徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔番外編〕春を探して花季行(2)

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「華やかな魅力」が花言葉ラナンキュラス

 新型コロナの影響は近所にある市立図書館にまで及び、本を借りることができるのはネット予約のみで、館内閲覧での本探しは不可能になってしまった。本とのめぐり逢いは人との邂逅と同じような大きな喜びがあるので、ネットでの本探しは実に味気ない。ただでさえ読書量は少ないのに、本との本当の出会いの場が大きく失われたため、いよいよ読書時間はめっきり減ってしまった。代わりに増えたのはテレビのニュースチェックとスマホやPCでのゲーム時間。それに、日中の徘徊。今時分は春の花が続々と開花するので、雨の日以外は毎日のように花探しに出掛けている。とはいえ毎度、カメラ持参で出掛けているわけではないので、いい感じの撮影機会をずいぶんと逃しているのは残念だが事実だ。

 今回も前回に引き続き、近隣で見つけた春の花を紹介してみた。私が自動車免許を取って初めて運転したのは新型ブルーバード。以後、十数年間は「技術の日産」ファンを続けたので、トヨタの新型コロナにはまったく魅力を感じず、ブルーバードを4台ほど乗り継いだ。それが祟ったのか(もちろんそんなものはまったく信じていないのだが)、今になって「新型コロナ」に行く手を大きく阻まれている。それもあって、しばらくは素敵な本との思いがけない遭遇の機会は減少し、反面、大好きな春の花との「濃厚接触」の場面が増大しているという次第なのだ。これも、いいのだ。

アカバミツマタ(赤花三椏、ベニバナミツマタ

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ミツマタの園芸種であるアカバミツマタ

 ジンチョウゲミツマタ属の落葉性低木。枝は必ず三つに分かれるところから「三又」と名付けられたようだ。花は写真のようにかなり美しいが、有名なのは紙幣の原料に用いられていること。樹皮は強い繊維質を有しているので、強度がなによりも重要な紙幣の素材に使われている。

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花弁のように見えるが、実はガク

 筒状の花の集合体のように見えるが、実は花弁はなく、花びら状のものはガクの先端部が4つに裂けているためだ。「花」には適度に良い香りがあり、こうして接近して撮影すると気分爽やかになる。

ミツマタ(三椏)

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こちらはミツマタの原種

 ミツマタは中国原産の低木で高さは2mほど。写真からも分かる通り、たしかに枝は三つに分枝している。

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「花」はうつむき加減に咲く

 原種のミツマタの「花先」はほんのりと黄色くなり、こちらのほうが清楚な感じがする。切り花としても人気がある。花期が終わると枝には葉が茂るようになる。

トサミズキ(土佐水木)

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垂れ下がるように咲くトサミズキの花

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咲き始めたばかりのトサミズキ

 マンサク科トサミズキ属の落葉性低木。名前から分かるように四国原産である。葉に先立って枝からは紅色の花芽ができて、それから黄色の花が5から7個ほど垂れ下がるように(穂状花序)咲く。通常、樹高は2~4mほどだが、矮性の園芸種もあり盆栽によく用いられる。

ハクモクレン(白木蓮

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ハクモクレンモクレンの仲間では最も背が高くなる

 モクレンモクレン属の落葉広葉樹。通常、モクレンとは紫色の花をもつ「シモクレン」を指し、写真のように白い花を付け、10m以上の高さになるモクレンを「ハクモクレン」と呼んで区別する。本種はシモクレンに比べて半月ほど早く咲くため、3月中旬ではシモクレンの開花は発見できず、すべてハクモクレンだった。

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ハクモクレンの花。花弁は6から9枚ある

 ハクモクレンの花びらは6から9枚あり、さらに同じような大きさのガクも3枚ある。花は天上に向いて咲き、花弁は完全には開かない。なお、モクレンの仲間を「マグノリア」と呼ぶ自称”専門家”がいるが、これはモクレンの仲間をラテン語でMagnoliaと言うことに由来する。

コブシ(辛夷

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マグノリアの仲間のコブシ

 モクレンモクレン属(マグノリア)の落葉広葉樹。10m以上の高木になるが、ときおり、街路樹などにも用いられているのを見かける。さぞかし剪定が大変だと思われる。写真からも分かるように、先に挙げたハクモクレンと類似しており、コブシをハクモクレン(あるいはその逆)と勘違いする人も多い。早春、両者はほぼ同時に咲き、似たような(同属なので当たり前だが)花を付けるので混同しやすい。

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ハクモクレンは上方に、コブシは四方八方に咲く

 コブシとハクモクレンの違いは簡単に分かる。ハクモクレンの花は天に向かって咲くが、コブシは写真からも分かるように規則性がない。ハクモクレンの花弁はやや厚みがあるが、コブシの花弁はやや薄い。ハクモクレンは葉が出る前に咲くが、コブシは花の下に一枚の葉を出す。これさえ覚えておけば区別はすぐにつく。

 北国の春に、丘の上で白い花を付ける高木があればそれはハクモクレンではなくコブシである。千昌夫は、拳を振りながらこぶしたっぷりにそう唄っている。

 コブシは日本原産で、学名は”Magnolia kobus” である”。種名のkobusの語源は「こぶ」であるが、コブシの「こぶ」は何を指し示すのかは特定されていない。

オオカンザクラ(大寒桜)

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オオカンザクラは早咲きの桜

 オオカンザクラはカンヒザクラオオシマザクラの交配種。カンヒザクラの花は前回、写真に挙げたように紅色が濃く、下方に向いて咲く。オオシマザクラは白い花を付け、可食できるサクランボを実らせる。本種は花にやや赤みがあり、カンヒザクラの特徴をよく受け継いでいる木はかなり赤い花を付けるが、写真のものは色づきは普通である。

 桜並木といえばヨメイヨシノが定番だが、本種はそれよりも1,2週間ほど早く咲くため、見物客を早めに集めたい町ではその資源として本種を街路に植えているが、近年では、早咲きの桜といえばカワヅザクラがつとに有名になってしまった。

レンギョウ

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八分咲きのレンギョウ

 モクセイ科レンギョウ属の落葉性低木。公園や街路で3から5月にかけて咲いている姿をよく見かける。写真はまだ花と花の間には隙間があるが、満開になるとすべての枝にびっしりと花弁が付く。

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4枚の花弁は下向きに開く

 半つる性の枝を数多く有しており、大きく育ったレンギョウは枝が2,3mも垂れ下がることがある。原種の種小名は"suspensa"といい、これは垂れ下がるという意味をもつ。英語のサスペンションは「つるすこと」を意味し、ズボンを吊るすのはサスペンダー、タイヤを吊るすのはサスペンション(懸架装置)。

 私がよく散策する野川の土手にはこのレンギョウが多く植えられており、土手上から流れに向かって大きく垂れ下がった枝に無数の花を付けた姿は見事である。

ウンナンオウバイ雲南黄梅、オウバイモドキ)

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名前の通り中国が原産地

 モクセイ科ジャスミン属のツル性の低木。公園や庭園、庭木などによく用いられる。中国が原産地で、明治初期に日本に導入された。

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花は一重咲きが普通だが八重咲もある

 写真の花は一重咲き。八重咲のものもあるが、今回の徘徊では見つけることはできなかった。

モカタバミ(芋片喰)

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雑草扱いだが群生時はなかなか美しい

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草南アメリカ原産で、日本にはアジア・太平洋戦争後に輸入された。当初は園芸種扱いだったが繁殖力が旺盛のため各地に生育するようになり、現在ではほぼ雑草扱いになっている。花は3月から咲き始め夏場はいったん枯れるものの秋にまた咲き出す。

オオキバナカタバミ(キイロハナカタバミ

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このカタバミ帰化植物

 カタバミ科カタバミ属の球根性多年草。こちらは南アフリカ原産で日本には19世紀末に移入された。現在では日本各地に帰化し、やはりイモカタバミ同様、すっかり野生化している。花期は3~5月で、雑草扱いするにはもったいないほど美しい花を咲かせる。地下深くに鱗茎が残るため、いざ駆除しようとするととても苦労する。花言葉は「決してあなたを捨てません」だが、実際には「決してあなたは捨てられません」というのが現実。なお、葉っぱには紫褐色の斑点が入るので、花がないときでも他のカタバミとは区別可能だ。

ハルジオン(春紫苑、貧乏草)

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雑草の王様、ハルジオン

 キク科ムカシヨモギ属の多年草。”ぺんぺん草”と並び立つ雑草中の雑草で、別名は貧乏草。誰もが目にする花だが誰も見向きもしない。花期は3~6月とかなり長い。漢字名だけ見るととても素敵な花だと思われるが。北アメリカ原産で、意外なことに江戸末期、観賞用植物として日本に移入された。繁殖力が旺盛なため、駆除には多大な苦労を強いられる。

シロツメクサ白詰草、クローバー)

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詰草は緩衝材として移入された

 マメ科シャジクソウ属の多年草。江戸時代、オランダから輸入されるギヤマン(ガラス製品)の緩衝材として用いられたことから詰草と呼ばれるようになった。写真のものは詰草の中ではもっとも一般的なもので、白い花をつけることからシロツメクサと呼ばれる。日本では英名の「クローバー」と呼ばれることが多い。属名のシャジクソウ(トリフォリウム、Trifolium)は「三つ葉」を意味する。

 クローバーといえば三つ葉だが、誰もが探した(探させられた)ように稀に「四つ葉」がある。が、”四”は日本では「死」を意味するので不吉な数字だとされるが、なぜ彼の地では「四つ葉」が幸運のシンボルなのだろうか?「四」は「4福音書」、四つ葉は十字架に見えるからなどの説があるようだ。ならば、「三」は「三位一体」に通じるのではないか、と思うのだが。ともあれ、クローバーには五つ葉以上のものもあり、最大では56葉が発見されておりギネス記録に認定されているらしい。

ハナニラ花韮ベツレヘムの星)

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日差しを浴びると花はよく開く

 ヒガンバナ科ハナニラ属の球根植物。アルゼンチン原産で、明治期に観賞用植物として輸入された。ネギ亜科の植物なのでニラのような匂いを有することからハナニラと呼ばれている。ただし、葉や球根を傷付けない限り匂いを発することはない。繁殖力が旺盛で現在では多くが野生化し、春には日当たりの良い野原の至るところで見ることができる。春の花期にだけ地上に姿を現わし、花期が終わると地下で眠りにつく。花色は白から紫色まで多数ある。

スノーフレーク(スズランスイセン、オオマツユキソウ)

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スズランに似た花を咲かせる

 ヒガンバナ科スノーフレーク属の球根植物。標準和名は”オオマツユキソウ”だがスノーフレークまたはスズランスイセン(鈴蘭水仙)の名のほうが通りが良い。スズランのような花を付けるがスズランではなく、スイセンのような葉を有するがスイセンではない。

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花先にある緑色の斑点が特徴的

 秋に球根を植えると2月初めに葉を伸ばし始め、3月初旬に少しずつ花を付け始める。写真から分かる通り、花びらの先に現われる緑色の斑点が可憐さを際立たせている。

ラナンキュラス(ハナキンポウゲ)

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多重の花びらを有する華麗な花

 キンポウゲ科キンポウゲ属の球根植物。標準和名はハナキンポウゲ(花金鳳花)だが、学名のラナンキュラス(Ranunculus=キンポウゲ)で園芸の世界では通用している。私が園芸にはまっていた頃はさほどその存在は認知されていなかったが、花色が増え、その絢爛豪華な花弁を有することから近年では急激に人気が高まり、園芸界だけではなく切り花の世界でもよく用いられている。

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ラナンキュラスは改良品種がどんどん増えている

 本項のトップの写真もラナンキュラスである。花色はとても多彩で、毎年のように改良品種が出回る。まさに、キンポウゲ属(ラナンキュラス)を代表する花にまで上りつめたようだ。ところで、ラナンキュラスとは「カエル」を意味する。キンポウゲの花は元来、湿った場所を好むためにそう名付けられたようだが、園芸種である本種では多湿は好まず、水はけをよくしないと根腐れを起こす。そういえば、カエルにも乾燥系のものがいる。

カタクリ(片栗)

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ひとつの花だけでも見る価値があるカタクリ

 ユリ科カタクリ属の球根植物。日本でよく見られるカタクリの学名はエリスロニウム・ジャポニカム(Erythronium japonicum)と言うが、属名のエリスロニウムは「赤」を意味する。原産地のヨーロッパでは赤い花を付けるからのようだが、日本で通常みられるのは写真のような淡い紫色のものが大半だ。なお英名は「Dog tooth violet」という。これは花の形に由来する。

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開花前のカタクリ

 カタクリはひとつの花だけでも可憐で慈しみたくなるが、群生した様子はまた別の感動を呼ぶ。写真は3月16日に武蔵村山市の「かたくりの里」(野山北公園)で撮影したものだが、まだまだ開花はあまり進んでおらず、上の写真のような蕾状態のものも多くはなかった。3月末頃が見頃かも。

 カタクリの群生地は人気観光スポットになっている。私がよく出かけるのは上記の「かたくりの里」のほか、埼玉県小川町の「かたくりとニリンソウの里」である。東京では神代植物園(調布市)や京王百花園(日野市)、長沼公園(八王子市)、清水山の森(練馬区)などがよく知られている。また船下りで有名な埼玉県長瀞町には「長瀞かたくりの郷」があり、ここは関東最大の群生地がうたい文句だ。

イベリス(トキワナズナ、マガリバナ)

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育てやすく見栄えも良い人気種

 アブラナ科ガリバナ属の多年草。名前はイベリア(スペイン)に由来する。中国名はマガリバナ(屈曲花)である。これは花が太陽に向かって咲くからだとされている。一年草となる改良園芸品種も多いが、個人的には写真の”イベリス・センペルビレンス”が育てやすく、清楚な感じがして見栄えも良いので好みだ。

ハナモモ(花桃

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食べるためではなく鑑賞用に作出されたモモ

  バラ科スモモ属の落葉性高木。食用の桃の花はかなり美しいが、写真のハナモモは鑑賞用に改良されたもので、極めて花付きが良く見栄えも良い。これは江戸時代に改良された品種のようで、以来、そのままの形が受け継がれている。花の色は桃色が一番多いが白、赤、紅白などもあり、いずれも写真のものと同じように枝は花だらけになる。花期はソメイヨシノとほぼ同期で、最盛期には双方が美しさを競い合っている。

タネツケバナ(種漬花)

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存在感が薄い雑草

 アブラナ科タネツケバナ属の一年草(越年するものもある)。湿地に多く生育するとされているが、繁殖力が旺盛なので乾燥気味の土地にも繁茂する。写真のように白い花を小さく咲かせるだけなので存在感は極めて薄いが、この花を探す気になればどこでも見つけることができる。この小さな花を路傍で早春に見出したとき、私は春の到来を感じる。その点で、私にとっては重要な存在なのだ。

オランダミミナグサ(阿蘭陀耳菜草)

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存在感の無さはタネツケバナと双璧

 ナデシコ科ミミナグサ科の一年草(越年するものもある)。道端のどこにでも存在する雑草だが、極めて地味な感じの草花なので誰も見向きもしない。この点では前に挙げたタネツケバナといい勝負だ。ヨーロッパ原産の帰化植物(明治末期に移入)なので”オランダ”の名が付されている。写真は開花前だが、5つの白い花弁を開いたとしても、存在感の薄さに変化は生じない。草の全身が軟毛と腺毛に覆われているのが少しだけ特徴的だ。こんな雑草だけれど、私にとっては春の到来を感じさせてくれる重要な草花のひとつである。

シバザクラ(芝桜)

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今や「観光花」では一番人気となったシバザクラ

 ハナシノブ科フロックス属の常緑性多年草。花の形から「桜」、匍匐性から「芝」の特徴を有しているので「シバザクラ」と名付けられた。以前からグランドカバー用の植物に用いられていたが、いつしか、広大な土地をキャンバス(カンバス)として、白、赤、紫、桃、淡桃と豊富な花色を利用して「花の絨毯」をデザインする手法が人気となり、現在では日本各地に「シバザクラの丘」が設けられ、春の一大イベントとして催行されている。埼玉県秩父市羊山公園の「芝桜の丘」、千葉県の「東京ドイツ村」、山梨県富士河口湖町の「富士芝桜まつり」などは相当に賑わう。

ナデシコ(撫子、ダイアンサス)

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ダイアンサスの名で流通することが多いナデシコ

 ナデシコ科ダイアンサス属の多年草。日本固有の種(カワラナデシコなど)もあるが、現在では改良品種が数多く出回っている。ダイアンサス属(ナデシコ属)には300種ほどの花があるが、この中にはカーネーションも含まれる。ただし、園芸の世界ではカーネーションは”ダイアンサス”とは呼ばない風習?があるようだ。

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「撫でし子」の語感に相応しい清楚な花色

 花色だけでなく姿形も様々だ。今回は見つけられなかった(園芸店に行けば簡単に見つかる)が、一重咲きだけでなく、八重咲のものも多い。ナデシコの八重咲と言えば、多くの人は芭蕉の次の句を思い浮かべるだろう。

 かさねとは 八重撫子の 名なるべし

 『おくのほそ道』では芭蕉随行者である曾良の作として紹介されているが、曾良の日記にはこの作品についてまったく触れていないため、実は芭蕉の作品である蓋然性が高いと判断されている。那須野原で出会った小さな女の子の名が「かさね」だったのだ。私は予備校講師を十数年勤めていたが、ある年の夏期講習の集中講義(世界史)を受け持っていたとき「かさね」という名の女子高生が受講していたことを記憶している。「かさね」という名に実際に出会ったのはその一度限りである。命名者はおそらく『おくのほそ道』からその名を拝借したのだろう。まさか、三遊亭円朝の怪談噺『真景累ヶ淵』(しんけいかさねがふち)から採ったのではあるまい。

ネモフィラ(瑠璃唐草)

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澄んだ青色が魅力の一年草

 ムラサキ科ルリカラクサ属の一年草。北米西部原産。かつては寄せ植えの前景部に用いられることが多かった花で、認知度はそれほど高くはなかった。しかし、茨城県ひたちなか市にある「国営ひたち海浜公園」の群生がメディアに乗るやいなや、その澄んだブルーが丘を覆い尽くす姿に人々は魅了され、たちまち人気種となった。私も一度、開花期にその公園を訪れたことがあるが、ブルーのカーペット以上に見物客のはしゃぎ様に驚かされた。まだSNSなるものが話題になる以前のことだ。さぞかし、今は非道いことになっているだろう。

 写真のネモフィラは”ネモフィラ・メンジェシー”という普及種(海浜公園も大半はこの品種)だが、個人的には”ネモフィラ・マクラータ”という白地に紺色のスポットが入ったものが好みだった。今回、あちこちの庭先や家の前に置かれているプランターなどで開花したネモフィラを見ることができたが、すべて”メンジェシー”だった。「ひたち海浜公園」恐るべし、である。

アネモネ(牡丹一華、花一華)

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知名度は高いが、意外にもあまり見掛けなかった

 キンポウゲ科イチリンソウ属の球根性多年草。誰でもその名前はよく知っている花であるが、今回、あちこち徘徊してみたが実際にはなかなか見つけることができなかった。写真は八重咲のものであるが、一重咲きで白、赤の花色のものが個人的には好みなのだが、園芸店以外では見出すことはできなかった。"Anemone coronaria"(アネモネ・コロナリア)が学名で、とくに赤色の花は、中心部が「コロナ」のように輝いているのを見て取れる。このため時節柄、今季は大半の人がアネモネの育成を自粛したのかもしれない。花には何の責任もないのだが。

〔番外編〕春を探して花季行(1)

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春の「雑草」の代表格、ホトケノザ

 私にとって春の到来を実感するのは「爽やかな風」でも「温かい陽光」でもなく、路傍で、あるいは公園や空き地でホトケノザヒメオドリコソウオオイヌノフグリカラスノエンドウなどの花を見出したときだ。ガーデニングブームが安定的に継続しているので、厳冬期でも至るところで園芸種のパンジープリムラクリスマスローズサクラソウなどの花を見出すことは多い。もちろん、これらの花々も私の好みであるし、以前には大切に育てていたことはあるが、それはあくまでルーティン内のことであり、初冬から始まるガーデニングファンの恒例行事に過ぎない。

 3月に入り、新しい交換レンズを2本購入した。1本はやや性能の良い標準ズーム(35ミリ換算で24~120ミリ)だが、もう1本は35ミリ換算で90ミリのマクロ(接写)レンズ。この2本のレンズの性能を確かめるには春の花を試写するのが良いと考え、春の花を探しに近隣を徘徊してみた。野草(雑草)から山野草、それに園芸種、木々の花を見つけては撮影してみた。今季は春の訪れが早く暖かい日が多い反面、雨降りも多いためか園芸種は意外にダメージを多く受けている。一方、野草(雑草)は花付きは早く、梅や桜、沈丁花など木々の花も1、2週間ほど開花が早まっている。

 レンズは想像していたよりも性能はかなり良いようだ。しかし問題は、撮影技術と撮影に対する心構えである。私には芸術的センスが皆無なので、花の美しさを引き出す能力はない。また、花の接写は「忍耐力」が勝負(光の差し方や風の強弱)なのだが、私の辞書には「我慢」というものがないので、適度な条件が揃えばさっさと撮影を切り上げてしまう。それでも、ある程度の画像を得ることができたとするならば、それはレンズの性能と、それ以上に花たちの微笑みのお陰である。

 春の花たちが一番華やぐのは3月下旬から4月中旬である。今回は3月6、7日の撮影だ。まだまだ役者は出揃ってはいない。本項は第一弾ということで、この両日に見出すことができた早春に咲く花たちのほんの一部の表情に過ぎない。

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河津桜とその花の蜜を求めてやってきたヒヨドリ

 花に誘われるのは私だけでなく、鳥たちも同じようで花の蜜を求めて河津桜の元にやってきた。人は花を愛で、心の滋養を満たすだけだが、ヒヨドリは5月からの繁殖期に備えるために栄養分を盛んに摂取していた。

プリムラ・ポリアンサ(ポリアンタ、ジュリアン)

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春の園芸種の代表格「プリムラ・ポリアンサ

 プリムラ・ポリアンサは私が以前「花人」だったころにもっとも多く育てていた園芸種。サクラソウプリムラ属。色鮮やかなものが多いが、寒さや雨に弱いために色落ちが激しい、根腐れが起こりやすいという欠点があった。日当たりが良く、かつ雨に当たりにくい場所に植え、花柄摘み(咲き終わった花柄を撤去すること)を丁寧におこなうことが重要だった。プリムラは「プライム」の意味で、春一番に咲く花のこと。ポリアンサは「多い」という意味で、花をたくさんつけることによる。改良小型種は「ジュリアン」の名で呼ばれていたが、現在ではポリアンサとジュリアンの区別はなくなっているようだ。

オオイヌノフグリ

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残念な名前の代表格、オオイヌノフグリ

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オオイヌノフグリの群生

 オオバコ科クワガタソウ属のいわゆる雑草。花は小さいが群生するとかなり美しい。残念な名前の代表格で、「イヌノフグリ」は「犬の陰嚢」のこと。種子の形がそれに似ているのでこう名付けられた。花には何の責任はなく、名は体を表さず、いつも可憐に咲く。存在は名に先立っている。春先にこの花を見つけると、私は実存主義者になり、キルケゴールを読みたくなる。そして彼の本を手にし、いつも同じページを反復している。実に、死に至る病なのだ。

ヒメオドリコソウ

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路傍や荒れ地に多く咲くヒメオドリコソウ

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ヒメオドリコソウの群生

 シソ科オドリコソウ属のいわゆる雑草。明治以降に帰化した外来種だが、今では至るところで見ることができる。大型種はオドリコソウといい、これは見ごたえがあるので自然公園などによく管理栽培されているが、小型種の「姫踊子草」は完全に雑草扱いで、道端に咲いていても大半は踏みつけられる。

ナズナ(ぺんぺん草、貧乏草)

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春の七草のひとつである「ぺんぺん草」

 アブラナ科ナズナ属。春の七草ナズナは本種を指す。食用になるのは若葉だが、特徴的なのは三味線のバチに似た形をしている種子。これを少し裂いて茎全体を軽く振ると 「良い」音がするので、子供の頃はこれでよく遊んだ。種子の形から「ぺんぺん草」と呼ばれ、一般にはこの名のほうがよく通じる。先端部に花を付けてはそれが種子になり、またその先端部には花を付ける。これを何度も繰り返して背丈を伸ばす。これを「無限花序」と言う。なお、荒れ地に群生するために「貧乏草」とも呼ばれる。私のような極貧家では「ぺんぺん草」も生えないが、代わって近縁種の「タネツケバナ」はよく茂っている。

ノボロギク(野襤褸菊、サワギク)

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誰も見向きもしない「ボロギク」

 キク科キオン属の雑草。これこそ正真正銘の雑草で、これを目に留める人はまずいない。写真にあるように種子は冠毛をつけるので僅かだけ人目に触れるかもしれない。花も華麗なところはひとつもなく、茎は無駄に強度があり根もよく張るので引き抜くのに苦労する。畑では有害植物の代表格。こうした「無駄」だけの存在感を有する植物も私の好みのひとつだ。

ホトケノザ(仏の座)

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春の七草ではない「ホトケノザ

 シソ科オドリコソウ属の雑草で、ヒメオドリコソウによく似ている。春の七草にあるホトケノザは「コオニタビラコ」のことで、標準和名のホトケノザは本種を指すので紛らわしい。この本当のホトケノザはとくに有害ということではないようなので間違えて食しても大丈夫とのこと。実際、若草を食する人がいるらしい。写真から分かると思うが、小さいがかなり目立つ花を有しているので、 群生している様子はなかなか見事だ。

ツルニチニチソウ(ビンカ・ミノール)

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ツル性の多年草の本種はグランドカバーによく用いられる

 キョウチクトウ科ツルニチニチソウ属のツル性の植物で、雑草除けのためにグランドカバーの草として用いられることが多い。名前から分かる通り、夏の花の代表格である「日々草」の仲間である。

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花を見ると日々草の仲間であることがよく分かる

 花は写真のように紫色のものが多いが、白色のものもときおり見かける。なお、キョウチクトウの仲間は葉に「アルカロイド」を含むものが多く有毒であり、本種も例にもれない。くれぐれも食さないように。

ヒイラギナンテン(柊南天

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常緑低木の本種も春に花を付ける

  メギ科メギ属の常緑低木で、春に花を付ける。葉は緑色が通常だが、日照や気温など環境の変化によって色変わりする。写真の木は自宅の近くにある府中市中央図書館敷地内の北側にあるもので、周囲にある木々も一斉に花を咲かせていた。

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小さな花だが数が多いのでよく目立つ

 花のひとつひとつはとても小さいが、写真のように数多く咲くのでなかなか見ごたえはある。とはいえ、この花に注目する人はほとんどいないようだが。

オオアラセイトウ(ムラサキハナナ、ショカツサイ、ハナダイコン

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群生すると見事なオオアラセイトウ

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オオアラセイトウの群生

 アブラナ科オオアラセイトウ属で、江戸時代の末期に日本に入ったとされている。異名が多く、花好きは「ムラサキハナナ」と呼ぶが、なぜか年配者は「ショカツサイ」や「ハナダイコン」と言う場合が多い。背丈は案外高くなり、一株にはたくさんの花を付けるため群生すると見事だ。繁殖力が強いため、野原や空き地に数株あると翌年は群生するようになる。

ハボタン(ハナキャベツ

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春先には茎が伸びるために興味深い

 アブラナ科アブラナ属で、花は先端部に小さく咲くが、通常は花期(4,5月)の前に処分される。花の少ない冬場に植えられ、縮れた多数の葉がボタンの花のようにみえることから花壇やプランターで育てている場面を案外見掛ける。また、冬場の寄せ植えの中心部に用いられる場合が多く、写真のように前景にはパンジーが使用されるのがほとんどだ。春先には写真のように茎が伸びて冬場とは違った姿に変貌するので、3、4月まで鑑賞用植物としてなんとか生き残る。キャベツの仲間でありながら結球せず、近年は「青汁」の素材として用いられるケールの同属であり、このハボタンはその改良種といわれている。

アブラナ(菜の花)

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菜の花はアブラナの花の総称

 アブラナ科アブラナ属の花の総称が「菜の花」で、観賞用の菜の花としては通常、「チリメンハクサイ」が用いられる。しかし、食材に用いられる白菜や青梗菜もそのまま畑に放置されると写真と同じような花を付ける。菜っ葉の花が菜の花と思えば良く、それ以上でも以下でもない。

ラッパスイセン

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小型種でも群生すると見ごたえがある

 ヒガンバナ科スイセン属の花で、二ホンスイセンとセイヨウスイセンに大別される。または花の中央にある副花冠が短いものをスイセン、長く突き出ているものをラッパスイセンと呼ぶ。越前水仙やそれを導入した伊豆半島の爪木崎水仙は12月から2月頃が見頃だが、写真のようなラッパスイセンは早春の花として今が見頃だ。

 スイセンの学名は「ナルキッソス」であることはよく知られている。森の妖精(ニンフ)の一人エコーはお喋り好きであったためにゼウスの怒りを買い自分からは声を発することができなくなり、ただ他人の言葉を繰り返すことができるだけとなってしまった。ある日、エコーは美少年のナルキッソスと出会い一目惚れをしてしまった。しかし、エコーはナルキッソスに話しかけることはできず、ただ、彼の言葉をオウム返しすることしかできなかった。このためエコーの気持ちは通じず、彼女は 悲しみのあまり肉体を失い、声だけの存在(木霊=こだま)になってしまった。こうしたナルキッソスの態度に怒った神は彼に自らしか愛せない(ナルシシスト、ナルシスト)という罪を与えた。このため、ナルキッソスは池の水面に映る自分の姿だけを愛し、その姿に触れようとして池に落ちて死んでしまった。その後、神は彼に許しを与え、ナルキッソスは池の傍らに咲くスイセンの姿になって蘇った。スイセンがうつむき加減に咲くのは、水面に映る自分の姿を見るためである。

サクラソウ

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愛好家が多いサクラソウ

 サクラソウサクラソウ属の花で、日本に自生し多くの改良種をもつ。科名も属名も学名では「プリムラ」で、これはプリムラ・ポリアンサの項でも述べたようにプライム(春一番)の意味。サクラソウの愛好家は多いようで、私の近隣にも、今の季節にはこの花だけを各種類集め、玄関にも塀にも庭にも飾っている家が数軒ある。プリムラ・ポリアンサのような派手さはないが、可憐さはこちらのほうが断然、上であると思う。

フクジュソウ福寿草、元日草)

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スプリング・エフェメラルの代表、フクジュソウ

 キンポウゲ科フクジュソウ属の多年草で、「スプリング・エフェメラル」(儚い春)の代表的な花だ。属名のアドニスギリシャ神話に出てくる美少年の名で、愛と美と性の女神であるアフロディーテ(ビーナス)に愛された。彼の血から美しい花が咲いたとされ、伝承によれば「アネモネ」だとされている。アネモネフクジュソウは同じキンポウゲ科の花なので、大きな違いはないのかもしれない。写真は開花直前のもので、明るい陽射しを受ければ完全開花に至る。なお、スプリング・エフェメラルについては本ブログの第2回で説明している。

オキナグサ(翁草)

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老人の姿を思わせるオキナグサ

 キンポウゲ科オキナグサ属の多年草。これもまた典型的なスプリング・エフェメラルで、山野草として根強い人気がある。写真は開花直前のもので、数日以内に満開を迎える。全身が白い毛で覆われ、うつむき加減で開花し、種子もまた白く長い毛で覆われる。こうした様子から翁草と命名されたとされている。以前、私もよくこの花を育てていた。

アズマイチゲ(東一華)

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満開直前のアズマイチゲ

 キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草で、これもまたスプリング・エフェメラルとして人気がある山野草。属名は”Anemone"なのでアネモネと同じ仲間だ。アネモネは改良品種がとても多いが、アズマイチゲ山野草に相応しく清楚感が強い。写真は満開直前のもので数日先には凛とした姿になる。

ヒトリシズカ(一人静、吉野静)

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開花初期のヒトリシズカ

 センリョウ科チャラン属の多年草。スプリング・エフェメラルには数えられていないが、開花期はまったく同じである山野草。写真は開花が始まったばかりのもので、これから花は上に伸びてくる。吉野山で舞いを披露した静御前の姿になぞらえて命名されたとされ、かつては吉野静、現在は一人静と呼ばれる清楚な花。私は春の花を野原であちこち探し歩くことが多いが、この花を見つけたときが一番、嬉しくなる。

クロッカス(花サフラン

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育てやすい球根植物のクロッカス

 アヤメ科クロッカス属の球根植物。秋に球根を植えておくと春先に咲く。一度植えると分球して数を増やすので、次の年には多くの花を見ることができる。ただし、成長は一定ではないので、できれば梅雨入り前に掘り起こして暗所で保存し秋に植えなおしたほうが美しく咲かせることができる。白、黄、紫の花が多いが、近年では写真のような白地に紫が入るものが人気が高い。ヒヤシンスと同様に水栽培も可能なので、室内で鑑賞することも可能。

クリスマスローズ(レンテンローズ、ヘレボルス)

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近年、人気急上昇中のクリスマスローズ

 キンポウゲ科クリスマスローズ属の多年草。西欧原産で、かの地ではクリスマス頃に純白の花を咲かせるので「クリスマスローズ」と名付けられた。一方、現在主流なのは西アジア原産の改良園芸種で、花期は2、3月がメインとなる。寒さにとても強く、日陰でもよく咲くので、近年では早春を代表する花となっており、プランターや路地植えで楽しむ人がとても多くなっている。かつては地味な色のものしかなかったのでさほど人気はなかったが、近年は色とりどりでしかも八重咲のものも出回るようになったために人気はうなぎのぼりだ。

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クリスマスローズはうつむき加減に咲く

 花に見えるのは実はガクで、花弁そのものは退化して雄蕊の周りに小さく残るのみだ。この植物は「毒草」としても知られており、神経細やかな園芸家はこの植物を扱うときには必ず手袋をしている。学名のヘレボルスの”ヘレ”は「殺す」を、”ボレ”は「食物」を意味し、薬草にも使用されていた。

ノースポール(クリサンセマム・パルドサム)

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ノースポールは「サカタのタネ」が作出

 キク科レウカンセマム属の改良園芸種。1970年頃、かつて「クリサンセマム・パルドサム」と呼ばれていた”フランスギク”を日本の「サカタのタネ」が改良して作出した園芸品種。今ではパンジーと並んで、冬から春の鑑賞花の代表的存在となった。茎はあまり伸びず花を多くつけるため、日当たりの良い場所では葉がほとんど見えなくなるほどの花盛りとなる。ただし日陰では茎が徒長し、花付きも悪い。撮影日(7日)は曇天だったために花弁はやや閉じ気味だが、明るい陽射しを浴びるとこれ以上ないほど目いっぱいに花弁を広げる。なお、品種名(商品名)の「ノースポール」は北極を意味する。どこに極があるのかは不明だが、命名はとても上手だ。

ユキワリソウ(雪割草、ミスミソウ

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早春に咲く山野草ユキワリソウ

  キンポウゲ科ミスミソウ属の多年草北陸地方から東北地方の日本海側に自生する山野草だが、現在では改良園芸種が非常に多い。ネット通販などでも高い人気を誇る花だが、価格は一株400円程度のものから30000円以上するものまである。一般的なものでも2000円前後はする。色彩も形も数多くあり品評会も盛んにおこなわれている。

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清楚に、かつ可憐に咲く

 花弁は退化して存在せず、花びらに見えるのはガクである。葉はほぼ一年中残るが、花期以外は直射日光に弱いため、落葉樹の下などに地下植えするか鉢植えをしたものを置く。私も一時期この花の収集を試みたが、次々に新品種が現れるため、ついていけずに断念したという記憶がある。

ヒメリュウキンカ(姫立金花)

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園芸種のヒメリュウキンカ

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こちらは野生化したヒメリュウキンカ

 キンポウゲ科キンポウゲ属の多年草で、ヨーロッパでは沼地や湿地などに自生している。日本には園芸種として移入されたが、現在では野生化したものも多い。茎が上方に伸び(立)、黄色(金)の花を咲かせるので立金花と呼ばれる。湿地を好む花なので、鉢植えや地植えのときにもそうした環境を作る必要がある。写真(上)の花は園芸種。まだ開花が始まったばかりで、明るい日差しを浴びると花弁は大きく開く。写真(下)は府中崖線下の湧水脇で咲いていた野生種。

シュンラン(春蘭)

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地中から顔を出すシュンラン

 ラン科シュンラン属の花。ランは地中に根を張るものと地表で根を出すものとがあるが、シュンランは写真のように地中から顔を出す。洋ランの代表種である「シンビジウム」の仲間ではあるが、こちらはかなり地味。が、その点にこそ根強い人気の源になっている。春先、山里の林の中でこの花が顔を出している姿をよく見かけるが、くれぐれも「盗掘」しないように。園芸店で簡単に手に入れることができる。半日蔭を好み、根をよく張るので深さのある鉢に植えて日差しが強く当たらない場所で育てる。なお、ラン科の植物は700属、15000種以上あり、被子植物の中ではもっとも種類が多い。

ヒマラヤユキノシタ

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ヒマラヤ原産の園芸種

 ユキノシタ科ヒマラヤユキノシタ属の多年草でとても美しい花を咲かせる園芸種。ヒマラヤ原産のためか寒さに強いので早春から美しい花を咲かせる。根付くと、特に丁寧に手入れをしなくても毎年、多くの花を咲かせてくれ、しかも大きく育つので大きな鉢かプランターに植えると良く、可能ならば地植えが良い。花色はピンクや赤が多いが、”シルバーライト”と呼ぶ園芸種は白い花を咲かせる。花は美しいし花の名の響きも良い。が、この花の認知度はなぜかかなり低い。残念なことである。

アセビ(馬酔木)

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春に花を咲かせる常緑低木の代表格

 ツツジアセビ属の常緑低木。葉や茎には有毒のグラヤノトキシンが含まれている(他のツツジ科の花も同様)ため、馬が食べると毒にあたって酔ったようにふらふらとした足取りになることから、馬酔木と記されるようになったという伝承がある(本当かな?)。以前はあまり見掛けなかったが、近年では春に花を咲かせる常緑低木の定番になりつつある。病気に強く挿し穂で簡単に増やせるからかも知れない。

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白花が一般的

 花は小さいが、写真のように枝いっぱいに咲くので見ごたえはある。花は壺のような形をしていて「ドウダンツツジ」に似ているが、花数は断然、こちらのほうが多い。

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ピンク色の花を咲かせる「クリスマス・チア」

 改良園芸種もいくつかあり、写真の”クリスマス・チア”と呼ばれる品種はピンクの花が無数に咲き、今では白花よりも多く見かけるようになった。

ジンチョウゲ沈丁花、瑞香)

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香りの強さではキンモクセイと双璧

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こちらは白花のジンチョウゲ

 ジンチョウゲジンチョウゲ属の常緑低木。香りが強いことでよく知られている花。その強烈な香りからその存在を知ることになる。早い場合は2月中旬頃には咲くので、散歩中にこの花の芳香に触れると春の到来を感じる。今は「香害」が問題視されているが、ジンチョウゲの香りは自然のものなので何の問題もない。ちなみに、秋の香りの代表格はキンモクセイだが、こちらは秋の到来というよりトイレの存在を実感するかもしれない。もっとも、キンモクセイ=トイレの芳香剤を連想するのは年配者で、中年はラベンダー、若者以下はトイレに結び付く香りはとくにないようだ。

ユキヤナギ(雪柳、コゴメバナ)

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ユキヤナギの咲き始め

 バラ科シモツケ属。公園や庭、街路などでよく見られる落葉性低木で、春には垂れ下がった枝に葉が見えなくなるほど無数の花を付ける。雪を被った柳のように見えるところから命名された。写真はまだ咲き始めなので緑の葉っぱが見えるが、これから一週間ほどで満開になる。満開時の美しさはサクラにも負けないほどだと個人的には思っている。小さな花びらが散った後の地面はお米を一面にまき散らしたように見えるため「コゴメバナ」の異名がある。

サンシュユ(山茱萸(さんしゅゆ)、ハルコガネバナ)

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葉より先に花が咲くサンシュユ

 ミズキ科サンシュユ属の落葉性高木。3月初め頃、葉が出る前に黄色い小さな花を咲かせる。ひとつの花は多くの小花が集まってできている。

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サンシュユの花をじっくり観察してみた

 小さな花房(散形花序)をじっくり観察してみたが、やや盛りを過ぎていたようで、黄金色に輝くようには見えなかった。実は、この花をこうして観察したのは初めてだった。来年(もしあれば)にはこの木を早めに探し出して、その輝きに触れたいと心から思った。

オカメザクラ(おかめ)

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小さな花はうつむき加減に開く

  1947年、英国人がカンヒザクラとマメザクラ(富士桜)とを交配して作出した早咲きのサクラ。花は小さくうつむき加減に咲くが、花びらは完全には開かない。花色はかなり濃い。木はあまり大きく育たないので、梅の木と勘違いされることもあるようだ。小田原市根府川地区ではこの早咲き品種で桜の里作りをおこなっている。果たして、第二の河津桜になるだろうか?

カンヒザクラ(寒緋桜、元日桜)

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サクラの原種のひとつ。河津桜、オカメの元になった

 サクラの原種のひとつ。早咲きで、釣鐘状に咲き、濃い花色などから多くの自然交配種(河津桜)や 人工交配種(おかめ)が誕生している。前2種の桜のほか、修善寺寒桜、椿寒桜、陽光、横浜緋桜などが代表的なカンヒザクラ群である。

〔36〕八王子の城跡を歩く(1)滝山城跡を中心に

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本丸跡にある石碑

八王子界隈には城跡が多くある

 平らなだけが取り柄の府中市にはこれといった城跡はなく、せいぜい浅野長政屋敷や高安寺館が拡大解釈されて「城」に含まれるといった程度だ。一方、山がちな八王子市界隈にはたくさんの城跡がある。日本100名城に選定された八王子城、続100名城に選定された滝山城をはじめ、高月城浄福寺城片倉城などがよく知られている。私はとくに城好きというわけではないが、日本各地の名所を訪ね歩くと、当然のごとく城跡にも出掛けることになる。例えば、100名城に選定された城だけでも五稜郭若松城水戸城、足利氏館、小田原城松本城金沢城名古屋城彦根城、二条城、大阪城、姫路城、福山城、萩城、宇和島城高知城、熊本城、首里城といった具合に。実際に訪ねたことのある100名城はもっと多い。

 が、八王子にある城跡の名前は知っていても八王子市内を観光で訪れることは滅多にない(高尾山くらいか)ので、私のお気に入りの散策コースである滝山城跡以外には立ち寄ったことはなかった。その滝山城跡でさえ、歴史に興味があるというよりは、適度にアップダウンがあり、かつ一部にだけだが見晴らしの良い場所があるので、葉っぱと虫や獣たちが少ない冬場の徘徊場所として出掛けていて、とくに「遺構」については関心を示さなかった。たまたま今回は未踏の八王子城跡に出掛けてみようと思い立ったとき、その城と滝山城とが密接に関係があるということを改めて認識を深めたので、まずはそうした視点から滝山城跡を訪ねてみようと思った次第だった。

滝山城跡は加住北丘陵にある

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多摩川右岸河川敷から見た加住北丘陵

 滝山城跡のある加住丘陵は八王子市中心部の北側にあり、関東山地の東縁から東南東方向に舌状に伸びている。南側は川口川、北側は秋川・多摩川に接している。中央には谷地川が流れて丘陵部を開析し、北部分を加住北丘陵、南部分を加住南丘陵と呼ぶこともある。また、東縁は日野台地と接しているが丘陵と台地とは成り立ちが異なるとされている。丘陵の基盤は上総層群で、下部は加住礫層、上部は小宮砂層と呼ばれている。この上総層群の上を関東ロームが覆っている。ローム層と小宮層と間に不透水層があるために丘陵上であっても水の確保は容易であり、後述するが本丸跡には井戸があり、周囲にも数か所、井戸跡があるらしい。また、城の中腹には2つの大きな池跡があることからみても、水源に恵まれたこの場所は丘山城を築くのに適していることがよく分かる。籠城戦には飲料水の継続的確保が必須だからである。

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加住丘陵を開析した谷地川

 谷地川は加住丘陵を開析し丘を二分した。写真は谷地川を上流方向に見ているので、左が南丘陵、右が滝山城跡がある北丘陵である。撮影場所は新滝山街道沿いにある「道の駅滝山」のすぐ北側だが、ここの標高は110mほどで、左右に見える丘陵上はどちらも170mほどである。写真では鮮明でないが、南丘陵には創価大学の、北丘陵には東京純心女子大学のキャンパスがある。川の北側には国道411号線(滝山街道)、南側には新滝山街道が走っており、街道沿いには大きくはないものの集落が続いている。

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北丘陵の北側には河川敷が続く

 写真は加住北丘陵の北側、すなわち秋川・多摩川の河川敷部分だ。この部分は多摩川の氾濫原のために住宅地は少なく、田畑やグラウンドなどに使用されている。

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北丘陵の北側斜面をよく見ると

 写真は河川敷に整備された「滝ケ原運動場」から滝山城跡のある北丘陵の斜面を見たものだが、これからも分かる通り急峻な崖になっており、暴れ川である多摩川によって大きく削られている様子が見て取れる。実際、この場所は東京都建設局から急傾斜地崩壊危険箇所に指定されている。運動場の標高は96m、滝山城の本丸は167mの位置にあり、敵方は多摩川を渡り、かつ急峻な崖を上る必要があるため、城の北側の守りはかなり固いものだったと考えられる。

大石氏と北条氏照との関係

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大石家の拠点になった二宮にある「二宮神社

 滝山城武蔵国の有力者であった大石定重が16世紀前半に築城し、その後に大石家の養子になった北条氏照(小田原北条氏3代氏康の三男)が16世紀半ばに大幅改修したとされてきた。しかし、「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が発行するパンフレット(2018年)によると、北条氏照は定重の子である定久(道俊)の子の憲重(綱周)の養子となり、氏照が初めから築城したと最近の研究では考えられているらしい。ただし別の歴史書では、大石氏が手掛け氏照が改修したという点を強く主張しているので、どちらが正しいのかは未だ解明されていないと考えて良い。いずれにせよ、北条氏照の動向を追うときには必ず、養父筋に当たる大石家の存在を考慮しなければならないので、ここではまず大石家の足跡を簡単に追ってみることにした。

 八王子市の旧家に保存されていた『木曽大石系図』(江戸時代中期に整理されたと考えられている)によれば、大石家は木曽義仲を祖とし1356年、大石信重が多摩郡入間郡の十三郷を賜り武蔵国目代に就いた。信重は現在の埼玉県ときがわ町辺りを拠点にしていたが、その際に現在のあきる野市二宮に居を移したとのことだ。大石家が二宮を拠点にしていたということは15世紀初頭に足利荘代官を務めた大石道伯が「二宮道伯」を名乗っていたことからその蓋然性はかなり高い。ただし、「二宮城」の場所は未だ特定されていない。

 あきる野市の二宮といえば武蔵国六宮の二宮に位置付けられた二宮神社があるところだ。このことは以前にも少し触れている(cf.32普通の府中市2)が、改めて二宮神社について述べてみたい。ここは10世紀前半に編纂された『延喜式』にはない式外社だが、古くから武家の尊崇を集めていたようで、大石家はこの付近に居を構えていたとされている。境内には大石家が築いた「二宮城」があったという記録が残っていたが、発掘調査ではその証拠品は出なかったそうだ。後述する北条氏照滝山城に拠点を構えていたときは、この神社を祈願所にしていた。

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あきる野台地のヘリから湧き出た清水を集めた「お池」

 神社の本殿はあきる野台地の上にあるが、写真の「お池」は台地の下にある。ここも神社の敷地内である。台地のヘリからは清水がこんこんと湧き出てくるようで、池の水量は豊富で、ここから流れ出た水は小川を形成している。二宮の東隣にある町の字名は「小川」であるが、その由来はこの池の水にあるのかもしれない。二宮神社は別の名を「小川神社」「小河大明神」というのだから。

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本殿は台地のヘリの直上にある

 本殿は参道の階段を上がったすぐ上にある。周囲には社叢林が広がっているが、境内自体はさほど広くない。周辺は新興住宅地に変貌しているが、かつては広大な敷地を有し、そのどこかに大石家の館があったのかもしれない。境内の脇には神社の由来が書かれた表札があるが、ここが武蔵国の二宮であったことを誇らしげに述べている。

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大石氏は拠点を浄福寺のある案下に移した

 先に挙げた系図によると、1384年に大石信重は案下(あんげ、八王子市下恩方町)に居を移したとされている。これが事実だとすれば、大石家と八王子との結びつきはこのときに始まったと考えられる。案下は関東山地の東縁にあって、ここから和田峠を通って藤野に抜け、さらに甲斐の国へ至る重要な場所であり、かつては案下道、現在は陣馬街道が通っている。江戸時代、この道筋は甲州街道脇街道としてよく整備され、富士参詣道としても用いられた。浄福寺城は大石信重が案下に移った14世紀末に築城したという記録があるが、現在では16世紀前半、大石定久・憲重父子が築城し、北条氏照も一時ここを本拠にしていたという説が有力視されている。

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浄福寺城の主郭跡は標高356mの所にある

 浄福寺城跡は浄福寺の裏手にある小高い山の上にある。「案下城」「新城」「二城」などの別名がある。『武蔵名勝図会』には、大石氏が高月城(後述)に城居し、新たに城を築いたので「新城」と呼ばれるようになったと記述されている。現在では、浄福寺(城福寺)を開基したのが大石氏で、城を裏山に築いたために浄福寺城と呼ばれるようになったとするのが主流となっているようだ。

 浄福寺真言宗智山派の寺で、創建は13世紀半ばとされているが、16世紀の前半に大石氏が再興して現在に至っている。ひとつ上の写真にあるように、なかなか立派な本堂を有している。

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城跡に続く道

 当初は城跡を訪ねる予定でいたが、何しろ人影はまったくなく、道筋を示す図もなく、林道入口の標高は201m、山頂は364mと比高は163mもあるので登山は断念した。何しろ私は、釣り以外では意気地も根性もないのだ。

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浄福寺境内にあった石仏その一

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石仏その二

 意気地も根性もないが、好奇心だけは少しあるので、登頂を断念した代わりに境内を散策してみた。そして、上の写真にあるような石仏に出会った。真言宗の寺だけに弘法大師像が本堂前にあったが、私にはこの二つの像のほうに「帰依」したいと思った。もちろん、信仰心はまるでないので、ただそのように考えたにすぎないが。

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15世紀半ば、大石氏が拠点にしたとされる高月城がある丘

  先に挙げた系図によれば、大石氏は1458年、加住北丘陵にある高月城に本拠を移したとされる。後述する滝山城とは同じ丘陵上にあり、直線距離にすれば1.5キロほどしか離れていない。この地は系図では「高槻」の名で登場するが、現在では「高月」という風雅な字が用いられている。私は時折、あきる野辺りから都道166号線(瑞穂あきる野八王子線)を南下して東秋川橋を渡って滝山街道に出ることがある。橋を渡るとまもなく、右手に写真にある「円通寺」が見えてくる。その寺の裏山に高月城跡がある。

 円通寺は10世紀初頭に創建された天台宗の古刹であるが、16世紀後半に大石氏の支えによって約3万坪の境内をもつほどの大寺院になったそうだ。もっとも、丘陵の西側は絶えず秋川の流れによって削られ、東側は秋川と多摩川の合流点に位置するため氾濫の危険性を常に留意せねばならないという土地柄だった。反面、西側は関東山地によって視界が遮られるものの、三方の見通しはとても良い場所にあるため敵方の動きを探るには適した立地だった。一方、守勢に回ると耐え抜くのはかなり困難だと容易に想像できる。

 系図では高月城からより守りが固い滝山城に移ったとされるが、近年ではこの説を否定的に捉えることが多いようで、他の資料では15世紀の大石氏の拠点は現在の志木市に残る「柏城」であった蓋然性が高いとのことだ。そうなると、大石氏が14世紀後半に案下(浄福寺城)に居を構えたということの信憑性も失われることになる。

 その一方、1525年に大石道俊(定久)とその子である憲重が城福寺(現在の浄福寺)を再興してして棟札を奉納したという極めて信憑性の高い記録が残っているので、遅くとも16世紀の前半には大石家と八王子との結び付きが出来上がったと考えることは可能だ。その後、高月城を経て滝山城に至ると想像すると、大石家と円通寺との密な関係が生まれたことも首肯できる。

いよいよ滝山城に上る

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滝山城跡へ上る「大手門」口の看板

 先述したように、大石氏が先鞭をつけたかどうかは論が分かれるにせよ。大石家に養子に入った北条氏照が滝山丘陵(加住北丘陵の一部)を開削して、中世城郭の最高傑作と称される「丘山城」を築いたことは確かなようだ。当時の建築物は残っていないが、丘陵の地形を生かしながら巧みな設計によって大規模な空堀を配し、堅固な防御ラインを造り上げている。氏照は甲斐(武田氏)からの守りを重視する必要が生じたため、結局、滝山城は未完成に終わっていると考えられ、1587年頃までには、やはり自らが築城した山城である「八王子城」に移転している。

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八王子市が整備した無料駐車場

 写真の無料駐車場は八王子市が整備したもので、滝山街道(国道411号線)と「瑞穂あきる野八王子線」とが交差する「丹木三丁目交差点」のすぐ東側にある。出入口は滝山街道側のみにある。駐車場のすぐ横にひとつ上に写真にある「滝山城跡入口」の看板が立っていて、ここから本丸まで続く道が伸びている。上り坂だが、入口の標高は127m、本丸付近は167mなので比高は約40m。足元もよく整備されているためハイキング気分で登れる道だ。

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大手口から天野坂を進んで本丸を目指す

 駐車場の近くに大手口があったらしく、写真の道を上っていくと「三の丸」「千畳敷」「二の丸」「中の丸」「本丸」に至る。

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滝山城址・丹木一丁目入口

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滝山城跡・少林寺参道入口

 滝山街道側には「丹木一丁目」「少林寺参道」にも写真のような看板が立てられており、滝山城跡へ観光客に足を運んでもらいたいという八王子市民や滝山城跡愛好家の強い思いを感じることができる。

 私は現在では先の駐車場を利用して滝山城跡付近を散策するが、駐車場ができる以前は、丘陵の北側にある「滝ケ原運動場」か、南側の「道の駅・滝山」の駐車場を利用していた。運動場側の入口は多摩川の河川敷にあり、先述したように急斜面を上ることになるのでやや苦労を強いられるが、一気に本丸にたどり着くことができる。一方、道の駅からは谷地川を渡り滝山街道を少し西に進んで少林寺参道を行き、東京純心女子大学の裏手を通って、加住北丘陵の尾根道に出てから散策路を西に進んで本丸方向を目指すことになる。ハイキングに来たと思うと決して苦にはならないが、滝山城跡そのものを目的にするとやや長い道のりになる。

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少林寺本堂

 少林寺の名からは「拳法」を連想してしまうのだが、ここは曹洞宗の寺で拳法とは何ら関係がない。北条氏照が1570年に開基した寺で、開山した桂厳和尚は氏照の乳母の子だとのこと。かつては参道の西側に八幡宿、東側に八日市宿、横山宿があり、現在の滝山街道の多くは「古甲州道」だった。八王子の原点はこの辺りだったと考えられている。

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境内にあった二つの菩薩像

 少林寺本堂は1887年の大火で焼失し、現在ある本堂は1993年の建築されたものだ。本堂の前には写真の二つの菩薩像が立っていた。右のものは火災にあった菩薩像かもしれないが、災厄にあってもしっかりと屹立している。私に信仰心が少しでもあれば、右の像に向いて手を合わせるかもしれない。

氏照と北条氏の動向

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滝山城には戦略家・氏照が考案した「空堀」が至るところにある

 北条氏照は1542年、小田原北条氏三代氏康の三男として生まれた。46年に武蔵国の有力者であった大石家の養子となった。幼名は藤菊丸で、長じてからは「由井源三」を名乗っていたらしい。55年、氏照は父の氏康とともに古河公方足利義氏元服式に兄弟で唯一参加している。氏康は氏照のもつ能力への期待感が高かったためだろうか。それとも、たまたまだったのだろうか。

 北条氏は1560年代に勢力を拡大し、武蔵国東部、さらに房総への侵攻を強めた。越後の上杉謙信は61年から関東管領の職に就いた(78年まで)こともあって、関東における上杉方の勢力を総動員してこれに対抗した。その象徴的な争いが65年に開始された関宿(せきやど)合戦で、74年まで3回、戦闘が繰り広げられた。関宿は利根川水系の要衝にあり、この場所を支配するということは関東の水運を押さえることにつながっていた。しかも、現在の千葉県野田市にあった関宿城は反北条氏の拠点であって、直接には北条氏対簗田(やなだ)氏との戦いであったが、簗田氏側の背後には上杉氏が存在していた。第一次の合戦は北条側が優勢であったが、上杉勢がこの戦いに加わるという報が入ったために和睦が成立した。

 68年、北条氏側の軍事外交権を掌握する立場になっていた氏照は下総の栗橋城を落とし、ここを拠点として関宿城への攻撃を再開した。これが第二次関宿合戦の始まりだった。ところが、北条氏をとりまく情勢が大きく変転したためにこの戦いは中断を余儀なくされた。それは、武田信玄の「裏切り」であった。

 54年、「甲相駿三国同盟」が、武田・北条・今川間でそれぞれ縁戚関係を結ぶことで成立したが、68年、武田勢が東海地方への進出を画策し駿河侵攻をおこない、三国同盟は破棄された。これに対し、北条氏は今川氏側を支持してその救援をおこなった。さらに氏照は上杉氏に同盟の申し入れをおこなった。甲相同盟が崩壊した代わりに「越相同盟」を成立させ、あわせて甲越の対立を利用しようとしたのだ。しかし、交渉は難航した。これまでの間、北条氏は上杉側についていた勢力をことごとく廃し、北条氏側に取り込んでいたからである。結局、氏照は同盟の成立を最優先し、北条氏側が拡大した領地を上杉氏側に返還することで決着をみた。

 69年、越相同盟が成立し、「血判起請文」を交わした。氏照には上杉謙信から刀一振りが贈られ、氏照はその返礼として太刀一腰を進上した。

武田氏の関東侵攻

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武田軍が攻め入った滝山城三の丸付近

 こうした北条氏や上杉氏の動きに対し、武田氏側は関東への出陣を決定した。まずは埼玉県の寄居にある「鉢形城」(日本100名城のひとつ)を攻略し、さらに南下して氏照のいる滝山城に向かった。いよいよ「滝山合戦」が展開されるのだ。

 『甲陽軍鑑』ではこの滝山合戦は69年の10月2日から4日におこなわれたとされているが、他の資料では武田勢は9月27日は相模国に入った、10月4日には小田原城下が放火されたとあるので、滝山合戦は遅くとも9月下旬(9月27日まで)におこなわれたと考える必要がある。

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滝山城中の丸跡から拝島市街方向を望む

 武田軍の主力は、滝山城の北側を流れる多摩川左岸の拝島付近に陣を構えた。先述のように、滝山城多摩川側は急峻な崖がそびえているので攻略は困難を極める。誰しも当然、滝山城に攻め入るのは谷地川側からと考える。先鋒は甲州から八王子に向かってくる小山田信重の軍勢だった。問題は、その侵入ルートにあった。

 第一は大月、藤野を東進し、北上して陣馬山の北にある和田峠から北浅川沿いを下って案下(下恩方)、そして楢原から加住南丘陵を越えてくるルート、第二は塩山から小菅、小河内、檜原、秋川と進むルートが想定されていた。第一は「旧案下道」(現在の陣馬街道)であり、第二は「古甲州道」(現在の青梅街道、奥多摩周遊道路)である。ところが実際には、小山田軍は「こぼとけ城」を越えて八王子に侵攻してきたのであった。これは江戸時代の旧甲州道中ルートだが、当時は未開拓の道であった。氏照は第二のルートを想定していたようで、とくに檜原付近の守りを固めていた。 

 戦闘は「とどり」(廿里)付近で展開された。現在のJR高尾駅の北側、つまり、現在の「森林総合研究所」や「武蔵陵」がある辺りである。これに続いて武田軍の本隊も谷地川側から攻め入ってきた。信玄の息子である武田勝頼(当時24歳)は三の丸まで駆け上がり、一方、氏照は二の丸にいた。勝頼と氏照の配下の侍大将である諸岡山城とは3回、槍を合わせたといわれている。勝頼の戦死を心配した信玄は戦いの継続を望まず、兵を引かせることになった。武田軍の目的は小田原城攻撃だったからだ。

 それでも滝山城下にある集落はことごとく焼き払われたようである。先の「少林寺」の項で挙げたように、当時の八王子は八幡、八日市、横山の三宿が中心だった。史料には「宿三口へ人衆を出し、両日とも終日戦を遂げ、度々勝利を得て敵を際限なく打ち捕り……」とあるが、これは北条側の記録によるものと思われる。実際には苦戦を強いられたのだった。

 ともあれ、この69年の戦闘によって氏照は丘山城である滝山城の欠陥・限界を知り、次の攻撃に備えるため、「八王子城」の築城を構想したと考えられている。

滝山城跡を歩く

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本丸と中の丸とを結ぶ復元?された「引き橋」

 滝山城跡というより加住北丘陵、都立滝山公園は私の冬場の散策場所であって、とくに城跡の遺構を意識して徘徊したことはなかった。他の城跡のように天守閣や櫓、石垣が残っていたり復元されたりしているわけではないので、散策中でも「城跡」を感じることはなかった。しかし、今回は「城跡」という観点でここを2度訪れたため、今まで見落としていた、というより気にも留めなかった遺構に感心する場面がいくつかあった。さらに、一度は休日に訪れたため、「滝山城跡愛」に満ち溢れるボランティア案内人の人々にも接したので、いつもなら素通りしていた場所にも触れることができたのは大きな収穫だった。

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千畳敷

 大手口から天野坂を上がり、右手に三の丸を見てから少し進むと左手に写真の千畳敷がある。ここには郭があったのか兵士の集合場所だったのかははっきりしない。この隣に角馬出があって城兵が控えているので郭だった蓋然性が高い。現在は周囲を木々が取り囲んでいるので見晴らしは良くないが、北側の下方には「弁天池」があるので、景観の良い場所だったはずだ。

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結構広い中の丸

 千畳敷を過ぎて本丸方向に進むと、右手にこの城の守りの拠点である二の丸があり、その北側に写真の中の丸がある。千畳敷ほどではないがここもかなりの広さをもつ。本丸はさほどの広さがないので、ここが事実上、城の拠点だった蓋然性が高い。北側の見晴らしはとても良く、拝島に控えていた武田軍の様子もはっきりと見て取れたことだろう。写真奥の建物は、2000年まで営業していた国民宿舎の一部が残されたもので、休日にはボランティアガイドの控え場所に用いられている。資料が多く置いてあり、ボランティアの人々に疑問点を質問したり、城内のガイドを依頼することもできる。ここにはきれいなトイレがあり、敷地内にはソメイヨシノが数多く植えられているので、花見シーズンにはかなりの賑わいを見せるとのこと。

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中の丸と二の丸との間の空堀

 中の丸と二の丸とはこの城の最大の要所であるため、間の空堀は相当の深さがある。滝山城の見どころはこの空堀の深さ、その複雑な配置にある。

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本丸。中の丸とは引き橋でつながっている

 本郭があったと考えられる本丸と中の丸とは引き橋(木橋)でつながっている。先に挙げた写真の橋は人々が行き交いやすいように造られているが、当時のものはもっと下方にあり、しかも非常時には簡単に壊せるように設計されていたとのこと。もちろん、下の通路を使っても行き来は可能で、本丸には敵が簡単に入れないように、狭い枡形虎口が造られている。

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本丸内にある井戸跡

 滝山城跡を訪れて一番気になったのが飲料水の確保という点だった。麓には多摩川や谷地川が流れているので、平時であれば水を汲みに行ける。しかし戦時では不可能だ。籠城戦のときに一番困難なのが飲料水の確保だ。この滝山城の本丸には写真のような井戸が残っている。

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井戸の中をのぞく

 井戸の中をのぞいてみた。といっても、本当にのぞいてみたわけではなく、手を伸ばしてカメラにのぞかせたのだ。写真からも分かるように内部はよく整備されていた。本項では先に加住丘陵について簡単に解説しているが、この滝山部分はとくに地下水の確保が容易な地形・地質になっているので、水に不便したことはまずないはずだ。というより、水が十分に確保できる場所に城を築いたのである。

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本丸にある霞神社

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本丸にある金毘羅社

 本丸には2つの建造物がある。これは北条氏や滝山城との関連はなく、後に建造されたものだ。霞神社は1912年、在郷軍人会加住村分会が日露戦争で戦死した15柱を祀ったのが最初で、今日まで220柱が合祀されているとのこと。金毘羅社は江戸時代の創建で、多摩川での水運の安全を祈願して建てられたものらしい。神社は高台の上、寺院は町の中というのが基本形なので、北条氏という主を失った滝山の丘陵地は信仰の場所として利用されるようになったようだ。

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本丸の下にある小さな曲輪から弁天池を望む

 加住丘陵は地下水が豊富だったために、丘陵の中腹には大きな溜池が2つある。本丸の直下にあるのが写真の弁天池で、往時は生活用水を確保するためだけでなく、舟遊びもおこなわれていたらしい。中央に見える盛り土は中の島と呼ばれ、池には欠かせない築山だったそうだ。現在では地下水は大分枯れてしまったようで、水はほんの一部にしか残っていなかった。

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守りの要である二の丸の周囲には空堀が多く巡らされている

 二の丸は城の守りの要で、武田軍が攻め入ったとき、氏照は二の丸に控えて指令を発していた。周囲にはかなりの深さの空堀が造られていて、防御に重点を置いた設計がなされている。以前は堀の中にまで多くの杉が茂っていたが、最近ではこの空堀を当時のままの姿で人々に見てもらえるようにと、杉の伐採が進んでいる。ご苦労様。

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行き止まりの堀(ふくろのねずみ)

 空堀は写真のように行き止まりになっている場所があり、敵側はここで「ふくろのねずみ」になる。この場所の近くにはいくつかの「馬出」があり、ここに守備兵が控えていて、敵兵を一網打尽にする。

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馬出のひとつ

 二の丸の周囲には写真のような小さな曲輪が3つあり、これらを「馬出」と呼んでいる。ここで守備兵は敵の襲来を待ち構えている。

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大池は城のための生活用水の確保だけでなく、麓にある谷戸に水を供給する

  城内の東側に写真の大池がある。写真にも少し写っているが、僅かながら水たまりがある。この池も湧水を集めた溜池として利用されていた。

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大池にある切れ込み

 大池には写真のような切れ込みがあり、ここから下方にある谷戸に水を供給している。この日はほんのチョロチョロという流れではあったが、確かに水は流れていた。

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丘陵の斜面には写真のような谷戸がいくつもある

 丘陵の南斜面には写真のような谷戸がいくつもある。日当たりが良いというだけでなく、丘陵からの湧水が比較的豊富だったためか、農業が盛んだったようだ。ここで生産された農作物は城内の兵士たちに供給されていたと考えられる。

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古峯の道と呼ばれるハイキングコース

 大池の上部からそのまま東に進むと城跡からは離れ、散策には格好の尾根道が続く。ここは「古峯の道」と名付けられているが、公園の看板には「かたらいの路・滝山コース」とある。「かたらいの路」といっても高幡不動から続くわけではないようだが。

 このコースはJR八高線小宮駅を起点(終点)として、滝山城跡から円通寺高槻城跡、東秋川橋を歩いてJR五日市線東秋留駅を終点(起点)とする、全長約10キロ、約4時間の道のりだ。私のような寄り道大好き人間にはとてもこの距離・時間で収まるはずはないので、一日で制覇することは絶対に無理だろう。

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谷戸谷戸との間にあった御嶽神社

 谷戸谷戸との間に「御嶽神社」があることは今回初めて知った。グーグルマップでその場所は表記されていたが、そこに至る道がなかった。というより、グーグルマップの経路ではたどり着けなかったのだ。それでも谷戸をうろつくとなんとか神社に上がる細い道を見出すことができた。滝山街道沿いにも神社の場所を示す看板はなく、ただ山中にひっそりと佇んでいる社だった。

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人の気配がまったくなかった御嶽神社。確かな由緒はある

 御嶽神社で検索すると出てこないが「丹木御嶽神社」で調べると見つけることができる。かつては高月村の山中にあったらしいが、後に滝山城跡の山頂付近に遷座したらしい。それが北条氏照の築城によって16世紀の半ばに現在の地に遷されたらしい。当時は「蔵王権現」との名であったが、明治維新後に「御嶽神社」に変わったとのこと。

 写真以外に建物はなく、人気(ひとけ)もなかった。滝山城跡にも建築遺構はなかった。しかし、つぶさに観察すれば、氏照の創意工夫はいたるところに残っていた。「神は細部に宿る」のか「悪魔は細部に宿る」のかは不明だが、私には神も悪魔もどちらにも存在していない。

 ただ、滝山城跡で出会った3人のボランティアの方々はいずれも「亡霊」の存在を信じているようで、私が次に「八王子城跡」を訪れると言ったとき、異口同音に「午後3時半までに下山したほうがいい。そうしないと怖い思いをするから」との返答があった。怖い思いとは山道が暗くなって危ないからではなく、その時刻になると亡霊が参上するからとのことだった。三人とも、その経験を何度かしたらしいのだ。

 それを聞いた私は、なるべく遅い時間に八王子城跡に出掛けることにした。果たして、生涯初の「亡霊との出会い」が実現するのであろうか。誠に楽しみである。

〔35〕三匹のオッサン・旧東海道を少しだけ歩く

 

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川崎宿・宗三寺にある遊女の供養塔

三人のオッサンが旧東海道をダラダラと歩くことにしたのだが

 謹厳実直を形にするとSさんになり、変な哲人といえばKさんになり、ただ単に変な奴というと私になる。本ブログでは紹介していないが、昨年はこの三人で鎌倉の切り通しを2回(朝比奈と名越)探索した。Sさんは元日本史の教員で神奈川の歴史について精通し、Kさんは高校時代に日本史が赤点だったにも関わらず現在は非常勤講師として日本史を教えている。私は受験のときに日本史と地理を選択し、とくに日本史では古墳時代以前を得意とし「明石原人」の再来とまでいわれた。なお、地理は得意中の得意で、「ケッペン気候区」どんと来い、である。

 この三人による「歴史探訪」は今年も続けることになり、とりあえずは「旧東海道」を歩くことにした。この旧道歩きは私たち以外にも暇なオッサンやオバサンの格好の趣味となっているようで各種の案内書・手引書が出版されている。日本橋を出発点として53の宿場を訪ねつつ三条大橋を目指すのが定石なのだろうが、我がグループの3分の2はナマケモノなので、そんな面倒なことはまずしない。そもそも集合場所が京浜急行子安駅で、集合時間も午前11時と、ハナからやる気が感じられないのだ。

子安駅を集合場所としたのには訳があった

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尻手駅浜川崎駅とを結ぶ南武支線

 SさんとKさんは横浜市在住なので子安駅までは近い。しかし多摩の田舎に住む私は電車で行くとなると最低でも2回は乗り継ぐ必要があった。スマホの乗換案内で検索すると、京王線府中駅から分倍河原駅に行き、そこで南武線に乗り換えて川崎駅へ。京急川崎駅まで歩き、それから普通電車で子安駅に到着。府中駅を9時35分に発すると子安駅には10時55分に到着する。このほかに京王線で新宿に行き、山手線で品川に出て京急に乗り換えるという手もある。が、私が愛用するジョルダンの乗換案内は素晴らしいルートを紹介してくれた。第2案として示したそれは、南武線で終点の川崎駅までは行かずにひとつ手前の尻手駅で降り、浜川崎行きの南武支線に乗り換えてひとつ先の八丁畷(なわて)駅に行き、そこで京急に乗り換えるというものだ。乗換は1回増えるものの到着時間は変わらない。10時台の浜川崎駅行きは1本しかないので、待ち合わせ時間が異なっていたとしたらこの偶然には出会えなかったかもしれなかった。

 このルートであれば、3回の乗り継ぎ場所はすべて田舎駅となる。もちろん出発駅も田舎で到着駅も田舎なので、5回ホームに立つことになる私はすべて田舎駅の空気に触れることになる。これは素晴らしいことである。途中、都会に成り下がってしまった武蔵小杉駅を通ることになるが、これは致し方ない。そこでは目をつむってさえいれば、少し前まで煤けた工場街であった小杉の姿が脳裏に浮かぶのだから。ともあれ、ジョルダン『乗換案内』には大感謝である。

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八丁畷駅京急の到着を待つ

 南武支線の旅はわずか一駅。それでも初めての利用なので満足度は高い。今度は八丁畷駅京急に乗り換える。この駅の利用も初めてだ。この駅は普通電車しか止まらないが、待ち合わせ場所の子安駅も普通のみの停車なので何の問題はなかった。

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子安駅前。ここで二人のオッサンと合流する

 この駅を待ち合わせ場所にしたのは「旧東海道」歩きとはまったく関係がなく、単に「ウナギ」が食べたかっただけだ。駅前にはうなぎ料理の名店があり、リーズナブルな価格ですこぶる美味い蒲焼きが食べられるのだ。実は1月に、Kさんと私は旧東海道の下見はまったくせずにこの店だけを訪れ、下見ならぬ味見をしていた。一方、丁寧に下見と下調べをしていたSさんは京急川崎駅を待ち合わせ場所に考えていたようだ。

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駅前にある小さなうなぎ屋さん

 「うな清」は老夫婦が経営する小さな駅の前にある小さな店だが、口コミやSNSでその良好な評判はかなり広がっているようなので、開店時間の11時に合わせて集合時間を決めたのだ。私たちは開店と同時に飛び込んだので第一組となったが、ほどなく他の三組が現れたので店は満員御礼となった。集合が10分ほど遅れたならば、ウナギとの邂逅は断念せざるを得なかった蓋然性は高く、子安駅に午前11時少し前に集合という時間設定は非常に正しいものだった。もっとも、本来の目的は旧東海道歩きだったが。

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うな清のメニュー

 1月の下見ではKさんと私は「上うな重」を注文したのだが、これが涙が出てしまうほど美味しかった。このため、「蒲焼」だけをもう一皿追加注文してしまったほどだ。今回の本番?では「特白蒲重」を食することに決していた。

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特白蒲重に肝吸(プラス100円)

 うなぎは「蒲焼」が王道だろうが、ややさっぱりとした白焼きは店主の技が味を左右するので、今回は両方を楽しめるものにした。とても楽しみである。

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中とろ2人前分

 今回はウナギの追加は予定せず、店内のメニュー表にあった「中とろ」(1人前1300円)を同時注文した。こちらも店主の目利き、それに包丁さばきは冴えわたっており、ウナギと同様、とても上品な味わいだった。

 これでもう、この日の目的の大半は果たしたと思うのだが、せっかく、Sさんが念入りな下調べをして旧東海道ぶらり散歩の味わい深いルートを調査してくれていたので、腹ごなしが必要なこともあり、京浜急行を使って川崎宿へと向かうことにした。

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京急川崎駅。上が本線、下が大師線

 Sさんの当初の計画では京急川崎駅で降り、そこから多摩川右岸に向かい、「六郷の渡し跡」から旧東海道歩きを始めるというものだった。しかし地図を確認すると、川崎駅からだと「渡し跡」までは旧東海道を行って来いすることになる。このため、川崎駅では降りず、大師線に乗り換えてひとつ先の港町(みなとちょう)駅に向かい、そこから多摩川右岸に出ることにした。

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川崎と小島新田とを結ぶ大師線

 大師線の利用は今回で3度目だ。前の2回は川崎大師駅から京急川崎駅へ向かうときに利用したので、小島新田行き(下り)の利用は初めてだった。この日は南武支線大師線とローカル線を2度も利用でき、「白蒲重」ほどではないにせよ、満足度が非常に高い体験を得た。しかも、さら旧道歩きという”おまけ”(本当は主目的)付きなのである。

 大師線は川崎大師への参詣客か臨海地区にある工場街への通勤客が大半という印象が強いが、現在では多摩川右岸側に大規模マンションが林立し、大型ショッピングモールも進出が著しいため、家族連れの姿が多くなったようだ。といっても印象評価でしかないが。

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港町駅にあった美空ひばりの看板

 港町駅の北側にはかつて「日本コロムビア」があり、1957年、この町周辺を題材にした歌『港町十三番地』が作られ、美空ひばりが歌って大ヒットした。会社は九番地にあったそうだが、歌詞にはゴロの良い十三番地が用いられた。後述するうように多摩川右岸にある港町は六郷の渡しの発着所があったことから古くから港の町として栄えていたようだ。

 私は1回だけ、川崎港を利用したことがある。50年近く前のことだ。車で南九州まで友人と遊びに行き、帰りは運転するのが面倒だったので宮崎発・川崎行きのカーフェリーを利用した。値段は高かったものの僅か19時間で川崎港の浮島桟橋に着いた。現在はその航路は廃止され、浮島桟橋自体も残っていない。港町から浮島までは7キロほどある。浮島周辺であれば写真にあるレコードのカバーのような絵がかつては見られたかもしれないが、現在の港町の多摩川右岸は下の写真のようにすっかり様変わりし、内陸にある多摩川沿いの町といった趣だ。

 港町には港の風情はもはやないが、駅の接近メロディーには『港町十三番地』が用いられている。そこにだけ「港」は残っている。

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港町駅から多摩川右岸に出る

 港町駅から北に少し進むと多摩川右岸に出る。写真は上流方向を望んだもので、中央に見える橋は第一京浜国道(国道15号線)の「新六郷橋」だ。橋の南詰付近が本日の旧道歩きのスタート地点となる。

川崎宿をのんびりと散策する

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多摩川右岸側(川崎側)にある「六郷の渡し跡」

 旧東海道の整備が始まったのは1601年。当初には「川崎宿」はなく、設置されたのは1623年のことだ。多摩川には「六郷橋」が架かっていたので、川崎は単なる通過点でしかなかったようだ。しかし、暴れ川である多摩川はしばしば氾濫して橋が流され、そのたびに人々は右岸側に留め置かれた。そこで「川崎宿」の整備が始まったのだ。その後も橋の設置、流失が続いたが、1688年には橋の設置は断念され、船による渡しが明治初期(1874年)まで続いた。

  ところで、東海道とは何を指すのだろうか?道としての東海道であれば国道1号線や15号線、または東名高速を意味するのだろうし、東海道本線東海道新幹線など鉄道路を示すことがある。旧東海道と言うと通常は江戸時代に整備された53の宿場を有する日本橋から三条大橋までの道を指す。が、元々は律令体制における「行政区域」として定められた「五畿七道」のうちのひとつである「東海道」を表していた。畿内を中心としてその東側は日本海側が「北陸道」、内陸部が「東山道」、太平洋側が「東海道」に分けられた。

 東海道というと東京から神奈川、静岡、愛知、京都、大阪辺りをイメージするが、七道での東海道には当初、武蔵国(東京、埼玉、神奈川の一部)は含まれず、東山道に属していた。国府が府中にあったので、太平洋側というより内陸地という印象が強かったのだろうか?一方、千葉(上総、下総、安房)や茨城(常陸)は東海道に属していた。

 道の基本は国府をつなぐように(これを駅路という)整備されたので、今の東海道や江戸時代の旧東海道とは一致しない点も多々あるのだろう。反面、山野には「けものみち」が自然にできるように、人の移動も都合の良い場所が選ばれることが大半なので、律令国家時代の駅路とその後に整備された道には共通する部分はかなり多いとも考えられる。『更級日記』の作者の菅原孝標女や『とはずがたり』の作者の後深草院二条は千葉や東京、神奈川、静岡を歩いているが、そこに描かれている場所は今でもよく知られているところが多い。

 もっとも、都市は政治的に造られる(江戸府内がその典型)こともあるし、日本列島は隆起や火山活動、地震動、付加などで姿を変えやすいために、より高い利便性を求めてルート変更されることもありうることは容易に想像できる。また、海上輸送の進展・拡大によって内陸ルートより沿岸ルートがより繁栄しやすいという面があることも否めない事実だ。ことほど左様に「東海道」といってもいろんな道が考えられるのだが、それを言ってしまうとどこを歩いて良いのか迷うので、江戸時代に定められ、かつ「旧東海道」として世間一般に認められている道を下ってみることにした。しかし、一般常識を有しているのはSさんだけで、あとの二人は常識とはおよそ縁遠い存在であるゆえ、今までの来し方同様、行く末も道を踏み外すことは必至と思われた。何しろ、出発点が子安のうなぎ店なのだから。

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道を踏み外さないための案内標識

 六郷の渡し跡を離れ、いよいよ旧東海道を下ることにした。Sさんは今回の下見を含め何度も旧道を歩いているので間違いはないのだが、Kさんと私のような非常識人がルートから外れないように、渡し場の近くには写真のような案内標識があった。

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歩道に設置された石標

 矢印が示す通りに横断歩道を渡ると、写真の石標が見えた。このやや狭い通りが旧東海道のようである。

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通りは狭いがよく整備されている

 写真のように道幅は狭いが、車線幅に比して歩道幅はしっかり確保されており、旅人がゆったりと歩けるようになっている。また、電柱が地中化されていることも、歩道の表面が石畳風になっていることも、川崎市旧東海道に対する強い思いが散策者にも伝わってくる。

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歩道に鎮座する変圧器の側面も標識に使われている

 電柱が地中化されると変圧器は地上に置かれることになる。少し邪魔な存在ではあるが、こうしてその側面が案内標識に用いられると、違和感は大きく減じる。

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変圧器の正面のペイント

 変圧器の正面には二代目歌川広重が描いた「大師河原」の絵が忠実に復元されている。ヒロシゲブルーがなかなか見事だ。

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小さいが、由緒はあるらしい川崎稲荷社

 本町交差点の右手に写真の「川崎稲荷社」があった。1716年(享保元年)、紀州藩主の吉宗が八代将軍継承のために江戸下向の折、川崎本陣近くにあるこの稲荷社の境内で休息をとったとされている。この説明書きから、かつての境内はかなりの広さを有していたと考えられる。

 私たちが訪れた日の午前中は何かの行事があって、参拝者や参詣者には餅が配られたのだと、役員らしき人とすれ違った折に、彼はやや申し訳なさそうに告げてくれた。私たちは「大丈夫ですよ」と返答したのだが、もちろん、その時分はうなぎを食していたということは申し述べなかった。ましてや「特白蒲重」の肝吸付きであるということは。私にも、その程度の常識はある。

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東海道川崎宿交差点

 写真の場所は京急川崎駅のすぐ近くで、この近くに田中本陣や佐藤本陣があった。さらに高札場もあった場所なので、この周辺が川崎宿の中心地だったと考えられる。写真の左手、丁度、白い車が顔を出しているその後ろにあるベージュ色の建物が、今回の数少ない立ち寄り場所である「東海道かわさき宿交流館」である。

かわさき宿交流館にて

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東海道かわさき宿交流館

  Sさんが私たち二人に紹介したいと考えたのが写真の「東海道かわさき宿交流館」だ。2013年秋に開館したこの施設には、川崎宿に関連する資料だけでなく、川崎の今昔など市の歴史や文化、川崎ゆかりの人物紹介など、川崎宿川崎市の魅力を多角的に取り扱っている。

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2階展示室内の床。川崎宿の地図が描かれている

 川崎宿についての詳細な写真と解説だけでなく、情報装置や装置模型などをふんだんに使用してその魅力を分かりやすく表現している。床には川崎宿の地図が描かれており、道の絵の周りに主な見どころが紹介されているので位置関係がとても理解しやすくなっている。また、室内には解説員がいるので不明な点について尋ねると懇切丁寧に説明してくれる。

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川崎宿の史跡が写真付きで説明されている

 写真は、川崎宿の史跡を解説しているパネルがある場所。ここで宿場周辺の見どころがチェックできる。これを見ると、この交流館に来るまでには立ち寄っていない史跡が数か所あったようだが、道すがらSさんはそれらについて触れることはなかった。特に重要とは考えていなかったのか、それらはKさんや私が興味を示さないであろうということは先の2回の鎌倉散歩での経験で「お見通し」だったからなのか?たぶん、その両方が理由だったと推察した。何しろ、二人の話題の中心はうなぎや中とろが美味しかったということについてだったからである。

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記念撮影スポット「六郷の渡し」

 同階には「川崎宿模型」や「江戸時代の旅とその道具」の展示もあるが、私が気に入ったのは写真の記念撮影スポットだ。浮世絵に描かれた六郷の渡しの様子を拡大したものが置かれており、船頭と旅人の顔の部分がくり抜かれているというどこの観光地でもよくある装置だ。三人の中で女役にふさわしい容貌のものはいなかったが、船頭役となれば私以上に適する者は皆無なので、当然、私がモデル役となった。

 3階には川崎ゆかりの人物が紹介されていた。印象に残っているのは「坂本九」と「佐藤惣之助」だ。坂本九は歌手としても大活躍しヒット曲も多いが、私の中では「御巣鷹の尾根」に日航123便が墜落し、その犠牲者の一人であったということがもっとも印象に残っている。佐藤惣之助は偉大なる俗物ともいうべき存在で、文学史に残る傑作はものにしていないが、釣りに関する著書を数冊出していることを評価したい。一般には『赤城の子守歌』『人生の並木道』の作詞者として知られているかもしれない。ただ、これは高齢者にだけ知られている。それなら、『大阪(阪神)タイガースの歌』なら若い人にもよく知られているかもしれない。この歌の通称は『六甲おろし』である。川崎宿に関して言えば、佐藤惣之助は「佐藤本陣」直系の人物であって、この宿場では名家なのだ。何しろ彼の生家跡には現在、川崎信用金庫本店が鎮座している。

遊女の供養碑文に感動する

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宗三寺には遊女の供養碑(供養塔)がある

 写真の宗三寺は曹洞宗の寺で、京急川崎駅のすぐ南側にある。京急川崎駅に到着したとき、Sさんから宗三寺には「遊女の供養塔」があるということは聞いていたし、旧東海道を歩けばその寺の前を通るということも聞いていた。

 寺は「かわさき宿交流館」のすぐ近くにあった。Sさんから「宗三寺に寄りますか?」と尋ねられたとき、すぐには反応できなかった。が、「遊女の供養塔がある場所ですよ」と言われてその存在を思い出したのだった。

 本堂は少しだけ立派に見える程度で、他にいくらでもある寺ぐらいにしか思えなかった。しかし、境内の北外れ(つまり京急川崎駅寄り)にある「遊女の供養塔」まで案内され、その石碑を見た刹那、深い感動を覚えた。

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今回の徘徊で最高に感激した供養碑と供養塔

 川崎は宿場町であり、港町であり、漁師町でもあった。近代では工場の町でもあった。当然のように、そうした場所には花街、色町、歓楽街があったし現在もある。そこには望まざる事情で働いていた女性たちが多く存在した。彼女たちの荒まざるを得なかった心を鎮魂するための供養碑と供養塔が境内の片隅にあった。

 碑文の冒頭の三文字には「紅燈巷」とある。「紅燈巷=紅灯の巷(こうとうのちまた)=花街」で、つまり「紅灯の巷」は花街、色町の隠語なのだ。私が読んできた大衆小説には「紅灯の巷」という表現が何度か出てきたのでその意味するところは若い頃から知っていた。しかし、石に刻まれた三文字を見たのはこれが初めてだった。

 私はこの碑文を目にしたとき、すぐに中島みゆきの『紅灯の海』という作品を思い出した。1998年3月に発売されたアルバム『わたしの子供になりなさい』に収録されている曲だ。中島みゆきの作品の中でもっとも気に入っているのはアルバム『EAST ASIA』(1992年)に収録されている『誕生』だが、『紅灯の海』はその次に位置するほどの傑作だ。

 作品名を初めて見たとき、なぜ「赤灯」ではなく「紅灯」なのかと訝った。釣り人や船乗りにとって「赤灯」は港の出口の左側にある赤灯台を指すことは常識だったからだ。しかし曲を聴いたとき、これは「赤灯台」の「赤灯」のことではなく「紅灯の巷」の「紅灯」であることがすぐに了解できた。初見では「海」に引きずられて解釈しようとしたのだが、「海」は海そのものではなく「巷」の隠喩だったのだ。そのことは歌詞の全体を読めばすぐに分かることだった。一部には「紅灯の巷」に迷い込んだ男の切なさを表現したとあるが、これはもちろん誤りで、花街で働かざるを得なかった女性の切なさ、悲しみ、そして大いなる覚悟を表現したものであることは明らかだ。「巷」ではなく「海」という直截(ちょくせつ)的ではない表現に、中島みゆきの凄みが込められている。

 石碑と供養塔に触れた私は、旧東海道を歩いたことの意味と意義を深く理解し、形状しがたい満足感を得た。番外に極上の味わいを得て、本番では感性を揺さぶり、そして磨き、さらなる高みへ飛翔可能な出会いを得た。これらだけでも、今回の散策は100点満点の220点だった。まだスタートしたばかりだけれど。

道は続き、淡々と歩く

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八丁畷駅近くにある芭蕉の句碑

 宗三寺を離れ、旧道を西へ進んだ。砂子(いさご)通りを経て小土呂橋交差点に出た。旧道と直角に交わる新川通りの下にはかつて「新川堀」があった。堀があったころには「小土呂橋」が架かっていたようで、交差点の脇には、その橋に用いられていた2本の親柱が保存されている。横に当時の写真と由緒書があったが、堀はかなりの悪水路だったようだ。多摩川筋からはそう遠くはないので、その堀は旧多摩川が残した水路跡かもしれない。

 さらに西へ淡々と進み、私が南武支線から京浜急行に乗り換えた八丁畷駅近づいた。畷(なわて)とは「あぜ道」のことで、多摩川鶴見川に挟まれたこの周囲は平坦な土地なので田んぼとして利用されていたのだろうか。ここまで来ると、もはや川崎宿の賑わいとは別の世界が開かれている。

 旧道と京浜急行線との間に、写真の「芭蕉の句碑」があった。

「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」

 元禄七年(1694年)の5月、江戸を離れて故郷の伊賀上野に向かう際、川崎宿のはずれにあったこの地の茶屋で弟子たちと別れを告げ、上記の句を残した。その年の10月、伊賀上野の地で、芭蕉は51年の生涯を終えた。次の句を残して。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 この二つの句は、芭蕉の作品でなければ後世には残らなかったと思われるほど感傷をそのまま表現したものだ。どんな天才であっても、晩年は普通の人として過ごすのかもしれない。死において、人の存在は平等なのだろう。

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八丁畷駅横にある「無縁塚」

 八丁畷というのは、川崎宿の端から市場村(鶴見)まで八丁(870m)ほど真っすぐなあぜ道が続いていたことから命名されたようだ。この辺りで働いていた庶民は、なんの名も残さずに生涯を終えた。そんな人々の冥福を祈るために写真の無縁塚が築かれた。遊女の供養塔といい無縁塚といい、川崎に住む人の心は優しい。というより、人は誰でも優しさと我欲を同時に有しており、たまたま優しさが表層に現われた際に、利他的な行為が具現化されるだけなのかもしれない。

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市場村に築かれた一里塚

 かつては街道の一里ごとに「一里塚」が道の左右に置かれていたようだが、現存するものはほとんどなく、写真の市場村の一里塚は日本橋から五里(約20キロ)のところにあり、日本橋から旧東海道を散策する人にとって初めて目にすることができる塚だそうだ。赤い鳥居には「稲荷社」の文字があり、その向こうに小さな祠がある。

 なお、市場はこの地区の旧名で、鶴見には大きな海鮮市場があったことから命名されたようだ。ここは鶴見区、私たちの散策は川崎市を離れ、横浜市に入ったのだ。

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鶴見川橋。下流は護岸整備が進み趣に欠ける

 鶴見川は「氾濫」と「汚染」のイメージが強い。長さは42.5キロありながら、源流域の標高は125mほどなので勾配が緩いためもあって蛇行しやすい。源流域にはいくつもの谷戸があるが、一般には町田市上山田町にある田中谷戸を源流点としている。同じ多摩丘陵谷戸から発した多くの中小河川を集めているため水の増減が激しく氾濫をおこしやすい。また、中下流域は大都市に近い場所にあるために開発されやすく、実際かなり市街化が進んでおり、それが河川の汚染につながっている。名前は優雅だが、それとは裏腹に汚染度は日本でも有数に高い。氾濫を防ぐために護岸化が進んでいるので興趣をそぐが、護岸整備が進んだことで散策路も多く造られており、流域に住む人の親水度は高いようだ。

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鶴見川左岸に咲く菜の花

 整備された護岸の傍らには菜の花畑があった。その先にある河津桜若木も開花を進めていた。今春は草花の開花が全般的に早いようなので、春の花探し散策を早めに始める必要がある。

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万延元年に造られた鶴見関門。慶応三年に廃止

 安政六年(1859)に横浜港を開港したことで幕府は世情の不安を感じ、万延元年(1860)に川崎宿保土ヶ谷宿との間に見張り番所(関門)を造った。文久二年(1862)に生麦事件が起きると幕府はさらに関門を増やし、川崎宿から保土ヶ谷宿の間には20もの関門が造られた。写真の鶴見関門は川崎宿から5番目に数えられるものだ。世情が安定化に向かった慶応三年(1867)に鶴見関門は廃止され、翌年に写真の碑が建てられた。関門がすべて廃止されたのは明治四年(1871)だった。

鶴見神社と総持寺

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川崎・横浜で最古の鶴見神社

 鶴見神社は7世紀の初め頃に創建された川崎・横浜では最古の神社とされている。古くは杉山神社と称され、武蔵国六の宮と考えられてきた。しかし、鶴見川流域には杉山神社は多く、この神社が六の宮かどうかは確定されていない。

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狛犬の台座は溶岩

 この神社でもっとも興味深かったのは狛犬の台座が溶岩であったこと。これは後述する富士講と関係があるのかもしれない。

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境内の東側には神社が整列している

 鶴見神社の本殿は改修工事中だったが、奥にある富士塚に少しだけ興味を抱いたので、本殿横を通って奥に向かった。途中、写真のように「大鳥社」「関神社」「秋葉社」などいくつかの神社が整列していた。私たちの前には信仰心が篤そうな人がいたが、彼はそれらのひとつひとつに参拝していた。信仰心のない私はそれぞれをちらりと見ただけで、ほとんど素通り同然だった。

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奥に鎮座する富士塚

 社殿の奥にはたくさんの溶岩が積まれており、その先にあったのが写真の富士塚である。富士山信仰(富士講)は江戸時代中期以降に盛んになったので、鶴見神社も旧東海道の近くに位置するために写真の富士塚を造営したのだろうか。狛犬の台座を始め、境内のあちこちに溶岩が多くある。富士山から運んだものだろうか?日本は火山列島なので、溶岩は何処でも入手できるが。

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なんでもでかい総持寺の建造物

 旧東海道からは少し離れるし、能登半島から移転してきたのは1911年のことなので、写真の総持寺は旧道とは何の関わりはないが、この機を逃すと立ち寄ることはないと思うので、今回の散策の終着点としてこの場所を選んだ。

 総持寺曹洞宗の寺なので「道元」の名が煌びやかに掲げられていると想像したのだが、その名は特に見当たらず、太祖瑩山の名のみがあちこちで見られた。総持寺は「総本山」を名乗っているが、曹洞宗の総本山といえば永平寺を思い浮かべるのだが、そちらは高祖道元の総本山で、こちらは太祖瑩山の総本山のようだ。

 曹洞宗と言えば他の鎌倉仏教が末法思想を背景に置くのに対し、あくまでも末法の世をであることを否定し、正法の時代に相応しい修行を推奨する。それは座禅に基づく「身心脱落(しんじんだつらく)」であり「修証一等」であると私は教えられ、そう理解してきた。それゆえ、総持寺の佇まいに触れた際には「違和感」以外の何物も抱かなかった。

 それは上の写真の「太祖堂」であり、以下に挙げる各建物のすべてに通じるものだった。何しろ、建造物のすべてが異常とも思えるほど壮大なのである。座禅であれば畳半帖でも広すぎるくらいであり、座禅修行そのものが悟り境地(四諦の了解)なのだから、大きな建物は、いや建物の存在すら不要なのだと思うのだが。

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広い参道を歩きまずは三松関へ

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三松関の先にある大きな三門(山門)

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かるた会がおこなわれていた三松閣

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歴史を少しだけ感じさせる仏殿

 JR鶴見駅のすぐ西側にある鶴見が丘(下末吉台地)にあり、参道口の標高は6m、太祖堂横の標高は36mと、沖積低地からでもその偉容を見て取ることが可能だ。

 宗教はその発展において世俗化は必至なのだろうか。キリスト教浄土真宗も世俗化することで規模が拡大した。もちろん、その過程で権力との結びつきを強めた。

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太祖堂内でお参りする人々

 私には信仰心はまったくなく、こうして堂内に立ち入ってもただ風景のひとつとして眺めるだけだ。神社仏閣にはよく訪れるのだが、最近はこうして参拝する人が増え、しかも若い参拝者を多く見かけるようになった。それだけ、先行きに対する不安が増大しているのだろうか。新型コロナウイルスへの異常なる恐怖心の流布も今の時代を反映している。

 脱呪術化は遠き道のりだ。

〔34〕多摩丘陵・「聖蹟桜ヶ丘」周辺散歩

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桜ヶ丘公園内にある「旧多摩聖蹟記念館」

聖蹟桜ヶ丘の「聖蹟」とは?

 京王線には「聖蹟桜ヶ丘」駅がある。府中駅から京王八王子駅方面に進むと、「分倍河原」「中河原」の次がこの駅になる。前々回の後半に書いたように、小学生のとき「ただ券」が入手できたときには中河原駅までよく行っていたので、次の駅が「聖蹟桜ヶ丘」であることは知っていた。「せいせきさくらがおか」と読むことも知っていた。しかし、「せいせき」が何を意味するかは知らなかった。「多摩聖蹟記念館」の最寄り駅であることは知っていた。実際には近いというほどではないし、何しろ徒歩で記念館に行くには丘に上がらなくてはならない(駅と記念館の比高は79m)ので、それはやや厳しい道のりなのだということは大人になってから知った。しかし、何を「記念」しているのかは知らなかった。というより、「記念館」と名前が付くものには何の興味もなかった。

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聖蹟桜ヶ丘駅前を望む。「せいせき」の文字が見える

 玉南電気鉄道(現京王線)の関戸駅が1937年に聖蹟桜ヶ丘駅に改称されたのは、30年に「多摩聖蹟記念館」が開館したことに由来する。しかし、この駅が現在のように多摩市の中心部として発展する切っ掛けとなったのは京王帝都電鉄(現京王電鉄)が多摩丘陵を切り開いて桜ヶ丘分譲地を建設したことによる。電鉄ではこの土地の価値を釣り上げるため、聖蹟桜ヶ丘駅を特急の停車駅とした。また、88年には新宿にあった電鉄本社を聖蹟桜ヶ丘駅前に移転したことも、この駅が京王線の主要駅になった要因だ。駅周辺には京王グループのビルや店舗が数多くあり、「せいせき」「Keio」の文字をよく見掛ける。

 「聖蹟」とは貴人などが訪れた史跡をあらわし、とくに昭和初期からは天皇行幸地を言うようになったそうだ。が、東京近辺で「聖蹟」の文字が残っている場所は意外に少なく、わずか4か所しか探すことはできなかった。「聖蹟」は1871年の太政官布告によって法律用語になったけれど、1945年には廃止された。天皇が「聖」なる存在から「人間」さらに「国民統合の象徴」になったのがその理由だろう。

 「聖蹟」の地名が残る場所では「聖蹟桜ヶ丘駅」がもっとも有名で、次に「旧多摩聖蹟記念館」、三番目に大田区蒲田3丁目にある「聖蹟蒲田梅屋敷公園」、四番目に品川区北品川2丁目にある「聖蹟公園」だろうか。「梅屋敷公園」へは明治天皇は9回、「聖蹟公園」へは1回行幸している。前者は「観梅」のため、後者は旧東海道品川宿の本陣があった場所のためなのか、即位後の1868年に1回だけ行幸している。

 一方、桜ヶ丘にはかつて「連光寺村御猟場」があった(1881~1910年)ので、明治天皇は1881年、82年、84年に兎狩のため、81年には鮎漁のためにその地を訪れている。これを記念して1930年、田中光顕や地元の人々の協力によって記念館が建設された。

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現在は旧多摩聖蹟記念館として幕末明治期に活躍した人の書画などが展示されている

 記念館がある一帯は都立桜ヶ丘公園として整備されている。後に挙げるように「ゆうひの丘」は展望が良く、都心部や多摩地区の街並みや多摩川の流れ、関東山地の山並みが見られるために人気スポットになっている。

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聖蹟記念館周辺の散策路

 記念館周辺は散策路が整備されている。多摩丘陵の尾根上をのんびりと歩ける道だけでなく、丘陵の麓にある公園に降りるコースが何本か整備されているため、体力増強目的の人も訪れている。また樹木がよく茂っているため、バードウォッチング目的の人も多く、高級カメラに超望遠レンズをセットし、頑丈そうな三脚を担いでベストポイントを探している人もよく見かける。

多摩丘陵について少しだけ考える

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ゆうひの丘から多摩の街並みを望む

 多摩丘陵を語るときは、必ずといっていいほど『万葉集』にある下記の歌が挙げられる。

 「赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ」

 7世紀半ばの朝鮮半島の戦乱によって九州北部にも動揺が伝わり、その防備のために防人(さきもり、ぼうじん)の制度ができた。武蔵国からも3年の任期で招集がかけられ、人々は多摩丘陵の尾根を伝って、あるいは尾根を越えて東海道に出て西進し、難波津からは船で瀬戸内海を進んで北九州に至った。防人に任じられた武蔵国の人々にとって多摩の横山(多摩丘陵)は旅立ちの地でもあり、永遠の別れの地でもあった。

 多摩丘陵の成立が古相模川に関係しているということは前々回(cf.32・普通の府中市)に少しだけ触れているが、今回はさらにもう少しだけ考えてみたい。

 500万年前頃、火山島だった古丹沢はフィリピン海プレートの移動によって本州弧の端にあった関東山地(小仏山地)に衝突した。この衝突によって海底谷が埋められて地上に現われ、これが古相模川となった。同じころ、火山島であった古伊豆の前域には西にあった火山からの火砕物が大量に堆積し、その一部が後に三浦半島の基盤となる三浦層群となった。

 300万年前頃からは現在、多摩丘陵の基盤となっている上総層群が火砕物によって堆積し、100万年前には古伊豆が丹沢に衝突し、伊豆半島として本州に付加される一方、その影響で丹沢山塊は激しく隆起した。

 50万年前頃、古相模川は東北東方向に流れていて、現在の東京湾あたりに注いでいた。また、相模湾の沖には隆起した海底が地上に現われ、三浦島を形成していた。古相模川は東北東側に扇状地を形成したが、これが開析されて多摩丘陵北西部(御殿峠礫層・多摩Ⅰ面)を造った。30万年前にはさらなる隆起によって三浦島は本州につながり、古三浦半島が出来上がった。この結果、多摩丘陵の南東部と三浦半島の丘陵部は細長くつながった。なおこの頃、現在の川崎市西部では古相模川の旧河口域に砂礫が堆積し、これが「おし沼砂礫層」(多摩丘陵・多摩Ⅱ面)となった。

 13万年前は最終間氷期で、温暖化による高海面期が続き、現在の川崎市鶴見区を中心とする下末吉地域は海進堆積物に覆われ、その後の隆起によって現在の下末吉台地が形成された。

 2万年前が最終間氷期の最盛期で、年平均気温が8度低くなったことで海面は現在よりも130mほど低くなった。このため、三浦半島は古東京川(多摩川と荒川が合流してできた)を挟んで房総半島と陸続きになった。一方、6000年前には温暖化が進み海面は現在よりも2~4mほど高くなった(これを縄文海進という)ため、東京湾は今以上に広かった。

 このように、プレート移動などによって地形は変化し続けているので、どの時点で多摩丘陵が形成されたのかを決定することは困難である。現在、多摩丘陵と三浦丘陵を一体のものとして捉える見方が一部に広がっている。双方を合わせて「いるか丘陵」というのだそうだ。下末吉台地を含めた広義の多摩丘陵三浦半島の丘陵地をある高さの線で囲むと、ジャンプしたイルカの形を描くことができるというのがその理由らしい。かなり強引な線引きのような気がするのだが。

 多摩丘陵と三浦丘陵は連続しているのは事実だが、多摩丘陵や三浦丘陵北部の基盤は上総層群であるのに対し、三浦丘陵南部の基盤はより古い三浦層群なので、成り立ちは前述したように異なっている。反面、どちらの層も海底堆積物から成立し、フィリピン海プレートに乗って北上し、プレートの沈み込みによって上部がはぎとられて本州弧の南面に付加されたことは確かなので、付加体という点では同属といえるかもしれない。

都立桜ヶ丘公園付近を歩く

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桜ヶ丘公園上の遊歩道から富士を望む

 冬になると、私は聖蹟記念館がある都立桜ヶ丘公園によく出掛ける。前回の「かたらいの路」よりも自宅から近く、公園内には無料駐車場があり、聖蹟記念館へは坂を上らずとも近づくことができるからだ。もっとも、記念館にはめったに近寄らず、次に挙げる「ゆうひの丘」からの展望を楽しむことが多く、丘に向かう途中では上の写真のような景色が望めるからだ。

 撮影場所は、公園のもっとも東にある「あそび広場」の上方にある遊歩道上で、写真のように丹沢山塊の最高峰である蛭が岳(標高1673m)やその左の丹沢山(1567m)やその右の大室山(1587m)、そしてその背後にそびえる富士山がよく見える。この写真にはないが、視線を少し右に向けると私の大好きな大菩薩連嶺も見て取れる。

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ゆうひの丘に続く遊歩道

 上の撮影場所から「ゆうひの丘」方向に進むと、今度は車道の反対側に写真のような木製の遊歩道が整備されている。ここから眺める丘陵の斜面もなかなかのものだが、今回はここではのんびりせずに先を急いだ。

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ゆうひの丘にある休息所

 遊歩道の終点から右手を見ると、ゆうひの丘にある休息所が見えてくる。その向こうに、多摩地区の街並みが広がっているのが分かる。

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ゆうひの丘のヘリ。展望は相当に良い

 ゆうひの丘は夜景ファンにはお馴染みの場所で、「夜景ランキング」で全国2位になったことがある。街の灯が点り、関戸橋を行き交う車のライトが交錯し、京王線が橋を渡る様子も幻想的だろう。とはいえ、私はその夜景に触れたことは一度もない。

 桜ヶ丘公園の駐車場は午後4時半に施錠される。そのため、夜間には路上駐車が絶えないようで、地元の人々は大変迷惑を被っているようだ。「夜景ランキング」で上位に入って以来、ネットでこの場所を検索して訪れるカップルが急激に増加したらしい。現在はかなり厳しい取り締まりをおこなっているので迷惑駐車は減ったらしいが、近所には個人住宅が多いため、騒音に悩まされている住民はまだまだたくさんいるようだ。

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丘の斜面にも降りられる

 丘の上(標高125m)からだと左右の林に視界が遮られるので、少し斜面を下ってみると眺めは一段と良くなる。あいにく、右手前方には「桜ヶ丘ゴルフコース」があってその丘陵地帯に都心の中心方向の視界は遮られるものの、都内のビル群の先には筑波山を見てとることも可能だ。

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聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みと関東山地

 ゆうひの丘からやや西側を望むと、聖蹟桜ヶ丘駅周辺の街並みがよく見える。左にあるタワーマンションは天辺付近の造形が特徴的なので、遠くからでも「あれが桜ヶ丘駅近くにあるマンションだ」ということが分かり、格好のランドマークになっている。

 写真中央にある駅ビルの上方に写っている正三角形の頂を有する山が蕎麦粒山(1473m)で、この地点からは遠くに見えてその存在ははっきりしないが、羽村市飯能市日高市毛呂山町越生町などから望むと、その特徴的な山頂がはっきりと分かる。それは丁度、多摩地区からは大岳山がはっきりと見て取れるごとくにだ。

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正面には狭山丘陵の連なりが見える

 丘の北側を望むと、狭山丘陵の連なりがよく分かる。円形の屋根を有する建物は「メットライフドーム」(西武ドーム)だ。中望遠レンズを用いているのでやや大きく見えるが、その存在は肉眼でもはっきり分かる。空気が澄んでいれば、前回に挙げたように狭山丘陵の後方には、雪を抱く榛名山赤城山男体山、日光連山、足尾山地の姿が視認できるのだが。今冬は、例年に比べてその山容に触れられる機会はずいぶんと少ない。「赤城颪(おろし)」の空っ風はどこに消えてしまったのだろうか。木枯し紋次郎はいずこへ。

多摩丘陵の尾根道を進む

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聖蹟記念館交差点

 ゆうひの丘を離れて写真の交差点(標高136m)まで戻った。正面に見える道がゆうひの丘に至るもの、左に入ると駐車場、そして聖蹟記念館(132m)、右に降りると川崎街道・連光寺坂上交差点(124m)、手前側に進むと京王相模原線若葉台駅に至る。今回は尾根道を歩いて見たかったので、若葉台駅方向に進んだ。

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連光寺交差点

 尾根を走る都道137号線を南に進むと、写真の連光寺交差点(132m)に出る。写真は南側から北方向を見たものなので、右が東側になる。この丁字路を左(西側)に進むと連光寺聖ヶ丘にある住宅街に至る。

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連光寺交差点の東に広がるゴルフコース

 連光寺交差点の東側には「米軍多摩サービス補助施設」(Tama Hills Recreation 
Center)が広がっている。戦前には日本陸軍の弾薬庫があったところで、戦後に米軍が接収し、現在ではゴルフコースを中心としていろいろなレジャー施設がある。日本人の利用も認められているが、入場の際にはパスポートの提示を求められる。わが愛する多摩丘陵上にある広大な敷地(東京ドーム41個分)の主権はアメリカにある。

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多摩大学多摩キャンパスの東の高台にある八坂神社

 私のパスポートはとっくに有効期限切れになっているので「タマヒルズ」には入場せず、都道をさらに南に進んだ。道はゆっくり上り坂になり、右手には多摩大学多摩キャンパスの建物が見えてくる。といっても、大学の敷地は都道の西側にあって、そのベースの標高は139mで、一方、写真の八坂神社前は154mなので、大学の施設は上方だけ顔をのぞかせている。

 写真の神社はそれほど大きくはないが、右手に見える巨木(ご神木・スダシイ)は多摩市指定の天然記念物で、幹のウロの中には白蛇が住んでいるという伝説があるそうだ。階段を上がると小さな社がある。その左手(北側)に「天王森公園」の看板があり、「多摩市最高地点・標高161.7m」と表記されている。頂上は「公園」というほど広くはないが、「天王森」の名は、八坂神社の祭神が「牛頭天王素戔嗚尊(すさのをのみこと)」であるからだろう。

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橋上から尾根幹道路(稲城側)を望む

 八坂神社を出て少し南に進むと「南多摩尾根幹線道路」を跨ぐ橋に出る。その幹線道路は「尾根幹」と呼ばれていて、その道の北にある「多摩ニュータウン通り」と並んで、多摩地区と相模原とを結ぶ重要な道路になっている。かつてはそれらのさらに北側を通る野猿街道ぐらいしかなかったので、府中市から橋本・津久井方面に出掛けるのはとても不便だった。

 尾根幹道路は多摩丘陵の尾根上を走るというより、多摩丘陵の「多摩Ⅰ面」と「多摩Ⅱ面」を横切るように通っているためにアップダウンが激しく、なかなかスリリングな道になっている。もっとも、写真の辺りの区間については私はほとんど利用せず、もっぱらこの日のように橋上から眺めることがほとんどなのだが。

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都道から「みはらし緑地」方向を望む

 尾根幹道路を跨いでさらに南に進むと、右手側(道路の西側)に2つの大きなタンクが立っているのが見える。タンクがある敷地の入り口には「東京都水道局連光寺給水所」とあった。住所は多摩市聖ヶ丘4丁目である。タンクの向かい側(道路の東側)には高い電波塔がそびえていた。「東京都防災行政無線多摩稲城中継塔」の名があった。住所は稲城市若葉台4丁目である。つまり、私が歩いてきた都道は市境を通っていることになる。

 中継塔の南側には「みはらし緑地」があり、公園として整備されている。一番高い場所の標高は158mあり、稲城市の最高地点だそうだ。足下の若葉台住宅地の景観も興味深いが、ここからは都心や川崎、横浜方向の景色が一望できることもある。ただし、この日のゆうひの丘では男体山筑波山が見えなかったので、ここでの眺望もあまり期待してはいなかった。

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都心方向もなんとか確認することはできた

 写真のように、やはり空気は透明度がやや低く、都庁やスカイツリーはなんとか確認できたものの、前にここを訪れたときに比べて眺望はだいぶ劣っていたのが残念だった。この辺りには駐車場がないために今回のようにこの場所を訪ねる場合は都道をてくてくと歩く必要がある。次回は、ゆうひの丘の見通し具合でここまで来るかどうかを判断しようと思った。

 高台から降りて都道に戻り、また南へと進むことにした。「みはらし緑地」の南側にも電波塔がある。それがある敷地の入り口には「東京ガス多摩ガバナステーション」との表記があった。東京ガスと電波塔とは結び付きそうにないが、この塔は地デジ放送の中継基地としても使われているらしい。「地デジ」はあくまで間借りなので、東京ガスは何の目的でこの塔を建てたのかは不明のままだ。

 ひとつ上の写真は、都道を南に進んだところにある陸橋を越えた場所から「みはらし緑地」方向を眺めたものだ。左の白いタンクが水道局の、中央の電波塔が東京ガスの、右の電波塔が防災無線用のものだ。そして、その右側にある森が「みはらし緑地」の高台である。撮影地点の標高は140m、給水タンクと防災無線の電波塔がある位置は150m、東京ガスの塔の場所は146mだ。

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道は標高を下げつつ若葉台駅方向に進む

 都道をもう少し南に進むと道は左にカーブしながら尾根から下り始める。若葉台駅に行くには、左手に稲城台病院を見つつ「京王電鉄若葉台工場」の手前の交差点を右折する。その右折点(稲城台病院入口交差点)の標高は120m。そこは尾根からは離れたところなので今回はそれ以上先へは進まず、来た道を戻ることにした。

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「多摩よこやまの道」入口の標識

 みはらし緑地を撮影した場所(標高140m)の西側には写真の標識があった。多摩市が整備した「多摩よこやまの道」の入り口にあたる場所で、周囲は「丘の上広場公園」になっている。ここを始点として遊歩道は多摩丘陵の尾根伝いに約10キロ西へ進み、多摩市唐木田付近に至る。基本的には尾根幹道路の南側の尾根を進むことになる。以前から歩いてみたいとずっと考えてきてはいるのだが、まだ実現には至っていない。
葉っぱがなく見通しの良い今の時期が最適だと思ってはいるのだが。

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橋上から尾根幹道路(多摩市・町田市側)を望む

 帰りにも尾根幹道路を橋上から眺めた。今度は多摩市、町田市側である。遠くに見える山の連なりは丹沢山塊で、左の大山(1252m)から中央の丹沢山、蛭が岳、右の大室山まで山塊の全貌を見ることができる。蛭が岳と大室山の間には、ひょっこりと富士山も顔をのぞかせている。光線の具合でかなり見づらいが、空気が澄んだ午前中であれば山並みはずっとはっきり見て取れる。

聖蹟桜ヶ丘駅から桜ヶ丘を歩く

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いろは坂桜公園から聖蹟桜ヶ丘駅方向を望む

 スタジオジブリの作品はかなり見ているが、いずれもテレビ放映されたものだけで映画館で見たことは一度もない。テレビで見ているだけなので判断は一面的かもしれないが、とくに「傑作」と思えるものはひとつもなく、かといって「駄作」もなく、すべて「佳作」ぐらいだと考えている。仮に再放送があるにせよ2度目はまずない。ただし、以下の2作品以外は。

 2011年の作品である『コクリコ坂から』は今一度見る可能性は高い。ストーリーは平凡であるにせよ、主題歌が大好きだからだ。この作品では『さよならの夏』を手嶌葵が歌っているが、スローなテンポの編曲は映画の内容には合っていると思う。しかし、本家の森山良子バージョンは日本歌謡の最高傑作といっても過言ではなく、詞、曲、歌い手、編曲のすべてがほぼ完璧だ。これは1976年のテレビドラマの主題歌に用いられたが、当時はほとんど注目されなかった。私自身、この歌に接したのは80年頃だ。

 宮崎駿は早くから『コクリコ坂から』という漫画(1980年)に注目し、いずれはアニメ化したいと考えていた。その際、主題歌は『さよならの夏』を用いると心に決めていたらしい。アニメ作品の監督は凡庸な息子の宮崎吾朗がおこない、宮崎駿は脚本を書いた(丹羽圭子と共同)のだが、駿は吾朗に『さよならの夏』を主題歌にするよう提言した。『さよならの夏』のコクリコ坂バージョンは森山良子版とは詞が微妙に異なっている。先に述べたように曲調もかなり異なる。コクリコ(ヒナゲシ、ポピー、虞美人草を意味する)という語調からは手嶌葵バージョンでも十分鑑賞にたえるし傑作とも言いうる。それでも、森山バージョンを古くから知っている(ジブリ映画の前にこの曲を知っていた友人・知人は皆無だった)私としては満点は上げられない。それでも、この曲に触れられるというだけで、『コクリコ坂から』はまた見てみたいと思う。

 もうひとつのジブリ作品が『耳をすませば』(1995年)だ。この作品を知っている人は、「聖蹟桜ヶ丘」との関連はすぐに気付くに相違ない。というより、ジブリの名を本項で挙げた刹那にこのことはぴんと来るだろうし、それが直感されない人はジブリファンとは到底呼べない。

 このアニメ映画はその多くが聖蹟桜ヶ丘駅とその周辺を舞台に描かれている。映画での駅名は「杉の宮」だが、改札口や駅前の風景(アニメでもKeioの名が出てくる。cf.本項2枚目の写真)から明らかに「聖蹟桜ヶ丘駅」と分かる。さらに主人公(雫)が渡る橋、上る坂(いろは坂)や階段、地球屋があるロータリー、雫が歩く大栗川沿いの道など実在する場面がとても多い。このため、聖蹟桜ヶ丘は『耳をすませば』ファンの聖地になっており、今でも訪れる人は多い。「サンリオピューロランド」以外に「売り物」がない多摩市(聖蹟記念館や多摩ニュータウンではもはやあまり人は集まらない)でもこの映画の評判と聖地化を「売り」にしている。京王線でもこの映画の主題歌である『カントリー・ロード』を聖蹟桜ヶ丘駅の接近メロディーに用いている。

 2020年、『耳をすませば』の実写化が発表され、今秋にも公開されることが決まった。雫の10年後の姿が描かれるそうだが、私にはストーリーについてはとくに興味はない。どうせ凡庸なものに違いないだろうから。重要なのは、ロケ地として聖蹟桜ヶ丘が選ばれるかどうかだ。ただその一点だけに関心がある。

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聖蹟桜ヶ丘駅多摩丘陵との間を流れる大栗川

 聖蹟記念館周辺を歩いた翌日、今度は聖蹟桜ヶ丘駅から丘陵地付近を歩いた。前日はまずまずの天気だったが、当日は写真からも分かるとおりの曇り空。それでも雨に降られる心配はなさそうなので出掛けてみた。

 府中駅から京王線に乗り桜ヶ丘駅で降り、映画の場面そのままに駅前の風景を撮影し、主人公の雫が歩いたとおぼしき道(いろは坂通り)をしばしトレースした。雫は大栗川に架かる橋を渡っていろは坂に向かう。写真は、その橋(霞ヶ関橋)から大栗川上流とその南にある丘陵地を写したものだ。

 前々回にも触れたように、大栗川は古相模川の流路跡であり、八王子の御殿峠付近を水源として多摩市を東北東方向に流れ下り、多摩市連光寺1丁目付近で後述する乞田(こった)川と合流し、すぐに多摩川に至る。

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坂上からいろは坂を望む

 雫が上るいろは坂の右手には父親が勤める図書館があるが、現実の世界には存在せず、その空間には「いろは坂桜公園」がある。その公園前から道はぐんぐんと多摩丘陵を上っていく。Uの形をした急カーブが4か所ある。この風景が日光のいろは坂に似ているところからこの名が付けられた。大栗川に架かる霞ヶ関橋の南詰の標高は55m、撮影場所は95m、この道のピークは112mある。ちなみに駅前は53mなので、丘陵上にある住宅に行くためには59mの高低差を克服する必要がある。散策する人や「聖地」を訪ね歩く人以外は写真にある京王バスや自家用車を利用しているようで、私がここを歩いて上ったときには数人しか出会わなかった。

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いろは坂を直登する階段

 写真はいろは坂を直登する階段で、ここも聖地のひとつだ。アニメではここを雫が駆け下りる場面が印象的に使用されている。

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階段を上ったところにある金毘羅神社

 階段を上った左手にあるのが写真の金毘羅神社で、やはり映画では象徴的な場面に使われている。このためなのかどうかは不明だが、境内にはおみくじの自動販売機が設置されていた。人はどうして運不運を知りたいと思うのだろうか。写真の場所の標高は107mだ。

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映画ではもっとも重要な場面に使われているロータリー

 いろは坂を完全に登り切った場所(標高112m)には桜ヶ丘浄水場があり、そのまま道を進むと写真のロータリー(106m)に出る。映画にもロータリーが出てきて、そこに最も重要な舞台である「地球屋」があるのだが、実際には存在しない。地球屋のモデルになったのは「桜ヶ丘邪宗門」という名の喫茶店だが、10年ほど前に閉店し現在では「桜ヶ丘いきいき元気センター」に様変わりしている。

 その代わり、ロータリーに面した場所(写真右手の建物)にカフェやレストランがあり、聖地巡礼者はここで思いにふけり、またはしばしの休息をとっているようだ。ご苦労様である。

巡礼の旅から丘陵の徘徊者に戻る

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ロータリーと鎌倉街道の間にある原峰公園

 いろは坂通りはロータリーを過ぎて多摩ニュータウン方向に降りていくが、私はそちらへは進まず、桜ヶ丘住宅地から原峰公園に向かった。この公園は住宅地側はよく整備されていて、遊具施設や池、それに桜ヶ丘コミュニティーセンターなどが園内にある。しかし、雑木林を抜けて旧鎌倉街道方向に進むと未整備というか忘れられた存在というか、写真のような壊れたままの休憩所があったりする。今の時期は木々には葉がなく見通しはやや良いので森を抜けるにもさほど抵抗がないが、暖かくなって木々が葉をまとい虫たちも活動を始めると、雑木林を抜けるには大きな不安感・抵抗感を抱くことになると思えた。敷地は結構広く、鎌倉街道側に抜けるには便利なルートだと思うが、住宅地から私がたどった道を通る人は皆無だった。散策に訪れる人すら見掛けなかった。

 公園の整備された場所の標高は94m、写真の廃屋のある場所は79m、旧鎌倉街道に出た場所は66mだった。多摩丘陵の東斜面を利用した、やや不思議な存在感のある公園だ。

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乞田川の上流方向を望む。多摩ニュータウンの建物が見える

 原峰公園の旧鎌倉街道口から離れて、新鎌倉街道に出た。乞田川を見るためだ。写真の乞田川は多摩市の鶴牧あたりを水源とする小河川で、前述のように連光寺1丁目辺りで大栗川に合流する。水源とされる鶴牧付近はニュータウンの一角として開発が進んでおり、近くには小田急多摩線唐木田駅がある。鶴牧の南側には多摩丘陵が広がり、一帯はゴルフ場になっているため、丘の形は原型を留めていない。唐木田駅の南側には小田急唐木田車庫があり、その山側が多摩市と町田市との境になっている。その境界付近が丘陵の分水嶺と思われる。標高は高いところで153mある。この分水嶺の下辺りが乞田川の水源地と思われる。

 乞田川は大栗川と同様に古相模川の流路跡とされる。今回は取り上げていないが、町田市小野路付近(標高138m)を水源としてよみうりランドの北側を通り、川崎市多摩区布田付近で多摩川に流れ込む三沢川も、大栗川や乞田川と同様に古相模川の流路跡であると考えられている。

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武相霊場7番や多摩八十八か所霊場16番など由緒ある関戸観音

 乞田川を離れ、再び旧鎌倉街道に戻った。「霞ヶ関保全緑地」の存在が気になったからである。先述した金毘羅神社の東にあって開発の手を逃れているのがその保全緑地で、いちばん高い場所の標高は112m。桜ヶ丘住宅地の中では浄水場のある場所と並んで一番高い場所だ。ただし、この保全地区は北側が急峻な崖となっているため開発が不能なので、自然のままの緑地として保存されたようだ。旧鎌倉街道からその高台を見上げると、頂上付近(105m)には住宅がいくつか並んでいるが、その上方に緑地が残っているのが分かる。それらを間近に見たいと考えて旧道に戻り、高台を目指すことにした。

 写真の関戸観音は、旧道から住宅地に至る小道のすぐ北側にあった。寺は道の高台にあるが、入口付近の標高は62mで、旧道(54m)と高さにはさほどの違いはない。

 この寺の正式名は慈眼山唐仏院観音寺で、1192年、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのが起源とされる。1333年の関戸合戦はこの寺付近でおこなわれた。北条泰家率いる鎌倉幕府勢は分倍河原の戦い新田義貞率いる反幕府側に敗れ、多摩川を渡ったところにある「霞ノ関」付近で再び相まみえた。が、北条軍は再度敗れ、結局、その戦いの6日後に鎌倉幕府は滅亡した。

 霞ノ関は関戸とも呼ばれ、多摩川の渡し場の要衝でもあった。関戸合戦では多くの死者を出したため、この寺では毎年の5月にその供養をおこなっている。このため「関戸観音」と呼ばれるようになったそうだ。

 写真のキャプションにあるように、多摩地区にある寺としてはかなり重要な存在のようで、上に挙げた以外にも、多摩川音霊場12番、多摩十三仏霊場5番、京王観音霊場23番の各札所になっている。

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関戸観音前から原峰公園を望む

 関戸観音がある高台の向かいにはかなり広い空き地があり、その先に原峰公園の森が見えた。その風景を撮影したのだが、実際には公園よりも手前の夏ミカンの存在が気になった。ミカンは柿に次ぐ第二番目の好物(果物の部)だからだ。

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昨日歩いた尾根筋が見えた

 桜ヶ丘2丁目住宅地に入った。東方向を眺めると昨日歩いた尾根筋が見えた。この日は曇っているために視界は良くないが、それでも先に挙げた建物群が視認できた。左から、多摩大学の校舎、連光寺給水所、東京防災無線の電波塔、みはらし緑地、東京ガスの電波塔が整然と並んでいる。

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霞ヶ関は多摩市が本家

 多摩市にも霞ヶ関があることは以前から知っていた。多摩市の中心地である「関戸」や府中市と多摩市とに架かる橋名は「関戸橋」なので、「霞ヶ関」は関戸の雅名ぐらいに考えていた。しかし今回、写真の「霞ヶ関公園」を訪れたことで、その名の由来を少し調べてみたくなった。

 広辞苑で「かすみがせき」を調べると、「東京都千代田区の一地区。桜田門から虎ノ門にかけての一帯。諸官庁がある。」と出ており、これ以下にも少し叙述があるが、いずれも千代田区のものにだけ触れており、多摩市の「霞ヶ関」はまったくでてこない。鉄道の駅には東京の地下鉄に「霞ケ関」があり、東武東上線には「霞ヶ関」がある。千代田区の地名は現在「霞が関」だが、駅名は旧来の「霞ケ関」を使用している。「霞ケ関」と「霞ヶ関」との違いは「ケ」と「ヶ」だ。

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京王バスの停留所には「霞ヶ関橋」がある

 京王線の駅名は「聖蹟桜ヶ丘」(かつては関戸)で「霞ヶ関」ではないが、いろは坂通りには写真のようなバス停がある。先述した、『耳をすませば』の主人公である雫がいろは坂に向かう途中で大栗川を渡った橋が「霞ヶ関橋」だ。

 千代田区の「霞が関」か川越市の「霞ヶ関」か多摩市の「霞ヶ関」のどれが本家であるかには論争があるようだ。このうち、『江戸名所図会』にある千代田区霞ケ関の記述には誤りがあるようなので、まず本家争いからは外れる。その誤りとは「霞が関は西に高き岳あり。東向きの所なればふじはみえず」とあるからだ。東京の霞が関の西には高い山はないからだ。高いビルなら無数にあるが。高い山が丹沢を指すにしても富士の姿は見えなくはない。一方、埼玉の「霞ヶ関」は『新編武蔵風土記稿』に「徒らに 名をのみとめて あつまちの 霞の関も 春そくれゆく」の歌が挙げられており、かつての信濃往還にある信濃坂の近くには「霞ノ関」があったらしいので、こちらが本命かもしれない。

 それに対し、群書類従に収録されている『廻国雑記』(1487年)には著者が駿河国から武蔵国を訪ね歩いた際、「霞ノ関、恋ヶ窪、宗岡、堀兼の井、入間川」の順に巡ったとあるので、この「霞ノ関」は多摩市の霞ヶ関であることは明らかだ。実際、霞ノ関の場所には1213年、鎌倉幕府の要請で関所が設置され、関戸地区には「霞ノ関南木戸柵」が復元されている。

 こんなわけで、写真の「霞ヶ丘公園」(標高71m)の存在が気になったので、霞ヶ関保全緑地の天辺方向には向かわず、公園のほうに立ち寄ってしまったという次第なのだ。

サクラ並木と大桜に出会う

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サクラ並木を下って霞ヶ関橋に向かう

 公園からは桜ヶ丘東通りを北に進んで大栗川に架かる霞ヶ関橋に向かった。その途中に、写真の桜並木があった。通りにあるヨメイヨシノはいずれも老木で、桜ヶ丘住宅地が開発された際に植えられたのだろうか。だとすれば樹齢は50年を超えているはずだ。ソメイヨシノは老いると背は高くならず、枝を横に広げるようになる。写真右手にあるサクラは電柱や電線、そして住宅に阻まれて十分に枝を伸ばすことは容易ではない。この点、写真左手のサクラは遮るものがほとんどないので、伸び伸びと枝を広げている。

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公園の斜面にあったサクラの大木

 前の写真の斜面側(左側)は桜ヶ丘1丁目緑地として整備されている。その斜面の中ほどに1本の大木があった。この古老のサクラは地面すれすれまで枝を広げ、鶴翼の陣の構えだ。花の頃は抜群の景観だろう。私は桜ヶ丘に関してもそれなりに歩き回ったつもりだったが、この老木の存在は知らなかった。偶然、この木に出会えたのは霞ヶ関公園が存在したお陰である。ときとして、寄り道は大きな発見に結び付く場合がある。
 開花までにはまだ2か月近くある。しかし、枝々の先にある花芽は少しだけ膨らみを見せている。今冬は寒さが続かないので、花芽の「休眠打破」は少し遅れるかもしれない。

 「耳をすませば」花が呼吸する音は、確かに聞こえる。いや実際に。これで、いいのだ。 

〔33〕「とはずがたり」に「かたらいの路」を語る~多摩丘陵散歩

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高幡不動尊の見晴台から府中、都心方向を望む

まずは「高幡不動尊」から多摩丘陵

 鎌倉時代末期に記されたとされる『とはずがたり』は、後深草院二条(本名不詳)が14歳から49歳までを回想するという形式をとる日記文学だ。前半3巻には作者が後深草院の女房(宮中に仕える女官)であったときの数々の情交が生々しく記され、後半2巻では31歳で出家した二条が諸国を遍歴した記録をはじめ、終盤では後深草院崩御やその菩提を弔う様子を記している。前半の愛憎劇はそれなりに面白みがあるが、徘徊好きの私としてはやはり後半の2巻に心惹かれる。二条は西行法師の影響を受け、後世の松尾芭蕉と同じように「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」(おくのほそ道)、歌枕を求めて各地を旅した。

 「清見が関を月に越えゆくにも、思ふことのみ多かる心の内、来し方行く先辿られて、あはれに悲し」

 「富士の裾、浮島が原に行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば……煙も今は絶え果てて見えねば、風にも何かなびくべきとおぼゆ」

 「業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、『尋ね来し かひこそなけれ 隅田川 住みけむ鳥の 跡だにもなし』」

 以上は巻四からの抜粋だが、前回少し触れた『更級日記』同様、「清見が関」(静岡市清水区興津)、「富士山の噴火」、「在原業平の和歌=『名にし負わば いざこととはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』」など同じ歌枕や人物を描いているのは平安・鎌倉貴族の基礎教養なのだろうか?

 俗世を捨てて出家した彼女だが、それでも煩悩は捨てきれずに後深草院との情交を回顧するなど、世俗的な欲望を完全に断ち切り「遁世者」として自由に生きることはできなかった。その悔悟と苦悩が「とはずがたり」せざるを得ない行為として客体化されたのだ。そのおかげで、750年後に生きている私は、その艶めかしくも美しい日記に触れることができているのだが。

 今回は、3年ほど前まではよく徘徊した多摩丘陵の「かたらいの路」を久しぶりに歩いてみた。この道の基本コースは高幡不動尊境内から丘陵地に入り、多摩動物公園の北側フェンスに沿って尾根道を西にたどり、旧多摩テック方向へ進むルートである。しかし、私の場合は、多摩テック方面にはあまり行かずに、住宅街を西に抜けて平山城址公園へ進むのが好みだった。今回もそのルートを取ったため、「かたらいの路」を完全にトレースしたわけではない。

 多少、アップダウンのある道を進むのだが、大半は丘陵の尾根伝いに開かれた道のため、高低差は40m程度(標高131~173m)でしかない。ただし全ルートでは、高幡不動尊の仁王門がある場所の標高は約69m(いつものように国土地理院・標高の分かるweb地図参照。以下、標高や約を省略する場合あり)、尾根道の最高点は173mと比高(高低差)は100mほどになるので、全ルートを歩くことを考えると少しの苦労ぐらいはあると言えなくもない。

 「かたらいの路」とはいえ、ここへは一人でぶらりと出掛けることが大半なので、誰かと語らいながら歩くわけではない。しかし、現地で出会う人とはときおり言葉を交わす場合があり、そんなときには「問われて」から語り始める。が、ときには「問わず語り」までしてしまうこともあるし、今回のように誰にも問われていないのに勝手に「かたらいの路」について「とはずかたり」を始めてしまうことすらある。

 基本的には尾根道を歩くので周囲は林ばかりだが、ときには視界が開けて山麓や遠くの街並み、多摩地区に住む人々にはなじみ深い山の連なりを見通すことができる場所もある。とくに冬場は木々が葉っぱたちを脱ぎ捨てるため一層、見晴らしは良くなる。が、今冬はまるで春の初めのような天気が多いためにやや湿気が多く、以前に訪れたときよりも遠くの景色は少し霞んで見える。冒頭の写真は高幡不動尊境内にある巡拝路の見晴らし台から府中市にある3棟のタワーマンション、ならびに都心のビル群やスカイツリーを望んだものだが、乾いた北西風が強い真冬らしい天候の日であれば、遠くの景色もはっきりくっきり見えるのだが。それが少し残念な日和だった。

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仁王門前の交差点から高幡不動尊の境内を見る

 高幡不動尊については以前述べている(cf.17・浅川旅情)ので今回はあまり触れない。 不動尊へはいつもは車で行くのだけれど、一月は参拝する人も多いだろうから駐車場探しが大変になるかもと考え、さらに平山城址公園駅まで歩く予定もあるため、珍しく電車で出掛けた。京王線高幡不動駅からは徒歩3分で写真の仁王門前に着くので電車利用でもアクセスは便利だ。初詣はいつまでに行えば良いのかは不明だが、一年間の無事を祈願するのだから早い時期のほうが良いのは当然だろう。個人的には祈願する気持ちは全くないのでどうでも良いことなのだが、初詣の意味合いからすると「一月中」というのが答えになるだろうか。ともあれ、一月中旬であっても結構な人出があった。

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土方像や五重塔より、「かき」の存在が気になった

 前に紹介したように高幡不動尊は私が敬愛する土方歳三菩提寺であり、写真左手の露店の上に見えるように土方歳三像がある。また、整備された五重塔もこの不動尊を代表する派手な建造物で遠くからでもよく目立つ。今回は境内を抜けてすぐに「かたらいの路」を進む予定なので、双方ともちらりと見上げるだけで目指す方向に歩を進めようとした。が、その前に露店に並んでいる「あたご柿」が気になり、像や塔よりも山盛りの柿に惹きつけられてしまった。柿は果実の中ではもっとも好きな存在だからだ。

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山内八十八ケ所巡拝路入口

 かたらいの路へ進むには北山麓の平地にある不動尊の中心部から坂を上がって境内の南側に至る必要がある。かたらいの路は丘陵の尾根筋にあるのだ。したがって、境内の森(多摩丘陵自然公園)にある道を南方向に上ることになる。歳三像と五重塔との間にある道を入るとすぐに大きな立て札が目に入る。写真の「山内八十八ケ所巡拝路入口」の表札は「かたらいの路」方向へ進むルートに当たるため、この場所が「かたらいの路」の出発点と勝手に考えた。

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巡拝コースには何番札所かを示す表札と空海像がある

 四国八十八ケ所霊場巡りは私にとって永遠の課題となっている。車移動中心の霊場巡りは何度もおこなっているが、歩き遍路は未経験だ。年齢を考えると、1300キロすべてを歩き通すのは不可能だし、今までの経験から思うに、歩き遍路といっても移動には一般車道を用いることが意外に多いので、歩き甲斐のある道だけを選んでとぼとぼと進もうと考えてきた。が、釣りへの関心がますます高まっているので、一年365連休(今年は366連休)の生活なのになかなか時間が取れないというのが実情になっている。

 高幡不動尊にあるような八十八ケ所巡りは各地にあって、その多くは四国八十八ケ所を巡るのと同じご利益があるという「うたい文句」が掲げられている。不動尊の巡拝路は約一時間で完歩できる。これで本場と同じご利益があるとはとても考えられないし、そもそも私の場合は「ご利益」そのものの存在を認めていない。ただ、巡りたいという気持ちがあるだけだ。

 当初は最短コースを通って境内裏に出る予定だったが、写真のような表札があると「十一番札所は何という寺だったか?」と考え、その名が浮かぶと今度はその寺がたたずむ風景を思い出そうとし、かつその行為が楽しく思えたので、すべてとは言わないまでも少しだけ寄り道をすることにした。

 写真の「十一番霊場」は徳島県吉野川市(表札では麻植郡だが現在は吉野川市)にある「藤井寺(ふじいでら)」だ。八十八ある寺の内、「じ」ではなく「てら」と読むのはこの寺だけだ。一番の霊山寺(りょうぜんじ)から十番の切幡寺(きりはたじ)までは比較的平坦なところを通る撫養(むや)街道沿いにあるため、歩き遍路でもほとんど困難さはない。八番の熊谷寺(くまだにじ)と十番の切幡寺が少しだけ街道から丘に上がる山寺風だが、私の足であってもまったく問題はない。十一番の藤井寺は街道を離れて一気に南下することになるが、それでもまだ四国山地の北山麓にあるため、その寺の標高は35mに過ぎない。しかし、次の十二番焼山寺(しょうざんじ)が関門で標高は705mある。十一番との比高は670mだが、途中には750m地点、430m地点がある。つまり、藤井寺から一気に715m上がり、320m下っては385m上がることになる。通常は6時間コースと言われているが、歩き遍路を試みる人の多くは750m地点で断念するらしい。折角、頑張って高みまで来たと思ったらまた一気に下りそしてまた上るという行く末を思い、残念無念にも麓に降り、徳島線鴨島(かもじま)駅で涙に暮れるのだ。こうした難所はいくつか先にも控えており、お遍路の行く手を阻むことから「遍路ころがし」と呼ばれている。私の場合は初めから「ころび遍路」のため、難所は車やケーブルカーを使った。

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二十四番は室戸岬にある最御崎寺(ほつみさきじ)

  二十四番札所は最御崎(ほつみさき)寺で室戸岬の高台にあり、境内の標高は165mもある。二十三番の薬王寺から土佐(高知)最初の札所である最御崎寺までは国道55号線を南下して75キロ進み、最後に国道の標高9m地点から急坂を156m上ることになる。ここも「遍路ころがし」のひとつだ。私は相当の昔、磯釣りに出掛けるために雨中の国道55号線を車で走っていたとき、大雨の中びしょ濡れの姿で室戸岬方向に歩を進めるお遍路の姿に触れた。このときから、私の霊場巡りは始まった。それまで何度か四国には出掛けていたものの霊場にはまったく関心がなく、たとえば足摺岬に出掛け三十八番札所の金剛福寺が駐車場の目の前にあっても立ち寄ることはなかった。それが、雨の舗装路をひたすら歩き続けるひとりのお遍路の姿に数秒触れただけで、四国霊場巡りという趣味が私に加わったのだ。私は「狂なるもの」に興味を惹かれる。

 空海(俗名佐伯真魚)は、室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれる隆起海食洞で悟りを開いたとされ、そのとき彼が目にしたのは空と海だけだったので「空海」を名乗るようになったとされている(異説多し)。私は空と海との間にある岩場で、いまだ悟りは開けずただ磯釣り(鮎釣りも堤防釣りもだが)ばかりしている。釣りに関しては片目ぐらいは開いたと思っているのだけれど。

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見晴台から高幡不動駅周辺の街並みを望む

 巡拝路は境内の南側にある標高128mの愛宕山を取り巻くように整備されているので、ところどころに見晴らしの良い場所がある。写真は「見晴らし台(標高120m)」として整備された場所から足下の景色を写したものだ。立川市方向に伸びる多摩都市モノレール、画面を横切る多摩川とそれに架かる石田大橋も見える。

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見晴台から国分寺市方向を望む

 中望遠レンズを使って、少し詳細に周囲の景観を撮影することにした。上の写真は国分寺市方向を見たもので、右の2棟は国分寺駅の、左の1棟は西国分寺駅の近くにあるタワーマンション。 下の横に連なる茶色の帯は多摩川の土手だ。

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都心方向を望んだもの

 都心方向を中心に写してみた。中央にはスカイツリー、右手には新宿駅西口の高層ビル群や都庁などが見て取れる。冒頭の写真にある景色のやや右寄りを見たものだ。

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立川駅方向を望む。遠くには男体山が微かに見える

 立川駅方向を見た。中央は立川駅の西にある高層ビルだが、その右側にうっすらと見えるのは日光の男体山、ビルの左手に見えるのは赤城山だ。空気が澄んだ晴れた冬の朝方ならもう少しはっきり見えるはずだ。多摩丘陵からは、足尾山地、日光連山、赤城山榛名山の姿を見て取ることができるのは案外知られていない。筑波山だって十分に見える。なお、低い位置に横たわっているのは狭山丘陵だ。

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西側には関東山地の連なりが見える

 見晴らし台では西側が林で展望が開けていないので、巡拝路に戻って関東山地が望める場所に移動した。左からピークをたどっていくと、奥側にあるのが大菩薩連嶺(2057m)、その右が三頭山(1531m)、雲に霞んでいるが奥側に飛竜山(2077m)、手前側に奥多摩湖のすぐ横にそびえる御前山(1405m)、隣はご存じ大岳山(キューピー山、1267m)、その右の手前の連なりの一番右側が御岳山(929m)、その奥側には2つのピークが重なり合って見えるが、右のほうが鷹の巣山(1737m)、すぐ左のピークが雲取山(2017m)、雲取山に向かい合ってやや尖った山頂をもつのが芋の木ドッケ(1946m、ドッケは鋭い頂という意味)、右にたどって酉谷山(とりだにやま、1718m)、一番右にある少し手前側の小ピークの連なりが有間山(1213m)だ。府中市多摩川左岸側からもこれらの山々は晴れて澄んだ日には見えるのだが、高幡からとは見え方が微妙に違うので少し異なる表情に接することができて嬉しくなる。

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中望遠レンズで大岳山周辺をのぞいた

 今度は中望遠レンズで多摩地区のランドマークである大岳山周辺をのぞいてみた。中央の大岳山は、やはり「キューピー山」の俗称に恥じない姿をしている。左の御前山は、小河内ダムへ遊びに行く人にとってはお馴染みの山だ。右手には前述のようにピークが重なって見えるが、右側のやや反り返った頂をもつのが鷹の巣山で、後ろにある左側がややなだらかなピークをもつのが東京都の最高峰である雲取山だ。大岳山の右に連なるやや平坦な尾根をもつ山が鍋割山(1084m)で、写真に入れ忘れたがその右に続くのが御岳山の奥の院(1077m)となる。

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大好きな大菩薩連嶺の雄姿

 私は幼い頃から大菩薩連嶺を望んでいて、これらの山が雪を被った姿を見て、南アルプス赤石山脈)と勘違いをしていた。小学3年の頃だったと思う。今はそんな思い違いはしない。国道20号線を大月市方向に進むと大菩薩はよく見えるし、そのまま笹子トンネルを抜けて日川筋に北上すると大菩薩湖(1476m)や上日川峠(1545m)に至る。この道が好きで何度も出掛けたことがあり、そこでは間近に大菩薩嶺を見ることができる。峠からは高低差は500mほどなので、京王線高尾山口(190m)から高尾山(599m)に登るよりやや厳しい程度だ。それでも気象条件は相当に異なるので、手軽なハイキングと洒落込むわけにはいかない。熊が顔を出すことも多いようだし。私は山を見るのは大好きだが、山に登るのは好きではない。

 イギリス人の登山家であるジョージ・マロリーはエベレストに登る理由を問われて「そこにエベレスト(山)があるから」と答えたが、私が「なぜ山に登らないのか」と問われたら「山に登るとその山が見られないから」と答える。本当は、ただ無精なだけなのだが。

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秩父の山もなんとか望めた

 秩父方向もなんとか望めた。左のピークは大持山(1294m)、右のピークは秩父の象徴である武甲山(1304m)だ。右の2棟のタワーは国分寺駅北口の、その右に見えるのが立川駅の高層マンションだ。

高幡不動尊を抜けてかたらいの路の山道を進む

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高幡不動を抜けて住宅街に入る

  巡拝路から離れ、かたらいの路を進むとすぐに写真の住宅街に出る。ここの標高は115mなので、高幡不動尊の境内にあった巡拝路入口を示す表札のところからは45mほど上った場所が不動尊境内と南平一丁目の住宅地という境外との境となる。聖界と俗界のボーダーであるこの地点は、すでに多摩丘陵の中腹なのだ。

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かたらいの路から外れないように、住宅街にある標識通りに進む

 しばらくは住宅地(南平一丁目、三沢五丁目)を歩くことになるが、写真のように分岐点には道標があるのでこれにしたがって進めば山道の入り口にたどり着くことができる。

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写真の「南平東地区センター」の建物が目印

 道標通りに進むと写真の「南平東地区センター」が見える。この地点の標高は131mだ。住宅地内でもすでに16mほど上ったことになる。この辺りが住宅街の分水嶺となり、北側は野猿(やえん)街道まで下りその地点は79m、南は京王線多摩動物公園駅近くまで下り、その地点は93mである。したがって、この住宅街の天辺付近に住む人は、京王線南平駅(78m)からだと53m、動物公園駅からでも38mの高さを上る必要がある。多摩丘陵を削って造られた住宅地なので道もかなり急勾配であり、路面が凍結する時期では車の移動ですら難儀しそうだ。

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南平東地区センターの上(山道入口)から見た都心方向の景色

 東地区センター横の階段を上がり、かたらいの路は住宅街から山道に入る。その入り口(標高138m)から都心方向を眺める。新宿の高層ビル群やスカイツリーまで見通せる。

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ハイキングコースはよく整備された道になっている

 かたらいの路は、かつては野猿峠ハイキングコースと呼ばれ、しばらくは左側に多摩動物公園のフェンスを見ながら進むことになる。

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武州江原山講社。とくに云われは記されていない

 道を進むと、間もなく写真の「武州江原山講社」(標高156m)の新しい建物が見えてくる。とくに由緒書がないので詳細は不明だが、木曽の御嶽山への登拝の安全を祈願するための講社なのだろうか?

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コースは小さなアップダウンが続く

 かたらいの路は小さなアップダウンを繰り返しながら西へ進む。写真のように大半は左手に動物公園との境界を示すフェンスがある。右手には麓の住宅街や遠くの山々が樹木の間から顔をのぞかせる。

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道は下りに入り、展望の良い場所に至る

 道は南平住宅の南端に至るため徐々に標高を下げていく。写真の足元の地点で141mで、住宅地の手前で北側の林が途切れるために視界が開けてくる。

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今まで視界に入らなかった丹沢山塊の姿も見えるようになる

 道は南平二丁目住宅の南端に降りる直前に北側の樹木が伐採されていることで視界が大きく開ける。関東山地だけでなく、一部ではあるが丹沢山塊を代表する山も見えてくる。左のピークは丹沢の最高峰である蛭ヶ岳(1673m)、右のピークは大室山(1587m)。大室山は丹沢山塊の北西側に位置し、山の北側には道志川津久井と山中湖を結ぶ「道志みち(国道413号線)」が通っている。私の地元の府中市からもよく見え、雲に隠れた富士山の位置を探す手掛かりとなる山であり、鮎釣りで何度も訪れている道志川の位置を他人に教えるランドマークとなる山でもある。

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真西方向には人気の高尾山がよく見える

 大室山方向から視線をやや右に向けると、近年、ますます人気が高まっている高尾山(599m)が見える。1972年以前は標高600mと言われ、私自身もそのように記憶していたのだが、再測量の結果599.0mとなり、最新のデータでは599.3mとされている。かつて、標高を600mに戻す計画がおこなわれ、登山客に頂上まで石を運んでもらう計画が画策されて挫折したが、今ならあと20センチなので、600mまで回復することは、登山客ひとりひとりに石一個を運んでもらえば可能なのではないだろうか。何しろ年間260万人が訪れる世界一登山者数が多い山なのだから。600mにすることに意味があるとは思われないものの。

 2007年以前は平日に行けばさほどの混雑を感じなかったが、2007年のミシュラン観光ガイドから三つ星が与えられてから人気が沸騰し、さらにジジババの間に登山ブーム、健康ブームが広がったこともあって、都心の雑踏のような光景が展開されるようになってしまった。高尾山は、私が自力で登ったことのある山の最高比高(409m、599-190)であり、これを更新するためにはあと一時間頑張って隣の小仏城山(写真右側、670m)に至ればよく、比高は479mとなり自己新記録の達成となる。そのためにも是非、混雑の緩和を期待する。

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ここでも関東山地の眺めは良い

 大岳山(キューピー山)を中心とする関東山地の低山の連なりがよく見える。鍋割山の隣の御岳山奥の院(1077m)も、その右の御岳山(929m)や日の出山(902m)などがしっかり確認できる。奥側の雲取山や鷹の巣山の並びは、ここからだと重なりが弱くなっているので、はっきりと区別がつく。一方、芋の木ドッケは雲に覆われて見づらくなっている。

 手前には、最近とみに賑やかになったJR中央線豊田駅周辺の街並みや、浅川の流れを見ることができる。それにしても、日野台地上はとても速いスピードで開発が進んでいるようだ。少し速すぎるのでは、と思う。

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北側の風景。狭山丘陵や遠くの日光連山が美しい

 北方向に目を向けると、狭山丘陵の連なりだけでなく、遠くに男体山をはじめとする日光連山や赤城山が見える。高幡不動尊の「見晴らし台」からと同じ場所を見ているのだが、立ち位置が少し変わるだけでも景色がかなり異なって見えるのが、尾根歩きの楽しみのひとつである。

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山道はここで一旦終了し、少しだけ住宅地の際を進む

 山道は写真の地点(標高137m)で一旦終了し、南平二丁目にある住宅地の際を100mほど西に進む。左側のフェンスは多摩動物公園との境で、まだしばらくはこのフェンスが左側に立ちはだかっている。

再び山道へ、そして動物公園内を覗き見する

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再び山道へ。ここで見返りする

 住宅街から再び山道に入った。写真は、その住宅地方向を振り返って見たものだ。このため、今までとは逆で、右が公園側になる。一方、左側は急斜面になっていて住宅はなく、麓に都立南平高校がある。

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見返り写真。園内の「チンパンジー舎」が見える

 さらに山道を上り、再び振り返る。正面に見えるのは「チンパンジー舎」で、彼・彼女らが動く様子も見て取れた。この地点の標高は163mだ。

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柵の中央部に張られている鉄板についての但し書き

 今までの写真でお気づきだと思うが、金網の柵の中央にはずっと鉄板が張り巡らされている。視線の先の高さにあるために「目隠し」と思われるが、動物園側からのお願いとして、写真のような但し書きが至るところに張られている。鉄板は目隠しではなく、動物が柵を上って園内に侵入することを防ぐための策とのこと。この但し書きがないと、鉄板は散策者による覗きを防止するための対策だと誤解される可能性があると考えてのことだろう。最近はさして重要でないことでもクレームをつける輩が多くなっているからなのか。

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折れた幹の傷をかばう葉っぱたち

 おそらく昨年の台風によって幹が折れてしまった樹木と思われるが、その傷をかばうようにそこにだけ色づいた葉っぱが残っていた。小枝の向きからして隣の木のものと思われるが、周囲の木々には葉は散り去ってすでになく、ただここだけに残っている不思議を感じ、思わず撮影してしまった。林の中の景色としてはこれが一番、印象深かった。

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コアラ館前の広場

 散策路からは柵越しにコアラ館前の広場が望めた。金網の間にレンズを入れ、園内をのぞき見したのだ。多摩動物園のコアラと言えば、1984年に日本に初めてコアラがやって来たときに6頭のうちの2頭がここに導入された。それを見るために6時間も行列したことを記憶している。自分ではまったく興味はなかったが、半ば強引に見学同行を迫られ仕方なく行列に加わった。コアラが見えたのはほんの一瞬だったように思う。

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かたらいの路の最高点から山々を望む

 かたらいの路の最高点に近い場所(170m)にきた。動物園内はさらに高く、172m地点に「みはらし広場」が整備されている。そのこともあってか見晴らしはかなり良い。何度も挙げているように左の大菩薩連嶺から右の日の出山までを一枚に収めた。三頭山と御前山との間、写真中央付近にあるのが飛竜山(2077m)で奥秩父を代表する存在。秩父市と山梨の丹波山村との境にある。やや雲がかかり、さらに山は雪を被っているので少し見づらいが、標高170m地点だからこそ見えるのであって、府中市多摩川左岸からは背伸びしてもほんのわずかしか見ることはできない。

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低空を飛ぶ米軍機。本当に五月蠅い(うるさい)

 低空飛行訓練するC-130米軍輸送機が発する音は本当に五月蠅い(うるさい)。私はよく福生市多摩川左岸にも出掛けて山々を眺めるのだが、その際、わが愛する大岳山を中心にして爆音を発しながら低空飛行する横田基地所属の輸送機をしばしば見かける。横田空域(横田進入管制区、横田ラプコン)には一切法的根拠がないにもかかわらず、日米合同委員会によって米軍の専制的使用が認められおり、日本側はその空域を通るときはその都度、米側に許可を受けなければならないことになっている。一年前に羽田空港に着陸する飛行機の一部通過が認められ、その結果、羽田空港の増便が可能になった。が、日本の上空を飛ぶのにわざわざ米側の許可が必要であることの不条理はまったく解消されていない。C-130の低空飛行も合同委員会によって認められ、しかも合意内容を超えた無法を米側はしばしばおこなっている。この日も2機の輸送機が訓練をおこなっていた。合意の範囲内の高さだと思うが、こんな低空で日本の飛行機が飛ぶことは非常時以外にはあり得ない。

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オランウータンがいる施設を望む

 園内にある「みはらし広場」の下には写真のようなオランウータンがいる施設がある。園内からこちらを見ている2人の女性は、オランウータンではなく、カメラを構えている私の姿に驚いている、あるいは興味を抱いているようだ。おそらく、園外に散策路があることを知らないからだろう。いや、脱走したオランウータンがカメラを持って遊んでいる姿を想像して、驚きつつも興味を抱いているのかもしれなかった。半分、当たっていると言ってもいいかも。

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最高点(173m)から一気に下った場所。ここで動物園ともお別れ

 オランウータンの施設が見えた場所(170m)から道は159mまで下がるとまた上りになり写真にある送電線の下をくぐると標高173mの最高点まで上る。そして下った撮影場所(165m)が多摩動物公園と別れを告げる地点になる。この写真は最高点(送電線鉄塔が立っている場所近く)方向を振り返っているので動物園は右手に見える。そういえば、ずいぶん昔になるが、私には送電線の行方を追う趣味があった。こうして高圧鉄塔を間近に見ると、「送電線の旅」を再開したくなった。

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動物公園に別れを告げると道は徐々に下りになり、一般道に出る

 かたらいの路は多摩動物公園に別れを告げると下り坂になり、もうまもなく一般道に出ることになる。写真は、やってきた道を振り返って見たもので、写真の奥から手前側に下ってきた。公園と別れた場所(165m)からは少し上り坂となり、標高171mに達し、そこから一般道(139m)までは下りが続く。写真のように道には落ち葉がたっぷりと積もっているのでとても滑りやすくなっている。階段を設置している場所もあるが一段の落差が大きいために少し歩きづらい。といって際を歩くと滑りやすい。山道では下り坂のほうが要注意である、とくに年配者は。

平山城址公園から平山城址公園駅まで

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閉鎖された「さかい公園」

 坂を下りて一般道に出たら、かたらいの路は左折して旧多摩テック方向に進むのだが、今回は右折して「さかい公園」の北側から住宅地に入り、平山一丁目住宅の南端を進んで平山城址公園を目指すことにした。理由は、こちらのほうが楽だったから。

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「さかい公園」閉鎖の通告

 「さかい公園」で少し休息を取ろうと思ったのだが、公園の入り口は写真にある階段部をのぞいて閉鎖されていた。階段以外の入り口は車を簡単に横付けできるので、園内にゴミを投棄する人が多かったからのようだ。たしかに多摩丘陵中に車が進入できる林道には粗大ごみの投棄が目立ち、それは近年、ますます増加している。「日本人はマナーが良い」というのは一般論としては嘘で、人が見ている前では「マナー良く」ふるまうが、人が見ていないところではがらりと態度を変える場合が多い。人目がなくても神の目がある。しかし、神はいない。

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平山城址公園入口に達する

 平山城址公園は東西に長い敷地をもつ。多摩テック側から来る場合は東口が利用でき、園内を上り下りしつつ写真の場所にたどり着くのだが、今回は住宅地から京王電鉄の研修所前を通ってやってきたので、アップダウンはやや少なかった。

 写真の正門(北中央口)付近を見ると城跡風だが、それは写真の場所だけで園内にはとくに城の跡はない。「城址」よりも「公園」に重きを置き、アップダウンのある散策路で体力を増強したいという人に向いている場所だ。

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正門前から秩父方面を望む

 正門は標高168mの地点にあるため、北側の見晴らしが良い。写真中央には豊田駅の建物群があるが、遠くには有間山、大持山、武甲山の連なりが見える。その右には丸山(960m)、堂平山(876m)など東秩父に広がる山並みが見える。さすが、公園は平山氏の見張り所があったところだ。

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歩いてきた丘陵地を望む

 視線をやや右に転じると、平山住宅地の向こうに今まで歩いてきた丘陵地が見える。中央部にある鉄塔が、かたらいの路の最高地点付近にそびえていたものだ。

 こうして眺めると、鉄塔や送電線がいかに尊大な存在であるのだろうかが分かる。ちなみにこの「府中線・柚木線」は、町田市真光寺町にある電源開発西東京電力所から多摩動物公園日野バイパス(新20号線)と旧20号線が合流(または分岐)する高倉町西交差点の上を通り、八王子市石川町にある南多摩変電所から創価大学の上を通り、JR五日市線武蔵五日市駅の南にある小峰公園脇の新多摩変電所に至る。

 高圧鉄塔や送電線の雄姿にはしびれるが、高圧電流にはしびれたくない。

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城址公園の中。城跡というよりよく整備された公園

 公園内に入ってもとくに城郭だった徴はなく、丘陵地帯にある整備された公園という風情で、散策路や展望台、広場が点在する。

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湧水が集まってできた猿渡の池

 園内は凹凸が激しいため、窪地には写真のような湧水を集めた池がある。湧水というと清水をイメージするが、底に泥が堆積した沼といった感じでエビやザリガニの住処か?

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野猿峠散策路からみた柿の実

 正門を出て少しだけ西に進んだ。かたらいの路と同じ多摩丘陵の尾根にある散策ルート(背後に動物園はないが)なのでこの日はこれ以上進まずに道を戻り、平山季重(すえしげ)神社に向かうことにした。

 林を見ると、1月中旬にも関わらず柿の実が生っているのに気付いた。近所に住みこの散策路をよく歩くという人もそれには気づかなかったようで、私がカメラを向けているので初めてその存在を知ったとのことだった。柿の実は日常性の中にひっそりと溶け込んでいたのだが、柿が大好物の私はその存在をすぐに見抜くことができた。しかし、実を収穫することは不可能だ。何しろ、足元は急峻な崖だったからだ。

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平山季重神社の鳥居と祠

 平山季重神社のさほど広くない敷地(標高170m前後)は平坦だ。住宅地に向かって突き出している部分にこの神社はあるが、その左右の崖下には住宅地が広がっている。神社の東側の住宅地は標高150m、西側は135mなので、かつても突き出ていたことは確かだろうが、土地開発のために崖を掘り込んできたとも考えられるので、境内はもう少し広かったに相違ない。先ほど挙げた公園の正門付近にも広くはないが平坦な場所があり、その標高は168mなので、神社や正門がある一帯にかつて城郭があり、その城郭跡に神社が造られたとすると合点がいく。

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小さな祠は北を向いている

 神社の祠は平山季重の武勇に比してとても小さい。季重(1140?~1212?)は武蔵七党のひとつである西党を組織した日奉(ひまつり)氏の流れをくむ。武蔵国船木田荘平山郷を本領としたため平山姓を名乗った。源義朝軍に加わり保元・平治の乱で活躍し、1180年以降は頼朝の配下となった。その後、義経の平家追討軍に加わり、84年には木曽義仲軍と戦い、その勇猛果敢さは「豪座随一」と称された。一谷合戦では熊谷直実(なおざね)と先陣を競い、屋島壇ノ浦合戦でも精力的に戦った。89年には頼朝の奥州合戦に加わり、95年には頼朝の東大寺落慶供養に供奉(ぐぶ)した。

 平山城が建てられたのは15世紀半ばから16世紀前半ということなので、季重が生きた時代からは300年後となる。小さな祠は北を向いている。彼がもっとも華やかに戦ったのは義経と生きた時期だった。奥州衣川に散った義経の無念に思いを馳せているのだろうか。

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この日の終着点は平山城址公園駅

 今回の徘徊の終着点は京王線平山城址公園駅だ。この地点の標高は86m。平山季重神社の170m地点から一気に下り降りたことになる。この軽やかさは義経の「ひよどり越え」のようだと自画自賛した。

 駅の近くには平山図書館があり、それに付設された「平山季重ふれあい館」を少しだけのぞいた。季重の資料は図書館内にあるとのことだったので参照しなかったが、下の巨大な絵幕には圧倒された。それだけ、平山の地に季重は大きな存在なのだろう。

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ふれあい館の壁に掲げられた絵幕の一部

 駅で電車を待った。この駅で上りの電車を待っているとき、はるか昔にここに立っていたことを思い出した。小学校の3、4年頃だったように思う。周りにも自分と同じようなガキどもがいたので、遠足の帰りだったのだろうか?行った先はまったく覚えていないが、この駅の周辺で遠足先といえば平山城址公園以外にはなく、しかし、公園には子供が学んだり楽しんだりする場所はない。が、この駅であったことは確かで、駅舎は新しくなり、周囲の景観もまったく変わってしまっているはずなのに、ホームのすぐ横にあった家の庭の木の存在は記憶にある。それは柿の木だった。実がたくさん生っていた。それだけはしっかり覚えている。当時から一番好きな果物だったからだ。

 かたらいの路でとはずがたりに語るもの。それは「柿」である。 

〔32〕普通の府中市(2)~その町中を歩く

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大國魂神社の随神門と参道を望む

転換の10世紀

 菅原孝標(すがわらのたかすえ、10~11世紀の人)は菅原道真の直系という名門の出身でありながら平凡な人生を送った。受領国司として上総介・常陸介の任についたことは判明しているが、これは両国が「親王任国」だったからその記録が残っているにすぎない。晩年もどこかの国司として赴任しているが、その国名は定かではない。桓武天皇平城天皇などが子沢山だったことから親王家に充てる官職が不足したため、「常陸国」「上総国」「上野国」の三国を「親王任国」に定め、親王をその国の「太守」に就かせた。親王は遥任(ようにん)であって、現地へは受領国司である「~介」が赴いた。菅原孝標は1017年、上総介として東国に向かい無事4年間勤め上げ1020年、京に戻った。特記事項はなく、その後も中級貴族として平凡な人生を送り没年は不詳である。

 彼に娘がいなければ、孝標の名が歴史に残ることはなかっただろう。ただし娘の名は不詳だ。1020年、京に戻るときに13歳だったので、1008年生まれとされている。帰国途上、すみだ川を渡る際には在原業平の歌を思い浮かべ、竹芝の浜にも立ち寄っている。言問橋近くにはスカイツリーがあるし、竹芝には伊豆諸島に渡るための大きな桟橋があるが、彼女の場合、別に「東京ソラマチ」に行く用事も「八丈島」で磯釣りをする用事もなかっただろうし、そもそも11世紀にはそんな施設はなかった。大磯では「もろこしが原に、大和撫子しも咲きけむこそ」と周囲の人が言葉遊びに興じるさまに印象付けられ、噴火活動中の富士山に接し「山の頂の少し平らぎたるより、煙は立ち上る。夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と記している。

 彼女の残した『更級日記』は私が読んだことのある数少ない日本古典文学の傑作だ。彼女が記したとされる『浜松中納言物語』は三島由紀夫に大きな影響を与え、彼はその物語を下敷きにした四部からなる小説『豊饒の海』を創作し、入稿した日に自衛隊の市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。

  * * *

 律令国家の基盤であった班田制は口分田を支給される農民に租税を課するものであったが、重税に苦しむ人々は逃亡、浮浪、偽籍などで負担を逃れようとした。その結果、国家財政は疲弊し下級官人への給与の支給は困難になってしまった。このため、10世紀前半には寺田、神田、荘田以外の公田に税を課す制度に変わった。人に対する課税から土地に対する課税へと変更されたのだ。また、国家の政治体制も官僚制機構から摂関や令外官である蔵人など天皇の私的機関が政治の中心となり「王朝国家体制」へと変質した。

 また地方支配制度も変質し、有力な寄生的官僚貴族が「守(かみ)」の地位を独占するようになり、各国には権限が集中化された受領国司が派遣された。国衙での政治は受領だけでは運営できないため、在地の有力者が郡司として官人化された。任用国司よりも地元の首長層を重用した理由は、彼らが土地の事情に詳しいということのみならず、経済的にも豊かだったからである。10世紀は地球規模での温暖化が進んでいたので開墾が積極的におこなわれ、「富豪の輩」が増加していた。一方で下層農民の困窮化もひどくなる一方だった。受領国司は地元の有力者を登用することで「私腹を肥やした」のである。中央政府にしても、受領の「私富」が増えることは、それが国宛の賦課の増大にも繋がると考えて黙認していたらしい。いわゆる賄賂政治が横行していた。政治家・官僚の頭の中はいつの時代も変わらないようだ。

 上に挙げた菅原孝標もこのように専制化された受領の地位に就いた。1020年に京に戻った孝標は上皇の広大な邸宅を手に入れて住んだらしい(『更級日記』による)ので、平凡な人物であっても受領の立場は「甘い汁」が吸えたようだ。

 こうして、「転換の10世紀」は政治経済社会体制を大きく変質させ、11世紀末の院政、12世紀末の鎌倉幕府誕生へと進む先駆けとなる時代となった。治安維持の専門職として武士階級が発生したのも、転換期によくみられる「政情不安」や「経済格差の拡大」が要因だったと思われる。

大國魂神社に出掛けてみた

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大國魂神社の初詣風景。2020年1月2日、拝殿前の様子

 大國魂神社東京五社のひとつに数えられるそうだ。あとは「東京大神宮」「靖国神社」「日枝神社」「明治神宮」なので、五社の五番目だろう(個人の感想です)。7世紀には武蔵国府の「国衙の斎場」に位置付けられていたようだが、五社の仲間に入れるのは、源義家源頼朝北条政子北条泰時徳川家康徳川家綱のお陰もあると思うので、先に少し触れた「転換の10世紀」の恩恵を得ていると言えなくもない。

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お参りをするために並ぶ人々

 今年の1月2日、大國魂神社に出掛けてみた。初詣というわけでは決してなく、すぐ近くに用事があったためコンパクトカメラ持参で「覗き」にいってみたという次第である。予想した以上の参拝客がいた。お参りする人の列は大鳥居までどころかけやき並木の途中まで続いていた。これには「源義家」もびっくりしていたに相違ない。

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おみくじ売り場は何か所もあった

 私には寺社にお参りするという習慣はまったくない。幼い頃や連れに強制される以外は、お賽銭をあげることもない。小さいときは大國魂神社で「賽銭拾い」に精を出していたので、生涯における賽銭の収支はたぶん「黒字」だ。元三大師・良源さんには申し訳ないが、おみくじも強制される以外は購入しない。枝などに結んであるおみくじを解いて見たことは何度もある。運勢を知るには「無料」に限るのだ。お守りを頂いたことは何度となくあるが、それを持って歩いたことも、車にくっつけたこともまったくない。幽霊もUFOも見たことはないし、そもそもその存在を否定している。

 が、神社仏閣の存在は大好きで、恐山にも中尊寺にも毛越寺にも鹿島神宮にも靖国神社にも川崎大師にも延暦寺にも金閣寺にも東大寺にも薬師寺にも長谷寺にも伊勢神宮にも熊野速玉大社にも熊野那智大社にも四国八十八か所霊場にも松陰神社にも宗像大社にも何度も出掛けている。しかし、どこに行っても祈ることはない。神社仏閣がある風景が好きなのである。そこに神秘性を感じる。ただそれだけで十分なのだ。

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普通の日でも参拝する人は増えているようだ

 大國魂神社の社史によれば、創建は景行41年(西暦111年)の5月5日とのこと。大國魂大神大国主神の託宣によるらしい。7世紀半ばからこの地に武蔵国府が置かれたので、神社は国衙の斎場としての機能を果たすようになった。都より赴任した国司は、まず管内の神社に巡拝するという決まりがあったようだ。また、毎月の朔日(1日)には国内諸神を勧進して神事をおこなった。さらに、国衙はその付属神社(武蔵国では大國魂神社)を前提として、国内の主要神社の序列化を図った。これが一宮から六宮となり、国衙の近くにある大國魂神社は武蔵総社六所宮と呼ばれるようになった。一説には、毎年、国司が一宮から六宮まで巡拝するのが大変なので、それらを合祀した総社を設けて巡拝を省略したというものがある。11世紀後半、国府に近くに総社が設けられるという制度が全国に広まったという点を考えると、受領国司への権限集中が背景にあり、その権威の象徴としての地位が総社に与えられたと考えるほうが適切なように思える。

 『源威集』によれば、奥州の安部一族の反乱を鎮める(前九年の役)ために北に向かう源頼義陸奥守)が、武蔵総社に北方を見張らせるため、それまで社殿は南向きであったものを北向きに変えさせたという話がある(1051年)。南向きだと立川段丘の上から多摩川多摩丘陵を望むだけだが、北向きになれば国分寺に対面し、目の前には広々とした平地がある。神社の前にはいつしか府中三町(本町、番場、新宿)ができ、けやき並木が北に伸びている。今日に至る府中市の小さな発展に、この北向きへの変更が大きく寄与しているようだ。

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けやき並木に立つ源義家

 1062年、前九年の役で勝利をおさめ凱旋した頼義の息子の八幡太郎義家は大國魂神社に立ち寄り、けやきの苗1000本と供物として「すもも」を寄進した。並木を整備したのは徳川家康とされているが、府中とけやきの縁を生んだのは義家だったのかもしれない。また、大國魂神社では7月に「すもも祭り」が開催されるが、これも義家の寄進に淵源があるのだろう。

 今ふたたび頼義・義家父子が現れたならば、奥州ではなく今度は長州に向かい「愛ある」政治ではなくIR利権に群がる安部一党の征伐をおこなうかもしれない。今度は神社は西向きとなり、凱旋のあかつきには苗1000本を寄進するだろう。もちろん、「けやき」ではなく「桜」であるに相違ない。

 * * *

 武蔵国一宮は多摩市一の宮にある「小野神社」とされている。小野郷は日野市南部、多摩市、稲城市辺りにあったとされ、「小野牧」は931年、中央に馬を奉じる「勅旨牧(御牧)」となり、小野諸興(もろおき)が別当に就いた。諸興は武蔵国の権介にもなり、押領使として軍事指揮権を有した。この小野氏は11世紀頃から八王子の横山荘(船木田荘)に移り、横山氏を名乗ることになった。これが武蔵七党の代表格である「横山党」の端緒である。

 武蔵国二宮は、あきるの市にある「二宮神社(小河神社)」とされている。現在の日野市を中心に勢力を拡大した日奉(ひまつり)宗頼は武蔵守に就き、勅旨牧である「小川牧」や「由井牧」を支配した。二宮神社はこの小川(小河)にあり、日奉氏は神社の地頭にも就いている。後に日奉氏は武蔵七党のひとつである「西党」を組織したが、これは本拠であった日野が府中の西にあったからとされている。二宮神社は『延喜式』の神名帳にはない式外社ではあったが、有力な武家の間ではよく知られていた存在だったらしい。後北条氏の氏照は八王子の滝山城を一時本拠にしたが、その際、二宮神社を祈願所にしていた。

 武蔵三宮は大宮市にある「氷川神社」とされている。この神社は旧官幣大社で、大國魂神社は旧官幣小社なので、こちらのほうが格上と思われる。このためもあってか、氷川神社では武蔵国筆頭の神社として「武藏国一之宮」を名乗っている。初詣客も氷川神社は200万人以上なのに対し大國魂神社は50万人ほどなので、一般的な認知度は氷川神社のほうが上かも。それに、横浜市山下公園につながれている船の名前にも採用されているし、おばちゃんたちに絶大な人気の「演歌」歌手も、本姓は山田だが、芸名にはその神社名を採用している。

 武蔵四宮は秩父神社である。神社のサイトをのぞいてみたが、こちらも四宮では誇れないのか、知知夫国の総鎮守を冒頭に掲げ、由緒書には「武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至ってます」とあり、「四宮」は出てこない。秩父からは秩父将常(11世紀の人、平将恒とも、桓武天皇6世)が出ており、後の秩父氏、河越氏の祖となった。特に河越重頼は、源頼朝伊豆国に流されている折に仕送りを続けたことでよく知られている。子の重員(しげかず)は「武蔵国留守所惣検校職」となり、武蔵国武士団の最高指揮官となった。川越市の基礎の基礎はこの時代に造られたといって良いだろう。

 武蔵五宮は埼玉県児玉郡神川町にある金鑚(かなさな)神社だ。鑚(さん)の字が難しので「金佐奈」とも表記される。神流川(かんながわ)へ鮎釣りに出掛けるとき、関越道・本庄児玉ICで降り、国道462号線を西に進んで神流川に出る。その手前にある神社なので名前だけは以前からよく知っていた。五宮であることも知っていた。しかし、気持ちは釣りのほうへ完全に向いているので、この神社を見学(私の場合は参拝しない)したことはない。所在地は神川町字二ノ宮となっており、武蔵国の二宮を名乗っていたこともあったようだ。資料によると、金鑚(かなさな)は金砂が元になっていたそうだ。金砂は砂鉄を意味するように神流川は砂鉄の産地であったらしい。神流は「鉄穴(かんな)」つまり砂鉄の採集場を意味するので、川の名前自体が砂鉄が取れる場所ということを表している。この神社には本殿はなく背後にある御嶽山をご神体とする。こうした原始神道の例は奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社が最古のもので、そこでは背後にある三輪山をご神体とする。

 武蔵六宮は横浜市緑区西八朔町にある杉山神社だと考えられている。鶴見川流域やその周囲には杉山神社が72社あると『新編武蔵風土記稿』にあるそうだが、この神社は武蔵国都築郡にある唯一の式内社なので、ここが六宮であるという蓋然性が高いらしい。大國魂神社の「くらやみ祭」では、ここの宮司と氏子会の代表が神事に参加しているので、大國魂神社側としてはこの杉山神社が六宮であると認定しているようだ。

 * * *

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北条政子の安産祈願に使節が訪れた宮乃咩(みやのめ)神社

 大國魂神社が武蔵総社六所宮として中世期に登場するのは1182年のことである。源頼朝正室である北条政子の安産祈願に使節が摂社である宮乃咩(みやのめ)神社に派遣されたという記録がある。ところで、当時は夫婦別姓だったのだろうか?

 1186年には頼朝の命により、武蔵守義信を奉行として社殿が造営され、1232年に北条泰時の命で社殿が修復されたという記録もあるらしい。

 1591年には家康の命により六所宮に500石が寄進された。大宮の氷川神社には300石だったので、初詣客数では大きく負けているものの家康の寄進量では勝利したようだ。ちなみに、秩父神社は57石、神田明神は30石だったそうだ。また1606年には、「八王子千人同心」を組織したことでも知られる所務奉行(勘定奉行)の大久保長安によって社殿が新築された。しかし、46年に発生した府中本町で起きた火事によって社殿は消失してしまった。その後、4代将軍家綱の命により老中・久世広之の差配により67年、社殿が再建された。このとき建築されたものが現存する本殿である。46年のときの本殿は正殿が三棟あったが、67年に再建されたときは簡素化され、三殿を横に連ねた相殿(あいどの)造りになった。また、三重塔、楼門、鼓楼は再建されなかった。が、後に鼓楼が復活し、楼門は守護神像(矢大臣と左大臣)を配置した随神(身)門が造られ2011年、御鎮座壱千九百年事業として改築された。本項冒頭の写真が今現在ある随神門だ。以前のものは「くらやみ祭」の際に神輿が通りづらかったため、改築の際に間口が広げられた。

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隋神門の北側、並びに東西にはずらりと屋台が並んでいた

 初詣には何の関心もない私だが、大鳥居から隋神門までの参道、並びに東西に並ぶ屋台には心惹かれるものがあった。しかしここを訪れた2日には直前まで昼食会があって、普段ならまず食すことのない「回らない寿司」を目いっぱい腹の中に入れていたため、焼きそばやたこ焼きの存在はさして気にならなかった。それより、この人込みから早く逃れたかった。

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社叢林を代表する樹齢900年の大イチョウ

 本殿裏にある社叢林(しゃそうりん、鎮守の森)は、子供時代の遊び場だった。ここで私はサルになったりターザンになったり鬼になったりした。しかし、現在は立ち入ることはできず、ただ柵の外から見上げることしかできない。写真のイチョウは樹齢900年とのこと。その他、ムクノキや大ケヤキもある。「大ケヤキ」と聞くと東京競馬場の名物をイメージするかもしれないが、あれは「大エノキ」であるということは以前の項で触れている(cf.26・多摩川中流散歩)。

府中名物・けやき並木

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桜通りから見たけやき並木

  けやき並木は府中を代表する名所である。私自身は生まれたときからこの並木は身近にあったのでとくに強い思い入れはないが、府中以外に住む人がここにやってくると、「町中にこんな大きな木の並木道があるなんて!」と感動するようだ。国の天然記念物にも指定(1924年)されている。江戸時代、並木といえばかつてはスギやマツが定番で、ケヤキのような広葉樹が植えられている例は珍しいらしい。現在ではサクラ、プラタナス、ポプラ、ハナミズミなどの並木道は当たり前になっているが。

 写真は国分寺街道を北から南方向に見たもので、「けやき並木北交差点」は「桜通り」と「けやき並木」が交差した場所にある。現在ではこの交差点が並木の終点とされ、大國魂神社の大鳥居が始点とされている。この600mの間の道の両側にけやきが植えられ、私が子供の頃は大木揃いだった。しかし、並木道のほとんどが舗装されてしまった現在、環境悪化で巨木は次々に枯れてしまい、多くは若木に植え替えられている。このため、かつてのような「鬱蒼とした」並木道とはなっていない。かつて府中の並木道の荘厳さに感動した人々が現在の姿を見ると、必ずや違和感を覚えるに違いない。

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府中駅西口横にある碑

 前述したように、府中とけやきとの結びつきは源義家の寄進が始原だったと考えられる。並木が現在のような姿になったのは徳川家康の命によるらしい。中央に本道(馬場中道)があり、東西の側道はそれぞれ東馬場、西馬場と呼ばれている。

 写真のように本道だけでなく左右の側道もすべて舗装されている。これではけやきは呼吸困難に陥り、大きく育つことはもう望めないだろう。私が幼い頃は京王線は高架化されていなかったので写真の辺りには踏切があり、その南側に京王バスの停留所があった。側道は未舗装で、泥濘にならないように小砂利が敷かれていた。このため、けやきの巨木はまだかろうじて命を長らえることができていた。

 * * *

 府中のもう一つの名物といえば「くらやみ祭」である。例年、5月5日の神輿渡御のときは大賑わいになる。府中が賑やかになるのは初詣、「くらやみ祭」ぐらいだろうか。もっとも、競馬場界隈は毎土日曜日、それなりの人出はあるが。

 例大祭(俗称くらやみ祭)は例年4月30日から5月6日までおこなわれ、3日から5日が特に賑わう。5月5日は大國魂神社が誕生した日とされ、かつては「国府祭」として開かれていたようだ。3日の夜には「競馬式(こまくらべ)」がおこなわれる。武蔵国には「牧」が多かったことは先に述べている。「石川牧」「小川牧」「由井牧」「立野牧」「秩父牧」「小野牧」は勅旨牧に指定されていた。馬の名産地であっただけに、お祭りのときにもお披露目をおこなっていた。現在でも、6頭の馬が神社前の旧甲州街道を三往復する。4日は子供神輿、山車、そして大太鼓が拝殿前に集合する。

 5日の夜が「くらやみ祭」の本番で、一宮から六宮、それに御本社と御霊宮の八基の神輿が拝殿前から旧甲州街道にある御旅所まで渡御する。かつては深夜におこなわれ、すべての灯火が消えた中、しずしずと進んだそうだ。資料には「暗夜の如く人ひそまりて、咳一つするものなく、おのおの息を殺せり」とある。いかにも「神事」らしい。その一方、6日の早朝には明かりを灯し、今度は威勢よく還御したらしい。が、神輿渡御はやがて神聖さを失い、賑やかそして喧騒の中でおこなわれるようになり、町中の風紀も相当に乱れたため、1959年に渡御は午後4時と明るいうちに開始されることになった。しかし、これでは「暗闇」での祭りではなくなったという声が高まったため、2003年からは午後6時開始となった。それでも特に大きな問題は起きてはいないようだ。皆、礼儀正しくなったのだろう。

 なお、府中市では町おこしの一環として映画『くらやみ祭の小川さん』(主演六角精児、高島礼子)を製作し、19年の10月から上映されている。郷土愛の欠片もない私や私の友人は鑑賞していないが、兄や姉たちからも映画の話は聞いたことがない。人生の転機を向かえ生きる目標がなくなった主人公は、たまたま祭りの準備に参加することになり、その過程で地域の人々との交流が生まれ、新たな生きがいを見出したという、いかにも道徳の教科書の題材になりそうなストーリーを聞くと、ますます見る気が失せる。が、全編、府中市が舞台となっている(当たり前だが)らしいので、その点には少しだけ興味がある。

浅間山は古墳ではなかった

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浅間山の標高は約80m。徘徊には最適な丘だ

 府中市の東北部の一角に浅間山(せんげんやま)がある。平らな立川段丘の上にそこだけが小高い丘なのだが、私や私の周辺の庶民はその姿を見て、皆が古墳であると信じていた。田舎の府中市とはいえ、さすがに周囲の開発が進み高めの建築物が多くなったためにその姿は遠目からは見られなくなったが、以前は集落を離れるとすぐに丘の形が視認できた。私や知人は北東方向にその姿を見ることが大半だった。丘からいえば私たちに南西側の姿を見せていた。

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今は平地からはこうしてみるのが精一杯だ

 写真は、浅間山の姿を西側から見たものだ。ここもまもなく建売住宅が並ぶようなので、丘の全貌を見るためには、もはや高いビルに上がらなくてはならないだろう。この姿を遠目に見て、前方後円墳ではないのかと多くの人が思い、家でも何度かそうに違いないという話になった。皆、知っている古墳の姿は図鑑の中にしかなく、掲載された前方後円墳を横から見た写真と浅間山の姿は確かに似ていた。上から見た写真は仁徳天皇陵のものがほとんどで、一方、浅間山の航空写真はなかった。

 自転車に乗って浅間山の周りを走ってみれば、前方後円墳のような縦長の姿はしていないことはすぐに分かるし、巨大な方墳と考えたとしても頂上が3つあるので、古墳とは全く異なる姿であるということはすぐに誰にでも分かる。が、誰も、その労を取ることはしなかった。私を含め、浅間山を古墳だと思い込んでいた人々は、ただ南西側の姿だけでそう判断していたのである。これは、〇が横に二つ並んでいれば「目に違いない」と思うのと一緒で、愚か者というほかはない。

 浅間山は1970年に都立公園として整備された。ここにはニッコウキスゲの変種であるムサシノキスゲが日本で唯一自生しており、市民の有志がこの花を守り続け、絶滅の危機を救った。今では毎年の5月中旬頃、山の斜面のあちこちで黄色い花を咲かせる。また、キンランやギンランもほぼ同じころに開花するため、ゴールデンウィーク後からは散策者がかなりの数、集まってくる。

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浅間山の「おみたらし」

 浅間山は私の散策コースのひとつになっており、自宅を出発して「府中の森公園」を抜けて浅間山に至り、まずは最高峰の「堂山」を目指す。その道の途中にあるのが写真の「おみたらし(御水手洗)」で、わずかではあるが湧き水が流れ出ている。小さな山だが広葉樹が多く茂っているので保水力があるためか、チョロチョロとではあるが湧き出ている様子を見ることができる(湧き出ていないときもある)。

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最高峰の堂山山頂にある浅間神社

 頑張って坂道を上る(頑張らなくても上れるが)と、標高79.6mの堂山の頂上に着く。ここには浅間神社がある。写真からも分かるように祠のある場所は墳丘になっている。確かに、浅間山は古墳だったのだ、規模は小さいけれど。後述するように、この山からは富士山が望めるので、それで富士山信仰由来の浅間神社が造られたのだと考えられる。

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堂山から国分寺方向を望む

 標高約80m(麓は52m)、標高差28mの「登山」ではあるが、葉の落ちた冬場は周囲の景色に触れることができる。写真の中央やや右のツインタワーは国分寺駅北口に最近できたもの。遠くには関東山地の連なりが見え、中央やや左の三角形の頂をもつのは武甲山だ。

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小金井市方向を望む。手前に見えるのは多摩霊園

 今度は武蔵小金井駅方向を望むと、手前には多磨霊園(多摩墓地)が見える。東京ドーム27個分の広さがある公園墓地で、ここもまた私の徘徊場所だ。著名な埋葬者が多いので、その墓を捜し歩くのが興味深く、私の趣味のひとつになっている。園内には桜が多く、花見シーズンには見物人が多く集まる。武蔵小金井駅の南口には新築のタワーマンションがある。古き良き田舎町の駅前商店街が近代化されたのには寂しさを強く感じる。ただし、中央線が高架化されたことは大歓迎で、小金井街道の踏切渋滞がなくなっただけでなく、そこを迂回する車による”もらい渋滞”が減少したのも大歓迎だ。武蔵小金井行きバスが早く着くようになったのも朗報のひとつだ。

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浅間山からはもちろん富士山が望める

 浅間山は以前は「人見山」と呼ばれていたらしい。独立丘なので周囲がよく見渡せたからとのことのようだ。山の南側には「人見街道」がある。これは以前にも触れたことがあるが、大國魂神社と杉並区にある「大宮八幡宮」とを結ぶ重要な街道だったらしい。浅間山はその街道をゆく人の姿を監視するにはもってこいの場所だったのだ。

 写真の標識は前山から中山にいたる途中にあるもので、ここから富士山の雄姿を望むことができる。私がここを訪れたのは午後3時過ぎなので逆光がまぶしくて富士の姿はかろうじて見えたものの、写真を撮ることは不可能だった。

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富士の姿を見ようと頑張る人たち

 晴れ渡っている日だったので、確かに富士山は見えた。ただし、時間帯が良くなかった。あと一時間遅ければ落陽とともに富士は見えるだろうし、丹沢山塊もよく見えるはずだ。朝早い時間であれば空気も澄んでいるので富士山を含めた山々はよく見えるはずだ。地方整備局も考慮して、この方角にある樹木は伐採して視界を確保してくれている。私の場合、午前中に散策することはないので、この地点からはっきりくっきりの富士を見たことはないのだが。

 中山から下りはじめ、来た道を戻る。この散策をおこなうと、約8000歩を稼ぐことができる。帰途、大抵、浅間山の成り立ちを考えてしまう。平地に墳墓を築いたのではないことは分かった。次に考えるのが多摩川との関係だ。約3万年前、古多摩川は北方向に大きく蛇行して国分寺崖線を造った。その際、浅間山は削り残していた。2万年前の蛇行では立川崖線(府中崖線)を造っているのだから、もう浅間山には何の影響もない。

 しかし、問題点がひとつある。浅間山の一番高いところは80m。例によって『国土地理院・標高の分かるweb地図』を参照すると、先ほど写真で見たツインタワーのある国分寺駅北口は73m、武蔵小金井駅南口は69mだ。浅間山最高峰と同じ経度の中央線沿線は、国分寺駅武蔵小金井駅の間で、しかも小金井により近い場所なので標高は70mだ。とすれば、多摩川はその地点では標高70mの高さまで流れていたことになり、その際、浅間山は川面から10mほど顔を出していたことになる。つまり、国分寺駅武蔵小金井駅のある武蔵野段丘とは別の成り立ちがあったと考えなければならない。山が武蔵野段丘の一部であるならば標高は70m前後でなければならないからだ。

 そこで浅間山の成り立ちを調べてみると、ここの地質は、関東ロームの下に「御殿峠礫層」があり、その下の基底部が「上総層群」であることが分かる。「御殿峠」は国道16号線が八王子市街から南下し橋本方面に抜ける途中にある標高187mの峠だ。多摩丘陵にある峠としてよく知られた名前だ。この辺りの丘陵地は「多摩Ⅰ面」といわれるもので、丘陵は大栗川や乞田川に侵食されている。御殿峠がある舌状丘陵地は浅川と大栗川の間にあって北東方向に伸びており、多摩動物公園はこの丘陵地上にある。この丘陵は多摩川で遮られているものの、もし多摩川がないと仮定すると、まさに浅間山に至るのである。御殿峠礫層を含む「多摩Ⅰ面」は約50万年前、古相模川が造った扇状地と考えられている。その証拠として御殿峠礫層には丹沢山塊由来の「閃緑岩」や「緑色凝灰岩」が多く含まれている。浅間山を歩くと中腹に小石が多く含まれている場所が散見されるが、その中にそうした石を見ることができる。ちなみに、大栗川や乞田川の流路は古相模川の名残なのだ。

 以上のように、浅間山は約50万年前、古相模川によって造られた扇状地の先端部と考えられ、後に多摩川が流路変更して狭山丘陵の北側から南側に流れを変えることによって古相模川が造った扇状地を削り、その上に古多摩川が造った扇状地が形成されたものの、浅間山だけが削り残されたと考えると合点がいく。武蔵野台地多摩川が造った段丘化された開析扇状地だが、浅間山周辺だけは相模川多摩川が造った合成扇状地の名残なのだ。こんなことを考えながら、浅間山から家までの時間を過ごす。

 浅間山から富士山を望む人には、富士山の手前にある大室山をはじめとする丹沢山塊の山並みにも目を向けていただきたい。この山(浅間山)の故郷は丹沢にあるのだから。もっとも、御殿峠礫層の上にあるロームは富士山から飛んできたものだから、富士も故郷には違いない。

私は小学5年生の時に「カント」に魅せられた

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私は写真の中央部辺りで生まれた

 子供の時は京王線も遊び場のひとつだった。写真は府中駅南口から今は亡き伊勢丹府中店方向に伸びるペデストリアンデッキから新宿方向を眺めたものだ。左側が府中駅のコンコース、右側が複合商業施設『くるる』で、その向こうにタワーマンションがある。私は、その『くるる』とマンションの間辺りで生まれた。もちろん当時、そんな建物はひとつもなく、京王線のすぐ南側にあった空き地の一角の「小屋」で生まれたのだが。3歳のときに京王線のすぐ北側の小さな家に越したのだが、生まれた「小屋」の記憶は微かにある。北側に移ったとはいえ、家の近くの踏切を渡ればすぐ生家に着くし、悪ガキ仲間の多くは南側にいたので、現在『くるる』がある場所辺りが私の最初の縄張りだった。京王線の線路内にもすぐに入れたので、釘を拾うと線路の上に乗せ、電車に轢かせてはそれを遊び道具に用いた。平らになった釘を曲げ、それを竹の棒の先に付け、それで近所の家の木に生っていた柿や栗などを盗むのである。

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1993年から使用されている府中駅北口

 家の前のすぐに京王線が走るところに住んでいたので、電車が発生する音にはすっかり慣れ、静かな場所では眠れないほど、京王線は身近な存在だった。電車を見るのは大好きだったが、乗ることはあまりなかった。切符を買うお金がなかったからだ。それが、小学5年生のときに事情が一変した。近所に住むH君と同級になったからだ。彼が近くに住んでいることは知っていた。しかし、違う生活圏に居たため一緒に遊ぶことはなかった。それが同じ組になり話す機会ができた。彼は京王電鉄(旧京王帝都電鉄)の社宅にいた。ときおり彼の自宅にお呼ばれした。社宅とはいえ一軒家だった。彼の家の裏に京王バスの事務所があり、駅に近いこともあってか、電車の関係者も事務所に集まっていた。事務所の横には焼却施設(といってもドラム缶がいくつか並んでいるだけ)があり、そこで回収した切符などを燃やしていた。が、なぜか未使用のバスの回数券や電車の切符も捨てられており、中には燃えずにそのまま残っているものも数多くあった。H君はその存在を私や私の悪ガキ仲間に教えてくれたのである。

 私は使用可能な回数券や切符を拾い集め、それを使って京王線京王バスに乗ることにした。バスには弱いので友達と一緒のときだけ乗った。電車は大好きなので一人でも乗った。東京(区内に行くときは東京に行くというのが多摩の田舎者のしきたりだった)方面は自分には眩しすぎると思ったので、せいぜい調布までが限界だった。一方、八王子にはよく行った。京王八王子駅の終点に着くという到達感が得られるのが楽しみだった。というより、電車が止まらないのではないのかという不安感も起こりドキドキもした。終点の先に線路はなかった。「線路は続くよ、どこまでも」などという歌があったが、私は続かない線路があることをここで実体験した。歌と現実の世界は根本的に違うのだということを了解した。こうして子供は大人の世界に触れていくのだ。

 一番よく出かけたのは「中河原駅」までだった。駅に近くには「矢部養魚場」があって、数多くあるイケスの中には色とりどりの鯉が泳いでいたからである。彼・彼女らが泳ぐ様子を見ているだけで楽しかったのだ。

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分倍河原駅と中河原駅との間にある曲線路

 が、中河原行きには鯉見学以上の楽しみがあった。分倍河原から中河原に向かうとき、線路はまず府中崖線を下っていく。それだけでも楽しいのだが、その先に大きな曲線路がある。そこで方向を70~80度変えるのだが曲率があまり大きくないため、電車はスピードをさほど落とさずカーブを疾走するのだ。電車はかなりの速さ(実際には時速80キロ程度だったが)で曲がるため、内側に傾きながらぐんぐん進む。この迫力に接するため、府中・中河原間を2、3往復することもあった。もちろん運転席のすぐ後ろに立って、前方を眺めながら直線路から曲線路に突入するときの傾きを体感した。運転手によって突入の仕方が違うことも知った。やや遅めにカーブに入り少しずつスピードを上げて抜けていく教科書タイプ、反対にスピードをむしろ上げながら突入し、上げ過ぎてブレーキを使用してしまうあわて者もいた。速度計も注視した。大半は75から78キロなのだが、なかには85キロでカーブに突入してしまう乱暴者もいた。速すぎるときは体が外側に投げ出されるような感じがあった。この遠心力を体感するのも楽しみのひとつだった。

 私はH君にこの体験を熱く語った。小学5年生にもかかわらず塾に通っている勉強好きの彼は、電車が遠心力に負けないようにするため、曲線路では内側のレールと外側のレールとでは高さが異なり(これは事実として知っていた)、この高低差のことを「カント(cant)」というのだと教えてくれた。彼の父親は京王電鉄に勤めているので、その受け売りだったと思うのだが、それをわざわざ親に聞いたというのは、彼も私同様にカント主義者だったのかもしれない。

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カントを分倍・中河原間の踏切で確認する

 自転車やバイクでカーブを曲がるときは体と自転車やバイクを内側に傾ける。自動車ではハンドルとアクセルワークで曲線を曲がる。自動車のテストコースやインディ500のような周回路コースでは曲線路でも高速で走れるようにバンク(横断勾配)が設けられている。そして線路にはカントがある。ただしカントにも限界があり、2005年、JR福知山線が尼崎で脱線事故を起こし多数の死傷者を出したのは、電車が想定スピードをはるかに超えて曲線路に突入したためである。運転手は乗客の命を守るという基本を忘れ、「時間」にとらわれてしまったのである。

 人は時間と空間という直観形式の中で生きているが、直観だけでは盲目であり、概念が人に内実を与える。運転手は「直観なき概念は空疎であり、概念なき直観は盲目である」というカント(Kant)の言葉を知るべきであったし、「理性の公共的使用」を心掛けるべきであった。人は「~できる」のではなく「~すべき」存在なのだ。

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カントのお陰で今日も京王線は曲線路を疾走する

 京王線は今日も私が大好きだった曲線路を疾走している。乗客はカント(cant)によって一定の安全性が確保されている。ただ、人には「悪への自由(根源悪)」があるため、絶対的安全性が担保されているわけではない。カント(Kant)はそう語っている。

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 先日、三浦半島へ初釣りに行ってきました。釣果はともかく、景色はまずまずでした。何カットか写真を撮ったのでワンカットだけ掲載します。

 本年はオリンピックという迷惑行事がありますが、それにめげず、良い年をお過ごしください。

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三浦半島・毘沙門の磯にて