徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔53〕狭山丘陵(2)~お気に入りの徘徊コースをご紹介

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多摩湖の給水塔と「水の精」像

 狭山丘陵へは散策目的で出掛けるのだが、その徘徊コースは幾通りかあって、そのときの気分次第で行く先を選択している。主要には(1)村山貯水池界隈、(2)山口貯水池界隈、(3)野山北公園界隈、(4)里山民家から六道山公園界隈が目的地となり、その4パターンの中であっても、さらにいくつかのバリエーションがある。今回(と前回)、改めて狭山丘陵の魅力と不思議さを発見したので、通い慣れた場所だけではなく初めて訪れた場所を加え、2つのコースを紹介することにした。

 いつもは写真よりも文章のほうが多いのだが、今回は自宅から比較的近い場所が目的地ということもあり何度も出掛ける機会があったので、写真を多めに掲載することにした。その分、文章は簡潔に済ますことに心掛けた。そうなるかどうかは不明だが。

山口貯水池とその近辺を訪ね歩く

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山口貯水池南側入り口

 わたしにとって山口貯水池(狭山湖)は、村山貯水池(多摩湖)よりも散策する機会はかなり少ない。もっとも、飯能市(名栗川方面)、日高市(高麗神社方面)、越生町越生梅林方面)、秩父市(困民党関連)などに出掛ける際は、ほとんどいって良いほど上の写真にある道を通過するため、この山口貯水池入口の風景はまったくもって見慣れたものである。

 この入口の手前側に有料駐車場(狭山湖第2駐車場)があることはよく知っているので、山口貯水池界隈を訪ねる場合は、その駐車場(一時間110円)に車を置いて周辺を散策している。

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山口貯水池堰堤の南側

 駐車場から200mほど北に進むと、写真の「狭山湖右岸四阿(あずまや)」脇に出る。撮影日はまだ正月休み中ということもあって結構な賑わいだったが、普段の日であれば数人と出会うのみだ。

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堰堤南側から北尾根方向を望む

 写真は、堰堤の南詰から堰堤上を望んだもので、その先に狭山丘陵北尾根の連なりが見える。堤頂長は716m、堤高は33.9mある。堤体そのものは1934年に竣工しているが、2002年に堤体補強工事が完了しているので、見た目はまったく古さを感じさせない(あたりまえだが)。

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堰堤上から北東方向を望む

 堰堤上を少しだけ進んだ場所から、北東方向を眺めてみた。緑の山の連なりは狭山丘陵の北尾根で、右手奥に見える高層ビル群は所沢駅前のもの。堰堤下には県立狭山公園が整備され、その一部は「狭山運動場」として利用されている。

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堰堤上から谷底平地などを眺める

 堰堤上の中ほどに移動し、柳瀬川が開析した平地を眺めてみた。左手が北尾根、右手が中尾根で、その間にある住宅街は所沢市上山口や山口地区のもの。写真のほぼ中央に見えるのが現在の柳瀬川の源頭域。

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堰堤上から貯水池方向を望む

 今度は堰堤上から貯水池と、かつて柳瀬川の源流域を形成したであろう2つの谷の様子を眺めてみた。右(北側)の切れ込みの先に狭山池や青梅市街があり、左(南側)の切れ込みの先に横田基地福生駅、秋川駅がある。貯水池の底には280戸あまりの家や田畑、いくつかの寺社が眠ったままでいる。

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堰堤上から中尾根方向を望む

 ふたたび、堰堤の東側に広がる風景を望んでみた。今度は中尾根方向に注目した。平地だけでなく、中尾根の北斜面にも開発の手が伸びていて住宅がかなり密集していることが分かる。それもそのはず、谷底平地には西武狭山線西所沢駅西武球場前駅間)が通じており交通の便がかなり良いのだ。西武球場前駅の時刻表を確かめると、午前7、8時にはほぼ10分間隔で西所沢行きの電車が走っている。

 仮に、西武球場前駅で午前7時00分発の電車に乗ると、西所沢駅所沢駅で乗り換えになるものの西武新宿駅には7時59分に到着する。ちなみに京王線でいえば、京王八王子駅を午前7時01分に出発する急行は午前8時01分に京王新宿駅に到着するので、通勤時間としては八王子市の中心地からと西武球場前駅周辺からとはほぼ同等なのである。こうした訳であるかどうかは分からないが、狭山丘陵の宅地開発が相当に進んでいることは事実である。

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堰堤の北詰付近から富士山を望む

 山口貯水池からも富士山がよく見えるためか、その方向にカメラを向けている人の姿を見掛けることが多い。左手には丹沢山塊も顔をのぞかせていて、丹沢の最高峰である蛭が岳(ひるがたけ、1673m)もはっきりと見て取れる。 

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県立狭山公園内から堤体を望む

 堰堤上から、堤体の斜面に沿って降りる道がいくつか整備されている。途中には「狭山運動場」や県立狭山公園が整備されている。狭山運動場が使用されているときには無料の駐車場が開放されているので、そこに車をとめて堤体を上ってくる人も多かった。

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柳瀬川の源頭付近から堤体を望む

 狭山公園内をうろついて、柳瀬川の「源流域」がよく見える場所を探した。もちろん柳瀬川の源頭は、かつて山口貯水池の西側にあったY字の2つの谷にあったはずだが、もはや多摩川から導かれた水によって谷は埋められているため、今となっては写真の場所が柳瀬川の源頭域であると考えるしかない。冬場は渇水期に当たるため、柳瀬川にもたらされる水は少なく、旧く、狭山丘陵に積もった多摩ロームを削り取って谷底平地を形成した勢いはまったく感じられないし、その面影すらない。

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狭山丘陵の森は「トトロの森」でもある

 狭山公園を離れて東に進んだ。『となりのトトロ』の舞台のひとつと考えられているのが狭山丘陵の里山の森。その雑木林の森を保存する運動が大きく展開される切っ掛けとなったのが、早稲田大学・所沢キャンパスの設立計画だった。大学の進出こそ許してしまったが、その一方で「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」や「狭山丘陵を市民の森にする会」が発足した。

 1990年4月、こうした運動の中から「トトロのふるさと基金委員会」が設立され、91年8月には「トトロの森1号地」が取得された。以降、土地を買い取り保全するナショナル・トラスト運動が展開され、18年までに48か所の「トトロの森」が誕生している。これが単に「狭山丘陵の里山を守る基金委員会」だったら活動はこれほどまでに拡大しなかっただろう。これも一種の「アフォーダンス効果」かも知れない。実際には、トトロなど実在しないのにもかかわらず。

 所沢市上山口地区にある「トトロの森1号地」は、かつて所沢と武蔵村山とを結ぶ主要路であった道のすぐ北側にある。森に通じる道の脇には結構な数の車がとまっていた。”駐車しないように”という看板がいくつも出ているにもかかわらず。

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市街地に入りつつある柳瀬川

 写真は、「トトロの森1号地」に入る丁字路のすぐ近くを流れている柳瀬川のあり様。川の水量は山口貯水池の管理下にあるので、もはや氾濫を起こすことはまったく考えられないといえるほど、流れはか細い。

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柳瀬川の左岸にあった水神様?

 そのか細い流れのたもとにあったのが写真の朽ちかけた鳥居と小さな祠。水害の危険性が限りなく小さくなった現在では、水神様のご加護は不要になったのだろう。私は思わず神に同情してしまった。無神論者に同情される神も哀れな存在ではあるが。

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氷川神社の中心?にある「中氷川神社

 後述する「高橋交差点」を過ぎて県道55号線(r55、通称は所沢武蔵村山立川線)を東に進むと、沿道は賑わいを増してくる。そのr55の北側にあるのが「中氷川神社」。本ブログの第49回で青梅線奥多摩駅近くにある「奥氷川神社」に触れた際、「武蔵三氷川神社」について述べているが、その中に出てくる「中氷川神社」がここである。

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今年の初詣は自粛気味?

 鳥居をくぐり参道を少し北に進むと広場に至る。写真の社殿は東向きなので、鳥居からの道は写真の左手に存在することになる。境内は南北に細長いところから「長宮」の名があるそうだ。初詣の時期なのだが、今年は密を避けて分散参拝をおこなっているためか、思ったより人の姿は疎らだった。

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この交差点付近がかつての山口集落の中心地

 中氷川神社の鳥居前から300mほど東に進んだところに、写真の「山口城址前交差点」がある。r55と「山口城祉通り」が交わり、交差点の四隅に、反時計回りでマクドナルド、セブンイレブン、ファッション市場サンキ、バーミヤンがある。貯水池ができる前の地図を見ると、この辺りが旧山口村の中心であったことが分かる。もっとも、その時分にはまだ「十字路」ではなかったが。

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村山党の有力者であった山口家の城があったことを示す碑と看板

 ファッション市場サンキの脇にあるのが、写真の「山口城址」碑と山口城を紹介する案内板。前回にも触れたが、山口家は武蔵七党の村山党(平安末期より)の有力氏族で、写真の場所に山口城を築き、16世紀に小田原北条氏の下で活動するまで続いた。

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山口城の土塁の一部が保存されている

 山口城址といっても、それを示す碑と案内板、それに写真の土塁程度しか残されていない。隣はファッション市場で、写真の土塁のすぐ南側には西武狭山線が走っている。山城であればもう少し残るものはあっただろうが、平城では致し方ないのかも。

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山口地区ではもっとも車が集まる高橋交差点

 山口城址からはr55を西に戻り、写真の高橋交差点を眺めてみた。r55はこの交差点を左に曲がり、しばらくは西武狭山線に沿って南西に進み、村山貯水池手前で右に折れて両貯水池の間の「中尾根」を通って武蔵村山市街に至る。

 もっとも、山口貯水池ができる前はそんなルートは存在せず(細い道筋はあった)、それゆえにこの交差点も存在せず、写真でいえば直進(赤い車が進んでいく方向)して、現在は山口貯水池となっている柳瀬川の上流方向に進み、Y字の谷の左手(南側)に入って南尾根を上り下りして村山村の中心街に出た。

 その旧道と現在のr55とは、のちに触れる「村山温泉・かたくりの湯」がある場所で「出会う」。もちろん、旧道は貯水池に沈んでいるので出会うことは、もはやない。

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山口地区には旧柳瀬川の河道であったと思われる道がいくつもある

 その旧道筋に戻るとまた、「トトロの森1号地」の標識と面会することになるので、その高橋交差点を左折してr55に沿って歩くことにした。道の左手(東側)は鉄道路だが、右手は住宅街になっている。写真はその住宅街を西に抜ける道で、こうした道は幾筋もあるが、いずれも写真のようにくねくねと曲がったものになっている。それゆえ、建物も整然と南向きに揃っているわけではない。一見すると平地であるにもかかわらず曲がりくねった道が多いということは、それらが柳瀬川の旧河道であったことの証左である。

 柳瀬川は蛇行を繰り返しながら狭山丘陵の多摩ローム層を削り、谷底平地を少しずつ築いていったのだろう。

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野球開催日やイベントがあるときは混雑するかも?

 r55が中尾根を上り始めると右手の住宅地は途切れて里山風になる。左手の鉄道路は高架を形成し始め、その先に写真の「西武球場前駅」がある。野球やイベント開催日には改札口は全開となるのだろうが、普段はその多くが閉じていて、宴のあとさきといった風情である。私の家の近く(といっても約800m)に京王競馬場線の「府中競馬正門前駅」があるが、そこと同じ雰囲気だ。

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イベントのときに何度か入ったことがある

 駅名は「西武球場」だが、現在はネーミングライツメットライフ生命に与えられているので、「西武ドーム」とは呼ばずに「メットライフドーム」の名が付されている。

 このドームには野球観戦では入ったことはないが、ガーデニングショーか何かのイベントで数回、入ったことがあった。駐車場はかなり混雑していて、駐車係のオッサンが、「野球のときよりも人が集まるな」と感心していたのを記憶している。

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スキーは好きではないので利用したことはない

 ドームの隣には「狭山スキー場」がある。1959年に開設された屋内人工スキー場で、私の兄がよく出掛けていたことを記憶している。西武ドームは1979年に開設されたので、スキー場のほうが20年も早く始まっている。

 そういえば、私はスキーもスケートもそれぞれ一回しかやったことはない。ウインタースポーツとは無縁かといえばそういうわけではなく、もちろん、冬のスポーツといえば「寒メジナ釣り」である。スポーツの語源には「楽しみ」という意味もあるので、冬場の磯釣りも立派なスポーツだ。もっとも、冬場はなかなか釣果が上がらないので、スポーツの語源のひとつである「気晴らし」には、必ずしもならないのだが。

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こう見ると普通の寺なのだが

 r55をはさんで、西武球場前駅の反対側にあるのが写真の「狭山不動尊」。埼玉西武ライオンズがここで必勝祈願をするらしい。ライオンズの本拠地の目の前にある寺院なので、その点ではとくに不思議はないのだが、開基が「堤義明」で、創建が1975年と聞くと、やや怪しげな感じがしてくる。

 山門にあたる?「勅額門」は芝の増上寺から移築したものらしい。

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多宝塔は2つあり、こちらは第二

 多宝塔は境内に2つもあり、写真のものは「第二多宝塔」とされ、兵庫県加東市にある掎鹿寺(はしかじ)から譲り受けたものとのこと。なお、第一多宝塔は本堂の東側にある。

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普段は非公開の羅漢堂

 羅漢堂の建物は、明治期の政治家であった井上馨の屋敷から移築し、周りに並ぶ唐金灯篭は増上寺から移設された。

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天誅組でおなじみの桜井門

 山口貯水池側にある写真の「桜井門」は奈良五條市にある桜井寺から移築されたもの。桜井寺といえば幕末の尊王攘夷派だった天誅組が一時、本拠地としたところ。天誅組では公卿の中山忠光や土佐の吉村寅太郎が有名だが、私の場合は『大菩薩峠』の主人公の一人である机龍之介を思い浮かべてしまう。彼は天誅組に同行し、幕府軍との争いの際に目を傷め、やがて失明してしまうのだった。

 かように、狭山不動尊は日本各所からいろいろな建物を寄せ集めて、天台宗別格本山として開かれたのである。信仰に厚い人や仏教史・仏教建築にこだわる人などの間では相当に評判が悪いようだが、そもそも日本仏教そのものが仏教の世界では異端なので、狭山不動尊のような仏教建築テーマパークがあっても許せると思う。なにしろ仏教は「如是我聞」の世界であり、一切皆空なのだから。

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煌びやかな建造物

 こちらは、狭山不動尊の隣にある「山口観音」。山門は狭山不動尊と同じ側にあり、写真の門は奥の院に位置する。r55が山口貯水池と村山貯水池との間を通過するところに面しているため、写真の姿を目にする人はかなり多いはずだ。

 五重塔に見える「千躰観音堂」は中国風に見え、お隣の狭山不動尊とは異なる雰囲気を醸し出している。

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由緒のある山口観音

 もっとも、山口観音(金乗院放光寺)は歴史があり、主催者発表によれば弘仁年間(9世紀前半)、行基が開いたとされている。現在は新義真言宗豊山派に属している由緒ある寺院である。ただし、お隣の狭山不動尊とはライバル関係にあるためか、境内には奇異なる建造物が負けず劣らず揃っている(そうだ)。私はその全貌にはまだ触れていないが、ライバルは日本各地から寄せ集めたもので構成されているのに対し、こちらはインターナショナルな建造物が多いようで、写真の五重塔などは可愛いものらしい。こちらの寺院もまた、一切皆空の世界である。

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東京府水道局が建てた玉湖神社

 山口観音の奥の院が面するr55を300mほど西に進むと、写真の玉湖(たまのうみ)神社の鳥居が見えてくる。道路の南側なので、どちらかといえば村山貯水池の上池の敷地に近いが、この辺りは両貯水池間がもっとも近接している場所なので、東京府水道局はあえてここを選んだのかもしれない。1934年の竣工なので、32年に山口貯水池が概ね完成することを見計らって、両貯水池を見守るための神社が造営されたことになる。

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1967年、諸般の事情で神様は引っ越しました

 ただし、公共団体(東京都水道局)が特定の神を祀るということは、憲法第20条第3項(国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)に抵触するという批判を受けた結果、1967年に御霊返しがおこなわれて神域ではなくなった。

 社殿は残されたが、2011年の大震災で被害を受けたために解体された。写真から分かるとおり小さな祠は残っているものの、そこに神は、もはや存在しない。

 境内には工事の際の殉職者を慰霊する碑が立っている。2つあるのは、村山貯水池関係者と山口貯水池関係者とを区別しているからだろうか。

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貯水池工事の残土で造った「狭山富士」

 玉湖神社の裏手(西側)には、工事完了後に残った土を盛って造った「狭山富士」がそびえて?いる。標高は151mとされており、麓のr55は132mなので、比高は19m。登山道?も整備されているようで、頂上からの眺めは案外悪くないそうだが、今回は登頂を断念した。

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信号はないが交通量は多い丁字路

 駐車場に戻るため、玉湖神社を離れて200mほど東進した。写真の丁字路を左折すると、私が車をとめた「狭山湖第2駐車場」に至り、直進方向には山口観音の建造物が左手に見え、さらにその方向へ道なりに進むと丁字路に突き当たる。その丁字路を左折すると西武球場前駅へ、右折すると村山貯水池を上下に分かつ上貯水池堤体上を通る道に至る。

 私は、山口貯水池界隈を巡る徘徊を終えるため、写真の丁字路を左折した。足取りは重かった。スタート前からのことだが。

野山北公園や不思議なトンネルなど

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噴水池、釣り池、ひょうたん池など水が豊富な野山北公園

 野山北公園は、狭山丘陵の南尾根の谷戸内にある。というより、ここは両貯水池の西端よりさらに西に位置するため、前回に触れた三本指の例えでいえば手の甲に属するので、もはや南尾根という表現は妥当性を欠くかもしれない。ともあれ、人差し指の付け根付近にあるといえば分かるだろうか?分かんねぇだろうな。

 村山貯水池や山口貯水池にはとくに季節に関わりなく訪れるのだが、この公園に関してはほぼ春のみといってよい。春は「カタクリ」の開花期だからである。公園内には釣りができる池がいくつかあるが、コイやフナ、クチボソなどは私にとって釣りの対象にはならないので、ここで竿を出したことは一度もない。ただし、そこは釣り人の性なのだろうか、他者の釣り姿を見ることは決して嫌いではない。というより、釣りをするしないに関わらず、水たまりがあれば必ず、魚の姿を探してしまうのだ。 

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丘陵の斜面を利用した「冒険の森」

 公園には里山の斜面の利用した遊び場が整備されている。隣には「村山温泉・かたくりの湯」という立ち寄り温泉、市民プール、運動場もあるためか広大な駐車場が存在するので、里山散策、池での釣り、そして遊び場に出掛けてくるのにも便利なのだ。

 写真の冒険の森には遊具やアスレチック、展望台などが整備されているためか、子供連れの姿が多いようだ。

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アスレチックが数多く設置されている「あそびの森」

 写真は「冒険の森」の隣にある「あそびの森」の入口付近。こちらのほうはアスレチック施設がメーンで、中にはかなり規模の大きなものがあるようだ。やはり子供連れが大半だ。

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カタクリの里」と「ミズバショウ池」

 私には冒険心や遊び心がないわけではないが、ガキどもに混じって興ずる気持ちはないので、2つの森はパスして、谷戸内を進んだ。

 写真の左手の斜面は、「カタクリの里」として整備され、下草を刈り取ってある部分にカタクリが無数に植えられていて春の開花を待っている。右手の湿地帯は子供たちに田んぼ作業体験をさせる学習の場となっているが、上方の数面はミズバショウを生育する田んぼに利用されている。

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春にはカタクリが群生して花開く(再掲載)

 写真は、昨年の春に撮影したカタクリの花の群生で、以前、本ブログに掲載している。カタクリの群生に触れるのは大好きなので、シーズンともなるとあちらこちらにある名所に出掛けている。もっとも好みなのは、埼玉県比企郡小川町にある「カタクリオオムラサキの林」で、そこではカタクリニリンソウとの共演が見事なのだが、昨春はすでにコロナ騒ぎが始まっていたので例外的にそこへは出掛けず、カタクリ見物はこの野山北公園が中心だった。ここは年々、人気が高まっており、それに応えるかのように規模も株数もずいぶんと拡大しているようだ。

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ミズバショウの花(再掲載)

 カタクリの里では小川町のようにニリンソウとの共演はないが、写真のミズバショウが助演者として登場する。この写真も昨年春に掲載したものである。

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北公園にある池の水の元を探る

 北公園の池は空堀川の水源とされているが、ではその池の水は何処から来たのだろうか。自分の中ではその疑問はほとんど解決しているのだが、念のため、公園を管理しているオジサンに尋ねてみた。オジサンは谷戸の上方を指さし、「あっちに谷から水が流れているのが見えるから行ってみるといい」と教えてくれた。それが空堀川の源流で、池はその水を集めたものとのことだった。

 という訳で私は、ミズバショウの田んぼの上方にある、か細い流れを確認することにした。とはいえ、この谷川は、私には既知のものだったけれど。

 写真は、田んぼのすぐ上にある流れだ。

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流れの元をさらに辿る

 流れの元をさらに辿ってみた。この辺りはまだすぐ脇に散策路が通じているので水路を間近に見ることができる。

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空堀川の源頭

 ところが、散策路は次第に川筋から離れ、しかも道の両側には低いながらも柵が設置されているので、流れの近くに寄ることはできなくなってしまった。おそらく、写真の辺りが水の湧出口だと思われるが、きちんと確認することはできなかった。

 狭山丘陵は、基盤である上総層群の最上層にある「狭山層群」の上に多摩ローム層が積もってできたものだ。狭山層群は下から「三木層」「谷ツ粘土層」「芋窪(いもくぼ)礫層」から形成されている。谷ツ粘土層からは貝の化石が多く発見されているので、かつては海底にあったことが分かっている。その上の芋窪礫層は、最初期の古多摩川関東山地を削って大武蔵野扇状地の原形を造った地層にあたる。約40~30万年前のことだ。そして箱根や八ヶ岳が噴火を繰り返し、礫層の上に多摩ローム層を形成した。約20万年前までのことだ。その後、古多摩川は狭山丘陵を残したまま大武蔵野扇状地を削って今の武蔵野台地の原形を造った。

 狭山丘陵の多摩ローム層は30~40mほどの厚さがある。その下の芋窪礫層は10mほどの厚さだ。清水の湧出口は芋窪礫層からだと考えると丘陵のピークから40mほど下のところから水が表面に顔を出すことになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mだが、それは丘陵に西端近くにあり、空堀川の源頭があると思われる周辺のピークは170~180mほどだ(もっとも近い場所にある三角点は183m)。だとすれば湧出口は140m前後のところにあるはずである。実際、写真の湧出口は138~142mほどである。ちなみに、この近辺には谷戸が数多く存在しているが、すでに水が枯れてしまったところを含め、湧出口と思われる場所の大半は標高140m地点にある。

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谷をさらに辿ってみた

 写真は、空堀川が形成したと考えられる谷戸を上からのぞいたものである。左に写っているのが散策路だ。低い柵が施してあるのが分かると思うが、それを越えるわけにはいかなかった。

 空堀川の源頭を探すことはほぼ達成したものの、北公園の池を満杯にするほどの量がこの谷から湧き出るとはとても考えられなかった。せいぜい、ミズバショウを田んぼを満たす程度だろう。

 ではいったい、池の水は何処から来たのだろうか?それは、池のすぐ東側に市民プールが存在することから推察可能だ。それ以上を語るのは野暮というものだ。

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北公園の南尾根にある「出会いの広場」

 野山北公園の池の南側に、南尾根に上る散策路がある。存在は知っていたがその道に入るのは今回が初めてだった。ほどなく舗装路に出た。それを西に進み、尾根の南斜面にある「龍の入(たきのいり)不動尊」へ下る道を探した。

 写真はその舗装路沿いにある「出会いの広場」(標高161m)と名付けられた場所だ。休憩所とトイレがあるが、それ以外にはなにもない。なにもないものと出会うことほど難しいものはない。分かったことはただ一つ、その広場の西側に尾根を下る道があり、それが不動尊へ至る最短路であるということ。なにもない場所ではあったが、それでもなにかを見出すことができた。それゆえそこは、もはやなにもない場所ではなくなった。確かに、出会いはあったのだ。

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南尾根南斜面にある谷戸を下る

 その道を下ると、ほどなく写真の少々うらぶれた茶畑が視界に入った。ここにも谷戸が形成されており、目指す不動尊はその谷戸の西側(写真では右手)にあった。

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龍の入不動尊・弁財天付近

 本堂の上方に写真の建造物群があり、その中に弁財天が祀られている。弁財天は水の神様であり、ここには「白糸の滝」があるはずだった。滝といっても規模の大きいものではなく、清水の湧き出し口があるだけなのだ。が、かつては湧出量が多かったらしく「御神水」として崇められていたようだ。しかし、今冬は非常に雨が少ないためもあってか浸み出す水の量はとても少ないようだ。そのため、今回は「御神水」に触れるのは諦め、不動尊のある風景を味わうことに留めた。

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龍の入不動尊・ぼけ除不動明王

 本堂と弁財天との間の斜面には50体ほどの仏像が並んでいた。その中で私が一番気に入ったのが、写真の「ぼけ除不動明王」である。狭山丘陵内でも決して散策場所に適している場所ではないところにある不動尊なので、ここを訪れる人は暇な年配者がほとんどなのだろう。私を含め、そんな人たちがもっとも気にする事は、近い将来に自分を襲うであろう「ぼけ」なので、参拝者の多くがこの不動明王におすがりしたいらしく、とりわけ綺麗な花が飾られ、手入れもよくおこなわれていた。境内の一等地に屹立していることも理由のひとつであるのだろうが。

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龍の入不動尊と遊水地

 龍の入は「たきのいり」と読む。「瀧」ではなく「龍」の文字を使って「たき」と読ませる。グーグルマップでは「瀧の入」とあり、武蔵村山市のガイドには「滝の入」とある。この不動尊自体は「龍の入」を用いている。それはともかく、「滝」を形成するような水が丘陵から湧き出ることはもはやないだろうが、それなりの大きさの規模の谷戸が形成されているので、かつて水量が豊富だったことは事実だろう。

 谷戸の下方部には住宅地が形成されている。万が一、大水が出てそれが谷戸を流れ下った場合には麓の住宅地に被害を及ぼす懸念があるためか、不動尊の隣には写真のような「遊水地」が造られていた。渇水期の今、そこには一滴の水もなかった。しかし、「備えあれば憂いなし」。これも事実である。 

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ちかんが多いらしい、野山北自転車道

 村山貯水池や山口貯水池へは多摩川の水が送られている。そのルートは、写真の「野山北自転車道」の存在から分かる。羽村堰で取水された多摩川の水は玉川上水を流れ、すぐに東京都水道局羽村導水ポンプ所から地下の導水路を伝って村山貯水池に流入する。山口貯水池完成後は村山貯水池の敷地内で分岐した引入水路を伝ってそちらにも送られている。もっとも前回に触れたように、現在、山口貯水池へは小作取水堰から伸びる専用水路が主として用いられているが。

 羽村から村山までの導水路の道筋は地図を確認するとすぐに分かる。一部は横田基地内を通過するため痕跡が残っていないところもあるが、横田基地の東側から狭山丘陵までは「野山北自転車道」として整備されているため、はっきり・くっきりと分かる。

 かつて、ここには村山貯水池までに導水管建設資材を運搬するための「羽村・山口軽便鉄道」が敷設され、山口貯水池建設の際には堤体を築くための資材なども運搬された。両貯水池完成後に鉄道は廃止され、その跡地は自転車道などに利用されている。下には極太の導水管が埋められているので、いざというときには簡単に掘り起こすことができるように自転車道や散策路に用いているのだろう。写真は、その自転車道を望んだもので、羽村から狭山丘陵まではほぼ一直線である。

 それにしても、写真にあるごとく、この直線的な自転車道には曲がった生活を送る人たちも現れるようで、他の場所にもこの手の注意喚起の看板があった。「遠慮ください」の言葉は、その手の人に「変質行為はご遠慮ください」と呼びかけているのではなく、生活道路が並行しているので、「駐車はご遠慮ください」というものである。

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野山北自転車道・横田トンネル

 狭山丘陵に至ると、かつての軽便鉄道跡ならびに現在の導水路上はトンネルを何度か通過することになる。トンネル自体は6本あるらしいが、実際に通ることができるのは4本だ。写真はr55の東側にある「横田トンネル」の出入口である。

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横田トンネル内部

 トンネル内には照明施設があるもののさほど明るくはない。写真は少し増感しているので明るく見えるが、実際には、臆病な私には入るのに少しだけ躊躇いを抱いたほどの「暗さ」だ。もっとも、野山北公園や住宅地にも近い場所にあるトンネルなので、散歩に訪れるジジババ・オッサンオバサンもそれなりにいるので安心感もある。いや、そのほうがかえって怖いかもしれないが。

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野山北自転車道・赤堀トンネル

 トンネルを抜けるとまたすぐにトンネルとなる。横田トンネルの名の由来は、かつてその地域が横田と呼ばれていたからだ。写真の赤堀トンネルの由来は不明だが、おそらく「赤堀地区」だったのだろう。

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野山北自転車道・御岳トンネル

 3番目は御岳トンネル。名前の由来は不明。このトンネルは丘陵南側の尾根筋を貫いている。その尾根筋(標高150m)を御岳と呼んだののだろうか?現在では武蔵村山市中央4丁目となっており、いにしえの地名を思い起こさせるものではない。

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老朽化したトンネル内のひび割れ

 補修は何度も施されているだろうが、トンネル自体は1920年代に造られたものなのでかなりくたびれている。写真から分かるとおり、コンクリートの継ぎ目には少しのズレがあり漏水が目立つ。

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漏水防止のためのパネル

 漏水がとりわけ多い場所には写真のようなパネルが貼られている。新自由主義経済のトリクルダウンは幻想だが、古いトンネル内では天井から冷たい水がトリクルダウンする、確実に。

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御岳トンネルの先にある番太池

 御岳トンネルを出ると自転車道はやや右にカーブしている。写真の「番太池」を避けるためと思われる。トンネルの出口は標高128m地点にあるが、池は123mほどのところにある。

 番太池の近くには赤坂池もある。周囲には小さな谷が多くあり、そこから湧き出した水を溜めたものが両池である。近くにはかつて田んぼだっと思わせる場所があり、溜池はこうした田畑に水を供給するために造られたのだろう。

 両池は奈良橋川の水源とされている。川は東南東に流れ下り谷戸を形成している。そして丘陵の南側を進み、番太池から3キロほど先で空堀川に合流する。谷戸内から宅地開発が進み、住宅地はそのまま丘陵の南端に続いている。中藤、神明、芋窪などの住宅地はその奈良橋川沿いにある。

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番太池の上にある池は枯れていた

 かつての番太池はもっと広かったようで、写真はその池の谷奥の様子である。写真の奥側が恐らく奈良橋川の源頭だろう。源頭と思われる場所の標高は約130m。その近くにある三角点の標高は165m。奈良橋川の水も、やはり多摩ローム層の下にある芋窪礫層から湧き出たはずだ。その芋窪礫層の名は、奈良橋川の下流域にある芋窪地区で礫層が発見されたために付けられた。

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野山北自転車道・赤坂トンネル

 通行可能な最後のトンネルが写真の「赤坂トンネル」だ。トンネルの入口近くには住宅が多いものの、トンネルの先は林である。こんなところにも変質者は現れるらしい。

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整備された自転車道はここで終了

 赤坂トンネルを抜けると、自転車道は終わっていた。ただし道そのものは途切れていなかった。直進するか右折するか左折するかの選択肢があった。直進方向には5番目のトンネルがあるはずだ。しかし、そのトンネルに入ることはできない。それでは右折か左折か?が、私はほとんど迷わなかった。

 来た道を戻ることにした。そうして赤坂トンネルを抜け、番太池のほとりに出た。

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周遊道に出るために道なき道を進んだ

 さらに御岳トンネルに戻るのでは面白くないので、山道方向へ進むことにした。ひとつは奈良橋川が形成した谷戸脇の道、もうひとつは「たまこヒルズ」方向の道。前者の道には「かぶとばし」まで0.7キロという小さな標識があった。私は「かぶと」にはさほど興味がないので、後者の道を選択した。

 すぐに急坂になり、想像していたのとはまったく異なる「ヒルズ」前を通り、その裏手にあった小道をさらに進むことにした。

 そこに現われたのが、写真の朽ちた2本の柱と道を塞ぐ倒木だった。ここでまた、戻るか進むかの選択を強いられた。自転車道の末端では戻ることを選んだので、今度は前進することにした。

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いつの間にか私はフェンス内に居た

 道はどんどん細くなり、ほとんど消えかかった場所に写真のフェンスがあった。その向こうには自動車道と遊歩道があった。つまり私は、いつのまにかフェンス内に入っていたのだ。乗り越えるのは大変そうなので戻るしかないと考えたのだが、周りをよく見るとそのフェンスには扉のついた部分があることが分かった。しかも、その扉には鍵は掛かっていなかった。そのために、フェンスの外にある遊歩道に出ることができたのだった。

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多摩湖通りの自動車道と遊歩道

 写真の遊歩道をどちらに進むのかは不明だったが、日照の向きから判断して、さしあたり、扉の左手へ進むことにした。写真の方向である。

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武蔵野の路・かぶとばし

 ほどなく、「武蔵野の路」の標識が目に入り、「かぶとばし」が近いことが分かった。番太池のほとりから谷戸脇の道を選べば、迷うことなくこの橋に出たのだ。しかし、その選択をしてしまったのなら、一瞬ではあったものの「フェンスの中に閉じ込められてしまった」という思いを体験することはなかった。次回も、あの道を選択することは可能だ。しかし、結末が分かってしまった現在にあっては、もはや、あの「やばい、閉じ込められた」という思いを味わうことは不可能なのだ。その限りにおいて、あの時、私は自由だったのである。

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かぶとばしのかぶと

 かぶとばしの欄干にはかぶとの透かし彫り?があった。橋詰めの2つのアーチの上にも2匹ずつかぶとがいた。確かに、”かぶとばし”という以外の呼び方はないのではないか。くわがたばしでは、明らかに変である。

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左に多摩湖、右にr55と狭山湖のフェンス

 武蔵野の路から遊歩道に戻り、r55に向かった。私がフェンスから出た道は「多摩湖通り」だった。写真の場所で多摩湖通りはr55と出会う。r55は通り慣れている道なので、進むべき方向はすぐに分かった。

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かたくりの湯に至るr55の急カーブ

 r55は下りに入り、ほどなく、「村山温泉・かたくりの湯」が視界に入った。r55の左カーブこそ、私が今回の散策の掉尾を飾るものであった。

 1930年代にこの道は、写真のような急カーブではなかった。村山側から見れば、道は少しだけ右に曲がり、その後は直進して山中に入っていったはずだ。

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山口村に至る旧道が通っていた谷間

 その山中の道はもはや残っていない。写真から分かる通り、わずかばかり、道だった痕跡を残すのみだ。その道らしき場所に行くことはできない。山口貯水池の敷地内だからだ。私はフェンスの外側から望むだけだった。写真の左側に縦の黒い筋が写ってしまっているが、これはフェンスの縦軸である。隙間が狭いため、どうしても一部が写り込んでしまうのだった。

 かつて道だったそれは小高い尾根と尾根との間を進み、やがて柳瀬川の源流域が造った谷間を下り、その先で左から下ってくる谷川と出会う。そして、いくつかの小集落の間を通過し、柳瀬川筋を東に進んで山口城址脇に至る。

 その道は写真の場所から消え、貯水池の下に沈み、貯水池の堤体の東側で復活する。復活した道の北側に「トトロの森1号地」があることはすでに触れている。

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村山温泉・かたくりの湯

 写真はr55の西側にある「村山温泉・かたくりの湯」の建物である。その付近は、かつては田んぼだったようで、その裏手(南側)に空堀川が流れている。

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空堀川で餌を探すアオサギ

 空堀川の小さな流れの中に、餌を探すアオサギがいた。野山北公園の池から小魚が脱走してくるのを狙っているのだろうか?

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空堀川の水源域と野山北公園

 写真は、北公園の池から流れ出る空堀川の水源域とされる場所である。冒頭近くに触れたように、空堀川の源流域はさらに上方にあるのだが、公園としてはここを水源域と表記している。それゆえ、空堀川はここに始まり、私の散策はここで終わる。

















 

〔52〕狭山丘陵(1)~台地に浮かぶ島

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尾根と尾根との間の谷筋には住宅が立ち並ぶ

狭山丘陵は多摩川が造った武蔵野台地上の島

 「秩父山麓より海岸に至るまで殆んど高低なき僅かの波状を有てる此の台地(武蔵野台地のこと)の上に、此の如き丘陵(狭山丘陵のこと)を発達して居るといふことは實に不思議である。丁度平面にして見れば武蔵野台地に島のやうな形になって居るのである。されば小藤博士の如きは、此の狭山の丘陵を称して”ジオロジカル・アイランド”即ち”地質学上の島”といって居られる」。これは大正時代に狭山丘陵を調査した著名な学者の言葉である。

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狭山丘陵の西側部分を国道16号上から望む

 研究者を不思議がらせた狭山丘陵は、青梅市の東側に存在する孤立丘陵で、東西に10~11キロ、南北に3~4キロに広がり、上空から見ると紡錘形をしている。近くにある多摩丘陵、加住丘陵、草花丘陵、加治丘陵はすべて関東山地に接続している。というより、もともと関東山地の東縁にあったものが、谷川によって南北が開析されたために東もしくは東北東方向に丘陵部が舌状に残ったものである。しかし狭山丘陵は、元々の成り立ちは多摩丘陵などと同じなのだが、丘陵形成過程がそれらとは異なっていて、関東山地とはまったくつながっていない。武蔵野台地の西縁(武蔵野扇状地の扇頂)である青梅市東青梅と、狭山丘陵の西端がある瑞穂町箱根ヶ崎とは約10キロも離れているのだ。

 狭山丘陵が浮かぶ武蔵野台地は、下末吉面、武蔵野面(武蔵野段丘)、立川面(立川段丘)の3つの基本構造を有しているが、研究が進むにつれて構造はさらに細分化され、最新の知見では11に区分されることが分かっている。しかし狭山丘陵はその11区分のどれにも属さず、あくまでも孤立丘陵としての立場を維持し続けている。というより、古期の武蔵野扇状地は古多摩川が狭山丘陵の北側を流れていたときに形成され、新期の武蔵野扇状地府中市はここに属する)は古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたときに形成されたのであった。

 しかも、古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたとき、丘陵の後端部に「乱流」を発生させたようで、その名残河川である「空堀川」「黒目川」「白子川」の不安定な流路が新期武蔵野扇状地の同定を複雑にさせたようである。

 かように、狭山丘陵は武蔵野台地の形成過程に重要な役割を果たしているのだが、肝心の狭山丘陵そのものの成り立ちについては不明の点が多い。ただ、古多摩川が北東や南東方向に流路を変更した際に「削り残した」とされるばかりである。古多摩川が素直に東に進めば狭山丘陵は存在せず、そうなれば武蔵野台地の様相は大きく変わっていたに違いない。とはいえ、東進は案外、難しいのかもしれない。「いつ削るの?」「15万年前でしょ!」

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狭山丘陵の北側を流れる不老川

 写真は、狭山丘陵の北側を流れる不老川(ふろうがわ、としとらずがわ)。入間市宮寺地点(標高125m)の流れで、県道179号線の向こうに見えるのが狭山丘陵である。不老川は古多摩川の旧河道を流れる名残河川であり、後述する「狭山池(狭山ヶ池とも)」の伏流水を源流にすると考えられている。この川は、古多摩川の名残河川の多くがそうであるように北東方向に進み、川越市の南部(川越市砂)で新河岸川に合流する。荒川水系に属するので一級河川の扱いとなる。地形区分としては”Tc”と表記される武蔵野台地の「立川面」を流れている。

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狭山丘陵の南側を流れる空堀川

 写真は狭山丘陵の南側を流れる空堀川で、源頭は狭山丘陵の南側にある野山北公園の池とされているが、実際には丘陵から湧き出た水がいくつか集まって川を形成したのだろう。しばらくは狭山丘陵の南側に沿って流れ下るが、やはりこの川も古多摩川の名残河川なので北東に向きを変えて進み、清瀬市中里で後述する柳瀬川に合流する。その柳瀬川は志木市の中心部で新河岸川に合流するので、不老川同様に空堀川荒川水系一級河川である。

 狭山丘陵の南西側の大半は立川面であるが、空堀川国分寺崖線の北側に位置するため、武蔵野面(M2)に属する。が、前述したように狭山丘陵の南側の地形は古多摩川の乱流によってかなり複雑になっているため、現在では武蔵野面ではなく「武蔵野面群」と表記されており、空堀川は武蔵野面群の「黒目川上位面(M2c)」と「黒目川下位面(M2d)」との間を進んでいく。

狭山丘陵の西端を訪ねる

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狭山丘陵西端の盛り上がり

 高層ビルの上からならともかく、地べたからでは狭山丘陵の連なりを見ることはなかなか叶わない。丘陵なので高さはさほどないし、近年は周辺の宅地開発がますます進んでいるので、丘陵の姿は建物と建物との隙間から望めるばかりなのだ。とりわけ丘陵の南側(東大和市武蔵村山市など)は宅地造成が相当に進んでいるので、丘陵の横の連なりを撮影できる場所は見いだせなかった。一方、北側(入間市所沢市など)には茶畑などが広がっているので丘陵の姿を見ることが容易な場所はいくつもあるのだが、今度は陽の光が邪魔になってはっきりくっきりとした写真を撮ることができなかった。

 そんなわけで、南北からの撮影は諦め、丘陵の西端(瑞穂町箱根ヶ崎)と東端(所沢市松が丘)の撮影に限ることにした。

 新青梅街道都道5号線)を西進して「箱根ヶ崎西交差点」を右折し国道16号線(R16)の東京環状・瑞穂バイパスに移る。その道を入間市方向に進むと、まもなく「八高線跨線橋」に出た。そこからの眺めが結構良さそうだったので、次の信号(瑞穂斎場入口交差点)を右折して「瑞穂斎場」の敷地に入り、斎場の広大な駐車場に”無断駐車”して徒歩にて移動した。跨線橋上からじっくり狭山丘陵西端付近を観察することにしたのである。冒頭から2枚目の写真が、その跨線橋上から丘陵を望んだものだ。

 西端のピーク(標高170m)には狭山神社、北斜面には「さやま花多来里(かたくり)の里」がある。その写真の中央付近にあるピークは、狭山丘陵ではもっとも標高がある高根山(194m)だ。

 グーグルマップで調べると、跨線橋から丘陵西端までは直線距離で900mほどなので、歩いて西端付近まで出掛けてみることにした。上の写真は、その途中にある野菜畑から西端のピークを撮影したものである。 

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住宅街から西端部を望む

 途中までは畑の中の小道だったが、丘陵西端に近づくと住宅街に入った。撮影場所の標高は139mなので、狭山神社のあるピークとの比高は31mである。この住宅地は八高線箱根ヶ崎駅から700mほどのところにあり、すぐ近くには、瑞穂バイパスができる前まではR16であった(現在は都道166号線)道路がある。その都道を南に行くとほどなく八高線箱根ヶ崎駅東口に至り、さらにその先には新青梅街道、そしてその南には横田基地の北端がある。なかなか交通至便な住宅地である。

 住宅地内を移動中、爆音の発生源が空を移動しているのが分かった。見上げてみるとオスプレイが飛行していた。静かそうで利便性の良い郊外の住宅地なのだが、基地の真北すぐのところにあるので騒音には悩まされるはずである。

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狭山池から丘陵を望む

 丘陵西端のすぐ西側には「狭山池」がある。写真は、その狭山池から狭山丘陵の西端を望んだものだ。狭山池と狭山丘陵との間には「立川断層」が走っていることが判明している。ひとつ上に挙げた写真の中にある住宅街の道は、その断層帯と同じ向きにある。

 狭山池は、古多摩川が造った窪地に周囲から湧き出た水が溜まってできた池と考えられている。その窪地が造られた理由は判然としていないが、東進してきた古多摩川が立川断層に行く手を阻まれてしばしその地点で渦を巻き、そのために地面が掘られたと考えられる。古多摩川は断層の手前でしばらくはオロオロし、やがて行く先を北東もしくは南東方向に変えていったと考えることも可能だろうか。

 狭山池は、かつては「筥(はこ)の池」と呼ばれていたそうだ。「筥」には箱の意味もあるので、水の入れ物=池になる。が、そうなると「筥の池」では”池の池”となってしまうが。その点はご愛敬といったところか。

 鎌倉時代後期に編まれた歌集に以下の歌がある。

「冬深み 筥の池辺を 朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」

 古く、その窪地は18haほどあったと考えられているが、多くは埋め立てられ、現在はその1.5haほどが「狭山池公園」として整備されている。

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多摩川が造った窪地にできた狭山池

 池は「自然観察池」「庭園鑑賞池」「釣り池」に区分されている。冬の寒い時期だったこともあり、釣り人の姿はなかった。もっとも、写真からも分かるように、昼近い時間だったけれども、まだ池面には氷が溶けずに残っていた。しかし、その氷の鏡を利用する人の姿はなかった。朝ではなかったからだろうか?溶けかかった氷面に映る姿では、たとえナルキッソスでも満足はできまい。そう考えると、疑問は氷解した。

 先に述べたように、狭山池は不老川の水源とされているが、その源頭は見出せなかった。それもそのはず、その川は狭山池から直接に流れ出ているのではなく、伏流水が地表に現れるのは1500mほど北東に進んだところであるからだ。不老川は古多摩川の旧河道を辿っていると考えられているので、狭山池を源流としているに過ぎないのかもしれない。

 一方、立川市柴崎町(立日橋のすぐ下流)で多摩川に流れ込む残堀川はこの狭山池を水源とするが、それは江戸時代初期の改良工事によるものである。もともとは狭山丘陵の西端付近から流れ出る湧水が小川となり、ほぼ立川断層に沿って南南東に下っていた。それを玉川上水が出来たとき、立川市一番町にある天王橋付近で残堀川を上水に合流させ、上水の助水としたのだった。玉川上水の水量を確保するためには、残堀川の水も必要になり、そのためには残堀川そのものの水量も安定させる必要があったのだろう。なお、残堀川と玉川上水との関係については、本ブログで玉川上水を扱ったとき(第30回)に触れている。

狭山丘陵の東端付近を訪ねる

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都立八国山緑地の東端が狭山丘陵の東端でもある

 狭山丘陵の西端は明瞭に残っているが、そこから10~11キロ離れた東端は明確ではない。その理由は後述することになるが、ここでは一応、写真の都立八国山緑地の東際を狭山丘陵の東端としておきたい。写真の都立八国山緑地の案内図がある場所の標高は67mで、カメラを構えている場所(東村山市諏訪町)は65mである。

 狭山丘陵は標高139m地点から盛り上がり始め、最高地点は194m(高根山)だということはすでに触れている。丘陵の基盤である上総層群は西へいくほど高度を上げていくので当然、その上に乗る狭山丘陵もまた西へいくほど標高があり、東に進むのにつれて低くなる。

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八国山緑地を住宅地から眺めてみた

 八国山の東端にあるピークの標高は89mで、カメラを構えた場所は62m地点である。写真からも分かる通り、丘陵の東端であるはずの場所はまだまだダラダラと下っている。周辺の東村山市諏訪町、松が丘、久米川町は緩い斜面を利用して宅地開発が進んでいるので、地形は大きく変貌している蓋然性は高い。それらの地区は標高60m前後の場所にある。が、その北にある所沢駅の標高は74mもある。それでは狭山丘陵は所沢方向に伸びているとも考えそうになるが、「所沢台(所沢台地)」は関東ロームの「下末吉面」に属し、多摩ローム層が覆う狭山丘陵とは異なるのである。それゆえ、本項では、この標高60m近辺で狭山丘陵は消えていると考えることにした。

狭山丘陵の面白さ

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村山貯水池(多摩湖)と関東山地の山並み

 私の家から狭山丘陵までは直線距離にして10キロ以上ある。府中街道など結構、混雑する道を使うので40分以上かかり、ときには1時間を超すこともある。それでも年に数十回、そこに出掛けるのは、いろんな魅力をその丘陵は有しているからだ。詳細については次回に触れる予定なので、ここでは、丘陵にある代表的な散策スポットについて簡単に触れることにした。

 狭山丘陵を代表する観光・散策スポットは写真の村山貯水池(多摩湖)周辺で、堤体の上から望む景観は何度触れても見飽きることはない。とくに、貯水池の向こうに連なる関東山地の姿がもっとも私の好みだ。望む角度が少し違うため、府中の多摩川沿いから見える山々の姿形とは少し異なり、その比較に興味と妙味がある。とりわけ、府中からだと手前に位置する鷹ノ巣山と、そのやや奥にある雲取山とがほとんど重なって見えてしまうのに対し、ここからだと雲取山の勇姿をはっきりと見て取ることができるのだ。それゆえ、雲取山に対峙する「芋の木ドッケ」もまた、より立派に見える。もちろん、私のお気に入りの大岳山はしっかり確認できる。が、キューピーの「頭髪?」部分が府中から見えるものと少し異なる。その点にも惹かれてしまうのだ。

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狭山公園から村山貯水池の堤体を望む

 村山貯水池の東側には都立狭山公園がある。適度な起伏があるため、散策には”もってこい”の存在だ。とりわけ、写真にある「薄野原」が好みで、ススキの穂が生長し、やがて枯れ尾花になる時期には毎回、この野原の中にある散策路を徘徊している。

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山口貯水池(狭山湖)はまた趣きが少し異なる

 村山貯水池の北側にあるのが山口貯水池(狭山湖)で、村山貯水池よりはやや遅れて整備された貯水池である。同じ狭山丘陵内にある人造湖であるにも関わらず、雰囲気は少し異なる。村山貯水池のほうは近くに無料の駐車場があるが、こちらには有料駐車場しかないので、観光客や散策・暇つぶしに訪れる人が少ないのも、私にとっては嬉しいことなのだ。

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野山北・六道山公園にある「里山民家」

 写真の「里山民家」は「野山北公園」と「六道山公園」との間にある。近くに無料駐車場が整備されているので、そこを起点としてまず民家の佇まいに触れ、それから北側にある谷戸沿いの散策路をのんびりと歩き、六道山公園に至るというのが、私の馴染みのルートである。

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六道山公園の天辺にある展望塔

 里山民家地点の標高は137m、写真の六道山公園は192m。比高は55mあるが傾斜が緩やかなので少しだけ強度を求める散策に適している。展望塔(展望台)の高さは13mほど。その上まで上れば標高は205mになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mなので、この展望塔の上が、丘陵ではもっとも高い地点になる。

 傾斜が緩やかなピークにある展望塔なので案外、周囲の木々が視界を遮ってしまうために、期待するより展望は良くない。それでも、丘陵の頂点に居るという実感が持てるので、満足度は低くない。観光客は結構の数が上ってくるが、展望の貧弱さにやや拍子抜けするのか、長居をする人をまず見掛けたことはない。なお、ここでも横田基地で発生する騒音(とりわけC130の)がよく耳に入る。

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林の中の湿地帯

 狭山丘陵には湿地帯が多く存在する。丘陵の多くが自然の混交林に覆われているため、土壌は保水力に富んでいて水に恵まれている。そのために丘陵の周囲には入谷戸が多く、人の手が入っている場所も少なくないが、それでも自然林が保護されている場所では写真のような湿地帯に出会うことがよくある。この豊かな自然があったからこそ2つの貯水池が造られることになったのだが、それについては後述する。

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狭山といえばお茶。丘陵の北側に茶畑が広がる

 狭山といえば茶所で、「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」と『狭山茶摘み歌」に歌われるほど狭山茶は全国的に有名だ。もっとも、埼玉は緑茶生産の経済的北限地と考えられているので、より温暖な静岡に比べると生産量はずっと少ない。反面、寒い冬があるからこそ、狭山のお茶は味わいが深くなるそうで、これは埼玉県農林部の話なので信憑性は高そうだ。

 狭山茶といっても、それは「狭山茶どころ情(なさけ)が厚い東村山四丁目」産は少なく、その中心的生産地は入間市で、ついで所沢市狭山市となる。いずれも狭山丘陵の北側に存在する。なお、写真の茶所は瑞穂町なので、「東京狭山茶」として出荷される。

狭山丘陵に人造湖が出来る経過など

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村山下貯水池(多摩湖)の取水塔。日本一美しい取水塔とも言われる?

 1907(明治(以下Mと表記)40)年の東京市では、1月1日から3月23日まで雨が一滴も降らず、市民は断水に苦しんだ。本ブログでは何度も触れているように、当時の東京市の水源は玉川上水にほぼ頼っていたからである。そのため、市では「東京市上水道拡張計画」をスタートすることを決め、09(M42)年、東京帝国大学の中島鋭治博士に抜本的な調査計画を委嘱した。博士は2年半をかけて多摩川の水源地などを踏査し、計画案を確定した。

 第一案は、西多摩郡大久野村(現日の出町)に貯水池を造り、多摩川の氷川(現在の奥多摩町)から導水路を使って多摩川の水を引き入れるというもの。その場所では平井川や秋川からの導水も可能で、上流の水を用いるので水質が良いという利点があった。ただし、山間渓谷に造る導水路の建設が難儀で、多くの隧道(トンネル)を設置する必要もあるため、工期は長くなり、工費もかさむという欠点があった。

 第二案は、狭山丘陵内の村山に貯水池を造り、羽村から水を取り入れ、武蔵野台地に導水路を造って貯水池に導くというもの。貯水池からは武蔵野村境(現在の武蔵野市浄水場)に導くというもの。乏水に備え名栗川の水を導くことも考慮している。

 第一案の工費は2460万円、第二案の工費は2072万円であった。第二案のほうが安価であり工期も短くて済むということもあって、12(M45)年の議会で、第二案の村山貯水池案が、導水路の羽村村山線、村山境線建設とともに採択された。翌13(大正(以下Tと表記)2)年に内閣の認可が下り、13(T2)年から19(T8)年までの七カ年継続事業としてスタートすることになった。

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尾根筋に囲まれている村山上貯水池

 狭山丘陵が貯水池建設に適した場所であることを説明するときは、3本の指を用いると分かりやすい。3本であればどの指でもよいのだが、ここでは左手の人差し指、中指、薬指を用いることにする。3本の指だけ伸ばしてその指間を少し広げる。手の甲を上にして指先は東に向ける。手首が狭山丘陵の西端になり、東に行くにしたがって尾根筋は3本に分かれる。この3本の尾根筋をここでは北尾根、中尾根、南尾根と呼ぶことにする。指の間からは沢が流れ下り、2つの河川を生み出す。上方が柳瀬川、下方が宅部(やけべ)川となる。

 上の写真は現在、村山貯水池の上池の堤体の改良工事がおこなわれているために水抜きされた状態の上貯水池の姿である。これから分かるように、両尾根(ここでは右側が中尾根、左が南尾根)には谷戸が多くあって尾根を侵食している。湧水が確保できる場所なので、相当に古くから尾根内には人が住み着いていた。遺跡調査によると、縄文以前の旧石器も見つかっている。貯水池に水没する前の復元図を見ると、宅部川沿いに民家が点在しているのはもちろんのこと、溜池が全部で21個あったことが分かる。

 手の甲に当たる丘陵部は豊かな自然混交林であって水を豊富に蓄えることができたので、中指(中尾根)と人差し指(南尾根)との付け根付近からは湧水を集めた川が西から東へと流れ下っていた。これは所川といって各集落で川の呼び名が変わり、最奥の石川地区では「石川」もしくは「石川川」、中間点ほどの内堀地区では「内堀川」、貯水池の堤体が築かれた宅部地区では「宅部川」と、その地区の名が付けられていたようだ。

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現在の宅部川。堤体から東へ500m付近

 このように尾根と尾根との間は宅部川が開析していたので、出口部分を堰堤で塞げば貯水のための空間は容易に形成できるのだ。ただし村山貯水池は東西に細長く、地形の関係もあって貯水池の容積を確保するために上貯水池と下貯水池の2つに分けられている。ちなみに、上池の堤体上部の標高は118m、下池の堤体上部は104m地点にある。なお、下の写真にあるように、上貯水池と下貯水池とを分かつ上貯水池の堰堤上は「多摩湖通り」(都道・県道55号線)として使用されている。狭山丘陵を南北に通じる道はほとんどないので、車が集中しやすくかなり混雑する。

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上貯水池の堤体の上は都道(県道)55号線として利用されている

 村山貯水池の計画地内には当時、161戸(163戸とも)の家があった。また田畑や山林などを所有する人々も多くいた。それらの用地買収交渉は15(T4)年に始まった。貯水池計画そのものはそれ以前に明らかになっていたので、移転地に住む住民たちは14年1月、住民大会を開き、「東京市ニ於テ該土地買収ノ協議ニ対シテ住民ハ極力共同一致ノ行動ヲ採リ各人別ニ応セサル事」などの決議文を採択していた。

 15年2月に市から買収価格が発表されたが、その価格が予想よりも相当に低かったため、住民や地主は結束して拒絶行動をすることを誓いあった。その『承諾書調印拒絶書』には、「敷地買収価格ノ二六新聞に顕ルルヤ当時売買格ノ半額ニ達セス其ノ低廉ナルニ驚キ……移住民約弐百名地主四百名余会同シ買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論該用地ハ他ヘ変更ヲ期セント決議シ……」とあり、共同して反対運動を展開することを誓った。

 しかし、市側は個々に切り崩しをおこない、大半の人は買収に応じてしまった。早くは15年12月に移転を完了するものも出て、17(T6)年までに買収に応じなかった人はわずか8名だけになった。残った8名は結束して反対運動を展開したが、最終的には、19(T8)年に土地収用法の適用が決まり、同年の12月には土地の強制買収がおこなわれてしまった。

 土地買収が完了したのは19年であったが、工事の準備は着々と進められており、15年2月には工事資材を運ぶための村山軽便鉄道の免許申請がおこなわれ、8月には貯水池に関する図面が完成していた。16年5月には下貯水池堰堤工事がスタートし、6月には東村山村回田(めぐりた)で地鎮祭が挙行された。17年10月には上貯水池堰堤工事も始まり、19(T8)年には資材運搬のための東村山駅・貯水池間の専用鉄道敷設免許が交付された。同年の「土地収用法」適用以前に工事はかなり進展していたのであった。

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羽村堰から貯水池までの導水路の上は現在、遊歩道兼自転車道とし使用されている

 22(T11)年に上貯水池堰堤が竣工し、23年には羽村堰から上貯水池までの通水がおこなわれ湛水(たんすい)が開始された。24年には貯水池から武蔵野村境浄水場までの通水が開始され、同年、下貯水池の堰堤、同取水塔が完成し、26(昭和2)年に村山貯水池工事はすべて完了した。

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山口貯水池(狭山湖)の取水塔

 山口貯水池(狭山湖)は村山貯水池のすぐ北隣にある。両貯水池の距離は、もっとも接近した場所では200mほどしか離れていない。

 山口貯水池も立地条件は村山貯水池とほぼ同じで、先に3本の指で説明したように、指(尾根のこと)と指との間から流れ出た柳瀬川が丘陵の内部をすり鉢状に開析した先に堰堤を造ってそれを塞ぎ、そこにできた空間を貯水池として利用している。

 ただし、村山貯水池とは形状がやや異なっていて、村山のほうは東西に細長いのに対し、山口のほうは極太のY字形をしている。それゆえ、指で説明する場合は、薬指は折って(実際には折り曲げるだけで、本当に折ってしまうと薬だけでは治療できない)、小指を伸ばし、中指の小指の先を塞ぐと山口貯水池の形をイメージしやすくなる。

 地図を確認すると北側(小指と折り曲げた薬指との間)の谷のほうが深いようで、この谷間を西にたどっていくと、先に少しだけ触れた「六道山公園」付近にまで至る。その一帯は狭山丘陵ではもっとも標高の高い場所なので、その分、水量も豊富だったのかもしれない。

 山口貯水池の場合、当初は羽村堰から村山貯水池までの導水路(羽村村山線)を借りて、導水路が村山貯水池に至る直前に「引込水路」を造って、南側の谷間から山口貯水池に流し込んでいた。

 現在では、R411の項でも触れている「小作取水堰」から新しい地下導水路(小作山口線)を造って北側の谷間の先端部に多摩川の水を引き入れている。前に触れているように、東京水道・羽村村山線の上の多くは現在、遊歩道・自転車道として利用されているのでその位置は地上からでも判明できるが、さすがに小作山口線は新しく造られたものだけに、地表からではそのルートを探ることはできない。地図で確認すると、それは日野自動車羽村工場の北を通り、そののちに進路を東に向けて、狭山池のすぐ北側、狭山神社がある丘の真下、都立瑞穂農芸高校の敷地下を抜けて山口貯水池に導かれていることが分かる。

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堤体から2.3キロ離れた地点を流れる柳瀬川

 山口貯水池に沈んだ山口村の旧勝楽寺付近には、280戸余りの家屋があったそうだ。貯水池ができる前の地図を見ると、北の侵食谷はかなり険しそうなので家屋は少ないが、一方、南の谷には道路が通じていて、それは現在、「多摩大橋通り」と呼ばれている道につながっている。というより、山口貯水池ができたことによって道は途中から東に折れて両貯水池の間にある「中尾根」を進むことになり、先に触れた都道・県道55号線の「村山上ダム北詰」に至っているのである。

 貯水池ができる以前は、その道は北上して南の谷間を進み、やがて貯水池に沈んだ場所のほぼ中央部に降り立ってから柳瀬川に沿って進み、山口村の中心部を抜けて所沢に至るかなり重要な道だったのだ。それゆえ、その道に沿っていくつかの集落が存在していたので、湖底に沈んだ家の数は村山貯水池よりも多かったのである。

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狭山湖展望台から山口貯水池の堤体付近を望む

 本項の冒頭の写真は、山口貯水池堰堤から所沢市山口の住宅地を望んだものである。北尾根と中尾根の間にある平地は柳瀬川が開析したもので、現在でも住宅は相当に多いが、この地は古くから開発が進んでいた。それは、武蔵七党のひとつである村山党の有力者であった山口氏が拠点にしていたからだ。「村山」の名からは武蔵村山や東村山を連想しがちだが、かつての村山党は狭山丘陵の北側が本拠地であった。主力は金子氏(現在の入間市金子)、山口氏(現在の所沢市山口)、仙波氏(現在の川越市仙波)であった。その山口氏の拠点であった山口城は山口貯水池堰堤の東1.7キロのところにあって、本丸が存在したとされる場所は県道55号線沿いにあり、そのすぐ南側に柳瀬川の流れがある。

 上の写真は、「旧展望台」から山口貯水池の堰堤付近を望んだもので、いかにも長閑そうな風景が展開されているが、その堤の東下には、平安時代末期から活躍していた関東武者のいち拠点が存在していたのである。

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山口貯水池の取水塔とその先にあったY字谷の名残り

 山口貯水池の築造計画は1926(昭和(以下Sと表記)2)年にスタートし、翌27年に地質調査が開始された。村山貯水池だけでは急増する東京市上水道需要が間に合わなかったためとされているが、実際には、すでに村山貯水池建設のための調査に引き続き、この地域も調査は15(T4)年には完了していた。つまり、山口貯水池の建設は、初めから想定の範囲内だったのだ。

 28(S3)年に工事が着工され、32(S7)年に通水式、34(S9)年に竣工式が挙行されて工事が完了しているので、用地買収なども村山貯水池に比べるとスムーズにおこなわれたようだ。というより、村山貯水池計画における買収過程の顛末を見れば、抵抗するだけ無駄だという諦めがあったのかもしれない。

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狭山湖畔から富士を眺める

 村山貯水池の通称は「多摩湖」、山口貯水池は「狭山湖」だが、なんとも紛らわしい。名前を覚えることが苦手な私は、今でも混乱してしまう。

 もともと、両貯水池は一括して「多摩湖」と呼ばれていたようだ。どちらも、多摩川の水を導いているからだ。しかし、それでは地元の人にとっては不便だったようで、村山貯水池の下には都立狭山公園が整備されているので、両者を区別するため、そちらを狭山湖と呼ぶようになった。が、村山貯水池のある場所は旧北多摩郡なので「多摩地区」だが、山口貯水池は所沢なので「多摩地区」ではないから多摩湖のままでは変だという意見があった。それなら、両者を一括して「狭山湖」と呼ぼうということになった。それはそれで不便そうだが。

 戦後、この地域の開発の主力になっていた西武鉄道は、新聞社と協力して改称キャンペーンをおこない、その結果、村山貯水池を「多摩湖」、山口貯水池を「狭山湖」と呼ぶことに決した。そうした過程を経て、現在ではその通称が一般的になった。

 つまり、村山貯水池は、多摩湖狭山湖多摩湖、山口貯水池は、多摩湖狭山湖狭山湖、と変遷したのだ。とはいえ、これはあくまで通称にすぎないので、本項では正式名称を用いて記述した。実際は、常に混乱しているので、その都度、東村山に近いほうが多摩湖と、心の中で念押しをしているのであった。

 それは、志村けんが流行らせた『東村山音頭』の「東村山 庭先きゃ 多摩湖 狭山茶所 情(なさけ)が厚い 東村山四丁目 東村山四丁目」という歌詞のお陰でもある。東村山に四丁目はないが、確かに庭先には多摩湖がある。

 志村けんに感謝である。合掌。

〔51〕3ケタ国道巡遊・R411(5)~盆地の辺縁から甲府市街へ

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愛宕山から富士山を望む

山があっても山なし県

 ガキンチョのとき、”県名言葉遊び”というのが流行った。今もあるかもしれない。「すべってころんで大分県」「山があっても山梨県」というのが代表的で、それ以外は無理矢理にこじつけたようなものだったのでとくに記憶はない。

 大分県のほうは言いやすさはあるものの、「すべってころんでアィッチ県」だって可能であり、大分県人がとりわけころびやすいという訳でもなさそうなので、単に語調が良いというだけのものだ。それに対し、山梨県は確かに山だらけだし、それなのに”山無し”というのが面白いので、誠に秀逸な作品だと思った。これを最初に考え(だれでもすぐに思いつくが)、そしてそれを堂々と表明した人(人々)は立派というほかはない。

 12,3歳の頃だったか、私がたまたまラジオを聞いていたとき、有名な作家がこの「山があっても山梨県」について触れ、「山梨県は周りをすべて山の連なりに囲まれている。山々が成した土地なので”やまなす”、それが転じて”やまなし”になった」というようなことを語った。私は感動し、翌日、それを悪ガキ仲間に教えた。一同は「ふうーん」というだけで、すぐに、「山があっても山梨県」と囃し立てるばかりだった。私は知性の無力さを実感し、結局は仲間と一緒に、いや先頭に立って、かの言葉を叫んで回った。

 大学受験のために社会科では「日本史」と「地理」とを選択した。「日本史」では律令国制について学び、山梨県は「甲斐国」であり、それは「山梨郡」「八代郡」「巨麻(巨摩)郡」「都留郡」からなることを知った。「地理」では、山梨郡甲府や塩山、勝沼あたりで、富士山や御坂山塊、大菩薩連嶺の東側は都留郡、南アルプス八ヶ岳巨摩郡に属することを知り、たしかに山梨郡には大菩薩連嶺の西側や奥秩父山塊の一部が属しているものの、その中心は甲府盆地にあることを学んだ。つまり、山梨郡は決して”山によって成された場所”だけではなかったのである。山梨県については後半に触れる予定なのでこれ以上は述べない。ただ一言、「作家というのは、実にいい加減なことを言う存在だ」。

盆地のヘリで樋口一葉に出会う

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県道201号は「一葉の道」でもあった

 県道201号線(以下r201)は前回に触れたように、「塩山停車場大菩薩嶺線」という通称をもち、大菩薩峠入口交差点から上日川峠へと伸びている。しかし通称から分かる通り、r201の出発点は塩山停車場(中央線塩山駅)である。つまり大菩薩峠入口は中継点であって、それからは重川(おもがわ)の左岸側を盆地へと下っていく。この道はR411とほぼ並行して南西方向に進んでいくのだ。

 前回に挙げた「大菩薩登山道入口バス停」近くの丁字路から塩山駅北口までのr201は「一葉の道」という別名を有する。上の写真にあるような標識を、r201沿いの至るところで目にする。樋口一葉は現在の千代田区で生まれ、台東区や文京区で生活しており、24歳半で死去するまでずっと東京に居住していた。それゆえ、「一葉の道」が塩山(現甲州市)にあることは、私のような無知なよそ者にはかなりの違和感を生じさせる。が、少し知識があればすぐに分かることだが、一葉の両親は塩山の中萩原出身で、その地にある慈雲寺で2人は出会い、駆け落ち同然に東京(当時はまだ江戸)に出て暮らしたのだった。

 一葉の晩年(といっても23歳)の作品に『ゆく雲』という短編がある。「我が養家(作品中の主人公の)は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々、垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう鮪の刺身が口に入る位。」と、両親が育った村の姿を表現している。

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一葉の文学碑がある慈雲寺

 慈雲寺には寺子屋があり、一葉の父である大吉(のち則義)はそこで学んでいたときに、あやめ(一葉の母、のちに”たき”)と出会った。こうした縁もあり、1922年(一葉の二十七回忌)に、妹の「くに」(邦子、国子とも)や旧大藤村の有志、一葉の作品を高く評価した小説家たちの賛助もあって、慈雲寺境内に「樋口一葉文学碑」が建てられた。

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文学碑の建立には名だたる小説家が賛助した

 写真の文学碑の撰文は幸田露伴、建立賛助者には坪内逍遥森鴎外佐藤春夫田山花袋与謝野鉄幹与謝野晶子などの名がある。森鴎外は『たけくらべ』の読後、「われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩諏とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われはたとい世の人に一葉崇拝の嘲(あざけり)を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と絶賛している。

 一葉は1894年12月に『大つごもり』、95年1月から『たけくらべ』の連載開始、5月に『ゆく雲』、8月に『うつせみ』、9月に『にごりえ』、12月に『十三夜』、96年1月に『わかれ道』など、わずか1年2か月の間に優れた作品を次々に発表したため、この期間は「奇跡の14か月」とも言われている。が、一葉は96年2月20日の日記に「われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてて深山にはしらんこころあるにもあらず。さるを厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有りふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かかる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生まれし心地ぞする。」に記し、名声の裏にある孤独感にいつも苛まれていたようだ。そのころから一葉は体調を崩し始め、4月頃に発病し、その後に肺結核と診断された。文学界の鬼才(奇才)である斎藤緑雨、医師でもある森鴎外などの奔走にもかかわらず、96年11月23日、一葉は死去した。

 1904年の読売新聞に「女子の天性に背いて、小説などを書き、男子に褒めらるるを鼻にかけて、ますます増長したる結果身体を傷けし也」との記事が掲載されている。死後8年ののちにも一葉を揶揄するような文が発表されているように、当時の女性(今でも似たようだが)の生き方には大きな制約があった。上に挙げた日記の続きには、一葉自身「我は女なり。いかにおもえることありども、そは世に行ふべき事かあらぬか。」と記している。

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慈雲寺参道にある一葉像

 大菩薩連嶺の西麓に配置される甲州市塩山中萩原地区(前回に触れた上日川峠、大菩薩湖、上日川ダム、大菩薩峠西、大菩薩嶺西、小金沢山西は上萩原地区にある)は”一葉の里”とも呼ばれ、甲州市では塩山駅から一葉の里を巡るウォーキングコースを「見どころ」として紹介している。中央線塩山駅(標高413m)から後述する「甘草屋敷」(415m)、上に挙げた「慈雲寺」(573m)で文学碑や写真に挙げた”樋口一葉女史像”などに接し、塩山桃源郷の眺めが素敵な日向薬師(604m)、かつての黒川金山への街道筋に位置し武田信玄の休息地でもあった滝本院(556m)などを見て塩山駅に戻るという回遊コースである。全長は8.7キロ、コースの最高地点は標高610mなので比高は197mあり、案外タフなコースといえる。慈雲寺には山梨県屈指と言われるイトザクラ(シダレザクラ)があり、日向薬師からは裾野に群なして咲く濃いピンクの桃の花たちが一望できるので、それらが開花する春に訪れるのが最高のようだ。

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塩山フルーツラインから塩山駅方向を望む

 少しだけ残っている後ろ髪を引かれるような思いをあとに、私は慈雲寺を出て「一葉の道」に戻った。この道を塩山駅方向に進めば「上赤尾交差点」でR411に出会うことができるからだ。が、その前に「フルーツ山梨農協大藤支所」の横にある十字路で、広域農道である「塩山フルーツライン」に交わってしまった。この広域農道は塩山地域を南北に走る道ではもっとも標高の高い位置にあり、かつよく整備された道である。以前に何度か塩山で「ぶどう狩り」や「さくらんぼ狩り」を楽しむために訪れたときに利用した道であり、甲府盆地のかなりの部分を見渡すことができる眺めの良い展望地があったことを思い出した。

 上の写真は、フルーツラインの脇に整備された「牛奥みはらしの丘」(標高500m)から、塩山市街や塩ノ山(553m)方向を望んだもの。そこからは甲府盆地だけでなく、北の奥秩父山塊、西の南アルプス、南の御坂山塊も見渡すことができる。麓には中央線の電車が走っていた。中央線は笹子トンネルを抜けて、大菩薩峠散策の起点駅となっている甲斐大和駅に至り、新大日影トンネルを抜けて勝沼扇状地に姿を見せたものの、盆地を横切って甲府市街に進むことはせず、さしあたり、山裾を北上して塩山駅へと向かうのであった。中央線の向こう側には重川(おもがわ)の護岸が見え、その先に塩山市街が広がり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」が鎮座している。

 ”塩(しほ)の山 差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく”

 これは『古今和歌集』にある賀歌で、旧山梨郡にある名勝の塩ノ山(甲州市)と差出の磯(山梨市、笛吹川右岸)が歌枕として取り上げられている。塩ノ山は、笛吹川と重川が造った複合扇状地の真ん中にあり、そこだけが削り残されたもので、府中市でいえば浅間山のような存在だ。塩ノ山といっても岩塩でできているわけではなく、四方がよく見渡せる(四方からよく見える)ところから四方の山と名付けられたのがその由来らしい。”四方の山”が”塩ノ山”にならなければ「塩山(えんざん)」の地名は生まれず、この地は「四方山(よもやま)」になっていたかも。そうなれば地元民はフルーツの花々だけでなく、よもやま話にも花を咲かせていたことだろう。

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なかなかオシャレな勝沼ぶどう郷駅

 勝沼駅が出来たのは1913年だ。中央線が開通したのは1903年なので、10年遅れて設置された。勝沼駅は93年に「勝沼ぶどう郷駅」(標高483m)に改称された。勝沼といえば甲州ぶどうやら甲州ワインがすぐに思い浮かぶので、この名称変更はうなずけなくもない。

 甲州ぶどうは日本の固有種だが、欧州種と中国原産種との交配種がさらに欧州種と交配してできたとの研究報告があるそうだ。甲州ぶどうの発祥には2説あり、ひとつは718年に行基大善寺勝沼町勝沼)を開き、そこでぶどうの栽培を始めたというもの。もうひとつは、1186年、雨宮勘解由(勝沼町上岩崎)が山ぶどうとは異なるつる草を見つけたので持ち帰って育てたところ、数年後に良質なぶどうが実ったというもの。第一は、日本の各地にある「行基伝説」のひとつに過ぎないと思われるが、大善寺自体は「ぶどう寺」を名乗っているため間違いであるともいえない。一般には第二の説のほうが有力のようだが、それにしても、甲州ぶどうの遺伝的特性は不思議というほかはなく、このぶどうがどうして甲斐の勝沼で育成されたのかは、いまだに不明のままのようだ。

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ぶどう郷駅から「ぶどうの丘」を望む

 ぶどう郷駅のすぐ西側に舌状台地の名残りのような南北に細長い高台があり、「ぶどうの丘」(標高500m)として整備されている。丘の周囲はほぼぶどう畑で、天辺には甲州市が運営する日本有数のワインショップや宿泊施設、温泉施設(天空の湯)などがある。私自身、数年前までは少しだけだがワインを口にしていたが、昨年から一切のアルコールを断つ(養命酒も含む)ことに決めたので、そのぶどうの丘には立ち寄らないことにした。ワインはともかく、丘からの展望は良さそうだ。 

塩山駅周辺から石和温泉へと向かう

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千野上交差点にある道路標識。ここでR411は青梅街道の名を失う

 塩山フルーツラインに戻って北上し、この道とR411が交差する「新千野橋東詰交差点」を左折して、R411の旅を再開した。かなりの後戻りである。まもなく、写真の千野上交差点に出た。陽光の都合で、写真は柳沢峠方向を写したものなので、実際には標識内にある矢印とは反対の方向に進むことになる。 

 少し古い地図(現在のグーグルマップも含め)では、この交差点は「千野駐在所前」と表記してあるが、今は「千野上」である。千野駐在所がなくなってしまったわけでもなさそうなのだが。ともあれ、この交差点で青梅街道としてのR411は終了となる。標識内の「塩山市街」の矢印方向の道が青梅街道筋で、ここからしばらく、R411は「大菩薩ライン」という通称だけとなる。

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塩山駅南口広場

 R411に戻ったものの、またすぐに離れて中央線塩山駅周辺を訪ねてみることにした。写真は塩山駅南口のロータリー広場。この近くに甲州市役所がある。撮影地点は市のメインストリート上だったが、人や車の動きはほとんど見られなかった。

 甲州市は2005年11月、塩山市勝沼町、大和村が合併して成立した。発足時の人口は37301人(塩山26238、勝沼9529、大和1534)だったが20年12月現在、30800人なので、この20年間で17%減少している。合併すると由緒ある地名が消滅してしまうことが多々あるが、甲州市の場合、旧塩山市域は塩山〇〇、旧勝沼町域は勝沼町▢▢、旧大和村域は大和町△△と、旧地名が残されているので、この点は評価に値する。

 写真から分かるように、2017年にリニューアルされた駅舎はとても立派なものだ。2019年における塩山駅の一日の乗車人数は2024人。2000年は2262人、10年は2055人なので、横ばいか漸減といったところ。列車の本数は、平日の甲府方面行きで、6時台が2本、7時台が3本、8時台が5本(内特急2本)、9時台が6本(内特急2本)となっており、私が想像したよりは少し多め。通勤通学には普通列車を使うだろうし、その場合でも甲府までの所要時間は22分なので、スケジュール通り動ける人(定刻主義者)には案外、便利かもしれない。

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北口ロータリー横に鎮座する武田信玄

 駅舎内の通路を使って北口に出た。写真の信玄像は甲府駅にあるものよりかなり小さいが、それでもこの像が駅前にあることから、塩山と信玄には結びつくものが存在すると考えられる。その代表が臨済宗恵林寺(えりんじ)で、1564年に信玄はその寺を武田家の菩提寺に定めた。宝物館には風林火山でおなじみの「孫子の旗」があるそうだ。

 武田家が織田信長に滅ぼされたときに寺も焼き討ちにあい、住職の快川和尚は「滅却心頭火自涼」の偈(げ)を残して焼死したとされる。その有名な偈は寺の三門に大きく掲げられている。なお、快川和尚は信玄の葬儀の際には大導師を務めている。

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甘草屋敷・高野家住宅

 北口ロータリーのすぐ北側に写真の「甘草屋敷」がある。国の重要文化財に指定されている建造物で、この地の長百姓・村役人を代々務めていた高野家の住宅であった。高野家は江戸幕府の命により漢方薬の主原料となる「甘草(かんぞう)」を栽培していたところから、この建造物は「甘草屋敷」とも呼ばれる。有料だが、室内は一般公開されている(らしい)。

 甘草は根に鎮痛・鎮咳、利尿作用がある。中国原産で日本には産しなかったため、中国からの輸入を続けていたが、享保の改革時に甘草の国産化を進めた。平賀源内が宝暦年間に著した書物(1763年)に「江戸と駿府の官園にある甘草は甲斐から得たものである」と記しているように、高野家の甘草栽培は日本における嚆矢(こうし、先駆けの意)であったようだ。

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塩山駅からR411に戻るためにこの交差点を左折

 かように寄り道が続き、R411の徘徊はなかなか進まない。塩山駅南口から道路(県道38号、塩山勝沼線)を東に進み、写真の赤尾交差点を右に曲がる。今度こそR411の旅が本格的に再開される。

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マンズワイン勝沼ワイナリー

 中央線は南西方向に進んで甲府を目指すが、R411は南南西に進んでいく。左手にワイン工場(マンズワイン勝沼ワイナリー)があった。塩山から勝沼に入ったのだ。

 この工場はマンズワインを代表するものらしく、マンズワインの製品の大半はこの工場で造られているとのことだ。ワイン工場としても山梨県下では最大の規模を誇るらしい。売店が併設されているが、アルコールを断つことにしている私には無縁の存在だ。

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葡萄工房ワイングラス館

 ワイン工場のすぐ先の右手には、写真のワイングラス館があった。ワイングラスだけでなく、天然石やガラスのアクセサリーなどを取り扱い、カフェやパンケーキ専門店などが併設されている(そうだ)。ワインには酔ってしまうがワイングラスならアルコールに触れることがないので、グラス館の内部を覗こうと立ち寄ったのだが、他には誰もいないことに気づいた。そんなところに進入してしまうと、ひやかしだけでは済まず何かしら購入しなければならなくなる。気の弱い私は店内に入ることを断念した。

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何でもあります!あすなろ園

 右手に見えてきたのが写真の「あすなろ園」。店自体はさほど大きくないようだが、看板を見れば分かる通り、山梨県の名産物がすべて取り揃えられている。多角経営、ごくろうさまです。

 塩山にはかつて養蚕のための桑園が広がっていたが、戦争時に食料生産のために畑に転換されてしまった。戦後は果樹栽培に主力を移したことで、山梨はフルーツ王国になったのであった。

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R411はこの交差点を左折して西進する

 あすなろ園から500mほど南に進むと、写真の等々力(とどろき)交差点に出る。R411はこの交差点を右折することになるが、左折すると先に触れた大善寺(ぶどう寺)に至り、そのすぐ先に「柏尾古戦場跡」がある。そこは、大久保大和(実は近藤勇)率いる「甲陽鎮撫隊」と板垣退助率いる官軍の「東山道軍」が戦ったところ。戦闘はわずか2時間ほどで決着し、甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走した。

 写真の交差点を直進すると国道20号線(甲州街道)に出る(南野呂千米寺交差点)。笹子峠を下ってきたR20は甲府盆地へ降り立ったところにある「柏尾交差点」で、それまでの片側一車線から二車線の快適なバイパスとなる。そしてそのバイパスが新甲州街道となり、旧甲州街道へと格落ちした旧来の狭い道は県道34号・38号線となって甲府を目指す。そしてその県道(旧甲州街道)は、写真の等々力交差点でR411にバトンタッチされる。つまりR411は、この交差点から旧甲州街道となって西進するのである。もっとも、「大菩薩ライン」の名もそのまま残している。

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甲州街道になったばかりのR411

 ”等々力”は、かつては「轟」と記した。音が鳴り響くさまを表すことばで地名によく用いられる。世田谷区には「等々力渓谷」があるが、これは渓谷が生まれるときに地面が何度も大きな音を立てて崩れ、その音が周囲に鳴り響いたから、というのが有力な説だ。一方、勝沼の等々力には地面の崩落がなければ、等々力渓谷のような「不動の滝」もない。その代わり、等々力の西隣には「上栗原」「下栗原」がある。

 『古事記』には、5世紀頃に中国から渡来した人々(呉人)を居住させた場所を「呉原」と名付けたとある。呉原はのちに栗原と呼ばれるようになった。呉(くれ)は、中国の呉(ご)というより大陸から渡来した人々全般を指していたと考えられている。さらに、呉(くれ)は「高句麗」(コクレ)を指し示すという有力な説もある。ともあれ、日本に朝鮮半島経由で馬が持ち込まれたのは4世紀後半と考えられており、山梨からは4世紀後半や末期の遺跡から「馬歯」が発見されている。山梨では日本でもっとも早い時期に馬の飼育がおこなわれていたようだ。なお、信州でも同時期の「馬歯」が発見されている。

 とすれば、馬は朝鮮半島から九州辺りや、若狭湾辺り(敦賀?)から畿内に入ったのではなく、西日本に至る予定だった船が北西風と対馬暖流とに流され、富山湾辺りで風待ちをしていたが、生き物ゆえにいつまでも船に乗せておくわけにはいかず、糸魚川直江津(現在の上越市)に陸揚げされた。そして諏訪湖や茅野、さらに釜無川を下って甲府盆地に入ったという可能性は大いにあり得る。いやむしろ、初めから越後や越中を目指していたという蓋然性は低くない。実際、この「中央地溝帯フォッサマグナ)」は、現在の我々が想像するよりも相当に古くから物資の流通路として利用されていたのだった。

 その傍証は古墳の一形態である「横石塚」の分布にもある。高句麗の古い墓制である「横石塚」は、日本全体では全古墳の2%ほどの割合だが、信濃では古墳の30%、甲斐では20%を占めている。中央地溝帯は、物資だけでなく人の移動ルートでもあったのだ。

 ともあれ、栗原の地では馬の飼育や調教がおこなわれ、その隣に位置する等々力にも馬蹄の音が轟いていたと想像できる。それゆえ、等々力交差点の周辺地は「轟」と名付けられ、後に等々力(等力)と記された。山梨の地は律令国としては「甲斐」であり、その甲斐には、前にも記したように山梨、八代、巨麻(巨摩)、都留の4郡から構成された。いうまでもなく、巨麻郡には朝鮮半島からの渡来人(中心は高麗(高句麗)からの人)が多く住んでいた。巨麻郡は山梨県の西半分ほどの広さがある。東部に位置する栗原や等々力は地域としては山梨郡に入るはずだが、渡来系の住民が多かったためか当初は巨麻郡に飛び地として属した。のちに韮崎辺りに栗原郷や等力郷が成立したと推定されている。

 その巨麻郡には、かつて現在の韮崎あたりを中心に朝廷の馬を飼育する御牧が3か所あって、優れた馬を産出していたため「甲斐の黒駒」と称されて重用された。伝説に過ぎないだろうが、聖徳太子厩戸皇子)の愛馬も「甲斐の黒駒」であり、太子は富士山を訪れる際にはその名馬にまたがって飛翔してきたとされている。だとするなら、その馬の名は「ぺガスス(ペガサス)」だったかも知れない。

 ともあれ、R411はこの等々力交差点で向きを西に変え、甲府に向かって進路をとるのである。

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一町田中交差点。旧甲州街道はここを左折

 西進を始めたR411は勝沼町等々力から山梨市上栗原に入る。山梨市に入って2.5キロほど進んだ場所に、写真の「一町田中交差点」がある。道路標識では丁字路に見えるが、実際には十字路で左折することができる。旧甲州街道を進むなら左折して日川に突き当たらなければならない。が、現代の車は急に曲がることを避けたいと考えたのだろうか、この交差点を少し先に進んでから左にカーブをとり「日川橋」で日川を渡り、ほどなく右にカーブして日川の左岸側を進んでいく。

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日川の右岸から日川橋を望む

 私は一町田中交差点を左折して旧甲州街道筋を進んだ。もっとも、200m足らずで日川の右岸に出てしまった。写真はその突き当り地点からR411の日川橋を望んだものだ。

 日川(ひかわ、かつては”にっかわ”とも)は、前回に挙げた大菩薩湖を水源として、県道218号線に沿って南下する(実際には日川の形成が先だが)。川は大菩薩連嶺が途切れかけたところでやや西に向きを変え、今度は大菩薩連嶺と御坂山塊との間、つまり甲州街道沿いに西へ流れて甲府盆地内に姿を現す。そしてそのまま旧甲州街道に並行して西進していく。

 日川の語源は氷川とも考えられるが、一般には、「三日血川」を基にすると伝えられている。織田信長軍に攻め込まれて山深くに逃げ込んだ武田軍の残党は最後の死闘を繰り広げ、戦いに加わって傷付き、あるいは戦死した人々の大量の血が谷を伝って川に流れ込んで、三日間、その川は血に染まった。そのために、川は三日血川と呼ばれるようになったということだ。どこかで聞いた話だ。以前、八王子城跡について記した際、御主殿の滝が自刃した北条家の人々の血で、城山川は三日三晩、赤く染まったという話に触れたことがあった。一日だと惨劇というほどではなく、五日というといささか大げさすぎるので、さしあたり、三日が良いのではないだろうかという判断が加わっていると考えられるのだ。

 ともあれ、三日血川と名付けられたらしいのだが、それでは不吉すぎるということで、"血”だけでなくついでに“三”も取り去って「日川」と呼ばれるようになったというのが、この川の名の由来らしい。そうすると、”三日血川”以前の名前が気になるが、多分、昔の人は川なんぞに格別な名を付けることはせず、単に川、せいぜい山川か谷川などと呼んでいたかと思われる。

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笛吹市を走るR411には甲州桃太郎街道とも名付けられている

 日川を渡るとすぐに、川の左岸沿いを走る道があることが分かる。それが旧甲州街道筋だが、R411はその道は使わず少し先で右に曲がり、1キロほど直線路をとる。それが写真の道で、「甲州桃太郎街道」の名が見える。ここはまだ大菩薩ラインなので、R411は2つの通称を有することになる。

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R411は、いよいよ笛吹川に出会う

 直線路の先でR411は少しだけ左に曲がる。それは、笛吹川の左岸で出たためだ。笛吹川富士川最大の支流で、奥秩父山塊甲武信ヶ岳(標高2475m)と国師ヶ岳(2592m)の間から発する東沢渓谷と、国師ヶ岳と奥千丈岳(2601m)との間に発する西沢渓谷とを源流とし、国道140号線の雁坂トンネルの南出入り口の西側辺りで両渓谷は合流し、しばらくは西沢渓谷(観光地としてとても有名)の名で下り、広瀬湖を経てほぼR140に並行して甲府盆地の辺縁部を下ってくる。

 山梨市駅付近からはR140とは距離をとるようになり、その一方、今度はR411に接近し、写真の場所で笛吹川とR411との出会いが生まれる。笛吹川はその出会いの直前に重川、ついで日川を飲み込んでいる。

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笛吹川左岸から大菩薩嶺と辿ってきた重川扇状地を振り返り見る

 写真は、R411と笛吹川とが出会った場所から東北東方向を望んだものだ。笛吹川左岸の土手に見える道が旧甲州街道で、右手上方には大菩薩嶺が、旧甲州街道の上方には重川が形成した扇状地が見える。その扇状地をR411は下ってきたのだ。

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笛吹川左岸を進むR411だが、すぐに笛吹橋を渡って右岸に移る

 R411は少しだけ笛吹川の左岸を進むが、写真からも分かる通り、この道の先は丁字路になっていて、R411はここを右折して笛吹川を渡り右岸側に出る。この左岸側の道は600mほどの長さだが、この間のR411は、大菩薩ライン、甲州桃太郎街道、旧甲州街道という3つの通称を有することになる。

 写真の丁字路を左折すると県道314号線(一宮山梨線)となり、その道を進むとR20の甲斐一宮IC、続いて中央道・一宮御坂ICに至る。石和(いさわ)辺りに住んでいる人にとって、その県道はかなり貴重な存在だ。

 私はR411を進むので、ここを右折して「笛吹橋」を渡り、すぐ先にある「石和温泉郷東入口交差点」を左折して1.5キロほど笛吹川の右岸を走る。その交差点を直進する車はさほど多くはなかったが、直進路を進むと中央線・春日居町駅に至るようだ。

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新しくなった石和温泉駅

 笛吹川の右岸側に出たR411は、1.5キロほど川の右岸沿いを「笛吹川通り」の名で進んでいく。どうやら、笛吹橋で大菩薩ラインの名前は消滅したようだ。旧甲州街道はR411が位置する土手上ではなく、土手下の少し離れた場所に通じている。

 R411は「八田交差点」で笛吹川右岸から離れ、さしあたり、かつて「石和温泉停車場線」と呼ばれていた県道302号線(r302)と重なり合って西へ進み、「石和温泉駅入口交差点」でそのr302と別れる。R411が進むルートは旧甲州街道と重なっているようだ。

 私にとって石和温泉駅は少しだけ記憶に残る存在なので、その交差点を右折して石和温泉駅に向かってみた。r302はそのルートをとるので「石和温泉停車場線」と名付けられたようだ。その道を北に800mほど進んだ場所に写真の「石和温泉駅」があった。記憶している駅舎とは全く異なっていた。写真の駅舎は2016年に完成したもので、私が何度か駅を訪れたのは20年近く前なので、変貌していても当然のことかもしれない。とはいえ、石和温泉駅を利用する人は、2000年では一日当たり2707人、2010年では2588人、2019年では2953人なので、駅舎の大変身ほど利用者数は変化していないようだ。

 石和に温泉が湧出したのは1956年だが、温泉地として知られるようになったのは61年、ぶどう園から高温の湯が大量に湧き出し、付近の川に流れ込んだこと。地元の人がその「青空温泉」に集まり、その姿が全国に紹介されたことが切っ掛けだった。大空の下で大勢の老若男女が、一様に丸裸で温泉に浸かっている様子を撮影した写真が、雑誌等に何度も掲載されているのを見たことがあった。

 その写真の効果は絶大で、石和には一時、100軒以上の旅館が建って、熱海温泉に匹敵するほど大いに賑わったらしい。ただし写真のイメージがあまりにも強烈だったので、「石和に行く」ということを表立って表明することはやや憚られていた。そのためか、フルーツ王国山梨県では、ぶどう狩りや桃狩り、昇仙峡観光とセットで温泉を楽しむというキャンペーンを繰り広げ、家族連れなどを積極的に呼び込むという労を取らざるを得なかったようだ。

 今では交通の便が良くなりすぎて十分に日帰り圏内にあるため、旅館の数は減少しており、その数は40軒余りとなっているそうだ。実際、石和温泉郷を巡ってみると、もう何年も営業していないと思われる建物が多々あった。

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かつての賑わいが見られなくなった温泉通り

やまなしには、確かに山はなかった!

 写真は、かつてのメインロードであった「さくら温泉通り」である。昼日中のせいもあり、人の姿はほとんど見られなかった。

 私がこの通りを訪れたのは石和温泉郷に臨むためではなく、甲斐の旧国府に接するためだった。が、石和温泉の現状に触れるとその目的を忘却してしまい、写真の通りや「湯けむり通り」をトボトボと徘徊することに専心してしまった。

 甲斐国国府は、上の写真を撮影した場所の北側付近にあった。さくら温泉通りは笛吹市石和町川中島にあるが、通りにほど近い場所の住所は笛吹市春日居町国府(こう)である。地名から明らかなように国府(こう)には甲斐国国府(こくふ)があった。国府は、9世紀後半から10世紀前半になって国府(こう)の南側3キロほどのところにある笛吹市御坂町国衙(こくが)に移るが、甲斐国最初の国府はその春日居町国府(こう)にあった。

 甲斐国には4郡があったということは先に何度か触れた。最初の国府があった場所は山梨郡に属したが、その山梨郡には10の郷があった。代表的なのは山梨郷(春日居町国府付近)、表門郷(うわと、甲府市和戸付近)、於曽郷(おぞ、塩山付近)である。八代郡は5郷からなり、中心は八代郷(国衙があった場所)である。このように、郡の名称は、その郡の中心的な郷の名を用いるのが一般的だったようだ。

 ということは、山梨の名は当初、山梨郷のみに付されており、山梨郡律令国家が成立したのちの話なのだ。山梨郷は笛吹川と平等川との間に位置し、山はまったく存在しない。そもそも、山梨の語源は「山をならした土地=平坦な場所」というのが定説になりつつあるので、「やまなし=山無し」がほぼ正しいのである。それはそうで、国府を造るのだから平坦な場所を選ぶのが当然なのだ。それが山梨郷を中心にして山梨郡が成立し、たまたま北に奥秩父山塊、東に大菩薩連嶺を含むようになったため、いかにも山が多い場所と思われるようになった。さらに甲斐国が、明治政府による廃藩置県によって甲府県になったものの、まもなく山梨県に改称されたため、いつしか、山梨は「山だらけの県」になってしまったのだ。

 本項の冒頭で「山があっても山梨県」の戯言(ざれごと)に触れた。真相は「山がないから山なし」なのであり、「山がない場所にも関わらず山ばかりの県の名前に使われてしまった」というのが事実である。不思議だが本当なのだ。

いよいよ甲府市域に入る

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R411がR140(秩父往還)と交差する横根跨線橋橋南交差点

 石和温泉郷をあとにしてR411に戻った。石和温泉駅入口交差点から西のR411は「城東通り」という名を纏う。R411の旅は滝川街道に始まり、城東通りで終わる。その城東通りは、写真の交差点で、南下してきた国道140号線(秩父往還、R140)に出会う。

 R140は先に触れたように雁坂峠(実は雁坂トンネル)を越えて笛吹川上流の”西沢渓谷”と出会い、共に南下してきたが山梨市駅付近から笛吹川とは一時、離別するものの、甲府市白井町で再会し、しばらくは川の左岸を進む。そして、笛吹川が本流の富士川に合流する直前に国道52号線に飲み込まれる。

 共に奥秩父山塊を越え、甲府盆地に降り立ったR411とR140とは、写真の交差点で出会うと同時に分かれ、それぞれの役割を全うする旅を続ける。

 ところで、石和温泉駅入口交差点を400mほど西に進むと「平等川」を渡ることになる。この川の西側は甲府市川田町なので、R411は旅の終着点である甲府市に、すでに入っていたのだった。なお、写真の交差点は甲府市和戸町にある。

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箱根駅伝知名度が上がった山梨学院大学

 R411は「山崎三差路」で旧青梅街道を吸収する。旧青梅街道の最後の姿は県道6号線(r6)だが、その道はR140の旧道につながっているために交通量は結構多い。また、R411も甲府市街に至るもっとも重要な道(旧甲州街道筋)であり、さらにr6には、交差点のすぐ近くに中央線の踏切があるため、その山崎三差路はかなり混雑する。それもあって、その交差点の撮影は断念した。

 その替わり(になるかどうかは不明だが)、その交差点から400mほど西にある「山梨学院大学」(甲府市酒折)の建物を写してみた。詳しく調べたわけではないが、日本に〇〇学院大学というのは63もあるらしい。青山学院や明治学院は古くからあるし元々、知名度も高いが、山梨学院大学のように比較的新しめの大学ではライバルが多く、その名を広めるのは結構大変なことと思える。誰にも思いつくことだが、手っ取り早いのはスポーツの世界で名前を売ることだろう。それは高校でも同じで、そちらは甲子園出場なのだが、関東とその近辺の大学のスポーツといえば野球ではなく「箱根駅伝」で、もっとも認知度が高く人気もある。かく言う私も大好きで、私が山梨学院の名前を知ったのもその駅伝である。一時は留学生を積極的に登用することで、あまり知られていない大学が優勝、もしくは上位を占めるようになった。そうなると「古豪」といわれる大学は学連に「圧力」をかけ!?留学生の出場を制限するようになり、結果、新興勢力は出場権を得ることは可能であっても上位に入ることは難しくなってきた。スポーツ界にせよ他の世界にせよ、既得権益者の「底力」(良く表現するとだが)は侮りがたい。

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甲斐国の名の原点である酒折

 山梨学院大学の最寄り駅は「酒折駅」だが、その駅の名前は近くに写真の「酒折宮」があることによる。『日本書紀』や『古事記』にも登場するほど酒折宮は重要な存在なのだが、実際に訪ねてみると案外、こじんまりとした存在だった。

 ヤマトタケルは、『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記されているが、東征からの帰途、甲斐国酒折宮に立ち寄っているという点では、両者に共通している。

 「すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、「新治(にいばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」とうたひたまひき。ここにその御火焼(みたひき)の老人(おきな)、御歌に続ぎて歌ひしく、「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」とうたひき。これをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき」と『古事記』にある。

 東征を終えた倭建命が、その完了を祝うためにわざわざ酒折宮に立ち寄って歌をうたい、それに応えた人物に東国の支配権を与えたということが読み取れる。この後、倭建命は北上して碓日の坂(碓氷峠)を通り、信州を経て尾張に向かっている。この文面から、酒折宮は東国と大和との重要な結節点であることが分かる。

 従来、甲斐の語源は、山の狭間を意味する「峡(かひ)」であるとされたが、甲斐(かひ)の「ひ」と峡(かひ)の「ひ」とは万葉仮名では発音が異なることが判明したことにより、「峡」は甲斐の語源ではないことが証明された。現在では、上記のヤマトタケルの東征伝説における酒折宮(古くは坂折宮と表記されていた)の役割に着目し、甲斐は東国と大和との「交ひ=交流点」であったとする説がもっとも有力になっている。そして、「かひ」の「か」には十干(じっかん)の第一である「甲」を、「ひ」には「美しい」を意味する「斐」を用いて律令国名にした。

 甲斐とは関係がないが、飛騨国岐阜県高山市には県立斐太(ひだ)高校がある。この斐太は『万葉集』に用いられている表記で、もちろん飛騨のことである。斐太高校に知り合いがいる訳ではなく、その高校の卒業儀式に「白線流し」があることから、飛騨高山に出掛けた際、ついでに斐太高校を見に行ったことが何度かあったということを、これを記しているときに思い出しただけだ。さらに言えば、スピッツの『空も飛べるはず』は私のカラオケの持ち歌だ。

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本居宣長の撰文による酒折宮壽詞(ほぎごと)

 酒折宮の境内には写真の石碑があった。何を記述しているのかさっぱり分からなかったが、それでもそれに興味を抱いたのは「本居宣長」の名があったからだ。本居宣長の思想に共鳴するわけでは決してないのだが、三重県松阪市に宿泊しても松阪牛を食さないことがほとんどだったが、本居宣長の旧宅(二階に宣長の勉強部屋だった鈴屋がある)見物には毎回出掛けた。私は宣長とは違って「鈴の音」にさして興味はないが。

 「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」

 これは伊勢神宮を訪れた際に西行が詠んだ歌(山家集にある)だ。誠にかたじけないことだが、私は本居宣長の思想はほとんど理解していないのだけれど、なぜか彼の存在に惹かれてしまうのだ。

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甲斐善光寺はこの交差点を右折した先にある

 R411が身延線の下をくぐる直前に、写真の「善光寺入口交差点」がある。「武田神社に行く人は、この交差点を右折したほうがいいですよ」とまでは記していないが、実際、ここを右折して県道6号線に出ると、混雑する甲府市街域を避けて武田神社に至ることができる。

 善光寺というと長野市にある寺が圧倒的に有名だが、甲府にある「甲斐善光寺」はその「信濃善光寺」とは深いつながりがある。

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国の重要文化財に指定されている山門

 先ほどの信号を右折して善光寺通りを北に600mほど進むと、写真にある甲斐善光寺の山門前に至る。車道は山門の少し手前で左(西)に避けるので、車が山門に突入することはない。長野の善光寺は参道からすでに大いに賑わっているが、ここの善光寺通りは普通の住宅街にある道路といった風情で、とくに店が多く立ち並んでいるということはない。ただ、写真から分かる通り山門はかなり大きいので、離れた位置からでも、その先に寺院があるということは判別できる。

 この山門(三解脱門=三門)は1750年に創建されたもので、高さ20m、横20m、奥行7.8mの大きさがある。以前の屋根は檜皮(ひわだ)葺きだったが、2002~07年の大改修の際にサワラ板を用いた栩(とち)葺きに変更された。

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1796年に再建された本堂

 甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との”川中島の戦い”で信濃善光寺が焼失することを恐れ、1558年に創建し、信玄は信濃善光寺の本尊や多くの寺宝を持ち出してこの寺に納めた。それゆえか、開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空がおこなっている。なお、本尊は武田家の滅亡後、1598年に信濃善光寺に戻されている。

 写真の本堂は、1565年に創建されたものの後に焼失した旧本堂にかわって、1796年に再建されたものである。当初のものよりかなり小さくなったと言われているが、それでも相当な大きさである。なお、本堂の屋根は檜皮葺きである。

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身延線善光寺駅の南にあるR411のクランク

 善光寺からR411に戻る。先ほど挙げた交差点のすぐ先に写真の場所がある。道路は左カーブするが、すぐその先で右にカーブする。こうしたクランクは、戦国時代から江戸時代にかけて、敵からの攻撃を防ぐための拠点付近によく造られている。城の入口にある「枡形虎口」がその代表だが、大手門があった場所にもこうした意匠がよく見られる。そのことについては、本ブログでも「八王子城跡」の項で触れている。

 ともあれ、こうしたクランクがR411の道筋に残っているということは、甲府城が近いということ、この道はかなり古くからあるということを示している。R411が「城東通り」という通称を有することがよく分かる場所なのだ。なお、こうしたクランクは、ここから1.4キロ先にもある。

R411は、終点にたどり着く

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甲府警察署東交差点を左折するとすぐに甲府城舞鶴城)跡に至る

 2つ目のクランクを過ぎると、R411の両側には商店が立ち並びはじめ、いかにも甲府の中心街を走る道といった雰囲気に変わる。まもなく、八王子市左入町を出発したR411は120キロの旅を経て、終点の甲府警察署前交差点に到着する。

 写真は、R411が終点に到達する前に通過する最後の十字路となる「甲府警察署東交差点」である。そこを右折した300m先の右手には甲府城舞鶴城)、左手には山梨県庁がある。もちろん、道路標識にあるように、さらにその先には武田神社がある(ただし、道は一本、西にずれるが)。

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R411の終点直前に甲府市役所がある

 甲府警察署東交差点の先の北側に写真の甲府市役所がある。市役所の北側に県庁があり、市役所の南側に甲府警察署がある。R411は山梨県、そして甲府市の司令塔が並ぶ中枢部を通っているのだ。

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甲府警察署前交差点。ここでR411は旅を終える

 写真が「甲府警察署前交差点」と名付けられた十字路。ここでR411は終わり、左折すれば国道52号線となって静岡市清水区興津中町までの旅となる。清水区興津地区を流れる興津川は私のアユ釣りのホームグラウンドのひとつなので、R52は短い区間だけれどよく利用する。右折すれば県道6号線となり、600mほど北に進むと中央線、身延線甲府駅南口に至る。直進すると市道になり、その道は「ボランティア通り」と命名されている。その名のとおり道路沿いに「山梨県ボランティアNPOセンター」がある。1987年に開催された「かいじ国体」の際に「ボランティア通り」の名が付いたらしい。

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R52から見た甲府警察署前交差点

 上の写真は、甲府警察署前交差点を南側(R52側)から見たもの。直進すれば甲府駅に至り、右折するとR411の「上り」の旅が始まる。

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中央線・甲府駅南口

 甲府駅南口に立ち寄ってみた。南口広場は広々としたロータリーになっており、ここが山梨県随一の玄関口であることを主張している。甲府市の人口は20年12月1日現在で187007人。決して大都市という訳ではないが、駅前は府中よりも格段に立派である。

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甲府駅南口に鎮座する武田信玄

 その南口の一角にあるのが、写真の武田信玄像。武田信玄は1521年生まれ(73年没)なので、来年は「信玄生誕500年」となる。コロナ禍の収まり具合にもよるだろうが、甲府市山梨県ではいろいろな行事が企画されているはずだ。甲府城でボランティアガイドの人に少しだけ話を伺ったとき、彼は「甲府には信玄ぐらいしか誇るものがないんですよ」と、20%は自嘲気味、80%は誇らしげに語っていた。

 ところで甲府市は昨年、開府500年を迎えた。ということは、甲府は1519年に始まったことになる。信玄の父である武田信虎は現在、武田神社がある「躑躅(つつじ)ヶ崎」に居館を移し、その場所に城下町を築いた。それゆえ、甲府は「甲斐の府中=甲府」と呼ばれるようになった。武田神社の所在地は、甲府市府中町である。ただ、ここでいう府中は、律令国国府所在地という意味ではなく、政治の中心地ということを表している。

 ちなみに、私が住む府中市律令国国府所在地だっただけで、現在は単なる東京の田舎町である。甲斐の国府があった春日居町国府御坂町国衙も、今はただ、中心地から外れた、のどかな郊外である。旧律令国も人生も、いろいろである。

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愛宕山から望遠レンズで富士山を望む

 甲府駅のすぐ北東側にある「愛宕山」に出掛け、甲府盆地を一望してみた。甲府盆地については次回に触れる予定だが、ここでは冒頭に挙げた写真の撮影場所と同じ地点から望遠レンズでのぞいた富士山の姿を掲載してみた。富士山は、相変わらず、手前の山々(御坂山塊)とは別の世界に佇んでいるように見える。

 富士山は自然が造った。甲府盆地も自然が造った。甲府は武田一族が造り、R411は無名の人々の往来によって造られた。

 *    *    *

 何とかの刃とかいう映画が流行ったらしい。友人も見に行ったようで、「大人にも泣ける映画なのでお前も見に行け」というお節介な連絡があった。「泣けるドラマ」なら『愛の不時着』があるが、今度見返せば14度目になるので、「それもなんだかなぁ」と思い、その映画を見てみようという気持ちが20%ほどまでに高まった。

 12月3日の夕刊に、その映画のコミック版の全面広告があった。

 「永遠というのは人の想いだ」「人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ」の言葉が記載されていた。

 この広告から私は、長嶋茂雄の引退セレモニーの言葉を思い出した。

 「我が巨人軍は永久に不滅です」

 広告では「永遠」と「不滅」、長嶋は「永久」と「不滅」。永遠は人の観念的時間、永久は物理的時間を表すので、長嶋のセリフは「永遠」を使うべきだった(3番は永久欠番だとしても)。中島みゆきの名曲に『永遠の嘘をついてくれ』というのがある。これは永遠で正解で、永久の嘘はあり得ない。なぜなら嘘をつく当の人は死ぬからだ。嘘は、甲斐で見つかった4世紀後半の馬の歯ではない。あちらは永久歯なので後世まで残るが、嘘は常に形を変え、やがて消える。もちろん、巨人軍だってソフトバンクに歯が立たないので、永久には続かない。しかし、奇特な巨人ファンの心には永遠に残るかもしれない。それは単に観念だから。

 それでいえば、広告の前半部の言葉は正しいが、後半部はまったくの誤りだ。個々の想いはあっても、「想い」そのものなど存在しないからだ。「想い」と聞くと、無邪気な少年少女は「善き想い」のみをイメージするかもしれない。が、「悪い想い」はもちろんあり、しかも「善悪」は相対的に存在するにすぎず、「善悪一般」はない。遅刻して飛行機に乗り遅れれば悔しく感じるが、当の飛行機が墜落したと聞けば遅刻に感謝する。が、代わりに乗った新幹線が脱線・転覆するかもしれない。それゆえ、「ひとつの想い」さえ時々刻々と変転し、さらに想う人は必ず死ぬのだから、想いは永遠でもなければ不滅でもない。他者に継承されたとしても伝言ゲーム以上に内容は遷ろう。私が想う夕陽の赤は、友人が想う赤とは多分異なる。仮に赤そのものは客観化できても、彼我の赤のクオリアは共有できない。

 善き想いが永遠に続くと信じるのは、ティーンエイジに満たない12歳までの少年少女の幼き空想である。人生が理不尽だらけであることを知る15,6歳になれば、たとえ夢であってもそれは「絶対善と絶対悪の狭間を不断に揺れ動く」ということに気が付く。そんなことを考えると、その映画を見ようという気持ちは10%にまで低下した。

 そして翌日(4日)の朝刊。またもや全面広告。

 「夜は明ける。想いは不滅。」

 同じ意味の言葉が2日連続。こうした言葉を広告に連続して挙げるということは、作者、ならびに出版社が、その作品でもっとも訴求したいと考えている「想い」なのだろう。

 その結果、同じような空語が館内に飛び交うであろう映画を見る気持ちは、0%になった。広告に大感謝である。 



 

 

 

 

〔50〕3ケタ国道巡遊・R411(4)~柳沢峠から甲府盆地へ。そして少し寄り道

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R411最高地点の柳沢峠からの眺め

丹波山村の中心地から分水嶺へと向かう

 丹波山村の形はどことなく、しっぽの太いマンタが秩父市街に向かって遊弋するようでもあり、太った北海道のようでもある。仮にマンタに例えるなら、右(南東)の胸鰭は鴨沢集落の中心地付近、左(北西)の胸鰭の先に竜喰(りゅうばみ)山(2012m)、口の前にある頭鰭(とうき)の右は七ツ石山(1757m)、左は雲取山(2017m)、太すぎてごく短くなってしまったしっぽの中心部には大菩薩嶺(2057m)がある。

 村の中心はマンタの胴のほぼ中央に位置し、大菩薩嶺の北麓にあるサカリ山(1542m)の北裾を削った貝沢川やマリコ川と、本流の多摩川(地方名は丹波川)が合流するなどして形成された河岸段丘上に多くの家々を集めている。

 前回の最後に挙げた写真は、道の駅を出てR411が村の中心部を進み始めた場所のもので、丹波山村ではもっとも標高の低い620m地点である。ここから西に700mほど進むと家々はほぼなくなり、これからは、北から南へ押し寄せる奥秩父山塊と、南から北に迫り出す大菩薩連嶺の狭間にある渓谷の北側を、標高を稼ぎながらR411は進んでいく。

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谷間を進むR411を青梅向きに見たもの

 写真は標高662m付近を通るR411と周囲の山々を撮影したもの。たまたま北側の崖を整備するために造られたとおぼしき路肩に車をとめることができ、その付近から陽光の向きの関係で青梅方向を撮ってみた。坂は下りだが、R411ではこの向きが上り(八王子方面)となる。丹波山村の集落からここまでの間、北側の崖からは幾筋もの小滝が落ち、道の南側を流れる多摩川丹波川)の対岸の崖も急激に落ち込み、そちらにも無名の滝が数多く流れ落ちる姿を視認できた。今でこそ法面(のりめん)は固められ、落石防止のための防御ネットも張り巡らされているので安全・安心に走行することは可能だが、かつては、いつ落石の攻撃に出会うか、ハラハラドキドキしながらこの道を走ったという記憶は未だに鮮明にある。

 思えば、R411は青梅街道を名乗り始めてからずっと多摩川の左岸を走り続け、奥多摩駅の先で曲流する川の流れの上を直行するため一時的に右岸に移ったこともあるが、それもほんの短い区間だけでまた左岸に戻り、奥多摩湖沿いもずっと北岸(つまり貯水池を多摩川と考えれば左岸)に位置した。

 R411は山梨県に入っても、通称を丹波川に変えた多摩川の左岸を走り続けてきたが、奥多摩駅近くで少しだけ右岸に移ったことがあった以来、26キロぶりで右岸を走ることになった。それは、上の写真のすぐ上流側である。北からは前飛竜(1954m)の南面に源頭を有する「小常木沢」が比較的大きな流れを造って丹波川の流れ込み、合流点付近の左岸側に険しい峡谷を形成しているためであった。その険しさと岩盤の脆さを考慮すると、そこには道を削り出すことは困難だと認定されたのだろう。

 もちろん、右岸側であっても芦沢山(1272m)から下り落ちる尾根や谷筋が丹波川にせりだしている。が、前飛竜から続き小ピークの岩岳(1520m)から急降下してくる尾根や谷のほうが遥かに険しい存在であったため、道は川の右岸に造るよりほかはなかったのだろう。

 撮影地点の100mほど上流にある余慶橋でR411は右岸側に移動した。そこから後述する「おいらん淵」の先辺りまでがR411が辿るもっとも険しく厳しい道程である。とりわけ橋から上流の1.5キロほどの間は、南には高く切り立った崖、北の谷底には丹波川の流れ、その左岸にも切り立ちかつ脆そうな崖と流れ落ちる小滝の連続。道は昼なお暗いために車内からその景観を写すことは不可能で、かといって車道を確保するのが精一杯の道には車をとめるスペースは皆無なので、撮影場所を探すことはできなかった。

 しばし川の右岸に移ったR411だったが、その先にはムジナ沢が南から北へ下り丹波川を「不動滝」となって襲うため、道は右岸に位置し続けることは困難だった。そのため、羽根戸橋と羽根戸トンネルなどを使って、道は左岸に移動して、多くの難所を切り抜けた。

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東京市長だった尾崎行雄多摩川の水源地調査をおこなった

 1961年、浪商高(当時)の尾崎行雄は剛速球投手として活躍し甲子園で優勝を飾った。高校を中退した尾崎は東映フライヤーズ(当時)に入団し、62年に20勝9敗の成績で新人王を獲得。さらに64~66年には3年連続して20勝以上を記録した。私は当時、少年野球に参加しており投手で4番打者だった。球種は直球のみ。投球フォームは尾崎の真似をした。欠点は、投げた球は何処に行くか分からなかったこと。しかし、相手打者はそれを恐れて空振りを多発したため、何度かの試合を経験したが、幸いにも一度も負け投手にはならずに済んだ。

 ほどなく、尾崎行雄は肩の故障のために球界を去り、私は他の遊びのほうに夢中になってしまったため、野球からは離れた。

 ”怪童”と呼ばれた投手・尾崎行雄は、第2代の東京市長(任1903~12)だった「憲政の神様」咢堂・尾崎行雄に因んでそう名付けられたそうだ。その市長のほうの尾崎行雄は、東京市の水源地であった多摩川上流域の森林地帯が荒れ果てて保水力を失い、その結果がまねく水道水の枯渇と質の悪化を危惧した。「東京市民の給水の責務を負っている東京市が、水源林の経営を行うべきである」との考えから「水源地森林経営案」を作成し、その議決を得た尾崎は1909年(明治42)、自ら多摩川の水源域を5日間にわたって実地踏査した。

 本ブログでも「玉川上水」を扱った項で触れたことがあるが、江戸・東京の飲料水は玉川上水にほぼ頼っていた。玉川上水多摩川羽村で取水されていたので、多摩川本流の水量が減じ水質が悪化すれば、それはそのまま東京の水道水に悪影響を与えるのであった。

 多摩川の最上流の枝川のひとつである山梨県に属する泉水谷(せんすいだに)流域はすでに東京府の公有林であったが、最大かつ最重要の水源域である一之瀬川(多摩川最上流域の別称)一帯は山梨県が所有していた。そこで、尾崎は山梨県と粘り強い交渉をおこない、1912年(明治45)3月、当時は萩原山と呼ばれていた広大な水源地一帯を譲り受けることに成功した。そして同年7月、尾崎は偉大な実績を残して市長を退任した。

 尾崎の決断によって東京の水問題は解決の糸口を見出すことができた。以来、荒れ果てた水源域には植林・造林、崩壊地の修復などの手が入り、徐々に美しい混交林の森を形成するようになった。1963年(昭和38)、尾崎の栄誉を称える写真の「尾崎行雄水源踏査記念」碑が、一之瀬川と泉水谷との合流点付近に建てられた。それはR411と泉水谷を管理するための林道とが交わる丁字路のすぐ横にあり、広くはないが駐車スペースもある。

 林道には三条新橋が架かっている。この辺りから多摩川上流の通称は丹波川から一之瀬川に変わり、泉水谷以西と一之瀬川以西は山梨県甲州市に属することになる。ただし、R411は一之瀬川の左岸側を走っているため、もう少しだけ丹波山村を進むことになる。

 尾崎行雄の記念碑までR411は大方、西進してきたが、記念碑の先で北に向きを変える。西には鶏冠山(1716m、黒川山の別称)があるからだ。その山は大菩薩連嶺の最北端に位置し、標高はそれほどでもないが裾野が広い。かつての技術ではとてもその山腹にトンネルを掘ることはできなかったからか、R411はその山を避けるように、川の流れにしたがうように山の北側に迂回しているのだ。

 旧道は一之瀬川の左岸(791m)の崖上(823m)を走っていたが、道の山側は70m以上の高さがある切り立った崖になっており、極めて危険な区間だった。そのため、2018年に「かたなばトンネル」が開通し、落石、斜面の崩落などの危険性は著しく低下したが、反面、渓谷美を望みながらのドライブは叶わなくなった。そのトンネルを出ても、R411はすぐに「大常木トンネル」に入る。旧のトンネル(2010年)は、道路を崖沿いに建設することが不可能な短い区間だけに通っていたが、まだまだ急なカーブがいくつか残っていて危険なため、トンネル区間を長くする工事がおこなわれ、2018年に現在のトンネルに移行した。

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一之瀬高橋トンネルの甲州市側出入口

 さらに、一之瀬川と支流の柳沢川の合流点付近には一の瀬橋だけを架けて、あとは切り立った山肌(比高90m)を固めたり防御ネットを張り巡らしたりして崖下に道を通していたが、2011年、その場所近くに写真の「一之瀬高橋トンネル」を建設し、河川の合流点という極めて脆弱性の高い場所をパスすることになった。トンネルの甲州市側の出入り口のすぐ横には、支流の柳沢川が流れている。

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この流れのすぐ下側に、心霊スポットとして知られている「おいらん淵」がある

 一之瀬高橋トンネルを出たところに架かる橋上から柳沢川を撮影したのが上の写真。この川の左岸側に2011年まで通じていた旧道があり、今は使用されていない一の瀬橋の傍らに「おいらん淵」の碑がある(そうだ)。旧道との合流点付近(橋の西詰)には車を数台とめることの可能なスペースがあり、いつそこを通過しても、最低でも1、2台は車やバイクがとまっている姿を目にする。現在、一の瀬橋に至る旧道の路面は損傷が激しく、また切り立った崖からは無数の落石があり、さらに崩壊箇所もいくつかあるため、車はおろか人の通行も禁止されている。それゆえ、心霊スポットとして名高い「おいらん淵」に行くことはできなくなっている。

 しかし、侵入不可とするために設けられたフェンスの端のネットには人が通れるだけの穴が開けられている(人為的)ので、落石に襲われる危険を覚悟した「好き者」は、その穴を潜り抜けて300mほど歩き、「おいらん淵」まで出掛けて、「亡霊に遭遇する」という「恐怖」を味わうのだ。

 甲斐の国には金山が多く、武田家の繁栄はこの豊富な金のお陰だったとする説をよく聞く。代表的な金山として、富士川(ふじかわ)方面にある「湯之奥金山(中山、内山、茅小屋の総称。下部温泉の奥にある)」と、黒川山(鶏冠山)の谷筋にあった「黒川金山」のふたつがよく知られている。後者の黒川金山多摩川の水源域にある。武田家の金探しは黒川ではなく、まず一之瀬川流域でおこなわれていた。が、砂金は見つかるものの本格的な採掘をおこなうほどの量ではなかった。柳沢川流域や竜喰(りゅうばみ)谷でも同様で見通しは明るくなかった。黒川の谷筋では他の場所より砂金の量が断然に多かったことが判明したため、一之瀬川や柳沢川などでの探索を断念し、総力を黒川谷に集中して本格的な採掘がおこなわれることになった。

 最盛期には「黒川千軒」といわれるほど多くの人々が集められ、「金山衆」と呼ばれる土木技術者(もっとも有名な人物が江戸時代にも活躍した大久保長安)の指導で大量の金が掘られ、武田信虎・信玄・勝頼の軍資金を支えた。こうした場所には当然のごとく「女郎」が集められた。用済みとなった女郎は、金山の秘密を守るために断崖下の谷に落とされ殺害されたという言い伝えがあった。そうした遊女の悲劇話がいつしか「おいらん淵」伝説となったようだ。黒川金山跡は国の史跡に指定されているので、多くの学者・研究家によって現地調査がおこなわれているが、金鉱の採掘跡や住居跡はよく残っているものの、黒川谷に遊郭があったことを示す遺物は一切、発見されていないとのことである。

 「おいらん淵」伝説には明らかな誤りが2つある。ひとつは「おいらん」が間違いで、「おいらん」とは吉原遊郭の高級遊女を指すので江戸時代以降の呼び名であり、戦国時代にはそんな言葉はなかった。せめて「女郎淵」や「遊女淵」の名であれば少しは信憑性が増すのだが。もうひとつは、「おいらん淵」の場所で、伝承されているところは1、2キロ上流部の「ゴリョウの滝」付近とされている。つまり、現在「おいらん淵」とされ、多くの人々が心霊スポットと思い込んでいる場所は、後世の作り話によって設定された場所なのだ。まったく関係のない場所で多くの人々が「心霊現象」を体験する滑稽さ。恐怖は人の外にあるのではなく人の内部から生まれる。そのことに私は興味をいだく。

 一之瀬高橋トンネルからR411は丹波山村を離れて甲州市に入り、柳沢川の左岸近くを柳沢峠方向に進む。今度は行く手に藤尾山(天狗棚山、1606m)が形成した複雑な尾根筋が急な角度で迫ってくるため、道は2つのヘアピンカーブを造ってそれらをかわす。相当に見通しの悪い場所になっているため、そこでもトンネルで尾根筋をパスする計画が進んでおり、予定では2029年に改良工事が完成するとのことだ。

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落合集落を走るR411。写真は丹波山村方向を望んだもの

 ヘアピンカーブの先から少し視界が開けてくる。わずかではあるが平地があり、小さな集落(藤尾地区)が見える。標高1060mほどの場所で、R411が集落に出会うのは丹波山村の中心地以来である。さらに少し進むと落合集落があり、そこは藤尾よりはやや規模の大きい集落である。北からは高橋川と名付けられた小川が柳沢川と落ち合うために「落合」と名付けられたのだろうか。この集落に「東京都水道局水源管理事務所落合出張所」(標高1118m)がある。

 写真にある標識から分かる通り、落合出張所の近くには一之瀬高原に至る林道があり、多摩川の源流域まで進むことができる。出張所の真北を地図上で辿ると、多摩川の最初の一滴が生まれる水干(みずひ、標高1864m)があり、その直上に笠取山(1953m)がそびえている。 

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R411から鶏冠山の山頂付近を望む

 落合出張所辺りから視界はさらに開けてくるようになる。ダラダラと続く坂を上ると、左手に「鶏冠山落合登山口」の標識があるのが見て取れた。その先に広めの路肩があったので車をとめて、鶏冠山が望める場所(標高1160m)を探した。

 山梨には「鶏冠山」は2つあり、どちらも山頂の姿かたちがニワトリの「とさか」に似ているのでそう名付けられたそうだ。ひとつは前述した金山があった黒川山の別称がある鶏冠山(けいかんざん)で、もうひとつは甲武信ヶ岳(2475m)の南にある鶏冠山(とさかやま、山梨市)で、そちらは山容が相当に荒々しいためもあってクライマーに人気がある。

 上の写真は黒川山のほうの鶏冠山。ピーク付近はやや急峻だが、山裾は比較的なだらかで、とりわけ山の西側は傾斜が緩いこともあって、R411は視界が開けた場所を走ることが可能なのだ。道からは柳沢川の姿を見て取ることもできるが、その姿は優しい高原を流れる小川といった風情で、丹波川や一之瀬川が見せていた厳しい峡谷を感じさせるところはまったくない。 

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R411はヘアピンカーブを形成しながら上り下りする

 それでも、西からはときおり急峻な尾根が迫りくる場所があるので、そんなところではヘアピンカーブを造ってR411は標高を稼いでいく。写真は標高1280m地点から上ってきた道を振り返りみたもので、この下方に2つのヘアピンカーブがある。数台のバイクはかなり速いスピードで曲路に進入していった。

柳沢峠から今までとは異なる景色が展開される

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柳沢峠は明治時代に入ってから開削された

 高原を走るR411は近年になって道がよく整備され、道幅は広くなり新しく舗装された路面には凹凸が少ない。こうした道を上り続けてくると、写真の柳沢峠(標高1472m)にたどりつく。

 今でこそ柳沢峠が青梅街道の最高点であり、峠からは一気に坂を下って甲府盆地に入っていくが、この柳沢峠越えの道が開発されたのは明治時代に入ってからで、それ以前は大菩薩峠(1897m)越えが青梅街道のルートであった。かつての青梅街道は甲州裏街道とも呼ばれ、甲州街道の関所を通りたくない人(腕に入れ墨がある犯罪人など)にも利用されていた。そのルートについては後述するが、仮に丹波山ルート(もうひとつは小菅ルート)を使うにせよ、丹波山村の「のめこい湯」がある辺りから青梅街道は山道に入るため、一之瀬、高橋、藤尾、落合などは、まともな道が通じていない隔絶集落だった。

 そこで1873年(明治6)、山梨県令に就いた藤村紫郎はそれらの集落まで繋がる道を開発するための「道路開通告示」を発し、裂石(さけいし、大菩薩峠への登山口がある場所)から丹波山に通じる新たなルートの建設計画をスタートさせた。といっても、当時の技術ではすべて「手掘り」でツルハシや槌を使って山肌を開削していった。

 完成年次は資料によって異なり、78年説、79年説、80年説などがある。開通の祝典がおこなわれたとする関係者の記録(自伝や回顧録など)は残っているので完成年の同定は可能と思われるのだが、当時の役所は今の政府同様、文書保存という概念は有してなかったのかもしれない。この工事の完成によって青梅街道の最高地点は大菩薩峠から柳沢峠に変わった。なお、この峠道が自動車道となったのは、ずっと後の1960年(昭和35)のことであった。

 峠は地域の分かれ目になることが多い。大菩薩峠は小菅と塩山(現在甲州市)、小仏峠武蔵国相模国笹子峠は大月と勝沼(現在甲州市)との境だが、柳沢峠は近代に入ってから開発されたものなので、峠のこっちも向こうも甲州市である。

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峠にあった水道局の石標

 柳沢峠は人為的に造られたものであるにせよ、それに至る道は川の谷筋を利用してルート開発がおこなわれている。峠の北側には柳沢川、南側には重川(おもがわ)があるが、柳沢川は多摩川水系、重川は富士川水系なので、柳沢峠が重要な分水界であることは事実だ。それゆえ、柳沢峠の柳沢川側には写真の石標が建っており、そこら一帯が東京の水源林であることを誇示している。

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駐車場にとまっていた水道局の車

 峠の傍らには駐車スペースがあり、トイレに急ぐ人、峠の茶屋を利用する人、近くの山林を散策する人などの車がとまっていたが、その中に写真の水源管理事務所の車もあった。周辺の山林をパトロールするためか、トイレに駆け込んでいるのかは不明だが。

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峠から望遠レンズで富士山を望む

 本項の冒頭の写真は、柳沢峠の傍らに設えられた小さな展望デッキからの眺めだが、木々や周囲の山々が邪魔になって、それほど視界が効く場所ではない。それでも、富士山が見える場所に設置されているので、立ち寄ってみる価値はある。

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大菩薩ラインはヘアピンやループを使って谷筋を下る

 峠を越えて甲府盆地に向かう旧道の下り坂は、重川(おもがわ)が形成した谷底を這うように造られた道なので、坂は急でかつヘアピンカーブが多数あった。交通量はそれほど多くないにしても観光客がよく使う道なので危険性は高かった。それもあってか、近年は新道の整備が進んでおり、道は幾度も大きなカーブを造りながらも、できるだけ傾斜がゆるやかになるような設計になっている。快適な道である。

 写真から分かる通り、道は谷底近くではなく山の中腹に設えられ、あるときは大きなヘアピン、あるときはループを形成しながら標高を下げて(上げて)いく。このため、谷底を這っていた道では視界が開けてはいなかったが、今では遠望することも可能になった。景観に気を取られていると危険ではあるが。

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下り道の途中に車をとめて富士山を眺める

 新道になって路肩のスペースにも余裕が出来たので、適当な場所に車をとめて上の写真を撮ってみた。これからのR411は、富士山を望みながら甲府市街へと進んでいくことになる。

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閉館になって久しい介山記念館

 裂石温泉の看板が見える場所の先に駐車スペースがある。その対面にもスペースがあり、地図で確認すると、「裂石観音」の表示があった。その一角に建てられているのがあ、写真の「大菩薩峠・介山記念館」である。建物は新しめで、傍らには「机龍之介」の像もあった。だが、記念館は閉鎖されているようで人の気配はまったくなかった。龍之介だけでなく、記念館も「音なしの構え」だった。

 裂石温泉には「雲峰荘」という宿があるが、この記念館はその宿の主人が自費で建造したらしい。調べたところによるとかなり貴重な資料が集められていはずなのだが、県の観光課との対立が生じたためか地図にはまったくその存在は記載されていない。グーグルマップでも、「裂石観音」の表記はあるが「介山記念館」の名はない。そのためもあってか訪れる人は少なく、結果、閉館されてしまったようだ。『大菩薩峠』ファンの私としては、誠に残念な思いがする。 

大菩薩峠に触れるために上日川峠を目指す

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大菩薩峠入口交差点

 介山記念館の見学が叶わなかった私は、気を取り直してR411に戻った。大菩薩ラインが形成した最後から3番目(柳沢峠から数えて)のヘアピンカーブを曲がった先に見えたのが、写真の「大菩薩峠入口交差点」である。

 今回はR411を辿る徘徊だが、介山記念館を見学できなかった代わりとして丁字路を左折して大菩薩峠を「目指す」ことにした。県道201号線(塩山停車場大菩薩嶺線、r201)を進んでも大菩薩峠に至ることはできないが、峠に近づくことは可能だ。このr201は冬期に閉鎖されてしまう(昨年は12月10日から)し、かつては進入時間規制もおこなわれていたので、通る機会があまりない道なのだ。私がこの道に入るのは5年振りである。

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大菩薩峠登山口バス停

 交差点を曲がったすぐのところに写真の「大菩薩峠登山口」バス停(標高893m)がある。大菩薩嶺登山ではなく大菩薩峠登山であることが興味深い。裂石から柳沢峠を越えて丹波山に至る道ができる前は、私がこれから進むr201のある道筋が大菩薩峠(1897m)に至る(すなわち旧青梅街道)ルートだった。それゆえ、このバス停が存在する場所は、「これから大菩薩峠を目指して頑張って登っていくぞ」と気合を入れるところなのだ。なにしろ、比高(高低差)は約1000mもあるのだから。 

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県道201号線を上って上日川峠を目指す

 登山道(旧青梅街道筋)は途中から尾根筋を進むことになるので、r201からはまもなく離れる。一方、道路は一気に上り詰めることは不可能なので、曲路を形成しながら徐々に高度を稼いでいく。地図を確認すると、r201には裂石から終点の上日川峠(かみひかわとうげ、標高1584m)まで24か所ものヘアピンカーブが存在する。写真は終点に近い場所を撮影したものだが、これは上り下りする車の邪魔にならないような場所を選んだからであって、道の半分以上は車がすれ違えないほどの幅しかなかった。実際、下ってくる車とすれ違うために5回ほど道幅が広い場所までバックすることを余儀なくされた。そのすべては、対向車が幅広の場所で退避せず、しかも無灯火で突進してきたことによる。近年、アホウな運転手が激増している。困ったことである。

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上日川峠にある道路標識

 写真は上日川峠に建てられている道路標識。標識から分かる通り、峠方向に車が入ることのできる山道はある(標高1705mまで)が、それは登山道のところどころに山小屋があり、登山者の救助などに使用する車ための専用道なので、一般車両は進入できない。峠の周辺にはかなりの数の車がとめられる無料駐車場があるのだがほとんど満車状態で、路肩にとめている車も数十台はあった。

 峠の先は県道218号線(大菩薩初鹿野線、r218)になっていて、こちらはr201に比べるとはるかに道幅は広く路面もよく手入れがされている。何しろ、観光バスや路線バスも上り下りするぐらいなので。日川(ひかわ)沿いを走るr218は国道20号線(R20、甲州街道)に合流しており、新笹子トンネルのすぐ近くに出ることができる。路線バスは中央線の甲斐大和駅からやってくる。

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大菩薩の宿・ロッヂ長兵衛

 上日川峠には写真の「ロッヂ長兵衛」がある。宿泊だけでなく休憩所としても利用できるらしい。設備もよく整っており「山小屋」というよりペンションという感じとのこと。私が仮に大菩薩登山をおこなうにしても日帰りで十分なのでここを利用することはないだろう。が、好ましい評判を見聞きするにつれ、「そのうちに利用したい」とは思わないが、「以前に利用すれば良かった」という少しの後悔はなくもない。

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登山道の入口にある登山時間指標板

 ロッヂの横に登山道があり、その入口に写真の案内板がある。それによれば、大菩薩峠までは1時間15分である。比高は300mほどなので、高尾山よりも楽かもしれないと思ってしまった。大菩薩の頂上まではさらに65分もあるので、そこまでは考える必要はまったくないが、峠までなら「ありかも」。もっとも、「コロナ禍が収まれば来年の5月頃にチャレンジしたい」と考えているうちは、まず実現しそうもない。来年の事を言えば、鬼だけでなく菩薩も笑うだろう。

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上日川峠から大菩薩ラインを望む

 峠の駐車場からは「大菩薩ライン」が見えた。R411は、あのような曲路を形成しながら上り下りしているのだ。あの道を下って裂石に出て、そこからr201を上ってこの峠まできたのだった。

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上日川峠から南アルプスを望む

 峠からは南アルプスの連なりも視認できた。雲の上に雪を纏った岩肌を見せているのは農鳥岳(標高3026m)、間ノ岳(3190m)、北岳(3193m)の白峰(白根)三山だ。この山並みも富士山同様、R411を甲府市街に進んでいくときによく視界に入る。大学時代にこの山々に登ることを友人に誘われたが、私には高尾山が精一杯だったので丁重に断りを入れた。山は望むためにあり、臨むためにあるのではない。

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大菩薩湖と富士山

 上日川峠ではUターンせず、もう少しだけ県道を進んでみた。先述したように、峠の先はr218になり、道は格段に走りやすくなる。先に進んだ理由は簡単で、峠からは大菩薩嶺大菩薩峠も見ることはできないからだ。

 上日川峠の南側は下り斜面になるものの、r218は大菩薩嶺の8合目付近をしばらく東方向へ進むので、少しだけ上り道となり1625m地点まで進んで、それ以降に南に向きを変えて下っていく。下りはじめた先に見えてくるのが写真の大菩薩湖で、まずは湖の北岸に出てみた。ここからは富士山がよく見えるからだ。 

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大菩薩峠を望む

 大菩薩湖の北岸に至る道には大菩薩峠を間近に見ることができる場所がある。大菩薩嶺の南面にはミヤコザサに覆われる草原が広がり、カラマツやハリモリはまばらに育っているのみである。山の斜面が草原化するのは、過剰な焼き畑、地質、強風などが原因であることが多いようだが、大菩薩峠一帯が草原化した理由は不明だそうだ。

 草原化されたことで、登山客や峠を行き交う人には富士山をはじめとして周囲の山々の姿に触れることができるという楽しみがある。ただし、風を遮るものがほとんどないので大風のときは苦労するそうだが。

 「大菩薩峠は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州裏街道が甲斐国東山梨郡萩原村に入って、その最も険しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺の頂に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実らすと申し伝えられてあります。」

 これは中里介山羽村出身)が著した大河小説『大菩薩峠』の書き出しだ。このあとにも甲州裏街道の解説が少し続くが、第二節に机龍之介(竜之介)が登場し、峠で休んでいた老人を辻斬りする場面となる。

 『大菩薩峠』は原稿用紙15000枚にも及ぶ世界最大の「通俗大衆小説」と言われるが、介山自身は「大衆小説」と呼ばれることを嫌い、自らは「大乗小説」と語っていた。確かに、登場する人物はひとり(お松)をのぞいて、善悪では測り切れない価値意識を有し多面的な行動をおこなう。この小説を題材にして語り始めると本ブログでは10回程度の量が必要になるのでここではこれ以上、触れることはしない。

 大菩薩峠の名を『大菩薩峠』(小説ではなく紙芝居か映画)から知った人は多い(私もそのひとり)が、実は、小説では冒頭の部分以外に「大菩薩峠」はほとんど出てこない。しかし、「大菩薩」の名前が象徴する出来事は全編に渡って登場する。何しろ、「大乗小説」なのだから。そう考えると、題名は『大菩薩峠』以外にはなく、これが『柳沢峠』であったなら、まったく意味不明のものになるし、おそらく人気も出なかっただろう。

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石丸峠を望む

 大菩薩峠のすぐ南南東には写真の石丸峠(標高1910m)がある。写真の右手あたりに石丸峠があり、その左の小高いピーク(1990m)の左手に大菩薩峠がある。

 先述したように、かつての青梅街道は大菩薩峠を越える道筋をとっていた。江戸・東京からは現在の奥多摩湖西辺まで進み、前回に挙げた深山橋のところで道は二手に分かれる(もちろん、当時は奥多摩湖も深山橋も存在しない)。ひとつは丹波山ルートで、もうひとつは小菅ルート。丹波山ルートは直接、大菩薩峠に向かい、小菅ルートは小菅川沿いを遡上し、途中から尾根を伝って石丸峠に出てから大菩薩峠に向かう。大菩薩峠からはまた一本道になって上日川峠、裂石と下る。

 現在でも、かつての丹波山ルートや小菅ルートの大半は大菩薩峠登山道として利用されている。最初期の青梅街道は小菅ルートが主だったそうだが、途中からは丹波山ルートがメインになったと言われている。どちらにしても、厳しい道程であることは変わりない。

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上日川ダムから大菩薩嶺を望む

 折角なので上日川ダム(1999年完成)にも立ち寄った。写真はダムの堤の上から大菩薩嶺の姿を望んだもの。

 大菩薩湖は人造湖で、大菩薩連嶺の小金沢山(2014m)をはさんだ東側にある葛野川(かずのがわ)発電所の「松姫湖」と対になる湖である。葛野川発電所は揚水式発電をおこない、その上池が大菩薩湖で下池は松姫湖となる。夜間電力を用いて松姫湖の水を上にある大菩薩湖に送り、昼間は大菩薩湖から松姫湖に水を落とし、その水流で発電をおこなう。発電量は120万キロワット(最大出力は160万キロワット)もあり、大型原発一基分に相当する。

 上日川ダムの標高は1486m、葛野川ダムは740m。上池と下池との有効落差は714mもある。それだけに膨大な出力が稼げるので、120万キロワットもの発電が可能になっている。なお、日川は富士川水系葛野川相模川水系と、上池と下池の水系はまったく異なっている。この点も揚水式発電所としては珍しいらしい。

 上日川ダムには大菩薩を間近に目にするために出掛けることがよくある。葛野川ダムには出掛けないが、下流葛野川は私のアユ釣りのホームグラウンドである。

R411に戻って甲府市街を目指す 

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甲府盆地に向かってひたすら下るR411

 R411に戻り、再び甲府盆地へ落ち込むことにした。R411としては最後となる2つのヘアピンカーブがあり、そのカーブに入る手前に車をとめて、そこから望むことが可能な範囲の甲府盆地の姿を撮影してみた。

 街並みは甲州市塩山(旧塩山市)であり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」(標高553m)も見て取ることができた。撮影地点の標高は833m、ゴール地点である甲府警察署前交差点は266m。まだまだR411は下り続けるのだ。

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R411から大菩薩嶺を望む

 R411最後のヘアピンカーブの場所に、写真の甲州市交流保養センター「大菩薩の湯」があり、そのほぼ真上に大菩薩嶺がそびえている。R411はこの大菩薩嶺を背負いながら甲府市街に進むのでその姿を目にすることはできないが、私はときおり車をとめて振り返り、菩薩様を拝見する。大菩薩を何度も眺めると、その山容は菩薩に見えてくる。というより、菩薩が存在しているとしか思えなくなる。もっとも、菩薩の姿などありはしないはずなのだが。

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甲府盆地の端を眺めながら大菩薩ラインを下る

 ずいぶんと下ってきた。塩ノ山の姿もよく分かる。その山の向こうには、雁坂峠(実際には雁坂トンネル)を下ってきた国道140号線(秩父往還)が走っている。R140も魅力的な3ケタ国道である。

 下るごとに甲府盆地の広がりを、よりはっきりと確認できるようになる。少しずつ盆地の全容に迫っていく。この点も、R411を走る喜びのひとつなのである。

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小田原橋から大菩薩嶺を眺める

 重川の右岸側を走ってきたR411は、写真の小田原橋で左岸側に移る。三叉路脇(標高626m)に車をとめ、再び大菩薩嶺を眺めた。

 手前にある黄色の警告表示板が目に入り、その文言の間違いに気が付いた。いや、それは2005年以前からあるもので、いまだ訂正がおこなわれていないだけかもしれない。それにしては新しいものに見える。

 そのことが気になり始めると、もはや私には、大菩薩嶺は非存在的存在になってしまった。

 些細なことが大いに気に掛かる。まだ、修行が足りないようだ。合掌。

〔49〕3ケタ国道巡遊・R411(3)~奥多摩町、そして山梨へ

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”道の駅たばやま”に入るための丁字路

古里(こり)から奥多摩湖に向かう

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万世橋多摩川を渡り、吉野街道は青梅街道に吸収される

 古里駅前交差点で、国道411号線(R411)は吉野街道を吸収し、しばし一本道となって奥多摩湖を目指して西へ進む。この「古里(こり)」は行政区域名としては存在せず、JR青梅線古里駅や古里郵便局、町立古里小学校などにその名が残っているだけであり、それらの住所表記は「奥多摩町丹波」となっている。

 古里駅がある小丹波、前回に触れた川井駅のある川井などの大字は旧古里村に属していた。その古里村は、1953年に成立した町村合併促進法によって、55年に氷川町、小河内村と合併して奥多摩町となって発足したことで消え去った。もっとも、「古里」の名そのものは江戸時代の地図には現れず、旧古里村に属していた地域は「小丹波村」「丹三郎村」「梅沢村」「川井村」「白丸村」などと記載されている。古里の名が出てくるのは、1888年に市制町村制が定められた後のことであり、当該地域は1889年、7つの村が統合されて古里村となった。そこで初めて「古里」の名が出てくるようだ。

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万世橋上から多摩川の流れに目を向ける

 古里駅前交差点で終点となる吉野街道を少しだけ歩いてみた。ほどなく、多摩川に架かる万世橋に出た。橋上から多摩川の流れをのぞき込んでみた。橋の標高は281m、多摩川の流れは237mなので、橋上から川面まで47mある。後述するが、この高低差を利用して古里の地にダムを建設しようという案があった。ダムは結局、小河内村に造られたために古里村は湖底に沈まずに済んだ。もしその案が実行されていたら、万世橋はなくなっていた。そして古里は、ダムの名として、貯水池の名として現在に伝わり、その名の認知度は現在よりもはるかに高いものなっただろう。それが、仕合せの良いことであったか悪いことであったかは別にして。

 ところで、古里村の名は栃木県にもあった。こちらも1955年に消滅し、現在は宇都宮市編入されている。1889年、村の成立までは6つの地区に分かれていたようで、統合するにあたって新しい村名を採用することが決まり、古里村にしたようだ。場所は違えど、村の成立時期も消滅時期も、奥多摩の古里村とまったく同じである。ただし、栃木の古里は「ふるさと」と読むのに対し、奥多摩の古里は「こり」と読む。古くからある里が集まって新しい村となるのだが、すでにあった里の名のどれかひとつを採用すると、他の里からの反発が予想されるので、合併に際し新しい名称を考案したものと想像される。

 これは私の勝手な想像だが、奥多摩の「古里」は「ふるさと」ではなく、あえて「こり」と読むようにしたのは、古く、奥多摩の地は「氷川郷」と呼ばれており、その氷川の「氷」の訓読みである「こおり」から読み取ったのだと推察している。まったく見当外れかもしれないけれど。

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青梅街道は多摩川南岸道路というバイパスを育てている

 一本化された街道だが、道は曲がりくねっていて幅も狭いので、奥多摩湖へ進む道として行楽シーズンにはかなり渋滞する。点在する集落にとっては唯一の生活道路なので、住民には不便この上ない。前に触れたように、古里駅前以東であれば吉野街道が並行して存在しているので行き交う車は分散され、渋滞の頻度は低い。

 そこで計画されたのが「多摩川南岸道路」で、1998年に一部区間が開通し、現在は全長7キロのうち5.9キロまで完成している。写真にあるように、その南岸道路は都道45号線(r45)に指定されている。このr45は古里駅前まで通じていた吉野街道と同じナンバーである。南岸道路はまったく新規の道路ではあるが、その位置付けは、吉野街道の延長路線とされている。残りの1.9キロは未着工だが、計画では吉野街道とすでに完成している南岸道路とをつなぐものになっている。

 全区間完成後、奥多摩湖方面へ急ぐ人は、多摩川南岸を進む吉野街道を西進して後に触れる「愛宕大橋交差点」まで進み、そこでR411に合流することになるだろう。そのルートを使う人にとって、もはや古里駅前交差点も万世橋も遠い存在となり、古里が「こり」と読むことは忘れ去られるだろう。ふるさとを喪失した都会人のごとく。

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南岸道路を進む人はこの交差点を左折する

 古里駅前交差点から2キロほど進むと写真の将門交差点に出る。現在のところ、この交差点が「多摩川南岸道路」の起点で、鳩ノ巣、白丸、氷川(奥多摩駅がある)の各集落を経ずに西へ進むことができる。実際、私もこの道路が完成してからはこの交差点を直進することはまずなくなってしまった。

 交差点の名前は「将門」である。この交差点のすぐ北の高台に「将門神社」があることでそのように名付けられたのだろう。青梅や奥多摩には将門伝説が数多く残っているということは前回に少し触れている。

 今回はR411を辿ることが主眼なので、将門交差点を左折せずに直進した。鳩ノ巣や白丸の名に触れるのは久し振りだった。古里駅の西隣は「鳩ノ巣駅」だ。「鳩ノ巣渓谷」は多摩川上流部にある渓谷ではもっともよく知られている名称だと記憶している。私はその地を散策したことは一度もないが、多摩川上流の散策路として古くから人気場所であり、友人・知人から何度も鳩ノ巣散策に誘われたことがあった。面倒なので全部、断ったが。ただ、”鳩ノ巣”の名前だけはいつも気にはなっていた。少年期、私はレース鳩をかなりの数、飼育していたし、今でも鳩はお気に入りの動物のひとつだからだ。ゆえに、私に鳩の話をさせると留まるところがなくなる。

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知名度はかなり高い鳩ノ巣渓谷

 鳩ノ巣の名の起源は1657年の「明暦の大火」(振袖火事)が関係しているとされる。大火後の復興のために江戸市内では多くの材木を必要とした。そのため、奥多摩にある木々を多数伐採し、多摩川の流れを使って木材を江戸へ送った。伐採のための飯場小屋が作られ、その近くには安全祈願のために水神社が設けられた。その神社に番(つがい)の鳩が巣をつくった。仲の良い番を目にした人夫たちは、その鳩を霊鳥として崇めるようになった。以来、その地は「鳩ノ巣」と呼ばれるようになった。

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発電用に建設された白丸ダム

 鳩ノ巣駅の西隣が白丸駅。写真のダムは両駅の中間ほどのところにある。後述する小河内ダムは飲料水確保が第一目的だが、白丸ダムは発電用として東京都交通局の主導によって1963年に竣工した。蓄えられた水は導水管で下流にある多摩川第三発電所まで送水されている。発電所は、御岳橋の300mほど上流にある。発電されたものはトランプからバイデン、いや交通局から東京電力に売電され、奥多摩町などに供給されている。

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魚たちが上下流へ移動可能にするための長い道

 白丸ダム見学で忘れてはならない存在は、2002年に完成した「魚道」である。堤高が30mもあるダムの壁では、さしものアユ、ヤマメ、サクラマスなどの魚たちはとてもよじ登ることができないと考え、写真のような階段状の魚道を造って魚たちが上流に遡上(下へ流されることも)できるようにした。その長さは332m、高低差は27mある。

 魚道はまず下流方向に伸びていて、少しずつ高さを増していく。途中から上流方向にほぼ360度、折れ曲がってさらに高度を稼ぐ。ダム施設の内側はトンネルになっており、その中に魚道が通じていて、最終的に白丸調整池へ至る。このトンネル部分は一般公開されているが、いつでも見られるわけではない。4月から11月までの土日と祝日(夏休み期間は毎日)の10~15時に限られている。私が訪れたのは平日なので、残念ながら見学することはできなかった。折角、珍しくその気でいたのに。

 ダム施設はともかく、一般河川にある堰堤の大半には魚道が造られているので、その仕組み自体はさして珍しいものではない。問題は、魚にその魚道を利用する知恵と体力があるかどうかだ。さしあたり、魚というものは流れに抗して泳ぎたがるものなので、多くは魚道へ向かうことは事実だろうが、それを上り切るかどうかには魚種の差や個体差がある。私が魚だったら、遡上はすぐに諦める。上に行って苦労するより、下で威張っていたほうが楽だ。

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白丸ダム湖が満水のときは流れを失う数馬渓谷

 白丸ダムによって流れを遮られた多摩川の流れは、上流部に「白丸調整池白丸湖)」を形成している。その池の上流部に位置するのが「数馬渓谷(数馬峡)」で、上の写真は「数馬峡橋」から上流部を望んだもの。その渓谷に流れが生じるかどうかはダム湖が蓄える水量で決まる。先に挙げた白丸ダムの写真から分かるように、当日は水面がかなり高い位置にあったので、渓流は池の一部と化していた。水の色は「エメラルドグリーン」と言えば聞こえは良いが、やや白濁化しているために透明度は低い。

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苦難の末に開通した数馬隧道

 白丸ダムから奥多摩駅付近までの多摩川は南に大きく曲流している。これは、北にそびえる本仁田山(ほにたやま・標高1224m)の南側の尾根が大きく張り出しているためで、とりわけ尾根の南東側は急な崖を形成し、崖上の標高は340m、多摩川の川面は288mで、まさに断崖絶壁になっている。そのため、「青梅街道」は川沿いに道を造れず、かといって尾根もまた急な斜面なので、人や馬が通る山道も満足に造ることはできなかった。

 その尾根は「ゴンザス尾根」と呼ばれている。その名は山歩きフリークにはよく知られているらしいが、「ゴンザス」の意味は不明のようだ。ザスは連濁なので単独では「サス」になるが、それはこの地方では「焼き畑」を意味するらしい。ただし、ゴンは不明のままである。

 そこで、私は以下のように想像した。第一は、ゴン=「権」であり、権は「仮の」とか「仮初め」を意味するので、その斜面は他に利用方法はないので、当座は焼き畑に用いていたというもの。第二は、焼き畑は「権兵衛」がカラスに頭を突かれながら耕していたからというもの。第三は、スペイン系もしくはポルトガル系の農民が耕していたというもの。第四は、たまたま誰かがそう呼び、それが一般化されたというもの。いずれも、なさそうでなさそうだ。

 そのゴンザス尾根越えの道は難所で、白丸集落から氷川集落までは直線距離にすれば5.5キロほどだが、それをなんと3時間ほどかけて上り下りしなければならなかったそうだ。この尾根に17世紀末、切通しの道を造ったのは、神官を務めていた「河辺数馬」を中心とした地元の有志だった。硬い硅岩を人々の力によって切り開いた。それにより、青梅街道の利便性は飛躍的に高まったのだった。

 ところで、この地の大字名は白丸だが、切通し、隧道、橋、渓谷にのみ「数馬」の名が付けられている。数馬といえば檜原村の「数馬」がよく知られ、そこには字名として「上数馬」「下数馬」がある。奥多摩周遊道路に通じる檜原街道は南秋川沿いを走り、「数馬の湯」「兜屋旅館」などの施設もある。その数馬と白丸の数馬とはかなり離れた位置にあり、しかもその間には浅間尾根や大岳山があるので、私は両者の関係性について疑問を抱いた。実際のところは両者には関係性はなく、双方が「数馬」なのは「たまたま」であって、白丸は「河辺数馬」、檜原は「中村数馬」に由来するようだ。人生は「たまたま」であるが、世界もまた「たまたま」なのだ。

 上の写真にある数馬隧道は、1916年(大正5)に開通した。現在は遊歩道として利用されているが、1978年(昭和48)に白丸トンネルが開通するまで、R411(青梅街道)はこの写真のトンネルを使用していた。このトンネルを使って奥多摩湖へ行き来したという記憶は私の中にもあるのでゴンザス。 

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山小屋風の造りが特徴的な奥多摩駅

 ゴンザス尾根は氷川寄りに七曲りという難所も形成していたが、今では「新氷川トンネル」によってその苦難の道をパスしている。

 新氷川トンネルを抜けたすぐ先に奥多摩駅前交差点があり、それを右折すると写真の奥多摩駅が見えてくる。山小屋風の造りが特徴的で、ここが青梅線の終着駅となる。公共交通機関を使って奥多摩湖などを巡る人々の玄関口ともなる駅だけに、広場もよく整備されている。駅の向かいには奥多摩町役場もあるので、行き交う車の数も田舎駅前としては少なくはなかった。

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氷川郷の名前の由来となった奥氷川神社

 写真の奥氷川神社は、奥多摩駅入口交差点のすぐ南側にある。日本武尊が東国平定の折りに素戔嗚尊を祀って創建された、牟邪志国最初の国造であった出雲臣伊佐知直が、この地にある愛宕山を出雲の日御碕神社の神岳に見立てここに氷川神を勧請した、などの言い伝えがある。一方、『新編武蔵風土記稿』には「村名もこの神社より起こりしと云へば、旧き社なるべけれど、鎮座の年歴を傳へず、……神主河邊數馬」とあり、氷川郷の名前は神社名に由来するものの創建年は不明であるとされている。さらに、『奥氷川神社明細帳』には「武蔵國、氷川ノ社大小数十社アリト雖トモ就中足立郡大宮鎮座一ノ宮氷川神社ニ対シ入間郡三ヶ島村長宮ヲ中氷川神社ト称シ当社ヲ奥氷川神社ト称ス、一ツニ上氷川トモ称ス」とある。大宮ー長宮ー奥宮(氷川ー中氷川-奥氷川)と一直線に並んでいるので、この三社を「武蔵三氷川社」ということもあるようだ。

 なお、神社境内の西側には日原川が、南側には多摩川が流れ、南西側で両河川は合流している。駅入口交差点の標高は334m、神社境内は327m、両河川合流点は304mと神社はかなりきわどい場所に建っている。

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日原鍾乳洞へ行くためにはこの交差点を右折する

 奥多摩駅前交差点を直進すると、すぐに写真の「日原街道入口交差点」に出る。この交差点を右折して日原街道を進むと「日原鍾乳洞」に至る。交差点の標高は336m、鍾乳洞入口は633m地点にある。途中に石灰石の採掘場があり、狭い道を大型車が行き交っているので、運転にはかなりの注意力が必要とされる。

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日原川は雲取山周辺に源流がある

 私の場合、日原鍾乳洞には入ったことはないが、日原川から望む山々の景色は好みのひとつなので、鍾乳洞の臨時駐車場までは出掛けることがある。日原鍾乳洞巡りは鳩ノ巣渓谷散策と対になって、かなり以前から日帰り旅行の目的地とされていた。先に触れたように、私は鳩ノ巣渓谷に誘われても日原鍾乳洞に誘われてもすべて理由を付けて拒絶した。理由は簡単で、集団で観光するのが苦手だからだ。疲れることもだけど。

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多摩川南岸道路愛宕大橋交差点でR411に吸収される

 日原街道には向かわず、R411をそのまま「直進」した。1キロほど進むと、写真の「愛宕大橋交差点」に出る。ここでR411は「多摩川南岸道路」と合体し、一本道となって奥多摩湖へと進んでいく。ここから先は脇道がないので、紅葉シーズン、つまり、今どきの休日は大混雑必至である。愛宕大橋交差点の標高は343m、奥多摩湖ダムサイトパーキングは531m。R411は曲路とトンネルが多いダラダラとした上り坂(帰りは下り坂)を形成しており、道幅も決して広くないので、マイペースの車がいると渋滞に拍車を掛ける。

小河内ダム奥多摩湖を訪ねて

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ダム建設のためセメントや川砂を運ぶ専用鉄道の跡

 小河内ダム建設のためには多量の建設資材を運ぶ必要があった。大半はセメントと川砂で、その川砂の多くは下流の小作付近から採集されたものだった。運搬用として、氷川駅(現在の奥多摩駅)から建設現場のある水根駅まで6.7キロを結ぶ専用鉄道(東京都専用線小河内線)が建設された。計画が決まったのは1949年、起工は50年、開通は52年、役目を終えたのが57年だった。写真は、ダムにほど近い場所に造られた「第一水根橋梁」で、その先には水根トンネル、R411の上に架かる「第二水根橋梁」の姿も残っている。役割を終えた専用鉄道線は、観光目的のためにと西武鉄道が買収したが、結局は利用されることはなかった。

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1957年11月に竣工した小河内ダム

 飲料水確保のための大規模計画が持ち上がったのは、1916年(大正15)3月の東京市会だった。「将来大東京実現ノ場合ヲ予想シ、本市上水道事業上百年ノ長計ヲ樹テラレタシ」という要望が上がり、水道拡張計画への調査が始まった。当初は利根川に水源を求めたが水利権に支障があって断念。次に相模川を水源とする案が考えられたが、神奈川県との調整が不調に終わり、最後に多摩川を水源とする拡張計画を頼みとした。が、多摩川ではすでに羽村堰から村山貯水池への導水計画が進んでいたため、さらに大量の水源を確保するためには上流域に大規模ダムを建設するしか方法はなかった。

 築堤場所を選定するための調査会は27年(昭和2)に設置された。必要な水量が確保でき、かつ堰堤高(想定は150m前後)はできるだけ低く、堰堤容積が最小になる場所が候補地に選ばれることになっていた。地理的、地質的、経済的な面からの調査が進められ、候補地は以下の9地点に絞られた。(1)丹波山(山梨県丹波山村)(2)川野(小河内村)(3)麦山(小河内村)(4)河内(小河内村)(5)水根(氷川村、建設場所は小河内村)(6)中山(氷川村)(7)梅久保(氷川村)(8)海沢(古里村)(9)古里(古里村)。この中からさらに詳細な調査がおこなわれ、河内と水根の2か所が候補に残り、最終的には水根地区に決定された。31年(昭和6)、小河内村に築堤場所が決定されると、総予算を含めた計画案が策定され、翌年の7月に原案は決議されたのだった。

 この間、9か所の候補地からは賛成派、反対派の双方から陳情書が提出されている。例えば、古里村の賛成派からの陳情書には、「多摩川の最適地とせられ、府下西多摩郡古里村を中心とする山谿を御利用御設置の様拝聞致し候……」とある。その後に小河内村が有力であると漏れ聞いたので、「小河内村は氷川村を経て古里村を距る六里の山奥に有之候。斯かる地に膨大なる貯水池を実現し、一朝、天変地異に遭遇し、万一築堤の崩壊を見んか其の莫大なる落差を有する下流谿谷の氷川古里の両村如きは、驚天動地山岳を崩す濁流の為め、一瞬にして其の影を留めず……」と上流での事故を懸念する一方、古里の地は「東京市近接の地として自然の風光明媚なれば、御嶽山を含む大公園設置の前提とし……最前最適第一の地域と存候」など、古里貯水池が生み出す利点まで述べているのである。

 しかし、古里案はとくに経済的負担という点から不採用に至った。私は古里も候補地になっていたということは知っていたが、具体的な場所までは知らなかった。今回、当時の資料を調べてみると、古里といっても本項の冒頭に挙げた「古里駅前」付近ではなく、現在の御嶽駅から1キロほど上流の丹縄地区であることが分かった。その地点では堰堤の下部を211m、堰堤の最上部を330mとする計画だった。貯水池は堰堤いっぱいに水を溜めることはできないので、今の小河内ダムでも余水吐水口を5から10mほど下に設定している。これを参考にすると池面の高さは最高325mとなる。当然、周囲を走る青梅街道は330m程度に移動する必要がある。

 安全度を考え、330m付近まで水没すると考えれば、川井駅(265m)、古里駅(292m)、鳩ノ巣駅(319m)は水没し、白丸駅(340m)は助かるものの、数馬峡橋(たもとで315m)、数馬隧道(315m)という歴史遺産も水没し、数馬の切通し(340m)はギリギリ水没を免れるといった状態になる。さらに、奥氷川神社の境内も325から327m程度なので、満水時は日原川がバックウォーター現象を起こす可能性が高いので水没は必至となる。このように、古里案では水没する集落があまりにも多い上、歴史的建造物の水没・損失も発生する。一方、堤高は120m程度で済むので築堤工事は比較的容易であったとしても、結局、採用されることはなかった。

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1966年に建立された「湖底の故郷」歌謡碑

 1931年(昭和6)、小河内村にダム建設がされることが決定され、32年に計画案が成立したものの、多摩川の水利権を巡る東京府と神奈川県との交渉がなかなかまとまらず、合意に至ったのは36年(昭和11)2月のことだった。一時は、ダム建設の撤回案まで検討されていたのだ。

 この間、小河内村の人々は翻弄され続けた。当初は、「住み馴れた土地故、成くべく他にて間に合わせられたく、併し本村が貯水池計画に最適とならば致し方なく出来得る限り善意に努むべし」と、計画をやむを得ずに受け入れ、移転に向けた準備をしていた。が、計画はいっこうに進まず、かといって農作業する意欲は少しずつ減じていった。35年には「現状の儘にて尚一・二年を経過せんか、死屍を戦場に運ぶに等しく、小河内村三千村民の総てが、精神的にも経済的にも衰亡の極に陥り……」と記した懇願書を村長が提出し、同年の12月には決起した村民と防御する警察官との間で負傷者を出すほどの衝突まで起こった。

 37年、どうにかこうにかダム建設の基礎工事は始まったものの、建設に伴う移転補償に関する覚書が東京市長と小河内村村長との間で調印されたのは38年6月のことだった。38年11月、小河内貯水池綜合起工式・地鎮祭が挙行され本格的工事がスタートしたものの、日中戦争が拡大し、さらに第二次大戦がはじまって資力も人力も戦争へと駆り出されたため、工事はほとんど進捗せず結局、43年(昭和18)に工事は中断された。

 工事再開が議決されたのは48年(昭和23)4月だった。が、「49年以降の事業実施上、必要とする農地は都において買収ができるが、五カ年間、売り渡さず政府において保留する」という決定がなされ、補償問題はさらに先延ばしされ、最終的合意がなされたのは51年(昭和26)8月17日のことだった。

 1935年、小河内の鶴の湯温泉を訪ねた北原白秋は以下のような文を残している。「……。この鶴の湯、原は懸崖にあり、極めて寒村にして、未だにランプを点し、殆んど食料の採るべきものなし。ただ魚に山女魚あり、清楚愛すべし。此の小河内の地たる、最近伝ふるに、今や全村をあげて水底四百尺下に入没せむとし、廃郷分散の運命にあり。……」

 37年には『湖底の故郷』という歌謡曲が作られ、東海林太郎が歌った。一番の歌詞は「夕陽は赤し 身は悲し 涙は熱く 頬濡らす さらば湖底の わが村よ 幼なき夢の 揺籠よ」である。写真の歌謡碑は1966年(昭和41)、大多摩観光施設協会が建立した。チャートの赤石に、「湖底の故郷」、湖側には上に挙げた歌詞が刻まれている。当初は文字部分が白く塗られていてはっきりと読むことができたが、写真のように今では読み取ることは難しくなっている。チャートは風化に強い石だが、文字も村人の思いも、今や人々の心に刻まれることはほとんどない。

 水没地域に居住していた945世帯は、204世帯が同じ村内に残り、他の741世帯は昭島市147、青梅市97、奥多摩町95をはじめ、東京都、埼玉県、山梨県など各地に移り住んだ。

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奥多摩・水と緑のふれあい館は1998年に開館した

 写真は、小河内ダム竣工40周年記念事業の一環として建設された「奥多摩・水と緑のふれあい館」の外観。ここには以前、奥多摩郷土資料館があった。館内には奥多摩の歴史や民俗資料、奥多摩の自然や郷土芸能を紹介する3Dシアター、ダムの仕組みの解説、水資源の大切さのアピール、レストラン、売店などがある。

 ふれあい館の上側に写っているのは水根集落の一部。写真の場所は標高600m地点にあるので水没は免れている。私が気に入っている小説家に笹本稜平がいて、彼の作品のひとつに『駐在刑事』という推理小説がある。テレビ東京でテレビドラマ化されたこともある。その中に「青梅署水根駐在所」という名前が出てくる。笹本は山岳小説の第一人者でもあり奥多摩の地理は相当に詳しいはずなので、水根駐在所のある場所は明らかに水根集落をイメージして描いている部分がある。が、実際の水根は谷間にある風光明媚な小集落であるし、テレビドラマは奥多摩駅周辺でロケされたようだ。奥氷川神社も登場していたし。

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ダムの堰堤上から多摩川が刻んだV字谷を望む

 ダムの堰堤上を散策した。多摩川関東山地をV字に刻み、刻まれた石や砂は下流に運ばれ、やがて武蔵野台地を形成した。この谷底に多摩川は今も流れ、その際を通るR411はうねうねとここまで上ってきた(標高530m)のであり、そしてさらに柳沢峠(標高1472m)を目指して進んでいく。

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堰堤上から直下をのぞき込む

 通常、ダムというと発電(黒部ダムが有名)か治水(川辺川ダム(未完成)が有名)のためのものが多いが、小河内ダム東京市民のための飲料水確保という利水目的で造られた。副次的に発電事業もおこなっているので、一応、多目的ダムに分類されるが、あくまで主目的は飲料水の確保である。小河内貯水池(以後、通称の奥多摩湖と表記)が「東京の水がめ」と言われるのはその為である。

 建設当時、奥多摩湖は世界最大級の貯水池と言われた。その池を支えるのが小河内ダムの堰堤で、その高さは149mもある。建設当時の技術では堤高は100mが限界と考えられていたが、「東京百年の計」として巨大な貯水池を造らざるを得ず、先述したように堤高150mを想定して築堤場所を検討していた。

 写真は堰堤上からダム直下の多摩川を写したもので、高所恐怖症の私はあくまでV字谷を眺め、カメラのレンズだけを直下に向けた。そのため、向きは出鱈目のものが多く、何度も取り直しをした。まさに、デジカメ様様であった。足場は530m、カメラの位置は531m、多摩川の川面は386m、カメラと川面の比高は145m。恐ろしい。

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主堰堤の北側にある余水吐水口

  奥多摩湖の満水位は標高526.5mに設定されている。堰堤は530mなので3.5mの余裕がある。というより3.5mしか余裕がない。それゆえ、水源地で大雨が降った場合には奥多摩湖の水位が上がり、オーバーフロー(越水)するか最悪、堰堤が崩壊する危険性さえある。すでにダムの完成からは60年以上経ているので、コンクリートの劣化も考えられる。点検上は問題点はまったく見つかっていないとのことだが、大地震や上流での山崩れなどによって、堤壁に想定外の圧力が掛かることも想定しうる。

 写真の余水吐水口は、貯水量が予定水位を越えないようするために造られたもので、水位が上がり過ぎた場合、上がる可能性が予想される場合(事前放流)に、5門ある水色の扉を上げて余水吐放流をおこなう仕組みである。これを実施すると多摩川の水位が一気に上がり危険性が伴うので、報道機関等を通じて(事前)告知されることになっている。沿岸地区(下流羽村市小作まで)では警戒のためのサイレンが鳴ったり、自治体を通じて緊急放送がおこなわれたりする。

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大麦代パーキングからダムを望む

 ダムサイトから離れ、R411に戻って柳沢峠へと向かうことにした。ダムサイトの駐車場を出てもすぐにはR411には入れない。湖岸にある都道を500mほど西へ進むと、大麦代トンネルを出たばかりのR411に合流できる。その合流点の湖側にかなり広めの駐車場があり、そこにはトイレや売店もある。その大麦代パーキングから今一度、ダム周辺を眺めてみた。上の写真がパーキングから見たものだ。

 R411は奥多摩湖の北岸に沿って走っている。もちろん、ダム完成以前の旧青梅街道は湖底に沈んでいるので、現在の道は奥多摩湖が出来る前後に造られたはずだ。奥多摩湖の北側には倉戸山(標高1169m)がそびえ、その南尾根が幾筋も湖に落ち込んでいるため、R411がその尾根筋を通過する場所にはトンネルが掘られている。上で触れた大麦代トンネルもそのひとつである。尾根があれば谷筋もあるので、岸辺はかなり入り組んでいる。それゆえ、R411は曲路続きで、直線的な場所はトンネル内に限られる。

 一方、奥多摩湖の南岸もダム近くはサス沢山(940m)、その西隣の月夜見山(1147m)、さらにイヨ山(979m)の各尾根筋が奥多摩湖に落ち込んでいるため、極めて変化に富んだ湖岸線を形成している。そちらには沿岸道路はないものの遊歩道が整備されているので、私には無謀としか思われないが、頑張ってチャレンジする人もいるようだ。 

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峰谷の三叉路が見えてきた

 写真の峰谷三叉路は峰谷川に架かる橋の北詰にあり、湖岸を進む場合は左に折れ、峰谷川に沿って峰などの集落へ進む場合は右折する。その三叉路の又の部分には狭いけれど駐車スペースやトイレがあり、峰谷橋の歩道上からは釣りが可能なため、たいていの場合、数台の車が停まっている。

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峰谷川に架かる峰谷橋。釣り場としても有名だ。

  私は柳沢峠方向に進むので左折して橋を渡るが、かつて、私がまだ渓流釣り師であった頃は、この三叉路を右に曲がり、ヤマメを求めて釣り場を探したことが何度かあった。 

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私が渓流釣り師だった頃に何度か竿を出した峰谷川

 峰谷川は谷が深かったためか、奥多摩湖が形成されたとき以降の下流部は湖の一部と化してしまったが、橋詰から600mほど道を進むと、本来の姿であった渓谷が見えてくる。私は渓流釣り師のときも横着だったので、入渓が容易で、かつ路肩に駐車できる場所を探し、竿を出した。そんな場所はほとんど他の釣り人も竿を出しているので「場荒れ」が進んで魚影は薄い。だが渓流釣りの場合、釣果そのものよりも美しい景色の中で竿を出すことが第一義なのだと、いつも自分で自分に言い訳をしていた。

 写真の場所は標高550m地点だが、川沿いの道を進むと、590m地点に「下り」集落、790m以高に「峰」集落、900m以高に「奥」集落があり、道路は途切れるものの山道はあり、それを頑張って登れば、東京都にある山として人気のある「鷹ノ巣山」(1737m)に至る。鷹ノ巣山のすぐ北側の谷筋に日原鍾乳洞がある。

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深山橋丁字路。大半の車はここを左折して奥多摩周遊道路に向かう

 奥多摩湖がもはや川の河口ほどに南北の山間が狭まる場所に、写真の深山橋丁字路があり、R411を進んできた90%以上の車やバイクは、この交差点を左折して深山橋を渡り、国道139号線(R139)を進む。私は柳沢峠を目指すので、ここは直進する。 

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深山橋のすぐ先にある三頭山橋。この橋の先に奥多摩周遊道路がある

 深山橋は奥多摩湖の「しっぽ」に架かる橋で、R139は深山橋交差点がそのルートの終点であり、起点は静岡県富士市にある。ひとつ上の写真にあるように、R139を10キロほど進むと山梨県小菅村にある「小菅の湯」に至る。その施設は府中市民にも結構知られていて、奥多摩湖観光に出掛ける風呂好きな私の知人もよく通っていた。

 R139も魅力的な3ケタ国道なので私もよく走る。深山橋・大月間もかなり魅力的な景色が続くが、一般的には富士吉田から富士宮までがとくによく知られていて、西湖、本栖湖朝霧高原、白糸の滝など有名な観光地は、いずれもこの3ケタ国道沿いにある。今は紅葉シーズンなので、かなり多くの車がそのR139を走っていることだろう。

 もっとも、深山橋丁字路から白糸の滝に向かう人はまずいないはずなので、左折したほんの少数は、小菅川を遡上して「小菅の湯」を目指し、大多数は深山橋を渡るとすぐ先にある丁字路をまた左折して、小菅川に架かる写真の「三頭山橋」を渡る。理由は明白で、奥多摩周遊道路を走りたいがためである。

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丁字路を直進した私は深山橋を振り返り見た

 深山橋丁字路を直進した私は、まだ奥多摩湖北岸にいる。名称が付されていない小さなトンネルを抜けると「小留浦」集落に出る。湖側に駐車スペースがあるので、そこから深山橋を振り返り見た。橋の向こうに見える大きな尾根は三頭山(1528m)へと続くもので、頂上に至るまでにイヨ山(979m)、ヌカザス山(1175m)という小ピークがある。

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小留浦の太子堂と庚申塚

 小留浦(ことずら)には写真の「太子堂舞台」がある。山間集落の娯楽として地芝居がおこなわれた建物であり、堂内には聖徳太子像があって、建物と太子像ともども東京都の有形民俗文化財に指定されている。1863年(文久3)に造られ65年(慶応元)に改修された。小河内ダム建造によって湖底に沈んでしまうため、1956年(昭和31)に現在の場所に移設された。

 R411沿いにあるが、道路(標高533m)より少しだけ高い場所(537m)にある。おそらく、奥多摩湖の氾濫から建物を守るためだろう。私はその建造物より、道路沿いにある庚申塚のほうに気を引かれた。

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山梨との都県境にある留浦集落

 写真の留浦(とずら)集落は、山梨県丹波山村との都県境近くにある。以前から、留浦の読み方は知っていたが、どうしてそのように読むのかは不明のままである。

 関東地方の方言のひとつに「べえ(べ)」があるのはよく知られている。「そうだ」とか「そうです」とは言わず、「そうだべえ」とか「そうだべ」と言うのだ。府中人もよくそう言っていた。知人は、今でもそう言う。一方、山梨では語尾に「ずら」を付けるので、「そうだべえ」ではなく「そうずら」となる。「留浦」を「とずら」と読むのは山梨の影響が強いからかも?まったく関係はないと思うが……。やはり、「たまたま」かもしれない。

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留浦の浮橋

 留浦には写真の「浮橋」がある。浮橋は峰谷橋の南詰のすぐ近くにも「麦山浮橋」があるが、車で訪れる人には駐車場やトイレが整備されている留浦のほうが、浮橋見物には便利だ。

 浮橋の向こうにチラリと見えるのは丹波山村の鴨沢集落。もう、山梨県はすぐそこにある。

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小河内ダムのダムサイトに展示してあるかつての「ドラム缶橋」

 浮橋は、現在は樹脂製の浮き箱に支えられているが、かつてはドラム缶が使用されていた。上の写真のドラム缶橋の一部は、小河内ダムの堰堤近くの広場に遺構として展示されているものだ。ドラム缶橋の時代を含め今回、私は浮橋を初めて渡ってみた。それなりに足元が揺れる点は吊り橋と同様だが、吊り橋は空中にあるのに対し、浮橋は湖面にあるので、怖さはそれほど感じなかった。こんなことなら、ドラム缶橋の時代に渡っておくべきだったと、少しだけ後悔した。

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浮橋は対岸の遊歩道につながっている

 浮橋は麦山、留浦の双方とも対岸にある遊歩道までつながっているが、奥多摩湖の水位が著しく減じると外されることになっている。写真のように橋が曲がっているのは、湖面が満水位に近いことを示している。

R411は、いよいよ山梨県に入っていく

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奥多摩町丹波山村とをつなぐ鴨沢橋

 写真は、留浦集落と鴨沢集落とを結ぶ鴨沢橋で、下には小袖川が流れて?いる。小袖川は鷹ノ巣山雲取山(2017m)との間にある七ツ石山(1757m)近くに源流点があり、この川の谷筋が東京都と山梨県との境になっている。橋の下は小袖川というよりまだ湖面があるといった風なので、渇水時でなければ川の流れを感じることはできない。

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橋の東詰にある多摩川都管理上流端の看板

 鴨沢橋の東詰はまだ奥多摩湖のしっぽの先ぐらいの位置にある。元来、小袖川は奥多摩湖ではなく多摩川に注いでいたので、橋の南にある水およびその周りは、制度的には東京都が管理する「川」のものであるらしい。

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この表示では、青梅街道はここで終わることになる

 多摩川都管理上流端の看板の横にあるのが上の標識。この表示では、青梅街道は鴨沢橋で終わることになる。もっとも、青梅街道の名称自体が通称でしかないのだから、さして問題はないのかもしれない。

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鴨沢橋を渡った先にある賑やかな標識

 鴨沢橋を渡ると、そこは山梨県。写真には3枚の看板が写っている。一番手前は、ここが丹波山(たばやま)村で、「釣りの名所ですよ!」というもの。次は山梨県の全体図で、県の周囲には富士山をはじめとして多くの山がありますよ、というもの。3番目は、ここから8キロのところに「道の駅・たばやま」がありますよ、というもの。

 鴨沢集落には雲取山登山口村営駐車場があり、登山客はそこに車をとめて山頂を目指す。今の季節は登山に適しているのでかなり混雑するようだ。

 鴨沢の名は、ここに鴨が多いからというわけではなさそうで、集落内に「加茂神社」があることから想像しうるに、賀茂神社つながりの可能性が高い。実際、この集落の加茂神社は、京都の賀茂神社末社に位置付けられている。

 集落の南側にあるのは多摩川の流れというより、まだ奥多摩湖の端っこあたり。湖底に沈んだ集落の一部には平地が少しあったそうで、そこでは畑仕事がおこなわれていたが、それに従事した人々は移転を余儀なくされた。今は、高台にあった家々がわずかばかりに残るだけ。清らかな流れの多摩川ではアユやウナギがたくさん捕れたが、いまでは淀んだ水ばかりで透明度は極めて低い。山は東京都の水源涵養林が大半なので、村人が勝手に手を入れることはできない。

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諸畑橋から奥多摩湖の端を望む

 鴨沢集落の上流側に架かる諸畑橋から多摩川の上流方向を眺めてみた。まだ貯水池の一部の様相だが、もうまもなく川の流れが見えてきそうでもある。釣り人たちは、こうした場所をバックウォーターと呼ぶ。本来は、支川が本川に突き当たる場所で起こる支川の水面上昇を意味し、河川氾濫のニュースでよく目や耳にする言葉だ。が、釣り人たちは、川が湖や池に流れ込む場所、支流が本流に流れ込む場所そのものをそう呼んでいる。今では釣り人以外にも浸透しつつある表現だ。

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諸畑橋の西側からR411は上り坂に入る

 諸畑橋の北詰を少し過ぎたところから橋とその周りの景色を眺めてみた。右側に見える建物はかつて鴨沢小中学校の校舎として使用されていたもの。黄色く色づいているイチョウは校庭を飾る樹木だ。学校にはイチョウがよく似合う。が、いまではイチョウの周りを走り回る子供たちはもういない。

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山梨からR411は大菩薩ラインを名乗る

 諸畑橋北詰を過ぎると、R411は上りに入る。橋の北詰の標高は537mだったが、そこから300mほどのところの撮影場所は549mなので、R411は明らかに高度を上げつつある。

 「大菩薩ライン」の標識が見える。山梨県を走るR411は「青梅街道」とは呼ばれず、山梨県東部にそびえる大菩薩連嶺からその名をとって「大菩薩ライン」と呼ぶのだ。この先にある丹波山村の中心地から先の山々は大菩薩連嶺に属し、R411はその際を進んでいくのである。

 大菩薩ラインは鴨沢橋の西詰から始まっている。それゆえ、東詰にあった青梅街道の標識の表示は、ある意味で正しいのだ。もっとも、広義の青梅街道は甲府市まで続いていることになっている。

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山の中腹にある小集落

 鴨沢から所畑を過ぎ、「お祭り」という名の地区を過ぎると丹波川が造る峡谷は一気に険しくなり、川の左岸側というより崖上をそろそろと走るR411は曲路の連続となる。写真は、その途中の道から望んだ集落(杉奈久保?)を写したもので、撮影地点は582m、集落は760m付近にある。川面は536m付近にある。

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R411の眼下にある保之瀬集落

 R411の左手に見えてきたのが保之瀬(ほうのせ)集落。丹波川が僅かばかりに形成した河岸段丘に集落がある。集落は標高590m付近にあるが、R411に造られた取り付け道路入口は636mのところにある。まさに谷間の集落である。 

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「道の駅たばやま」もまた、R411の下段にある

 その保之瀬から2キロほど進むと、やはりR411の眼下にある「道の駅たばやま」の施設が見えてくる。本項の冒頭に挙げた写真は、R411に造られた道の駅に至る取り付け道路の入口を写したものである。

 道の駅には軽食堂、農産物直売所、「のめこい湯」に至る吊り橋、河川敷広場、トイレなどがある。案内所もあるが、現在はコロナ禍のために閉鎖中のようだ。

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丹波川左岸からR411を望む

 丹波川の河川敷に降りてみた。吊り橋は「のめこい湯」に通じるもので、その上に見える道がR411だ。河川敷の標高は605m、のめこい湯は608m、R411は650mのところにある。吊り橋はのめこい湯とほぼ同じ高さなので、川面との比高は3mだから私でも渡ることができる。これが、ジーグリスヴィル橋のように比高が182mもあったら、一歩足を踏み入れただけで失神する。

 私には立ち寄りの湯を利用する習慣がないので「のめこい湯」は遠い存在だが、”のめこい”の言葉だけはいつも気に掛かった。これは方言で、元来は「のめっこい」と発する。「つるつる」「すべすべ」という意味なので、風呂には誠に具合の良い言葉だ。

 丹波川はアユ釣り場としても知られている。私の知人はよくこの川にくる。ただし、川の水は冷たく秋の訪れも早いので、実質的に釣り期は一か月もない。サイズは小さいがとても美しく美味しいアユが釣れるそうだ。

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道の駅たばやま軽食堂・R411

 この道の駅にはよく訪れるのだが、トイレを利用するか河川敷を散策するかだけで、軽食堂を利用したことはなかった。この施設の名前は「軽食堂・R411」であり、今回はR411を進む旅なので、その名に敬意を表するためもあって初めて利用してみた。のれんには「大菩薩ライン」ではなく「青梅街道」とあるし、街道をゆく旅姿の男の胸には「R411」と記してあるし。

 のれんにあるマスコットキャラクターは「タバスキー君」で、丹波山村ではよく見かける。「丹波好き~」から生まれたもので、「丹」の字が元になっているが、どことなく「アダムスキー型円盤」に似ているので、それをもじって「タバスキー」と呼ばれるようになったそうだ。ただし、この道の駅のものは鹿の角が生えている点で、原形とは少しだけ異なっている。

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軽食堂名物の「鹿ばぁーがー」を食べてみた

 軽食堂の名物は「鹿ばぁーがー」で税込み700円である。こうした「名物」には興味がないのだが、撮影のためと小腹が空いていたこともあり、あえて購入してみた。鹿肉を用いているのだろうが、とりたてて特徴的なものではなく、やや高級なハンバーガーといったところ。

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丹波山村の中心地は丹波川沿いにある

 丹波山村の中心地は、道の駅の少し上流側にある。川沿いの河岸段丘に家々が並んでいる。2020年11月1日現在、丹波山村の総人口は582人。17年4月は843人だったので、過疎化が一気に進んでいる。

 今更だが、丹波はここでは「たんば」ではなく「たば」と読む。”たば”とは川の奥まったところにある平地を意味するらしいが、それがなぜ「たば」という言葉になるのかは不明だ。一説には、”たば”は古朝鮮語で「峠」を意味するので、それが語源となったというものもある。

 いずれにせよ、この地は「たば」であり、古くは「多婆」「太婆」「田場」の漢字が当てられていたらしい。言葉は音から生まれ、そのあとから文字が作られたのだから、どの漢字を当てるにせよ、それは当て字に過ぎない。漢字を読むことは可能だが、漢字で読むことは不可能だ。

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R411は丹波山村を過ぎ、いよいよ山深くに分け入って進む

 R411は、これからが難所だ。甲府市まではあと55キロ。R411の旅は今、中間地点付近に達した。

 次回は柳沢峠、大菩薩嶺甲府盆地の入口などを取り上げる予定。

   *   *    *

 撮影は都合3回おこなっているので、撮影日には一か月ほどのズレがあります。その間に紅葉が進んでいるので、写真によっては色づく前のもの、かなり色づいたものがあり、撮影も往路、復路でおこなっているので、日の当たり方も異なっています。

〔48〕3ケタ国道巡遊・R411(2)~青梅市から奥多摩町を行く

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軍畑駅入口交差点から御岳山頂を望む

R411は青梅街道となって西を目指す

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R411はこの交差点から青梅街道を名乗る

 写真は、国道411号線(R411)と、これまで都道5号線(r5)として西進してきた青梅街道とが出会う丁字路をr5側から見たものである。写真中の道標から、青梅街道はR411としてこの交差点から出発するということがわかる。一方、写真に見える稜線は加治丘陵(青梅丘陵とも)のもので、R411が道標のとおりに北上するとすぐに丘陵の南面に突き当たり、それを越えると埼玉県飯能市に入ってしまう。それでは青梅街道が目指す甲府市には至ることが難しくなり、あるいはひどく遠回りになってしまうため、すぐに西に転進する必要があった。

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R411はすぐに左折して西進する

 青梅街道としてのR411は上記の理由によって、青梅市文化交流センター南交差点からは僅か200mほど北上するだけで、写真の青梅市文化交流センター前の丁字路をすぐに左折することになる。ちなみに、この交差点を右折すると青梅市の中心街に至るのであり、その都道28号線(r28)こそかつての青梅街道であって、その旧道筋には古き良き青梅の街並みが部分的に残っている。私は少しだけ旧青梅街道筋を見物するため、丁字路を左折せずに右折してみた。青梅についてはいずれ詳しく紹介する予定でいるので、さしあたり、今回は青梅駅周辺に限って触れてみたい。

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青梅駅の南口広場

 先の丁字路を右折して旧青梅街道を300mほど東に進むと、青梅駅前交差点に出る。この交差点の北側に写真の青梅駅がある。私にとってJR青梅線はまず利用することがないので青梅駅には初めて立ち寄ったことになる。駅の北側はすぐ丘陵地なので、写真の南口に商店街が集まっている。ただし、青梅駅を利用する人は減少傾向(2000年は15718人、18年は12994人)なので、駅前広場にしては少し寂しさを感じさせる風景が展開されている。

 ちなみに、東隣の東青梅駅青梅市役所の最寄り駅)の利用者数は2000年が13413人、18年は13114人とほぼ横ばいだ。さらにその東隣の河辺駅は2000年が27415人、18年が27270人とやはり横ばいであるものの、青梅、東青梅の両駅よりも圧倒的に利用者数は多い。その理由は、河辺駅周辺のほうが平地が多いので開発がしやすいこと、立川駅新宿駅により近いので通勤に便利であることなどが考えられる。

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住吉神社の社殿は稲荷山と呼ばれていた高台にある

 写真の住吉神社は、青梅駅前交差点からさらに東に300mほど進んだ場所にある。社殿は稲荷山と呼ばれていた小高い丘の上にある。周囲の標高は197m、社殿のある場所は212mほどで、まさに鎮守の森と呼ぶに相応しい居住まいをしている。

 創建は1369年とされ、すぐ南側にある延命寺を開山した季竜が、寺背にあった稲荷山に寺門守護のため、故郷の摂津国住吉明神を祀ったのが始まりとされる。16世紀初頭にはこの地域を支配していた三田氏が社殿を改修したり社宝を奉納したりし、あわせて青梅村の氏神として祀った結果、青梅の総鎮守の地位につくようになった。

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旧青梅街道沿いにある昭和レトロ商品博物館

 住吉神社は旧青梅街道の北側にあるが、写真の「昭和レトロ商品博物館」は街道の南側に位置し、神社参道のほぼ対面にある。懐古される「昭和」といっても、おもに30年から40年(1955~65年)頃に限定されるらしい。その時期の駄菓子やお菓子、薬などのパッケージ、おもちゃ、ドリンク缶や瓶、映画のポスターなどが展示されているとのこと。入館料は350円。漫画『三丁目の夕日』の時代設定と同じで、昭和といえど戦前や戦時中でも、さらに占領期でもなく、朝鮮戦争特需によって高度成長を遂げ始めた時代のものが集められているようだ。

 博物館には入っていないので、どのようなものが実際に蒐集されているのか詳細は不明だが、私は同時期に幼少年期を過ごしたので、展示品についておおよその記憶はあるはずだ。ただし、私の場合は物への愛着(執着)心がほとんどない(不時着はある)ので、懐かしさまで覚えることはないと思う。私にとって大切なのは「もの」ではなく、「こと」への想起である。

 この記念館の東隣には「青梅赤塚不二夫会館」があったのだが、今年の3月27日に閉館された。建物自体は古い土蔵造りの屋敷が利用されていたので現存しているが、赤塚不二夫を思い起こさせるものは撤去されていて何も残ってはいない。私は大の赤塚ファンであったので、その点についてはとても残念に思った。

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青梅はネコの町でもある

 旧青梅街道には、2018年頃までは映画の看板があちらこちらに掲げられていた。青梅市は「最後の映画看板絵師」の出身地であったからだ。が、台風で多くの看板が吹き飛ばされてしまった結果、残された映画看板も含めてすべて撤去されてしまった。代わって、青梅では「猫町」を標榜し始めたようで、ネコにまつわる「作品」をあちこちで見つけることができる。写真のポスター?は、映画看板と猫町との融合作品である。

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昨年の3月に閉店したマイナー堂の看板

 マイナー堂はレコードCDショップで、昨年の3月、65年の歴史に幕を閉じた。『ベニーグッドマン・ストーリー』の看板だけが寂しく残されている。窓に掲げられている「帰ってこいよ」の横幕は、青梅マラソンのランナーたちへ呼びかけられたもので、同店では、マラソン当日には松村和子の『帰ってこいよ』の曲を流し続けたそうだ。今では、店の経営者自身への呼びかけになっている。ちなみに、『帰ってこいよ』は私のカラオケの持ち歌でもある。

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青梅坂下交差点を右折すると埼玉県飯能市に至る

 青梅市街はいずれ詳細に巡るつもりでいるので、今回は早々に切り上げ、R411の旅に戻ることにした。R411が西へ転進した青梅市文化交流センター前交差点から再スタートである。西へ300mほど進むと、写真の青梅坂下交差点に出る。この丁字路を右折し小曽木(おそき)街道を北に進むと、入間川の支流である成木川沿いに至り、そこは埼玉県飯能市となる。

 青梅駅から西武池袋線飯能駅までは、直線距離にして8.5キロほどで、これは青梅駅から福生駅までの直線距離より少し短い。もっとも、青梅市街と飯能市街との間には加治丘陵が横たわっているので、福生に出るよりは時間は掛かるかもしれない。

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材木や織物の商いで財をなした稲葉家の旧宅

 写真は、東京都指定有形民俗文化財に指定されている「旧稲葉家住宅」で、先に挙げた青梅坂下交差点の100mほど先のR411沿いにある。稲葉家は青梅宿の町年寄を務めた旧家で、江戸後期には材木商、青梅縞の仲買商として財を成した。

 青梅界隈は森林だらけなので木材を得るには困らなかった。もちろん、自然林だけでなく、人工造林も江戸時代には積極的におこなわれていた。江戸の開発・発展に材木はいくらでも必要とされていただろうし、青梅から江戸にそれらを運ぶには多摩川を使って筏流しをすれば事足りた。

 青梅は織物生産地として有名である。かつてこの地には「調布村」があったくらいなので。この点については本ブログですでに触れている(cf.26回・多摩川中流散歩)。江戸時代に記された『万金産業袋』(1732年刊)に「青梅縞」の名が表れている。18世紀中期の『江布風俗誌』に「町家正月の……衣服は絹袖花色黒青茶紋付にて大方二枚着す、間着なと云ふものなく、男児は松坂島桟留、青梅縞に限る……」とあるように、江戸時代に青梅の織物は全国的にも知られた存在であったようだ。それゆえ、青梅縞の仲買商人でもあった稲葉家が青梅を代表する豪商であったことは容易に想像できる。

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熊野神社前のクランク

 旧稲葉家住宅のすぐ西側に、写真のクランクがある。青梅市街からR411を奥多摩に向かって進むとき、いつもその存在が気になるクランクなのだ。R411の行く手には「熊野神社」があるため、それを避けるように道は右に曲がり、すぐに左に曲がって西進する。今では狭い境内の小さな神社に過ぎないが、かつて、ここには「森下陣屋」が置かれ、徳川家の天領であった「山の根」地区(八王子ならびに多摩川上流地域。2万5千石)を統轄していた。こうした町の要衝であったために道はわざわざクランク状に造られており、それが現在も往時の姿を留めているのだ。

 熊野神社について『東京都神社名鑑』には、「創立不詳。古老の説によると、慶安年間(一六四八~五二)徳川氏の代官大久保長安、大野善八郎尊長等が居住した陣営地にあったころの鎮守といわれる。明治三年、社号を熊野大神と改め、同二十五年、熊野神社と改称。大正十四年九月、覆社および拝殿を改築、同時に愛宕・琴平社を合祀した」とある。境内にあるシラカシ青梅市内でも最大級の大きさだそうだが、現在は幹から伐採されているので、以前のように成長するにはかなりの年月が必要とされるだろう。

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平将門が創建したといわれる金剛寺

 熊野神社のすぐ南側にあるのが、平将門が創建したといわれている金剛寺だ。すぐ南側といっても寺は「天ケ瀬面」と呼ばれる河岸段丘上にあるため、神社よりは10mほど低い位置にある。神社の境内の標高は202mなのに対し、寺は192mである。こうした配置は、以前から何度も述べているように、神社は町の高台、寺は町中というのが普遍的な実相なのである。

 多摩地区西部には「将門伝説」が多く残っている。金剛寺の創建もそれが関わっており、将門は承元年間(931~37)にこの地に来て、馬の鞭として使用していた梅の枝を地面に挿し、「我が望み叶うならば根付くべし、その暁には必ず一寺建立奉るべし」と誓ったとされている。また「我願成就あらば栄うべし、然らずんば枯れよかし」と誓ったとも伝えられている。将門は朝敵とされ、天慶三年(940)に藤原秀郷平貞盛などによって討伐された。将門の願いは成就しなかったものの、梅の枝は根を張り成長した。

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将門誓いの梅の古木

 将門が挿し木した梅は実を付けるようになるまで成長したが、なぜか、その実はいつまでも青いままで熟さなかった。そのことから、この地は「青梅(あおうめ)」と呼ばれるようになったとされている。梅の木の中には確かに実が黄熟しないまま落実するものが他にもあるようで、それらは突然変異種と考えられている。なお、梅の寿命は100~400年ほどなので写真の古木は、挿し木もしくは接ぎ木で幾世代を経ているものと考えられるが、場合によっては将門の怨念によって生かされているのかもしれない。

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軍畑駅入口交差点からR411沿いの景観は様相を変える

 写真は「軍畑(いくさばた)駅入口交差点」(標高201m)の経路を示す道路標識である。本項の冒頭に触れているように、標識の下にあるピークは御岳山頂だ。

 青梅線青梅駅までは本数は多いが、青梅駅以西になると激減する。青梅駅の時刻表を調べてみると、平日の上り立川方面では、6、7時台は各8本、8から10時台でも5本ある。一方、軍畑駅(標高243m)では、6時台は4本あるが、7から9時台では各2本、10、11時台では各1本となり、通勤や通学に青梅線を利用するには相当な不便を強いられることになる。

 武蔵野台地青梅駅付近を扇頂として多摩川が形成した扇状地なので宅地開発は比較的容易だが、青梅駅以西は一部に狭いながらも河岸段丘は多少存在するものの、大半は傾斜地であって宅地開発が難しく、人口増加は望めない場所だからである。それゆえ、青梅線(旧青梅鉄道、旧青梅電気鉄道など)の開通に関しては、青梅駅までは旅客営業も考慮に入れられたものの、青梅駅以西は貨物利用を前提として敷設された。

 青梅鉄道は1894年、立川・青梅間に開通したが、翌年には青梅・日向和田間が貨物線として開業した。これは、日向和田にある石灰山から石灰石を運ぶために必要とされたからであった。日向和田の石灰は盛んに掘られ、約70年で完全に掘り尽くされた。

 そもそも、江戸時代には青梅北部の成木・小曾木の石灰は城などの白壁造りに大いに必要とされた。1606年の命令書には「今度江戸御城御作事、御用白土武州上成木村、北小曾木村山根より取寄候り。御急の事に候間、其方代官所、三田領、御領、私領まで道中筋より助馬出……」とある。石灰石運搬のために、成木から江戸府内までの街道が整備されたのだった。現在の青梅街道は、この成木街道が転用されたものとも考えられている。

 成木にせよ、日向和田にせよ、この辺りは関東山地の東縁にあたり、その地層はかつて「秩父古生層」と呼ばれていた。この「秩父古生層」の名称は、前回の項において「千代鶴」のところで触れており、「地下170mの秩父古生層の水を汲み上げて仕込水に用いている」と紹介している。「秩父古生層」はあきる野や青梅、奥多摩などの基盤岩の通称で、現在では古生代(約5億7千年前~2億2500万年前)の堆積層ではなく、中生代(約2億2500万年前~約6500万年前)のものであることが判明している。

 青梅や奥多摩の地層は成木層、雷電山層、高水山層、川井層、海沢層などに区分されるが、砂岩、頁岩、泥岩、礫岩に混じってチャートや石灰岩が含まれている。それゆえ、石灰岩の多い場所では石灰が採掘されたり、鍾乳洞が発見されたりしている。また、チャートや石灰岩は他の岩石に比べて侵食に強いために、それらを多く含む場所では山に独特の形状を与えている。私が大好きな大岳山(キューピー山)、高岩山などはその代表である。

 ともあれ、青梅市街から西側の多摩川は硬い基盤岩の中を縫うように流れており、谷底は深く河岸段丘を形成しにくいため、山での仕事を主とする人々以外には住みづらい場所になっている。それもあって人口は増えず、結果として電車の本数は少ないままなのである。

 宮ノ平日向和田、石神、二俣尾、軍畑、沢井、御嶽、川井、古里、鳩ノ巣、白丸、奥多摩の各駅が青梅駅以西にあるが、このうち、観光客が電車を使って利用するのは御嶽、奥多摩ぐらいだろうか。ここに挙げた駅のうち、JR東日本が乗降客数を公表しているのは奥多摩駅だけで、その数は1858人となっている。あとの駅は非公開とされている。少ない人数であることを公表すると廃線、廃駅の声が高まってしまうだろうことを警戒しているのかも。

 ところで軍畑(いくさばた)という地名は、三田氏と小田原北条氏との最後の決戦がおこなわれた場所であることから付けられた。ここには多摩西部を拠点にしていて上杉側についていた三田氏の最後の砦ともいえる辛垣(からかい)城(標高457m)があった。そこに小田原北条氏の北条氏照(本ブログではお馴染みの存在)軍が攻め入り(辛垣の戦い)、結果、1563年に三田氏は敗れて滅亡した。武蔵国内での攻防戦が展開された場所として一部の地域史ファンに知られた存在である。三田氏の詳細については、いずれ青梅の項を立てたときに触れたい。

机龍之介のふるさと・沢井

 軍畑駅入口交差点を過ぎてR411を奥多摩方向に進むと、もはや道の左右、多摩川の右左岸には平地はほとんどなく、右手はすぐ山、左手の谷底には多摩川といった風景が続くようになる。R411は奥多摩駅のすぐ先まではずっと多摩川の左岸側を走っている。一方、吉野街道はずっと右岸側を走っている。軍畑まではその間に多摩川の流れだけでなく道沿いや段丘上に宅地が結構あるので両道路間も距離はあるが、軍畑以西はその間隔が縮まり、R411は左岸すぐ横、吉野街道は右岸すぐ横を走ることになる。それゆえ、片方の道が工事か何かで滞ると、多摩川に架かる橋を渡って容易に対岸の道に移ることができる。

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沢井駅前を通過するR411

 青梅線では軍畑駅の次が沢井駅となる。沢井といえば、下に挙げる小沢酒造の「澤乃井」の醸造地として知られ、観光名所もいくつかあるので訪れる人も多いが、私にとっての沢井は、「机龍之介」が生まれ育った地であることだ。龍之介はここにあった「机道場」のひとり息子として成長し、「音なしの構え」の剣法を編み出した。ただ、彼は剣道の修行だけでは飽き足らず、大菩薩峠などでの試し切りなど、平気で人を殺すようになってしまった。

 中里介山の『大菩薩峠』は世界最大の大河小説といわれ、しかも作者死去のために未完である。大長編小説というと『失われた時を求めて』や『チボー家の人々』がよく知られているが、それらは内容がいささか高尚なので読み通すには忍耐力が必要であるが、『大菩薩峠』はあくまでも通俗時代小説なので気軽に読めるし、何よりも興味深い人物や場面が数多く登場するのが嬉しいのだ。私がR411をさして理由があるわけでもなく走りたいと思うのは、机龍之介の姿を追うため、大菩薩峠を間近に望むためということが心底にあるからなのかもしれない。もっとも、裏宿の七兵衛は青梅に実在した義賊であったにせよ、机道場や龍之介は架空の存在なので、沢井周辺をいくら歩いてもそれらの面影を見出すことはできないのだが。

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沢井には机道場はないが小澤酒造がある

 沢井駅入口交差点のすぐ手前右側に、写真の小澤酒造がある。「澤乃井」は多摩の地酒のブランド名としてはもっとも有名だと思われる。前回に触れた中村酒造同様、こちらも工場見学ができるそうだ。私は酒の匂いだけで酔ってしまうので見学はできないが。創業は元禄15年(1702)とのことなので、300年以上の歴史がある。元禄15年といえば、赤穂浪士討ち入りの年である。

 この小澤酒造も千代鶴の中村酒造と同じく、「秩父古生層の岩盤を140mもくり貫いた洞窟から湧き出る石清水を……」と地下水を仕込水に用いているとのうたい文句がある。先に述べたように「秩父古生層」は通称に過ぎないが、「中生代の川井層」というより、水は豊かで清らかな感じがする。

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清流ガーデン・澤乃井

 工場はR411の北側にあるが、写真の澤乃井園は南側にある。工場の入口の標高は213mだが、澤乃井園は道からやや下った204mのところにある。ちなみに多摩川の川面は197mほどなので、この園では、川のせせらぎを聞きながら軽食をとったり買い物を楽しんだりすることができる。紅葉の季節にはとりわけ景観が良くなるだろうが、大混雑は必至である。

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澤乃井園前に架かる吊り橋と右岸にある寒山

 川に沿って御岳渓谷遊歩道の一部として整備されているので川べりの散策が楽しめる。また澤乃井園前には写真の吊り橋(楓橋)が架かっているので、右岸側に移動することもできる。澤乃井園のすぐ隣には小澤酒造が運営する「きき酒処」、豆腐や湯葉のランチが楽しめる「豆らく」、豆腐懐石料理の「まゝごと屋」があり、橋を渡って吉野街道に出た先には、やはり小澤酒造関連の「櫛かんざし美術館」がある。

 写真の吊り橋の先に写っているのは寒山寺で、中国の蘇州にある寒山寺に因んで、1930年、小澤酒造の協力によって建立されたものである。この寺院の南側の高台に吉野街道が走っていて、多摩川側には無料の寒山寺駐車場(標高232m)が整備されている。

 私はこの周辺には散策場所としてよく訪れるのだが、小澤酒造関連の施設を利用するのはその駐車場とトイレと楓橋と遊歩道ぐらいで、各店や工場に入ったことはない。もちろん毎回、橋の上からは川の中をのぞき込んでアユなど魚の姿を探す。

御岳登山は来年の目標のひとつである

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JR青梅線御嶽駅

 沢井駅の隣が写真の御嶽駅。R411の御岳駅前交差点には「御岳駅前」と記されているが、青梅線の駅名は「御嶽駅」となっている。地名も山名も「御岳」であるが、御岳山頂にある神社名は「武蔵御嶽神社」と表記される。駅名が御嶽と表されているのは、レジャーとしての山登りのために設置された駅なのではなく、宗教行為として御嶽神社に参拝するための最寄り駅という位置づけなのだと考えられる。あるいは、”たまたま”かもしれないが。

 「嶽」は獄に「やまへん」が付いたもの。『詩経』には「崇高なるは、これ嶽、たかくして天にいたる、これ嶽……」とあるので、嶽には、ただ高いだけでなく神聖なるものという意味が込められているのかもしれない。一方の「岳」は、甲骨文字では山の上に羊の頭を乗せたものを表していた。中国では古くから羊は神聖な瑞獣と考えられており、それゆえ岳は聖地としての山を示すことになる。つまるところ、岳でも嶽でも、漢字の成り立ちは異なるにせよ、意味するところはさして変わりがないように思えるのだが。

 嶽の「獄」はけものへん=犬に、右の部首も犬で、その間に「言」がある。獄には「裁く」という意味があり、刑事裁判のことを古くは断獄(罪を裁く)と言っていた。人の罪を裁くにはまず原告も被告も双方が身を清める必要がある。そのために、汚れを祓う力があるとされる犬を生贄にして、その上で真実を述べる誓い=盟誓して証言したのだろうか?嶽には裁判とは関係がなさそうだが、山に登るためには身を清める必要があるとするなら、嶽=神聖な山と考えてもおかしくはない。富嶽=富士山だが、富嶽と記すと信仰対象(絵画の対象としても)としての富士山になり、富岳と記すとスーパーコンピューターになる。

 御嶽駅前の標高は232m、御岳山は929m、武蔵御嶽神社の境内は926~932m。御岳山に歩いて上るとすれば比高は697m。また、車で御岳登山鉄道の滝本駅(標高408m)までは行けるので、そこに駐車して徒歩で登るとしても比高は521mとなるので、私の徒歩による高低差克服の自己新記録となる。しかし、滝本駅まで行ったとなれば登山鉄道利用は必至だろうから、御岳山駅(標高831m)までは自力とはならず、結局、比高は98mにしかならない。

 御岳山は未登頂であると記憶しているので、本ブログで青梅の項を立てる際には必ず、初登頂を達成したい。さしあたり、徒歩は無理なのでケーブルカー利用となるが、それでも、武蔵御嶽神社を見物したいし、周囲の風景を楽しみたいと考えている。もっとも、晩秋は紅葉シーズンなので混雑は必至だし、熊に襲われる危険もあるので、来春にチャレンジしたいと考えている。春は木々が葉っぱを纏っていないので、見通しが良いという利点もある。

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駅前にある御岳橋

 御嶽駅前にはR411と吉野街道とを結ぶ御岳橋が架かっており、それは御嶽神社への参道としての役割を果たしている。ただし、徒歩で御岳山に登ろうとする人、もしくは、せめて滝本駅まではバス利用ではなく歩いて行こうとする場合(比高176m)は、この橋を用いずにR411を奥多摩方向に進み、御岳郵便局のすぐ先にある細道に入り、神路橋を渡って道なりに進むと吉野街道に出てそのまま直進すれば滝本駅にたどり着くことができる。

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御岳橋上から御岳渓谷を望む

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御岳橋から上流方向を望む

 上の写真は、御岳橋から多摩川の流れを望んだものだ。御岳橋の標高は232m、多摩川の川面は207mなので、高所恐怖症の私には真下をのぞき込むことはできない。それゆえ、視点はやや遠めに置いた。

 先にも触れたように、この辺りは御岳渓谷遊歩道が整備されている。渓谷美を楽しむ人をよく見掛けたが、写真のように急流をカヤックで下る姿も多かった。橋から多摩川左岸の崖を眺めると、川沿いに立ち並ぶ建物(これらはR411沿いにある)の多くは、御岳渓谷を眺められるような造りになっていることが分かる。その姿から、かつては旅館など宿泊所に利用されていたと思われるが、現在でも一部は食堂やレストランとして利用されているようだ。景観は良さそうだが、少し怖さも感じられる。

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玉堂美術館横から渓谷を眺める

 御岳橋を渡り、吉野街道に出ると多摩川右岸には「玉堂美術館」と小澤酒造が経営するお土産物店「いもうとや」がある。明治から昭和にかけて活動した川合玉堂は日本を代表する画家のひとりで、晩年(1944~57年)は御岳の地で過ごした。玉堂の死後、地元有志や全国の玉堂ファンなどによって61年、玉堂美術館が開館した。私は絵画にはほとんど関心がないのでこの美術館には入ったことはなかった。今回は折角なので入館するつもりでいたのだが、その日は閉館日だった。つくづく、絵画には縁がないらしい。

 気勢はそがれたものの、個人的には渓谷美により関心が高いので、少しだけ散策した。写真の下流には「オーストラリア岩」「溶けたソフトクリーム岩」「御岳洞窟」「忍者返しの岩」などと名付けられた奇岩が多い。それらは川の左右にあるため、両岸を行き来するための小さな橋が架けられていたのだが、写真のように、昨秋の大洪水で橋は流されてしまっていた。

R411は青梅市と別れ、奥多摩町と出会う

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R411から奥多摩大橋を望む

 R411に戻り、再び西に向かった。相変わらず、R411は多摩川青梅線との間を川の流れと同様に蛇行しながら進む。小さな谷川のあるところでは少しだけ標高を下げるものの、全体としては上り基調である。道は林と山の際を進むため、多摩川の位置は分かっても、流れは谷底深くにあるため、川そのものを視認することはできない。

 御嶽駅の次の駅は川井駅となるが、その途中で青梅線もR411も、そして私も青梅市には別れを告げ、今度は奥多摩町の旅が始まる。川井駅に近づくと多摩川は少しだけ河原を広げるためもあって、R411からの視界もまた開けてくる。上の写真は、川井駅の近くにあり、川井交差点(標高256m)と吉野街道の梅沢交差点との間を結ぶ「奥多摩大橋」を姿をR411の道路際から望んだものだ。

 大橋下の右岸側(吉野街道側)に、多摩川はより広い河原を形成しており、その周辺は「川井キャンプ場」として整備されている。キャンプ場には興味はないが、奥多摩大橋には大いに惹かれる。奥多摩辺りにはもったいないと思える(個人の感想です)ほど立派な斜張橋だからである。橋の全長は265mと川幅がそれほど広くない場所に架かっているので驚くほどの長さではないが、この橋で特徴的なのは主塔間の長さである。それを支間長(スパン)というが、この橋では160mほどもある。スパンが広いということはそれだけ主塔が立派でなければならない。橋好きにとっては、その雄大さに魅せられてしまうのである。

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奥多摩大橋上から青梅線を望む

 奥多摩大橋を渡った吉野街道側の字名は梅沢である。そこには約5000年前の縄文集落跡があるらしいので、少しだけ探したのだが見つからなかった。それもそのはず、こちらの勘違いで、「梅沢」ではなく「海沢」だったのだ。海沢は梅沢のさらに上流に位置し「奥多摩霊園」がある場所だが、その辺りを探すのには時間が不足しそうなので、今回は捜索を断念した。

 R411に戻るため、奥多摩大橋を往復することになった。その際に、川井集落の中を走る電車が見えたので、私の前後に他の車がいないことを確認してから車を橋上に停め、川井駅に到着するためにスピードを緩めた下り列車を撮影した。今となっては、青梅線であっても五日市線であっても八高線であっても、さらに南武線ですら現代風の車両が用いられている。もはや、焦げ茶色の車両に出会うことはないのかもしれない。 

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川井交差点の先に青梅マラソンの折り返し地点がある

 川井交差点に戻り、R411を西へ進むと、ほどなく左手に「松乃温泉・水香園」の看板が見える。かなり前になるが、母親が健在のときに何度か訪れたことがあったことを思い出した。多摩川左岸側にある温泉兼料亭は、川沿いの広大な敷地の中に離れが数棟建っていて、貸し切りで日本料理を堪能したり、温泉に浸ったり、川沿いを散策したりできるのだった。私の場合は温泉には入らず、ひたすら川べりを歩き魚影を探していた。水を見ると、条件反射的に魚を探すのだ。たとえ、雨が形成した水たまりであったとしても。それが釣り人の性なのだ。

 その水香園のすぐ先にあるのが、写真の「青梅マラソン・30キロ折り返し」地点を示す看板である。青梅マラソンは市民マラソンとして1967年に始まった。マラソンと言ってもフルマラソンではなく、メインの30キロの部と10キロの部とがある。私は中学生までは走ることが好きだったので、高校生になったら出場しようと考えていたのだが、あいにく、15歳の終わりごろから”放浪者”もしくは”浮浪者”になってしまったので、参加することはなかった。

 2020年は2月16日に15256人が参加して開催された。まだ新型コロナは大騒ぎになってはいなかったので中止にはならなかった。しかし、21年の第55回大会は2月21日に予定されていたのだが、早くも延期が決まっている。青梅は義賊の七兵衛を生んだ土地である。『大菩薩峠』の主人公のひとりでもある俊足の七兵衛に因んで始まった大会ではあるが、14年の大降雪による中止、21年のコロナ禍による延期、さらに言えば”市民マラソン”の地位を東京マラソン(2007年に始まる)に奪われてしまったことなど、七兵衛は草葉の陰で嘆いていることと思われる。

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青梅街道と吉野街道とが合体する古里駅前交差点

 多摩川右岸側を左岸のR411と並走してきた吉野街道は、万世橋多摩川を越えて写真の古里駅前交差点(標高288m)でR411に吸収される。車で多摩川沿いを遡って奥多摩湖を目指すには、もはや選択肢はR411しか残されていない(ただし暫くの間だけ)。

 前回に触れたように、R411は友田交差点から畑中一丁目交差点の間は吉野街道を称していた。吉野街道は畑中一丁目交差点からは都道45号線として古里まで進んできた。その間には「吉野梅郷」「吉川英治記念館」「寒山寺駐車場」「玉堂美術館」「武蔵御嶽神社一之鳥居」「川井キャンプ場」など、多くの観光施設や遊び場がある。しかし、多くは林の中を抜ける道であって、青梅街道としてのR411より遥かに信号機は少なく、またカーブも緩やかなため、吉野街道はバイパス的な機能も果たしている。

 それにしても、「吉野街道」の名の由来は不明のままだ。吉野山は奈良だし、吉野川は四国だ。が、由来は不明であっても想像することは可能だ。

 第一は、青梅の開拓に貢献した「吉野織部之助」に由来するもの。彼の父親は大和国の吉野出身で、忍(おし)城主の成田家の家臣であった。成田家は小田原北条氏側について秀吉軍と戦い城を死守し続けたものの、1590年に小田原城が陥落したため、忍城は開城された。このことについては本ブログではすでに何度か触れている。

 忍城から追われた吉野家は青梅の師岡村に移り住み、農業に励み、やがて青梅有数の豪農となった。さらに、吉野織部之助は新田開発をおこなった。1610年、この地に鷹狩りに訪れた2代将軍・徳川秀忠は「せめて一軒でも家があれば」と側近に嘆いたほど、当時、箱根ヶ崎と青梅宿との間にはまったく家がなかったらしい。織部之助はその未開の地を開拓し、新町村を誕生させた。現在、青梅街道沿いの新町周辺はかなりの賑わいを見せている(ドンキもある)が、その原形は織部之助が生み出したのだった。また、前述したように青梅市では河辺駅周辺にもっとも人が多く集まるが、その河辺も織部之助の開拓が起源となっている。さらに、織部之助は青梅宿以西の開拓にも寄与しており、下村、畑中村、日影和田村、柚木村は合併して吉野村と名乗っていたことがある。そうしたことから、吉野織部之助に因んで、彼が開発した地域を通る道は「吉野街道」と名付けられた。けだし、当然のことであろう。

 第二は、武蔵御嶽神社との関係だ。御岳山は修験者の霊場として古くから名高いが、その修験道の総本山と言えば役小角役行者)が開基とされる吉野の金峯山寺である。武蔵御嶽神社への道は修験道山岳信仰を通じて本家の吉野山につながる。その武蔵御嶽神社の「入口」にあるのが、現在の吉野街道である。それを思えば、道の名前は吉野街道以外に考えられない。

 そして第三は、「たまたま」である。

 古里から始まる道は奥多摩湖へと通じている。次回は奥多摩駅奥多摩湖小河内ダム)、多摩川の上流域である丹波川、青梅街道の分水嶺である柳沢峠、そして大菩薩峠などについて触れる予定。R411の旅は、まだ道半ばである。

  *  *  *

 10月30日は、「たまごかけごはんの日」でも「宇宙戦争の日」でも「教育勅語発布の日」でもあるが、何と言っても「初恋の日」なのである。これは、島崎藤村が『文学界』に「まだあげそめし前髪の……」ではじまる初恋の詩を発表した日であることによる。これは藤村ゆかりの老舗旅館である小諸市の「中棚荘」が制定して全国に広まった。

 私の「はつこい」は5歳のときであった。そのときはまだ漢字では書けなかった(読むことはかなりできた)ので、あえてひらがなにした。

 3歳上の兄を中心として、近所のガキンチョが5、6人集まって、林檎畑ではなく、府中崖線下にある小川でよく魚取りをした。網は2つしかなかったので、それらは年長者(といっても7,8歳)が使い、鼻たれ小僧の私は石を投げ入れて魚を脅し、兄たちが構える網に誘導する役か、もしくは「魚あるポイントと思ひけり」、「やさしく白き手をのべて」、手づかみで魚を捕らえるしかなかった。

 兄たちの休憩時、網を構える者がいなくなったので、それを借りて私は魚を追った。そして川のヘリで30センチもある大きなコイを網に入れることができた。私にとって、初めて捕まえたコイだった。

 当然、そのコイは私のものになると思ったのだが、私には小さなフナが数匹、与えられただけで、コイは兄と同年の者に奪われてしまったのだった。

 「コイは儚い」。私は実感した。それが10月30日であったかどうかまでは記憶にない。

 

〔47〕3ケタ国道巡遊~徘徊老人R411を行く(1)

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友田交差点にあるR411の道標

かつて、ルート66というドラマがあった

 『ルート66』(1960~64)というテレビドラマがあった。日本でも61年から放映された。私はまだガキンチョではあったが、そのドラマをかなり真剣に見ていたという記憶はある。本はまったく読まなかったが地図を見るのは好きだったので、ルート66の始点であるシカゴ、終点であるサンタモニカを探し、地図の中でその道筋をたどった。セントルイスオクラホマシティサンタフェアルバカーキ、パサディナ、ロサンゼルス、ビバリーヒルズなど、アメリカを代表する都市をその道はつないでいた。ルート66には「マザーロード」の別名がある。大陸をほぼ東西に横断する道であり、とくに西部の開発には欠かせない存在であった。しかし、高速道路網の整備が進んだこともあり、1985年、そのルートは国道としての役割を終えている。にもかかわらず、アメリカ市民だけでなく、そのドラマを見て育った日本の元若者たちにも、「ルート66」の名は心に深く、そして強く刻まれている。

 50~60年代といえば、日本においても「アメリカンウェイ・オブ・ライフ」は憧れの生活様式であり、それは『パパは何でも知っている』(54~60)、『奥様は魔女』(64~72)などを見て育った世代では目指すべき日常でもあった。何しろ、アメリカはウマがしゃべる(『ミスター・エド』61~66)国なのだから~そんなバカな……。高度成長期には、今日よりも明日のほうが必ず良くなると信じ込まされ、そして高い確率で実際に信じていた。その成れの果てが「コロナの時代」なのだが。

 アメリカに憧れ、しかし、アメリカは遠い存在だった。63年に始まった『アップダウンクイズ』のキャッチコピーは「十問正解して、夢のハワイに行きましょう」であった。ハワイですら夢なのだから、アメリカ本土への旅行は夢のまた夢であると大半の人は考えていた。府中には米軍基地があった(今でもほんの少しだけ残っている)のでアメリカ人は結構、身近な存在だったし、実際、小学校低学年時にはアメリカ人の子供たちとよく遊んでいた。が、自分がアメリカに行くということは夢にすら現れてこない時代だった。

 大人になり、本格的な釣り人になり、そして釣りの取材でロサンゼルスに出掛けることになった。目的地はメキシコのバハカリフォルニア半島だったので、ロスは拠点に過ぎなかったが、それでも毎回、一日だけは釣りをしないでロサンゼルス市内や周辺地を巡った。いつも、必ず出掛けたのはビバリーヒルズの大豪邸見学、高級ブティックが集まるロデオドライブでの買い物、そして、ルート66の跡地を訪ねることだった。サンタモニカからビバリーヒルズまでの短い距離ではあったが、知人の車を運転したことも何度かあった。車はコルベットではなくリンカーンだったが。幼い頃、憧れだけの存在であったルート66を、私はドライブしたのである。その体験に、深い感慨と少しの罪悪感を抱いたのだった。

日本には「ルート66」はない!?

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友田交差点のもうひとつの道標

 ルート66と聞いて、8.1240……と電卓で計算するのは誤りだ。ここでいうルートは”root"ではなく”route"なのだ。ルートは道路のことで、ルート66は66号線なのだから、さしあたり、国道66号線はなくても都道66号線ならありそうだが、残念ながら欠番になっている。神奈川の県道も欠番だが、埼玉には県道66号線があり、それは行田東松山線である。なので私は、その道を数回は通っているはずなのだが記憶にはまったく残っていない。これは、県道の標識がヘキサゴン(六角形)で、上に県道、中央に66、下に埼玉と表記されているからだと考えられる。

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国道の標識はおにぎり形

 これが国道なら、写真のようにおにぎり形の中に、上に国道、中央に番号、下にROUTEとあるので、印象の受け方がまったく異なるのだ。ちなみに、道路好きは国道はR〇〇、都道や県道はr〇〇と表記して区別している。それゆえ、今回に巡遊した国道411号線(正式には”線”は付けない)はR411、県道66号線はr66と書く。どちらも道路なのでrouteには違いないが、やはりルートという限りは国道のほうでありたい。R20なら国道20号線であって、これは多くの場合「甲州街道」を指すことになるが、r20になると、都道府県、市町村などに数多くあって、それを特定するには困難を極めることになるのである。

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R411はR16の左入町交差点を始点とする

 写真は、今回の主役である国道411号線の始点となる左入町交差点を国道16号線から見たものだ。R16の別名は東京環状で、横浜市西区高島町交差点を始終点とする首都圏の大動脈である。もっとも、”環状”は完全には環になっておらず、観音崎富津岬との間は「海上の道」であって、実際には道路はない。それでも環状であると想定しているため、始点も終点も同じ場所になる。この点、鉄道の山手線は潔く?、始点は品川駅、終点は田端駅と定められている。田端駅から品川駅の間にある上野駅、神田駅、東京駅、新橋駅などは東北線東海道線に属し、山手線がその区間を「間借り」しているのだ。もっとも、軌道は山手線専用のものを敷設しているが。

 一般国道は、現在ではとくに区別されていないが、かつては一級国道二級国道とがあり、前者は1、2ケタの数字、後者には3ケタの数字が当てられていた。R1~R58、R101~R507の国道が現存するが、実際には欠番も多くある。R1は東海道京街道、R4は日光街道奥州街道、R20は甲州街道など主要国道には1、2ケタの番号が与えられている。なおR58は、1972年に沖縄が返還されたことにより、鹿児島市から那覇市に通じるルートが新たに指定されたものだ。それは日本で一番長い国道ではあるものの、その大半は「海上の道」である。

 3ケタの番号のほとんどは地方国道であるが、千代田区から沼津市に通じているR246など主要国道以上によく知られたものもある。青山通り(赤坂、青山、表参道を通る)、玉川通り三軒茶屋二子玉川を通る)というおしゃれなルートは、田舎道に属する3ケタ国道なのである。一方、R152は青崩峠が通行不能、R291は清水峠が通行不能、R339は龍飛岬の一部が階段など、「酷道」と呼ばれるいくつかのルートの大半は3ケタ国道である。

R411の起点は八王子市左入町にある

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R411は普通の田舎道でもある

 国道411号線は、八王子市の左入町交差点を始点とし、終点は甲府警察署前交差点で、全長は120キロほどだ。観光地としては御岳周辺、奥多摩湖、柳沢峠、大菩薩ラインなどがあるが、私がとくに目的地にするような場所ではない。が、数年に一度、理由はこれといって見当たらないのだが、なぜか無性に走りたくなるルートなのだ。これから先、何度か「3ケタ国道」をテーマにして駄文を記述しようと考えてみたのだが、最初に思いついたのがR411だった。

 伊豆半島に出掛けるときはR135、R136、R414、三浦ならR134、房総ならR127、R128、いろんな理由で使わざるを得ないR246、秩父上野村に行くときはR299、日本海で夕日を眺めるならR178、いつかは完全に走り切ってみたい四国のR439など、すぐに思い浮かぶ3ケタ国道は数多くあるのだが、今回、このテーマが思い浮かんだ際、まず念頭に上ったのがR411だった。

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起点の左入町交差点。ここからR411の旅が始まる

 R16を八王子市街から多摩川方向に北上し、中央道八王子ICを過ぎて加住北丘陵の手前まで来た場所に、写真の「左入町交差点」がある。R16を北上した場合、ここを左折した場所からR411の旅は始まる。この交差点の標高は110m。ちなみに、R411の最高地点は1472mの柳沢峠である。

 少し上の写真のR16から見た標識から分かる通り、この道の通称は「滝山街道」である。滝山については本ブログの第36回滝山城跡の項で触れている。観光駐車場や滝山城跡入口の看板がある場所は、今回取り上げるR411に面している。

 R411の最初は滝山街道であるが、R411=滝山街道というわけではなく、その先は吉野街道、さらに青梅街道という具合に変わっていく。

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滝山街道は歩道の確保が難しいほどに道幅は狭い

 写真から分かる通り、滝山街道の道幅はとても狭い。一応、片側一車線は確保されているものの、バスや大型トラックでは車線内に収まるのが困難なほど。歩道はなく、人はガードレールや白線の内側をおっかなびっくり歩くしかない。

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こちらは新滝山街道の左入橋交差点

 道は狭くとも、八王子市からあきる野市への移動(その反対も)は一定程度あるし、中央道の八王子ICや圏央道あきる野ICの利用も多い。それでは渋滞必至ということで、狭い滝山街道を補完するために、そのすぐ南側に造られたのが新滝山街道である。ここもR16との交差点が始点であるが、滝山街道の左入町交差点と区別するために左入橋交差点と命名されている。

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新滝山街道は片側2車線で歩道も広い

 滝山街道とは谷地川をはさんですぐ南側を並行して走る新滝山街道は片側2車線の快適な道路で、歩道も広めに確保されている。写真の上り車線は大混雑しているが、これは左入橋交差点付近で改修工事がおこなわれていたためで、普段はもう少し空いている。ちなみに、新滝山街道はR411ではなく、都道169号線(r169)である。

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道の駅・八王子滝山は新滝山街道沿いにある

 コロナ禍もあって車移動の人が増えたためか、道の駅の利用者は増加傾向にあるようだ。写真の道の駅・八王子滝山も駐車待ちを余儀なくされるほど利用者は多い。八王子市で生産された農業品も多く扱われているため、地元の利用者も多い。ここにはR411から来ることもできる(案内表示はない)が、とても狭い道を通る必要がある。したがって、周囲にある標識のすべては、r169からの利用を案内している。

R411は北上を始める

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加住北丘陵から秋川、R411、圏央道関東山地を望む

 滝山街道は戸吹町まではほぼ西進するが、その先で、あきる野市に向かうために北上する。それには加住北丘陵を越えなければならない。始点の左入町交差点の標高は110m、戸吹町交差点は154m、北に転進する地点の明大中野学園入口交差点は166m、そして丘陵のピーク地点は176m、そこから下って新滝山街道と合流する東京サマーランド前交差点は139mである。

 写真は、丘陵を下った標高157m地点から秋川、R411の秋留橋、圏央道関東山地を望んだもの。写真の左手に見える三角形のピークは、御岳山・奥の院(標高1077m)である。

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戸吹トンネルを出ると新滝山街道はR411に合流する

 滝山街道は丘陵越えをするが、新滝山街道は戸吹トンネルで丘陵を貫通し、サマーランド前交差点でR411に合流する。交差点の先はR411の秋留橋で、そこだけ新滝山街道の流れのままに片側2車線になっている。が、右側の車線は圏央道あきる野ICに入るためのものなので、R411を直進する場合には左側の車線に移る必要がある。このICを利用するのは大型トラックが多く、トンネルの手前でトラックは右側車線に移動している。前を走るホンダ・フリードや私はR411を北へ進むので、左側車線で信号待ちをしている。

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秋留橋から見た道標

 上の写真は秋留橋から上り方向に道標を見たもので、正面に戸吹トンネルがある。この標識から分かるように、R16を目指す車は新滝山街道に進むように誘導されており、R411はあくまで左入町に至る田舎道扱いなのだ。

 ところで、先に新滝山街道都道169号線(r169)と記したが、上の標識ではr46とある。この理由は簡単で、新滝山街道部分はr46とr169との重複区間になっているからで、通常、重複区間の場合は数字の小さいほうが優先表記されることになる。しかし、日野から西に進む場合はr169(淵上日野線)の延長上に新滝山街道があるのでr169と表記され、あきる野から八王子に進む場合は日野を念頭には置いていないため、本来的な表記であるr46を採用していると考えられる。というのは私の勝手な想像にすぎず、実は単にお役所仕事上の誤表記の可能性もある。

 

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R411から圏央道あきる野IC料金所近辺を望んだ

 圏央道あきる野ICは秋川左岸の高台にある。R411の秋留橋北詰に、あきる野IC交差点がある。私が圏央道を利用するときは青梅ICを利用することがほとんどなので、あきる野ICを利用したことは数回しかない。

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平日なのにそれなりの利用者がいる東京サマーランド

 サマーランドは秋川の右岸にある。1967年に開業したので、もう50年以上の歴史があるのだが、私は利用したことはない。ドーム内プールや流れるプールがよく知られているが、そこでは釣りができないゆえ、私には無縁の存在なのだ。平日なのでガラガラだと想像したのだが、駐車場には案外、車が多くとまっていた。サマーランドは現在のところ、コロナ対策のため、事前予約しないと入場できないらしいが、私には無関係である。

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左岸の土手から秋川と多摩からの眺めを代表する大岳山を望む

 サマーランドは外観を撮影するだけで、私は秋留橋を渡り、北詰を左折して秋川の左岸に出てみた。この辺りの秋川には小堰堤が連続して並んでおり、堰堤付近ではアユが大きな群れを形成することが多いため、格好の釣り場となっている。ただ、昨年の台風19号による大増水で左岸の土手が大きく削られたためもあって流路が変更されていた。しかも、かつては左岸の河川敷に降りることができたのだが、その小道は消滅していた。

 秋川は天然そ上アユが多く、また海産アユの放流も多いので、まだまだ友釣りが楽しめそうだと思われるのだが、この広く、そして浅い流れに立つ釣り人はひとりだけだった。もともと泥砂底が大半のポイントだっただけに、昨年の大増水でますます砂や泥が堆積しアユの住処ではなくなってしまったのかもしれない。私はサマーランドには訪れることはないが、サマーランド下のポイントでアユの友釣りを何度かしたことはある。

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千代鶴の銘柄で知られる中村酒造

 秋川の土手からR411に戻り、車を北に進めた。ほどなく、左手ある「千代鶴」の看板が目に留まったので、近くのコンビニに車をとめて様子を確認してみた。現在、私は酒をまったく口にしないが、以前は少しだけ嗜んだことはあった。それゆえ、千代鶴(中村酒造)の銘柄は、澤乃井(青梅)、多満自慢福生)、国府鶴(府中)と並び、多摩地区の地酒としてその存在は知っていた。ただし、それらを口にしたかどうかはまったく記憶がない。実際、飲んだ記憶がある銘柄は剣菱ぐらいなのだ。上記の銘柄を認知しているのは、実は、道路を走っているときによく目にする看板の存在が理由だと思われる。さらに千代鶴の場合は、府中にその名の大きな陶磁器店があった(現在も集合ビルの中にある)ので、それと混同している可能性も大いにあり得た。

 千代鶴(日本酒のほう)の由緒を調べてみると、「その昔、秋川流域に鶴が飛来した事があり、これに因んで縁起の良い名前「千代鶴(つる)」を銘柄としました」とあった。また、中村家はあきる野の地に住んで400年以上過ぎ、酒造業を始めたのは1804年からで、地下170mの秩父古生層の水を汲み上げて仕込水に用いているということなので、どうも、府中の陶磁器店とは関係がなさそうであった。考えてみれば、「鶴は千年、亀は万年」の故事があるので、鶴と千とは密接な結び付きがあり、それゆえ、千代鶴という名称には普遍性があるのだろう。女性の名前でも、千と鶴とはよく結びつく。ともあれ、中村酒造の佇まいは、十分すぎるほどの歴史を感じさせてくれたのだった。

 R411を北に進む。ほどなく睦橋通り(r7)と交わる油平交差点に出会う。私がR411を北に進んでその交差点に出ることはほとんどない。一方、睦橋通りを拝島から西進してその交差点に出会うことはよくある。秋川渓谷奥多摩周遊道路に出掛ける際の大半は、その睦橋通りを利用するからだ。油平交差点は見慣れているはずなのに、見る角度が異なると、まったく記憶にない場所として認識される。なお、睦橋通りは五日市街道(r7)の支線であり、西に1キロ弱進むと五日市街道に合流する。

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五日市街道と交差する秋川交差点

 その交差点を直進して北上すると、今度はJR五日市線の踏切に出会う。五日市線は全線が単線だし、電車自体も本数が少ないので、この踏切が閉じる場面を見る機会は少ない。が、その先すぐに五日市街道と交差する秋川交差点があって、信号待ちの車が踏切までつながると、そこで一旦停止する車の動きが滞るために、秋川交差点を越えるのには案外と時間が掛かるのだ。

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閑散としていた秋川駅北口ロータリー

 私は秋川駅を覗くために秋川交差点を左折して、少しだけR411を離れた。上の写真は10年前に整備された秋川駅北口のロータリー広場の姿である。日中は電車の運転間隔が30分あるためもあってか、よく整えられた広場は閑散としていた。

 私は小学生のころ、五日市線を利用して終点の武蔵五日市駅で降り、そこから徒歩で秋川渓谷に向かい、河原で遊んだり川釣りを楽しんだりしたことがよくあった。学校の行事や町内の子供会でやってきたこともあった。その頃の五日市線蒸気機関車が走っていた。かつては秋川駅という名称ではなく、私が列車で出掛けていた頃は「西秋留駅」と呼ばれていた。西秋留駅が秋川駅と改称されたのは1987年のことである。

 そもそも、私が五日市線に乗っていた頃は「秋川市」は存在せず「秋多町」であった。といっても、秋多町にはまったく用事はなく、目的駅は武蔵五日市駅だったので、五日市町は知っていても秋多町の名前は知らず、ただ途中で、東秋留駅、西秋留駅に列車が停まったという記憶しか残ってはいない。秋多町は1972年に秋多市に昇格したが、市名は直ちに秋川市に変更された。

 五日市町は1995年に秋川市と合併し、それに伴って「あきる野市」に名称変更された。近年、市町村名を仮名書きにするのは珍しくなくなった。むつ市つがる市つくば市みどり市さいたま市いすみ市南アルプス市ニセコ町など数多くある。ただし、東西南北以外で仮名と漢字の組み合わせになるのは、あきる野市ふじみ野市いちき串木野市ぐらいだろうか。

 あきる野市が仮名交じりにしたのは、「あきる」を「秋留」「阿伎留」のどちらにするか揉めたためだそうだ。秋川市周辺は鎌倉時代には「秋留郷」、あきる野市一帯は古くから秋留台地と呼ばれていた。一方、五日市町にある「阿伎留神社」は『延喜式』に記載されているほど歴史のある神社なのである。それゆえ、秋川市側は「秋留」、五日市町側は「阿伎留」を主張して譲らなかったため、妥協点として「あきる」とひらがな表記し、あわせて武蔵野に因んで「あきる野」にしたというのが事実らしい。

 ただし、「あきる」が「秋留」「阿伎留」のどちらであるにせよ、「あきる」が何を意味しているかは不明のままだ。一説には、秋川が氾濫して田んぼの畔(あぜ)を切ることから畔切⇒あぜきる⇒あきるとなった、「あきる」には新羅系渡来人が数多く入植して開発が進んだが、彼らが信奉する新羅の女神は「アカル」と呼ばれていたので、アカル⇒あきるとなったなど、諸説あるそうだ。ただ、阿伎留神社のように、平安時代にはすでにこの地は「あきる」と呼ばれていたということは確かなようである。

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瀬戸岡交差点に向かってR411は下りに入る

 R411に戻り、再び北上する。通りの左右にはコンビニ、スーパー、その他の店が立ち並んでおり、ここら辺りがあきる野市の中心街と思われた。ただし、その賑やかさは長くは続かず、同時に道は秋留台地を下り、写真の瀬戸岡交差点に向かう。直角に交わる道路は「永田橋通り(r165)」であり、その通りを西に進むとほどなく圏央道・日の出ICに出る。

 瀬戸岡交差点を直進すると菅瀬橋が目に入る。下を流れるのは平井川で多摩川の一次支川だ。この川は、本流の多摩川とは五日市線の鉄橋のすぐ北側で出会う。秋川交差点の標高は156m、瀬戸岡交差点は145mなので、秋川駅周辺からは10m以上下ったことになる。さらに菅瀬橋は140mであり、ここを底地として平井川を過ぎるとR411はまた上りに入る。秋川に架かる秋留橋からこの菅瀬橋までが広義の「秋留台地」で、その北側に草花丘陵が横たわっている。そのため、R411はまた上り道になるのだ。写真にも草花丘陵の連なりが見えている。

 今までR411が北上してきたのは、加住北丘陵、秋留台地、草花丘陵を越えて多摩川沿いに出るためであった。この3つの丘陵・台地は、いずれも東向きに舌状に伸びているが、元々は関東山地の東縁で、加住北丘陵は谷地川と秋川との間、秋留台地は秋川と平井川との間、草花丘陵は平井川と多摩川の間にあり、それぞれの川が山地を開析し残したものである。

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西多磨霊園の高台から鐘楼や園地を望む

 R411沿いにある築地本願寺・西多磨霊園は敷地が50万平米あり、しかも丘陵の斜面に西北西へ広がっているため、とても雄大に見える。高台からの眺めはかなり良く、園内には10万本のつつじをはじめとして多くの樹木が植えられているため、散策にも適した霊園である。1966年に開設された新しめの民営墓地のため、施設も充実しているそうだ。宗派は自由ということなので、私のような無信仰の人間でも気軽に入園できる。

 写真は中腹から入口方向を望んだもので、撮影地点の標高は224m、入口は161m、園地の最高地点は258mである。霊園の下には圏央道の菅生トンネルが通っている。写真の左上に見える森は草花丘陵のもので、丘陵は平井川の支流である鯉川に開析されているため、撮影地点からは丘陵は2つに分かれているように見える。

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山田耕作の歌碑があった

 霊園内に入り、少しだけ坂を上ると左手に山田耕作の歌碑があった。『赤とんぼ』のメロディと詞が刻まれていた。西多摩霊園でも有名人は宣伝材料になるらしく、ここでは山田耕作松田優作がその代表らしい。

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霊園から満地峠方向を望む

 R411は写真にある草花丘陵を越えて多摩川右岸側に出るのだが、実際には下で見るようにトンネルが草花丘陵の中腹を貫いている。

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草花丘陵を開析している鯉川に掛かる橋

 霊園を離れ、R411をさらに北へ進んだ。先の写真にあったように草花丘陵は鯉川という小さな川に一部が分断されているが、その谷筋を利用してR411は造られ、丘陵の難関である満地(まんじ)峠(標高227m)をトンネルで越えるのだ。写真の鯉川橋の標高は159mで、霊園入口からは少し下ったものの、この先から道はまた上りになり、東海大学菅生高校入口交差点で177m、そこから道は右にカーブしてトンネルに向かう。

トンネルを越えると青梅市である(本当はトンネルの中?)

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新満地トンネルは自動車、二輪車専用

 写真の新満地トンネルはトンネルの手前が182m、トンネル入口が179mとなっており、道はやや下りながらトンネルに突入する。写真から分かる通り、このトンネルは自動車、二輪車専用で、人や自転車の通行は不可となっている。といっても、人や自転車は満地峠をトボトボと進んでいくわけではなく、新満地トンネルの東側に旧満地トンネルが残っていて、そちらを人や自転車は利用することになる。新満地トンネルは1991年に竣工したが、それまでは、旧満地トンネルと呼ばれているものがR411の旧道であって、91年以前は人も車もそちらを利用していた。

 なお、トンネルの入口(あきる野市菅生)の標高は179mだが、出口(青梅市友田町)は163mで、トンネル内で標高を16mほど下げる。

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友田交差点はR411で有数の渋滞ポイント

 新満地トンネルを出た地点の標高は上に記したように163mだが、その真西には満地峠(227m)があるので、左側は山の急斜面になっている。一方、右手は多摩川右岸になるが、その河川敷の標高は129mなので、R411との比高は34mもある。つまり、右も左も崖なのである。

 青梅市に入ったR411はゆっくりと高度を下げ、この道路の中で渋滞ポイントとしてよく知られている友田交差点に向かってゆく。上の写真はすでに高度を下げ切った場所で、左にゆっくり曲がった先に交差点がある。道標から分かる通り、R411は奥多摩町、御岳山方向に進んでいく。右折すると、その先は「青梅市街」と表記されているが、間違いとはいえないものの、小作駅近くを通る重要な道でもあるので、青梅・羽村市街と記したほうが混乱は少ないかもしれない。

 本項の冒頭に挙げた写真は、友田交差点にある道標だ。これはR411の行方を記したもので、左に行くと八王子、右に行くと奥多摩、御岳になる。また、青梅市街に出る場合もこの方向に進むのが一般的だ。道標から分かることが2つある。滝山街道としてのR411は友田交差点で終わるということ、友田交差点からR411は吉野街道となるということの2つだ。

 一方、冒頭、2番目の写真も友田交差点にある道標だが、右に進めばR411であることは上記と同じだが、左に進むと吉野街道には違いないものの、そちらは都道249号線になる。

 かように、友田交差点は、R411にとって重要な役割を有する三叉路(Y字路)なのだ。

 上の写真を今一度、見てみよう。道標の「青梅市街」と記された右折方向には六角形(ヘキサゴン)の中に249の数字が記されている。この場合、ヘキサゴンは都道を、249は249号線を意味している。249を見ると、ニューヨークと読んでしまいそうだ。あるいは入浴か?短く入浴するとニュウヨクで、ゆっくり入浴するとニューヨークになるというのは嘘である。

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友田交差点と小作坂下交差点との間にある多摩川橋

 折角なので、さしあたりR411には進まず、交差点を右折してr249方向に進んでみた。写真は右折したすぐ先にある多摩川橋青梅市側から見たものだ。橋を渡ると羽村市になる。橋を越えたr249は小作坂下交差点で奥多摩街道(r29)と交わり、そのまま坂(立川崖線)を上がると坂上交差点で新奥多摩街道(こちらもr29)と交わる。この交差点で吉野街道は終了する。道はさらに、青梅街道、圏央道・青梅IC入口へと続くのだが。

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多摩川橋のすぐ下流にある小作取水堰

 写真の小作取水堰は多摩川橋のすぐ下流にある。なお、玉川上水の取水口のある羽村取水堰は、この堰のさらに2キロ下流にある。

 ここで取水されたものの一部は農業用水として用いられるが、大半は小作・山口線導水路を伝って山口貯水池(通称・狭山湖)へ導水される。狭山湖からは東村山浄水場や境浄水場武蔵野市)へ導水され、三次処理された水は東京都の上水道として利用される。

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多摩川橋の西詰から見た友田交差点の標識

 R411に戻るため多摩川橋から友田交差点に向かった。写真の道路標識はr249から見たものである。左折すればR411は滝山街道として始まり、右折すればR411は吉野街道の延長上にあることが分かる。こうした標識から読み取れる情報は、意外に面白い気付きにつながるのである。

 なお、R411上に走っている道路は圏央道で、秋川から友田交差点まで、R411と圏央道は並行してきたのだった。この交差点のすぐ先で両道路は立体交差(ここでは互いに行き来はできない)し、圏央道は入間、狭山、鶴ヶ島方向へ、R411は御岳、奥多摩方向へ進み、別々の旅に人や荷物や車をいざなう。

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昨年の台風19号が多摩川に刻んだ傷跡

 友田交差点から1キロほど進んだ右手に、「友田リクリエーション広場」に至る道がある。広場は、多くの多摩川河川敷でよく見られるようなスポーツ広場や公園、散策路として整備されている。しかし、 昨秋の台風19号の大増水で広場がある右岸側は大きく削り取られ、野球場は外野部分の多くを、公園施設はほぼすべてを失った。ここは多摩川の流れが左にカーブする位置にあるため、大濁流は曲がり切れずにコンクリート護岸を大きく破壊し、さらに広場の土盛りまでをも流し去ってしまったのだ。

R411は青梅街道に名を変える

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この交差点でR411は吉野街道に別れを告げる

 吉野街道は多摩川右岸を付かず離れずといった感じで西進するが、R411は写真の畑中一丁目交差点で右折し、今度は青梅街道として奥多摩方向を目指すことになる。一方、吉野街道はそのまま多摩川右岸を進むが、この交差点からは都道45号として西進する。

 右折したR411は青梅街道を目指す。が、その街道は多摩川左岸を西進しているものの、多摩川は硬い岩盤に行く手を遮られて大蛇行を続けているため、多摩川とは吉野街道同様、付かず離れず状態にある。そのためもあり、R411は交差点からすぐに多摩川を渡る(万年橋)ものの、青梅街道とはただちに合流することはできず、800mほど北上する必要があった。

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R411が青梅街道に合流する丁字路

 R411が青梅街道(都道5号線)と合流するのは、写真の標識がある青梅市文化交流センター南交差点である。新宿大ガード下から始まった青梅街道は都道4号線として青梅を目指し、田無で都道5号線となってここに挙げた丁字路まで進んでくる。そして、R411に合流した青梅街道は、ここから国道411号線として西を目指し、最終的には甲府にたどり着くことになる。

 畑中一丁目交差点で吉野街道の名を失ったR411は、この交差点で今度は青梅街道の名を得る。両交差点間の約800mは「街道」の名は存在せず、R411として独立自尊?の短い旅を進めている。

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釜の淵公園に至る柳淵橋

 上に挙げた青梅市民会館南交差点のすぐ南側には青梅市立美術館があるが、その裏側にある多摩川は大蛇行して逆Uの字を造っている。そのUの字の間に造られたのが釜の淵公園である。駐車場は2か所ある。ひとつは吉野街道沿いにある「かんぽの宿・青梅」の裏手に位置する無料のスペース。ただし、駐車場所は狭くそれに至る道も狭いので、満車のときは引き返すのに苦労する。もうひとつは、R411から「郷土資料館」と書かれた小さな看板のある丁字路を入り多摩川左岸の際に進むもの。こちらはゆったりとしたスペースがある。ただし有料。もっとも一日100円なので、私はこちらを毎回、利用している。件の丁字路は「無名状態」になったR411にあるが、信号はないので、上に触れた「郷土資料館」の小さな看板を頼りにするのみであるが。

 駐車場からは写真の柳淵(りゅうえん)橋を渡って公園の敷地に入る。橋のたもとには「若鮎の碑」があるが、撮影にはやや勇気がいる。青梅市はとても魅力的な町なので、いずれ青梅市単独でひとつの項を立てる予定でいる。そのときには勇気を振り絞って、その像を撮影するつもりでいる。

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特徴的な佇まいをしているかんぽの宿・青梅

 柳淵橋からかんぽの宿を望んだ。吉野街道から見ると変哲のない宿に見えるが、こちらから見るとかなりロケーションは良さそうだ。ちなみに、2人で一泊2食付き8畳の和室で、26100~37300円とあった。強盗を使えば限定クーポンを含めればほぼ半額になるのでリーズナブルな料金といえる。しかし、強盗が東京都にも適用されて以来、予約難しくなっているようだ。

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琵琶湖産鮎放流の地にある鮎美橋

 写真の鮎美橋は柳淵橋の反対側にあり、公園から青梅市街に進むには便利な橋である。橋の東詰あたりから立川崖線が生まれている。私は毎回、この橋上から流れの中を観察してアユの姿を探すのだが、発見したことはあまりない。

 アユは秋に産卵し、ふ化した稚魚は川を下って河口付近で生活し、春に川をそ上しておもに中流域で育ち、秋に産卵して一生を終える一年魚である。一方、琵琶湖には湖内で一生を過ごすアユがいて、これは海に下るアユとは別種であると考えられてきた。1910年、東京帝大の石川千代松博士はそれを同一のものと考えて論文を発表し、さらにそれを実証するために、多摩川の青梅地区に琵琶湖の稚アユを運びこんで実験をおこなった。稚アユは大きく育ち、石川博士の理論の正しさは証明された。

 青梅は琵琶湖産アユ放流事業の発祥の地であり、かつ江戸時代から青梅の鮎は庶民の生活を支える重要な資源でもあったこともあって、釜の淵公園には「若鮎の碑」や「鮎美橋」など、アユにまつわるものが存在するのである。

 近年では琵琶湖産アユの放流事業には問題点が数多くあるという指摘もなされている。この点については、アユ釣り師のひとりとして、改めて触れてみたいと考えている。さしあたり今回は、青梅とアユと釜の淵公園とのつながりをごく簡単に触れてみた次第だ。

 R411を行く旅は、その道の終着点である甲府市甲府警察署前交差点)まで続く。次回は、青梅市街から奥多摩湖のバックウォーター付近まで出掛ける予定だ。

 3ケタ国道の旅はいろいろな発見があって面白い。いや本当に。