徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔46〕野川と国分寺崖線を歩く(4)深大寺界隈(後編)

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お寺の鐘は三度、響き渡る

深大寺の歩みを概観する

 深大寺の開創は『深大寺真名縁起』では733年、『私案抄』では757~64年である。前者は深大寺の僧・辨盛が1650年に著したもので、1646年の火災により深大寺に存した縁起・経疏・霊仏・霊宝・梵器などがことごとく焼失したのち、古記を見聞した人や古老の伝語などを参考にして、寺の由緒をまとめたものである。これには、前回に触れた「福満伝説」などが記されている。後者は深大寺の僧・長辨(1362~1434?)が著した文集であり、深大寺の歴史のみならず、当時の多摩地域の風土についても記されており、『真名縁起』よりも史料的な価値は高いとされている。

 1722年、『真名縁起』を元に本文を和文に改め、絵画を加えて絵巻物形式をとった『深大寺仮名縁起』が著された。これは、より一般的な表現内容をもつものとして深大寺の創始期の出来事が表現されているゆえもあってか、現在の深大寺は、こちらに記されている733年説を採用している。ただし、満功上人が父親の福満の念願を果たすために社壇を建て、深沙大王の影向を感じて新羅国から送られた画によって多摩川で得た桑の木に大王像を彫刻したのは750年、淳仁天皇の御代(758~764)に「浮岳山深大寺」の勅額を下賜されたのは深沙大王の社壇であることから、750年を深大寺の創建年とする説もあるようだ。いずれにせよ、深大寺の創建は8世紀前半から半ばであり、それは深沙大王の霊場であり、鎮護国家の道場でもあった。

 前回にも記したように、深大寺は9世紀の半ばから後半の貞観年間に法相宗から天台宗の寺となった。『真名縁起』などによれば、「武蔵国司蔵宗叛逆。勅により恵亮和尚武蔵国分寺に至り、勝地を求めて宝剣を投げ、その落ちる所、深大寺の泉井の辺を霊場として調伏法を修する。凶徒降伏するにより深大寺を恵亮に賜る。これにより法相宗を改め、永く天台宗となる」とある。武蔵国司の反乱を鎮めるために天台宗の僧が深大寺に派遣され、それを契機に天台宗の寺となったとされている。ただし、『日本三大実録』の貞観年間の項には武蔵国司蔵宗についての記述はまったくないので、この反乱が真実であるかについては定かではない。深大寺は、この貞観年間に天台宗に改宗したと了解するにとどめておくのが無難かもしれない。

 天台宗は6世紀、智顗(ちぎ)によって開かれた大乗仏教の宗派だが、日本では中国で学んだ最澄が806年に伝え広めた。そのことから、最澄は「伝教大師」の諡号を得ている。最澄は秀才ではあったが密教研究では空海には遥かに及ばなかった。しかし、天台宗としてはこのことが「幸い」して、円仁や円珍という優秀な後継者が登場した。

 円仁(慈覚大師)は第3代の天台座主で、とりわけ東北巡礼と布教活動がよく知られている。「立石寺」「中尊寺」「毛越寺」「瑞巌寺」など、今日でも観光地として大人気の寺を開いている。円珍(智証大師)は讃岐国の佐伯一門の出身(空海の甥)であり、十二年間の籠山修行を満ずると、役行者の後を慕い、大峯山葛城山熊野三山を巡礼し、那智の滝に参籠している。円珍は後に近江の園城寺三井寺)を中興した。その園城寺は、壬申の乱大海人皇子天武天皇)に敗れた大友皇子の皇子であった大友与多王が創建したもので、父親の宿命のライバルであった天武天皇から「園城」の勅額を賜ったことから園城寺と呼ばれるようになった。ただし、一般的には三井寺の名で通っている。

 天台宗は円仁と円珍という極めて優秀な僧に恵まれたが、反面、その仏教観の違いから、円珍の死後、その門下は延暦寺から出て園城寺に入ることになり、比叡山に残る門流(山門派)と園城寺に移った門流(寺門派)との対立が深まった。山門寺門の抗争は武力衝突に至り、園城寺は何度も焼き討ちにあったがその都度、復興を遂げた。この抗争は源平の対立にも影響を与え、平清盛が出家の際に天台第55代座主の明雲に戒師を務めてもらった誼で山門派を支持した関係上、源氏は寺門派と結びつくことになった。

 仏教は「如是我聞」の世界ゆえ、その価値観は無数に生じ、ささいな違いから対立・抗争が生まれる。その背後には、自らを相対化できない人間の性に対しての超克困難性があるからなのだろうか。

 天台宗は世俗化・堕落化の道を辿ったが、これを立て直した?のが、第18代座主の良源(慈恵・元三大師)である。彼は荒れ果てた根本中道などの堂舎を再興し、学問振興を図った。『往生要集』を著した源信(恵心僧都)は彼の弟子である。良源の業績でもっとも有名、かつ定着しているのは、「おみくじ」を発案したことかもしれない。

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元三大師が「発明」したおみくじ

 深大寺には本堂の隣に「五大尊池」を挟んで元三大師堂がある。参拝客の多くは本堂の存在を無視してでもその大師堂に訪れて「おみくじ」を購入する。上の写真の文面にあるように、深大寺のおみくじは、他の寺社とは異なり「凶」の札数を減らしていないために「凶」を引き当ててしまうことが多いそうだ。しかし、「凶は吉に好転する力を秘めている」のでご安心、という具合らしい。ならば、「吉は凶に暗転する」ということも考慮する必要があるのではなかろうか?「おみくじ」の販売は、まさに世俗化の極みといえよう。

 かように、天台宗最澄の思想が十分な内容をもちえずにいたためにそれが幸いし、数多くの優秀な人材を輩出した。一方、最澄が勝手にライバル視した空海は、その天才性を発揮してきちっとした教義を確立したためにそれが災いしたのか?彼を超えるような人材が輩出されることは、なかなか生じなかった。最澄天台宗を開いた歴史上の人物に過ぎないが、空海弘法大師として現在も生きており、四国八十八か所霊場を巡るお遍路とは常に同行し(同行二人)、高野山奥の院にある御廟では今も瞑想修行をおこなっている。そのため、高野山では毎日、空海のために食事が運ばれており、ときにはパスタも供されるそうだ。空海はパスタも食うかい?

 真言宗でも傑物を輩出していないわけではない。覚鑁(かくばん、興教大師、1095~1142)は、荒廃した高野山を復興し、さらに途絶えていた伝法会を復活し伝法教院を設立して真言宗の立て直しを図った。それによって一時は院宣により金剛峯寺の座主を務めるまでになったが、保守派の衆徒によって高野山を追われることになり、覚鑁根来寺(ねごろじ)に移って新しい解釈(密教浄土教の融合=新義真言宗)による教えを打ち立てた。この点については本ブログでもすでに触れている(cf.17回浅川旅情)。和歌山県岩出市にある根来寺は1585年、豊臣秀吉に弾圧されるまで日本有数の大寺院に発展した。その後、徳川家によって再興され、1690年、覚鑁には興教大師の諡号が与えられた。

 中世の寺院の佇まいを残すといわれる根来寺は、私が訪ねたいと思いながらも未だに出掛けていない日本の景色のうちのひとつだ。高野山には何度も出掛け、その際は決まって橋本市に宿泊する。橋本市街から根来寺までは直線距離にして30キロ足らずだし、京奈和自動車道を使えば30分ほどで行ける場所にあるのだが、一方、奈良方面には吉野山、明日香、桜井、長谷寺室生寺など何度出掛けても飽きることのない魅力的な場所が綺羅星のごとくに聚合しているため、どうしても足は西ではなく、東ないし北東に向いてしまったのだった。残念なことではあるが、まだ時間がないわけではない。

 元三大師は953年、比叡山解脱谷にて大師像を自刻し、そのひとつが991年、恵心僧都などの手によって移安されたという記述が『深大寺仮名縁起』にある。それが事実であるかどうかは不明だが、この時期に深大寺は深沙大王像、阿弥陀如来像(深大寺本尊)にならんで、元三大師像を信仰の中心に据えたのかもしれない。

 中世の深大寺には大きな出来事があった。「仁王塚事件」と呼ばれているものである。『江戸名所図会』には以下の件がある。「何某の一子(鎌倉武士の子とされている)、当寺二王門の辺に遊ひてありしか、忽に姿を見失ふ。人々驚き一山大に騒動す。しかるに当寺二王門の二王尊の唇に、其児の常に着する所の衣服の残りとゝまりて、児を呑みたるに似たり。依って里民、此二王の像をこほちて門を破却し、土中に埋めたり……」。『真名縁起』ではさらにすざまじく、怒った武士の一族は寺に乱入し、仏閣を壊し、僧房を廃すなど、深大寺は滅亡の危機に瀕したと記している。

 荒廃した深大寺を再興したのが、世田谷城に居を構えていた吉良氏であったと『真名縁起』は記している。吉良氏の世田谷城については本ブログでも少しだけ触れている(cf.第9回世田谷線散歩)。深大寺の復興にとくに尽力したのは吉良頼康(?~1562)と考えられている。『世田谷吉良家旧事考』には、深大寺は吉良家の祈願所であり、五拾石を与えたとある。吉良氏は小田原北条氏と姻戚関係を結んでおり、頼康の「康」は北条2代の氏康から賜っている。なお、世田谷吉良氏は『赤穂浪士』に出てくる吉良氏(三河系)の縁戚である。

 1590年、小田原北条氏が豊臣秀吉軍に敗れると同時に北条側についた吉良氏も滅び、深大寺はその庇護者を失った。しかし、江戸に入府した徳川家康は翌年の1591年、関東一円の由緒ある寺社に領地を寄進し、深大寺もその中に加えられた。さらに、3代家光や5代綱吉、8代吉宗など14代の家茂まで大半の将軍は家康に倣って50石の領地を寄進した。江戸時代の深大寺は浮岳山昌楽院と号し、上野東叡山寛永寺の末寺であった。

 江戸時代の深大寺の中心的存在となったのは、厄除け大師として人気の高かった元三大師良源であった。彼は元日の三日が忌日だったので元三大師と呼ばれたのだったが、月命日には農具・古着類の市が立ち大いに賑わったらしい。近郷の道しるべにも、深大寺道とあるだけでなく元三大師道と刻されたものも多かったらしい。

 1865年(慶応元年)、深大寺は大火に襲われ、主要な建物を失ってしまった。さらに、明治初年の神仏分離令によって深沙大王堂は鎮守社の地位を失い、堂は廃墟と化してしまったのだった。

境内を徘徊する

 深大寺とその周辺の地形を概観したい。例によって、国土地理院の標高の分かるWeb地図を利用する。

 深大寺通りから山門に至る参道を仲見世通りともいうが、仲見世通りは標高41m(以下、標高の文字を省略する場合あり)地点で始まり、山門下は40m、階段を上がった山門の入口は43m、常香楼、鐘楼は43m、本堂前は44m、元三大師堂前は46m、開山堂は55m、釈迦堂前は43m、延命観音窟は46m、動物霊園は54m、深沙大王堂前は43m、神代植物公園(かつて深大寺のそば畑があった場所)は55mとなっている。深大寺通りの際を流れる逆川は40m地点となる。つまり、深大寺の境内は逆川が開析した緩やかな谷の底辺(40m地点)に参道があり、主だった建物は川面よりも少し高い43から46mの地点にあり、建物群の背後に国分寺崖線があり、その上に武蔵野段丘面がある。この武蔵野段丘面はほぼ平面なのだが、古い絵ではいかにも小高い山が連なっているように描かれている。深大寺は、他の寺の多くがそうであるように「背山臨水の地」に建立されている。

 ただし、南面は北西から南西に伸びる舌状台地(かつて深大寺城が築かれていた)が50~52mの高さで覆っているため、真南からでは深大寺の姿を望むことはできない。現在では中央高速自動車道が舌状台地の南側を走っているためその存在はさらに隠蔽されている。国道20号線から三鷹通りを北に進み深大寺の森を望もうとしても、中央道が視界を遮るのだ。

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山門をくぐると本堂と常香楼が目に入る

 1865年の火災によって本堂は焼失したが、すぐに小さな仮本堂が建てられたものの、現存する写真の本堂の完成は1925年まで待たねばならなかった。というのも、前述したように、江戸時代以降の深大寺は元三大師信仰が中心であったため、それを祀る元三大師堂の再建が優先されたためであった。

 本堂の本尊は像高約69センチの宝冠をいただく阿弥陀如来像である。『江戸名所図会』には「本尊は宝冠の阿弥陀如来。恵心僧都の作なりといふ」とあるが、正確なところは分かっていないらしい。専門家の分析によれば、鎌倉時代前期の作であると推定されている。

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常香楼に残る火災の跡

 焼香炉を覆う常香楼は1833年に建てられた。1865年の大火災では山門とこの常香楼だけが焼失を免れた。ただし写真にあるように、一部に炎を受けて焼け焦げた跡(焼痕)が残っている。古い写真を見ると焼香炉の台座は火山岩であったようだ。私が初めて深大寺を訪れた際は今の姿とは異なり古い台座のときだったと考えられるのだが、記憶にはまったく残っていない。

 山門をくぐった参拝者はまず、すぐ左手にある案内所でパンフレットをもらい、「手水舎」で手を、香炉で体を清め、それから本堂前に進んで手を合わせる。その流れは私のような不信心者以外はほぼ共通で、それからの行程は参拝者ごとに若干、異なる。

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神代名物の「おみくじ」を結ぶ

  深大寺は”そば”と”おみくじ”が同じくらい有名なので、初めて深大寺を訪れた人の多くは本堂を参拝したあとは再び山門近くの案内所に戻り、そこでおみくじを購入する(と思う)。おみくじは勝手に木々の枝に結ぶことは禁じられており、写真のような「おみくじ結び」場所があるので、そこに結び付ける。境内には、このような”施設”が数か所ある。カップルでおみくじを購入する場合、それぞれが買い求めるのだろうか?それとも自分たちの行く末を占うのだから、一枚だけ購入するのだろうか?コロナ禍でなければ写真のカップルにそれを問うのであるが、今はその行為が憚られるため聞くことはできなかった。

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梵鐘は2001年に2代目に変わった

 山門をくぐった右手には写真の鐘楼がある。深大寺では朝、昼、夕の3度、鐘撞がおこなわれる。本項の冒頭の写真は、昼の鐘撞の場面である。鐘楼は1865年の火災で焼失したため、1870年に再建された。1956年には茅葺の屋根から銅板葺きに改築された。梵鐘は2001年に新しく造られ、1376年に造られた旧梵鐘(国の重要文化財に指定されている)はその役目を終え、現在は釈迦堂に安置されている。

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参拝客の多くは元三大師堂が目当て

 元三大師良源は「厄除け大師」「角大師」「豆大師」としてもよく知られている。通常、関東三大厄除け大師というと真言宗の寺をいう場合が多く、その際は「西新井大師」「川崎大師」「観福寺」(千葉県香取市)を指すようだ。「大師」だけだとどうしても弘法大師を連想してしまうので致し方ない点もあるが、「厄除け大師」と聞くと元三大師をイメージする場合もあるので、関東三大厄除け大師ではなく「関東三大師」という場合は、天台宗でかつ元三大師像が安置されている名高い寺の中では「佐野厄除け大師」「川越大師」(喜多院)「青柳大師」(群馬県前橋市)の三寺を挙げる場合がある。 

 こうした「三大〇〇」というのは日本人は大好きだが、多くの場合、2つは大半の人が納得するものだが、3つ目に異論を唱える場合が多い。関東三大師でも佐野厄除け大師はCMで多くの人がその名を知っており、喜多院も観光地・川越の寺として名高いので合点がいくが、青柳大師が加わるかどうかは東京の田舎者にとって納得しがたいものがあるようだ。そこで多摩地区の住民は、青柳大師に替えて「拝島大師」か「深大寺」を名指しするのである。

 拝島大師と深大寺はライバル関係にあり、「だるま市」でも覇を競っている。が、「日本三大だるま市」では富士市の「毘沙門天祭」、高崎のだるま市(少林寺達磨寺)に並んで、深大寺の「厄除元三大師祭」が堂々のベストスリー入りを果たしているので、関東三大師の項では拝島大師にその席を譲ってもいいのではないかと思う。それが大人の知恵というものであろう。

 ともあれ先にも述べたように、江戸時代以降には、深大寺といえば元三大師堂が代表的存在であったため、おみくじにも魅せられて、さしあたり多くの参拝客は「凶」を引き当ててしまうにもかかわらず、本堂よりも大師堂に参じるのである。

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深大寺には、だるまのおみくじもある

 深大寺のおみくじは一般的なものだけでなく、名物のだるまの中におみくじが入ったものがある。こうした類のおみくじは、かつて三浦市海南神社を紹介したとき(cf.第24回岬めぐりは三崎めぐり)に「鮪みくじ」に触れたことがある。

 元三大師堂は、前述したように1865年の大火災にて焼失してしまったが、早くも3年後の1867年に再建された。旧大師堂は本堂の西南にあり、東向きに建っていたらしいが、再建時に本堂の西隣に移された。新堂建築の際、一部は国分寺崖線の斜面が邪魔になったので、下の写真から分かる通り、崖の一部を削って敷地面積を確保している。

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大師堂造営のために削られた崖線

 大師堂には当然のごとくに元三大師像がある。御本尊の大師像は秘仏となっているため、その姿を見ることはできない。記録によれば、日本にある元三大師像は13世紀初頭に像立されたのが最古とのことだが、『深大寺仮名縁起』には大師が953年に自刻し、991年に比叡山から深大寺にもたらされたとされている。

 通常の元三大師像はほぼ等身大に造られることがほとんどらしいのだが、深大寺のものは像高が196.8センチもある。実物を見ることはできないが、研究者が調査した際に撮影された画像をみると、目も鼻も唇もいささかはっきりしずぎており、やや異様な風体である。

 この大師像は、本来ならば今年の10月に開帳(一般公開)される予定であったが、コロナ禍のために中止されてしまった。が、来年(2021年)は最澄の1200年大遠忌を迎えることもあり、天台宗では東京国立博物館で秋に特別展が開催される予定で、そこに深大寺の元三大師像が展示(出開帳)されることになっている。この出開帳は江戸時代にもおこなわれたようで、来年、これが実施されると205年振りのことになる。

 大型の大師像だけではなく、像高12.3センチの小型のものもある。こちらも秘仏とされている。魔よけの力を有する元三大師をイメージした造りになっていて、頭には2本の角があり、歯牙をむき出し、上半身は裸で、右手には独鈷を持つというスタイルである。写真で見る限り、怖さは感じられず、かえって可愛らしさすら抱いてしまう。この像も来年の出開帳の対象になるのかもしれない。

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本堂と大師堂との間にある五大尊池

 本堂と大師堂との間には渡り廊下が造られている。手前の池の上方にあり、現存のものは1982年に改修された。廊下の下にある「五大尊池」も水が豊富な深大寺を象徴するもののひとつである。五大尊は本ブログでは以前(cf.第7回越生)にも触れているが、密教の信仰対象であり、「不動明王」を中心に「降三世明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「烏枢沙摩(うすさま)大王(真言宗では金剛夜叉)」を指す。池の周囲にはもみじが多いので、紅葉シーズンにはかなりの賑わいを呈するらしい。

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釈迦堂には国宝の釈迦如来像がある

 釈迦堂は、国宝(2017年に再指定)の「釈迦如来像」を火災から守るために1976年、鉄筋コンクリート造りのものに新築された。

 その釈迦如来像は飛鳥時代後期(白鳳期)に作製されたものと推定されているので、「白鳳仏」の名で呼ばれている。伝承では、法隆寺の夢違観音、新薬師寺の香薬師(現在行方不明)と同じ工房で作られたとされている。

 1865年の火災では焼失は免れたものの、67年に完成した大師堂の須弥壇の下に仮置きされたまま、ほぼ忘れられた存在になっていたが1909年に再発見され、13年には国宝に指定されたという数奇な運命をたどっている。反面、1895年の『深大寺創立以来現存取調書』には「釈迦銅̻▢ 壱軀 丈二尺余 座像ニ非ズ立像ニ非ズ 右ハ古ヘ法相宗タリシ時ノ本尊ナリト申伝ナリ」と記録されているので、必ずしもその存在は忘れ去られていたわけではなく、天台宗以前の本尊であるならば、優れて貴重なものであるという認識は有していたはずだ。

 釈迦堂に安置され、一般公開されているので誰もがその姿をガラス越しに触れることができる。拝観料は300円だが、お賽銭という形で支払うことになっているため、強制徴収されるわけではない。私はお賽銭を投げ入れる習慣はまったくないが、国宝仏に敬意を表するという形で支出をおこなった。写真撮影は禁止されているが盗み撮りは簡単にできるので、その行為に出ている不届き者を何人か見掛けた。私には記録に残すという考えは全くないので、撮影はおこなわなかった。

 像高83.9センチで、頭髪は螺髪ではなく平掘りである。1932年に新たに作成された台座の上に両足を開いた形で腰掛けている。こうした倚像(いぞう)は、日本では7世紀後半から8世紀初頭に作られているので、この釈迦像が白鳳期に作られ、のちに深大寺に持ち込まれて本尊になったということは確かなようである。

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大師堂の直上にある開山堂

 大師堂の西横にある坂を上り武蔵野段丘面に出ると、写真の「開山堂」が目に入る。名前の通り、ここには深大寺開祖の満功上人像、9世紀半ばに比叡山から深大寺に下り天台宗の第一祖となった恵亮和尚像が安置されている。両像は1986年に作られ、堂は87年に竣工している。堂の素材として、深大寺の森の中に生育していたケヤキやマツが用いられた。

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森の中にある動物霊園

 開山堂を出て大師堂から来た坂を少し下ると、右手に動物霊園の入口が見えてくる。階段を上がって敷地内に入ると高さ30mの萬霊塔や「南無十二支観世音菩薩」と書かれた数多くの幟旗が目に入ってくる。小鳥やハムスターなどの小動物、ネコやウサギ、小型から特大の犬といったペットのための霊園で、数多くある霊座の扉には、写真のような文字や絵などが彫刻されている。最近では、ペットは家族と同等の存在なので、このように死後も丁重に扱われている。訪れる人は多く、参拝客は本堂よりも多いほどだった。

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延命観音窟を望む

 延命観音窟は上に挙げた動物霊園の敷地の真下にある。1967年に造られた洞窟で、間口は4m、奥行きは5m、高さは3mのコンクリート製である。2010年に大改修されて現在の姿になった。

 1966年、秋田県象潟港の工事の際、事故があって海底にある大石を引き上げることになった。その大石に、なんと慈覚大師円仁が自刻したとされる延命観音像が彫られていたのだった。それを安置するために造られたのが延命観音窟であった。

 何故、それほど貴重な大石が東北地方の寺(東北には円仁ゆかりの寺が数多くある)ではなく調布の深大寺に安置されることになったのかは不明で、深大寺の資料でも「縁あって」としか記されていない。当然、ネット等で調べても「縁あって」以外の記載はない。

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洞窟内に安置されている延命観音

 延命観音三十三観音のひとつで、岩に肘をつき、そちらの手を頬にあてている姿をしているとされる。なるほど、洞窟内にある大石の表面には、かなり年季が入っているものの、頬杖をつく観音様の姿が彫られていることが分かる。

 素敵な女性(男性でも)が少し疲れた様子で頬杖をついている様子を目にしたとき、「延命観音のようですね」と話しかけてみる。相手がきょとんとした表情を見せたら、それ以上は話しかけないほうが良い。変態と間違えられるからだ。相手がニコッとしたら、それからは知的な会話が展開される可能性は大である。しかし、その人は信心に凝り固まっている可能性もあり、某宗派に勧誘されてしまうこともなくはないので、さしあたり、宗教以外の会話を展開してみる必要がある。会話が弾むとしたら、その出会いは、単なる偶然ではなく「運命」である。そう、ユン・セリとリ・ジョンヒョクとのように。

 三十三観音霊場巡りは全国各地にある。『妙法蓮華経』の中の「普門品第二十五」には、真心をもって一心に観音の御名を称えれば、その音声を観じてたちどころにわれわれの苦悩を観音菩薩は救いたもうとある。観音様の慈悲心が姿を三十三に変じてわれわれを救済するのである。ここから、三十三観音信仰が生じた。霊場が三十三あるのはここに淵源があり、修学旅行先でおなじみの三十三間堂もそこから発している。

 それにしても、「縁あって」が気がかりであった。ひとつだけ気付いたことがある。茨城県筑西市にある延命院観音寺(中館観音寺)に残る逸話である。中国から渡来した獨守居士が7世紀に観音寺を創建したのだが、寺のある地域で疫病が流行った。獨守居士が祈願したところ中館台地の崖下から清らかな水が湧き出てきて、その水のお陰で疫病が治まったという話だ。さらに、時の左大臣の姫君の熱病も平癒したこともあり、孝徳天皇から「延命」の称号を賜ったとされている。湧水が人々の命を救っている。湧水といえば深大寺もそれが極めて豊富な寺である。”湧水=延命”と考えるなら、延命観音深大寺にこそ相応しいと考えられることもできると思う……こじつけのようだが。

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延命観音窟の隣にある芭蕉の句碑

 延命観音窟のすぐ西隣に、写真の芭蕉の句碑がある。深大寺の境内には歌碑や句碑が数多くある。そのほとんどは深大寺に因んだものであるが、この句碑だけは深大寺に直接関係するというより、延命観音が彫られている大石が象潟港で発見されたという「象潟」つながりなのである。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 いうまでもなく、芭蕉の句であり、『おくのほそ道』の代表作のひとつでもある。この句の前に芭蕉は「松しまは、わらふがごとく、象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と記している。「ねぶ」は掛詞で、西施が憂いに沈み目を閉じて悩む姿と、雨に濡れそぼる合歓(ねむ)の花の双方を表現しているのである。

 私は中学校を終えるまでに本を1冊しか読んだことがなかった。それは『次郎物語』の第一部だ。高校に入るとクラスには読書にふける者が散見されたので、私もそろそろサルからヒトへと変身しようと本を手にしてみた。それが『おくのほそ道』(解説付き)であり、作品の中でもっとも印象に残ったのが「象潟」の句であった。そしてすぐ、私は初めての放浪の旅に出た。15歳の梅雨期のことだった。残念ながら、象潟までは行き着けなかったが。

 深大寺芭蕉の句碑に出会ったときには違和感を抱いたが、延命観音像が象潟港で発見され、それが縁で芭蕉の句碑が建てられることになった。おそらく、深大寺の住職も若い時分、美しい西施の憂い顔に憧れたのかもしれない。

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深沙大王堂は水源地の近くにある

 深沙大王と深大寺の関係は前回に触れている。大王像は堂の厨子内に安置されており秘仏であって住職すら一代に一回しか拝すことができないといわれている。ただし、学術調査時に写真撮影されているので、その姿は画像で見ることはできる。像高は57センチ、総髪で目を見開き、髑髏を連ねた胸飾りを付け、上半身は裸である。寺伝によれば開基・満功上人の作とされているが、調査によれば、忿怒(ふんぬ)の相、肢体の動き、着衣の写実的表現から、鎌倉時代に制作されたものと推定されている。

 写真の大王堂は1968年に再建された。1868年の神仏分離令によって旧堂(深沙大王社)は取り壊され、鳥居も破壊された。大王像は厨子(宮殿)内に安置されたまま大師堂に置かれ、再建後に大王堂に戻った。かつての大王社は現在の元三大師堂ほどの大きさがあったらしいが、再建された大王堂はかなりこじんまりとした造りになっている。本堂や元三大師堂からは100m以上も離れた位置にあるため、参拝に訪れる人は少ない。ただし、深大寺では開基・満功上人の両親の仲を取り持った「縁結びの神」として重要な存在であるだけに、この寺の由緒を知っている若い女性(ときに若くない人も)が、その縁を求めて訪れる姿を見掛けることもあった(何しろ今回、深大寺には3回も訪れているので)。

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水源地に立つ小さな不動尊

 深沙大王堂のすぐ北側に「水源地」と呼ばれる一帯がある。この辺りから湧き出た豊富な水が開析谷を形成し、深大寺境内に用いられた低地や、前回に挙げた谷戸を生み出したと考えられている。深沙大王堂の西隣にはかなり大きな規模の日本料理店があるが、その敷地にはかつてマスの養殖池があった。そうした水源地とよばれる斜面の中に、写真の水源地不動尊はぽつんと立っている。

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開析谷を形成したほどの勢いはまったくない湧水の流れ

 水源地付近から流れ出た清水は深大寺通り沿いにある逆川に合流する。地元の人の話では、湧き水の量は年ごとに減少しているとのこと。とくに今春は流れがほとんど枯れてしまうほどだったそうだ。

 湧水は、武蔵野段丘に染み込む雨水がゆっくりと武蔵野ロームに浸透し、その下の武蔵野礫層に達したとき、ほんの一部が段丘崖の下層から姿を現すのである。かつて、武蔵野台地には林や森や野原以外ほとんど何もなかった。新田開発が進んでも、浅い井戸は掘られたとしても深層水まで手が加えられることはなかった。やがて工場ができたり宅地開発が進んだりしたときに、地下水は工業用水として、住民の飲料水として利用されることになった。例えば、武蔵野市では現在でも水道水の8割を深度250mの地下水を用いている。工場も敷地内に井戸を掘り、多くの地下水を利用している。深層の水が減れば浅い層の水は地中深くに向かい、表に現れる量は減少する。また、宅地造成の際は地中10mほどのところに上下水道の管を埋めることになるので、表層に近い場所にある水脈は工事によって寸断されるのである。こうして湧水量は年々、減っていく。

 以前に触れたように、八王子城の御主殿の滝は八王子城跡トンネルの工事によって流れの大半を失った(cf.第40回・悲劇の八王子城)。上野原や相模原を流れる中小河川は、リニア実験線のトンネル工事のために水量を激減させた。次は大井川の番である。NHKの「ブラタモリ」では最近、「熱海」の回を再放送したが、最後近くの場面で、丹那トンネル工事で地下水脈を掘り当てことによって、増加した熱海の住民のための飲料水が確保されたことを紹介していたが、地下水の大半が熱海側に湧出したために、西側の函南では農業用水が失われ、やむなく牧畜に転業せざるを得なくなったことには触れなかった。何事にも明暗はあるのだ。

深大寺境外を少しだけ歩く

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山門下の参道を歩く

 深沙大王堂を離れ、山門下まで戻るため参道を東に向かって歩いた。写真は、山門近くから大王堂方向に振り返って見たときの景色である。右手に境内があり、左手の垣根の内側に亀島弁財天池がある。

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仲見世通りを横切る逆川と福満橋

 仲見世通りを少しだけ歩いた。前回、紹介した「元祖嶋田家」と「鬼太郎茶屋」との間に、写真の逆川のか細い流れがある。小さな橋が架かり、それは「福満橋」と名付けられている。これまで何度も出てきた、満功上人の父親の名前から採られている。

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多門院坂近くにある「不動の瀧

 山門下の参道を東に進むと、写真の「不動の瀧」に出る。この西隣に不動堂があるので、「不動の瀧」と名付けられたのだろう。滝と呼ぶほどの流れはないが、これも湧水の減少が災いしているはずだ。

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多聞院坂。深大寺小学校は右手の高台にある

 不動の瀧の東隣に「多聞院坂」がある。多聞院は深大寺塔頭(たっちゅう)のひとつだったが廃されて、現在はその敷地に深大寺小学校が建っている。多聞天は四天王のひとつで、独尊のときは毘沙門天といい、四天王が揃ったときは多聞天と呼ばれる。「多聞」は日夜、法を聞くというところから名付けられた。深大寺小学校は多聞天との結び付きがあるので、ここの児童はさぞかし授業をよく聞くのだろう。

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神代植物公園・水生植物園の入口

 不動の瀧、多聞院坂の対面に写真の水生園の入口がある。本園の神代植物公園は有料だが、こちらの水生園は無料だ。園内の様子は前回に掲載した。今の時期は見ものは少ないが、深大寺湿地は通路がよく整備されているので散策に適している。意外な植物の姿や開花が発見できるかもしれない。

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深大寺城跡。森の中に第一郭(くるわ)がある

 深大寺城跡は水生園の敷地内にある。深大寺湿地の標高は37m程度だが、その西隣にある城跡は、第一郭(くるわ)の一番高いところで52m、広場になっている第二郭で50mある。この場所は、先にも述べたように北西から南東に伸びた舌状台地になっているため、丘城を築くには適した場所といえる。台地といっても、ここは武蔵野段丘面の南端にすぎず、北から東側を深大寺の湧水群が開析して低地になったため、相対的に高台になっているだけである。ここのすぐ南側に中央自動車道が走っている。

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建物は残っていないが土塁は残存している

 深大寺城は南西に突き出た地形の上にあるので、西からの守りには弱い。それゆえ、西側には写真のような土塁が築かれている。ここは第二郭と第一郭との間に築かれたもので、最後の防衛線ともいえる。

 深大寺城の主が誰であったかは諸説あり過ぎて特定されていない。初見は『河越記』とのことだが、それには上杉朝定(1546年、河越城の戦いで戦死、扇谷上杉氏14代)が深大寺城を再興したとある。が、再興というからにはそれ以前にも「城?」として造営したものがあったはずだし、1540年代といえばすでに小田原北条氏が武蔵国の多くを制覇していたし、その配下には深大寺を再興した吉良氏(世田谷城)の影響力もあったとすれば、深大寺城が上杉家の支配下にあったとする考えに反対する学説もある。

 発掘調査によれば、第一期の堀からは14世紀頃の青磁片が出土している。第二期の堀からの出土品によれば1500年前後の構築である蓋然性が高いらしい。上杉氏と北条氏の覇権争いは1524年の江戸城落城によって北条氏が優勢となり、1537年(天文六年)に上杉氏の河越城が落城したことを考えると、深大寺城は、初めは上杉方にあり、のちに北条氏の支配下に入ったとするのが妥当かも知れないと、まったくの素人はそう判断する。

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熱帯スイレン・ホワイトデイライト

 深大寺に行けば、当然のごとくに神代植物園に入ることになる。65歳以上は250円で見学できるのが嬉しい。折角なので、大温室に入ってみた。ランやベゴニアの華やか過ぎる花群だけでなく、写真のような可憐な熱帯スイレンが開花していた。

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フウリンブッソウゲ。こう見えてもフヨウの仲間

 風鈴仏桑花の漢字をあてる。アオイ科フヨウ属で、学名は”Hibiscus schizopetalus”という。ハイビスカスはフヨウのこと、スキゾペタルスは”切れ込みのある花弁”を意味する。東アフリカ原産で、日本でも暖かい地方では自然下で育てられている。神代寺、いや深大寺に相応しい名の花である。

 神代植物公園については、いずれ詳しく紹介する予定でいる。 

〔45〕野川と国分寺崖線を歩く(3)深大寺界隈(前編)

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深大寺法相宗の寺として733年に創建された

深大寺縁起ものがたり

 現在の調布市佐須町が「柏野」と呼ばれていたころ(市立柏野小学校の名前として残っている)、その地には右近長者という豪族が住んでいた。右近と虎女との間にはひとりの美しい娘がおり、右近は良き婿を迎えて跡継ぎにしたいと考えていた。そんな折、渡来系(高麗人=高句麗人)の福満という名の青年が娘の前に現れ、青年の猛烈なアタック(恋文を千通出したと言われている)によって、二人は恋に落ちたのだった。右近は氏素性の分からぬ男と娘との仲を裂こうとしたが、娘の心を動かすことはできなかった。右近は実力行使に出て、娘を大きな池の中にある離れ島に隔離してしまった。

 福満はしばらくの間、池のほとりに立って嘆き悲しんでいた。ある日、玄奘三蔵が流沙河(りゅうさが)を渡れずに難儀した際に深沙(じんじゃ)大王に祈願し、無事に河を渡ることが出来たという故事を思い出した。そこで、「私の願いが叶いますなら、一寺を建立して生涯、深沙大王を守り神としてお祈りいたします」と誓ったところ、大王の化身なのか一匹の大きな亀が現れ、福満をその背中に乗せて島に渡らせた。この奇瑞に右近長者は驚き、「神仏の加護を得られる男なら決して只者ではない」と二人の仲を許し、結婚を認めた。

 若夫婦は一人の男の子をもうけた。聡明なその子は成長し、父親の誓いを果たすことになった。中国に渡り、法相宗を修め、仏法の奥義を究めた。日本に戻ると、故郷の武蔵野に一寺を創建した。この人物が深大寺を開山した満功(まんくう)上人であり、寺は深沙大王寺(通称、深大寺)と名付けられた。

 こうして深大寺法相宗の寺として8世紀の前半に創建されたのだったが、9世紀の半ばの清和天皇の時代(貞観年間)に武蔵国国司の反乱が起こり、朝廷は天台宗の高僧を深大寺に送り造反国司の降伏を祈念させた。以来、深大寺天台宗の寺となった。

 以上は深大寺に伝わる「縁起絵巻」の概略のさらに概略である。深沙大王は青年と娘との仲を取り持つキューピッド(クピド)役を果たしているので、深大寺は「縁結びの寺」としてよく知られ、「ロマンティックな恋をしたい女性の願いを叶える」寺なのだそうだ。今回は3度、写真撮影をするためにこの寺を訪れたが、なるほど、他の寺以上に若いカップルや、一人で訪れる若い女性の姿をよく見掛けた。

 私がこれから触れることは、この「縁結び」とは何の関係がなく、(1)武蔵国と渡来人との関係、(2)はたして深大寺近辺に大きな池があったのかどうか、(3)玄奘三蔵の故事と福満との関係性、(4)法相宗から天台宗への転換、以上の4点である。

 (1)武蔵国に渡来人が多かったという点は本ブログでは以前にも少しだけ触れている(cf.第31回・府中は…普通の町です)が、ここでも改めて簡単に触れておきたい。武蔵国には21郡(『新編武蔵風土記稿』では22郡)あったとされているが、このうち直接に渡来人に関係するのは高麗郡新羅郡(のちに新座郡)の2郡である。どちらも入間郡から分かれたようだが、前者は716年、後者は758年に設立されたと推定されている。

 また、多摩郡の狛江郷(現在の狛江市、調布市三鷹市武蔵野市あたり)は「高麗江郷」と記されていたように、武蔵野の開発に際しては大陸から高度な文明を持ち込んだ渡来人の存在が不可欠だったようだ。ちなみに、井の頭公園にある井の頭池には「狛江橋」が架かっている。

 7世紀の朝鮮半島では唐の介入もあって、新羅高句麗百済の抗争が激しく、結局、663年に百済、668年に高句麗が滅亡し、以来、朝鮮半島からはそれまで以上に多くの渡来人が海を渡って日本列島に移動してきた。そもそも、日本列島に人が住むようになったのは、約3万8千年前に朝鮮半島からホモ・サピエンスが渡海してきたことが端緒であったので、半島と列島との交流が盛んになったとしても特別なことではないのだが。

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檀家世話人の中には今でも渡来系の人の名前が残っている

 『続日本紀』などの記録によれば、666年、百済人男女2千余人東国移住、684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す、687年、高麗人56人を常陸国新羅人14人を下野国へ移住、高麗の僧侶を含む22人を武蔵国へ移住、716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七カ国の高麗人1779人を武蔵国に移し高麗郡を設置、758年、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移し新羅郡を設置などとあり、7~8世紀の間、武蔵国には続々と渡来人が移住してきたのである。深大寺を創建した満功上人の父親である福満は、上に記載した移住者の中に含まれているかもしれない。深大寺は733年に創建したとされているので、7世紀後半に武蔵国に移住、もしくは渡来してきたのであろうか。

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神代植物公園・水生植物園はかつて湿地帯だったようだ

 (2)右近長者は娘と福満青年との仲を切り裂くために娘を池の中にある島に隔離したとあるが、はたして深大寺近辺にはそのような大きな池があったのだろうか?この話は深大寺の存立根拠に関わる点だけに見逃すわけにはいかない。さりとて、伝承を事実で否定するのも大人げない行為に相違ない。さしあたり、ここでは「池」に見立てられるような場所がこの地にある(あった)のかどうかだけを考えてみたい。

 写真は、深大寺境内の南側にある神代植物公園・水生植物園の湿地帯(通称、深大寺湿地)である。 ここは幅が80mほど、長さは220mほどある。植物園の入口付近にあるテラス(撮影地点)の標高(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を利用)は40mほどだが、湿地帯は37m程度である。西側には後述する「深大寺城跡」の郭(くるわ)がありその標高は52mで、湿地の東側も「三鷹通り」が通る「高台」になっていて、そちらも52mである。

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神代農場も開析谷を使用している

 その「高台」の東側にも湿地帯があって、そちらは都立農業高校の「神代農場」として利用され、その標高は38mである。さらに、その東側には深大寺南町の住宅街が広がっていて、そちらの標高もまた52mである。ちなみに、国分寺崖線上にある神代植物公園の敷地の標高は55mである。

 以上のことから、2つの湿地帯は武蔵野段丘の南端を豊富な湧水が開析した緩やかな谷筋であることが分かる。水に恵まれている場所ゆえ、少し前までは谷戸が形成されていたようだが、古くはかなり広めの湿地帯であって、三方が標高差15mほどある高台なので、ここを池に見立てることは十分可能なのではないかと思われる。すなわち、湖や大きな池こそないものの、この湿地帯は娘を隔離することが可能なほどの広さをもち、周りを高台が取り囲んでいるため、監視も容易だったのではないか。

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山門の南西側にある亀島弁財天池

 渡来人である福満は、すでに高い灌漑技術を身に付けていた人物であったと推定するなら、彼には右近長者の後継者として十分な素養があり、いささか湧水が豊富すぎるこの地域の土地改良を進んでおこない、この地域の発展に寄与したことによって伝説上の存在になりえたのだと想像することは可能ではないだろうか。

 写真の「亀島弁財天池」は、娘が隔離された島とそれを取り囲む池を模して造られたのだろう。大幅に減水したとはいえ、この程度の池であれば現在湧き出ている清水でも十分に賄いきれるはずだ。

 (3)玄奘三蔵といえば、サンスクリット語の原典を求めて国禁を犯してインドに向かい多くの経典を持ち帰り、それらを中国語に翻訳したことで知られている。その旅の記録である『大唐西域記』(646年、弟子の弁機が玄奘から聞き取りをしてまとめた)によれば、インドではナーランダ僧院で唯識論を学び、北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の名君とされるハルシャ・ヴァルダナ王に進講したこともあったそうだ。インドから持ち帰った膨大な経典のうち、もっともよく知られているのが『大般若経』であり、その神髄である「空思想」を簡潔にまとめた『般若心経』も玄奘が伝え広めたことで中国、朝鮮、日本などに定着した。

 玄奘その人についてよく知らなくとも、『西遊記』の三蔵法師のモデルであることは誰もが知っている。日本のドラマでは三蔵法師役を夏目雅子宮沢りえが演じているが、東京国立博物館に所蔵されている「玄奘三蔵像」と、その役を演じた彼女らの姿かたちとはまったく似ていない。

 『大唐西域記』では、タクラマカン砂漠で「流沙河」という流砂にあって玄奘は5日間も水を得ることができず死に瀕したおり、砂漠の民に助けられて九死に一生を得たという話が出てくる。ここでは「深沙大王」の名はまったく出てこないが、中国ではすぐに深沙大王との関りが論じられたようで、日本では8世紀初頭には深沙大王伝説が広まっている。このため、砂漠の流砂はいつのまにか水豊かな大河になり、玄奘の砂漠での渇きは大河を渡る際の苦難に転じているのである。中国と砂漠とは結び付きにくいが、中国と大河なら黄河や長江の名を挙げるまでもなくイメージしやすい。

 中国の歴代王朝は「夏」(前2100~前1600年)に始まるとされるが、その夏王朝を開いたのが治水に功績のあった禹(う)である。『書経』によると、堯(ぎょう)帝は禹の父親である鯀(こん)に治水を任せたが失敗したため、今度はその息子である禹におこなわせた。禹は水路を切り開き、それらに堤防を築いて大洪水を防ぐという「疏(そ)」という方式を採用して成功した。その結果、堯に認められた禹は中国の初代王朝を築くことができた。水を治めるものが中国を治めるという伝統はこのときに生まれたのである。現代ですら、中国は治水に苦労している。なお、禹は水神であり龍の化身と考えられている。

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深大寺水源地の際にある深沙大王堂

 このように、中国では砂漠での苦難より水での苦難のほうが身近であるため、『大般若経』を守護する十六善神のひとつである水神・深沙大王(深沙大将)が玄奘の苦難を救ったという故事が成立したのだろう。十六善神図があらわされるときには必ず、深沙大王は玄奘三蔵と対で描かれることになっている。

 福満青年は深沙大王の導きによって恋が成就したのであるから、深大寺には当然、深沙大王の像があると考えられる。この像は門外不出の秘仏中の秘仏で、たとえ住職であっても一代で一回だけしか拝むことができないそうだ。寺に伝わる話では、創建者の満功上人は父親の恋愛成就の恩に報いるために大王の像を祀りたいと念じたところ、ある日、白蛇に身を変えた大王が現れ、「多摩川に行けば神木が流れてくるので、それで我が像を刻め」と告げた。実際に神木が流れてきたので上人はそれでもって大王像を刻み、御神体としたのだとされている。

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千社札納札)がうっとうしい

 我々には深大寺の深沙大王像を拝見することができないが、大王像ならば高野山金剛峯寺にも日光・東照宮にもあるので、その姿を見ることができる。また、深沙大王は毘沙門天多聞天)の化身でもあると考えられているので、毘沙門天の像から想像することも可能だ。姿をイメージする限り、あまりお近づきにはなりたくないが、水神とあれば、アユが釣れないとき、川の中で転倒したときなどにお世話になるかもしれないので、無下にするわけにはいかないのかも。

 (4)深大寺法相宗でスタートしたのは、けだし、当然のことである。上に述べたように、深沙大王と玄奘とは密接な関係性を有しているからだ。玄奘三蔵はナーランダ僧院で学んだ唯識学を弟子たちに伝え、そのひとりである慈恩大師・基が法相宗を開いたのだった。

 日本においては、留学僧の道昭が玄奘から直接(同室で暮らしながら教えを受けたらしい)学び、帰国後は飛鳥寺元興寺法興寺とも)に禅院(瑜伽行(ヨーガ)をおこなうためか?)を建立して、唯識学の研究に努めた。ただ、彼は社会活動もおこなっていて、『続日本紀』には「天下を周遊して、路傍の井戸を穿ち、諸の津済(港のこと)に船を設け橋を造る。山背の国の宇治橋は和尚(道昭のこと)の造る所なり」とある。また、彼は死後、火葬に付されているが、これは記録に残る日本で最初の火葬といわれている。『続日本紀』には「弟子たちは遺言の教えを奉って栗原に火葬す。天下の火葬は之より始まれり、と世伝えて云う。火葬し終わって親族と弟子相争って、和上の骨を取り集めんと欲するに、つむじ風たちまち起きて灰骨を吹き上げて終にその行くところを知らず」とある。きっと「千の風」が吹いたに違いない。

 この道昭の弟子と言われているのが、聖武天皇の命によって大仏建立の勧進をおこなった行基である。彼もまた師匠に倣って貧民救済、治水、架橋などの社会事業をおこなっており、多くの功績によって日本最初の大僧正の位を得ている。

 ちなみに、道昭も行基百済人の後裔である。

 法相宗南都六宗のひとつ(他は三論宗成実宗倶舎宗華厳宗律宗)として奈良時代に栄えた教えで、現在は興福寺薬師寺大本山である。この宗派が伝える唯識思想は極めて難解で、俗に「唯識三年、倶舎八年」と言われる。これは「桃栗三年、柿八年」とは異なり、まず倶舎を八年研鑽して、その上で唯識を三年学べば何とか理解できる可能性がある、という極めて高度な思想内容を有しているということを端的に表している言葉なのだ。とてもではないが、100分de学べるような代物ではない。

 倶舎とは世親(ヴァスバンドゥ)が著した『阿毘達磨倶舎論』30巻であり、唯識の経典は玄奘が漢訳した『成唯識論』10巻である。『大正大蔵経』では倶舎論30巻は160頁に、唯識論10巻は60頁にまとめられている。1年で20頁学習・会得するなら、倶舎論は8年、唯識論は3年で終了することになる。つまり「唯識三年、倶舎八年」となるが、これはたまたまの偶然であろう。

 法相の法は「存在」、相は「あり様」を表し、存在すると思われるものには客観性はなく、唯々、自らの心によって顕現された主観的なものに過ぎないというのが唯識(唯、識があるのみ)の基本的な考え方である。人には前五識として眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)があり、これに意識を加えた六識が表に現れる意識だが、その下層には二つの無意識層があり、七識として末那識(自己自身に執着する心)、八識として阿頼耶識(すべての存在を生じさせる根本心)があるとするものである。この考え方に立てば、自分自身はおろか他者も、世界も宇宙も客観的な存在ではなく、ただ自分の心が生み出したものにすぎす、自分の心が消えてしまえば(死もそのひとつ)、他者も世界も宇宙も消滅するということになる。つまり、絶対的な存在などひとつとしてなく、すべては相対的でありかつ「空」であるという考え方なのだろう。そうであるならば、唯識思想もまた相対化されなければならず、相対者の立場で絶対者を否定してもそれは単なる相対的否定にすぎないと思われるのだが。

 この唯識思想に没入してしまったのが晩年の三島由紀夫で、この立場に立って書かれたのが、彼の最後の作品である『豊饒の海』四部作だ。これは平安後期に書かれた『浜松中納言物語』(菅原孝標女が著作者であるとされる)を下敷きにして、輪廻転生をテーマにした小説である。私には三島の作品の良さはさっぱり理解できず、彼の作品を読む機会はさほど多くはないが、この四部作だけは、彼が割腹自殺直前に書かれたものであること、輪廻転生をテーマにしているらしいので頑張って読んでみた。ただし、精読はしておらず、完全に読み切ってもいない。三部までは輪廻転生を「肯定」しているが、四部の『天人五衰』では転生を否定している(ようだ)。唯識論に立てば当たり前の話で、世界は客体としては実在せず、唯識論自体も自らの識が仮の説として顕したに過ぎないものなのであるから、転生の実在を最後まで認めてしまうなら、唯識論そのものの否定につながるからだ。この点において三島の思想や行動は正しいと思われる。

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深大寺は現在、天台宗の寺である

 先に述べたように、深大寺は9世紀の貞観年間に法相宗から天台宗に転じた。これには政治的な理由があったようだが、その後の仏教史を考えると天台宗への転換は間違いではなかったように思われる。

 天台宗は「本覚思想」を特徴とする。煩悩即菩提や娑婆即浄土といったように、迷いと悟りを対峙的に捉えるのではなく一体化するのである。それゆえ、すべての存在に仏性がある考えており、それを端的に表現したものが「草木国土悉皆成仏」である。同様な言葉は『涅槃経』にもあり、「一切衆生悉有仏性」と表現されている。人間や動物に仏性があるというのは理解可能だが、草や木や石や土にまで仏性があるというのは言い過ぎの感がある。反面、草花を育てるとき、美しい音楽を聞かせたり優しい言葉を掛けると綺麗に咲くという話は案外よく聞くし、実際、『愛の不時着』にもそうした場面がある。

 こうした天台宗の立場に法相宗からの批判が上がった。これが有名な「三乗一乗権実論争」である。一乗を主張するのは天台宗最澄で、声聞、縁覚、菩薩の三乗があるのはあくまでも衆生を教え導くための方便で、実際には法華一乗の教えから差別はなく、すべてに仏性があるとする。一方、三乗を主張するのは法相宗の徳一で、三乗によって悟りに至る境地は異なり、法華一乗は性の定まらない衆生を説くための方便であるとするものである。

 私は個人的興味からこの論争(実際にはおこなわれたのは著作物による対立)を調べたことがあったが、徳一の圧勝であると思われた。しかし、現実には天台宗のその後の「発展」を見れば明らかで、最澄比叡山延暦寺伝教大師は誰でも知っているが、徳一の名前は仏教に興味のある一部の人にしか知られていない。ただし、空海は徳一を高く評価していたようで、最澄とは絶縁したが、徳一には弟子を派遣したり、経典の書写を依頼したりしている。

 上にも触れたが、法相宗大本山のひとつに薬師寺があり、そこは私が奈良に出掛けた際には必ず立ち寄る寺である。行くたびに建造物は綺麗に改修されているが、その予算の出所は高田好胤が始めた百万巻写経勧進である。『般若心経』を写経したものを一巻1000円の供養料とともに薬師寺が集め、これを荒廃した建造物の改修費に充てたのである。高田好胤は話がとても上手であり、修学旅行で薬師寺を訪れた多くの生徒は高田ファンになった。私の姉もその一人で、せっせと写経をおこなってはかなりの数を薬師寺に送っていたのを記憶している。法相宗の寺には檀家制度がないので墓所などによる収入は期待できない。拝観料収入にも単なる寄付にも限りがある。その点、写経は送る人にも受け取る側にも双方に良き繋がりが形成される。

 興福寺はどうだろうか?そちらには、なんといっても「阿修羅像」がある。

 以上の4点が、私が深大寺を訪れた際に抱いた疑問に対する自分自身への簡単な解題である。

深大寺そばを食べずにそばを語る

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深大寺と聞いて、まず思い浮かぶのは「そば」である

  深大寺という言葉を聞いて、多くの人がまず最初に思い浮かべるのは「そば」であろう。それほど、深大寺とそばとの結び付きは強固なのである。何しろ、伝承によれば400年以上の歴史があるようなのだ。具体的には、3代将軍徳川家光が鷹狩りの途中にこの地に立ちよってそばを食し、その味の良さを激賞したという話や、上野寛永寺(江戸時代の深大寺寛永寺の末寺であった)にそばを献上したところ高い称賛を得たという話が残っているという。さらに、江戸後期の御家人かつ随筆家であった太田南畝(蜀山人)はこの地のそばを食し、その味の良さを広く宣伝したことから多くの文化人に愛されるようになったそうだ。

 1823年にまとめられた『新編武蔵風土記稿』にも「当国(武蔵国のこと)ノ内イツレノ地ニモ、蕎麦ヲ種ヘサルコトナケレトモ、其品当所(深大寺村のこと)ノ産ニ及フモノナシ。故ニ世ニ深大寺蕎麦ト称シテ、ソノ味ヒ極メテ絶品ト称ス」とある。この点で留意しなければならないことがひとつある。深大寺そばとは深大寺の門前そばを指すのではなく、深大寺村のそば総体を言うということである。それをさらに証拠付けるのが1836年に上梓された『江戸名所図会』の説明文で、「深大寺蕎麦 当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前少し高き畑にして、わずかに八反一畝の程よし。都下に称して佳品とす。然れども真とするもの甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども佳ならず」とある。狭義の深大寺そば深大寺の敷地内(現在、神代植物公園が存在する場所のことである)で産したそばの実から作られたものを示していたようだが、やがて、その評判にあやかり周辺の土地でとれたそばの実からつくられたものも、こぞって深大寺そばを称するようになったのである。

 深大寺の門前にある写真の「元祖嶋田家」は、江戸末期の文久年間(1861~64年)に創業されたとある。深大寺の門前にあったそば店はここぐらいで、しかも本業は農業で、客が来ると農作業を切り上げて、それからそばを打ってゆでていたらしい。

 深大寺そばが大衆に広まったのは昭和30年ごろかららしいので、日本の高度経済成長の始まりとほぼ重なる。生活に少し余裕ができた人々が深大寺を訪れるようになると、「深大寺そば」の名を掲げる小さな店が嶋田家以外にも出来て、それなりの評判をとるようになったらしい。

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神代植物公園深大寺門。深大寺のすぐ北側にある

 本格的な転機は1961年(昭和36年)、深大寺の裏手に都立神代植物公園が開園されたことだ。寺詣でよりも花詣でのほうが大衆には圧倒的な人気がある。これによって観光客の数は一気に増え、「ついでに深大寺にも寄ってみよう」「名にし負う深大寺そばを食そう」という人々が多数訪れるようになり、「深大寺そば」の名を掲げる店が次々と出来てきたのであった。

 現在、深大寺そば組合加盟店は20数軒ある。各店のWebサイトをのぞいてみると、そば粉は北海道、長野、青森産などを使っているということを堂々とうたっている。かつて、深大寺そば深大寺の敷地内で産するそばの実を使っていた。それが深大寺村全体に広がり、今では深大寺とは無関係な土地のそばの実が使われている。深大寺そばは「深大寺内のそば」から「深大寺のそばのそば」になり、今では「深大寺の門前でもてなされるそば」へと転じている。それでいいのだろう。美味しければ良いのだし、美味しいと思って食べるのも良いし、深大寺そばを食べたという実感がもてさえすればそれもまた良し、なのである。

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地元愛を高めるためもあってか小学校でもそばを育てている

 そばは、タデ科ソバ属の一年草である。元来、焼き畑で作られていた品種なので、肥料はほとんど不要だ。排水が良い畑が必要だが、水分が多いと発芽率は極端に低下するので、稲作のような大量な水は必要としない。生育温度は0~45度なので日本のほとんどの場所で育てることは可能だ。

 深大寺のある武蔵野台地の上段の武蔵野段丘も下段の立川段丘も案外、水には恵まれていない。沖積低地にこそ多摩川があるが、武蔵野段丘面には川がないゆえに玉川上水が整備された。立川段丘の国分寺崖線際には野川があるので水が豊富のように思われるが、その流れは湧水を集めたものなので水温はやや低い。このため、水田耕作はあまり盛んにはおこなわれていなかった。イネは元来、やや暖かい地方を好む品種で、寒冷地でも育つように品種改良されたため、北陸や東北、北海道地方でも栽培が容易になったのである。

 この点、そばは環境からの縛りはイネよりもずっと小さいために、武蔵野台地の環境には適していた。ロームは水はけが良いのでそばには適し、火山灰は地味に恵まれていないがそばは養分をさほど必要としないので、この点も武蔵野の地に適している。深大寺に限らず、そばの栽培がこの地に広まったのはその性質上、必然だったように思われるのだ。香川県は瀬戸内気候のために雨が少なく水田耕作には不向きだったために小麦栽培が進み、その結果、讃岐うどんが誕生したとも言われている。深大寺近辺も、水には恵まれているもののそれは冷たいために水田耕作には不向きだったためにそば栽培が進み、その結果、深大寺そばが誕生したのかもしれない。

 武蔵野地方は水田耕作には不向きのために小麦栽培が盛んで、その結果、武蔵野うどんが誕生した。「山田うどん」(正式にはファミリー食堂山田うどん食堂)はその一派であり、私も十年ほど前まではよく通っていた。

深大寺そばを食べずに深大寺を巡る

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くねくねとした深大寺通り

 深大寺を訪れるのは今回が2度目である。もっとも、今回は暑さもあって一日ではとても多くを見て回ることができないので、3回も出掛けてしまった。したがって、通算では4度ということになる。

 1度目は母親のお供であったこと、今から50年近く前であったので、記憶にはほとんど残っていない。ただ、そのときは「深大寺そば」を食したことは確実である。それが唯一の記憶かもしれない。ただし、味はまったく覚えていない。そもそも、そばの味の違いは私には不明なのだ。

 私にとって、そばの記憶は京王線府中駅にあった「陣馬そば」のみと言って良い。知人には、そばを食べるだけのために日帰りで信州に出掛ける馬鹿者が3人いた(各々は知人関係ではない)が、私なら断然、陣馬そば推しなのだ。何しろ、家からは2分程度で行けたのだから。かつ、とても安く、立ち食いなのですぐに食べられたからだ。行って食べて帰ってくるまで10分で足りた。なぜ、好き好んで1日かけて信州くんだりまで出掛ける必要があるのだろうか?信州そばを食べることが目的ではなく、信州でそばを食べるという体験を味わうことが目的だろうと私は考えたのだが、彼らはすべて、その考えを否定した。そばが美味しいのだという。しかし、彼らは、コンビニ弁当を食べても、山田うどんを食べても、くるまやラーメンを食べても美味しいというので、やはり味音痴の馬鹿者には相違なかった。

 今回、深大寺を訪れたのは国分寺崖線や野川を訪れる散策の続きであったこと、神代植物公園をのぞくついでであったことが理由なので、深大寺そばは目的のひとつですらなかった。そばはともかく、寺巡りは趣味のひとつなので深大寺散歩には興味があった。ただし、関心があるのは寺そのものではなく、あくまで「寺のある風景」なのだが。

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復元された逆川にあった水車小屋

 ひとつ上の写真の「深大寺通り」を車で走ることは案外、以前から良くあった。景観はまずまずで雰囲気のある道だし抜け道としても便利だったからだ。かつては、バス通りにしてはかなり狭かったが、現在では道はよく整備されたので以前よりかなり走りやすくなった。しかし、整備されたとはいえ、くねくねと曲がりくねっている道筋は不変である。山坂道であるならともかく、ここは平坦な場所にある道なので、理由はひとつしか考えられない。ここにはかつて川が流れていたからで、その曲がりは川の蛇行を表しているのだ。後にも触れるが、ここには逆川(さかさがわ)が流れ、そこには小麦やそばを挽く水車小屋があった。逆川の名の由来は、武蔵野の川は通常、西から東に流れるのだが、この川はその向きが逆だからだそうだ。しかし、川筋も整備されてしまったので、今では西から流れている。とはいえ、順川に名称変更はされていない。

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深大寺通りから山門に至る参道

 深大寺通りはバス通りでもあり、京王バス小田急バスの停留所がある(別々に)。京王バスの停留所のすぐ東側に、通りから北に向かい山門に至る参道がある。長さは100mほどだ。この参道には4軒のそば屋兼土産物店がある。

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鬼太郎茶屋は水木しげるワールドを展開している

 4軒のうち、一番目立つのが写真の「鬼太郎茶屋」だ。深大寺のある調布市には水木しげるは1959年(37歳)のときからずっと住んでいる。「売り物」の少ない調布市にあって水木しげるワールドは一番の売れ筋「商品」といっても過言ではなく、調布市コミュニティバスの愛称は「鬼太郎バス」である。鬼太郎茶屋にも水木しげるの世界が全面展開されており、鬼太郎やねずみ男以外にも多くのキャラクターが飾られている。なお、水木しげる大阪市生まれだが、幼少期は父親の故郷である鳥取県境港市で過ごしており、境港でも「水木しげるロード」など、水木のキャラクター花盛りである。私自身、漫画大好き人間だったので水木の作品には数多く触れていた。しかし、水木が境港市で育ったということは、そこを拠点にして島根半島によく釣りに行くようになってから知った。

 鬼太郎茶屋の北側にあり、山門にもっとも近い場所にあるのが先に挙げた「元祖嶋田家」である。先の写真では、いかにも元祖らしい佇まいだが、山門側から見ると、下の写真のように「そば」だけでなく深大寺の二大名物である「だるま」も数多く扱っている。

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山門側から見た嶋田家の店先

 冒頭の写真にある「深大寺蕎麦」の幟を掲げているのが、嶋田家の対面にある「そばごちそう門前」である。「深大寺そば」を前面に掲げる店は案外、敷居が高そうな店構えをしているものが多いが、ここは比較的気軽に立ち寄れそうな店だ。私はそばを食する気持ちはまったくなかったが、この店のメニューをちらりと見たとき、 下の写真のある言葉が気に入ったので、もし今後、深大寺そばを食する機会があったとすれば、この店に入りたいと思った。

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そばごちそう門前にあったメニューのひとこと

 そばアレルギーというものは実際にあり、直接の知人ではないが、広島に住む釣り名人の仲間で、やはり釣りの世界ではよく知られていた釣り人が、このそばアレルギーでショック死したことがあった。彼はそばアレルギーを自覚していたはずなのに、釣りの帰りに高速道路のパーキングエリアにある立ち食いそば店に入り、うどんを食べてアナフィラキシーショックで死去したのだ。その店では、他でも多く見られるように麺のゆで湯がそばもうどんも共用だったので、彼のうどんには少量ではあったが、そばの成分がコンタミネートしていたのだった。

 こうしたことは近年ではよく知られているので、ゆで湯の共用は少なくなっていると思う。そばアレルギーの人は深大寺そばを敬遠するだろうし、「そばごちそう門前」でうどんを食する人もコンタミネーションには留意するはずだから心配はいらないだろうし、そもそも店の方でも気を付けているはずである。

 深大寺そばの店でうどんを食す。私の場合、こちらの行為に興味がある。

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前を行くオッサンが山門をくぐるところ

 冒頭の写真にあるように、深大寺の山門はかなりの年季が入っている。深大寺の建物のほとんどは1865年(慶応元年)の大火災で焼失した。被災を免れたのは、山門と、上の写真の右手に見える常香楼だけであったらしい。

 山門に残る棟札には、建造は1695年と記録されている。簡素な造りだが、なかなかの趣があって、印象に残る建造物である。

 前を行く見知らぬオッサンが山門をくぐった。そのあとを継いで、私も境内に入った。生涯、二度目の深大寺参りの始まりである。

 *次回に続きます

〔44〕野川と国分寺崖線を歩く(2)流域今昔物語

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野川と西武多摩川線と武蔵野公園と

 前回の最後に挙げたように、野川は「新小金井橋」の下流部から、それまでとはまったく異なる表情に変わる。それは川自体というより、その流域の姿が一変するからである。源流部のすぐ南の中央線直下から顔を出した野川の流れの両岸には、ほとんどの場所に住宅が並んでいた。東京経済大学下にある「鞍尾根橋」の下流からは流路が整えられ、川幅は拡張され、それまでの三面コンクリート護岸から可能な限り自然風に設えられた親水護岸となり、狭いながら河川敷には散策路があり、両岸の大半には遊歩道も整備された。それでも、その遊歩道の傍らには住宅が立ち並んでいることには変わりがなかった。

 しかし、新小金井橋の下流からは、その様相が大きく変貌するのである。もっとも、それは「野水橋」辺りまでの約2キロ間のことであり、それ以降は再び住宅地を貫く川という姿を取り戻すことになるのだが。ただし、親水護岸風の造作は最下流部まで続いている。

流域に公園が広がっている理由は?

新小金井橋の下流。右手に武蔵野公園、左手に野川第2調節池

 なぜ、この2キロ間では住宅地ではなくて武蔵野公園、野川公園という広々とした都立公園が野川に接し、さらにその南側には多磨霊園、府中運転免許試験場、調布飛行場武蔵野の森公園が、川のすぐ北側にある国分寺崖線上には国際基督教大学キャンパスや国立天文台といった、広大な敷地を必要とする施設が数多くあるのだろうか。その理由は、この地域の大半がそれまで農地や牧場、雑木林であって、甲州街道筋や中央線沿線に比べるとかなり住人は少なく、その結果、それらの施設を誘致しやすい環境にあったからだと考えられる。

 そもそも、中央線の路線が東中野駅から立川駅まで23キロも真っすぐに敷かれていることからも、武蔵野台地にはまだ開発の手が伸びていない土地がいくらでもあったということが想像できる。中央線の前身である甲武鉄道は1889年の4月に新宿・立川間で開通し、同年の8月に八王子まで延伸された。駅は新宿、中野、境(現在の武蔵境駅)、国分寺、立川、八王子の6つでスタートし、90年に日野駅、91年に荻窪駅、99年に吉祥寺駅、1901年に豊田駅、24年に武蔵小金井駅、26年に国立駅、30年に三鷹駅、64年に東小金井駅、73年に西国分寺駅が開業した。ちなみに、先に挙げた武蔵野公園以下、国立天文台までの施設はすべて武蔵境駅国分寺駅との間に位置する。東小金井駅武蔵小金井駅は中央線の開通からかなり後になって設置されたものであって、それだけ、その間の土地は駅を必要としないほど「辺鄙」な場所だったと思われる。また、たとえ駅ができたとしても、大半の人は武蔵野段丘面の駅に近い場所に住み、崖線下の立川段丘面にわざわざ居住するのは農業に携わる人々が大半だったと考えられる。

 農業といっても、立川段丘面は湧水を集める野川以外に水にはさほど恵まれていないため水田はあまりなく、麦や陸稲、野菜の生産、養蚕とそのための桑畑、牧畜などをおこなう人々がほとんどだったようだ。そのため、未開拓の土地も多かったはずで、広大な敷地を必要とする施設を誘致することが容易だったと考えられるのである。

新小金井橋から右岸にある武蔵野公園を望む

 都立武蔵野公園は1969年に開園した。草原や雑木林、都内の街路樹や公園に用いるための苗木園、野球場、バーベキュー広場などがある。草原(原っぱ)には写真中央に見える小高い丘があって「くじら山」と呼ばれているのだが、これは公園の隣に小学校を建設する際に出た残土を盛り上げたものである。

地下に貯水浸透施設がある

 雑木林の中にも小高くなっている場所があり、その地下には「見えない貯水池」がある。これは地下に浸透する雨水を溜めて置くプールで、国分寺崖線からの湧水が少なくなっている昨今、野川の流れを少しでも豊かにするために考案・設置されたものである。

 かつて、野川は豊富な湧水から成り立っていたが、武蔵野段丘上の開発が進んで多くの地下水が利用されたり、表土が整地・舗装されることで地下に浸透する水が激減したりした結果、流れは極めて乏しいものになった。そこで、今度は宅地などから出る下水を流すことにしため、清流ではなくドブ川に変貌してしまった。現在では下水処理システムが完成しているので汚水が流されることはほぼなくなったが、同時に流れも失ってしまった。かつての野川の清流を取り戻そうと流域の自治体や住民はいろいろな取り組みをおこなっているが、行政側が生み出した答えのひとつが、この「見えない貯水池」だった。

か細い流れの中にも魚がいて、それを狙う釣り人がいる

 自然の流れがあればその中には生き物がいる。魚の代表は「ヤマベ」(標準和名はオイカワ)で、流れが緩い場所では、近隣に住む子供やオジサン(稀にオバサンも)が1~1.5m程度の細く短い竿を使って釣りをする姿をよく見掛ける。「ヤマベ」は関東でよく使われる地方名で、「ハヤ」「ハエ」と呼ぶ人もいる。「ヤマベ」の名は釣りをしない人にはあまり通用せず、渓流魚の「ヤマメ」と混同してしまう人も多い。「こんなところにもヤマメがいるんですか!」と感嘆するする人がいるが、それは単なる勘違いである。ウグイ(地方名ハヤ)やクチボソ(標準和名モツゴ)、小ブナが少なくなった現在、ヤマベの存在はお手軽な釣りを試みる人々にとっては貴重な魚たちだ。

左岸にある調節池は子供たちにとって格好の遊び場になっている

 一方、左岸側には2つの「調節池」がある。新小金井橋に近い写真の広場は「第2調節池」で、平水時には川水はここには流れ込まないので、子供たちや家族連れ、そしてボール遊びをする大人たちも含め格好の遊び場になっている。

右岸と左岸とは護岸の高さが異なる

 撮影地点は右岸側の護岸上の遊歩道で、その左が野川の流れ、さらにその左に見えるコンクリート護岸が左岸側のもので、その左に第2調節池がある。大雨で野川が大増水したとき、水は左岸の堤防を越えて第2調節池に流れ込む。越水を前提として右岸よりも左岸の堤防を低くしているのだ。そして、この貯水池に水を溜め込むことで、下流での氾濫を防ぐことが可能となる。一種の治水ダム湖である。

第1調節池には円形の釣り堀がある

 第2調節池の下流側は土手が高く盛られていて、その上には東屋やベンチが置かれ、樹木も多く茂っているので、暑い時期には絶好の休憩所になっている。その土手の東側(下流側)はまた地面がかなり低く掘られている。そこが第1調整池であり、第2とは異なりただの広場というわけではなく、写真のような円形の釣り堀やどじょう池などが設えてある。円形釣り堀にもヤマベなどの小魚が居着いているので、小物釣り場として利用され、竿を出す人をよく見掛ける。この日は2人の大人と5人の子供が釣りを楽しんでいた。

調節池内にある水田

 第1調節池内には写真のような小さな田んぼもある。右側に見える照明塔は武蔵野公園内にある野球場のもので、左手の森は国分寺崖線の斜面の木々である。極めて自然が豊かなのはうれしいが、私の嫌いな虫(ヘビとクモ)が出て来そうなので早々に退散した。

右岸から第1調節池と国分寺崖線を望む

 右岸から野川、第1調節池、「はけの道」、国分寺崖線を望んだ。はけの道は、崖線下を通る道でなかなか趣があって良いのだが、自動車の抜け道になっているようで交通量が多いのが残念だ。「はけ」というのは「崖」を意味する方言で、私もガキンチョのときは国分寺崖線や府中崖線をそう呼んでいた。「はけ」は「崖」「端」「捌け」などから派生したようだが、本当のところは誰も知らない。

日本にも旧石器時代があった

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新小金井橋北詰にある遺跡の看板

 「野川中洲北遺跡」は野川調節池の造成に先立って発掘され、立川ローム層からは旧石器時代の遺物が発見されている(1986年)。かつて日本には旧石器時代はないとされてきた。縄文時代(およそ1万5千年前から3千年前まで)以前は火山活動が激しく人間が住めるような環境ではなかったと考えられてきたからだ。そのため、遺跡調査がおこなわれても、発掘は黒ボク土(火山灰と腐葉土が混ざったもの)層までで、その下のローム層が現れたときにはもはや遺物はないと考えられ、それ以上掘り下げられることはなかった。

 それが1949年、群馬県のアマチュア考古学研究家であった相澤忠洋が、琴平山と稲荷山との間の切り通しの赤土の崖(現在の群馬県みどり市笠懸町阿左美)から黒曜石の「樋状剥離(ひじょうはくり)尖頭器」を発見したことから、旧石器時代が存在する可能性が浮かび上がってきた。しかし、アマチュアによる発見だけでは学問的な検証はできないために疑義も多く、すぐに認められることはなかった。この「岩宿」に次いで51年、やはりこれもアマチュアによる発見だが、板橋区のオセド山の切り通しから中学生が黒曜石の石器と礫群を見つけたのち、明治大学などによる本格的な遺跡調査が入念におこなわれ、中学生が発見した遺物が旧石器であることの学問的裏付けがなされた。この茂呂遺跡の調査の結果、相澤忠洋の発見も旧石器であると認められることになり、「岩宿遺跡」は日本に旧石器時代があったことを証明する第1番目の遺跡に位置付けられ、日本の旧石器時代は「岩宿文化」とも呼ばれるようになったのである。

 私はよく足尾銅山見学に出掛ける(cf.第8回・渡良瀬川上流紀行)ので、岩宿の近くを通るのだが、大抵は足利市に寄って森高千里聖地巡礼をおこなうか、前橋市方面に移動して榛名山妙義山見物をするため、岩宿に立ち寄ったことはなかった。しかし数年前、足尾からの帰りに熊谷市に寄る用事があったため、渡良瀬扇状地の扇頂に位置する「大間々」から南下して直接、熊谷に行くルートを選んだ。

 予定では県道69号線を南下するはずだったが、なぜか間違えて県道78号線に入ってしまった。そのまま進んでも大きな問題はなかったのだが、たまたま「岩宿遺跡入口」交差点があったので、遺跡の前を通って予定していた道に出ようとそこを右折した。遺跡のすぐ横に駐車スペースがあったので寄ってみることにした。が、この手にはよくあるような展示施設だったので、短時間でそこを切り上げて熊谷に向かうことにして駐車場を出た。

 ところがすぐ近くに「岩宿博物館」があり、建物が立派だけでなく、その南側にある「鹿の川沼公園」が素敵に見えたのでそこにも寄ってみることにした。公園だけの予定で、博物館は外観を眺めるだけでいいと考えていたが、公園から博物館方向を見ていると入館する人が皆無なことに気づいた。その結果、余計な同情心が湧いてしまい館内をのぞいてみることにしたのだった。

 若い女性の学芸員がいて、私に近寄り、勝手に案内を買って出て、展示物のひとつひとつを熱心に説明し始めた。本当は大いに迷惑なのだが、まだ見習いレベルだと思われる学芸員は訥々と、しかし熱意を込めて話すので、聞いているふりをするのが大変だった。相手がベテラン学芸員だったら話を相澤忠洋と明治大学の杉原荘介との確執にもっていき、明大閥の博物館員を話しづらくさせ、「それじゃぁ」といって退散することもできるのだが、新米学芸員を揶揄うのは可哀そうなので、大人しく、しかも当たり障りのないレベルで、相澤氏を見出した芹沢長介についての質問などをしてみた。10分ぐらいで脱出したかったのだが、結局、一時間半ほど滞在してしまった。その間、私のほかに博物館を訪れる人はいなかった。

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野川遺跡跡。見た限り看板すらなかった

 「野川中洲北遺跡」に先立つこと17年、野川の右岸側で大規模な発掘調査がおこなわれ、立川ローム層中にも数多くの旧石器が眠っているということが判明した。国際基督教大学(以下ICU)のゴルフ場内に30m道路(現在の東八道路)が貫通することになり、道路建設とゴルフ場の改修整備に伴って、遺跡の発掘調査がおこなわれたのである。その理由のひとつには、ICUのキャンパス内が縄文遺跡の宝庫であったことと、大規模な試掘をおこなえば旧石器の発見が見込まれたことによる。

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広大な敷地を有するICU。コロナ禍のために入構は制限されている

 ICUは「リベラルアーツカレッジ」を目指して1949年に創設が決定され、中島飛行機(現SUBARU)三鷹研究所跡地の大半(全50万坪中の45万坪)を買収して53年に開学した。研究所といっても敷地が広いため多くの場所は手つかずに残されていた。ICUも研究所の建物などを改修して使用したため、やはり多くの自然林は残存した。たまたま56年、アメリカ人考古学者のキダー博士がICUに赴任した。博士は縄文土器の研究者でもあったので、ICU構内を隈なく探り数多くの縄文時代の遺物や遺構を発見した。

 ICUの敷地は国分寺崖線上の武蔵野段丘面にも崖線下の立川段丘面にもあったが、当初は武蔵野段丘面での調査が中心だった。その辺りは「梶野新田」があった場所で、古くは明治時代に東京帝国大学人類学教室を中心にして縄文遺跡の調査がおこなわれていた。1917年の調査では打製石斧も発見されており、戦後すぐには高校の考古学部員が中心となって調査が進み、多くの住居址を見つけ、一帯は「南梶野遺跡」と呼ばれるようになった。

 先に述べたように、中央線が武蔵野台地の南部を東西に横切っても、当初は境駅と国分駅しか近くになかったために開発が遅れ、結果として多くの遺物や遺構が残されていたのであろう。住宅開発が進んでからでは遺跡調査など、特別な理由がない限りおこなうことは不可能だ。

 ところで、境駅は1919年に武蔵境駅に改称されたのだが、同時に秋田の境駅は羽後境駅に、鳥取の境駅は境港駅になった。中央線の境駅で待ち合わせをしたのだが相手はいっこうに現れず、後で聞いたら向こうは奥羽本線の境駅で待っていたということはまずないと思うが。今なら、3人で「ムサコ」で待ち合わせの約束をしたら、それぞれが武蔵小金井駅武蔵小杉駅武蔵小山駅に出向いたということはあり得るかもしれない。

 ついでにいえば、武蔵境はおかしな名前で少しも「境」ではない。中央線には信濃境駅があるが、ここはきちんと甲斐と信濃の境にある。旧東海道沿いに境木地蔵尊があるが、こちらも武蔵と相模の境にある。しかし、武蔵境の「境」は国境の境ではなく、かつてその辺りを開発したのが、松江藩松平家の屋敷奉行であった境本絺馬太夫(きょうもとちまだゆう)だったからである。その境本の一字をとって境新田と名付けられた。したがって、境といっても国境とはまったく関係がない。

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ICUの隣にはSUBARUの事業所がある

 ICUに戻ると、国分寺崖線下の敷地の大半は農地や牧場だった。1950年当時の地目登記によれば、田畑が24万坪、園芸用地が1.8万坪、牧場が1万坪だった。また、傾斜地及び池沼3万坪とあるので、国分寺崖線や崖下の野川流域はほとんど手つかず状態で残っていたようだ。当初は戦後まもなくということもあって大学の敷地になっても農業や牧畜がおこなわれていた。その頃の地図を見ると、大半は「ジャージー牧場」と記されている。

 ジャージーは牛の種類で、英領のジャージー島が原産だからだ。ホルスタイン種よりも小型で、乳量も少ないらしいが、乳に含まれる脂肪分が多いので味わい深いそうだ。また飼育も容易らしい。もっとも、ICUがジャージー種を選んだというわけではないようで、初代学長の湯浅八郎のアメリカ留学時代の友人が牧場主になっていて、ICU牧場のためにアメリカからジャージー種の牛を贈ってくれたというのが真相のようだ。

 が、1964年、大学発展に必要な財源を確保するため、農地や牧場はゴルフ場に転換された。高度成長期でもあったためにゴルフブームとなり、ICUのコースは小金井CCと並ぶほどの人気コースになったそうだ。

 ところが、先に述べたようにこのゴルフ場を「東八道路」が貫通することになりその関連工事がはじまると、あわせて遺跡の発掘調査がおこなわれ、道路が野川を跨ぐ少し手前の野川右岸の調布市野水2丁目(左岸には子供連れで人気のある「わき水広場」がある)の「Loc.28C遺跡(通称・野川遺跡)」で、縄文土器が見つかった表層(黒ボク土)の下にある立川ローム層で旧石器が見つかったのだった。

 そこで大規模調査がおこなわれることになり、立川ローム層の下にある青灰色砂層、立川礫層、基底部(上総層群)まで5m以上掘り進められた。その結果、10層あるローム層の上7層から旧石器が発見され、文化層としては10層ある(ひとつのローム層から複数の文化層が発見されたため)ことが判明した。野川遺跡では約2万9千年前のものがもっとも古いようだが、後に別の場所にある遺跡からは約3万5千年前のものも発見されている。

 下から3番目の文化層である黄褐色ローム層では「姶良Tn火山灰」(略称AT)の層が見つかっている。姶良(あいら)大噴火は現在の鹿児島湾奥を形成したもので、2万9千年から2万6千年頃に発生し、関東にも10センチ以上の火山灰を降り積もらせた。"Tn"とあるのは丹沢のことで、当初は丹沢によく見られる軽石層なので「丹沢パミス」と呼ばれていたが、それが姶良大噴火によるものであることが判明したため「姶良Tn火山灰」と名付けられた。

 旧石器など考古学の年代識別は、遺物が発見された地層の順位(層位)から年代を決定する「層位学的研究法」を採用している。このため、大発掘の際は考古学者だけでなく地質学者も参加することになる。仮に「姶良Tn火山灰」が2万9千年前の噴火によるものだとすれば、野川遺跡の最古層は噴火よりかなり前になることになり、当然、3万年以上前のものと考えることができる。もっとも、仮に遡れるとしても、日本列島にホモ・サピエンスが移動してきたのは3万8千年前と考えられているので、それ以上に古くなることはない。

 考古学者の中にはより古い時代の石器を見出すことに血道をあげる人もいたようで、岩宿遺跡を発見した相澤忠洋を世に知らしめた芹沢長介(後に東北大学名誉教授)は、後半生には前期旧石器の発見に命をかけ、大分の早水台(そうずだい)遺跡では12万年前の石器を発見したと発表したものの認められず、他の学者からは「長介石器」だと揶揄されたそうだ。

 この芹沢の前に現われたのが「ゴッドハンド」こと藤村新一だった。彼は前期旧石器を発見することで自分の存在価値を認めてもらおうと、早い時期から「捏造」をおこなっていた。1981年、宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡では4万年前の石器を「発見」して一躍有名になり、宮城県の上高森遺跡では93年に40万年前の、95年には60万年前の、99年には70万年前の石器を「発見」した。関係者によれば、そのどれもが「綺麗すぎる」石器だったことから信憑性が疑われた一方、旧石器の世界のドンであった芹沢長介が藤村の背後に鎮座していたため、正面から疑義を申し立てるものはいなかったようだ。マスコミがこぞって藤村を「ゴッドハンド」と持ち上げて「新発見」を報道し続けたこともあり、普段、あまり注目されることのない世界にいる考古学者たちも高揚感に浸り、ついに高校日本史の教科書にも「上高森遺跡」を紹介するまでになった。

 しかし藤村の「神の手」は、2000年11月、毎日新聞によって彼が石器を埋めている瞬間を映像に捉えられたため、捏造は明るみになり、調査の結果、彼の81年からの発見はすべて嘘であることが判明した。このため、旧石器の研究は70年代にまで戻ってしまったのだった。

 藤村が私淑した芹沢長介は「層位は型式に優先する」との立場をとっていて、発見した石器の姿より、それがどの地層から発見されたのかということを重要視していた。それゆえ、藤村が「発見」した石器が綺麗すぎたとしても、60万年前の地層から「発見」されれば、それは60万年前の石器と考えるというのが当時の学会の通説になっていたのである。

 そもそも、ホモ属(原人・旧人・新人)の誕生以降、日本列島が大陸と陸続きだったことは一度もなく、大陸文化を日本列島に伝えるためには、人類は海を渡るしかなかった。一方、航海技術を有していたのはホモ・サピエンスだけであるし、サピエンスが出アフリカを果たしたのは5万年前と考えられているので、どんなに早く見積もっても5万年前以前に日本列島に人類がいるはずはない。したがって、日本列島においては人工品の石器はそれ以前の地層から発見されることはあり得ず、仮に、より古い地層から石器らしきものが見つかったとしても、それは自然礫にすぎないのである。
 かつての日本史の教科書だったか参考書だったかは失念したが、日本には「三ケ日原人」や「明石原人」がいたことになっていた。一応、受験には日本史と地理を選択していたので、それらの原人の名を記憶したことがある。が、双方とも、いまでは縄文時代の新人であると判明しているようで、三ケ日人や明石人と呼ぶことはあっても、もはや原人とは呼ばないのである。原人は航海技術を有していないからだ。

 ところで原人だが、ダーウィンは猿と人とをつなぐ存在はいずれ発見されると考えており、ダーウィン主義者であったエルンスト・ヘッケルは、その存在を「ピテカントロプス」と名付けた。ピテクスが猿、アントロプスが人で、それを合わせるとピテカントロプス(猿人)となる。ミッシングリンクは1891年、オランダ人のデュボアがジャワ島のトリニールで直立猿人(ジャワ原人)の化石を発見することで一部がリンクされた。ヘッケルの造語のとおり、それは「ピテカントロプス・エレクトス」と名付けられた。のちには中国北京市の周口店でも原人の化石が発見され、それは「シナントロプス・ペキネンシス」と名付けられた。直訳すれば「北京の支那人」となる。現在は、どちらもホモ属に分類され、学名はそれぞれ”Homo erectus erectus" "Homo erectus pekinensis"となった。ピテカントロプスという強烈な印象をもつ名前が消えてしまったのはとても残念である。

 我々はジャワ原人の復元された人物像に触れることができ、その特徴的な顔つきを本や図鑑で目にすることがよくある。これはジャワ島のサンギラン遺跡でほぼ完全な姿の頭骨標本が発見されたことによる。その標本は17番目に発見された化石ということで「サンギラン17号」と命名されている。したがって、我々が目にするジャワ原人の顔は原人総体のものではなく、17号君の顔なのである。

 何かの拍子に2020年、人類が大絶滅し、ずっと先に「宇宙人」が地球にやってきて発掘調査をおこない、日本だったとされる場所では私の頭骨が、朝鮮半島では『愛の不時着』の主演男優であるヒョンビンの頭骨が発見され、それを復元したとき、2人の顔が驚くほどよく似ているので、地球人というのはとても美男子だったと「宇宙人」が感動するということもあり得なくない。いや、絶対に。

 先に、ホモ・サピエンス以外には渡海できないと述べたが、唯一の例外が2003年に発見された「フローレス原人」(ホモ・フローレシエンシス)である。インドネシアの島なのだが、寒冷期にはジャワ島、スマトラ島カリマンタン島などはマレー半島とは陸続きでスンダランドを形成していたが、フローレス島は寒冷期で海面が80~100mほど低くなったとしても、スンダランドとは決して陸続きにはならない場所にあるため、フローレス原人は大陸から渡海したという以外に考えられないのである。

 しかも、驚くことにフローレス原人の身長は1mほどしかなく、脳の容積も最新の計測では426ccであることが分かっている。

 フローレス原人は約100万年前に島に着き、70万年前頃に小型化(これを矮小化という)したと考えられている。他の島では発見されていないので、長期間、この島のみで暮らしていたようだ。このため、他の動物でもよく見られる「島嶼化」が起きたと考えられている。島嶼化とは、狭い環境の中に閉じ込められたときに選択圧が発生し、大きな動物は小型化、小さな動物は中型化することである。例えば、屋久島のシカ(ヤクシカ)やサル(ヤクシマザル。以前はヤクザルと言っていたが今はなぜかそう呼ばない)は、種としては本土と同じでありながら小型化している。

 フローレス原人は5、6万年前まで生きていたと考えられているが、どうやって島に渡ったのだろうか?航海技術があったとは考えられないので、大きな自然現象(台風など)で本土から島に流されてきたと考えるしかなさそうだ。ホモ属とはいえ、男だけの冒険心では子孫を残せないので、一定の数だけの男女が海に流され、大きな木などにつかまって生き延び、偶然にフローレス島にたどり着いたとしか考えられないのだ。

 広義の人類(サヘラントロプス・チャデンシスからホモ・サピエンスまで)の700万年の歴史に触れ始めると止まらなくなり、野川には戻れなくなるのでここで止めるが、野川遺跡では旧石器時代の貴重な遺物が無数に発見されていながら、発掘現場はすべて埋め戻され、現在ではただの空き地になっていて、東八道路を渡って野川公園に訪れる人々の自転車置き場に利用されるだけの存在になっている。

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野川公園。かつてゴルフ場だった姿が残っている

 野川公園は東京都がICUからゴルフ場の敷地を買収して整備し、1980年に開園された。後述する「自然観察園」だけでなく、芝生広場、テニスコート、バーベキュー広場、ゲートボール場などがある。写真のように芝生広場は、かつてゴルフコースであった面影を強く残している。こうした、何の設備もない広場こそ、今の時代にあってはもっとも重要な「施設」であると思われる。

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崖線下に整備された「自然観察園」

 ゴルフコースは野川の北側の国分寺崖線下にもあり、古い地図によれば3~5番ホールがあったようだ。そこも野川公園に含まれるが、現在ではそのかなりの部分が「自然観察園」として整備されており、おもにボランティアの人々によって多種多彩な山野草が育てられている。また、湧水を蓄えた池などもあって、そこでは水生植物(ミズバショウなど)が育てられたりホタルの育成がおこなわれたりしている。

 私は春の山野草を求めて毎年、4月には5、6回はここに通うのだが、今年は新型コロナによる自粛期間に当たったため、肝心の開花期には残念ながら閉園されていた。その時期以外では秋のお彼岸期のヒガンバナの群生開花が見事で、見物客で大賑わいとなる。春秋以外の時期以外、観察園に入ることはないのだが、今回は春季の雪辱戦を兼ねて入場してみた。コロナ禍もあって手入れが行き届かず雑草だらけではあったが、それでも好みの花が咲いているのを確認できたので、以下、3点だけ挙げてみた。

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ヤブミョウガの花と若い実

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キツネノカミソリ

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ヒオウギ

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自然観察園前の野川の流れ

 自然観察園の東側は「わき水広場」になっていて、崖線からの湧水が小さな流れを作って野川に流れ込んでいる。その小川の周囲の広場にはお盆休みかつコロナ自粛もあって、数多くの子供連れが集結していた。そんな場所ではとてもカメラを向ける訳にはいかない。20年ほど前までならまったく問題はなかったのだが、昨今は子供たちにカメラを向けると親たちに睨みつけられるのである。つまらないトラブルが発生するのは気分が良くないのでその場は避けて、代わりに、橋の上から観察園前の野川の流れを写してみた。ここにも子供連れは多かったが、その多くは「わき水広場」の冷ややかな湧水を当てにして訪れたが、そこが満員御礼だったために野川本流に遊び場を移したのだろうと思われる。

 野川の上流に向かって撮影しているので、右手が左岸側であって、土手の右側(つまり崖線の下)に自然観察園がある。撮影場所の右真横に「わき水公園」があり、左真横に自転車置き場になり果てた「野川遺跡」がある。

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橋は東八道路のもの

 少しだけ下流方向に移動した。写真はやはり上流方向を見て撮影したものである。野川の上を通るのが「東八道路」で、道はこれから国分寺崖線を上がっていく。橋の下は日陰ができることもあって、休息を取るのに適した場所だ。が、ここは流れの幅がやや広がり、ということは川は浅く流れが緩やかになるため、小魚を玉網で捕獲するのに適した場所でもある。そうした理由もあって、より大勢の人々が集まることになる。

 前述した野川遺跡は東八道路の橋のすぐ西側にある。写真でいえば、自転車が写っている右岸側の遊歩道を上流方向に進み、橋をくぐった先のすぐ左手の少し高くなった場所にある。

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国分寺崖線には名のある坂は多いが、ここもそのひとつ

 帰りに「はけの道」を少しだけ歩いた。写真の「ムジナ坂」は上ると「連雀通り」に出られるのだが、下半分が階段になっているので車の通行はできない。名前の通り、この周辺にはタヌキが多かったのだろう。もっとも、国分寺崖線は開発が進む前は自然林が豊富にあったので、タヌキの生息地は無数にあったと思えるが。解説板には「昔、この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道であった。だれいうとなく、暗くなると化かされる……」とある。両側が山林の細い道ならどこにでもあるし、タヌキやキツネに化かされることもあったろう。にもかかわらず、あえてこの坂にその名が付けられたのは、案外、農民たちの往来が多かったからだと思われる。この坂の下には湧水点が多いので、崖線下と野川との間の土地はかなり豊かだったはずだ。それゆえ、人々は急坂を下りて田畑に通った。そうでなければ、ムジナが住み着いていたとしても、ムジナは人を騙すことができないからだ。

 このムジナ坂は新小金井橋の北詰から100m強のところにある。そう、ムジナ坂下辺りにあるのが「野川中洲北遺跡」で、ここでは旧石器文化だけでなく縄文文化も栄えていた。それだけ、この辺りは古くから水が豊かな場所だったのだと考えられる。

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開発には、タヌキも怒っている

 はけの道で見つけた看板だ。「はけのたぬきの伝言板」には道路建設に反対するビラが貼られている。はけ、野川、そして湧水は重要な社会共通資本である。それに対し、無駄な道路は社会資本であるより利権の源泉である。

 万国のタヌキと人よ、団結せよ! 

〔43〕野川と国分寺崖線を歩く(1)私は野川に入れるか?

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野川と中央線と

野川に入ることはできるか?

 「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

 川について触れるとき必ずといって良いほど取り上げられるのが、上に記した『方丈記』(1212)の冒頭の言葉である。方丈記には、平安時代末期に起きた「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」「元暦の大地震」の五つを災厄として取り上げられ、世の無常が克明に記されている。なお、「辻風」は「つむじ風」と現代語訳されているが、記された内容を見るとその被害の規模の大きさからいって、明らかに「竜巻現象」であり、つむじ風とは異なる。竜巻とつむじ風とはまったく違う自然現象なので現在では明確に区別されているが、13世紀当時はとくに分けられてはいなかったのかもしれない。ともあれ、冒頭の表現といい天変地異の取り上げ方といい、『方丈記』は鴨長明の仏教的無常観が見事に表現された随筆集である。

 11、2世紀は8世紀から続いた温暖化が終期を迎え、気候変動が激しかった時期とされ、それに関連してか自然災害が多発した。また、温暖化の時期に農業生産力が飛躍的に向上したために荘園制度が進展し、それに伴って武家勢力の台頭、院政の展開、源氏と平氏による内戦など、社会的にも大きく変転する時代であった。こうした価値観が転換する時期に『方丈記』は著された。

 「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま草庵を愛するも咎(とが)とす。閑寂に着するも、さはりなるべし。」と、長明は最終章でも述べているように、世はすべて無常無我なのであり、「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して止みぬ。」の言葉で筆を置き、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることすら執着心の表れであるとの悟りに達していた。

 川の流れから「転化」を読み取ることはなにも鴨長明の専売特許というわけではなく、紀元前6~5世紀、古代ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスはすでに似たような思想を表明していた。「君は同じ川に二度と足を踏み入れることはできないであろう(断片91)」というのが彼の有名な箴言である。長明の「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」は、人や世のうつろいのメタファーであるが、ヘラクレイトスの言葉は彼の育った小アジアのエフェソスを流れるマイアンドロス川(現在のメンデレス川)を見て直截的にそう表現したものかもしれない。もっとも、彼は「われわれは、同じ川に歩を踏み入れるとともに、踏み入れない。われわれは、あるとともにあらぬのだ(断片49)」とも述べているので、彼の箴言もメタファーかもしれないのだが。

 アリストテレスは、ヘラクレイトスも、彼に先立つ前6世紀初頭から半ばに同じ小アジアのミレトスを中心に活動していたタレスアナクシマンドロスアナクシメネスなどと同様、自然学者(ピュシオロゴイ)のひとりと考えていた。たしかに、彼については高校の教科書レベルでは、万物の根源(アルケー)を「火」と考え、「万物は流転する(パンタレイ)」と述べたギリシャ初期の自然哲学者のひとりに位置付けられている。しかし、「万物は流転する」という言葉はヘラクレイトス自身のものでは決してなく、はるか後世の学者あたりがそのように説明したと考えられるのだ。

 これは、ヘーゲル弁証法を教科書的に説明するときに必ず「正・反・合」の図式を使うのと同様、極めて分かりづらいヘラクレイトスの思想を、あえて「万物流転」の一言で簡略化してしまっているのである。へーゲルについては、彼はそんな言葉を使ったことはなく、またそんな図式化はまったくおこなっていない。そもそもその図式ではヘーゲル弁証法の要諦とは真逆の思考法になってしまうのである。なぜなら、その図式には彼の弁証法でもっとも重要な「主体性」がまったく欠如しているからである。

 一方、ヘラクレイトスについては「同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」という言葉から想像しうるに、川の水は常に入れ替わっているので(長明と同じ考察法)、たとえマイアンドロス川の同じ地点に二度目に足を踏み入れたとしても一度目の流れとは異なった水に接しているという点は事実であるから、「万物流転」には妥当性があるようにも思われる。しかし、ここで忘れてはならないのは「同じ川」という言葉である。流れる水(質料)はたしかに変転するが、川自体(形相)の同一性までは否認してはいないのだ。

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君は野川に足を踏み入れることができた

 この点、ヘラクレイトスの後継者を自認していたクラテュロスは「君は一度ですら歩み入ることはできない」と述べており、川の水はたえず流動しており、流動する事物はそれを言語にすることは不可能であると考えた。つまり、川それ自体は存在せず、存在しえぬものを言語化するのは虚偽だと考えたのである。それゆえ、マイアンドロス川に歩み入ろうにも、そもそもマイアンドロス川そのものの存在を規定することは不可能なので、存在しないものに歩み入ることはできるはずがないとの主張であった。

 これについてアリストテレスは「ひとしく転化するといっても量におけるそれと性質におけるそれとは同じことではない」と退け、事物の把握には「質料因」だけで判断することは誤りであって、その他「始動因」「目的因」「形相因」を合わせた四つの原理を知ることが真の意味での知恵であると指摘している。

 ところで、クラテュロスを師と仰いでいたのがプラトンであり、クラテュロスの思考方法はプラトンの初期対話篇である『クラテュロス』から知ることができる。この対話篇には「名前の正しさについて」という副題があり(これがプラトンのものかどうかは不明)、第一部では、ヘルモゲネスという青年が友人のクラテュロスから「名前は事物の本質を表す」と聞いたので、それが正しいかどうかについてソクラテスと対話をし、第二部では、ソクラテスとクラテュロスとが対話をおこない、クラテュロスが名前の正しさをあくまで主張するのに対し、ソクラテスは「現実には、名前の正しさはある程度、使用者間の取り決めによることもある」という事例を挙げて、クラテュロスへの反駁をおこなっている。

 クラテュロスは、万物は流動するので言語化は不可能と主張する一方、名前は事物の本質を表すという矛盾した表明をおこなっているのである。それに対し、ソクラテスは流動するものの存在を認める一方、決して流動するものではないものとして「美そのもの」「善そのもの」の存在を意識しているのである。

 プラトンは、『クラテュロス』の中ではかつての師であるクラテュロスの考え方を全否定はしておらず、その人物像も否定的には叙述していない。事実、プラトンはクラテュロス的世界観を保持し続け、感覚的なものはたえず転化し、感覚的なものをすべて集めても普遍は生まれない、と考えていた。それが彼の、現実界イデア界との二元論に繋がっていくのである。『ギリシャ哲学者列伝』を著したディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンは「感覚されるものはヘラクレイトスに、知性の対象となるものはピュタゴラスに、倫理に関するものはソクラテスに学んだ」と記している。ヘラクレイトスとあるのはクラテュロスのほうが正しいようではあるが、しかしクラテュロスは「ヘラクレイトスの徒」と一般には位置付けられているので誤りとまでは言えない。

 ヘラクレイトスに戻れば、彼の思想を「万物流転」の言葉で片付けるのは誤りで、ヘーゲルが「ここで(ヘラクレイトスのこと)われわれは弁証法の祖国を見出す」と述べているように、彼の「自然観」=「世界観」は「万物流転」よりも深い意味をもつと考えたい。たしかに、「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」という断片76があるので、「万物流転」的ではあるが、これだけなら、むしろニーチェの「永劫回帰」の原点と考えたほうが合点がいく。

 「反対するものが協調する、そして異なる音からもっとも美しい音調が生じ、万物は争いによって生じる(断片8)」「すべてはロゴスによって生じる(断片1)」「大いなる死は大いなる分け前に与る(断片25)」などの言葉に触れると、ヘラクレイトスからは「万物流転」を超えた不動の一者の存在の匂いが感じられる。さらに「私は自分自身を探求した(断片101)」「智あるありかたはただひとつ。すなわち、万物をあらゆる仕方を通じて操るその真の叡智を知ること(断片41)」という彼の言葉を知るに至り、ヘーゲルのいう「弁証法の祖国」をヘラクレイトスの思想に見出すことができるのである。

 もっとも、ヘラクレイトスは実に「変な人」であったようで、厭世的になった彼は世間を捨てて草や葉っぱを食べて生活し、やがて水腫を患った。治療のために町に戻ったのだが、その治療法が滑稽で、身体から水気を抜くために全身に牛糞を塗りたくった。が、気の毒なことにそのまま死んでしまった。友人たちは乾いた牛糞をはがそうとしたがそれはできず、彼の死体は犬に食べられてしまったのだった。「犬は自分の知らない人間に吠える(断片97)」。これもヘラクレイトス箴言である。

 ともあれ、野川の流れを見て今回、私が最初に考えたのはヘラクレイトスのことだったのである。私なら近所にある東京競馬場に行って馬糞を塗りたくるかもしれない。しかし、私の死体なぞ、犬も食わない。 

野川の水はどこから?

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野川の源流点は塀の内側の森の中にある

 野川は多摩川の一次支川で、世田谷区の二子玉川付近で本川に合流する。水源は国分寺市東恋ヶ窪に所在する日立製作所中央研究所の敷地内の「大池」にある。この池自体が湧水を集めて造られたものなので、源流点は池を形成するための水が湧き出る地点と思われるが、それがどの湧水点を指し示すのか私には不明である。私企業の敷地内にあるので、普段はそこには関係者以外は立ち入ることはできないからだ。年に春と秋の2回、一般公開されるのだが、このときばかりと集結する人が多いらしいので、人込みが嫌いな私はまだ水源地を見たことはないのである。

 野川の全長は20.23キロとされているが、始点は大池、終点は多摩川との合流点なので、長さはどうやって決めているのだろうか?どちらも結構、あいまいな場所なのだ。源流点は見たことはないが、合流点は大水が出ると位置はかなり移動しているのを見掛ける。川の長さは、源流点と合流点との間の流れの中心を結んで測定するらしいのだが、始点も流心も合流点も常に変化していると考えられるので、クラテュロスではないが、「君は一度として野川の長さを測定することはできない」のではないだろうか?

 ところで、日本一短い川は和歌山県牟婁(むろ)郡那智勝浦町粉白(このしろ)にある「ぶつぶつ川」で全長は13.5mである。イルカの追い込み漁で知られている太地町のすぐ南にあり、国道42号線にほど近い場所にあることもあって、それを示す看板を見たことがあるような気もするが、立ち寄ったことはまだない。コロナ禍がなく、さらに梅雨末期の大雨さえなければ、7月下旬には紀伊半島の南端にある古座川にアユ釣りに出掛ける予定があったので、その際に、日本一短い川に立ち寄ることができたはずなのだが。

 「ぶつぶつ川」の名の由来は、水がぶつぶつと地中から湧き出る様子にあるらしい。始点は水が湧き出るところに、終点は本川である粉白川との合流点にあるのだが、水が湧き出る場所などしばしば移り得るし、合流点も本川の水量や流路によって変わってしまうことは大いにあり得る。それゆえ、実際には13.4mや13.6mのときもあろうかと思う。ただ毎日、河川事務所としては川の長さばかりを測ってはいられないので、次の測定は地形が大きく変わったときにおこなわれるのだろう。

 いったい、川とは何か?と問われたら、答えるのに案外、窮する。大雨のときなどよく「道路が川のようになる」などと表現されるが(今年も日本各地で大洪水が発生し、川どころか町全体が湖のようになってしまっている)、これはあくまで「川のよう」であって「川そのもの」ではない。日本では河川法によって川は定義され、一級河川二級河川準用河川、普通河川の四つがあるとされる。しかし、前三者に河川法の適用がおこなわれ、普通河川は除外されている。したがって、雨後にできた流れは河川法のいう河川にはあたらないため、それが13.5m未満の長さであったとしても、日本一短い河川という認定を受けることはない。ちなみに、高瀬舟でよく知られる京都の高瀬川は普通河川に該当するため、法律上は河川とは見なされていないそうだ。

 野川に戻ると、源流点のある大池は窪地になっていることが地図を確認するとよく分かる。その池が所在する「恋ヶ窪」の地名の通り、大池だけでなく一帯には窪地が多い。杉並区にある荻窪も窪地になっていて、今でもその周辺を車で走ると高低差の大きさを実感する。その周辺には阿佐谷、天沼、清水などの地名があり、それらの名前からも高低差がいたるところに存在することが分かる。

 恋ヶ窪は武蔵野台地の武蔵野段丘面の南端に位置し、南側には国分寺崖線があり、崖線の下には立川段丘面が広がっている。武蔵野段丘は、黒土の表土、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫層、そして基盤の上総層群から成り立っている。ローム層は火山砕屑(さいせつ)物からできており、粘土とそれよりやや粗いシルトがその成分である。その割合は均等では当然なく、粘土の含有割合が高い場所では水は通しにくく、低い場所では浸透性はやや高い。雨水の多くは地下に浸透していくのだが、粘土質の高い場所は帯水性も高いために地下水が溜まりやすくなる。これを宙水といい井戸に利用される。地下水の利用が進むと地盤そのものが沈み込むため、こうした場所が窪地になるのだろうか。

 大池のある日立製作所の敷地内の標高を調べてみたい。例によって国土地理院の「標高がわかるWeb地図」を利用する。研究所の建物がある辺りの標高は76m前後。敷地の西側にある西恋ヶ窪は77m、東側の本町は75mなので、建物のある場所がとくに盛られているわけではない。しかし、建物がある場所の南側は緩やかな斜面になっており、建物から120mほど南側の標高は70m、さらにその先からは傾斜がややきつくなり、50m先の標高は63mである。この標高63m前後のところに湧水点があるようなのだ。この付近の地層を調べてみると、武蔵野ローム層と武蔵野礫層との境目辺りが標高63mほどのところにあるため、浸透性の高い礫層に達した地下水の一部が斜面の間から浸み出たと考えることができる。後述するが、野川の流れに合流する「お鷹の道・真姿の池湧水群」の湧水点も標高63mほどのところにある。さらに、東京経済大学の敷地内にある「新次郎池」の湧水点も62~63mほどのところにあり、小金井の貫井神社の湧き水も同程度の標高地点から流れ出ているのだ。

 大池から発する野川の源流の水も、お鷹の道・真姿の池湧水群の水も、後述する新次郎池から流れ出る水も、貫井神社境内から湧き出る水も、大半が野川の流れとなって多摩川を目指して進んでいく。ひとつとして同じ水はないものの、水たちは同じ原理で生まれ出る。水というヒュレー(質料、素材)は野川というエイドス(形相、本質)にしたがって流れ下る。この限りにおいて、野川は常に変化しつつも同一性を保持しているのである。

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野川は武蔵野段丘の縁に侵食谷を刻んでいる

 写真の道は人と自転車と動物が利用できる道で、日立と中央線・西武国分寺線の線路との間にある。西恋ヶ窪方面に住む人にとって、国分寺駅北口に出るには日立の敷地が立ちはだかっているので大きく迂回することを迫られる。その点、この専用道は中央線沿いに住む人にとってはとても便利な道になっている。ただし写真からも分かるように、野川が生み出した侵食谷(しんしょくこく)があるために下り上りを要求されることになる。写真を撮っている地点の標高は71m、道の谷は66m、中央線の軌道は69mのところにある。向かいに見えるタワーマンション西国分寺駅近くにあるもので、その敷地の標高は79mである。

 中央線は標高74m地点にある西国分寺駅まで緩やかに上っていく。一方、西武国分寺線は日立と西恋ヶ窪の住宅地を通過するためにほぼ70m地点を進むが、やがて武蔵野丘陵地の本来の高さにまで標高を回復するために上りに入り、次の恋ヶ窪駅は81m地点にあるため、10m以上の高低差を進むことになる。

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野川は正面に見える森の右下にある

 野川は日立の敷地に別れを告げると中央線・西武線の線路の下を通り、南南東方向に流れ下っていく。中央線の車両の向こう側には森が見えるが、その森は野川の左岸側斜面のものである。右手には住宅の屋根の連なりが見えるが、この住宅地は野川の右岸にある。本項の冒頭の写真がその住宅地の際から野川を望んだもので、中央線の向こうに見える木々は日立内のもの、右手の木々が上の写真でいえば正面に写っている森のものである。なお、冒頭の写真における野川の標高は60mなので、中央線の線路との高低差は9mあることになる。

野川の流れを追う

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中央線下から150m下流を見る

 中央線・西武線の真下から顔を出し、国分寺崖線を削りながら流れ下る野川は、住宅地に造られた三面コンクリート護岸の通り道に沿って南東方向に進んでいく。住宅地の間を縫うように流れる野川の護岸がこの程度の規模で済んでいるのは、流出量を大池で調整しているためだと考えられる。

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多喜窪通りの無名橋から流れを望む

 多喜窪通り都道145号線)は国分寺駅南口から西方向に進み、府中街道と交差する泉町交差点をさらに西へ国立市へと向かう。国分寺駅南口の標高は73m、泉町交差点は81mだが、写真の地点は61mである。このことからも、野川が国分寺崖線の南端に侵食谷を刻み付けていることが分かる。多喜窪の名の由来は不明だが、私は多喜=滝と考え、「かなり急な高低差のある道だから」と勝手に想像している。

 今はコロナ禍で中断しているが、私は月一回、小金井市国分寺市で開かれる懇話会(哲学カフェ)に参加していた。昼の部は武蔵小金井駅近く、夜の部は西国分寺駅近くでおこなわれるのだが、健康のためもあって、さらに時節柄、バスにも電車にも乗りたくなかったので、府中市から自転車を使って移動していた。行きは国分寺崖線を上って小金井に行き、西国分寺へは多喜窪通りを使って移動し、帰りは国分寺崖線を下って南下するといった行程を取った。私の自転車はモーターのアシストがないタイプなので、多喜窪通りの使用はかなりきつかった。そこで、日立中央研究所の北側を通ることに変更した。この道ならば野川を横切ることはなく、東恋ヶ窪の微低地を通るだけなので移動は楽になった。反面、自然の中に身体を置いているという感覚は希薄化された。何事も、いいとこどりはできない、のである。

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野川と「お鷹の道・真姿湧水群」の流れの合流点

 国分寺街道が国分寺崖線を上り始める地点のすぐ西側に写真の小さな調整池がある。写真の下側からは野川が流れ込み、写真の上側の右手からは「お鷹の道・真姿の池湧水群」の流れが入り込み、ここで両者の水が混ざり合って一本の筋になり、国分寺崖線の崖下を東に向かって進んでいく。写真の右側に少し写っているのが不動橋で、このたもとには小スペース(不動橋ポケットパーク)がありベンチも置いてあるので、この時期はここで涼を取る人の姿をよく見掛ける。ソメイヨシノの大木もあるので、開花期には見物や撮影に訪れる人も多い。

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橋の北側にる石碑と庚申塔

 不動橋の北側には大きなマンションがあるが、そのエントランスの一角にあるのが写真の「不動明王」の石碑と庚申塔である。不動明王は人間の煩悩を消し去ってくれる仏ではあるが、近年では「健康祈願」「交通安全祈願」などにも対応してくれる。不動橋のある地点は2つの流れが合流する場所なので、ここ一帯ではかつて氾濫が多発したのかもしれない。そう考えると、不動明王の存在にも得心がいく。

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お鷹の道・真姿の池湧水群の湧水点

 「お鷹の道・真姿の池湧水群」(以下「お鷹の道」に省略)については、本ブログの第4回「国分寺崖線」の項ですでに触れているが、この「お鷹の道」の流れは野川の一次支川(多摩川から見れば二次支川)にもなっているので、改めて取り上げてみた。

 先に述べたように、この湧水点は標高63m付近にあって、明らかに武蔵野礫層から清水が湧き出ている。写真左手の階段は国分寺崖線を上り下りするためのもので、崖線上には「都立武蔵国分寺公園」がある。なかなか趣のある公園で、散策にも適しているので、私の徘徊場所のひとつになっている。春秋の花探しにも出掛けてくる場所だ。

 湧水点はここだけでなく、武蔵国分寺跡の敷地内にある「おたかの道湧水園」からも湧出している。武蔵国分寺跡周辺は国分寺造営のためにか崖線を北側に切り込んでいると思われる地形をしている。そんな条件もあって、他の場所に比べて湧水点の数が多いようで、これらから湧き出る清水を集めて「お鷹の道」の流れが形成されている。

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真姿の池に鎮座する弁財天

 弁財天(弁才天、弁天様)は、日本では芸術(とくに音楽)や学問の神としてだけでなく、福徳や財宝の神としての性格が強いが、もともと古代インドでは川の神、水の神であった。日本でも一部ではその性格が引き継がれており、川の要衝には「弁天社」が、「水神社」「瀧神社」などとともに置かれていることが多い。水は命を守るものであると同時に命を奪う存在でもあるので、こうした信仰心が生まれるのは当然のことと考えられる。「お鷹の道」の湧水点に「弁才天」が置かれているということは、湧き水が枯れることのないようにとの祈りが込められているのかもしれない。

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野川に合流する直前の「お鷹の道」の流れ

 「お鷹の道」の流れはいく筋もの湧水を集めてやや北を向いて進み、先に挙げた調整池で野川に合流する。もっとも、合流点のある国分寺市東元町の住宅街を通る道を歩き回ってみると、細い道が幾筋もくねくねと曲がりながら進んでいく様子が見て取れる。つまり、住宅街を整備するために野川の流れも「お鷹の道」の流れもそれぞれ一本に集約され、さらに不動橋のところにある調整池でさらに二つの流れが一本化されただけであって、以前は国分寺崖線下の平地にはかなりの数の細い小川が流れていて、それを埋めて道にしたのであり、それを造るために流れを一本化したのだということが、街中の曲がりくねった細道の存在から判断できるのである。

 以前にも述べているように、国分寺崖線は約3万年前、多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできたものなので、崖線下にはかつての多摩川の流れの跡が残されいる。崖線から湧き出た清水たちは、その跡をたどっていくつもの小川を形成したのであろう。それらが、開発という名のものにどんどんと整理され、いまでは一本の流れとなって野川と呼ばれているが、野川=野にある川なので、今でこそ固有名詞になっているが、かつては普通名詞の「野の川」にすぎず、一本一本にはとくに名前はなかったか、地元の人が思い思いに名付けていたかのどちらかであろう。

 水はなくなっても、土地が川道の形を記憶しているのである。

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下流側から丸山橋方向を望む

 東元町内を散策するとかつての川道の痕跡が見つかるだけでなく、写真のような狭い小径を発見することができて嬉しくなる。右岸の道はとても狭く人と人がすれ違うことさえ苦労する。時節柄、向こうから人が歩いてきたとき、すれ違う際には極度の緊張を強いられることになるだろう。向こうに見える丸山橋は国分寺駅方向に進むには便利な橋なのだが、この小径を行く「勇気」のない人はいったん川筋から離れて住宅街を迂回してその橋に出ることになる。

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右岸沿いの道からは、崖線に立ち並ぶ住宅街と駅前のツインタワーが望めた

 農地の向こうの斜面には住宅街が広がっている。国分寺崖線のきつい崖を整地して緩やかな斜面を造り、そこを宅地に造成したのだ。その向こうに見えるのは再開発が進んだ国分寺駅北口にそびえる2本のタワービルである。撮影場所の標高は58m、国分寺駅は73m地点にある。駅まで徒歩圏内にある場所だけに崖を有効利用したのだろうが、毎日の上り下りは結構な苦労を強いられることになると思う。反面、体力の保持・増強に役立つという効能もあるかも。

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丸山通りを国分寺駅方向に望む

 写真の丸山通りは、小金井市貫井南町から国分寺駅方向に抜ける道で、国分寺界隈に向かう際によく利用される「裏道」だ。国分寺街道は道幅がかなり狭く、その上に大型バスがひっきりなしに行き交う道なのでいつでも渋滞している。このため、小金井や府中から国分寺の北側に抜けたいと考えるタクシーや運送業者や短気な私などが抜け道として利用するのが丸山通りなのだ。その丸山通りが野川を跨ぐところに架かる橋が長谷戸橋で、その場所の標高は56mである。この道は国分寺崖線を斜めに上り下りするために坂自体は長いものの傾斜は緩やかなので私の愛車(写真内にある自転車)でも移動は容易だ。橋の名前から想像しうるに、ここは緩い侵食谷が形成したものか、あるいは緩い斜面を使って農業をおこなうために開かれたものかのどちらか、あるいは両方だったと考えられる。

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鞍尾根橋の下で野川はまた北からの湧水を集める

 写真の鞍尾根橋は、「西の久保通り」が野川を跨ぐ際に架けられたものである。この橋の下で、野川はもうひとつ湧水からの流れ(源は新次郎池)を集める。 

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東京経済大学の敷地の東側にある「くらぼね坂」

 写真の「くらぼね坂」は西の久保通りにあり、この道も先に挙げた丸山通りと同様、抜け道として利用されることが多く、こちらは府中から小金井方面に移動する(その逆も)際に利用されている。私自身、新小金井街道が整備される前には何度も利用したことがある。今から40年ほど前のことであるが。写真の左手にある東京経済大学の建物群も、右手にある住宅群もすっかり様変わりしてはいるものの、道の広さ自体はまったくといっていいほど変化していない。

 鞍尾根橋の名は、「くらぼね坂」を下ったところにあるため、そのように名付けられたのかも。「くらぼね坂」についての由来書を見ると、急な崖(国分寺崖線のこと)に造られた坂道で、地面が赤土のために滑りやすく、鞍(馬)でも骨が折れるほど苦労したというわけで「くらぼね」と名付けられたらしい。そうであれば「鞍骨」の漢字が当てはまりそうだが、もっともその名前の由来自体に諸説あるようなので、「鞍尾根」が無難であると考えたのかもしれない。

 この坂の西側には東京経済大学のキャンパスがあり、その東端に「新次郎池」がある。その池は崖線から湧出した清水から形成され、かつては山葵田として利用されていたそうだ。池の周囲は憩い場になっており学外の人も自由に立ち入ることができるが、現在は大規模な改修工事がおこなわれているため、今回はその姿に触れることができなかった。

 この池を大学側が整備したときの学長の名前が北澤新次郎なので「新次郎池」と名付けられたそうだ。国分寺崖線には以前から無数に訪れているので、この池には何度となく訪れたことがあった。緑が多く、しかも崖あり池ありなので、ガキンチョ時代に知っていれば遊び場に加わっていたかもしれない。もっとも、その頃には未整備だったと思われるが。大学の敷地自体には中3の時に入ったことがある。全都でおこなわれる模擬テストの会場だったからで、半ば強制だったので仕方なく受けたのだが、高校受験を希望しない者は受けなくても良いということが分かったので、2度目はサボったという記憶がある。

 新次郎池から流れ出た水は小川となって斜面を下り、ほどなく鞍尾根橋直下でひとつ前に挙げた写真にある通り、野川本流に注ぎ込む。

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鞍尾根橋から野川の上流側を望む

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鞍尾根橋から野川の下流を望む

 写真から分かる通り、鞍尾根橋の上下で野川の姿は一変する。源流点からこの橋までの野川は三面コンクリート護岸だが、この橋の下流からは護岸の幅は大きく広がり、流れの両側に河川敷があって散策路として利用できる十分な広さが確保されている。もちろん、川遊びもできる。また、護岸上の両側(一部は片側)には遊歩道が整備されており、多くの人々が散歩やジョギングを楽しむ姿が展開されている。さらに、両岸にはソメイヨシノシダレザクラが数多く植えられているので、花見シーズンには大勢の人が野川沿いに訪れる。

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貫井神社はかつて貫井弁財天と呼ばれていた

 野川の流れからは北に100mほど離れるが、国分寺崖線の麓に貫井神社がある。貫井とは侵食されて崩れやすくなった川べりの土地という意味らしい。貫井といえば小金井だけでなく練馬区にもあり、その場所は千川と石神井川の間にあって、貫井中学校がある辺りは明らかに窪地になっている。高校教師時代はよくその辺りに出没していたので、高低差の存在は今でも記憶に残っている。

 貫井神社はかつては貫井弁財天と称していたそうだ。「弁財天」に関しては「お鷹の道・真姿湧水群」のところで触れている通り、「弁天社」は水神社であるので、この貫井神社も当然、水とは大いに関係がある。

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貫井神社の背後には崖線が迫っている

 神社の背後には国分寺崖線の崖が迫っており、崖際の数か所からは清水がこんこんと湧き出ている。

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保護された湧水点のひとつ

 野川の源流点のところで述べたように、貫井神社の湧水点も標高63m付近にある。雨水が立川ローム、武蔵野ロームにゆっくりと染み込んで、武蔵野礫層に達したときにその一部が崖から湧き出てくるのである。神社の境内には池があり、そこから流れ出た清水は南下して野川に流れ込んでいる。

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かつての野川の名残り

 貫井神社境内から湧き出た水は写真のような流れとなって野川本流に達するのだが、実はこの流れは、かつての野川の姿だったのである。野川の流れは先に挙げたように、鞍尾根橋から下流は大規模な改良工事がおこなわれ、周囲の地形から考えると不自然なほど整えられている。しかし、かつての川の記憶は至るところに残っており、写真の旧野川の流れもそのひとつで、この流れの痕跡を追うと、もっとも北上している場所は貫井神社のすぐ南側に達しているのである。現在でこそ野川と神社とは100m以上も離れているが、かつて両者は指呼の間にあった。したがって、貫井神社=貫井弁財天は野川の水の神であって、野川に多くの湧き水を与えて流れを豊かにする黄金井=小金井であったとともに、野川の水に頼って生活する人々の守り神でもあったのだ。

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かつての野川を記憶している道

 野川は新小金井街道の下を過ぎたあたりから南下を急いでいるが、そもそもこれは国分寺崖線が東に進んでいたものを南東方向に向きを変えたからであって、野川単独の選択ではない。が、いささか南に行き過ぎたようで、小金井市前原町3丁目辺りでほぼ直角に左折し、しばらくは東に進んで崖線に近づく。

 この直角に曲がる場所の右岸側に団地があるのだが、その団地の南側に旧野川の川筋だった痕跡が残る道がある。それが写真の道で、ここの標高は51m、右手はやや高台になっておりその標高は55mだ。その高台に行く手を阻まれて旧野川は、仕方なく左に曲がらざるを得なかったのだと想像できる。

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蛇行点の右手に立てられた辨財天

 こうした蛇行場所は氾濫を誘発することが多い。そのためか、この蛇行点の脇には辨財天(下弁天社)が建てられている。

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先の道をたどると、旧野川の護岸に出会えた

 先の道は団地を取り囲むようにして野川の右岸に出るのだが、よく注意して道筋を見ると、明らかにかつて川筋であったような細い道が別にあることが分かる。これをたどっていくと、写真の旧野川の護岸に出会えた。このことから、辨財天の前にあった道は、旧野川が蛇行して造った川筋の跡であることの蓋然性は極めて高いと確信した。

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整備された野川は前原小学校の下をくぐる

 一方、川筋を整えられた野川は先に挙げた団地の北側を通り、写真のように前原小学校の校庭の南端の下をくぐって学校の東端からまた姿を現す。この間、川沿いの遊歩道は途切れることになるが、一部は小金井街道の旧道だったと思われる「質屋坂通り」から現れ、小金井街道に架かる新前橋の下流からは再び、両岸に遊歩道が姿を見せる。

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親水護岸として整備されているので子供連れが多い

 野川は前原町2丁目辺りにも蛇行の痕跡を住宅街の道路に残すが、それに触れると際限がなくなるので、整備された現在の川筋に戻ることにする。写真に見える新小金井橋前後は川遊びを楽しむには最適な場所としてよく整備されている。世に「親水護岸」と呼ばれるものは多いが、実際には設計者の独りよがりであることが多く、川遊びしづらいものになっていることのほうがはるかに多い。しかし、ここ野川に関してはよくできていると思え、毎回、子供たちが川遊びに打ち興ずる様子を見掛ける。もっとも、それは設計者の意図が奏功したというわけではなく、川の規模が小さいために「安全に遊べる」という環境が元々あったというのが真相に近いのかもしれない。

 なお、新小金井橋に至る遊歩道には遅咲きのシダレザクラが両岸に植えられ、4月中旬から下旬の開花期には河原も遊歩道も大混雑する。写真にはその樹木は写っていないが、撮影場所の背後からその並木は始まっている。

 新小金井橋の下流から、野川はまた異なった表情に変わる。そして、その変化が生じるキワに、いくつかの大いなる「発見」があったのだった………次回に続く。

〔42〕横須賀市夏島町地先に集う人々

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脚立に乗って釣りする人たち

マルクスの警句

 「どんな株式投機の場合でも、いつかは雷が落ちるにちがいないということは誰でも知っているのではあるが、しかし、誰もが望んでいるのは、自分が黄金の雨を受けとめて安全な場所に運んでから雷が隣人の頭に落ちるということである。大洪水よ、我が亡き後に来たれ!これが、すべての資本家、すべての資本家種族のスローガンである。」このマルクスの150年ほど前の警句は、今の時代にあってますます妥当性を有するようになっている。

 ここ数年、日本各地や中国などを襲っている大洪水は、明らかに地球温暖化がその大きな原因である。数十年に一度の大雨が、日本においてここ7年間で16回も発生している。シベリアでは今年、「十万年に一度」の異常高温に見舞われ、「世界一寒い町」といわれるベルホヤンスクでは6月に38度の最高気温を観測している。シベリア地方ではツンドラ(永久凍土)が溶解し、都市全体が陥没しかねない事態が眼前に迫っているのである。こうした状況にあっても、アメリカのトランプ政権は「パリ協定」からの離脱を国連に通告し、地球環境の将来よりも目先にある利益を優先しているし、日本は旧式の石炭火力発電所を休廃止するポーズだけは取るものの、実質的には現状維持政策を続け既得権益者の保護を図っている。

 「プロメテウスの火」は狭義には原子力を意味するが、広義には科学技術全般を指す。人間はこのプロメテウスの火を得てから地球環境に負荷を与え続け、とりわけ産業革命以降はそれが顕著になり、今では環境の素材的限界をはるかにオーバーシュートしているため、生物の6度目の「大絶滅」期が到来することは必至であると考えられている。今までの5回は、いずれも地球を取り巻く環境自体の大変動によるものだったが、近づきつつある次の「大絶滅」は、明らかに人間の作為によるものである。

 欲望の資本主義はその初期状態においては資本家と労働者の対立が明確に存在していたが、今日の資本主義は「資本」の在処が不明瞭になっており、たとえ一介の市民であっても労働者の姿を有していると同時に資本の担い手として存在している場合がほとんどである。手元の資金に若干の余裕がある人は投資活動をおこなって富の増大を図り、貯蓄がまったくない人であってもSNSなどを利用して情報の「供給者」になって「GAFA」を支えているのである。

 近年では、環境問題に積極的にコミットしている企業を支える倫理的な投資として「ESG」が注目されている。Eは環境(Environment)、Sは社会(Social)、Gはガバナンス(Governance)を意味し、このESGに配慮した企業のほうが従来型の企業よりも着実に利益を生み出し、企業としての持続性があると考えられており、収益率は高いらしいのだ。そして実際、「ESG投資」は他の投資よりも高いリターンを実現している。が、環境に配慮した企業に投資し、それで得た収益でどんな生活を送ろうとするのだろうか?その先には、光り輝く持続可能な社会が現出するのだろうか?いや、環境に配慮した生活を過ごしているという自己満足感と、投資先からの配当と、増大した資産価値によって実現可能な物質的充足感を得ることが目的であるのかもしれない。だとすれば、この生き方は、マルクスが指摘した「資本主義種族」と異なる点はほとんどない。この有り様もまた「勝ち逃げ」に相違ないからだ。

 理性主義や知性主義は自然をコントロール可能であると考える。が、必ず誤謬推理に陥る。人間が知りえることなど、自然界のほんのひとかけらに過ぎないからだ。ましてや経済優先の施策は「今さえ良ければ」思考にエネルギーを充填し、当面の利益さえ確保できれば「あとは野となれ山となれ」なのである。

 環境に配慮した生活を送るためには何よりもまず、自然の中に自らの身体を配置することである。身体はあらゆる感覚でもって自然からのメッセージを受け取る。釣りはその典型で、海や川に自らの身体を置き、さらに仕掛けを通じて水や魚との対話をおこなうと、海や川が、以前とはまったく異なる世界に変貌してしまったことを全身をもって受け止めることができる。

 これを記している7月18日はまた雨降りである。かつてならば20日前後に梅雨が明け、「梅雨明け10日」という言葉があったように7月下旬から8月上旬はアユ釣り師にとって最高のシーズンになるのだが、週間天気予報を見る限り梅雨が明ける見込みはない。おそらく、梅雨明けの後は昨年同様、大型台風が襲来するのではないか。

 コロナ禍が証明したことは、世界的規模で経済活動がストップしたことで二酸化炭素の排出が8%削減されたことだ。これはパリ協定の数値目標と一致している。しかし、「これで良い」と考える人はほとんどおらず、大半は経済活動の再開を願っている。どうやら、私たちはもはや、総体としては「逃げ遅れ」てしまっているようである。

 せめて気分転換に「強盗トラブル」を使って旅にでも出かけようか。いや、それではこのバカげた政策を推進している中抜き業者、それに群がる政治家、官僚など、「逃げ切り組」を利するだけである。もっとも私の場合、田舎者であっても一応「東京都民」に属しているので、そのキャンペーンからは除外されている。 いやはや。

人々が夏島町地先に集う理由・その壱

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行きどまりの道

 夏島はかつては離れ小島だったが、1916年に周囲が埋め立てられて横須賀海軍航空隊基地が造られた。戦後は米軍に接収されたが72年に返還されたのちには工場地帯となり、その大半は日産自動車の追浜工場に利用されている。

 夏島は3つの点で有名である。ひとつは「夏島貝塚」、もうひとつは「夏島憲法」、さらに日本海軍の船の名前として。

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夏島貝塚についての説明書き

 夏島貝塚縄文時代初期の史跡で、およそ9500年前のものらしい。それは発掘された貝殻や木炭を放射性炭素年代測定法によって調べられた結果である。この測定法は炭素14の半減期(β崩壊)を利用したもので誤差は±500年程度であるため、貝塚が造られた時期は9000~10000年前の範囲に収まるとほぼ断定されている。ここでは貝殻だけでなく、マグロ、ボラ、クロダイ、スズキなどの骨も発掘されている。残念ながら、メジナの骨があったかどうかは不明である。

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夏島は帝国憲法草案の起草地でもある

 夏島にはかつて伊藤博文の別荘があり、伊藤をはじめとして井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らが集まって帝国憲法の草案を練った。写真の記念碑は夏島貝塚の案内板の隣にある。

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夏島はその高台部分だけが残る

 夏島の高台は自然林として保存されているが、敷地は日産自動車海洋研究開発機構に属しているため、勝手に入ることはできない。部外者はこうして森を外から望むだけである。

 上に挙げた夏島貝塚の案内板と憲法起草地記念碑へは、京急追浜駅前にある丁字路(国道16号線と夏島貝塚通り)を東に進み、貝山緑地の北側にある丁字路を左折して北に進んで道なりに行く。もっとも、この道を進むのは99%以上日産か住友重機か海洋研究開発機構の関係者であって、わざわざ案内板と記念碑を見るためにこの道を使う人は極めて稀である。というより、大半の人はその存在を知らないし、たとえ知っていたとしても興味を抱いて寄り道をする人はまずいない。

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第三海堡遺構

  私が目指す場所は夏島貝塚通りにはなく、先に挙げた通りを東に進むまでは同じだが、貝山緑地の前の丁字路を左折せず、そのまま直進するのだ。すると、右手には後述する横須賀市のリサイクルプラザ「アイクル」の偉容(異様)な建物が姿を現し、左手には写真にある「東京湾第三海堡遺構」の存在が現出する。

 海堡とは海上要塞のことであり、江戸時代に東京湾奥に造られた台場の親玉のような存在で、こちらは明治時代に建造が始まった。第一、第二は東京湾富津岬沖に、第三は横須賀市側の猿島沖に造られた。第三海堡が築かれる場所は潮流が激しく、かつ水深約40mのところに土台を築く必要があったために工事は困難を極め、1892年に着工し、竣工は1921年と完成までには30年の歳月を必要とした。しかし、完成したわずか2年後に起きた関東大震災によって崩壊し水没してしまった。

 崩落して暗礁化した海堡の残骸は海上交通の妨げになり、海難事故が多発したために撤去されることが決まったが、構造物は貴重な遺構として陸上で保存されることになり、横須賀市の「うみかぜ公園」などに置かれ、そして10年前に、現在の場所に移されて保存・展示されたのだった。

 遺構のある場所は「夏島都市緑地」としてよく整備され、ここに訪れる人が散見される。もっとも、同じ緑地内にある「ドッグラン広場」よりは少なく、憲法起草地記念碑よりは多いという程度だが。

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リサイクルプラザ・アイクルに付設された釣り場(現在使用不可)

 私が夏島町を訪れる理由はその「第三海堡遺構」を見るためではない。上の写真にある「アイクル」に付設された「釣り場」が目的地だった。写真のリサイクルプラザ・アイクルができたのは20年ほど前のことだと記憶している。愛称の”アイクル”は2000年におこなわれた公募で決まったとのことなので、その前後に完成したことは間違いない。

 この場所は建物がなかった埋立地のままであった頃から一部の釣り人にはよく知られており、長浦湾の入口にあるという決して立地条件は良いとはいえないところにあるにも関わらず、かなり多種多彩な魚が釣れるということで人気があったらしい。そこに巨大なリサイクルセンターが建設されるということによって釣りができなくなり、その不満を吸収できるような場所が近くにはなかったこともあって、「不法」に竿を出す人が後を絶たなかったという話を耳にしたことがあった。

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釣り場入り口は閉ざされたまま

 そんな場所であったためか、横須賀市の気まぐれか、はたまた釣り人へのささやかなサービス精神の発露であったのかは不明だが、敷地の海側に転落防止柵と緑地とベンチや東屋などを設置し、「釣り場」として利用者に開放したのだった。ただし、それは「釣り」優先ではなく、アイクルに見学に訪れた奇特な人々が「釣りも楽しめますよ」といった感じて造られものにすぎなかった。

 当初は認知度が低かったし、そもそも周囲にはリサイクルセンターぐらいしか存在しない行き止まりの道の南側にあるさほど広くない釣り場だったために閑散としていたが、次第に評判が広まるにつれて釣り人が多く訪れるようになった。

 敷地内には無料の駐車場があり、綺麗なトイレがあり、建物内には自動販売機がありと、利便性はかなり良かった。さらに建物内に入れば夏は涼しいし冬は暖かくとても快適な釣り場だったのである。

 しかし、写真のように昨年の台風15号による高波を受けて釣り場の施設の一部は破損し、以来、釣り場は閉鎖されたままで当面、修理される気配すらない。事情通によれば補修費用は計上されたらしいのだが、目下のコロナ禍によって工事がおこなわれる見通しは立っていないそうだ。

 ところが、このくらいの仕打ちではめげたりしないのが釣り人の心性であって、アイクルのすぐ先の夏島町地先にある「行き止まりの道」から、3mある金網フェンス越しに竿を出しているのである。ただし、竿が出せるのは南向きの湾内側だけで、先端部は日産の波止場に利用されているため立ち入ることはできないし、北側はそもそも日産の敷地内で海に面してはいないので釣りは不可能である。

 こんな事情もあって、昨秋まではアイクルの釣り場に集まっていた人々がこの地先の先端部近くに御狩場を移動し、昨秋までと同様に釣りの集会をほぼ毎日、開催しているのである。人々が夏島町地先に集う理由は以上のことが背景にあり、決して「夏島新憲法」起草のために集結しているのでも、周囲で貝を採集したり貝殻を山積みしたりするためでも、新しい橋頭保を築くためでもないのである。

人々が夏島町地先に集う理由・その弐

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不法侵入を試みる人では「恐らく」ない

 夏島町地先の行き止まりの道路と海とは3mの高さの金網フェンスで隔てられている。そのフェンスにしがみつき海の向こうの世界を見続けている人の姿に触れたとき、私はメキシコのティファナで見掛けた光景を思い出した。

 ずいぶん前のことだが、一時期、毎年のように知人の住むロサンゼルスに釣り仲間と出掛け、アメリカ西海岸(ロングビーチ、サンタモニカ、サンタカタリナ島など)やメキシコのバハカリフォルニア半島の海で「メジナ」を求めて釣り歩いた。私も仲間も都会には不似合いな風体をしており、おしゃれなロスの海岸ではまったく浮いた存在だったが、メキシコまで南下すると途端に風土に溶け込み現地の人とそん色のない田舎者として認知された。メジナを求めてサン・キンティン、エル・ロサリオ、バヒア・デ・ロスアンヘルスまで旅をしたが毎回、メキシコを離れがたく、ロスに戻る前には国境の町であるティファナの場末にある店で食事をとった。

 あるとき、車に忘れ物を取りに戻ったのだが、道に迷ってしまい、気が付くと米墨を分かつフェンスのところに出てしまったのだった。そこでは多くの人々がフェンスにしがみつき、彼・彼女にとって憧れの近くて遠い大都市であるサンディエゴを見つめる姿があった。その光景に触れたとき初めて、国境という高い壁の存在を認識させられたのだった。思わず、私は何ごとかを発してしまった。すると、彼・彼女らは一斉に振り返り私のほうに目を向けた。恐怖感が私を襲ったが、彼・彼女らは何事もなかったかのように再び、米国の町のほうを見やっていた。私は自覚した。日本人や韓国人、中国人旅行者とは思われず、単なる流浪する民のひとりにしかすぎない存在と思われたことを。そうなのだ。だからこそ、私はメキシコ人が食する田舎料理が世界一美味しいと思っていたし、今でもそう考えている。

 この思いが強いため、ロスでも東京でもメキシコ料理を何度か食したが、値段が現地に比べて恐ろしく高いだけで、味ははるかに劣っていた。私は高級レストランの料理人たちにこう言いたかった。「国道一号線をエンセナダから南下して、サント・トマスの大衆食堂で修行してこい!」と。

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夏島町地先で人気のタコ釣り仕掛け

 夏島町地先の海はとても豊かでいろいろな獲物を取得できる。フェンス越しにある海は先に挙げたアイクルの釣り場から狙えるポイントよりも少し沖側にあるために潮通しが良く、水深もある。そのためもあって、より多彩な生き物たちと出会える機会があるのだ。実は、アイクルの釣り場が閉鎖される前から、そもそも釣り場があろうがなかろうが、釣りものや釣り方次第ではこの地先のほうを好む人は多くいたのだった。

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美味しいタコがよく釣れる

 Sさんが釣った写真のマダコもそのひとつで、これを対象とする人は前々からこの地先で竿を出していた。今現在はまだ小振りだが、その分、数を伸ばすことができるようだ。エサはまったく必要ではなく、赤いザリガニ様の疑似餌とタコを引っ掛けるハリとオモリがあれば良い。黄色い玉には浮力があるので仕掛け全体を浮き沈みさせることができ、タコがルアーを抱いたときにアワセを入れるとタコの体にハリが掛かる仕掛けになっている。

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ルアーで大型の回遊魚を狙う

 この梅雨時にはこの場所に2度出掛けたのだが、2日目は梅雨の晴れ間で日差しが強く、ここに集う人々はめいめいに日よけの傘を用意し、さらに体に真水を吹き付けるための用具も準備していた。常連だけにここの環境をよく認知しており、準備は周到におこなっていた。

 脚立もここでは必須の道具で、先のタコ釣りであれば道路側からフェンス越しに仕掛けを投入すれば良く、獲物がヒットしたら岸近くまで寄せ、あとは「タコタコ上がれ」とばかりに引き抜けばよい。しかし、ルアーで大型回遊魚を狙う場合は遠投が必要なのでフェンス越しに投入するわけにはいかず、仮にそれが出来たとしても掛かった獲物の取り込みに苦労する。そこで写真のような脚立を持ち込み、その上に乗ってルアーを投入すれば様々なポイントを探ることができ、かつ掛かった魚とのやり取りもしやすくなる。取り込む際に必要な玉網も使える。

 パンツ一丁で竿を操るKさんはこの場所の主的存在で、この場所に集う人なら誰もがよく知っている愉快で目立つ人物である。嬉しそうな表情を見せているが、これは獲物が掛かったからではなく、真水のシャワーをお尻に浴びて悦楽状態に入ったからである。こういった遊びができるのも、ここが行き止まりの道だからである。

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秋田県出身だけに秋田犬のTシャツがよく似合う

 Hさんは先の人物とは対照的に後ろ姿からも真剣に釣りに取り組んでいることがよく分かる。その理由は、この人が根っからの釣り好きというだけではなく、この日の午前中に購入した新しいルアーロッドの調子を試しているということもある。ルアー釣りだけでなく、ウキ釣りをおこなっても確実に釣果を上げる名手で、夏休みには秋田に帰省してアユの友釣り三昧の日々を送るそうである。誠に羨ましい。しかも、角館を流れる桧木内川で竿を出すのだとのこと。道理で、後ろ姿には武家の風格が感じられる。

 秋田犬といえば、私の実家では長い間、飼っていた。名前は代々「クマ」で小学生の頃はクマの小屋を私が占拠し、クマの餌も私が先に試食していた。秋田犬は飼い主にはとても優しいのでクマは無抵抗だった。

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地先に住み着いているネコに餌をあげる人

 写真のYさんはハワイ出身ではない。この場所の近くに住んでいてほぼ毎日、この場所に通い野良ネコの「チビ」に餌をあげている。もちろん、ネコの餌やりが主目的ではなく、釣りが目当てなのだ。Yさんは釣りが極めて上手であり、ネコもそのことを熟知しているらしく、御相伴に与ろうといつも近くにいたために彼になついてしまったのだ。そうなるとネコも贅沢なもので小魚だけでは満足しなくなり、結局、釣り人のほうでもペット用の餌を用意することになった。

 釣り場には大抵、野良ネコがいて、釣り人から餌をもらおうと近づいてくる。基本的には警戒心が強く、人との間に「ソーシャル・ディスタンシング」を取る。が、中には戦略的行動として悲しそうな顔をして釣り人に近づき、そうなると釣り人のほうでも愛着心が湧き、そいつに優先的に獲物を与えるようになる。その後、人とネコとの間に信頼関係が生まれることもあり、このチビもそうして釣り人との間に良き関係が醸成され、今ではなくてはならない存在となったのである。

 このYさんの紹介で私はアイクルという釣り場を知った。17,8年ほど前のことである。さらにその10年近く前に、私はこの人物を三浦市に住む釣り仲間に紹介されたのだった。当時は雑誌等にいくつかの釣りの記事を書いていたのだが、私が出掛ける釣り場は伊豆諸島の八丈島式根島神津島にある離れ磯ばかりだったので、編集部からもっと近場で多くの人が行きやすい場所を取り上げてほしいという要望が入った。そこで件の知人に相談すると、三浦の磯を詳しすぎるほど知っている釣り人がいて、彼ならどんな場所でも案内してくれるはず、との返答があった。そうした経緯で出会ったのがYさんだった。

 彼は釣り以外のことにはほとんど興味がないという御人で会話の98%は釣り、残りの2%が車とネコのことだった。確かに三浦の各磯を熟知しており、どこそこの磯には30m沖に溝があって潮はこう動くからあそこにウキ下5mで仕掛けを投入し15m流すとメジナがヒットするなどと御宣託するのだ。そして事実、その通りに結果を出してしまうのであった。眼力も恐ろしくあり、偏光グラスなしに海中の様相を見て取ってしまうのである。「今、あの岩の周りにクロダイが2匹いる」とYさんは言うのだが、私には偏光グラスを使っても「あの岩」は見えないし、ましてや魚の存在などまったく確認できないのだ。

 以来、取材には数えきれないほど協力してもらい、また数多くのユニークな釣り仲間を紹介していただいた。そして、今回触れている「アイクル」、さらに夏島町地先の釣り場も、そこに集う常識人や奇人、変人もYさんを通じて知り合うことになった。もちろん、「チビ」もである。

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チビはしっかりポーズはとってくれた

 私とチビとの間には信頼関係はまったく成立してはいないが、ここに集う仲間としては認めてくれたようで、カメラを向けるとポーズだけはとってくれた。

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アジを狙う人

 この釣り場では現在、良型のマアジが釣れている。20cmサイズの丸々と太ったアジで、食味はとても良い。アジは足元で釣れるので長い竿も脚立もいらない。写真のようなフェンスの隙間から竿を出して足元に仕掛けを垂らせばよい。

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暴れるアジに躊躇するチビ

 人工餌に飽きたのか、チビはアジをねだりに釣り人に近寄った。通常のネコならばこの御馳走に飛びつくはずなのだが、贅沢に慣れてしまったチビには魚の元気良さには少々戸惑い気味で、腰が引けた状態でアジの動きを見つめる姿が可笑しかった。

 かように、この場所には高いフェンスがあって釣りづらいものの魚は豊富で、人々の表情もまた豊かである。これが夏島町地先に集う真の理由なのかもしれない。

 以上のように、魅力的な人物たちがこの地に集まるようになったのは、アイクルが立ち入り禁止になったということと、地先がもともとよく釣れる場所だったからという理由による。規制がかかるアイクルの釣り場より、地先のほうが自由気ままに振舞えるので、こちらのほうが元来、適している人々なのだろうか。それにしても、天下の公道で自由闊達に素敵な時間を共有できる。これも、ここが行き止まりの道だからである。

釣り人は和して同せず

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地先に集う人々

 夏島町地先に集う人々は何にも規制されずに思い思いの行動をとる。ほぼ毎日、10人以上の顔見知りがここに出掛けてくる。ある人は釣りに専念し、ある人は釣りはそこそこに下世話な話に花を咲かせる。ある人は置き竿のまま読書にふける。ある人は釣り道具は持参せず、論評をもっぱらとする。

 自然発生的にこの地に集まり、いつとはなしに帰っていく。釣りの後、誘い合って飲みに行くこともない。お互いの仕事はよく知らないしそもそもそんなことに興味もない。集う人に共通するのは「釣りに興味がある」ということだけだ。その一点だけで、釣り人は意気投合できるのである。その限りにおいて、釣り人は「和して同せず」なのであり、釣り人の交わりは「淡きこと水のごとし」なのである。あたかも、士大夫のごとくに。

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写真撮影に訪れる人も多い

 夏島町地先の前方には長浦湾の出入り口があり、その先にも横須賀軍港の出入り口があり、眼前を自衛隊や米軍の艦船が行き来する。原子力空母ロナルド・レーガンの姿を見掛けることもある。そのためもあって、写真のように、艦船の撮影目当てに訪れる人も多い。釣り人とは世界が重ならないため、触れ合う機会は少ない。が、今回の撮影で「メキシコ人役」をやっていただいたMさんは元々は艦船の撮影目的のためにここを訪れていた。しかし、彼は釣りにも少しだけ興味があったようだし、さらに人当りの良さもあってか釣り人とも会話をするようになった。そしていつしか、写真仲間と行動を共にするよりも釣り人の輪の中に加わることが多くなり、今では立派な夏島町地先の「住人」となってしまったのである。

 私は船を撮影する動機付けがないので、たとえロナルド・レーガンが眼前に停泊していたとしても、見つめることはするが撮影はしないだろう。その代わりに、船を撮影する人を撮影するということには結構、興味がある。

 この日は「皐月晴れ」だった。撮影者は雲の峰には関心を示さず、私は雲に、そして雲に関心を示さない撮影者に関心を抱いた。

 人、それぞれである。人生、いろいろである。ネコもまた、それぞれである。 

〔41〕多磨霊園~夢見る死者が眠る公園

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ゾルゲの墓

 私は夢をよく見る。夢といっても、将来、ユーチューバーになりたいだとか、花屋さんになりたいだとか、飛行機の運ちゃんになりたいだとかの類ではない。眠っているときに見る夢である。以前から眠りが浅く、齢を重ねるごとにさらに浅くなり続けているためか、夢の出現度は高くなり、一晩に豪華ニ十本立てなどということも珍しくない。もっとも、目が覚めるとすぐに場面の大半は記憶から消え去ってしまうため、夢を見たという意識は残っているもののそれは半覚醒時までのことで、その内容を起床後まで覚えていることはあまりない。たとえ朝食に紅茶に浸したプチ・マドレーヌを食したとしても思い出すことはないのだ。ただし、それでもごくまれに強い印象を受けた夢があり、粗筋であれば何年間も記憶しているということもなくはない。

 これを記している日は約9時間(私の平均睡眠時間だ)寝ていたものの夜中に2度も目を覚まし、そのたびに夢の内容を追憶しようと試みたのだが、すでに薄ぼんやりとしており、思い出す前に次の眠りに入ってしまった。ただし、起床前の夢の内容は意外にはっきりと覚えていた。夢の中で私は政治・経済の授業をしており、生徒たちは私の話にとても良い反応を示していたのだった。こんなことは実際の教員時代にはまったくなかったはずなので、目覚めてみれば、やはり夢に違いないという確信を持てた。

 いったい、夢はいつ見ているのだろうか?最近の大脳生理学の知見によれば、夢は眠っている間、ずっと見ているそうだ。かつては大脳皮質がより強く活動しているレム睡眠中にのみ見るとされていたが、現在ではより深い眠りであるノンレム睡眠中にも夢を見ている状態にあることが分かっているらしい。もっとも、記憶に残る夢は覚醒直前に見たものに限られるそうなので、私が豪華二十本立ての夢を見ているのは、睡眠中に19回も半覚醒しているということなのかもしれない。さらに、夢の続きを見たり夢の中でさらに夢を見ていたりという経験が何度もあるので、これまた、浅い眠りに由来すると考えられなくもない。平均睡眠時間が約9時間ということ自体、眠りの質が悪い証左といえるのかも。

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墓石に刻銘されていた「眠」。墓石も夢を見るか?

 夢の中で、これは夢であるという思いを抱きながら夢を見ているときもある。そんな場合では、夢の中にはもう一人の自分がいて、自分が自分の行動を客体視しているのだ。眠っている最中に今、夢を見ているという認識があるので、「これは夢である」という判断が夢の中でなされているのだが、「それは夢だった」という確定がおこなわれるのは目覚めた刹那なので、やはり夢は覚醒しなければ「夢を見た」という体験を自覚することはできないのだろう。 

 さしあたり、夢は目覚めたときにそれが夢であったと知るのであるとするのならば、人生の最後に見た夢は、それが夢であったとは確認されないまま永遠に保持されることになるのだろうか?夢を見た当のものはもはや目覚めることはないのだし、残されたものは彼・彼女の最後の夢の内容を知るすべを有してはいない。死とともに夢もまた消え去ると考えるのが通常だろうが、死者が夢を見ていないということを他者は知ることはできない。なぜなら、生者の夢すら他者には知ることはできないからだ。こんなとき、脳科学者は脳の働きの有無から死者の夢の存在を否定するあろうが、科学が判明できることなど現象のごく一部でしかないのにもかかわらず、まるですべてが分かるかのように科学者は夢のような説明をするのである。

 夢とは少し異なるが、「デジャヴ(既視感)」も不思議な現象だ。初めて見る光景であるのに、それをすでに過去に見ているという感覚を抱く体験だ。実際、多くの人が経験したことがあると語る現象だが、その原因には諸説あるようだ。私がその説明に妥当性があると思うのは以下の2つである。

 ひとつは夢との関連性だ。写真やテレビ映像などで印象に残る景色を見たとする。ある日、その景色が夢の中に現われる。ただ、夢はその景色をとくに印象深い部分だけ切り取って再構成しており、しかも夢の記憶は、そのまま心の深くに眠ってしまうことがほとんどなので、夢に出てきた光景が現実に見たものと異なっていることに気付くことはない。その後、現実世界で新たに印象深い景色に触れたとき、夢の記憶と眼前に展開されている景色との高い類似性を心が覚えると、デジャヴが生じるという説だ。初めて恋した美少女の面影をいつまでも記憶していて、映像か何かである美しい女性を見るとその映像を通じてかの美少女のことを思い出すというのと似ていなくはない。もっとも、こちらはデジャヴというよりプライミング(意識の流暢性)に近いかもしれない。

 もうひとつは、肉体的疲労と精神的緊張を感じているときに印象深い光景に触れると、視覚情報の差異が生じやすく、その結果、初めて見ているのに、神経回路のズレによってすでに過去に見ているという錯覚を抱くというもの。一般にはこの説が有力だとされている。

 はるか昔のことなのに今でも鮮明に覚えているが、私は20代前半のときに摩周湖見学に出掛けてニ度、驚いたことがある。一度目はこのデジャヴに驚き、実は、高校時代の修学旅行で摩周湖見学に来ていたということをほどなく思い出して、また驚いたのである。私の場合、デジャヴよりもジャメヴ(未視感)の体験のほうがはるかに多い。ただ忘れっぽいというだけなのだが。

多磨霊園はディズニーの2.5個分

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多磨霊園の正門(表門)

 多磨霊園の敷地の大半は府中市にあり、北西のごく限られた一部だけが小金井市に属する。府中市が誇る大規模な公共施設は3つあり、ひとつは多磨霊園で、あとは府中刑務所と東京競馬場である。つい最近までは関東医療少年院があったのだが、残念ながら昭島市に移転してしまった。こうした大規模施設が府中に造られる理由は簡単明瞭で、田舎には広大な空き地があるからだ。しかも平地が多いので開発は容易だ。多磨霊園と刑務所と少年院は洪水が滅多に発生しない安心・安全の立川段丘面にある。一方、競馬場は多摩川の氾濫原であった沖積低地にある。競馬場は大洪水の前の避難は容易だろうが、霊園、刑務所、少年院は避難先の確保が難しい。霊園、刑務所、少年院を自然災害に遭遇する危険性が低い段丘面に造ったのは企画者に先見の明があったといえる。というより、府中にはそれだけ何もない場所がそこかしこに多くあっただけなのだが。

 多磨霊園は1923年4月1日に開園した。敷地面積は128haある。東京ドーム27個分の広さだと言われるが、あまり参考にはならない。東京ディズニーランドが51haなので、ディズニーの2.5個分といったほうが合点がいくかも。ディズニーは「夢と魔法の王国」がキャッチコピーだが、遊園地の夢なぞしょせん、はかない。それに対し多磨霊園は、「はかない」どころか墓は無数にある。私はディズニーやUSJには一度ずつしか行ったことはないが、多磨霊園へは100回以上出掛けている。

 多磨霊園はただ墓石が並んでいるだけの墓地ではなく、西洋式の公園的な要素を取り入れた日本最初の霊園である。開園当初は「多摩墓地」を名乗っていたが、1935年にはその成り立ちに相応しい「多磨霊園」に名称変更した。敷地面積は開園時は100haだったが、1939年に拡張工事がおこなわれて現在の敷地面積になった。

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26区の向こうに見える森が浅間山

 広げられた場所は浅間山の東裾部分が含まれているため、新しく造られた最南西端の26区の標高は56mあり、発足当初の最西端である4区の50mと比較してやや小高い場所にある。図面で見ても、当初に造られた部分の区画は整然としているが、拡張された部分は取って付けた(実際そうなのだが)形になっており、原図を引いた設計者の意図からはやや外れた形になっている。多磨霊園を仮に「庭園」に準えるとするなら、当初は平面幾何学的図式で造られた「フランス式」、拡張後は模様に乱れがあり、自然な、かつ立体的である「イギリス式」とでも評することができる。個人的には今の形のほうが好みである。もっとも、拡張前の姿を見たことはないのだが。

 公園風墓地を名乗るだけあって、園内には緑が多い。高木の多くはアカマツだが、ソメイヨシノも多くあり、春には桜の園になって花見客でかなり賑わう。4、5月にはツツジの園になり、6月はアジサイの花が目立つ。7月初めの今現在は、アガパンサスの群生がよく似あう。

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南北を貫くバス通り。一般車も多い

 南北には一本、バス通りが敷地を貫いており、乗用車を含め交通量は比較的多いが、その道以外には車は少なく、墓参に来る人、仕事中に園内で休息を取る人、墓関係の仕事人、そして私のような自転車や徒歩、車で墓見物に訪れる人、ジョギングを楽しむ人、歳の差を気にせず不倫を重ねる人などの姿を見掛けるばかりで、暮石や緑を渡る風はとても心地良い。

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京王線多磨霊園駅

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多磨霊園表門(正門)バス停

 霊園には車、自転車、徒歩で訪れる人が多いようだが、公共交通機関もそれなりに整備されている。代表的なのは京王線多磨霊園駅であろう。私は鉄道では京王線を利用することがもっとも多いので、小さい頃から多磨霊園駅はとても身近な存在だった。とはいえ、多磨霊園に行くためにこの駅を利用したことは一度もない。駅から霊園の正門までは約1.6キロあるので、駅から霊園まで歩くのは大変だし、たとえ正門までやっとの思いでたどり着いても今度は広大な園内を歩き回らねばならない。したがって、京王線を利用して出掛けるとするなら、駅からはバス利用が一般的だろう。

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西武多摩川線多磨駅

 中央線沿線に住む人なら西武多摩川線多磨駅が便利だ。中央線・武蔵境駅多摩川線に乗り換え、2つめの駅が写真の多磨駅となる。以前はローカル線に相応しい古ぼけた駅舎だったが、最近になって様変わりした。駅の東側に東京外国語大学武蔵野の森公園などができたので、おんぼろ駅舎は似合わなくなったとの考えによるのかも。多磨駅からは徒歩約5分で霊園の正門に着く。

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東八道路のすぐ南側にある小金井門

 霊園の北側には「小金井門」があり、ここは東八道路のすぐ南側にあるために車で訪れる人はこの入口を利用する人が多い。なお、正門は「表門」、小金井門は「裏門」とも表記されている。実際、管理事務所、みたま堂、合葬式墓地などは正門のすぐ近くにあるので、正門が表門、小金井門が裏門とされる理由は確かにある。

多磨霊園を訪ねる

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正門を入ると写真のロータリーに出る。右手に見えるのが「みたま堂」

 私が霊園へ散策に訪れるときはほぼ100%、自転車で行く。家から浅間山の北東側にある西門までは直線距離で約2キロあるので徒歩ではややきつく、広大な園内を巡るときには自転車利用がとても具合が良いのだ。自宅を出て「府中の森公園」を突き抜けて浅間山の北側を通って西門に至るというのが通常のコースだ。が今回は、まず京王線多磨霊園駅に寄って、バスのコースをたどって正門から入った。

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パンフレットが入手できる管理事務所

 正門を入るとすぐ右手に写真の管理事務所がある。墓に埋めてもらう予約をするわけではないので事務所に用はないのだが、ここには霊園の案内図などの資料が置いてあるので、その入手を兼ねて立ち寄ってみた。

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遺骨の一時預かり、長期収容施設である「みたま堂」

 管理事務所の北隣にある大きなドーム型の新納骨堂が「みたま堂」(1993年完成)である。ここには墓所が見つかるまで遺骨を一時保管してもらえる施設と、長期(30年、更新あり)収蔵してもらえる施設があり、今年の1月現在、一時保管場所に2554体、長期収蔵場所に10556体収容されている。

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みたま堂の正面。ここで線香をあげる

 みたま堂には初めて立ち寄った。といっても入口に立って写真を撮ったのみ。私には参拝する習慣がないのでここにしばらく佇んでいただけだが、それでも少しだけ、居住まいを正したいという気持ちを抱いたことは確かだった。

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ロータリーの西側にある休憩所・売店

 ロータリーの西側にはやや古めの小さな建物がある。墓参に訪れた一団が手向けの花を購入し、借りた水桶を手にして墓に向かっていった。この小さな店の西隣に合葬式墓地(2003年完成)があり、そのさらに西側に芝生墓地がある。

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雑草が生い茂った芝生墓地

 霊園の敷地には限りがあるので、先に挙げた「みたま堂」や写真の芝生墓地などコンパクトに収まり、かつ手入れの簡単な墓地が増えているようだ。家族制度は崩壊しつつあり、家族のつながりそのものが希薄になっている現在では、こうした様式の墓地ですら用はなくなり、霊園そのものも、さらなる様変わりを強いられることだろう。

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名誉霊域の碑

 ロータリーの北側には「名誉霊域」がある。その名を象徴するがごとく、道幅にも区画にも他の場所とは異なり、かなりのゆとりを感じさせる。

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名誉霊域通りと我が愛車

 名誉霊域に面した場所には著名人の墓が多い。多磨霊園には名の知られた人の墓が多いといわれるが、これは広大な敷地に数多くの人が眠っていること、郊外であっても一応は東京都にあるので、名を知られている人が埋葬される割合が比較的高いという理由が背後にあると考えられる。今年の1月現在、埋葬体数は44万8655体なので、その中に著名人が多数いるということは不思議でもなんでもない。都心部にある青山霊園なんかは、さらにその割合は高いのではないだろうか。なお、名誉霊域に面した場所の著名人は政治家や軍人が多いのが特徴的だ。

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各所にある標識。これが墓探しの参考になる

 霊園の墓地は26区に分けられ、各区画の内、道路に面した部分は1種、内側は2種、さらに側、番に区分されている。例えば、本項の冒頭に挙げた「ゾルゲ」の墓は”17区1種21側16番”にある。管理事務所で入手できる案内図や道路の交差点に表示されている地図を頼りに大まかに場所の見当をつけ、小区画には上記の写真のような標識があるので、墓探しはそんなに苦にならない。ちなみに、写真の標識は「西園寺公望」の墓の横にあったものだ。標識には最後の「番」だけは表記されていないが、「側」まで分かればあとはその小区画を見て回れば、お目当ての墓は簡単に見つかる。

 ただし、名誉霊域には上記の区分の例外があり、7区の特種がそれである。この場所には「東郷平八郎」「山本五十六」「古賀峯一」の墓がある。いずれも説明は不要なほどよく知られた海軍軍人である。東郷の死は1934年、山本は43年、古賀は44年なので、時代背景もあって特別な場所に墓が建てられたのだろう。

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名誉霊域通りにある萬霊供養塔

 名誉霊域通りにはシンボル塔、写真の萬霊供養塔、忠霊塔が立ち並んでいる。シンボル塔はよく目立つ存在であり、かつては噴水塔としての役割を果たしていたが、現在では老朽化が進んでおり、事故防止のためか周囲をフェンスが取り囲んでいるのであまり良い景観ではない。その点、高さ12mもある巨大な灯篭は1941年に造られたとは思えないほど立派である。もっとも、この大灯篭は建設当初は正門近くに設置されていたのが、2002年に現在の場所に移築された。その際に手を入れられたから古ぼけてはいないのだと思える。

私が霊園を訪ねる訳は?

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お墓の例(1)

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お墓の例(2)

 私が多磨霊園内を散策場所に選んだのは10年ほど前のことだ。それまではバス通りを車で通ったり、霊園に北側にある「運転免許試験場」へ免許の更新をしたり、3度の免許証紛失による再発行のために自転車で出掛ける際に、霊園内を通過するときぐらいだった。これは浅間山も同様で、家からは両者より少し遠い位置にある多摩丘陵にわざわざ出掛けていたのは、その近くには多摩川があるからだった。浅間山には湧水がほんの少しあるだけだったし、多磨霊園は敷地が広大であるにも関わらず池がない。この「水の不在」が、ここを遊び場や散策場に選ばなかった理由であった。

 しかし、たまたま10年前、「ムサシノキスゲ」を探しに浅間山に出掛けた際、なんとなく多磨霊園の敷地内まで足を伸ばしてのんびりと徘徊してみると、その景観の「複雑さ」に魅せられてしまったのだった。『作庭記』には庭の価値は石の配置で決まるといったことが記されているということは前回に少しだけ触れたが、確かに、多磨霊園には石が無数に配置されており、そのどれもがひとつとして同じものはなく、だがしかし、総体としても個別にもここが霊園であることを強く表現していた。もっとも、それは当たり前で、ここにある石の多くは「墓石」なのだから。

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壁墓地も細部の姿はひとつひとつ異なる

 先に挙げた芝生墓地も、13区にある写真の壁墓地も、限られた敷地を合理的に使用する新しい形式のお墓で、一見するとどれも同じように見えるが、細部の意匠は案外異なっている。しかも、この墓のひとつひとつを守っている人々の意志がそれぞれの墓の姿に反映されており、地面から伸びる草たち、添えられた花束、刻銘された文字、石の輝き具合など、どれひとつとして同じ表情を有しているものはない。墓の形相はそこに眠る人々が現世に残した生き様を反映しているとも考えられるのだ。

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墓にあるのは墓石だけではない

 こうして、墓の様相の違いに気づくと、墓の姿かたちを見ることに俄然、興味が湧いてきた。通常、お寺にある墓地だと、たとえそれに興味を抱いたとしても散策地に選ぶことにはやや気が引けるが、多磨霊園はなにしろ公園風墓地なので通路もゆったりと取ってあるので散歩気分に浸れるし、宗派にはこだわりがないので変化に富んだ細工も多く見られるため、出掛けるたびに様々な発見ができる徘徊場所なのである。もちろん、緑が多いことも私の好みに合致しており、いろんな風媒花、虫媒花、鳥媒花、獣媒花を探す楽しみすらある。

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石灯篭(1)

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石灯篭(2)

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墓の主の胸像

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忘れられた墓

 ひとつ上の墓のように手入れが行き届き、立派な胸像まで飾られたものがある一方で、上の墓のようにすっかり忘れ去られたものも結構ある。全体が葛にほぼ覆われた状態で、今は人の手がまったく入っていない憐れな姿だが、墓自体は、敷地の広さといい、建造物の大きさといい、かつては立派に輝いていたであろう石碑といい、ここに眠る人や家族はさぞかし名のあった存在だったと想像できる。が、そうした人や家族の記憶でさえ、時の流れの中では消滅してしまうのである。しかし、考えてみれば最初期に造られた墓であったとしても、霊園の歴史はまだ100年も経ってはいない。儚い墓である。

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墓の主は関係する人々の中に生きている

 墓碑銘の「またね」は意味深である。墓参する人もいずれは眠りにつくので、墓の中でまた会えるということなのだろうか?たぶんそうではなく、人間(じんかん)は生死の幅の中にあって、人が墓の主の存在を心に思い浮かべるだけで、その主は他者の中に「実在」するのであり、その限りにおいていつでも会えるのである。ただし、時を経ることで主を思う人もまた死に至る。そうして、主に関係する人のすべてが地上から消え去ったときに人間(じんかん)の幅はゼロになり、「またね」は跡を絶ち、墓石は葛に覆われていく。

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若くして散華した人の刻銘

 後に挙げるが、著名な軍人や政治家の墓には立派な肩書が刻銘されている。それは確かに名誉なことだろう。しかし写真の兵士の墓のように、たとえ地位は低くとも、家族にとっては十分に誇れる「死」であり、平和の礎になった「死」であり、悲しい「死」であり、悔やまれる「死」であったという思いが込められた刻銘も多くある。

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素晴らしい業績を誇る墓碑銘

 写真の記念石碑は墓石の数倍の高さがある。「開発者」というだけで素敵なのに、さらに、ただの電気炉ではなく「高周波」の電気炉なのである。それがどんなものであるかは皆目、見当がつかないが、こうして立派な石碑に刻銘されるだけの素晴らしい、そして価値のある業績であるに相違ない。なにしろ「高周波」だ。

著名人の墓を探し歩く

 墓石には多くの場合、〇〇家之墓という刻銘がある。その近くに墓誌があり、その墓に眠る人の名が刻まれている。私は霊園内を散策するとき、この〇〇家の〇〇を見て、かつて出会った人の記憶を呼び覚ますことがよくあるし、それを頭の体操にしている。私には人の姓名を覚えることがほとんどできないという「特技」がある。何しろ、教員時代にクラス担任をしていても一年間、名前を覚えられなかった受け持ちの生徒が3割ぐらいいた。顔の記憶はあるのだが、名前とその存在とを結びつけることができないのだ。これは現在も同じで、今でも出会った人の名前がなかなか覚えられない。そのことで「ボケが進行したな」とよく言われるのだが、実際は、ボケが進行したのではなく、もともとボケていたのだ。

 ところが、墓石の〇〇を見ると、突然、過去に出会った人の姓名と顔が浮かんでくるのである。例えば、「赤城家之墓」が目に入ると、そういえば赤城という姓の釣り仲間がいたことを思い出し、するとその人の顔や佇まいだけでなく、釣りの時の仕草、語り口調まで記憶が呼び覚まされるのである。これは実に大いなる発見であって、このことも私の「墓巡り」の興味のひとつになった。△△家之墓を見れば△△くんや△△さんを思い出し、「まだ元気でいるだろうか」とか「もう死んじゃっただろうな」とかを思いながら次々に墓碑銘を見て歩くのだ。実は姓名は記憶しているのである。ただし、その人と出会ったときに記憶を呼び覚ますことができないだけだったのだ。私にとっての現実は、夢の世界とさほど違わないかもしれない。

 こうして、霊園内の墓碑銘を見て歩くと、家族名ではなく個人名を刻銘した墓も見掛け、中には著名な人のものも目にすることがあった。友人からは「多磨霊園には有名人の墓が多くあり、管理事務所でもらえるパンプレットに墓の場所が記されているので探すのには便利だ」と聞いてはいた。しかし、そうした方法での墓探しには興味がなく、偶然の出会いに妙味があると思っていたので、とくにパンフレットを入手する気持ちにはならなかった。反面、知った名前を発見し、その人物について思いを巡らせると、忘れていた記憶が呼び覚まされ、好奇心が増幅するという楽しみが生まれたのも事実だった。

 それからは、△▼家の刻銘からは人生の中で出会った人のことを想い、著名人の墓からはその人物に関連する出来事や著作物や言動などを思うというように、霊園に訪れるという動機付けがいよいよ増大したのだった。

 今回は、このブログの読んでくれる貴重な人への参考になればと考え、初めて管理事務所でパンフレットを入手し、それに記されている著名人墓所の所在地一覧から数十人を選び、墓巡りをおこなってみた。私にとっては、最初で最後の計画性のある霊園探訪だった。先に述べたように霊園には「区・種・側」が記された標識が設置されているので、墓探しはそんなに困難ではなかった。例えば、「新渡戸稲造」の墓であれば「7区1番5側11番」とパンプにあるので、まずは7区に行き、交差路に設置されている地図で1種と5側の場所を確認してそこを目指していけば「7区1番5側」の標識が見つかる。あとはひとつひとつ墓碑銘を見ながら「新渡戸家」もしくは「新渡戸稲造」の名を探せば良いのだ。ただし、著名な人の墓であるからといって墓の規模が大きいとは限らず、見過ごしてしまうことも多少はあった。

 以下、撮影した著名人の墓は40柱ほどある。誰もがよく知っている歴史上の人物もあれば、個人的に興味はあるが世間一般にはそれほどよく知られているわけではないという人の墓もいくつかある。それぞれ、その人物について解説を加えていけばよいのだが、そうなると本項の完成がいつになるか分からない。したがって、解説は省いているものが多い。というより、私の解説よりも本項を読んで頂いている奇特な方々のほうがより詳しく知っていると思っている。なお、適宜、私の感想を加えていきたいとは考えている。

 死者の墓(生者の墓があるかどうかは不明だが)に出会い、たとえ死者であっても、その人物について思い巡らすことができる限りにおいて、その人物たちはそれを思う人の世界に「内在」しているのだということを、改めて再確認していただきたい。

内村鑑三(1861~1930) キリスト教思想家

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私の愛読書である『代表的日本人』の著者

所在地:8区・1種・16側・29番

 内村鑑三の墓の存在は以前から知っていた。彼の信条は教員時代も予備校講師時代も「倫理」の授業でよく取り上げていた。しかし実際は彼についての解説書を数冊読んでいただけで、その著書を直接、読むことはなかった。「無教会主義」も「不敬事件」も「ふたつのJ」も足尾銅山鉱毒事件にコミットしたことも、日露戦争に際しては非戦論を貫いたことも、新渡戸稲造とは若い頃に出会い、彼の勧めでキリスト者になったことも、解説書に皆、それらについて記されていたので、授業でそれらの事柄を表面的に解説していたに過ぎなかった。

 が、『代表的日本人』をたまたま読む機会があり、それを切っ掛けにして内村の宗教観を理解することに努めてみた。すると墓誌にある「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」という言葉が、著書を読む前とはまったく異なる意味をもつものとして私に立ち現れてきたのだった。

 『代表的日本人』は、内村の思想を知るには最良の著作だと私は考えている。とくに私のように無信仰の人間にとっては。

岡本太郎(1911~96) 芸術家

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お墓も芸術だ

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父・一平の墓

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母・かの子の墓

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岡本家の墓

所在地:16区1種17側3番

 芸術についてはまったくの門外漢なので、岡本太郎の名前を聞いても「芸術は爆発だ!」と「太陽の塔」ぐらいしか思い出せない。岡本家の墓を訪れると、父親の一平の墓も、太郎の墓も彼らしさが滲み出ており、それぐらいしか知らなくても、ここが岡本太郎に関係する墓所であることはすぐに分かる。

 がしかし、岡本太郎は本当に有能な芸術家なのであろうか?そう考えたとき、若い頃に知ったある言葉を思い出した。正確ではないが大意は次のようだった。「ベートーベンの曲に犬が吠え付いたとしたら、悪いのは犬のほうだ」。

 芸術を理解するのは簡単ではないし、その価値を誰もが分かるとしたら、それは芸術ではなく大衆芸能であろう。良き芸術家を育てるためには幼いうちから良いものだけに触れさせることが大切であるとされるが、それは確かなことだと思われる。私のようにマンガやテレビの娯楽もの、映画は植木等の無責任男シリーズ、音楽は藤圭子グループサウンズだけに触れて育つと、古典芸術の良さをまったく理解できない大人になる。子供の頃から私はクラッシック音楽に吠え付く犬であったし、現在もさして違いはない野良犬である。それゆえ、岡本太郎の良さは未だに理解できないのである。「なんだ、これは!」

 村野四郎(1901~75) 詩人

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府中出身の詩人

所在地:8区1番14側

 村野四郎は府中市出身の数少ない有名人の一人である。旧多磨村上染屋(現府中市白糸台)生まれだそうだ。わが愛する詩人である室生犀星が村野を高く評価したということ知ったときに彼の詩集を購入したという経験があった。が、今回、その本を探してみたけれど発見できなかった。購入したという記憶にあるが、その本を開いたという記憶はまったく残っていない。

 最近はほとんど利用しないので今でも使用されているかは不明だが、京王線府中駅の下りフォームでは接近メロディとして村野作詞の『ぶんぶんぶん』が使われている。もっとも、メロディはボヘミア民謡なので村野とは直接には関係しないが、それを聞くと『ぶんぶんぶん』の詞を思い出すので、村野に関連するものとしても誤りではない。

 本ブログでは26回の「多摩川中流」の項で川の左岸にある「郷土の森」を少しだけ紹介し、その中で「旧府中高等尋常小学校」の校舎について述べているが、その中に「村野四郎記念館」があることは触れていない。実際、私はその中をのぞいたことはない。村野四郎について調べてみると、1969年に「府中市の歌」を作詞したと記されているのを見た。が、そんな歌が存在することは今回、初めて知った。

 かように、村野四郎について私が知ることはほとんどないが、室生犀星が評価してるというからには、優れた詩人であるということは事実であると思う。

東郷平八郎(1848~1934) 海軍軍人

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神格化された軍人

所在地:7区特種1側1番

 東郷平八郎については本ブログの第15回(ヨーコを探して港へ)で少しだけ触れている。そのときは東郷についてではなく戦艦三笠のことが主だったが、それでも東郷の銅像を写真に収めてはいる。

 東郷は死後に神格化され、乃木希典が神格化されて乃木神社が建立されたのと同じように東郷神社が建てられている。一方、東郷の別荘があった府中市清水が丘には東郷の生前の願いだった法華経の道場である日蓮宗の寺が建立された。これを「聖将山・東郷寺」という。「聖」といい「将」といい、神格化とは異なるが、やはりそれなりに開基である東郷を尊崇していることは確かである。この寺の境内は私の散策場のひとつであり、黒澤明の『羅生門』に登場する山門のモデルとなったといわれている山門は見事な姿をしている。また枝垂桜の存在もよく知られており、3月の開花期には大勢の人が訪れる。 

山本五十六(1884~1943) 海軍軍人

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「悲劇」の軍人

所在地:7区特種1側2番

 私の子供時代の愛読書は『少年サンデー』と『少年マガジン』であり毎週、欠かさずこの2冊を見て(購入費用は兄が出した)、科学や戦争、スポーツについて学んだ。山本五十六は当然のごとく戦記物の「悲劇のヒーロー」として扱われていたので名前はよく知っていた。が、個人的には「滝城太郎」により好感をもっていた。というより、作者の「ちばてつや」の描き方が素晴らしかったのだろう。とくにラストの「信子」と滝の母親が大分駅に到着するシーンが劇的な感動を与えてくれた。『紫電改のタカ』と山本五十六とは何も関係はないが、日本海軍という共通点だけはあり今回、山本の墓を訪ねた際に、滝城太郎と信子のことを思い出したのだった。

古賀峯一(1885~1944) 海軍軍人

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消息を絶った軍人

所在地:7区特種1側3番

 古賀峰一の墓は前の2人のヒーローに比べてかなり見劣りがする。彼も「元帥海軍大将」であったし、前の2人とは同格で、山本五十六の死後、連合艦隊司令長官の任に就いている。同じ名誉霊域の7区特種に存在するだけにその違いに驚かされる。一説によれば、彼の妻が立派な墓に建て替えることに反対したとされている。古賀は戦死ではなく彼の乗った飛行艇が消息不明となり、その後に殉職扱いとなったことがその理由のひとつらしい。 こういう墓があって良いし、改築されずに残っていること自体、心温まるものを感じてしまう。

田山花袋(1872~1930) 小説家

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自然主義派の小説家

所在地:12区2種31側24番

 田山花袋群馬県館林市出身である。田山の作品はその独特の「暗さ」が好きで、『布団』や『田舎教師』は私の愛読書に加わっていた。田山が館林出身であるということは、以前、館林市が誇る「つつじが岡公園」を訪ねた際、その近くに「田山花袋記念文学館」があるのを見つけたことで知るに至った。敷地内には田山の「旧居」も残されていたが、私としてはこの手の記念館に立ち入ることは滅多にないはずなのに、そのときは文学館も旧居もじっくりと見学した。向かいには「向井千秋記念子ども科学館」があり、本来はそちらのほうを好むのだが、そのときばかりは田山花袋の暗さのほうを選んだ。 

 上に挙げた作品は再読したいと思っているのだが、なにしろコロナ禍の影響で読みたいと思う本を数多く購入してしまったためにその機会はたぶん訪れないだろう。ちなみに今、読書中なのは、坂靖の『ヤマト王権の古代学』、三中信宏の『系統体系学の世界』、エーコの『薔薇の名前』である。私はいつも、複数冊を同時並行に読む。それぞれ、田山の作品のような「暗さ」はないが「重さ」があって興味深い。

向田邦子(1929~81) 小説家、脚本家

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向田家の墓

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向田邦子のための墓碑銘

所在地:12区1種29側52番

 おもにテレビドラマの脚本家としてよく知られている。今回、彼女の作品を調べてみたが、私にも知っているドラマが数多くあった。もっとも、実際に見たことがあるのは『時間ですよ』のみだった。墓碑銘には「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」とある。これは森繁久彌の書を刻銘したそうだ。向田は飛行機嫌いであったが取材であちこちに出掛けなければならず、結果、51歳のときに台湾にて飛行機事故で死去した。 

大賀一郎(1883~1965) 植物学者

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大賀ハスで名高い

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博士を称える墓碑銘

所在地:20区1種33側15番

 大賀博士については第16回の「古代蓮」の項で触れている。今年の7月も私の母校である府中一小の北側にある「ひょうたん池」では「大賀ハス」が開花している。 

堀辰雄(1904~53) 小説家

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ロマン派小説家

所在地:12区1種3側29番

 

塚本虎二(1885~1973) 伝道者、聖書研究者

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やや荒れた墓が切ない

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読みづらくなった墓碑銘

所在地:8区1種6側

 

高橋是清(1854~1936) 政治家

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二・二六事件で暗殺

所在地:8区1種2側16番

 

西園寺公望(1849~1940) 政治家

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最後の元老

所在地:8区1種1側16番

 

中野正剛(1886~1943) 政治家

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陽明学派だった中野正剛

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中野正剛の業績を称える墓碑銘

所在地:12区1種1側2番

 

呉茂一(1897~1977) ギリシャ古典研究家

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翻訳本でお世話になった

所在地:5区1種1側9番

 

北原白秋(1885~1942) 詩人、童謡作家

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詩人としての評価も高い

所在地:10区1種2側6番

 

ゾルゲ(1895~1944) ジャーナリスト、諜報員

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ゾルゲの略歴が刻銘されている

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ゾルゲ事件連座した人々

所在地:17区1種21側16番

 

尾崎秀実(1901~44) ジャーナリスト、評論家

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ゾルゲ事件にて刑死

所在地:10区1種13側5番

 

南原繁(1889~1974) 政治学者、元東京帝国大学総長

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内村鑑三の弟子のひとり

所在地:3区2種11側2番

 

鈴木梅太郎(1874~1943) 農芸化学

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鈴木家の墓

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業績を称える石碑

所在地:10区1種7側8番

 

徳田球一(1894~1953) 政治活動家、弁護士

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簡素に見える墓石

所在地:6区1種8側13番

 

長谷川町子(1920~92) マンガ家

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町子の名前は墓誌に刻銘されている

所在地:10区1種4側3番

 

美濃部亮吉(1904~84) 政治学者、元東京都知事

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美濃部家の墓

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美濃部亮吉墓誌

所在地:25区1種24側1番

 

江戸川乱歩(1894~1965) 小説家

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少年向きの作品もある推理作家

所在地:26区1種17側6番

 

鶴見俊輔(1922~2015) 思想家、評論家

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俊輔の名は墓誌にある

所在地:5区1種12側

 

賀川豊彦(1888~1960) キリスト教社会活動家

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賀川は松沢教会の共同墓地に眠る

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賀川の名は墓誌にある

所在地:3区1種24側15番

 

川合玉堂(1873~1957) 日本画

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玉堂美術館は吉野街道沿いにある

所在地:2区1種13側8番

 

児玉源太郎(1852~1906)

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司馬遼太郎の小説では評価が高い

所在地:8区1種17側1番

 

新渡戸稲造(1862~1933) 教育学者、思想家

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内村鑑三とは札幌農学校の同級

所在地:7区1種5側11番

 

竹内好(1910~77) 中国文学者

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魯迅研究者として名高い

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好の名は墓誌にのみ残る

所在地:10区1種14側

 

辻邦生(1925~1999) 小説家、フランス文学者

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北杜夫とは旧制松本高校で同級

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福永武彦とは学習院大学で同職

 

樺美智子(1937~60) 大学生

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父親は著名な社会学

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墓石よりも墓誌が目立つ

所在地:21区2種32側14番

 

仁科芳雄(1890~1951) 物理学者

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日本の量子論の先駆者

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弟子の朝永は師匠と共に眠る

所在地:22区1種38側5番

 

中村元(1912~1999) インド哲学者、仏教研究者

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私が尊敬する仏教学者

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墓碑銘にはブッダの言葉が刻まれている

所在地:9区1種17側

 

下村観山(1873~1930) 日本画

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狩野芳崖に学ぶ

所在地:3区1種9側5番

 

小泉信三(1888~1961) 経済学者、元慶應義塾塾長

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リカード研究者として共産主義を批判

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父親の信吉は福沢諭吉の直弟子

三島由紀夫(1925~1970) 小説家、政治活動家

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平岡家の墓

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墓誌三島由紀夫の名が刻銘されている

所在地:10区1種13側32番

 

     * * *

 私は、つい最近、後々まで記憶に残るであろう総天然色の夢を見た。

 私はある川に鮎の友釣りに出掛けた。川の名は不明だ。私は川の南岸にいた。川は北岸に向かって深くなり、しかもコケ付きの良い石は北岸側に無数に並んでいた。南岸上からは北の好ポイントまでオトリ鮎を送ることはできないので、川の流れの中に立ち込んで竿を出した。オトリはやや流れに押されながらも北岸側にある石群まで泳ぎ着いた。ほどなく、目印が2mほど素早く上流に向かって走り、同時に強烈な手ごたえを感じた。私は竿の弾力を最大限に活かすために竿を起こそうとしたがそれはかなわず、掛け鮎はオトリを引き連れてぐんぐんと上流に向かって泳いでいった。私はそれに付き従うように上流に向かって歩を進めざるを得なかった。

 数十mも上ったのだろうか。鮎の動きは弱くなった。手に感じる抵抗感から、引き抜きは不可能であることを確信するほどの大型鮎と思えた。それゆえ、竿を十分に溜めて鮎が弱るのを待った。しばらくそのままの状態が続いたが、いっぽう、私は自分の周りの風が強くなってきたことを感じた。川の表面が波立ち、やがて渦を巻き始めた。私は竿を両手で強く握り、風に翻弄されまいと抵抗した。風の正体は小さな竜巻だった。

 私は見た。竜巻がオトリ鮎と掛け鮎を川面から巻き上げる姿を!鮎を竿に繋ぎとめていたラインが切れ、両鮎は北岸側に飛ばされ、河原にある木の枝に引っかかった。

 思わず、私はこう叫んだ。

「鮎の不時着」 

〔40〕八王子の城跡を歩く(3)悲劇の八王子城(後編)

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麓にある管理棟。左に行くと御主殿跡、右に行くと本丸跡

豊臣秀吉との決定的対立

 1578年頃より、北条氏(後北条氏、小田原北条氏。以下北条氏と表記)と真田氏とは沼田領問題で抗争が続いた。沼田領は北関東の要衝で関東平野の北西の縁にあり、北に進んで谷川岳連峰にある清水峠(標高1448m)を越えて下れば新潟(越後)の南魚沼市街に入る。北条氏にとって沼田領を支配することは単に上野国を治めるということだけでなく、越後や信濃からの防御点を確保することにつながる。一方、真田氏にとっては、沼田領のある東上野を支配することで領地のさらなる拡大を図る拠点にもなる。こうした地政的な価値を有した場所だけに、沼田領は北条⇒武田(実質は真田)⇒滝川一益(実質は織田)⇒上杉⇒真田と、めまぐるしく支配勢力が変転した。

 1582年の本能寺の変後、真田昌幸は情勢を見て一時的に北条氏側に就いたものの、やがては徳川家康側に転じて沼田領の確保を図った。一方、徳川氏と北条氏さらに上杉氏は、武田家の滅亡と織田信長の死という混乱に乗じて甲斐、信濃、上野の支配権を巡って戦いを始めた。これを天正壬午の乱(1582年)という。この争いは上杉氏と北条氏、徳川氏と北条氏との講和(家康の娘の督姫と北条氏直(5代目)との婚姻など)によって終結し、領地問題はいったん解決した。

 この講和によって沼田領は北条氏に帰属することになったが、これに納得しない真田昌幸は家康に抗議した。家康は沼田の替地を昌幸に提案したが、受け入れずに徳川氏側を離れ上杉氏の配下に移った。85年、徳川氏は真田氏の上田城を攻め、北条氏も沼田城に攻め入ったが、真田氏側はよくこれに耐えて領地を死守した。

 87年、上杉氏は台頭著しい豊臣秀吉に降った結果、真田氏も豊臣側に降った。これにより秀吉の全国統一の障害は関東を仕切る北条氏と奥州の伊達氏だけとなった。そこで秀吉は、家康に命じて大名間の死闘を禁じる「惣無事令」を発することにした。この惣無事令に関しては研究家の間には異論が多いようだが、秀吉がこうした動きに出たことは確かなようであり、その背景には北条氏が沼田領への侵攻を止めないという点がひとつにあった。

 89年7月、秀吉は沼田領問題を決着するための裁定をおこない、沼田の3分の2は北条氏へ、3分の1は真田氏の支配領になることに決した(真田氏はその替わりに信州の伊那郡を得た)。そして、この裁定は北条氏政(北条氏4代目)が年内に上洛することで発効することになっていた。こうした動きによって、沼田城には北条氏邦鉢形城主、氏政の四男)の重臣である猪俣邦憲が城主として入り、沼田城の支城であった名胡桃城(利根川右岸の山城、沼田城とは5キロの距離)には真田氏の重臣である鈴木重則(鈴木主水)が城主として入った。ところが同年11月、沼田城主の猪俣は策略によって名胡桃城を奪取し、これを恥じた鈴木重則は自害に至った。

 北条氏政は上洛を渋り、さらに北条氏による名胡桃城強奪を「惣無事令」違反と考えた秀吉はこれを奇貨として11月、ついに北条氏の本拠地である小田原城攻めを決した。これに対し、北条氏は臨時の小田原評定を開き、北条氏邦は積極的侵攻策で豊臣・徳川勢と戦うことを、一方、北条氏の重臣である松田尾張守は小田原籠城策をそれぞれ提案した。北条氏の軍事外交権を担っていた北条氏照八王子城主)は、当初は弟の氏邦同様に積極策を主張したもののほどなく沈黙し、なぜかその後の発言はまったくなかったらしい。その理由ははっきりせず、病気説や捕囚説などがあって諸事情により評定には出席していなかった蓋然性が高いとのことだ。

戦いは八王子城へ迫る

 秀吉は翌年の小田原征伐を決め、徳川家や真田家など諸大名に5カ条の宣戦布告文を通知した。家康は北条氏とは姻戚関係にあることもあって征伐への参加には戸惑いを見せていたものの、12月10日に聚楽第で開かれた軍議に参加し、北条氏との仲介を断念し戦いへの準備を進めた。一方、北条氏は氏直の名で各所にいる家臣や国衆に対して翌年の1月までに小田原城に参陣せよとの通知を発した。

 こうして90年の2月、豊臣側の約21から22万といわれる軍勢が小田原に向かって出立した。小田原城攻めに関してはいずれ小田原城に訪れる機会があるのでそのときに触れたい。ここでは八王子城の戦いに関係する軍勢の動きを追うことにする。

 八王子城に攻め入ったのは北国支隊と呼ばれる3万5000の軍勢である。前田利家勢18000、上杉景勝直江兼続勢10000、真田昌幸勢3000などが主体で、信濃松代城に集合して碓氷峠を越えてまず、松井田城(群馬県安中市)に攻め入った。守る大道寺政繁は3月20日、碓氷峠にて迎え撃とうとしたが、35000対2000の戦いではどうにもならず、結局、籠城戦を続けることになった。約一か月、猛攻撃によく耐えたが4月22日、降伏して開城することになった。大道寺政繁の軍勢は北国支隊側につくことになり、その先導役を任されることになった。

 北国支隊は5月22日には武蔵松山城(埼玉県吉見町)を攻め落とし、松山城にこもっていた軍勢を支隊側に組み入れ、すでに戦いが始まっていた鉢形城(埼玉県寄居町)に向かった。一方、小田原城包囲を完遂した秀吉軍は、北条氏邦(4代目氏政、八王子城主氏照の弟)が籠城戦を展開している鉢形城へ家康傘下の浅井長政本多忠勝の軍勢を送り、北国支隊と共同して攻め続け、結局、鉢形城は6月14日に落城した。

 北国支隊はいよいよ、北条氏の最大で最強の支城と目されていた八王子城に軍を向けることになった。前田利家率いる北国支隊は、これまでは硬軟両策で降伏や開城を認めて籠城兵の命を助けてきたが、八王子城は一気に力攻めで落とすようにと秀吉からの命を受けていた。しかし前田利家はできれば多くの犠牲者を出したくないと考え、攻撃の前に降伏・開城を求めるための使者を派遣した。が、その使者は刺殺されてしまった。これによって強硬策が展開されることに決定した。

 北条氏照には4500の家臣がいたと考えられているが、精鋭の大半は小田原城籠城策のために八王子城にはおらず、城に籠っていたのは約1000(500とも)の家臣と、守備兵として集められた農民、番匠、大工、鍛冶職人、石切職人、神官、僧侶、山伏、さらに家臣の妻子などであり、合計で3000だったといわれている。八王子城に残っていた有力な家臣には、本丸防御担当の横地監物、小宮曲輪担当の狩野一庵、中の丸・松木曲輪担当の中山家範、山下曲輪担当の近藤助実、金子曲輪・柵門台担当の金子家重、松木曲輪担当の大石照基などがいた。

八王子城跡には3回訪ねた

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本丸跡にある祠

 私が八王子城跡を訪ねたのは今年が初めてだった。その存在はずいぶん前から知っていたし、八王子城山(深沢山)の腹の中を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」は馴染み深いものだった。地図でもその場所は何度も確認していたし、グーグルマップの航空写真でその地形も調べてはいた。しかし、昨年まで訪ねることはなかった。理由は簡単で、山道を登るのが大変そうだったからだ。私は山を遠目に見るのは大好きだし、山の名前やその成り立ちを調べるのは趣味のひとつでもある。しかし、登ることには興味はなかった。疲れるのは嫌だし、虫に襲われるのが怖いし、高いところが苦手だからである。北条氏照の前の居城であった滝山城ぐらいなら、登るルートによって異なるものの比高はせいぜい40~70m程度なので、心地よい疲労程度で済むので十分に許容範囲だった。しかし、八王子城跡となると、駐車場の標高(例によって標高の分かる国土地理院のweb地図による)は236m、本丸跡は460mと、比高は224mもある。おまけに森が深いので虫からの攻撃に耐えなければならないのだ。御主殿跡(標高267m)であれば比高は30m程度なので楽ちんだが、それでは八王子城跡を訪ねたと威張ることはできないので結果、それまで出掛けることはなかった。

 しかし、滝山城跡で出会ったボランティアガイドの3人が、北条氏照についてより詳しく知りたいのなら、八王子城跡にも行ってみるべきだと強くそして熱心に勧めてくれた。この言葉だけなら単に聞き流すだけなのだが、別れ際に3人が異口同音に語った内容が私を惹きつけた。「八王子城跡からは午後3時半までに下山する必要がある」とのこと。その理由がふるっていたのだ。「3時半すぎると”怖い思いをする”ことになる」そうで、それは「亡霊が出る」ということだった。3人はボランティアガイドにうってつけの勉強熱心な人たちであり、とっても生真面目な人柄であった。私のような無知な人間に対してさえ、滝山城の魅力を分かりやすく説明してくれた。その3人が真顔で亡霊の話をしたのだ。この顛末は本ブログの36回目「滝山城跡を中心に」の最後に触れている。

 残念ながら、私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことがない。そういう存在と出会えた経験がある人はとても幸せだと思う。そういう邂逅がない不幸な私は、老い先は短いしこのまま魅力的な体験がないままこの世を去るのは誠に残念なことだと思っていた。そこに、亡霊との出会いの機会があることを3人が教授してくれたのである。これは「もう行くしかない!」と、私は決心を固めたのだった。

 224mの比高は克服可能だ。ゆっくり登ればいいのだから。時間はたっぷりとある。遅い時刻になればなるほどチャンスは増大するのだから。ただ、問題は「虫」の存在だ。これは無視できない。もっとも、私の嫌いな虫は「ヘビ」と「クモ」なので、人出の多い日曜日に出掛ければ奴らも人が怖いだろうから出陣数は少なく、たとえ遭遇したとしても何とか攻撃をかわせるのではないかと考えた。さらに登山道から絶対に外れなければ奴らとの接近確率はゼロに近づくのではとも思った。人の道からは外れても山の道からは外れない。この覚悟をもって八王子城跡に挑むことにした。

 それでも決意が揺らがないように、城跡登山の話を知人にすると、彼は「ヘビ」は虫ではないという言い掛かりをつけてきた。無知ほど恐ろしいものはない。「ヘビ」は虫以外の何物でもない。そもそも「虫」という漢字は「マムシ」を象形したのであり、狭義の「虫」はマムシを指すのである。広義の「虫」は本来「蟲」と書いていた。それが後世に簡略化されて「虫」となっただけである。人の心を蠱惑(こわく)する「蜻蛉」や「蝉」や「夜の蝶」にはすべて虫偏が付いているが、この「虫」は元来、「蟲」だったはずだが、そうなると画数が多すぎて書ききれなくなるので省略形が用いられたにすぎない。ちなみに、ヘビの「蛇」だけは省略形ではない。さらに言えば、蛇中の蛇こそ真虫=マムシなのである。

 というわけで、とある日曜日、私は車で八王子城跡へ向かった。道筋はよく知っていた。城跡の近くにある元八王子町や恩方町は私の散策地に加わっていたからである。ただし、都道61号線にある「八王子城跡入口」交差点があることは知っていても、そこを西に曲がることがなかっただけだ。

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根小屋地区を通る道。その先に城山が見える

 交差点から城跡の駐車場までは約1.3キロ。この道は八王子城の「根小屋地区」と呼ばれていた場所にあるもので、かつては道の両側に家臣の居宅が並んでいて、一部には農地もあったようだ。庶民の住む町自体は現在の元八王子町あたりにあった。写真のやや右手に見えるのが八王子城の本丸がある深沢山(現在の(八王子)城山)だ。あの山に登るのである。ここから見れば、電柱よりも低いではないか、と言っても何の慰めにもならない。

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駐車場入り口にある碑とその先にある城山

 駐車場に到着。前述したようにここの標高は236m。ここから写真にある道を進むとほどなく管理棟に至る。本項の冒頭に挙げた写真がその管理棟(標高242m)だ。 ここには八王子城跡を案内してくれるボランティアガイドが詰めていて、北条氏照の居宅跡である「御主殿跡」まで解説付きで案内してくれる。

 ここで少しだけ迷った。先に本丸に行くか、それともまず足慣らしも兼ねて御主殿跡に行くか、である。八王子城について熟知することが最優先であれば、まずガイドを頼んで御主殿跡に行き、そこで得た情報を携えて本丸に向かうというのが常道だと思う。しかし、私の優先順位は「亡霊との出会い」が第二位であった。散策そのものが第一位で、八王子城を知ることは第三位である。つまり身体的行動が一番で知的行動は三番、その間に好奇心が入る。もしかしたら、亡霊とは身心の狭間にある存在なのかもしれない。

 ここに来る数日前から八王子城跡について下調べをしていた。ネット検索では、八王子城跡と入力すると「心霊スポット」の情報が無数に出てきた。私はこういったものにはまったく関心がないのですべて無視したが、もし仮に「亡霊」が存在するとするならば、それはこの世に対する恨みや心残り、無念が原因であると考えられる。そうであるなら、戦場で散った人々よりも、心ならずも死を選ばざるを得なかった人々のほうが、その想念はより強いと考えうる。それゆえ、戦場となった山上の曲輪や本丸、御主殿跡よりも、大勢が自害したとされる「御主殿の滝」周辺において亡霊との遭遇の機会が高いと考えられる。何しろ、午後3時半までは十分に時間があった。という理由から、私はまず本丸に向かうことにした。

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本丸へ至る登山道入口

 ガイドブックによると、管理棟から本丸跡までは約40分掛かるとされている。これは平均的な人々の平均的なペースでの登山時間なので、私のような怠け者はこの倍の時間が掛かると想像される。帰りは下りなので所要時間は40分とするなら、往復で約2時間、山頂で1時間ほど探索しても合計3時間だ。出発時間は午前11時なので、道中が無事であれば午後2時には管理棟まで戻ることになる。それからすぐ近くのガイダンス施設を見学し、午後3時過ぎに御主殿跡、御主殿の滝へ向かうことができる。そちらのほうは道がよく整備されているようだし、高低差もあまりないので体力的には楽だし、虫に襲われる心配も少ない。そうしてその辺をブラブラしていれば、午後3時半という「未知との遭遇」時間に突入することができる。我ながら、実に明瞭なロードマップであると感心してしまった。

 管理棟のすぐ裏手に、上の写真にある登山道入り口がある。本来なら真っすぐ行ける道があったらしいのだが、昨秋の大洪水で谷川に架かる橋が崩壊してしまったため、少しだけ迂回して入り口へと進むことになった。城山(深沢山)全体が八王子神社の境内でもあるので、入り口には鳥居がある。この地点の標高は250m、残り210mだ。日曜日とあって訪れる人は多いが、その半数は登山者スタイルである。そういえば、私が参照した資料の中には、本丸へ行く場合はスニーカーではなく、トレッキングシューズの使用が安心・安全だとあった。しかし、私はスニーカーとサンダル(便所サンダル)しか所有していない。それでも、滑り防止のため、できるだけ底がすり減っていないスニーカーを着用してきた。新品の便所サンダルもあったけれど、さずがに登山向きではない。私にもそのくらいの常識はある。

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最初の登坂路。これがかなり厳しい

 標高275m地点(推定)。この坂が厳しかった。戻るなら今の内だと思った。が、前を行く人は私を簡単に追い越してワシワシと登っていく。振り返れば、ハイカーらしき小集団が私に近づいている。私だけが落ちこぼれになりそうなので、背後の集団をパスさせてから、私はシズシズと歩を進めた。というより、そのような状態でしか進むことが叶わなかった。

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第一関門の金子丸(曲輪)にたどり着く

 きつい上り坂が続き、もはやこれまで、と思いかけたとき、第一関門である「金子丸」が見えてきた。坂が途切れている状態が視認できたからである。

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尾根を削平して造った金子曲輪

 金子曲輪(標高314m)の名は、金子家重を中心とする「金子一族」がこの曲輪を造成し、さらに八王子城攻防戦ではこの曲輪で前田利家軍と死闘を繰り広げたことからその名が付けられたとされている。金子姓は埼玉県入間市にある金子という地名に由来する。八高線金子駅があり、周辺は狭山茶の産地としてよく知られている。お茶を扱う有名な店に「金子園」があるが、そちらは金子の土地とどういう関係があるかは不明だ。

 金子一族は武蔵七党のひとつである村山党から派生した。村山の地名は「武蔵村山市」や「東村山市」が継承している。狭山丘陵の南に村山があり北に金子がある。金子一族は15世紀半ばに北条氏康(北条氏3代目)に降り、氏康の息子である北条氏照に伴っておもに下野国方面の戦いに加わっていた。くだんの金子家重がこの金子一族の出身であるかは不明だが、「氏照=八王子城」の関係を考えれば無縁というわけではなさそうだ。

 金子曲輪は尾根筋を削平して造成しただけに細長く、尾根を登る道以外の周囲は急な角度に落ち込んでいる。この斜面を必死に攻め登る前田軍は曲輪から転がり落ちる大石のためにかなりの犠牲者を出したと言われている。

 金子曲輪の所在地の標高は314m(推定)。本丸まではあと146m上る必要がある。そう考えると大変そうだが、もうすでに78mも上ったと考えれば意気軒昂になる。もっとも、その時点では標高は分からず、ただ、そこが三合目付近だということを知っていただけだが。

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登山路の足場はとても脆い

 金子曲輪で少し休憩をとり、次に目指す「柵門台」(標高365m)に向かってオロオロと歩を進めた。写真から分かるように足場はとても脆く、砕けた小石があちこちに散らばり、70から80度に傾いた堆積岩の角が露出している場所も多く、転ぶと怪我は必至と思われた。

 城山は関東山地に属し、地質は四万十層群の小仏層に属している。約一億年前にできた海成層がプレートの圧縮によって盛り上がったものなので、堆積層が大きく傾斜している。基本的には砂岩と泥岩の互層だが、泥岩層は脱水して固結した頁岩(けつがん、シェール)や千枚岩になっているために剥がれやすいのだ。シェールといっても間にガスは含まれていないのでオイル漏れはないだろうし、もしそれがあればますます滑りやすくなる。

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柵門台。ここに下からの道が集まる要衝

 八合目の柵門台に到着。ここの標高は365m(推定)。駐車場との比高は129m、本丸との比高は95mなので「六合目」ぐらいが妥当だと思われるのだが、石標にそうあるのだから致し方ない。しかし、誰かの悪戯か風化かは不明だが、「八」はなんとなく「六」にも見える。さらに言えば、私の場合は駐車場を起点にしているにすぎないし、城山(深沢山)の標高は三角点の位置からか446m(この場合は後述する小宮曲輪付近の場所を頂上としていると考えられる)とされているので、446÷10×8=356.8なので、柵門台の位置は標高の8割相当になる。

 こんなことを考えても道中が楽になる訳ではないのであまり意味はない。それよりも管理棟から金子曲輪に至る行程より、金子曲輪から柵門台に来るときのほうが、体はずいぶん楽だったような気がした。少しだけだが、山道に体が慣れてきたのかも知れなかった。

 柵門台の名の由来は不明らしいが、この場所は新道と旧道、北側にある陣馬街道(案下道)からの登山道、御主殿を見下ろす場所にある山王台からの道の合流点になっている。それだけに、この場所は金子曲輪に続く第二の要衝と考えられる。

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山腹の至るところに石碑があった

 柵門台から頂上までは九十九折れの道となる。そのためもあってか傾斜はやや緩やかになったような気がした。斜面には写真のような石碑が数多く建てられていた。ここがかつては神護寺山と呼ばれる霊山であり、修験者の修行の地であったことを思い出させてくれる光景だ。

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木々の間から都心の様子が望めた

 山頂が近いのか、ときおり、木々の間からは麓の景色が望めるようになった。八王子の市街地だけでなく、やや霞んではいるものの遠くには都心の高層ビル群も見て取れた。

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九合目付近にある「高丸」

 九合目付近には尾根を削平した曲輪があり、それには「高丸」の名があった。陣馬街道側に向いているので、「搦め手(からめて)」からの攻撃に備えて築かれたものかもしれない。ここから石を転がせば、敵に(一部は味方にも)打撃を与えることは容易なはずだ。斜面があまりにも急で崩れやすくなっているため、先端部は立ち入り禁止になっていた。もっとも、たとえ立ち入れたとしても私には怖くて近づけない。

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九・五号目からの眺望

 高丸を過ぎて道がほぼ平坦になる場所(標高432m)に出ると、視界が一気に開けた。東・南側では斜面が急な場所の尾根を横切るように造られた道だからだ。写真はその地点から東北東を望んだものだ。写真の中央部を横切って見える丘陵地は加住丘陵で、この中に滝山城跡がある。その向こうに見えるのは狭山丘陵で、写真では判明しづらいが西武ドームも確認できた。写真にはないが、筑波山も視認できた。八王子城攻防戦の前には敵の動きを確認するため、周囲の木々はすべて切り取っていたはずなので、視界はさらに良かったはずだ。そのことは敵(北国支隊)も当然、知っていたはずなので、戦闘は深夜に開始されたのだった。

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中の丸から八王子神社に向かう階段

 先ほどの場所からは道は少し下り、そして中の丸(標高429m)に到着した。西側前方に階段があり、それを上がると八王子神社の建物がある二の丸(標高435m)に至る。

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二の丸に鎮座する八王子神社

 二の丸には八王子神社が鎮座している。神社については本ブログの37回・悲劇の八王子城前編にて触れている。

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本丸を南側から守る松木曲輪

 北条氏照の家臣団では随一の実力を有していたと言われていた中山家範が守備についたのが写真の松木曲輪(標高439m)で、眼下には御主殿がある。現在は休憩所・展望台として整備され、登山客はここでの眺めを楽しむ。記念撮影場所でもある。到着時、おばちゃんハイカーの一群がベンチを占拠し、大声で〇〇が見える、△△はあれかも、などと喧騒の最中だった。

 そう、私がここを最初に訪れたのはコロナ騒ぎが拡大しつつあったもののまだ「自粛騒動」が始まる少し前だった。それが、追加撮影で2度目に訪れたときはすでに資料館や管理棟は閉鎖され、さらに3度目は駐車場すら利用できなくなっていた。その結果、資料収集が遅れ、本項の記述が伸び伸びになってしまったのだ。というのは単なる言い訳で、真相は花の撮影が面白かったこと、磯釣りが佳境に入っていたこと、ネットフリックスの『愛の不時着』にはまってしまったことが主な理由なのだが。

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横浜方面の眺め

 松木曲輪からは横浜みなとみらい地区の高層ビル群が見えた。中央にそびえているのはランドマークタワーだ。その背後に横たわっている山並みは房総半島である。実際にはかなりぼやけて見えていたので、350ミリの望遠レンズを用い、さらに輪郭をはっきりさせるために強めのフィルターを使用している。色は変だが、建物や山並みの様子は少しだけだがくっきりとしたようだ。

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相模湾や江の島が見える

 目を相模国方向に転じた。白く光って見えるのは相模湾で、やや左側にある2つの盛り上がりは江の島だ。左側の盛り上がりの上にそびえるのは「江の島展望灯台(シーキャンドル)」である。

 往時、八王子地域に住む庶民の大半は海を見たことはなかっただろう。戦国時代の末期、農民や職人は心ならずも城建設や城の守備兵に徴収され、そこで初めて城山に登り南側の景色を望んだとき、八王子からも海が見えるということを知ったに違いない。多くの人は命と引き換えに。

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標高460mのところにある本丸へ至る道

 松木曲輪から一旦、八王子神社のある二の丸にもどり、そこから階段や登山路を使って本丸の地まで上がる。最後の登り道だ。

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本丸の全景。かなり狭い

 本丸は標高460m地点にある。城山の頂上にもかかわらず平坦なのは造成したためだろう。広さは250平米、80坪弱である。通常、本丸というと堂々とした天守閣がある場所を想像するが、ここにはそういったものの痕跡はなく、そもそも広さがまったく足りない。資料によれば、ここには見晴らし台程度の建物があったようだ。八王子城そのものが権威の象徴というより防御に徹した砦という意味合いが強かったので、策略家であった氏照としては当然の造りだったと考えられる。ここは八王子城に残った家臣団のまとめ役だった横地監物吉信が守備していた。

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八王子城落城のカギとなった小宮曲輪

 小宮曲輪(標高445m)は三の丸とも呼ばれ、狩野一庵が守備していた。ここは私が登ってきた道の真上に位置するため、山頂曲輪の中では重要な防御拠点であった。正面から攻め上る北国支隊の主力の攻撃をよくしのいでいたものの、背後から忽然と現れた上杉軍によって制圧された。それにより守備側の体勢は一気に崩れ、結果、八王子城は落城した。

ガイダンス施設、そして御主殿跡を訪ねる

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城跡に関する情報が集約されているガイダンス施設

  城山からは一気に下り、無事に管理棟まで戻ってきた。時刻は午後2時少し前。松木曲輪で地元の老人(散策と体力維持を兼ねて週に3回は城山に登るそうだ)と話し込み、八王子城跡の見どころを詳しく教えていただいた。彼にとって「亡霊話」は価値領域に加わっていないようで話題にはまったく上らなかった。

 その老人から得た情報をさらに肉付けするために、駐車場の東にある「ガイダンス施設」を訪ねた。解説パネルや映像、さらに氏照やその家臣が使用していた鎧・兜などの武具(のコピー)などの展示品も多く、北条氏の歴史、氏照の生涯、八王子城の歴史とその模型など、とても分かりやすく、そして興味深いものが多かった。

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ベネチア製レースガラス器の複製品

 なかでも、ベネチアで作られたとされるレースガラス器の複製品が私の目を惹きつけた。日本でこのレースガラス器(の破片)が出土したのは八王子城跡のみらしく、氏照が単に有能な軍事外交家として歴史上に存在していたわけではないということの証明として、このガラス器がよく取り上げられるからである。

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大手門があったとされる場所

 ガイダンス施設を後にして、最終目的地である「御主殿跡」を訪ねることにした。管理棟の南にある林道を城山川沿いに西に進むと、写真の「大手門跡」に出る。八王子城跡一帯は国有林として保護されていたが、1951年に国の史跡に指定されて以来、何度も発掘調査がおこなわれている。写真の大手門跡は1988年の調査で、門の礎石や敷石などが発見された。現在は埋め戻されて広場のような形に整備されているのでその姿を見ることはできない。写真にある遊歩道のように整備されている道が御主殿に至るかつての道(古道)だとされている。

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古道は次に挙げる曳橋に続く

 古道は城山川から少し離れた場所にあるが、かつての城山川は水量が豊富だったと考えられているので、やや高い場所に道を造るのは当然のことと考えられる。

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城山川右岸から曳橋を望む

 古道は川の右岸に沿って造られ、写真の曳橋(ひきはし)を渡り、左岸の高台にある御主殿跡に至る。当時のものはもっと簡素で、位置ももう少し低い場所にあったと考えられている。曳橋の名から分かるように、綱で引けば簡単に橋を壊すことができるように造られていた。これは御主殿を敵軍の侵入から防ぐための当時では当たり前のように造られていた様式である。

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復元された虎口

 曳橋を渡り少しだけ下流方向に進むと、写真の虎口(出入口のこと)が見える。当然のごとく「枡形虎口」になっており、敵軍が進入してきたときは左右にある土塁上から攻撃する仕組みになっている。これもまた、当時ではごく普通に見られる様式である。そういえば、根小屋地区の一角にも道路がクランク状になっており、それは氏照が再興したと考えられている宗閑寺(神護寺、第37回に写真あり)付近にその姿は今でも残っている。その道の形状から、そこにも大手門があったと推定されている。

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当時の形を復元した冠木門

 虎口の階段を上がると写真の冠木門(かぶきもん)があり、これをくぐると御主殿(城主の館)の敷地内へ入る。

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敷石だけが残る城主の館跡

 1590年6月23日の戦闘で御主殿は焼け落ち、後には廃墟となって時が過ぎた。土砂が覆い、緑が育ち、御主殿跡はまったく姿を消した。それが発掘調査が進むにしたがって礎石が見つかり、それらには焼け焦げが残っていたことから、館のものであることが判明した。それらは調査が終わると埋め戻されているので、写真に見える石は形も位置もすべて復元したものである。したがって、焼け焦げを見ることはできない。本物はこの地下に眠っている。

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庭園跡も復元されている

 調査の結果、石の配置から写真の場所には庭園があったと推察されている。平安時代に記されたとされる日本最古(世界最古とも)の庭園書である『作庭記』によれば、庭の価値は石の配置で決まると考えられていた。写真の配置が優れたものなのかどうかは私にはまったく不明だが、庭園でありそれには池もあったということが判明しているようだ。池には遣水(やりみず)が付き物だが、これは城山からの湧水を利用したと想像される。滝山城跡にも大きな池が2つあったが、それらは飲料水や生活用水としても利用されていた。こちらの池はその規模からいって、庭園を彩るものだったと思われる。

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会所跡

 調査の結果、ここには会所があったと考えられている。写真のものはもちろんすべてが復元されたもので、これからその会所の広さが想像できる。ここでは、城主と重臣が集まって重要な会議が開かれていただろうし、戦闘直前には多くの人々がここに詰めて入念な準備がおこなわれていたと考えられる。

八王子城落城

 1590年6月22日、北国支隊の主力である前田軍は元八王子の月夜峰(現在、共立女子中高がある辺り)に陣を構え、搦め手から攻める上杉・真田軍は下恩方付近に陣を構えていた。無血開城を要求した前田利家は使者が殺害されたため、実力で城を落とすことを決定した。戦いは22日の夜半に開始することが決まった。しかし、この夜は霧が濃かったようで、実際に戦闘が始まったのは23日の午前2時ころだったという説が有力だ。

 大手口から攻め入ったのは大道寺政繁(元松井田城主)が先導する軍勢だった。大道寺は北条党であったが、松井田城落城後は北国支隊の先導役を務めていた。攻め手は約15000とも35000ともいわれるほどの軍勢、一方の城の守り手は約3000。しかし武士は500~1000ほどで、あとは戦闘経験がまったくない農民、職人や婦女子だった。氏照は小田原城に籠り、4500といわれた家臣団の大半も城主にしたがって小田原城にいた。

 金子曲輪や山王台が落とされたものの柵門台辺りで戦闘は膠着状態となった。とくに小宮曲輪の守りが固く、多勢であるはずの攻め手は打開策を見いだせずにいた。そんなとき、搦め手から攻めていた上杉軍の武将である藤田信吉の配下に属していた平井無辺が八王子城の地理に詳しいということを藤田に告げた。八王子市の北隣に日の出町がありそこに平井という地名がある。平井無辺はその地の出身だったのだろうか、藤田にしたがう前には北条側いて八王子城の普請をおこなっていたことがあった。大道寺のように戦闘に敗れてやむなく秀吉側についた者は何人かいたが、平井のように秀吉陣営に寝返ったのは平井ただ一人だったと考えられている。それだけ、北条側の結束力は強かったのだ。

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搦め手の拠点のひとつになった心源院

 搦め手は下恩方に拠点を構えていた。写真の心源院も搦め手側に占拠され、拠点のひとつになった。北浅川(当時の名前は案下川)の支流である滝沢川(当時は滝の沢)は八王子城の北側を流れ下る谷川だが、その途中に東沢という小さな谷川があり、それを伝って登っていくと小宮曲輪の北側(つまり裏手)に出ることが可能だった。よほど地理に詳しいものでなければ知らない小径で、小宮曲輪を守備していた狩野一庵の部隊も背後はまったく固めていなかったのだった。平井無辺が先導する上杉勢はこの小径を利用して、攻め手がもっとも苦労していた小宮曲輪を一気に攻め落とした。

 先述のように小宮曲輪の標高は445m、一方、中の丸は429m、二の丸は435m、松木曲輪は439mと、小宮曲輪を制すれば他の山頂曲輪に攻め込むのは容易だった。勝敗は決した。本丸にいた横地監物は落ち延び、檜原村辺りで自害した。その他の重臣はいずれも戦いの場所で戦死、もしくは自刃した。

 こうして、難攻不落といわれた八王子城は僅か一日で落城した。平井無辺の裏切りがなければ八王子城は相当の期間、持ちこたえたと考えられている。しかし、歴史に「もし」はない。

 八王子城で生け捕りにされた人々のうち、小田原城に籠城する者の父母妻子は小田原に送られた。戦死した中山家範や狩野一庵などの首は小田原に運ばれて河原に晒された。かくして小田原勢は戦意を失い、7月5日、小田原城は開城され、北条氏5代100年の歴史は幕を閉じ、同時に戦国時代は終了し豊臣秀吉の天下統一が達成された。

御主殿の滝にて思うこと

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御主殿の滝への降り口

 御主殿跡を出て御主殿の滝に向かった。城山川の右岸は切り立った崖になっていて人を寄せ付けず、河岸への降り口は左岸側、つまり御主殿跡の直下にあった。写真にある通り、墓碑があり新しい卒塔婆もあった。新しめの花も手向けられていた。

 御主殿は火を放たれ、完全に焼け落ちた。戦闘で命を奪われた者もいた。山林の中に逃げた人もいた。逃げまどう人の一部は捕虜になったが、捕虜になることをよしとしない人々は自刃し相次いで滝の下の淵に飛び込んで命を絶った。氏照の正室の比佐もその一人だったという説があるようだ。このため、城山川は3日3晩、流れが血に染まって真っ赤だったという言い伝えが残っている。

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水量の乏しい御主殿の滝

 滝の水量は乏しく、多くの人々が入水したといわれる淵もない。河原の全体の様子を見れば私のような釣り人にはすぐ分かることだが、かつては水量が豊富だったということは簡単に判明できる。河川敷の広さを見れば、かつての流路や流量は容易に推定できるのである。流量が減った理由はただ一つ、圏央道の「八王子城跡トンネル」工事が原因だ。施工側もそのことはトンネル設計時点から分かっていたようで、帯水場所を傷付けないように設計し、かつ工事を進めたのだ。しかし、現実には帯水層は大きく破損し城山川は水の多くを失った。現在、リニア新幹線のトンネル工事が静岡県の反対でストップしているが、これも理由は同じで、そのまま工事を進めれば帯水層は破壊され、大井川は多くの水を失うからだ。

 ともあれ、こうした顛末から「亡霊」や「心霊」話が生まれたのだろう。が、私は3度、ここを訪れているが、そんな気配はまったく感じられなかった。当たり前の話で、亡霊や心霊の存在など、マルクス・ガブリエルの言葉を借りて表現すれば、私の「意味の場」にはないからである。人は、2つ丸が並んでいるだけでそれを顔としてイメージする場合がある。「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるように、人は恐怖心からススキをお化けに見間違えることができる存在なのだ。幽霊の実在を認めている人のみが幽霊は「意味の場」に現われ、それに出会うことができるである。

 亡霊や心霊とはいったい誰のことを指しているのだろうか?妖怪でもそれに名を与えなければ、仮に出会ったとしても「出たな妖怪、何か用かい?」というだけだが、それらに「砂かけばばあ」「子泣きじじい」「いったんもめん」といった名が付与されることで具体性を帯び、実在性が高まり、認識が共有できる。しかし、亡霊にはどのような名を付けるのだろうか?「比佐の亡霊」と名付けることは可能だが、比佐がそこで自害したという証明は不可能だ。他の名もなき人々がそこで自害したということは事実だろうが、その名を特定できる人のみが亡霊として現れるのだろうか?

 ホモサピエンスは誕生以来、1000億人を数えるという話を聞いたことがある。その数が正しいかどうかは不明だとしても現存するH.サピエンスが80億人だとすれば、今まで920億人が死んだことになるが、その中で納得して、あるいは好んで死んでいった人はどれほどいるのだろうか?大半は「心ならずも」死んでいったはずだ。とすれば、この世界には920億の亡霊や心霊が存在することになる。なぜ、八王子城跡の御主殿の滝付近に偏在する必要性があるのかまったく理解不能だ。

 こういった話をすると、「お前はその存在を信じてないからだ」と言われる。結局、信仰のレベルになる。あるいは「お前はまだ出会ってないからだ」とも言われる。とするなら、亡霊は”a priori"な存在となる。経験に先立つ存在であり、経験がその存在を証明することになるなら、それは帰納的(inductive)な推理にすぎず、今まで仮に亡霊が存在したとしても、これからもそれが存在し続けるとことに確然性はなく、単なる蓋然性にすぎないことになる。

 私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことはないが、それらはすべて経験的存在ではなく「純粋存在」だと考えている。つまり、アプリオリな存在ではなく、超越的(transzendental)存在なのだ。それゆえ、それらの普遍性は証明できず、その存在を信ずる人々の「意味の場」にのみ実在することになる。私の価値領域にはそれらは含まないので、興味の対象としたときにのみ存在するだけである。

 ただし今回、私が亡霊との出会いを感じることができたならば、以後、亡霊は純粋存在でありながら私の意味の場の中に立ち現れてくるようになる。しかしそれは経験を越えた存在なので、いつでもどこにでも現れるといわけではなく、私が恐れを抱く、たとえば虫が襲ってくるような深い森の中で、あるいは暗い薄野原で、亡霊は私に呼びかけをするようになる。そんな場面に遭遇したとき私は、それに応答し、名付けをすることになるだろう。親近感を増すために。これ以上、恐怖の対象を増やしたくないので。

 が、そんな出会いが生じる可能性は限りなく小さい。なぜなら、純粋存在に出会えるほど人生は長くない。