徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔19〕秩父困民党に学ぶ(1)~蜂起の地を訪ねて

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椋神社内にある記念碑

秩父困民党事件とは?

 1884年(明治17年)11月1日、鉄砲、刀、槍などで武装した約3000人の民衆が下吉田村にある椋(むく)神社に集結した。秩父郡の西谷(にしやつ・秩父北西部の山間地)にある各村ならびに大宮郷(現在の秩父市)の農民を中心として、男衾(おぶすま)郡や榛沢(はんざわ)郡、上州の上日野村、信州の北相木村などからも参集した。ここで組織の役割表が発表され、総理に田代栄助、副総理に加藤織平、会計長に井上伝蔵、参謀長に菊池貫平が就任した。併せて菊池の手になる「軍律五か条」も示された。

 1日午後8時、蜂起軍は二手に分かれて椋神社を出発し、小鹿野町に向けて進軍した。途中、高利貸宅や質屋を襲い軍資金の調達や邸宅の焼打ちや打ち壊し、役場や警察署にある証書類の焼却などをおこなった。この日は小鹿野町にある諏訪神社(現在の小鹿神社)で夜営した。

 2日早朝、大宮郷に向けて進軍を開始、小鹿坂峠を越えたところにある音楽寺(秩父札所23番)の鐘を乱打し、鯨波声(ときの声)をあげながら坂を下り、荒川を渡って大宮郷に突入した。蜂起軍は郡役所を制圧し「革命本部」を置いた。この地でも高利貸宅を襲い軍資金調達を敢行。また、周辺の村から人集め(駆り出し)もおこない秩父神社で野営した。ここに困民党による「無政の郷」(コンミューン)が成立した。集結した民衆も1万人ほどに膨れ上がっていた。

 3日、憲兵隊・警官が来襲するという報を受けたので、困民党軍は大宮郷を確保するため部隊を3つに分けて移動を開始した。が、情報が錯綜したために各隊は混乱し、結局、本部を皆野村に置くことになった。蜂起軍の多くは皆野村とその隣の大淵村に屯集した。

 4日、大淵村にいた幹部の新井周三郎が捕虜の警察官に斬られて重傷を負ったことから、本部は混乱に陥った。また、戦況が不利に傾いたため、田代栄助や井上伝蔵、さらに加藤織平ら主要幹部7人が逃亡した。大野苗吉(風布村)に率いられた一部の部隊は児玉町に向かい、金屋にて鎮台兵と激闘の末、多くの犠牲者を出して敗北。一方、信州から来た菊池貫平を新たな総理として本部を再建し上吉田村へ移動し、信州への転戦を決定した。

 5日、本部は峠を越えて上州の神流(かんな)川沿い(通称山中谷)に入り西進。神ヶ原(かがはら)で夜営。

 6日、神流川沿いの魚尾(よのお)村で自警団に敗北。西進し、十石峠の手前にある楢原村にて住民の依頼に応えて黒沢家を焼打ちし、白井宿で夜営。

 7日、十石峠を越え信州に入る。大日向村の竜興寺で屯営。

 8日、高利貸宅を打ち壊しつつ千曲川沿いの村に入る。ここでも高利貸宅を襲い軍資金の確保や人集めをおこなう。東馬流(ひがしまながし)の戸長宅に宿営。

 9日、東馬流の天狗岩付近で高崎鎮台兵と激闘。鎮台兵がもつ新式の村田銃の放火にさらされ多くの犠牲者を出す。千曲川上流へ敗走し、八ヶ岳山麓の野辺山付近でも砲撃を受け、困民党軍は完全に潰滅した。

決起せざるを得なかった背景を考える

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困民党の主体はこうした山間の地の出身だ

 日本近代史を教えている友人から、秩父困民党ゆかりの地を巡らないかという誘いを受けた。なんでも、昨今の若い衆は講義だけでは興味を抱かないし、そもそも山間地の暮らしというもののイメージがまったく湧かないらしい。現地の写真があれば少しは話しに惹きつけられるかもしれないと考え、現地調査と写真撮影に出掛けるのだということだった。夏真っ盛りの時期なので「ご苦労様」の一言で断ろうとも考えたが、秩父であればそれほど遠くはないし、そこにはかなりの土地鑑もあるので運転手を買って出た。

 秩父困民党については若い頃に関連本を数冊読んだだけで、とくに興味は持続していなかった。風布(ふっぷ、ふうっぷ)には何度も出かけていたが琴平(金毘羅)神社に足を運んだことはなかった。皆野にはかなり通ったが、それは荒川での鮎釣りのためか長瀞見学のためだった。荒川左岸の丘にある「秩父ミューズパーク」に行っても、それは秩父盆地武甲山の「哀れな」姿を望むためであって、音楽寺の鐘を打ち鳴らすことはなかった。国道299号線沿いにある小鹿野町内をよく通ったが、それは神流川での鮎釣りのための往来の通過点でしかなかった。しかし今回、出掛ける直前に慌てて困民党関連の本を数冊買い込み、彼らの行動について少しだけ知識を吸収してみると、その事件の歴史的意義と、そこに登場する人々の生きざまにすっかり魅入られてしまった。

 民衆思想家の色川大吉秩父困民党事件を「江戸時代から続いた百姓一揆の最後の形態」であると見るか「自由民権運動の最後の、そしてその質をもっとも高く受け継いだ事件」と見るかのどちらかだと位置付けているようだが、私にはそのどちらでもあると同時にどちらでもないと思われた。というより、どちらでもないというのが正しいのではないかと考えた。ではどう位置付けるのかと聞かれたら、すぐに答えを出すことはできなかった。この答えを探すため、今回の秩父行きは私にとっても重要な意義をもつようになった。

 困民党が決起せざるを得なかった背景には、「産業構造の転換」「生糸価格の暴落」「松方財政による不況と増税」「自由党本部との考え方の相違」などがあった。

▼産業構造の転換

 1859年の横浜開港によって欧米との貿易が急拡大した。秩父は古くから養蚕や「秩父絹」の生産が盛んであったが、フランス、イタリア、イギリス、アメリカなどの要求によって生糸輸出が増大した。山間地に住む農民は、開港以前は「秩父という小さな世界」で経済的に自足していたが、開港後は「世界経済」の動きに翻弄されるようになった。女たちの家内工業による絹織物の作製という道は長い期間閉ざされ、欧米への原料供給地という立場に位置付けられた。

 欧州での生糸の生産は1840年代にフランスで発症した蚕病によって停滞し、50年代からは目に見えて低減した。フランスでは、50年には318万キログラム生産したものが57年には111万キロ、63年には65万キロまでその量は落ち込んだ。その後も20世紀に至るまで年に50~100万キロの生産量で推移した。蚕病が蔓延しなかったイタリアでも、57年に500万キロあったものが80年には200万キロと生産量は落ち込んだ。

 欧州では原料の生糸を確保するために中国市場から輸入を拡大した。1850年に124万キロだったものが57年には360万キロにも増加した。一方、59年、日本の開港に伴って交易が始まり、欧州産生糸には劣るものの中国産生糸よりは品質がやや良く、かつ安価である日本産生糸の輸出がスタートした。当初は、日本の製法と欧州の製法が異なるために輸出量はさほど伸びなかったが、72年に富岡製糸場の設立など欧州基準の製法を開始することによって輸出量は大幅に増加した。70年に41万キロだったものが70年代後半には100万キロ、80年代前半には140万キロ、80年代後半には210万キロにもなった。さらに1910年頃には中国を抜き、生糸生産量で世界一になるまで成長した。

▼生糸価格の暴落

 「養蚕から秩父絹」という流れで自足していたこの地は、前述のように世界経済の流れの中に放り出された。秩父絹は秩父地方の中で消費されていた。毎月、1,6日は大宮郷、2,7日は野上、3,8日は吉田、4,9日は皆野、5,10日は小鹿野で市が立ち、食料を自給できない山間部の農民は秩父絹を市に持ち込んでは食料に換えていた。が、原料供給地に変わってからは、生産した生糸を仲買商人に売り、仲買商人は売り込み商人へ、売り込み商人は外国商館へという、今までとは全く異なる貨幣経済の流れの中に組み込まれたのだった。

 現金化するには時間が掛かるため、生産農民は「前貸し金」の貸与を受けて養蚕活動をおこなった。1880、81年、繭(まゆ)生産は順調に拡大した。カイコの餌である桑の葉が不足し、カイコを破棄せざるを得ないほど生産量は拡大した。が、これが仇となった。農民はさらに繭の生産量を増やすため、陸稲、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、インゲン、大角豆(ささげ)などの食料生産をおこなっていた畑までも桑畑に転換した。そのために「前貸し金」という名の借財を増やした。が、82年にフランスで恐慌が起こり、ヨーロッパは不況に陥った。その結果、83年に生糸価格は暴落した。84年、秩父では天候不順が影響したためか繭の生育は不調で、前年の6割しか生糸は生産できなかった。しかも、フランスのリヨン生糸市場はさらに大暴落したのだった。この結果、農民が抱えた借財は返済不能の水準にまで達した。

▼松方財政による増税デフレーション

 1881年に大蔵卿に任命された松方正義は、西南戦争対策のために乱発された紙幣を回収することでインフレへの対策をおこなった。82年には日本銀行を設立し、銀本位制による通貨価値の安定化を図る道筋の第一歩を踏み出した。日本銀行銀兌換券の発行・流通をおこなう前に、まずは市場に出回っていた政府紙幣国立銀行紙幣といった不換紙幣の回収が必要だった。不換紙幣の回収をおこなうと同時に官営工場の払い下げ、たばこ税や酒税などの増税などで準備金(正貨)の確保を試みた。軍事支出の増大や鉄道建設などはおこなったものの一般財政には資金を多くは拠出しないという消極基調の政策をとったため、国内経済はインフレからデフレへと一気に落ち込んだ。その一方、不況と貿易収支の改善で正貨備蓄が進んだため、85年に銀兌換券の発行に漕ぎ着け、86年に銀本位制による日本資本主義経済体制の基盤が確立した。

*資本の本源的蓄積

 資本の本源的蓄積とは、資本主義が本格的に成立するためには資本の蓄積と賃金労働者の供給が必要だったとする考え方である。

 資本の蓄積過程は、その出発点は「重商主義」にあったと考えられる。地理上の発見によって欧州の貿易活動は著しく拡大した。絶対主義国家はその体制を維持するために軍備と官僚制を必要とした。多額の費用を捻出するために国際貿易を活性化させた。この結果、商業資本は国王の庇護の下、多くの富を蓄積した。一方、賃金労働者は囲い込み運動(エンクロージャー)によって農村部から供給された。第一次エンクロージャーは規模が小さかったために影響は一部にのみ広がっただけだったが、ノーフォーク農法という新しい土地利用方法が導入された第二次エンクロージャーは広範囲に及んだため、農地から土地を追われた農民が仕事を求めて都市部に集まった。

 欧州と明治期の日本とは資本の本源的蓄積過程は異なるが、官営工場が政商へ安価に払い下げられ財閥を生み出したこと、開港によって貿易が活発化して富が蓄積されたことは資本の集積を促した。一方、松方デフレによって困窮化した農民が流浪化したこと、1889年に町村制が確立して地主と小作人の階層分化が生まれ村落共同体の連帯感が失われたことなどは、都市に賃金労働者を送り込むことにつながった。秩父困民党の運動も、足尾銅山鉱毒事件も、こうした資本の本源的蓄積過程を背景にしたその抵抗のための闘争だったのである。

自由党本部との落差

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秩父自由党は写真の重木耕地が発祥の地

 自由党は1881年、国会開設の詔をきっかけに成立した。自由党の盟約には「自由拡充、権利保全、幸福増進、社会改良」「善良なる立憲政体」「主義を共にし目的を同じくする者との協力」があるが、基本的には「自由主義」「議会主義」「憲法の制定」を目的にしたと考えられる。一言でいえば「自由民権運動」だ。しかし、活動主体は旧士族、豪商、豪農であったため、党内急進派は貧農層と結びついて過激な事件を度々起こした。これがいわゆる「激化事件」で「福島事件」「群馬事件」「加波山事件」などが起こり、結局、急進派の動きを抑えることができず、84年10月29日に党は解体した。

 秩父では本部との結びつきは弱く、秩父自由党の幹部であった村上泰治は困民党の動きには冷やかに対応した。84年に急進派の大井憲太郎が2月に秩父遊説をおこなってから入党者が増加した。3月には困民党組織化の立役者となった「高岸善吉」「坂本宗作」「落合寅市」の3人が、5月には「井上伝蔵」が入党した。大井は困民党を指導したと一般に言われているが、11月1日の蜂起には反対していた。

 1910年に出版された『自由党史』では上記の激化事件を「福島の獄、群馬の獄、加波山の激挙‥‥、埼玉の暴動」と評価している。「獄」は政府に弾圧されたこと、「激挙」はやや行き過ぎた出来事を示すのに対し、埼玉の暴動=困民党事件は明らかに否定的に捉えていることが分かる。つまり、他の事件は自由民権運動の延長線上の出来事と考えているのに対し、困民党事件は自由民権運動埒外の暴挙と位置付けているようだ。所詮、自由党は議会開設と憲法制定を目指した豪商・豪農の運動に過ぎなかったのだと思われる。このことは、『自由党史』の中にある困民党の運動を評価する次の言葉にも現われている。「実に、一種恐るべき社会主義的性質を帯びるを見る」。

なぜ秩父で困民党が決起したのか

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のちに田中千弥が祠官となった椋神社の本殿

 上吉田村田中耕地出身の田中千弥(1826~98)は貴布禰(きぶね)神社や椋神社の祠官(しかん)を務めた村随一の知識人であったが、困民党の運動に対しては一歩距離を置き、かといって支配者側にも与せず、第三者の眼でこの事件の推移を見つめていた。彼は49年間にもわたる『田中千弥日記』を残し、その中の「秩父暴動雑録」でこの事件についての詳細な記録を残している。

 ここで田中は困民党事件の原因を以下の通りに記述している。「今般暴徒蜂起するや其の原因一に非ず。高利貸なる者其一、自由党と称する者其二、賭博者其三、警官の怠慢其四」。これからわかるように、この事件の一番の原因を「高利貸し」の存在としているのである。

 先に述べたように、生糸の生産農民は前貸し金の貸与によって養蚕をおこなうのである。が、生活費や実際の生産量の不足などを考慮に入れると、「高利貸し」からの借金が必要になる場合が多い。この高利貸しの金利が法外のものだったのだ。

 当時も「利息制限法」が存在し、年率は20%以内と決められていた。しかし、実際には年率が200~300%のものがほとんどだったのだ。たとえば、8円の借財に対して一年後の利息が18円46銭にもなったという記録がある。今なら「過払い金請求」ができるだろうが、もちろん当時にはそういった制度はなかった。不当な利息請求を役所や警察に訴え出てもまともに対処してくれることはまずなかった。

 当時の風布村にある耕地の例でいえば、24戸の農家の借財は総額2144円あった。一戸平均90円である。当時、農民たちが所有していた土地の評価価格は一戸平均65円であった。つまり、全戸が破産状態であったのだ。その上に、高利貸しの暴利がこの借金に追い打ちをかけてくるのである。

 江戸時代や明治時代初期では土地はすぐさま取り上げられることはなかった。10年後までに返済すれば所有権は維持できた。しかし、事件が発生する頃になると裁判制度が確立していたので、返済が滞ると裁判所の判断で土地所有権の移転が直ちにおこなわれるようになった。近代的制度は村落共同体にあった「温情主義」を排した。「身代限(しんだいかぎり)」といって、借金が返済できなければ土地を追われたのだ。このため、秩父だけに限らず、1884年には全国で146件の農民騒擾があったという記録が残っている。

 大宮郷秩父市)ではある貧農が「マネーゲーム」に目覚め、わずか10年で5万円もの財産を得た。もちろん「高利貸し」によってである。当時の平均月収は10円程度と想定されるので、この人物の財産は月収の5000倍だ。仮に今日の月収が25万円と想定すると当時の5万円は今の1億2500万円に相当する。この莫大な資金がさらにマネーゲームに投入されるのだ。当然のことながら、この人の家は、大宮郷に入った困民党軍によって真っ先に焼き打ちにあった。

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加藤織平の墓

 田中千弥は、暴動の原因のひとつに「賭博者」を挙げている。確かに、困民党の総理であった田代栄助は「博徒」であった。副総理の加藤織平も「博徒」の一面があった。博徒が率いた運動だったから暴動という「博打」に出たとも考えられなくもないが、そもそも、山間部に住む農民の娯楽といえば賭け事が一番だったのだ。今はあまり流行らないのだろうが、昨今でいえば友人との「賭けマージャン」程度だったと思われる。実際、田代は当時はかなり難しいとされた「天蚕」にもチャレンジしていた。また、仲間を助けるために代言人(弁護士)の真似事もしていた。このため、田代は「子分200人」と言われたほど多くの人から慕われていた。「生来、強くをくじき弱きを助けるを好み、貧弱の者頼り来るときは付籍(血縁関係がないものを自分の戸籍に入れること)いたし、人の困難に際し中間に立ち仲裁等をなすこと実に十八年‥‥」と、田代自身が回顧している。加藤織平は豪農で金貸しもおこなっていたが、彼は困民党に参加する際、貸していた150円をチャラにしている。田代や加藤は、単なる博徒というより「律儀な任侠」と呼ぶのが相応しい。

 警官の怠慢は酷かった。また、運動の参加者に対する扱いも酷いものだった。田中千弥は先の雑録で「警察官吏は、明治16年よりして、小民等が高利貸の苛酷なる督責に苦しみ、彼の高利貸に説諭あらんことを縷々(るる)哀訴するも、しりぞけて受理せず‥‥」と記し、警官の怠慢を詰った。さらに、「警察官等が、人民を訊問するありさまは、警吏自ら三尺ばかりの生木の棒を携持し、訊問所に入る者をば、未だ何等のことを問わざる前に、先ず面部頭部を言わず一擲(てき)、或いは二三擲(うち)て後訊問に及ぶ」など暴力的な取り調べをおこなった。中には、取り調べ中に熱した鉛を背中に浴びせられた者もいて、獄死するもの、釈放後に病死する者も少なからずいた。

蜂起直前までの経過

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風布の村民が10月31日に集結した琴平神社

 困民党の一斉蜂起は1884年の11月1日だったが、すでに前日には大きな動きがあった。そのひとつが「風布(ふっぷ)組」と呼ばれた荒川右岸の高地にある風布村(現在は寄居町風布と長瀞町井戸)の決起だ。

 風布村は困民党の中核部隊だった「上日野沢」「下日野沢」「石間(いさま)」「上吉田」「下吉田」の諸集落とは少し離れた場所にある。このため、11月1日に椋神社へ行くためにはやや早めの時間に風布村の集結場所である琴平(金毘羅)神社に集まる必要があった。当初は11月1日の午前8時が集合予定時間だったが、血気盛んな人々はすでに前日の昼ごろには大多数が集合していた。風布村は80戸の集落だが、他の集落からの参加者を含め、約140人が結集していた。江戸期の農民一揆同様、挙村参加だった。 

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蜂起前に良く幹部会議がおこなわれていた小前耕地

 上日野沢村の小前耕地で幹部会議がおこなわれるということから、大野福次郎をはじめとする先遣隊が31日の午後3時に琴平神社を出発した。ところが、この先遣隊は荒川を渡る前、通称「おんだし河原」(現在の長瀞ライン下りの出発点付近)で逮捕されてしまった(約半数は逃亡したが大野は捕縛された)。すでに風布村の動きは警察側に把握されていたのだった。この報を受けた本隊の約120名は、動きを警察側に捕捉される前に琴平神社を出発し、警察官が集まっている皆野村を大きく迂回して荒川を渡り、山中を西進して上日野沢村方向に進んだ。

 31日には、宝登山の南東側にある金崎でも困民党軍の動きがあった。金崎には約200人が出資して組織された高利貸会社である永保社があった。ここを困民党の幹部である新井周三郎、柴岡熊吉、村竹茂市ら数十人が襲い、刀や槍を奪うとともに、借用証書約1万円分を焼却した。あわせて、その隣にある高利貸し宅の打ちこわしもおこなった。

 11月1日にも、椋神社での総決起前に「阿熊村」や「清泉寺」で警官隊との衝突があった。ここでは蜂起軍の2人、警察官の1人が死亡した。この争いの後、警察隊は下吉田村戸長役場に引き上げた。が、ここは椋神社にほど近い場所にあるため、神社に集まった蜂起軍の一部がこの役場を包囲した。逃亡を図る警察官のうち、逃げ遅れた1人を捕虜にした。捕らえられたこの警察官=青木与市巡査は蜂起後もそのまま小鹿野、大宮郷、皆野と蜂起軍に連れ回わされたが、皆野にて困民党幹部の再三の説得に応じ、困民党軍に協力することになった。彼には刀が与えられ、新井周三郎の隊に組み入れられた。このことが、困民党本部が解体する切っ掛けを作ることになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

困民党が組織されるまでの経過

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困民党軍が集結した椋神社の大鳥居

 かくして秩父困民党は椋神社に集結し、約3000人の軍勢が甲乙の二大隊に分かれ、1日午後8時、小鹿野に向けて進軍を開始した。なぜ、かくも大勢の人々が一堂に会したのか、あるいは会することができたのか、その出発点は1883年12月、下吉田村の高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人による「高利貸説諭請願」にあった。

 三人は大宮郷にある秩父郡役所に出向き、高利貸しへの返済で苦しんでいる農民の実情を話し、負債の据え置きと償還の年賦払いの要求を郡長におこなった。前述したように、負債の利息には法律上、年20%までに制限されていたが、実情は200~300%だった。しかし、要求は全く受け入れられず、「身代限」の農家は700戸にも達するほど困窮を極めていた。

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高岸善吉の家

 1884年2月、大井憲太郎の秩父遊説を切っ掛けとして上記の3人は3月に自由党に入った。自由党本部の大会に出席した高岸善吉はその報告を兼ねて彼の「親分格」である石間(いさま)村の加藤織平の家を訪れ、坂本や落合らとともに加藤家の土蔵に7人が会して以下のような盟約5か条を作り血判した。なお、この内容は警察側の密偵が情報を入手し、鎌田沖太警部のメモに残されて後世に伝わった。鎌田はこうしたスパイ活動の業績が認められたためか、後には秩父郡長に出世している。権力の手先になったものが出世街道を進む点は今も変わらないが。

1、我々は日本国にあり圧政官吏を断て直正の人を立つるに務むること。

2、我々は、前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。

3、我々は相談の上、ことを決すること。

4、我々の密事を漏すものは殺害すること。

5、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。

 これらの内容は、後述する困民党の4か条や軍律5か条につながっていく。

 春から夏は農民にとってはもっとも忙しい時期で、養蚕もまたこの時期が勝負になるため、彼らの動きが表面化するのは8月に入ってからのことだった。上記の3人が中心となって各村・各耕地へのオルグ活動がおこなわれ、困民党に加わる人々が増加した。風布村の石田造酒八(みきはち)、石間村の新井繁太郎や柿崎義勝など困民党の中核を担った人物もこの時期に加わっている。活動は和田山や巣掛峠、井上伝蔵宅での集会や、各債主への年賦償却の談判や警察への請願だったが、成果は得られなかった。

 9月6日、阿熊村の新井駒吉宅で、井上伝蔵や坂本宗作らと後に困民党の総理になる大宮郷の田代栄助が初の面談。ここで「債主に対して4年据え置き40年賦償却」の方針が提案される。続いて7日、困民党の基本方針である「4か条」が田代、井上、高岸、坂本、落合、上州自由党リーダー格の小柏常次郎(上日野村)などの会合によって決定された。

1、高利貸しのために身代を傾けもっか生計に苦しむ者多し、よって債主に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと。

1、学校費を省くため、3年間の休校を県庁に迫ること。

1、雑収税の減額を内務省に請願すること。

1、村費の減額を村吏に迫ること。

 収入の少ない農民にとって「学校費」は多大な負担であった。当時、授業料は有償で、松方財政による不況で文部省から県への補助が減ったため村民の負担はさらに増大した。実際、椋神社内にあった椋宮小学校では、学齢人口は474人だったのに対し、実際に通学できたのは200人弱という有様だった。

 雑収税は国税で、たばこ税や酒税がこれに該当した。ここでも不況による国や県、町村の税収減を増税で賄おうとしていたという背景を読み取ることができる。

 この「4か条」によって困民党の運動が日常化したのに対し、警察は「山林での集会」は取り締まったものの、「債主に対し穏やかに掛け合うならば差し支えない」という姿勢で臨んだため、債主への直談判が増加した。これに対し債主側の反発も強まり、負債農民に対する裁判所から召喚が増え、対立は泥沼化した。

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復原された井上伝蔵宅

 10月12日(13日説もある)、井上伝蔵(上吉田村きっての豪農自由党員)宅で田代、加藤、坂本といった中核メンバーが集まり、これまでの個別交渉では問題は解決せず、これからは「衆力を要して年賦据え置きを各債主に迫り、村費削減を村吏に迫り、雑税減額・学校休校を県庁に請願すること」を決した。その上で、準備金強借などの非合法活動をおこなうことも決めた。

 14日、新井周三郎や坂本宗作が中心となって横瀬村の高利貸し宅を襲い、家族を縛り上げた上、金銭や物品を強奪した。

 18日、門平惣平宅(上日野沢村)に田代、坂本や小柏、大野福次郎らが集まり、「これよりは暴民とともに高利貸しの家を壊すつもりなのでその時は共に力を合わせよう」と決した。さらに田代は「中山道の鉄道破壊、電信機の切断」までも提案したとされている。

 25日、上記の動きを知った自由党本部は「軽率に事を起こすな」という指示を出した。秩父では自由党が直接に指揮する運動がなかったため、あくまでも「通達」の域を脱してはいなかった。

 26日、粟野山(あのうやま)で会議がおこなわれ、田代と井上は11月1日の決起を30日延期することを提案した。田代は、早い決起では秩父だけの運動になるが、一か月の猶予があれば群馬や長野など周囲の勢力と一斉蜂起できると考えていた。が、困窮した農民はもはや家には戻れない状況だったため、大多数が延期案を認めず11月1日の蜂起を決定した。

 27日、小鹿野町にある小鹿(おしか)神社の神職が、「困民党軍は28日に決起する」という「密告」を警察におこなった。このため、多くの警官が各所で警戒をおこなったが、困民党軍のはっきりとした動きは確認できなかった。この神職の息子は困民党の幹部になり蜂起にも参加したが逮捕後に無罪放免になっているため、神職と警察との間には何らかの裏取引があったという主張もある。が、一方、困民党側のかく乱作戦という見方もあり、研究者間でも意見が分かれている。

 28日、信州南佐久郡北相木村から菊池貫平と井出為吉が秩父に来て加藤織平宅に宿泊。秩父と信州とは9月段階で交流があり、萩原勘次郎(大田村)が剣道指南役と称して度々北相木村を訪れていた。29日、両名は田代と面会した。田代は「我々は借金党である。大尽より借りた金円の返済据え置きを迫り、場合によれば大家を潰すつもり」と言ったため両名は「左様な儀であるなら私らは帰国する」と答えた。すると、田代が「この場に至っては、仮に外人たりとも帰ることは相ならぬ」と言ったため両名はやむを得ず留まることにした。 

 なお、この28日には自由党が解党宣言をおこなっている。

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小前耕地の天王さま。この辺りで最終会議がおこなわれたらしい

 30日、小前耕地の山中(天王さまあたりか?)で幹部会議が開かれ、田代は再度、30日間の延期を迫ったが却下された。31日の会議でも田代、井上は延期を迫ったがやはり却下された。

 かくして、11月1日の決起が最終的に決まり、先述のように、早くも風布村では31日に村を挙げて総結集、金崎村では「永保社」の襲撃がおこなわれた。

 これより、秩父困民党は9日間の戦いを繰り広げるのである。

*以下は次回にて(30日頃更新予定)

*現地での写真撮影はまだ終わっていないので、終わり次第、今回の項にも写真を追加いたします。

 

 

 

〔18〕浅川旅情、いや遡上(そじょう)です(後編)

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村雨紅の心象風景を具現化した看板

日野台地形成の一翼を担った浅川

 日野台地にいる。

 少し前まで、国道20号線(甲州街道)の日野橋交差点からJR中央線の日野駅辺りまでは渋滞の名所だった。府中から八王子に行くとき、この渋滞区間が嫌で、多摩川に掛かる関戸橋を渡って川崎街道・野猿街道を西に走り、高幡不動を左手に、浅川を右手に見つつ八王子方向に走った。現在では、渋滞区間を避けるようにバイパスができてこちらが国道20号線になり、上の渋滞区間都道256号線に「格下げ」となった。

 かつての20号線は日野駅を過ぎると上り坂があり日野台地の上を走った。浅川右岸側を走る野猿街道は、この日野台地を右手やや遠めに見ながら八王子市に入る。2007年に開通した「日野バイパス」はこの台地のほぼ中央部を東西に貫く。八王子方向に進むときは上り坂になるのでそれほど高低差は感じられないが、八王子から府中方向に進む際、空気が澄んでいるときは府中市街地だけでなく、そのはるか前面には都心の高層ビル群が視界に入り、スカイツリーまで見えるため、その眺望の広がりから台地の高さを意識することがある。

 日野台地は東西に約5キロ、南北に約3キロに広がる。東には多摩川と浅川合流点が作った低地があり、北には多摩川、南には浅川が造った低地、西には南東方向に流れ下る浅川が関東山地の東丘陵部と日野台地とを分かっている。台地は「下末吉段丘」にあり標高は100m程度だ。台地の南側は河成段丘の存在がよくわかり、まず細長く立川段丘面があり、さらに浅川が造った沖積低地があって浅川の流れにいたる。

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段丘崖からの湧水は「黒川清流公園」を造っている

 このうち、下末吉段丘と立川段丘との間の段丘崖の存在は明瞭で、段差は約20メートルある。JR中央線・豊田駅の北側にある「東豊田緑地保全地域」はよく保存され、湧水が造った池や小川は「黒川清流公園」として整備され、絶好の散策路や親水公園になっている。また、この段丘崖は中央線を挟んだ東側にも続き、そこには「神明野鳥の森公園」がある。浅川の蛇行は耕作地に大きな被害をもたらす一方で、こうしたありのままの自然に触れる機会を多くの人々に与えてもいる。何事にも善し悪しの両面があり、善悪は常に相対的なのだ。

八王子の市街地を少しだけ歩く

 国道20号線は浅川に掛かる「大和田橋」を過ぎると、五差路として知られる明神町交差点に至る。京王八王子駅やJR八王子駅に進むにはこの交差点を直進するが、西八王子や高尾方向に行きたい場合は、この交差点や横山町の市街地の混雑を避けるため、大和田橋を渡ったすぐのところにある「大和田橋南詰交差点」を右折し、「北大通り」を進んで「追分町」交差点から再び国道20号線に戻る。

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妙薬寺にある「横山塔」

 この北大通りは「元横山町」を通るが、この通りの南側に「妙薬寺」という小さなお寺がある。墓地の左手に小さな門扉があり、これを開けて中に入ると写真の「横山塔」を見ることができる。横山塔は、この地を支配した横山党の供養塔で、寺ではこの横山氏の墓をそう呼んでいるのだ。実際、「横山塔」と記したものが写真の左手に見える。

 多摩丘陵は『万葉集』に「多摩の横山」と記されているということはずいぶん前の回にも紹介したが、これは武蔵国国府があった府中からは、多摩川の向こう側に横に連なる山々が見えるというところからそう呼ばれたと推察されている。私たちは子供の頃からずっと、多摩丘陵のことは「向こう山」と呼んでいた。

 この横山は町の地名にも残り、八王子市には横山町と元横山町がある。この横山を拠点として平安時代後期から鎌倉時代にかけて活動したのが「横山党」と呼ばれる武士団だ。この頃の武蔵国には「七党」といわれる有力武士団があったが、この横山党はその筆頭勢力だったらしい。

 横山党は平安末期に出た横山義隆(義孝)がその祖といわれ、義隆の父である隆泰は、もとは小野隆泰を名乗っていたが、この横山の地に来て姓を改めたとのこと。この横山(小野)隆泰の系図なるものを見ると、7代前に歌人として知られた小野篁(たかむら)にさかのぼり、さらに5代前には小野妹子(遣隋使として有名)までたどれる。この小野一族からは小野小町(絶世の美女)や小野道風(書の大家)が出ている。いずれも日本史の教科書にも必ず出てくるほどの著名人だ。まぁ、こうした系図はあとからなんとでも作成できるので、言ったもん勝ちのような気もするが。

 もっとも義隆の孫の横山経兼の家系からは畠山重忠の母や和田義盛の妻、梶原景時の母などを輩出しており、また奥州藤原氏の最後の当主である泰衡(やすひら)の首級を掲げたのが横山時廣(経兼のひ孫)だったので、祖先がだれであろうと、この横山一族はそれなりの足跡を歴史に残しているのは確かである。

北浅川と南浅川との出会いの場

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写真の右手の流れ込みが北浅川、左手が南浅川

 浅川はいくつもの支流をもっているが、それ自体も八王子市役所の西側で2つの流れに分岐する。もっとも、遡上しているから「分岐」というのであって、通常ではここで2つの流れが合流するといったほうが正確だろう。写真の右側に見える流れ込みは北浅川、左側の流れ込みは南浅川と名付けられている。それゆえ、私は勝手に「浅川の出会い」と命名した。なお、北浅川は陣馬山と堂所山との間の谷を、南浅川は小仏峠付近を源流としている。

 多くの水を集める浅川はよく洪水を起こして氾濫原を造る。その浅川が造った低地に八王子市街はある。この市街地一帯は「八王子盆地」とも呼ばれ、東は日野台地、北は舟田丘陵、西は関東山地、南は小比企丘陵によって取り囲まれている。よく八王子は「夏暑く冬寒い」と言われるが、これは盆地にある町ではよく聞く言葉だ。確かに、夏の最高気温は都心と変わらないが、冬の最低気温は都心より5度以上低いことがしばしばある。

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合流点すぐ下にある「露頭」

 写真にあるように、合流点のすぐ下には黄褐色の「露頭」がよく見える。ちなみに、下流の橋は「鶴巻橋」、右手に見える建物は「八王子市役所」の庁舎である。露頭とは地層や岩石が露出していることを表し、たとえば写真のような場合、川床は通常は砂や小砂利、小石などで覆われているが、速い流れなどによってそれらが下流に流され、その下にあった地層が姿を現すときに使われる。一般には「滑(なめ)」と呼ぶ場合が多い。土木・建設の世界では「土丹(どたん)」と呼んでいるようだ。

 私が住んでいる府中市の多くは「立川段丘面」にあり、表面を関東ローム層の「立川ローム」が覆い、その下には多摩川の蛇行によってもたらされた堆積物があり、その下に「上総(かずさ)層群」がある。この上総層群は関東平野一帯の基盤を造っているもので、海底の堆積物によって形成されている。つまり、関東平野の多くの部分はかつて海だったのである。

 ”浅川の出会い”付近もかつては海の底にあった。それが隆起活動によって海退が進み、丘陵や台地には谷が形成され川が誕生した。平地には川がもたらす堆積物が覆い、その上に富士山や箱根連山、赤城山浅間山などから噴出したローム(粘土やシルトなどを多く含む粘性の高い土壌)が地表を覆った。が、やがて川はそれらを洗い流し、自らが削った岩石などによって河原を造るが、流れが強い場所などではその下にあった海成層を露出させるのだ。

露頭がもたらした文化

 上総層群の露出は地層研究者や野外観察者に意外な発見をもたらす。川の露頭と聞くと、多摩川流域に住む人はすぐに昭島市にあるJR八高線多摩川鉄橋周辺の「滑(なめ)」を思い浮かべる。この辺りの多摩川左岸側には広大な露頭があることはよく知られている。これは自然に露出したものではなく、周辺における過度な砂利採集がもたらしたものである。

 ここで1961年、当時小学校教員だった田島政人さんが化石を発見した。それがクジラのものらしいことが分かると、本格的な調査が始まり多くの骨の化石が見つかった。約一年の調査を終え、骨の復元がおこなわれるとその長さは約11mに達し、これから体長が15、6mのクジラのものであることが判明した。さらに研究が進んだ結果、そのクジラは約200万年前のものであり、未発見の新種だということも分かり、「エスクリクティウス・アキシマエンシス」という学名が付けられた。

 この発見は昭島市にとっても朗報であり、これを記念して「昭島市民くじら祭」が開催されるようになった。今年も第47回目の「くじら祭」が8月3、4日に開かれ、花火大会や模擬店、ダンス大会などだけでなく、もちろん、巨大なアキシマクジラ(の模造品)が登場するパレードもおこなわれた。

 ところで、クジラの化石は上総層群から発見された。つまり200万年前、昭島市のある場所は海の底だったのだ。現在は標高100mの地点にあるが。

 一方、浅川でも上総層群からは大きな発見があった。当時、小学校教員だった相場博明さんが浅川の露頭で2001年、大型脊椎動物の化石を発見した。02年に本格的な調査がおこなわれ、約230万年前の古代ゾウのものであることが判明した。そして10年には未発見の新種であることが認定され、「ステゴドン・プロトオーロラエ」という学名が付けられた。一般には、「ハチオウジゾウ」と呼ばれている。陸上動物のゾウの化石が海成層から発見されたということは、当時、八王子のその地は海と陸との境目に位置していたと考えられている。

 川の露頭ではこうした偉大な発見があることを知った私は、化石に関してはまったく無知であるものの、できるだけ注意深く河原を観察する習慣が身に付いた。そして、今回の浅川探訪の折、ある場所の露頭で銀色に光るものを発見した。それは化石ではなく、100円玉だった。暑い最中の発見だったので、それはすぐに缶コーヒーに化けた。

私が天皇陵を訪れるなんて

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武蔵野陵には昭和天皇が埋葬されている

 「浅川の出会い」の南側にある国道20号線には「追分交差点」がある。追分とは道が2つに分かれる場所を指し、新宿には甲州街道と青梅街道に分かれる「新宿追分」、軽井沢には中山道と北国街道に分かれる「追分宿」、美空ひばりには、彼女の人気を不動のものにした「りんご追分」がある。八王子にある追分は、南浅川の流れに沿う甲州街道と、北浅川に沿う陣馬街道(案下街道)に分かれる交差点である。

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南浅川橋をを渡ると多摩御陵に至る

 国道20号線を追分交差点から高尾方向に約3キロ進むと、多摩御陵入口交差点に出会う。ここを右折して広々とした道を進むと写真の南浅川橋を渡ることになる。橋を渡ったすぐ左手には「陵南公園」があり、先に進むと「武蔵陵墓地多摩御陵)」に至る。

 写真にある南浅川橋はこの御陵に至る「重要」な橋ゆえにかなり豪勢に造られている。実用性より「立派さ」が重視されている。写真に見えるように橋の欄干には豪華な装飾がある。が、近寄ってみると案外、汚れはひどく、なかなか細部までは清掃が行き届いていないのは少し残念な気がした。

 橋上から南浅川の流れを眺めてみた。清流とまではいかないが、かつての浅川の汚れを知っている者にとっては隔世の感を抱くのも事実だった。高度成長期、浅川は「どぶ川」と呼ぶのに相応しいものだったからである。橋からは高尾山の姿がよく見える。私にとってこの山は、「向こう山」「浅間山(せんげんやま)」の次に身近な存在だ。かつてこの山の標高は600mとされていたが、再計測の結果、現在では599mになっている。

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大正天皇陵。この天皇は数奇な運命をたどった

 当初は「陵南公園」だけを訪れ、「多摩御陵」に入る予定はなかった。しかし、こうした探訪の機会がなければ御陵に行くことは絶対にないだろうと思い、陵南公園からケヤキ並木を西に進み、御陵の敷地に入った。「多摩御陵」は通称で、現在は「武蔵陵墓地」が正式名称のこと。これは1989年に昭和天皇の「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」が出来たとき、かつての「多摩御陵」から変わったらしい。が、ほとんどの人は「多摩御陵」と呼び、交差点名を始め多くの場所で今でも「多摩御陵」の名を目にする。

 墓地の正門から御陵までは120本の北山杉から構成される並木道がある。この杉はわざわざ京都から取り寄せて植樹されたらしい。4陵あり、大正天皇陵(多摩陵)、貞明皇后陵(多摩東陵)、昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)が広大な敷地の中にゆったりと並んでいる。いずれも上円下方墳で南面している。「天子(君子)南面」は中国の『易教』に由来するもので日本でも古くから踏襲されている。私が尊崇する歌人西行(佐藤義清)は極めて優秀な武人でもあって、出家する前は鳥羽上皇を守る「北面武士」であった。南面する天子を警護するため、武士は北面するのである。

 昭和天皇や皇后は同時代を生きたことのある私には記憶が新しいので割愛するが、大正天皇や皇后は「歴史的存在」になるのでとても興味深い存在だ。大正天皇は生まれつき健康に恵まれなかったため、また「人間味あふれる行動」などによって、後世ではあまり芳しくない評価を受けているが、ときには優れた歌を作り、自由闊達に生きようとした姿は、肯定的にとらえる必要があると考えられる。御簾の奥にいて権威を象徴するのではなく、積極的に庶民と交わろうとしたその姿勢は、明仁上皇天皇時代(平成)の有り様に大きな影響を与えたと考えられる。

 大正天皇が病弱であったのは彼ひとりに帰されるわけではなく、当時の宮中の生活様式に原因があったらしい。というのも、明治天皇には正室と5人の側室との間に5男10女の子供があったが、2人が死産、6人が夭折した。さらに10人の皇女の死因はすべて髄膜炎(当時は脳膜炎)で、大正天皇自身も髄膜炎で苦しんでいた。これは高い身分の男女は首から胸まで白粉を塗っていたが、この粉には鉛分が多く含まれていた。このため、一般庶民にはあまり見られなかった髄膜炎は、天皇家や公家の子弟にはこの病気がかなり蔓延していたようだ。この事実が判明したのは1924年(大正13年)のことだった。

 病弱だった皇太子は学校を休学・中退するなどふさぎ込んだ生活を送らざるを得なかったため、側近は早めの結婚を画策した。満18歳の皇太子に嫁いだのは満15歳の九条節子(さだこ)で、公家出身でありながら農家に里子に出され「黒姫」とあだなされるほど健康的に育った女性だった。明るい性格と極めて健康であり多産系の家系であるという点が皇太子妃に選ばれた理由だった。外見は二の次だったらしい。

 皇太子はこの女性を得てからは性格が明るくなり社交的になった。また、それまでの天皇家は世継ぎの存在を確実にするために側室制度を有していたが、大正天皇は生涯、この「黒姫(貞明皇后)」を大切にしたため、以来、側室制度は廃されて「一夫一婦制」が確立した。皇太子妃は結婚後すぐに懐妊し、1901年4月29日、第一皇子の裕仁親王昭和天皇)を出産した。

 良き伴侶を得て明るい性格に変貌した大正天皇だったが、残念なことに病状は進行し、1921年には裕仁親王を摂政に任命するまでに至った。そして26年(大正15年)12月25日、葉山御用邸にて崩御し大正時代は終わった。一方、貞明皇后は51年(満66歳)に亡くなるまで、「癩(らい・現在のハンセン病)予防協会」の活動、滝乃川学園(日本最初の知的障碍者施設)の活動支援など、すぐれた社会奉仕活動をおこなった。

北浅川を遡上する

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優れた人物を輩出した恩方中学校

 甲州街道の追分交差点に戻り、今度は陣馬街道を進むことにした。しばらくの間、北浅川はこの街道の北東側のやや離れた場所を流れるために視界に入らないが、八王子市弐分方町にある日枝神社あたりで街道は北浅川に突き当たるために左へほぼ直角に曲がり、それからはほぼ北浅川の流れに沿って陣馬山方向に進んでいく。圏央道の下をくぐり、山間に入りはじめた場所の右手に写真の八王子市立恩方中学校があった。

 この学校の前は何度か通ったことがあり、数か月前にも和田峠からの帰りに通ったはずだが、この横断幕を目にしたのはこれが初めてだった。前からあったが目に留まらなかったのか、最近になって取り付けられたのかは不明だが、今回はしっかりと目に留まり、いそいで車を脇道の路肩に留めて撮影をおこなってみた。羽生永世七冠国民栄誉賞を授与されたのは昨年のことなので、最近掲げられた可能性が高いのだが。

 この栄誉は、恩方中学校の関係者にとっては十分に誇りたい事なのだろう。一方、私の母校である府中市立第一中学校には、果たして誇れる卒業生はいるのだろうか。恩方中学校に比べると府中一中の規模ははるかに大きいので卒業生の数も数倍多いだろうが、羽生永世七冠に比肩できるような有名人の名前は思い浮かばない。私が知る限り、偉大なる先輩といえば歌手の布施明ぐらいである。歴史だけは古く、かつ卒業生も多いはずなのに、この二人の存在を比較すると、この先、我が母校が優れた人物を世に送りだし、その栄誉を記した横断幕を作成して国分寺街道沿いにそれを掲げる日が来るだろうことはおそらくないだろう。府中一中の見通しは「霧の摩周湖」よりもなお暗い。

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恩方中学校の前を流れる北浅川の流れ

 恩方中学校のすぐ近くに北浅川が流れている。橋上から浅川の流れを眺めた。羽生永世七冠は中学生時代の夏に、この流れを見ながら将来、将棋界に大きな旋風を巻き起こすだろうことを思い描いていたに違いない。この小さな流れが南浅川と出会い、やがて多摩川に出会って東京湾にそそぎ、さらに湾流に乗って黒潮に至り太平洋で勇往邁進するように、いずれ棋界を制するということを、浅川の流れを目で追いながら心に誓っていたに違いない。一方、私が中学生時代にこの流れを見たとすれば、明日のことは考えずにすぐに川に飛び込み、ひたすら魚を追っていたに違いない。いや絶対に。

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八王子市の市花であるヤマユリ

 陣馬街道をさらに遡上すると道は次第に高度を増し、谷戸(やと)に入っていった。斜面には八王子市の市の花であるヤマユリが多く咲いていた。先端部に直径20センチほどの大きな花をいくつも付けるため、その重みでお辞儀をしているかのように咲いている。単独でも見事な姿を見せてくれるが、群生地ではことのほか美しさを感じさせる。息を呑むほどに美しいとは、この花を前にしたときに使う言葉かもしれない。

「夕焼小焼」の故郷~夕やけ小やけふれあいの里を散策する

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村雨紅の実家は恩方町にある宮尾神社の宮司

 街道をさらに遡上すると、「夕やけ小やけふれあいの里」にでる。ここは1996年、農村体験型レクリエーション施設として出発し、2001年に現在の名称に変更され、少しずつ設備を拡張しながら現在に至っている。ここが「夕やけ小やけ」を名乗っているのは、すぐ近くに童謡「夕焼小焼」を作詞した中村雨紅(本名髙井宮吉) の生家(宮尾神社)があるからだ。

 「夕焼小焼」の歌詞や曲を知らない人はまずいないと思えるほど、誰もが口ずさんだことがある名曲で、この歌に触れたときには思わず自分の故郷を思い出し、子供時代を懐かしむ人はとても多いに相違ない。八王子駅では発車のメロディにこの曲を使っているし、全国にある自治体が、防災無線で夕刻を告げるメロディとしてこれを使っている例は多いようだ。

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宮尾神社の境内にある歌碑

 私はこの「ふれあいの里」には何度も訪れているが、毎回、山中にある宮尾神社を訪ね、写真にある歌碑を目にしている。

 この歌詞を書いた中村雨紅(1897~1972)は前述したように宮尾神社の宮司の次男として上恩方に生まれ、師範学校を卒業して1916年に都内にある小学校の教師になった。理想とは裏腹に、下町に住む子供たちのすさんだ生活に触れ、彼は情操教育の必要性を痛感し、担当クラスでは文集の作成を進めると同時に子供に語るための童話を作り始めた。

 「夕焼小焼」はいつ頃に作ったのかは諸説あるが、1919年説が有力である。21年には「髙井宮」の名で童話を雑誌に投稿し野口雨情の目に留まった。23年、やはり小学校教師をしていた草川信が「夕焼小焼」の詞に曲を付け童謡として世に出ることになった。26年に高等師範学校を卒業した雨紅は厚木市の高等女学校の教師になり、国語教師を続ける傍ら、童謡や詩を作り続けた。

 中村雨紅のペンネームだが、「中村」は一時、おばの家の養子に入っていたときの姓で、「雨紅」は、私淑していた野口雨情から「雨」の一字をもらい、それに雨情のような才能に自分も染まりたいという念願から「紅」を付けたらしい。なお、野口雨情についてはこのブログでも以前に少し触れたことがあり、代表作の「赤い靴」についても触れている。

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「ふれあいの里」にある「夕焼小焼館」内の展示

 「ふれあいの里」には「夕焼小焼館」があり、写真にあるように中村雨紅に関する資料や展示をおこなっている。真面目に関心を抱く人にはとても参考になるものなので訪れる価値はあると思うし、景色は当時とは同じではないものの、彼が幼い頃に触れていた世界の一端を共有することは可能かもしれない。

 しかし、私のような不真面目者には、彼についての「逸話」のほうがとても気になるのである。ひとつは、彼が小学校の教師をしていたときの「通勤話」であり、もうひとつは、彼が「夕焼小焼」を作詞する際、イメージしていたのは「どこの寺の鐘の音なのか」、ということである。

 まず「通勤話」では、彼は日暮里の小学校まで毎日、上恩方の実家から通勤していたというものである。当時は恩方と八王子駅を結ぶバスはなかったので、徒歩で約16キロの道のりを行き来したというのだ。当時の小学校は何時に始業し終業するかは不明だが、仮に8時半始業、15時終業としよう。ちなみに日暮里駅から彼が最初に勤務した第二日暮里小学校(当時と現在ある学校が同じ場所にあったと仮定)までは徒歩8分である。朝は職員会議があると考えると、最低でも8時には日暮里駅に着きたい。授業は15時に終わっても、教師には雑用が多い。授業の予習やテストの作成・採点などは汽車の中でおこなうにしても、子供と遊んだり、教師仲間と教科内容の検討会議などがある。もちろん、職員会議もあるだろう。彼は子供のために童話を作ったり文集を作ったりする熱心な教師だったらしいので、子供との面談だけでなく、地域や家庭を訪問することもよくあったと考えられる。とすれば、早くても日暮里駅には17時頃に着くと想定できる。

 当時の中央線は完全には電化されていなかった。立川駅浅川駅(現在の高尾駅)との間の電化完了は1930年である。彼が日暮里の小学校に勤務したのは16年からなので、彼が通っている間、八王子と立川の間は汽車が走っていたのである。現在の中央線の最高速度は100キロである。私が幼い頃に知っていたオンボロ南武線は、電車であっても60キロがせいぜいだった。当時の汽車が時速何キロで走っていたかは不明なので、仮に八王子駅から日暮里駅の間を現在の中央線と山手線を使って通勤するとして「ジョルダン・乗換案内」で調べてみた。

 日暮里駅に8時に着くためには6時40分発の中央線・快速電車に乗る必要がある。新宿駅で山手線に乗り換えて日暮里駅に着くのが7時58分である。一方、帰りは17時ちょうどの山手線に乗り、中央線の快速で八王子に着くのは18時16分である。先に述べたように駅と自宅間は16キロあり、すべて徒歩での移動だ。自宅から駅までは緩い下り坂なので、健脚ならば約3時間というところか。帰りはやや上り坂でしかも恩方は山間の地なので日没が早い。とすると、日が長い季節でもほぼ真っ暗な道を歩くことになる。よく舗装された現在の道でも灯りが乏しいので車利用ですら少し怖い思いがする。ましてや、当時の道路状況(泥道)や自然状況(クマやイノシシが出るかも)を考えると、帰りは約4時間掛かると想定したい。

 すると、6時40分の汽車に乗るためには3時半には家を出たい。家に戻るのは22時をかなり過ぎる。とすると、自宅に居られるのは5時間ほどだ。これでは食事も入浴も睡眠も満足に取ることはできない。しかも、これは今の電車を利用しての話であって、これが私が知っている幼い頃の南武線程度の電車でも片道30分ほどは余計に掛かると考えられる。とすれば、自宅滞在時間は4時間になる。彼がナポレオンだったとしても、睡眠時間は4時間必要だ。つまり、これは不可能な想定なのである。

 彼は教育熱心な教師だったのだ。できるだけ長い時間、子供たちと一緒に居たかったはずだ。そうであるなら、無駄な通勤時間(1日10時間以上)はカットしたはずである。だが、彼に関するエピソードでは、古い時期のものほど、この長い通勤時間を彼の熱心さとともに取り上げている。しかし、ここ数年前ほどの新しい記述では、日暮里の小学校での教師生活のときは本郷に下宿し、休暇のときに実家に戻ったとある。これが実情であろう。努力の人ほど、伝説は偽造されやすいのだ。

 次は「寺の鐘」についてだ。歌詞に「山のお寺の鐘が鳴る」とあるが、いったい彼はどの寺の鐘の音を聞いてこの歌詞を作ったのかという論争だ。

 八王子では、いくつもの寺が「我が寺の鐘の音である」と主張しているらしい。とくに、市内の「宝生寺」、下恩方の「観栖寺」、上恩方の「興慶寺」の3つの寺の間では本家争いが激しかったらしい。これだけならば、いかにもありそうな話だが、論争はこれだけでは終わらない。この童謡は詞もそうだが、曲調により抒情性がある。夕暮れどきに寺の鐘がゴーンとなり、子供たちに今日一日の終わりを告げるといった「もののあわれ」を誘う雰囲気は、歌詞よりも曲の調べのほうに強く込められているというのだ。私も同感だ。ならば、この曲を作った草川信は長野市出身なので、彼が幼い頃に聞いていた鐘の音こそ本家なのだという主張が起こったのである。こうして、長野市では善光寺と往生寺が本家争いをしたという話が残っている。

 これだけならまだ良かった。これに、町田市相原町が参入したのである。なぜ相原町かといえば、中村雨紅は先に述べたように一時、中村家の養子に入っていた(1917~23年)からである。彼が「夕焼小焼」の詞を作ったのは1919年説が有力で、仮に21年説、さらに童謡として発表されたのが23年なので、19~23年の間に作られたとしても、彼の当時の本名は髙井宮吉ではなく、中村宮吉だったのであり、下宿先から実家に戻る場合、上恩方の髙井家ではなく、町田市相原町にあった中村家なのである。そうだとすれば、彼が帰宅時に聞いた鐘の音の主は相原町にある寺なのだというのである。しかし、彼の帰宅ルートには、鐘の音の音源となる寺がなかったのだった。が、相原町は負けてはいない。鐘の音は彼が幼い頃に恩方で聞いたものだとしても、彼が作詞するときに思い描いた夕焼けの景色は、彼が日暮里からの帰宅時に見た相原町のものだという主張を成立させたのである。そして、2019年、つまり今年は『夕焼け小焼け』100周年だとして、相原町では式典をおこなうらしい(おこなった?)。

 こうした「本家争い」に対し、彼は生前、歌詞の鐘の音は「心の中にある夕焼けの鐘の音」と発言し、どの寺の鐘の音であるのかというやや見っとも無い特定争いに終止符を打とうとしていた。考えてみれば、いや考えなくとも、実に当たり前の話なのである。

 そもそも、詩や詞はイメージの中で創られるものであって、創作者たるもの現地を見なくても想像の世界から創り上げられなければならない。中村雨紅が崇拝した野口雨情は伊豆大島に行くこともなしに「波浮の港」を生み、平尾昌晃、水島哲、布施明の3人は茅ヶ崎にある平尾の家で酒を飲みながら適当に詞と曲をでっち上げ、名曲「霧の摩周湖」を生み出したのである。一方、私は現地に行き、無数の写真を撮りながらその地を徘徊し、しかし、こうした駄作しか生み出せない。創作は、才能の有無が大きく左右するのだという実感がある。いや絶対に。 

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2007年まで陣馬街道を走っていたボンネットバス

 「夕やけ小やけふれあいの里」には「夕焼小焼館」をはじめとして「農産物直売所」「ふれあい牧場」「キャンプ場」「ふれあい館」などの施設があり、敷地内の山林を通る「夕焼けの小道」には「カタクリ」「河津桜」「アジサイ」「ヤマユリ」などが植えられており、四季折々の散策に色どりを添えている。

 施設にある展示物の「夕やけ小やけ号」と名付けられたボンネットバスは、ある年代以上の人々の郷愁を誘う。陣馬街道では1982年から2007年まで写真のバスが使われていた(京王八王子駅・陣馬高原下間・休日のみ)。ボンネットバス自体は1950年頃までが全盛だったので、陣馬街道にこの形のバスを走らせたのは懐古趣味の側面が強かったのだろうが、「ふれあいの里」の前を行き来するにはよく似合っていたはずだ。もっとも、バスの運行が先で「ふれあいの里」の開設のほうが後なのだが。なお、このバスは2009年に運行会社である西東京バスから寄贈されたとのこと。

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施設内に咲くヤマユリに誘われた蝶

 ふれあいの里の散策路では多くのヤマユリが花を付けていた。夏の時期は、このヤマユリとホスタ(ぎぼうし)の二大共演だ。艶やかなヤマユリの花と可憐なホスタの花、対照的で美しいが、私はクロアゲハの助演を好ましく思った。大きな羽を小さく打ち震わせながら蜜を探している懸命な姿に。

さらに上流に向かって遡上する

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昭和初期を思い起こさせる郵便局の建物

 ふれあいの里を出て、さらに北浅川を遡上した。

 街道を陣馬山方向に進むと右手に写真の「上恩方郵便局」に出会う。この街道には古い建物が多いが、この郵便局はまだまだ現役である。建造年は1914年説、28年説、38年説がある。どれが正しいのかは窓口で聞けば分かるだろうが、まだまだ歴史的建造物というほどには古くないので、あえて尋ねることはしなかった。わたしが子供だったころには、こうした建物はたくさんあり、この存在は日常そのものだった。過ぎ去った昭和時代を思い起こせれば、それ以上は望まない。ただし、あえて望むとすれば、赤いポストは昔の円筒状の丸型のものが良いと思った。

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陣馬街道にあった口留番所

 郵便局のすぐ先にあるのが「口野番所跡」である。この存在自体は見落としてしまいがちだが、この番所がかつては重要な役割を果たしていたということを思うと、ここで取り上げないわけにはいかなかった。それは、この陣馬街道(かつては案下街道と呼ばれていた)は甲州街道の裏街道もしくは脇街道であったからだ。八王子の追分交差点で甲州街道と別れたこの道は、和田峠(標高700m)を越えて相州に入り、JR中央線の藤野駅付近で甲州街道に合流する。本街道は小仏峠を越え、裏街道は和田峠を越えるのだ。本街道に「小仏関所」があったように裏街道にも「口野番所」があって「入り鉄砲出女」を取り締まっていたのだった。写真の説明書きにあるように、ここの番所は村持ちで、村方36人が交代で警備に当たっていたらしい。

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北浅川が支流(醍醐川)と最初に出会う場所

 番所跡から少し遡上すると、写真の合流点に出会う。右からの流れが醍醐川で、左の細い流れが本流の北浅川である。醍醐川は和田峠のすぐ北側にある醍醐山(標高867m)の谷に源を発している。上流部には集落が少ないので、水の透明度はかなり高い。ただし、こちらには写真からわかるように段差があるので、私が魚であったら醍醐川には遡上できない。この点、北浅川方向の流れなら楽勝である。したがって、私も魚も左の北浅川方向に進む。実際、陣馬街道もこちら方向である。

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北浅川の最上流付近

 北浅川を源流に向かって遡上する。やがて、右手に「陣馬高原下バス停」が見えてくる。陣馬山に登るハイカーはここでバスを降り、登山道へと向かう。登山道は和田峠のある陣馬街道方向にあるが、北浅川はここで街道と別れ、陣馬山と堂所山とが造った谷へと向かう。この泣き別れの場所には「陣馬そば山下屋」がある。私は入ったことはないが、お手頃価格なので結構、人気があるらしい。

 陣馬そばと聞くと、私はかつて府中駅横にあった立ち食いそば店を思い出す。そこは京王線の子会社が経営していたと思うが、いつも腹を空かせていた私は、よくコインを握りしめながらこの店に走った。天ぷらそばは40円、天玉そばは55円だったと記憶している。もっとも、私はそばではなく、より量が多いと思われるうどんの方をいつも注文していた。とくに美味しいとは思えなかったが、腹の虫はおとなしくなった。こうした駅内外にある「立ち食いそば店」は便利なので、中央線を利用したときにも入ったことはよくあるが、京王線の「陣馬そば」のほうが味は少し良かった。

 バス停近くにある「山下屋」は京王電鉄と関係があるのかは不明だが、子会社である西東京バスを利用して陣馬高原下に来る人がメインの客であると想定できるので、資本関係はともかく「関係」はあるだろう。どうでもいいことだが。

 陣馬街道に別れを告げた北浅川は峠道を進む。右手に「辻野養魚場」があった。この辺りが車で入れる限界なので、路肩に車を止めて少し歩いてみた。浅川の流れは、とてもか細く、魚の姿を見出すことは困難だった。

 だから私は、遡上を止めた。

出発点に戻る

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四谷橋から合流点方向を望む

 私は「府中四谷橋」の上にいる。多摩川と浅川とが出会う場所が見られるからだ。夕焼けに染まる出会いの地を撮影したかったのだが、あいにく、この時期の夕方はほぼ毎日、西側の山々には雷雲が発生するので、太陽は早い時間帯から雲に隠れてしまった。隠れる刹那、残光を残した太陽は心なしか川面を染めた。高圧線には多くの鵜が止まっている。多摩川を遡上する鮎を狙っているのだ。

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多摩川左岸から浅川の流れ込みを望む

 四谷橋から多摩川左岸の土手に移動した。前回の2枚目の写真にある出発点の写真は向かい側の河原から撮影したもので、今度は府中市四谷側から合流点を望んだ。周囲は相当に暗くなっていたので、目いっぱい増感して撮影した。写真ではやや明るく見えるが、実際には夕焼けの光はもちろんなく、小焼けの光すらない。

 川はこうして多くのものと出会うが、人は晩年、多くのものと別れる。仲良しとは別れ、小良しとも別れる。

 それにしても、「小焼け」とは何だ。「小良し」とは何だ。それらは結局、「夕焼け」や「仲良し」という言葉の語調を整えるだけの存在にすぎず、それ自体には意味はない。さすれば、「夕焼け」や「仲良し」にも実体はなく、それらを考える主体が存在するだけなのだろう。否、それですら、当体の思い込みにすぎないのではないか。

〔17〕浅川旅情、いや遡上(そじょう)です(前編)

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高幡不動土方歳三菩提寺

浅川には浅からぬ縁がある

 浅川は多摩川の大きな支流のひとつである。もう一つの大支流である秋川は渓谷が美しかったり鮎釣りが盛んだったり、右岸に「サマーランド」があったりと流域に住む人以外にもその存在はよく知られている。「夏休みに秋川に行く」と知人や近隣の人から聞くと、大方の人は、その人たちが「キャンプ」か「河原でバーベキュー」に出掛けるのだろうと想像する。秋川に行く人が釣り好きであると知っている場合は、「鮎釣りですか、渓流釣りですか」と尋ねるかもしれない。一方、「夏休みに浅川に行く」と聞いてもおそらく99%の人は返答に窮し、「そうなんですか‥‥」としか言えず、ただ当惑するばかりだろう。浅川それ自体には特別、「遊び」を連想させるものはないからである。

 私の場合、浅川には以前から浅川ならぬ浅からぬ縁があり、かなり身近な存在だった。とはいえ、浅川それ自体というより川の周辺にいる(ある)存在が関係しているのだけれど。

 私の鮎釣りの師匠は浅川左岸近くに住んでいた(いる)ので、教えを乞うために浅川に掛かる「新井橋」を渡ってその自宅を訪ねた。私の初恋の少女は浅川左岸にある高校に通っていたので、新井橋を高幡不動側から立川方向に渡るときはいつもその高校の校舎を目で追っていた。その学校の制服を着た女子生徒を見掛けたときは、もうとっくに卒業してそこにはいるはずはないのに、その姿にはいつも心が騒めくのだった。

 高幡不動尊にも多摩動物園にもよく出掛けたが、それらの近くには浅川が流れている。釣りを本格的に始める前、中学校の同級生と釣りの練習をよくおこなったのだが、その道場は京王線平山城址公園駅近くの浅川だった。その友人は八王子の北野に引っ越して住んでいたし、この川は多摩川より規模が小さいので練習場には最適だった。教員を辞めしばらく釣りの研究に没頭していると、別の知人から「専門学校を設立するので、申請のための文書作成と役所との折衝をお願いしたい」と乞われたので一年間、京王八王子駅近くの事務所に通った。浅川が近くにあったので、心身の休息を口実にその河原でタバコをよく吸っていた。浪人生専門の大学受験予備校で教えたとき、八王子にも教室があったので昼休み時には浅川の河原まで出かけて付近を散策し、体を動かすようにしていた等など結構、浅川周辺ではいろいろな想い出が形成された。

多摩川との合流点付近を歩く

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多摩川とは日野市落川付近で合流する

 高尾山系に源を発した浅川は、約30キロの旅を終えて、日野市落川あたりで本流の多摩川右岸側に合流する。写真の対岸に見える建物は府中市四谷にあり、写真にはないがすぐ下流には、野猿街道の「府中四谷橋」が掛かっている。この橋もまた私の散歩コースのひとつに属しているので、この多摩川と浅川との合流付近を橋上から眺めることがある。橋上から川を望むと右手からは多摩川の、左手からは浅川の流れが見えるのだが、両者が合流してもしばらくは水の色が2つに分かれ、ほとんどの場合、浅川からの流れのほうが澄んでいる。

 川を歩く場合、通常は川上から川下へ、つまり川の流れに身を任せながら探索するのだが、今回は川下から遡上(そじょう)してみた。特段の理由はなく、今の時期は鮎釣り真っ盛り(今年の7月は例外として)なので、鮎を真似て「天然遡上」してみただけなのだ。なので、この合流点が今回の散策の出発点となった。

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新井橋の直上を走る多摩モノレール

 最初に出会った橋が「新井橋」だ。今回は遡上しているので、実際には浅川に掛かる橋としては最後のものだ。私にとってもっとも馴染みのある橋で、浅川を渡るときの80%以上ははこれを使っている。多摩モノレール多摩都市モノレール線)はこの直上を走っており、写真の列車は「万願寺駅」を出て次の「高幡不動駅」に向かっている。

 新井橋は「新井」にあるが、橋の北には「新井公園」があり、南は「大字新井」という地名だ。つまり、川を挟んで南北に「新井」があることになる。こうしたことは本家の多摩川にはとても多く、例えば、「押立」は府中市と対岸の稲城市にある。同様に「布田」は調布市と対岸の川崎市、「和泉」は狛江市と対岸の川崎市、「宇奈根」は世田谷区と対岸の川崎市にある。下流に行けばさらに多くの分断された地名を見出すことができる。これらの地名は元は別々に存在していたわけではなく、同じ場所にあったものが多摩川の流路が変わったために川によって分断され、此岸と彼岸に位置するようになったのだろう。

 この「新井」はどうか?多摩川と同じように浅川も「暴れ川」であったため、その蛇行によって新井地区が分断された蓋然性が高い。一方、新井という地名は「新しい井戸」を表し、そういった場所は水が豊富な日野ではどこにでも見られるので偶然、川の南北の土地が新井と名付けられたという可能性もなくはない。さらに、どちらかが先に新井という地名を付け、まだ名をもっていない方が新井を訪ねてその地名を聞いたところ、「新井というのか?あらいいね」と言って自分のところも新井にした。といったことは、まぁ、ないだろう。

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新井橋から下流方向を眺める

 新井橋に立って下流方向を眺めた。右岸の右手には多摩丘陵(多摩の横山)の連なりがよく見える。右手に見える高台は「京王百草園」がある百草地区の台地だ。ここも多摩丘陵に属している。写真中央部分にある建物群は京王線聖蹟桜ヶ丘駅周辺のものだ。その右手には多摩丘陵につながる坂道(通称いろは坂)があり、その坂上に立って「耳をすませば」、「カントリーロード」の歌声が聞こえてくるかもしれない。少し見えづらいが、左側にある白い塔は「府中四谷橋」の主塔である。 

土方歳三の生誕地を歩く

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土方歳三銅像高幡不動の境内にある

 新選組の副長だった土方歳三は旧石田村(現在の日野市石田)出身である。石田は浅川左岸と多摩川右岸に挟まれた場所、つまり両河川の合流点のすぐ西側に位置する。歳三の家は石田村随一の豪農で、地元では「大尽」と呼ばれていたそうだ。日野市石田には歳三ゆかりの地があるので私は何度となく訪れているが、広い敷地をもった邸宅があると、決まってその家の表札には土方姓が掲げられている。これは、広大な農地が土方一族に分配されたこと、維新後、平民も姓を公然と名乗ることができるようになったため、この地の多くの人が歳三にあやかって土方姓を名乗るようになったことなどによると考えられる。

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歳三の生家があったとされる「とうかん森」

 写真の「とうかん森」は歳三の生家があったとされる場所の一部である。かつては鳥居や祠があり樹木も生い茂っていたが、 現在は樹齢250年余のカヤの木が2本残っているだけである。周囲の宅地開発が進み、多くの木々は周囲の住宅を覆い、大樹の根は宅地の地面を掘り起こしてしまうため、他の木々は処分されたそうだ。土方家自体、幕末期の多摩川の氾濫によって流されそうになったため、やや川から離れた地に移築された。現在、「土方歳三資料館」になっている場所が移築後の生家である。「とうかん森」のすぐ北東側には「北川原公園」や「浅川水再生センター」があるが、この辺りに元の生家があったらしい。それゆえ「とうかん森」は土方家のほんの庭先といったところだろうか。

 歳三は1835年に石田村に生まれ、69年の箱館戦争のさなか、一本木関門付近で戦死した。新選組の話はいずれ別の項をたててその足跡をたどる機会があると思うので、ここでは多くを記さない。

 歳三は、小さい頃はかなりの悪ガキで「石田村のバラガキ」と言われていたそうだ。バラガキとは「茨垣」のことで、トゲがあって手が付けられないという意味をもつ。私の場合はただ単に「クソガキ」と言われたが。歳三は末っ子なのでどんな「大尽」の子供でも、自分で手に職をつけるか婿養子に入るかしなければならなかった。11歳のころいったん丁稚奉公に出たが、馴染めずすぐに辞め、14歳のころ再び奉公に出たらしい(異説多し)。23歳ころに奉公を終え、しばらくは自宅の家業のひとつであった「石田散薬」の行商に出た。

 石田散薬は打ち身、捻挫に効く薬らしい。今でいえば「バンテリン」のようなものかも。この散薬は浅川で刈り取った雑草(ミゾソバ)が原料で、それを乾燥させてから黒焼きにして、薬研(やげん)ですりおろしたものだ。これを酒と一緒に飲むと効き目が良かったらしい。「良薬は口に苦し」ではないが、ミゾソバタデ科の草なので、かなり苦いはずだ。「タデ食う虫も好き好き」という言葉があるくらいなので、酒で一気に飲んでしまわなければとても耐えられなかったのかもしれない。それでも昭和初期までは土方家の家伝薬として存在していたらしいので、効能は確かだったのだろう。

 ミゾソバの刈り取りは「土用の丑」の日におこなわれたが、この日は村人が総出で草刈りをした。製薬までの一連の作業は、基本的には土方家の当主(歳三の兄)が指揮をするのだが、幼い歳三が指揮をしたときのほうが効率よく作業が進展したらしい。子供の頃から人心掌握に長けていたのかもしれない。

 歳三はこれを甲府や川越、厚木などの家々を訪ね売り歩いた。その間、自己流で剣術の稽古をおこない、各地で剣術道場を見つけては試合を挑んで腕を磨いた。

 25歳ころ天然理心流に入門した。道場は日野宿の名主だった佐藤彦五郎宅の日野本陣にあった。ここに新宿牛込にあった「試衛館(場)」から近藤勇が出稽古に訪れ、天然理心流の同志としての交流が生まれた。佐藤彦五郎は歳三の姉の嫁ぎ先、近藤勇は近藤家に養子に入る前は宮川姓であり、上石原村(現在の調布市)の出身であった。お互い多摩の田舎者同士のため、三者の間には深い絆が生まれたのである。

 歴史に「もし」を言っても意味はないかもしれないが、もし姉が佐藤家に嫁がなければ、もし勇が近藤家の養子にならなければ、このトリアーデは生まれなかった。結果、新選組は成立せず、仮に成立したとしても近藤勇だけでは冷徹な組織原理は駆動せずすぐに瓦解していただろう。すると、司馬遼太郎の『燃えよ剣』は作られず、私のチャンバラ熱は「赤胴鈴之助」レベルにとどまり、結果、その熱は小学生時代で冷めていたはずで、大人になってもチャンバラをすることはなかったかも。いやまったく。

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歳三の墓は日野市の石田寺にある

 歳三は1869年、箱館(函館)戦争にて戦死した。満34歳、数え35歳だった。歳三の墓は「とうかん森」近くの石田寺(せきでんじ)にある。真言宗の末寺で本寺は高幡山金剛寺(通称高幡不動)だ。位牌はこの本寺の大日堂にある。

 今年は没後150年にあたり、それを記念して『燃えよ剣』の映画化が決まり、2020年に公開される予定だ。歳三を演ずるのは岡田准一だそうだ。何者かは知らないが、写真で見た範囲では美男子だ。NHKの大河ドラマ新選組!』は2004年に放送されたが、このときに歳三役を演じたのは山本耕史だ。これも美男子であった。この名を聞いた当初、山本浩二が野球界から転身するのかと錯覚したが、彼の場合は美男子というより野人という感じなので似合わないと思ったが、そうではなかったことに安堵した。歳三の容姿は唯一残る「ざんぎり頭の洋装写真」から推測するしかないが、史料には「身丈五尺五寸(約167センチ)、眉目清秀にしてすこぶる美男子たり」とあるので、写真通りの顔立ちだったのだろう。女性に大人気だったのも頷ける。

 ところで、大河ドラマは毎年、初回から見るのだが、最後まで見たのは『新選組!』と『龍馬伝』と『花燃ゆ』だけだ。すべて幕末ものだ。最近は我慢しても3回ぐらいまでで止めしまう。今年の『いだてん』は最初の20分で馬鹿々々しくなって止めた。脚本が非道過ぎた。NHKから正しい大河ドラマを守る会を作りたいぐらいだ。

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土方康氏が建立した「土方歳三義豊之碑」

 石田寺の境内に入ると写真の石碑が目に入る。「土方歳三義豊之碑」とある。義豊はは歳三の諱(いみな)で通常、成人してから付けられる。この石碑は、土方家の家禄を継いだ実兄(喜六)の曾孫である土方康氏が1968年、明治維新100年という切りの良い年を選んで建立したものである。

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石田寺にある歳三の墓。思いのほか小さい

 1868年、戊辰戦争の緒戦である「鳥羽伏見の戦い」に敗れた歳三は「これからの武器は鉄砲でなければだめだ」と悟り、羽織袴姿を捨てて西洋式の軍服姿になり、髪型も「ざんぎり頭」に変えた。唯一の写真に残る歳三の姿は、洋装に変えてからのものである。

  近藤勇を失った新選組旧幕府軍に加わり会津に向かった。途中、宇都宮城を陥落したもののすぐに奪還された。会津もまた陥落し歳三は仙台に向かった。ここで、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚と出会った。榎本や歳三は新政府軍と闘うつもりだったが、元号が明治に変わった直後、仙台藩も新政府軍に降伏した。こうして、歳三は榎本らとともに蝦夷地へ向かうことを決意した。このとき、歳三に同行していた新選組の隊士は24人にまで減っていたが、他藩の藩士新選組に加わることになり隊士は総勢75人になった。

 仙台では、元奥医師で将軍の治療にもあたっていた松本良順と再会した。かつて新選組が京都にいたとき近藤勇以下隊士が治療を受けていた名医である。良順は歳三に降伏を進言したが、歳三は「幕府が倒れるときに命をかけて抵抗する者がいなくては恥ずかしいことで、勝算などない」と言い、「君(良順のこと)は有能なので江戸へ帰るべきで、われらのごとき無能者は快く戦い国家に殉ずるだけ」と自らの覚悟を語った。

 箱館戦争では序盤に勝利し、箱館政権には総裁に榎本武揚、陸軍奉行に大鳥圭介箱館奉行に永井尚志といった旧幕府の要人が閣僚に入ったが、歳三も陸軍奉行並(陸軍大将クラス)として閣僚に加わった。しかし、歳三は戦闘の際は常に最前線に立ち、彼が指揮した部隊だけは常に戦闘に勝利した。が、戦局は悪化の一途をたどり、もはや箱館政権の敗北は濃厚となった。最後の戦闘の直前、歳三は若い隊士である市村鉄之助を自室に呼び、「横浜に行く船があるのでそれに乗って多摩に帰れ。そして、佐藤彦五郎宅に寄り、これを渡せ」と言って写真1枚、遺髪、辞世の和歌の書付を市村に渡した。私たちが目にすることができる歳三の写真は、そのとき市村に託したものである。

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歳三の墓石の横書き

 『燃えよ剣』では、歳三の最後をこう記している。私のへたくそな文よりも遥かに感動的なのでここに引用する。

 新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」

 あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。

 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。

 が、再び馬が地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすざまじい音をたてて地にころがっていた。

 なおも怖れて、みな、近づかなかった。

 が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。

 歳三は、死んだ。

 箱館政権の主要閣僚8人のうち、戦死したのは歳三ただひとりだった。

南浅川の源流部を訪ねる

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甲州道中守りの要だった「小仏関」跡

 甲州道中(甲州海道、甲州街道)は江戸五街道のひとつだが、参勤交代に使うのは諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の三藩だけだった。また、京都から宇治茶を運ぶルートとしても使われた。一方、徳川家康は、江戸城にもしものことがあった場合には甲府城に逃亡するつもりだったので、この道はまさかの場合の避難路として重要な存在であった。

 甲州道中の起点は日本橋で当初、最初の宿場は高井戸にあったが、日本橋からはあまりに遠いので、その中間付近にある内藤家(高遠藩)の中屋敷があった四谷新宿に、新たに宿場を設けた。布田五宿・府中宿・日野宿は多摩川沿いにあり、八王子宿・駒木野宿・小仏宿は浅川沿いにある。それから小仏峠を通って相模国に入り小原宿・与瀬宿と続く。

 江戸の守りにとって重要なのが小仏峠で、峠と八王子宿の間の駒木野宿跡付近に写真の小仏関跡がある。関所は「入り鉄砲に出女」を取り締まる場所だ。つまり、江戸に武器を持ち込ませないこと、大名の妻子を江戸から出さないことが主たる目的だった。ここ関所跡あたりから、道は南浅川を左にみながらだらだらとした上り坂が続き、次の写真の場所あたりから急坂に入る。

 さて新選組だが、1868年の鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ると、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護を申し付けられた。しかし、それでは新選組の名誉回復にはつながらないので、甲府城に立てこもり新政府軍の侵攻を食い止めるという作戦を提案した。これには陸軍総裁となっていた(すぐに移動させられたが)勝海舟も同意し、軍資金と大砲2門が提供されることになった。もっとも、慶喜の命で江戸城無血開城を企図していた勝にとっては新選組は邪魔な存在でもあったため、厄介払いの良き口実になったのだった。

 甲陽鎮撫隊を名乗った新選組だが、隊士は70人ほどしかいなかったため、浅草弾左衛門配下のものを加え約200人の部隊を揃えた。3月1日、内藤新宿を出立し甲州道中を西に進み、その夜は府中宿に泊まった。2日に日野宿を通過する際には佐藤彦五郎宅に立ち寄った。近藤や歳三にとっては故郷に錦を飾るようだった。その日はさらに西へ浅川沿いの道中を進み、八王子宿、小仏宿、小仏峠を超え、与瀬宿に泊まった。

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南浅川の源流点付近。この先に小仏峠がある

 3日には猿橋宿、4日には駒飼宿、5日に勝沼宿に入った。しかし、政府軍はすでに4日に甲府城に入っていた。よく、故郷の多摩で宴会ばかりしていたので進軍が遅れ、その結果として甲府への到着が間に合わなかったと言われるが、この行程を見ると格別に遅いとは思えない。調布では少し遊んだかもしれないし、府中宿では宴会ぐらいはしただろう。日野でも熱烈歓迎を受けたかもしれないが、府中から一日で小仏峠(標高548m)を越えて与瀬宿まで行軍したのだから、さほど寄り道ばかりしていたとは言えないと思うのだが。その一方で、近藤や土方をはじめとして、だれも本気で政府軍に勝てるとは思ってはいなかったことも確かだろう。

 浅川は八王子市役所付近で分岐し、南浅川は高尾駅のすぐ先まで国道20号線の北側に並走する。国道は西浅川交差点を南下し、高尾山の東そして南を通り、高尾山系の大垂水(おおたるみ)峠(標高392m)を抜けて相模湖方向に進む。一方、甲州道中は西浅川交差点を右手に進み高尾山の北側を抜ける。南浅川は道の南側を並走する。中央本線はこの道中に並走し、また中央高速(中央自動車道)も小仏関跡辺りから並走する。やがて中央本線小仏トンネルに入って姿を消し、中央高速もそれ続いてトンネルの中に消える。南浅川は源流点がある谷に溶け込む。西浅川交差点から小仏トンネルまでの約4キロは南浅川・甲州道中・中央本線・中央高速の4者が並走しているのである。

 私は、中央高速を走るたびに、この旧甲州道中や南浅川や中央本線の存在がとても気になってはいたが、実際にこの道中を通ったのは今回が初めてだった。地図を見るのが好きなので、この道の存在は子供の頃から知っていたし、この道から蛇滝を通る高尾登山道の存在も知っていた。さらに、道中の小仏峠を抜けると「美女谷」という思わずヨダレが出てしまうような場所があることも知っていた。が、なぜかこの道には来たことはなかった。

 小仏関所は1869年に廃止された。旧甲州道中では車の通行ができないので、自動車用の道路は、より開発しやすい場所が選ばれ大垂水峠を通るルートが88年に完成した。以来、旧甲州道中を通るのは沿道に住む人々か、小仏峠を趣味で越える人、小仏城山、景信山、陣馬山などに登る人たちにほぼ限られるようになった。

浅川を渡って高幡不動に向かう

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浅川左岸から高幡不動を望む

  浅川左岸で土方歳三の足跡を追った後、浅川の土手沿いを上流に向かって歩いた。夏草が生い茂っていたのでミゾソバを探してみた。夏から秋が花期なので簡単に見つけられると思ったが、左岸側の河原には葛が繁茂しており近づくことが容易ではなかったため簡単には見出せなかった。他の場所ではすぐに見つかるのに、何故かここでは目にすることができなった。

 足元ばかり見ながら歩いていたので、「ふれあい橋」の北詰を通り過ぎたことを忘れていた。次の高幡橋方向に進んでしまったとき、対岸にある高幡不動五重塔が目に入った。かつての塔はかなり古ぼけたものだったが、1980年に建て直されたこれは鉄筋コンクリート造りだが、古の姿を思い起こせるほどよく再建されている。毎年4月28日だけは内部が公開され、上層まで上がることができるらしい。

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ふれあい橋と呼ばれている万願寺歩道橋

 通り過ぎた橋の北詰に戻った。この橋は「万願寺歩道橋」という正式名をもつが、通常は「ふれあい橋」と呼ばれている。歩行者や自転車専用の橋で、車やオートバイは通ることができない。 斜張橋風で、どことなく「鶴見つばさ橋」に似た優雅さをもつ。日野市の観光ガイドには必ず出てくるほど地元では知名度は極めて高い。なお橋上からは、晴れて空気が澄んでいるときは、富士山をはじめとして高尾山系の山々がよく見える。

 浅川が日野市の南北を分断しており、京王線高幡不動駅は川の南側にあるため、この駅に行くために北側に住む人は下流の「新井橋」か上流の「高幡橋」まで迂回しなければならなかった。浅川の水が少ない時期であれば、屈強な人は写真に写っている「向島用水取水堰」を使ってショートカットできるだろうが、普通の人には難しい。1991年にこの橋が完成した。多くの人にとっては「救いの橋」になったことだろう。この橋を渡ると高幡不動駅までは数分の距離である。この橋の周囲には個人住宅、集合住宅が多いので、橋は散策路によく使われ、まさに「ふれあい橋」の名がよく似合う。もっとも、もし私が命名者だったら「ふれあい橋」ではなく「ふれあいの小径」にしただろう。なぜなら、「径」には「ショートカット」という意味が含まれているからだ。

 なお、写真は浅川の右岸の土手上から下流方向に橋を写したもので、写真の左側が橋の北詰になる。右側に写っている護岸の周囲はよく整備され親水広場になっている。土手には緩やかな階段があり、夏休み中のこの時期には多くの子供や若者、親子連れが集っている。

高幡不動尊は土方家の菩提寺

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高幡不動の建物は大改修され、朱が鮮やかに復活したものも多い

 高幡不動は浅川の右岸側にある。京王線の特急停車駅なので、この鉄道を利用する人は誰でも知っている名前だ。「高幡不動に行く」というと、高幡不動駅もしくはその周辺に行くのか、それとも高幡不動にお参りに行くのかはっきりしない。話の脈略で判断するしかない。おそらく前者の場合で使われていることが多いだろう。とくに「多摩モノレール(正式には多摩都市モノレール線)」が1998年に開業してからはその傾向はより強くなった。たとえば、「高幡不動から万願寺に行く」というと「お寺巡りをするなんて、なんと信心深い人なのだろう」と思われるかもしれないが、実際には京王線高幡不動駅までいって多摩モノレールに乗り換えて万願寺駅で降り、馴染みの釣具店に行くという次第なのである。信心深いどころか、殺生の相談にいくのである。

 高幡不動は「高幡不動尊」とも通称され、正式には「高幡山明王院金剛寺」という。よく「関東三大不動のひとつ」と言われるが、成田山と高幡山はすぐに出てくるもののあとのひとつは難しく諸説あるらしい。この「三大~」とか「四大~」は皆大好きで、「三大瀑布」「三大美林」「日本三景」「三名園」「三大盆踊り」「三大霊場」「三筆」「御三家」「三大改革」などはよくクイズに出る。

 私が初めて高幡不動に来たのは小学校の遠足のときだったと記憶している。たぶん「多摩動物園」の”おまけ”だったように思う。こうした”釣り”は遠足ではよくおこなわれ、その代表が「江ノ島・鎌倉」だろう。ガキンチョには寺はほとんど興味がない。

 しかし、ここが土方歳三菩提寺あることを知り、歳三の銅像が建てられたことを知って以来、私にとって高幡不動多摩動物園より重要な存在になった。とはいえ、お参りはほどほどにして、境内にある多摩丘陵ハイキングコース(かたらいの道)を散策するという楽しみも付属しているからである。国の重要文化財である仁王門から入って土方歳三像を見て、不動堂、五重塔、奥殿、大日堂から大師堂に戻り、山内八十八カ所巡拝コースを経てハイキングコースを進み、多摩動物園の裏側(北側)から動物園内をのぞき見しつつ西に向かい、平山城址公園に立ち寄って平山城址公園駅まで行き、京王線に乗って高幡不動まで戻るというのが、晩秋から春にかけての徘徊コースなのだ。

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大師堂があることからわかるようにここは真言宗の寺である

 境内には大師堂がある。大師堂とは大師号が贈られた僧(27名)を礼拝するもので、多くの場合、この僧は空海弘法大師 )を指す。もちろん、最澄伝教大師)も円仁(慈覚大師)も覚鑁(興教大師)も親鸞見真大師)も法然(円光大師)も日蓮立正大師)も大師なのだから、必ずしも弘法大師を指す訳ではないけれど、「四国八十八カ所巡り」があまりにも有名なので、お大師様といえばほとんどの場合、弘法大師を指すと考えて良いだろう。ミスターと言えば長嶋茂雄を指すようなものかも。

 高幡不動真言宗の寺である。したがってその末寺である石田寺も同様だ。ただし、真言宗の場合(この宗派だけではないけれど)、大きく「古義真言宗」と「新義真言宗」に分かれ、ここは「新義真言宗」の智山派に属する。

 寺の解説によるとここを開いたのは円仁で、「清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる」とある。円仁は第3代天台座主なので、当初は天台宗系であったと考えられる。しかし、次の説明を見ると「1335年の大風によって山中にあった不動堂は倒壊したが、住職の儀海上人が1342年、ふもとに移して建てたのが現在の不動堂で」(一部簡略化)とあり、さらにこの寺の法号碑には「中興第一世儀海和上」とあるので、今日続く高幡不動は儀海を開基と考えられる。とすれば、儀海は紀州根来寺(ねごろじ)で奥義を極めたので、ここは事実上「新義真言宗」の寺として再スタートしたと考えてもよさそうだ。

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不動堂は1342年に創建され、修理を重ねながら現在に至っている

 根来寺の名を聞くと、私の場合はすぐに「根来衆」を思い浮かべ、すると「忍者」を連想してしまう。忍者といえば伊賀者や甲賀者があまりにも有名で、「伊賀の影丸」や「甲賀忍法帖」が懐かしい。根来衆といえば根来寺僧兵の長だった「津田監物」がよく知られている。もっとも、津田は忍者(忍術使い)というよりスパイ(諜報員)という感じで、根来寺の命を受けて全国を情報収集に飛び回り、種子島に日本に初めて鉄砲が二挺入ったということを聞くとすぐさま種子島に入り、その一挺を無償で譲り受けたという功績がある。さらに彼はその鉄砲を基に日本人に作らせ、火縄銃の使い方の基礎を編み出した。このことで戦国時代の戦闘の在り方が根底から変わり、やがて織田信長の台頭を許したのだった。津田は鉄砲隊を組織したので以降、根来衆は「鉄砲隊」のイメージが強くなった。

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1982~87年にかけて大改修された大日堂。歳三の位牌が安置されている

 根来寺の話に戻る。開基は覚鑁(かくばん、1095~1144))である。「鑁 」は難読漢字で、かつ今日でもなぜこの字が成立したのかは不明だという珍しい漢字だが、このブログを読んでくださっている奇特な方は「鑁」には見覚えがあると思う。6回目の「渡良瀬紀行」の中で取り上げているからである。足利氏の菩提寺である「鑁阿寺」の「鑁」がこれだ。

 覚鑁空海の300年後に出た真言宗の高僧だ。空海真言宗の教えをあまりにも緻密に作り上げてしまったため、同期にできた最澄天台宗に比べてその広がりは遥かに後れを取っていた。一方、平安中期以降は大陸から民衆にもわかりやすい「浄土信仰」入ってそれが広まったため、厳格で高尚すぎる真言の教えはますます後塵を拝する結果となっていた。そこで覚鑁真言宗にこの「浄土教」の教えを取り入れることにした。大日如来はこの宇宙の不動の一者ではあるが、人間の救済のために「阿弥陀如来」に変じて地上に現れるというものである。これが覚鑁の「蜜厳浄土」観だ。

 しかし、高野山ではこの宗教観を異端と考え、覚鑁はこの地を追われ、和歌山の根来の地(現在の和歌山県岩出市)に逃れた。その地に寺を建て新しい真言の教え、すなわち「新義真言宗」の確立を目指した。覚鑁鳥羽上皇の信認が厚かったため多くの寄進を受けた。こうして根来寺は規模を拡大し、最盛期には寺に付属する建物は3000棟近く、住む人も2万人と大きな宗教都市に成長した。また宗教活動だけでなく、対中国貿易や商工業活動も盛んにおこなった。そして、全国からいろいろな情報を集めるため、各地に「根来衆」を放っていた。この一例が、上に挙げた「鉄砲話」である。

 根来寺織田信長とは協力関係をもっていたが、秀吉とは敵対関係になり根来寺は壊滅に瀕した。が、徳川家康が再興の手を差し伸べ、ひとつは京都の智積院根来寺の教えを受け継ぎ、ひとつは奈良の長谷寺が受け継ぎ、それぞれが総本山になっている。前者が「新義真言宗智山派」となり、後者が「新義真言宗豊山派」になって今日に至っている。ちなみに、高幡不動は前者で、新義真言宗智山派別格本山の地位にある。

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高幡不動の仁王門の裏側から参道方向を望む

 京王線高幡不動駅の南口を降りると右手に短い参道があり、それを抜けると野猿街道に出る。信号を渡ったところにあるのが、国の重要文化財に指定されている仁王門だ。この門は室町時代に造られ、修理を重ねながら今日に至っている。表側には「高幡山」の扁額が掛かっている。私が訪れたときは仁王門の真上に太陽があり逆光が強くて撮影ができなかったため、やむなく裏側から撮った。短い参道の正面にある建物が高幡不動駅だ。

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土方歳三像と新選組両雄の碑。後ろにあるのが弁天池

 境内に入り、左手方向を見ると大きな土方歳三像が見える。1995年、地元のロータリークラブが寄贈したもので、歳三のりりしい姿がよく再現されている。私はお寺に入っても頭を下げたり手を合わせたり、ましてやお賽銭をあげることはほとんどないが、この歳三像には頭を下げる。私には全く備わっていない心情をすべて有していた人物だからである。

 その右にあるのは「新選組両雄の碑」で、高幡不動の住職やかの佐藤彦五郎を中心に近藤勇土方歳三を顕彰する碑の建設を推進していたが、新選組は維新政府にとっては賊軍であったためになかなか許可が下りず、1888年になってやっと建てられた。

 これらの背後には小さな弁天池があり、今はたくさんのハスが花径を伸ばしている。小さな橋の先には朱塗りの弁天堂ある。全体がコンパクトだが、趣きは豊かである。

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新築の五重塔はやはり境内では一番目立つ存在だ

 鉄筋コンクリートで造られた塔だが、平安初期の様式をよく再現している。塔の高さは約40m、総高は45mある。天辺の相輪が金色に輝きとても美しい。

 上から釈迦の遺骨を納める「宝珠」、高貴な人を乗せる乗り物「竜車」、火炎の透かし彫りの「水輪」、五大如来と四大菩薩を表す「宝輪、九輪」、以上を受ける「請花」、お墓の形の「伏鉢」、その土台である「露盤」から成っている。1980年に新築されたものだが今でも輝きはまったく失われず、高幡不動のランドマークになっている。

 高幡不動名物といえば「高幡まんじゅう」で、約100年の歴史を誇る。しかし、まんじゅうだけにマンネリ化しているのか、最近では「土方歳三まんじゅう」(冒頭の写真)が主力になっているようだ。歳三の生き様が「まんじゅう」に相応しいどうかは不明だが、地元の発展に寄与しているとすれば郷土愛の強い彼のこと、まんじゅうであっても「満充」しているかもしれない。いや本当に。

  *  *  *

 浅川沿岸紀行は1回で終わる予定だったが、話に寄り道が多くなったので、まだ日野市を出られないでいる。次回は南北浅川の合流点から北浅川の源流点付近、南浅川の一部を巡る予定だ。

*今のタイトルならまだ前の方がマシだと言われたので、元に戻します。もう変更はありません。

 

 

 

〔16〕古代蓮 行田でギョーザに 大古墳

古代蓮は埼玉県行田市にもあった

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古代蓮の里にある行田蓮

 今年は近年になく梅雨らしい天気が続くので鮎釣りには行けず不本意なのだが、この時期はハスの花があちこちの池や沼で咲くので、川遊びはほどほどにしてハスの花見物と洒落込んだ。

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古代蓮の里は平日だろうと小雨混じりだろうと大混雑

 埼玉県行田市には「古代蓮の里」があり、ここでは数万本の「行田蓮」が6月末から8月初めまで咲き誇る。駐車場代(1日500円)はかかるものの入場料は不要なので連日、大満員である。近年はマスメディアもこの公園をよく取り上げるので、ハスの花にはとくに興味がない人でもここの存在を知っている人は多いようだ。ハスの開花時には、駐車場(約500台収容)は臨時の施設を使っても午前10時ごろには満車に近い状態になる。車のナンバープレートを見ると、品川、練馬、多摩、横浜、相模といったものも多く、最近では関東を代表する「蓮の里」になっているようだ。

古代蓮の原点は「大賀ハス」にある

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古代蓮の里公園と展望塔

 1971年、行田市はごみ焼却施設を新たに建設するため同市の小針地区の水田を購入し造成工事をはじめた。このとき、地中深くに眠っていたハスの実が自然発芽し、73年に開花した。75年、市の依頼で研究者がこの地を掘削しハスの実と木片を採集した。放射性炭素年代測定をおこなったところ、1400年ほど前のものということが判明した。同じ場所から見つかった土器は3000年前のものと推定されたので、このハスは1400~3000年前のものと考えられた。行田市はこのハスを「行田蓮」と名付けて市の天然記念物に指定するとともに、92年からこの小針の沼一帯を「古代蓮の里」公園として整備して95年に開園、さらに2001年には高さ約60mのシンボルタワーを有した「古代蓮会館」を整備した。

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古代蓮の原点は「大賀ハス」にあり

  古代蓮と聞くと私はすぐに「大賀ハス」を思い浮かべる。府中市生まれの府中市育ちだからだ。

 大賀一郎博士(1883~1965)は古代蓮研究の第一人者で、1917年、中国の遼寧省で中国古代蓮の実の発芽を成功させている。これは推定で約1000年前のものらしい。50年には千葉県で見つかったハスの実(この実自体は32年に発見されていた)の発芽に成功したが、50日目に枯死させてしまっていた。これは約1200年のものと推定されている。

 49年、千葉県の落合遺跡(花見川区)の泥炭地から丸木舟とハスの花托が発見されたということを知った大賀博士は51年、地元のボランティアの協力を得てこの地を採掘し、3粒のハスの実を発見した。博士はこれを府中市の自宅に持ち帰って発芽実験をおこない、そのうちの1粒が発芽した。そして52年にこのハスは見事な花を咲かせた。博士は同じ場所で発見された丸木舟の年代測定をアメリカの大学に依頼し、約3000年前のものとの報告を受けた。ハスの実は丸木舟が発見された層より若干上の層で見つかったことから、博士はこのハスは約2000年前のものであると推定した。この開花の成功は日本だけでなく海外でも話題となった。博士はこれを「二千年蓮」と命名したが、世では「大賀ハス」と呼ぶようになった。

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府中市寿中央公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスがある

 大賀ハスの増殖に成功した大賀博士は、自宅のある府中市にもその蓮根を寄贈した。私が通っていた府中一小の池には「大賀ハス」があり、花が咲くと何が自慢なのか教師たちはしきりに「府中の宝」であることをガキンチョに吹き込んだ。私の場合、花にはまったく関心はなかったが、池の魚には多大なる興味を覚えていたので、それを網ですくおうとしては教師に叱られた。

 小学校のすぐ北側の公園にある「ひょうたん池」にも大賀ハスが植えられていた。ここも私の遊び場だったので、ハスの花や葉は何度となく私の攻撃(石を投げ込んだり、葉や花を折ったり)を受けたのだった。しかし「府中の宝」なので、私以外の人々からは大事に管理され、今年も多くの花を咲かせている。

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府中市郷土の森公園にある大賀博士の胸像

 多摩川の左岸にある「府中市郷土の森公園」の「修景池」には大賀ハスをメインとして30種類ほどのハスが植えられており、公園内には博士の業績を称えるプレートとともに、写真の”大賀博士の胸像”もある。郷土の森や多摩川左岸の是政一帯は私の主要な徘徊場所なので毎年、ハスの開花を楽しみに散策している。池には大きなコイがたくさん泳いでいるが、今となっては網を持って出掛けることはしていない。

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花の中心にある「ハチの巣」状のものが花托

 個人的には「シャワーヘッド」と呼んでいるが、ハスの業界では「花托」もしくは「果托」と名付けている。その上面に点々としてあるのがハスの子房で、この中にハスの種(心皮にくるまれた胚珠)が入っている。この花托が「ハチの巣」に似ているのでかつては「ハチス」と呼ばれ、それがつまって「ハス」と呼ばれるようになったというのが通説だ。

 ハスの心皮は非常に硬いため、水や空気の侵入を防いでいる。胚珠の呼吸作用はとてもゆっくりなので、心皮の中に二酸化炭素が充満する(胚珠の死を意味する)までの期間はとても長い。大賀ハスの実の場合、さらに土中深くに”低温保存”されていたので2000年以上も命を長らえることができたのだそうだ。

ハスとスイレンとの違い

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スイレンはハスとは科だけでなく目も異なる

 ハスの花が咲く時期になると、決まって知人からハス(蓮)とスイレン(睡蓮)の違いについて聞かれる。植物学的にはまったく違うというのがほぼ正解なのだろうが、見た目がよく似ているので、歴史的には”同じようなもの”とされている場合が多いようだ。たとえば、英名でハスは「ロータス」、スイレンは「ウォーターリリー」と呼ぶが、小型園芸種で私も以前にはよく育てていた「タイガーロータス」なる美しい植物はスイレンの仲間である。また、池や沼で巨大な葉を広げる「オニバス」もスイレンの仲間だ。いずれも名前だけ見るとハスの仲間のようなのだが。

 「蓮華」の名は仏教の世界ではとてもよく目や耳にする言葉だ。蓮華は、通常では「ハスの花」のことだとよく記してあるが、実際に調べてみると、ハスでもありスイレンでもあるということが分かる。たとえば、浄土に咲く青い蓮華(ウトパラ)はスイレンであり、黄色い蓮華(クムダ)もスイレンと考えられている。黄色いスイレンは(黄色いハスも)アメリカ大陸にしか生育していないので、仏教の発展期には黄色い蓮華は誰も目にしてはいないはずなのだが。仏教とは直接には関係ないだろうけれど、中華料理によく使うサジを「蓮華」というが、これはハスの花びらの方が形体はより近いかもしれない。

 ペルシャ戦争を主題にして『歴史』を著した古代ギリシャヘロドトスは「エジプトでロートスといっている百合の類が無数に水中に生じる……ロートスの根も食用になり、丸みを帯びたリンゴほどの大きさで結構、甘い味がする」と書いているが、このロートス(ロータス)は「百合の類」や「根がリンゴ状」とあるので明らかにスイレンを指している。

 ことほど左様に、園芸的にも宗教的にも歴史的にも、ハスとスイレンはきちんと区別されてはいなのだ。

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ハスの仲間は花茎を水上高く伸ばす

 一方、植物学的には、ハスとスイレンとでは、前者は「ヤマモガシ目」、後者が「スイレン目」で、”科”どころか”目”まで異なるのだ。ほとんど違う種類といってよい。ちなみに街路樹としてよく見かけるプラタナスは「ヤマモガシ目」なので、ハスの”遠い親戚”だ。見た目はまったく異なるにも関わらず。分類学では「見た目だけで判断」してはいけないのだろう。

 しかし、ハスとスイレンの基本的な違いは「見た目」でも判断できる。ハスは花茎だけでなく葉茎も水上高くに伸ばす。一方、スイレンの葉は水面上にあり花も水面か水面近くにある。

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スイレンの葉は水面にあり、撥水性も弱い

 ハスの花には花托があるがスイレンにはない。ハスは午前中によく花を開かせるが、スイレンは「未の刻」、つまり午後1時から3時ごろによく花が開き(これがスイレンヒツジグサと呼ぶ理由)、それ以外の時間には眠っているように花を閉じる(これが睡蓮と名付けられた理由)。ハスは花びらを散らせるが、スイレンは花を散らさない。

 水上からは分からないが、両者の根の形はまったく異なる。ハスの根はヒゲ状で、スイレンの根は塊根(サツマイモかリンゴ形)だ。ハスの根はレンコン(蓮根)ではないのかと思いがちだが、あれは地下茎で、茎と茎とをつなぐ部分にモジャモジャと生えているのが根なのである。レンコン料理、とくにレンコンの天ぷらは私の好物のひとつだが、その素材は茎で、もしも本当のハスの根が料理として出てきたら、見通しはまったく暗くなる。不思議だが本当なのだ。これでいいのか。

古代蓮の里を散策する

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どこでも同様だが、最近は女性カメラマンがとても多い

  「古代蓮の里」公園を訪れるのは今回が4回目だ。が、ハスの開花期は今回が初めてだ。前の3回は、いずれも「吉見百穴」や八丁湖公園にある「黒岩横穴群」を見学した後に北上し、後述する「さきたま古墳群」を見て回り、それだけでは時間がやや余るので「古代蓮の里」にも立ち寄ってみるという感じだった。開花期以外は、よく整備された広々とした静かな公園として存在し、園内ではのんびりと散策を楽しむ人をちらほら見掛けるという風情である。テレビニュースや新聞紙面では毎年、7月上旬になるとここの公園がハスの花の見物客で大賑わいとなっている光景が報道されるので、いずれこの時期に訪ねてみようと前々から思っていたのだが、それが今回、実現することになったのだ。

 ハスの花の鑑賞には午前中(7~9時頃)が適するといわれているが、それより遅い時間帯でも楽しめないことはないので、当日、ここには午前10時に到着した。この日は小雨混じりの平日だったためか想像したよりは人影は少なかったが、ものの一時間も経たないうちに満車に近い状態になった。さらに大型バスが続々と来るやら、近隣の駅からのシャトルバスが来るやらで、見物客の数はどんどん膨れ上がってきた。美しい姿勢で咲いている花の周囲には黒山の人だかりができていた。もっとも、ジジババといった高齢者が多いので、黒山だけでなく白山やはげ山もできていた。

 横浜や横須賀でも目立つ存在だったが、ここでも若い(若くもない)女性が立派な一眼レフを構えている姿をよく目にした。コンパクトなデジタル一眼の普及が、女性カメラマンの増殖を進展させたのだろう。

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スマホで撮影する人も多かった

 園内にある池の大半は「行田蓮」だが、公園の正面入り口付近には約40種もの園芸種が揃えられており、ここには白系や八重咲系のものなど、古代蓮とはまた異なる色彩や形態をもつハスの花を鑑賞することができた。ただし、古代蓮に比べてやや早咲きのものが多いせいなのか、池(プールといったほうが適切か)の条件の違いなのかは不明だが、花期は終盤を迎えているものが多かったのは少し残念だった。それでも種類は豊富なので、十分に楽しむことができた。

ハスの話、あれやこれやと~園芸種の写真を並べながら

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真如蓮

 ハス属は2種あり、その学名は「ネルンボ・ヌキフェラ」(アジア系)と「ネルンボ・ペンタペタラ」(アメリカ系)である。Nelumboはスリランカの地名をとったもの、nuciferaは”硬い実”を、pentapetaraは”5つの花弁”を意味する。アジア系は赤や白、アメリカ系は黄色い花を付ける。原産地は不明だが、インド説が有力なようだ。

 ハスの実の化石は世界各地で発見されており、最古のものは約1億4000万年前の白亜紀のもので10種見つかっている。日本の北海道でも約7000万年前の白亜紀後期のものが出土している。ただし、第4紀氷河時代にこれらのものは死滅したと考えられているので、現在生育するハスとの連続性は証明されていない。

 京都山城で発見された約1万~2万年前のものはNelumbo nuciferaと考えられているので、氷河期の終盤には現在と同じものが生育していた可能性は高い。

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原始蓮

 ハスは観賞用よりも食用とするほうが一般的かもしれない。地下茎であるレンコンは天ぷらや煮物、揚げ物などによく利用される。713年に編まれた『常陸風土記』や『肥前風土記』には「食べるとおいしいし、薬用にもなる」といったような記述があるので、相当古くから食用品として認められていたようだ。しかし、仏教が隆盛になると「蓮華」は仏花として神聖なものになったため、”レンコンを食べると仏罰にあたる”とされ、食用としてのハスの栽培はさほど広がらなかったらしい。

 しかし江戸時代になって朱子学が優位になったためか、前田家の加賀藩は水田耕作に適さない土地にはハスを植えることを奨励した。これが契機となって食糧用としての栽培が広がった。明治初期には多産系で味の良い”中国ハス”が日本に持ち込まれたこともあって、食用ハスの生産量は一気に拡大した。江戸期に”地蓮”として人気があった「加賀蓮根」も、今では中国系のハスにとって代わられているようだ。

 現在、レンコンの生産高は茨城県がダントツで、日本の全生産高の半分を占めている。これは湿地帯が広がる霞ケ浦が県内にあるからで、市町村の生産高でも1位が土浦市、2位がかすみがうら市である。なお、都道府県別では2位が徳島県、3位が佐賀県となっている。

 レンコンは「おせち料理」には欠かせないものになっている。これはレンコンには10ほどの穴が開いているため、「先を見通せる」という縁起物として考えられているからだ。私は小さい頃、よく台所からスライスされたレンコンを2枚盗み、それを目の前に当てながら「いいメガネだろう」と叫びながら近所を歩き回った。こんなことばかりしていたので、私の人生の見通しは暗かった。これでいいのだが。

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ミセス・スローカム

 鑑賞用としてのハスも『古事記』では河内、『日本書記』では奈良の地名とともに「花ハチス」が美しいものとして出てくる。古事記では5世紀頃の出来事としてハチスの名が出てくるので、食用としてだけでなく観賞にも耐えるものとしてハスは認知されていたようだ。

 ひさかたの 雨もふらぬか 蓮葉に たまれる水の 玉に似たむ見る ”万葉集

 夕立ちの 晴るれば月ぞ 宿りける 玉ゆり据うる 蓮の浮葉に ”西行

 傘に蝶 蓮の立葉に 蛙かな ”其角”

 こうした歌が作られたように、ハスは見るものにある種の感慨をもたらした。

 ハスの花は、中国では美人に例えられている。ハスの美名は芙蓉(ふよう)という。白楽天の『長恨歌』には「芙蓉は面のごとく、柳は眉のごとし」とあるが、もちろんこの芙蓉は楊貴妃を指す。また、越王勾践が呉国を弱体化するために王の夫差へ絶世の美女である西施を送ったことはよく知られているが、この西施も芙蓉に例えられている。

 ところで、フヨウは夏に開花する樹木も有名なので、ハスを指す場合は”スイフヨウ”、樹木のほうは”モクフヨウ”と呼んで区別することがある。もっともフヨウには朝は白く午後は桃色、夕は紅色に染まる酔芙蓉という品種があるので、”スイフヨウ”の音だけでは混乱する場合があるかも。まぁ、話の流れの中で、どちらのフヨウなのは判断できるので心配は不要だ。

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舞妃蓮

 ハスやスイレンは、「再生するもの」「清らかなのも」として象徴化されてきた。

 エジプトでは前29世紀に神の一人であるネフェルテムの像が造られたが、この像の頭部にはスイレンの花の飾りが、輪飾りにはスイレンの文様がある。エジプトでは1本のスイレンから世界が生まれたと考えられており、前27世紀に造られた王墓の木柱には蓮花の柱頭がある。

 「エジプトはナイルの賜物」と歴史家のヘロドトスが記したように、毎年、必ず決まった日に始まるナイル川の氾濫は下流部に肥沃な土を運び、豊かな実りをもたらした。そのナイルにはほぼ周年、青いスイレンが咲く。それゆえ、スイレンは命の源、復活・再生の源を象徴するものと考えられた。なお、古代ペルシャに造られたペルセポリス宮殿には、エジプト様式の蓮台がある。

 インダス文明の都市と考えられるモヘンジョダロハラッパの遺跡には公衆浴場跡があるが、この浴場は蓮池(プシュカラ)と呼ばれていたらしい。また、この時期には多くのテラコット(テラコッタ=土の焼物)が作られたが、中でも蓮の飾りを付けた「ハスの女神」が有名である。

 古代インドのアショーカ王はインド全土を統一したが、最後の統一戦争ともいわれる「カリンガ戦争」で多大な犠牲を生じさせたため、以降は武断政治から文治政治に改めた。彼は「ダルマによる政治」をおこなうため、各地に石柱詔勅を建てた。この石柱の上部には垂れ下がる蓮華の花弁の彫刻が施してある。なお、アショーカ王は「第3回仏典結集」をおこないパーリ語経典(上座部仏教)の教えを整理させた。

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ネール蓮

 主要な仏典に『妙法蓮華経』があるように、仏教とハスとは切っても切れない関係がある。釈迦の弟子が「麗しい白蓮華が泥水に染められないように、あなた(釈迦のこと)は善悪の両者に汚されません」と語ったように、釈迦=白蓮華を最高存在と考えていた。したがって、『妙法蓮華経』は白蓮のような正しく崇高な教えを説いたものとされている。

 仏像はインドのガンダーラ地方で造られたのが最初だが、当初はヘレニズム文化の影響を受けているため、釈迦の顔形は西洋人的である。奈良の大仏をはじめ、釈迦像の多くが「パンチパーマ」だが、これは釈迦が女房子を捨てた流れ者、すなわちやくざ者だったからではなく、当初の像がギリシャ的なウェーブのかかった髪型だったからである。それが東洋的に変化しパンチパーマ=螺髪(らほつ)になったのだ。確証はないが、実際の釈迦は剃髪していた蓋然性が高い。

 仏像が蓮座や蓮台を有するようになったのは3世紀ころからである。ハスは生命の源なのだから、仏がハスの上にあるというより、仏はハスより出ると解釈するのが妥当だろう。

 浄土教が広まってからは、さらに仏教とハスとの関係は密になった。極楽浄土には蓮池が満ち満ちていると考えられている。「極楽世界には金、銀、瑠璃、水晶、珊瑚、瑪瑙(めのう)、琥珀といった七種の宝石でできているもろもろの蓮池があり‥‥」などと形容されている。

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千弁連

 「ハスは泥より出でて泥に染まらず」といわれるように、ドロンコの沼地から花茎を伸ばし、けがれのない麗しい花をつける。さらに、ハスの葉もけがれのないものの象徴とされる。これはよく「ロータス効果」と呼ばれる。ハスの葉の表面には0.01ミリ径ほどの突起が密に分布しているため、これが水をはじく効果を有するのだ。スイレンの葉はこの効果が低いので葉は水面にだけあるが、ハスの葉はこの効果が高いので、水を弾き水上高く伸びることができ、さらに大きく葉を広げても雨水がたまることはない。

 今ではあまり使われないが、「蓮っ葉」という言葉がある。尻軽で品行の良くない女を指す言葉だが、これはハスの葉が軽々と水をコロコロと転がすように、あいつは軽々しい女であるという例えからきている。

 バスを待つトトロは雨に濡れないように大きな葉っぱを傘代わりに使っているが、この葉はハスではなくサトイモの葉である。このサトイモの葉も水をはじく「ロータス効果」をもっている。トトロは所沢の狭山丘陵辺りに住んでいるので、サトイモの葉が身近にあったのだろう。これが行田か霞ケ浦周辺に住んでいたとしたら、きっと、ハスの葉を傘に使っていたに違いない。

 太田道灌は突然の雨で近くの農家に蓑を借りに行き、小娘から八重山吹を指し示されても意味が分からずに大恥をかいた。このことが道灌を歌人として大成させる切っ掛けとなったのだが、道灌がこのロータス効果を知っていたら、ハスかサトイモの葉を探せば良かったのだ。もっともハスの葉をさす道灌は、別の恥をかいたかもしれないが。さらに彼は歌人としては名を成さず、その上に「バ」が付く歌人となっていたことだろう。いや、本当に。

行田はギョーザの町ではなかった

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行田では忍城も欠かせない存在だ

 ギョーザが大好物である。「最後の晩餐」に何を食べるかと聞かれたら即座に「ギョーザ3人前」と答える。「あとは?」と尋ねられてもすぐには思い浮かばない。10秒後ぐらいに「サバの塩焼き」と返答するかもしれないが、そのあとは出てこない。学生時代にはよくギョーザ専門店に通った。その店ではある量を食べるとタダになるというルールがあった。体育系の奴ならばクリアー可能な量と思えたが、実際にはなかなか難しいらしい。私は「運動系?」だったがチャレンジしなかった。私なら簡単にクリアーできる量なので、仲間からも「やってみろ」と何度もいわれたが絶対にやらなかった。「体に悪いからか?」と聞かれたので否と答えた。体に悪いのではない、ギョーザに悪いのである。ギョーザは、ただ食べるのではなく善く食べるものなのだ。

 今年の1月に体調不良で3週間ほど入院したが、医者からは「脂分」を徹底的に控えるようにといわれた。当方としても釣りや旅行に出掛けられないと楽しくないので、以来、ラーメン類、天ぷら、かつ丼、唐揚げなど脂分の濃い食べ物は以前の10分の1ほどにまで控えている。ただし、それでは油切れで関節がカクカクすると釣りにも旅行にも行けなくなるので、ギョーザだけは食べるようにしている。というより、回数は増えたような気もする。

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行田市駅前のロータリー。開いている店はほとんどなかった

 行田市の中心街に来た。といってもどこが中心なのかわからないほど閑散としていたので、とりあえず行田市駅に来た。ギョーザ店を探すためである。10数年前だったか、アホそうな女性タレントのCMに「行田、ギョーザ」といったような馬鹿げたものがあったと記憶している。ダジャレは大嫌いだがギョーザは大好きなので、行田に来たのだから行田でギョーザを食べるという使命を感じたのだ。決して、コンビニのハンバーガーではない。

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行田のギョーザというよりチェーン店のギョーザ

 駅周辺を30分ほど歩いたが、ギョーザを扱いそうな店は見つからなかった。というより、開いている店自体があまりなかった。行田に限らず、地方都市のほとんどで駅前商店街は衰退し、店の多くは郊外のショッピングモールか街道筋に移ってしまったのだ。ギョーザを食べることを断念しようと思ったのだが、そう考えるとますますギョーザが頭や心から離れなくなるので結局、街道筋にあるチェーン店に入りギョーザを食べた。行田のギョーザではなく、行田店のギョーザになってしまった。

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忍城はかつて”水郷浮城”といわれたほど特徴的だった

 忍(おし)城は行田市駅から徒歩15分ほどのところにある。市役所の近くなのでわかりやすい。現在ある「御三階櫓」は1872年に取り壊されたものを1988年に再建(かつてあったものと同じ形かどうかは不明)したもので、歴史博物館に付随した建物になっている。櫓(やぐら)内に登ることは可能だが、私は一度も入ったことはない。今回も入館しなかったが、後で後悔した。

 忍という地名は珍しく、ここを訪れる多くの人は「しのぶ」とか「しのび」とか読んでしまうそうである。「忍」とつくと忍者を連想し、この城を忍者屋敷と考えがちだ。忍を「おし」と読む例は山梨県にある。忍野村にある「忍野八海」が有名で、そっちは世界遺産(富士山)のひとつになっている。それゆえ、これを「おし」と読んでもさほど違和感はない。「おし」の語源は不明だそうだが、有力なものとして「川の縁(へり)」を意味するというものがあるらしい。確かに、この行田市の近くには利根川や荒川が流れ、それら以外にも中小河川が多いので、「川の縁」というのもあながち的外れではないだろう。

 周囲に川が多いことからこの地には池や沼が多く、熊谷を本居地としていた成田親泰はこの地形を利用して、1491年に築城した。池や沼地を天然の堀とし、点在する島々に土塁、塀、曲輪、櫓、役所、住居などを造り、それらを橋で結んだ。このため、忍城は「水郷浮城」と呼ばれ難攻不落の城に数えられた。成田氏がこの城を築く直前に、事実上関東の地を仕切っていた太田道灌が暗愚な主君に殺されたため、関東の地は混乱に陥っていたのだった。親泰にとっては守りが固い城が必要だったのだろう。

 成田氏は小田原の北条氏側に属していたため、豊臣秀吉軍の小田原攻め(1590)の際には守備側についた。忍城を攻撃したのは石田三成真田昌幸といった武将を中心とした23000人の軍勢。一方、成田勢は800人の兵と約2000人の農民が城に立てこもり守りを固めた。石田三成は城の周囲に堤を築き「水攻め」をおこなったが、成田氏側はよく守り抜き、城内には一人の敵兵も入れなかった。しかし、小田原北条氏が秀吉勢に完敗したため、忍城は無傷のまま開城された。

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水城公園はかつて城を取り囲んでいた大沼の一部を整備したもの

 その後、忍城松平家や酒井家、阿部家など徳川幕府の譜代・親藩大名がここの主になった。明治維新後の廃藩置県によって忍藩10万石は忍県となり、1872年に城は取り壊された。さらにこの地の開発のために池や沼の大半は埋め立てられ、今は大沼の一部が「水城公園」の池として残っているだけである。私はこの地を初めて訪れた際、町の中心部に大きな池があることに感激したが、この地の歴史を調べてみると、この池は忍城の堀のほんの一角にすぎないのだということが分かり心底、驚きを覚えた。

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あちこち遍歴を重ねた忍城の時鐘

 歴史博物館の敷地内、御三階櫓のとなりにあるのが写真の「忍城の時鐘」である。この鐘は1717年に桑名で造られ、いったん火災にあったが修復された。1823年に桑名藩主が忍藩に移封された際、この鐘は忍城に持ち込まれたのだった。が、城が取り壊れたことで鐘楼もなくなり鐘は放置された。それを忍びなく思った地元の有志の協力によって、鐘は新設された小学校の玄関横に置かれることになった。しかし戦後、この場所を米軍が病院として利用することになったため、現在ある場所に移されたそうである。そんな鐘の遍歴を知ると、このどこにでもありそうな鐘楼に対して、襟を正して尊崇しなければならないと少しだけ思った。

古墳群に興奮する

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古墳のいくつかには天辺に上ることができる

 「さきたま古墳群」は十数年前、私が行田市に来る切っ掛けとなった場所である。そのころ、日本各地にある古墳を見て歩いていたからだった。先に述べたように、ここの前には「吉見百穴」や「黒岩横穴群」を訪ね、それからここに来るのである。前二者も墓なので、何のことはない単なる”墓巡り”なのだ。そういえば、多摩墓地も私の散策場所のひとつだ。

 私が古代史を好きになったのは、予備校(代ゼミ)の英語の授業が端緒だ。社会科の受験科目には日本史と地理を選択した。地理は小さい頃から地図を見るのが好きだったのでとくに問題はなかった。一方、日本史は覚えることが多く、しかし私は暗記が大の苦手だった。日本史はほとんど手付かずのままだったので成績は芳しくなく、ときおり思い出したように参考書を広げるのだが、いつも古墳時代まで進んではその本を投げ出していた。それゆえ、猿人や原人や旧人については友達のように馴染んだが、それ以降は怪しくなりつつなんとか前方後円墳まではたどり着いた。しかし、乙巳(いっし)の変(大化の改新)となると、ウマがどうしたイルカがどうしたカタマリがどうしたこうしたと訳がわからなくなった。

 後期になっても相変わらず、授業中に欠伸をしたり漫画を読んだりしていると予備校で知り合った2人から、英文解釈の授業で面白い話が聞けるので来いとの誘いがあった。そこで、私より出来の悪い友人を無理やり引き連れ、その場を抜け出して4人でその授業がおこなわれている教室に入った。200人ほど入る大教室だったが、受講者は一番後ろの席に数人いるだけで、しかも誰も授業を聞いておらず自習していた。私たち4人は一番前の列に座った。講師は英語の授業にも関わらず、大声でしきりに日本古代史の話をしていた。まったく知らない人名や出来事が出てくるのだが、その内容は壮大な歴史ドラマのようで私はすぐに魅入られてしまった。人の話に没入できたのはこれが人生初のことだったといっても過言ではない。

 私を誘った2人は東大志望で午前中は駿台予備校に通い、代ゼミで息抜きをして夕方から自宅で勉強。私の友人は東京芸大志望で、いつも漫画以下の絵を描いていた。私は教員免許さえ取れればどこの大学でも良かったので志望校はまったくなかった。受験本番が近づくにつれ、3人は英文解釈という日本史の授業には顔を出さなくなったが、私は一人で彼の話に聞きほれていた。あまつさえ、その講師は古代史の研究会を設立し現地調査も行っていたので私もそれに参加した。それにはさすがの講師も慌てた様子だったが、私が志望校の名前をいうと(もちろん適当に)”そこなら勉強しなくても大丈夫だな”と、受験日前日まで私を現地調査に付き合わせた。その場所は、大磯町にある高麗山だった。彼のお蔭で、私は初めて「知ることの楽しさ」を少し分かるようになった。

 その先生は明治大学教授(当時は助教授)のドイツ文学者だったが、日本古代史に興味を抱き、研究会まで発足させ事務局を仕切っていた。その運営費用を捻出するために予備校の授業を受け持っていたのである。私が大学生になってからたまたまテレビを見ていると、件の先生は「クイズダービー」の解答者としてレギュラー出演していたのだった。聞けば、研究会の運営費は「火の車」状態だったそうだ。先生は、知っていてもわざと答えを間違え、進んでピエロ役をやって出演料を稼ぎそれを研究会の費用に回していたようだ。残念ながら先生は43歳の若さでガンで亡くなり、解答者は篠沢教授に代わった。

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ここの古墳群を代表する存在の「丸墓山古墳」

 ここには大型の古墳が9基あり、日本でも有数な古墳群だそうだ。国の史跡に指定されていて、最近では「世界遺産」の登録を目指しているらしい。この点では大阪の巨大古墳群に後れを取ってしまったが。写真の古墳は「日本最大級」の円墳で、長いほうの径は105mある。少し前までは「日本最大の円墳」を自慢していたが近年、奈良の「富雄丸山古墳」の径が110mありそうだということを主張し始めたのでこちらは慎重になり、「日本最大」から「日本最大級」に「格下げ」して推移を見守っている。

 ひとつ前の写真にあるように、この古墳は上に登ることができる。「古墳を大切にしましょう」という看板が少し悲しいが。天辺や周囲には桜の大木があり、開花期はかなり眺めが良いらしい。この古墳の周りには「石田堤」がある。先述した石田三成忍城を水攻めにするために築いた堤防だ。

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天辺からは忍城の御三階櫓が望める

 古墳の上からは写真のように忍城の姿が見える。石田三成は、ここから城や周囲を見渡し、攻略作戦を練っていたのであろう。それゆえ、この古墳は相当に荒らされた可能性が高い。私がここを訪れた日には大勢の小学生が歴史の勉強のためなのか社会科見学なのか古墳を上り下りしていた。引率の教員の中にあの教授のような熱血漢がいれば、子供たちの多くが歴史好きになるだろう。いや絶対に。

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国宝が発掘された稲荷山古墳と古代蓮の里にある展望塔が望める

 丸墓山古墳上からは、となりにある「稲荷山古墳」や古代蓮の里にある高さ60mの展望塔を見て取ることができる。天辺はかつて物見台になっていたためか意外に広く、休息場所にも適している。大勢が墓上に訪れると騒々しいので墓の中で眠っている人は十分な睡眠はとれないだろう。もっとも、千数百年前に風になってもうそこには主はいないだろうが。

 写真に見える稲荷山古墳は、長さ120mの前方後円墳である。1968年の発掘調査によって、「金錯銘鉄剣や帯金具、勾玉(まがたま)、鏡などの遺物が多数発見され、これらは国宝に指定されている。現在は、古墳群の敷地内にある「さきたま史跡の博物館」内に展示されている。鉄剣に刻まれた銘文によれば、この墓の主は「雄略天皇」に仕えた有力者であることが推測されるそうだ。

 古墳時代は3世紀半ばから7世紀前半まで続き、土盛りの大きな墓を造るという特異な文化をもっていた。大きな墓はほとんどが前方後円墳で、奈良県桜井市にある「箸墓古墳」がその始原とされている。この墓の主は「卑弥呼」だという説があり、個人的にはそうあってほしいと願っている。が、出土品からは4世紀頃のものも多いため、その真偽は確定していない。纏向(まきむく)にあるこの古墳は私が大好きな「山辺の道」(日本最古の道といわれる)からは少し外れた場所にあるが必ず、寄り道をしてこの箸墓古墳を訪ねている。

 古墳群の存在は一時、今年の話題をさらった。「百舌鳥・古市古墳群」が、世界文化遺産への登録が決定されたからだ。もちろん、教科書にも出てくる大仙陵(伝仁徳天皇陵)はそこの代表的存在である。私も何度かその古墳を訪れているが、確かに敷地面積の広さには圧倒される。そこはかつて「世界最大の墓」といわれていたが、現在では「敷地面積としては」という但し書きが付いている。エジプトのクフ王のピラミッド、秦始皇帝の「兵馬俑坑」は「~としては世界一」と名乗っているのだろうか。

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将軍山古墳には展示館がある

 将軍山古墳は長さ90mの前方後円墳で、1894年に発掘され横穴式石室からは多くの副葬品が出土している。これらの多くは再現された石室の中に並べられ、「古墳展示館」として公開されている。現在は草が茂っているので写真ではよく分からないが、墳丘には模造された埴輪が並べられている。

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愛宕山古墳には樹木が茂りやや悲しい感じがする

 無料駐車場のすぐ東側にある「愛宕山古墳」はこの古墳群では一番小さな前方後円墳で、長さは約55mだ。写真の通り、樹木がよく茂っていて、ここ一帯が古墳群であると知らなければ、小さな丘程度にしか見えない。が、イメージをきちんと膨らましさえすれば古墳に見えるし、それも前方後円墳以外の何物でもないとわかる。

 写真には挙げなかったが、将軍山古墳と愛宕山古墳との間には「二子山古墳」がある。これは当地の古墳群では最大の前方後円墳で長さは132mある。しかし、旧武蔵国では最大であるという以外とくに但し書きはなく、埴輪や須恵器以外の出土品の説明もないようだった。

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レストハウスや古民家の裏手にある瓦塚古墳

 古墳群の敷地内には行田市駅に通じる「古墳通り」が走っていて、ここまでに挙げた5つの古墳は通りの北側にある。通りを渡ってすぐのところに「はにわの館」があり、ここでは埴輪作りの体験ができる(有料)。その横にはレストハウスがあるが、その東にあるのが写真の瓦塚古墳だ。これも長さは73mとさほど大きくはない前方後円墳だ。

 とくに記すべきものはなかったので写真は撮ったもののここに挙げる必要性は感じられなかったのだが、古墳のふもとには多数のオレンジ色の野草(ハルシャギク)が咲いいてそれが案外綺麗だったので、あえて挙げてみたという次第だ。

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敷地内に移設された古民家

 レストハウスのとなりには移設された古民家があった。入り口には「旧遠藤家住宅」との標識があった。武蔵野の地を散策するとあちこちで見かける、もしくは見かけた典型的な古民家の姿で、私の母の実家(調布市)もこんな造りの家だったのでこれには懐かしさを覚えた。そこは、いまでは大きなマンションになっているが、ほんの30年ほど前にはこうした姿で京王線西調布駅の近くに建っていた。なお、古民家の右手に見える丘は、瓦塚古墳の前方部である。

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史跡の博物館内にある展示室

 「さきたま史跡の博物館」には初めて入った。入場料は200円で「将軍山古墳展示館」との共通入場券になっている。なお「古代蓮の里公園」の駐車券を見せれば、ここは120円で利用できる。

 1階が展示室になっており、「企画展示室」と「国宝展示室」がある。写真は「企画展示室」の内部で、埴輪や土器が数多く展示されていた。教科書や資料集、図鑑などで見かけたことがあるらしきものが多く並べられている。やはり実物には歴史の重みが感じられ、たまにはこうして資料館をのぞくことも歴史への興味がさらに膨らむのだということを実感した。

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展示されている動物埴輪

 形象埴輪のうちの動物埴輪である馬形埴輪は想像していたよりもかなり大きいもので、しっかりと復元されていた。ガラスケースに入っているために写真では写り込みが多くて見づらいが、実際の場面では細部まできちんと見えるし、解説書だけでなく解説をしてくれる係員も常駐している。ガラスケースに収まった国宝の小型遺品に見るべきものが多くあったが、これらは撮影禁止だった。これからも訪れる機会は多々ある?ので、次回はじっくりと見物してみたい。そう思わせるほど、展示品は充実していたのである。

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さきたま古墳群は自然も豊かなので折々に訪ねたい場所だ

 さきたま古墳群には、中心的存在である丸墓山円墳をのぞけば全国規模でみると中小型の前方後円墳があるのみで、最大でも二子山古墳の132mである。日本には200以上の長さを持つ大古墳は30基以上ある。その半数は奈良県にあるが、さらに300m以上の巨大古墳は全国に7基あり、大阪に4基、奈良に2基、岡山に1基である。もちろん最大のものは「大仙陵」で長さは525mにも達する。

 奈良や大阪といえば古くから栄えた場所で、とくに巨大古墳がある場所はほぼ、先に述べた「山辺の道」や日本最古の官道といわれる「竹内街道」沿いにある。つまり大和から海の玄関口であった堺、やや詳細に述べれば、奈良県の桜井から二上山麓を通って太子町にある「近つ飛鳥」を抜け、羽曳野から堺に至る道沿いだ。ここらは日本成立期から発展していた場所なので、当然のごとく「大王の墓」が存在する。しからば、巨大な前方後円墳がその権威・権力の象徴になるのはいうまでもないことだ。

 「さきたま古墳群」はいかなる権威・権力から生まれたのだろうか?いまだ、墓の主は同定されていない。『日本書記』の記述によって武蔵国造の笠原直使主(あたいおみ)一族の墓と推定する説が有力らしい。また、当地の伝説では「乙巳の変」の折りに蘇我石川麻呂一族が逃げてきて住み着いたので、麻呂の墓⇒丸墓になったというのがあるそうだ。

 この古墳群がある場所は『万葉集』や『和名抄』に「前玉(さきたま)」、「佐吉多方(さきたま)」とあり、これが埼玉県の名前の語源となったとされている。これには異説もある(埼玉は多摩川の先にあるから先多摩⇒さいたまとなったなど)ようだが、少なくとも古墳群の地では「埼玉県名発祥の地」と考えており、その石碑もある。

 いずれにせよ、墓の主といい、県名の由来といい、謎多き場所なのである。それゆえ、規模は中古墳でも心意気は大古墳であり、歴史好きは、その謎を追うと「大興奮」するのだ。

 古代蓮の里があり、行田の名はギョーザを連想させ、そして大興奮してしまう大古墳がある。とても忍んではいられない面白い場所なのだ。これでいいのだ。いや本当に。

   * * *

 この項を、私に勉強の面白さを初めて気づかせてくれた、天国におわします鈴木武樹先生に捧げます。
 

〔15〕ヨーコを探して港へ(2)ヨコハマ・ヨコスカ

横浜、そして横須賀へ

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港の見える丘公園のイングリッシュガーデンからベイブリッジを望む

  横浜に初めて行ったのは、10歳前後の頃である。横浜地方気象台に勤めていた叔父(母の弟)一家が山手町にある官舎に住んでいたので、夏休みに母と一緒に訪ねた。それが恒例になり横浜訪問は何年か続いた。叔父のところには私と同年代の男の子が2人おり、彼らと官舎の目の前にある外人墓地や、完成したばかりの「港の見える丘公園」に行って遊んだ。叔父の車で根岸の海水浴場に連れていってもらい、私は初めて海で泳いだ。それまでは自宅近くの市営プールや多摩川の是政付近のトロ場でしか泳いだことがなかったので、海水のしょっぱさには結構な衝撃を受けた。泳ぎはかなり得意なはずだったのだが、海水が目や鼻、口に入るときの違和感が気になって泳ぎに集中できず、いとこたちに負けてしまったことは本当に悔しかった。勉強の出来や知識、礼儀正しさでは2人には全くかなわなかったが、遊びや運動、喧嘩では絶対に負けない自信があったにもかかわらず、得意分野で後れをとったことは大いに私をくじけさせた。中学生になってからはますます遊びや運動に忙しくなり、親と出掛けることの気恥ずかしさもあって、横浜の叔父のところには行かなくなった。横浜は少し、遠い存在になった。

 山手町には現在も同じ場所に気象台はある。その施設も官舎も様子はすっかり変わってしまったが、官舎に通じる坂道は今でも敷地内にあり、はるか以前の出来事を昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。たった一本の狭い坂道なのだが。

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横須賀は軍港の町でもある

 今回は横浜だけでなく、横須賀にも出掛けてみた。ヨーコを探すための第4の啓示を見出したからである。それは「ハマから流れて来た」というものである。”ハマ”はもちろん横浜を指し、”流れた”ということは横浜には存在しない可能性を示し、”来た”とは最寄りの港周辺へ移ったということを明示していると考えられる。とすれば、横浜周辺で港のある町といえば、川崎、横須賀、藤沢、鎌倉、逗子が考えられるが、後三者の町は駄目だ。横浜とは山で隣接しているからだ。山には流れられない。山は越えるのだ。前二者なら海続きなので流れて行ける。何だかよくわからないが、ここは川崎か横須賀と考えるのが妥当だろう。しかし、川崎は工業地帯なので、ヨーコには相応しくない。武蔵小杉ならいいかもしれないが、残念ながらムサコは港町ではない。したがって、横須賀がこの啓示にはドンピシャの町と考えられた。これが、横須賀にも出掛けた理由なのだ。

中華街を散策してみた

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中華街のメインストリート。超有名店が集まっている

  中華街に初めて行ったのは40代後半のときだった。横浜には小さい頃から何度も行っていたにもかかわらず、その地に足を踏み入れることはなかった。中華料理が嫌いだったわけではない。私が好むのはラーメンに餃子。たまに懐が温かいときは五目そばに餃子となる。よって、わざわざ中華街に出掛けなくとも近くのラーメン屋で間に合うのだ。というより、中華料理は種類が豊富すぎるので、決断力のない私には餃子以外何を注文してよいのか分からずパニック状態になってしまう危険性が大いにある。そうした困難にわざわざこちらから出向く必要性はなかったので、中華街は避けていたのだ。かの叔父は、公務員の薄給が理由だったのかは不明だが、私たちを連れて行ってはくれなかった。

 それがたまたま20代の女性と中華街へ行く機会ができたのだった。彼女は中華街をよく知っているらしいので、連れられるままに私たちは名前だけは聞いたことのある大型店に入った。彼女もその店は初めてらしく何を注文してよいのか分からなかったようなので、私は「◎〇コース」を二人分頼んだ。そのときはたまたま財布の中身が充実していたので、一番高いコースを選択した。見栄を張ったのだ。美味しかった。まぁ、ラーメン50杯以上もする値段のコースなので、不味かったら店に火をつけたかもしれないが。

 中華街の成立は1859年、横浜開港当時に香港や広東省福建省出身の商人が横浜の一角に集まったことが端緒だ。当時は中国人だけでなくイギリスやフランス、アメリカの商人も集まり、雑多な外国人居留地だったらしい。町の区画自体は、63年頃には現在の形になっていたとのこと。

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華僑が集まる場所には必ず”関帝廟”ができる

 その地に、中国人居留地お定まりの「関帝廟」や「中華会館」ができると、次第に中国人中心の居留地となっていった。関帝とは三国志でお馴染みの「蜀」の劉備玄徳に仕えた武将、関羽(字は雲長)のことである。かれは魏の曹操から嘱望されていたにも関わらず、終生、劉備個人に忠誠を尽くした。このため、後の時代の皇帝は、自らの支配の正統性を徹底するために関羽を神格化し、全国各地に「関帝廟」を造らせた。清代には県には必ず「孔子廟」(文廟)と「関帝廟」(武廟)が建立されたそうだ。しかし、文化大革命の際の「批林批孔運動」(1973~76年)で各地の「孔子廟」が破壊された。その一方、関帝は商売の神としても崇められていたために中国の「資本主義化」には欠かせなかったのか、「関帝廟」は現在でも多く残っている。

 1923年の関東大震災で多くの欧米人が帰国したため、中華街は文字通り中国人の町となり、次第に中国料理店も増加していった。しかし、30年代に日中戦争が始まると中国人の移動は制限され中華街(当時は南京町と呼ばれていた)の人々は南京町に軟禁状態となった。

 大戦後、中国は戦勝国となったため大陸からは多くの物資が南京町に届くようになった。その結果、ここには横浜市最大の闇市が形成された。49年、中華人民共和国が建国されてからは共和国派と中華民国派の対立が激化したが、横浜市の「チャイナタウン復興計画」もあって、南京町は次第に落ち着きを取り戻し、55年、南京町の入口には牌楼門(現在の善隣門)が造られ、そこには「中華街」の名も掲げられた。以来、この地は中華街と呼ばれるようになった。

 写真にある関帝廟関東大震災以降に再建されたものである。それ以前のものはこれよりずっと豪華絢爛だったそうだ。

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現在の中華街は大通りよりも脇道の方が混雑する

 40代後半の頃は大通りの超有名店に何度か通ったが、横浜在住の中華街通に狭い通りにある格安お粥店を紹介されてからは、路地にある一般向けの店に通うようになった。当たり外れはあるものの大方は当たり店なので、50代以降は裏路地歩きが私の好みになった。お気に入りは中華街通に教えてもらった店だった。今回、久し振りにその店を訪ねたいと思って探したのだが、通りの様子はすっかり変わり、店舗も多くが新築、またはリフォームされてしまったため見つからなかった。そもそも、店の名前を憶えていなかったのが敗因だった。

 中華街はいつも混雑している。修学旅行生が多い。中国からの旅行客も多い。家族連れはもちろん女性だけのグループも多い。カップルも多い。単独行動派はオッサンかオバサンか若い女性。男だけのグループは案外少ない。店内利用よりも売店で中華まんや飲み物を買って土産物を物色しながら散策する人が多い。単品やコース品中心の店よりもバイキング形式の店が目立つようになった。価格もかなり庶民的レベルに設定されている。これからまた横浜に行く機会が増えそうなので、中華街探索を再開したい気分になっている。まだ健在なら、あの安くてボリュームがあり、なによりすこぶる美味だった件の店に今一度、出会いたい。

関内駅界隈

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横浜公園内にあるスタジアム。ベイスターズの専用球場だ

 1859年に開港した横浜は外国人居留地を定め周囲に運河を造り「第二の出島化」を図った。井伊直弼の策略だった。橋などの出入り口には”関門”や”番所”を作った。このため、外国人居留地をはじめとする港一帯は「関内」と呼ばれるようになった。

 開港とほぼ同時に造られたのが遊郭で、今の横浜公園辺りに「港崎(みよざき)遊郭」があった。港造りと並行して造られたらしい。江戸の吉原並みの規模だったそうだ。が、66年の”ぶたや火事”で全焼したため、この地は外国との取り決めによって公園として整備されることになった。そして76年に公園は完成した。これが現在の「横浜公園」である。公園内には広場があり、外国人のみが野球やクリケットを楽しんでいた。一方、73年には開成学校(のちの旧制一高)の米国人教師が生徒に野球を教えるとすぐに広まった。そして、96年、一高と横浜在住の外国人チームとの試合が横浜公園で行われることになった。日本で最初の国際野球大会だった。

 この球場は戦後、米軍に接収され「ゲーリック球場」と呼ばれた。ナイター設備があったので、1948年、巨人・中日戦が日本プロ野球初のナイトゲームとして行われた。占領が終わり、返還されてからは「平和球場」と呼ばれるようになった。横浜にもプロ球団をとの声が強まり、平和球場を大改修して「横浜スタジアム」を建造し、「大洋ホエールズ」を誘致した。78年のことである。

 私には横浜出身や在住の知人が多いが、そのうちの野球好きの連中はベイスターズのファンが大半である。阪神広島ファンほどではないが、ベイスターズファンもかなり熱狂的だ。私も何度か誘われて横浜スタジアムに出掛けたが、トラファンに負けないほど熱心な応援に驚かされた。それも若い女性が多いのも印象的だった。横浜は若い女性が好む町だということを実感した。

 前回”大さん橋”の項で述べたが、私は伊豆諸島での釣りの帰りには大さん橋で降り、日本大通りから横浜公園を通って関内駅に向かった。ときにはスタジアムで試合が行われていて、大きな声援と、それ以上に大きなため息が聞こえてきた。なぜなら、ベイスターズ(かつてはホエールズ)は弱かったからである。

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かつての歓楽街も今はショッピングモールになっている

  今は”伊勢佐木あたりに灯がともる”が、かつて一帯は沼地で江戸時代に埋め立てられて”吉田新田”となった。1866年の”ぶたや火事”で港崎遊郭が全焼したのち69年、この地に遊郭が移転してきたため、関外にあるこの農地が一転、吉原町と呼ばれる歓楽街となった。その後、遊郭高島町に移転したが伊勢佐木の地には「蔦座」「羽衣座」といった演劇場ができて新たな賑わいを見せ始めた。20世紀に入ると演劇は廃れたが、代わって映画館が続々と出来、興行街として伊勢佐木町は横浜を代表する繁華街になった。1911年には「オデヲン座」という映画館がドイツ人貿易商によって作られ、洋画封切り第一号館となった。こうして神奈川だけでなく東京からも多くの人が訪れ、1910年代には”伊勢ブラ”などという言葉も流行ったそうだ。

 が、横浜駅西口の開発が進んでからは、こちらのほうがより利便性が高いゆえに繁華街は西口周辺に急速に広がった。その影響で伊勢佐木町の地位は相対的に低下した。現在、伊勢佐木町商店街(通称イセザキモール)は老舗商店と新しい店が共存しながら、観光地でもなくハイソでもない街として新たな顔を作り出している。

元町から山手町に向かってみた~私が最初に訪れた横浜

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ハマトラ”発祥の地も今はやや寂し気

 「ハマトラ」といっても横浜・阪神戦のことではない。横浜元町を発信源とした若い女性向けのファッションスタイルである「横浜トラディッショナル」の略語だ。山手町には”お嬢様大学”があり、さらに若い女性が好むカフェや公園、異国情緒あふれる街並みがあるため、そこに集まる女性の姿かたちをカテゴライズした、とあるファッション誌が生み出した造語だ。1970年代の後半から80年代の前半に「ハマトラ」はブームを呼び、元町がその中心となった。とくに10代半ばから後半の女の子に人気があったらしい。ブームは長く続かなかったものの、ファッションにはまったく無関心な私がその言葉をよく見聞きしたのは今から20年ほど前だったので、横浜辺りではまだ”死語”にはなっていなかったのだろう。

 前回でも触れたが、元町は「横浜村」に住んでいた住民が港を造るために強制移住させられてできた町である。当時は関外にあって丘のふもとののどかな村だったが、山の手が開発され外国人居留地として発展してからは、関内に通う外国人にとって利便性の良い商店街として発展した。戦後は一時荒廃したものの朝鮮戦争特需によって復興を遂げ、休戦後は国内向け、とくに若者をターゲットにした街づくりを進めた。その結果、多くの若い女性が「元町」「山手」の響きにつられて集うようになった。

 今回、十数年ぶりに元町を歩いてみたが、かつてのような賑わいはなかった。町自体からも活気は感じられなかった。ファッションが多様化したのか若者が窮乏化してファッションに関心を抱く余裕がなくなったのかは不明だが、全盛期を知るものにとっては一抹の寂しさを感じた。

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公園からはこの方向だけ港が見える

 元町から”谷戸坂”を上ると、左手に「港の見える丘公園」が見えてくる。この公園は1962年に公開された、横浜では比較的新しい公園である。私が初めて横浜に来たときにはまだ整備中だった。63年、何度目かに横浜を訪れたときは、真っ先にここに来た。叔父の住む官舎からわずか100mほどのところにできた公園だからである。その名の通り、港はよく見えた。山下ふ頭は整備されつつあったが、本牧ふ頭はまだなかった。大黒ふ頭はもちろんなかった。ベイブリッジ首都高速湾岸線もなかった。みなとみらいもなかった。今はそれらがすべてあるので海はあまり見えず、写真にあるベイブリッジ方向のみ海面が見える。なお、みなとみらいの高層ビル群は展望台からでは丘にある森が遮るために今でも見えない。

 山手町にあるここにはかつて、丘の上部がイギリス軍の、下部がフランス軍の駐屯地だった。1863年、下関海峡(現在の関門海峡)で砲撃を受けたイギリスは長州遠征に向かう前、艦隊は横浜港に集結し、幕府に駐屯地の設営を要求した。当時、山手町にはイギリス領事館があったので、その隣地を仮の駐屯地とした。64年、イギリス、さらにはフランスが駐屯施設整備を要求し、幕府はやむなくそれを受け入れた。資金は全額、幕府が負担した。

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旧イギリス領事館邸とイングリッシュローズの庭

 太平洋戦争後、この地はアメリカ軍が占領したが、返還されたのちに横浜市はここに公園を造ることを決め、1960年から整備を進め62年に完成・開園した。イギリス領事館邸には広い庭園があったのでここを”バラ園”として整備、さらに2016年、「イングリッシュローズの庭」としてリニューアルし、バラだけでなく多彩な園芸種で庭園を飾っている。私が訪れたときバラは終盤を迎えていたが、テッポウユリクレマチスなどがよく咲いていた。

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沈床花壇とその先にある大佛次郎記念館

 展望台のとなりの窪地には「沈床花壇」(香りの庭)がある。ここもメインはバラであるが、負けじとテッポウユリが存在を誇示していた。中央の噴水周りはブルーサルビアコリウスといった園芸種が色どりを添えていた。よく手入れをされている庭には必ずと言っていいほど庭師の姿があり、花柄摘みなど丁寧な作業をおこなっている。

 花壇の先に見えるのが「大佛(おさらぎ)次郎記念館」である。横浜市出身の大佛といえば『鞍馬天狗』があまりにも有名なので大衆小説家のイメージが強いが、パリコミューンを題材にした『パリ燃ゆ』や19世紀末にフランス第三共和政を揺るがせた『ドレフュス事件』など歴史小説やノンフィクションなども手掛けている。

 大佛は一時「ホテル・ニューグランド」を創作活動の拠点にしていたことがある。マッカーサーは315号室がお気に入りだったことは前回記したが、大佛が使っていたのは318号室で、鎌倉の自宅からホテルの部屋に行くとすぐに執筆活動ができるようにと、ホテルのボーイたちは必要な資料を大佛のために用意しておいたという。318号室は今でも、ホテル関係者には「鞍馬天狗の部屋」と呼ばれているそうだ。

 記念館のとなりには「ティールーム霧笛」がある。知人の話では、ここのコーヒーは絶品らしい。『霧笛』は大佛の作品名で明治初期の横浜を舞台にした”無頼派”小説である。当時のイギリス人船員や南京町(現在の中華街)の日常が描かれている。なお、このティルームの名は大佛夫人が命名したとのことだ。

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外人墓地には平日は入れない。土休日は公開されている

 港の見える丘公園から横浜地方気象台をはさんだ向かいの傾斜地に「外人墓地(正式には横浜外国人墓地)」がある。私が初めて横浜に行ったときは、ここが最初の遊び場だった。そのときは自由に出入りできたが、墓場をデートに使う不埒ものが増加したので、現在は3~12月の土休日のみ公開されている。これは墓地を維持管理するための予算を集める募金活動の一環としておこなわれているとのことだ。

 1854年にペリー艦隊が和親条約調印のために横浜港を訪れた際、船員の一人がマストから墜落・死亡したことで、ペリーはその埋葬地を幕府に要求した。「海が見える場所」を望んだため、当時「増徳院」の境内だった一角を米側に提供した。これが外人墓地の端緒になった。以来、生麦事件で殺された英国人など攘夷の嵐の中で命を落とした外国人、開化期に鉄道技師として新橋・横浜間の鉄道敷設を指揮した人、ボーイスカウト運動を日本に紹介・指揮した人、日本で最初に英字新聞を発刊した人、居留地外国人のための劇場である「ゲーテ座」を開設した人など、多数の外国人がこの墓地に眠っている。

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山手からベイブリッジを望む

 ”街の灯りがとてもきれい”なヨコハマだが、ブルーライトのヨコハマは光が強すぎて目に悪いと思っている人は日中に横浜に来るだろうが、昼日中でも素敵な景色は無数にあり、歩いても歩いても訪ね尽くすことはできない。山手町にも名勝(広義の)は多く、とくに”ワシン坂”から望むベイブリッジは私のおすすめだ。港の見える丘公園を出たら谷戸坂とは反対方向、つまり本牧方向に道なりに進む。途中には山手らしい豪邸や韓国総領事館があるが、さらにその先に進むと見晴らしの良い場所に出る。ワシン坂上公園のすぐ手前だ。

 写真は当日の光の関係で、おすすめポイントからではうまく撮れなかったのでやむなく丘公園の北東端から写したものだが、紹介した場所からはもっとベイブリッジが間近にかつ車の行き来まで見える。可能なら、やはり夕方以降が良く、2本の主塔のブルーライト、路灯、行き交う車のヘッドライトとテールライトは、この上のない美しさを演出する。

本牧三之谷にある名園~三渓園

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正門付近から”大池”と三重塔を望む

 三渓園横浜市中区本牧三之谷にある敷地面積17.5haにも及ぶ広大な庭園である。各地から移設した建物は17棟ありその多くが国の重要文化財や市の有形文化財に指定されている。また庭園全域が国の名勝に指定されている。

 この庭園は、生糸輸出で財を成した横浜の実業家であった原富太郎(茶人としての号は三渓)が1902年から整備を進め、自身の住まいとして園内に「鶴翔閣」を建て、この地を本宅とした。原三渓は青木富太郎として岐阜県に生まれ、大学卒業後に女学校の教員となった。その教え子であった女性と結婚し原家に養子として入り、原富太郎になった。養祖父の原善三郎は生糸業で横浜の有力な実業家になり、明治初期に三渓園の土地を購入しており、この地に別荘を建てていた。善三郎の死後、原三渓はこの地の造園を本格的に進めたのだった。原三渓は芸術家や文学者との交流を深め、自らは茶の湯の道を究めようとした。なお、号の”三渓”はこの地の三之谷という地名に由来する。三渓は39年に死去した。

 第二次大戦の際の空襲によって大きな被害を受け、その後、三渓園は原家から横浜市に譲渡・寄贈され以来、財団法人が管理している。なお、1906年には三重塔がある「外苑」はすでに一般に向けて公開されていたが、戦争被害からの復旧工事が完了した58年には原家が個人的に利用していた「内苑」も一般公開され現在に至っている。開園時間は9~17時、入園料は700円(大人)である。

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内苑には桃山時代から江戸時代に造られた木造建築物が多数移築・保存されている

 正門から大池と蓮池の間の道を進み、三渓記念館の右手にある「御門」(これも江戸時代、京都に建築された)を通ると「内苑」に至る。先述したようにここは原家個人のものであった。三渓は谷筋の傾斜地に多くの木造建築物を移築した。その大半が重要文化財に指定されているほど価値の高い建物である。元は京都、和歌山、鎌倉にあったものなのでこの「寄せ集め」に価値を見出せない人も多いらしいが、移築されなければかの地で朽ち果てていた可能性は大きいので、三渓の行為は必ずしも金持ちの道楽とばかりは言えないだろう。

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外苑のランドマークである三重塔。元は室町時代の京都にあったもの

 外苑の高台にそびえる三重塔は、元は京都にあり室町時代に建築(1457年)された。木津川市にあった燈明寺から大正時代に移築したもの。燈明寺はその後、廃寺になっているので、移築しなければこの姿を留めていることはなかったに違いない。関東にある木造の塔としては最古のものらしい。

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外苑にある展望台から旧根岸海岸方向を望む

 三重塔の裏手(南側)には展望台があり、かつてはこの海食崖上から広大な海を望むことができた。かつて崖下は海岸線でありそこには海水浴場もあった。1960年代から埋め立てが進み、写真にあるようにここには首都高速湾岸線、JXTGエネルギー(旧日本石油を中核としたグループ)の根岸製油所の大型タンクが出来て、今ではかつての姿を想像することすらできない。が、私にはここが海だったという記憶が残っている。なぜなら、この根岸湾にあった小さな砂浜こそ、私が初めて海に接し、海水の塩辛さを知った場所だったからである。

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園内の片隅に咲いていた半夏生

 三渓園は花の名所としてもよく知られている。7月はハス、スイレンムクゲが咲く時期だが、私には写真の「半夏生」の群生が一番、心に残った。好みの野草だからである。

 半夏生(はんげしょう)は二十四節気のひとつ「夏至」の末候である。今年は7月2日から6日までが「半夏生」(七十二候のひとつ)で、7月7日から22日が「小暑」でその初候は「温風至」(あつかぜいたる・七十二候のひとつ)となる。

 この半夏生の時期、写真のように葉の一部が白くなり、白い尻尾のような花を付けるのが「半夏生」という野草だ。ドクダミの仲間なのであちこちの野原に群生している(湿地を好む)はずなのだが、いざ探してみると案外見つからない(大型の園芸店では見かけることがある)。三渓園では正門の左手にある「八つ橋」の際でたまたま見つけた。葉の一部が白くなることから「片白草」、葉が半分化粧をしたようなので「半化粧」とも呼ばれている。後者の半化粧と季節の半夏生と音が同じなので、現在では季節名と花期がピッタリ合うためか「半夏生」の漢字を充てることが多い。

 今回は先を急いでいたので三渓園内をゆっくりと散策することはできなかったが、園内にはカエデが多くあるので、紅葉シーズンに再訪したいと思っている。その時期、大混雑は必至だろうが。

トンネルと坂の町~ここは横須賀

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日本一トンネルが多いといわれる横須賀の町

 三浦半島の大半は丘陵地帯で、海岸まで尾根筋が走っている場所が多い。平地は少なく、現在市街地になっている大半の場所は埋立地だ。横須賀市はこの起伏に富んだ三浦半島の多くを占めているため、この地にある道路や鉄道にはトンネルが非常に多い。正確なところは不明だが、「日本一トンネルが多い町」とよく言われている。写真のトンネルは横須賀の辺鄙な場所にあるものではなく、ここを抜けると「汐入」「横須賀中央」といった横須賀第一の繁華街に出るすぐ手前にあるものだ。

 道路自体、山を削って造った「切通し」が多く、それすらできないときはトンネルを掘る。切通しの端のわずかな平地を利用して家々が造られ、それでも不足するので、尾根筋の天辺にも家が立ち並ぶ。尾根上やその傾斜地にある家にたどり着くためには急な坂道を上らなければならない。ほとんどが道幅の狭い階段なので、車はおろかバイクや自転車すら利用することはできない。私がこの写真を撮っていたとき、たまたま郵便配達人が丘にある家々に郵便物を配っているのを目にした。彼は写真にある道路の歩道にバイクを止め、急な坂道を駆け上がりながら数軒の家々を配達して回り、また駆け下ってバイクまで戻り、別の郵便物を手にして、先ほどとは異なる階段を駆け上がっては配達、下りてきて荷物を抱えては別な坂道を上るという行為を何度も繰り返していた。心底、彼には「配達、ご苦労様です」と言いたかった。もちろん、その家々に住むお年寄りたちにも。

軍港の町~ここも横須賀

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先のトンネルを抜けたところにある「ヴェルニー公園」

 ヴェルニー公園は前の写真にあるトンネルを抜けたその左手にある。以前から”臨海公園”として存在していたが、2001年、フランス式庭園様式を取り入れて大幅に改修されてオープンした。ヴェルニー記念館の前には”戦艦陸奥”の主砲が鎮座し、この公園の存在意義とその理由を明示している。ここは横須賀本港が目の前にあるため、アメリカの海軍施設と海上自衛隊横須賀基地を間近に望むことができる。写真の向かいにあるのは船を修復・整備するためのドックで、この日は日本の潜水艦が停泊していた。 

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バラ園として整備されているので園内にはバラの花壇が多い

 園内にはいろいろな形の花壇が配置されているが、すべてはバラが主役だ。このため、バラの開花期には写真のように、バラの花先に「海軍」「海上自衛隊」の姿を見ることができる。私はバラよりも潜水艦の姿に興味があったので、船の方にフォーカスを当ててみた。

 レオンス・ヴェルニー(1837~1908)はフランス人技師で、幕末から明治初期にかけて日本の設備の近代化を指導した。幕末には小栗忠順(ただまさ)とヴェルニーの協力体制で「横須賀製鉄所」を築いた。名前は製鉄所だが、製鉄以外にも軍艦の造船やその修復などをおこなった。個人的には、司馬遼太郎が「明治の父」と呼んだ小栗に興味があるのだが、彼についてはいずれ触れる機会がある。

 ヴェルニ―は明治期には洋式灯台の設置に従事した。日本最古の洋式灯台である「観音埼灯台」や日本で5番目に古い「城ケ島灯台」はヴェルニーが設計したものだ。もっとも、現存する灯台はヴェルニーの設計そのものではないが。

 こうした業績により、ヴェルニーと小栗忠順の胸像が園内の「開明広場」に設置され、その功績をたたえている。

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”軍港めぐり”の遊覧船”のを利用すると陸からは見られない艦船と間近に接することができる

 丘陵ばかりで平地が少ない横須賀が発展を遂げたのは、ひとえにその地理上の位置と地形がその理由だ。

 江戸時代には江戸と各地を結ぶ水運が発達し、その安全をはかるため江戸湾の出入り口にある浦賀(ここも横須賀市)の岬に「燈明台」(和式灯台のこと)を設置した。ここは今でも残り、横須賀の観光名所のひとつになっている。

 幕末には外国船舶が多く出入りするようになったため、幕府でも江戸湾の守りを強固にするべく軍港の整備を進めることになった。そこで選ばれたのが横須賀の地だった。大きな港を造る場所は、波に強くなければならない。風に強くなければならない。水深がなければならない。その条件をすべて満たしているのが横須賀だったのだ。

 東京近辺に住んでいる人はご存じだろうが、この地では「北東風」「北西風」「南西風」が大半だ。横須賀では、北東風は東京湾を渡ってくるので波はさほど高くはならない。冬に多い北西風と春から夏に多い南西風は風力がとても強いので厄介だが、横須賀では背後の丘陵が風を遮るので波は立たない。つまり、風よけには最適な位置にある。

 一方、尾根筋が海岸まで迫っているということは、ここの海には水深があるということになる。私は磯釣り師なので釣り場近くの水深には一番の注意を払っている。水深があるところに好ポイントがある。したがって初めて釣りをする場所ではまず磯場の形状をよく観察する。陸の形状がそのまま海底に通じているからである。このことは海遊びをする人なら経験済みだろう。陸上がなだらかならば海は遠浅なはずだ。遠浅ということは波が立ちやすい。だからサーフィンは茅ヶ崎九十九里で盛んになる。

 上記のように、横須賀の港では風が避けられ、波が静かで、海は水深がある。これ以上、軍港に適した場所はないといえる。神奈川ではなく横浜が開港場に選ばれたのもほほ同じ条件を有していたからである。

  軍港を中心に順調に発展してきた横須賀市だが、1992年2月の43.7万人をピークに人口数は停滞し、2004年には明らかに減少方向に向かい、18年2月には40万人の大台を割り込んだ。1977年以来の30万人台である。2019年6月現在は39.6万人と減少が続いている。開発可能な平地は少なく、丘陵地の住宅は年配者に厳しいという現実が突き付けられているようだ。汐入駅前にあった超大型ショッピングモールの「ショッパーズプラザ」は19年3月末に閉店となった。これも人口減少が大きく影響しているのだろう。

 横須賀には観光資源が多くあるので、現在はこの面に力点を置いているようだ。1999年には「海軍カレー」、2009年には「ネイビーバーガー」を売り出し横須賀の名物になりつつある。また、地元の海運会社が始めた「軍港めぐり」は人気を博している。写真はその遊覧船が出港したときのものだが、陸地からははっきり見られない、あるいは島陰にあって見ることができない自衛艦や米軍艦船を間近に見ることができるために人気が高まった。私がここを訪れた日は小雨混じりの梅雨寒の天気が影響してか乗客は少なかったが、普段見かけるときはいつも満員御礼という感じだ。向かいに見える自衛隊護衛艦「きりしま」には、自衛隊の司令部がある長浦港を巡ったのちの帰り際に近づくはずだ。いずれにせよ、横須賀観光や名物にも「軍港」がついて回るようだ。

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国道16号線から「どぶ板通り」に入る細道

 どぶ板通りは横須賀の人気スポットである。正式には「本町商店会」というそうだが、その名を使う人に会ったことはなく、皆が”どぶ板通り”と呼ぶ。通りの中央にどぶ川の溝がありそれが邪魔なので、上に鉄板を被せたことからそう呼ばれるようになったが、現在は綺麗な通りに整備されているので、「どぶ板」を見ることはできない。

 外国人が立ち話をしているすぐ奥に国道16号線に平行する形に通りはある。写真に見える石柱には「明治天皇横須賀行在所入口」とあるが、それを目にとめる人はいなかった。

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どぶ板通りの人気店には順番待ちをしている人たちがいた

 どぶ板通りのすぐ近くには米海軍横須賀基地の正門があるので軍関係者が多く、この通りに出てきて、昼間は食事、夜は飲酒を楽しんでいる。このため、看板は英語がほとんどで、日本語は少ない。が、軍関係者だけを相手にしていたのでは「斜陽産業」になってしまうため、日本人観光客目当てに「海軍カレー」「ネイビーバーガー」「チェリーチズケーキ」を全面展開している。それで、飲食店だけは日本語が多くなっている。

 この通りは「スカジャン」の発祥地でもある。派手な刺繍を施した「ヨコスカジャンパー」はかつて、”ヤンキーの御用達”であったが、最近ではほとんど見ることはなくなった。昼間にこの通りを訪れる観光客は日常性の延長としてカレーやハンバーガーを食するようで、スカジャンの店を訪れる姿はほとんどなかった。

 どぶ板通りは”火灯し頃”から活況を呈するのだろう。灯りに照らされた通りは、人の姿は一変するはずだ。かつては、米兵に近づくだけのために日本の若い女性が通りにあふれていた。現況は知らないが、他の「健全な」街では見られない光景がきっと、今でも繰り広げられていることだろう。そうでなくては、横須賀に来る甲斐がない。

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三笠公園に通じる歩道は綺麗に整備されている

 国道16号線三笠公園入口交差点を曲がり、道なりに公園方向に進むと綺麗に整備された歩道が公園まで続いている。歩道脇には幼稚園から大学までいくつもの学校があるため、この歩道は幼児、児童、生徒、学生で賑やかである。その歩道上には写真の「日本丸」のミニチュアが置かれていた。横浜のランドマークタワー前にある帆船の模型だ。似てはいないと思うのだが、説明書きには本物の「日本丸」のことが記してある。これも「港町」ならではの景色かもしれない。私が訪れたのは学校の下校時間だったので大勢の児童・生徒がこの前を通り過ぎていったが、この存在を気にする様子はまったくなかった。毎日のことなので、この存在も風景のひとつでしかないのだろう。

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公園には本物の「戦艦三笠」が鎮座している

 三笠公園は「水と光と音」をテーマにした公園だそうで、スピーカーから流れる音楽に合わせて水が舞う噴水、水が流れ落ちる壁泉、高さのあるモニュメントなどとても美しく整備されている。辺りを見回すと、一方には米軍施設、一方には東京湾にある唯一の自然島の「猿島」、そしてこの公園の主役である戦艦三笠の姿が視界に入る。

 戦艦三笠は1902年、イギリスの造船所で竣工した。03年、横須賀港に入り連合艦隊の旗艦となった。日露戦争では東郷平八郎司令長官や秋山真之作戦参謀などの作戦により、対馬沖でロシアのバルチック艦隊と闘い勝利した。23年、ワシントン軍縮条約で艦船保有を制限することになったので、三笠は除籍されることになった。

 しかし、その姿を残したいという声が広まり、記念艦として保存することが決まった。当初は芝浦港に係留するはずだったが、横須賀港に接岸中に関東大震災が発生して大きなダメージを受けたため、横須賀の現在の地に曳き入れられ、船首を皇居方向に向けて地面に固定されることになった。

 二次大戦後はソ連が三笠の解体を要求したが、艦橋や大砲、煙突やマストを撤去することで妥協がはかられ、横須賀市が保存・管理することになった。市から委託された業者はこれを遊興施設にしたが、客足が遠のくと次第に荒廃し、結果、近づくものさえなくなった。

 1958年、その荒れ果てた姿を見るに見かねた人々が「三笠保存会」に集まり、募金と政府予算を用いて復元することが決まった。そして61年、三笠復元式をおこなうまでに至った。その後はよく管理され、長官だった東郷平八郎の全身銅像も「記念艦みかさ」の前に屹立している。

 三笠公園は、賑やかな市街地からはやや離れた場所にあるためか訪れる人はそれほど多くはなかった。が、園内は芝生広場をはじめとして前記の施設などきちんと整備されているので、横須賀観光の骨休め場所には案外、向いているかもしれないと思った。

ヨーコはどこに?

 ヨーコを探すために横浜や横須賀の港周辺を訪ね歩いた。横浜には3回、横須賀にも2回来てみた。ヨーコの原像は見い出せたのかといえば、以下のように答えるしかない。

 ヨーコは「だまし絵」のような存在かもしれなかった。「若い娘と老婆」や「ルビンの壺」の絵を思い描いていただきたい。前者でいえば、ひとつの絵に若い娘と老婆が描かれているが、若い娘の姿を見出したときに老婆は見えない。一方、老婆を見出したときには若い娘は見えなくなっているというものだ。その絵は、人間の認知力の限界を示している。それと同じように、ひとりのヨーコを見出だしたときには他のヨーコは見えず、別のヨーコを見出したときは、すでに前のヨーコは消えている。これの繰り返しであった。すべてのヨーコを同時に見出すことは人のクオリアでは不可能なのである。同時に見出そうとすると、ときにはすべてのヨーコが消え去り、単なる風景と化してしまうのだった。実際、私には今回、こうした”ゲシュタルト崩壊”がよく起こった。

 また、ヨーコを見出したと思ったときには、すぐさまその否定形が現れた。より高次のヨーコが現れたと得心した刹那、やはりその否定形が心に浮かんだ。この繰り返しもあった。ヘーゲルのように「絶対知」というゴールがあれば良いのだが、一方、ゴールがあることが分かるなら、はじめから理想的なヨーコ像は存在しているはずだ。私にはそんな理想形を見いだせないから探し求めたのだ。が、この試みは結局、悪無限に陥るしかないのかも、とも考えた。

 さらに、ヨーコはヨーコではないものとして存在するのでは、とも思った。このため、帰謬法でヨーコの存在を探し求めたのだが、そこにはいつもヨーコではないものの存在が立ち現れたのだった。否定神学では「神は〇△ではない」という形でしか神の存在を定義できないように、ヨーコは「〇△はヨーコではない」とでしか表現できないのかもしれない。「ヨーコは存在しないものとして存在する」のだとすれば、ヨーコには永遠に出会えないのだと考えるしかないのかもしれない。

 そんなことを思いながら横須賀の町をふらふらと歩き、気付くと私は再び「どぶ板通り」にいた。なぜか、通りに人の姿は皆無だった。不思議に思いながら私は汐入方向に歩みを進めた。突然、とある店から老いさらばえた男が私の前に現れた。「この老人ならばヨーコの存在を知っているのでは」と思い、彼に尋ねた。

 彼は次の言葉を残し、忽然と虚空に消えた。

「あんた、あのこのなんなのさ」

〔14〕ヨーコを探して港へ(1)横浜慕情

ヨーコの原像を探すために横浜へ出掛けた

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山下公園の正門付近から海方向を望む

 ヨーコの名には格別な思いがある。ありふれた名なので、記憶にあるだけでも同級生には「洋子」「庸子」「陽子」「容子」がいたし、社会人になってからも「燿子」「葉子」「曜子」「瑶子」という名の知り合いができたように思う。

 が、私が探しているヨーコはそのどれでもなかった。追い求めてきたのはヨーコの原像となりえる存在であり、かつヨーコのイデアともいえる存在なのである。この思いが強くなったのは1975年からなので、すでに45年ほどの歳月が流れている。齢を重ねるにつれてその思いは次第に弱まってきてはいたものの、それでも通奏低音のようにこの思いは心の奥底にとどまり続け、今になっても消え去ることはなかった。それどころか、散策という名の徘徊を始めてから、内側に閉じこもりがちだったこの思いは再び心を強く支配するようになった。そこで、今回はヨーコの原像を探すべく「みなと横浜」に出掛けてみることにした。

 ヨーコを探すカギは3つあった。これは1975年に受けた啓示だ。「港周辺」「長い髪」「仔猫と話す」の3点だ。

 「長い髪」はカギではあるがヒントにはならない。なぜなら女性の「半分弱」が長い髪だからである。そういえば今は亡き「范文雀」もその半分弱に属し長い髪を有していた。美貌と演技力で高い評価を受けていた女優だが、私には「ジュン・サンダース」のイメージが強かったので、彼女がシリアスな役でドラマに出たとしても、いつも気分は『サインはV』なのであった。それはともかく、「長い髪」はヨーコを探すヒントにはならないことは確かだろう。

 「仔猫と話す」もダメだ。猫好きの人は大抵、猫に話しかけるからだ。私がよく徘徊する公園では、話しかけるどころか餌まで与えている人が結構いる。そもそも仔猫が微妙だ。小猫なら小さい猫だろうが、仔猫は子供の猫ということなので判断が難しい。ジャイアントパンダは「大熊猫」と表記され、「シャンシャン」はまだ生後一年なので「仔猫」には違いないが、「シャンシャン」の見物客は大半がその仔猫に話掛けている~私は何を言っているのだ。

 ともあれ、「長い髪」や「仔猫と話す」はヒントにはならない。が、「港周辺」は重要なカギになりそうだ。女性は大方、港好きだし、長い髪を潮風になびかせている。それに港周辺には公園が多いので仔猫も居そうだ。田舎の港では概ね、暇なオッサンが釣りをしているだけなのでここは避け、やはりオシャレな都会の港を訪ねてみたい。そうなると横浜港か神戸港が双璧だ。という訳で、今回は私にとって身近な存在である横浜の港周辺でヨーコの原像を探してみることにした。

鶴見の港~ここも横浜

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鶴見線の終着駅のひとつ「海芝浦駅」

 鶴見が横浜市編入したのは1927年のことである。それまでの鶴見町は京浜工業地帯の中心として川崎市との結びつきが強かった。実際、鶴見は橘郡の一角を占めていたのだ。神奈川県の一部(大半は旧相模国)は旧武蔵国の南部三郡(橘郡、都筑郡久良岐郡)にあり、橘郡が現在の川崎市、後二郡が横浜市に該当する。

 鶴見は東海道が整備されてからは商業地として発展していたが、20世紀に入って海岸の埋め立てが推進されて以来は工業地帯に変貌する。それにともなって宅地造成も進んだが、肝心の水道設備が未発達だった。とくに京浜急行が開発を進めた生麦住宅地は上水道がないため、住民は「水汲み人」を雇い入れて飲料水を確保する状態だった。そこに手を差し伸べたのが横浜市で、合併を条件に上水道の供給が行われることとなり、編入した27年には上水道が開通した。

 その間も臨海工業地帯は発展し、26年には鶴見臨海鉄道(現在の鶴見線)が輸送を開始、29年には旅客輸送が認可された。鶴見線には現在、鶴見駅から扇町駅(川崎市)の本線と、海芝浦駅(鶴見区)や大川駅川崎市)を結ぶ支線がある。私はどの線に乗ったのかは忘却したが50年ほど前、一度だけ鶴見線を利用したことがある。大半が工業地帯で働く人が利用する鉄道のため実用本位で、南武線以上にボロの電車だったと記憶している。

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南武線と同格になった鶴見線の車両

 50年振りで鶴見線に乗った。鶴見駅から海芝浦駅までである。日中は本数が少なく、この路線は2時間に1本だ。鶴見駅を11時に出て海芝浦駅には同11分に到着する。初めはこれに乗って海芝浦駅で降り、駅の隣にある海芝公園で海の景色を観察し、帰りは適当な場所まで歩けば良いと考えた。が、よく調べてみると海芝浦駅は東芝の敷地内にあるため関係者以外は外に出られないことが分かった。一方、海芝公園は駅構内にあるためそこで時間をつぶすことは可能だが、乗ってきた電車は11時25分発なので滞在時間は14分しかない。しかし次の電車まで待つと、13時25分発となるのでその地に2時間14分もいなければならないのだということも判明した。公園自体は小規模で、間近に「鶴見つばさ橋」を見ることができる程度でしかない。駅自体は海に面しているのでこの点は興味深いが、外海に面しているわけではなく対岸にある扇島との間にある田辺運河に接しているだけにすぎない。こうした点から、2時間以上滞在する理由は見当たらなかったので、現地でよほどの発見がない限り乗ってきた電車で鶴見に戻るという計画にした。

 日中発なので鶴見駅からの乗客は少なく、3両編成の車両内はガラガラだった。その中の5名(私を含め)は首からカメラをぶら下げているので、私と同じ目的のようだった。実際、同じ電車で皆、鶴見駅に戻った。次の国道駅では大勢のガキンチョが乗り込んできた。聞けば、「社会科見学」で海芝浦駅まで行くとのこと。車内は一気に賑やかになった。

 それにしても、鶴見線の車両は写真のように現代化され、カラーさえ変えればそのまま山手線にも使えるという残念なものになってしまっていた。かの南武線の車両だって新しくなったので、いまさら焦げ茶色の車両は使っていないだろうと想像はしていたのだが。

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車内からつばさ橋を望む

 鶴見つばさ橋首都高速湾岸線にあり、大黒ふ頭を経て横浜ベイブリッジにつながる。つばさ橋の主塔は鶴の姿を連想させるのでベイブリッジより個人的には好ましく思っているが、駅から望む橋の姿は周囲の景観が単調なため、丹頂鶴のような優雅さは持ち合わせていなかった。これだけでは単調鶴になってしまうので、周囲の景色は無視して車内から駅と橋の主塔を撮影しようとした。そんなときに、騒がしいだけだったガキどもが公園から戻ってきたので、こいつらを画面に入れた写真を撮ることにした。枯れ木(いや若木か)も山(海か)の賑わいである。

 彼または彼女らの社会科見学は私同様、鶴見線に乗ることが目的だったようだ。これらガキども(100人以上いた)の何人かは50年後、再び鶴見線に乗り、感慨にふけることがあるやなしや。

パーキングと有料の釣り施設で知られる大黒ふ頭

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横浜港の入口にある大黒海釣り施設

 つばさ橋とベイブリッジをつなぐ位置にあるのが大黒ふ頭で、ここには首都高速湾岸線と神奈川大黒線をつなぐジャンクションもある。さらに、ジャンクションが造るループの間には、パーキングエリアがある。ここは世界的にも有名な!?PAだ。かつては暴走族のたまり場となり、現在でも車自慢の人々が多く集まることから、外国のメディアが取材に来たことがある。私は以前にはこのPAを使うことがあったが、いつも駐車場所を探すのに苦労したので、近年では入ることもなくなった。

 一方、ふ頭の先端(南端)には「大黒海釣り施設」があるので、以前は最低でも年に一度は取材で訪れていた。近年は管理者が変わり取材には事前申請が必要になったため、その手続きが面倒なのでここ数年はパスしていた。が、ここの釣り場は獲物こそ大したことはないが、景観は魅力的なので、PAの立ち寄りを止めてこの釣り場を久方振りにのぞいてみることにした。

 ここは横浜港の出入口に位置するため、港に入る(出る)大半の船はこの釣り場の目の前を通り過ぎる。先端にある赤灯台は、ここが入港時の右側であることを示している。向かいにはガントリークレーンが立ち並ぶ本牧ふ頭があるが、写真の左手にはそのふ頭にある「横浜港シンボルタワー」が見える。こちらは、入港時の左側を示す「白灯台」にもなっている。この赤灯と白灯の位置は、どこの港でも同じルールになっている。もちろん、出港時はこの逆に見え、外海に出るときは左手が赤灯台となる。

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釣り場の内湾側からの景色。横浜を彩る多くの建造物が見える

  釣り場の内湾側は写真の通り景観が良い。この釣り場は突堤(釣り場が造られる前は大黒赤灯堤防と呼ばれていた)の上に造られており、その形状は湾口を少しだけ狭めるようになっている。なので、外海側でも内湾側でも潮の動きはさして変わらないにも関わらず、そこは釣り人の性なのか少しでも外海側の方が好ポイントであると考えてしまうようだ。このため、景観の良い湾向きの方が釣り人の数は圧倒的に少ない。折角、景観が楽しめる釣り場なのだから、のんびりとベイブリッジ横浜市街の風景を眺めながら竿を出した方が心地よいと思うのだが。

 後姿が素敵な女性は、遠くの景色に目を向けることもなく懸命に釣りに専心していた。同行したと思われる隣の男性は、その熱意に感じ入る様子で温かい眼差しを送っていた。私が見ている間には何も釣れなかったが、その女性は終始、竿先に神経を張り詰めていた。その姿に私は、ほんの少しだけヨーコの原像を見出したのだった。

横浜を造った人のこと

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高島山から横浜港方向を望む

 私は高島台に立ち、今はビル群が壁となって視界を塞いでいるので見えないが、その先にある横浜港のことを思った。さらに、この横浜の地を造った人のことを。

 高島嘉右衛門は幕末に横浜村の土木工事で財をなし、いつしか国家的な事業を行いたいと考えていた。彼は、伊藤博文大隈重信を自分が作り上げた割烹旅館の「高島館」に招き、日本の発展のためには鉄道事業が必要不可欠であることを熱心に説いた。実際には、維新政府もすでに鉄道建設のプランを立て、東京・横浜間の鉄道敷設の建議書を作成していた。

 政府はイギリスから若き鉄道建設技師のエドモンド・モレルを呼び、彼を鉄道建設師長に任命し、新橋・横浜間の鉄道敷設の総指揮をとらせた。この際、もっとも難事業であったのが、神奈川(現在の神奈川区青木町付近)から横浜(現在の桜木町駅付近)間だった。当時ここは入海で、鉄道を敷くには大きく迂回するか堤防を築くかのどちらかしか選択肢はなかった。

 伊藤や大隈は堤防を築くことを提案し、その事業を請け負ったのが、高島嘉右衛門だった。長さ約1300m、幅約80mの巨大な堤防だ。幅80mのうち、20mほどは鉄道や道路に使い、残りは請負人すなわち高島のものになるという計画だった。ただし築堤期限はわずか135日、完成が一日遅れるごとに高島の権利は少しずつ奪われるという罰則付きだった。

 高島は築堤現場の背後に控えていた高台(大綱山、現在は高島山)に立ち、工事が完了するまでその場から連日、進捗状況を監督し無事、期限内に完成させた。晩年、高島はその監督の地を「望欣台(ぼうきんだい)」と名付けた。鉄道、道路以外の場所は横浜の中心街として大いに発展した。入海の多くはその後に埋め立てられた。それが、現在の西区高島を一帯とするところである。また、大綱山一帯も宅地整備が進み、現在は高島台と呼ばれている。その一角には高島山公園があり園内には「望欣台の碑」がある。

 高島嘉右衛門は易者としても名を成している。若き日に『易経』を暗記し、晩年には「易断」をおこなった。伊藤博文の暗殺を予言したことはよく知られている。彼の易断はよく当たったらしいが、彼は「占いは売らない」といってこれを商売に用いることを戒めた。現在、占いの本の多くは高島にあやかって「高島易断」を名乗っているが、これは高島嘉右衛門の占いの確かさの証左だろうか。

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井伊直弼の像。彼なくしては横浜の発展はなかった

 1853年にペリー艦隊が来訪し、翌54年に日米和親条約(通称神奈川条約)が締結された。これにより下田と箱館(函館)の開港が決まり、「鎖国」体制は終焉した。さらに米国は自由貿易を推進・拡大するために58年、日米修好通商条約(通称ハリス条約)の締結を迫った。これには神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港条項があった。大老井伊直弼天皇の勅許なしの調印を当初は拒んだが、ハリスの強硬姿勢に抗せず孝明天皇の勅許を得られぬまま調印した。

 神奈川の開港は1859年が期限。問題は神奈川のどこに港を建設するかだった。井伊は横浜村を勧めた。当時の横浜村は入海があって港には適した地形で、かつ東海道から離れた所にあり、民家は百軒程度という寒村だったからである。井伊は外国人をこの地に閉じ込め(第二の出島化)、できるだけ日本人との接触は避けたいという意向だった。一方、外国奉行の永井尚志や岩瀬忠震らは条約通り、東海道の宿場町である神奈川に港や外国人居留地を造るべきだと主張した。

 ハリスは、横浜だと東海道から遠く、途中には入り江や川があり、交通上とても不便であると主張して井伊の提案を拒否した。が、井伊はあくまでも横浜にこだわり、日本の外国奉行たちも結局、井伊の提案に沿って横浜の港町化を進めた。現在の海岸通りに住んでいた百軒程度の農民は元町に強制移住させ、港造り町造りが行われ、予定通り59年に横浜港が開港した。今から160年前のことだった。

 これにはハリスは激怒したものの、外国商人は横浜港の利便性の高さから続々とこの地に移住するようになった。結局、既成事実が条約の取り決めを上回ることになり、横浜港は順調に発展することになった。

 一方、井伊直弼には「安政の大獄」という負の側面を抱えていたため、1860年(万延元年)、桜田門外で水戸藩薩摩藩の脱藩者によって暗殺された。保守派ながら現実主義者だった井伊は、孝明天皇徳川斉昭らの排外主義によって46年の生涯を閉じたのだった。

 井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にあるということは第9回の「世田谷線」の項で紹介した。一方、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像は、桜木町駅の西側にある高台(掃部山公園)にある。直弼が倒れてから50年後の1909年に建造(54年に再建)された。日本経済発展の功労者でありながら、勤王の志士を弾圧し、天皇の意向に逆らったという点から、薩長を中心とする維新政府はなかなか許可を下ろさなかったのである。

 井伊が横浜村での港建設にこだわらなければ、時代の趨勢として神奈川に港が建設されたはずだ。江戸との交通条件を勘案すれば、神奈川区から鶴見区あたりが発展の中心となったはずで、現在の横浜市の中心街は、新興住宅地か工業地帯になっていた可能性は高い。こう考えると、今の横浜市の利害当事者にとって井伊直弼は「横浜市建設の父」と言えるだろう。井伊の強硬姿勢がなければ今頃は、神奈川県神奈川市に県庁があり、横浜区は18ある行政区のひとつだった蓋然性は意外に高いのである。

 こう考えると、ランドマークタワーを見つめる井伊直弼は「俺のおかげでお前はそうして立つことができたんだぞ」と威張って語っているような気がした。いや実際に。

みなとみらいの中心に足を進める

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臨港パークから高層ビル群を望む

 みなとみらい地区には3つのペデストリアン軸(歩行者動線)があり、写真の臨港パークはキング軸(横浜駅新高島駅から海岸線)の終点に位置する。みなとみらい地区では一番大きな公園だが、この周囲は開発がもっとも遅れている。10年ほど前はこの辺りにはよく来たが、周囲は空き地がほとんどで「みなとみらいの開発は失敗に終わった」などとよく言われていた。今回、久しぶりに臨港パーク周辺に来たが、空き地にもかなり建造物ができていた。これは「紙幣本位制バブル」が大きく影響していると思う反面、建物や会社名、店舗名を見ると、「未来の都市」とはおよそかけ離れた空間ができてしまったようにも感じられる。これらは田舎の郊外にあるショッピングモールと同等の姿であり、これが「みらい」なら未来には何の希望もないと言っていいだろう。

 臨港パークからの眺めで気に入っているのはランドマーク、クィーンズスクエア、2つのホテルの並びだ。これらは通常、汽車道大さん橋山下公園側から見ることがほとんどなので、この眺めは裏から見た「みなとみらいの表情」に思えてしまう。空間の逆位相と考えられてしまう点が面白い。

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臨港パークでは釣り人をよく見かける

 写真にはないが、この右手には「ぷかり桟橋」の建物がある。写真にあるのは桟橋の一部で、山下公園とを結ぶ水上バスや横浜港を周遊する観光船の発着場所となっている。パシフィコ横浜会議センターの裏手にあるためあまり目立つ場所ではない。このためか、写真のように地元の釣り人がよく集まる場所でもある。臨港パーク自体、みなとみらい地区では一番人影が少ないので、おじさんたちが集まって釣りの会議をするには最適なのかもしれない。向かいにはベイブリッジが見えるのでここが横浜であることはすぐに分かるが、橋がなければ、無名の港に集う老釣り人たちという風情だ。

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日本丸とランドマーク

 日本丸は大型練習帆船として1930年に竣工した。84年に引退してからは写真にある旧横浜船渠会社の第1ドックに係留・保存されている。全体が”日本丸メモリアルパーク”として公開され、ときには”総帆展帆”されるそうで、”太平洋の白鳥”と言われるほど美しいらしい。なお、姉妹船の「海王丸」は富山県射水市の新湊港に展示保存されており、こちらでは帆を広げているのを見たことがある。確かに息を呑むほどの美しさだったと記憶している。

 ランドマークタワー(高さ296m)は”みなとみらい”では一番高く、その横のクィーンズスクエアの3本のビル(一番高いA棟で172m)は海に近いほど低くなっている。つまり、このビルの並びは全体でひとつの波を表現しているのだ。その前にある美しい帆船がこの高い波を超えて前進する。演出が行き届いた、なかなかいい風景だと思う。

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横浜港内をスタンドアップパドルで散策

 汽車道に向かう途中、港内をスタンドアップパドル(SUP)で散策し、さらに大岡川方向に進む一群を見かけた。SUPは今、流行らしくあちこちの川や池、港などでよく見る。日本語では”立ち漕ぎボード”というらしいが、バランスを取るのが難しいように思われた。どこかのクラブの一行のようで、インストラクターの指示で川に向かって進んでいた。日本丸から汽車道に進む道は観光客がとても多いので、彼・彼女らは無数の視線を浴びていたはずだが、漕ぎ手は態勢を維持するのに必死で、ギャラリーの存在には気づいていない様子だった。大都会の中心を立ち漕ぎボートが行く。これもまた、波静かな入海をもった横浜ならではの光景なのかもしれない。

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かつての臨港線の鉄道を残したまま道は赤レンガパーク方向に進む

 臨港線は1911年に開通した旧横浜駅と新港ふ頭とを結ぶ貨物輸送鉄道だった。戦後は旅客列車も運行されるようになったが61年に旅客運送が、86年には貨物輸送が廃止され事実上廃線となった。それが、一部線路を残しつつプロムナード(散策路)として整備され、赤レンガパークからさらに山下公園付近まで続くのが写真の「汽車道」である。

 写真の桜木町付近では高層ビル群が間近に望め、改修された古い橋梁を渡って運河パーク方向に進む。ホテルの開口部を抜け、万国橋交差点を渡ると新港中央広場に至る。

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新港中央広場から赤レンガ倉庫2号館を望む

 新港中央広場には白いアジサイアナベル)が多く咲き、それにヤマアジサイが色どりを添えていた。さらに、ハクチョウソウが優雅な花を風に揺らしていた。その先に見えるのが、みなと横浜で随一の人気スポットとなった赤レンガパークである。

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赤レンガ倉庫2号館内には商業施設がある

 赤レンガパークには赤レンガ倉庫1号館、2号館、イベント広場などがある。1号館には文化施設、2号館には商業施設があり、人々の多くは2号館に集まっている。

 赤レンガ倉庫は、横浜築港の二期工事(1900~17年)のときに造られた。この二期工事で新港ふ頭は完成し、大型船舶が横付け可能となり、前述したように臨港鉄道が敷かれ、旧横浜駅(現在の桜木町駅)を経て東海道線につながった。

 1923年の関東大震災横浜市は壊滅状態となったが、赤レンガ倉庫2号館はほとんど被害を受けなかった。この倉庫に収容されていたのはアメリカ向け生糸だったとのこと。戦後は一時連合国軍に接収されていたが、56年に返還され日本の高度成長を担った。しかし、横浜港には新たに山下ふ頭や本牧ふ頭、大黒ふ頭などができ、また貨物のコンテナ化が進むにつれて赤レンガ倉庫の役割が逓減し、89年にその役目を終えた。一方で、みなとみらいの整備計画が進むと赤レンガ倉庫の新活用が早くから検討されており、2002年に整備が完了し、現在の赤レンガパークとなって再出発した。

横浜港の歴史遺産あれこれ

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塔が有名な横浜税関庁舎

 税関は開港当初は「運上所」と呼ばれ、入国管理事務と税関の仕事をおこなっていた。1859年の開港と同時に造られた。場所は現在の神奈川県庁の一角にあった。この運上所を中心に東側が外国人居留地、西側が日本人居住地と定められた。

 1866年の横浜大火(通称”ぶたや火事”)で運上所が消失したのち、68年、同所に新庁舎が建てられ名称も「横浜役所」に改められ管轄権は政府に移った。72年には現在の名称である横浜税関になった。

 1923年の関東大震災で庁舎が全壊し、34年、場所を少し港側に移し、海岸通りに面したところに現在の庁舎が竣工した。写真にある通りこの建物は緑色の高い塔を持っている。高さは51mで、当時、横浜ではもっとも高い建物だったそうだ。ちなみに、横浜港近くには高く特徴的な塔をもった建物が3つあり、横浜に入港する際に船員からもその塔の存在がはっきりと視認できたので、いつしか「キング」「クィーン」「ジャック」というトランプ(人ではなくカードのほう)から拝借した名前が付けられた。この税関の塔は「クィーンの塔」と呼ばれ、現在でもその名が残っている。

 横浜観光の通(つう)の間では、この「横浜3塔」が同時に見られる場所を訪れるのが流行だそうだ。年々、周囲には高い建築物が増殖するので、今では一遍に視認できる場所はとても少ないそうである。私には流行に乗じる習慣はまったくないので「聖地探し」に興味はないが、この3つの塔のある建物には個別に訪れている。

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象の鼻パークからみなとみらいを望む

 象の鼻防波堤は古く、1859年の開港時に”イギリス波止場”として造られたのがその原型である。当初は直線状だったが、これでは波に弱いので、67年に形を湾曲にして”防波堤”としての役割をもたせるようになった。この頃から「象の鼻」と呼ばれるようになったらしい。しかし、関東大震災で大きく損壊してしまったため、今度は先端だけが少し曲がった形の突堤として再建された。

 現在は、かつての「象の鼻」の形に復元されている。これは、周囲を「象の鼻パーク」として整備した際の一連の事業の中でおこなわれたものであり、2009年に竣工している。堤防自体には見るべきものはさほどないが、写真のように赤レンガ倉庫からコスモワールドの大観覧車、みなとみらいの高層ビル群がよく見え、とくに夜景が美しいことからここも人気場所となっている。

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よく大型客船が接岸することで知られる”大さん橋

 大さん橋は、大型豪華クルーズ船がよく接岸するのでニュースにも取り上げられることが多い。金と暇をふんだんにもつ富裕層の間では、一番贅沢な旅である豪華客船による長期クルーズが人気らしいが、日本に立ち寄る場合、ほとんどは神戸か横浜の港に接岸する。横浜港のメインになるのが大さん橋で、7月だけでも「ダイヤモンド・プリンセス」「ぱしふぃっくびいなす」「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」「マースダム」の入港が予定されている。

 大さん橋の前身は1894年に完成した鉄桟橋で、その後、幾たびかの改修を経ながら現在の形になっている。とくに1964年の東京オリンピックに備えた大改修によって、豪華客船が多く接岸するようになった。75年に「クィーンエリザベス二世号」の接岸の際は50万人以上が訪れ、伝説にもなっている。

 わたしにとってこの大さん橋はとても馴染み深い存在だ。おそらく、100回以上は利用している。もちろん、豪華客船を利用したのではなく、磯釣りに出掛けるためだった。とくに30代前半からの10年間、週末のほとんどは仲間と伊豆大島、新島、式根島神津島に出掛けた。当初、伊豆諸島行きの東海汽船は浜松町にある竹芝桟橋からだけ出ていたが、途中から週末だけは大さん橋にも寄港するようになったので、私はその利便性の高さからここを利用することにした。金曜日に予備校での講義を終え、急いで準備をしても竹芝桟橋では午後10時発なので、ギリギリ間に合うという状況だった。それが大さん橋では午後11時30分になるので、余裕たっぷりに出かけられた。帰りも一時間半早く横浜に帰港するので、船が竹芝に着く頃には自宅に戻れた。

 行きは桜木町駅で降り、海岸通りをガラガラと大型カートの車輪の音を立てながら、多くのカップルが散策する中を勇躍、大さん橋まで進行した。帰りは日本大通りから横浜公園をトボトボとした足取りで抜けて関内駅に向かう。釣りの、とくに磯釣りの荷物は餌と魚の臭いが染みついているので独特の素敵な香りがする。このため、釣り人の周りだけは混雑した電車の中でさえ大きな空間ができるので、車内での押し合いへし合いからは解放された。

 2002年までの大改修で、大さん橋の屋上には広々としたデッキ(クジラの背中)ができて観光名所となった。山下公園の全景や赤レンガパーク、高層ビル群がよく展望できるためかカップルの数がとても多い。それもきちんと海に向かって等間隔に並ぶのが面白い。

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開港広場にある日米和親条約締結の碑

 大さん橋から大さん橋通りに向かう交差点の南側に開港広場がある。1854年、条約締結のために再び日本を訪れたペリーは、条約調印場所として江戸を希望した。一方、異人(外国人)を入府させたくない幕府側は浦賀か鎌倉を希望した。ペリーはこれを拒絶したが、幕府が代案として示した横浜村での調印を受け入れた。寒村であった横浜村の原野に突貫工事で応接所を建設し、ペリーと林大学頭との間で日米和親条約が調印締結された。横浜という土地が初めて注目を受けた場面だった。

 写真はその締結場所である。現在は開港広場になっているが、この碑を目にとめる人は皆無に近い。私はこの辺りを釣り道具を持って何度となく歩いていたのだが、特にその存在には気づかなかった。日本の歴史の転換点、横浜の歴史の出発点なのだが、その存在感はあまりにも小さい。

 私自身、この碑の存在より、写真にある向かいのオシャレなレストランのほうがいつも気になっていた。が、一度も利用したことはない。店内には素敵なハマの女性たちがいつも多くいた(通るときは必ず店内をのぞいた、無意識のうちに)が、餌のオキアミと魚の臭いが染みついた釣りのベストを着た格好では入る覚悟はなかった。もっとも、そのいで立ちでは”入店お断り”となっていただろうが、いやまったく。

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海岸通りと横浜公園を結ぶ日本大通り

 1866年の大火は豚肉業者のところで出火したので「ぶたや火事」と言われた。この大火事で日本人町の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼け落ちた。外国人居留者から「防災都市づくり」を求める声が上がり、延焼を防ぐために海岸から横浜公園まで結ぶ幅36mの道路の建設が決まった。それが写真にある”日本大通り”だ。完成したのは79年で、車道と歩道を区別した当時ではもっとも新しい設計の道路だ。横浜税関のところでも述べたように、この通りを挟んで東側が外国人居留地、西側が日本人居住地になっていた。

 街路樹にはイチョウが植えられ、今でもその緑が大きく歩道を覆っていて、涼を求める人、カフェでくつろぐ人で賑わう。この通りには神奈川県庁、横浜港郵便局、横浜地方裁判所、日銀横浜支店などが立ち並び、とても落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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神奈川県庁の天辺にあるのがキングの塔

 日本大通りに面する神奈川県庁本庁舎は1928年に竣工した。23年の大震災で旧庁舎が焼失してから5年後のことだった。高さ48.6mの塔屋は「キングの塔」と呼ばれている。向かいには現在、13階建ての分庁舎を建設中だ。それ以外にも新庁舎や第二分庁舎などが周囲にある。

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開港記念会館の時計塔はジャックの塔

 高さ36mの時計塔(ジャックの塔)をもつ横浜開港記念会館は1917年に竣工した。大震災で全焼したものの、一部を残して当初の姿に復元された。89年、手前のドームも復元され、完全に以前の姿に戻った。

 キングの塔(48.6m)やクィーンの塔(51m)に比べてジャックの塔は36mと低いので、横浜3塔では一番、周囲の高層ビル群に埋もれやすい。その一方、間近にで望むともっとも優美な姿をしている。

山下公園にいると、なぜか心がとても穏やかになる

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公園からみなとみらいを望む

 山下公園は1930年、関東大震災で生じたガレキの山が海に投入されて造られた。震災では横浜全市だけで3万8千戸が倒壊した。これは市の建造物の3分の1に上る数だった。そうした犠牲の上に造られたのがこの美しい公園である。

 今回、冒頭に挙げた写真は山下公園の中央口から入ったところにある噴水広場、それに公園を象徴する氷川丸を望む風景だ。噴水の中央にあるのが「水の守護神像」で、横浜市姉妹都市であるサンディエゴ市(カリフォルニア州)から1960年に贈られたものだ。このため、この噴水広場は「サンディエゴ友好の泉」と名付けられている。

 ここに挙げた写真は、公園からみなとみらい方向を望んだもの。私が小さい頃に訪れたときはこの方向がここでは一番面白味のない景色だったが、みなとみらいの整備が進んだ現在では、もっとも気に入られている景観かもしれない。中華街をまず訪れ、それから山下公園を散策し、この写真の景色を見ながら赤レンガパークに進むというのがお定まりの観光コースだ。

 写真の中には、みなとみらいを代表する建造物がほとんど入っている。右手には赤レンガ倉庫、その上方にパシフィコ横浜会議センターの上部に独特の形状でそびえる”グランドコンチネンタルホテル”、その左に”ベイホテル東急”、コスモワールドの観覧車、”クィーンズスクエア”、”ランドマークタワー”と、みなとみらいの”全部乗せ”といった景観がここにはある。

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往年のスター、マリンタワーとニューグランド

 目を反対側に転じると、かつて横浜を代表した建物が見える。マリンタワーホテルニューグランドの本館だ。マリンタワーは現在休館中(19年3月より)だし、ニューグランドは隣にある新館がメインとなっている。

 小さい頃、横浜にはよく遊びに来た。山下公園で遊んだ。氷川丸を見学した。マリンタワーに上った。ニューグランドは外から見るだけ。中華街には行けなかった。元町は通るだけ。港の見える丘公園や外人墓地でも遊んだ。みなとみらいはまだなかった。遠足でも横浜には来た。小さい頃と同じ。20~30代にもよく来た。小さい頃とほぼ同じ。

 マリンタワーは1961年に開業した。開港100年(1959年)記念事業の一環として建設された。高さは106m。360度見晴らしは良かった。しかし、みなとみらい地区に超高層ビルが林立し始めると、マリンタワーは見晴らしを誇ることはできなくなった。ランドマークとしての地位も、ランドマークタワーに席を譲った。開港150年の年に改修が行われたが利用客数は回復しなかった。2022年までに大改修して再開する予定だそうだが、果たしてどうなることやら。

 ニューグランドは1927年に開業した。23年の大震災でほとんどの宿泊施設は壊滅したため、外国人観光客を受け入れるホテルがなくなった。そこで、ニューグランドが建設されたのである。丁寧な対応とおいしい料理、客室から眺める美しい景色が評判を呼び、外国の要人が多く利用した。イギリス王族やチャップリンベーブルースジャン・コクトーなども宿泊した。もっとも有名なのがマッカーサーが利用したことだろう。

 連合国軍総司令部GHQ)は最初、クィーンの塔のある横浜税関に設置された。マッカーサーはニューグランドの315号室を利用した。すぐにGHQは東京に移ったのでマッカーサーの利用は短期間だったが、この部屋を相当に気に入っていたらしい。現在、315号室は「マッカーサースイート」として一般に開放されている。私も利用してみたいが先立つものがない。

 かように、マリンタワーとニューグランドは、かつて横浜を代表する建物であった。小さい頃からこの景色を知っている私にとって郷愁を誘うとともに時の流れの速さを実感する。世界は無常であり無情でもある。

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氷川丸は常に山下公園とともにある

 氷川丸は1960年に除籍され、解体される 予定だったが市民らの要望が強く観光船に改造(現在日本丸が係留されているドックで)され61年、山下公園に係留されて現在に至っている。総トン数は12000トン。全長は163m。

 氷川丸が竣工したのは1930年。奇しくも山下公園が開園した年だった。名前は旧武蔵国の一宮である大宮氷川神社から採られている。横浜港から北米シアトルの航路に就航し引退するまでに太平洋を254回渡っている。38年にはIOC総会から帰国する嘉納治五郎を乗せたが、横浜に到着する2日前に嘉納は船内において肺炎で死去した。

 戦争中は一時、病院船に改造されて任務に当たった。3度触雷したが、他の船に比べて鋼板が厚いために沈没は免れている。戦後は復員兵や民間人の引き揚げ船に使われ、その後、旅客船に復帰し60年に引退した。61年以降は山下公園に係留され、当初はユースホステルなどの宿泊施設もあった。老朽化した現在でも博物館船として公開されている。

 氷川丸が係留されている場所の山下公園側には2016年に整備された「未来のバラ園」がある。園内には160種、1900株のバラが現在ある。すでに”現在もバラ園”であり、私が訪れたときには花期は終盤を迎えていたが遅咲きのバラがまだ多くの花をつけていた。ここにはバラだけでなく様々の園芸種も植えられており、夏咲の品種がたくさんの花を咲かせていた。写真の女性はコンパクトではない本格派の一眼レフを構え、熱心に被写体を探していた。ここでは私のカメラよりはるかに立派な一眼レフをもった女性を数多く見かけた。

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赤い靴はいていた女の子像と氷川丸

 童謡の「赤い靴」(1922年)の2番の歌詞に「よこはまの はとばから ふねにのって いじんさんに‥‥」とあるので、赤い靴を履いた少女は横浜港から外国人に連れられて旅だったのだろう。3番には「いまでは あおいめに なっちゃって‥‥」とあるので、この外国人は欧米人の可能性が高い。野口雨情は前年に「青い目の人形」を発表していて、歌詞の1番にはその人形は「アメリカうまれのセルロイド」とあるので、「青い目の人形」と「赤い靴」との関連性を指摘する声はかなりある。さらに、この赤い靴の少女にはモデルがいるという意見や、雨情は社会主義者だったので「赤」は社会主義もしくは「ソ連」の暗喩という説すらある。

 考えすぎという他はない。雨情には「七つの子」という作品がある。これも「七つ」が7羽なのか7歳なのかという論争があるらしい。通常、カラスは卵を3~5個産むので仔は最大でも5羽だろうし、カラスの寿命は20年ほどといわれているので7歳は子供ではないだろう。大体、カラスは「可愛い可愛い」とは鳴かない。カラスが鳴くのはカラスの勝手だし、大抵は「カー」とか「ギャー」と鳴く。

 童謡だけでなく歌詞一般に作者の特別な思いを見出そうとするのはさほど意味のあることではなく、聞き手が想像を膨らませてその人なりのイメージを生み出すことに意味がある。いろいろな聞き手がそれぞれに思いを抱けるのが良い歌なのであって、作者がどんなに出鱈目な人間であっても構わない。実際、雨情の「波浮の港」の歌詞は間違いだらけだが、それでも曲調に合致して伊豆大島に暮らす人々の哀愁は聞き手に十分に伝わる。波浮の港からは三原山が邪魔して夕焼けは見えないし、伊豆大島には鵜はいないにしても、だ。

 「赤い靴」は「横浜の波止場」と「異人さん」という言葉、それに本居長世(私は最初、本居宣長だと思った。多分そう考えた人は多いはず)の曲調が、少女の孤独と悲哀を聞くものに感じさせるので、名曲として伝わっているのであって、それ以上でも以下でもない。

 山下公園にある「赤い靴はいてた少女像」は「赤い靴を愛する市民の会(現在は赤い靴記念文化事業団)」が寄贈したもので、横浜の姉妹都市であるサンディエゴにも同型のものが贈られているそうだ。

 この像の少女はしっかりと海の方を見つめている。横には北米航路に使われた氷川丸が控えている。やはり、彼女を連れていった異人はアメリカ人なのだろうか。シアトル在住なのだろうか。少女の郷愁が青い目の人形として日本に戻ったのだろうか。青い目の人形は1921年、赤い靴は22年発表、氷川丸は30年就航。時間の整合性はない。

 でも、それでいいのだ。いや、これこそヨーコの原像かもしれない。

  * * *

・表題が「徘徊老人・まだ生きてます」から上記に変わりました。URLは変更なしです。

・この項のため(それ以外の理由の方が大きいが)3回、横浜を訪ねました。日にちが異なっているので写真の空模様も晴れあり曇りありです。

・横浜篇はまだ続きます。中華街、元町、港の見える丘公園本牧などは次回に登場します。

 

 










 

 

〔13〕金沢逍遥~ただし横浜市金沢区のほうです(その2)

金沢八景とその由来

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平潟湾で採った貝を洗う人

 金沢八景とは「小泉夜雨」「称名晩鐘」「乙艫(おつとも)帰帆」「洲崎晴嵐」「瀬戸秋月」「平潟落雁」「野島夕照(せきしょう)」「内川暮雪」の八つの風景をいう。17世紀末、心越禅師(中国からの亡命僧。水戸光圀に重用された)が、現在の金沢区の高台(能見台あたり)から海辺の景色を望み、かつて住んでいた中国杭州の西湖(せいこ)付近(風光明媚で世界文化遺産に登録済)を思い出させるほど美しい景観だったことから、それまでに「金沢八景」とされていた場所を上記の形に同定した。

 「~八景」は、日本に無数にあるが、そのうち、「近江八景」と「金沢八景」が白眉とされている。これは前回も記したように歌川広重の八景図がとりわけ有名だからでもあろう。両作品とも、「ヒロシゲブルー」の美しさが如何なく発揮された優れたもので、見るものを深く感動させる。

 「~八景」は金沢八景のように、「~夜雨」「~晩鐘」のごとく前半の「~」に地名を入れ、後半の「夜雨」や「晩鐘」につなげれば、ほとんどの場所で「八景」を構成することができる。たとえば私の地元では「是政帰帆」「浅間夕照」「高安晩鐘」というように。もっとも、それがヒロシゲブルーを用いたくなるほど美しい風景かどうかは別なのだが。

 この「~八景」の原点は、中国北宋時代の「瀟湘(しょうしょう)八景」にある。これは、詩人蘇東坡のお友達であった宋迪(そうてき)(11~12世紀の官僚・画家)が、現在の湖南省岳陽市、長沙市辺りの風光明媚な場所を八カ所選び、それを風景画にしたことに始まったとされている。瀟(しょう)は瀟水という湘江の支流(湘江の本流は長江)で、瀟水と湘江との合流点辺りの風景は美しく神秘的であって、古くから詩や散文などに取り上げられてきた。屈原の『楚辞』や杜甫の『登岳陽楼』はこの地が題材にされ、これらの作品は日本の教科書にも出てくる。また、中国古代の名帝の堯(ぎょう)はこの地域の出身とされ、彼の娘は湘君、湘妃という名をもつといわれている。

 ちなみに、湖南省の湖とは洞庭湖(長江の南岸にあり、湘江はこの湖に流入する)のことで、この湖の南側の地域(湖北省は湖の北側)を指す。また、湘南の湘は湘江のことで、その南側(長沙市周辺)も景勝地として名高い。日本の湘南はこれにあやかっており、元々は相模の国の南側、すなわち「相南」だったはずだ。

「称名晩鐘」で知られる称名寺は金沢北条氏の菩提寺

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境内にある美しい庭は国の史跡に指定されている

 称名寺は、金沢(かねさわ)北条氏の初代である北条実時(さねとき、1224~76)が建てた阿弥陀堂を基に、鎌倉極楽寺を開いた忍性によって真言律宗の寺となったという。歴史のある寺だけに国宝や重要文化財に指定されているものが多数あるが、私のお気に入りは、国の史跡に認定されている「阿字ヶ池」を中心とする写真の「浄土式庭園」である。今では「都立府中の森公園」が私の徘徊場所であるが、金沢区に住んでいたときは、この称名寺の庭や森が身近な散策場所だった。

 浄土式庭園というと岩手県平泉の毛越寺(もうつうじ)や京都府宇治の平等院のものがどちらも世界遺産に指定されるほど有名だが、ここの庭園はそれらに勝るとも劣らないと個人的には考えている。前二者は拝観料がかかるが、称名寺は無料なのも散策に適している点だ。気軽に行けるので、庭のもついろいろな表情に接することができるので、より魅力が深まるのだ。

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称名寺の山門はその大きさに定評がある

 私が以前に散歩していたときは、家が称名寺の西にあったために、前回紹介した赤門や写真の山門(仁王門)は通らず、西側にあるお墓の通路や金沢文庫から通じるトンネルを利用して庭園に入っていたため、しみじみと山門の金剛力士像を見上げることはなかった。両側にある力士像は1323年に造られたとのこと。ヒノキの寄せ木造りで高さは4mもあり、パンフレットによれば東日本にあるこの手の像としては最大級の大きさらしい。なるほど今回、改めて見てみると、その大きさは確かに他ではあまり見たことがない。

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朱色の反橋と平橋は称名寺庭園の象徴的存在

 山門から金堂に通じる場所には「阿字ヶ池」があり、その中央には反橋(長さ18m)と平橋(長さ17m)が架けられている。これらは1986年に復元されたもので朱の色はまだ新しさを感じる。池の西側からは池面に映る橋の影が綺麗に見られるので、私が訪れたときにも10名ほどの写真愛好家らしき人がシャッターチャンスを狙っていた。そのうちの7名は女性であり、近頃はどこに行って女流写真家の姿が目立つ。

 この日は生憎、やや風が強かったので池面はさざ波立っており、鏡面のときのような対象美を写すことはなかなかできず、大多数の人は風が収まる瞬間を辛抱強く待っていた。私といえば根が大雑把なので、先に挙げた写真で妥協した。

 寺院の建造物には「朱」がよく用いられている。これは中国の伝統を受け継いだもので、湖南省の辰州で多く採られたことで名付けられた、硫化水銀の鉱物である「辰砂」を原料としているからである。日本でも古来から産出されており、「丹」や「丹生(にゅう)」などと呼ばれ、その鉱物が多い川は「丹生川」と名付けられていて、日本各地にその名をもつ川や地名は多い。

 和歌山市に河口をもつ「紀ノ川」は奈良県に至って「吉野川」と呼ばれるが、その支流で西吉野地域を流れるものは「丹生川」と呼ばれる。また、東吉野村には旧社格官幣大社であった「丹生川上神社(中社)」もある。もちろん近くには上社や下社もあり、5年ほど前までは、吉野山へ桜見物に出掛けた際には必ず、丹生川上神社のいずれかを訪れたものだった。

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称名寺の梵鐘。「称名晩鐘」につながる

 「称名晩鐘」はこの梵鐘から700年以上、奏でられてきた。1301年に鎌倉時代を代表する鋳物師が鋳造したもの。老朽化が進み、この鐘がつかれることはなくなったそうだが、鐘楼にあって、今でも晩鐘は人々の心の中に響き渡っている。

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北側を取り巻く鬱蒼とした森は市民に安らぎを与えている

 称名寺の北側を取りまくように金沢三山があるが、この山一帯は「称名寺市民の森」として散策路が整備されている。長さは約2キロ。道は狭く高低差があるので、ここを歩くのは、散歩というよりハイキングという言葉が相応しい。私も以前は何度も歩いたが、今回は他に寄るところが多いからという勝手な理由をつけ、その登り口をのぞくだけに済ませた。

 山頂には「八角堂広場」があり、そこからの眺めは結構お勧めできるものだ。実は、この山の裏側(北側)は西柴町という住宅街になっており、こちら側から入るとかなり楽をして八角堂広場に行けることを知っているのだが、方向は異なるが同じような景色は後述する金沢自然公園からも眺められるので、裏口入場は取りやめにした。

金沢文庫」は日本最古の武家文庫

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現在の県立金沢文庫は、図書館というより歴史博物館

  称名寺は歴史好きにはよく知られているが、知名度の点では金沢文庫にはるかに及ばない。金沢文庫は北条(金沢)実時が金沢の地に隠居したとき(1275年)に創建されたらしい。実時は武将としてだけでなく文化人としても名高く、漢籍だけでなく和歌や散文などの造詣も深かった。そのため多くの典籍や和漢の書を収集・所有していた。金沢文庫は実時が隠居した際に、称名寺の隣地に多くの書物を所蔵するための書庫を造ったのがその始まりとされている。のちに、北条氏の第15代の執権となった(10日だけ)金沢(北条)貞顕がその拡充に努めた。彼もまた、文化人としても名を馳せていたのである。

 北条政権は足利尊氏によって倒され、金沢の地は足利尊氏の所領となった。が、実際にこの地を支配したのは関東管領世襲した上杉家だった。足利家と上杉家とを結びつけたのは、尊氏の生母(上杉清子)が上杉家出身であったことが大きく影響している。上杉は関東管領として鎌倉公方を補佐しただけでなく、守護大名として上野国武蔵国伊豆国を支配した。上野国(こうずけのくに)は現在の群馬県にあたり、栃木県足利市のある下野国(しもつけのくに)のとなりである。

 この上杉家から上杉憲実(のりざね)が出て、荒廃しかかった金沢文庫武蔵国久良岐郡六浦荘金沢郷)から多くの文献を持ち出し、それを足利学校の蔵書とした。憲実もまた北条実時同様、教養ある文化人でもあったのだ。かれは特に儒教に傾倒していたらしい。このブログの「渡良瀬紀行」では「足利学校を再興したのは上杉憲実」であると紹介したが、この学校の充実には金沢文庫の蔵書が相当数、貢献しているのである。

 歴史には、このような思いがけない結び付きがある。これがあるから「歴史と旅」は面白い~浅見光彦みたいだが‥‥。

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金沢文庫称名寺をつなぐトンネル

 称名寺金沢文庫との関係は、やはり「渡良瀬紀行」で取り上げた鑁阿(ばんな)寺と足利学校との関係に類似している。というより、実質的には後者の方が前者に似ているのだが。ただ、称名寺金沢文庫との地理的関係は、足利の方とは大きく異なる点がある。それが、写真に挙げた「トンネル」の存在である。

 寺は人が大勢集まるところ、あるいは政治的要素も多く持つところなので、常に火災の危険性が付きまとう。一方、文庫は紙類の集合体なので火災には極めて脆弱だ。そこで金沢北条氏は、称名寺金沢文庫とを尾根ひとつ隔てた場所に造り、その間をトンネルで結んだ。一方での火災が他方に類焼することを予防したのである。

 写真にはないが、往時のトンネルはすぐ北側に保存されている。現在のトンネルはよく整備され、その壁には8枚のプレート(写真では7枚しか写っていないが)が埋め込まれている。もちろん、ここには歌川広重の『金澤八景』の絵が複写されている。

 現在の金沢文庫は1990年に建てられた近代的な建造物で、横浜市立の「中世歴史博物館」として、様々な資料展示や講演会活動に力を注いでいる。

金沢自然公園と動物園

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自然公園から金沢文庫金沢八景の市街地を望む

 金沢区釜利谷東にある「金沢自然公園」は三浦半島のほぼ中央を南北に連なる丘陵地帯に位置するため、眺めはとても良い。横浜横須賀道路から直接に入れる駐車場(料金600円)があるので、ここには区内の施設を巡り歩く前に訪れた。午前中は曇りがちだったので、見通しは少しはっきりしてはいないものの、それでも東京湾内を行き来する船舶や房総半島までよく展望できた。ほぼ中央に写っている「八景島シーパラダイスタワー」のすぐ右にある白い建造物は、千葉県富津市にある「東京湾観音(高さ56m)」だ。

 写真にあるように、市街地には公共施設、商業施設、集合住宅や個人住宅などが密集しているが、「金沢八景」が同定された頃は入江の海か湿地帯だったはずだ。17世紀後半に永島祐伯(雅号泥亀)が干拓事業を進め、最終的にその事業が完結したのは20世紀に入ってからだ。金沢区役所は泥亀(でいき)2丁目にあり、この一帯が現在の金沢区の中心街になるが、この地名の由来は開拓者の永島泥亀にある。

 自然公園は敷地が58万平米もあり、しかも起伏に富んでいるため、散策するには十分すぎるほど広い。私は、この近くにある老人保健施設で数年間ボランティア活動をしており、自然公園の一部はその活動もあってよく利用していたので馴染みは深い。が、この園内にある動物園は利用したことがなかった。今回が初入園である。

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動物園の入口付近にある模造品たち

  金沢動物園は自然公園の敷地内にある。ただし、動物園に入るのには料金(大人500円)が必要になる。自然公園の一部にあるので敷地内も起伏に富んでる。私にとって動物園とは多摩動物公園と同義語といえるほどの存在なのだが、この金沢動物園はその縮小版といった存在のようだ。反面、多摩動物公園の賑やかさと比較してこちらのほうは見物客が少ないので、ゆったり感は金沢の圧勝である。

 希少な草食動物を中心に飼育しているので、50種310点と数はそれほど多くはない。展示ゾーンは「アメリカ区」「ユーラシア区」「オセアニア区」「アフリカ区」に分かれており、それぞれが広い飼育スペースを有している。アメリカ区ではカピバラ、ユーラシア区ではインドゾウ、タンチョウ、オセアニア区ではコアラ、オオカンガルー、アフリカ区ではクロサイオカピが印象的だった。

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角を突き合わせるクロサイ

  サイ(犀)を見ると、すぐに思い浮かべるのが『スッタニパータ』だ。小部経典(クッダカ・ニカーヤ)にあるスッタニパータ(経集)とダンマパタ(法句集)はブッダの言葉を伝える最古の仏典としてよく知られるが、中でも「犀の角のようにただ独り歩め」はあまりにも有名だ。写真のクロサイは角が2本(3本のものもある)あるが、ブッダが見たであろうインドサイは角が1本だ。またサイは単独行動を好むことで知られている。

 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。(40)中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫

 これはブッダの最後の言葉として知られている「自灯明、法灯明」(自己を拠りどころとせよ、法(ダルマ=真理)を拠りどころとせよ)にも通じている。これらは一見「独我論」に思える。が、ブッダは究極的には「無我」を真理と考えており、独り歩めというのは無明=無知からの覚醒を意味しているのだろう。ゆえに、一方で、スッタニパータではこうも述べている。

 もしも汝が、賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。(45)同上書

 この考えは孔子の思想にも通ずる。

 子曰く、君子は和して同せず、小人は同じて和せず(子路篇) 加地伸行訳『論語講談社学術文庫

 ブッダの言葉も孔子の言葉も、今風に言えば「同調圧力に負けず、理性的に行動せよ」となるのであろうか。良き思想には差異はない。サイを見てこう思った。

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インドゾウのボン。鼻は長いが牙も長い

 インドゾウ(アジアゾウの亜種)はアフリカゾウに比べると大きさも耳も小さいそうだが、私はこのゾウを見て、これはアジアゾウの仲間であるとすぐに分かった。ユーラシア区にいたからである。

 写真のボン(オス)は42歳。インドゾウは牙が短い個体が多いそうだが、このボンの牙は鼻よりも長く、国内では最長ともいわれているらしい。ヒンドゥー教の神の一人?であるガネーシャは商売の神として知られているが彼?はゾウの顔を持つ。ただし、片方の牙は折れているそうなので、金沢動物園のボンは神にはなれない。

 同居しているヨーコとは夫婦関係にあるそうだが、残念ながら繁殖には至っていない。天は二物を与えない。

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子供を抱いているオオカンガルー

 オセアニア区にはオオカンガルーがたくさんいた。うれしいことにこの動物園ではウォークスルー形式になっており、間近にカンガルーの生態を見ることができる。写真の子供を抱いたカンガルーは人を全く恐れず、写真撮影にも動じる気配はなかった。母親はただ餌を食べているだけだが、子供は何かを考えているようだった。「考える人」ではなく「カンガルーひと」のようだ。

 カンガルーとは関係がないが、ロダンの「考える人」の姿勢を取るのはとても大変だ。ブラタモリの「パリ篇」ではタモリもそう言っていた。地獄の門を覗き込む苦悩の人がテーマなので、あえて苦しい姿勢を取っているのだろうか。写真の子供のカンガルーの姿勢もかなり大変そうだ。思考には理性だけでなく身体性も伴う必要がある、ということがよく分かる。と、子供のカンガルーを見てそう考えた。

 姿勢といえば、考える際にはうつむきかげんになるが、うつむきかげんの花といえばパンジーがすぐに思い浮かぶ。この英名はパンセ(フランス語で思考の意味)からきている。ちなみに、和名の三色菫はシノニムのヴィオラトリコロールの直訳である。

瀬戸神社と琵琶島

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瀬戸神社は金沢八景駅のすぐ北側にある

  今でこそ平潟湾は水路のような狭い入り江であるが、埋立事業が行われる前はかなりの幅を有していた。さらに一段奥に泥亀新田が造られる前は、今の釜利谷から泥亀辺りにも入り江があり、 それが写真の瀬戸神社付近で平潟湾と細い海峡でつながっていた。細い海峡は速い流れを生むので、「瀬戸」と呼ばれることが多い。広島県呉市にある「音戸瀬戸」や長崎にある「平戸瀬戸」は全国的に知られている急流海峡だ。

 金沢の狭い海峡も瀬戸と呼ばれ、その近くに源頼朝が戦勝を祈願して創建したのが瀬戸神社である。ここには、源実朝が使用し、北条政子が奉納したといわれる舞楽面二面が保存され、国の重要文化財に指定されている。

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瀬戸神社の小庭園。6月はアジサイの季節だ

 この神社は国道16号線の西側にあり、南には金沢八景駅があるという賑やかな街中に位置するが、ここの境内に入ると権現造りの本殿、その横にありヤマアジサイが多く咲く小庭園、海の際だったことを示す高い崖など、ここだけは駅前の賑やかさ、国道の往来の激しさとは隔絶された時間が流れている。

 

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北条政子が創建させた琵琶島神社

 国道を挟んだ平潟湾内には「琵琶島神社」がある。これは頼朝の瀬戸神社にならい、北条政子が信仰する琵琶湖の竹生島弁財天を勧請して創建したといわれている。以前は島だったらしいが、現在は陸続きになっている。

 瀬戸といえば八景には「瀬戸秋月」があった。広重はこの辺りを描いたのだろうが、残念ながら、その面影は皆無と言って良い。

平潟湾、そして野島~思いは八景図へ

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平潟湾では今でも貝掘りが盛ん

 平潟湾は徐々に埋め立てられ、1966年に湾の南西側、今の金沢区柳町一帯の埋め立てが完了したことで今の形(長さ1000m、幅250m)になった。埋め立てのための土砂は湾内の浚渫(しゅんせつ)土によってまかなわれた。ただ夕照橋(ゆうしょうばし)周辺は浅いまま残されたので、大潮の干潮時には、以前からおこなわれていた貝掘り(潮干狩り)が今でもよくおこなわれている。広重の「平潟落雁」図には潮干狩りを楽しむ様子が描かれている。周囲の景色は往時と全く異なるものの、貝を掘る人々の動きには共通するものがある。

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潮干狩りが展開される野島海岸の賑わい

 「野島夕照」で知られる野島海岸は金沢区では唯一、自然のままの海岸線が残っている。ここでは平潟湾以上の人々が貝掘りに専念していた。これは平日の風景なので休日にはもっと多くの人が訪れる。平潟湾と異なるのは砂の色で、こちらのほうがより灰色に近い。また海の香りが強い。平潟湾は大海に通じる水路が細いので海水の入れ替えが少ない。また、住宅地から流れ込む川が幾筋もあるので汚染される程度が高い。

 この点、野島海岸は直接、大海に開かれているし、波によって砂が撹拌される機会が多いので、汚染物が希薄化されるからだろう。野島海岸で海の香りを感じたのは、写真でも分かる通りアオサ(青ノリの一種)が繁茂しているせいでもある。海の香りというより、ノリの香りといったほうが妥当かもしれない。

 シーサイドラインの先に見える森は称名寺市民の森。その先の高層マンション群は旧跡能県堂周辺の山を削り取って造成された新興住宅地のものだ。冒頭に挙げた心越禅師は、あのマンションの屋上辺りの高台からこの野島方向を望み、「金沢八景」を同定したのだ。

 ところで、「能見台」の山を削ってできた残土はどこに行ったのだろうか。それは、前回に取り上げた「金沢地先埋立地」=福浦埋立地八景島の造成に用いられたのだった。

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野島にある伊藤博文の旧別邸

 1886年、伊藤博文は平潟湾沖にある夏島(現在は横須賀市夏島町)に別邸を建てた。この無人島だった夏島が全国的に知られるようになったのは、ここで伊藤博文井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人が「合宿」をして大日本帝国憲法の草案(1887年)を作成したからである。「夏島草案」とか「夏島憲法」などと言われるものだ。その後、草案は修正され、1888~89年に枢密院で審議され、同年発布、90年に施行された。

 伊藤博文はこの金沢の地をよほど気に入ったのか、1898年には野島にも別邸を建てている。写真の建物がそれである。大正天皇もここを訪れたことがあるそうだ。入館も含め、庭園にも無料で入ることができる。ひとつ前の写真(野島海岸の風景)は、この庭園付近から写したものだ。周囲の建造物こそ異なるが、称名寺の森の姿はほとんどこのまま、伊藤博文が目にしたはずだ。

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今様「乙艫帰帆」

 野島は太平洋戦争前までは陸続きの島(砂州によってつながれた陸繋島)だった。が、戦争中に島の要塞化が進み、併せて横須賀側の埋立地にあった海軍施設とを結ぶ道路が建設されたため野島水路(平潟湾と東京湾をつなぐ)は船の行き来が不能となった。そこで島の北西側に掘られたのが野島運河だ。このため、野島は陸続きではなくなった(橋で結ばれている。現在は野島橋と夕照橋の2本ある)。

 現在の野島は東側が野島町、西側が乙舳(おつとも)町になっている。この乙舳は乙艫を「簡略化」したものだ。が、厳密には意味が異なり、”舳”は「みよし」つまり船首、”艫”は船尾のことである。

 運河によって旧乙艫は分かれたようで、陸側にある金沢漁港の野島向きには「乙舳公園」がある。写真は、遊漁船が東京湾から野島運河内にある船着き場(乙舳町にある)に帰港するところを公園側から撮影したものだ。写真にはないが、この右手奥に野島山がある。

 乙舳に帰る船なので、現代版「乙艫帰帆」を撮影してみた。実際は、乙舳公園で休憩中に偶然、遊漁船が運河に帰ってきたのであわてて撮影をしたという訳なのだが。

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野島(につながる)夕照(橋)

 「日本にある橋でもっとも好きなのは?」と聞かれたら、私が文句なく第一位に挙げるのがこの「夕照(ゆうしょう)橋」である。「是政橋」でも「横浜ベイブリッジ」でも「瀬戸大橋」でも「来島海峡大橋」でもなく、この橋だ。橋の白と野島山(標高57m)の緑とのコントラストが絶妙なのだ。

 ”夕照橋”の名は、もちろん「野島夕照(せきしょう)」に由来する。唯一の不満は「せきしょう」とは読ませないことだ。「ゆうしょう」では湯桶読みなるが、これは仕方がないとしても、由緒ある名称なので「せきしょう」と素直に読みたいものだ。

 撮影時間は午後4時頃だが、夕方まで粘れば夕陽に映える橋と山と海面とを撮影することができる。金沢区に住んでいたときにはよく夕方に出掛けて撮影したものだった。雑誌にも、見開きのカラーページでそれを紹介したことがある。このときはブローニー版のリバーサルフィルムを使った。あの6×6カメラはどこにいったのだろうか?

 建造物も見る角度も異なるが、この景色は広重の八景図にもっとも近いと思っている。「野島夕照」図には夕照橋はない。その代わりに「夏島」や今は無き「烏帽子岩」がある。それでも、野島山の形や家並みはどことなく広重の絵をイメージさせる。

   * * *

 金沢区を巡る旅は終わった。散策と写真撮影のために金沢へは3回出掛けた。金沢区の埋め立て事業の変遷を書物や地図で調べ、それを確認するために現地を歩いたこともあった。

 金沢区周辺には特別に高い山はないものの平地は少なく、開発には困難を極めた。このことはJR横須賀線の路線を見るとよくわかる。横須賀線の開通は1889年であるが、横浜を出た横須賀線は南下せず、磯子区金沢区を避けて、戸塚方向に進んでいる。そして大船を経て鎌倉、逗子へ、それから東進して三浦半島を横切り横須賀に至るのである。明らかに、磯子区金沢区の起伏に富んだ地形を避けたルートに線路は敷かれているのだ。横須賀線が開通した結果、金沢周辺の海から人気(ひとけ)は途絶え、鎌倉や逗子、葉山の海へ人々は出掛けるようになった。

 横須賀線が開通したころ、金沢に出掛けるには、横浜からは細い山道を通り、13もの峠を越える必要があった。また、鎌倉から金沢に抜けるためには「朝比奈切通し」を進まねばならなかったのだ。それで、一般の人には横須賀から船で行くことを勧められた。そうまでして金沢に行く人はあまりいなかったようだ。

 湘南電鉄(京浜急行の前身のひとつ)が、金沢を通り浦賀に至る路線を開通させたのは1930年だった。当時、この線路を1キロ建設するには46万円かかったそうだ。一方、同時期、小田急江ノ島線を建設するには1キロ25万円だったそうで、磯子や金沢の地形を克服するのには通常の約2倍の費用が必要だったのである。

 鉄道が開通した結果、人々の利便性は高まったが、その一方で、海岸線の埋め立てが進み、大規模な工場が林立した。先述したように、自然の海岸線が残ったのは野島の一部だけになってしまったのだ。開発という美名のもとで失ったものは大きい。

 何事も、「いいとこ取り」はできない。それは、自然環境だけでなく、人生もまた同じなのだろう。

 

***追記*** 親友から、タイトルがあまりにも不評だったので、このたび変更しました。 6月22日変更