徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔14〕ヨーコを探して港へ(1)横浜慕情

ヨーコの原像を探すために横浜へ出掛けた

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山下公園の正門付近から海方向を望む

 ヨーコの名には格別な思いがある。ありふれた名なので、記憶にあるだけでも同級生には「洋子」「庸子」「陽子」「容子」がいたし、社会人になってからも「燿子」「葉子」「曜子」「瑶子」という名の知り合いができたように思う。

 が、私が探しているヨーコはそのどれでもなかった。追い求めてきたのはヨーコの原像となりえる存在であり、かつヨーコのイデアともいえる存在なのである。この思いが強くなったのは1975年からなので、すでに45年ほどの歳月が流れている。齢を重ねるにつれてその思いは次第に弱まってきてはいたものの、それでも通奏低音のようにこの思いは心の奥底にとどまり続け、今になっても消え去ることはなかった。それどころか、散策という名の徘徊を始めてから、内側に閉じこもりがちだったこの思いは再び心を強く支配するようになった。そこで、今回はヨーコの原像を探すべく「みなと横浜」に出掛けてみることにした。

 ヨーコを探すカギは3つあった。これは1975年に受けた啓示だ。「港周辺」「長い髪」「仔猫と話す」の3点だ。

 「長い髪」はカギではあるがヒントにはならない。なぜなら女性の「半分弱」が長い髪だからである。そういえば今は亡き「范文雀」もその半分弱に属し長い髪を有していた。美貌と演技力で高い評価を受けていた女優だが、私には「ジュン・サンダース」のイメージが強かったので、彼女がシリアスな役でドラマに出たとしても、いつも気分は『サインはV』なのであった。それはともかく、「長い髪」はヨーコを探すヒントにはならないことは確かだろう。

 「仔猫と話す」もダメだ。猫好きの人は大抵、猫に話しかけるからだ。私がよく徘徊する公園では、話しかけるどころか餌まで与えている人が結構いる。そもそも仔猫が微妙だ。小猫なら小さい猫だろうが、仔猫は子供の猫ということなので判断が難しい。ジャイアントパンダは「大熊猫」と表記され、「シャンシャン」はまだ生後一年なので「仔猫」には違いないが、「シャンシャン」の見物客は大半がその仔猫に話掛けている~私は何を言っているのだ。

 ともあれ、「長い髪」や「仔猫と話す」はヒントにはならない。が、「港周辺」は重要なカギになりそうだ。女性は大方、港好きだし、長い髪を潮風になびかせている。それに港周辺には公園が多いので仔猫も居そうだ。田舎の港では概ね、暇なオッサンが釣りをしているだけなのでここは避け、やはりオシャレな都会の港を訪ねてみたい。そうなると横浜港か神戸港が双璧だ。という訳で、今回は私にとって身近な存在である横浜の港周辺でヨーコの原像を探してみることにした。

鶴見の港~ここも横浜

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鶴見線の終着駅のひとつ「海芝浦駅」

 鶴見が横浜市編入したのは1927年のことである。それまでの鶴見町は京浜工業地帯の中心として川崎市との結びつきが強かった。実際、鶴見は橘郡の一角を占めていたのだ。神奈川県の一部(大半は旧相模国)は旧武蔵国の南部三郡(橘郡、都筑郡久良岐郡)にあり、橘郡が現在の川崎市、後二郡が横浜市に該当する。

 鶴見は東海道が整備されてからは商業地として発展していたが、20世紀に入って海岸の埋め立てが推進されて以来は工業地帯に変貌する。それにともなって宅地造成も進んだが、肝心の水道設備が未発達だった。とくに京浜急行が開発を進めた生麦住宅地は上水道がないため、住民は「水汲み人」を雇い入れて飲料水を確保する状態だった。そこに手を差し伸べたのが横浜市で、合併を条件に上水道の供給が行われることとなり、編入した27年には上水道が開通した。

 その間も臨海工業地帯は発展し、26年には鶴見臨海鉄道(現在の鶴見線)が輸送を開始、29年には旅客輸送が認可された。鶴見線には現在、鶴見駅から扇町駅(川崎市)の本線と、海芝浦駅(鶴見区)や大川駅川崎市)を結ぶ支線がある。私はどの線に乗ったのかは忘却したが50年ほど前、一度だけ鶴見線を利用したことがある。大半が工業地帯で働く人が利用する鉄道のため実用本位で、南武線以上にボロの電車だったと記憶している。

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南武線と同格になった鶴見線の車両

 50年振りで鶴見線に乗った。鶴見駅から海芝浦駅までである。日中は本数が少なく、この路線は2時間に1本だ。鶴見駅を11時に出て海芝浦駅には同11分に到着する。初めはこれに乗って海芝浦駅で降り、駅の隣にある海芝公園で海の景色を観察し、帰りは適当な場所まで歩けば良いと考えた。が、よく調べてみると海芝浦駅は東芝の敷地内にあるため関係者以外は外に出られないことが分かった。一方、海芝公園は駅構内にあるためそこで時間をつぶすことは可能だが、乗ってきた電車は11時25分発なので滞在時間は14分しかない。しかし次の電車まで待つと、13時25分発となるのでその地に2時間14分もいなければならないのだということも判明した。公園自体は小規模で、間近に「鶴見つばさ橋」を見ることができる程度でしかない。駅自体は海に面しているのでこの点は興味深いが、外海に面しているわけではなく対岸にある扇島との間にある田辺運河に接しているだけにすぎない。こうした点から、2時間以上滞在する理由は見当たらなかったので、現地でよほどの発見がない限り乗ってきた電車で鶴見に戻るという計画にした。

 日中発なので鶴見駅からの乗客は少なく、3両編成の車両内はガラガラだった。その中の5名(私を含め)は首からカメラをぶら下げているので、私と同じ目的のようだった。実際、同じ電車で皆、鶴見駅に戻った。次の国道駅では大勢のガキンチョが乗り込んできた。聞けば、「社会科見学」で海芝浦駅まで行くとのこと。車内は一気に賑やかになった。

 それにしても、鶴見線の車両は写真のように現代化され、カラーさえ変えればそのまま山手線にも使えるという残念なものになってしまっていた。かの南武線の車両だって新しくなったので、いまさら焦げ茶色の車両は使っていないだろうと想像はしていたのだが。

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車内からつばさ橋を望む

 鶴見つばさ橋首都高速湾岸線にあり、大黒ふ頭を経て横浜ベイブリッジにつながる。つばさ橋の主塔は鶴の姿を連想させるのでベイブリッジより個人的には好ましく思っているが、駅から望む橋の姿は周囲の景観が単調なため、丹頂鶴のような優雅さは持ち合わせていなかった。これだけでは単調鶴になってしまうので、周囲の景色は無視して車内から駅と橋の主塔を撮影しようとした。そんなときに、騒がしいだけだったガキどもが公園から戻ってきたので、こいつらを画面に入れた写真を撮ることにした。枯れ木(いや若木か)も山(海か)の賑わいである。

 彼または彼女らの社会科見学は私同様、鶴見線に乗ることが目的だったようだ。これらガキども(100人以上いた)の何人かは50年後、再び鶴見線に乗り、感慨にふけることがあるやなしや。

パーキングと有料の釣り施設で知られる大黒ふ頭

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横浜港の入口にある大黒海釣り施設

 つばさ橋とベイブリッジをつなぐ位置にあるのが大黒ふ頭で、ここには首都高速湾岸線と神奈川大黒線をつなぐジャンクションもある。さらに、ジャンクションが造るループの間には、パーキングエリアがある。ここは世界的にも有名な!?PAだ。かつては暴走族のたまり場となり、現在でも車自慢の人々が多く集まることから、外国のメディアが取材に来たことがある。私は以前にはこのPAを使うことがあったが、いつも駐車場所を探すのに苦労したので、近年では入ることもなくなった。

 一方、ふ頭の先端(南端)には「大黒海釣り施設」があるので、以前は最低でも年に一度は取材で訪れていた。近年は管理者が変わり取材には事前申請が必要になったため、その手続きが面倒なのでここ数年はパスしていた。が、ここの釣り場は獲物こそ大したことはないが、景観は魅力的なので、PAの立ち寄りを止めてこの釣り場を久方振りにのぞいてみることにした。

 ここは横浜港の出入口に位置するため、港に入る(出る)大半の船はこの釣り場の目の前を通り過ぎる。先端にある赤灯台は、ここが入港時の右側であることを示している。向かいにはガントリークレーンが立ち並ぶ本牧ふ頭があるが、写真の左手にはそのふ頭にある「横浜港シンボルタワー」が見える。こちらは、入港時の左側を示す「白灯台」にもなっている。この赤灯と白灯の位置は、どこの港でも同じルールになっている。もちろん、出港時はこの逆に見え、外海に出るときは左手が赤灯台となる。

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釣り場の内湾側からの景色。横浜を彩る多くの建造物が見える

  釣り場の内湾側は写真の通り景観が良い。この釣り場は突堤(釣り場が造られる前は大黒赤灯堤防と呼ばれていた)の上に造られており、その形状は湾口を少しだけ狭めるようになっている。なので、外海側でも内湾側でも潮の動きはさして変わらないにも関わらず、そこは釣り人の性なのか少しでも外海側の方が好ポイントであると考えてしまうようだ。このため、景観の良い湾向きの方が釣り人の数は圧倒的に少ない。折角、景観が楽しめる釣り場なのだから、のんびりとベイブリッジ横浜市街の風景を眺めながら竿を出した方が心地よいと思うのだが。

 後姿が素敵な女性は、遠くの景色に目を向けることもなく懸命に釣りに専心していた。同行したと思われる隣の男性は、その熱意に感じ入る様子で温かい眼差しを送っていた。私が見ている間には何も釣れなかったが、その女性は終始、竿先に神経を張り詰めていた。その姿に私は、ほんの少しだけヨーコの原像を見出したのだった。

横浜を造った人のこと

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高島山から横浜港方向を望む

 私は高島台に立ち、今はビル群が壁となって視界を塞いでいるので見えないが、その先にある横浜港のことを思った。さらに、この横浜の地を造った人のことを。

 高島嘉右衛門は幕末に横浜村の土木工事で財をなし、いつしか国家的な事業を行いたいと考えていた。彼は、伊藤博文大隈重信を自分が作り上げた割烹旅館の「高島館」に招き、日本の発展のためには鉄道事業が必要不可欠であることを熱心に説いた。実際には、維新政府もすでに鉄道建設のプランを立て、東京・横浜間の鉄道敷設の建議書を作成していた。

 政府はイギリスから若き鉄道建設技師のエドモンド・モレルを呼び、彼を鉄道建設師長に任命し、新橋・横浜間の鉄道敷設の総指揮をとらせた。この際、もっとも難事業であったのが、神奈川(現在の神奈川区青木町付近)から横浜(現在の桜木町駅付近)間だった。当時ここは入海で、鉄道を敷くには大きく迂回するか堤防を築くかのどちらかしか選択肢はなかった。

 伊藤や大隈は堤防を築くことを提案し、その事業を請け負ったのが、高島嘉右衛門だった。長さ約1300m、幅約80mの巨大な堤防だ。幅80mのうち、20mほどは鉄道や道路に使い、残りは請負人すなわち高島のものになるという計画だった。ただし築堤期限はわずか135日、完成が一日遅れるごとに高島の権利は少しずつ奪われるという罰則付きだった。

 高島は築堤現場の背後に控えていた高台(大綱山、現在は高島山)に立ち、工事が完了するまでその場から連日、進捗状況を監督し無事、期限内に完成させた。晩年、高島はその監督の地を「望欣台(ぼうきんだい)」と名付けた。鉄道、道路以外の場所は横浜の中心街として大いに発展した。入海の多くはその後に埋め立てられた。それが、現在の西区高島を一帯とするところである。また、大綱山一帯も宅地整備が進み、現在は高島台と呼ばれている。その一角には高島山公園があり園内には「望欣台の碑」がある。

 高島嘉右衛門は易者としても名を成している。若き日に『易経』を暗記し、晩年には「易断」をおこなった。伊藤博文の暗殺を予言したことはよく知られている。彼の易断はよく当たったらしいが、彼は「占いは売らない」といってこれを商売に用いることを戒めた。現在、占いの本の多くは高島にあやかって「高島易断」を名乗っているが、これは高島嘉右衛門の占いの確かさの証左だろうか。

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井伊直弼の像。彼なくしては横浜の発展はなかった

 1853年にペリー艦隊が来訪し、翌54年に日米和親条約(通称神奈川条約)が締結された。これにより下田と箱館(函館)の開港が決まり、「鎖国」体制は終焉した。さらに米国は自由貿易を推進・拡大するために58年、日米修好通商条約(通称ハリス条約)の締結を迫った。これには神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港条項があった。大老井伊直弼天皇の勅許なしの調印を当初は拒んだが、ハリスの強硬姿勢に抗せず孝明天皇の勅許を得られぬまま調印した。

 神奈川の開港は1859年が期限。問題は神奈川のどこに港を建設するかだった。井伊は横浜村を勧めた。当時の横浜村は入海があって港には適した地形で、かつ東海道から離れた所にあり、民家は百軒程度という寒村だったからである。井伊は外国人をこの地に閉じ込め(第二の出島化)、できるだけ日本人との接触は避けたいという意向だった。一方、外国奉行の永井尚志や岩瀬忠震らは条約通り、東海道の宿場町である神奈川に港や外国人居留地を造るべきだと主張した。

 ハリスは、横浜だと東海道から遠く、途中には入り江や川があり、交通上とても不便であると主張して井伊の提案を拒否した。が、井伊はあくまでも横浜にこだわり、日本の外国奉行たちも結局、井伊の提案に沿って横浜の港町化を進めた。現在の海岸通りに住んでいた百軒程度の農民は元町に強制移住させ、港造り町造りが行われ、予定通り59年に横浜港が開港した。今から160年前のことだった。

 これにはハリスは激怒したものの、外国商人は横浜港の利便性の高さから続々とこの地に移住するようになった。結局、既成事実が条約の取り決めを上回ることになり、横浜港は順調に発展することになった。

 一方、井伊直弼には「安政の大獄」という負の側面を抱えていたため、1860年(万延元年)、桜田門外で水戸藩薩摩藩の脱藩者によって暗殺された。保守派ながら現実主義者だった井伊は、孝明天皇徳川斉昭らの排外主義によって46年の生涯を閉じたのだった。

 井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にあるということは第9回の「世田谷線」の項で紹介した。一方、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像は、桜木町駅の西側にある高台(掃部山公園)にある。直弼が倒れてから50年後の1909年に建造(54年に再建)された。日本経済発展の功労者でありながら、勤王の志士を弾圧し、天皇の意向に逆らったという点から、薩長を中心とする維新政府はなかなか許可を下ろさなかったのである。

 井伊が横浜村での港建設にこだわらなければ、時代の趨勢として神奈川に港が建設されたはずだ。江戸との交通条件を勘案すれば、神奈川区から鶴見区あたりが発展の中心となったはずで、現在の横浜市の中心街は、新興住宅地か工業地帯になっていた可能性は高い。こう考えると、今の横浜市の利害当事者にとって井伊直弼は「横浜市建設の父」と言えるだろう。井伊の強硬姿勢がなければ今頃は、神奈川県神奈川市に県庁があり、横浜区は18ある行政区のひとつだった蓋然性は意外に高いのである。

 こう考えると、ランドマークタワーを見つめる井伊直弼は「俺のおかげでお前はそうして立つことができたんだぞ」と威張って語っているような気がした。いや実際に。

みなとみらいの中心に足を進める

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臨港パークから高層ビル群を望む

 みなとみらい地区には3つのペデストリアン軸(歩行者動線)があり、写真の臨港パークはキング軸(横浜駅新高島駅から海岸線)の終点に位置する。みなとみらい地区では一番大きな公園だが、この周囲は開発がもっとも遅れている。10年ほど前はこの辺りにはよく来たが、周囲は空き地がほとんどで「みなとみらいの開発は失敗に終わった」などとよく言われていた。今回、久しぶりに臨港パーク周辺に来たが、空き地にもかなり建造物ができていた。これは「紙幣本位制バブル」が大きく影響していると思う反面、建物や会社名、店舗名を見ると、「未来の都市」とはおよそかけ離れた空間ができてしまったようにも感じられる。これらは田舎の郊外にあるショッピングモールと同等の姿であり、これが「みらい」なら未来には何の希望もないと言っていいだろう。

 臨港パークからの眺めで気に入っているのはランドマーク、クィーンズスクエア、2つのホテルの並びだ。これらは通常、汽車道大さん橋山下公園側から見ることがほとんどなので、この眺めは裏から見た「みなとみらいの表情」に思えてしまう。空間の逆位相と考えられてしまう点が面白い。

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臨港パークでは釣り人をよく見かける

 写真にはないが、この右手には「ぷかり桟橋」の建物がある。写真にあるのは桟橋の一部で、山下公園とを結ぶ水上バスや横浜港を周遊する観光船の発着場所となっている。パシフィコ横浜会議センターの裏手にあるためあまり目立つ場所ではない。このためか、写真のように地元の釣り人がよく集まる場所でもある。臨港パーク自体、みなとみらい地区では一番人影が少ないので、おじさんたちが集まって釣りの会議をするには最適なのかもしれない。向かいにはベイブリッジが見えるのでここが横浜であることはすぐに分かるが、橋がなければ、無名の港に集う老釣り人たちという風情だ。

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日本丸とランドマーク

 日本丸は大型練習帆船として1930年に竣工した。84年に引退してからは写真にある旧横浜船渠会社の第1ドックに係留・保存されている。全体が”日本丸メモリアルパーク”として公開され、ときには”総帆展帆”されるそうで、”太平洋の白鳥”と言われるほど美しいらしい。なお、姉妹船の「海王丸」は富山県射水市の新湊港に展示保存されており、こちらでは帆を広げているのを見たことがある。確かに息を呑むほどの美しさだったと記憶している。

 ランドマークタワー(高さ296m)は”みなとみらい”では一番高く、その横のクィーンズスクエアの3本のビル(一番高いA棟で172m)は海に近いほど低くなっている。つまり、このビルの並びは全体でひとつの波を表現しているのだ。その前にある美しい帆船がこの高い波を超えて前進する。演出が行き届いた、なかなかいい風景だと思う。

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横浜港内をスタンドアップパドルで散策

 汽車道に向かう途中、港内をスタンドアップパドル(SUP)で散策し、さらに大岡川方向に進む一群を見かけた。SUPは今、流行らしくあちこちの川や池、港などでよく見る。日本語では”立ち漕ぎボード”というらしいが、バランスを取るのが難しいように思われた。どこかのクラブの一行のようで、インストラクターの指示で川に向かって進んでいた。日本丸から汽車道に進む道は観光客がとても多いので、彼・彼女らは無数の視線を浴びていたはずだが、漕ぎ手は態勢を維持するのに必死で、ギャラリーの存在には気づいていない様子だった。大都会の中心を立ち漕ぎボートが行く。これもまた、波静かな入海をもった横浜ならではの光景なのかもしれない。

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かつての臨港線の鉄道を残したまま道は赤レンガパーク方向に進む

 臨港線は1911年に開通した旧横浜駅と新港ふ頭とを結ぶ貨物輸送鉄道だった。戦後は旅客列車も運行されるようになったが61年に旅客運送が、86年には貨物輸送が廃止され事実上廃線となった。それが、一部線路を残しつつプロムナード(散策路)として整備され、赤レンガパークからさらに山下公園付近まで続くのが写真の「汽車道」である。

 写真の桜木町付近では高層ビル群が間近に望め、改修された古い橋梁を渡って運河パーク方向に進む。ホテルの開口部を抜け、万国橋交差点を渡ると新港中央広場に至る。

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新港中央広場から赤レンガ倉庫2号館を望む

 新港中央広場には白いアジサイアナベル)が多く咲き、それにヤマアジサイが色どりを添えていた。さらに、ハクチョウソウが優雅な花を風に揺らしていた。その先に見えるのが、みなと横浜で随一の人気スポットとなった赤レンガパークである。

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赤レンガ倉庫2号館内には商業施設がある

 赤レンガパークには赤レンガ倉庫1号館、2号館、イベント広場などがある。1号館には文化施設、2号館には商業施設があり、人々の多くは2号館に集まっている。

 赤レンガ倉庫は、横浜築港の二期工事(1900~17年)のときに造られた。この二期工事で新港ふ頭は完成し、大型船舶が横付け可能となり、前述したように臨港鉄道が敷かれ、旧横浜駅(現在の桜木町駅)を経て東海道線につながった。

 1923年の関東大震災横浜市は壊滅状態となったが、赤レンガ倉庫2号館はほとんど被害を受けなかった。この倉庫に収容されていたのはアメリカ向け生糸だったとのこと。戦後は一時連合国軍に接収されていたが、56年に返還され日本の高度成長を担った。しかし、横浜港には新たに山下ふ頭や本牧ふ頭、大黒ふ頭などができ、また貨物のコンテナ化が進むにつれて赤レンガ倉庫の役割が逓減し、89年にその役目を終えた。一方で、みなとみらいの整備計画が進むと赤レンガ倉庫の新活用が早くから検討されており、2002年に整備が完了し、現在の赤レンガパークとなって再出発した。

横浜港の歴史遺産あれこれ

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塔が有名な横浜税関庁舎

 税関は開港当初は「運上所」と呼ばれ、入国管理事務と税関の仕事をおこなっていた。1859年の開港と同時に造られた。場所は現在の神奈川県庁の一角にあった。この運上所を中心に東側が外国人居留地、西側が日本人居住地と定められた。

 1866年の横浜大火(通称”ぶたや火事”)で運上所が消失したのち、68年、同所に新庁舎が建てられ名称も「横浜役所」に改められ管轄権は政府に移った。72年には現在の名称である横浜税関になった。

 1923年の関東大震災で庁舎が全壊し、34年、場所を少し港側に移し、海岸通りに面したところに現在の庁舎が竣工した。写真にある通りこの建物は緑色の高い塔を持っている。高さは51mで、当時、横浜ではもっとも高い建物だったそうだ。ちなみに、横浜港近くには高く特徴的な塔をもった建物が3つあり、横浜に入港する際に船員からもその塔の存在がはっきりと視認できたので、いつしか「キング」「クィーン」「ジャック」というトランプ(人ではなくカードのほう)から拝借した名前が付けられた。この税関の塔は「クィーンの塔」と呼ばれ、現在でもその名が残っている。

 横浜観光の通(つう)の間では、この「横浜3塔」が同時に見られる場所を訪れるのが流行だそうだ。年々、周囲には高い建築物が増殖するので、今では一遍に視認できる場所はとても少ないそうである。私には流行に乗じる習慣はまったくないので「聖地探し」に興味はないが、この3つの塔のある建物には個別に訪れている。

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象の鼻パークからみなとみらいを望む

 象の鼻防波堤は古く、1859年の開港時に”イギリス波止場”として造られたのがその原型である。当初は直線状だったが、これでは波に弱いので、67年に形を湾曲にして”防波堤”としての役割をもたせるようになった。この頃から「象の鼻」と呼ばれるようになったらしい。しかし、関東大震災で大きく損壊してしまったため、今度は先端だけが少し曲がった形の突堤として再建された。

 現在は、かつての「象の鼻」の形に復元されている。これは、周囲を「象の鼻パーク」として整備した際の一連の事業の中でおこなわれたものであり、2009年に竣工している。堤防自体には見るべきものはさほどないが、写真のように赤レンガ倉庫からコスモワールドの大観覧車、みなとみらいの高層ビル群がよく見え、とくに夜景が美しいことからここも人気場所となっている。

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よく大型客船が接岸することで知られる”大さん橋

 大さん橋は、大型豪華クルーズ船がよく接岸するのでニュースにも取り上げられることが多い。金と暇をふんだんにもつ富裕層の間では、一番贅沢な旅である豪華客船による長期クルーズが人気らしいが、日本に立ち寄る場合、ほとんどは神戸か横浜の港に接岸する。横浜港のメインになるのが大さん橋で、7月だけでも「ダイヤモンド・プリンセス」「ぱしふぃっくびいなす」「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」「マースダム」の入港が予定されている。

 大さん橋の前身は1894年に完成した鉄桟橋で、その後、幾たびかの改修を経ながら現在の形になっている。とくに1964年の東京オリンピックに備えた大改修によって、豪華客船が多く接岸するようになった。75年に「クィーンエリザベス二世号」の接岸の際は50万人以上が訪れ、伝説にもなっている。

 わたしにとってこの大さん橋はとても馴染み深い存在だ。おそらく、100回以上は利用している。もちろん、豪華客船を利用したのではなく、磯釣りに出掛けるためだった。とくに30代前半からの10年間、週末のほとんどは仲間と伊豆大島、新島、式根島神津島に出掛けた。当初、伊豆諸島行きの東海汽船は浜松町にある竹芝桟橋からだけ出ていたが、途中から週末だけは大さん橋にも寄港するようになったので、私はその利便性の高さからここを利用することにした。金曜日に予備校での講義を終え、急いで準備をしても竹芝桟橋では午後10時発なので、ギリギリ間に合うという状況だった。それが大さん橋では午後11時30分になるので、余裕たっぷりに出かけられた。帰りも一時間半早く横浜に帰港するので、船が竹芝に着く頃には自宅に戻れた。

 行きは桜木町駅で降り、海岸通りをガラガラと大型カートの車輪の音を立てながら、多くのカップルが散策する中を勇躍、大さん橋まで進行した。帰りは日本大通りから横浜公園をトボトボとした足取りで抜けて関内駅に向かう。釣りの、とくに磯釣りの荷物は餌と魚の臭いが染みついているので独特の素敵な香りがする。このため、釣り人の周りだけは混雑した電車の中でさえ大きな空間ができるので、車内での押し合いへし合いからは解放された。

 2002年までの大改修で、大さん橋の屋上には広々としたデッキ(クジラの背中)ができて観光名所となった。山下公園の全景や赤レンガパーク、高層ビル群がよく展望できるためかカップルの数がとても多い。それもきちんと海に向かって等間隔に並ぶのが面白い。

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開港広場にある日米和親条約締結の碑

 大さん橋から大さん橋通りに向かう交差点の南側に開港広場がある。1854年、条約締結のために再び日本を訪れたペリーは、条約調印場所として江戸を希望した。一方、異人(外国人)を入府させたくない幕府側は浦賀か鎌倉を希望した。ペリーはこれを拒絶したが、幕府が代案として示した横浜村での調印を受け入れた。寒村であった横浜村の原野に突貫工事で応接所を建設し、ペリーと林大学頭との間で日米和親条約が調印締結された。横浜という土地が初めて注目を受けた場面だった。

 写真はその締結場所である。現在は開港広場になっているが、この碑を目にとめる人は皆無に近い。私はこの辺りを釣り道具を持って何度となく歩いていたのだが、特にその存在には気づかなかった。日本の歴史の転換点、横浜の歴史の出発点なのだが、その存在感はあまりにも小さい。

 私自身、この碑の存在より、写真にある向かいのオシャレなレストランのほうがいつも気になっていた。が、一度も利用したことはない。店内には素敵なハマの女性たちがいつも多くいた(通るときは必ず店内をのぞいた、無意識のうちに)が、餌のオキアミと魚の臭いが染みついた釣りのベストを着た格好では入る覚悟はなかった。もっとも、そのいで立ちでは”入店お断り”となっていただろうが、いやまったく。

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海岸通りと横浜公園を結ぶ日本大通り

 1866年の大火は豚肉業者のところで出火したので「ぶたや火事」と言われた。この大火事で日本人町の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼け落ちた。外国人居留者から「防災都市づくり」を求める声が上がり、延焼を防ぐために海岸から横浜公園まで結ぶ幅36mの道路の建設が決まった。それが写真にある”日本大通り”だ。完成したのは79年で、車道と歩道を区別した当時ではもっとも新しい設計の道路だ。横浜税関のところでも述べたように、この通りを挟んで東側が外国人居留地、西側が日本人居住地になっていた。

 街路樹にはイチョウが植えられ、今でもその緑が大きく歩道を覆っていて、涼を求める人、カフェでくつろぐ人で賑わう。この通りには神奈川県庁、横浜港郵便局、横浜地方裁判所、日銀横浜支店などが立ち並び、とても落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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神奈川県庁の天辺にあるのがキングの塔

 日本大通りに面する神奈川県庁本庁舎は1928年に竣工した。23年の大震災で旧庁舎が焼失してから5年後のことだった。高さ48.6mの塔屋は「キングの塔」と呼ばれている。向かいには現在、13階建ての分庁舎を建設中だ。それ以外にも新庁舎や第二分庁舎などが周囲にある。

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開港記念会館の時計塔はジャックの塔

 高さ36mの時計塔(ジャックの塔)をもつ横浜開港記念会館は1917年に竣工した。大震災で全焼したものの、一部を残して当初の姿に復元された。89年、手前のドームも復元され、完全に以前の姿に戻った。

 キングの塔(48.6m)やクィーンの塔(51m)に比べてジャックの塔は36mと低いので、横浜3塔では一番、周囲の高層ビル群に埋もれやすい。その一方、間近にで望むともっとも優美な姿をしている。

山下公園にいると、なぜか心がとても穏やかになる

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公園からみなとみらいを望む

 山下公園は1930年、関東大震災で生じたガレキの山が海に投入されて造られた。震災では横浜全市だけで3万8千戸が倒壊した。これは市の建造物の3分の1に上る数だった。そうした犠牲の上に造られたのがこの美しい公園である。

 今回、冒頭に挙げた写真は山下公園の中央口から入ったところにある噴水広場、それに公園を象徴する氷川丸を望む風景だ。噴水の中央にあるのが「水の守護神像」で、横浜市姉妹都市であるサンディエゴ市(カリフォルニア州)から1960年に贈られたものだ。このため、この噴水広場は「サンディエゴ友好の泉」と名付けられている。

 ここに挙げた写真は、公園からみなとみらい方向を望んだもの。私が小さい頃に訪れたときはこの方向がここでは一番面白味のない景色だったが、みなとみらいの整備が進んだ現在では、もっとも気に入られている景観かもしれない。中華街をまず訪れ、それから山下公園を散策し、この写真の景色を見ながら赤レンガパークに進むというのがお定まりの観光コースだ。

 写真の中には、みなとみらいを代表する建造物がほとんど入っている。右手には赤レンガ倉庫、その上方にパシフィコ横浜会議センターの上部に独特の形状でそびえる”グランドコンチネンタルホテル”、その左に”ベイホテル東急”、コスモワールドの観覧車、”クィーンズスクエア”、”ランドマークタワー”と、みなとみらいの”全部乗せ”といった景観がここにはある。

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往年のスター、マリンタワーとニューグランド

 目を反対側に転じると、かつて横浜を代表した建物が見える。マリンタワーホテルニューグランドの本館だ。マリンタワーは現在休館中(19年3月より)だし、ニューグランドは隣にある新館がメインとなっている。

 小さい頃、横浜にはよく遊びに来た。山下公園で遊んだ。氷川丸を見学した。マリンタワーに上った。ニューグランドは外から見るだけ。中華街には行けなかった。元町は通るだけ。港の見える丘公園や外人墓地でも遊んだ。みなとみらいはまだなかった。遠足でも横浜には来た。小さい頃と同じ。20~30代にもよく来た。小さい頃とほぼ同じ。

 マリンタワーは1961年に開業した。開港100年(1959年)記念事業の一環として建設された。高さは106m。360度見晴らしは良かった。しかし、みなとみらい地区に超高層ビルが林立し始めると、マリンタワーは見晴らしを誇ることはできなくなった。ランドマークとしての地位も、ランドマークタワーに席を譲った。開港150年の年に改修が行われたが利用客数は回復しなかった。2022年までに大改修して再開する予定だそうだが、果たしてどうなることやら。

 ニューグランドは1927年に開業した。23年の大震災でほとんどの宿泊施設は壊滅したため、外国人観光客を受け入れるホテルがなくなった。そこで、ニューグランドが建設されたのである。丁寧な対応とおいしい料理、客室から眺める美しい景色が評判を呼び、外国の要人が多く利用した。イギリス王族やチャップリンベーブルースジャン・コクトーなども宿泊した。もっとも有名なのがマッカーサーが利用したことだろう。

 連合国軍総司令部GHQ)は最初、クィーンの塔のある横浜税関に設置された。マッカーサーはニューグランドの315号室を利用した。すぐにGHQは東京に移ったのでマッカーサーの利用は短期間だったが、この部屋を相当に気に入っていたらしい。現在、315号室は「マッカーサースイート」として一般に開放されている。私も利用してみたいが先立つものがない。

 かように、マリンタワーとニューグランドは、かつて横浜を代表する建物であった。小さい頃からこの景色を知っている私にとって郷愁を誘うとともに時の流れの速さを実感する。世界は無常であり無情でもある。

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氷川丸は常に山下公園とともにある

 氷川丸は1960年に除籍され、解体される 予定だったが市民らの要望が強く観光船に改造(現在日本丸が係留されているドックで)され61年、山下公園に係留されて現在に至っている。総トン数は12000トン。全長は163m。

 氷川丸が竣工したのは1930年。奇しくも山下公園が開園した年だった。名前は旧武蔵国の一宮である大宮氷川神社から採られている。横浜港から北米シアトルの航路に就航し引退するまでに太平洋を254回渡っている。38年にはIOC総会から帰国する嘉納治五郎を乗せたが、横浜に到着する2日前に嘉納は船内において肺炎で死去した。

 戦争中は一時、病院船に改造されて任務に当たった。3度触雷したが、他の船に比べて鋼板が厚いために沈没は免れている。戦後は復員兵や民間人の引き揚げ船に使われ、その後、旅客船に復帰し60年に引退した。61年以降は山下公園に係留され、当初はユースホステルなどの宿泊施設もあった。老朽化した現在でも博物館船として公開されている。

 氷川丸が係留されている場所の山下公園側には2016年に整備された「未来のバラ園」がある。園内には160種、1900株のバラが現在ある。すでに”現在もバラ園”であり、私が訪れたときには花期は終盤を迎えていたが遅咲きのバラがまだ多くの花をつけていた。ここにはバラだけでなく様々の園芸種も植えられており、夏咲の品種がたくさんの花を咲かせていた。写真の女性はコンパクトではない本格派の一眼レフを構え、熱心に被写体を探していた。ここでは私のカメラよりはるかに立派な一眼レフをもった女性を数多く見かけた。

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赤い靴はいていた女の子像と氷川丸

 童謡の「赤い靴」(1922年)の2番の歌詞に「よこはまの はとばから ふねにのって いじんさんに‥‥」とあるので、赤い靴を履いた少女は横浜港から外国人に連れられて旅だったのだろう。3番には「いまでは あおいめに なっちゃって‥‥」とあるので、この外国人は欧米人の可能性が高い。野口雨情は前年に「青い目の人形」を発表していて、歌詞の1番にはその人形は「アメリカうまれのセルロイド」とあるので、「青い目の人形」と「赤い靴」との関連性を指摘する声はかなりある。さらに、この赤い靴の少女にはモデルがいるという意見や、雨情は社会主義者だったので「赤」は社会主義もしくは「ソ連」の暗喩という説すらある。

 考えすぎという他はない。雨情には「七つの子」という作品がある。これも「七つ」が7羽なのか7歳なのかという論争があるらしい。通常、カラスは卵を3~5個産むので仔は最大でも5羽だろうし、カラスの寿命は20年ほどといわれているので7歳は子供ではないだろう。大体、カラスは「可愛い可愛い」とは鳴かない。カラスが鳴くのはカラスの勝手だし、大抵は「カー」とか「ギャー」と鳴く。

 童謡だけでなく歌詞一般に作者の特別な思いを見出そうとするのはさほど意味のあることではなく、聞き手が想像を膨らませてその人なりのイメージを生み出すことに意味がある。いろいろな聞き手がそれぞれに思いを抱けるのが良い歌なのであって、作者がどんなに出鱈目な人間であっても構わない。実際、雨情の「波浮の港」の歌詞は間違いだらけだが、それでも曲調に合致して伊豆大島に暮らす人々の哀愁は聞き手に十分に伝わる。波浮の港からは三原山が邪魔して夕焼けは見えないし、伊豆大島には鵜はいないにしても、だ。

 「赤い靴」は「横浜の波止場」と「異人さん」という言葉、それに本居長世(私は最初、本居宣長だと思った。多分そう考えた人は多いはず)の曲調が、少女の孤独と悲哀を聞くものに感じさせるので、名曲として伝わっているのであって、それ以上でも以下でもない。

 山下公園にある「赤い靴はいてた少女像」は「赤い靴を愛する市民の会(現在は赤い靴記念文化事業団)」が寄贈したもので、横浜の姉妹都市であるサンディエゴにも同型のものが贈られているそうだ。

 この像の少女はしっかりと海の方を見つめている。横には北米航路に使われた氷川丸が控えている。やはり、彼女を連れていった異人はアメリカ人なのだろうか。シアトル在住なのだろうか。少女の郷愁が青い目の人形として日本に戻ったのだろうか。青い目の人形は1921年、赤い靴は22年発表、氷川丸は30年就航。時間の整合性はない。

 でも、それでいいのだ。いや、これこそヨーコの原像かもしれない。

  * * *

・表題が「徘徊老人・まだ生きてます」から上記に変わりました。URLは変更なしです。

・この項のため(それ以外の理由の方が大きいが)3回、横浜を訪ねました。日にちが異なっているので写真の空模様も晴れあり曇りありです。

・横浜篇はまだ続きます。中華街、元町、港の見える丘公園本牧などは次回に登場します。

 

 










 

 

〔13〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その2)

金沢八景とその由来

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平潟湾で採った貝を洗う人

 金沢八景とは「小泉夜雨」「称名晩鐘」「乙艫(おつとも)帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照(せきしょう)」「内川暮雪」の八つの風景をいう。17世紀末、心越禅師(中国からの亡命僧。水戸光圀に重用された)が、現在の金沢区の高台(能見台あたり)から海辺の景色を望み、かつて住んでいた中国杭州の西湖(せいこ)付近(風光明媚で世界文化遺産に登録済)を思い出させるほど美しい景観だったことから、それまでに「金沢八景」とされていた場所を上記の形に同定した。

 「~八景」は、日本に無数にあるが、そのうち、「近江八景」と「金沢八景」が白眉とされている。これは前回も記したように歌川広重の八景図がとりわけ有名だからでもあろう。両作品とも、「ヒロシゲブルー」の美しさが如何なく発揮された優れたもので、見るものを深く感動させる。

 「~八景」は金沢八景のように、「~夜雨」「~晩鐘」のごとく前半の「~」に地名を入れ、後半の「夜雨」や「晩鐘」につなげれば、ほとんどの場所で「八景」を構成することができる。たとえば私の地元では「是政帰帆」「浅間夕照」「高安晩鐘」というように。もっとも、それがヒロシゲブルーを用いたくなるほど美しい風景かどうかは別なのだが。

 この「~八景」の原点は、中国北宋時代の「瀟湘(しょうしょう)八景」にある。これは、詩人蘇東坡のお友達であった宋迪(そうてき)(11~12世紀の官僚・画家)が、現在の湖南省岳陽市、長沙市辺りの風光明媚な場所を八カ所選び、それを風景画にしたことに始まったとされている。瀟(しょう)は瀟水という湘江の支流(湘江の本流は長江)で、瀟水と湘江との合流点辺りの風景は美しく神秘的であって、古くから詩や散文などに取り上げられてきた。屈原の『楚辞』や杜甫の『登岳陽楼』はこの地が題材にされ、これらの作品は日本の教科書にも出てくる。また、中国古代の名帝の堯(ぎょう)はこの地域の出身とされ、彼の娘は湘君、湘妃という名をもつといわれている。

 ちなみに、湖南省の湖とは洞庭湖(長江の南岸にあり、湘江はこの湖に流入する)のことで、この湖の南側の地域(湖北省は湖の北側)を指す。また、湘南の湘は湘江のことで、その南側(長沙市周辺)も景勝地として名高い。日本の湘南はこれにあやかっており、元々は相模の国の南側、すなわち「相南」だったはずだ。

「称名晩鐘」で知られる称名寺は金沢北条氏の菩提寺

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境内にある美しい庭は国の史跡に指定されている

 称名寺は、金沢(かねさわ)北条氏の初代である北条実時(さねとき、1224~76)が建てた阿弥陀堂を基に、鎌倉極楽寺を開いた忍性によって真言律宗の寺となったという。歴史のある寺だけに国宝や重要文化財に指定されているものが多数あるが、私のお気に入りは、国の史跡に認定されている「阿字ヶ池」を中心とする写真の「浄土式庭園」である。今では「都立府中の森公園」が私の徘徊場所であるが、金沢区に住んでいたときは、この称名寺の庭や森が身近な散策場所だった。

 浄土式庭園というと岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)や京都府宇治の平等院のものがどちらも世界遺産に指定されるほど有名だが、ここの庭園はそれらに勝るとも劣らないと個人的には考えている。前二者は拝観料がかかるが、称名寺は無料なのも散策に適している点だ。気軽に行けるので、庭のもついろいろな表情に接することができるので、より魅力が深まるのだ。

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称名寺の山門はその大きさに定評がある

 私が以前に散歩していたときは、家が称名寺の西にあったために、前回紹介した赤門や写真の山門(仁王門)は通らず、西側にあるお墓の通路や金沢文庫から通じるトンネルを利用して庭園に入っていたため、しみじみと山門の金剛力士像を見上げることはなかった。両側にある力士像は1323年に造られたとのこと。ヒノキの寄せ木造りで高さは4mもあり、パンフレットによれば東日本にあるこの手の像としては最大級の大きさらしい。なるほど今回、改めて見てみると、その大きさは確かに他ではあまり見たことがない。

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朱色の反橋と平橋は称名寺庭園の象徴的存在

 山門から金堂に通じる場所には「阿字ヶ池」があり、その中央には反橋(長さ18m)と平橋(長さ17m)が架けられている。これらは1986年に復元されたもので朱の色はまだ新しさを感じる。池の西側からは池面に映る橋の影が綺麗に見られるので、私が訪れたときにも10名ほどの写真愛好家らしき人がシャッターチャンスを狙っていた。そのうちの7名は女性であり、近頃はどこに行って女流写真家の姿が目立つ。

 この日は生憎、やや風が強かったので池面はさざ波立っており、鏡面のときのような対象美を写すことはなかなかできず、大多数の人は風が収まる瞬間を辛抱強く待っていた。私といえば根が大雑把なので、先に挙げた写真で妥協した。

 寺院の建造物には「朱」がよく用いられている。これは中国の伝統を受け継いだもので、湖南省の辰州で多く採られたことで名付けられた、硫化水銀の鉱物である「辰砂」を原料としているからである。日本でも古来から産出されており、「丹」や「丹生(にゅう)」などと呼ばれ、その鉱物が多い川は「丹生川」と名付けられていて、日本各地にその名をもつ川や地名は多い。

 和歌山市に河口をもつ「紀ノ川」は奈良県に至って「吉野川」と呼ばれるが、その支流で西吉野地域を流れるものは「丹生川」と呼ばれる。また、東吉野村には旧社格官幣大社であった「丹生川上神社(中社)」もある。もちろん近くには上社や下社もあり、5年ほど前までは、吉野山へ桜見物に出掛けた際には必ず、丹生川上神社のいずれかを訪れたものだった。

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称名寺の梵鐘。「称名晩鐘」につながる

 「称名晩鐘」はこの梵鐘から700年以上、奏でられてきた。1301年に鎌倉時代を代表する鋳物師が鋳造したもの。老朽化が進み、この鐘がつかれることはなくなったそうだが、鐘楼にあって、今でも晩鐘は人々の心の中に響き渡っている。

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北側を取り巻く鬱蒼とした森は市民に安らぎを与えている

 称名寺の北側を取りまくように金沢三山があるが、この山一帯は「称名寺市民の森」として散策路が整備されている。長さは約2キロ。道は狭く高低差があるので、ここを歩くのは、散歩というよりハイキングという言葉が相応しい。私も以前は何度も歩いたが、今回は他に寄るところが多いからという勝手な理由をつけ、その登り口をのぞくだけに済ませた。

 山頂には「八角堂広場」があり、そこからの眺めは結構お勧めできるものだ。実は、この山の裏側(北側)は西柴町という住宅街になっており、こちら側から入るとかなり楽をして八角堂広場に行けることを知っているのだが、方向は異なるが同じような景色は後述する金沢自然公園からも眺められるので、裏口入場は取りやめにした。

金沢文庫」は日本最古の武家文庫

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現在の県立金沢文庫は、図書館というより歴史博物館

  称名寺は歴史好きにはよく知られているが、知名度の点では金沢文庫にはるかに及ばない。金沢文庫は北条(金沢)実時が金沢の地に隠居したとき(1275年)に創建されたらしい。実時は武将としてだけでなく文化人としても名高く、漢籍だけでなく和歌や散文などの造詣も深かった。そのため多くの典籍や和漢の書を収集・所有していた。金沢文庫は実時が隠居した際に、称名寺の隣地に多くの書物を所蔵するための書庫を造ったのがその始まりとされている。のちに、北条氏の第15代の執権となった(10日だけ)金沢(北条)貞顕がその拡充に努めた。彼もまた、文化人としても名を馳せていたのである。

 北条政権は足利尊氏によって倒され、金沢の地は足利尊氏の所領となった。が、実際にこの地を支配したのは関東管領世襲した上杉家だった。足利家と上杉家とを結びつけたのは、尊氏の生母(上杉清子)が上杉家出身であったことが大きく影響している。上杉は関東管領として鎌倉公方を補佐しただけでなく、守護大名として上野国武蔵国伊豆国を支配した。上野国(こうずけのくに)は現在の群馬県にあたり、栃木県足利市のある下野国(しもつけのくに)のとなりである。

 この上杉家から上杉憲実(のりざね)が出て、荒廃しかかった金沢文庫武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)から多くの文献を持ち出し、それを足利学校の蔵書とした。憲実もまた北条実時同様、教養ある文化人でもあったのだ。かれは特に儒教に傾倒していたらしい。このブログの「渡良瀬紀行」では「足利学校を再興したのは上杉憲実」であると紹介したが、この学校の充実には金沢文庫の蔵書が相当数、貢献しているのである。

 歴史には、このような思いがけない結び付きがある。これがあるから「歴史と旅」は面白い~浅見光彦みたいだが‥‥。

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金沢文庫称名寺をつなぐトンネル

 称名寺金沢文庫との関係は、やはり「渡良瀬紀行」で取り上げた鑁阿(ばんな)寺と足利学校との関係に類似している。というより、実質的には後者の方が前者に似ているのだが。ただ、称名寺金沢文庫との地理的関係は、足利の方とは大きく異なる点がある。それが、写真に挙げた「トンネル」の存在である。

 寺は人が大勢集まるところ、あるいは政治的要素も多く持つところなので、常に火災の危険性が付きまとう。一方、文庫は紙類の集合体なので火災には極めて脆弱だ。そこで金沢北条氏は、称名寺金沢文庫とを尾根ひとつ隔てた場所に造り、その間をトンネルで結んだ。一方での火災が他方に類焼することを予防したのである。

 写真にはないが、往時のトンネルはすぐ北側に保存されている。現在のトンネルはよく整備され、その壁には8枚のプレート(写真では7枚しか写っていないが)が埋め込まれている。もちろん、ここには歌川広重の『金澤八景』の絵が複写されている。

 現在の金沢文庫は1990年に建てられた近代的な建造物で、横浜市立の「中世歴史博物館」として、様々な資料展示や講演会活動に力を注いでいる。

金沢自然公園と動物園

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自然公園から金沢文庫金沢八景の市街地を望む

 金沢区釜利谷東にある「金沢自然公園」は三浦半島のほぼ中央を南北に連なる丘陵地帯に位置するため、眺めはとても良い。横浜横須賀道路から直接に入れる駐車場(料金600円)があるので、ここには区内の施設を巡り歩く前に訪れた。午前中は曇りがちだったので、見通しは少しはっきりしてはいないものの、それでも東京湾内を行き来する船舶や房総半島までよく展望できた。ほぼ中央に写っている「八景島シーパラダイスタワー」のすぐ右にある白い建造物は、千葉県富津市にある「東京湾観音(高さ56m)」だ。

 写真にあるように、市街地には公共施設、商業施設、集合住宅や個人住宅などが密集しているが、「金沢八景」が同定された頃は入江の海か湿地帯だったはずだ。17世紀後半に永島祐伯(雅号泥亀)が干拓事業を進め、最終的にその事業が完結したのは20世紀に入ってからだ。金沢区役所は泥亀(でいき)2丁目にあり、この一帯が現在の金沢区の中心街になるが、この地名の由来は開拓者の永島泥亀にある。

 自然公園は敷地が58万平米もあり、しかも起伏に富んでいるため、散策するには十分すぎるほど広い。私は、この近くにある老人保健施設で数年間ボランティア活動をしており、自然公園の一部はその活動もあってよく利用していたので馴染みは深い。が、この園内にある動物園は利用したことがなかった。今回が初入園である。

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動物園の入口付近にある模造品たち

  金沢動物園は自然公園の敷地内にある。ただし、動物園に入るのには料金(大人500円)が必要になる。自然公園の一部にあるので敷地内も起伏に富んでる。私にとって動物園とは多摩動物公園と同義語といえるほどの存在なのだが、この金沢動物園はその縮小版といった存在のようだ。反面、多摩動物公園の賑やかさと比較してこちらのほうは見物客が少ないので、ゆったり感は金沢の圧勝である。

 希少な草食動物を中心に飼育しているので、50種310点と数はそれほど多くはない。展示ゾーンは「アメリカ区」「ユーラシア区」「オセアニア区」「アフリカ区」に分かれており、それぞれが広い飼育スペースを有している。アメリカ区ではカピバラ、ユーラシア区ではインドゾウ、タンチョウ、オセアニア区ではコアラ、オオカンガルー、アフリカ区ではクロサイオカピが印象的だった。

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角を突き合わせるクロサイ

  サイ(犀)を見ると、すぐに思い浮かべるのが『スッタニパータ』だ。小部経典(クッダカ・ニカーヤ)にあるスッタニパータ(経集)とダンマパタ(法句集)はブッダの言葉を伝える最古の仏典としてよく知られるが、中でも「犀の角のようにただ独り歩め」はあまりにも有名だ。写真のクロサイは角が2本(3本のものもある)あるが、ブッダが見たであろうインドサイは角が1本だ。またサイは単独行動を好むことで知られている。

 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(40)中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫

 これはブッダの最後の言葉として知られている「自灯明、法灯明」(自己を拠りどころとせよ、法(ダルマ=真理)を拠りどころとせよ)にも通じている。これらは一見「独我論」に思える。が、ブッダは究極的には「無我」を真理と考えており、独り歩めというのは無明=無知からの覚醒を意味しているのだろう。ゆえに、一方で、スッタニパータではこうも述べている。

 もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(45)同上書

 この考えは孔子の思想にも通ずる。

 子曰く、君子は和して同せず、小人は同じて和せず(子路篇) 加地伸行訳『論語講談社学術文庫

 ブッダの言葉も孔子の言葉も、今風に言えば「同調圧力に負けず、理性的に行動せよ」となるのであろうか。良き思想には差異はない。サイを見てこう思った。

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インドゾウのボン。鼻は長いが牙も長い

 インドゾウ(アジアゾウの亜種)はアフリカゾウに比べると大きさも耳も小さいそうだが、私はこのゾウを見て、これはアジアゾウの仲間であるとすぐに分かった。ユーラシア区にいたからである。

 写真のボン(オス)は42歳。インドゾウは牙が短い個体が多いそうだが、このボンの牙は鼻よりも長く、国内では最長ともいわれているらしい。ヒンドゥー教の神の一人?であるガネーシャは商売の神として知られているが彼?はゾウの顔を持つ。ただし、片方の牙は折れているそうなので、金沢動物園のボンは神にはなれない。

 同居しているヨーコとは夫婦関係にあるそうだが、残念ながら繁殖には至っていない。天は二物を与えない。

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子供を抱いているオオカンガルー

 オセアニア区にはオオカンガルーがたくさんいた。うれしいことにこの動物園ではウォークスルー形式になっており、間近にカンガルーの生態を見ることができる。写真の子供を抱いたカンガルーは人を全く恐れず、写真撮影にも動じる気配はなかった。母親はただ餌を食べているだけだが、子供は何かを考えているようだった。「考える人」ではなく「カンガルーひと」のようだ。

 カンガルーとは関係がないが、ロダンの「考える人」の姿勢を取るのはとても大変だ。ブラタモリの「パリ篇」ではタモリもそう言っていた。地獄の門を覗き込む苦悩の人がテーマなので、あえて苦しい姿勢を取っているのだろうか。写真の子供のカンガルーの姿勢もかなり大変そうだ。思考には理性だけでなく身体性も伴う必要がある、ということがよく分かる。と、子供のカンガルーを見てそう考えた。

 姿勢といえば、考える際にはうつむきかげんになるが、うつむきかげんの花といえばパンジーがすぐに思い浮かぶ。この英名はパンセ(フランス語で思考の意味)からきている。ちなみに、和名の三色菫はシノニムのヴィオラトリコロールの直訳である。

瀬戸神社と琵琶島

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瀬戸神社は金沢八景駅のすぐ北側にある

  今でこそ平潟湾は水路のような狭い入り江であるが、埋立事業が行われる前はかなりの幅を有していた。さらに一段奥に泥亀新田が造られる前は、今の釜利谷から泥亀辺りにも入り江があり、 それが写真の瀬戸神社付近で平潟湾と細い海峡でつながっていた。細い海峡は速い流れを生むので、「瀬戸」と呼ばれることが多い。広島県呉市にある「音戸瀬戸」や長崎にある「平戸瀬戸」は全国的に知られている急流海峡だ。

 金沢の狭い海峡も瀬戸と呼ばれ、その近くに源頼朝が戦勝を祈願して創建したのが瀬戸神社である。ここには、源実朝が使用し、北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面が保存され、国の重要文化財に指定されている。

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瀬戸神社の小庭園。6月はアジサイの季節だ

 この神社は国道16号線の西側にあり、南には金沢八景駅があるという賑やかな街中に位置するが、ここの境内に入ると権現造りの本殿、その横にありヤマアジサイが多く咲く小庭園、海の際だったことを示す高い崖など、ここだけは駅前の賑やかさ、国道の往来の激しさとは隔絶された時間が流れている。

 

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北条政子が創建させた琵琶島神社

 国道を挟んだ平潟湾内には「琵琶島神社」がある。これは頼朝の瀬戸神社にならい、北条政子が信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したといわれている。以前は島だったらしいが、現在は陸続きになっている。

 瀬戸といえば八景には「瀬戸秋月」があった。広重はこの辺りを描いたのだろうが、残念ながら、その面影は皆無と言って良い。

平潟湾、そして野島~思いは八景図へ

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平潟湾では今でも貝掘りが盛ん

 平潟湾は徐々に埋め立てられ、1966年に湾の南西側、今の金沢区柳町一帯の埋め立てが完了したことで今の形(長さ1000m、幅250m)になった。埋め立てのための土砂は湾内の浚渫(しゅんせつ)土によってまかなわれた。ただ夕照橋(ゆうしょうばし)周辺は浅いまま残されたので、大潮の干潮時には、以前からおこなわれていた貝掘り(潮干狩り)が今でもよくおこなわれている。広重の「平潟落雁」図には潮干狩りを楽しむ様子が描かれている。周囲の景色は往時と全く異なるものの、貝を掘る人々の動きには共通するものがある。

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潮干狩りが展開される野島海岸の賑わい

 「野島夕照」で知られる野島海岸は金沢区では唯一、自然のままの海岸線が残っている。ここでは平潟湾以上の人々が貝掘りに専念していた。これは平日の風景なので休日にはもっと多くの人が訪れる。平潟湾と異なるのは砂の色で、こちらのほうがより灰色に近い。また海の香りが強い。平潟湾は大海に通じる水路が細いので海水の入れ替えが少ない。また、住宅地から流れ込む川が幾筋もあるので汚染される程度が高い。

 この点、野島海岸は直接、大海に開かれているし、波によって砂が撹拌される機会が多いので、汚染物が希薄化されるからだろう。野島海岸で海の香りを感じたのは、写真でも分かる通りアオサ(青ノリの一種)が繁茂しているせいでもある。海の香りというより、ノリの香りといったほうが妥当かもしれない。

 シーサイドラインの先に見える森は称名寺市民の森。その先の高層マンション群は旧跡能県堂周辺の山を削り取って造成された新興住宅地のものだ。冒頭に挙げた心越禅師は、あのマンションの屋上辺りの高台からこの野島方向を望み、「金沢八景」を同定したのだ。

 ところで、「能見台」の山を削ってできた残土はどこに行ったのだろうか。それは、前回に取り上げた「金沢地先埋立地」=福浦埋立地八景島の造成に用いられたのだった。

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野島にある伊藤博文の旧別邸

 1886年、伊藤博文は平潟湾沖にある夏島(現在は横須賀市夏島町)に別邸を建てた。この無人島だった夏島が全国的に知られるようになったのは、ここで伊藤博文井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人が「合宿」をして大日本帝国憲法の草案(1887年)を作成したからである。「夏島草案」とか「夏島憲法」などと言われるものだ。その後、草案は修正され、1888~89年に枢密院で審議され、同年発布、90年に施行された。

 伊藤博文はこの金沢の地をよほど気に入ったのか、1898年には野島にも別邸を建てている。写真の建物がそれである。大正天皇もここを訪れたことがあるそうだ。入館も含め、庭園にも無料で入ることができる。ひとつ前の写真(野島海岸の風景)は、この庭園付近から写したものだ。周囲の建造物こそ異なるが、称名寺の森の姿はほとんどこのまま、伊藤博文が目にしたはずだ。

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今様「乙艫帰帆」

 野島は太平洋戦争前までは陸続きの島(砂州によってつながれた陸繋島)だった。が、戦争中に島の要塞化が進み、併せて横須賀側の埋立地にあった海軍施設とを結ぶ道路が建設されたため野島水路(平潟湾と東京湾をつなぐ)は船の行き来が不能となった。そこで島の北西側に掘られたのが野島運河だ。このため、野島は陸続きではなくなった(橋で結ばれている。現在は野島橋と夕照橋の2本ある)。

 現在の野島は東側が野島町、西側が乙舳(おつとも)町になっている。この乙舳は乙艫を「簡略化」したものだ。が、厳密には意味が異なり、”舳”は「みよし」つまり船首、”艫”は船尾のことである。

 運河によって旧乙艫は分かれたようで、陸側にある金沢漁港の野島向きには「乙舳公園」がある。写真は、遊漁船が東京湾から野島運河内にある船着き場(乙舳町にある)に帰港するところを公園側から撮影したものだ。写真にはないが、この右手奥に野島山がある。

 乙舳に帰る船なので、現代版「乙艫帰帆」を撮影してみた。実際は、乙舳公園で休憩中に偶然、遊漁船が運河に帰ってきたのであわてて撮影をしたという訳なのだが。

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野島(につながる)夕照(橋)

 「日本にある橋でもっとも好きなのは?」と聞かれたら、私が文句なく第一位に挙げるのがこの「夕照(ゆうしょう)橋」である。「是政橋」でも「横浜ベイブリッジ」でも「瀬戸大橋」でも「来島海峡大橋」でもなく、この橋だ。橋の白と野島山(標高57m)の緑とのコントラストが絶妙なのだ。

 ”夕照橋”の名は、もちろん「野島夕照(せきしょう)」に由来する。唯一の不満は「せきしょう」とは読ませないことだ。「ゆうしょう」では湯桶読みなるが、これは仕方がないとしても、由緒ある名称なので「せきしょう」と素直に読みたいものだ。

 撮影時間は午後4時頃だが、夕方まで粘れば夕陽に映える橋と山と海面とを撮影することができる。金沢区に住んでいたときにはよく夕方に出掛けて撮影したものだった。雑誌にも、見開きのカラーページでそれを紹介したことがある。このときはブローニー版のリバーサルフィルムを使った。あの6×6カメラはどこにいったのだろうか?

 建造物も見る角度も異なるが、この景色は広重の八景図にもっとも近いと思っている。「野島夕照」図には夕照橋はない。その代わりに「夏島」や今は無き「烏帽子岩」がある。それでも、野島山の形や家並みはどことなく広重の絵をイメージさせる。

   * * *

 金沢区を巡る旅は終わった。散策と写真撮影のために金沢へは3回出掛けた。金沢区の埋め立て事業の変遷を書物や地図で調べ、それを確認するために現地を歩いたこともあった。

 金沢区周辺には特別に高い山はないものの平地は少なく、開発には困難を極めた。このことはJR横須賀線の路線を見るとよくわかる。横須賀線の開通は1889年であるが、横浜を出た横須賀線は南下せず、磯子区金沢区を避けて、戸塚方向に進んでいる。そして大船を経て鎌倉、逗子へ、それから東進して三浦半島を横切り横須賀に至るのである。明らかに、磯子区金沢区の起伏に富んだ地形を避けたルートに線路は敷かれているのだ。横須賀線が開通した結果、金沢周辺の海から人気(ひとけ)は途絶え、鎌倉や逗子、葉山の海へ人々は出掛けるようになった。

 横須賀線が開通したころ、金沢に出掛けるには、横浜からは細い山道を通り、13もの峠を越える必要があった。また、鎌倉から金沢に抜けるためには「朝比奈切通し」を進まねばならなかったのだ。それで、一般の人には横須賀から船で行くことを勧められた。そうまでして金沢に行く人はあまりいなかったようだ。

 湘南電鉄(京浜急行の前身のひとつ)が、金沢を通り浦賀に至る路線を開通させたのは1930年だった。当時、この線路を1キロ建設するには46万円かかったそうだ。一方、同時期、小田急江ノ島線を建設するには1キロ25万円だったそうで、磯子や金沢の地形を克服するのには通常の約2倍の費用が必要だったのである。

 鉄道が開通した結果、人々の利便性は高まったが、その一方で、海岸線の埋め立てが進み、大規模な工場が林立した。先述したように、自然の海岸線が残ったのは野島の一部だけになってしまったのだ。開発という美名のもとで失ったものは大きい。

 何事も、「いいとこ取り」はできない。それは、自然環境だけでなく、人生もまた同じなのだろう。

 

***追記*** 親友から、タイトルがあまりにも不評だったので、このたび変更しました。 6月22日変更

〔12〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その1)

金沢は金沢区が一番!?

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シーパラダイスにあるアトラクションのひとつ「バイキング」

 金沢大学医学部出身の知り合いがいて、その人は実に“金沢愛”に満ちていた。埼玉生まれの埼玉育ちなので”郷土愛“とも違う。加賀の金沢ではとても素敵な青春時代を送ったのだろうか。とにかく、何かといえば金沢の良さを熱弁するのだ。そこで、隣人愛を有する私は、『広辞苑』(当時は第五版だった)の「金沢」の項には、第一に「横浜市金沢区」、第二に「あなたの愛する金沢市」が出ているのだということを親切心から教えてあげた。するとその人は、手にした『広辞苑』を振りかざしながら「岩波書店に抗議する」と息巻いた。さぞかし重かったことだろう。しかし、彼女の異議申し立てにもかかわらず、昨年(2018年1月)に改訂版が出た第七版でも、金沢市は第二番のままだった。

 人口は、金沢区は198771人(19年3月現在)、金沢市は464220人(19年5月現在)で金沢市の圧勝。その地位は、金沢区横浜市の18ある行政区の一つなのに対し、金沢市は石川県の県庁所在地でやはり金沢市の圧勝。金沢区の花は“ボタン”一つなのに対し、金沢市は”ハナショウブ“、”サルビア“、”ベゴニア・センパフローレンス“、”インパチェンス“、”ゼラニウム“の五つ。これも金沢市の圧勝だ。

 が、金沢市金沢区に敵わないものが二つある。「金沢文庫」と「金沢八景」の存在だ。前者は“日本最古の武家文庫”として教科書に出てくるし、後者は“近江八景”と並んで「~八景」の代表格で、かの歌川広重が“ヒロシゲブルー”を駆使して“金澤八景”を描いている。一方、金沢市には「兼六園」があるが、これは日本三名園の一つにすぎない。

 と、『広辞苑』の執筆者はこのように考え、一番目には金沢区を挙げたのではないか、と、私は推察する。

富岡地区にある”ふなだまり”と”八幡様”

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高層マンションとふなだまり公園。池の水はしょっぱい

 金沢区横浜市のもっとも南に位置し横須賀市と接している。20年ほど前、三浦半島金沢区横須賀市三浦市)や南房総での取材が立て込んでいたこともあって、約3年間、金沢区に家を借りていたことがある。この地ではいろいろな人や場所との交流が生まれたため、金沢の地については多摩の田舎の住民のわりには結構、認知しているほうなのだ。写真にある「富岡並木ふなだまり公園」も当時、近くに住む知り合いから教えてもらった場所だ。

 公園内の池と思われる水辺は、近くにある”福浦岸壁”とは北側水路で通じているためほどんど海水に近い。前方に見える高層マンションの敷地はかつては海だったところで、ベンチがある辺りが海岸線だったはずだ。つまり、この辺り一帯は富岡の入江だったのであり、この水辺はその名残なのだ。

 この水たまりでは結構、海釣りが盛んでクロダイ、ボラ、スズキ、ハゼなどが狙える。ボラこそ近所に住む暇なおじさんたちの遊び相手だが、クロダイは50cmほどの大型がいるので本格派も訪れる。水たまりでは分かりづらいが、南側にある海に通じている水路をのぞいてみると、大型クロダイの群れが視認できる。一度、この水路をたどり、どのあたりまでクロダイが生息しているのかを確認したところ、京浜急行京急富岡駅近くにまでいることが分かった。「クロダイは人気(ひとけ)のある所を狙え」というのは釣りの格言なのだが、ここのクロダイは住宅地ばかりではなく、商業地区にまでも出没しているのだ。そのうち、駅近くのコンビニで買い物をしているクロダイの姿がユーチューブにアップされるかもしれない。

 写真の背後には「富岡八幡公園」があり、その一角には以前、富岡漁港があったそうだ。この辺りは「宮の前(八幡宮の前だから)」と呼ばれていて、かつては砂浜もあった。公園の姿形に触れてみると、以前は海岸だったのだという風情は残っている。この”宮の前海岸”は「海水浴発祥の地」とのことでそれを記した碑もある。江戸時代からも海に入る習慣はなかったわけではないが、当時は「潮湯治」といって、皮膚病や神経痛の治療や老廃物の排出など”温泉の効能”と同等の目的のために海に浸かったらしい。それが明治期になり、治療から遊び目的に変化した。その最初がこの富岡の海岸だったのだという。

 もっとも、この話は他にもあり、とくに大磯海岸が”発祥の地”としては有名だ。こちらは江戸末期から明治期にかけて活躍した松本良順による記録が残っている。良順といえば奥医師として徳川家茂の治療をしたり、維新後は帝国陸軍の初代軍医総監になったりしたことで知られているが、近藤勇と親交があり新選組の隊士の治療を行っていたという話が、私は一番好ましく思っている。

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富岡八幡宮の鳥居の前はかつて海岸だった

 富岡八幡宮と聞くと、東京都江東区にある”深川の八幡様”を先に思い浮かべ、歌川広重の”名所江戸百景”や”江戸勧進相撲”、さらにはおととしの連続殺人事件が連想される。が、江戸の富岡八幡宮は江戸時代初期に創建されたのに対し、金沢区八幡宮は1191年、源頼朝の命によって造られたものなので、歴史はこちらのほうが圧倒的に古い。

 金沢区のパンフレットによれば、1311年の大津波の際、富岡地区に住む人々の命と暮らしを守ったことから「波除八幡」とも言われるようになったとのことだ。先に述べたように、写真の鳥居の前はかつて海岸であり、八幡様の境内は高台にある。集落はこの裏手に広がっているので、確かに八幡様が津波を防いだと考えることは可能だ。

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こじんまりとした境内と本殿

 写真のように、境内はそれほど広くはなく、本殿もまた”深川八幡”に比べるとかなり小さく、かつ地味だ。しかし、周囲にある社叢(しゃそう)林はとても見事で、たしかにこれならば、大津波から集落を守ることは十分にできそうだ。この社叢林=鎮守の森は、横浜市の天然記念物に指定されている。

 八幡様自体には行事のとき以外は訪れる人はそう多くないようだが、周囲は”富岡八幡公園”として整備され、ここを散策コースとして利用している住民は多い。近くの”並木団地”に住んでいる知人も、この公園にはよく子供と一緒に遊びに来ていたが八幡様にはお参りしたことがないと、罰当たりなことを言っていたことを思い出した。

八景島は入場無料

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八景島に通じるマリンゲートと福浦岸壁

 シーパラダイスがある八景島横浜市が造成した人工島で、島内へは写真の”マリンゲート”か金沢シーサイドライン八景島駅前にある”金沢八景大橋”を利用する。前者は有料駐車場を利用する人が主に使い、後者はシーサイドラインを利用する人や後述する「海の公園」から島に入る人が主に使用する。両者の中間には国道357号線の「柴航路橋」があるが、一般には開放されていないので関係車両以外は通行できない。

 私は京浜急行金沢文庫駅から後述する”称名寺”方向へ進んだところに家を借りていたので、八景島へはよく散歩や食事、買い物に出掛けていた。島内に入るのは無料なので、シーパラダイスにあるアトラクションをぼんやり眺めたり、レストランを利用したり、百円ショップで買い物したりした。島(面積約24ha)自体は横浜市のもので、シーパラダイス(面積約8ha)は西武系資本が横浜市から島の一部を借りているだけのため、シーパラの敷地を含め島内は自由に散策できるのだ。もちろん、アトラクションや”アクアミュージアム”などを利用する際は料金が発生する。

 写真にある岸壁は島外のもので、金沢埋立地とか福浦埋立地などと呼ばれている場所の海岸線全体を囲んでいる防波堤だ。全長は2キロ以上あるが、そのほとんどの場所で釣りができるため、東京湾内では有数の海釣り場として知られている。25年以上前、取材で私の磯釣りの師匠と一緒にここを訪れ、それを雑誌やスポーツ紙に掲載したことが、のちにここに住むようになる切っ掛けを作った。その際、私たちが参考にした釣り雑誌ではこの場所は「福浦3号埋立地」と紹介されていたのだが、釣りは埋立地そのものではなく、その岸壁でおこなうので、私は勝手に「福浦岸壁」と書いてこの場所を紹介した。現在では、この釣り場はほとんど「福浦岸壁」の名で雑誌等に掲載されているが、その端緒は私である。実にいい加減なものだ。

怖い思いをするのにお金がかかるのは、実に不可思議

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この三角の立ち姿だけで八景島のアクアミュージアムとすぐに分かる

 シーパラダイスの施設では、やはり「アクアミュージアム」(水族館)とそれに付設する「アクアスタジアム」が有名だ。この施設の利用には3000円(65歳以上は2450円)かかるので今まで4回しか入ったことがない。ただ、6月いっぱいまでは「あじさい祭り」期間とのことで、アトラクション利用を含めたワンデーパスが65歳以上は1800円(通常は3600円)になるらしいので、今一度、行ってみようかとも思っている。

 水族館には700種類、12万点の生き物がいるので見ごたえは十分。一方、イルカやアシカのショーがあるスタジアムは、プールが広すぎるためなのか生き物と人間との波長が微妙にずれてミスがやや目立つので、その点に興味がそそられる。ショーという点では「鴨川シ―ワールド」は規模がやや小さいためかミスが少ないので面白みは半減する(個人の感想です)。

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107mの高さから落下する”ブルーフォール”。単品では1000円也

 アトラクションには怖いものが多い。私は遊園地は嫌いなのだが、それは怖いからだ。何が愉快で怖い思いをしなくてはならないのか。ジェットコースター(シーパラでは”サーフコースターリヴァイアサン”と名付けられている。『ヨブ記』もホッブズもびっくりする名前だ)も相当に恐ろしいが、”ブルーフォール”と名付けられた世にも恐ろしい乗り物が存在する。三角屋根やコースターと並び、その青く高い塔(高さ107m)はかなり遠くからでもよく目立ち、シーパラの存在を誇示している。

 茨城県にある「牛久大仏」は高さ120mあり、その巨大さにはただ驚かされるだけだが、その天辺から飛び降りる人はまずいない。それと似たような高さからこのブルーフォールは落ちるのだから、そんなものを体験する人の気が知れない。ちなみに、華厳の滝の落差は97mなので、このアトラクションは自殺の訓練場に相違ない。しかも、これを利用して怖い思いをした上にお金を払うのである(前払いだと思うが)。

 見ているだけでも怖いので、私は思わず何度も見てしまったのだが、利用者のほとんどは笑っているのである。そこで私は係の人に「これを利用して怖い思いをするとお金が貰えるのか」と尋ねたのだが、返ってきたのは笑顔だけだった。

 

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長閑な乗り物のシーボート

 写真の”シーボート”では親子で楽しむ長閑な光景が展開されていた。こうした日常的な景観は見ていても面白くないので、すぐにこの場を立ち去った。やはり、遊園地には”怖さ”と”馬鹿々々しさ”とが同居していないと興味は湧かない。ただし、自分で利用するのは真っ平御免だが。

広大な人工海浜を有する「海の公園

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人工海浜からシーパラを望む

 約1キロの長さの海浜を有する「海の公園」 は、先述した福浦埋立地八景島とともに1970年頃に始まった「金沢地先埋立事業」の一環として造成されたものである。まず、80年頃に福浦埋立地が、85年頃に八景島が、そして88年頃に海の公園の整備が完成した。もっとも、人工海浜の部分は元々砂浜があった場所なので、80年頃には先行オープンしていた。さらに、89年にはこれらをつなぐ「金沢シーサイドライン」が開通し利便性が高まった。

  横浜市では唯一、海水浴ができる砂浜をもつ公園だが、前からあった砂浜では規模が小さいので、千葉県富津市の山砂を運び込んで拡張した。この際、山砂はすぐに浜砂には転用できないため、沖合の海底で5年間養生したとのこと。また、これは関係者から直接聞いた話だが、浜砂は年々刻々と流失するので、追加する砂は外国のものを買い取って、やはり沖合で養生したものを使用しているとのことだった。

 砂浜ではアサリなどが自然生息しているので、大潮の干潮時には「潮干狩り」が盛んにおこなわれる。自然のものが相手なので料金はかからない。

 写真は海浜の北東側を写したものだが、八景島方向に伸びた岬の海岸線には大きな安山岩を並べ磯風を表現している。その先にわずかに見える橋は、”金沢八景大橋”だ。

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公園の南側には”金沢八景”を代表する「野島」の姿が見える

 視線を南に転じると、海浜の先にある小高い山が見えてくる。標高57mと高さはないが、そのたたずまいには特徴があり、一度見ると忘れることはない。「金沢八景」を代表する「野島」の姿である。その手前に並ぶ建物群は金沢漁港のものだ。先には三浦半島の中央に連なる山々の姿も確認できる。それらの先には相模湾が広がっている。

金沢八景に至る道筋にあるものに触れる

 海の公園から「金沢八景」の本丸の一つである「称名寺」へは徒歩で数分だ。だが、ここでは少しだけ寄り道をしてみた。シーサイドライン八景島駅と、金沢シーサイドタウンとを結ぶ橋から望む景色は私のお気に入りのものだからである。

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橋から柴漁港マリーナ、シーパラ方向を望む

 マリーナのプレジャーボート群、その先にあるシーサイドラインの路線、さらに柴航路橋のブリッジ、シーパラの”アクアミュージアム”と”ブルーフォール”、さらにその先には住友重工の横須賀造船所の巨大クレーンが一望できる。八景島周辺にある特徴的な建造物が一度に見られる場所なのだ。

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橋から柴漁港内を望む

 一方、こちらは先の写真と同じ橋の上からだが、今度は柴漁港とその先にある柴町の景観だ。先の写真とは撮影時間差は3時間ほどあるため、こちらは夕暮れが迫りつつあるときの景色だ。私がかつて、この辺りをよく散歩していたときの帰途に就いたときに目にしていたものだ。かつてとは異なり船はおしゃれになり、建物群も随分と新しくなってはいるが、柴漁港のもつ情緒感にはあまり変化はないように思えた。変わりゆくものの奥底にある変わらないものを見出す喜びをこの場所からは抽出できた。

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何故か人が運転するシーサイドライン

 特に必要はなかったが、「金沢シーサイドライン」にも短区間八景島駅から野島公園駅)だけ乗ってみた。逆走事故を起こし数日間運休していたシーサイドラインが運行を再開した日だったからである。運転席には、いつもはいないはずの運ちゃんが座っている。本来は無人走行なのだが、事故の教訓から、しばらくは有人運転を続けるらしい。これは「安全確保」のためではなく「安心感確保」のためであろう。

 運行開始以来30年間、逆走のようなトラブルは皆無だったので、無人運転でも全く問題はない。今回の事故は「無人運転」が原因ではなく、運行制御回路の断線を検知しないというシステム 上の欠陥が原因らしい。つまり、人に由来するものではまったくない。したがって、有人でも事故は防げなかった蓋然性が高い。

 電気系統のトラブルが原因と考えれば、同じような事故は自動車でも起こりうる。今の自動車は電気系統に依存する割合が極めて高いからだ。アクセルもブレーキもトランスミッションも電気で制御されている。さらに最近ではハンドル操作も電気で制御するものがある。たとえば、以前のものはブレーキペダルとブレーキ制御装置はワイヤー(針金)でつながっていたが、現在はワイヤー(電線)でつながっている。さらに、ハイブリッド車や電気自動車はより複雑な電気制御システムで成り立っている。このため、自動車の逆走事故はその99.9%が「踏み間違い」だとしても、電気制御システムの構造上の欠陥もしくはシステムの劣化による誤作動も考慮に入れる必要は絶対にあるはずだ。人に頼るだけでなく、機械に頼るだけでもなく、人と機械との接触面(マンマシーン・インターフェース)を今一度、きちんと考察してほしいものだ。

いよいよ、金沢の本丸に触れる場所に足を踏み入れる

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称名寺の赤門

 金沢地先埋立地であった福浦、八景島海の公園から離れ、いよいよ金沢の歴史の本丸に足を踏み入れることになった。金沢北条氏の菩提寺であり、金沢(六浦)の舟運にかかわる人々を掌握していた有力勢力でもあった”称名寺”の門前にたどりついたのである。この寺には多くの歴史が詰まっている。実に魅力的な寺なのだ。

 以下、「その2」に続きます。更新は6月19日の予定です。

〔11〕駒込界隈を巡る

武蔵野台地のヘリを訪ね歩いてみた

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六義園の内庭に至る門

 駒込界隈には特別な用事はほとんどないのだが、時折、この町を散策してみたくなることがある。この地では時(とき)は幾筋もの流れをもっていて、人の歩みでは追いつけない時、数百年いや数千年前に止まってしまった時、文明の流れより遥かにゆったりと流れる時、人の息遣いに同調して流れる時など、この地はいろいろな容貌を有しているようだ。

 本郷に用事があって、それが早く終わったときは本郷通りをゆっくり北上し、都度、寄り道をしながら駒込駅まで歩く。まれに駒込に行く必要が生じたときは、予定された時間よりかなり早く到着し、駅周辺を散策する。駒込の町は豊島区に属するが、南へ行くとすぐに文京区になり、北や東に行くとすぐに北区になる。駒込武蔵野台地のヘリにあり周囲には坂が多い。このため行政区域の境が複雑に入り組んでいるのだろう。

 駒込の地名の由来は、駒=馬、込=混、で「馬が多く集まっているところ」だそうだが、その一方、駒も込も同時に混に通じるとするならば、「地形が入り組んでいるところ」と解することもできそうだ。どちらが正しいか、あるいはどちらも異なるかは別にして、この地形がこの地の魅力を生み出してきたのは確かである。

谷田川の流れが駒込の地形を造った!?

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駒込駅の横にも坂がある

 「大地は神が造った。ただ、オランダだけはオランダ人が造った」という有名な言葉があるが、駒込の地形は、地区の東を流れていた「谷田川」がその創造に貢献している。この川は現在は暗渠化されているのでその流れを見ることはできないが、その上を「谷田川通り」の名の道路が走っている。この川は、現在は台地のヘリから出る湧水が道路下を流れるだけだが、かつては石神井川の主要な通路でもあった。このため流路はかなり広かったようで、現在の駒込駅の東側まで段丘崖を造っている。

 もっとも、駒込は山手線の駅がある町なので周辺の開発のスピードはすさまじい。段丘崖であったという痕跡は少なく、なだらかに整地された斜面が大半だ。その限り、「駒込の地形は谷田川が造った。ただ、駅周辺はデペロッパーが造った」といっていいのかもしれない。

六義園を初めて訪ねる

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入口すぐにある記念撮影どころ

 六義園駒込駅のすぐ南側にある。もっとも、駅近くの染井門(駅から徒歩2分)は通常時には閉鎖されており、入口(正門・駅から徒歩7分)は庭園の南側にある。入園料は300円。敷地が8万8千平米もある「回遊式築山泉水」なので見どころは多い。とくに内庭に入るとすぐ目の前にある「しだれ桜」の巨木は有名で、3月の開花期には大名行列ならぬ大行列ができる。秋の紅葉シーズンも人気があり、ともにライトアップされることでいっそう艶やかになる。駒込六義園がある場所は文京区本駒込)はツツジも有名な場所だが、私が訪れた5月末は時季外れでツツジは終末、アジサイは尚早といった感じで花は少なかった。それでも新緑は美しく、とても都会にある庭園とは思えないほど緑は濃かった。

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藤代峠から大泉水を望む

 六義園徳川綱吉側用人だった柳澤吉保が、和歌の趣味を基調として造らせた大名庭園だ。吉保は「むくさのその」と呼んでいたが、現在は「りくぎえん」と読まれている。「ろくぎえん」でも良さそうだが、ここは漢音できちんと「りくぎえん」と呼ばれている。意外に知られていないが「六」は”りく”が漢音で”ろく”は呉音だ。

 呉音は6世紀ごろ、仏教とともに大陸から流入されたので、仏教用語の多くは呉音で読む。「六道」は「ろくどう」が呉音読みで「りくどう」が漢音読みだ。また古く(平安期以前)から日本に流入した言葉も呉音で読むことが多く、律令用語や万葉仮名も呉音読みが基本だ。たとえば「令」は呉音で「りょう」、漢音で「れい」。当然、『万葉集』の言葉は呉音で読むはずなのだが‥‥。

 一方、現在は呉音や漢音の区別は良い意味でいい加減で、読み方にこだわると「東京」は漢音読みで「とうけい」、呉音読みで「とうきょう」となる。実際、明治期には漢音読みにこだわり、東京を「とうけい」と言っていた人が多かったらしい。まあ、言葉は融通無碍なので「言ったもん勝ち」なのである。「れいわ」のような例は多い。

 閑話休題、「六義」の名から儒教思想を連想したのだが、実際は中国詩の六つの類型にならった和歌の六体を意味しているそうだ。「風」「雅」「頌(しょう)」「賦」「比」「興」の六つで、前三者は詩の性質・内容、後三者は詩の表現を意味するとのこと。このため、万葉集をはじめとして多くの和歌にうたわれた和歌山県の名勝地(本家は中国の古典)が庭の素材になっている。写真のキャプションにある「藤代峠」は園内の築山だが、この名は和歌山県にある峠名から借りたものだ。

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大泉水に浮かぶ蓬莱(ほうらい)島。向かいにあるのは吹上茶屋

 海をイメージした”大泉水”には「蓬莱島」が浮かんでいる。この島の名の”蓬莱”は神仙思想のひとつで、蓬莱という仙境には仙人が住んでいると考えられた。

 ”蓬莱”と聞いてすぐに思い浮かぶ人物といえば、秦の始皇帝に使えた方士の徐福だろう。始皇帝に”不老不死の霊薬”を探すといって、蓬莱島(山)へ出掛けるための莫大な資金を拠出させ、東方に旅立って秦に戻ることがなかった人物だ。

 彼は山東省出身なので、その地の東方にある島といえば日本とも考えられる。実際、日本には”徐福伝説”が多く伝承されている。たとえば、和歌山県新宮市には”徐福の墓”とされるものがあり、その地は現在「徐福公園」として中国風の楼門や大きな徐福像があり、私もそこには何度か訪れたことがある。もっとも、徐福公園に行くことが目的ではなく、第一には作家、中上健次が18歳まで過ごした土地の空気に触れるため、第二には「熊野速玉大社」や「熊野本宮大社」へ訪れるための拠点として新宮市に宿泊し、たまたま散策中にその公園を見出しただけなのだが。

 ともあれ、ここ六義園には、和歌山の景観や和歌に詠まれた名勝地、古代中国の伝承などが吉保のイメージによって再現され「八十八境」として具象化されている。

江戸庶民の富士山信仰が生み出した神社

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江戸庶民が熱狂した富士信仰の一拠点

 六義園の次に向かったのは、やはり文京区本駒込にある「駒込富士神社」だ。

 江戸時代の庶民の間には「富士信仰」が流行した。富士は”不死”もしくは“不尽”に通じるため、富士講と呼ばれる巡礼組織が数多く作られた。最盛期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど盛んだったらしい。もっとも庶民には本当の富士山に出掛けるのは体にも懐にも負担が大きいので、富士山の小型版を町内に築いた。これが富士塚と呼ばれるもので、高さは4~10mのものが大半だ。

 駒込富士神社にある富士塚は、この地にあった前方後円墳の円墳部分を利用したという説がある。写真にはないが、右手には本物同様、岩穴もある。ここの特徴といえば、町火消の人々に愛されたということから、彼らの旗印である”纏(まとい)”の絵や火消の組を表す石碑がたくさんあることだろう。

坂を下ると都電の姿が目に入った

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坂の下に見えた都電の姿

 神明都電車庫跡公園に向かった。駒込界隈は細い路地が複雑に入り組んでいるので、どの方向に進んでいるのか分からなくなることがある。しばらく迷ったのち、写真の景色が目に入ってきた。視線の先に”都電”の姿があったので、そこが目指す公園に違いなかった。この緩い坂もかつては急だったはずだ。

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1949年に造られた6063号。最後は荒川線で活躍した

 公園内には写真の車両だけでなく貨物車もあった。しかしどちらも柵の中に鎮座しているため、乗ることはおろか触れることさえできなかった。この6000形の車両は都電では一番多く用いられていたため、私がイメージする”チンチン電車は”はこの姿だ。

 公園内には緑が少なく、やや厳しめの日差しの下では長居はできそうになかった。植物としてはビヨウヤナギとランタナ(写真の花)がよく咲いていたが、アジサイは開花の始まりで、七変化の一変化目だった。

段丘のヘリに造られた駒込東公園

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緑が多い公園で、しっかり段差もある

 駒込東公園は豊島区にある。文京区からまた駒込駅近くに戻ってきた。前の公園は段丘崖の下にあったが、また坂を上ってここにやってきたのだ。ここは丁度、崖のヘリにあり、公園自体もこの段差を利用して造られている。もちろん、この段差は前述した谷田川が生み出したものである。さほど広くはないが、緑がとても多いためか木陰にあるベンチに腰掛けて休憩している人が4人いた。ここでは、時間はゆったりと流れているようだった。

アザレア通り駒込駅東口に通じている

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庶民的な香りがするアザレア通り商店街

 公園を出て、次なる目的地である「中里第二踏切」へ向かう途中、「アザレア通り商店街」に出た。この通りの背中の先には駒込駅東口がある。 なかなか庶民的な香りがする商店街で、下町ならではといった感じだ。

 アザレアはツツジの英名で、写真のようにツツジの花がしっかりと描かれている。ツツジソメイヨシノと並び、駒込を代表する花だ。豊島区の花にも指定されている。もっとも、元園芸ファンとしては簡単には肯けないものがある。アザレアは園芸の世界では西洋ツツジを意味するからである。ここはせめて「つつじ通り」と呼んでほしかった。

 こういうことはこの世界ではよくあり、アジサイといえばガクアジサイや西洋アジサイを指し、小型に改良された園芸品種は学名から採ってハイドランジアと呼んでいる。ちなみに、ハイドロは水のことである。アジサイには雨がよく似合う。

今のうちに見ておきたい、山手線唯一の踏切

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山手線唯一の踏切。もうすぐなくなるかも

 駒込界隈に来たとき、必ずと言って良いぐらいの頻度で立ち寄るのが、ここ「中里第二踏切」だ。駒込駅と田端駅との間にある、山手線唯一の踏切である。駒込駅東口から徒歩数分のところにあるので、さほど時間に余裕がないときでさえ大抵の場合、この踏切の近くに立って、山手線が通り過ぎるのを待つ。これが中央線だったり南武線だったりすれば当たり前すぎる景色なので、わざわざ見に出掛けようとはしない。山手線の踏切であることに価値がある。

 しかし、山手線と谷田川通りが交差するこの踏切も、2020年に立体交差に向けた概要が決定されるというので、そう遠くない将来この姿は見られなくなる。そうなると、私にとって駒込に来る動機は相当希薄になる。そのように思うと、山手線の車両にデコレートされた「スシロー」の宣伝写真が悲しみを帯びて見える。クルクル回る寿司も、最近は回らなくなってきているし、クルクル回る山手線には踏切がなくなるし‥‥近代化は人の心身を疎外する。

初めての旧古河庭園~美の背後にあるもの

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5,6月はバラの季節。訪れる人は多い

 旧古河庭園は北区西ヶ原にあるが、駒込駅からも10分ほどの距離にあるので最寄り駅のひとつになっている。本郷通りの妙義坂を下って上って庭園の入口に至る。この下り上り、すなわち谷状の地形も、谷田川が形成したものだろう。

 六義園同様、この庭園に入るのは今回が初めて。「浅見光彦」を探しにこの近くへは何度も来たことがあるが、たとえ150円という格安料金で美しい建物や庭園に触れられるとしても、やはり「古河」の文字には抵抗があった。

 大正時代に整備されたこの庭園は、古河財閥の3代目の古河虎之助(古河市兵衛の実子)の邸宅として1919年に整備された。石造りの洋館は段丘上に、洋風庭園は段丘崖に、日本庭園は段丘下というように、武蔵野台地のヘリをうまく使ったとても趣きのある空間である。広さは約3万平米で、おおよそ六義園の3分の1だ。

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心字池を中心にした日本庭園

 バラが開花中のこともあってか日本人女性の姿が目立ち、男女比は2:8といったところ。外国人観光客も多いが、こちらは日本庭園の方に興味がありそうだ。洋館や洋風庭園に見られた騒々しさもないので、のんびりと散策するには断然、こちらの方が良い。雪見灯篭、枯滝、十五層塔などの配置も素敵だ。

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大滝は段丘崖の段差を利用している

  段丘崖の西側はなだらかに成形され、そこにバラ園やツツジ園を配置し、東側はその段差をうまく利用し、森の中で音を立てて落下する滝を演出している。写真ではうまく表現できていないが、実物は見事に「自然美」を再現している。

 この広大な敷地は、幕末から明治期に活躍した陸奥宗光が明治20年(1888年)頃、別宅にするために購入した。陸奥といえば幕末には坂本龍馬と常に行動を共にし、勝海舟の海軍操練所にも入った。維新後は一時、不遇期はあったが、伊藤博文山縣有朋らの助力もあって、政治家として活動した。とくに外交面で手腕を発揮し、幕末期に結ばれた不平等条約の改正(治外法権の廃止)を成し遂げたことは、歴史の教科書にもよく出てくる業績だ。

 が、勝海舟陸奥を”人に使われるときは才能を発揮するが、人の上に立つ器ではない”というように評したように、負の一面がある。それは、1891年の帝国議会での対応に現れる。田中正造足尾鉱毒事件における古河側の責任を問う質問主意書を提出した際、陸奥は「主意書の意図は不明」として誠意ある回答を示さなかったのだった。

 陸奥の次男であった潤吉は、当初、実子のなかった古河市兵衛古河財閥一代目)の養子となり二代目を継ぎ古河鉱業を興した。この二代目のときに足尾鉱毒事件は最悪期を迎え、田中正造の戦いは本格化した。田中が私財を投げうって反対運動を進めているとき、陸奥は西ヶ原の一万坪弱の土地を別宅にするために購入したのだ。この土地は二代目のときに古河財閥のものとなり、三代目によって大庭園が完成するのである。

 私の心のどこかにこの知識が居着いてため、この庭園を避けていたのかもしれない。政治家としての陸奥への評価は高いが、人としての評価は格段に低い。

ソメイヨシノ発祥の地

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ソメイヨシノはこの蔵のある地で栽培された

 写真の旧丹羽家住宅蔵は駒込3丁目にあるが、かつてこの一帯は染井村と呼ばれていた。”染井”は地名としては残っていないが、写真の掲示板のようにこの名前を使うことは多い。”染井通り”、”染井稲荷神社”、”染井霊園”などで、私が旧古河庭園から歩いてこの住宅蔵のある広場に来たときも”染井坂通り”を上ってきた。この住宅蔵は1936年に造られたものなのでソメイヨシノには直結しないが、この蔵を建てた丹羽家とは大きな関連がある。

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門と蔵のある広場は植木職人の丹羽家の敷地だった

 丹羽家はこの染井地区では有力な植木職人だったことは、写真の”腕木門”からも想像できる。腕木と呼ばれる梁(はり)で屋根を支えることから腕木門というそうだが、一介の職人ではこのような立派な門を構える家を持つことはできない。この地で江戸後期、エドヒガンザクラとオオシマザクラが偶然なのか意図的なのかは不明だそうだが交配され新種のサクラが誕生した。いくつか生まれた中からもっとも特徴的な1本を選び、それを接ぎ木して増やしたということが現在分かっている。

 はじめはサクラの名所である奈良の吉野山にちなんで”吉野桜”と名付けられたが、吉野にあるヤマザクラとは異なる種であることが分かり、この地にちなんで”ソメイヨシノ”と名付けられて日本中に広まった。あくまで"吉野"にこだわっている点が面白い。学名は"Prunus×yedoensis"である。ここには染井も吉野もなく、江戸が入れられている。

 ここで160年ほど前、ソメイヨシノが誕生したと考えると、この何の変哲もない広場がなんだか輝かしく見えてくるから不思議だ。

太田道灌ゆかりの神社

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太田道灌が3度祈願し3度とも勝利した「戦勝の宮」

 グーグルマップを見て駒込駅へ行く道を探していると「妙義神社」の名を見つけたので立ち寄ってみることにした。神社にではなく”妙義”のほうに惹かれたのだ。群馬県にある妙義山はその奇妙な形に興味があるのでよく出掛けるが、その地にある妙義神社駒込妙義神社の関係にも少し関心があった。が、その関係は不明だった。もっとも、”妙義”そのものの語源が諸説ありすぎてまったく解明できないのである。

 群馬の妙義神社は家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願など庶民の現世利益を実現してくれるようだが、駒込のほうは”戦勝の宮”、”勝負の神様”という群馬のそれとは少し毛色の違う神社のようだ。その理由は、ここに戦勝を祈願した太田道灌と関係があるようだ。

 戦上手としてよく知られた道灌だが、やはり神にすがることはあったようで、この妙義神社には3度戦勝を祈願し3度とも勝利した。そのために道灌は様々なものを寄進したという記録が残っているそうだ。残念ながら太平洋戦争でそのすべては焼失した。それでも、道灌との関係を知る資料は他に残っていたようで、再建する際には”道灌霊社”が造られている。

 現在は古くなった社殿や境内にある建物を復興造営中のため境内は狭くなっているため、ここでゆっくりすることはできなかった。

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四辻の中央にある電柱

 妙義神社から本郷通りに出る参道はとても細い。現在は住宅が密集しているが、利便性を高めるためか安全性を確保するためか、少しだけ道が拡張されている。しかし、電柱だけはかつてからあった位置に残されているので、四辻のほぼ中央に立っていることになった。これも、下町ならではの光景かもしれない。

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妙義坂にある子育地蔵尊

 本郷通りに出た。駒込駅方向からくると下り、旧古河庭園方向に進むと上り、この坂は”妙義坂”と命名されている。妙義神社があるからだ。東京には坂が多い。当然、近くの神社に由来するものも多い。”阿弥陀坂”、”無縁坂”、"観音坂”、”地蔵坂”、"不動坂”など無数にある。

 妙義坂の途中にあるのが写真の子育地蔵尊だ。地元の有志が子孫繁栄を祈願してお堂と地蔵尊を建立したのだが、戦争末期の空襲によって消失し、地蔵尊だけが再建された。地蔵堂の中には二人の少女の供養碑もある。かつてこの近くで交通事故で亡くなった少女を供養するものだそうだ。以来、この地蔵尊は子孫繁栄だけでなく、交通安全も見守っている。

下町情緒のある駅前通り商店街

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駒込駅東口に通じる駒込銀座通り

 谷田川通りと駒込駅東口を結ぶ細い通りが駒込銀座通り。写真のようにここを通る人はかなり多い。その狭さとおおらかな雰囲気は下町情緒たっぷりといったところ。実際には、どこの駅前にもある店も多いのだが、その一方、地元ならではの店が混在し、感じの良さを生み出している。

 最近では「さつき通り」の垂れ幕を飾り、「銀座通り」からの脱却を図っているようだ。前述した、駅の東口から南東に伸びるのが「アザレア通り」、北西に伸びるのが「銀座通り」改め「さつき通り」となれば、ツツジの仲間での対比が生まれる。4から5月はツツジ、5から6月はサツキの季節。いい塩梅である。

 駒込界隈を巡り、関連するいろいろな人物名に出会った。古河市兵衛であり田中正造であり太田道灌である。このブログで触れた人物だ。徘徊にはいろいろな発見がある。次はどんな人物や事柄に出会うことができるか、楽しみは尽きない。

 

★このブログは毎週土曜日の更新を心掛けてきましたが、6から9月は鮎釣りシーズンのため、しばらくは10日、20日、30日に更新させていただきます。天気と気分と出会い次第で変わりますが。

〔10〕羽田空港周辺を飛び歩く

10代の頃、羽田空港は私の逃げ場だった

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京浜島つばさ公園から空港を望む

 10代の半ば頃からしばらくは羽田空港に出掛け、展望デッキから飛行機の離発着をのんびりと眺めるということがよくあった。

 学校に行くことは、最初の一か月で興味を失った。朝、京王線新宿駅までは一応行くのだが、混雑する山手線に乗るのが嫌で、通勤・通学ラッシュが一段落するまで新宿駅のホームで待った。いざ電車に乗ると、今度は駅には下りず、外の景色や乗客の行動を観察しながら時間をつぶし、まあるい緑の山手線で都内をぐるぐる回った。学校に着くころには、4時間目が始まっていた。

 山手線にいささか飽きた頃、今度は浜松町駅東京モノレールに乗り換え、羽田空港まで出かけることが多くなった。別に飛行機に興味があったわけではなかった。小学生の頃、一度だけ乗ったことがあったが、別段、感激はなかった。それよりは、新幹線のほうが乗っていて楽しかった。だから、小さい頃は、飛行機の運ちゃんではなく、電車の、さらにいえば新幹線の運ちゃんに憧れを抱いていた。

 一方、乗り物を見る側の立場となると、新幹線は一瞬にして目の前を通りすぎてしまうので面白みはない。それより、空港を飛び立つ飛行機が残す軌跡をたどるほうが、また空の中から点ほどの小さい姿を現した飛行機が段々とそれを拡大させながら空港に近づき、轟音を立てて着陸する様子を眺めるほうが楽しかった。今でも、年に30回ぐらいは飛行機の離発着を見るだけのために空港へ出かける。もっとも、今は羽田ではなく調布ではあるが。

飛行機の離発着を眺めるスポットの代表格だった”浮島町公園”

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川崎市の浮島公園には飛行機撮影ファンが多く集まる

 今の羽田空港はターミナルが立派になり過ぎ、かつ人も多過ぎるため、飛行機をのんびりと眺めるという気持ちにはとてもなれない。そこで、空港内ではなく周辺部から楽しむということになる。飛行機の動きを追いながらそれに自分の異郷への憧れも載せるなら離陸のときが良いが、迫力という点では着陸時のほうが断然面白い。私には、飛行機の離発着を写真に収めるという動機も趣味も今までなかったので、その撮影は今回がまったく初めてといっても良い。しかし、”眺める”という体験は、若い頃から今でもずっとしているので、羽田空港周辺の主だった”ビューポイント”は認知している。

 今回は、行きやすく眺めやすいポイントを飛び歩いてみた。マニアには”とっておきの場所”があるのだろうが、私にはそんなものはないので、既知の場所をあれこれと動きまわった。併せて、”羽田”という町にも、多摩川河口という場所にも魅力はたくさんあるので、”つばさ”だけを追う散歩ではなかった。

 古くから「航空機撮影ファン(撮りヒコ)」によく知られているのが、川崎市川崎区にある「浮島町公園」である。今では、「東京湾アクアライン」の浮島インターや首都高速湾岸線の浮島ジャンクションがあるところといったほうが馴染み深いかもしれない。

 ここにはかつて(今もなくなったわけではないが)「浮島町海釣り施設」があり、真上を飛び交う飛行機、眼前を悠揚と進む大型船などの姿を見ながら釣りができる場所として人気があった。が、その無料駐車場が”廃車置き場”と化してしまったため駐車スペースはなくなった。そのためアクセスが極めて困難となり、今では釣りに訪れる人は皆無に近くなった。一方、カメラ小僧やカメラ爺は自転車という機動性の良い乗り物を使ってここを撮影スポットに利用している。

 今回、近くにコインパーキングがないかどうか調べてみたのだが、周囲は工場や倉庫街なのでその手ものはまったくなかった。が、”にこにこパーキング”といって羽田空港を利用する客の車を数日間預かる駐車場が時間貸しで利用できるということが分かった(4時間以内1000円)ので、かなり割高ではあるがここに車を止め、公園まで出かけた。

 公園内には10名ほど、カメラを構えた”航空機ファン”がいた。皆、高級一眼レフに600ミリの望遠といういでたち。私といえば、コンパクトミラーレス一眼に普及品の中望遠ズーム。これではとても太刀打ちできないので、”空港に降り立つ飛行機を撮る”という作戦から、”空港に降り立つ飛行機を撮る人々を撮る”という戦術に改めた。

 ファンたちは一様にスマホのアプリを使って、どんな飛行機が降り立ってくるのかを調べながら撮影態勢をとっている。降りてくる機種によっては誰も見向きもしない一方で、一斉にカメラを構えるという動きをとることもあった。そんなときは、たしかに通常とは異なるデコレーションが施されている飛行機が下りてきた。私には、飛行機よりもそうした行動をとる人々の動きの方が興味深かったが、それでは大枚1000円を払った甲斐がないので、着陸態勢をとる飛行機が入りつつカメラを構える人々も入る場所でその撮影機会を待った。

 なお、写真内の海上に見えるのが2015年から使用されている”D滑走路”だ。桟橋状の構造物になっているのは、多摩川の流れを妨げないためだ。なにしろ、この新滑走路は多摩川河口の半分以上を占めているのだから。

 ともあれ、なんとか撮影ができたので、ここを離れ、次の”航空機撮影”基本スポットである城南島や京浜島へと移動することにした。

羽田空港はただ今、オリンピックに向けて工事中

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空港周辺も”オリンピック景気”に沸く

 次の場所に移動する前に今一度、川崎側から空港を望んでみようと、殿町(とのまち)にあるコインパーキングに車を止め、多摩川右岸堤防に出てみた。この辺りは「キングスカイフロント」と呼ばれるようになったそうである。自動車工場の跡地に、ヨドバシカメラのアッセンブリーセンターだけでなく、ライフサイエンス・環境分野の研究開発拠点を誘致した。それ自体は好感のもてる開発方針だが、命名がいただけない。「高輪なんとか」といい勝負だ。地区名が殿町だから”キング”、対岸に空港があるので、”スカイフロント”。なんだか人を小ばかにしたような名称である。

 川の向こう側に姿を現したのは、国際線ターミナルの改良とそれに付設するホテル、商業施設、会議場、温浴施設、大型駐車場の巨大工事現場だ。完成後は「第3ターミナル」と呼ばれることになっている。オリンピック開催までの完成を予定しているらしい。また、川の中に見える橋脚(ピア、ピーヤ)は川崎側の国道409号線と、空港内を走る「環状八号線」とを結ぶ「羽田連絡道路」(仮称)のものである。こちらもまた、オリンピックに向けたものである。これらの工事でも国立競技場のそれと同様、月28日の長時間労働が日本人・外国人労働者に強いられていることだろう。

 東京オリンピックという”馬鹿げた”運動会のために、他に使うべき必要のある貴重な財源と人材が、ここにもまた”無駄”に投入されている、一部の”利権屋”のために。

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多摩川の左岸から望んだ空港周辺

 城南島に立ち寄る前、多摩川河口周辺の様子が気になったので、少しだけ多摩川左岸にも寄ってみた。ここでも河川の改良工事がおこなわれていた。ここいらは”羽田漁港”とも呼ばれ、遊漁船の発着場になっている。その施設は写真のとおり極めて古い。個人的にはこの”古さ”と空港の新しさの対比が好みなので、この景色は可能な限り残してほしいのだが、近代化の波はこの旧港まで及びそうで物悲しい。前方に見える多摩川の河口も、D滑走路に塞がれているようで息苦しそうだ。

海遊びもできる城南島海浜公園。ただし遊泳禁止

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城南島の”つばさ浜”では貝掘りの人もいた

 羽田空港の真北にある城南島は埋立地で、工場や倉庫などがとても多い。島の東側の沿岸が海浜公園になっている。公園からは、大井ふ頭の”ガントリークレーン群”や青海、有明豊洲、辰巳一帯の高層ビル群、東京タワー、スカイツリーなどが望め、ここでは釣りもできる。東側の対岸には巨大な中央防波堤埋立地があり、その間を東海汽船ジェットフォイルや大型貨物船が走る姿を見ることもできる。一方、公園の南東側は一部”つばさ浜”と命名された人工砂浜が、その陸側にはバーベキュー場がある。

 この日は大潮の干潮時にここへ到着したので、砂浜では潮干狩りを楽しむ人の姿が散見された。また、気温が高く、真夏を思わせる強い日差しが照り付けていたため、水遊びをする人、肌を焼く人などもいた。ここの海水はあまり綺麗ではないので、”遊泳禁止”の表示が掲げられている。

 天気予報では南風が強くなると告げていたので、この公園の真上を通って羽田に着陸する飛行機が見られると期待したのだが、ここに来た当初はあまり風が強くなっていなかった。こうなると、羽田では通常時のA、C滑走路が使われることになる。この場合、公園から見られるのはC滑走路からの離陸ということになるので、やや期待外れだった。それでも、護岸ギリギリまで寄れば離陸時の撮影は可能と思い移動したところ、南風が強くなってきたため、C滑走路では、南に向けた離陸が始まった。

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城南島でも航空機撮影ファンは多かった

 こうなると、着陸にはB、D滑走路が使われることになるので、城南島は期待した通りのビューポイントになった。着陸する飛行機を撮るだけならここで十分だが、やはりここでも”着陸する飛行機を撮る人を撮る”を心掛けた。すると案外、位置取りが難しいことが分かった。飛行機が頭上を通るので、人と飛行機を同じ画面に入れるのが大変なのである。飛行機が通り過ぎた状態であればその位置が低くなるので人も入れやすいが、今度は逆光になるので色が飛んでしまうのだ。

 丁度、桃色にペイントされた大型貨物船が中央防波堤との間の水道を通りそうだったので、飛行機の着陸と船の入港、さらに、向かいのガントリークレーンを入れれば、多少飛行機の姿は小さくなってもなんとか”絵になる”と期待してシャッターを切った。満足とはいえないもののギリギリ合格点かも。

B滑走路への着陸機を見るなら京浜島つばさ公園が最適

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B滑走路に着陸する飛行機と新管制塔

 京浜島は空港の北西側にある。島の東側が”つばさ公園”になっており、B滑走路に降り立つ飛行機を間近に見ることができる。ここならば私のカメラでも十分に着陸する飛行機をメインにした写真が撮れる。強くなった南風様様である。

 飛行機だけではつまらないので、新管制塔と旧管制塔(予備管制塔)を背景にできる撮影ポイントを探した。着陸する飛行機を眺めるだけならこの場所でも今まで何度も経験してきたが、撮影は今回が初めて。前回の”チンチン電車”ぐらいの遅さなら普通に撮れば良いのだが、着陸時でも新幹線ほどの速さがある機体を撮るのはかなり難しい。飛行機だけなら”速度感”を出すための流し撮りで良いのだろうが、背景もきちんと明瞭に入れるには速いシャッターで両者を収めなければならない。そうすると、今度は被写界深度が浅くなるため、どちらかがボケることになる。幸い日差しが強く、やや絞り込んでも速めのシャッターが使えたため、なんとか飛行機のブレを抑えることができた。”撮りヒコ”ならこうした写真は躍動感がないためにボツにするだろうが、”初心者”ならやはりギリギリ合格点だと勝手に考えた。

 この場所には無料の駐車場があるが、そのスペースは狭いため、多くの人は路上駐車する。道路の幅の割には交通量は少ないので”黙認状態”といったところ。以前に立ち寄ったときには空港との間の水道で釣りをする人が結構見られたので、釣り人も入れた写真も撮れると考えていたのだが、この日は一人だけいた。それも希望のフレームからは外れるところで釣りをしていたので、ここでは除外した。

羽田の地を”信仰”で守り抜いた穴守稲荷

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現在改修中の穴守稲荷神社

 羽田村はかつて、農業と漁業が盛んだった。浅い海は江戸時代から新田開発され、目の前には”豊饒の海”が広がっていた。豊かな田畑や豊富な魚介類の多くは多摩川が運んだ栄養分がもたらしたものだろうが、その一方、”暴れ川”である多摩川は度重なる氾濫を生じさせた。堤防に開いた穴から人々の暮らしを守るという目的で造られたのが「穴守稲荷神社」だ。もともとは、今は羽田空港の敷地になっている場所にあったのだが1945年、その地を米軍に接収されたため、現在の京急穴守稲荷駅近くに地元の人々の力で再建された。

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改修中のため、境内の脇に保管されている赤い鳥居とキツネ像

 稲荷は”稲成り”の言葉通り、豊作を祈る農業神だったが、現在では産業興隆、商売繁盛、家内安全なども祈られるようになった。また、神の使いとして稲荷には”キツネ”が欠かせない。稲荷信仰の総本山は京都の伏見稲荷大社で、外国人観光客にも人気があるのが”千本鳥居”。ここ穴守稲荷でも数多くの赤い鳥居が保管されているので、本社には及ばないものの、改修工事完成後には見事な赤い鳥居の行列が再び見られるはずだ。

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今は羽田空港から旅立つ人の安全を守っている大鳥居

 写真の大鳥居は、かつて穴守稲荷が現在の空港の敷地内にあったときのものだ。滑走路の拡張の際、この鳥居の移動だけは住民の抵抗もあって敷地内に残されていたが、その後の再拡張のとき、1999年に海老取川河口左岸側に移動してきたものだ。すぐ隣には環状八号線が走っており、この道を使って空港ターミナルに向かう旅人は結構多い。そんな人々の多くが、この赤い鳥居を目にしていることだろう。その中の幾人かは、この鳥居に”旅の安全”を祈願しているに違いない。羽田の人々に大切にされてきた鳥居だけに。

羽田の町中を飛び歩く

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橋の上から羽田第二水門周辺を望む

 羽田は古い町である。1889年にいくつかの村落がまとまって羽田村ができ、1907年には羽田町になっている。

 私はかつて、ここに羽田空港があるのでこの地を羽田と呼ぶようになったのだろうと勘違いをしていた。”羽”は飛行機を連想させる。”名は体を表す”からである。が、実際は、ここに飛行場ができたのは1931年で、そのときは「東京飛行場」といわれていた。ここが羽田空港と呼ばれるようになったのは戦後のことで、名付け親は進駐軍(米国陸軍)である。

 話は逸れるが、私は陸上競技が好きで、普段ほとんど見ないテレビも陸上競技の中継だけはかなり見る。競技結果にも関心があり今年の2月、走り高跳びで久しぶりに日本記録が更新された。その選手名は戸邉(とべ)直人。新記録に挑戦する際、関係者や観客は心の中で、そして声に出してこう叫んだであろう、「とべ、跳べ」と。”名は体を表す”。アメリカでも、やや旧聞に属するが、女性のフリン中尉が、部下の女性の夫と不倫関係になり、それが発覚して除隊することになった。ニュースでも「フリン中尉、不倫で除隊」などと取り上げられた。”名は体を表す”。

 閑話休題、前述したように羽田村は多摩川の度重なる氾濫に苦しんだ。そこで、川の左岸には写真のような「水門」が造られている。また、写真では少しわかりづらいが、水門の奥には”赤レンガ堤防”がある。この赤レンガ堤防は道路に沿って海老取川河口近くまで続いている。多摩川は大都市を流れる川なのだが、その堤防は他の大都市を流れる河川の堤防とは違い、例外的にほとんどが土盛りだ。しかし、氾濫が多かったこの地区には、コンクリート壁や赤レンガ壁が必要だったのだろう。

羽田七福いなりめぐり

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鴎稲荷神社は七福いなりめぐりの五番目

 羽田では毎年の1月1日から5日まで、「羽田七福いなりめぐり」が行われている。スタンプラリーのように、一番の”東官守稲荷神社”から七番の”穴守稲荷神社”まで、別格の”玉川弁財天”を含めると八つを巡拝するという催しだそうだ。全部を巡っても2時間ほどだとのことなので当初は一番からスタートしようとしたのだが、そうすると空港からは少し離れることになるため、今回は空港近くの御稲荷様をグーグルマップで探し、七福めぐりとは無関係に巡ってみた。

 そのひとつが、写真の”鴎(かもめ)稲荷神社”だ。ここは「開運招福」を祈る御稲荷様で、漁師がこの稲荷に祈願するとカモメが飛来し大漁になったことから、鴎稲荷と呼ばれるようになったそうだ。

 写真の右手の「羽田道」の標柱にあるように、この稲荷の前の道は、海老取川にかかる弁天橋に通じる旧道だったのである。それだけ、多くの漁師がこの道を使って漁に出たり、獲物を運んだりして賑わったのだろう。

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白魚稲荷神社は七福めぐりの六番目

 白魚稲荷神社は、「羽田七福いなりめぐり」の六番目の御稲荷様だ。ここは「無病息災」という福を招いてくれる。武蔵風土記には「土人呼テ白魚稲荷ト云漁人白魚ヲ取コロ初テ得シ時ハマツ此社ニ供フル故ニカクイヘリ」と社号の由来が述べられている。

 ここでいう”土人”は地元民という意味で、差別的意味はまったくない。以前、「北海道旧土人保護法」を巡って、アイヌ土人と呼ぶのは差別的ではないかという論争が巻き起こった。しかしこの法律の趣旨は、以前から北海道に住んでいたアイヌ の権利を保護しようとするもので、「アイヌ=以前から住んでいた地元民=土人」という位置づけなのである。「土人=南洋のクロンボ」と一緒にするなと考える方が、よほど差別的だろう。この稲荷の名の由来も「土人=漁人」の図式で、字が読める人であれば、以前は漁師が数多く土着していて、彼らが漁の安全を祈願していたという様子が見て取れる。

 以上の通り、結果的には「七福」のうち、”鴎”、”白魚”、”穴守”の三稲荷を巡ったことになった。しかし、カメラのメディアには「稲荷」と名の付く場所が上記以外に三つ写っている。それだけ、この地では”稲荷信仰”が盛んだったのであろう。

 漁師の仕事は常に「死」と背中合わせだ。また、この地の人はいつも多摩川の氾濫と闘わなければならなかった。それでもこの地を愛したのは、豊かな海が眼前にあったためだった。

再び、多摩川の左岸に戻る

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羽田漁港に停泊する遊漁船

 町中巡りを終え、再び多摩川左岸の土手に出た。鄙(ひな)めいた 羽田漁港には夕日を浴びた遊漁船が停泊していた。その先にある羽田空港からは機体を黒く塗られた飛行機がA滑走路から飛び立っていった。

 

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左岸土手上から”大師橋”を望む

 左岸土手上から多摩川の上流方向を望むと、今にも壊れそうな”遊漁船倉庫群”と近代的な首都高速道路の”新大師橋”と産業道路の”大師橋”の対比が趣き深い。これは、あたかも今日の格差を象徴しているかのようだ(この表現法は三島由紀夫やカントが好むもの)。実際、大師橋の下には、ホームレスの人々のテントが2張りある。

 私は土手の上を歩き、海老取川河口まで戻った。近くのコインパーキングに駐車していたからだ。夕まぐれが迫る中、土手上の道路では多くの男女が散策していた。海老取川河口にはひとりの釣り人がいた。おそらくスズキを狙っているのだろう。

 この辺りの汽水域には生物が豊富だった、近代化の波が押し寄せる前までは。人はある豊かさを失うと、その一方で異なる豊かさを創造しよう試みる。しかし大半の人はその狭間にいて、ただ翻弄されるだけである。この地のように、たとえ”豊饒の海”が眼前にあったとしても、だ。

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水難者を祀った無縁仏堂とその先にある空港施設

 

 


  

 

〔09〕徘徊老人・東急世田谷線散歩

こんなに立派になっちゃって

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立派になった電車と夏を彩る花(ニオイバンマツリ)

 ボロっちい電車といえば、多摩の田舎では南武線、歌の世界では池上線というのが通り相場だった。

 南武線は、私の地元を通っているので、幼い頃から何度となく利用している。小学生の頃、母と、横浜に住む叔父のところに出掛けたときにも一度乗った。この電車のあまりのボロさと遅さと揺れ具合に母は閉口し、次からは渋谷周りで東急東横線を使うことになった。確かな記憶ではないが、車体の底板が一部壊れていて、車内からは曲がりくねった線路が見えたこともあったような。

 池上線は、知り合いの幾人かが旗の台駅洗足池駅の近くに住んでいたので、一年に数回、彼らの縄張りまで出掛けるときに利用した。駅間が狭く、いくつ駅を過ぎたのかすぐに忘れて友達に聞いた。電車は古く、ドアのそばに立っていると、隙間風に震えなければならなかった。

 とはいえ、1960~70年頃の電車といえば、概ねこんな感じだった。私が東京に行くとき(多摩の住民は新宿に行くときは”東京に行く”と言う)もっとも利用していた京王線ですら、60年代に初代の5000系車両が運行されるまでは、お世辞にも立派とはいえなかった。

 こんな南武線や池上線だが、彼ら?に言わせると、もっと格下の電車があるとのこと。それが、下高井戸と三軒茶屋とを結ぶ玉電(現在の世田谷線)だ。「俺たち(南武線や池上線)はいかにオンボロであろうとも一応は鉄道線だ。けど、ヤツ(玉電世田谷線)ときたら、”チンチン電車”じゃないか」。

 京王線に乗っていて、下高井戸駅を通過する際には、停車中の玉電の姿がよく目に入った。その古さと規模の小ささはある面、感動ものですらあった。「いつか乗ってみたい」、南武線や池上線にはない、そう思わせるような蠱惑(こわく)的なものが、玉電にはあった。

 そんな玉電も1969年に世田谷線に改称され、さらに1999年から現行の300系車両が導入された。「こんなに立派になっちゃって」。いささか魅力は減じられたものの、「チンチン電車」の香りは今でも感じられないわけではない。

世田谷線の起点は三軒茶屋

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三軒茶屋駅を出発する下り線

 世田谷線の起点は三軒茶屋駅で、終点が下高井戸駅になる。私には下高井戸駅に馴染みがあるので、この路線を語るときはどうしても下高井戸・三軒茶屋間となってしまうのだが、下高井戸駅発は上り線になる。今回は、下高井戸から三軒茶屋まで電車に乗り、帰りはあちこちブラブラしながら徒歩にて三軒茶屋駅から下高井戸駅間を訪ね巡った。路線延長は丁度5キロだが、寄り道が相当に多くなるので、約10キロは歩くことになる。

 世田谷線は、東京では「都電荒川線」とともに二つだけある「軌道線」のひとつである。軌道線というのは一般道路上に敷かれた線路を走るもので、”チンチン電車”とか”路面電車”などの名称で語られることが多い。が、荒川線の方は一部、道路上の軌道を走る(さらに駅とは言わず停留場という)ものの、世田谷線はすべて専用軌道(正式には新設軌道)であって、南武線や池上線と同等なはずである。世田谷線がそれにもかかわらず軌道線なのは、その出生背景に答えがある。

 世田谷線の前身であった「玉川電車(略して玉電と呼ばれることが多かった)」は、渋谷から二子玉川まで、そのほとんどを国道246号線の上に敷かれた線路の上を走る”路面電車”であった。そして1925年、その支線として三軒茶屋・下高井戸間を結ぶ世田谷線が開通した。この路線には主要な道路がなかったため、全区間に軌道が新設された。が、本線が軌道線であったため、1969年に本線が廃止されたあとも、世田谷線の法的な地位は、軌道線として位置づけられたままだった。

 ところで、世田谷線のレール間の幅(これを軌間とかゲージと呼ぶ)は1372ミリである。鉄道ファンはよく、「標準軌」とか「狭軌」とかの言葉を使うが、これは欧州の軌間が1435ミリであるため、これを標準軌と呼んでいるだけだ。日本では新幹線がこの「標準軌」であるが、JRや大手私鉄の大半が、1067ミリの軌間を使っている。日本ではこの1067ミリが「標準軌」で、1435ミリは「広軌」と呼んでも間違いではない。

 世田谷線の1372ミリは馬に引かせた客車の軌道の幅であるため、「馬車軌間」とも言われる。実は、京王線(本線のみ)もこの馬車軌間である。軌間が異なると、他の鉄道との相互乗り入れが困難になるため、都営新宿線は他の地下鉄とはちがい、例外的にこの馬車軌間を使っている。京王線は朝夕のラッシュ時には列車間がすぐに詰まりノロノロ運転を余儀なくされ一部からは”団子運転”と揶揄されているが、もしかしたら、今でも電気で動くのではなく、実は馬が引いているのかもしれない。

 ともあれ、世田谷線は出自が「馬車鉄道」であるため、すべて新設軌道を用いていても、扱いは”チンチン電車”になるのであろう。

路面電車扱いは、「若林踏切」を見ると分かる

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環状七号線と交差する世田谷線

 軌道線とはいえ、世田谷線には多くの踏切があり、電車が通過する際は遮断機が下り、人も自転車も自動車も通過待ちをする、一つの例外を除いて。それが、写真にある”若林踏切”だ。お分かりのように、ここには遮断機がない。

 環状七号線は交通量が非常に多く、通常の踏切では大渋滞が発生する。が、この踏切では「道路交通法」が車両側にも優先適用されるため、青信号の際は、自動車には「一旦停止」の義務はない。一方、電車の方も信号を遵守し、赤信号の際は踏切への進入はできず、青信号待ちとなる。それが下の写真だ。

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赤信号のため、電車も人と同様、信号待ちをする

 少々見づらいが、左手にあるトラックの屋根の上の信号を見ていただければ分かるように、道路を横断する側は「赤」なので、人も電車も信号待ちをしている。これが、”路面電車”たる所以なのである。 

松陰神社を散策する

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松陰神社の鳥居

 世田谷線には駅が10あるが、もっとも出掛けたくなる名前の駅が「松陰神社前」だ。駅からは参道のような商店街があり、その名も「松陰神社通り」という。駅から北へ300mほど行くと神社の鳥居が目に入る。鳥居の左側に、この神社の由緒が述べられた掲示がある。この地は長州藩主の別邸があったところで、松陰が刑死した4年後、門人たちによってこの地に墓が改葬され、さらに1882年に松陰を祀るための神社が創建された。私は、山口県萩市には幾度となく出掛けており、その際には必ず、当地の松陰神社に訪れるのだが、世田谷区にあるここは、今回で4度目の訪問だ。

 幕末には魅力的な人物(司馬遼太郎の影響が大きい)が多々現れているが、個人的には吉田松陰にもっとも好感を抱いている。その思想こそ私とは大きく異なるが、その壮絶とも言える生きざまに魅力を覚えるのだ。丁度、フランス革命時のロベス・ピエールの如くに。

 松陰は5歳の頃からスパルタ教育を受け、9歳のときには藩校の『明倫館』に出仕し、翌年には教授をおこなっている。神童という言葉が彼には相応しい。この点にはただ驚くだけだが、私が松陰を好むのは、友人との東北旅行の約束を守るだけのために脱藩したこと、日米和親条約の締結を終えたペリー艦隊が下田に滞在しているとき、その船に乗り込もうとしたことなどの行動力に、である。とくに後者は、「外国の文化を直に学ぶため」とされているが、一方で、「ペリーを暗殺するため」という説もあるようで、個人的には、”暗殺”を試みようとしたというほうが、松陰の生き方としては正しいように思われる。”至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり”の言葉そのものの生き方をしたのだから。

 また、松陰は陽明学最左派の李卓吾の影響を受けており、彼の著作である『焚書』をよく読んでいたという点も興味深い。「相手が出世間の学人でなければ、一緒に学問を論じることはできない。しかし、世俗を超越した人とはなかなか出会えるものではない」(『続焚書』より)という隠遁生活を希求した李卓吾の考え方と、革命家でもある松陰の思いとは必ずしも一致するものではないかもしれないが、松陰の生き方にはどこか超俗的な面があるのは確かで、この点、相通じるものはあったのかもしれない。そういえば、李卓吾は「童心」を最重視していた。これは「いつわりのない真心」という意味で、この点では松陰とはピッタリ合致すると言えるだろう。

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神社内にある松陰像。視線の先には、松下村塾を模した建物がある

  神社内には吉田松陰像があり、その向かいには松下村塾を模した建物もある。松陰の門下生には優れた人物が多かったが、彼らは皆、早世した。あまり目立たなかった者が生き残って維新後に権力を握った。松陰の理想とする世界とはかなり隔たった政府の有り様だったろうが、このように”過激な思想”は歴史的には常にファインチューニングされ、大局的に歴史は”漸進的”に発展する。ロベス・ピエール後のフランスがそうであったように。

世田谷にも城があった

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建物はないが、空堀、石垣、土塁などが残っている

 世田谷にも城があった。目黒でも”サンマが取れた”ぐらいなので、ここに城があってもおかしくはない。15、6世紀にあった平城で、奥州吉良氏が城主だった。吉良氏は足利氏の一門で、元は三河を本拠としていたが、やがて奥州探題となって足利氏を支えた。しかし衰亡し、小田原北条氏の援助を受けて世田谷に居を構え、小田原城攻略の際の豊臣勢にここを奪われるまで続いた。建物はまったくないが、写真にあるように石垣など、その痕跡はある程度残っている。

 現在は世田谷城阯(じょうし)公園として整備されている。ひっそりとした森があり、静かに読書する人、犬につられて散歩に来た人などが散見された。

上町車庫と「江ノ電601号」 

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上町駅の横にある車両基地には色とりどりの電車が待機している

 世田谷城と世田谷八幡宮は吉良氏つながりで関連性があるので、城阯公園の次は八幡宮と考えたのだが、三軒茶屋方向に進む電車から「上町車庫」が見え、それが気になっていたので寄り道をした。といっても、世田谷線は駅間が短いので、この寄り道でも数百メートルの距離でしかないが。

 世田谷線は2両編成の車両が10編成ある。各編成は色分けされているので、見ているだけで楽しくなる。写真左のオレンジ色の車両が三軒茶屋に向かっている上り線で、右手の3編成が待機中の車両だ。軌道には草が茂り、「草原(くさはら)電車」という名が相応しい、のどかな世田谷線である。

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宮の坂駅横に鎮座する”江ノ電601号”

 世田谷八幡宮は、宮の坂駅のすぐ西側にあるが、その駅の横を通るとき、古ぼけた車両が展示してあるのが目に入った。かつて玉電で使われていた車両で、玉電本線が廃線になった際、一部の車両は当時、東急の子会社であった「江ノ電」(現在は小田急系)に払い下げられたのだった。600系車両の1番なので”601号”なのだが、江ノ電での第二の生活を終えたのち、里帰りしてこの宮の坂駅横に展示された。乗り降りが自由にできるので、現在は、子供連れの女性たちの社交場にもなっているようだ。

世田谷八幡宮ののどかな境内では?

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世田谷八幡宮では神職がカメラマンも務める!?

 世田谷八幡宮は、世田谷城を拠点とした吉良氏がこの地を支配したときに整備したものだ。この地域の神社としてはなかなか有名なようで、秋の例祭では”奉納相撲”が農大の相撲部によっておこなわれるそうだ。

 敷地内には世田谷招魂社や厳島神社などがあり、のんびりと散策するのにも適した場所である。私は信仰心はまったくないが、こうした森閑とした場所を徘徊するのをとても好んでいる。

 この日はたまたまある家族の”出産祝い”があったのだろうか、神職がにわかカメラマンとなって記念撮影をしていたのがとても微笑ましかった。この風景は、神道だけでなく、プロテスタンティズムにも浄土真宗にも通じるものであろう。

豪徳寺と井伊家と招き猫

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豪徳寺の本殿は1967年に新造された

 かつて世田谷区の半分の土地を所有していたという豪徳寺は、彦根藩井伊家の菩提寺である。この辺りは先の吉良氏が所有していたのだが、それが滅んだ後、徳川家の譜代大名であった彦根の井伊家の所領になった。

 井伊家に伝わる伝説では、2代目藩主の井伊直孝がこの地で鷹狩りを行った際、寺の白い飼い猫が手招きをしたので、それに応じてこの寺で休息をとった。すると、急に猛烈な雷雨となり、近くの大木に落雷した。雷雨の被害に遭わずに済んだ直孝は、そのお礼に大量の資金を寄進し、そのお蔭で豪徳寺が再建されたとのこと。この手の話はよくあるので、あくまでも”伝承”にすぎないのだろうが、豪徳寺では”猫が福を招いた”ということで、”招き猫伝説”を広めることになったそうな。

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招福観音横には招き猫の置物がたくさんあり、観光名所になっている

 三重塔の干支(えと)の彫り物には、ネズミの中に猫が混じり、「招福観音」境内の中には、招き猫の置物が多数並べられている。私が訪れたときには大勢の外国人観光客がいて、とても興味深そうに招き猫の陳列を眺めていた。

 この招き猫はここで置物を買い求め、福が生じたのち再びここを訪れ、お礼にその置物を奉納したというものが多いそうだ。

 ここの招き猫は”右手”を挙げているが、他では”左手”を挙げているものもある。右手は”金”を招き左手は”人”を招くそうだ。豪徳寺の伝承では白い猫が右手を挙げて直孝を招いたので、ここの場合は”右手を挙げた白い猫”がすべてである。

 招き猫といえば、彦根市ゆるキャラひこにゃん”はこの豪徳寺伝説がルーツになっている。10年近く前、私が彦根城を訪れた際、いつになく騒がしい人の群れがあった。私も好奇心があるのでその群れに近づいた。なんと、”ひこにゃん”が地元のテレビ番組の撮影のために彦根城に来るとのことだった。それを聞くと、馬鹿々々しくなってすぐにその場を離れた。"ひこにゃん”はそれまでその顔つきからイヌだと思っていたが、そのとき、”にゃん”だからネコなのだと気づいた。にゃんとも恥ずかしい誤解だった。ともあれ、”ひこにゃん”の”白さ”は豪徳寺の猫の色に、その被り物の”赤”は「井伊の赤備え」に由来するそうな。

 豪徳寺以外では、両手を挙げたり、色も白以外のものもたくさんある。”招き猫伝説”は各地にある(空海説や浅草説など)ため、いろんな招き猫が”開発”されているようだ。私の場合、伝承には興味があるが、置物そのものにはまったく興味がわかないので、仮に招き猫の置物を頂いても、すぐに「もやさないごみ」の袋に入ることになる。

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吉田松陰とも因縁がある井伊直弼の墓

 豪徳寺彦根藩菩提寺であるため、井伊家代々の藩主とその室の墓がある。当然、”安政の大獄”で名高い井伊直弼の墓もある。吉田松陰はこの大獄に連座して1859年に処刑されたのだが、その翌年、井伊直弼も”桜田門外の変”にて暗殺されている。松陰が処刑されてから5か月後のことだ。

 吉田松陰は”松陰神社”に眠り、井伊直弼は”豪徳寺”に眠っている。因縁深いこの二人の墓は、直線距離にすれば約1キロのところにある。

山下駅豪徳寺駅

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山下駅を出て宮の坂駅に向かう世田谷線。上にあるのが小田急豪徳寺駅

 世田谷線から豪徳寺に行くには山下駅宮の坂駅を利用する。参道から山門に至るには宮の坂駅のほうが少し近い。しかし、小田急線の豪徳寺駅に隣接しているのは山下駅なので、実際には山下駅で下車する人の方が圧倒的に多いようだ。山下駅からは小田急豪徳寺駅の前を通り、結構にぎやかな商店街を抜けて豪徳寺に至る。

 世田谷線の車内でも”小田急線の豪徳寺駅をご利用の方はここでお乗り換え下さい”といったような放送がある。これならば、”山下駅”のような豪徳寺をまったくイメージできない名前より”豪徳寺駅”を使った方が、利用者にとっても分かりやすいと思うが。

 写真からも分かるように、世田谷線の白い車体には”招き猫”がデザインされている。猫は白く、右手を挙げている。いわゆる”豪徳寺パターン”である。ならば、豪徳寺には敵愾心はないと想像できるので、豪徳寺駅への変更は可能だろう。それとも、小田急線への敵愾心なのか。ちなみに、下高井戸駅世田谷線京王線も共通している。邪推すれば、世田谷線には”松陰神社前”があるからなのだろうか。

世田谷線には月見草がよく似合う

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草原の中を走る世田谷線

 世田谷線は沿線の人にも愛されているようで、線路脇には住民の協力によって花壇が多く設えられている。アジサイタチアオイが多いので、6月には美しい花の中を走るカラフルな電車が見られるし、一方、乗客も色とりどりの景色を望むことができる。

 私が徘徊していた時期は、上記の花たちは花芽を膨らませてはいたものの開花には至っていなかった。咲いていたのは大方、”貧乏草”(ハルジオンやヒメジョオン)だったが、松原駅と下高井戸駅の間にある赤松公園脇では、線路内に咲く”ヒルザキツキミソウ”が満開になっていた。これは植栽ではなく自生したものだろう。

 ツキミソウは初夏の花の中では好きなもののひとつで、これとアカバナユウゲショウが路傍に咲いているのを見ると、「もうすぐ鮎の友釣りの季節だなぁ」と想う。どちらもマツヨイグサの仲間で、5月初旬から開花する”雑草”の一種である。それにしても、名称が優雅で、牧野富太郎先生には叱られるが、この属の花だけはカタカナ表記ではなく漢字表記したい。”待宵草”属の”昼咲月見草”や”赤花夕化粧”というように。

 ともあれ、月見草が咲く中を走る世田谷線を撮りたかった(三軒茶屋に向かう電車の中からこの花が咲き誇る姿を見つけていた)ので、下高井戸駅に向かうときに、ここでカメラを花の前で構えつつ、電車が来るのを待った。

 富士ではなく、世田谷線には月見草がよく似合う。

古さが魅力の下高井戸駅界隈

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高井戸駅に入線する招き猫カラーの世田谷線

 下高井戸駅は新しくなり、車両もまた新しくなって古の面影はないが、下高井戸駅から一歩外に出ると、私が京王線の車内からずっと以前に見ていたままの景色がそこにはあった。下高井戸駅前市場や下高井戸商店街である。単なるノスタルジアだけでなく、ここでは人の営みを感じることができる。

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高井戸駅前市場には”人と人との近接感がある”

 私の地元では古い商店街をすべてつぶし、店は大部分、大きな建物の中に閉じ込められた。そこには歴史はなく、歴史を残すこともない。

 世田谷線は新しくなったけれど、沿線には数々の古い町並みが残っていた。人と人との距離の近さ、それがこの沿線の一番の魅力なのだ。

〔08〕徘徊老人・足尾~渡良瀬川上流紀行

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足尾砂防ダムから渡良瀬川が始まる

5月11日は足尾銅山鉱毒事件の転換点の日

 1974年5月11日、国の公害等調整委員会は当時の古河鉱業の加害者責任を認め、鉱毒事件の被害者に対する補償金の支払いを命じた。これは、1970年の「公害国会」以来、高度経済成長による”歪み”が社会問題化し、これ以上環境悪化を放置できないということをやっと認識しはじめた国の対策のうちの象徴的出来事であった。今から46年前の5月11日のことであるが、そもそも、足尾銅山鉱毒事件はすでに1880年代から問題化し、91年からは、田中正造が度々、当時の帝国議会で指弾してきたことだった。国が企業の社会的責任を認めるまでには、実に90年近い歳月を必要としてきたのだ。

 古河市兵衛足尾銅山を買収したのは1877年のこと。今話題の渋沢栄一も、買収資金の多くを拠出している。江戸時代にはすでに掘りつくされていると考えられていた銅山だが、80年代に入り有望な鉱脈が次々と見つかり、83年には早くも産銅量は日本一となっている。一方、精錬所から出る多量の亜硫酸ガスによる被害は地元の松木村などに広がり、ここは廃村となった。

 煙害は山の樹木も死滅させ、周囲の山々には一木一草もない状態となった。森林が失われたために山の”保水力”が失われ、その結果、渡良瀬川下流域は度々、大洪水に見舞われた。そればかりか、鉱毒が肥沃だった田畑に広がり大きな被害をもたらした。

 この対策のため、治山工事として”はげ山”への植林活動が1956年頃から始まっているが、写真からもわかるように源流域の山々の緑はさほど回復していない。

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足尾砂防ダムの上部には3つの谷川が流れ込む

砂防ダム内は大量の土砂が堆積

 はげ山となった山々からは大きく、3本の谷川(久蔵川、松木川、仁田元川)が流れ込んでいる。そのうち、松木川が主流で、日本百名山の一つである皇海山(すかいさん、2144m)に源を発している。松木渓谷はその景観から”日本のグランドキャニオン”とも呼ばれているらしいが、峡谷化した主要因は煙害による樹木の喪失なのである。

 3つの谷川が砂防ダムの直上でひとつになり、渡良瀬川となってダムから落下している。谷川が削り取った山肌は細かな土砂となって下流域を襲うため、1947年のカスリーン台風の大被害を切っ掛けとして砂防ダムの必要性が認知され、55年にダムは完成した。

  砂防堰堤の谷川面では大量の土砂が積もっており、3本の川は谷を流れるというより、砂浜を這うように流れるといった感じである。前述のように、まだ山の養生は始まったばかりのような状態のため、山からの土砂の供給は当分続くことが予想されるので、今度は堆積した土砂の掘り起こしが課題となりそうである。

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小さな流れの中には、赤銅色に染まったものもあった

 堰堤にほど近い場所の細い流れの底には赤銅色の堆積物が見られた。本流筋こそ比較的綺麗に見える谷川だが、こうして細部を観察してみると、ここが銅山であったことの素性は隠しようがない。

砂防ダムから渡良瀬川の物語は始まる

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3本の谷川が1本の流れになって渡良瀬川がはじまる

 砂防ダムの堰堤は一部低くなっており、ここから3本の川が集めた水が1本の川となって流れ下る。この落下点から渡良瀬川が始まる。もちろん、河川全体としての渡良瀬川は、皇海山が貯めた湧水の一滴から始まってはいるのだが、堰堤の上までは松木川の名前で支流の水を集めつつ多くを蓄えてきた。

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川は谷を一気に下ることがないよう、いくつもの段差がつけられている

 砂防堰堤から解放された水の流れは、本来であれば一気に流れ下りたいところだが、落差が急で両岸の岩が比較的もろいため、勢いを減じるための段差がいくつも造られている。この先にも小さな堰堤が多数作られ、流れを抑え込むのと同時に砂止めの役割を持たされている。

1989年、精錬所は事実上、操業を停止した

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30年前に役目を終えた旧精錬所

 川の右岸にある巨大な煙突が特徴的な旧精錬所だが、ここを訪れる度に劣化の度合いを増しているように感じられる。大きな富と、そしてより大きな害悪をもたらした”象徴”として往時の姿を残しているのは、「足尾銅山世界遺産登録を推進する会」の運動と関係があるのだろうか。それはともかく、この精錬所跡は”負のレガシー”として可能な限り、その姿を留め置くべきだろう。 こんな谷底に精錬所を造ると、煙が谷間に充満し被害が拡大するということすらわからない無知の印として。

足尾の産業遺産

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集落と精錬所をつなぐ橋

 「ふるかわばし」は、それまでの木造の「直利橋」に代わって1911年に建造された。長さは48.5m、幅員は4.8m。この上を電気鉄道のレールも引かれたそうだ。一時は歩道として利用されたこともあったが、老朽化のため現在は立ち入り禁止になっている。日光市によれば”足尾銅山の誇れる産業遺産”とのこと。

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間藤駅から精錬所をつなぐ線路。現在は廃線

 かつては主要な輸送路として鉄道が用いられていた。現在は”わたらせ渓谷線”として桐生から間藤までの運行で、間藤から精錬所までは廃線となっている。鉄道跡は危険防止のため全面立ち入り禁止となっている。

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銅山が活況を呈して頃は、この間藤集落は大賑わいだったらしい

 川の左岸には、間藤集落がある。谷のすれすれのところまで住居があったと思しき石垣や石積階段が残っている。また山側も同様で、山裾まで住居跡がびっしりある。集落の中央を通る県道250号線は幅員に余裕がある。往時の往来の激しさを物語っているようだ。一方、写真のように住宅と住宅との間の道はとても狭い。山間の狭い空間に多数の家を建てる必要があってのことだろう。

 足尾町は2006年に日光市編入された。間藤集落の北側の山を越えれば、そこには中禅寺湖があるのだ。銅山が盛んな頃、足尾町は栃木県内では宇都宮市に次ぐ人口数で、約4万人が住んでいた。それが現在では2千人を下回っている。足尾でもっとも活況を呈していたのがこの間藤地区だったそうで、集会場に残っている当時の写真を見ると、今となっては信じられないぐらいの賑わいだったようだ。

無縁石塔

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松木村の無縁石塔

 間藤集落にある龍蔵寺は一見、どこの田舎にもある小さなお寺だが、その本堂の小ささに比べ、墓所の広さに、墓の多さに驚かされる。それはそのまま、現在の集落の閑散さとかつての繁栄との対比を象徴している。

 境内には、ひときわ目立つ石塔がある。旧松木村の”無縁石塔”だ。かつてあった松木村は、銅山からの悪影響をもろに被った。かつて盛んであった養蚕は、煙害のために桑の木が全滅したことで廃業した。20ヘクタールの農地は、煙害のため無収穫地となった。このため、1902年、一戸2名のみを残して廃村となった。石塔は、悔しさを抱きつつ、かつてあった村を静かに見つめているようだ。

わたらせ渓谷線の終着駅

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平日の間藤駅はひっそりとした空気がただよう

 休日は「トロッコ列車」で渓谷美を楽しむ旅行客で賑わう間藤駅だが、平日はごく普通の車両が、桐生駅間藤駅を行きかう。写真は昼時の運行車両なのでとくに利用者は少ないのかもしれないが、車内を見回したところ乗客の姿は1名だった。1、2時間に1本という数の運行では、定期的に鉄道を利用する住民はいないのだろう。もっとも、間藤集落で見かけた住民とおぼしき人はすべて高齢者。山の手入れをする業者の姿もあったが、この人々は車利用なので、渓谷線を使う合理性はない。

 桐生市から足尾へはよく整備された国道122号線が走っている。この国道は足尾の集落をバイパスし間藤の手前で北上を続け、15キロ先で”いろは坂”の下に出る。日光観光のための乗用車や物資流通のトラックが多い国道だが、99%以上は間藤集落に入る直前の旧道と合流する”田元交差点を右折して日光市街方向に進む。

 トロッコ列車の利用客は途中の”渓谷美”を味わう。間藤駅は、ただその列車の終着駅以上の意味を有してはいないのだろう。一方、産業資本主義の”廃墟”と渡良瀬川の源流点を幾度となく訪ね歩く私のような存在は、単なる”変な人”にすぎない。

草木湖とダムと渡良瀬川の第二の源流

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草木湖の先には男体山がそびえる

 1976年に竣工した草木ダムは、渡良瀬川の氾濫抑制と発電事業、それに飲料水、農業用水の確保、さらに鉱毒の沈殿などを目的に造られた。利根川水系に造られた大規模多目的ダムのひとつで、東京都民にもここの水が供給されている。ここでは他のダムにはない水質検査が適宜おこなわれており、異常な数値は計測したことがないとのことだが、”ニッポンの統計”は簡単に操作されるので、真偽は不明だ。

 ダム湖の草木湖は群馬県みどり市にある。湖のバックウォーターあたりから渡良瀬川はしばし栃木県を離れ、群馬県を流れることになる。重力式コンクリートダムであるここは堤壁の高さが140mもある巨大構造物である。今回訪れて初めて知ったのだが、堤壁の下に行く道があり、公園として整備されたその場所からは140mの高さの構造物を下から見上げることができる。

 堤壁の近くには”東第二発電所”の建物があった。ダム湖の水の多くは他の目的のために別のところに誘導されるのだが、渡良瀬川の本流の水量を維持するために、ほんの少しだけ放水路を伝って放水されているのだ。この流れを利用して発電事業を行っているのが第二発電所なのである。

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草木ダムの巨大な壁と小さな放水口

 私は、可能な限り堤壁に近づいてみた。そして、放水口を見つけた。写真の右手にある小さな流れが、中下流渡良瀬川の源なのである。ここは、渡良瀬川の第二の源流といえる存在なのだ。

 小さな3本の谷川が渡良瀬川を造った。しかし、人の手が山を荒らし、本来、森が蓄えるはずだった雨水をほとんど直に放出し、大きな流れを造ってしまった。渡良瀬川が暴れ川になったのは、人為によるものだった。それを抑えるために足尾砂防ダムを造り、草木ダムを造っている。

 足利市渡良瀬川右岸で出会った老人との会話を思い出した。「私が幼いころは、よく橋の上から川に飛び込んで遊んだものです」。このダムがまだない頃は、渡良瀬の流れはもっと豊かだったのだろう。「でも、川は時々、真っ赤に染まることがあり、そんなときは、地域や学校から、すぐに川遊び禁止の指令がでました」とも寂しそうに語ってくれた。

 それでも渡良瀬川は流れている。いや、川が流れているのではなく、水が流れているのである。そのように、渡良瀬川は、いつもそこにある。 

 

◎追記

 この小さな旅のときも足利市に宿をとった。この日は前回とは異なり終日、晴れだった。夕方、私は川の右岸に立ち、沈みゆく夕日と金色に染まる川面を眺めていた。渡良瀬橋に沈む夕日を撮影する予定だったのだが、景色に見とれていたため、写真を撮るはずだったと思い出したときは、日はほとんど沈んでおり、残光だけが橋をそして天を染めていた。

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渡良瀬橋の向こうに沈んでしまった夕日