徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔49〕3ケタ国道巡遊・R411(3)~奥多摩町、そして山梨へ

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”道の駅たばやま”に入るための丁字路

古里(こり)から奥多摩湖に向かう

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万世橋多摩川を渡り、吉野街道は青梅街道に吸収される

 古里駅前交差点で、国道411号線(R411)は吉野街道を吸収し、しばし一本道となって奥多摩湖を目指して西へ進む。この「古里(こり)」は行政区域名としては存在せず、JR青梅線古里駅や古里郵便局、町立古里小学校などにその名が残っているだけであり、それらの住所表記は「奥多摩町丹波」となっている。

 古里駅がある小丹波、前回に触れた川井駅のある川井などの大字は旧古里村に属していた。その古里村は、1953年に成立した町村合併促進法によって、55年に氷川町、小河内村と合併して奥多摩町となって発足したことで消え去った。もっとも、「古里」の名そのものは江戸時代の地図には現れず、旧古里村に属していた地域は「小丹波村」「丹三郎村」「梅沢村」「川井村」「白丸村」などと記載されている。古里の名が出てくるのは、1888年に市制町村制が定められた後のことであり、当該地域は1889年、7つの村が統合されて古里村となった。そこで初めて「古里」の名が出てくるようだ。

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万世橋上から多摩川の流れに目を向ける

 古里駅前交差点で終点となる吉野街道を少しだけ歩いてみた。ほどなく、多摩川に架かる万世橋に出た。橋上から多摩川の流れをのぞき込んでみた。橋の標高は281m、多摩川の流れは237mなので、橋上から川面まで47mある。後述するが、この高低差を利用して古里の地にダムを建設しようという案があった。ダムは結局、小河内村に造られたために古里村は湖底に沈まずに済んだ。もしその案が実行されていたら、万世橋はなくなっていた。そして古里は、ダムの名として、貯水池の名として現在に伝わり、その名の認知度は現在よりもはるかに高いものなっただろう。それが、仕合せの良いことであったか悪いことであったかは別にして。

 ところで、古里村の名は栃木県にもあった。こちらも1955年に消滅し、現在は宇都宮市編入されている。1889年、村の成立までは6つの地区に分かれていたようで、統合するにあたって新しい村名を採用することが決まり、古里村にしたようだ。場所は違えど、村の成立時期も消滅時期も、奥多摩の古里村とまったく同じである。ただし、栃木の古里は「ふるさと」と読むのに対し、奥多摩の古里は「こり」と読む。古くからある里が集まって新しい村となるのだが、すでにあった里の名のどれかひとつを採用すると、他の里からの反発が予想されるので、合併に際し新しい名称を考案したものと想像される。

 これは私の勝手な想像だが、奥多摩の「古里」は「ふるさと」ではなく、あえて「こり」と読むようにしたのは、古く、奥多摩の地は「氷川郷」と呼ばれており、その氷川の「氷」の訓読みである「こおり」から読み取ったのだと推察している。まったく見当外れかもしれないけれど。

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青梅街道は多摩川南岸道路というバイパスを育てている

 一本化された街道だが、道は曲がりくねっていて幅も狭いので、奥多摩湖へ進む道として行楽シーズンにはかなり渋滞する。点在する集落にとっては唯一の生活道路なので、住民には不便この上ない。前に触れたように、古里駅前以東であれば吉野街道が並行して存在しているので行き交う車は分散され、渋滞の頻度は低い。

 そこで計画されたのが「多摩川南岸道路」で、1998年に一部区間が開通し、現在は全長7キロのうち5.9キロまで完成している。写真にあるように、その南岸道路は都道45号線(r45)に指定されている。このr45は古里駅前まで通じていた吉野街道と同じナンバーである。南岸道路はまったく新規の道路ではあるが、その位置付けは、吉野街道の延長路線とされている。残りの1.9キロは未着工だが、計画では吉野街道とすでに完成している南岸道路とをつなぐものになっている。

 全区間完成後、奥多摩湖方面へ急ぐ人は、多摩川南岸を進む吉野街道を西進して後に触れる「愛宕大橋交差点」まで進み、そこでR411に合流することになるだろう。そのルートを使う人にとって、もはや古里駅前交差点も万世橋も遠い存在となり、古里が「こり」と読むことは忘れ去られるだろう。ふるさとを喪失した都会人のごとく。

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南岸道路を進む人はこの交差点を左折する

 古里駅前交差点から2キロほど進むと写真の将門交差点に出る。現在のところ、この交差点が「多摩川南岸道路」の起点で、鳩ノ巣、白丸、氷川(奥多摩駅がある)の各集落を経ずに西へ進むことができる。実際、私もこの道路が完成してからはこの交差点を直進することはまずなくなってしまった。

 交差点の名前は「将門」である。この交差点のすぐ北の高台に「将門神社」があることでそのように名付けられたのだろう。青梅や奥多摩には将門伝説が数多く残っているということは前回に少し触れている。

 今回はR411を辿ることが主眼なので、将門交差点を左折せずに直進した。鳩ノ巣や白丸の名に触れるのは久し振りだった。古里駅の西隣は「鳩ノ巣駅」だ。「鳩ノ巣渓谷」は多摩川上流部にある渓谷ではもっともよく知られている名称だと記憶している。私はその地を散策したことは一度もないが、多摩川上流の散策路として古くから人気場所であり、友人・知人から何度も鳩ノ巣散策に誘われたことがあった。面倒なので全部、断ったが。ただ、”鳩ノ巣”の名前だけはいつも気にはなっていた。少年期、私はレース鳩をかなりの数、飼育していたし、今でも鳩はお気に入りの動物のひとつだからだ。ゆえに、私に鳩の話をさせると留まるところがなくなる。

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知名度はかなり高い鳩ノ巣渓谷

 鳩ノ巣の名の起源は1657年の「明暦の大火」(振袖火事)が関係しているとされる。大火後の復興のために江戸市内では多くの材木を必要とした。そのため、奥多摩にある木々を多数伐採し、多摩川の流れを使って木材を江戸へ送った。伐採のための飯場小屋が作られ、その近くには安全祈願のために水神社が設けられた。その神社に番(つがい)の鳩が巣をつくった。仲の良い番を目にした人夫たちは、その鳩を霊鳥として崇めるようになった。以来、その地は「鳩ノ巣」と呼ばれるようになった。

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発電用に建設された白丸ダム

 鳩ノ巣駅の西隣が白丸駅。写真のダムは両駅の中間ほどのところにある。後述する小河内ダムは飲料水確保が第一目的だが、白丸ダムは発電用として東京都交通局の主導によって1963年に竣工した。蓄えられた水は導水管で下流にある多摩川第三発電所まで送水されている。発電所は、御岳橋の300mほど上流にある。発電されたものはトランプからバイデン、いや交通局から東京電力に売電され、奥多摩町などに供給されている。

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魚たちが上下流へ移動可能にするための長い道

 白丸ダム見学で忘れてはならない存在は、2002年に完成した「魚道」である。堤高が30mもあるダムの壁では、さしものアユ、ヤマメ、サクラマスなどの魚たちはとてもよじ登ることができないと考え、写真のような階段状の魚道を造って魚たちが上流に遡上(下へ流されることも)できるようにした。その長さは332m、高低差は27mある。

 魚道はまず下流方向に伸びていて、少しずつ高さを増していく。途中から上流方向にほぼ360度、折れ曲がってさらに高度を稼ぐ。ダム施設の内側はトンネルになっており、その中に魚道が通じていて、最終的に白丸調整池へ至る。このトンネル部分は一般公開されているが、いつでも見られるわけではない。4月から11月までの土日と祝日(夏休み期間は毎日)の10~15時に限られている。私が訪れたのは平日なので、残念ながら見学することはできなかった。折角、珍しくその気でいたのに。

 ダム施設はともかく、一般河川にある堰堤の大半には魚道が造られているので、その仕組み自体はさして珍しいものではない。問題は、魚にその魚道を利用する知恵と体力があるかどうかだ。さしあたり、魚というものは流れに抗して泳ぎたがるものなので、多くは魚道へ向かうことは事実だろうが、それを上り切るかどうかには魚種の差や個体差がある。私が魚だったら、遡上はすぐに諦める。上に行って苦労するより、下で威張っていたほうが楽だ。

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白丸ダム湖が満水のときは流れを失う数馬渓谷

 白丸ダムによって流れを遮られた多摩川の流れは、上流部に「白丸調整池白丸湖)」を形成している。その池の上流部に位置するのが「数馬渓谷(数馬峡)」で、上の写真は「数馬峡橋」から上流部を望んだもの。その渓谷に流れが生じるかどうかはダム湖が蓄える水量で決まる。先に挙げた白丸ダムの写真から分かるように、当日は水面がかなり高い位置にあったので、渓流は池の一部と化していた。水の色は「エメラルドグリーン」と言えば聞こえは良いが、やや白濁化しているために透明度は低い。

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苦難の末に開通した数馬隧道

 白丸ダムから奥多摩駅付近までの多摩川は南に大きく曲流している。これは、北にそびえる本仁田山(ほにたやま・標高1224m)の南側の尾根が大きく張り出しているためで、とりわけ尾根の南東側は急な崖を形成し、崖上の標高は340m、多摩川の川面は288mで、まさに断崖絶壁になっている。そのため、「青梅街道」は川沿いに道を造れず、かといって尾根もまた急な斜面なので、人や馬が通る山道も満足に造ることはできなかった。

 その尾根は「ゴンザス尾根」と呼ばれている。その名は山歩きフリークにはよく知られているらしいが、「ゴンザス」の意味は不明のようだ。ザスは連濁なので単独では「サス」になるが、それはこの地方では「焼き畑」を意味するらしい。ただし、ゴンは不明のままである。

 そこで、私は以下のように想像した。第一は、ゴン=「権」であり、権は「仮の」とか「仮初め」を意味するので、その斜面は他に利用方法はないので、当座は焼き畑に用いていたというもの。第二は、焼き畑は「権兵衛」がカラスに頭を突かれながら耕していたからというもの。第三は、スペイン系もしくはポルトガル系の農民が耕していたというもの。第四は、たまたま誰かがそう呼び、それが一般化されたというもの。いずれも、なさそうでなさそうだ。

 そのゴンザス尾根越えの道は難所で、白丸集落から氷川集落までは直線距離にすれば5.5キロほどだが、それをなんと3時間ほどかけて上り下りしなければならなかったそうだ。この尾根に17世紀末、切通しの道を造ったのは、神官を務めていた「河辺数馬」を中心とした地元の有志だった。硬い硅岩を人々の力によって切り開いた。それにより、青梅街道の利便性は飛躍的に高まったのだった。

 ところで、この地の大字名は白丸だが、切通し、隧道、橋、渓谷にのみ「数馬」の名が付けられている。数馬といえば檜原村の「数馬」がよく知られ、そこには字名として「上数馬」「下数馬」がある。奥多摩周遊道路に通じる檜原街道は南秋川沿いを走り、「数馬の湯」「兜屋旅館」などの施設もある。その数馬と白丸の数馬とはかなり離れた位置にあり、しかもその間には浅間尾根や大岳山があるので、私は両者の関係性について疑問を抱いた。実際のところは両者には関係性はなく、双方が「数馬」なのは「たまたま」であって、白丸は「河辺数馬」、檜原は「中村数馬」に由来するようだ。人生は「たまたま」であるが、世界もまた「たまたま」なのだ。

 上の写真にある数馬隧道は、1916年(大正5)に開通した。現在は遊歩道として利用されているが、1978年(昭和48)に白丸トンネルが開通するまで、R411(青梅街道)はこの写真のトンネルを使用していた。このトンネルを使って奥多摩湖へ行き来したという記憶は私の中にもあるのでゴンザス。 

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山小屋風の造りが特徴的な奥多摩駅

 ゴンザス尾根は氷川寄りに七曲りという難所も形成していたが、今では「新氷川トンネル」によってその苦難の道をパスしている。

 新氷川トンネルを抜けたすぐ先に奥多摩駅前交差点があり、それを右折すると写真の奥多摩駅が見えてくる。山小屋風の造りが特徴的で、ここが青梅線の終着駅となる。公共交通機関を使って奥多摩湖などを巡る人々の玄関口ともなる駅だけに、広場もよく整備されている。駅の向かいには奥多摩町役場もあるので、行き交う車の数も田舎駅前としては少なくはなかった。

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氷川郷の名前の由来となった奥氷川神社

 写真の奥氷川神社は、奥多摩駅入口交差点のすぐ南側にある。日本武尊が東国平定の折りに素戔嗚尊を祀って創建された、牟邪志国最初の国造であった出雲臣伊佐知直が、この地にある愛宕山を出雲の日御碕神社の神岳に見立てここに氷川神を勧請した、などの言い伝えがある。一方、『新編武蔵風土記稿』には「村名もこの神社より起こりしと云へば、旧き社なるべけれど、鎮座の年歴を傳へず、……神主河邊數馬」とあり、氷川郷の名前は神社名に由来するものの創建年は不明であるとされている。さらに、『奥氷川神社明細帳』には「武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ヶ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称ス」とある。大宮ー長宮ー奥宮(氷川ー中氷川-奥氷川)と一直線に並んでいるので、この三社を「武蔵三氷川社」ということもあるようだ。

 なお、神社境内の西側には日原川が、南側には多摩川が流れ、南西側で両河川は合流している。駅入口交差点の標高は334m、神社境内は327m、両河川合流点は304mと神社はかなりきわどい場所に建っている。

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日原鍾乳洞へ行くためにはこの交差点を右折する

 奥多摩駅前交差点を直進すると、すぐに写真の「日原街道入口交差点」に出る。この交差点を右折して日原街道を進むと「日原鍾乳洞」に至る。交差点の標高は336m、鍾乳洞入口は633m地点にある。途中に石灰石の採掘場があり、狭い道を大型車が行き交っているので、運転にはかなりの注意力が必要とされる。

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日原川は雲取山周辺に源流がある

 私の場合、日原鍾乳洞には入ったことはないが、日原川から望む山々の景色は好みのひとつなので、鍾乳洞の臨時駐車場までは出掛けることがある。日原鍾乳洞巡りは鳩ノ巣渓谷散策と対になって、かなり以前から日帰り旅行の目的地とされていた。先に触れたように、私は鳩ノ巣渓谷に誘われても日原鍾乳洞に誘われてもすべて理由を付けて拒絶した。理由は簡単で、集団で観光するのが苦手だからだ。疲れることもだけど。

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多摩川南岸道路愛宕大橋交差点でR411に吸収される

 日原街道には向かわず、R411をそのまま「直進」した。1キロほど進むと、写真の「愛宕大橋交差点」に出る。ここでR411は「多摩川南岸道路」と合体し、一本道となって奥多摩湖へと進んでいく。ここから先は脇道がないので、紅葉シーズン、つまり、今どきの休日は大混雑必至である。愛宕大橋交差点の標高は343m、奥多摩湖ダムサイトパーキングは531m。R411は曲路とトンネルが多いダラダラとした上り坂(帰りは下り坂)を形成しており、道幅も決して広くないので、マイペースの車がいると渋滞に拍車を掛ける。

小河内ダム奥多摩湖を訪ねて

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ダム建設のためセメントや川砂を運ぶ専用鉄道の跡

 小河内ダム建設のためには多量の建設資材を運ぶ必要があった。大半はセメントと川砂で、その川砂の多くは下流の小作付近から採集されたものだった。運搬用として、氷川駅(現在の奥多摩駅)から建設現場のある水根駅まで6.7キロを結ぶ専用鉄道(東京都専用線小河内線)が建設された。計画が決まったのは1949年、起工は50年、開通は52年、役目を終えたのが57年だった。写真は、ダムにほど近い場所に造られた「第一水根橋梁」で、その先には水根トンネル、R411の上に架かる「第二水根橋梁」の姿も残っている。役割を終えた専用鉄道線は、観光目的のためにと西武鉄道が買収したが、結局は利用されることはなかった。

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1957年11月に竣工した小河内ダム

 飲料水確保のための大規模計画が持ち上がったのは、1916年(大正15)3月の東京市会だった。「将来大東京実現ノ場合ヲ予想シ、本市上水道事業上百年ノ長計ヲ樹テラレタシ」という要望が上がり、水道拡張計画への調査が始まった。当初は利根川に水源を求めたが水利権に支障があって断念。次に相模川を水源とする案が考えられたが、神奈川県との調整が不調に終わり、最後に多摩川を水源とする拡張計画を頼みとした。が、多摩川ではすでに羽村堰から村山貯水池への導水計画が進んでいたため、さらに大量の水源を確保するためには上流域に大規模ダムを建設するしか方法はなかった。

 築堤場所を選定するための調査会は27年(昭和2)に設置された。必要な水量が確保でき、かつ堰堤高(想定は150m前後)はできるだけ低く、堰堤容積が最小になる場所が候補地に選ばれることになっていた。地理的、地質的、経済的な面からの調査が進められ、候補地は以下の9地点に絞られた。(1)丹波山(山梨県丹波山村)(2)川野(小河内村)(3)麦山(小河内村)(4)河内(小河内村)(5)水根(氷川村、建設場所は小河内村)(6)中山(氷川村)(7)梅久保(氷川村)(8)海沢(古里村)(9)古里(古里村)。この中からさらに詳細な調査がおこなわれ、河内と水根の2か所が候補に残り、最終的には水根地区に決定された。31年(昭和6)、小河内村に築堤場所が決定されると、総予算を含めた計画案が策定され、翌年の7月に原案は決議されたのだった。

 この間、9か所の候補地からは賛成派、反対派の双方から陳情書が提出されている。例えば、古里村の賛成派からの陳情書には、「多摩川の最適地とせられ、府下西多摩郡古里村を中心とする山谿を御利用御設置の様拝聞致し候……」とある。その後に小河内村が有力であると漏れ聞いたので、「小河内村は氷川村を経て古里村を距る六里の山奥に有之候。斯かる地に膨大なる貯水池を実現し、一朝、天変地異に遭遇し、万一築堤の崩壊を見んか其の莫大なる落差を有する下流谿谷の氷川古里の両村如きは、驚天動地山岳を崩す濁流の為め、一瞬にして其の影を留めず……」と上流での事故を懸念する一方、古里の地は「東京市近接の地として自然の風光明媚なれば、御嶽山を含む大公園設置の前提とし……最前最適第一の地域と存候」など、古里貯水池が生み出す利点まで述べているのである。

 しかし、古里案はとくに経済的負担という点から不採用に至った。私は古里も候補地になっていたということは知っていたが、具体的な場所までは知らなかった。今回、当時の資料を調べてみると、古里といっても本項の冒頭に挙げた「古里駅前」付近ではなく、現在の御嶽駅から1キロほど上流の丹縄地区であることが分かった。その地点では堰堤の下部を211m、堰堤の最上部を330mとする計画だった。貯水池は堰堤いっぱいに水を溜めることはできないので、今の小河内ダムでも余水吐水口を5から10mほど下に設定している。これを参考にすると池面の高さは最高325mとなる。当然、周囲を走る青梅街道は330m程度に移動する必要がある。

 安全度を考え、330m付近まで水没すると考えれば、川井駅(265m)、古里駅(292m)、鳩ノ巣駅(319m)は水没し、白丸駅(340m)は助かるものの、数馬峡橋(たもとで315m)、数馬隧道(315m)という歴史遺産も水没し、数馬の切通し(340m)はギリギリ水没を免れるといった状態になる。さらに、奥氷川神社の境内も325から327m程度なので、満水時は日原川がバックウォーター現象を起こす可能性が高いので水没は必至となる。このように、古里案では水没する集落があまりにも多い上、歴史的建造物の水没・損失も発生する。一方、堤高は120m程度で済むので築堤工事は比較的容易であったとしても、結局、採用されることはなかった。

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1966年に建立された「湖底の故郷」歌謡碑

 1931年(昭和6)、小河内村にダム建設がされることが決定され、32年に計画案が成立したものの、多摩川の水利権を巡る東京府と神奈川県との交渉がなかなかまとまらず、合意に至ったのは36年(昭和11)2月のことだった。一時は、ダム建設の撤回案まで検討されていたのだ。

 この間、小河内村の人々は翻弄され続けた。当初は、「住み馴れた土地故、成くべく他にて間に合わせられたく、併し本村が貯水池計画に最適とならば致し方なく出来得る限り善意に努むべし」と、計画をやむを得ずに受け入れ、移転に向けた準備をしていた。が、計画はいっこうに進まず、かといって農作業する意欲は少しずつ減じていった。35年には「現状の儘にて尚一・二年を経過せんか、死屍を戦場に運ぶに等しく、小河内村三千村民の総てが、精神的にも経済的にも衰亡の極に陥り……」と記した懇願書を村長が提出し、同年の12月には決起した村民と防御する警察官との間で負傷者を出すほどの衝突まで起こった。

 37年、どうにかこうにかダム建設の基礎工事は始まったものの、建設に伴う移転補償に関する覚書が東京市長と小河内村村長との間で調印されたのは38年6月のことだった。38年11月、小河内貯水池綜合起工式・地鎮祭が挙行され本格的工事がスタートしたものの、日中戦争が拡大し、さらに第二次大戦がはじまって資力も人力も戦争へと駆り出されたため、工事はほとんど進捗せず結局、43年(昭和18)に工事は中断された。

 工事再開が議決されたのは48年(昭和23)4月だった。が、「49年以降の事業実施上、必要とする農地は都において買収ができるが、五カ年間、売り渡さず政府において保留する」という決定がなされ、補償問題はさらに先延ばしされ、最終的合意がなされたのは51年(昭和26)8月17日のことだった。

 1935年、小河内の鶴の湯温泉を訪ねた北原白秋は以下のような文を残している。「……。この鶴の湯、原は懸崖にあり、極めて寒村にして、未だにランプを点し、殆んど食料の採るべきものなし。ただ魚に山女魚あり、清楚愛すべし。此の小河内の地たる、最近伝ふるに、今や全村をあげて水底四百尺下に入没せむとし、廃郷分散の運命にあり。……」

 37年には『湖底の故郷』という歌謡曲が作られ、東海林太郎が歌った。一番の歌詞は「夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らす さらば湖底の わが村よ 幼なき夢の 揺籠よ」である。写真の歌謡碑は1966年(昭和41)、大多摩観光施設協会が建立した。チャートの赤石に、「湖底の故郷」、湖側には上に挙げた歌詞が刻まれている。当初は文字部分が白く塗られていてはっきりと読むことができたが、写真のように今では読み取ることは難しくなっている。チャートは風化に強い石だが、文字も村人の思いも、今や人々の心に刻まれることはほとんどない。

 水没地域に居住していた945世帯は、204世帯が同じ村内に残り、他の741世帯は昭島市147、青梅市97、奥多摩町95をはじめ、東京都、埼玉県、山梨県など各地に移り住んだ。

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奥多摩・水と緑のふれあい館は1998年に開館した

 写真は、小河内ダム竣工40周年記念事業の一環として建設された「奥多摩・水と緑のふれあい館」の外観。ここには以前、奥多摩郷土資料館があった。館内には奥多摩の歴史や民俗資料、奥多摩の自然や郷土芸能を紹介する3Dシアター、ダムの仕組みの解説、水資源の大切さのアピール、レストラン、売店などがある。

 ふれあい館の上側に写っているのは水根集落の一部。写真の場所は標高600m地点にあるので水没は免れている。私が気に入っている小説家に笹本稜平がいて、彼の作品のひとつに『駐在刑事』という推理小説がある。テレビ東京でテレビドラマ化されたこともある。その中に「青梅署水根駐在所」という名前が出てくる。笹本は山岳小説の第一人者でもあり奥多摩の地理は相当に詳しいはずなので、水根駐在所のある場所は明らかに水根集落をイメージして描いている部分がある。が、実際の水根は谷間にある風光明媚な小集落であるし、テレビドラマは奥多摩駅周辺でロケされたようだ。奥氷川神社も登場していたし。

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ダムの堰堤上から多摩川が刻んだV字谷を望む

 ダムの堰堤上を散策した。多摩川関東山地をV字に刻み、刻まれた石や砂は下流に運ばれ、やがて武蔵野台地を形成した。この谷底に多摩川は今も流れ、その際を通るR411はうねうねとここまで上ってきた(標高530m)のであり、そしてさらに柳沢峠(標高1472m)を目指して進んでいく。

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堰堤上から直下をのぞき込む

 通常、ダムというと発電(黒部ダムが有名)か治水(川辺川ダム(未完成)が有名)のためのものが多いが、小河内ダム東京市民のための飲料水確保という利水目的で造られた。副次的に発電事業もおこなっているので、一応、多目的ダムに分類されるが、あくまで主目的は飲料水の確保である。小河内貯水池(以後、通称の奥多摩湖と表記)が「東京の水がめ」と言われるのはその為である。

 建設当時、奥多摩湖は世界最大級の貯水池と言われた。その池を支えるのが小河内ダムの堰堤で、その高さは149mもある。建設当時の技術では堤高は100mが限界と考えられていたが、「東京百年の計」として巨大な貯水池を造らざるを得ず、先述したように堤高150mを想定して築堤場所を検討していた。

 写真は堰堤上からダム直下の多摩川を写したもので、高所恐怖症の私はあくまでV字谷を眺め、カメラのレンズだけを直下に向けた。そのため、向きは出鱈目のものが多く、何度も取り直しをした。まさに、デジカメ様様であった。足場は530m、カメラの位置は531m、多摩川の川面は386m、カメラと川面の比高は145m。恐ろしい。

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主堰堤の北側にある余水吐水口

  奥多摩湖の満水位は標高526.5mに設定されている。堰堤は530mなので3.5mの余裕がある。というより3.5mしか余裕がない。それゆえ、水源地で大雨が降った場合には奥多摩湖の水位が上がり、オーバーフロー(越水)するか最悪、堰堤が崩壊する危険性さえある。すでにダムの完成からは60年以上経ているので、コンクリートの劣化も考えられる。点検上は問題点はまったく見つかっていないとのことだが、大地震や上流での山崩れなどによって、堤壁に想定外の圧力が掛かることも想定しうる。

 写真の余水吐水口は、貯水量が予定水位を越えないようするために造られたもので、水位が上がり過ぎた場合、上がる可能性が予想される場合(事前放流)に、5門ある水色の扉を上げて余水吐放流をおこなう仕組みである。これを実施すると多摩川の水位が一気に上がり危険性が伴うので、報道機関等を通じて(事前)告知されることになっている。沿岸地区(下流羽村市小作まで)では警戒のためのサイレンが鳴ったり、自治体を通じて緊急放送がおこなわれたりする。

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大麦代パーキングからダムを望む

 ダムサイトから離れ、R411に戻って柳沢峠へと向かうことにした。ダムサイトの駐車場を出てもすぐにはR411には入れない。湖岸にある都道を500mほど西へ進むと、大麦代トンネルを出たばかりのR411に合流できる。その合流点の湖側にかなり広めの駐車場があり、そこにはトイレや売店もある。その大麦代パーキングから今一度、ダム周辺を眺めてみた。上の写真がパーキングから見たものだ。

 R411は奥多摩湖の北岸に沿って走っている。もちろん、ダム完成以前の旧青梅街道は湖底に沈んでいるので、現在の道は奥多摩湖が出来る前後に造られたはずだ。奥多摩湖の北側には倉戸山(標高1169m)がそびえ、その南尾根が幾筋も湖に落ち込んでいるため、R411がその尾根筋を通過する場所にはトンネルが掘られている。上で触れた大麦代トンネルもそのひとつである。尾根があれば谷筋もあるので、岸辺はかなり入り組んでいる。それゆえ、R411は曲路続きで、直線的な場所はトンネル内に限られる。

 一方、奥多摩湖の南岸もダム近くはサス沢山(940m)、その西隣の月夜見山(1147m)、さらにイヨ山(979m)の各尾根筋が奥多摩湖に落ち込んでいるため、極めて変化に富んだ湖岸線を形成している。そちらには沿岸道路はないものの遊歩道が整備されているので、私には無謀としか思われないが、頑張ってチャレンジする人もいるようだ。 

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峰谷の三叉路が見えてきた

 写真の峰谷三叉路は峰谷川に架かる橋の北詰にあり、湖岸を進む場合は左に折れ、峰谷川に沿って峰などの集落へ進む場合は右折する。その三叉路の又の部分には狭いけれど駐車スペースやトイレがあり、峰谷橋の歩道上からは釣りが可能なため、たいていの場合、数台の車が停まっている。

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峰谷川に架かる峰谷橋。釣り場としても有名だ。

  私は柳沢峠方向に進むので左折して橋を渡るが、かつて、私がまだ渓流釣り師であった頃は、この三叉路を右に曲がり、ヤマメを求めて釣り場を探したことが何度かあった。 

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私が渓流釣り師だった頃に何度か竿を出した峰谷川

 峰谷川は谷が深かったためか、奥多摩湖が形成されたとき以降の下流部は湖の一部と化してしまったが、橋詰から600mほど道を進むと、本来の姿であった渓谷が見えてくる。私は渓流釣り師のときも横着だったので、入渓が容易で、かつ路肩に駐車できる場所を探し、竿を出した。そんな場所はほとんど他の釣り人も竿を出しているので「場荒れ」が進んで魚影は薄い。だが渓流釣りの場合、釣果そのものよりも美しい景色の中で竿を出すことが第一義なのだと、いつも自分で自分に言い訳をしていた。

 写真の場所は標高550m地点だが、川沿いの道を進むと、590m地点に「下り」集落、790m以高に「峰」集落、900m以高に「奥」集落があり、道路は途切れるものの山道はあり、それを頑張って登れば、東京都にある山として人気のある「鷹ノ巣山」(1737m)に至る。鷹ノ巣山のすぐ北側の谷筋に日原鍾乳洞がある。

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深山橋丁字路。大半の車はここを左折して奥多摩周遊道路に向かう

 奥多摩湖がもはや川の河口ほどに南北の山間が狭まる場所に、写真の深山橋丁字路があり、R411を進んできた90%以上の車やバイクは、この交差点を左折して深山橋を渡り、国道139号線(R139)を進む。私は柳沢峠を目指すので、ここは直進する。 

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深山橋のすぐ先にある三頭山橋。この橋の先に奥多摩周遊道路がある

 深山橋は奥多摩湖の「しっぽ」に架かる橋で、R139は深山橋交差点がそのルートの終点であり、起点は静岡県富士市にある。ひとつ上の写真にあるように、R139を10キロほど進むと山梨県小菅村にある「小菅の湯」に至る。その施設は府中市民にも結構知られていて、奥多摩湖観光に出掛ける風呂好きな私の知人もよく通っていた。

 R139も魅力的な3ケタ国道なので私もよく走る。深山橋・大月間もかなり魅力的な景色が続くが、一般的には富士吉田から富士宮までがとくによく知られていて、西湖、本栖湖朝霧高原、白糸の滝など有名な観光地は、いずれもこの3ケタ国道沿いにある。今は紅葉シーズンなので、かなり多くの車がそのR139を走っていることだろう。

 もっとも、深山橋丁字路から白糸の滝に向かう人はまずいないはずなので、左折したほんの少数は、小菅川を遡上して「小菅の湯」を目指し、大多数は深山橋を渡るとすぐ先にある丁字路をまた左折して、小菅川に架かる写真の「三頭山橋」を渡る。理由は明白で、奥多摩周遊道路を走りたいがためである。

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丁字路を直進した私は深山橋を振り返り見た

 深山橋丁字路を直進した私は、まだ奥多摩湖北岸にいる。名称が付されていない小さなトンネルを抜けると「小留浦」集落に出る。湖側に駐車スペースがあるので、そこから深山橋を振り返り見た。橋の向こうに見える大きな尾根は三頭山(1528m)へと続くもので、頂上に至るまでにイヨ山(979m)、ヌカザス山(1175m)という小ピークがある。

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小留浦の太子堂と庚申塚

 小留浦(ことずら)には写真の「太子堂舞台」がある。山間集落の娯楽として地芝居がおこなわれた建物であり、堂内には聖徳太子像があって、建物と太子像ともども東京都の有形民俗文化財に指定されている。1863年(文久3)に造られ65年(慶応元)に改修された。小河内ダム建造によって湖底に沈んでしまうため、1956年(昭和31)に現在の場所に移設された。

 R411沿いにあるが、道路(標高533m)より少しだけ高い場所(537m)にある。おそらく、奥多摩湖の氾濫から建物を守るためだろう。私はその建造物より、道路沿いにある庚申塚のほうに気を引かれた。

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山梨との都県境にある留浦集落

 写真の留浦(とずら)集落は、山梨県丹波山村との都県境近くにある。以前から、留浦の読み方は知っていたが、どうしてそのように読むのかは不明のままである。

 関東地方の方言のひとつに「べえ(べ)」があるのはよく知られている。「そうだ」とか「そうです」とは言わず、「そうだべえ」とか「そうだべ」と言うのだ。府中人もよくそう言っていた。知人は、今でもそう言う。一方、山梨では語尾に「ずら」を付けるので、「そうだべえ」ではなく「そうずら」となる。「留浦」を「とずら」と読むのは山梨の影響が強いからかも?まったく関係はないと思うが……。やはり、「たまたま」かもしれない。

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留浦の浮橋

 留浦には写真の「浮橋」がある。浮橋は峰谷橋の南詰のすぐ近くにも「麦山浮橋」があるが、車で訪れる人には駐車場やトイレが整備されている留浦のほうが、浮橋見物には便利だ。

 浮橋の向こうにチラリと見えるのは丹波山村の鴨沢集落。もう、山梨県はすぐそこにある。

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小河内ダムのダムサイトに展示してあるかつての「ドラム缶橋」

 浮橋は、現在は樹脂製の浮き箱に支えられているが、かつてはドラム缶が使用されていた。上の写真のドラム缶橋の一部は、小河内ダムの堰堤近くの広場に遺構として展示されているものだ。ドラム缶橋の時代を含め今回、私は浮橋を初めて渡ってみた。それなりに足元が揺れる点は吊り橋と同様だが、吊り橋は空中にあるのに対し、浮橋は湖面にあるので、怖さはそれほど感じなかった。こんなことなら、ドラム缶橋の時代に渡っておくべきだったと、少しだけ後悔した。

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浮橋は対岸の遊歩道につながっている

 浮橋は麦山、留浦の双方とも対岸にある遊歩道までつながっているが、奥多摩湖の水位が著しく減じると外されることになっている。写真のように橋が曲がっているのは、湖面が満水位に近いことを示している。

R411は、いよいよ山梨県に入っていく

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奥多摩町丹波山村とをつなぐ鴨沢橋

 写真は、留浦集落と鴨沢集落とを結ぶ鴨沢橋で、下には小袖川が流れて?いる。小袖川は鷹ノ巣山雲取山(2017m)との間にある七ツ石山(1757m)近くに源流点があり、この川の谷筋が東京都と山梨県との境になっている。橋の下は小袖川というよりまだ湖面があるといった風なので、渇水時でなければ川の流れを感じることはできない。

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橋の東詰にある多摩川都管理上流端の看板

 鴨沢橋の東詰はまだ奥多摩湖のしっぽの先ぐらいの位置にある。元来、小袖川は奥多摩湖ではなく多摩川に注いでいたので、橋の南にある水およびその周りは、制度的には東京都が管理する「川」のものであるらしい。

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この表示では、青梅街道はここで終わることになる

 多摩川都管理上流端の看板の横にあるのが上の標識。この表示では、青梅街道は鴨沢橋で終わることになる。もっとも、青梅街道の名称自体が通称でしかないのだから、さして問題はないのかもしれない。

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鴨沢橋を渡った先にある賑やかな標識

 鴨沢橋を渡ると、そこは山梨県。写真には3枚の看板が写っている。一番手前は、ここが丹波山(たばやま)村で、「釣りの名所ですよ!」というもの。次は山梨県の全体図で、県の周囲には富士山をはじめとして多くの山がありますよ、というもの。3番目は、ここから8キロのところに「道の駅・たばやま」がありますよ、というもの。

 鴨沢集落には雲取山登山口村営駐車場があり、登山客はそこに車をとめて山頂を目指す。今の季節は登山に適しているのでかなり混雑するようだ。

 鴨沢の名は、ここに鴨が多いからというわけではなさそうで、集落内に「加茂神社」があることから想像しうるに、賀茂神社つながりの可能性が高い。実際、この集落の加茂神社は、京都の賀茂神社末社に位置付けられている。

 集落の南側にあるのは多摩川の流れというより、まだ奥多摩湖の端っこあたり。湖底に沈んだ集落の一部には平地が少しあったそうで、そこでは畑仕事がおこなわれていたが、それに従事した人々は移転を余儀なくされた。今は、高台にあった家々がわずかばかりに残るだけ。清らかな流れの多摩川ではアユやウナギがたくさん捕れたが、いまでは淀んだ水ばかりで透明度は極めて低い。山は東京都の水源涵養林が大半なので、村人が勝手に手を入れることはできない。

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諸畑橋から奥多摩湖の端を望む

 鴨沢集落の上流側に架かる諸畑橋から多摩川の上流方向を眺めてみた。まだ貯水池の一部の様相だが、もうまもなく川の流れが見えてきそうでもある。釣り人たちは、こうした場所をバックウォーターと呼ぶ。本来は、支川が本川に突き当たる場所で起こる支川の水面上昇を意味し、河川氾濫のニュースでよく目や耳にする言葉だ。が、釣り人たちは、川が湖や池に流れ込む場所、支流が本流に流れ込む場所そのものをそう呼んでいる。今では釣り人以外にも浸透しつつある表現だ。

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諸畑橋の西側からR411は上り坂に入る

 諸畑橋の北詰を少し過ぎたところから橋とその周りの景色を眺めてみた。右側に見える建物はかつて鴨沢小中学校の校舎として使用されていたもの。黄色く色づいているイチョウは校庭を飾る樹木だ。学校にはイチョウがよく似合う。が、いまではイチョウの周りを走り回る子供たちはもういない。

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山梨からR411は大菩薩ラインを名乗る

 諸畑橋北詰を過ぎると、R411は上りに入る。橋の北詰の標高は537mだったが、そこから300mほどのところの撮影場所は549mなので、R411は明らかに高度を上げつつある。

 「大菩薩ライン」の標識が見える。山梨県を走るR411は「青梅街道」とは呼ばれず、山梨県東部にそびえる大菩薩連嶺からその名をとって「大菩薩ライン」と呼ぶのだ。この先にある丹波山村の中心地から先の山々は大菩薩連嶺に属し、R411はその際を進んでいくのである。

 大菩薩ラインは鴨沢橋の西詰から始まっている。それゆえ、東詰にあった青梅街道の標識の表示は、ある意味で正しいのだ。もっとも、広義の青梅街道は甲府市まで続いていることになっている。

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山の中腹にある小集落

 鴨沢から所畑を過ぎ、「お祭り」という名の地区を過ぎると丹波川が造る峡谷は一気に険しくなり、川の左岸側というより崖上をそろそろと走るR411は曲路の連続となる。写真は、その途中の道から望んだ集落(杉奈久保?)を写したもので、撮影地点は582m、集落は760m付近にある。川面は536m付近にある。

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R411の眼下にある保之瀬集落

 R411の左手に見えてきたのが保之瀬(ほうのせ)集落。丹波川が僅かばかりに形成した河岸段丘に集落がある。集落は標高590m付近にあるが、R411に造られた取り付け道路入口は636mのところにある。まさに谷間の集落である。 

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「道の駅たばやま」もまた、R411の下段にある

 その保之瀬から2キロほど進むと、やはりR411の眼下にある「道の駅たばやま」の施設が見えてくる。本項の冒頭に挙げた写真は、R411に造られた道の駅に至る取り付け道路の入口を写したものである。

 道の駅には軽食堂、農産物直売所、「のめこい湯」に至る吊り橋、河川敷広場、トイレなどがある。案内所もあるが、現在はコロナ禍のために閉鎖中のようだ。

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丹波川左岸からR411を望む

 丹波川の河川敷に降りてみた。吊り橋は「のめこい湯」に通じるもので、その上に見える道がR411だ。河川敷の標高は605m、のめこい湯は608m、R411は650mのところにある。吊り橋はのめこい湯とほぼ同じ高さなので、川面との比高は3mだから私でも渡ることができる。これが、ジーグリスヴィル橋のように比高が182mもあったら、一歩足を踏み入れただけで失神する。

 私には立ち寄りの湯を利用する習慣がないので「のめこい湯」は遠い存在だが、”のめこい”の言葉だけはいつも気に掛かった。これは方言で、元来は「のめっこい」と発する。「つるつる」「すべすべ」という意味なので、風呂には誠に具合の良い言葉だ。

 丹波川はアユ釣り場としても知られている。私の知人はよくこの川にくる。ただし、川の水は冷たく秋の訪れも早いので、実質的に釣り期は一か月もない。サイズは小さいがとても美しく美味しいアユが釣れるそうだ。

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道の駅たばやま軽食堂・R411

 この道の駅にはよく訪れるのだが、トイレを利用するか河川敷を散策するかだけで、軽食堂を利用したことはなかった。この施設の名前は「軽食堂・R411」であり、今回はR411を進む旅なので、その名に敬意を表するためもあって初めて利用してみた。のれんには「大菩薩ライン」ではなく「青梅街道」とあるし、街道をゆく旅姿の男の胸には「R411」と記してあるし。

 のれんにあるマスコットキャラクターは「タバスキー君」で、丹波山村ではよく見かける。「丹波好き~」から生まれたもので、「丹」の字が元になっているが、どことなく「アダムスキー型円盤」に似ているので、それをもじって「タバスキー」と呼ばれるようになったそうだ。ただし、この道の駅のものは鹿の角が生えている点で、原形とは少しだけ異なっている。

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軽食堂名物の「鹿ばぁーがー」を食べてみた

 軽食堂の名物は「鹿ばぁーがー」で税込み700円である。こうした「名物」には興味がないのだが、撮影のためと小腹が空いていたこともあり、あえて購入してみた。鹿肉を用いているのだろうが、とりたてて特徴的なものではなく、やや高級なハンバーガーといったところ。

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丹波山村の中心地は丹波川沿いにある

 丹波山村の中心地は、道の駅の少し上流側にある。川沿いの河岸段丘に家々が並んでいる。2020年11月1日現在、丹波山村の総人口は582人。17年4月は843人だったので、過疎化が一気に進んでいる。

 今更だが、丹波はここでは「たんば」ではなく「たば」と読む。”たば”とは川の奥まったところにある平地を意味するらしいが、それがなぜ「たば」という言葉になるのかは不明だ。一説には、”たば”は古朝鮮語で「峠」を意味するので、それが語源となったというものもある。

 いずれにせよ、この地は「たば」であり、古くは「多婆」「太婆」「田場」の漢字が当てられていたらしい。言葉は音から生まれ、そのあとから文字が作られたのだから、どの漢字を当てるにせよ、それは当て字に過ぎない。漢字を読むことは可能だが、漢字で読むことは不可能だ。

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R411は丹波山村を過ぎ、いよいよ山深くに分け入って進む

 R411は、これからが難所だ。甲府市まではあと55キロ。R411の旅は今、中間地点付近に達した。

 次回は柳沢峠、大菩薩嶺甲府盆地の入口などを取り上げる予定。

   *   *    *

 撮影は都合3回おこなっているので、撮影日には一か月ほどのズレがあります。その間に紅葉が進んでいるので、写真によっては色づく前のもの、かなり色づいたものがあり、撮影も往路、復路でおこなっているので、日の当たり方も異なっています。

〔48〕3ケタ国道巡遊・R411(2)~青梅市から奥多摩町を行く

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軍畑駅入口交差点から御岳山頂を望む

R411は青梅街道となって西を目指す

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R411はこの交差点から青梅街道を名乗る

 写真は、国道411号線(R411)と、これまで都道5号線(r5)として西進してきた青梅街道とが出会う丁字路をr5側から見たものである。写真中の道標から、青梅街道はR411としてこの交差点から出発するということがわかる。一方、写真に見える稜線は加治丘陵(青梅丘陵とも)のもので、R411が道標のとおりに北上するとすぐに丘陵の南面に突き当たり、それを越えると埼玉県飯能市に入ってしまう。それでは青梅街道が目指す甲府市には至ることが難しくなり、あるいはひどく遠回りになってしまうため、すぐに西に転進する必要があった。

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R411はすぐに左折して西進する

 青梅街道としてのR411は上記の理由によって、青梅市文化交流センター南交差点からは僅か200mほど北上するだけで、写真の青梅市文化交流センター前の丁字路をすぐに左折することになる。ちなみに、この交差点を右折すると青梅市の中心街に至るのであり、その都道28号線(r28)こそかつての青梅街道であって、その旧道筋には古き良き青梅の街並みが部分的に残っている。私は少しだけ旧青梅街道筋を見物するため、丁字路を左折せずに右折してみた。青梅についてはいずれ詳しく紹介する予定でいるので、さしあたり、今回は青梅駅周辺に限って触れてみたい。

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青梅駅の南口広場

 先の丁字路を右折して旧青梅街道を300mほど東に進むと、青梅駅前交差点に出る。この交差点の北側に写真の青梅駅がある。私にとってJR青梅線はまず利用することがないので青梅駅には初めて立ち寄ったことになる。駅の北側はすぐ丘陵地なので、写真の南口に商店街が集まっている。ただし、青梅駅を利用する人は減少傾向(2000年は15718人、18年は12994人)なので、駅前広場にしては少し寂しさを感じさせる風景が展開されている。

 ちなみに、東隣の東青梅駅青梅市役所の最寄り駅)の利用者数は2000年が13413人、18年は13114人とほぼ横ばいだ。さらにその東隣の河辺駅は2000年が27415人、18年が27270人とやはり横ばいであるものの、青梅、東青梅の両駅よりも圧倒的に利用者数は多い。その理由は、河辺駅周辺のほうが平地が多いので開発がしやすいこと、立川駅新宿駅により近いので通勤に便利であることなどが考えられる。

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住吉神社の社殿は稲荷山と呼ばれていた高台にある

 写真の住吉神社は、青梅駅前交差点からさらに東に300mほど進んだ場所にある。社殿は稲荷山と呼ばれていた小高い丘の上にある。周囲の標高は197m、社殿のある場所は212mほどで、まさに鎮守の森と呼ぶに相応しい居住まいをしている。

 創建は1369年とされ、すぐ南側にある延命寺を開山した季竜が、寺背にあった稲荷山に寺門守護のため、故郷の摂津国住吉明神を祀ったのが始まりとされる。16世紀初頭にはこの地域を支配していた三田氏が社殿を改修したり社宝を奉納したりし、あわせて青梅村の氏神として祀った結果、青梅の総鎮守の地位につくようになった。

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旧青梅街道沿いにある昭和レトロ商品博物館

 住吉神社は旧青梅街道の北側にあるが、写真の「昭和レトロ商品博物館」は街道の南側に位置し、神社参道のほぼ対面にある。懐古される「昭和」といっても、おもに30年から40年(1955~65年)頃に限定されるらしい。その時期の駄菓子やお菓子、薬などのパッケージ、おもちゃ、ドリンク缶や瓶、映画のポスターなどが展示されているとのこと。入館料は350円。漫画『三丁目の夕日』の時代設定と同じで、昭和といえど戦前や戦時中でも、さらに占領期でもなく、朝鮮戦争特需によって高度成長を遂げ始めた時代のものが集められているようだ。

 博物館には入っていないので、どのようなものが実際に蒐集されているのか詳細は不明だが、私は同時期に幼少年期を過ごしたので、展示品についておおよその記憶はあるはずだ。ただし、私の場合は物への愛着(執着)心がほとんどない(不時着はある)ので、懐かしさまで覚えることはないと思う。私にとって大切なのは「もの」ではなく、「こと」への想起である。

 この記念館の東隣には「青梅赤塚不二夫会館」があったのだが、今年の3月27日に閉館された。建物自体は古い土蔵造りの屋敷が利用されていたので現存しているが、赤塚不二夫を思い起こさせるものは撤去されていて何も残ってはいない。私は大の赤塚ファンであったので、その点についてはとても残念に思った。

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青梅はネコの町でもある

 旧青梅街道には、2018年頃までは映画の看板があちらこちらに掲げられていた。青梅市は「最後の映画看板絵師」の出身地であったからだ。が、台風で多くの看板が吹き飛ばされてしまった結果、残された映画看板も含めてすべて撤去されてしまった。代わって、青梅では「猫町」を標榜し始めたようで、ネコにまつわる「作品」をあちこちで見つけることができる。写真のポスター?は、映画看板と猫町との融合作品である。

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昨年の3月に閉店したマイナー堂の看板

 マイナー堂はレコードCDショップで、昨年の3月、65年の歴史に幕を閉じた。『ベニーグッドマン・ストーリー』の看板だけが寂しく残されている。窓に掲げられている「帰ってこいよ」の横幕は、青梅マラソンのランナーたちへ呼びかけられたもので、同店では、マラソン当日には松村和子の『帰ってこいよ』の曲を流し続けたそうだ。今では、店の経営者自身への呼びかけになっている。ちなみに、『帰ってこいよ』は私のカラオケの持ち歌でもある。

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青梅坂下交差点を右折すると埼玉県飯能市に至る

 青梅市街はいずれ詳細に巡るつもりでいるので、今回は早々に切り上げ、R411の旅に戻ることにした。R411が西へ転進した青梅市文化交流センター前交差点から再スタートである。西へ300mほど進むと、写真の青梅坂下交差点に出る。この丁字路を右折し小曽木(おそき)街道を北に進むと、入間川の支流である成木川沿いに至り、そこは埼玉県飯能市となる。

 青梅駅から西武池袋線飯能駅までは、直線距離にして8.5キロほどで、これは青梅駅から福生駅までの直線距離より少し短い。もっとも、青梅市街と飯能市街との間には加治丘陵が横たわっているので、福生に出るよりは時間は掛かるかもしれない。

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材木や織物の商いで財をなした稲葉家の旧宅

 写真は、東京都指定有形民俗文化財に指定されている「旧稲葉家住宅」で、先に挙げた青梅坂下交差点の100mほど先のR411沿いにある。稲葉家は青梅宿の町年寄を務めた旧家で、江戸後期には材木商、青梅縞の仲買商として財を成した。

 青梅界隈は森林だらけなので木材を得るには困らなかった。もちろん、自然林だけでなく、人工造林も江戸時代には積極的におこなわれていた。江戸の開発・発展に材木はいくらでも必要とされていただろうし、青梅から江戸にそれらを運ぶには多摩川を使って筏流しをすれば事足りた。

 青梅は織物生産地として有名である。かつてこの地には「調布村」があったくらいなので。この点については本ブログですでに触れている(cf.26回・多摩川中流散歩)。江戸時代に記された『万金産業袋』(1732年刊)に「青梅縞」の名が表れている。18世紀中期の『江布風俗誌』に「町家正月の……衣服は絹袖花色黒青茶紋付にて大方二枚着す、間着なと云ふものなく、男児は松坂島桟留、青梅縞に限る……」とあるように、江戸時代に青梅の織物は全国的にも知られた存在であったようだ。それゆえ、青梅縞の仲買商人でもあった稲葉家が青梅を代表する豪商であったことは容易に想像できる。

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熊野神社前のクランク

 旧稲葉家住宅のすぐ西側に、写真のクランクがある。青梅市街からR411を奥多摩に向かって進むとき、いつもその存在が気になるクランクなのだ。R411の行く手には「熊野神社」があるため、それを避けるように道は右に曲がり、すぐに左に曲がって西進する。今では狭い境内の小さな神社に過ぎないが、かつて、ここには「森下陣屋」が置かれ、徳川家の天領であった「山の根」地区(八王子ならびに多摩川上流地域。2万5千石)を統轄していた。こうした町の要衝であったために道はわざわざクランク状に造られており、それが現在も往時の姿を留めているのだ。

 熊野神社について『東京都神社名鑑』には、「創立不詳。古老の説によると、慶安年間(一六四八~五二)徳川氏の代官大久保長安、大野善八郎尊長等が居住した陣営地にあったころの鎮守といわれる。明治三年、社号を熊野大神と改め、同二十五年、熊野神社と改称。大正十四年九月、覆社および拝殿を改築、同時に愛宕・琴平社を合祀した」とある。境内にあるシラカシ青梅市内でも最大級の大きさだそうだが、現在は幹から伐採されているので、以前のように成長するにはかなりの年月が必要とされるだろう。

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平将門が創建したといわれる金剛寺

 熊野神社のすぐ南側にあるのが、平将門が創建したといわれている金剛寺だ。すぐ南側といっても寺は「天ケ瀬面」と呼ばれる河岸段丘上にあるため、神社よりは10mほど低い位置にある。神社の境内の標高は202mなのに対し、寺は192mである。こうした配置は、以前から何度も述べているように、神社は町の高台、寺は町中というのが普遍的な実相なのである。

 多摩地区西部には「将門伝説」が多く残っている。金剛寺の創建もそれが関わっており、将門は承元年間(931~37)にこの地に来て、馬の鞭として使用していた梅の枝を地面に挿し、「我が望み叶うならば根付くべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったとされている。また「我願成就あらば栄うべし、然らずんば枯れよかし」と誓ったとも伝えられている。将門は朝敵とされ、天慶三年(940)に藤原秀郷平貞盛などによって討伐された。将門の願いは成就しなかったものの、梅の枝は根を張り成長した。

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将門誓いの梅の古木

 将門が挿し木した梅は実を付けるようになるまで成長したが、なぜか、その実はいつまでも青いままで熟さなかった。そのことから、この地は「青梅(あおうめ)」と呼ばれるようになったとされている。梅の木の中には確かに実が黄熟しないまま落実するものが他にもあるようで、それらは突然変異種と考えられている。なお、梅の寿命は100~400年ほどなので写真の古木は、挿し木もしくは接ぎ木で幾世代を経ているものと考えられるが、場合によっては将門の怨念によって生かされているのかもしれない。

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軍畑駅入口交差点からR411沿いの景観は様相を変える

 写真は「軍畑(いくさばた)駅入口交差点」(標高201m)の経路を示す道路標識である。本項の冒頭に触れているように、標識の下にあるピークは御岳山頂だ。

 青梅線青梅駅までは本数は多いが、青梅駅以西になると激減する。青梅駅の時刻表を調べてみると、平日の上り立川方面では、6、7時台は各8本、8から10時台でも5本ある。一方、軍畑駅(標高243m)では、6時台は4本あるが、7から9時台では各2本、10、11時台では各1本となり、通勤や通学に青梅線を利用するには相当な不便を強いられることになる。

 武蔵野台地青梅駅付近を扇頂として多摩川が形成した扇状地なので宅地開発は比較的容易だが、青梅駅以西は一部に狭いながらも河岸段丘は多少存在するものの、大半は傾斜地であって宅地開発が難しく、人口増加は望めない場所だからである。それゆえ、青梅線(旧青梅鉄道、旧青梅電気鉄道など)の開通に関しては、青梅駅までは旅客営業も考慮に入れられたものの、青梅駅以西は貨物利用を前提として敷設された。

 青梅鉄道は1894年、立川・青梅間に開通したが、翌年には青梅・日向和田間が貨物線として開業した。これは、日向和田にある石灰山から石灰石を運ぶために必要とされたからであった。日向和田の石灰は盛んに掘られ、約70年で完全に掘り尽くされた。

 そもそも、江戸時代には青梅北部の成木・小曾木の石灰は城などの白壁造りに大いに必要とされた。1606年の命令書には「今度江戸御城御作事、御用白土武州上成木村、北小曾木村山根より取寄候り。御急の事に候間、其方代官所、三田領、御領、私領まで道中筋より助馬出……」とある。石灰石運搬のために、成木から江戸府内までの街道が整備されたのだった。現在の青梅街道は、この成木街道が転用されたものとも考えられている。

 成木にせよ、日向和田にせよ、この辺りは関東山地の東縁にあたり、その地層はかつて「秩父古生層」と呼ばれていた。この「秩父古生層」の名称は、前回の項において「千代鶴」のところで触れており、「地下170mの秩父古生層の水を汲み上げて仕込水に用いている」と紹介している。「秩父古生層」はあきる野や青梅、奥多摩などの基盤岩の通称で、現在では古生代(約5億7千年前~2億2500万年前)の堆積層ではなく、中生代(約2億2500万年前~約6500万年前)のものであることが判明している。

 青梅や奥多摩の地層は成木層、雷電山層、高水山層、川井層、海沢層などに区分されるが、砂岩、頁岩、泥岩、礫岩に混じってチャートや石灰岩が含まれている。それゆえ、石灰岩の多い場所では石灰が採掘されたり、鍾乳洞が発見されたりしている。また、チャートや石灰岩は他の岩石に比べて侵食に強いために、それらを多く含む場所では山に独特の形状を与えている。私が大好きな大岳山(キューピー山)、高岩山などはその代表である。

 ともあれ、青梅市街から西側の多摩川は硬い基盤岩の中を縫うように流れており、谷底は深く河岸段丘を形成しにくいため、山での仕事を主とする人々以外には住みづらい場所になっている。それもあって人口は増えず、結果として電車の本数は少ないままなのである。

 宮ノ平日向和田、石神、二俣尾、軍畑、沢井、御嶽、川井、古里、鳩ノ巣、白丸、奥多摩の各駅が青梅駅以西にあるが、このうち、観光客が電車を使って利用するのは御嶽、奥多摩ぐらいだろうか。ここに挙げた駅のうち、JR東日本が乗降客数を公表しているのは奥多摩駅だけで、その数は1858人となっている。あとの駅は非公開とされている。少ない人数であることを公表すると廃線、廃駅の声が高まってしまうだろうことを警戒しているのかも。

 ところで軍畑(いくさばた)という地名は、三田氏と小田原北条氏との最後の決戦がおこなわれた場所であることから付けられた。ここには多摩西部を拠点にしていて上杉側についていた三田氏の最後の砦ともいえる辛垣(からかい)城(標高457m)があった。そこに小田原北条氏の北条氏照(本ブログではお馴染みの存在)軍が攻め入り(辛垣の戦い)、結果、1563年に三田氏は敗れて滅亡した。武蔵国内での攻防戦が展開された場所として一部の地域史ファンに知られた存在である。三田氏の詳細については、いずれ青梅の項を立てたときに触れたい。

机龍之介のふるさと・沢井

 軍畑駅入口交差点を過ぎてR411を奥多摩方向に進むと、もはや道の左右、多摩川の右左岸には平地はほとんどなく、右手はすぐ山、左手の谷底には多摩川といった風景が続くようになる。R411は奥多摩駅のすぐ先まではずっと多摩川の左岸側を走っている。一方、吉野街道はずっと右岸側を走っている。軍畑まではその間に多摩川の流れだけでなく道沿いや段丘上に宅地が結構あるので両道路間も距離はあるが、軍畑以西はその間隔が縮まり、R411は左岸すぐ横、吉野街道は右岸すぐ横を走ることになる。それゆえ、片方の道が工事か何かで滞ると、多摩川に架かる橋を渡って容易に対岸の道に移ることができる。

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沢井駅前を通過するR411

 青梅線では軍畑駅の次が沢井駅となる。沢井といえば、下に挙げる小沢酒造の「澤乃井」の醸造地として知られ、観光名所もいくつかあるので訪れる人も多いが、私にとっての沢井は、「机龍之介」が生まれ育った地であることだ。龍之介はここにあった「机道場」のひとり息子として成長し、「音なしの構え」の剣法を編み出した。ただ、彼は剣道の修行だけでは飽き足らず、大菩薩峠などでの試し切りなど、平気で人を殺すようになってしまった。

 中里介山の『大菩薩峠』は世界最大の大河小説といわれ、しかも作者死去のために未完である。大長編小説というと『失われた時を求めて』や『チボー家の人々』がよく知られているが、それらは内容がいささか高尚なので読み通すには忍耐力が必要であるが、『大菩薩峠』はあくまでも通俗時代小説なので気軽に読めるし、何よりも興味深い人物や場面が数多く登場するのが嬉しいのだ。私がR411をさして理由があるわけでもなく走りたいと思うのは、机龍之介の姿を追うため、大菩薩峠を間近に望むためということが心底にあるからなのかもしれない。もっとも、裏宿の七兵衛は青梅に実在した義賊であったにせよ、机道場や龍之介は架空の存在なので、沢井周辺をいくら歩いてもそれらの面影を見出すことはできないのだが。

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沢井には机道場はないが小澤酒造がある

 沢井駅入口交差点のすぐ手前右側に、写真の小澤酒造がある。「澤乃井」は多摩の地酒のブランド名としてはもっとも有名だと思われる。前回に触れた中村酒造同様、こちらも工場見学ができるそうだ。私は酒の匂いだけで酔ってしまうので見学はできないが。創業は元禄15年(1702)とのことなので、300年以上の歴史がある。元禄15年といえば、赤穂浪士討ち入りの年である。

 この小澤酒造も千代鶴の中村酒造と同じく、「秩父古生層の岩盤を140mもくり貫いた洞窟から湧き出る石清水を……」と地下水を仕込水に用いているとのうたい文句がある。先に述べたように「秩父古生層」は通称に過ぎないが、「中生代の川井層」というより、水は豊かで清らかな感じがする。

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清流ガーデン・澤乃井

 工場はR411の北側にあるが、写真の澤乃井園は南側にある。工場の入口の標高は213mだが、澤乃井園は道からやや下った204mのところにある。ちなみに多摩川の川面は197mほどなので、この園では、川のせせらぎを聞きながら軽食をとったり買い物を楽しんだりすることができる。紅葉の季節にはとりわけ景観が良くなるだろうが、大混雑は必至である。

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澤乃井園前に架かる吊り橋と右岸にある寒山

 川に沿って御岳渓谷遊歩道の一部として整備されているので川べりの散策が楽しめる。また澤乃井園前には写真の吊り橋(楓橋)が架かっているので、右岸側に移動することもできる。澤乃井園のすぐ隣には小澤酒造が運営する「きき酒処」、豆腐や湯葉のランチが楽しめる「豆らく」、豆腐懐石料理の「まゝごと屋」があり、橋を渡って吉野街道に出た先には、やはり小澤酒造関連の「櫛かんざし美術館」がある。

 写真の吊り橋の先に写っているのは寒山寺で、中国の蘇州にある寒山寺に因んで、1930年、小澤酒造の協力によって建立されたものである。この寺院の南側の高台に吉野街道が走っていて、多摩川側には無料の寒山寺駐車場(標高232m)が整備されている。

 私はこの周辺には散策場所としてよく訪れるのだが、小澤酒造関連の施設を利用するのはその駐車場とトイレと楓橋と遊歩道ぐらいで、各店や工場に入ったことはない。もちろん毎回、橋の上からは川の中をのぞき込んでアユなど魚の姿を探す。

御岳登山は来年の目標のひとつである

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JR青梅線御嶽駅

 沢井駅の隣が写真の御嶽駅。R411の御岳駅前交差点には「御岳駅前」と記されているが、青梅線の駅名は「御嶽駅」となっている。地名も山名も「御岳」であるが、御岳山頂にある神社名は「武蔵御嶽神社」と表記される。駅名が御嶽と表されているのは、レジャーとしての山登りのために設置された駅なのではなく、宗教行為として御嶽神社に参拝するための最寄り駅という位置づけなのだと考えられる。あるいは、”たまたま”かもしれないが。

 「嶽」は獄に「やまへん」が付いたもの。『詩経』には「崇高なるは、これ嶽、たかくして天にいたる、これ嶽……」とあるので、嶽には、ただ高いだけでなく神聖なるものという意味が込められているのかもしれない。一方の「岳」は、甲骨文字では山の上に羊の頭を乗せたものを表していた。中国では古くから羊は神聖な瑞獣と考えられており、それゆえ岳は聖地としての山を示すことになる。つまるところ、岳でも嶽でも、漢字の成り立ちは異なるにせよ、意味するところはさして変わりがないように思えるのだが。

 嶽の「獄」はけものへん=犬に、右の部首も犬で、その間に「言」がある。獄には「裁く」という意味があり、刑事裁判のことを古くは断獄(罪を裁く)と言っていた。人の罪を裁くにはまず原告も被告も双方が身を清める必要がある。そのために、汚れを祓う力があるとされる犬を生贄にして、その上で真実を述べる誓い=盟誓して証言したのだろうか?嶽には裁判とは関係がなさそうだが、山に登るためには身を清める必要があるとするなら、嶽=神聖な山と考えてもおかしくはない。富嶽=富士山だが、富嶽と記すと信仰対象(絵画の対象としても)としての富士山になり、富岳と記すとスーパーコンピューターになる。

 御嶽駅前の標高は232m、御岳山は929m、武蔵御嶽神社の境内は926~932m。御岳山に歩いて上るとすれば比高は697m。また、車で御岳登山鉄道の滝本駅(標高408m)までは行けるので、そこに駐車して徒歩で登るとしても比高は521mとなるので、私の徒歩による高低差克服の自己新記録となる。しかし、滝本駅まで行ったとなれば登山鉄道利用は必至だろうから、御岳山駅(標高831m)までは自力とはならず、結局、比高は98mにしかならない。

 御岳山は未登頂であると記憶しているので、本ブログで青梅の項を立てる際には必ず、初登頂を達成したい。さしあたり、徒歩は無理なのでケーブルカー利用となるが、それでも、武蔵御嶽神社を見物したいし、周囲の風景を楽しみたいと考えている。もっとも、晩秋は紅葉シーズンなので混雑は必至だし、熊に襲われる危険もあるので、来春にチャレンジしたいと考えている。春は木々が葉っぱを纏っていないので、見通しが良いという利点もある。

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駅前にある御岳橋

 御嶽駅前にはR411と吉野街道とを結ぶ御岳橋が架かっており、それは御嶽神社への参道としての役割を果たしている。ただし、徒歩で御岳山に登ろうとする人、もしくは、せめて滝本駅まではバス利用ではなく歩いて行こうとする場合(比高176m)は、この橋を用いずにR411を奥多摩方向に進み、御岳郵便局のすぐ先にある細道に入り、神路橋を渡って道なりに進むと吉野街道に出てそのまま直進すれば滝本駅にたどり着くことができる。

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御岳橋上から御岳渓谷を望む

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御岳橋から上流方向を望む

 上の写真は、御岳橋から多摩川の流れを望んだものだ。御岳橋の標高は232m、多摩川の川面は207mなので、高所恐怖症の私には真下をのぞき込むことはできない。それゆえ、視点はやや遠めに置いた。

 先にも触れたように、この辺りは御岳渓谷遊歩道が整備されている。渓谷美を楽しむ人をよく見掛けたが、写真のように急流をカヤックで下る姿も多かった。橋から多摩川左岸の崖を眺めると、川沿いに立ち並ぶ建物(これらはR411沿いにある)の多くは、御岳渓谷を眺められるような造りになっていることが分かる。その姿から、かつては旅館など宿泊所に利用されていたと思われるが、現在でも一部は食堂やレストランとして利用されているようだ。景観は良さそうだが、少し怖さも感じられる。

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玉堂美術館横から渓谷を眺める

 御岳橋を渡り、吉野街道に出ると多摩川右岸には「玉堂美術館」と小澤酒造が経営するお土産物店「いもうとや」がある。明治から昭和にかけて活動した川合玉堂は日本を代表する画家のひとりで、晩年(1944~57年)は御岳の地で過ごした。玉堂の死後、地元有志や全国の玉堂ファンなどによって61年、玉堂美術館が開館した。私は絵画にはほとんど関心がないのでこの美術館には入ったことはなかった。今回は折角なので入館するつもりでいたのだが、その日は閉館日だった。つくづく、絵画には縁がないらしい。

 気勢はそがれたものの、個人的には渓谷美により関心が高いので、少しだけ散策した。写真の下流には「オーストラリア岩」「溶けたソフトクリーム岩」「御岳洞窟」「忍者返しの岩」などと名付けられた奇岩が多い。それらは川の左右にあるため、両岸を行き来するための小さな橋が架けられていたのだが、写真のように、昨秋の大洪水で橋は流されてしまっていた。

R411は青梅市と別れ、奥多摩町と出会う

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R411から奥多摩大橋を望む

 R411に戻り、再び西に向かった。相変わらず、R411は多摩川青梅線との間を川の流れと同様に蛇行しながら進む。小さな谷川のあるところでは少しだけ標高を下げるものの、全体としては上り基調である。道は林と山の際を進むため、多摩川の位置は分かっても、流れは谷底深くにあるため、川そのものを視認することはできない。

 御嶽駅の次の駅は川井駅となるが、その途中で青梅線もR411も、そして私も青梅市には別れを告げ、今度は奥多摩町の旅が始まる。川井駅に近づくと多摩川は少しだけ河原を広げるためもあって、R411からの視界もまた開けてくる。上の写真は、川井駅の近くにあり、川井交差点(標高256m)と吉野街道の梅沢交差点との間を結ぶ「奥多摩大橋」を姿をR411の道路際から望んだものだ。

 大橋下の右岸側(吉野街道側)に、多摩川はより広い河原を形成しており、その周辺は「川井キャンプ場」として整備されている。キャンプ場には興味はないが、奥多摩大橋には大いに惹かれる。奥多摩辺りにはもったいないと思える(個人の感想です)ほど立派な斜張橋だからである。橋の全長は265mと川幅がそれほど広くない場所に架かっているので驚くほどの長さではないが、この橋で特徴的なのは主塔間の長さである。それを支間長(スパン)というが、この橋では160mほどもある。スパンが広いということはそれだけ主塔が立派でなければならない。橋好きにとっては、その雄大さに魅せられてしまうのである。

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奥多摩大橋上から青梅線を望む

 奥多摩大橋を渡った吉野街道側の字名は梅沢である。そこには約5000年前の縄文集落跡があるらしいので、少しだけ探したのだが見つからなかった。それもそのはず、こちらの勘違いで、「梅沢」ではなく「海沢」だったのだ。海沢は梅沢のさらに上流に位置し「奥多摩霊園」がある場所だが、その辺りを探すのには時間が不足しそうなので、今回は捜索を断念した。

 R411に戻るため、奥多摩大橋を往復することになった。その際に、川井集落の中を走る電車が見えたので、私の前後に他の車がいないことを確認してから車を橋上に停め、川井駅に到着するためにスピードを緩めた下り列車を撮影した。今となっては、青梅線であっても五日市線であっても八高線であっても、さらに南武線ですら現代風の車両が用いられている。もはや、焦げ茶色の車両に出会うことはないのかもしれない。 

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川井交差点の先に青梅マラソンの折り返し地点がある

 川井交差点に戻り、R411を西へ進むと、ほどなく左手に「松乃温泉・水香園」の看板が見える。かなり前になるが、母親が健在のときに何度か訪れたことがあったことを思い出した。多摩川左岸側にある温泉兼料亭は、川沿いの広大な敷地の中に離れが数棟建っていて、貸し切りで日本料理を堪能したり、温泉に浸ったり、川沿いを散策したりできるのだった。私の場合は温泉には入らず、ひたすら川べりを歩き魚影を探していた。水を見ると、条件反射的に魚を探すのだ。たとえ、雨が形成した水たまりであったとしても。それが釣り人の性なのだ。

 その水香園のすぐ先にあるのが、写真の「青梅マラソン・30キロ折り返し」地点を示す看板である。青梅マラソンは市民マラソンとして1967年に始まった。マラソンと言ってもフルマラソンではなく、メインの30キロの部と10キロの部とがある。私は中学生までは走ることが好きだったので、高校生になったら出場しようと考えていたのだが、あいにく、15歳の終わりごろから”放浪者”もしくは”浮浪者”になってしまったので、参加することはなかった。

 2020年は2月16日に15256人が参加して開催された。まだ新型コロナは大騒ぎになってはいなかったので中止にはならなかった。しかし、21年の第55回大会は2月21日に予定されていたのだが、早くも延期が決まっている。青梅は義賊の七兵衛を生んだ土地である。『大菩薩峠』の主人公のひとりでもある俊足の七兵衛に因んで始まった大会ではあるが、14年の大降雪による中止、21年のコロナ禍による延期、さらに言えば”市民マラソン”の地位を東京マラソン(2007年に始まる)に奪われてしまったことなど、七兵衛は草葉の陰で嘆いていることと思われる。

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青梅街道と吉野街道とが合体する古里駅前交差点

 多摩川右岸側を左岸のR411と並走してきた吉野街道は、万世橋多摩川を越えて写真の古里駅前交差点(標高288m)でR411に吸収される。車で多摩川沿いを遡って奥多摩湖を目指すには、もはや選択肢はR411しか残されていない(ただし暫くの間だけ)。

 前回に触れたように、R411は友田交差点から畑中一丁目交差点の間は吉野街道を称していた。吉野街道は畑中一丁目交差点からは都道45号線として古里まで進んできた。その間には「吉野梅郷」「吉川英治記念館」「寒山寺駐車場」「玉堂美術館」「武蔵御嶽神社一之鳥居」「川井キャンプ場」など、多くの観光施設や遊び場がある。しかし、多くは林の中を抜ける道であって、青梅街道としてのR411より遥かに信号機は少なく、またカーブも緩やかなため、吉野街道はバイパス的な機能も果たしている。

 それにしても、「吉野街道」の名の由来は不明のままだ。吉野山は奈良だし、吉野川は四国だ。が、由来は不明であっても想像することは可能だ。

 第一は、青梅の開拓に貢献した「吉野織部之助」に由来するもの。彼の父親は大和国の吉野出身で、忍(おし)城主の成田家の家臣であった。成田家は小田原北条氏側について秀吉軍と戦い城を死守し続けたものの、1590年に小田原城が陥落したため、忍城は開城された。このことについては本ブログではすでに何度か触れている。

 忍城から追われた吉野家は青梅の師岡村に移り住み、農業に励み、やがて青梅有数の豪農となった。さらに、吉野織部之助は新田開発をおこなった。1610年、この地に鷹狩りに訪れた2代将軍・徳川秀忠は「せめて一軒でも家があれば」と側近に嘆いたほど、当時、箱根ヶ崎と青梅宿との間にはまったく家がなかったらしい。織部之助はその未開の地を開拓し、新町村を誕生させた。現在、青梅街道沿いの新町周辺はかなりの賑わいを見せている(ドンキもある)が、その原形は織部之助が生み出したのだった。また、前述したように青梅市では河辺駅周辺にもっとも人が多く集まるが、その河辺も織部之助の開拓が起源となっている。さらに、織部之助は青梅宿以西の開拓にも寄与しており、下村、畑中村、日影和田村、柚木村は合併して吉野村と名乗っていたことがある。そうしたことから、吉野織部之助に因んで、彼が開発した地域を通る道は「吉野街道」と名付けられた。けだし、当然のことであろう。

 第二は、武蔵御嶽神社との関係だ。御岳山は修験者の霊場として古くから名高いが、その修験道の総本山と言えば役小角役行者)が開基とされる吉野の金峯山寺である。武蔵御嶽神社への道は修験道山岳信仰を通じて本家の吉野山につながる。その武蔵御嶽神社の「入口」にあるのが、現在の吉野街道である。それを思えば、道の名前は吉野街道以外に考えられない。

 そして第三は、「たまたま」である。

 古里から始まる道は奥多摩湖へと通じている。次回は奥多摩駅奥多摩湖小河内ダム)、多摩川の上流域である丹波川、青梅街道の分水嶺である柳沢峠、そして大菩薩峠などについて触れる予定。R411の旅は、まだ道半ばである。

  *  *  *

 10月30日は、「たまごかけごはんの日」でも「宇宙戦争の日」でも「教育勅語発布の日」でもあるが、何と言っても「初恋の日」なのである。これは、島崎藤村が『文学界』に「まだあげそめし前髪の……」ではじまる初恋の詩を発表した日であることによる。これは藤村ゆかりの老舗旅館である小諸市の「中棚荘」が制定して全国に広まった。

 私の「はつこい」は5歳のときであった。そのときはまだ漢字では書けなかった(読むことはかなりできた)ので、あえてひらがなにした。

 3歳上の兄を中心として、近所のガキンチョが5、6人集まって、林檎畑ではなく、府中崖線下にある小川でよく魚取りをした。網は2つしかなかったので、それらは年長者(といっても7,8歳)が使い、鼻たれ小僧の私は石を投げ入れて魚を脅し、兄たちが構える網に誘導する役か、もしくは「魚あるポイントと思ひけり」、「やさしく白き手をのべて」、手づかみで魚を捕らえるしかなかった。

 兄たちの休憩時、網を構える者がいなくなったので、それを借りて私は魚を追った。そして川のヘリで30センチもある大きなコイを網に入れることができた。私にとって、初めて捕まえたコイだった。

 当然、そのコイは私のものになると思ったのだが、私には小さなフナが数匹、与えられただけで、コイは兄と同年の者に奪われてしまったのだった。

 「コイは儚い」。私は実感した。それが10月30日であったかどうかまでは記憶にない。

 

〔47〕3ケタ国道巡遊~徘徊老人R411を行く(1)

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友田交差点にあるR411の道標

かつて、ルート66というドラマがあった

 『ルート66』(1960~64)というテレビドラマがあった。日本でも61年から放映された。私はまだガキンチョではあったが、そのドラマをかなり真剣に見ていたという記憶はある。本はまったく読まなかったが地図を見るのは好きだったので、ルート66の始点であるシカゴ、終点であるサンタモニカを探し、地図の中でその道筋をたどった。セントルイスオクラホマシティサンタフェアルバカーキ、パサディナ、ロサンゼルス、ビバリーヒルズなど、アメリカを代表する都市をその道はつないでいた。ルート66には「マザーロード」の別名がある。大陸をほぼ東西に横断する道であり、とくに西部の開発には欠かせない存在であった。しかし、高速道路網の整備が進んだこともあり、1985年、そのルートは国道としての役割を終えている。にもかかわらず、アメリカ市民だけでなく、そのドラマを見て育った日本の元若者たちにも、「ルート66」の名は心に深く、そして強く刻まれている。

 50~60年代といえば、日本においても「アメリカンウェイ・オブ・ライフ」は憧れの生活様式であり、それは『パパは何でも知っている』(54~60)、『奥様は魔女』(64~72)などを見て育った世代では目指すべき日常でもあった。何しろ、アメリカはウマがしゃべる(『ミスター・エド』61~66)国なのだから~そんなバカな……。高度成長期には、今日よりも明日のほうが必ず良くなると信じ込まされ、そして高い確率で実際に信じていた。その成れの果てが「コロナの時代」なのだが。

 アメリカに憧れ、しかし、アメリカは遠い存在だった。63年に始まった『アップダウンクイズ』のキャッチコピーは「十問正解して、夢のハワイに行きましょう」であった。ハワイですら夢なのだから、アメリカ本土への旅行は夢のまた夢であると大半の人は考えていた。府中には米軍基地があった(今でもほんの少しだけ残っている)のでアメリカ人は結構、身近な存在だったし、実際、小学校低学年時にはアメリカ人の子供たちとよく遊んでいた。が、自分がアメリカに行くということは夢にすら現れてこない時代だった。

 大人になり、本格的な釣り人になり、そして釣りの取材でロサンゼルスに出掛けることになった。目的地はメキシコのバハカリフォルニア半島だったので、ロスは拠点に過ぎなかったが、それでも毎回、一日だけは釣りをしないでロサンゼルス市内や周辺地を巡った。いつも、必ず出掛けたのはビバリーヒルズの大豪邸見学、高級ブティックが集まるロデオドライブでの買い物、そして、ルート66の跡地を訪ねることだった。サンタモニカからビバリーヒルズまでの短い距離ではあったが、知人の車を運転したことも何度かあった。車はコルベットではなくリンカーンだったが。幼い頃、憧れだけの存在であったルート66を、私はドライブしたのである。その体験に、深い感慨と少しの罪悪感を抱いたのだった。

日本には「ルート66」はない!?

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友田交差点のもうひとつの道標

 ルート66と聞いて、8.1240……と電卓で計算するのは誤りだ。ここでいうルートは”root"ではなく”route"なのだ。ルートは道路のことで、ルート66は66号線なのだから、さしあたり、国道66号線はなくても都道66号線ならありそうだが、残念ながら欠番になっている。神奈川の県道も欠番だが、埼玉には県道66号線があり、それは行田東松山線である。なので私は、その道を数回は通っているはずなのだが記憶にはまったく残っていない。これは、県道の標識がヘキサゴン(六角形)で、上に県道、中央に66、下に埼玉と表記されているからだと考えられる。

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国道の標識はおにぎり形

 これが国道なら、写真のようにおにぎり形の中に、上に国道、中央に番号、下にROUTEとあるので、印象の受け方がまったく異なるのだ。ちなみに、道路好きは国道はR〇〇、都道や県道はr〇〇と表記して区別している。それゆえ、今回に巡遊した国道411号線(正式には”線”は付けない)はR411、県道66号線はr66と書く。どちらも道路なのでrouteには違いないが、やはりルートという限りは国道のほうでありたい。R20なら国道20号線であって、これは多くの場合「甲州街道」を指すことになるが、r20になると、都道府県、市町村などに数多くあって、それを特定するには困難を極めることになるのである。

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R411はR16の左入町交差点を始点とする

 写真は、今回の主役である国道411号線の始点となる左入町交差点を国道16号線から見たものだ。R16の別名は東京環状で、横浜市西区高島町交差点を始終点とする首都圏の大動脈である。もっとも、”環状”は完全には環になっておらず、観音崎富津岬との間は「海上の道」であって、実際には道路はない。それでも環状であると想定しているため、始点も終点も同じ場所になる。この点、鉄道の山手線は潔く?、始点は品川駅、終点は田端駅と定められている。田端駅から品川駅の間にある上野駅、神田駅、東京駅、新橋駅などは東北線東海道線に属し、山手線がその区間を「間借り」しているのだ。もっとも、軌道は山手線専用のものを敷設しているが。

 一般国道は、現在ではとくに区別されていないが、かつては一級国道二級国道とがあり、前者は1、2ケタの数字、後者には3ケタの数字が当てられていた。R1~R58、R101~R507の国道が現存するが、実際には欠番も多くある。R1は東海道京街道、R4は日光街道奥州街道、R20は甲州街道など主要国道には1、2ケタの番号が与えられている。なおR58は、1972年に沖縄が返還されたことにより、鹿児島市から那覇市に通じるルートが新たに指定されたものだ。それは日本で一番長い国道ではあるものの、その大半は「海上の道」である。

 3ケタの番号のほとんどは地方国道であるが、千代田区から沼津市に通じているR246など主要国道以上によく知られたものもある。青山通り(赤坂、青山、表参道を通る)、玉川通り三軒茶屋二子玉川を通る)というおしゃれなルートは、田舎道に属する3ケタ国道なのである。一方、R152は青崩峠が通行不能、R291は清水峠が通行不能、R339は龍飛岬の一部が階段など、「酷道」と呼ばれるいくつかのルートの大半は3ケタ国道である。

R411の起点は八王子市左入町にある

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R411は普通の田舎道でもある

 国道411号線は、八王子市の左入町交差点を始点とし、終点は甲府警察署前交差点で、全長は120キロほどだ。観光地としては御岳周辺、奥多摩湖、柳沢峠、大菩薩ラインなどがあるが、私がとくに目的地にするような場所ではない。が、数年に一度、理由はこれといって見当たらないのだが、なぜか無性に走りたくなるルートなのだ。これから先、何度か「3ケタ国道」をテーマにして駄文を記述しようと考えてみたのだが、最初に思いついたのがR411だった。

 伊豆半島に出掛けるときはR135、R136、R414、三浦ならR134、房総ならR127、R128、いろんな理由で使わざるを得ないR246、秩父上野村に行くときはR299、日本海で夕日を眺めるならR178、いつかは完全に走り切ってみたい四国のR439など、すぐに思い浮かぶ3ケタ国道は数多くあるのだが、今回、このテーマが思い浮かんだ際、まず念頭に上ったのがR411だった。

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起点の左入町交差点。ここからR411の旅が始まる

 R16を八王子市街から多摩川方向に北上し、中央道八王子ICを過ぎて加住北丘陵の手前まで来た場所に、写真の「左入町交差点」がある。R16を北上した場合、ここを左折した場所からR411の旅は始まる。この交差点の標高は110m。ちなみに、R411の最高地点は1472mの柳沢峠である。

 少し上の写真のR16から見た標識から分かる通り、この道の通称は「滝山街道」である。滝山については本ブログの第36回滝山城跡の項で触れている。観光駐車場や滝山城跡入口の看板がある場所は、今回取り上げるR411に面している。

 R411の最初は滝山街道であるが、R411=滝山街道というわけではなく、その先は吉野街道、さらに青梅街道という具合に変わっていく。

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滝山街道は歩道の確保が難しいほどに道幅は狭い

 写真から分かる通り、滝山街道の道幅はとても狭い。一応、片側一車線は確保されているものの、バスや大型トラックでは車線内に収まるのが困難なほど。歩道はなく、人はガードレールや白線の内側をおっかなびっくり歩くしかない。

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こちらは新滝山街道の左入橋交差点

 道は狭くとも、八王子市からあきる野市への移動(その反対も)は一定程度あるし、中央道の八王子ICや圏央道あきる野ICの利用も多い。それでは渋滞必至ということで、狭い滝山街道を補完するために、そのすぐ南側に造られたのが新滝山街道である。ここもR16との交差点が始点であるが、滝山街道の左入町交差点と区別するために左入橋交差点と命名されている。

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新滝山街道は片側2車線で歩道も広い

 滝山街道とは谷地川をはさんですぐ南側を並行して走る新滝山街道は片側2車線の快適な道路で、歩道も広めに確保されている。写真の上り車線は大混雑しているが、これは左入橋交差点付近で改修工事がおこなわれていたためで、普段はもう少し空いている。ちなみに、新滝山街道はR411ではなく、都道169号線(r169)である。

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道の駅・八王子滝山は新滝山街道沿いにある

 コロナ禍もあって車移動の人が増えたためか、道の駅の利用者は増加傾向にあるようだ。写真の道の駅・八王子滝山も駐車待ちを余儀なくされるほど利用者は多い。八王子市で生産された農業品も多く扱われているため、地元の利用者も多い。ここにはR411から来ることもできる(案内表示はない)が、とても狭い道を通る必要がある。したがって、周囲にある標識のすべては、r169からの利用を案内している。

R411は北上を始める

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加住北丘陵から秋川、R411、圏央道関東山地を望む

 滝山街道は戸吹町まではほぼ西進するが、その先で、あきる野市に向かうために北上する。それには加住北丘陵を越えなければならない。始点の左入町交差点の標高は110m、戸吹町交差点は154m、北に転進する地点の明大中野学園入口交差点は166m、そして丘陵のピーク地点は176m、そこから下って新滝山街道と合流する東京サマーランド前交差点は139mである。

 写真は、丘陵を下った標高157m地点から秋川、R411の秋留橋、圏央道関東山地を望んだもの。写真の左手に見える三角形のピークは、御岳山・奥の院(標高1077m)である。

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戸吹トンネルを出ると新滝山街道はR411に合流する

 滝山街道は丘陵越えをするが、新滝山街道は戸吹トンネルで丘陵を貫通し、サマーランド前交差点でR411に合流する。交差点の先はR411の秋留橋で、そこだけ新滝山街道の流れのままに片側2車線になっている。が、右側の車線は圏央道あきる野ICに入るためのものなので、R411を直進する場合には左側の車線に移る必要がある。このICを利用するのは大型トラックが多く、トンネルの手前でトラックは右側車線に移動している。前を走るホンダ・フリードや私はR411を北へ進むので、左側車線で信号待ちをしている。

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秋留橋から見た道標

 上の写真は秋留橋から上り方向に道標を見たもので、正面に戸吹トンネルがある。この標識から分かるように、R16を目指す車は新滝山街道に進むように誘導されており、R411はあくまで左入町に至る田舎道扱いなのだ。

 ところで、先に新滝山街道都道169号線(r169)と記したが、上の標識ではr46とある。この理由は簡単で、新滝山街道部分はr46とr169との重複区間になっているからで、通常、重複区間の場合は数字の小さいほうが優先表記されることになる。しかし、日野から西に進む場合はr169(淵上日野線)の延長上に新滝山街道があるのでr169と表記され、あきる野から八王子に進む場合は日野を念頭には置いていないため、本来的な表記であるr46を採用していると考えられる。というのは私の勝手な想像にすぎず、実は単にお役所仕事上の誤表記の可能性もある。

 

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R411から圏央道あきる野IC料金所近辺を望んだ

 圏央道あきる野ICは秋川左岸の高台にある。R411の秋留橋北詰に、あきる野IC交差点がある。私が圏央道を利用するときは青梅ICを利用することがほとんどなので、あきる野ICを利用したことは数回しかない。

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平日なのにそれなりの利用者がいる東京サマーランド

 サマーランドは秋川の右岸にある。1967年に開業したので、もう50年以上の歴史があるのだが、私は利用したことはない。ドーム内プールや流れるプールがよく知られているが、そこでは釣りができないゆえ、私には無縁の存在なのだ。平日なのでガラガラだと想像したのだが、駐車場には案外、車が多くとまっていた。サマーランドは現在のところ、コロナ対策のため、事前予約しないと入場できないらしいが、私には無関係である。

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左岸の土手から秋川と多摩からの眺めを代表する大岳山を望む

 サマーランドは外観を撮影するだけで、私は秋留橋を渡り、北詰を左折して秋川の左岸に出てみた。この辺りの秋川には小堰堤が連続して並んでおり、堰堤付近ではアユが大きな群れを形成することが多いため、格好の釣り場となっている。ただ、昨年の台風19号による大増水で左岸の土手が大きく削られたためもあって流路が変更されていた。しかも、かつては左岸の河川敷に降りることができたのだが、その小道は消滅していた。

 秋川は天然そ上アユが多く、また海産アユの放流も多いので、まだまだ友釣りが楽しめそうだと思われるのだが、この広く、そして浅い流れに立つ釣り人はひとりだけだった。もともと泥砂底が大半のポイントだっただけに、昨年の大増水でますます砂や泥が堆積しアユの住処ではなくなってしまったのかもしれない。私はサマーランドには訪れることはないが、サマーランド下のポイントでアユの友釣りを何度かしたことはある。

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千代鶴の銘柄で知られる中村酒造

 秋川の土手からR411に戻り、車を北に進めた。ほどなく、左手ある「千代鶴」の看板が目に留まったので、近くのコンビニに車をとめて様子を確認してみた。現在、私は酒をまったく口にしないが、以前は少しだけ嗜んだことはあった。それゆえ、千代鶴(中村酒造)の銘柄は、澤乃井(青梅)、多満自慢福生)、国府鶴(府中)と並び、多摩地区の地酒としてその存在は知っていた。ただし、それらを口にしたかどうかはまったく記憶がない。実際、飲んだ記憶がある銘柄は剣菱ぐらいなのだ。上記の銘柄を認知しているのは、実は、道路を走っているときによく目にする看板の存在が理由だと思われる。さらに千代鶴の場合は、府中にその名の大きな陶磁器店があった(現在も集合ビルの中にある)ので、それと混同している可能性も大いにあり得た。

 千代鶴(日本酒のほう)の由緒を調べてみると、「その昔、秋川流域に鶴が飛来した事があり、これに因んで縁起の良い名前「千代鶴(つる)」を銘柄としました」とあった。また、中村家はあきる野の地に住んで400年以上過ぎ、酒造業を始めたのは1804年からで、地下170mの秩父古生層の水を汲み上げて仕込水に用いているということなので、どうも、府中の陶磁器店とは関係がなさそうであった。考えてみれば、「鶴は千年、亀は万年」の故事があるので、鶴と千とは密接な結び付きがあり、それゆえ、千代鶴という名称には普遍性があるのだろう。女性の名前でも、千と鶴とはよく結びつく。ともあれ、中村酒造の佇まいは、十分すぎるほどの歴史を感じさせてくれたのだった。

 R411を北に進む。ほどなく睦橋通り(r7)と交わる油平交差点に出会う。私がR411を北に進んでその交差点に出ることはほとんどない。一方、睦橋通りを拝島から西進してその交差点に出会うことはよくある。秋川渓谷奥多摩周遊道路に出掛ける際の大半は、その睦橋通りを利用するからだ。油平交差点は見慣れているはずなのに、見る角度が異なると、まったく記憶にない場所として認識される。なお、睦橋通りは五日市街道(r7)の支線であり、西に1キロ弱進むと五日市街道に合流する。

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五日市街道と交差する秋川交差点

 その交差点を直進して北上すると、今度はJR五日市線の踏切に出会う。五日市線は全線が単線だし、電車自体も本数が少ないので、この踏切が閉じる場面を見る機会は少ない。が、その先すぐに五日市街道と交差する秋川交差点があって、信号待ちの車が踏切までつながると、そこで一旦停止する車の動きが滞るために、秋川交差点を越えるのには案外と時間が掛かるのだ。

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閑散としていた秋川駅北口ロータリー

 私は秋川駅を覗くために秋川交差点を左折して、少しだけR411を離れた。上の写真は10年前に整備された秋川駅北口のロータリー広場の姿である。日中は電車の運転間隔が30分あるためもあってか、よく整えられた広場は閑散としていた。

 私は小学生のころ、五日市線を利用して終点の武蔵五日市駅で降り、そこから徒歩で秋川渓谷に向かい、河原で遊んだり川釣りを楽しんだりしたことがよくあった。学校の行事や町内の子供会でやってきたこともあった。その頃の五日市線蒸気機関車が走っていた。かつては秋川駅という名称ではなく、私が列車で出掛けていた頃は「西秋留駅」と呼ばれていた。西秋留駅が秋川駅と改称されたのは1987年のことである。

 そもそも、私が五日市線に乗っていた頃は「秋川市」は存在せず「秋多町」であった。といっても、秋多町にはまったく用事はなく、目的駅は武蔵五日市駅だったので、五日市町は知っていても秋多町の名前は知らず、ただ途中で、東秋留駅、西秋留駅に列車が停まったという記憶しか残ってはいない。秋多町は1972年に秋多市に昇格したが、市名は直ちに秋川市に変更された。

 五日市町は1995年に秋川市と合併し、それに伴って「あきる野市」に名称変更された。近年、市町村名を仮名書きにするのは珍しくなくなった。むつ市つがる市つくば市みどり市さいたま市いすみ市南アルプス市ニセコ町など数多くある。ただし、東西南北以外で仮名と漢字の組み合わせになるのは、あきる野市ふじみ野市いちき串木野市ぐらいだろうか。

 あきる野市が仮名交じりにしたのは、「あきる」を「秋留」「阿伎留」のどちらにするか揉めたためだそうだ。秋川市周辺は鎌倉時代には「秋留郷」、あきる野市一帯は古くから秋留台地と呼ばれていた。一方、五日市町にある「阿伎留神社」は『延喜式』に記載されているほど歴史のある神社なのである。それゆえ、秋川市側は「秋留」、五日市町側は「阿伎留」を主張して譲らなかったため、妥協点として「あきる」とひらがな表記し、あわせて武蔵野に因んで「あきる野」にしたというのが事実らしい。

 ただし、「あきる」が「秋留」「阿伎留」のどちらであるにせよ、「あきる」が何を意味しているかは不明のままだ。一説には、秋川が氾濫して田んぼの畔(あぜ)を切ることから畔切⇒あぜきる⇒あきるとなった、「あきる」には新羅系渡来人が数多く入植して開発が進んだが、彼らが信奉する新羅の女神は「アカル」と呼ばれていたので、アカル⇒あきるとなったなど、諸説あるそうだ。ただ、阿伎留神社のように、平安時代にはすでにこの地は「あきる」と呼ばれていたということは確かなようである。

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瀬戸岡交差点に向かってR411は下りに入る

 R411に戻り、再び北上する。通りの左右にはコンビニ、スーパー、その他の店が立ち並んでおり、ここら辺りがあきる野市の中心街と思われた。ただし、その賑やかさは長くは続かず、同時に道は秋留台地を下り、写真の瀬戸岡交差点に向かう。直角に交わる道路は「永田橋通り(r165)」であり、その通りを西に進むとほどなく圏央道・日の出ICに出る。

 瀬戸岡交差点を直進すると菅瀬橋が目に入る。下を流れるのは平井川で多摩川の一次支川だ。この川は、本流の多摩川とは五日市線の鉄橋のすぐ北側で出会う。秋川交差点の標高は156m、瀬戸岡交差点は145mなので、秋川駅周辺からは10m以上下ったことになる。さらに菅瀬橋は140mであり、ここを底地として平井川を過ぎるとR411はまた上りに入る。秋川に架かる秋留橋からこの菅瀬橋までが広義の「秋留台地」で、その北側に草花丘陵が横たわっている。そのため、R411はまた上り道になるのだ。写真にも草花丘陵の連なりが見えている。

 今までR411が北上してきたのは、加住北丘陵、秋留台地、草花丘陵を越えて多摩川沿いに出るためであった。この3つの丘陵・台地は、いずれも東向きに舌状に伸びているが、元々は関東山地の東縁で、加住北丘陵は谷地川と秋川との間、秋留台地は秋川と平井川との間、草花丘陵は平井川と多摩川の間にあり、それぞれの川が山地を開析し残したものである。

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西多磨霊園の高台から鐘楼や園地を望む

 R411沿いにある築地本願寺・西多磨霊園は敷地が50万平米あり、しかも丘陵の斜面に西北西へ広がっているため、とても雄大に見える。高台からの眺めはかなり良く、園内には10万本のつつじをはじめとして多くの樹木が植えられているため、散策にも適した霊園である。1966年に開設された新しめの民営墓地のため、施設も充実しているそうだ。宗派は自由ということなので、私のような無信仰の人間でも気軽に入園できる。

 写真は中腹から入口方向を望んだもので、撮影地点の標高は224m、入口は161m、園地の最高地点は258mである。霊園の下には圏央道の菅生トンネルが通っている。写真の左上に見える森は草花丘陵のもので、丘陵は平井川の支流である鯉川に開析されているため、撮影地点からは丘陵は2つに分かれているように見える。

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山田耕作の歌碑があった

 霊園内に入り、少しだけ坂を上ると左手に山田耕作の歌碑があった。『赤とんぼ』のメロディと詞が刻まれていた。西多摩霊園でも有名人は宣伝材料になるらしく、ここでは山田耕作松田優作がその代表らしい。

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霊園から満地峠方向を望む

 R411は写真にある草花丘陵を越えて多摩川右岸側に出るのだが、実際には下で見るようにトンネルが草花丘陵の中腹を貫いている。

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草花丘陵を開析している鯉川に掛かる橋

 霊園を離れ、R411をさらに北へ進んだ。先の写真にあったように草花丘陵は鯉川という小さな川に一部が分断されているが、その谷筋を利用してR411は造られ、丘陵の難関である満地(まんじ)峠(標高227m)をトンネルで越えるのだ。写真の鯉川橋の標高は159mで、霊園入口からは少し下ったものの、この先から道はまた上りになり、東海大学菅生高校入口交差点で177m、そこから道は右にカーブしてトンネルに向かう。

トンネルを越えると青梅市である(本当はトンネルの中?)

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新満地トンネルは自動車、二輪車専用

 写真の新満地トンネルはトンネルの手前が182m、トンネル入口が179mとなっており、道はやや下りながらトンネルに突入する。写真から分かる通り、このトンネルは自動車、二輪車専用で、人や自転車の通行は不可となっている。といっても、人や自転車は満地峠をトボトボと進んでいくわけではなく、新満地トンネルの東側に旧満地トンネルが残っていて、そちらを人や自転車は利用することになる。新満地トンネルは1991年に竣工したが、それまでは、旧満地トンネルと呼ばれているものがR411の旧道であって、91年以前は人も車もそちらを利用していた。

 なお、トンネルの入口(あきる野市菅生)の標高は179mだが、出口(青梅市友田町)は163mで、トンネル内で標高を16mほど下げる。

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友田交差点はR411で有数の渋滞ポイント

 新満地トンネルを出た地点の標高は上に記したように163mだが、その真西には満地峠(227m)があるので、左側は山の急斜面になっている。一方、右手は多摩川右岸になるが、その河川敷の標高は129mなので、R411との比高は34mもある。つまり、右も左も崖なのである。

 青梅市に入ったR411はゆっくりと高度を下げ、この道路の中で渋滞ポイントとしてよく知られている友田交差点に向かってゆく。上の写真はすでに高度を下げ切った場所で、左にゆっくり曲がった先に交差点がある。道標から分かる通り、R411は奥多摩町、御岳山方向に進んでいく。右折すると、その先は「青梅市街」と表記されているが、間違いとはいえないものの、小作駅近くを通る重要な道でもあるので、青梅・羽村市街と記したほうが混乱は少ないかもしれない。

 本項の冒頭に挙げた写真は、友田交差点にある道標だ。これはR411の行方を記したもので、左に行くと八王子、右に行くと奥多摩、御岳になる。また、青梅市街に出る場合もこの方向に進むのが一般的だ。道標から分かることが2つある。滝山街道としてのR411は友田交差点で終わるということ、友田交差点からR411は吉野街道となるということの2つだ。

 一方、冒頭、2番目の写真も友田交差点にある道標だが、右に進めばR411であることは上記と同じだが、左に進むと吉野街道には違いないものの、そちらは都道249号線になる。

 かように、友田交差点は、R411にとって重要な役割を有する三叉路(Y字路)なのだ。

 上の写真を今一度、見てみよう。道標の「青梅市街」と記された右折方向には六角形(ヘキサゴン)の中に249の数字が記されている。この場合、ヘキサゴンは都道を、249は249号線を意味している。249を見ると、ニューヨークと読んでしまいそうだ。あるいは入浴か?短く入浴するとニュウヨクで、ゆっくり入浴するとニューヨークになるというのは嘘である。

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友田交差点と小作坂下交差点との間にある多摩川橋

 折角なので、さしあたりR411には進まず、交差点を右折してr249方向に進んでみた。写真は右折したすぐ先にある多摩川橋青梅市側から見たものだ。橋を渡ると羽村市になる。橋を越えたr249は小作坂下交差点で奥多摩街道(r29)と交わり、そのまま坂(立川崖線)を上がると坂上交差点で新奥多摩街道(こちらもr29)と交わる。この交差点で吉野街道は終了する。道はさらに、青梅街道、圏央道・青梅IC入口へと続くのだが。

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多摩川橋のすぐ下流にある小作取水堰

 写真の小作取水堰は多摩川橋のすぐ下流にある。なお、玉川上水の取水口のある羽村取水堰は、この堰のさらに2キロ下流にある。

 ここで取水されたものの一部は農業用水として用いられるが、大半は小作・山口線導水路を伝って山口貯水池(通称・狭山湖)へ導水される。狭山湖からは東村山浄水場や境浄水場武蔵野市)へ導水され、三次処理された水は東京都の上水道として利用される。

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多摩川橋の西詰から見た友田交差点の標識

 R411に戻るため多摩川橋から友田交差点に向かった。写真の道路標識はr249から見たものである。左折すればR411は滝山街道として始まり、右折すればR411は吉野街道の延長上にあることが分かる。こうした標識から読み取れる情報は、意外に面白い気付きにつながるのである。

 なお、R411上に走っている道路は圏央道で、秋川から友田交差点まで、R411と圏央道は並行してきたのだった。この交差点のすぐ先で両道路は立体交差(ここでは互いに行き来はできない)し、圏央道は入間、狭山、鶴ヶ島方向へ、R411は御岳、奥多摩方向へ進み、別々の旅に人や荷物や車をいざなう。

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昨年の台風19号が多摩川に刻んだ傷跡

 友田交差点から1キロほど進んだ右手に、「友田リクリエーション広場」に至る道がある。広場は、多くの多摩川河川敷でよく見られるようなスポーツ広場や公園、散策路として整備されている。しかし、 昨秋の台風19号の大増水で広場がある右岸側は大きく削り取られ、野球場は外野部分の多くを、公園施設はほぼすべてを失った。ここは多摩川の流れが左にカーブする位置にあるため、大濁流は曲がり切れずにコンクリート護岸を大きく破壊し、さらに広場の土盛りまでをも流し去ってしまったのだ。

R411は青梅街道に名を変える

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この交差点でR411は吉野街道に別れを告げる

 吉野街道は多摩川右岸を付かず離れずといった感じで西進するが、R411は写真の畑中一丁目交差点で右折し、今度は青梅街道として奥多摩方向を目指すことになる。一方、吉野街道はそのまま多摩川右岸を進むが、この交差点からは都道45号として西進する。

 右折したR411は青梅街道を目指す。が、その街道は多摩川左岸を西進しているものの、多摩川は硬い岩盤に行く手を遮られて大蛇行を続けているため、多摩川とは吉野街道同様、付かず離れず状態にある。そのためもあり、R411は交差点からすぐに多摩川を渡る(万年橋)ものの、青梅街道とはただちに合流することはできず、800mほど北上する必要があった。

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R411が青梅街道に合流する丁字路

 R411が青梅街道(都道5号線)と合流するのは、写真の標識がある青梅市文化交流センター南交差点である。新宿大ガード下から始まった青梅街道は都道4号線として青梅を目指し、田無で都道5号線となってここに挙げた丁字路まで進んでくる。そして、R411に合流した青梅街道は、ここから国道411号線として西を目指し、最終的には甲府にたどり着くことになる。

 畑中一丁目交差点で吉野街道の名を失ったR411は、この交差点で今度は青梅街道の名を得る。両交差点間の約800mは「街道」の名は存在せず、R411として独立自尊?の短い旅を進めている。

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釜の淵公園に至る柳淵橋

 上に挙げた青梅市民会館南交差点のすぐ南側には青梅市立美術館があるが、その裏側にある多摩川は大蛇行して逆Uの字を造っている。そのUの字の間に造られたのが釜の淵公園である。駐車場は2か所ある。ひとつは吉野街道沿いにある「かんぽの宿・青梅」の裏手に位置する無料のスペース。ただし、駐車場所は狭くそれに至る道も狭いので、満車のときは引き返すのに苦労する。もうひとつは、R411から「郷土資料館」と書かれた小さな看板のある丁字路を入り多摩川左岸の際に進むもの。こちらはゆったりとしたスペースがある。ただし有料。もっとも一日100円なので、私はこちらを毎回、利用している。件の丁字路は「無名状態」になったR411にあるが、信号はないので、上に触れた「郷土資料館」の小さな看板を頼りにするのみであるが。

 駐車場からは写真の柳淵(りゅうえん)橋を渡って公園の敷地に入る。橋のたもとには「若鮎の碑」があるが、撮影にはやや勇気がいる。青梅市はとても魅力的な町なので、いずれ青梅市単独でひとつの項を立てる予定でいる。そのときには勇気を振り絞って、その像を撮影するつもりでいる。

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特徴的な佇まいをしているかんぽの宿・青梅

 柳淵橋からかんぽの宿を望んだ。吉野街道から見ると変哲のない宿に見えるが、こちらから見るとかなりロケーションは良さそうだ。ちなみに、2人で一泊2食付き8畳の和室で、26100~37300円とあった。強盗を使えば限定クーポンを含めればほぼ半額になるのでリーズナブルな料金といえる。しかし、強盗が東京都にも適用されて以来、予約難しくなっているようだ。

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琵琶湖産鮎放流の地にある鮎美橋

 写真の鮎美橋は柳淵橋の反対側にあり、公園から青梅市街に進むには便利な橋である。橋の東詰あたりから立川崖線が生まれている。私は毎回、この橋上から流れの中を観察してアユの姿を探すのだが、発見したことはあまりない。

 アユは秋に産卵し、ふ化した稚魚は川を下って河口付近で生活し、春に川をそ上しておもに中流域で育ち、秋に産卵して一生を終える一年魚である。一方、琵琶湖には湖内で一生を過ごすアユがいて、これは海に下るアユとは別種であると考えられてきた。1910年、東京帝大の石川千代松博士はそれを同一のものと考えて論文を発表し、さらにそれを実証するために、多摩川の青梅地区に琵琶湖の稚アユを運びこんで実験をおこなった。稚アユは大きく育ち、石川博士の理論の正しさは証明された。

 青梅は琵琶湖産アユ放流事業の発祥の地であり、かつ江戸時代から青梅の鮎は庶民の生活を支える重要な資源でもあったこともあって、釜の淵公園には「若鮎の碑」や「鮎美橋」など、アユにまつわるものが存在するのである。

 近年では琵琶湖産アユの放流事業には問題点が数多くあるという指摘もなされている。この点については、アユ釣り師のひとりとして、改めて触れてみたいと考えている。さしあたり今回は、青梅とアユと釜の淵公園とのつながりをごく簡単に触れてみた次第だ。

 R411を行く旅は、その道の終着点である甲府市甲府警察署前交差点)まで続く。次回は、青梅市街から奥多摩湖のバックウォーター付近まで出掛ける予定だ。

 3ケタ国道の旅はいろいろな発見があって面白い。いや本当に。

〔46〕野川と国分寺崖線を歩く(4)深大寺界隈(後編)

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お寺の鐘は三度、響き渡る

深大寺の歩みを概観する

 深大寺の開創は『深大寺真名縁起』では733年、『私案抄』では757~64年である。前者は深大寺の僧・辨盛が1650年に著したもので、1646年の火災により深大寺に存した縁起・経疏・霊仏・霊宝・梵器などがことごとく焼失したのち、古記を見聞した人や古老の伝語などを参考にして、寺の由緒をまとめたものである。これには、前回に触れた「福満伝説」などが記されている。後者は深大寺の僧・長辨(1362~1434?)が著した文集であり、深大寺の歴史のみならず、当時の多摩地域の風土についても記されており、『真名縁起』よりも史料的な価値は高いとされている。

 1722年、『真名縁起』を元に本文を和文に改め、絵画を加えて絵巻物形式をとった『深大寺仮名縁起』が著された。これは、より一般的な表現内容をもつものとして深大寺の創始期の出来事が表現されているゆえもあってか、現在の深大寺は、こちらに記されている733年説を採用している。ただし、満功上人が父親の福満の念願を果たすために社壇を建て、深沙大王の影向を感じて新羅国から送られた画によって多摩川で得た桑の木に大王像を彫刻したのは750年、淳仁天皇の御代(758~764)に「浮岳山深大寺」の勅額を下賜されたのは深沙大王の社壇であることから、750年を深大寺の創建年とする説もあるようだ。いずれにせよ、深大寺の創建は8世紀前半から半ばであり、それは深沙大王の霊場であり、鎮護国家の道場でもあった。

 前回にも記したように、深大寺は9世紀の半ばから後半の貞観年間に法相宗から天台宗の寺となった。『真名縁起』などによれば、「武蔵国司蔵宗叛逆。勅により恵亮和尚武蔵国分寺に至り、勝地を求めて宝剣を投げ、その落ちる所、深大寺の泉井の辺を霊場として調伏法を修する。凶徒降伏するにより深大寺を恵亮に賜る。これにより法相宗を改め、永く天台宗となる」とある。武蔵国司の反乱を鎮めるために天台宗の僧が深大寺に派遣され、それを契機に天台宗の寺となったとされている。ただし、『日本三大実録』の貞観年間の項には武蔵国司蔵宗についての記述はまったくないので、この反乱が真実であるかについては定かではない。深大寺は、この貞観年間に天台宗に改宗したと了解するにとどめておくのが無難かもしれない。

 天台宗は6世紀、智顗(ちぎ)によって開かれた大乗仏教の宗派だが、日本では中国で学んだ最澄が806年に伝え広めた。そのことから、最澄は「伝教大師」の諡号を得ている。最澄は秀才ではあったが密教研究では空海には遥かに及ばなかった。しかし、天台宗としてはこのことが「幸い」して、円仁や円珍という優秀な後継者が登場した。

 円仁(慈覚大師)は第3代の天台座主で、とりわけ東北巡礼と布教活動がよく知られている。「立石寺」「中尊寺」「毛越寺」「瑞巌寺」など、今日でも観光地として大人気の寺を開いている。円珍(智証大師)は讃岐国の佐伯一門の出身(空海の甥)であり、十二年間の籠山修行を満ずると、役行者の後を慕い、大峯山葛城山熊野三山を巡礼し、那智の滝に参籠している。円珍は後に近江の園城寺三井寺)を中興した。その園城寺は、壬申の乱大海人皇子天武天皇)に敗れた大友皇子の皇子であった大友与多王が創建したもので、父親の宿命のライバルであった天武天皇から「園城」の勅額を賜ったことから園城寺と呼ばれるようになった。ただし、一般的には三井寺の名で通っている。

 天台宗は円仁と円珍という極めて優秀な僧に恵まれたが、反面、その仏教観の違いから、円珍の死後、その門下は延暦寺から出て園城寺に入ることになり、比叡山に残る門流(山門派)と園城寺に移った門流(寺門派)との対立が深まった。山門寺門の抗争は武力衝突に至り、園城寺は何度も焼き討ちにあったがその都度、復興を遂げた。この抗争は源平の対立にも影響を与え、平清盛が出家の際に天台第55代座主の明雲に戒師を務めてもらった誼で山門派を支持した関係上、源氏は寺門派と結びつくことになった。

 仏教は「如是我聞」の世界ゆえ、その価値観は無数に生じ、ささいな違いから対立・抗争が生まれる。その背後には、自らを相対化できない人間の性に対しての超克困難性があるからなのだろうか。

 天台宗は世俗化・堕落化の道を辿ったが、これを立て直した?のが、第18代座主の良源(慈恵・元三大師)である。彼は荒れ果てた根本中道などの堂舎を再興し、学問振興を図った。『往生要集』を著した源信(恵心僧都)は彼の弟子である。良源の業績でもっとも有名、かつ定着しているのは、「おみくじ」を発案したことかもしれない。

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元三大師が「発明」したおみくじ

 深大寺には本堂の隣に「五大尊池」を挟んで元三大師堂がある。参拝客の多くは本堂の存在を無視してでもその大師堂に訪れて「おみくじ」を購入する。上の写真の文面にあるように、深大寺のおみくじは、他の寺社とは異なり「凶」の札数を減らしていないために「凶」を引き当ててしまうことが多いそうだ。しかし、「凶は吉に好転する力を秘めている」のでご安心、という具合らしい。ならば、「吉は凶に暗転する」ということも考慮する必要があるのではなかろうか?「おみくじ」の販売は、まさに世俗化の極みといえよう。

 かように、天台宗最澄の思想が十分な内容をもちえずにいたためにそれが幸いし、数多くの優秀な人材を輩出した。一方、最澄が勝手にライバル視した空海は、その天才性を発揮してきちっとした教義を確立したためにそれが災いしたのか?彼を超えるような人材が輩出されることは、なかなか生じなかった。最澄天台宗を開いた歴史上の人物に過ぎないが、空海弘法大師として現在も生きており、四国八十八か所霊場を巡るお遍路とは常に同行し(同行二人)、高野山奥の院にある御廟では今も瞑想修行をおこなっている。そのため、高野山では毎日、空海のために食事が運ばれており、ときにはパスタも供されるそうだ。空海はパスタも食うかい?

 真言宗でも傑物を輩出していないわけではない。覚鑁(かくばん、興教大師、1095~1142)は、荒廃した高野山を復興し、さらに途絶えていた伝法会を復活し伝法教院を設立して真言宗の立て直しを図った。それによって一時は院宣により金剛峯寺の座主を務めるまでになったが、保守派の衆徒によって高野山を追われることになり、覚鑁根来寺(ねごろじ)に移って新しい解釈(密教浄土教の融合=新義真言宗)による教えを打ち立てた。この点については本ブログでもすでに触れている(cf.17回浅川旅情)。和歌山県岩出市にある根来寺は1585年、豊臣秀吉に弾圧されるまで日本有数の大寺院に発展した。その後、徳川家によって再興され、1690年、覚鑁には興教大師の諡号が与えられた。

 中世の寺院の佇まいを残すといわれる根来寺は、私が訪ねたいと思いながらも未だに出掛けていない日本の景色のうちのひとつだ。高野山には何度も出掛け、その際は決まって橋本市に宿泊する。橋本市街から根来寺までは直線距離にして30キロ足らずだし、京奈和自動車道を使えば30分ほどで行ける場所にあるのだが、一方、奈良方面には吉野山、明日香、桜井、長谷寺室生寺など何度出掛けても飽きることのない魅力的な場所が綺羅星のごとくに聚合しているため、どうしても足は西ではなく、東ないし北東に向いてしまったのだった。残念なことではあるが、まだ時間がないわけではない。

 元三大師は953年、比叡山解脱谷にて大師像を自刻し、そのひとつが991年、恵心僧都などの手によって移安されたという記述が『深大寺仮名縁起』にある。それが事実であるかどうかは不明だが、この時期に深大寺は深沙大王像、阿弥陀如来像(深大寺本尊)にならんで、元三大師像を信仰の中心に据えたのかもしれない。

 中世の深大寺には大きな出来事があった。「仁王塚事件」と呼ばれているものである。『江戸名所図会』には以下の件がある。「何某の一子(鎌倉武士の子とされている)、当寺二王門の辺に遊ひてありしか、忽に姿を見失ふ。人々驚き一山大に騒動す。しかるに当寺二王門の二王尊の唇に、其児の常に着する所の衣服の残りとゝまりて、児を呑みたるに似たり。依って里民、此二王の像をこほちて門を破却し、土中に埋めたり……」。『真名縁起』ではさらにすざまじく、怒った武士の一族は寺に乱入し、仏閣を壊し、僧房を廃すなど、深大寺は滅亡の危機に瀕したと記している。

 荒廃した深大寺を再興したのが、世田谷城に居を構えていた吉良氏であったと『真名縁起』は記している。吉良氏の世田谷城については本ブログでも少しだけ触れている(cf.第9回世田谷線散歩)。深大寺の復興にとくに尽力したのは吉良頼康(?~1562)と考えられている。『世田谷吉良家旧事考』には、深大寺は吉良家の祈願所であり、五拾石を与えたとある。吉良氏は小田原北条氏と姻戚関係を結んでおり、頼康の「康」は北条2代の氏康から賜っている。なお、世田谷吉良氏は『赤穂浪士』に出てくる吉良氏(三河系)の縁戚である。

 1590年、小田原北条氏が豊臣秀吉軍に敗れると同時に北条側についた吉良氏も滅び、深大寺はその庇護者を失った。しかし、江戸に入府した徳川家康は翌年の1591年、関東一円の由緒ある寺社に領地を寄進し、深大寺もその中に加えられた。さらに、3代家光や5代綱吉、8代吉宗など14代の家茂まで大半の将軍は家康に倣って50石の領地を寄進した。江戸時代の深大寺は浮岳山昌楽院と号し、上野東叡山寛永寺の末寺であった。

 江戸時代の深大寺の中心的存在となったのは、厄除け大師として人気の高かった元三大師良源であった。彼は元日の三日が忌日だったので元三大師と呼ばれたのだったが、月命日には農具・古着類の市が立ち大いに賑わったらしい。近郷の道しるべにも、深大寺道とあるだけでなく元三大師道と刻されたものも多かったらしい。

 1865年(慶応元年)、深大寺は大火に襲われ、主要な建物を失ってしまった。さらに、明治初年の神仏分離令によって深沙大王堂は鎮守社の地位を失い、堂は廃墟と化してしまったのだった。

境内を徘徊する

 深大寺とその周辺の地形を概観したい。例によって、国土地理院の標高の分かるWeb地図を利用する。

 深大寺通りから山門に至る参道を仲見世通りともいうが、仲見世通りは標高41m(以下、標高の文字を省略する場合あり)地点で始まり、山門下は40m、階段を上がった山門の入口は43m、常香楼、鐘楼は43m、本堂前は44m、元三大師堂前は46m、開山堂は55m、釈迦堂前は43m、延命観音窟は46m、動物霊園は54m、深沙大王堂前は43m、神代植物公園(かつて深大寺のそば畑があった場所)は55mとなっている。深大寺通りの際を流れる逆川は40m地点となる。つまり、深大寺の境内は逆川が開析した緩やかな谷の底辺(40m地点)に参道があり、主だった建物は川面よりも少し高い43から46mの地点にあり、建物群の背後に国分寺崖線があり、その上に武蔵野段丘面がある。この武蔵野段丘面はほぼ平面なのだが、古い絵ではいかにも小高い山が連なっているように描かれている。深大寺は、他の寺の多くがそうであるように「背山臨水の地」に建立されている。

 ただし、南面は北西から南西に伸びる舌状台地(かつて深大寺城が築かれていた)が50~52mの高さで覆っているため、真南からでは深大寺の姿を望むことはできない。現在では中央高速自動車道が舌状台地の南側を走っているためその存在はさらに隠蔽されている。国道20号線から三鷹通りを北に進み深大寺の森を望もうとしても、中央道が視界を遮るのだ。

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山門をくぐると本堂と常香楼が目に入る

 1865年の火災によって本堂は焼失したが、すぐに小さな仮本堂が建てられたものの、現存する写真の本堂の完成は1925年まで待たねばならなかった。というのも、前述したように、江戸時代以降の深大寺は元三大師信仰が中心であったため、それを祀る元三大師堂の再建が優先されたためであった。

 本堂の本尊は像高約69センチの宝冠をいただく阿弥陀如来像である。『江戸名所図会』には「本尊は宝冠の阿弥陀如来。恵心僧都の作なりといふ」とあるが、正確なところは分かっていないらしい。専門家の分析によれば、鎌倉時代前期の作であると推定されている。

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常香楼に残る火災の跡

 焼香炉を覆う常香楼は1833年に建てられた。1865年の大火災では山門とこの常香楼だけが焼失を免れた。ただし写真にあるように、一部に炎を受けて焼け焦げた跡(焼痕)が残っている。古い写真を見ると焼香炉の台座は火山岩であったようだ。私が初めて深大寺を訪れた際は今の姿とは異なり古い台座のときだったと考えられるのだが、記憶にはまったく残っていない。

 山門をくぐった参拝者はまず、すぐ左手にある案内所でパンフレットをもらい、「手水舎」で手を、香炉で体を清め、それから本堂前に進んで手を合わせる。その流れは私のような不信心者以外はほぼ共通で、それからの行程は参拝者ごとに若干、異なる。

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神代名物の「おみくじ」を結ぶ

  深大寺は”そば”と”おみくじ”が同じくらい有名なので、初めて深大寺を訪れた人の多くは本堂を参拝したあとは再び山門近くの案内所に戻り、そこでおみくじを購入する(と思う)。おみくじは勝手に木々の枝に結ぶことは禁じられており、写真のような「おみくじ結び」場所があるので、そこに結び付ける。境内には、このような”施設”が数か所ある。カップルでおみくじを購入する場合、それぞれが買い求めるのだろうか?それとも自分たちの行く末を占うのだから、一枚だけ購入するのだろうか?コロナ禍でなければ写真のカップルにそれを問うのであるが、今はその行為が憚られるため聞くことはできなかった。

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梵鐘は2001年に2代目に変わった

 山門をくぐった右手には写真の鐘楼がある。深大寺では朝、昼、夕の3度、鐘撞がおこなわれる。本項の冒頭の写真は、昼の鐘撞の場面である。鐘楼は1865年の火災で焼失したため、1870年に再建された。1956年には茅葺の屋根から銅板葺きに改築された。梵鐘は2001年に新しく造られ、1376年に造られた旧梵鐘(国の重要文化財に指定されている)はその役目を終え、現在は釈迦堂に安置されている。

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参拝客の多くは元三大師堂が目当て

 元三大師良源は「厄除け大師」「角大師」「豆大師」としてもよく知られている。通常、関東三大厄除け大師というと真言宗の寺をいう場合が多く、その際は「西新井大師」「川崎大師」「観福寺」(千葉県香取市)を指すようだ。「大師」だけだとどうしても弘法大師を連想してしまうので致し方ない点もあるが、「厄除け大師」と聞くと元三大師をイメージする場合もあるので、関東三大厄除け大師ではなく「関東三大師」という場合は、天台宗でかつ元三大師像が安置されている名高い寺の中では「佐野厄除け大師」「川越大師」(喜多院)「青柳大師」(群馬県前橋市)の三寺を挙げる場合がある。 

 こうした「三大〇〇」というのは日本人は大好きだが、多くの場合、2つは大半の人が納得するものだが、3つ目に異論を唱える場合が多い。関東三大師でも佐野厄除け大師はCMで多くの人がその名を知っており、喜多院も観光地・川越の寺として名高いので合点がいくが、青柳大師が加わるかどうかは東京の田舎者にとって納得しがたいものがあるようだ。そこで多摩地区の住民は、青柳大師に替えて「拝島大師」か「深大寺」を名指しするのである。

 拝島大師と深大寺はライバル関係にあり、「だるま市」でも覇を競っている。が、「日本三大だるま市」では富士市の「毘沙門天祭」、高崎のだるま市(少林寺達磨寺)に並んで、深大寺の「厄除元三大師祭」が堂々のベストスリー入りを果たしているので、関東三大師の項では拝島大師にその席を譲ってもいいのではないかと思う。それが大人の知恵というものであろう。

 ともあれ先にも述べたように、江戸時代以降には、深大寺といえば元三大師堂が代表的存在であったため、おみくじにも魅せられて、さしあたり多くの参拝客は「凶」を引き当ててしまうにもかかわらず、本堂よりも大師堂に参じるのである。

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深大寺には、だるまのおみくじもある

 深大寺のおみくじは一般的なものだけでなく、名物のだるまの中におみくじが入ったものがある。こうした類のおみくじは、かつて三浦市海南神社を紹介したとき(cf.第24回岬めぐりは三崎めぐり)に「鮪みくじ」に触れたことがある。

 元三大師堂は、前述したように1865年の大火災にて焼失してしまったが、早くも3年後の1867年に再建された。旧大師堂は本堂の西南にあり、東向きに建っていたらしいが、再建時に本堂の西隣に移された。新堂建築の際、一部は国分寺崖線の斜面が邪魔になったので、下の写真から分かる通り、崖の一部を削って敷地面積を確保している。

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大師堂造営のために削られた崖線

 大師堂には当然のごとくに元三大師像がある。御本尊の大師像は秘仏となっているため、その姿を見ることはできない。記録によれば、日本にある元三大師像は13世紀初頭に像立されたのが最古とのことだが、『深大寺仮名縁起』には大師が953年に自刻し、991年に比叡山から深大寺にもたらされたとされている。

 通常の元三大師像はほぼ等身大に造られることがほとんどらしいのだが、深大寺のものは像高が196.8センチもある。実物を見ることはできないが、研究者が調査した際に撮影された画像をみると、目も鼻も唇もいささかはっきりしずぎており、やや異様な風体である。

 この大師像は、本来ならば今年の10月に開帳(一般公開)される予定であったが、コロナ禍のために中止されてしまった。が、来年(2021年)は最澄の1200年大遠忌を迎えることもあり、天台宗では東京国立博物館で秋に特別展が開催される予定で、そこに深大寺の元三大師像が展示(出開帳)されることになっている。この出開帳は江戸時代にもおこなわれたようで、来年、これが実施されると205年振りのことになる。

 大型の大師像だけではなく、像高12.3センチの小型のものもある。こちらも秘仏とされている。魔よけの力を有する元三大師をイメージした造りになっていて、頭には2本の角があり、歯牙をむき出し、上半身は裸で、右手には独鈷を持つというスタイルである。写真で見る限り、怖さは感じられず、かえって可愛らしさすら抱いてしまう。この像も来年の出開帳の対象になるのかもしれない。

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本堂と大師堂との間にある五大尊池

 本堂と大師堂との間には渡り廊下が造られている。手前の池の上方にあり、現存のものは1982年に改修された。廊下の下にある「五大尊池」も水が豊富な深大寺を象徴するもののひとつである。五大尊は本ブログでは以前(cf.第7回越生)にも触れているが、密教の信仰対象であり、「不動明王」を中心に「降三世明王」「軍荼利(ぐんだり)明王」「大威徳明王」「烏枢沙摩(うすさま)大王(真言宗では金剛夜叉)」を指す。池の周囲にはもみじが多いので、紅葉シーズンにはかなりの賑わいを呈するらしい。

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釈迦堂には国宝の釈迦如来像がある

 釈迦堂は、国宝(2017年に再指定)の「釈迦如来像」を火災から守るために1976年、鉄筋コンクリート造りのものに新築された。

 その釈迦如来像は飛鳥時代後期(白鳳期)に作製されたものと推定されているので、「白鳳仏」の名で呼ばれている。伝承では、法隆寺の夢違観音、新薬師寺の香薬師(現在行方不明)と同じ工房で作られたとされている。

 1865年の火災では焼失は免れたものの、67年に完成した大師堂の須弥壇の下に仮置きされたまま、ほぼ忘れられた存在になっていたが1909年に再発見され、13年には国宝に指定されたという数奇な運命をたどっている。反面、1895年の『深大寺創立以来現存取調書』には「釈迦銅̻▢ 壱軀 丈二尺余 座像ニ非ズ立像ニ非ズ 右ハ古ヘ法相宗タリシ時ノ本尊ナリト申伝ナリ」と記録されているので、必ずしもその存在は忘れ去られていたわけではなく、天台宗以前の本尊であるならば、優れて貴重なものであるという認識は有していたはずだ。

 釈迦堂に安置され、一般公開されているので誰もがその姿をガラス越しに触れることができる。拝観料は300円だが、お賽銭という形で支払うことになっているため、強制徴収されるわけではない。私はお賽銭を投げ入れる習慣はまったくないが、国宝仏に敬意を表するという形で支出をおこなった。写真撮影は禁止されているが盗み撮りは簡単にできるので、その行為に出ている不届き者を何人か見掛けた。私には記録に残すという考えは全くないので、撮影はおこなわなかった。

 像高83.9センチで、頭髪は螺髪ではなく平掘りである。1932年に新たに作成された台座の上に両足を開いた形で腰掛けている。こうした倚像(いぞう)は、日本では7世紀後半から8世紀初頭に作られているので、この釈迦像が白鳳期に作られ、のちに深大寺に持ち込まれて本尊になったということは確かなようである。

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大師堂の直上にある開山堂

 大師堂の西横にある坂を上り武蔵野段丘面に出ると、写真の「開山堂」が目に入る。名前の通り、ここには深大寺開祖の満功上人像、9世紀半ばに比叡山から深大寺に下り天台宗の第一祖となった恵亮和尚像が安置されている。両像は1986年に作られ、堂は87年に竣工している。堂の素材として、深大寺の森の中に生育していたケヤキやマツが用いられた。

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森の中にある動物霊園

 開山堂を出て大師堂から来た坂を少し下ると、右手に動物霊園の入口が見えてくる。階段を上がって敷地内に入ると高さ30mの萬霊塔や「南無十二支観世音菩薩」と書かれた数多くの幟旗が目に入ってくる。小鳥やハムスターなどの小動物、ネコやウサギ、小型から特大の犬といったペットのための霊園で、数多くある霊座の扉には、写真のような文字や絵などが彫刻されている。最近では、ペットは家族と同等の存在なので、このように死後も丁重に扱われている。訪れる人は多く、参拝客は本堂よりも多いほどだった。

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延命観音窟を望む

 延命観音窟は上に挙げた動物霊園の敷地の真下にある。1967年に造られた洞窟で、間口は4m、奥行きは5m、高さは3mのコンクリート製である。2010年に大改修されて現在の姿になった。

 1966年、秋田県象潟港の工事の際、事故があって海底にある大石を引き上げることになった。その大石に、なんと慈覚大師円仁が自刻したとされる延命観音像が彫られていたのだった。それを安置するために造られたのが延命観音窟であった。

 何故、それほど貴重な大石が東北地方の寺(東北には円仁ゆかりの寺が数多くある)ではなく調布の深大寺に安置されることになったのかは不明で、深大寺の資料でも「縁あって」としか記されていない。当然、ネット等で調べても「縁あって」以外の記載はない。

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洞窟内に安置されている延命観音

 延命観音三十三観音のひとつで、岩に肘をつき、そちらの手を頬にあてている姿をしているとされる。なるほど、洞窟内にある大石の表面には、かなり年季が入っているものの、頬杖をつく観音様の姿が彫られていることが分かる。

 素敵な女性(男性でも)が少し疲れた様子で頬杖をついている様子を目にしたとき、「延命観音のようですね」と話しかけてみる。相手がきょとんとした表情を見せたら、それ以上は話しかけないほうが良い。変態と間違えられるからだ。相手がニコッとしたら、それからは知的な会話が展開される可能性は大である。しかし、その人は信心に凝り固まっている可能性もあり、某宗派に勧誘されてしまうこともなくはないので、さしあたり、宗教以外の会話を展開してみる必要がある。会話が弾むとしたら、その出会いは、単なる偶然ではなく「運命」である。そう、ユン・セリとリ・ジョンヒョクとのように。

 三十三観音霊場巡りは全国各地にある。『妙法蓮華経』の中の「普門品第二十五」には、真心をもって一心に観音の御名を称えれば、その音声を観じてたちどころにわれわれの苦悩を観音菩薩は救いたもうとある。観音様の慈悲心が姿を三十三に変じてわれわれを救済するのである。ここから、三十三観音信仰が生じた。霊場が三十三あるのはここに淵源があり、修学旅行先でおなじみの三十三間堂もそこから発している。

 それにしても、「縁あって」が気がかりであった。ひとつだけ気付いたことがある。茨城県筑西市にある延命院観音寺(中館観音寺)に残る逸話である。中国から渡来した獨守居士が7世紀に観音寺を創建したのだが、寺のある地域で疫病が流行った。獨守居士が祈願したところ中館台地の崖下から清らかな水が湧き出てきて、その水のお陰で疫病が治まったという話だ。さらに、時の左大臣の姫君の熱病も平癒したこともあり、孝徳天皇から「延命」の称号を賜ったとされている。湧水が人々の命を救っている。湧水といえば深大寺もそれが極めて豊富な寺である。”湧水=延命”と考えるなら、延命観音深大寺にこそ相応しいと考えられることもできると思う……こじつけのようだが。

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延命観音窟の隣にある芭蕉の句碑

 延命観音窟のすぐ西隣に、写真の芭蕉の句碑がある。深大寺の境内には歌碑や句碑が数多くある。そのほとんどは深大寺に因んだものであるが、この句碑だけは深大寺に直接関係するというより、延命観音が彫られている大石が象潟港で発見されたという「象潟」つながりなのである。

 象潟や 雨に西施が ねぶの花

 いうまでもなく、芭蕉の句であり、『おくのほそ道』の代表作のひとつでもある。この句の前に芭蕉は「松しまは、わらふがごとく、象潟は、うらむがごとし。さびしさに、かなしびをくはえて、地勢魂をなやますに似たり」と記している。「ねぶ」は掛詞で、西施が憂いに沈み目を閉じて悩む姿と、雨に濡れそぼる合歓(ねむ)の花の双方を表現しているのである。

 私は中学校を終えるまでに本を1冊しか読んだことがなかった。それは『次郎物語』の第一部だ。高校に入るとクラスには読書にふける者が散見されたので、私もそろそろサルからヒトへと変身しようと本を手にしてみた。それが『おくのほそ道』(解説付き)であり、作品の中でもっとも印象に残ったのが「象潟」の句であった。そしてすぐ、私は初めての放浪の旅に出た。15歳の梅雨期のことだった。残念ながら、象潟までは行き着けなかったが。

 深大寺芭蕉の句碑に出会ったときには違和感を抱いたが、延命観音像が象潟港で発見され、それが縁で芭蕉の句碑が建てられることになった。おそらく、深大寺の住職も若い時分、美しい西施の憂い顔に憧れたのかもしれない。

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深沙大王堂は水源地の近くにある

 深沙大王と深大寺の関係は前回に触れている。大王像は堂の厨子内に安置されており秘仏であって住職すら一代に一回しか拝すことができないといわれている。ただし、学術調査時に写真撮影されているので、その姿は画像で見ることはできる。像高は57センチ、総髪で目を見開き、髑髏を連ねた胸飾りを付け、上半身は裸である。寺伝によれば開基・満功上人の作とされているが、調査によれば、忿怒(ふんぬ)の相、肢体の動き、着衣の写実的表現から、鎌倉時代に制作されたものと推定されている。

 写真の大王堂は1968年に再建された。1868年の神仏分離令によって旧堂(深沙大王社)は取り壊され、鳥居も破壊された。大王像は厨子(宮殿)内に安置されたまま大師堂に置かれ、再建後に大王堂に戻った。かつての大王社は現在の元三大師堂ほどの大きさがあったらしいが、再建された大王堂はかなりこじんまりとした造りになっている。本堂や元三大師堂からは100m以上も離れた位置にあるため、参拝に訪れる人は少ない。ただし、深大寺では開基・満功上人の両親の仲を取り持った「縁結びの神」として重要な存在であるだけに、この寺の由緒を知っている若い女性(ときに若くない人も)が、その縁を求めて訪れる姿を見掛けることもあった(何しろ今回、深大寺には3回も訪れているので)。

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水源地に立つ小さな不動尊

 深沙大王堂のすぐ北側に「水源地」と呼ばれる一帯がある。この辺りから湧き出た豊富な水が開析谷を形成し、深大寺境内に用いられた低地や、前回に挙げた谷戸を生み出したと考えられている。深沙大王堂の西隣にはかなり大きな規模の日本料理店があるが、その敷地にはかつてマスの養殖池があった。そうした水源地とよばれる斜面の中に、写真の水源地不動尊はぽつんと立っている。

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開析谷を形成したほどの勢いはまったくない湧水の流れ

 水源地付近から流れ出た清水は深大寺通り沿いにある逆川に合流する。地元の人の話では、湧き水の量は年ごとに減少しているとのこと。とくに今春は流れがほとんど枯れてしまうほどだったそうだ。

 湧水は、武蔵野段丘に染み込む雨水がゆっくりと武蔵野ロームに浸透し、その下の武蔵野礫層に達したとき、ほんの一部が段丘崖の下層から姿を現すのである。かつて、武蔵野台地には林や森や野原以外ほとんど何もなかった。新田開発が進んでも、浅い井戸は掘られたとしても深層水まで手が加えられることはなかった。やがて工場ができたり宅地開発が進んだりしたときに、地下水は工業用水として、住民の飲料水として利用されることになった。例えば、武蔵野市では現在でも水道水の8割を深度250mの地下水を用いている。工場も敷地内に井戸を掘り、多くの地下水を利用している。深層の水が減れば浅い層の水は地中深くに向かい、表に現れる量は減少する。また、宅地造成の際は地中10mほどのところに上下水道の管を埋めることになるので、表層に近い場所にある水脈は工事によって寸断されるのである。こうして湧水量は年々、減っていく。

 以前に触れたように、八王子城の御主殿の滝は八王子城跡トンネルの工事によって流れの大半を失った(cf.第40回・悲劇の八王子城)。上野原や相模原を流れる中小河川は、リニア実験線のトンネル工事のために水量を激減させた。次は大井川の番である。NHKの「ブラタモリ」では最近、「熱海」の回を再放送したが、最後近くの場面で、丹那トンネル工事で地下水脈を掘り当てことによって、増加した熱海の住民のための飲料水が確保されたことを紹介していたが、地下水の大半が熱海側に湧出したために、西側の函南では農業用水が失われ、やむなく牧畜に転業せざるを得なくなったことには触れなかった。何事にも明暗はあるのだ。

深大寺境外を少しだけ歩く

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山門下の参道を歩く

 深沙大王堂を離れ、山門下まで戻るため参道を東に向かって歩いた。写真は、山門近くから大王堂方向に振り返って見たときの景色である。右手に境内があり、左手の垣根の内側に亀島弁財天池がある。

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仲見世通りを横切る逆川と福満橋

 仲見世通りを少しだけ歩いた。前回、紹介した「元祖嶋田家」と「鬼太郎茶屋」との間に、写真の逆川のか細い流れがある。小さな橋が架かり、それは「福満橋」と名付けられている。これまで何度も出てきた、満功上人の父親の名前から採られている。

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多門院坂近くにある「不動の瀧

 山門下の参道を東に進むと、写真の「不動の瀧」に出る。この西隣に不動堂があるので、「不動の瀧」と名付けられたのだろう。滝と呼ぶほどの流れはないが、これも湧水の減少が災いしているはずだ。

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多聞院坂。深大寺小学校は右手の高台にある

 不動の瀧の東隣に「多聞院坂」がある。多聞院は深大寺塔頭(たっちゅう)のひとつだったが廃されて、現在はその敷地に深大寺小学校が建っている。多聞天は四天王のひとつで、独尊のときは毘沙門天といい、四天王が揃ったときは多聞天と呼ばれる。「多聞」は日夜、法を聞くというところから名付けられた。深大寺小学校は多聞天との結び付きがあるので、ここの児童はさぞかし授業をよく聞くのだろう。

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神代植物公園・水生植物園の入口

 不動の瀧、多聞院坂の対面に写真の水生園の入口がある。本園の神代植物公園は有料だが、こちらの水生園は無料だ。園内の様子は前回に掲載した。今の時期は見ものは少ないが、深大寺湿地は通路がよく整備されているので散策に適している。意外な植物の姿や開花が発見できるかもしれない。

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深大寺城跡。森の中に第一郭(くるわ)がある

 深大寺城跡は水生園の敷地内にある。深大寺湿地の標高は37m程度だが、その西隣にある城跡は、第一郭(くるわ)の一番高いところで52m、広場になっている第二郭で50mある。この場所は、先にも述べたように北西から南東に伸びた舌状台地になっているため、丘城を築くには適した場所といえる。台地といっても、ここは武蔵野段丘面の南端にすぎず、北から東側を深大寺の湧水群が開析して低地になったため、相対的に高台になっているだけである。ここのすぐ南側に中央自動車道が走っている。

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建物は残っていないが土塁は残存している

 深大寺城は南西に突き出た地形の上にあるので、西からの守りには弱い。それゆえ、西側には写真のような土塁が築かれている。ここは第二郭と第一郭との間に築かれたもので、最後の防衛線ともいえる。

 深大寺城の主が誰であったかは諸説あり過ぎて特定されていない。初見は『河越記』とのことだが、それには上杉朝定(1546年、河越城の戦いで戦死、扇谷上杉氏14代)が深大寺城を再興したとある。が、再興というからにはそれ以前にも「城?」として造営したものがあったはずだし、1540年代といえばすでに小田原北条氏が武蔵国の多くを制覇していたし、その配下には深大寺を再興した吉良氏(世田谷城)の影響力もあったとすれば、深大寺城が上杉家の支配下にあったとする考えに反対する学説もある。

 発掘調査によれば、第一期の堀からは14世紀頃の青磁片が出土している。第二期の堀からの出土品によれば1500年前後の構築である蓋然性が高いらしい。上杉氏と北条氏の覇権争いは1524年の江戸城落城によって北条氏が優勢となり、1537年(天文六年)に上杉氏の河越城が落城したことを考えると、深大寺城は、初めは上杉方にあり、のちに北条氏の支配下に入ったとするのが妥当かも知れないと、まったくの素人はそう判断する。

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熱帯スイレン・ホワイトデイライト

 深大寺に行けば、当然のごとくに神代植物園に入ることになる。65歳以上は250円で見学できるのが嬉しい。折角なので、大温室に入ってみた。ランやベゴニアの華やか過ぎる花群だけでなく、写真のような可憐な熱帯スイレンが開花していた。

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フウリンブッソウゲ。こう見えてもフヨウの仲間

 風鈴仏桑花の漢字をあてる。アオイ科フヨウ属で、学名は”Hibiscus schizopetalus”という。ハイビスカスはフヨウのこと、スキゾペタルスは”切れ込みのある花弁”を意味する。東アフリカ原産で、日本でも暖かい地方では自然下で育てられている。神代寺、いや深大寺に相応しい名の花である。

 神代植物公園については、いずれ詳しく紹介する予定でいる。 

〔45〕野川と国分寺崖線を歩く(3)深大寺界隈(前編)

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深大寺法相宗の寺として733年に創建された

深大寺縁起ものがたり

 現在の調布市佐須町が「柏野」と呼ばれていたころ(市立柏野小学校の名前として残っている)、その地には右近長者という豪族が住んでいた。右近と虎女との間にはひとりの美しい娘がおり、右近は良き婿を迎えて跡継ぎにしたいと考えていた。そんな折、渡来系(高麗人=高句麗人)の福満という名の青年が娘の前に現れ、青年の猛烈なアタック(恋文を千通出したと言われている)によって、二人は恋に落ちたのだった。右近は氏素性の分からぬ男と娘との仲を裂こうとしたが、娘の心を動かすことはできなかった。右近は実力行使に出て、娘を大きな池の中にある離れ島に隔離してしまった。

 福満はしばらくの間、池のほとりに立って嘆き悲しんでいた。ある日、玄奘三蔵が流沙河(りゅうさが)を渡れずに難儀した際に深沙(じんじゃ)大王に祈願し、無事に河を渡ることが出来たという故事を思い出した。そこで、「私の願いが叶いますなら、一寺を建立して生涯、深沙大王を守り神としてお祈りいたします」と誓ったところ、大王の化身なのか一匹の大きな亀が現れ、福満をその背中に乗せて島に渡らせた。この奇瑞に右近長者は驚き、「神仏の加護を得られる男なら決して只者ではない」と二人の仲を許し、結婚を認めた。

 若夫婦は一人の男の子をもうけた。聡明なその子は成長し、父親の誓いを果たすことになった。中国に渡り、法相宗を修め、仏法の奥義を究めた。日本に戻ると、故郷の武蔵野に一寺を創建した。この人物が深大寺を開山した満功(まんくう)上人であり、寺は深沙大王寺(通称、深大寺)と名付けられた。

 こうして深大寺法相宗の寺として8世紀の前半に創建されたのだったが、9世紀の半ばの清和天皇の時代(貞観年間)に武蔵国国司の反乱が起こり、朝廷は天台宗の高僧を深大寺に送り造反国司の降伏を祈念させた。以来、深大寺天台宗の寺となった。

 以上は深大寺に伝わる「縁起絵巻」の概略のさらに概略である。深沙大王は青年と娘との仲を取り持つキューピッド(クピド)役を果たしているので、深大寺は「縁結びの寺」としてよく知られ、「ロマンティックな恋をしたい女性の願いを叶える」寺なのだそうだ。今回は3度、写真撮影をするためにこの寺を訪れたが、なるほど、他の寺以上に若いカップルや、一人で訪れる若い女性の姿をよく見掛けた。

 私がこれから触れることは、この「縁結び」とは何の関係がなく、(1)武蔵国と渡来人との関係、(2)はたして深大寺近辺に大きな池があったのかどうか、(3)玄奘三蔵の故事と福満との関係性、(4)法相宗から天台宗への転換、以上の4点である。

 (1)武蔵国に渡来人が多かったという点は本ブログでは以前にも少しだけ触れている(cf.第31回・府中は…普通の町です)が、ここでも改めて簡単に触れておきたい。武蔵国には21郡(『新編武蔵風土記稿』では22郡)あったとされているが、このうち直接に渡来人に関係するのは高麗郡新羅郡(のちに新座郡)の2郡である。どちらも入間郡から分かれたようだが、前者は716年、後者は758年に設立されたと推定されている。

 また、多摩郡の狛江郷(現在の狛江市、調布市三鷹市武蔵野市あたり)は「高麗江郷」と記されていたように、武蔵野の開発に際しては大陸から高度な文明を持ち込んだ渡来人の存在が不可欠だったようだ。ちなみに、井の頭公園にある井の頭池には「狛江橋」が架かっている。

 7世紀の朝鮮半島では唐の介入もあって、新羅高句麗百済の抗争が激しく、結局、663年に百済、668年に高句麗が滅亡し、以来、朝鮮半島からはそれまで以上に多くの渡来人が海を渡って日本列島に移動してきた。そもそも、日本列島に人が住むようになったのは、約3万8千年前に朝鮮半島からホモ・サピエンスが渡海してきたことが端緒であったので、半島と列島との交流が盛んになったとしても特別なことではないのだが。

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檀家世話人の中には今でも渡来系の人の名前が残っている

 『続日本紀』などの記録によれば、666年、百済人男女2千余人東国移住、684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す、687年、高麗人56人を常陸国新羅人14人を下野国へ移住、高麗の僧侶を含む22人を武蔵国へ移住、716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七カ国の高麗人1779人を武蔵国に移し高麗郡を設置、758年、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移し新羅郡を設置などとあり、7~8世紀の間、武蔵国には続々と渡来人が移住してきたのである。深大寺を創建した満功上人の父親である福満は、上に記載した移住者の中に含まれているかもしれない。深大寺は733年に創建したとされているので、7世紀後半に武蔵国に移住、もしくは渡来してきたのであろうか。

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神代植物公園・水生植物園はかつて湿地帯だったようだ

 (2)右近長者は娘と福満青年との仲を切り裂くために娘を池の中にある島に隔離したとあるが、はたして深大寺近辺にはそのような大きな池があったのだろうか?この話は深大寺の存立根拠に関わる点だけに見逃すわけにはいかない。さりとて、伝承を事実で否定するのも大人げない行為に相違ない。さしあたり、ここでは「池」に見立てられるような場所がこの地にある(あった)のかどうかだけを考えてみたい。

 写真は、深大寺境内の南側にある神代植物公園・水生植物園の湿地帯(通称、深大寺湿地)である。 ここは幅が80mほど、長さは220mほどある。植物園の入口付近にあるテラス(撮影地点)の標高(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を利用)は40mほどだが、湿地帯は37m程度である。西側には後述する「深大寺城跡」の郭(くるわ)がありその標高は52mで、湿地の東側も「三鷹通り」が通る「高台」になっていて、そちらも52mである。

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神代農場も開析谷を使用している

 その「高台」の東側にも湿地帯があって、そちらは都立農業高校の「神代農場」として利用され、その標高は38mである。さらに、その東側には深大寺南町の住宅街が広がっていて、そちらの標高もまた52mである。ちなみに、国分寺崖線上にある神代植物公園の敷地の標高は55mである。

 以上のことから、2つの湿地帯は武蔵野段丘の南端を豊富な湧水が開析した緩やかな谷筋であることが分かる。水に恵まれている場所ゆえ、少し前までは谷戸が形成されていたようだが、古くはかなり広めの湿地帯であって、三方が標高差15mほどある高台なので、ここを池に見立てることは十分可能なのではないかと思われる。すなわち、湖や大きな池こそないものの、この湿地帯は娘を隔離することが可能なほどの広さをもち、周りを高台が取り囲んでいるため、監視も容易だったのではないか。

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山門の南西側にある亀島弁財天池

 渡来人である福満は、すでに高い灌漑技術を身に付けていた人物であったと推定するなら、彼には右近長者の後継者として十分な素養があり、いささか湧水が豊富すぎるこの地域の土地改良を進んでおこない、この地域の発展に寄与したことによって伝説上の存在になりえたのだと想像することは可能ではないだろうか。

 写真の「亀島弁財天池」は、娘が隔離された島とそれを取り囲む池を模して造られたのだろう。大幅に減水したとはいえ、この程度の池であれば現在湧き出ている清水でも十分に賄いきれるはずだ。

 (3)玄奘三蔵といえば、サンスクリット語の原典を求めて国禁を犯してインドに向かい多くの経典を持ち帰り、それらを中国語に翻訳したことで知られている。その旅の記録である『大唐西域記』(646年、弟子の弁機が玄奘から聞き取りをしてまとめた)によれば、インドではナーランダ僧院で唯識論を学び、北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の名君とされるハルシャ・ヴァルダナ王に進講したこともあったそうだ。インドから持ち帰った膨大な経典のうち、もっともよく知られているのが『大般若経』であり、その神髄である「空思想」を簡潔にまとめた『般若心経』も玄奘が伝え広めたことで中国、朝鮮、日本などに定着した。

 玄奘その人についてよく知らなくとも、『西遊記』の三蔵法師のモデルであることは誰もが知っている。日本のドラマでは三蔵法師役を夏目雅子宮沢りえが演じているが、東京国立博物館に所蔵されている「玄奘三蔵像」と、その役を演じた彼女らの姿かたちとはまったく似ていない。

 『大唐西域記』では、タクラマカン砂漠で「流沙河」という流砂にあって玄奘は5日間も水を得ることができず死に瀕したおり、砂漠の民に助けられて九死に一生を得たという話が出てくる。ここでは「深沙大王」の名はまったく出てこないが、中国ではすぐに深沙大王との関りが論じられたようで、日本では8世紀初頭には深沙大王伝説が広まっている。このため、砂漠の流砂はいつのまにか水豊かな大河になり、玄奘の砂漠での渇きは大河を渡る際の苦難に転じているのである。中国と砂漠とは結び付きにくいが、中国と大河なら黄河や長江の名を挙げるまでもなくイメージしやすい。

 中国の歴代王朝は「夏」(前2100~前1600年)に始まるとされるが、その夏王朝を開いたのが治水に功績のあった禹(う)である。『書経』によると、堯(ぎょう)帝は禹の父親である鯀(こん)に治水を任せたが失敗したため、今度はその息子である禹におこなわせた。禹は水路を切り開き、それらに堤防を築いて大洪水を防ぐという「疏(そ)」という方式を採用して成功した。その結果、堯に認められた禹は中国の初代王朝を築くことができた。水を治めるものが中国を治めるという伝統はこのときに生まれたのである。現代ですら、中国は治水に苦労している。なお、禹は水神であり龍の化身と考えられている。

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深大寺水源地の際にある深沙大王堂

 このように、中国では砂漠での苦難より水での苦難のほうが身近であるため、『大般若経』を守護する十六善神のひとつである水神・深沙大王(深沙大将)が玄奘の苦難を救ったという故事が成立したのだろう。十六善神図があらわされるときには必ず、深沙大王は玄奘三蔵と対で描かれることになっている。

 福満青年は深沙大王の導きによって恋が成就したのであるから、深大寺には当然、深沙大王の像があると考えられる。この像は門外不出の秘仏中の秘仏で、たとえ住職であっても一代で一回だけしか拝むことができないそうだ。寺に伝わる話では、創建者の満功上人は父親の恋愛成就の恩に報いるために大王の像を祀りたいと念じたところ、ある日、白蛇に身を変えた大王が現れ、「多摩川に行けば神木が流れてくるので、それで我が像を刻め」と告げた。実際に神木が流れてきたので上人はそれでもって大王像を刻み、御神体としたのだとされている。

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千社札納札)がうっとうしい

 我々には深大寺の深沙大王像を拝見することができないが、大王像ならば高野山金剛峯寺にも日光・東照宮にもあるので、その姿を見ることができる。また、深沙大王は毘沙門天多聞天)の化身でもあると考えられているので、毘沙門天の像から想像することも可能だ。姿をイメージする限り、あまりお近づきにはなりたくないが、水神とあれば、アユが釣れないとき、川の中で転倒したときなどにお世話になるかもしれないので、無下にするわけにはいかないのかも。

 (4)深大寺法相宗でスタートしたのは、けだし、当然のことである。上に述べたように、深沙大王と玄奘とは密接な関係性を有しているからだ。玄奘三蔵はナーランダ僧院で学んだ唯識学を弟子たちに伝え、そのひとりである慈恩大師・基が法相宗を開いたのだった。

 日本においては、留学僧の道昭が玄奘から直接(同室で暮らしながら教えを受けたらしい)学び、帰国後は飛鳥寺元興寺法興寺とも)に禅院(瑜伽行(ヨーガ)をおこなうためか?)を建立して、唯識学の研究に努めた。ただ、彼は社会活動もおこなっていて、『続日本紀』には「天下を周遊して、路傍の井戸を穿ち、諸の津済(港のこと)に船を設け橋を造る。山背の国の宇治橋は和尚(道昭のこと)の造る所なり」とある。また、彼は死後、火葬に付されているが、これは記録に残る日本で最初の火葬といわれている。『続日本紀』には「弟子たちは遺言の教えを奉って栗原に火葬す。天下の火葬は之より始まれり、と世伝えて云う。火葬し終わって親族と弟子相争って、和上の骨を取り集めんと欲するに、つむじ風たちまち起きて灰骨を吹き上げて終にその行くところを知らず」とある。きっと「千の風」が吹いたに違いない。

 この道昭の弟子と言われているのが、聖武天皇の命によって大仏建立の勧進をおこなった行基である。彼もまた師匠に倣って貧民救済、治水、架橋などの社会事業をおこなっており、多くの功績によって日本最初の大僧正の位を得ている。

 ちなみに、道昭も行基百済人の後裔である。

 法相宗南都六宗のひとつ(他は三論宗成実宗倶舎宗華厳宗律宗)として奈良時代に栄えた教えで、現在は興福寺薬師寺大本山である。この宗派が伝える唯識思想は極めて難解で、俗に「唯識三年、倶舎八年」と言われる。これは「桃栗三年、柿八年」とは異なり、まず倶舎を八年研鑽して、その上で唯識を三年学べば何とか理解できる可能性がある、という極めて高度な思想内容を有しているということを端的に表している言葉なのだ。とてもではないが、100分de学べるような代物ではない。

 倶舎とは世親(ヴァスバンドゥ)が著した『阿毘達磨倶舎論』30巻であり、唯識の経典は玄奘が漢訳した『成唯識論』10巻である。『大正大蔵経』では倶舎論30巻は160頁に、唯識論10巻は60頁にまとめられている。1年で20頁学習・会得するなら、倶舎論は8年、唯識論は3年で終了することになる。つまり「唯識三年、倶舎八年」となるが、これはたまたまの偶然であろう。

 法相の法は「存在」、相は「あり様」を表し、存在すると思われるものには客観性はなく、唯々、自らの心によって顕現された主観的なものに過ぎないというのが唯識(唯、識があるのみ)の基本的な考え方である。人には前五識として眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)があり、これに意識を加えた六識が表に現れる意識だが、その下層には二つの無意識層があり、七識として末那識(自己自身に執着する心)、八識として阿頼耶識(すべての存在を生じさせる根本心)があるとするものである。この考え方に立てば、自分自身はおろか他者も、世界も宇宙も客観的な存在ではなく、ただ自分の心が生み出したものにすぎす、自分の心が消えてしまえば(死もそのひとつ)、他者も世界も宇宙も消滅するということになる。つまり、絶対的な存在などひとつとしてなく、すべては相対的でありかつ「空」であるという考え方なのだろう。そうであるならば、唯識思想もまた相対化されなければならず、相対者の立場で絶対者を否定してもそれは単なる相対的否定にすぎないと思われるのだが。

 この唯識思想に没入してしまったのが晩年の三島由紀夫で、この立場に立って書かれたのが、彼の最後の作品である『豊饒の海』四部作だ。これは平安後期に書かれた『浜松中納言物語』(菅原孝標女が著作者であるとされる)を下敷きにして、輪廻転生をテーマにした小説である。私には三島の作品の良さはさっぱり理解できず、彼の作品を読む機会はさほど多くはないが、この四部作だけは、彼が割腹自殺直前に書かれたものであること、輪廻転生をテーマにしているらしいので頑張って読んでみた。ただし、精読はしておらず、完全に読み切ってもいない。三部までは輪廻転生を「肯定」しているが、四部の『天人五衰』では転生を否定している(ようだ)。唯識論に立てば当たり前の話で、世界は客体としては実在せず、唯識論自体も自らの識が仮の説として顕したに過ぎないものなのであるから、転生の実在を最後まで認めてしまうなら、唯識論そのものの否定につながるからだ。この点において三島の思想や行動は正しいと思われる。

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深大寺は現在、天台宗の寺である

 先に述べたように、深大寺は9世紀の貞観年間に法相宗から天台宗に転じた。これには政治的な理由があったようだが、その後の仏教史を考えると天台宗への転換は間違いではなかったように思われる。

 天台宗は「本覚思想」を特徴とする。煩悩即菩提や娑婆即浄土といったように、迷いと悟りを対峙的に捉えるのではなく一体化するのである。それゆえ、すべての存在に仏性がある考えており、それを端的に表現したものが「草木国土悉皆成仏」である。同様な言葉は『涅槃経』にもあり、「一切衆生悉有仏性」と表現されている。人間や動物に仏性があるというのは理解可能だが、草や木や石や土にまで仏性があるというのは言い過ぎの感がある。反面、草花を育てるとき、美しい音楽を聞かせたり優しい言葉を掛けると綺麗に咲くという話は案外よく聞くし、実際、『愛の不時着』にもそうした場面がある。

 こうした天台宗の立場に法相宗からの批判が上がった。これが有名な「三乗一乗権実論争」である。一乗を主張するのは天台宗最澄で、声聞、縁覚、菩薩の三乗があるのはあくまでも衆生を教え導くための方便で、実際には法華一乗の教えから差別はなく、すべてに仏性があるとする。一方、三乗を主張するのは法相宗の徳一で、三乗によって悟りに至る境地は異なり、法華一乗は性の定まらない衆生を説くための方便であるとするものである。

 私は個人的興味からこの論争(実際にはおこなわれたのは著作物による対立)を調べたことがあったが、徳一の圧勝であると思われた。しかし、現実には天台宗のその後の「発展」を見れば明らかで、最澄比叡山延暦寺伝教大師は誰でも知っているが、徳一の名前は仏教に興味のある一部の人にしか知られていない。ただし、空海は徳一を高く評価していたようで、最澄とは絶縁したが、徳一には弟子を派遣したり、経典の書写を依頼したりしている。

 上にも触れたが、法相宗大本山のひとつに薬師寺があり、そこは私が奈良に出掛けた際には必ず立ち寄る寺である。行くたびに建造物は綺麗に改修されているが、その予算の出所は高田好胤が始めた百万巻写経勧進である。『般若心経』を写経したものを一巻1000円の供養料とともに薬師寺が集め、これを荒廃した建造物の改修費に充てたのである。高田好胤は話がとても上手であり、修学旅行で薬師寺を訪れた多くの生徒は高田ファンになった。私の姉もその一人で、せっせと写経をおこなってはかなりの数を薬師寺に送っていたのを記憶している。法相宗の寺には檀家制度がないので墓所などによる収入は期待できない。拝観料収入にも単なる寄付にも限りがある。その点、写経は送る人にも受け取る側にも双方に良き繋がりが形成される。

 興福寺はどうだろうか?そちらには、なんといっても「阿修羅像」がある。

 以上の4点が、私が深大寺を訪れた際に抱いた疑問に対する自分自身への簡単な解題である。

深大寺そばを食べずにそばを語る

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深大寺と聞いて、まず思い浮かぶのは「そば」である

  深大寺という言葉を聞いて、多くの人がまず最初に思い浮かべるのは「そば」であろう。それほど、深大寺とそばとの結び付きは強固なのである。何しろ、伝承によれば400年以上の歴史があるようなのだ。具体的には、3代将軍徳川家光が鷹狩りの途中にこの地に立ちよってそばを食し、その味の良さを激賞したという話や、上野寛永寺(江戸時代の深大寺寛永寺の末寺であった)にそばを献上したところ高い称賛を得たという話が残っているという。さらに、江戸後期の御家人かつ随筆家であった太田南畝(蜀山人)はこの地のそばを食し、その味の良さを広く宣伝したことから多くの文化人に愛されるようになったそうだ。

 1823年にまとめられた『新編武蔵風土記稿』にも「当国(武蔵国のこと)ノ内イツレノ地ニモ、蕎麦ヲ種ヘサルコトナケレトモ、其品当所(深大寺村のこと)ノ産ニ及フモノナシ。故ニ世ニ深大寺蕎麦ト称シテ、ソノ味ヒ極メテ絶品ト称ス」とある。この点で留意しなければならないことがひとつある。深大寺そばとは深大寺の門前そばを指すのではなく、深大寺村のそば総体を言うということである。それをさらに証拠付けるのが1836年に上梓された『江戸名所図会』の説明文で、「深大寺蕎麦 当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前少し高き畑にして、わずかに八反一畝の程よし。都下に称して佳品とす。然れども真とするもの甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども佳ならず」とある。狭義の深大寺そば深大寺の敷地内(現在、神代植物公園が存在する場所のことである)で産したそばの実から作られたものを示していたようだが、やがて、その評判にあやかり周辺の土地でとれたそばの実からつくられたものも、こぞって深大寺そばを称するようになったのである。

 深大寺の門前にある写真の「元祖嶋田家」は、江戸末期の文久年間(1861~64年)に創業されたとある。深大寺の門前にあったそば店はここぐらいで、しかも本業は農業で、客が来ると農作業を切り上げて、それからそばを打ってゆでていたらしい。

 深大寺そばが大衆に広まったのは昭和30年ごろかららしいので、日本の高度経済成長の始まりとほぼ重なる。生活に少し余裕ができた人々が深大寺を訪れるようになると、「深大寺そば」の名を掲げる小さな店が嶋田家以外にも出来て、それなりの評判をとるようになったらしい。

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神代植物公園深大寺門。深大寺のすぐ北側にある

 本格的な転機は1961年(昭和36年)、深大寺の裏手に都立神代植物公園が開園されたことだ。寺詣でよりも花詣でのほうが大衆には圧倒的な人気がある。これによって観光客の数は一気に増え、「ついでに深大寺にも寄ってみよう」「名にし負う深大寺そばを食そう」という人々が多数訪れるようになり、「深大寺そば」の名を掲げる店が次々と出来てきたのであった。

 現在、深大寺そば組合加盟店は20数軒ある。各店のWebサイトをのぞいてみると、そば粉は北海道、長野、青森産などを使っているということを堂々とうたっている。かつて、深大寺そば深大寺の敷地内で産するそばの実を使っていた。それが深大寺村全体に広がり、今では深大寺とは無関係な土地のそばの実が使われている。深大寺そばは「深大寺内のそば」から「深大寺のそばのそば」になり、今では「深大寺の門前でもてなされるそば」へと転じている。それでいいのだろう。美味しければ良いのだし、美味しいと思って食べるのも良いし、深大寺そばを食べたという実感がもてさえすればそれもまた良し、なのである。

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地元愛を高めるためもあってか小学校でもそばを育てている

 そばは、タデ科ソバ属の一年草である。元来、焼き畑で作られていた品種なので、肥料はほとんど不要だ。排水が良い畑が必要だが、水分が多いと発芽率は極端に低下するので、稲作のような大量な水は必要としない。生育温度は0~45度なので日本のほとんどの場所で育てることは可能だ。

 深大寺のある武蔵野台地の上段の武蔵野段丘も下段の立川段丘も案外、水には恵まれていない。沖積低地にこそ多摩川があるが、武蔵野段丘面には川がないゆえに玉川上水が整備された。立川段丘の国分寺崖線際には野川があるので水が豊富のように思われるが、その流れは湧水を集めたものなので水温はやや低い。このため、水田耕作はあまり盛んにはおこなわれていなかった。イネは元来、やや暖かい地方を好む品種で、寒冷地でも育つように品種改良されたため、北陸や東北、北海道地方でも栽培が容易になったのである。

 この点、そばは環境からの縛りはイネよりもずっと小さいために、武蔵野台地の環境には適していた。ロームは水はけが良いのでそばには適し、火山灰は地味に恵まれていないがそばは養分をさほど必要としないので、この点も武蔵野の地に適している。深大寺に限らず、そばの栽培がこの地に広まったのはその性質上、必然だったように思われるのだ。香川県は瀬戸内気候のために雨が少なく水田耕作には不向きだったために小麦栽培が進み、その結果、讃岐うどんが誕生したとも言われている。深大寺近辺も、水には恵まれているもののそれは冷たいために水田耕作には不向きだったためにそば栽培が進み、その結果、深大寺そばが誕生したのかもしれない。

 武蔵野地方は水田耕作には不向きのために小麦栽培が盛んで、その結果、武蔵野うどんが誕生した。「山田うどん」(正式にはファミリー食堂山田うどん食堂)はその一派であり、私も十年ほど前まではよく通っていた。

深大寺そばを食べずに深大寺を巡る

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くねくねとした深大寺通り

 深大寺を訪れるのは今回が2度目である。もっとも、今回は暑さもあって一日ではとても多くを見て回ることができないので、3回も出掛けてしまった。したがって、通算では4度ということになる。

 1度目は母親のお供であったこと、今から50年近く前であったので、記憶にはほとんど残っていない。ただ、そのときは「深大寺そば」を食したことは確実である。それが唯一の記憶かもしれない。ただし、味はまったく覚えていない。そもそも、そばの味の違いは私には不明なのだ。

 私にとって、そばの記憶は京王線府中駅にあった「陣馬そば」のみと言って良い。知人には、そばを食べるだけのために日帰りで信州に出掛ける馬鹿者が3人いた(各々は知人関係ではない)が、私なら断然、陣馬そば推しなのだ。何しろ、家からは2分程度で行けたのだから。かつ、とても安く、立ち食いなのですぐに食べられたからだ。行って食べて帰ってくるまで10分で足りた。なぜ、好き好んで1日かけて信州くんだりまで出掛ける必要があるのだろうか?信州そばを食べることが目的ではなく、信州でそばを食べるという体験を味わうことが目的だろうと私は考えたのだが、彼らはすべて、その考えを否定した。そばが美味しいのだという。しかし、彼らは、コンビニ弁当を食べても、山田うどんを食べても、くるまやラーメンを食べても美味しいというので、やはり味音痴の馬鹿者には相違なかった。

 今回、深大寺を訪れたのは国分寺崖線や野川を訪れる散策の続きであったこと、神代植物公園をのぞくついでであったことが理由なので、深大寺そばは目的のひとつですらなかった。そばはともかく、寺巡りは趣味のひとつなので深大寺散歩には興味があった。ただし、関心があるのは寺そのものではなく、あくまで「寺のある風景」なのだが。

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復元された逆川にあった水車小屋

 ひとつ上の写真の「深大寺通り」を車で走ることは案外、以前から良くあった。景観はまずまずで雰囲気のある道だし抜け道としても便利だったからだ。かつては、バス通りにしてはかなり狭かったが、現在では道はよく整備されたので以前よりかなり走りやすくなった。しかし、整備されたとはいえ、くねくねと曲がりくねっている道筋は不変である。山坂道であるならともかく、ここは平坦な場所にある道なので、理由はひとつしか考えられない。ここにはかつて川が流れていたからで、その曲がりは川の蛇行を表しているのだ。後にも触れるが、ここには逆川(さかさがわ)が流れ、そこには小麦やそばを挽く水車小屋があった。逆川の名の由来は、武蔵野の川は通常、西から東に流れるのだが、この川はその向きが逆だからだそうだ。しかし、川筋も整備されてしまったので、今では西から流れている。とはいえ、順川に名称変更はされていない。

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深大寺通りから山門に至る参道

 深大寺通りはバス通りでもあり、京王バス小田急バスの停留所がある(別々に)。京王バスの停留所のすぐ東側に、通りから北に向かい山門に至る参道がある。長さは100mほどだ。この参道には4軒のそば屋兼土産物店がある。

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鬼太郎茶屋は水木しげるワールドを展開している

 4軒のうち、一番目立つのが写真の「鬼太郎茶屋」だ。深大寺のある調布市には水木しげるは1959年(37歳)のときからずっと住んでいる。「売り物」の少ない調布市にあって水木しげるワールドは一番の売れ筋「商品」といっても過言ではなく、調布市コミュニティバスの愛称は「鬼太郎バス」である。鬼太郎茶屋にも水木しげるの世界が全面展開されており、鬼太郎やねずみ男以外にも多くのキャラクターが飾られている。なお、水木しげる大阪市生まれだが、幼少期は父親の故郷である鳥取県境港市で過ごしており、境港でも「水木しげるロード」など、水木のキャラクター花盛りである。私自身、漫画大好き人間だったので水木の作品には数多く触れていた。しかし、水木が境港市で育ったということは、そこを拠点にして島根半島によく釣りに行くようになってから知った。

 鬼太郎茶屋の北側にあり、山門にもっとも近い場所にあるのが先に挙げた「元祖嶋田家」である。先の写真では、いかにも元祖らしい佇まいだが、山門側から見ると、下の写真のように「そば」だけでなく深大寺の二大名物である「だるま」も数多く扱っている。

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山門側から見た嶋田家の店先

 冒頭の写真にある「深大寺蕎麦」の幟を掲げているのが、嶋田家の対面にある「そばごちそう門前」である。「深大寺そば」を前面に掲げる店は案外、敷居が高そうな店構えをしているものが多いが、ここは比較的気軽に立ち寄れそうな店だ。私はそばを食する気持ちはまったくなかったが、この店のメニューをちらりと見たとき、 下の写真のある言葉が気に入ったので、もし今後、深大寺そばを食する機会があったとすれば、この店に入りたいと思った。

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そばごちそう門前にあったメニューのひとこと

 そばアレルギーというものは実際にあり、直接の知人ではないが、広島に住む釣り名人の仲間で、やはり釣りの世界ではよく知られていた釣り人が、このそばアレルギーでショック死したことがあった。彼はそばアレルギーを自覚していたはずなのに、釣りの帰りに高速道路のパーキングエリアにある立ち食いそば店に入り、うどんを食べてアナフィラキシーショックで死去したのだ。その店では、他でも多く見られるように麺のゆで湯がそばもうどんも共用だったので、彼のうどんには少量ではあったが、そばの成分がコンタミネートしていたのだった。

 こうしたことは近年ではよく知られているので、ゆで湯の共用は少なくなっていると思う。そばアレルギーの人は深大寺そばを敬遠するだろうし、「そばごちそう門前」でうどんを食する人もコンタミネーションには留意するはずだから心配はいらないだろうし、そもそも店の方でも気を付けているはずである。

 深大寺そばの店でうどんを食す。私の場合、こちらの行為に興味がある。

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前を行くオッサンが山門をくぐるところ

 冒頭の写真にあるように、深大寺の山門はかなりの年季が入っている。深大寺の建物のほとんどは1865年(慶応元年)の大火災で焼失した。被災を免れたのは、山門と、上の写真の右手に見える常香楼だけであったらしい。

 山門に残る棟札には、建造は1695年と記録されている。簡素な造りだが、なかなかの趣があって、印象に残る建造物である。

 前を行く見知らぬオッサンが山門をくぐった。そのあとを継いで、私も境内に入った。生涯、二度目の深大寺参りの始まりである。

 *次回に続きます

〔44〕野川と国分寺崖線を歩く(2)流域今昔物語

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野川と西武多摩川線と武蔵野公園と

 前回の最後に挙げたように、野川は「新小金井橋」の下流部から、それまでとはまったく異なる表情に変わる。それは川自体というより、その流域の姿が一変するからである。源流部のすぐ南の中央線直下から顔を出した野川の流れの両岸には、ほとんどの場所に住宅が並んでいた。東京経済大学下にある「鞍尾根橋」の下流からは流路が整えられ、川幅は拡張され、それまでの三面コンクリート護岸から可能な限り自然風に設えられた親水護岸となり、狭いながら河川敷には散策路があり、両岸の大半には遊歩道も整備された。それでも、その遊歩道の傍らには住宅が立ち並んでいることには変わりがなかった。

 しかし、新小金井橋の下流からは、その様相が大きく変貌するのである。もっとも、それは「野水橋」辺りまでの約2キロ間のことであり、それ以降は再び住宅地を貫く川という姿を取り戻すことになるのだが。ただし、親水護岸風の造作は最下流部まで続いている。

流域に公園が広がっている理由は?

新小金井橋の下流。右手に武蔵野公園、左手に野川第2調節池

 なぜ、この2キロ間では住宅地ではなくて武蔵野公園、野川公園という広々とした都立公園が野川に接し、さらにその南側には多磨霊園、府中運転免許試験場、調布飛行場武蔵野の森公園が、川のすぐ北側にある国分寺崖線上には国際基督教大学キャンパスや国立天文台といった、広大な敷地を必要とする施設が数多くあるのだろうか。その理由は、この地域の大半がそれまで農地や牧場、雑木林であって、甲州街道筋や中央線沿線に比べるとかなり住人は少なく、その結果、それらの施設を誘致しやすい環境にあったからだと考えられる。

 そもそも、中央線の路線が東中野駅から立川駅まで23キロも真っすぐに敷かれていることからも、武蔵野台地にはまだ開発の手が伸びていない土地がいくらでもあったということが想像できる。中央線の前身である甲武鉄道は1889年の4月に新宿・立川間で開通し、同年の8月に八王子まで延伸された。駅は新宿、中野、境(現在の武蔵境駅)、国分寺、立川、八王子の6つでスタートし、90年に日野駅、91年に荻窪駅、99年に吉祥寺駅、1901年に豊田駅、24年に武蔵小金井駅、26年に国立駅、30年に三鷹駅、64年に東小金井駅、73年に西国分寺駅が開業した。ちなみに、先に挙げた武蔵野公園以下、国立天文台までの施設はすべて武蔵境駅国分寺駅との間に位置する。東小金井駅武蔵小金井駅は中央線の開通からかなり後になって設置されたものであって、それだけ、その間の土地は駅を必要としないほど「辺鄙」な場所だったと思われる。また、たとえ駅ができたとしても、大半の人は武蔵野段丘面の駅に近い場所に住み、崖線下の立川段丘面にわざわざ居住するのは農業に携わる人々が大半だったと考えられる。

 農業といっても、立川段丘面は湧水を集める野川以外に水にはさほど恵まれていないため水田はあまりなく、麦や陸稲、野菜の生産、養蚕とそのための桑畑、牧畜などをおこなう人々がほとんどだったようだ。そのため、未開拓の土地も多かったはずで、広大な敷地を必要とする施設を誘致することが容易だったと考えられるのである。

新小金井橋から右岸にある武蔵野公園を望む

 都立武蔵野公園は1969年に開園した。草原や雑木林、都内の街路樹や公園に用いるための苗木園、野球場、バーベキュー広場などがある。草原(原っぱ)には写真中央に見える小高い丘があって「くじら山」と呼ばれているのだが、これは公園の隣に小学校を建設する際に出た残土を盛り上げたものである。

地下に貯水浸透施設がある

 雑木林の中にも小高くなっている場所があり、その地下には「見えない貯水池」がある。これは地下に浸透する雨水を溜めて置くプールで、国分寺崖線からの湧水が少なくなっている昨今、野川の流れを少しでも豊かにするために考案・設置されたものである。

 かつて、野川は豊富な湧水から成り立っていたが、武蔵野段丘上の開発が進んで多くの地下水が利用されたり、表土が整地・舗装されることで地下に浸透する水が激減したりした結果、流れは極めて乏しいものになった。そこで、今度は宅地などから出る下水を流すことにしため、清流ではなくドブ川に変貌してしまった。現在では下水処理システムが完成しているので汚水が流されることはほぼなくなったが、同時に流れも失ってしまった。かつての野川の清流を取り戻そうと流域の自治体や住民はいろいろな取り組みをおこなっているが、行政側が生み出した答えのひとつが、この「見えない貯水池」だった。

か細い流れの中にも魚がいて、それを狙う釣り人がいる

 自然の流れがあればその中には生き物がいる。魚の代表は「ヤマベ」(標準和名はオイカワ)で、流れが緩い場所では、近隣に住む子供やオジサン(稀にオバサンも)が1~1.5m程度の細く短い竿を使って釣りをする姿をよく見掛ける。「ヤマベ」は関東でよく使われる地方名で、「ハヤ」「ハエ」と呼ぶ人もいる。「ヤマベ」の名は釣りをしない人にはあまり通用せず、渓流魚の「ヤマメ」と混同してしまう人も多い。「こんなところにもヤマメがいるんですか!」と感嘆するする人がいるが、それは単なる勘違いである。ウグイ(地方名ハヤ)やクチボソ(標準和名モツゴ)、小ブナが少なくなった現在、ヤマベの存在はお手軽な釣りを試みる人々にとっては貴重な魚たちだ。

左岸にある調節池は子供たちにとって格好の遊び場になっている

 一方、左岸側には2つの「調節池」がある。新小金井橋に近い写真の広場は「第2調節池」で、平水時には川水はここには流れ込まないので、子供たちや家族連れ、そしてボール遊びをする大人たちも含め格好の遊び場になっている。

右岸と左岸とは護岸の高さが異なる

 撮影地点は右岸側の護岸上の遊歩道で、その左が野川の流れ、さらにその左に見えるコンクリート護岸が左岸側のもので、その左に第2調節池がある。大雨で野川が大増水したとき、水は左岸の堤防を越えて第2調節池に流れ込む。越水を前提として右岸よりも左岸の堤防を低くしているのだ。そして、この貯水池に水を溜め込むことで、下流での氾濫を防ぐことが可能となる。一種の治水ダム湖である。

第1調節池には円形の釣り堀がある

 第2調節池の下流側は土手が高く盛られていて、その上には東屋やベンチが置かれ、樹木も多く茂っているので、暑い時期には絶好の休憩所になっている。その土手の東側(下流側)はまた地面がかなり低く掘られている。そこが第1調整池であり、第2とは異なりただの広場というわけではなく、写真のような円形の釣り堀やどじょう池などが設えてある。円形釣り堀にもヤマベなどの小魚が居着いているので、小物釣り場として利用され、竿を出す人をよく見掛ける。この日は2人の大人と5人の子供が釣りを楽しんでいた。

調節池内にある水田

 第1調節池内には写真のような小さな田んぼもある。右側に見える照明塔は武蔵野公園内にある野球場のもので、左手の森は国分寺崖線の斜面の木々である。極めて自然が豊かなのはうれしいが、私の嫌いな虫(ヘビとクモ)が出て来そうなので早々に退散した。

右岸から第1調節池と国分寺崖線を望む

 右岸から野川、第1調節池、「はけの道」、国分寺崖線を望んだ。はけの道は、崖線下を通る道でなかなか趣があって良いのだが、自動車の抜け道になっているようで交通量が多いのが残念だ。「はけ」というのは「崖」を意味する方言で、私もガキンチョのときは国分寺崖線や府中崖線をそう呼んでいた。「はけ」は「崖」「端」「捌け」などから派生したようだが、本当のところは誰も知らない。

日本にも旧石器時代があった

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新小金井橋北詰にある遺跡の看板

 「野川中洲北遺跡」は野川調節池の造成に先立って発掘され、立川ローム層からは旧石器時代の遺物が発見されている(1986年)。かつて日本には旧石器時代はないとされてきた。縄文時代(およそ1万5千年前から3千年前まで)以前は火山活動が激しく人間が住めるような環境ではなかったと考えられてきたからだ。そのため、遺跡調査がおこなわれても、発掘は黒ボク土(火山灰と腐葉土が混ざったもの)層までで、その下のローム層が現れたときにはもはや遺物はないと考えられ、それ以上掘り下げられることはなかった。

 それが1949年、群馬県のアマチュア考古学研究家であった相澤忠洋が、琴平山と稲荷山との間の切り通しの赤土の崖(現在の群馬県みどり市笠懸町阿左美)から黒曜石の「樋状剥離(ひじょうはくり)尖頭器」を発見したことから、旧石器時代が存在する可能性が浮かび上がってきた。しかし、アマチュアによる発見だけでは学問的な検証はできないために疑義も多く、すぐに認められることはなかった。この「岩宿」に次いで51年、やはりこれもアマチュアによる発見だが、板橋区のオセド山の切り通しから中学生が黒曜石の石器と礫群を見つけたのち、明治大学などによる本格的な遺跡調査が入念におこなわれ、中学生が発見した遺物が旧石器であることの学問的裏付けがなされた。この茂呂遺跡の調査の結果、相澤忠洋の発見も旧石器であると認められることになり、「岩宿遺跡」は日本に旧石器時代があったことを証明する第1番目の遺跡に位置付けられ、日本の旧石器時代は「岩宿文化」とも呼ばれるようになったのである。

 私はよく足尾銅山見学に出掛ける(cf.第8回・渡良瀬川上流紀行)ので、岩宿の近くを通るのだが、大抵は足利市に寄って森高千里聖地巡礼をおこなうか、前橋市方面に移動して榛名山妙義山見物をするため、岩宿に立ち寄ったことはなかった。しかし数年前、足尾からの帰りに熊谷市に寄る用事があったため、渡良瀬扇状地の扇頂に位置する「大間々」から南下して直接、熊谷に行くルートを選んだ。

 予定では県道69号線を南下するはずだったが、なぜか間違えて県道78号線に入ってしまった。そのまま進んでも大きな問題はなかったのだが、たまたま「岩宿遺跡入口」交差点があったので、遺跡の前を通って予定していた道に出ようとそこを右折した。遺跡のすぐ横に駐車スペースがあったので寄ってみることにした。が、この手にはよくあるような展示施設だったので、短時間でそこを切り上げて熊谷に向かうことにして駐車場を出た。

 ところがすぐ近くに「岩宿博物館」があり、建物が立派だけでなく、その南側にある「鹿の川沼公園」が素敵に見えたのでそこにも寄ってみることにした。公園だけの予定で、博物館は外観を眺めるだけでいいと考えていたが、公園から博物館方向を見ていると入館する人が皆無なことに気づいた。その結果、余計な同情心が湧いてしまい館内をのぞいてみることにしたのだった。

 若い女性の学芸員がいて、私に近寄り、勝手に案内を買って出て、展示物のひとつひとつを熱心に説明し始めた。本当は大いに迷惑なのだが、まだ見習いレベルだと思われる学芸員は訥々と、しかし熱意を込めて話すので、聞いているふりをするのが大変だった。相手がベテラン学芸員だったら話を相澤忠洋と明治大学の杉原荘介との確執にもっていき、明大閥の博物館員を話しづらくさせ、「それじゃぁ」といって退散することもできるのだが、新米学芸員を揶揄うのは可哀そうなので、大人しく、しかも当たり障りのないレベルで、相澤氏を見出した芹沢長介についての質問などをしてみた。10分ぐらいで脱出したかったのだが、結局、一時間半ほど滞在してしまった。その間、私のほかに博物館を訪れる人はいなかった。

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野川遺跡跡。見た限り看板すらなかった

 「野川中洲北遺跡」に先立つこと17年、野川の右岸側で大規模な発掘調査がおこなわれ、立川ローム層中にも数多くの旧石器が眠っているということが判明した。国際基督教大学(以下ICU)のゴルフ場内に30m道路(現在の東八道路)が貫通することになり、道路建設とゴルフ場の改修整備に伴って、遺跡の発掘調査がおこなわれたのである。その理由のひとつには、ICUのキャンパス内が縄文遺跡の宝庫であったことと、大規模な試掘をおこなえば旧石器の発見が見込まれたことによる。

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広大な敷地を有するICU。コロナ禍のために入構は制限されている

 ICUは「リベラルアーツカレッジ」を目指して1949年に創設が決定され、中島飛行機(現SUBARU)三鷹研究所跡地の大半(全50万坪中の45万坪)を買収して53年に開学した。研究所といっても敷地が広いため多くの場所は手つかずに残されていた。ICUも研究所の建物などを改修して使用したため、やはり多くの自然林は残存した。たまたま56年、アメリカ人考古学者のキダー博士がICUに赴任した。博士は縄文土器の研究者でもあったので、ICU構内を隈なく探り数多くの縄文時代の遺物や遺構を発見した。

 ICUの敷地は国分寺崖線上の武蔵野段丘面にも崖線下の立川段丘面にもあったが、当初は武蔵野段丘面での調査が中心だった。その辺りは「梶野新田」があった場所で、古くは明治時代に東京帝国大学人類学教室を中心にして縄文遺跡の調査がおこなわれていた。1917年の調査では打製石斧も発見されており、戦後すぐには高校の考古学部員が中心となって調査が進み、多くの住居址を見つけ、一帯は「南梶野遺跡」と呼ばれるようになった。

 先に述べたように、中央線が武蔵野台地の南部を東西に横切っても、当初は境駅と国分駅しか近くになかったために開発が遅れ、結果として多くの遺物や遺構が残されていたのであろう。住宅開発が進んでからでは遺跡調査など、特別な理由がない限りおこなうことは不可能だ。

 ところで、境駅は1919年に武蔵境駅に改称されたのだが、同時に秋田の境駅は羽後境駅に、鳥取の境駅は境港駅になった。中央線の境駅で待ち合わせをしたのだが相手はいっこうに現れず、後で聞いたら向こうは奥羽本線の境駅で待っていたということはまずないと思うが。今なら、3人で「ムサコ」で待ち合わせの約束をしたら、それぞれが武蔵小金井駅武蔵小杉駅武蔵小山駅に出向いたということはあり得るかもしれない。

 ついでにいえば、武蔵境はおかしな名前で少しも「境」ではない。中央線には信濃境駅があるが、ここはきちんと甲斐と信濃の境にある。旧東海道沿いに境木地蔵尊があるが、こちらも武蔵と相模の境にある。しかし、武蔵境の「境」は国境の境ではなく、かつてその辺りを開発したのが、松江藩松平家の屋敷奉行であった境本絺馬太夫(きょうもとちまだゆう)だったからである。その境本の一字をとって境新田と名付けられた。したがって、境といっても国境とはまったく関係がない。

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ICUの隣にはSUBARUの事業所がある

 ICUに戻ると、国分寺崖線下の敷地の大半は農地や牧場だった。1950年当時の地目登記によれば、田畑が24万坪、園芸用地が1.8万坪、牧場が1万坪だった。また、傾斜地及び池沼3万坪とあるので、国分寺崖線や崖下の野川流域はほとんど手つかず状態で残っていたようだ。当初は戦後まもなくということもあって大学の敷地になっても農業や牧畜がおこなわれていた。その頃の地図を見ると、大半は「ジャージー牧場」と記されている。

 ジャージーは牛の種類で、英領のジャージー島が原産だからだ。ホルスタイン種よりも小型で、乳量も少ないらしいが、乳に含まれる脂肪分が多いので味わい深いそうだ。また飼育も容易らしい。もっとも、ICUがジャージー種を選んだというわけではないようで、初代学長の湯浅八郎のアメリカ留学時代の友人が牧場主になっていて、ICU牧場のためにアメリカからジャージー種の牛を贈ってくれたというのが真相のようだ。

 が、1964年、大学発展に必要な財源を確保するため、農地や牧場はゴルフ場に転換された。高度成長期でもあったためにゴルフブームとなり、ICUのコースは小金井CCと並ぶほどの人気コースになったそうだ。

 ところが、先に述べたようにこのゴルフ場を「東八道路」が貫通することになりその関連工事がはじまると、あわせて遺跡の発掘調査がおこなわれ、道路が野川を跨ぐ少し手前の野川右岸の調布市野水2丁目(左岸には子供連れで人気のある「わき水広場」がある)の「Loc.28C遺跡(通称・野川遺跡)」で、縄文土器が見つかった表層(黒ボク土)の下にある立川ローム層で旧石器が見つかったのだった。

 そこで大規模調査がおこなわれることになり、立川ローム層の下にある青灰色砂層、立川礫層、基底部(上総層群)まで5m以上掘り進められた。その結果、10層あるローム層の上7層から旧石器が発見され、文化層としては10層ある(ひとつのローム層から複数の文化層が発見されたため)ことが判明した。野川遺跡では約2万9千年前のものがもっとも古いようだが、後に別の場所にある遺跡からは約3万5千年前のものも発見されている。

 下から3番目の文化層である黄褐色ローム層では「姶良Tn火山灰」(略称AT)の層が見つかっている。姶良(あいら)大噴火は現在の鹿児島湾奥を形成したもので、2万9千年から2万6千年頃に発生し、関東にも10センチ以上の火山灰を降り積もらせた。"Tn"とあるのは丹沢のことで、当初は丹沢によく見られる軽石層なので「丹沢パミス」と呼ばれていたが、それが姶良大噴火によるものであることが判明したため「姶良Tn火山灰」と名付けられた。

 旧石器など考古学の年代識別は、遺物が発見された地層の順位(層位)から年代を決定する「層位学的研究法」を採用している。このため、大発掘の際は考古学者だけでなく地質学者も参加することになる。仮に「姶良Tn火山灰」が2万9千年前の噴火によるものだとすれば、野川遺跡の最古層は噴火よりかなり前になることになり、当然、3万年以上前のものと考えることができる。もっとも、仮に遡れるとしても、日本列島にホモ・サピエンスが移動してきたのは3万8千年前と考えられているので、それ以上に古くなることはない。

 考古学者の中にはより古い時代の石器を見出すことに血道をあげる人もいたようで、岩宿遺跡を発見した相澤忠洋を世に知らしめた芹沢長介(後に東北大学名誉教授)は、後半生には前期旧石器の発見に命をかけ、大分の早水台(そうずだい)遺跡では12万年前の石器を発見したと発表したものの認められず、他の学者からは「長介石器」だと揶揄されたそうだ。

 この芹沢の前に現われたのが「ゴッドハンド」こと藤村新一だった。彼は前期旧石器を発見することで自分の存在価値を認めてもらおうと、早い時期から「捏造」をおこなっていた。1981年、宮城県の座散乱木(ざざらぎ)遺跡では4万年前の石器を「発見」して一躍有名になり、宮城県の上高森遺跡では93年に40万年前の、95年には60万年前の、99年には70万年前の石器を「発見」した。関係者によれば、そのどれもが「綺麗すぎる」石器だったことから信憑性が疑われた一方、旧石器の世界のドンであった芹沢長介が藤村の背後に鎮座していたため、正面から疑義を申し立てるものはいなかったようだ。マスコミがこぞって藤村を「ゴッドハンド」と持ち上げて「新発見」を報道し続けたこともあり、普段、あまり注目されることのない世界にいる考古学者たちも高揚感に浸り、ついに高校日本史の教科書にも「上高森遺跡」を紹介するまでになった。

 しかし藤村の「神の手」は、2000年11月、毎日新聞によって彼が石器を埋めている瞬間を映像に捉えられたため、捏造は明るみになり、調査の結果、彼の81年からの発見はすべて嘘であることが判明した。このため、旧石器の研究は70年代にまで戻ってしまったのだった。

 藤村が私淑した芹沢長介は「層位は型式に優先する」との立場をとっていて、発見した石器の姿より、それがどの地層から発見されたのかということを重要視していた。それゆえ、藤村が「発見」した石器が綺麗すぎたとしても、60万年前の地層から「発見」されれば、それは60万年前の石器と考えるというのが当時の学会の通説になっていたのである。

 そもそも、ホモ属(原人・旧人・新人)の誕生以降、日本列島が大陸と陸続きだったことは一度もなく、大陸文化を日本列島に伝えるためには、人類は海を渡るしかなかった。一方、航海技術を有していたのはホモ・サピエンスだけであるし、サピエンスが出アフリカを果たしたのは5万年前と考えられているので、どんなに早く見積もっても5万年前以前に日本列島に人類がいるはずはない。したがって、日本列島においては人工品の石器はそれ以前の地層から発見されることはあり得ず、仮に、より古い地層から石器らしきものが見つかったとしても、それは自然礫にすぎないのである。
 かつての日本史の教科書だったか参考書だったかは失念したが、日本には「三ケ日原人」や「明石原人」がいたことになっていた。一応、受験には日本史と地理を選択していたので、それらの原人の名を記憶したことがある。が、双方とも、いまでは縄文時代の新人であると判明しているようで、三ケ日人や明石人と呼ぶことはあっても、もはや原人とは呼ばないのである。原人は航海技術を有していないからだ。

 ところで原人だが、ダーウィンは猿と人とをつなぐ存在はいずれ発見されると考えており、ダーウィン主義者であったエルンスト・ヘッケルは、その存在を「ピテカントロプス」と名付けた。ピテクスが猿、アントロプスが人で、それを合わせるとピテカントロプス(猿人)となる。ミッシングリンクは1891年、オランダ人のデュボアがジャワ島のトリニールで直立猿人(ジャワ原人)の化石を発見することで一部がリンクされた。ヘッケルの造語のとおり、それは「ピテカントロプス・エレクトス」と名付けられた。のちには中国北京市の周口店でも原人の化石が発見され、それは「シナントロプス・ペキネンシス」と名付けられた。直訳すれば「北京の支那人」となる。現在は、どちらもホモ属に分類され、学名はそれぞれ”Homo erectus erectus" "Homo erectus pekinensis"となった。ピテカントロプスという強烈な印象をもつ名前が消えてしまったのはとても残念である。

 我々はジャワ原人の復元された人物像に触れることができ、その特徴的な顔つきを本や図鑑で目にすることがよくある。これはジャワ島のサンギラン遺跡でほぼ完全な姿の頭骨標本が発見されたことによる。その標本は17番目に発見された化石ということで「サンギラン17号」と命名されている。したがって、我々が目にするジャワ原人の顔は原人総体のものではなく、17号君の顔なのである。

 何かの拍子に2020年、人類が大絶滅し、ずっと先に「宇宙人」が地球にやってきて発掘調査をおこない、日本だったとされる場所では私の頭骨が、朝鮮半島では『愛の不時着』の主演男優であるヒョンビンの頭骨が発見され、それを復元したとき、2人の顔が驚くほどよく似ているので、地球人というのはとても美男子だったと「宇宙人」が感動するということもあり得なくない。いや、絶対に。

 先に、ホモ・サピエンス以外には渡海できないと述べたが、唯一の例外が2003年に発見された「フローレス原人」(ホモ・フローレシエンシス)である。インドネシアの島なのだが、寒冷期にはジャワ島、スマトラ島カリマンタン島などはマレー半島とは陸続きでスンダランドを形成していたが、フローレス島は寒冷期で海面が80~100mほど低くなったとしても、スンダランドとは決して陸続きにはならない場所にあるため、フローレス原人は大陸から渡海したという以外に考えられないのである。

 しかも、驚くことにフローレス原人の身長は1mほどしかなく、脳の容積も最新の計測では426ccであることが分かっている。

 フローレス原人は約100万年前に島に着き、70万年前頃に小型化(これを矮小化という)したと考えられている。他の島では発見されていないので、長期間、この島のみで暮らしていたようだ。このため、他の動物でもよく見られる「島嶼化」が起きたと考えられている。島嶼化とは、狭い環境の中に閉じ込められたときに選択圧が発生し、大きな動物は小型化、小さな動物は中型化することである。例えば、屋久島のシカ(ヤクシカ)やサル(ヤクシマザル。以前はヤクザルと言っていたが今はなぜかそう呼ばない)は、種としては本土と同じでありながら小型化している。

 フローレス原人は5、6万年前まで生きていたと考えられているが、どうやって島に渡ったのだろうか?航海技術があったとは考えられないので、大きな自然現象(台風など)で本土から島に流されてきたと考えるしかなさそうだ。ホモ属とはいえ、男だけの冒険心では子孫を残せないので、一定の数だけの男女が海に流され、大きな木などにつかまって生き延び、偶然にフローレス島にたどり着いたとしか考えられないのだ。

 広義の人類(サヘラントロプス・チャデンシスからホモ・サピエンスまで)の700万年の歴史に触れ始めると止まらなくなり、野川には戻れなくなるのでここで止めるが、野川遺跡では旧石器時代の貴重な遺物が無数に発見されていながら、発掘現場はすべて埋め戻され、現在ではただの空き地になっていて、東八道路を渡って野川公園に訪れる人々の自転車置き場に利用されるだけの存在になっている。

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野川公園。かつてゴルフ場だった姿が残っている

 野川公園は東京都がICUからゴルフ場の敷地を買収して整備し、1980年に開園された。後述する「自然観察園」だけでなく、芝生広場、テニスコート、バーベキュー広場、ゲートボール場などがある。写真のように芝生広場は、かつてゴルフコースであった面影を強く残している。こうした、何の設備もない広場こそ、今の時代にあってはもっとも重要な「施設」であると思われる。

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崖線下に整備された「自然観察園」

 ゴルフコースは野川の北側の国分寺崖線下にもあり、古い地図によれば3~5番ホールがあったようだ。そこも野川公園に含まれるが、現在ではそのかなりの部分が「自然観察園」として整備されており、おもにボランティアの人々によって多種多彩な山野草が育てられている。また、湧水を蓄えた池などもあって、そこでは水生植物(ミズバショウなど)が育てられたりホタルの育成がおこなわれたりしている。

 私は春の山野草を求めて毎年、4月には5、6回はここに通うのだが、今年は新型コロナによる自粛期間に当たったため、肝心の開花期には残念ながら閉園されていた。その時期以外では秋のお彼岸期のヒガンバナの群生開花が見事で、見物客で大賑わいとなる。春秋以外の時期以外、観察園に入ることはないのだが、今回は春季の雪辱戦を兼ねて入場してみた。コロナ禍もあって手入れが行き届かず雑草だらけではあったが、それでも好みの花が咲いているのを確認できたので、以下、3点だけ挙げてみた。

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ヤブミョウガの花と若い実

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キツネノカミソリ

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ヒオウギ

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自然観察園前の野川の流れ

 自然観察園の東側は「わき水広場」になっていて、崖線からの湧水が小さな流れを作って野川に流れ込んでいる。その小川の周囲の広場にはお盆休みかつコロナ自粛もあって、数多くの子供連れが集結していた。そんな場所ではとてもカメラを向ける訳にはいかない。20年ほど前までならまったく問題はなかったのだが、昨今は子供たちにカメラを向けると親たちに睨みつけられるのである。つまらないトラブルが発生するのは気分が良くないのでその場は避けて、代わりに、橋の上から観察園前の野川の流れを写してみた。ここにも子供連れは多かったが、その多くは「わき水広場」の冷ややかな湧水を当てにして訪れたが、そこが満員御礼だったために野川本流に遊び場を移したのだろうと思われる。

 野川の上流に向かって撮影しているので、右手が左岸側であって、土手の右側(つまり崖線の下)に自然観察園がある。撮影場所の右真横に「わき水公園」があり、左真横に自転車置き場になり果てた「野川遺跡」がある。

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橋は東八道路のもの

 少しだけ下流方向に移動した。写真はやはり上流方向を見て撮影したものである。野川の上を通るのが「東八道路」で、道はこれから国分寺崖線を上がっていく。橋の下は日陰ができることもあって、休息を取るのに適した場所だ。が、ここは流れの幅がやや広がり、ということは川は浅く流れが緩やかになるため、小魚を玉網で捕獲するのに適した場所でもある。そうした理由もあって、より大勢の人々が集まることになる。

 前述した野川遺跡は東八道路の橋のすぐ西側にある。写真でいえば、自転車が写っている右岸側の遊歩道を上流方向に進み、橋をくぐった先のすぐ左手の少し高くなった場所にある。

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国分寺崖線には名のある坂は多いが、ここもそのひとつ

 帰りに「はけの道」を少しだけ歩いた。写真の「ムジナ坂」は上ると「連雀通り」に出られるのだが、下半分が階段になっているので車の通行はできない。名前の通り、この周辺にはタヌキが多かったのだろう。もっとも、国分寺崖線は開発が進む前は自然林が豊富にあったので、タヌキの生息地は無数にあったと思えるが。解説板には「昔、この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道であった。だれいうとなく、暗くなると化かされる……」とある。両側が山林の細い道ならどこにでもあるし、タヌキやキツネに化かされることもあったろう。にもかかわらず、あえてこの坂にその名が付けられたのは、案外、農民たちの往来が多かったからだと思われる。この坂の下には湧水点が多いので、崖線下と野川との間の土地はかなり豊かだったはずだ。それゆえ、人々は急坂を下りて田畑に通った。そうでなければ、ムジナが住み着いていたとしても、ムジナは人を騙すことができないからだ。

 このムジナ坂は新小金井橋の北詰から100m強のところにある。そう、ムジナ坂下辺りにあるのが「野川中洲北遺跡」で、ここでは旧石器文化だけでなく縄文文化も栄えていた。それだけ、この辺りは古くから水が豊かな場所だったのだと考えられる。

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開発には、タヌキも怒っている

 はけの道で見つけた看板だ。「はけのたぬきの伝言板」には道路建設に反対するビラが貼られている。はけ、野川、そして湧水は重要な社会共通資本である。それに対し、無駄な道路は社会資本であるより利権の源泉である。

 万国のタヌキと人よ、団結せよ! 

〔43〕野川と国分寺崖線を歩く(1)私は野川に入れるか?

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野川と中央線と

野川に入ることはできるか?

 「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

 川について触れるとき必ずといって良いほど取り上げられるのが、上に記した『方丈記』(1212)の冒頭の言葉である。方丈記には、平安時代末期に起きた「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」「元暦の大地震」の五つを災厄として取り上げられ、世の無常が克明に記されている。なお、「辻風」は「つむじ風」と現代語訳されているが、記された内容を見るとその被害の規模の大きさからいって、明らかに「竜巻現象」であり、つむじ風とは異なる。竜巻とつむじ風とはまったく違う自然現象なので現在では明確に区別されているが、13世紀当時はとくに分けられてはいなかったのかもしれない。ともあれ、冒頭の表現といい天変地異の取り上げ方といい、『方丈記』は鴨長明の仏教的無常観が見事に表現された随筆集である。

 11、2世紀は8世紀から続いた温暖化が終期を迎え、気候変動が激しかった時期とされ、それに関連してか自然災害が多発した。また、温暖化の時期に農業生産力が飛躍的に向上したために荘園制度が進展し、それに伴って武家勢力の台頭、院政の展開、源氏と平氏による内戦など、社会的にも大きく変転する時代であった。こうした価値観が転換する時期に『方丈記』は著された。

 「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま草庵を愛するも咎(とが)とす。閑寂に着するも、さはりなるべし。」と、長明は最終章でも述べているように、世はすべて無常無我なのであり、「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して止みぬ。」の言葉で筆を置き、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることすら執着心の表れであるとの悟りに達していた。

 川の流れから「転化」を読み取ることはなにも鴨長明の専売特許というわけではなく、紀元前6~5世紀、古代ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスはすでに似たような思想を表明していた。「君は同じ川に二度と足を踏み入れることはできないであろう(断片91)」というのが彼の有名な箴言である。長明の「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」は、人や世のうつろいのメタファーであるが、ヘラクレイトスの言葉は彼の育った小アジアのエフェソスを流れるマイアンドロス川(現在のメンデレス川)を見て直截的にそう表現したものかもしれない。もっとも、彼は「われわれは、同じ川に歩を踏み入れるとともに、踏み入れない。われわれは、あるとともにあらぬのだ(断片49)」とも述べているので、彼の箴言もメタファーかもしれないのだが。

 アリストテレスは、ヘラクレイトスも、彼に先立つ前6世紀初頭から半ばに同じ小アジアのミレトスを中心に活動していたタレスアナクシマンドロスアナクシメネスなどと同様、自然学者(ピュシオロゴイ)のひとりと考えていた。たしかに、彼については高校の教科書レベルでは、万物の根源(アルケー)を「火」と考え、「万物は流転する(パンタレイ)」と述べたギリシャ初期の自然哲学者のひとりに位置付けられている。しかし、「万物は流転する」という言葉はヘラクレイトス自身のものでは決してなく、はるか後世の学者あたりがそのように説明したと考えられるのだ。

 これは、ヘーゲル弁証法を教科書的に説明するときに必ず「正・反・合」の図式を使うのと同様、極めて分かりづらいヘラクレイトスの思想を、あえて「万物流転」の一言で簡略化してしまっているのである。へーゲルについては、彼はそんな言葉を使ったことはなく、またそんな図式化はまったくおこなっていない。そもそもその図式ではヘーゲル弁証法の要諦とは真逆の思考法になってしまうのである。なぜなら、その図式には彼の弁証法でもっとも重要な「主体性」がまったく欠如しているからである。

 一方、ヘラクレイトスについては「同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」という言葉から想像しうるに、川の水は常に入れ替わっているので(長明と同じ考察法)、たとえマイアンドロス川の同じ地点に二度目に足を踏み入れたとしても一度目の流れとは異なった水に接しているという点は事実であるから、「万物流転」には妥当性があるようにも思われる。しかし、ここで忘れてはならないのは「同じ川」という言葉である。流れる水(質料)はたしかに変転するが、川自体(形相)の同一性までは否認してはいないのだ。

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君は野川に足を踏み入れることができた

 この点、ヘラクレイトスの後継者を自認していたクラテュロスは「君は一度ですら歩み入ることはできない」と述べており、川の水はたえず流動しており、流動する事物はそれを言語にすることは不可能であると考えた。つまり、川それ自体は存在せず、存在しえぬものを言語化するのは虚偽だと考えたのである。それゆえ、マイアンドロス川に歩み入ろうにも、そもそもマイアンドロス川そのものの存在を規定することは不可能なので、存在しないものに歩み入ることはできるはずがないとの主張であった。

 これについてアリストテレスは「ひとしく転化するといっても量におけるそれと性質におけるそれとは同じことではない」と退け、事物の把握には「質料因」だけで判断することは誤りであって、その他「始動因」「目的因」「形相因」を合わせた四つの原理を知ることが真の意味での知恵であると指摘している。

 ところで、クラテュロスを師と仰いでいたのがプラトンであり、クラテュロスの思考方法はプラトンの初期対話篇である『クラテュロス』から知ることができる。この対話篇には「名前の正しさについて」という副題があり(これがプラトンのものかどうかは不明)、第一部では、ヘルモゲネスという青年が友人のクラテュロスから「名前は事物の本質を表す」と聞いたので、それが正しいかどうかについてソクラテスと対話をし、第二部では、ソクラテスとクラテュロスとが対話をおこない、クラテュロスが名前の正しさをあくまで主張するのに対し、ソクラテスは「現実には、名前の正しさはある程度、使用者間の取り決めによることもある」という事例を挙げて、クラテュロスへの反駁をおこなっている。

 クラテュロスは、万物は流動するので言語化は不可能と主張する一方、名前は事物の本質を表すという矛盾した表明をおこなっているのである。それに対し、ソクラテスは流動するものの存在を認める一方、決して流動するものではないものとして「美そのもの」「善そのもの」の存在を意識しているのである。

 プラトンは、『クラテュロス』の中ではかつての師であるクラテュロスの考え方を全否定はしておらず、その人物像も否定的には叙述していない。事実、プラトンはクラテュロス的世界観を保持し続け、感覚的なものはたえず転化し、感覚的なものをすべて集めても普遍は生まれない、と考えていた。それが彼の、現実界イデア界との二元論に繋がっていくのである。『ギリシャ哲学者列伝』を著したディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンは「感覚されるものはヘラクレイトスに、知性の対象となるものはピュタゴラスに、倫理に関するものはソクラテスに学んだ」と記している。ヘラクレイトスとあるのはクラテュロスのほうが正しいようではあるが、しかしクラテュロスは「ヘラクレイトスの徒」と一般には位置付けられているので誤りとまでは言えない。

 ヘラクレイトスに戻れば、彼の思想を「万物流転」の言葉で片付けるのは誤りで、ヘーゲルが「ここで(ヘラクレイトスのこと)われわれは弁証法の祖国を見出す」と述べているように、彼の「自然観」=「世界観」は「万物流転」よりも深い意味をもつと考えたい。たしかに、「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」という断片76があるので、「万物流転」的ではあるが、これだけなら、むしろニーチェの「永劫回帰」の原点と考えたほうが合点がいく。

 「反対するものが協調する、そして異なる音からもっとも美しい音調が生じ、万物は争いによって生じる(断片8)」「すべてはロゴスによって生じる(断片1)」「大いなる死は大いなる分け前に与る(断片25)」などの言葉に触れると、ヘラクレイトスからは「万物流転」を超えた不動の一者の存在の匂いが感じられる。さらに「私は自分自身を探求した(断片101)」「智あるありかたはただひとつ。すなわち、万物をあらゆる仕方を通じて操るその真の叡智を知ること(断片41)」という彼の言葉を知るに至り、ヘーゲルのいう「弁証法の祖国」をヘラクレイトスの思想に見出すことができるのである。

 もっとも、ヘラクレイトスは実に「変な人」であったようで、厭世的になった彼は世間を捨てて草や葉っぱを食べて生活し、やがて水腫を患った。治療のために町に戻ったのだが、その治療法が滑稽で、身体から水気を抜くために全身に牛糞を塗りたくった。が、気の毒なことにそのまま死んでしまった。友人たちは乾いた牛糞をはがそうとしたがそれはできず、彼の死体は犬に食べられてしまったのだった。「犬は自分の知らない人間に吠える(断片97)」。これもヘラクレイトス箴言である。

 ともあれ、野川の流れを見て今回、私が最初に考えたのはヘラクレイトスのことだったのである。私なら近所にある東京競馬場に行って馬糞を塗りたくるかもしれない。しかし、私の死体なぞ、犬も食わない。 

野川の水はどこから?

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野川の源流点は塀の内側の森の中にある

 野川は多摩川の一次支川で、世田谷区の二子玉川付近で本川に合流する。水源は国分寺市東恋ヶ窪に所在する日立製作所中央研究所の敷地内の「大池」にある。この池自体が湧水を集めて造られたものなので、源流点は池を形成するための水が湧き出る地点と思われるが、それがどの湧水点を指し示すのか私には不明である。私企業の敷地内にあるので、普段はそこには関係者以外は立ち入ることはできないからだ。年に春と秋の2回、一般公開されるのだが、このときばかりと集結する人が多いらしいので、人込みが嫌いな私はまだ水源地を見たことはないのである。

 野川の全長は20.23キロとされているが、始点は大池、終点は多摩川との合流点なので、長さはどうやって決めているのだろうか?どちらも結構、あいまいな場所なのだ。源流点は見たことはないが、合流点は大水が出ると位置はかなり移動しているのを見掛ける。川の長さは、源流点と合流点との間の流れの中心を結んで測定するらしいのだが、始点も流心も合流点も常に変化していると考えられるので、クラテュロスではないが、「君は一度として野川の長さを測定することはできない」のではないだろうか?

 ところで、日本一短い川は和歌山県牟婁(むろ)郡那智勝浦町粉白(このしろ)にある「ぶつぶつ川」で全長は13.5mである。イルカの追い込み漁で知られている太地町のすぐ南にあり、国道42号線にほど近い場所にあることもあって、それを示す看板を見たことがあるような気もするが、立ち寄ったことはまだない。コロナ禍がなく、さらに梅雨末期の大雨さえなければ、7月下旬には紀伊半島の南端にある古座川にアユ釣りに出掛ける予定があったので、その際に、日本一短い川に立ち寄ることができたはずなのだが。

 「ぶつぶつ川」の名の由来は、水がぶつぶつと地中から湧き出る様子にあるらしい。始点は水が湧き出るところに、終点は本川である粉白川との合流点にあるのだが、水が湧き出る場所などしばしば移り得るし、合流点も本川の水量や流路によって変わってしまうことは大いにあり得る。それゆえ、実際には13.4mや13.6mのときもあろうかと思う。ただ毎日、河川事務所としては川の長さばかりを測ってはいられないので、次の測定は地形が大きく変わったときにおこなわれるのだろう。

 いったい、川とは何か?と問われたら、答えるのに案外、窮する。大雨のときなどよく「道路が川のようになる」などと表現されるが(今年も日本各地で大洪水が発生し、川どころか町全体が湖のようになってしまっている)、これはあくまで「川のよう」であって「川そのもの」ではない。日本では河川法によって川は定義され、一級河川二級河川準用河川、普通河川の四つがあるとされる。しかし、前三者に河川法の適用がおこなわれ、普通河川は除外されている。したがって、雨後にできた流れは河川法のいう河川にはあたらないため、それが13.5m未満の長さであったとしても、日本一短い河川という認定を受けることはない。ちなみに、高瀬舟でよく知られる京都の高瀬川は普通河川に該当するため、法律上は河川とは見なされていないそうだ。

 野川に戻ると、源流点のある大池は窪地になっていることが地図を確認するとよく分かる。その池が所在する「恋ヶ窪」の地名の通り、大池だけでなく一帯には窪地が多い。杉並区にある荻窪も窪地になっていて、今でもその周辺を車で走ると高低差の大きさを実感する。その周辺には阿佐谷、天沼、清水などの地名があり、それらの名前からも高低差がいたるところに存在することが分かる。

 恋ヶ窪は武蔵野台地の武蔵野段丘面の南端に位置し、南側には国分寺崖線があり、崖線の下には立川段丘面が広がっている。武蔵野段丘は、黒土の表土、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫層、そして基盤の上総層群から成り立っている。ローム層は火山砕屑(さいせつ)物からできており、粘土とそれよりやや粗いシルトがその成分である。その割合は均等では当然なく、粘土の含有割合が高い場所では水は通しにくく、低い場所では浸透性はやや高い。雨水の多くは地下に浸透していくのだが、粘土質の高い場所は帯水性も高いために地下水が溜まりやすくなる。これを宙水といい井戸に利用される。地下水の利用が進むと地盤そのものが沈み込むため、こうした場所が窪地になるのだろうか。

 大池のある日立製作所の敷地内の標高を調べてみたい。例によって国土地理院の「標高がわかるWeb地図」を利用する。研究所の建物がある辺りの標高は76m前後。敷地の西側にある西恋ヶ窪は77m、東側の本町は75mなので、建物のある場所がとくに盛られているわけではない。しかし、建物がある場所の南側は緩やかな斜面になっており、建物から120mほど南側の標高は70m、さらにその先からは傾斜がややきつくなり、50m先の標高は63mである。この標高63m前後のところに湧水点があるようなのだ。この付近の地層を調べてみると、武蔵野ローム層と武蔵野礫層との境目辺りが標高63mほどのところにあるため、浸透性の高い礫層に達した地下水の一部が斜面の間から浸み出たと考えることができる。後述するが、野川の流れに合流する「お鷹の道・真姿の池湧水群」の湧水点も標高63mほどのところにある。さらに、東京経済大学の敷地内にある「新次郎池」の湧水点も62~63mほどのところにあり、小金井の貫井神社の湧き水も同程度の標高地点から流れ出ているのだ。

 大池から発する野川の源流の水も、お鷹の道・真姿の池湧水群の水も、後述する新次郎池から流れ出る水も、貫井神社境内から湧き出る水も、大半が野川の流れとなって多摩川を目指して進んでいく。ひとつとして同じ水はないものの、水たちは同じ原理で生まれ出る。水というヒュレー(質料、素材)は野川というエイドス(形相、本質)にしたがって流れ下る。この限りにおいて、野川は常に変化しつつも同一性を保持しているのである。

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野川は武蔵野段丘の縁に侵食谷を刻んでいる

 写真の道は人と自転車と動物が利用できる道で、日立と中央線・西武国分寺線の線路との間にある。西恋ヶ窪方面に住む人にとって、国分寺駅北口に出るには日立の敷地が立ちはだかっているので大きく迂回することを迫られる。その点、この専用道は中央線沿いに住む人にとってはとても便利な道になっている。ただし写真からも分かるように、野川が生み出した侵食谷(しんしょくこく)があるために下り上りを要求されることになる。写真を撮っている地点の標高は71m、道の谷は66m、中央線の軌道は69mのところにある。向かいに見えるタワーマンション西国分寺駅近くにあるもので、その敷地の標高は79mである。

 中央線は標高74m地点にある西国分寺駅まで緩やかに上っていく。一方、西武国分寺線は日立と西恋ヶ窪の住宅地を通過するためにほぼ70m地点を進むが、やがて武蔵野丘陵地の本来の高さにまで標高を回復するために上りに入り、次の恋ヶ窪駅は81m地点にあるため、10m以上の高低差を進むことになる。

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野川は正面に見える森の右下にある

 野川は日立の敷地に別れを告げると中央線・西武線の線路の下を通り、南南東方向に流れ下っていく。中央線の車両の向こう側には森が見えるが、その森は野川の左岸側斜面のものである。右手には住宅の屋根の連なりが見えるが、この住宅地は野川の右岸にある。本項の冒頭の写真がその住宅地の際から野川を望んだもので、中央線の向こうに見える木々は日立内のもの、右手の木々が上の写真でいえば正面に写っている森のものである。なお、冒頭の写真における野川の標高は60mなので、中央線の線路との高低差は9mあることになる。

野川の流れを追う

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中央線下から150m下流を見る

 中央線・西武線の真下から顔を出し、国分寺崖線を削りながら流れ下る野川は、住宅地に造られた三面コンクリート護岸の通り道に沿って南東方向に進んでいく。住宅地の間を縫うように流れる野川の護岸がこの程度の規模で済んでいるのは、流出量を大池で調整しているためだと考えられる。

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多喜窪通りの無名橋から流れを望む

 多喜窪通り都道145号線)は国分寺駅南口から西方向に進み、府中街道と交差する泉町交差点をさらに西へ国立市へと向かう。国分寺駅南口の標高は73m、泉町交差点は81mだが、写真の地点は61mである。このことからも、野川が国分寺崖線の南端に侵食谷を刻み付けていることが分かる。多喜窪の名の由来は不明だが、私は多喜=滝と考え、「かなり急な高低差のある道だから」と勝手に想像している。

 今はコロナ禍で中断しているが、私は月一回、小金井市国分寺市で開かれる懇話会(哲学カフェ)に参加していた。昼の部は武蔵小金井駅近く、夜の部は西国分寺駅近くでおこなわれるのだが、健康のためもあって、さらに時節柄、バスにも電車にも乗りたくなかったので、府中市から自転車を使って移動していた。行きは国分寺崖線を上って小金井に行き、西国分寺へは多喜窪通りを使って移動し、帰りは国分寺崖線を下って南下するといった行程を取った。私の自転車はモーターのアシストがないタイプなので、多喜窪通りの使用はかなりきつかった。そこで、日立中央研究所の北側を通ることに変更した。この道ならば野川を横切ることはなく、東恋ヶ窪の微低地を通るだけなので移動は楽になった。反面、自然の中に身体を置いているという感覚は希薄化された。何事も、いいとこどりはできない、のである。

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野川と「お鷹の道・真姿湧水群」の流れの合流点

 国分寺街道が国分寺崖線を上り始める地点のすぐ西側に写真の小さな調整池がある。写真の下側からは野川が流れ込み、写真の上側の右手からは「お鷹の道・真姿の池湧水群」の流れが入り込み、ここで両者の水が混ざり合って一本の筋になり、国分寺崖線の崖下を東に向かって進んでいく。写真の右側に少し写っているのが不動橋で、このたもとには小スペース(不動橋ポケットパーク)がありベンチも置いてあるので、この時期はここで涼を取る人の姿をよく見掛ける。ソメイヨシノの大木もあるので、開花期には見物や撮影に訪れる人も多い。

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橋の北側にる石碑と庚申塔

 不動橋の北側には大きなマンションがあるが、そのエントランスの一角にあるのが写真の「不動明王」の石碑と庚申塔である。不動明王は人間の煩悩を消し去ってくれる仏ではあるが、近年では「健康祈願」「交通安全祈願」などにも対応してくれる。不動橋のある地点は2つの流れが合流する場所なので、ここ一帯ではかつて氾濫が多発したのかもしれない。そう考えると、不動明王の存在にも得心がいく。

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お鷹の道・真姿の池湧水群の湧水点

 「お鷹の道・真姿の池湧水群」(以下「お鷹の道」に省略)については、本ブログの第4回「国分寺崖線」の項ですでに触れているが、この「お鷹の道」の流れは野川の一次支川(多摩川から見れば二次支川)にもなっているので、改めて取り上げてみた。

 先に述べたように、この湧水点は標高63m付近にあって、明らかに武蔵野礫層から清水が湧き出ている。写真左手の階段は国分寺崖線を上り下りするためのもので、崖線上には「都立武蔵国分寺公園」がある。なかなか趣のある公園で、散策にも適しているので、私の徘徊場所のひとつになっている。春秋の花探しにも出掛けてくる場所だ。

 湧水点はここだけでなく、武蔵国分寺跡の敷地内にある「おたかの道湧水園」からも湧出している。武蔵国分寺跡周辺は国分寺造営のためにか崖線を北側に切り込んでいると思われる地形をしている。そんな条件もあって、他の場所に比べて湧水点の数が多いようで、これらから湧き出る清水を集めて「お鷹の道」の流れが形成されている。

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真姿の池に鎮座する弁財天

 弁財天(弁才天、弁天様)は、日本では芸術(とくに音楽)や学問の神としてだけでなく、福徳や財宝の神としての性格が強いが、もともと古代インドでは川の神、水の神であった。日本でも一部ではその性格が引き継がれており、川の要衝には「弁天社」が、「水神社」「瀧神社」などとともに置かれていることが多い。水は命を守るものであると同時に命を奪う存在でもあるので、こうした信仰心が生まれるのは当然のことと考えられる。「お鷹の道」の湧水点に「弁才天」が置かれているということは、湧き水が枯れることのないようにとの祈りが込められているのかもしれない。

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野川に合流する直前の「お鷹の道」の流れ

 「お鷹の道」の流れはいく筋もの湧水を集めてやや北を向いて進み、先に挙げた調整池で野川に合流する。もっとも、合流点のある国分寺市東元町の住宅街を通る道を歩き回ってみると、細い道が幾筋もくねくねと曲がりながら進んでいく様子が見て取れる。つまり、住宅街を整備するために野川の流れも「お鷹の道」の流れもそれぞれ一本に集約され、さらに不動橋のところにある調整池でさらに二つの流れが一本化されただけであって、以前は国分寺崖線下の平地にはかなりの数の細い小川が流れていて、それを埋めて道にしたのであり、それを造るために流れを一本化したのだということが、街中の曲がりくねった細道の存在から判断できるのである。

 以前にも述べているように、国分寺崖線は約3万年前、多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできたものなので、崖線下にはかつての多摩川の流れの跡が残されいる。崖線から湧き出た清水たちは、その跡をたどっていくつもの小川を形成したのであろう。それらが、開発という名のものにどんどんと整理され、いまでは一本の流れとなって野川と呼ばれているが、野川=野にある川なので、今でこそ固有名詞になっているが、かつては普通名詞の「野の川」にすぎず、一本一本にはとくに名前はなかったか、地元の人が思い思いに名付けていたかのどちらかであろう。

 水はなくなっても、土地が川道の形を記憶しているのである。

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下流側から丸山橋方向を望む

 東元町内を散策するとかつての川道の痕跡が見つかるだけでなく、写真のような狭い小径を発見することができて嬉しくなる。右岸の道はとても狭く人と人がすれ違うことさえ苦労する。時節柄、向こうから人が歩いてきたとき、すれ違う際には極度の緊張を強いられることになるだろう。向こうに見える丸山橋は国分寺駅方向に進むには便利な橋なのだが、この小径を行く「勇気」のない人はいったん川筋から離れて住宅街を迂回してその橋に出ることになる。

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右岸沿いの道からは、崖線に立ち並ぶ住宅街と駅前のツインタワーが望めた

 農地の向こうの斜面には住宅街が広がっている。国分寺崖線のきつい崖を整地して緩やかな斜面を造り、そこを宅地に造成したのだ。その向こうに見えるのは再開発が進んだ国分寺駅北口にそびえる2本のタワービルである。撮影場所の標高は58m、国分寺駅は73m地点にある。駅まで徒歩圏内にある場所だけに崖を有効利用したのだろうが、毎日の上り下りは結構な苦労を強いられることになると思う。反面、体力の保持・増強に役立つという効能もあるかも。

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丸山通りを国分寺駅方向に望む

 写真の丸山通りは、小金井市貫井南町から国分寺駅方向に抜ける道で、国分寺界隈に向かう際によく利用される「裏道」だ。国分寺街道は道幅がかなり狭く、その上に大型バスがひっきりなしに行き交う道なのでいつでも渋滞している。このため、小金井や府中から国分寺の北側に抜けたいと考えるタクシーや運送業者や短気な私などが抜け道として利用するのが丸山通りなのだ。その丸山通りが野川を跨ぐところに架かる橋が長谷戸橋で、その場所の標高は56mである。この道は国分寺崖線を斜めに上り下りするために坂自体は長いものの傾斜は緩やかなので私の愛車(写真内にある自転車)でも移動は容易だ。橋の名前から想像しうるに、ここは緩い侵食谷が形成したものか、あるいは緩い斜面を使って農業をおこなうために開かれたものかのどちらか、あるいは両方だったと考えられる。

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鞍尾根橋の下で野川はまた北からの湧水を集める

 写真の鞍尾根橋は、「西の久保通り」が野川を跨ぐ際に架けられたものである。この橋の下で、野川はもうひとつ湧水からの流れ(源は新次郎池)を集める。 

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東京経済大学の敷地の東側にある「くらぼね坂」

 写真の「くらぼね坂」は西の久保通りにあり、この道も先に挙げた丸山通りと同様、抜け道として利用されることが多く、こちらは府中から小金井方面に移動する(その逆も)際に利用されている。私自身、新小金井街道が整備される前には何度も利用したことがある。今から40年ほど前のことであるが。写真の左手にある東京経済大学の建物群も、右手にある住宅群もすっかり様変わりしてはいるものの、道の広さ自体はまったくといっていいほど変化していない。

 鞍尾根橋の名は、「くらぼね坂」を下ったところにあるため、そのように名付けられたのかも。「くらぼね坂」についての由来書を見ると、急な崖(国分寺崖線のこと)に造られた坂道で、地面が赤土のために滑りやすく、鞍(馬)でも骨が折れるほど苦労したというわけで「くらぼね」と名付けられたらしい。そうであれば「鞍骨」の漢字が当てはまりそうだが、もっともその名前の由来自体に諸説あるようなので、「鞍尾根」が無難であると考えたのかもしれない。

 この坂の西側には東京経済大学のキャンパスがあり、その東端に「新次郎池」がある。その池は崖線から湧出した清水から形成され、かつては山葵田として利用されていたそうだ。池の周囲は憩い場になっており学外の人も自由に立ち入ることができるが、現在は大規模な改修工事がおこなわれているため、今回はその姿に触れることができなかった。

 この池を大学側が整備したときの学長の名前が北澤新次郎なので「新次郎池」と名付けられたそうだ。国分寺崖線には以前から無数に訪れているので、この池には何度となく訪れたことがあった。緑が多く、しかも崖あり池ありなので、ガキンチョ時代に知っていれば遊び場に加わっていたかもしれない。もっとも、その頃には未整備だったと思われるが。大学の敷地自体には中3の時に入ったことがある。全都でおこなわれる模擬テストの会場だったからで、半ば強制だったので仕方なく受けたのだが、高校受験を希望しない者は受けなくても良いということが分かったので、2度目はサボったという記憶がある。

 新次郎池から流れ出た水は小川となって斜面を下り、ほどなく鞍尾根橋直下でひとつ前に挙げた写真にある通り、野川本流に注ぎ込む。

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鞍尾根橋から野川の上流側を望む

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鞍尾根橋から野川の下流を望む

 写真から分かる通り、鞍尾根橋の上下で野川の姿は一変する。源流点からこの橋までの野川は三面コンクリート護岸だが、この橋の下流からは護岸の幅は大きく広がり、流れの両側に河川敷があって散策路として利用できる十分な広さが確保されている。もちろん、川遊びもできる。また、護岸上の両側(一部は片側)には遊歩道が整備されており、多くの人々が散歩やジョギングを楽しむ姿が展開されている。さらに、両岸にはソメイヨシノシダレザクラが数多く植えられているので、花見シーズンには大勢の人が野川沿いに訪れる。

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貫井神社はかつて貫井弁財天と呼ばれていた

 野川の流れからは北に100mほど離れるが、国分寺崖線の麓に貫井神社がある。貫井とは侵食されて崩れやすくなった川べりの土地という意味らしい。貫井といえば小金井だけでなく練馬区にもあり、その場所は千川と石神井川の間にあって、貫井中学校がある辺りは明らかに窪地になっている。高校教師時代はよくその辺りに出没していたので、高低差の存在は今でも記憶に残っている。

 貫井神社はかつては貫井弁財天と称していたそうだ。「弁財天」に関しては「お鷹の道・真姿湧水群」のところで触れている通り、「弁天社」は水神社であるので、この貫井神社も当然、水とは大いに関係がある。

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貫井神社の背後には崖線が迫っている

 神社の背後には国分寺崖線の崖が迫っており、崖際の数か所からは清水がこんこんと湧き出ている。

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保護された湧水点のひとつ

 野川の源流点のところで述べたように、貫井神社の湧水点も標高63m付近にある。雨水が立川ローム、武蔵野ロームにゆっくりと染み込んで、武蔵野礫層に達したときにその一部が崖から湧き出てくるのである。神社の境内には池があり、そこから流れ出た清水は南下して野川に流れ込んでいる。

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かつての野川の名残り

 貫井神社境内から湧き出た水は写真のような流れとなって野川本流に達するのだが、実はこの流れは、かつての野川の姿だったのである。野川の流れは先に挙げたように、鞍尾根橋から下流は大規模な改良工事がおこなわれ、周囲の地形から考えると不自然なほど整えられている。しかし、かつての川の記憶は至るところに残っており、写真の旧野川の流れもそのひとつで、この流れの痕跡を追うと、もっとも北上している場所は貫井神社のすぐ南側に達しているのである。現在でこそ野川と神社とは100m以上も離れているが、かつて両者は指呼の間にあった。したがって、貫井神社=貫井弁財天は野川の水の神であって、野川に多くの湧き水を与えて流れを豊かにする黄金井=小金井であったとともに、野川の水に頼って生活する人々の守り神でもあったのだ。

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かつての野川を記憶している道

 野川は新小金井街道の下を過ぎたあたりから南下を急いでいるが、そもそもこれは国分寺崖線が東に進んでいたものを南東方向に向きを変えたからであって、野川単独の選択ではない。が、いささか南に行き過ぎたようで、小金井市前原町3丁目辺りでほぼ直角に左折し、しばらくは東に進んで崖線に近づく。

 この直角に曲がる場所の右岸側に団地があるのだが、その団地の南側に旧野川の川筋だった痕跡が残る道がある。それが写真の道で、ここの標高は51m、右手はやや高台になっておりその標高は55mだ。その高台に行く手を阻まれて旧野川は、仕方なく左に曲がらざるを得なかったのだと想像できる。

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蛇行点の右手に立てられた辨財天

 こうした蛇行場所は氾濫を誘発することが多い。そのためか、この蛇行点の脇には辨財天(下弁天社)が建てられている。

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先の道をたどると、旧野川の護岸に出会えた

 先の道は団地を取り囲むようにして野川の右岸に出るのだが、よく注意して道筋を見ると、明らかにかつて川筋であったような細い道が別にあることが分かる。これをたどっていくと、写真の旧野川の護岸に出会えた。このことから、辨財天の前にあった道は、旧野川が蛇行して造った川筋の跡であることの蓋然性は極めて高いと確信した。

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整備された野川は前原小学校の下をくぐる

 一方、川筋を整えられた野川は先に挙げた団地の北側を通り、写真のように前原小学校の校庭の南端の下をくぐって学校の東端からまた姿を現す。この間、川沿いの遊歩道は途切れることになるが、一部は小金井街道の旧道だったと思われる「質屋坂通り」から現れ、小金井街道に架かる新前橋の下流からは再び、両岸に遊歩道が姿を見せる。

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親水護岸として整備されているので子供連れが多い

 野川は前原町2丁目辺りにも蛇行の痕跡を住宅街の道路に残すが、それに触れると際限がなくなるので、整備された現在の川筋に戻ることにする。写真に見える新小金井橋前後は川遊びを楽しむには最適な場所としてよく整備されている。世に「親水護岸」と呼ばれるものは多いが、実際には設計者の独りよがりであることが多く、川遊びしづらいものになっていることのほうがはるかに多い。しかし、ここ野川に関してはよくできていると思え、毎回、子供たちが川遊びに打ち興ずる様子を見掛ける。もっとも、それは設計者の意図が奏功したというわけではなく、川の規模が小さいために「安全に遊べる」という環境が元々あったというのが真相に近いのかもしれない。

 なお、新小金井橋に至る遊歩道には遅咲きのシダレザクラが両岸に植えられ、4月中旬から下旬の開花期には河原も遊歩道も大混雑する。写真にはその樹木は写っていないが、撮影場所の背後からその並木は始まっている。

 新小金井橋の下流から、野川はまた異なった表情に変わる。そして、その変化が生じるキワに、いくつかの大いなる「発見」があったのだった………次回に続く。