうした造形であればこそ、騒々しい音でさえ、それらに吸い込まれていくように思えた。岩肌が一種の吸音板のように。

随行者の曽良の像もあった

 芭蕉随行した曾良(河合惣五郎)は、深川を出る直前に髪を剃った。写真の像から分かる通り、旅の最中はずっと「くりくり坊主」で通したようだ。

 剃り捨て 黒髪山に 衣更

 これは、芭蕉一行が日光の黒髪山の麓に立ち寄った際、曾良が詠んだ句として「おくのほそ道」で紹介されている。芭蕉曾良についてはじめて紹介したもので、「このたび、松しま・象潟の眺(ながめ)共にせん事を悦び、且は羇旅(きりょ)の難をいたはらんと、旅立暁、髪を剃て黒染にさまをかえ、惣五を改て宗悟とす。仍て(よって)黒髪山の句有。衣更の二字、力ありてきこゆ。」と記している。

念仏堂

 念仏堂は「常行念仏堂」とも言い、慈覚大師円仁が中国の五台山竹林院で授かった五台山念仏三昧法を日本に持ち帰り、比叡山に常行念仏堂を建てた。そして、この立石寺にもその必要性を感じて建立した。

 この念仏三昧法とは、90日間、阿弥陀如来の周りを念仏を唱えつつ、心に阿弥陀如来を念じながら歩くという修行法らしい。

 いよいよこの山門から立石寺登山が始まる。料金(ここでは巡拝料という)は300円と思ったよりも安かった。長い長い階段が始まるが、先に触れたように一段一段の段差はあまりないので、気苦労は不要だ。何しろ、ケーブルカーを使って高尾山に登る程度なので。

空也塔」が立っていた

 空也と言えば、称名念仏を日本で最初に唱えた人物としてよく知られている。空也塔は念仏信者が建てるものだが、念仏を最初に日本に導入した慈覚大師円仁との関係から、空也の存在も欠かせないと考えた人がここに建てたのかもしれない。もっとも、空也の場合はひたすら念仏を唱えさえすれば浄土にゆけるという信仰だったので、円仁の念仏三昧法とは異なるように思えるのだが。

奥の院まで続く階段。全部で1050段

 写真のような階段が、開山堂や奥の院まで続く。確かに一段一段の高低差は小さいので、考えていた以上に苦労は少なかった。

落石?の場所もある

 それに、写真のように落石なのか、あえてそのままにしたのかは不明だが、とても幅の狭い場所があったり、脇に塔婆が置かれていたりして、変化に富んだ道が続くので、次にはどんな景色が展開されるのだろうかと好奇心すら湧いてくる。

ところどころに石仏が置かれている

 写真のように、小さな石仏が置いてあったり、凝灰岩を削って磨崖碑を刻んだりしてある風景にも出くわす。

せみ塚

 せみ塚は、1751年に地元の壷中(こちゅう)をはじめとする芭蕉を敬愛する人々が、芭蕉の句をしたためた短冊を土中に納めるとともに写真の記念碑を建てた場所。ここから開山堂などがある百丈岩が眺められる。

 ここ辺りで芭蕉は「閑さや~」の句を着想したといわれている。先にも述べたように、一帯はいかにもセミが元気よく鳴きそうな場所である。芭蕉が訪れた時間には人気(ひとけ)が途絶え、境内は森閑とした空気に包まれていたため、たとえセミたち(どんな種類でも全く問題はない)が大合唱していたとしても、芭蕉の心の中の世界では、その声はすべて凝灰岩の岩肌の中に吸い込まれていったのである。

磨崖碑もよく見かける

 巨大な凝灰岩の岩肌が大きく削られ、写真のように数多くの磨崖碑が刻まれている場所が数多くあった。その下には、何本もの塔婆も捧げられていた。岩の上部にはセミの声を吸い込んだタフォニの存在も確認できた。

 なお、この岩の佇まいから「弥陀洞」とも呼ばれている。

仁王門が見えてきた

 標高329m辺りに至ると、336m地点にある仁王門が見えてきた。間もなく、私が目指す開山堂に到達だ。

立派な仁王門

 仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、この仁王門は1848年に再建された、山中の建物のなかではもっとも新しいものである。ケヤキ材がふんだんに用いられ、左右の仁王尊像は運慶の弟子たちによって造られたとのことだ。

開山堂と納経堂

 芭蕉の存在をのぞけば、この開山堂と納経堂の姿が立石寺にある数多くの建造物の中ではもっともよく知られているだろう。この姿を見ただけで、ここは立石寺であると大半の人が判断できる。

 開山堂はその名の通り、百丈岩の上に立つ開祖慈覚大師円仁の御堂で、この崖の下の自然屈の中に大師の御遺骸が金棺に入れられて埋葬されている。

 御堂には木造りの円仁尊像が安置され、朝夕には食販と香が絶やすことなく供えられているとのこと。

納経堂は山寺のシンボル?

 隣にある納経堂は、山内にある建物の中ではもっとも古いものと考えられている。奥之院で4年かけて写経された法華経がこの中に納められている。

 この赤い小さな建物こそ、立石寺を代表する存在であり、私自身、この姿に触れるためにこの寺を訪ねたといっても過言ではない。

眺めが良い五大堂

 開山堂の隣にある五大堂には密教系の五大明王が奉られている。「不動明王」「降三世(ごうさんぜ)明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「金剛夜叉明王東密系)または烏枢沙摩(うすさま、台密系)明王」を言う。立石寺台密系なので、後者を奉ってあるのだろうが、実は、五大堂からの眺めがすこぶる良いので、肝心の五大明王には目を向けることはなかった。

修行者だけが立入れる釈迦堂

 開山堂近くからは釈迦堂の姿を見ることが出来る。先に述べたように、現在では修行者しか立ち入りができない。ましてや、私のような不信心者にはその姿を見ることすら許されないのかもしれない、そんなことはないだろうけれど。

五大堂から山寺駅を見下ろす

 写真は、キャプションにある通り、五大堂の舞台から仙山線山寺駅を望んだものである。私は車でやってきたので駅は眺めただけ。写真の左端にあるパーキング(個人経営)に駐車したので、この項の冒頭にあるように山寺駅に立ち寄るのは容易だった。

平安時代の摩崖仏

 山を下る途中で、写真の摩崖仏が目に留まった。上るときには気が付かなかったほど小さな存在ではあったが、なにしろ平安初期に彫られたものというから約1200年の歴史を経ているということになる。現在でも仏様に見えるように残されているのは奇跡としか思われない。

 左の柱には「伝・安然和尚像」と表記されている。ちなみに、安然(841?~915?)は円仁の弟子で、延暦寺で研究を続け、『大日経』を元に天台密教を完成させたといわれている人物だ。

立石寺の本坊

 出口付近には、立石寺の本坊が建っていた。本坊とは住職の住む僧院なので、一般の見物客には無関係な存在なので、写真撮影だけをおこなってすぐに移動した。

 初めての立石寺登山は実に実りが多かった。時間の関係で奥之院見物は省略してしまったが、開山堂、納経堂、五大堂には再度立ち寄ってみたいと考えているので、その際は奥之院ものぞいてみようと思っている。怠け者のたわごとかもしれないけれど。

◎天童公園

天童といえば将棋の駒の産地として有名

 将棋にも天童よしみにも特に興味はないけれど、立石寺から天童までは意外に近く、かつ、天童公園は高台にあるので、月山を眺めるには格好の場所と思い、「人間将棋盤」にも少しだけ興味があるので立ち寄ってみることにした。

 天童市は全国の約90%を超える将棋駒の産地で、天童織田藩が高畠にあったときから駒の生産を始め、天童に移ってからはこの地で生産を続けた。

 高級品にはホンツゲの素材を使い、文字を彫り上げた溝に漆を何度も入れ、木地の高さまで漆を埋め込む。さらにプロの棋士が用いる「盛り上げ駒」ともなると、さらにそれに蒔絵筆を使って、漆で文字を盛り上げる。

人間将棋

 天童市では毎年、桜の咲く時期に、天童公園にある人間将棋盤を使ってプロ棋士の対局がおこなわれる。駒には甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元がなり、写真の白地の将棋盤が用いられる。階段には大勢の観戦客がそこに腰掛け、対局の様子を見物する。

 周囲には約2000本の桜があり、その開花期に催されるため、その様子はニュースなどで必ずと言って良いほど取り上げられる。

将棋塔

 写真は、人間将棋盤の上方にある「将棋塔」で、王将の文字は大山康晴十五世名人の揮毫が元になっているとのこと。現在では藤井聡太氏が棋界を席巻しているが、私が若いころは、将棋の名人と言えば大山康晴と伝説の坂田三吉であった。

 大山康晴氏はタイトル戦を19連覇したが、この2月に藤井聡太氏が20連覇を達成して大山氏の記録を更新した。そんなニュースに触れた時、久々に「大山康晴」の名前を聞き、とても懐かしく思った。

 ちなみに、私は将棋ではほとんど負けたことがない。なぜなら、負けそうにになると将棋盤をひっくり返すからだ。それゆえ、私と将棋を打つ相手は誰もいなくなった。

さくらんぼ畑と月山

畑から月山を眺める

 天童公園からでは月山の姿があまりよく見られなかったため、公園を離れて県道23号線を寒河江市方向に進んだ。とにかく西に進めば月山の姿は常に視界に入るので、撮影に適した場所を探すにも便利だったからだ。

 写真は最上川を渡る直前の場所から月山を撮影したものだ。白い雲が山頂にかかり始めたので、寒河江に行く前に撮る必要性を感じ、県道の路肩に車をとめ最上川右岸の土手近くで撮影ポイントを探した。

 左のビニールハウスはさくらんぼ用のもので、正面の土手は最上川右岸のもの。その向こうに月山の雄大な姿が存在している。

 雲の峰 いくつ崩れて 月の山

 『おくのほそ道』に芭蕉の句は50あるが、その中でもこの句はかなり印象に残る作品である。月山の姿を見るまではそれほど良い作品とは思えなかったが、実際に月山を初めて目にしたとき、この句の宇宙観を理解することができた。「不易流行」が『おくのほそ道』で芭蕉が追い続けた俳句における世界観であるが、この句においても、数多くの積乱雲が頂点にまで発達せず(流行)、月山として結実した(不易)という有様が見事に表現されているのだ。

朝日連峰を眺める

 高台に移動した。写真のように、西側には大朝日山を中心とする朝日連峰の山々も見られた。広義では月山も朝日連峰に連続すると考えられるが、狭義には、朝日連峰朝日山地)は隆起山地であるのに対し、月山は火山活動によって生まれたものなので「月山・朝日山地」と区別される。なお現在では、後者の考え方が主流になっている。

さくらんぼの里

 寒河江市(さがえし)の名を聞くとすぐに「さくらんぼ」を連想し、私が訪れた「さくらんぼの里」の石碑にも「名産日本一」とあるが、実際には、寒河江市の生産高は山形県でも第3位である。もっとも、山形県さくらんぼの収穫量は第2位の北海道の8倍、第3位の山梨県の10倍と他を圧倒しているので、山形で第3位ということは日本でも第3位であることは確実だ。

 日本一は言い過ぎかもしれないが、山形には「日本一公園」があるくらいなので、多少の誤差は十分に許容範囲であろう。あるいは生産量ではなく味が日本一かもしれないので。

山寺方向の眺め

 この「さくらんぼの里」の正式名称は「寒河江公園つつじ園」ということで、斜面には数多くのツツジが植えられている。その向こうには寒河江市街が見え、さらに最上川が造った山形盆地が広がり、その先に奥羽山脈の山並みが続いている。

これは出来が悪そう

 さくらんぼ畑を探した。別に盗み食いが目的ではなく、ただ山形の代表的農産物を目にしたかっただけである。ネットが張られているハウスの中にはサクランボが実っていたが、写真のものは身の付きがあまり良くなく、そんなことはしないけれど、盗み食いをする気持ちにもなれなかった。

これは美味しそう

 一方、写真のものがなかなかの実り具合で、これならば食べてみたいような気がした。

◎瓜割石庭公園

石切り場

 この日の宿泊地は奥羽本線高畠駅構内にあるホテルだった。今回の旅の最後の宿だ。本当は米沢市内に泊まる予定であったが、目ぼしいところはすべて満室だったことから高畠にしたのだ。もっとも、米沢市内までは南に10キロ弱なので、旅の最後の見学地である米沢城跡まではさほど遠くはない。

 折角、行ったことのない高畠に泊まるので、周辺に面白そうな場所がないかと調べてみたところ、ここに挙げた「瓜割石庭公園」が見つかった。写真にあるように、単なる石切り場跡なのだが、その壁面に特徴がありそうなので出掛けてみることに次第だ。

 ここでは「高畠石」が1923年から2010年の間に切り出されたそうだ。高畠石の名前は初めて聞いたが、「大谷石」と言えばかなり多くの人が認知していると思う。

 火山灰や砂礫が海中に沈殿・堆積しそれが凝固してできた石で、軽石凝灰岩とか浮石凝灰岩に区分されている。軽くて柔らかいので加工しやすい反面、耐火性や防湿性に優れているため、家の壁や塀などによく用いられている。古墳時代の石室もこの軽石凝灰岩でできているものが多い。

安全を祈願

 石切り場はとても危険で重量なことからか、写真のように安全を祈願するために多くの石仏が置かれていた。

石切り場の内部

 石切り場の内部はよく整備され、ここではいろいろなイベントが開催されるらしい。

 現在でも細々と石は堀り出されているそうだが、私が訪れたときには何も作業は行われていなかった。高さ30mの崖にはまだまだ多くの石が眠っているようである。大谷石のように地下から掘り出した結果、地面が陥没するといった事故が発生するという心配がないのが何よりである。

◎旧高畠駅~山形交通高畠線の名残

高畠駅

 写真の旧高畠駅は、1922年から74年でまで運行していた山形交通高畠線のもので、私がこの日に宿泊するJR高畠駅とは4キロ近く離れている。

 その高畠線は糠ノ目駅(現在の高畠駅)から二井宿との間、10.6キロを結んでいた。この地域は製糸業が盛んであったことからその運搬のために開通された。1929年には電化されたので、それなりに賑やかな路線だったのかも。

 ところで旧高畠駅舎だが、写真からも分かるように高畠石がふんだんに用いられている。この石は時を経るにつれて黄土色に変わってゆく。それゆえ、建物には重厚さを感じることができる。

かつて使用されていた車両を展示

 旧高畠駅の隣には広場があり、そこに写真のようにかつて使用されていた車両が展示してあった。前方は貨車をけん引する機関車で「モハ1」と呼ばれていた。一方、後方には客を乗せる電車で「ED1」と名付けられていた。いずれも、高畠線が開通したころから使用されていた車両である。

駅前広場は格好の遊び場

 駅前広場は写真のように結構な大きさの敷地があり、私が出掛けた時には小学生が5,6人、広場の端で遊んでいた。

 美しい駅舎と時代を感じさせる車両。その双方との出会いは私の心を決して少なくないほど豊かにしてくれた。

 なお、廃線となった路線跡の多くは、サイクリングロード「まほろば緑道」として整備されている。

◎亀岡文殊~日本三大文殊のひとつ

山門

 亀岡文殊(松高山大聖寺)は、旧高畠駅南側2キロほどのところにある。奈良の「安部文殊院」、京都の「切戸文殊」と並んで、日本三大文殊に数えられている。安部文殊は前を通っただけだが、切戸文殊は、本ブログの第75回で、天橋立を紹介した際に少しだけ紹介している。

 「三人寄れば文殊の知恵」という言葉があるが、確かに「ノーム・チョムスキー」「エマニュエル・トッド」「マイケル・ハート」の三人が集まれば文殊菩薩には敵わないにせよ、相当な良き知恵が生み出されそうだ。一方、「森、麻生、二階」の三人が集まれば、金がらみの悪知恵しか生まれないだろう。ことほど左様に、ただ三人寄っただけでは良き知恵が生まれるとは限らないし、往々にして対立して喧嘩別れするのが落ちだろう。

なぜか八十八カ所の石仏が並ぶ

 文殊菩薩は「文殊師利」(モンジュシリー)と言われ知恵の菩薩と考えられ、慈悲の菩薩である「普賢菩薩」と並んで釈迦の脇侍(わきじ)を務めていた。

 知恵には縁遠い私であるし、また文殊堂をお参りしたぐらいでは知恵などつくはずはないと確信しているが、この境内を目にしたときになかなか興味深い風情を感じられたので、境内をじっくりと歩いてみることにした。

 まず最初に目に付いたのは、「四国八十八カ所霊場」から分霊されたとする石像が並んでいる場所に立ち寄った。とくに理由はなく、駐車場のすぐ目の前にあったからである。

 とはいえ、本ブログでは何度も紹介しているように、四国八十八カ所といえば私の大好きな場所のひとつで、もちろん、例によって訪れはするが参拝はしないものの、今までに何度となく出掛けているし、今年も5月に西四国見物をする予定なので、その際にも十数カ所の札所を見物するつもりだ。

すべてに霊場の名が刻まれている

 弘法大師像の隣から、一番の霊山寺から八十八番の大窪寺までの名前が刻まれた石像が並んでいる。寺の名前に触れただけで確固たるイメージが湧く場所、これが「本当に札所なの」としか考えられない場所、まったくと言って良いほど印象に残っていない場所、札所で出会った人々との会話など、いろいろな事柄が懐かしく思い出された。

これが本当の石灯籠

 参道の脇には、写真のような見事な石灯籠があった。大きな地震が来れば倒壊は必至だと思われるが、文殊の知恵で設計されているので、その点は了解済みなのかもしれない。

信夫の里の独国和尚像

 独国和尚は写真にあるように宮城県の女川出身で、1824年に女川山の尾根伝いに三十三観音碑を建てたことで知られている。晩年は福島の信夫山の麓で過ごしたことから「信夫の里の独国和尚」と呼ばれた。

 若い時は亀岡文殊のある松高山・大聖寺で修行したので、参道には和尚の石像が置かれている。

 私が気になったのは、その横にある「徳一上人碑」だ。「会津の徳一」と称された上人は807年に中国五台山から伝来した文殊菩薩平城天皇の勅命でこの地に安置した。

 もっとも、徳一は最澄との「三一権実論争」があまりにも有名なので、徳一側に味方する私としては、そのことばかりに関心を抱いていたので、彼と文殊菩薩との関係は、この地に来て初めて知ったことである。

 『法華経』を根本経典とする最澄は「一切悉皆成仏」という一乗論をとるのに対し、法相宗の立場をとる徳一は、声聞、縁覚、菩薩には悟りの境地は異なるという三乗説を主張した。これは論争というより、最澄が徳一にあてた手紙からそうした違いが明らかになったもので、特に両者間で論争があったわけではない。

 私はいくつかの資料を当たってみたが、どう考えても徳一の考えが正しいと思われたが、日本的な仏教としては最澄の考えのほうが分かりやすい。何しろ「草木国土悉皆成仏」といって、草や木、土にまで仏性があるというのだから。そうであるなら、修行などはまったく不要になってしまうのだ。いや、信仰心すら無用である。何しろ草や木や土には心識はないはずなので。

ここにも芭蕉の句碑が

 芭蕉の句碑があった。写真にある句だが、芭蕉がいつ詠んだのかは不明だ。彼の句としては凡作に属すると思われる。『おくのほそ道』にある50作品に比べると相当に見劣りがする。鬼才、芭蕉連句師として無数の作品を残しているので、このレベルのものも決して少なくはない。

十六羅漢

 参道の右手には、十六羅漢像があり、その後ろにかなり形の良い鐘楼堂があった。

本堂

 写真は、個々の本堂で、屋根の倒壊を防ぐための支えがやや邪魔に思えたが、それはそれで致し方ないことである。

清らかな水が誇り

 私は参拝する気持ちが全くないので、本堂の裏手にあるという清水を見にいった。写真のように「知恵の水・利根水」というらしいが、水道の蛇口のようなところから水が出ていたのには少し興ざめであった。

湧き水とエゴの花

 その利根水は小さな流れを造っていて、その清水の上にエゴの木の花が数多く浮かんでいた。私としては、知恵に恵まれなくとも、この姿を見られただけで十分に満足できた。

三尊

 本堂を一周して、参拝場所に再び出てきた。折角なので、大日如来(中央)、虚空蔵菩薩(左手)、普賢菩薩(右手)を眺めてみた。もう少し近づけば虚空蔵菩薩の顔が蝋燭に隠れてしまうことはなかっただろう。

 私が、いかに仏像を尊顔する気持ちが全くないという証拠写真でもある。

かなり侘しい大師堂

 参道には、写真のような大師堂があった。四国八十八カ所霊場を巡ることが大好きな私だが、これほど見栄えのしない大師堂を見た経験はまったくない。そのことがかえって新鮮な思いを抱くことになった。

名前は知らねども

 参道には、いろいろな姿の仏像が置かれていた。その中でも写真のものは白眉の存在であった。きっと、有名な僧がモデルになっているのだろうが、恥ずかしながら私の知識では名前は浮かばなかった。文殊堂にやってきて、何も拝まずに帰ってゆく不信心者には、さしもの文殊菩薩も知恵を授けることはできなかったようだ。

参道に並ぶ石仏

 参道には、いろいろな姿の石仏が置かれていた。すべて表情が異なるので、一体一体の姿をじっくりと眺めた。信仰心がない私のような人間にも、ここの石仏群には心を洗われる心地がした。

 そういえば、知恵のお寺ということで、合格祈願のお札が数多く納められていた。個人名が表記されていることもあって写真撮影はおこなわなかったが、苦しい時の「仏頼み」は決して卑しい行為ではないことは確かだ。

 この寺ではないが、国立市にある天神様も「学問の神様」として受験生やその関係者が数多く訪れることで知られている。私はたまたま受験シーズンのときにその場所を訪れたが、無数に奉納された合格祈願の札を見て回った。その一枚に「合格祈願」の格が木編ではなく人偏になっているものがあった。私の知識ではそれが間違いか否かは不明だが、おそらくこれを捧げた受験生は不合格だったに違いない。

 しかし、たかが受験である。失敗ぐらいは蚊に刺された程度のことだ。ただし、基本的な漢字ぐらいは正しく覚えよう。

◎米沢城跡公園を歩く

上杉鷹山座像

 今回の東北の旅の掉尾を飾るのは「米沢城跡」である。当初は折角なので、最後は会津若松にしようと考えていたのだが、翌々日に急用が入ったため最後の宿は高畠駅構内にあるホテルとなった。

 米沢城跡の前は何度か通ったことがあったが、城跡内に立ち寄るのは今回が初めてだった。旧二ノ丸にある駐車場に車をとめ、城の本丸跡を目指した。駐車場のすぐ近くには上杉神社の摂社である松岬神社があった。ここは上杉鷹山上杉神社から分祀するために建てられたもので、のちには直江兼続なども配祀された。

 その神社のすぐ近くに、写真の上杉鷹山の座像があった。鷹山と言えばすぐに藩政を立て直した名君として知られ、内村鑑三の著書『代表的日本人』で取り上げた5人の中に選ばれている。

 もっとも、私は個人的には本ブログの第98回で紹介した山田方谷のほうが圧倒的に優れた改革者だと思っている。

舞鶴橋の欄干の不思議な形の岩

 写真の舞鶴橋は二ノ丸と本丸との間にある堀に架けられたもので、この橋が大手口となる。なお、舞鶴の名は米沢城の別名が舞鶴城であったことからそう呼ばれるようになったとのこと。

 私は、橋の欄干に写真のような不思議な形をした岩が置かれていることに興味を抱いた。橋の長さは5m、幅員は7mと長さよりも幅のほうが広いという特色を有するが、そんなことより欄干の親柱に用いられている奇岩のほうがはるかに私の目を釘付けにした。

本丸内に入る

 本丸内に入ると、真正面に上杉神社の姿が目に入った。大きな灯篭の脇には「昆」と「龍」の文字が記された大きな旗が掲げられていた。これはもちろん、上杉謙信にちなむもので、彼は戦の際には必ず、この文字を記した旗を掲げていた。

 昆は軍神の毘沙門天を表わし、龍の文字はあえて「懸かり乱れ龍」の文字で書かれていて、不動明王を表している。謙信は真言密教に造詣が深かったことから、この二神を尊崇していたのだろう。

上杉神社

 大鳥居をくぐって上杉謙信が祀ってある上杉神社境内を少しだけ散策してみた。

 上杉謙信にはさほど興味を抱いてはいないが優れた武将であったことはいくつかの資料を当たってみるだけでその能力の高さを見て取ることが出来る。天下を取るだけの才はあったが、しかし、時代が悪かったし、越後を地盤としたこともその能力を十分に発揮できずに病没することとなった。

 何しろ、南西には武田信玄が、南東には北条氏康という、やはり謙信に勝るとも劣らない名将が同時期に存在したことも、謙信が苦労せざるを得ない情況を生んでしまったのである。

 もっとも、そうした名だたる武将が各地に存在したことで、ある種、彼らを華やかに見せたという側面も否定できない。言ってみれば、「面白い」「興味深い」時代であったればこそ、戦国時代の歴史を語る人々が彼らを名将に仕立て上げたことは事実である。つまり、混乱が名将を生んだのであって、名将が混乱を生んだわけではないというのが、歴史の正しい理解の仕方だと私には思われる。

 豊臣秀吉だって、今の時代に生まれていれば、ただのサルとして生涯を終えた蓋然性は極めて高い。

上杉鷹山立像

 神社の近くにも、上杉鷹山の像が置かれていた。彼の「なせば成る~」の言葉はあまりにも有名ではあるが、まあ、彼の政策がそれなりの結果を出したからこそ、この言葉の意味が価値あるものと解釈されるのであって、私のような凡人が何かをなしたとしても、誰にも評価はされない。もちろん、私にはそれで十分なのだけれど。

上杉謙信

 上杉鷹山以上に知名度の高い謙信だけに、やはりこうして立派な銅像が設置されている。

上杉景勝直江兼続

 謙信には実子がいなかったので、彼が病死したのちに家督相続の争いが起こり、その結果、上杉景勝が後を継ぐことになった。彼は豊臣秀吉五大老の一人として会津に入封したときは120万石の大大名であり、米沢6万石は配下の直江兼続に任せた。

 しかし、関ヶ原の戦いでは石田三成側の西軍に立ち、徳川側についた最上氏と争ったことで、景勝は30万石に減封されて米沢の地に入った。大幅に領地は縮小してしまったが、景勝は配下の者をすべて引き連れて米沢に入った。

 そこで、直江兼続は食料を増産するために最上川流域を整備して田畑を増やし、実質的には51万石の生産高を確保した。

 こうした景勝と配下の兼続との関係は非常に良好であって、兼続の功績によってなんとか米沢藩は人減らしをせずに維持することができた。こうした兼続は歴史通の人には良く知られる存在で、2009年のNHK大河ドラマ天地人』の主人公になった。

 なお上杉神社の隣には稽照殿(けいしょうでん)が1919年に、焼失した上杉神社の再建とともに創設された。ここには謙信の遺品をはじめとして景勝、鷹山の遺品だけでなく、直江兼続に関するものも数多く展示されている(らしい)。

 私が訪れた日には直江兼続展が開催されていた。結構な数の人が稽照殿に吸い込まれていったが、それだけ、直江兼続の存在、大河ドラマの影響は大きかったのだろう。ここ数年の作品は見る影もないが。

      *    *    *

 こうして、私の東北地方14泊15日の旅は終わった。6月から10月はほぼ鮎釣りに没頭するために観光の旅はほとんどしない。3月は近場を訪ね、4月は草加から松島まで、芭蕉の足跡を追う旅を予定している。もっとも、寄り道のほうがおおくなりそうだけれど。