徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔72〕八高線とその沿線を楽しむ(3)高崎駅から寄居駅と町。そして新しき村

ここにしかない八高線同士のすれ違い

寄居町散歩

荒川の流れを望む

 高崎駅に向かう前、少しだけ寄居町周辺を歩いた。といっても、南口ロータリー付近は再開発のための大工事がおこなわれているので、いにしえの面影を偲ぶことはできない。それゆえ、駅からそれほど遠い位置ではない「鉢形城跡」を少しだけ訪ねることにした。

 写真は荒川に架かる「正喜橋」から川の流れを眺めたもの。この辺り(鉢形河原)は岩盤と石の河原とで形成されているため、水遊び場として賑わう場所である。

鉢形城の復元地形模型

 荒川を渡るとすぐに鉢形城跡が見えてくる。その辺りは城の敷地の東側で(搦め手)で、大手門はずっと西側の八高線の線路近くにある。ただ、寄居駅からのアクセスは東側のほうが良いので、今回はこちら側を少しだけ散策した。

 四阿(あずまや)のある広場には、写真の「復元地形模型」があり、この城が、谷深い荒川と深沢川とに挟まれた断崖絶壁の自然の要害に築かれたということが、この模型からもよく分かる。

城跡内から荒川を望む

 広場から、荒川右岸に沿って整備された道を本丸方向に進んだ。四阿、正喜橋、荒川の流れが見て取れる。

かつて御殿があったとされる場所

 鉢形城は1476年、関東管領山内上杉家の家臣、長尾景春が築城したとされる。のちに北条氏康(小田原北条氏三代目)の四男である氏邦が整備拡充し、有数の平山城になった。

城跡から寄居市街方向を望む

 1590年、秀吉の小田原攻めの一環として、前田利家上杉景勝真田昌幸率いる北国支隊に浅野長政勢を合わせて5万ともいわれる軍勢が攻め込み、一方の鉢形城は3500人で守備していた。約一か月の籠城の末、6月14日に開城した。

本丸跡を示す碑

 鉢形城の本丸は、荒川右岸の断崖絶壁の上にあった。

建造物は一切、残っていない

 建築物はまったく残っていないが、その立地条件から、極めて攻めにくい城であることがよく分かる。

荒川右岸側に面した高台

 荒川に面した側は少し高台になっていて、周囲の様子がよく見渡せる状態にある。

本丸のある高台を見上げる

 御殿曲輪があったとされる場所から本丸があった場所を見上げた。このように変化に富んだ地形は、西側にある二の丸や三の丸に当時の土塁や堀が一層よく残っている。本来ならばそちらも訪ねたいところだが、私には八高線の旅が待っているので、今回は省略した(いつもは車で訪ねるのだが、今回は徒歩だったために歩くのが面倒だっただけ)。 

高崎行きの列車に乗り込んだのだが

 寄居駅に戻り、八高線に乗って高崎駅を目指す旅を再開した。寄居から先はまだ乗ったことがなかったので当然、前面が展望できる場所に位置して鉄路や周囲の様子を撮影するつもりでいたが、私が乗り込んだ列車の運転席の後ろの好場所には高そうなカメラをぶら下げている3人の少年が陣取っていた。

 そこは八高線の悲しさで、時間の関係上、次の列車に期待するという訳にはいかないために撮影は断念し、車窓から沿線の景観をよく観察し、帰りの列車で撮影したいポイントをチェックすることにした。

高崎駅周辺

花の街・高崎

 高崎駅に降りたのは今回が初めて。というより、市街地に足を踏み入れたことさえ一度もなかった。高崎と言っても、遠目に高崎観音を視認したぐらいだろうか。妙義山碓氷峠榛名山周辺は車でよく出掛けたのだが、宿泊地は決まって前橋で、そこから赤城山足尾銅山へと進むのが私のお定まりのコースだ。

 今回、八高線を利用して高崎駅にやってきたのだが、町並みが綺麗だったのには驚かされた。このときは「フラワーフェスティバル」が開催されていたこともあり、街中は”花だらけ”であった。

高崎城址の石垣

 特にあてはなかったが、とりあえず「高崎城址公園」に立ち寄ってみた。高崎城は1598(慶長三)年、家康の命を受けて箕輪城主の井伊直政が築城したとされている。現在は三の丸外囲、お堀、復元された石垣や乾櫓などが残っているだけで、約5haの広大な敷地は城址公園、21階建ての市役所、群馬音楽センターなどに利用されている。

乾櫓が残る

 写真は、復元された「乾櫓」。この櫓だけが、かつてここが城であったことが明確になる建築物である。

華(花)の卒業式

 城址公園の中を歩いてみた。この日は近くのホールで高崎経済大学の卒業式があったようで、袴姿に着飾った彼女を満開の桜の下に立たせて記念撮影をおこなうという微笑ましい姿があった。一方、後ろにいるオッサンは花壇の花たちをスマホで撮影していた。

 この日も、春は爛漫だった。 

賑やかな高崎駅構内

 折角なので、駅の東口ものぞいてみることにした。駅構内はかなりの人出があった。何しろ、この駅には北陸・上越新幹線も停車するのだ。

東口ロータリー

 東口には、整った街並みが広がっていた。近年、この辺りは再開発が急速に進んでいるようだ。駅前ロータリーは整然としており、周辺の道路の道幅もかなり広い。

ペデストリアンデッキ

 東口から伸びる屋根付き照明付きのペデストリアンデッキは、新設された高崎芸術劇場やGメッセ群馬(群馬コンベンションセンター)に通じている。

 駅前の街並みは立派になっているが、高崎市の人口は決して増えているわけではない。人が中心部に吸い上げられるということは周辺部の過疎化を推し進めることにつながる。それが人々にとってどう利益不利益になるのかは誰にも分からない。

高崎駅から児玉駅

寄居駅に向かいたいのだが

 八高線八王子駅に戻ることにした。次の列車は高麗川行きではなく児玉行きだった。これに乗っても児玉駅で次の列車を待つことになる。その一方、この列車ならば利用客は少なく、それゆえ運転席のすぐ後ろの場所に陣取る人はいないだろうと思い、とりあえず児玉駅まで利用することにした。

八高線のホームだけが短い

 高崎駅には、新幹線だけでなく湘南新宿ライン上野東京ライン高崎線上越線吾妻線両毛線信越本線が乗り入れている。それらの間に八高線の3番線ホームがあり、写真から分かるとおり、八高線のものだけが短く設定されている。

列車の入線

 児玉行きとなる列車が入線してきた。列車を待つ人は予想より多かったが、それでも、カメラを持参している少年の姿はなかったので、撮影場所は確保できそうだった。

まずまずの数の乗客

 乗客には若者の集団があったが、八高線には乗り慣れている様子だったので、私のライバルにはなりそうもないと判断した。

お隣のホームは0番線

 写真の上信鉄道上信線(高崎・下仁田間)は高崎駅の一番西にあり、そのホームは0番線となっている。ホームの反対側が1番線なのだろうが現在は使用されていない。

 車両に記されている「群馬サファリパーク」(1981年開業)は富岡市にあるので、確かに上信鉄道沿線には違いない。この手の場所には、はるか以前に「宮崎サファリパーク」に行ったことがある。1975年に日本で最初のサファリパークとして開業し86年には閉鎖されている。開業されて間もない時期だったので、おそらく75年に行ったはずだ。それ以外の記憶はほとんどない。

高崎駅を出発

 無事に運転席のすぐ後ろの場所が確保できた。列車は次の倉賀野駅に向けて出発した。

複雑な線路

 八高線八王子駅倉賀野駅とを結ぶ路線なのだが、実際には高崎駅に乗り入れている。この区間高崎線の線路を利用しているがホームは異なるため、写真のようにな複雑に線路を移動しながら高崎線へと乗り入れている。

間借りの線路ですれ違う

 単線のはずの八高線だが、この区間高崎線の線路を間借りしているので、この区間だけは複線になる。そのため、写真のように高崎行きの列車とすれ違う様子を目にすることができた。中央線や京王線ではごく当たり前の景色だが、八高線では貴重なカットとなる。

高崎線上を進む

 まだまだ高崎線の軌道を進み、次の倉賀野駅を目指す。

 

まもなく倉賀野駅

 まもなく倉賀野駅。ホームは長いが、八高線が利用するのはほんの少しだけの距離にすぎない。倉賀野駅八高線の終点駅(形式上の)であるが、駅としての所属は高崎線となる。

桃太郎参上

 倉賀野駅は貨物基地でもある。基地には写真の「エコパワー・桃太郎」の愛称があるEF210型電気機関車が停めてあった。

烏川橋梁

 倉賀野駅を離れると、すぐに利根川の支流である烏川を越える。この線路はまだ高崎線のものである。

まもなく高崎線から分岐

 写真の場所から八高線高崎線の軌道から離れ、独自の線路を進むことになる。

まもなく高崎線とお別れ

 しばらくは高崎線の道床を使って真ん中の線路を進む。ただし上方を見ると、八高線にだけは架線がないことが分かる。これを道床異無というのかも。

右に曲がって独自の道へ

 高崎線は東へ、八高線は南へ進むため、八高線の線路は高崎線の下り線路を越えて進むことになる。八高線が右に曲がる場所に古い転轍機が残されているが、いまやまったく用をなしていない。

ここからは自前の道を進む

 高崎線の道床を離れるとすぐに北藤岡駅に到着する。ここから八高線は南に進路を取り、秩父山地の東縁を目指すことになる。

まもなく北藤岡

 まもなく北藤岡駅。すぐ隣には高崎線が走っているのだが、そちらには駅はなく、ただ八高線にだけ「北藤岡」の名の駅がある。

上を走るは新幹線

 北藤岡駅を離れ、次の群馬藤岡駅を目指して進んでいく。前方には、北陸・上越新幹線の高架橋が見える。

まもなく群馬藤岡駅

 まもなく群馬藤岡駅に到着。この駅で、高崎駅から乗り込んだ若者たちが降りて行った。地図で確認した限り、近くに学校はなさそう。神流川左岸にはグラウンドがあるので、そこへ行くのだろうか。

意外に立派な設備があった

 利用客がそれなりに居る駅のようなので、非電化区間八高線には珍しく自動改札機が数列、整備されている。 

春の中を走る

 この辺りは平地が広がっているので、住宅地があったり田畑かあったりと、典型的は田舎の風景の中を八高線は進んで行く。

前方には秩父の山々が

 前方には秩父の山々が近づいてきたが、八高線はそれを避けるように進んでいく。

 

まもなく神流川橋梁

 神流川(かんながわ)橋梁が見えてきた。私にとって神流川はいろいろな体験をした思い出深い河川なのである。

下流部は緩やかに流れるが

 この辺りは緩やかな流れだが、数キロ上流からは急に山深くなる。上流部には下久保ダムがあってその上に神流湖がある。その先からはアユ釣り場としてよく知られた流れがあり、最上流部の上野村付近の流れでは渓流釣りが楽しめる。一時期、その一帯によく通ってヤマメ釣りをおこなった。神流川の名前がまだ多くの人に知られていない頃のことだ。

 1985年8月12日18時56分、神流川の源流のひとつであるスゲノ沢近くの尾根に日本航空123便が墜落した。以来、神流川の名前も上野村の名前もニュースなどでよく取り上げられ、一躍全国区的存在になった。事故後しばらくは神流川に通うことはなくなったが、数年後にアユ釣りを始めたこともあって、今度は友釣りのために出掛けるようになった。

 群馬県は雷が多いことでよく知られている。雷が大の苦手である私は、アユ釣りの際にもしばしば中断もしくは納竿を余儀なくされた。緑は深く、流れは清冽、魚体は美しく、村の人々はとても親切だった。ただ雷が多いことだけがこの場所の短所だと思っていた。

 そんな場所に、ジャンボ機は墜落したのである。

まもなく丹荘駅

 もうすぐ丹荘駅に到着。右手には列車交換用のホームが残っている。が、使われている様子はなかった。

交換駅だった面影が

 駅名表示板は外され、レールには錆が浮いている。

 JRでは不採算路線の廃線を進めている。旧国鉄の時代の廃線基準は一日の平均通過人数(輸送密度)が2000~4000人だった。八高線でいえば、八王子・拝島間は22689人、拝島・高麗川間は10220人、高麗川・倉賀野間は1672人である(いずれも2020年調査)。ちなみに同調査によれば、山手線は720374人、南武線は148630人、青梅線の立川・拝島間は140281人、青梅・奥多摩間は2897人、五日市線は18236人だ。

 もっとも、2020年はコロナ禍の影響でほとんどの路線で19年に比べて大きく減少している。たとえば山手線の19年は1121254人で、八高線高麗川・倉賀野間は2994人だった。山手線は前年の64%、八高線の非電化区間は56%(南武線は73%、横浜線は70%)なので、八高線の利用者減少はコロナ禍が理由とばかりは言えない。そもそも八高線では「密」になることは滅多にない。

 青梅線の青梅・奥多摩間は廃線の検討、八高線の非電化区間は運行困難路線として廃線が決定されてもおかしくない利用率である。地方のインフラは採算だけでその存在非存在を決定すべきではないはずだが、その一方で、企業である以上、赤字をそのまま放置することもできまい。

 そう遠くない何時か、八高線からは線路が撤去されて道床は舗装され、その上をバスが走っている姿を見るようになるかもしれない。私の場合、その前に神から「You are fired!」と宣告されているだろうけれど。

児玉駅に向かって出発進行

 次は児玉駅だ。真っ直ぐにレールが敷けるほど、周囲にはさしたる障害物はない。

美しい田園風景

 車窓からは、よく整った美しい田園風景を望むことができる。

メガソーラー施設も多い

 平地には工場が進出していたり、写真のようなメガソーラー施設を見掛けたりすることもある。

いつもなら列車は来ないはずなのに

 まもなく児玉駅。どこかの場所で故障が発生したらしく、この列車は数分遅れで駅に到着する。いつもとは少し違った時間に踏切が閉まったことで、自転車に乗った子供はちょっぴり怪訝そうな表情で列車を見つめていた。

児玉駅に入線

 児玉駅に入線した。この列車はここが終点になる。

◎児玉といえば

この列車はここが終点

 児玉駅で降りた乗客は数人。2両連結ではもったいないほどの余裕があった。

小さな駅舎

 一部の列車が終点にするほどの駅にもかかわらず、駅舎はかなり小さめ。無人駅だったので、この近くに売店やコンビニがあるかどうか尋ねたかったのだが。私は昼食をとることを失念していたのだ。

児玉町といえば塙保己一の生誕地

 児玉町と聞けばすぐに塙保己一はなわほきいち、1746~1821)を思い浮かべるほど、この町(現在は本庄市児玉町)にとって、いや、日本にとって彼は誇るべき存在なのだ。私は神流川に釣りに出掛ける際には関越道の本庄児玉インターを下りて、国道462号線を西に進んで川に向かう。その際、児玉町を通るときは必ず、塙保己一に黙祷を捧げる。

 彼は7歳の時に失明した。手のひらに文字を書いてもらって字を覚え、文章は読んでもらえば一度ですべて丸暗記できた。検校の道は彼には困難だったが、一方で学才が認められて学問の道に進むことにした。国学、和歌、漢学、神道律令、医学などあらゆる分野の学問を学び、そしてそのすべてを暗記した。

 水戸藩の『大日本史』の校正や歴史資料の編纂をおこない、彼のおこなった作業は現在の東京大学史料編纂所に受け継がれている。平田篤胤頼山陽は彼に多くを学んでいる。彼の業績は『群書類従』にまとめられ、彼のお陰で江戸時代後期までの日本の歴史や文化、文学について我々は知ることができるのだ。

 ヘレンケラーは彼の存在を知って人生の目標を立てることができた。現在では女性の医者は珍しくないが、その道を切り開いたのは彼の業績だ。原稿用紙が20×20の400字詰なのも『群書類従』の編纂過程で決まったものである。

売店を探したのだけれど

 それはともかくとして、私は塙大先生のことよりもこのときは空腹に苦しんでいたため、売店やコンビニを探して駅近くを歩き回った。駅前広場が写真の通りであるように、食品を扱う店は皆無だった。国道にも出て少し見渡してみたのだが、食べ物を入手できる店は見当たらなかった。残念至極だったが食料入手は諦めざるを得ず、私は駅に戻って次の列車を待つことにした。

児玉駅から寄居駅

 次の高麗川行きは10数分遅れて児玉駅に到着した。しかし、八高線は1,2時間に一本なので、次の列車に乗るはずの人が一本早い列車に乗れてしまったということはない。

小山川(利根川の支流)橋梁に向かう

 次の松久駅に向けて出発した列車は、利根川の支流の小山川を越えて行く。神流川と言い小山川と言い、この辺りには利根川の大支流が流れ込んでいるため、沖積平野が広がっているのだ。

松久駅に入線

 松久駅に入線。この付近にはまったく不案内なので、駅の周囲に何があるかは全く不明だ。

簡素な松久駅

 とてもさっぱりとした松久駅の改札口。この駅を利用する若者たちには、時間はゆっくりと流れているだろう。それが貴重な時間であったことは、彼・彼女らが都会に出てみるとよく分かるはずだ。

用土駅に向かう

 次の用土駅に向かって出発進行。前面には、八高線沿線ではすっかりお馴染みとなった景色が広がっている。

用土駅に入線

 

 用土駅に入線。ここも、かつては列車交換駅だったようだ。線路の曲がり具合と左手の空き地の存在が、かつてここにはホームがあったという証拠になっている。

用土駅の改札

 ここもまた簡素な改札口。用土、松久、丹荘の各駅の名前からはそこがどんな町(集落)だったのか全く見当がつかないばかりでなく、地理上の位置すら私にはさっぱり分からない。国道254号線が八高線の近くを通っているが、その国道は東松山から寄居までは使うことはあってもその先を使うことはないからだ。もっとも、富岡から下仁田に抜けて妙義山方向に進む際にはその国道を使うことになるが。

寄居駅に向かう

 用土駅から寄居駅に向かって列車は進む。西日が斜め右側から差し込んでくるので前方はやや見づらい。

秩父鉄道との出会い

 寄居駅に近づくと、左手から秩父鉄道の線路が迫ってきた。

秩父鉄道と並走

 寄居駅までは秩父鉄道と並走する。そちらは電化されているので電柱やら架線やらが賑やかだ。

まもなく寄居駅

 まもなく寄居駅に到着。線路は複雑に入り組んでいるが、これらの多くは、かつての黄金期(八高線にもあったはずだ)を物語っている。

寄居駅に入線

 寄居駅に入線。窓ガラスと運転席後ろのアクリル板に西日が反射するため、かなり見づらい前面展望になっている。

寄居駅を離れ、八王子駅

寄居駅を離れる

 すでに寄居駅には立ち寄っているため、帰りはこのまま高麗川駅まで乗っていくことにした。

荒川を渡る

 荒川橋梁を渡る。帰り(上り)は秩父山地を前方に見ることになるので、下り方向とは前方に展開される景色はかなり異なっている。

夕まずめ八王子駅

 寄居駅以南の撮影は、日が陰ってきたこともあって撮影はしなかった。高麗川駅で川越から来た電車に乗り換え、写真の八王子駅に無事到着した。

 夕方の八王子駅は、八高線と言えどもそれなりに混雑していた。もっとも、多くは拝島駅で降り、さらに高麗川駅に到着するまでに大半は消え去るはずだ。

 5回目の八高線乗車はあるかと聞かれたら、80%の確率で「否」と答えるだろうか。これからも八高線沿線には数多く出かけるだろうが、それと八高線を利用するということとは別だからだ。

 鉄道に乗るのは好きだが、鉄道のある風景に触れることのほうがより興味があるからだ。

新しき村を訪ねて

村の入口

 別の日に「新しき村」に出掛けてみた。近くを通ったことは何度かあったし、県道30号線を走っている際には「新しき村」の標識を幾度となく見掛けていたが、村の中に入るのは今回が初めてだ。

村の玄関口

 「新しき村」は1918年、武者小路実篤が中心となって格別の理念を掲げ、宮崎県に建設された村落共同体だ。が、近くにダムが建設されることになって農地の一部が水没してしまうため、39年、一部が毛呂山町に移転してきた。ここは10haの敷地を有し、最盛期には60人もの村人が居住していた。

 大きな養鶏場があって最盛期には5万羽以上飼育し、年間3億円もの収益を得ていた。現在は廃業し、代わって多くのソーラーパネルを敷地内に設置し、売電によって村費を得ているようだ。

村のギャラリー

 ギャラリーでは作品展が開催されていた。訪れる人は見掛けなかったが、誰でも自由に見学できるはずだ。

新しき村の精神を知る

 一角に、「新しき村の精神」が掲げられていた。自他共生は理念としては正しいが、いざ実践となると困難だらけとなる。顔が見える小さな集団では感情の対立が発生するだろうし、顔の見えない大きな集団では、何で俺が知らない奴のために努力しなければならないのかという疑問が必ず付き纏う。

 そうはいっても、理念なき社会では欲望がむき出しの新自由主義という最悪に近い価値観が幅を利かせてしまう。理念を実現するためには、自己を再帰的に見つめるということから始めるべきだろう。それが第一歩目だ。

入植当時の小屋

 入植当初に造られた小屋が展示してあった。こんな質素な小屋で気宇壮大な理念を抱く人々が生活していたのだ。

村の美術館

 美術館があった。少し広めの個人住宅といった風情。私は美術は(も)不得手なので入館はしなかった。

村の公会堂

 美術館の向かいには、写真の「公会堂兼売店兼食堂」の建物があった。

会合の案内

 写真の「大信荘」で毎月開催される「喜楽会」のお知らせ。第4日曜日の前の土曜日、夜7~9時に開かれる。参加費は100円。新しき村について知りたい人を歓迎するとのこと。

田畑とサギ

 南側には田畑が広がっている。作業する人の姿は見掛けなかったが、あぜ道を散策する近隣の人々と、餌を探すサギの姿があった。

寄贈された都電

 田畑の北側の高台には、写真の「都電」が展示してあった。新しき村の幼稚園児のために寄贈されたものだが、幼稚園が廃止されてからは近隣の子供たちの遊び場として利用され、古くなった後には多くの人々の手によって改修されて現在に至っているとのこと。

田畑から八高線を望む

 「都電」が見つめる先には八高線の線路があり、八高線の列車が走っていた。そのときはカメラを構えていなかったので撮影はできなかった。

 スマホで時刻表を調べると、20分後くらいに下り列車が通過することが分かったので、田畑を散策しながら時間をつぶし、そして撮影に適した場所を探した。

 背後にある埼玉医科大学のグランドには照明の火が入れられている。薄暗くなりはじめた時間帯なので列車の撮影は難しいかなと思ったが、何カットかのうち一枚だけ使えそうなものがあったので掲載した。

 一両編成の八高線は北に向かっていた。私は車に戻って南へと帰っていった。

  *   *   *

 5月15日から23日まで、若狭湾から山陰東部の海岸線(敦賀から余部まで)を散策します。今回は、できれば毎日、出掛けた場所の写真を数枚掲載し、帰宅後に探訪記を数回に分けて掲載する予定です。

 敦賀半島三方五湖、小浜、舞鶴由良川天橋立、伊根の舟屋、経ヶ岬、丹後松島、間人温泉、琴引浜、夕日ヶ浦、久美浜、タンゴ鉄道、玄武洞城崎温泉、香住浜、余部鉄橋などに立ち寄ります。帰りには、京都、近江八幡彦根醒井にも寄るつもりです。

〔71〕八高線とその沿線を楽しむ(2)高麗川駅から寄居駅まで

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小川町駅に入線する上り列車(一両編成だけど)

◎散歩中の拾い物

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落陽の中、八高線は北へ走る(入間川橋梁)

 入間川に別れを告げる途中で橋梁を走る下り列車を目にしたので、慌ててカメラを向けた。日は傾き始めていたために電車の姿はかなり見づらいが、私の心の中に強く印象付けられた一コマだ。

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散策路で見つけた看板

 上の2枚の写真は、前回に掲載し忘れたもの。入間川右岸を散策中、上の看板に出会った。これは八高線入間川橋梁の下に整備された散策路にあったもので、その道は写真のとおり「真善美の小径」というそうだ。

 「真善美」はこの散策路のすぐ南側にある「飯能市立加治中学校」の校訓とのこと。学校では生徒にカントの三批判書の熟読を強いるのだろうか。もっとも、校訓や校歌の言葉は象徴的なものに過ぎない。私の母校の府中市立第一中学校の校歌にも、「自主」や「真理」などという言葉がちりばめられていたが、それをまっとうに理解していた生徒は皆無に近かった。それは良いとして、「真善美の小径」の命名は相当にまずいのではないか。

 「真善美の散策路」であればアリストテレスの逍遥学派(ペリパトス派)を連想させるので実に良いのだが、いかんせん「小径」はいただけない。『論語』の雍也編に「行くに径(こみち)に由(よ)らず」の言葉がある。物事は地道に進めるべきで、径(小径、近道や抜け道の意味)を求めてはならないとの教えである。ましてや「真善美」を探求するのに近道や抜け道などあり得るはずがない。それでは、たとえば生徒がレポートを作成する際にウィキペディアの丸写しさえ認めるということになりかねない。小径ではそうした安直な道を許すということになる。

 伊豆の下田湾には「ハリスの小径」がある。あのハリスなら近道や抜け道はお似合いだろうが、真善美を求めてやまない生徒には小径に由ることを禁ずるべきだろう。それでも、私が生徒なら進んで抜け道を探すだろうが。

◎高麗神社と聖天院を訪ねる

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高麗神社のニの鳥居

 高麗神社は高麗川駅から徒歩20分ほどのところにある。私は何度もこの神社を訪れているが、すべて車で立ち寄っている。今回は高麗川駅から歩こうかと思ったが途中で止めて、別の日に車で出掛けることにした。

 この神社は、私に学問の面白さを覚醒させてくれた記念すべき場所なのだ。以前にも本ブログで少し触れたが、予備校の英文解釈の講師が日本古代史の話ばかりするのに触発されて、私は彼の主催する研究会に参加するようになった。研究発表は難解すぎてほとんど理解不能だったが、現場での実地調査研究はとても興味深かった。その調査研究に私が最初に参加したのが、ここ高麗神社(と聖天院)だったのだ。

 若手研究者が侃々諤々と激しく、しかし楽しそうに議論する様を間近に接したことで、私も彼・彼女らのように探求心を抱いてみたいと思ったのだった。実際には、学問以上に釣りの面白さの方に魅せられてしまったのだけれど。

 神社へは車で行ったのだが、折角なので駅と神社をつなぐルートを少しだけ歩いてみた。少し見えにくいが、電信柱には高麗神社の方向を示す看板が掲げられている。道の角には、お墓やお地蔵さん、庚申塚があってなかなか興味深かった。

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神社への道標

 道の角には写真のような道標もあった。

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道沿いには田舎の風景が広がる

 道沿いには新興住宅地もあったけれど、写真のようなのどかな景色にも触れられる場所が多々あった。高い木立の向こうに高麗神社の境内がある。

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高麗川に架かる「出世橋」を渡るとすぐに神社

 写真の「出世橋」の北詰を少し直進すると、すぐ左手に一の鳥居や専用駐車場、将軍標などが目に入る。

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川をのぞくのは釣り人の性

 出世橋の名は、高麗神社が「出世明神」の別名を有することに由来する。高麗神社に参拝した政治家が6人も立て続けに総理大臣に就任したことからその名が付けられたそうだが、出世した政治家が立派な政治をおこなったかどうかは不明である。出世を自分自身のために利用したことは明らかだが。

 出世とは無縁の人生を送ってきた私には、橋そのものよりも下を流れる高麗川のほうが興味深かった。右岸の河原にはオッサンがいて弁当を食っていた。彼もまた出世とは縁遠い存在に思われたが、暖かい日差しを受けて気持ち良さそうにときを過ごしているということは確かなようだった。

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石碑には『後日本紀』の一部が刻まれている

 高麗神社は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を主祭神とする。7世紀後半、若光は高句麗使節団の一員として渡来したが、高句麗新羅によって滅ぼされたために、そのまま日本に残ることになった。

 大和朝廷に仕えた若光は、大宝三(713)年に王(こきし)の姓を賜った。また霊亀二(716)年に駿河や甲斐など七カ国から高麗人1799人が武蔵国に遷され高麗郡を創設した。その際、若光は郡長に任命されたという。

 こうした動きは『続日本紀』に記されており、写真の石碑はその一部を抜粋したものである。

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手水場で心身を清める

 神社は秩父山地の東裾にある。境内の標高は76mほどで、すぐ西側には140m前後の山が連なっている。実地調査に参加した韓国人の研究者は、この地域の姿は朝鮮半島によくある景観に酷似していると語っていたことを記憶している。高麗王若光御一行は関東地方の開拓のために大磯を手始めとして、高座郡(現在の神奈川県大和市)、北上して高麗郡に辿り着いた。

 当時、朝鮮半島の自然にはまったく関心を抱くことはなかったが、後に韓国を旅行するようになり、さらに『愛の不時着』を見るにつけ、確かに日本と朝鮮半島里山の風景はよく似ていると実感し、かの研究者の言葉が思い出されるこの頃である。

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穢れも払う

 実地調査では、神奈川県大磯町にある高麗山(標高168m)や高麗神社(現在の高来神社)周辺にも出掛けた。そこが高麗王若光の最初ともいえる「仕事場」だったからだ。大磯丘陵もやはり、ここと同じような景観を有していた。半島からやってきた高麗人は故郷を想い、よく似た姿を有した場所を開拓地に選んだのだろう。

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本殿を眺める

 参拝する習慣のない私は、この神社でも御神門や本殿をただ眺めるばかりだった。

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本殿と参集殿を横から眺める

 本殿の裏手に、代々の宮司の住まいが残っている。そこに立ち寄るために本殿と参集殿の間の道を通った。そのとき僅かに拝殿や本殿の屋根が見えたので撮影してみた。

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国の重文に指定されている高麗家住宅

 代々の宮司である高麗氏の旧宅は慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)に造られたもので、現在は国の重要文化財に指定されている。左手に写っているシダレザクラは樹齢400年とされ、茅葺の家とともにこの地の歴史を見守ってきた。 

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神社から徒歩10分の位置にある聖天院(しょうでんいん)

 若光の菩提寺として751年に創建された「高麗山聖天院勝楽寺」は、高麗神社のほぼ南側350mほどのところにある。高麗神社同様、ここにも門前には将軍標(チャンスン、ジャングンピヨ)がある。聖と俗との境界線であると同時に災厄からの守りを固めている。

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高麗王若光の墓

 山門の右手に写真の高麗王若光の墓(高麗王廟)がある。中には五つの砂岩を積み重ねた塔がある。四隅には石仏があったらしいが現在は風化してしまってその姿を見ることはできない。

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山門はなかなか見ごたえがある

 威風堂々とした山門(風雷神門)には、大きな「雷門」と書かれた提灯が掛けられている。

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弘法大師

 この寺は真言宗智山派に属するため、山門と王廟との間には写真の弘法大師像もある。なお、ここは武蔵野観音霊場の第26番札所でもある。

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この寺最古の建築物

 中門をくぐった左手にあるのが写真の阿弥陀堂室町時代に建てられたもので、この寺では最古の建築物とのこと。

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新築された鐘堂

 本堂の左手には新しく建てられた鐘堂がある。写真にも少しだけ写っているが、裏手に古い鐘堂が残っている。

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一回100円で撞くことができる。

 鐘堂は一般開放されており、一回100円で鐘を撞くことができる。

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仁王像と本堂

 本堂までの階段脇には写真の仁王尊がある。かなり新しく造られたもののようだが十分に迫力がある。

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本堂前からの眺め

 本堂前の舞台(標高111m)からは、高麗丘陵や日高市街などが一望できる。私がこの寺を訪ねる一番の目的はここからの眺めを楽しむことだ。

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立派な本堂

 本堂は2000年に落成した。京都の神護寺をモデルにしているとのこと。本尊は若光が日本に持ち込んだとされる聖天像(歓喜天)である。

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在日韓民族慰霊塔

 本堂の裏手(西側)に、写真の「在日韓民族慰霊塔」がある。終戦前までの36年間に亡くなった無縁仏を供養するため、個人が私財を投じて造成・建立したとのこと。石塔の高さは16mもある立派なものだ。 

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偉人像

 慰霊塔の周りには、朝鮮に所縁のある人物(檀君、広開土王、王仁博士など)の石像が配置されている。

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八角

 慰霊塔の近くには写真の八角亭が休憩所として整備されている。カラフルではあるが派手ではないところに好感を抱いた。

 かつて、高麗神社と共に実地調査のためにここを訪れたことがあったが、以前の面影はほとんど残されてはいなかった。それでも新しい建造物たちが個性を発揮しているので、周囲の景観に触れることを含め訪問する価値は十分にある。

毛呂駅と鎌北湖

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まもなく毛呂駅

 高麗川駅を出た列車は次の毛呂駅に向かった。毛呂駅毛呂山町の中心部にある。現在は埼玉医科大学の城下町といった風情で、八高線の駅前にもかかわらず?結構な賑やかさがある。

 毛呂とは古代朝鮮語の「ムレ」が転化してモロとなったと考えられている。三鷹市にある牟礼も「ムレ」を語源とする。高麗人の足跡は武蔵野にはいたるところに残されている。

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農業用水を蓄えた鎌北湖

 毛呂駅から南西に3キロ、実際に歩くとなると4キロの位置にあるのが写真の鎌北湖。農業用水の溜池なのだが、かつては「乙女の湖」と呼ばれ、それなりの賑わいを見せていた観光地だった。

 しかし現在では、ヘラブナ釣りに来る人、ハイキングに来る人、私のように「湖」の名に惹かれてなんとなく車で来てしまう人が散見されるだけだ。それを証明するかのように、写真の旅館は廃墟になっている。 

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かつての賑わいはもはや存在しない

 駐車場の近くには「鎌北湖レイクビューホステル」があるが、ここも今は営業していないようだ。それでも室内灯には火が入れられており、こうした点が「心霊スポット」などというくだらない呼び名が付けられてしまう所以なのだろう。

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スワンの出番も少なそう

 岸にはレンタルボートとスワンがあった。出番があるかどうかは不明だが、スワンはいつでも出航できるようにと笑顔で利用客を待ち望んでいるようだった。

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湖面に浮くヘラブナたち

 鎌北湖はヘラブナ釣りの好場所として一部の釣り人に知られている。湖面には写真のように、放流された型の良いフナたちが群を成していた。

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ヘラ師の数は少なかった

 ヘラブナ釣りは繊細さが要求される釣りなので私には無縁の世界なのだが、こうして竿を出している風景に出会ってしまうと、釣果が出るまでずっと眺めてしまう。これが釣り人の性なのだ。幸い、この湖は魚影がすこぶる濃いので、それほど待たずに結果を出してくれた。

越生駅越生梅林

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越生駅に向かって進む

 毛呂駅の次は越生(おごせ)駅。駅に近づくと、右側にもう一本の線路が見えてきた。八高線には架線がないが、お隣の線路にはそれがあった。

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まもなく越生駅

 まもなく越生駅に到着で、ホームにはお隣の線路を利用する電車の姿があった。それは東武越生線のもので、越生・坂戸間を結んでいる。坂戸駅では東武東上線に接続しているため、都心に出るには便利そうだ。秩父山地の山裾を行き来する人には関係ないけれど。

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隣りは東武越生線

 八高線の車内からお隣の東武線の電車を眺める。こっちはディーゼル車なので屋根周りがすっきりしているが、電車のほうは煩雑な姿だ。設備費用も大変に掛かりそうだ。あちらは電気が止まると動けない。こちらは動くことは可能だが、信号や転轍機(ポイント)がストップするので、動けるが動かない。

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越生梅林

 越生駅周辺については、本ブログの第7回で詳しく触れている。越生と言えば「梅の里」なので、町のいたるところに梅林がある。個人的には里山の梅が好みなのだが、折角なので、久しぶりに「越生梅林」に立ち寄ってみた。

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当たり前だが梅花だらけ

 2haの敷地には色とりどりの梅が約1000本植えられている。人気スポットは越辺川(おっぺがわ)左岸の梅並木と枝垂れ梅。

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フクジュソウの群生も人目を惹く

 園内には写真のフクジュソウの群生地もあった。梅は白を基調に、桃、紅の色の花を付けるので、フクジュソウの黄は重要なアクセントになっていた。

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枝垂れ梅の人気が高かった

 園の中心部には写真の枝垂れ梅が多く植えられていた。白梅は実用性(梅干し、梅酒用)重視で、群生していると見ごたえがあるものの、日常の延長線上に位置する。その点、写真のような桃色の枝垂れ梅は、それだけで華やいだ雰囲気を醸し出す。

 越生には魅力的な観光スポットが数多くある。興味のある方は本ブログの第7回を参照していただきたい。

越生駅から小川町駅まで

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越生駅のすぐ北側を流れる越辺川を渡る

 越生駅から明覚駅に向かう。駅を離れるとすぐに越辺川を越える。こうした小鉄橋は子供たちにとっては格好の遊び場になってしまうはず。そのためもあってか、「鉄橋立入禁止」の看板が掲げられている。警告(けいこく)とあるが、子供には「けいこく」の意味が分かるのだろうか。

まもなく明覚駅

 列車は明覚駅に入線。車内で知り合った撮り鉄おじさんから「明覚駅で列車の交換があるので撮影し忘れないように」とのお達しを受けていたので、しっかりと写すように心掛けた。

明覚駅舎

 写真の明覚駅舎は「関東の駅百選」に選ばれている。地元の丸太を用いたカナダ風ログハウスの駅というのがその選定理由だ。しかも第一回選定の26駅の中に入っている。東京駅、原宿駅柴又駅鎌倉高校前駅、横川駅など錚々たるメンバーのひとつなのだ。

 ちなみに、我が府中駅国立駅勝沼ぶどう郷駅は第二回選定、御嶽駅根府川駅極楽寺駅は第三回選定なので、これらよりも明覚駅のほうがずっと「格上」なのである。本来なら、車内から手軽に撮影し、それで済ましてはいけない場所なのだ。

都幾川(ときがわ)を越える

 明覚駅を出た列車は都幾川(ときがわ)を越えて行く。明覚駅は「ときがわ町」にある唯一の駅なのだが、なぜか「ときがわ駅」ではないのが面白い。

しばらくは県道30号線と並走

 明覚駅と次の小川町駅との間は県道30号線と並走する部分が多い。山裾や山間部を通過するために、線路も道路も通りやすい場所に限定されるからだろうか。県道からは線路の存在がよく分かるのだが、道路幅が案外に狭いために、車をとめて八高線が通るのを待つという適当な場所がないのが残念だ。

いい感じの風景の中を走る

 写真の直線部が、県道を走っている際に線路の存在がもっとも気になるところ。車内からは道路の存在は無視できるが、道路からは線路を無視することはまずできない。ただ、これまでこの場所を走っているとき、列車が通過する場面に遭遇したことは一度もない。私にはこの場所は、偶然も運命も切り開かれてはいないようだ。

小川町には槻川は欠かせない

 和紙の町・小川には清流の存在が不可欠となる。それが写真の槻川(つきがわ)で、小川盆地の中心部を蛇行しながら流れている。

巨大マンションが見えると小川町駅は近い

 写真の巨大マンションは小川町のランドマークになっており、この建物が見えてくると小川町の市街地は近いと認識できる、私にとって。

まもなく小川町駅

 まもなく小川町駅。ここには東武東上線の駅もあるため構内は広々としている。

この駅にも撮り鉄の姿があった

 小川町駅に入線。この駅にも私のように列車にカメラを向ける人がいた。八高線の乗客の中には確かに、この鉄道に乗るだけのために利用する人が一定数、居るように思われた。車内で出会った撮り鉄おじさんのごとくに。それだけ、東京近郊の人にはディーゼル車の存在が珍しいのだ。JRの電車はみんな同じ姿になってしまっただけに。

小川町駅と駅前風景

小川町駅で一旦下車

 小川町にはよく訪れるが、それは後述する理由であって、駅前を歩いたことは一度もない。旧道こそ車で通ることは何度もあるが、駅にまで出向いたことは一度もなかった。折角、八高線の旅を始めたのだから町の玄関口に少しでも触れてみようと、この駅で一旦下車して、次の列車が来るまで少しばかり駅前を散策してみることにした。

駅構内からの眺め

 駅構内から小川町の様子に少しだけ触れてみた。小川町は盆地にあるので周囲は山だらけである。この地形と和紙作りの長い伝統から武蔵国の小京都とも呼ばれている。もっとも、小京都は日本に39か所あり、本家の京都を含めて40の市町村で全国京都会議を結成している。

 栃木、足利、佐野、角館、郡上八幡、大洲、中村、倉吉、津和野、尾道、萩などその地名を聞けば多くの人に小京都と納得される都市が属しており、数えてみると40のうち、私が訪れたことのある都市は32あった。まだ、8つも行ったことのない場所があることを知って残念に思った。

小川町駅

 小川町は比企郡に属している。写真の幟は、現在放映中の『鎌倉殿の13人』にあやかって比企一族(比企能員)や武蔵武士(畠山重忠)のことを知ってもらって、ついでに比企丘陵の町々にも関心を抱いてもらおうという魂胆から掲げられているのだろう。が、ドラマの出来が酷いので、三島市同様、この目論見は失敗に帰するだろう。

メインストリートにあった餃子店

 駅から南に伸びるメインストリートは閑散としていた。通りには歴史のありそうな餃子店があったのだが、残念ながら閉店中(昼休み)のようだった。

懐かしさを覚えた小鳥店

 路地には、写真の小鳥店があった。ここも店を開いている様子はなかった。以前は府中にもこうした小鳥の専門店があり、私が小学生のときはこうした店で鳩の餌を買っていた。今ではペットショップやホームセンターが跋扈しているので、こうした専門店は駆逐されてしまうのだろう。残念な風潮である。

小川は和紙の町

 小川町は和紙の生産地として知られており、江戸時代後期には750軒もの紙すき屋があったとのこと。それならば、現在でもいくつかの和紙店があると考えて探してみたが、見つけられたのは駅近くにあった写真の店だけであった。もっとも、30分ほどうろついただけなのだが。

 1300年の歴史とは、正倉院文書に「宝亀五(774)年、武蔵国から武蔵国紙480張が納められた」との記述があることに由来するらしい。この地に紙の製作技術を定着させたのは高麗人であることは言うまでもない。 

駅前で見つけた和紙店

 店の中に入るほどの興味はなかったので外観だけの撮影で済ました。写真を見て後で気が付いたことだが、暖簾の「和紙」の「紙」には点が打ってあった。篆書にも隷書にも行書にも草書も点はない。もしかしたら、これで「和紙店」と読ませるのかもしれないが、もはやその理由を尋ねる機会も勇気もない。

◎和紙の町とカタクリの里と

伝統工芸会館内の様子

 駅から東北東2キロほどのところに「道の駅おがわまち」がある。国道254号線沿いにあり、ここからは「カタクリニリンソウの里」や槻川、西光寺、大聖寺、それに「カタクリオオムラサキの林」が近いので、年に2、3回はそこに車をとめて付近を散策する。

 道の駅には「埼玉伝統工芸会館」があり、小川和紙をはじめとして、埼玉県内の特産品などが展示してある。今回は小川和紙について少しだけ深く知りたかったため、和紙の展示コーナーだけをうろついてみた。

小川和紙による作品の一部

 小川和紙は「細川紙」の流れをくみ、強くて厚みがあって光沢もあるという特徴を有している。元来は紀州の細川村(高野山の近くらしい)で生まれ、江戸時代に多く流通した。西からの輸送ではコストがかさむので、江戸の商人が紙作りの伝統がある小川町の紙すき職人に当地での製作をうながした。それが切っ掛けとなって細川紙作りが盛んになって、先にも触れたように江戸後期には750軒もの紙すき屋がこの地には生まれたとのこと。

 ここでは和紙作り体験ができるのだが、不器用な私にはとても無理な相談なので見学だけに済ました。

槻川のほとりを歩いてかたくりの里に向かう

 道の駅から槻川の左岸に出て対岸にある「カタクリニリンソウの里」に向かった。下流に架かる橋を渡れば里の南入口に至る。

 写真は橋上から槻川の流れを望んだもの。この辺りには結晶片岩の露頭があちこちにあるので川沿いを散策するだけでも興味は尽きない。

満開のカタクリ

 このときは、今年2度目の訪問で、あえて混雑を恐れずに満開の時期を選んで出掛けてきた。写真の通り、斜面には無数のカタクリの花が楽しそうに羽根を広げようとしていた。

可憐なニリンソウ

 一方のニリンソウはまだ3分咲きといったところ。カタクリの開花が終了する頃に満開時期を迎えるため、この里では二度の楽しみがある。どちらもスプリング・エフェメラル(儚い春)と呼ばれる花たちだ。

もうひとつのカタクリの里

 こちらは、「カタクリオオムラサキの林」のカタクリの群生。こちらの方がカタクリの里としては先輩格なのだが、現在は後輩のカタクリの里のほうに席を譲っている。年々、カタクリの数は減少している一方、カタクリの里はどんどん敷地を拡げているために数を増している。もっとも、ここでは何度かカタクリの盗掘現場を見ており、それも減少に拍車をかけているのかも。

小川町では結晶片岩の露頭があちこちに

 小川町は盆地で、かつては一帯が海だった。それが260万年前頃に急激に隆起して現在の盆地の原型が形成されたと考えられている。盆地の中心部には都幾川の支流である槻川が蛇行して流れている。

 仙元山(標高299m)の北東裾を流れる槻川沿いでは、カタクリニリンソウの里辺りで写真のような結晶片岩の露頭がよく見られる。岩盤は急な傾斜を現わしていることから、それらが受けた圧力がいかに大きなものであったかを見て取ることができる。 

鐘楼と桜と

 カタクリの二大群生地の間にあるのが写真の西光寺。曹洞宗の寺とのことだが、私は相変わらず参拝はしないが、この寺の鐘楼門はなかなかの造りなので毎回、拝観ならぬ拝見だけはする。ここも裏手は仙元山の斜面になっており、そこでもカタクリの群生を見ることができる。

小川町駅から寄居駅

小川町駅を出発

 小川町駅を出発して寄居町に向かうことにした。左に並走する線路は東武東上線のもの。八高線と同じ単線ではあるが、そちらはがっちりとした架線を有している。

しばらくは東武線と並走

 しばらくの間、両線は並んで寄居町を目指す。

東武線としばしの別れ

 ほぼ正面に見える金勝山(標高263m)の向こう側に寄居駅があるのだが、八高線はその西裾を、東武線は東裾を回って両者は寄居駅で再び出会うことになる。写真では東武線が西裾を通るように見えるが、実際にはこの先で八高線は左手に大きく曲がる進路を取り、東武線の下を通って金勝山の西裾を目指す。

まもなく竹沢駅

 まもなく竹沢駅に到着する。線路がホーム側に曲がっているが、よく見ると右手にはホーム跡がある。ここは以前には列車の交換駅だったのだが、本数が減じたために不必要になった。そのため、転轍機(ポイント)は撤去されたもののホームの位置をずらすのは面倒なので、線路だけを取り換えたようだ。

こじんまりとした竹沢駅舎

 竹沢駅舎はすぐ横を走る国道254号線からもよく見える。まことにこじんまりとした駅舎なので一度立ち寄って撮影しようと思っていたのだが、結局は空いている国道を軽快に走り抜けてしまうために撮影はできずじまいだった。

竹沢駅を離れて折原駅へと向かう

 竹沢駅から次の折原駅へ向かう。ここもポイントは撤去されており、線路の曲がり具合からその位置を推察するだけである。

山裾を切り通して折原へ

 里山を縫うように八高線は進む。寄居駅以北(とりわけ児玉駅より先)は関東山地からは離れてしまって平坦な場所を走ることが大半となる。それだけに、この場所を進む八高線の前面展望は貴重な撮影ポイントになる。

まもなく折原駅

 竹沢駅の次は折原駅。周囲には数軒の人家と工場がひとつ。それ以外には人工物があまりない場所だ。

駅の近くに新井周三郎の生家がある

 折原駅自体は八高線ではよく見掛ける田舎駅のひとつしかない。ただ、秩父困民党きっての過激派であった新井周三郎の生家がこの近くにあったということから、本ブログの第20回、「秩父困民党に学ぶ(2)」でこの駅について触れ、その周囲の写真を掲載している。 

荒川を越えて列車は寄居市街地に向かう

 折原駅の次は寄居駅寄居町域にはすでに竹沢駅と折原駅との中間辺りで入っているのだが、寄居駅や寄居市街地に入るためには、写真の荒川を渡る必要がある。

 荒川といえば多摩川と並んで東京ではもっとも馴染み深い河川であり、本ブログでは秩父困民党に触れた項ですでに紹介済みだ。結晶片岩の岩畳が連続する長瀞は関東有数の観光地だ。

 釣り人であり、アユ釣りと磯釣りがもっとも好みの私には、荒川上流は一時期、アユの友釣りのためによく通った場所だ。が、川が荒れてからは通うことがなくなってしまった。そんな場所が、「日本一早い鮎釣りの解禁」をうたってこの4月29日に友釣りをスタートさせたというニュースを聞き、私は驚きをもってそれを受け取った。だが、いっときは話題になるだろうが、私にはもはや過去の河川になってしまったため、釣りのために荒川上流に通うことはないだろう。秩父市街や奥秩父観光は別だとしても。

車窓から荒川を眺める

 車窓からも荒川の流れは見て取れた。ここは玉淀ダムの下流側に位置するので、この辺りで釣りをしたことは一度もない。

まもなく寄居駅

 寄居駅が近づいてきた。この駅には前述したように東武東上線秩父鉄道が乗り入れているため、構内はかなり広い。 

この駅にも撮り鉄が存在

 寄居駅に入線。この駅でも毎度おなじみの”撮り鉄”の姿があった。

気動車のある風景を撮りたい人は多い

 この青年も、ディーゼル車には大いに関心を抱いている様子だった。

寄居駅を去ってゆく列車

 私は鉢形城に立ち寄るため、この駅で下車した。私を乗せていた列車は高崎に向けて出発した。

駅構内から秩父の山々を眺める

 駅構内から秩父の山々を眺めた。あの山々の間に荒川上流の流れがある。

閑散とした寄居駅

 寄居駅南口は閑散としていた。駅前ロータリーとその近辺はかなり大掛かりな工事中だったが、完成後にどれだけの賑わいを取り戻すのだろうか。

 私は工事現場をきわどくかわしながら南に進み、荒川の流れとその先にある鉢形城跡を目指した。

 

*次回は荒川、鉢形城跡散歩からスタートして、高崎駅周辺までを取り上げます。  

〔70〕八高線とその沿線を楽しむ(1)八王子駅から高麗川駅まで

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多摩川橋梁を北に向かって疾走する八高線の電車

八高線に乗るということ

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まもなく八王子駅を出発

 八高線といっても線路の上を秋田犬が走っているわけではなく、駅前で犬がご主人の帰りを待つ姿をよく見掛けるというわけでももちろんない。八王子市と高崎市を結ぶ路線だからそう名付けられたにすぎない。

 東京西部の中核市群馬県最大の中核市とを結ぶ路線なのでさぞかし本数も乗降客数も多いと思いきや、なんと、八王子駅高崎駅とを結ぶ列車は一本もないのだ。

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中央線と八高線の時刻表

 上の写真は八王子駅にある中央線と八高線の時刻表だ。平日の中央線は7時台がもっとも多くて15本ある。日中の本数が少ない時間帯でも、特急の「あずさ」や「かいじ」を含めれば7から11本はある。それに対し、八高線は8時台に5本あるが、そのうちの2本は拝島駅止まり。残りの3本はすべて川越駅行きで高崎行きは一本もない。というより、八高線には八王子駅高崎駅とを結ぶ直通列車はどの時間帯であってもまったくないのだ。 

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高麗川駅の11時30分頃の風景

 八王子駅から高崎駅に行くためには、途中の高麗川駅で高崎行きに乗り換える必要がある。が、その高麗川駅高崎駅とを結ぶ列車の数は少なく、朝方は1時間に一本、日中は2時間に一本だ。八王子駅の時刻表でいえば、黒丸の付いた列車が高麗川駅で高崎行との連絡があるもので、8時30分のつぎは10時44分となる。

 最大の理由は、その駅間の利用客が激減しているからだろうが、八高線高麗川駅倉賀野駅間が未電化であることも挙げられるかも。もちろん、高崎行きよりも川越行きのほうが需要ははるかに大きいということも理由のひとつに挙げられるだろうが。

 上の写真は、高麗川駅の風景で、左(3番線)は川越発八王子行きの電車、真ん中(2番線)は高麗川発高崎行きの気動車、右(1番線)は八王子発川越行きの電車だ。八高線川越線もともに単線だから、高麗川駅のように行き違いがおこなえる交換駅が必要となる。しかも、高麗川駅は高崎方面に行く列車の始終着駅なので、八王子方面から高崎方面に行く人も、川越方面からきて高崎方面に行く人もここで高崎行きに乗り換えることができるように発着時間が調整されている。なにしろ、日中であれば、一本乗り遅れると2時間待ちをしいられるのだから。

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高麗川・高崎間を走る110系気動車ディーゼル車)

 未電化区間では電車は走れないので、写真の110系気動車ディーゼル車)が運用されている。1から3両編成で、私が何回か乗ったものはすべて2両編成だったが、1両だけのものも見掛けたことはあった。

 ディーゼル車に乗ることは滅多にないが、上り坂のときはディーゼル機関特有のうなり音をあげるが、平坦地では思いのほか静かだ。

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運転席の後ろにある運賃箱

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運賃箱の上部には料金表が掲示される

 気動車の運転席のすぐ後ろには、写真のような運賃箱と運賃掲示板があって、乗客はこれに切符と料金を入れてから降車する。運行者と乗客との信頼に基づく制度でとても好ましいのだが、今では「切符」がIC化されているため、実際に使用されたのは私が見た限り一度だけだった。

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高崎駅に入線する八高線

 私が八高線に乗ったのは今回が3度目と4度目。30歳台のときが1度目で瑞穂町に住む知人宅(箱根ヶ崎駅が最寄り)へ訪れる際にあえて利用してみた。2度目は昨年で、本ブログで紹介した脱腸手術のあとのリハビリを兼ねて鉄道での移動を試みたとき。その際は寄居駅まで利用して「鉢形城」を散策した。

 3度目も寄居駅までだったので、4度目は八王子から高崎まで乗ってみた。10時44分に八王子駅を出て、13時丁度に高崎駅に到着。2時間16分、94.6キロ、1980円の旅だ。もっとも、高麗川駅で電車から気動車に乗り換える必要があった。これは八高線利用者の宿命なのだ。

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高崎駅周辺は季節の花で飾られていた

 高崎方面には何度も出掛けたことはあったが、すべて車利用だったために駅に近づくことはなかった。今回、初めて高崎駅の姿をみた。八王子駅よりも人の往来が多いのに驚かされた。それ以上に、街中が花で飾られている姿に感動した。映画の町高崎は、花の町でもあった。

 思えば、高崎駅上越北陸新幹線の停車駅なのである。それゆえ、もし私が八王子市民であって、高崎市まで急いで行く必要が生じたときは、大宮駅経由で新幹線を利用するだろう。しかし、とくに急ぐ用事でなければ間違いなく八高線に乗る。車窓にはほとんどいつも、里山の風景が飾られているからだ。

 八高線に乗るということは、他に手段がないという人をのぞけば、物理的時間よりも精神的時間に意味を見出すため、ということなのである。

里山の脇を走る八高線の沿線には見所がいっぱい

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以前にも紹介した狭山池

 八高線関東山地の東麓を南北に進むためいつも西側には山々が見え、ときには山地から東に伸びた丘陵地帯を切り通しで越えていく。この変化に富んだ自然の中を進む路線なので、沿線には立ち寄ってみたい見所が沢山ある。

 私はこの八高線沿いにある里山の風景が好みなので、年に数回、多いときには10回以上もこの方面に出掛ける。ただし、八高線を利用するとその本数があまりにも少ないために、1日に多くて2,3か所しか見物できないだろうことから、実際には鉄道は使わず、すべて車で出掛けている。

 八高線に沿って県道30号線が走っているので、運転中によく八高線の線路を見掛ける。が、列車を見る機会は少ない。「撮り鉄」であれば良き撮影場所で列車が来るのを粘り強く耐えることができるだろうが、私にはその手の忍耐力はほぼ欠如しているので、今までそうした経験は皆無だった。

 八高線沿線の見所と言えば、東福生駅の東側に広がる横田基地と、国道16号線沿いのアメリカ的風景がまず挙げられる。後者はいささか寂れぎみだが。

 箱根ヶ崎駅からは上に挙げた狭山池、「さやま花多来里(かたくり)の里」と狭山神社、以前にも紹介した狭山丘陵の野山北・六道山公園などがお勧め場所だ。

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高麗神社は武蔵国の歴史とともにある

 金子駅からは、この地の代表的農産品である「狭山茶」の畑が近い。また、加治丘陵にある「桜山展望台」からは茶畑だけでなく関東山地の山々を広くそして間近に望めるので丘陵ハイキングの際に立ち寄りたい場所。

 高麗川駅から徒歩で行ける高麗神社や聖天院といった朝鮮系の神社が興味深い。武蔵国は大陸からの渡来人を各地から招来し、大陸の進んだ技術を学んだ。そのため、武蔵国21郡(のちに22郡)のなかの2郡(高麗郡新羅(新倉、新座)郡)の名が今でも地名として使用されている。 

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新しき村には初めて立ち寄った

 毛呂駅が最寄り(少し遠いが)の「新しき村」は以前から気になる存在だったが、今回、初めて村の中を散歩してみた。村の衰退は著しいようだが、それでも、ところどころに掲げられている「言葉」は今でもまったく色褪せてはいない。いやむしろ、今の時代こそ必要な言葉と精神であると感じた。

 ヘラブナ釣り場として隆盛を誇っていた「鎌北湖」も毛呂駅が最寄り。現在の毛呂駅界隈はコロナ禍で一躍有名になった埼玉医科大学に席巻されている。

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越生梅林は馴染みの場所

 越生(おごせ)駅は写真の「越生梅林」、山吹の里、ツツジの里として名高い「五大尊」の最寄り駅。本ブログの第7回で越生の魅力を取り上げている。

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小川町は和紙のふる里

 越生の隣駅となる明覚駅はときがわ町役場に比較的近い場所にある。駅舎の姿が有名だが、駅の近くを流れる都幾川(ときがわ)には三波渓谷や嵐山渓谷があって川遊び場としても知られる。

 小川町駅のある比企郡小川町は私の大好きな田舎町のひとつ。「武蔵の小京都」とも言われるこの町は古くから和紙作りが盛んで、町でも「和紙のふるさと」を標榜している。

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小川町は”かたくりの里”としても知られる

 町は盆地の中にあるので山の斜面が多い。それを利用して写真のようにカタクリを無数に植生している。現在では、和紙の町以上に「かたくりの里」として多くの観光客を集めている。

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後北条氏滅亡の歴史に欠かせない「鉢形城

 寄居駅のほど近くに荒川が流れ、その南側の高台を利用して写真の鉢形城が築かれた。この平山城を拡張整備したのが、北条氏照の弟である氏邦で、後北条氏滅亡に際しての籠城戦はよく知られているところだ。

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私のお気に入りの風景のひとつ(入間川橋梁)

 上のような「名所」を訪ねるのもいいが、八高線の走る風景もそれらに劣らず興味深い。写真は入間川橋梁を走る列車を撮影したもの。入間川右岸に飯能市の阿須運動公園があり、私は先に触れた桜川展望台を訪れたあとに大抵、その運動公園を訪れて入間川沿いを散策する。

 日中に訪れるのが大半なので、八高線が走る姿を見る機会は極めて少ないが、今回は八高線がテーマということもあって時刻表を調べ、橋梁の下で列車が通過するまで粘ってみたという次第だ。普段は、橋梁の姿だけに触れて帰るのだが。

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こうした里山の風景こそ八高線に相応しい

 今回は八高線に2回乗り、沿線の写真を撮影するために3回、車で出掛けた。八高線に乗ることはまずなかったが、花の時期だけでも八高線の走る地域を訪れることは毎年、4,5回はあるので、恒例行事のようなものになっている。菜の花、梅、桜、カタクリニリンソウツツジ、ヤマブキたちを着飾った里山の姿に触れにくるのだが、それ以上に、それらが咲き誇る里山に自分の身を置くというのが最大の理由なのである。

 かつて、府中市にも色濃く存在していた私の原風景は、今も八高線沿線には無数に残っている。

八王子駅から拝島駅まで

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駅の時刻掲示で出発時間を再確認

 生涯3回目の八高線乗車は八王子駅がスタート地点。9時15分発の川越行きに乗り、拝島駅東飯能駅で途中下車、高麗川駅には11時27分に着き、11時32分発の高崎行きに乗って、この日は寄居駅で降りて荒川、鉢形城に立ち寄ってから駅に戻り、帰りは小川町駅にまで戻って駅前を散策した後、帰途に就くという計画を立てていた。 

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私が乗車する列車が入線

 9時15分発を選んだのは、8時台だと通勤時間に重なって車内が混雑することを考えてのことだ。別にコロナの感染を気にしたわけではなく、混雑していると列車の最前方に陣取り前面展望を撮影することが難しいだろうと判断したためだ。

 が、入線する場面や発車前の様子を撮影していたために乗り込むのが遅れ、最前方の好場所は確保できなかった。

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浅川の下流方向を眺める

 写真は、車窓から浅川の下流方向を眺めたもの。八王子駅を出てからすぐに電車は北に向きを変え、まもなく浅川を越えて行く。前面展望は撮影不可能だったために扉の窓から川を写した。写真にある橋は国道16号線のもの。その向こうにある山並みは多摩丘陵だ。

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北八王子駅は通勤客が多い

 北八王子駅の周囲には工場や研究所、ロジスティックセンターなどが急速に増えつつある。国道16号線や中央道・八王子インターが近くにあるので、そうした施設にとって交通の便が極めて良い。八高線を利用して通勤する人の至便性はともかく。

 この駅には、別の日に車で立ち寄ってみた。なかなか立派な駅舎だ。ここだけでなく、八王子駅から東飯能駅までの駅舎は、東福生駅を除いて八高線の駅とは思えないほど立派なものになっている。

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北八王子駅を出発する列車

 8時台ということもあって、それほど待たずに北八王子駅を出発して小宮駅に向かう電車を撮影することができた。

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加住丘陵を南北に分かつ谷地川を越える

 私が乗った電車は中央自動車道の下を抜けると、今度は写真にある谷地川を越えていった。本ブログでは、この川については何度か触れている。滝山城跡のある加住丘陵を南北に分断したのがこの川で、日野市の用水路を紹介した際にも写真を掲載している。

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住宅地にある小宮駅

 北八王子駅の次が小宮駅。ここは前者とは異なり、加住北丘陵の高台に開発された住宅地の中にある。

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小宮駅前の様子

 写真は小宮駅東口の様子。西口には少しだけ店があるが、こちら側には駐車場と駐輪場と住宅があるだけ。八王子市内にありながら、八高線の駅前の雰囲気をよく醸し出している。

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多摩川橋梁に進入する

 小宮駅でも何人かが電車を降りたため、それからは私の前方にひとりの女性がいるだけとなった。なんとしても、八高線多摩川を渡る姿を撮影したかったので、その女性に断わりを入れた上で前面展望にカメラを向けた。本項の冒頭の写真は、この多摩川橋梁を多摩川左岸にある昭島市の「くじら公園」から写したものだ。

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多摩川下流側の眺め

 写真は、車内から多摩川下流方向を眺めたもの。左手に武蔵野台地の基盤(上総層群)が露出している場所があり、そこからくじらの骨(アキシマエンシス)が発見されたことは、第18回に紹介している。

 ただ現在は、冒頭の写真でも少し分かるように河川敷の改良工事が進められているため、その発見場所を含め、上総層群の露頭の姿は様変わりしてしまった。

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多摩川上流側の眺め

 橋の上流部の写真でも、その工事の姿を見てとることができる。一部、水たまりの上に基盤(土丹、滑)が少しだけ顔をのぞかせているが、工事前はこの場所一帯にも基盤が変化に富んだ姿で私を迎えてくれていた。

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多摩川橋梁を渡る上り列車

 ここに来たのは八高線が橋を渡る姿を撮影するのが主目的だが、同時に上総層群との対面も楽しみにしていた。が、そちらの方は期待を裏切られたので、今一度、別の角度から八高線の電車を撮影することにした。

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まもなく拝島駅に到着

 多摩川橋梁を過ぎると、まもなく拝島駅が見えてくる。この駅にはJRが3線、私鉄が1線乗り入れているターミナル駅なので駅周辺は広々としている。 

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八高線(手前)と青梅線

 私は拝島駅を少しだけ探索するために電車を降りた。手前が私が乗ってきた八高線で、向こうに見えるのが青梅線だ。

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拝島駅は偉大なるローカル線ターミナル

 写真から分かる通り、この駅には八高線だけでなく、青梅線五日市線、それに西武拝島線が通じている。4線あるが、これがすべてローカル色豊かなのが興味深い。青梅線は中央線に直通するのでローカル色は少し薄い。また、西武拝島線西武新宿駅まで直通があるのでローカル線とばかりは言えないかも。が、五日市線八高線はローカル線そのものといっても過言ではない。

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拝島駅構内から南東方向の眺め

 拝島駅構内から私がやってきた方向を眺めた。駅周辺には高層マンションが多い。たとえば、7時2分発の青梅線に乗れば、7時53分に新宿駅に着く。拝島は十分に都内への通勤圏内駅なのだ。

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列車を待つ間に駅そばで腹を満たす

 私はもっともローカル色豊かな八高線で北を目指す。次の電車が到着するまでは時間があるので、何十年振りかの「駅そば」を食することにした。

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拝島駅北口

 それでもまだまだ時間的余裕があったので外に出てみた。北口のすぐ近くに「奇跡の玉川上水」が流れている。店はコンビニが1軒あるだけ(駅構内にはそれなりにある)。この点は十分にローカル駅の資格がありそう。なお、写真にある電車は西武拝島線のものだ。

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南口ロータリー

 南口は駅前ロータリーが整備されており、店も数軒あった。国道16号線が駅から240mほどのところに走っているので、バスやタクシー、それに送迎の自家用車はこちら側を利用する。

拝島駅から高麗川駅まで

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東福生駅に向けて出発

 小散歩を終え、再び八高線に乗り込んだ。拝島駅で大半の乗客が降りるので、最前方(運転席のすぐ後ろ)の前面展望場所が完全に空いていた。もっとも、座席は4分の1ほどしか埋まっていないので、立っているのは私だけなのだ。

 電車は拝島駅を離れ、次の東福生駅へと向かった。

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まもなく東福生駅

 東福生駅近くはよく車で通るが、駅に近づいたのは今回が初めて。今までの駅と比較するとやや古めかしいままだ。

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東福生駅

 別の日に車で出掛け、東福生駅を外から眺めることにした。駅の東側には車をとめるスペースすらない様子だったので西側に移動した。西側にはタクシーが一台と警察車両が一台とまっているだけだった。

 とくに駐車違反でもなさそうなので、写真にある公衆便所を利用した後、陸橋を渡ってみることにした。

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東福生駅を出発する列車

 その陸橋から写したのが上のカット。降車する客は一人もいなかった。駅に東側110mほどのところに国道16号線(R16)が走っており、その横には横田基地が広がっている。米軍や自衛隊の関係者が八高線を利用するとは考えられない。西に750m進めば青梅線福生駅がある。そちらの駅前はそれなりの賑わいがあるので、東福生駅を利用する必要性はほとんどないのかも。それゆえ、駅周りの改装もおこなわれていないのだろうか。

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横田基地が見えた

 進行方向右手に横田基地があるのだが、八高線とR16との間に建物があるため、なかなか基地は姿を見せない。が、たまたまC-130が着陸寸前のときに視界が開け、車内からその機体を撮影することができた。多少のボケはご勘弁。

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新青梅街道を越える

 横田基地を過ぎると、今度は新青梅街道と交差する。青梅や奥多摩方面に出掛けるときは、ほとんど写真の道を使うのだが、この度ばかりは車内から線路の下をくぐるその街道の姿を写してみた。

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まもなく箱根ヶ崎駅

 新青梅街道を越えると、電車はまもなく箱根ヶ崎駅に到着する。この駅を利用したことは一度しかないが、新しい駅舎になる前だったのでかすかに記憶に残るかつての姿とはまったく雰囲気は異なっている。もっともホーム自体は十分に年季が入っているが。

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駅構内から西方向を眺める

 駅構内から関東山地方面を眺めた。左端のマンションの上方に、私がランドマークにしている大岳山がある。その山の右手には御岳山・奥の院も見えるが、光線の具合が良くなかったためにかなり見づらい。

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狭山丘陵方向の眺め

 東方向に目を転じると、狭山丘陵の山並みが見える。手前には住宅がかなり密に立ち並んでいる。今こそ八高線しか走っていないが、いずれ多摩都市モノレールがこの箱根ヶ崎駅まで延伸されることになっている。その時分には瑞穂町も人口増加に転じるのだろうか?

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東口の様子

 かつての面影はほとんどなく(一部に古い店舗が残っている)、駅前はずいぶんとこざっぱりしている。駅に立ち寄った(このときは車で駅前に乗り付けていた)ついでに、かつて狭山丘陵の項で紹介した狭山池周辺を少しだけ歩いてみることにした。 

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狭山神社をのぞく

 狭山丘陵の西端、つまり狭山池に向いた側の高台に写真の狭山神社がある。主祭神伊弉諾尊伊弉冉尊を含め祭神は八柱いる。創建年は不詳だが、源義家が奥州征伐の途上に立ち寄って戦勝祈願をしたという記録があるとのこと。

 森の中にあるために外からは分かりずらいが、本殿はなかなか立派だった。

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丘陵の斜面を利用した「さやま花多来里の里」

 狭山丘陵には野山北・六道山公園に「かたくりの里」があることは以前に紹介したが、狭山池のすぐ近くには「さやま花多来里の里」もある。今季は寒い日が多かったことからカタクリの開花は遅れ気味だったため、ここを訪れた時には開花はほとんど進んでいなかった。

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今春の開花はやや遅めだった

 それでも、写真のように何輪かは早めにそして可憐に目覚めていた。

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金子駅に向かう

 箱根ヶ崎駅を出た電車は次の金子駅に向かって北上する。金子は入間市の字名で、私は金子の名を聞くとすぐに狭山茶を連想する。それほどこの地には茶畑が多く広がっている。

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沿線に広がる狭山茶

 車窓からも広大な茶畑が望める。金子のある入間市狭山茶の6割を生産する。

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まもなく金子駅

 金子駅も列車のすれ違い駅のため、写真のように駅部分だけが複線になっている。

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この駅で八王子行きと行き違う

 八王子行きと線路を交換するために、私が乗ってきた列車はしばし金子駅に停車していた。

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列車は加治丘陵へと向かう

 金子駅を出発した電車は関東山地から東に伸びる加治丘陵を越えていくことになる。それにしても、駅周辺には住宅が密集している。相当前だが、一度だけ金子駅の近くに住む知人宅を訪ねたことがあった。その時分には、家などほとんどなかった。

 写真からも分かるとおり、沿線にある住宅はほとんど新築に近いものだ。

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丘陵地を切通しで通過

 八高線関東山地の東麓近辺を南北に進むため、いくつかの丘陵地を越えていくことになる。ただ、その丘陵地はそれほどの標高はないので、八高線にはトンネルはひとつもない。写真のように大半は切通しで丘陵を越えていく。

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まもなく入間川橋梁

 加治丘陵を抜けると、丘陵の北面を開析した入間川に出会う。この川は荒川の支流で、八高線がこれから通り過ぎるいくつかの小河川を集めて、川越市辺りで荒川に合流する。 入間川の上流部は旧名栗村を流れているため「名栗川」とも呼ばれている。「名栗渓谷」の名で観光地として知られている。

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入間川橋梁を通過中

 八高線入間川橋梁は先に挙げた通り、阿須運動公園の西側から望めるので私の大好きな八高線見学ポイントになっている。もっとも、通過する列車は多くないので、橋梁を眺めるだけなのが大半だが。今回、その橋梁を初めて電車の中から確認しながら渡ることができた(昨年に乗ったときは座ったまま窓から川を眺めるだけだった)。

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入間川下流方向

 車窓から入間川の流れを視認した。阿須運動公園は写真の右手方向に、川の右岸方向に広がっている。向こうに見える山並は加治丘陵のもの。

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まもなく東飯能駅

 入間川橋梁を渡ると、まもなく東飯能駅が見えてくる。

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東飯能駅に入線

 東飯能駅西武池袋線も入線しているターミナル駅だ。左に見えるのが西武線のホームとなる。線路脇には雑草がよく茂っており、いかにもローカル線という雰囲気を醸し出している。

 以前、とある有名人が「雑草とはなんだ。それぞれの草にはちゃんと名前がある」と怒っていた。それを知った私は、「こいつはバカなのでは」と思った。彼は「雑」を「おおざっぱ」という意味にだけおおざっぱに理解しているようだ。しかし、「雑」には「分類し切れないいろいろなもの」という意味もある。もちろん、雑草の「雑」は後者なのだから、雑草には侮蔑的な意味はまったくない。

 「雑草」の名をすべて知っている人は、植物学者を含めて皆無である。雑草は交雑や変異が多いので、発見されて以降に名前が付けられるものが相当に多いからだ。そもそも種の分類などというのは人間が勝手におこなっているので、植物自体とは何の関係もない。それゆえ、しばしば種の変更が人間の都合で勝手におこなわれてゆく。

 件の有名人は、中国の名随筆である『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』でも読んで、「雑」の意味をきちんと認識すべきだと思った。

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駅構内から北(高麗川駅方面)方向を眺める

 駅構内から北側を眺めた。隣の西武池袋線秩父方面に向かって北西に進んでゆき、我が八高線は高崎に向かって北上する。

 向こうに見えるのは高麗丘陵で、それを越えたところに高麗川駅がある。

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南(金子駅方面)方向の眺め

 写真は私がやってきた方向を眺めたもの。加治丘陵の手前に入間川、向こうに金子駅狭山茶畑がある。

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東飯能駅東口とコブシの花

 東飯能駅の東口から出てみた。東飯能駅は写真の「丸広百貨店」のすぐ隣にある。百貨店という響きが懐かしい。

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東飯能駅に入線する列車

 高麗川駅に行くために駅に戻った。しばらく待つと電車が入線した。川越方面に行く人たちなのだろうか?平日の日中にも関わらず、ある程度の利用客が電車を待っていた。

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西隣には西武池袋線の列車が停車中

 西武線のホームには西武秩父行きが停車していた。西武池袋線吾野駅まででその先は西武秩父線になる。が、基本的には池袋線がそのまま乗り入れているようで、写真の各駅停車も終点まで直通している。

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高麗川駅に向けて出立

 私が乗ってきた電車は高麗川駅に向かって東飯能駅を離れていった。私は東飯能駅周辺を少し散策して、次の列車で高麗川駅に向かった。

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電車に向かって子供が手を振る

 沿線では親?に抱かれた子供が私の乗る電車に向かって手を振っていた。子供は早く電車に会いたかっただろうが、母親は電車がなかなか来ないことを知っている。何しろ、八高線なのだから。子供は嬉しそうだが、親は安堵の表情だ。

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まもなく高麗川駅

 まもなく高麗川駅に到着。駅には3線あり、川越行きは左の1番線に停まる。

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高麗川駅に入線

 1番線ホームにもそれなりの数の乗客が川越行きを待ちわびていた。右側の2番線には高麗川駅高崎駅を行き来する気動車が入線する。

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駅構内から南(東飯能駅方面)方向を眺める

 高麗川駅から東飯能駅方向を眺めた。駅のすぐ南側には県道15号線(川越日高線)が走っている。この道を西(右手)方向に進めば、ヒガンバナ畑でよく知られた高麗川の「巾着田」がある。開花シーズンには大混雑必至だ。

 向こうには高麗丘陵が見え、その斜面には開発の手が多く入っているようで残されている自然はそう多くはない。

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北(毛呂駅方面)方向を望む

 高麗川駅を離れた川越行きの電車は一番左の線路から右手(東)方向に進んでゆき、次の武蔵高萩駅を目指す。一方、八高線は北にある毛呂駅から南下してこの駅までやってくる。

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宴の後

 駅の東側には何本もの引っ込み線がある。架線がないので、ディーゼル車(貨物車のDD51?)が利用するためのものなのだろうが、その姿はまったくなかった。八高線では貨物の需要もなくなっているのかも。

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高崎行きの気動車が入線

 高崎方面から2番線に気動車が入線した。電車の姿は八高線も中央線もカラーリングが異なるだけで形は同じものになってしまったが、やはり気動車は一時代前の姿や色使いをしている。

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川越発八王子行きの列車が入線

 今度は3番線に八王子行きの電車が入線した。気動車でやってきた乗客の何人かはこの駅で電車に乗り換えて八王子方面に出掛けて(帰って)行く。

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川越行きは右、高崎行きは左へ

 写真は、高崎行きの気動車内から前面展望を撮影したもの。気動車は前面中央のガラス窓は狭く、かつ運転席との間には薄い茶色のパネルが立っているために視界は限られ、景色はやや茶色がかって見える。写真にもその状態が反映されるので、気動車からの展望は上のような画面と調子になる。

 八王子からやってきた電車はすべて川越行きなので、この駅から先は川越線となり、右に曲がっていって川越駅を目指す。一方、八高線は北へ直進する。

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高麗川駅の先で電化は終了

 高麗川駅から先の八高線は電化が進んでいないので、架線は写真の場所で消滅する。

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電車はこれから川越線を進む

 他日、車で高麗川駅を訪れ、沿線から列車の姿を撮影した。電車は川越線の線路に移動して東方向にカーブして進んで行く。

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気動車は高崎に向かう

 気動車なのでパンタグラフの無いの八高線は、すっきりとした姿で北を目指して行く。

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小さな駅舎の高麗川駅

 ターミナル駅なのにもかかわらず高麗川駅舎は写真のように小さなもの。これから先が、八高線の真骨頂なのかも。

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高麗川駅前の建造物

 駅前ロータリーには写真のような建造物があった。中央の「ようこそ日高市へ」の写真にはこの地の観光名所である「巾着田」のヒガンバナの写真があった。鉄骨部分もそのヒガンバナをイメージしているように思われたが、私が巾着田以上によく訪ねる「高麗神社」や「聖天院」に立っている高麗人の武将の被り物のようにも思えた。

   *   *   *

 今回はここまでで、次回はその高麗神社、聖天院訪問からスタートし、八高線沿線の観光スポットを交えて高崎駅まで紹介する予定です。

〔69〕三島界隈の魅力を主に写真でご紹介

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恐ろしくて、渡ることはできなかった

◎まだまだ奥深い三島界隈の魅力

 この度の三島界隈を廻る徘徊は、合計6日もの時間を掛けてしまったが、まだまだ立ち寄ってみたい場所はいくつも残っている。触れる機会が多くなるほどこの地区の魅力に吸引されてしまいそうなのだが、その一方で他にも出掛けてみたい場所は無数にあるため、三島地区の紹介は本項で区切りにしたい。

 三島溶岩流そのものと、溶岩が育てたといっても過言ではない湧水の数々。また、箱根連山の西側に位置するという地理的条件が生み出した町の変遷など、いくつかの角度からこの地域を見つめてみた。

 今回は、その総括と未紹介の場所とを、写真を中心にして紹介することにした。

◎三島溶岩流が生み出した風景

五竜の滝

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溶岩流の西端?に生まれた五竜の滝(裾野市

 解説図には三島溶岩流の末端が生み出した滝とあり、壁面に溶岩流の層を見て取ることができる。

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滝口を右岸側の公園内から眺める

 滝の右岸側には「裾野市中央公園」が整備されており、滝口や滝壺を園内から眺めることができる。

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滝壺の西側(右岸側)斜面

 滝壺の西側斜面は愛鷹山の砂礫層で、溶岩流の痕跡はまったく見られない。

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滝壺の東側(左岸側)斜面

 こちらは左岸側の斜面。溶岩流の露頭が滝壺の下流方向に延々と続いている。

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右岸側は愛鷹山裾の砂礫層が露出

 右岸の崖の様子を観察した。大小の砂礫から構成されていることがよく分かる。

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左岸側は三島溶岩流の露頭が継続

 五竜の滝の下流側700m区間では、冬季限定(2月28日まで)でニジマス釣りが楽しめるそうだ。ヒットした様子は見られなかったけれど。

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滝下で合流する佐野川

 黄瀬川の右岸側に合流する佐野川の最下流部。川の中の大小に石の姿からも黄瀬川とは形成過程が異なっていることが分かる。

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下流から滝方向を望む

 滝下でも黄瀬川の河原では溶岩流の姿を見て取ることができる。まだまだ三島溶岩流の旅は続いている。

*黄瀬川・牛ヶ淵(長泉町

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牛ヶ瀬

 五竜の滝から4.5キロほど下流にも、溶岩流の段差が生み出した小さな滝(牛ヶ瀬)がある。地図で確認する限り、こうした小滝は五竜の滝から牛ヶ瀬の間にはいくつもあるようだ。

*黄瀬川・鮎壺の滝(長泉町

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左岸から滝を眺める

 牛ヶ瀬から2.5キロほど下流にあるのが第67回でも紹介した「鮎壺の滝」。溶岩流最上層の末端にできた滝で、ここから下流狩野川合流点までは溶岩の段差によって生まれた滝は存在しない。この滝壺までは狩野川のアユが遡上可能なので、この名が付いた(諸説あり)とのこと。

 写真は「鮎壺広場」から滝を眺めたもの。右岸側にも公園が整備されており、両岸は「鮎壺のかけ橋」と名付けられた吊り橋で行き来可能。

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下流から露頭を観察する

 五竜の滝同様、ここでも溶岩流の露頭を目にすることができる。溶岩流の最上層はここで終わり、下部は愛鷹ローム層で覆われている(その下には溶岩流の中層がある)。

*稲荷神社(長泉町

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これだけならよくある普通の稲荷社だが

 鮎壺の滝の東400mほどのところにある「割狐塚稲荷神社」は、三島溶岩流が造った溶岩塚を利用して創建された。写真の場所からは、平地の上にこんもりとした森があるようにしか見えない。

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鳥居の先には溶岩塚

 森に近づくと、土盛りではなく溶岩塚であることが分かる。溶岩流は表面が冷やされて殻状になるが、内部の溶岩は熱いままだ。殻に行き先を遮られた内部の溶岩流は出口を求めて上昇することがある。これが冷え固まったものが溶岩塚で、溶岩流の末端付近に出来ることが多い。

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塚の上には特徴的な溶岩が

 膨張した溶岩塚は冷えるときにいくつもの割れ目を形成する。この神社では、その割れ目が参道に利用されている。

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溶岩の割れ目の道を進む

 割れ目を利用した参道を進むと本殿に至る。三島溶岩流に特徴的な気泡の多い溶岩を観察しながら散策するのはとても興味深かった。もちろん、私はここでも参拝はしなかったが、面白い体験が出来たことには大いに感謝した。

楽寿園

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豊かな森と溶岩塚

 楽寿園三島駅南口すぐのところにある市立公園。国の天然記念物・名勝に指定されている。三島溶岩流最上層の末端に位置し、その崖線を巧みに利用して整備されているので見所は多い。

 残念ながら近年は伏流水が大幅に減少しているため、前回、前々回に紹介したようにメインの小浜池は渇水状態で、満水になるのは数年に一度ほどしかないそうだ。

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本来は清水に満ちているはずだが

 写真のように、清水が流れるはずの河道はあるものの、完全に枯渇していた。

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常緑及び落葉広葉樹が密に茂っている

 溶岩塚の上には広葉樹が密に茂って陽の光を遮っているため、下草が繁茂する余裕はほとんどない。 

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溶岩をつかむ大木

 溶岩を抱きしめたまま成長を続ける大木の姿に自然の逞しさを見て取った。

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縄状溶岩もよく見かける

 楽寿園内では写真のような縄状溶岩の姿に触れる機会も多かった。

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小さな動物園もある

 園内には「どうぶつ広場」があり、写真のアルパカのほか、カピバラ、ワラビー、マーラ、プレーリードッグなどが飼育されている。

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蒸気機関車もある

 なぜか、園内には蒸気機関車も展示されている。C58・322号は1942年、大阪に生まれて71年に引退した。

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石仏も多い

 園内にある郷土資料館の脇に写真の小さな石仏が置かれていた。いろんな姿のものがあったが、私のお気に入りは写真のもの。

◎白滝公園

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楽寿園の東隣にある白滝公園

 白滝公園は、楽寿園のすぐ東隣にある。小さな公園だが溶岩流最上層の末端に位置することもあって湧水口が数多くあり、園内は清水に満ちている。

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溶岩の下部から湧き水が流れ出る

 園内には写真のような湧水が生み出した流れが幾筋もある。

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園内は湧水に満ちている

 各所の湧水を集めた流れは成長を続け桜川に向かう。

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人形たちも水汲みに協力

 この場所は地下水も豊富にあるので、人形たちも水の汲み上げに協力している。

◎街中散策

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三嶋大社の東側を流れる大場川

 以前に紹介したように、三嶋大社の東側を流れる大場(だいば)川は黄瀬川と共に、三島溶岩流を覆った御殿場泥流を開析して三島扇状地の形成に貢献した。

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三島暦師の館

 大場川と三嶋大社の間にあった「三島暦師の館」。奈良時代から伊豆国に住んだ河合家は代々、三島暦(みしまこよみ)を編纂していた。仮名文字で印刷された暦としては日本で一番古いとされている。

 その河合家の館は現在、「三島暦師の館」として一般公開されている。暦について関心はそれなりにあるが、立ち寄ってしまうと時間を多く消費してしまいそうだったために中には入らず、外観の撮影のみにとどめた。

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御殿川に架かる赤橋

 旧東海道の北側には東海道に並行するように鎌倉古道があった。それらしい風情は残っていないが、ただ、写真の赤橋は印象深かった。下を流れるのは、桜川から分水された御殿川だ。

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佐野美術館の敷地にある庭園

 三島梅花藻の里の東側に刀剣のコレクションで知られる佐野美術館がある。美術館の展示品には興趣を誘われなかったが、敷地内にある回遊式庭園(隆泉苑)は無料でもあったため立ち寄ってみた。

 池は御殿川の流れを導いて造営されているために透明度はそれなりに高い。この庭園もまた三島の湧水が育んでいる。 

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旧東海道に掲げられていた

 三嶋大社の南側を通る旧東海道の道端に掲げられた幟旗。三嶋大社大河ドラマの舞台のひとつなのだろうが、あんな低レベルのドラマでは、さぞかし宣伝のし甲斐はなかろう。

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三島には伊豆国府があった

 三島には伊豆国国府があった。国衙三嶋大社の敷地辺りにあったと考えられているが確認はされていない。一方、三島大社から700mほど西に国分寺跡がある。

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碑のみが国分寺の存在を表明

 もっとも、武蔵国甲斐国国分寺跡のように整備されたものではなく、ただ写真にある碑のみがここに国分寺の塔があったということを示しているにすぎない。

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日常の中の富士

 三島市内からは多くの場所で富士山の姿を間近に望むことができる。あまりにも日常の中に溶け込んでいるので、その姿に目をやる人は概ね異郷からの人である。

三嶋大社

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三嶋大社内にも牧水の歌碑がある

 後半生に沼津に移住した若山牧水は静岡の地の至るところ(静岡以外でも目にすることは多い)に歌碑を残している。もっとも、それは牧水の意向ではなく静岡県民の思いに由来するのだけれど。

 牧水は書家でもあり、自分の歌の揮毫が多数あることも、歌碑が製作しやすいという理由もあるのだろう。

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頼朝も崇敬した三島大社

 大社内には写真の「源頼朝旗挙げの碑」があった。頼朝は大社を崇敬したが故、先に挙げた幟旗を宣伝も兼ねて大河ドラマの放映に際して掲げているのだろう。そうであるなら、ドラマに出てくる富士山の姿が甲斐国側から撮影したものであることにもっと抗議の声を挙げていただきたい。

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厳島神社にて

 拝む人と神池に集まる水鳥を写す人との対比が興味深かった。

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鵜と亀

 神池にいた鵜と亀。この間に鷺が居ればさらに面白かったのだけれど。

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空(うろ)にも神宿

 神池のほとりに育っている大樹の空内に置かれている小さな社。神(悪魔も)は細部にも宿る。

◎湧水群

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雷井戸

 梅花藻の里から60mほど北にある「雷井戸」。ここでも清水がこんこんと湧き出ている。

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清水の中に育つミシマバイカモ

 井戸から湧き出る清水の中には多くのミシマバイカモが生育していた。

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かつて生活水にも利用されていた雷井戸

 かつてはこの地に住む人々の生活水にも利用されていたらしい。確かにそう考えても何の不思議がないほど、この井戸は密集した住宅地の中に存在する。にもかかわらず、清らかさは見事なほどに保たれている。

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桜川に架かる橋

 桜川の左岸側には住宅が立ち並んでおり、道路と各家の間には写真のような橋が架けられている。橋は宅地の一部と化し、思い思いに利用されている。

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清流には必ず存在する景色

 桜川の一風景。今では、どの地の流れ(池や沼でも)で目にする姿だが、やはり清流での姿に興趣を覚える。

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以前にも紹介した桜川とアブチロンチロリアンランプ

 この風景は前にも紹介したが、この角度からの方が川の中の様子ははっきりと見られた。

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涸れ気味の鏡池

 鏡池は前回に紹介した菰池(こもいけ)のすぐ西にある。現在はほぼ涸れた状態にあるが、以前には湧水に満ちていて、三嶋大社への参拝前に、ここの清水で身を清める人がいたといわれている。

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鏡池に残る横臥溶岩樹型

 写真の穴は、三島溶岩に包まれた樹木が焼かれたときに発生した水蒸気が抜けたものと考えられている。これを溶岩樹型というが、鏡池のものは横穴形になっているので横臥溶岩樹型とよばれ、天然記念物に指定されている。

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蓮沼川のオブジェクト

 源兵衛川と同じく楽寿園の小浜池を水源とする蓮沼川(宮さんの川)には、写真のような水車や裸婦像などのオブジェクトが設置されている。写真にあるペダルを何度か続けて踏むと、その力を得て水が水車の上から流れ出るので水車を回すことができる。もちろん、私は何度も試した。

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梅花藻の里を守る水神

 梅花藻の里内には写真の水神さまが設置され、バイカモを育む清流が絶えないように、そして穢れないように見守っている。

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水の苑緑地の中心部

 源兵衛川の項で紹介した「水の苑緑地」の中心部には写真のような沼があり、ここがカワセミの撮影スポットになっている。

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境川・清住緑地の湧き間

 前にも紹介した、丸池のすぐ北側にある湧水が造った池の湧き間を別の角度から撮影してみた。池の底から湧き出た水が水面を押し上げる様子が興味深い。写真には2か所の湧き間が見られるが、実際にはもっと数多くある。が、湧き出るタイミングが異なるため、私の忍耐では2か所同時の撮影が限界だった。 

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井戸で遊ぶ子供たち

 丸池公園の井戸では子供たちが楽しそうに水を汲み上げていた。「飲めるかな?」と言い合っていたが、私がこの子供たちなら、考えるまでもなく飲んでいる。

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狩野川に向かう柿田川

 湧水の真打はやはり柿田川かも。写真は、その清い流れが狩野川に溶け込んでゆく少し手前側から撮影したもの。

◎向山古墳群

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市街地東南部の丘陵地帯にある古墳群

 三島市街の南東部、箱根古期外輪山の裾野の斜面に写真の「向山古墳群」がある。1975年、向山小学校建設工事の際、偶然に発掘されたとのこと。その後の調査によって円墳が14基、前方後円墳が2基あることが分かっている。

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古墳群の西端から市街地を望む

 写真は、古墳群の西端から市街地方向を眺めたもの。大場川右岸の土手が鉄塔のすぐ横に写っている。大場川の標高は12m、古墳群の西端は36mで、東端は74mのところに位置する。

 円墳が大半だが、前方後円墳も小さいながら2基見つかっている。この地の首長はヤマト王権と関係があるのかもしれない。

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古墳と箱根連山

 14号古墳の上から15号、12号、さらにその向こうに連なる箱根の山々を眺めた。古墳は4世紀半ばから6世紀前半に造られたらしい。この地を治めていた首長たちは、箱根連山をずっと眺めたくてこの場所を墓地に選んだのだろうか?

◎瀧川神社

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瀧川神社は瀬織津姫命を祀っている

 三島市街から離れ、国道1号線を箱根方向に向かった(山中城とスカイウォークを訪れるため)。伊豆縦貫道の近くに変わった?神社があるということなので立ち寄ってみることにした。

 境内は狭く、2015年に再建されたという社殿も小さなものだが、写真のように滝がご神体らしいのが特徴的だ。以前は「滝不動」と呼ばれていたとのこと。

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滝の中央に小さな不動明王が置かれている

 瀬織津姫命は祓戸の神の一人?で、禍事、罪、穢れを川から海に流す役目を有しているという。確かに、滝は山田川に落ち、その山田川は大場川の支流なので狩野川を経て駿河湾に注いでいる。

 ここは祓道場だったので、三嶋大社神職はここで身を清めたらしい。

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水神としての不動明王像が可愛らしい

 瀬織津姫命は謎多き女神らしいので、ここはパワースポットとして人気があるようだ。ネットで検索すると、あきれるほど(実際に呆れたが)の数が、”いかにも”と思える写真と文章で、ここの「神秘性」を取り上げている。

 ここをパワースポットだと思っている方々は是非、近視眼的ではなく、グーグルマップでこの神社のある場所を俯瞰していただきたい。とりわけ滝口の上方を辿ってみると良い。そこには「三恵台」と名付けられた住宅地が広がっている。つまり、滝の水の一部には住宅地に降り注いだ雨水が含まれているのだ。

 「神域」とも思える場所を宅地開発し戸建て住宅として販売してしまうデベロッパーこそ、神をも恐れぬパワーの持ち主なのではないだろうか?なぜ、人はときとして神を超える力を発揮するのだろうか?理由は簡単。神を造ったのは人間だからである。

山中城

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後北条氏の西の守り

 山中城は、後北条氏の2代目当主である北条氏康の命で造られた。西の守りを固めるためだ。山中城の顛末は少し前に触れているのでここでは記さない。

 山中城は戦国時代に築かれた山城の典型で、本ブログで以前取り上げた滝山城八王子城とともに後北条氏の築城技術がいかんなく発揮されている。日本の百名城に選ばれているのも、けだし当然である。

 すべてを見て回る体力がなかったこともあり、今回は西の丸のみを見学した。ここは障子堀が特徴的なのだが、大雨の影響で一部が崩壊しているのが痛々しい。

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障子堀

 もっとも、西の丸の天辺(標高576m)から見回すと、写真のように綺麗に残っている場所もあった。

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富士を望む

 山中城は箱根古期外輪山の西裾を利用して築かれているので、写真のように富士山の眺めはすこぶる良い。ここからだと、南側にある愛鷹山もさして邪魔な存在ではない。

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箱根方向を望む

 写真は箱根方向を望んだもの。懐かしく思える建物群がよく見えた。

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久し振りに霜柱で遊ぶ

 ここを訪れたのはまだ寒い日だったので、霜柱が至るところにあった。サクサクという音を奏でながら歩くのはとても楽しいもので、山道はずっと他人の踏み跡の無い部分を選んで行き来した。道を踏み外すのは私の得意分野だ。

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両軍の兵士が眠る宗閑寺

 三の丸のすぐ裏手にある宗閑寺は、山中城守備隊の副将の娘が父を偲ぶために創建したとされる。境内にある墓地には後北条氏方だけでなく、秀吉側の武将の墓もある。

◎三島スカイウォーク

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吊り橋には恐怖心しか覚えない

 2015年12月に営業を始めた三島スカイウォーク(正式名称は箱根西麓・三島大吊橋)に最初で最後の訪問をおこなった。歩行者専用の吊り橋としては日本一長い(400m)そうだが、私は僅か15mほどしか進めなかった。

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富士を望む

 橋の南詰(渡ることができなかったので北詰からの景観は不明)からは富士山がよく見えた。

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記念撮影者を撮影

 大半の観光客は吊り橋ではなく富士山をバックに記念撮影をおこなっていた。なので私は、記念撮影をする人を撮影してみた。

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三島、沼津市街方向を望む

 写真のように三島、沼津市街方向の眺めも良かった。太陽に向かって撮影しているため写りはあまり良くないが、実際にはかなりはっきりと市街地も沼津の香貫山駿河湾も視認できた。

 スカイウォークからでなくとも国道1号線からもこの景色を楽しむことができるのだが、展望の良い場所は路上駐車が困難なので撮影機会はなかなかない。

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富士より高い主塔

 スカイウォークの主塔は44mの高さがある。400mもの長さがある橋を2基で支えているため、そのゴツさも興味深かった。

 それにしても、人々はなぜ恐怖心を抱くことなく吊り橋を渡ることができるのだろうか。入場料1100円も払ったので、私も勇気を奮って渡る気でいたのだが、少し前を進んでいたオバサンが恐怖心からすぐに引き返してきたので、私にもそれが伝染して15mほどで引き返してしまったのだ。オバサンが進んだ距離は20mほど。私より5mほど根性がある。

  *   *   *

 所用とPCの不調が重なって更新が遅れました。次回は「八高線とその沿線」がテーマです。

〔68〕三島界隈を訪ねる(2)湧水の流れに連れられて

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橋の上から流れをのぞいてみると

◎三島界隈にある湧水に釣られて散策する

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源兵衛川と伊豆箱根鉄道駿豆線

 なぜ私は湧水に心惹かれてしまうのだろうか?本ブログでは府中崖線や国分寺崖線下から湧出する清水だけでなく、東久留米市を流れる落合川や日本一短い”ぶつぶつ川”を追ったこともある。

 考えてみれば、いや考えなくとも、川の大半の源は湧水のはず(小名木川は違うが)である。たとえば、多摩川の源流点は笠取山直下に存在する「水干(みずひ)」とされているが、そこには以下のような説明書きがある。

 「すぐ上の稜線付近に降った雨は、いったん土の中にしみこみ、ここから(水干のこと)60mほど下で湧き水となって顔を出し、多摩川の最初の流れとなります。」

 それゆえ湧水を追い求める旅をするなら、こうした源流点を探訪すればよいだろうが、それは私の好みではない。若い時分には渓流釣りをおこなっていたので、源流点ではないが川の最上流域に入渓してイワナやヤマメを求めている際に、澄んだ水に目や心を惹かれたことは良くあった。その一方、透明度の高い水は人の気配を消すことが難しいため、釣り人にとってはそれがマイナスに作用することのほうが大きいので、澄んでいることをすべて歓迎していたわけではない。

 大体において、人里離れた谷間の湧水点まで行けば綺麗な水に出会うことは可能だ。が、すっかり老いてしまった私にとって険しい山道の登攀は無理難題であり、元々が坂道は好きだがそれを上り下りすることは決して好きではないので、昔も今も、町中にある清い流れが好みなのである。

 ということで、湧水の多い三島界隈は大いに私の興味はそそられ、一泊二日の三島旅を3回も繰り返してしまったのだった。それでも、振り返り見れば未訪の場所は数多くあるのが心残りなのだが……。

◎源兵衛川~1.5キロの小さな旅

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源兵衛川の旅の出発点

 源兵衛川は三島市を代表する清流で、流れの大半の部分に遊歩道(せせらぎ散歩)が整備されている。終点の中郷温水池までは1.5キロほどの距離なので、歩くだけなら一時間もあれば往復できる。ただし見所が数多くあるので、この川の魅力を満喫するには半日でも足りないほどだ。

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干上がり状態の小浜池

 源兵衛川の水源は湧水を集めた小浜池(楽寿園内)にあると資料には記されているが、写真のように現在(22年の1,2月)の小浜池に水はほとんどない。

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完全に干上がった”せりの瀬”

 小浜池の南側には写真の「せりの瀬」と名付けられた池があるのだが、ここは完全に干上がっていた。

 こうした池の側面や底面には溶岩の裂溝が多数走っており、その溝が地下水の湧水口になっているのだが、残念ながらその姿を見ることができなかった。それでは、源兵衛川の水源はどこにあるのだろうか?

 源兵衛川せせらぎ散歩の出発点は楽寿園の南側にあり、フェンス越しに園内をのぞくと、確かな水量のある流れが存在し、それが源兵衛川の水源になっているようだ。が、楽寿園内からはその流れがある場所には立ち入ることはできなかった。

 想像しうるに、被圧地下水の水位が低下している現在、三島溶岩最上層部の下にある伏流水では源兵衛川の流れを満たすことはできないため、より深い位置にある地下水を汲み上げて川に供給しているのではないのだろうか?私はそう邪推してしまった。何しろ、三島市にとって源兵衛川の流れは重要な観光資源(ミシマバイカモを守るという自然資源でもある)なので枯渇させるわけにはいかないのだ。

 仮にそうであったとしても、三島溶岩流が生み出した地下水には変わりがないので、源兵衛川の価値は一ミリも減じることはない。

 ともあれ、源兵衛川は小浜池(地下を含めた近辺)の水を集め、古くは農業用水路として、現在は主に”せせらぎ散策路”とミシマバイカモの育成地として、三島扇状地を潤している。

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川には、散策に便利な通路や飛び石が配置されている

 源兵衛川は住宅地の中を流れているためもあり、散策路は写真のように川の岸近くに木製の通路、大石やコンクリート製の飛び石などが配置されている。これらが、えもいわれぬ雰囲気を醸し出している。

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川には湿地性の植物がよく似合う

 この川でよく目にするのが、写真にある”カラー・エチオピカ”(オランダカイウ)。花期は初夏なのだが、冬の寒い時期でも白い花を纏っていた。湧水の水温がこの花に適しているのかも。

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こちらは飛び石の連続

 飛び石には写真のように意匠を凝らしたものもある。私は何度も行ったり来たりして遊んでいたかったのだが、散策に訪れる人が多いとすれ違うのに少し窮屈を感じてしまう(とくにコロナ禍では)ため、それほど長くは留まれなかった。残念なことである。

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左岸にあった川戸(川端)

 川沿いの家々には、写真のような川戸が設けられている姿がよく見られた。護岸の上にはとくに道は見当たらないので、この川戸は私的なものなのかも。羨ましい。

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鎌倉古道の橋上から上流方向を眺める

 橋上から上流部を眺めたものが上の写真。少し分かりづらいが、上流部には右岸から左岸に移るための飛び石があり、左岸は土手上に散策路が整備されている。散策路のところどころに川戸が設けられているが、これらは公共物なので誰もが使用できる。

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アロエと清流

 右岸に整備された散策路横にはアロエの群生があり、濃いオレンジの花が清流に華を添えていた。

 このアロエの群生場のすぐ下流で一旦、散策路は終了している。川沿いの道もないので少しの間、川沿いから離れることになる。少し迂回する道を選び、100mほど下流に移動すると再び散策路が現れる。

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旧東海道から下流側を眺める

 旧東海道の南側から散策路は再開する。右岸側には三石神社があり、境内には三島宿に時を告げた「時の鐘」がある。当時のものは焼失したため、現在の時の鐘は1950年に再建されたものだ。

 飛び石の上にいるカラスは、鐘の音につられて時の声を上げるのだろうか。 

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「時の鐘」と源兵衛川

 時の鐘は川の右岸側に張り出しているが、この周囲は三石神社の境内である。三石とはこの地にあった三ツ石と呼ばれていた巨石のことらしい。源兵衛川には大石を下流に運ぶ力はないので、おそらく、御殿場泥流がその石をここまで運んだのだろう。

 なお、境内横には三島ではもっとも名の知られたウナギ店がある。この境内には今回、三度も足を運んだので一度は「日本一のタレ」とさえ称される三島ウナギを食そうと思った。が、三度とも、店員が数人集まって境内際で煙草をふかしている姿を見てしまったため、店に入ることは思いとどまった。料理人に煙草は不適だろう。

 そういえば、三崎港でもっとも人気のあるマグロ料理店の主人も煙草好きだった。所詮、料理の味などというものは極めて主観的であり、かつ相当にアバウトなものなのだろう。

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駿豆線と清流

 三石神社境内のすぐ南側で、源兵衛川と伊豆箱根鉄道駿豆線が交差する。この地点は清流ファンにとっても鉄道ファンにとっても格好の撮影ポイントになっているようで、「川に落ちないように」といった注意書きがあった。

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電車に気を取られて橋に頭をぶつけないように!

 私にとっては、川に転落することよりも電車の動きに気を取られて、背後にある橋に頭をぶつけてしまうことのほうがあり得そうに思えた。実際、そういう人は多いようで、写真のような注意書きがあった。もっとも、後ずさりしながらの撮影では、この注意書きは目に入らないが。

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好事家が集いそうなdilettante cafeと清流

 川の右岸には、立ち寄ってみたいと思わせるカフェがあった。店の名前は「dilettante cafe」とあったが、このdilettanteを、「うわべだけの人」と訳すか「好事家」あるいは「アマチュア」と訳すかは微妙だ。

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川の中を清掃中?

 カフェのすぐ下流では、川の中に入って何やら作業をしている人がいたので近づいてみた。仕草からは川の中のごみを拾い集めているように思えたが、少し違っていた。

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ミシマバイカモの手入れをおこなっているボランティア

 小さなごみやアオゴケがまとわりついてしまったミシマバイカモを丹念に引き抜いて、付着した余分なものをきれいに洗い落したのち、下流にあるバイカモの育成場に移植しているとのことだった。こうしたボランティアの人々の努力によって源兵衛川の魅力が保持されているのだ。

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アオゴケやゴミが付着しているバイカモ

 川の中をのぞいてみると確かにアオゴケが付着しているものはかなり多く、また枯れ葉や枯れ枝がまとわりついてしまっているものも多かった。

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初夏には無数の小さな梅の花を着飾るはず

 ボランティアの人が活動していた地点から300mほど下流にミシマバイカモの育成場がある。写真から分かるように。バイカモだけでなく川床の砂礫も綺麗に磨かれている。初夏、三島方面に出掛ける機会があれば、是非ともこの場所に立ち寄り、満開となった梅花を満喫してみたい。

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”水の苑緑地”の北側入口

 中流域には自然に取り囲まれた景観を残している「水の苑緑地」がある。これまでの源兵衛川は住宅やビルの間を通ってきたが、この緑地は幅が40mほどあるため周囲には木々が豊富で、いかにも林の中を清冽な水が流れ下っているという空間が演出されている。

 写真の場所は緑地の北縁に位置し、この場所の東側約70mのところに、前回に紹介した「三島梅花藻の里」がある。近くに住んでいる人は毎日、水の苑緑地と梅花藻の里、そして源兵衛川沿いの散策という贅沢な徘徊が楽しめるのだ。

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水の苑緑地にはカワセミが多く集うらしい

 緑地の中心部には写真の池が設えられている。ここではカルガモの姿しか写っていないが、池にはカワセミがよく立ち寄るとのことで、私がここを訪れた(3回も)際には、いつも超望遠レンズを構えたカメラマンの姿があった。

 なお、水の苑緑地の南端には、先に挙げたミシマバイカモの育成場がある。

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戸建て住宅専用の橋

 バイカモの育成場から50mほど南に進むと、”源兵衛川せせらぎ散歩”の道は急速に色を失い、写真のように、住宅地を流れる用水路という表情に変わってしまう。写真のように右岸側に建つ住宅のための専用橋が何本か架かっているが、それらはいずれも利便性以外の考慮は感じられない。ただ、そっけない遊歩道は左岸側に設けられているため、川沿いの散策は継続できる。

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残念な置き土産

 川の中には写真のような廃棄物があった。川底には腐敗物が積もっており、これまで見てきた清流とはまったく異なり、とても”せせらぎ散歩”を楽しむといった興趣はなくなってしまった。この写真から、この川の清らかさは人々の不断の努力によって維持されているということが分かる。

 ほどなく川は県道51号線と出会い、それから100mほど下流では遊歩道すら失ってしまう。

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中郷用水記念碑と源兵衛川の最下流

 川は再び沿道を右岸側に復活させるが、それは遊歩道といったものではなく、県道51号線沿いにある店舗や住宅のための裏道として利用されている。

 川の左岸には中郷用水公園が整備されている。「公園というよりビオトープ」がうたい文句だそうだ。たしかに、左岸側は親水性に配慮した造りになっており、川の流れ、木々や石の配置は、「生物生息空間(ビオトープ)」と呼ぶに相応しい憩いの場になっている。

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国道1号線と中郷温水池入口

 中郷用水公園から国道1号線(三島バイパス)方向を眺めたのが上の写真。この辺りにもカワセミがよく立ち寄るそうで、超望遠レンズを構えた愛好家が5人いた。ただ、私が見ていた限りではカワセミの姿はなく、右岸には餌を探すコサギチュウサギがいるばかりだった。

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この橋の下流側に中郷温水池公園がある

 国道1号線のすぐ南に「中郷温水池公園」があるのだが、源兵衛川(中郷用水)沿いからは直接行くことはできない。川の右岸から国道1号線に出て、西に50mほど進んだところにある「三島玉川交差点」の横断歩道を渡り、今度は1号線の南側を東に50mほど進めば中郷用水の右岸側に至る。

 写真は、国道から公園方向を眺めたもので、温水池橋の南側に中郷温水池公園が広がっている。温水池は南北320m、東西の最大幅95m(最小幅は用水路南端の15m)と細長い形をしているが、橋はひとつしか架かっていないため途中で対岸に移動することはできない。もっとも、温水池橋から出発して池を一回りして橋に戻ってくるのに要する距離は750mほどなのでまったく苦にはならない。しかも、南側に行くほど周囲の景観は良くなる。

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ゴイサギは哀しからずや

 温水池橋の南側の170mほどはまだ池というより中郷用水の延長上にある水路だ。左岸側には住宅が立ち並んでいるが、右岸側は築山がある広場として整備されている。

 用水路の右岸側には数多くのスイセンが植えられており、丁度、開花中だったが、ゴイサギくんは「花より団子」なのか、用水路の中の生き物が気になっていると思えた。が、しばらく観察していても虚空を見つめているようでもあったので、餌にすら関心を抱いていない風でもあった。

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多彩な水鳥が集う温水池

 温水池の中には様々な種類の水鳥がいた。どこにでもいるカモもいれば、あまり見たことがない種類の鳥もいた。温水池の名にし負うように、鳥たちは気持ち良さそうに索餌行動をとっていた。

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ただいまエサの捕獲中

 浅場ではコサギチュウサギが餌を漁っていた。東久留米の落合川でもコサギチュウサギは一緒に行動していたが、ここでも同様だ。さらに言えば、三島の他の河川でもこの組み合わせを何度も見た。私が清流巡りをするということで、この2羽は落合川から飛んできてくれたのかもしれない。

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葦原と住宅地と箱根の山々

 池の岸から東方向を望むと、写真のように箱根の山々が視界に入ってくる。

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温水地には富士山がよく似合う

 池の南端から北を望めば、富士山と愛鷹山の姿を見ることができる。思えば、この温水池に来る切っ掛けは、ここが富士山の絶好のビューポイントであるということを知ったからだった。

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農業用水池であることを思い起こさせる設備

 景色の良さに見とれてしまっていても、写真のような設備を目にすると、ここが農業用水のための溜池だったことを思い出す。1953年、この温水地は国の事業として造成され、96年から98年にかけて再整備されて公園となった。現在は南側の広場を造成中だ。

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温まった水は下流の農地へと進む

 明るい日差しを受けた池の水は、人々の目と鳥たちの腹を潤したのちに、その本来の目的を実行するために南の農地へと散っていく。

◎菰池(こもいけ)と桜川と文学碑と

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桜川と西隣にある白滝公園の林

 桜川は菰池(こもいけ)に湧き出る清流と白滝公園に湧き出る清流を集めて、三嶋大社のすぐ西側で閉渠となって南に流れ下る普通河川。下流では3つの地区の農業用水として使用されるため、三ヶ所用水という別名を有するそうだ。

 三島駅南口から楽寿園、白滝公園、三嶋大社へ至るルートを用いる人ならば必ず目にすることになる清流で、途中には流れに並行して「三島水辺の文学碑」が立ち並んでいる。私は今回の三島徘徊では4回もこの桜川に立ち寄っている。

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桜川の水源である菰池(こもいけ)

 菰池(こもいけ)のある場所は、三島溶岩流の最上層の末端下に位置しているので伏流水が湧き出しやすい。池の最北端に湧水口が存在すると思われるが、今回の徘徊ではその湧出は確認できなかった。

 菰池の「菰」はイネ科の植物であるマコモを粗く編んだムシロのことのようだが、この池とムシロとの関係は不明だ。菰池の一帯は1956年に公園として整備された。それ以前は自然のままの湧水池として存在していたのだろう。だとすれば、池の廻りにはマコモが繁茂していたはずなので、マコモ池と呼ばれていたのではないだろうかと勝手に推察した。

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菰池の北側に三島溶岩最上層の末端がある

 菰池とその西側にある道を撮影してみた。この様子から、池が溶岩流の末端の直下に位置していることがよく分かる。なお、池は標高25m地点にあるが、道路は28m地点から下ってきている。道路の北側すぐのところ(ビルの向こう側)には東海道本線東海道新幹線の線路があるが、それらのすぐ北側の地面の標高は40mもある。

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菰池の水は桜川として南下する

 菰池の南側に幅3mほどの水路が整備されていて、池の水はここを通って南下する。

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各所からの水を集める桜川

 菰池の西側65m付近にはそれと同様の出自をもつ鏡池がある。現在はほとんど枯れた状態だが、その筋には伏流水があるようで池の南側で小さな流れが顔を出している。

 写真は、その小さな流れ(左側)と菰池からくる流れ(右側)とが合流する場所。こうして、桜川は少しずつ豊かになってゆく。

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中島で遊ぶカルガモたち

 合流点の直下には、写真のような小さな島がある。これが自然にできたものなのか人工的に設えたものかは不明だが、カルガモにとってはそのどちらでも良く、恰好な遊び場になっているという事実だけを受け入れている。

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白滝公園の湧水も桜川の水源となる

 桜川の右岸側には白滝公園の東縁がある。白滝公園は古くから水泉園と呼ばれていたように、湧水が極めて豊富な場所である。あちらこちらから水が湧き出てきている様子が見えるが、かつてはこの全体が滝のように流れ下っていたとのこと。それゆえ、白滝と命名されたそうだ。この水たちもすべて桜川に加わる。

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白滝公園と桜川

 写真は、その白滝公園の南部分を桜川の左岸側から眺めたもの。公園の南側には小さな溶岩塚がいくつもあって、その下部から幾筋もの湧水が流れ出ている。それらすべての湧水も桜川に流れ込んでいる。

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水量の豊富な桜川だが……

 こうして、多くの湧水を集めた桜川は、写真の場所ではその川幅は22mにも成長している。

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桜川の水の多くは御殿川に落とされる

 が、先の場所から40mほど下流の右岸側に水門があって、そこから桜川の水のかなりの量が落とされている。写真は、桜川から流れを頂戴した御殿川で、源兵衛川と大場川との間を南下している。

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町中の清流のお定まりの風景

 清流とミクリ類とカルガモ。落合川でもよく見た風景で、町中を流れる清流の定番ともいえる景色だ。

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清流とアブチロンチロリアンランプ

 川の左岸には住宅地が並んでいて、家に通じる橋の上を花で飾ったり、写真のように岸辺に花を植えたりして、それぞれに清流のある風景を楽しんでいるようだ。

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川沿いには当地に所縁のある文人の石碑が並ぶ

 桜川の右岸沿いには、三島の地を題材にした作品の一部を彫った石碑が並んでいる。三島の特徴をよく表現している文章や句に触れながら散策できるという喜びをこれらは与えてくれる。

 すべてを紹介することはできないので、ここでは私が気に入った4つの石碑を紹介したい。

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司馬遼太郎の文学碑

 司馬遼太郎は、彼の得意な主観性を表には出さずに三島溶岩流と湧水との関係を素直に叙述している。その理解が正しいかどうかは別にして。

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若山牧水の文学碑

 確かに、沼津市の位置から富士山を見るには愛鷹山が大きく立ちはだかっていて邪魔な存在に思える。三島からだと少しだけ愛鷹山からの「被害」は減じるが、それでも西裾のかなりの部分を隠してしまっているので、存在しないほうが嬉しいかも。ただ、富士山も愛鷹山箱根山も人間が造ったわけではないので、それらに対し景観権を盾に排除を求めることはできない。

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正岡子規の文学碑

 正岡子規は、写生による現実密着型の俳句を確立したことでよく知られているが、この句もまさに見たままを表現しており、なんの衒い(てらい)もない。

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芭蕉の作品はさすがにウイットに富んでいる

 なぜか、芭蕉の作品だけ読みにくくなっている。これは『野ざらし紀行』の箱根の項で、句の前には「関こゆる日は雨降りて、山皆雲に隠れたり」とある。

 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

 富士が存在することを前提にした上での作品だからこそ趣きが深い。先の子規の作品と比較すると、10対2で芭蕉の勝ちだと個人的には思う。 

境川・清住緑地と丸池公園

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丸池公園から境川・清住緑地、そして富士山

 境川という名前なので、国境を流れていたことは想像しうるし、大場川から分岐したその川跡(河道跡)を辿ると、上流部は長泉町三島市下流部は清水町と三島市の境にあったと推察される。長泉町と清水町は駿河国三島市伊豆国なので、境川は確かに国境にあった。ただ、その痕跡を辿るほどの時間がないので、私は下流側にあって湧水を集めながら明瞭に流れを追える場所だけを訪ねてみた。それが、「境川・清住緑地」であり「丸池公園」であった。

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緑地の北端

 境川・清住緑地や丸池公園は、三島市と清水町が協力して整備したようである。周囲は住宅だらけなのだが、かつての境川はそれなりの水量があったようなので、公園近くになると河道はそれなりの広さを有している。

 写真は、公園の最北端付近を眺めたもので、これより北側はマンションや住宅が河道の中にも造られ、ところどころに広場が残っているのみだ。 

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緑地内にある湧水が生み出した池

 前回にも紹介したが、緑地内には湧水が生み出した池がある。ここには湧き間は何か所もあるので、水面を眺めていると、ぼこぼこと湧き出ている様子を視認できる。

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緑地公園には大石が転がっている

 池の下流側には、また別の湧き間がいくつもあって、それが産み出した流れが幾筋も公園内をうねりながら流れ下っている。写真の部分はもっとも新しく整備されたところのようで、グーグルアースではまだ整備中の様子が撮影されている。

 園内には大石がいくつも転がっているが、これらは三島泥流が持ち込んだときの姿を再現しているのだと思われる。

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かつての流れを再現?

 この部分も新たに整備されたもの。この辺りにも湧き間が多いので、写真の通りかどうかは不明だが、このように幾筋もの流れがあったと十分に推察可能だ。 

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井戸と清流と富士山と

 公園の中には、写真のような井戸が造られている。水を汲むことは可能だが、「この水は飲めません」との注意書きがあった。井戸の横には大石、その向こうに清流、そして林、さらに遠方には富士の嶺が見える。

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境川の湧き間。水量は相当に豊富

 境川の河道の左岸側に写真のような湧き間があった。この背後には高台があるが川の流れは見受けられない。それが正しければ、ここからは相当の量の水が湧き出ていることになる。ここの湧水はすぐに境川本流に流れ込むため、川は一気に水量を増して丸池公園の東側に進む。

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丸池公園の湧水は境川に落ちる

 前回に紹介した通り、丸池公園の北側には大きな湧き間があり、写真の場所で湧水が大量に流れ込んでいる。高台下の湧水を集めた境川が左側から流れ下ってきており、この湧水は川に合流するため、写真から分かる通りこの場所は清水の溜まり場になっている。

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丸池の端から富士山を望む

 一方、丸池の水は涸れ気味だった。が、一週間後に訪れた際には池は八割ほどの水が貯えられていた。伏流水が一気に湧き出たのか、境川から池に水を引き込んだのかは不明だが、池は上の写真とはまったく異なる表情を見せてくれた。

 この丸池からの富士山の景観も見応えがあった。このときは西風が強く、富士山はカルマン渦を形成した雲たちを東にたなびかせていた。

柿田川湧水群~いつもとは違う表情に触れる

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柿田川の清さが眩しい

 三島地区の清流といえば柿田川は外せない。前回は第一、第二展望台からの湧き間をおもに紹介したので、ここでは違った姿を見せる川の姿を取り上げることにした。 

 写真は、下流部に架かる柿田橋の近くの左岸から川の流れの一部を撮影したもの。澄み切った流れは誠に美しく、この川が日本有数の清流であるという評価はまったく正しい。 

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八つ橋付近の湧水の流れ

 展望台がある柿田川公園の南端にあるのが「八つ橋」。公園には「八つ橋」の標識が掲げられているので、それに従って遊歩道を南に進むと川の左岸近くに出る。「八つ橋」一帯は湿地帯の様相だが通路が整備されているので歩行はたやすい。

 この一帯には崖下から湧き出る小川が幾筋も流れ込んでいる。写真にあるように湧水口を見ることはできないが、木々の隙間から清流が流れ下ってくる様子を見ることができる。

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八つ橋付近には多くの湧水が集結

 幾筋の流れが離合集散しながら本流の左岸方向に進んでいく。林からの眺めは趣きが深く、展望台からの眺めとはまったく異なる柿田川の姿に触れることができる。

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柿田川左岸の湧水群

 本流の左岸にまでは行くことはできないが、ここからの眺めのほうが興趣はある。

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八つ橋から柿田川本流を眺める

 ここが散策路ではもっとも左岸側に近づける場所。写真から分かる通り、右岸側には住宅が立ち並び、岸辺に出られる場所もある。 

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柿田橋から柿田川の最下流を眺める

 柿田川の湧水たちは1.2キロの旅を終えて本流の狩野川に合流する。合流点の手前60mほどのところに柿田橋があり、写真はその橋上から合流点を眺めたものだ。

 私がこの橋の存在を知ったのは今から30年前のこと。当時はよく日帰りで狩野川にアユ釣りに出掛けていた。帰りは午後5時頃になるので、三島に出る国道136号線は大混雑する。そこで国道の西側にあってやはり同じように三島に向かって北上する道を進むことにした。

 しかし、この道も三島バイパスと交わる「三島玉川交差点」(本ブログでは何度もその名が出てきている)で渋滞するため、その手前を左折して、清水町役場の前の道を通って橋を渡り、その先を右折して三島バイパスに出ることが多くなった。

 その橋が柿田橋であることを知ったのは、このルートを使うようになって2度目のことだった。以来、明るいうち(夏季の日没は遅い)にこの橋を通る際には、必ず近くの空き地に車を停めて柿田川の流れを眺めることにしていた。まだ、柿田川の清流が全国的に知られる前のことだった。 

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橋下から川の流れに接する

 橋の西詰には駐車可能な空き地があり、川の土手から右岸に降りられる階段が設置されている。写真は、右岸に降り立った場所から上流方向を眺め、柿田橋と、旧柿田橋の廃墟とを撮影したもの。

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右岸から中流方向を眺める

 右岸沿いには、なんとか歩くことが可能な道(けもの道よりは少しマシ)があるので、まずは上流方向に進んでみた。写真は、川の中流方向を撮影したものだ。左岸の土手上に道路があって、少しだけ歩くことは可能なのだが、その先に河川事務所の敷地が道を塞いでいるため僅か100mほどしか進むことができない。写真内にある白い建物は、その事務所のものだ。

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左岸から本流の流れを見つめる

 写真は、左岸にあるその河川事務所の正門近くから川の流れを眺めたもの。この辺りの川幅は35m以上ある。湧水を大半の水源にしているにもかかわらず、柿田川は豊富な水量を有している。

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旧柿田橋の上流

 写真は、右岸側から柿田橋のすぐ上流側付近を撮影したもの。この場所から川は急流となって狩野川を目指すことになる。

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旧柿田橋の下流

 写真は、橋の直下ならびにすぐ下流の様子。こうした荒瀬ではアユ釣りはできない。もっとも、柿田川の川底にはミクリ類やミシマバイカモが多く繁茂しているため、アユ釣りには障害物があまりにも多すて適さない。天然遡上のアユは豊富にいるのだが。

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川は狩野川に溶け込んでいく

 写真は、柿田川本川狩野川に合流する地点を撮影したもの。清流はここで右折して狩野川の水に溶け込みながら駿河湾に落ちていく。1.2キロの湧水の旅は、水たちも、そして旅宿人の私も、ひとまずここで終了となる。

  *   *   *

 次回は三島界隈の写真集となります。恐ろしいスカイウォークの写真も取り上げます。

〔67〕三島界隈を訪ねる(1)三島溶岩、湧水とバイカモ、三嶋大社など

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中郷温水池(三島市)から富士山を望む

◎初めて三島をじっくりと訪ね歩いてみた

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愛染院跡の溶岩塚

 三島と聞くとすぐに「おせん」を連想してしまうのは、いささか『男はつらいよ』の見過ぎかもしれない。が、通常であれば三島からは、「溶岩」「湧水」「三嶋大社」「うなぎ」が思い浮かぶはずだ。

 前回の小田原と同様、通過点としての三島ならば数百回は通り過ぎている。狩野川のアユ釣り、中伊豆の観光、天城越えから南伊豆へ出る際はもちろんのこと、西伊豆に出掛けるときにも大抵は三島を通過していた。

 かつては東名高速を沼津ICで下り、「沼津グルメ街道」から国道1号線に出て、南二日町交差点を右折して国道136号線を南下した。昨今は、これが新東名の長泉沼津ICから伊豆縦貫自動車道を南下するルートに替わったが、いずれにしても三島市を通過することには変わりはない。

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柿田川・八つ橋近くの湧水口

 狩野川でのアユ釣りのときなど、釣りを少し早く切り上げて(実際にはオトリアユが過労死したため釣りの続行が不可になったから)、三嶋大社柿田川湧水群などに何度か立ち寄ったことはあるが、それはあくまで付随行為であってそれを第一目的としていたわけではなかった。それでも、大社の歴史や湧水群の成り立ちについて調べる機会があったときは、「いつかは三島へ」という思いは少なからず生じていた。

 もっとも私の場合、「いつかは〇〇へ」という場所があまりにも多すぎるため、結局、三島行きが実現したのは今年に入ってからとなった。前回、同じく通過点的存在であった小田原では多くの見所を発見したことから、箱根宿の西(三島宿のこと)もじっくりと訪ねてみたいと誘引されたことも確かであった。

◎三島溶岩流の露頭を見て歩く

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三島スカイウォークから富士山と愛鷹山とを望む

 現在の富士山の原型が出来上がったのは今からおよそ1万年前のことらしい。その形成過程で新富士火山は何度も噴火を繰り返し莫大な量の溶岩を流出した。南面に下った溶岩流は、前方にある愛鷹山に遮られたため、その山の西側と東側とに分かれて流れ下った。西側は今の富士川流域を進み、東側は愛鷹山と箱根古期外輪山との間を進んだ。

 東側は深い谷状の地形であったが、そこに大量の溶岩が流れ込んできたため、谷はかなり埋まり緩い傾斜の平地が生まれた。この平地こそ今の三島の原型となったのである。それゆえ、この溶岩流は「三島溶岩(流)」と名付けられた。

 上の写真は愛鷹山と富士山、手前の尾根は箱根古期外輪山のもので、その間の谷を三島溶岩流が埋めたのだ。なお、写真にはシグリスヴィル・パノラマブリッジ(愛の不時着でお馴染み)ではなく「三島スカイウォーク」の一部が写っているが、それについてはいずれ触れることになる。

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黄瀬川の中流にある「五竜の滝」

 写真は裾野市にある名勝の「五竜の滝」(標高133m地点)。解説では三島溶岩流の末端にあると記してあるが、溶岩流の一部は駿河湾に達しているので末端は言い過ぎかもしれない。もっとも、この下流部には愛鷹山麓が東に張り出しているため西側の末端である可能性はなくもない。

 この滝のすぐ下では西から佐野川、東から黄瀬川の分枝流が流れ込んでいるため、左右からの圧力を受けて節理部分が崩落して滝となったという可能性も素人目には考えられる。

 ともあれ、ここでは三島溶岩流の露頭(高さ12m)が見られる。ひとつひとつの溶岩の厚さは1mほどで、これが何層にもなっていることから噴火は何度も繰り返し発生したと考えられている。

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三島溶岩流の末端に出来た「鮎壺の滝」(長泉町

 写真は、五竜の滝から直線距離にして6キロほど下流にある「鮎壺の滝」(標高38m)。同じく黄瀬川にある滝だが、こちらは三島溶岩流の末端にあると言っても問題はないようだ。滝の下流部の河床は「愛鷹ローム層」なのがその理由だ。

 滝の高さは9mだが、やはり五竜の滝と同様に、溶岩流の露頭を見るとそれぞれの厚さが1mほどであることが分かる。なお、滝の右側には「溶岩小洞穴」がある。

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楽寿園内にある溶岩小洞穴

 写真は、三島駅のすぐ南側にある「楽寿園」(国の名勝、伊豆半島ジオサイトなどに指定)にある溶岩小洞穴。洞穴が形成される仕組みは諸説あるが、一般には、溶岩流の上部と下部は冷却されて固結するものの、内部は未固結状態で流れ出るために空洞ができると考えられている。

 なお、楽寿園は三島溶岩流の最上層部末端部に位置しているため、いろいろな姿の溶岩が露頭しているのでとても興味深い場所である。

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パホイホイ溶岩特有の縄状溶岩

 写真の「縄状溶岩」も楽寿園内にあった。富士山が生み出した溶岩は、日本では例外的に玄武岩質である。日本で著名な火山の大半は、安山岩かデイサイトを噴出する。なぜ富士山が玄武岩質なのか理由はまったく分かっていないそうだ。富士山の真下には、40万年前に噴火を開始した先小御岳火山、20万年前に生まれた小御岳火山がありこれらは安山岩質で、10万年前に噴火した古富士火山、1万年ほど前に噴火した新富士火山(現在の富士山)は玄武岩質である。玄武岩安山岩より粘り気があるため、これが富士山の標高をより高くしているのだろう。

 それはともかく、玄武岩質であっても流動性があって連続性が保たれているため、三島溶岩流は岩塊状態(クリンカー)のアア溶岩ではなく、パホイホイ溶岩である。その特徴は、写真の「縄状溶岩」に見て取れる。これは楽寿園内では至るところで見られ、後述するお隣の「白滝公園」内にもよく残っている。

◎三島溶岩流を覆った御殿場岩屑流と御殿場泥流

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三島扇状地の形成に一役かった黄瀬川

 三島溶岩流は谷底を埋めて平地を生み出したけれど、それだけでは人が住めるようにはならない。現在の三島扇状地が形成されるためには次のステップが必要だった。それが、2900年前に発生した「御殿場岩屑(がんせつ)なだれ」だ。これは富士山の東斜面が山体崩壊したために起こったとされる。このときに流出した土砂は18億立米だったと推定されている。1707年の宝永噴火の際の噴出物の量は7億立米だったと考えられているので、その2.5倍の量が流出したことになる。現在の御殿場駅では厚さ10mほど、山麓東富士演習場・滝ケ原駐屯地付近では厚さ40mほどだったそうだ。

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三嶋大社のすぐ東側を流れる大場川も扇状地造りに参加

 このなだれで堆積した土砂は、その200から300年後に発生した「御殿場泥流(土石流)」によって流れ出し、東方向では酒匂川流域、そして南方向では三島溶岩の上を覆った。この砂礫層が黄瀬川や上の写真の大場(だいば)川によって開析されて現在の三島扇状地ができたのだった。

 三島駅のすぐ北側でおこなわれたボーリング調査によれば、この砂礫層は表土を含めて5mほどの厚さがあり、その下に三島溶岩の最上層(厚さ5m)があることが分かっている。

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三嶋大社・神池の際にあった大石

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丸池の底に残る大石

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白滝公園の清水の中にある大小の石

 三島は石の町とも言われている。三島大社の境内に、丸池公園内に、道路脇に、川や池の中に大小さまざまな石が、意図的にあるいは自然な状態で置いて(もしくは放置)ある。石の中には三島溶岩由来のものもあるがこれは意外に少なく、より大きな石ほど出自は異なっている。

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稲荷神社に残る三島溶岩

 写真は、「稲荷神社」(長泉町)に残る溶岩塚の中で、とくに三島溶岩の特徴が分かるものを撮影した。これから分かる通り、なぜか三島溶岩は多孔質なのだ。三島溶岩は1万年前の新富士火山が生み出したということはすでに触れているが、同じ時期に愛鷹山の西側(富士川方向)に流れた溶岩は密度が高く80~95%なのだが、東側に流れた三島溶岩は70%以下の密度なのである。

 溶岩が多孔質だということは水の浸透性が高いということにつながる。この性質が、地下に膨大な水を育み、それが豊富な湧水群を生み出してくれているのだ。私が三島を訪れる第一の理由は、これら湧水たちに触れることである。そうでなければ、存在するかどうか不明な「おせん」を三島宿界隈で探し続けることになりかねない。

 上に挙げた3枚の写真にはいずれも多孔質ではない大きめの石が写っている。それらは三島溶岩のものではなく、御殿場岩屑なだれが富士の山体から生み出したものであり、それが御殿場泥流に乗って辿り着いたものだと考えられている。御殿場岩屑なだれは富士山の東斜面由来だが、当時、その辺りには古富士火山の斜面が顔を出しており、その部分が山体崩壊したとされている。それゆえ、新富士火山が生み出した石とは性質が異なっていたとしても格別、問題はない。

◎湧水は、いったい何年かかって我々の前に姿を見せるのだろうか?

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柿田川湧水群の代表的な”湧き間”

 三島界隈の湧水と言えば、三島市のすぐ南に位置する清水町を流れる柿田川湧水群がもっともよく知られ、その中でも第2展望台から見られる写真の”湧き間”は極めて有名だ。この辺りには公園として整備される以前には紡績工場があり、この場所はその工場の井戸として利用されていた。それゆえ、周りが円形状に囲ってあるとのこと。

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第1展望台から湧き間を眺める

 一方、第1展望台から見られる湧き間は写真にあるとおり、砂地底(この一帯の地べたは海成砂層)から砂を舞い上げながら水が湧き上がってくる様子を観察することができる。美しさはともかく、こちらの様子のほうが個人的には好ましく思っている。

 ところで三島界隈の湧水は、富士山の雪解け水や三島扇状地に降った雨が三島溶岩流の下(もしくは間)に浸透して下ってきて、溶岩流の末端部や砂地底(一部は砂礫底)から湧き出すのだが、いったい、水たちはどのくらいの期間、地下に滞留しているのだろうか?こんな誰しもが抱く疑問を私も持っていたので、若い頃にそうしたことに興味を有している知人に訊ねたことがあった。彼曰く、「数百年はかかるはずだ」。

 こうした疑問は科学者ならば誰もが解明しようとするはずで、対象とする湧き水を、1953年に始まった核実験由来のトリチウム濃度を計測して、湧水の涵養時間を調査するという作業がおこなわれた。それによれば、核実験開始の6年後にトリチウムが検出されたそうだ。もっとも、そのトリチウムが富士山の雪に含まれていたものなのか、三島扇状地のものなのか、さらに言えば、降雨地から湧出口までの距離も不明なので、地下に滞留していた期間が6年であるとは簡単には判断できないことは言うまでもない。それゆえ湧水の涵養期間は、一般的には5年から40年ほどだろうと考えられていて、柿田川公園にあった説明書きには「十数年涵養された雪解け水……」と記されていた。

◎湧き間(湧水口)を探して

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柿田川の湧き間(第1展望台より)

 湧水を訪ねる散策でもっとも興味深いことのひとつが「湧き間」(湧水口)探しである。本ブログでは54,55回の落合川、56回の秋留台地、61回のぶつぶつ川で湧き間(湧水口)を見つけ出してその面白さを堪能した。今回に訪問した三島地域は湧水の本場であるため、いろいろな湧き間と出会うことができた。

 上の写真は、柿田川第1展望台から見つけられた湧き間で、黒みがかった砂が湧き水と一緒に踊っている様子が見て取れた。

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柿田川の湧き間(第1展望台より)

 これも柿田川第1展望台から見つけた湧き間。左側の砂地底も周囲にはゴミが溜まっていないので、このときは湧き出す様子は確認できなかったものの、湧き間であることは確かだ。

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柿田川・八つ橋付近の湧き間

 柿田川の左岸に整備された遊歩道(八つ橋)脇にあった湧き間。ここは第2展望台の下にあった湧き間と同様、丸囲いが施してあった。

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丸池公園の湧き間

 丸池公園は柿田川と同じく清水町にあり、柿田川公園の北東650mほどのところに位置する。昨年、池の周囲が公園として整備された場所で、散策路や水遊び用の池などが存在する。近隣の人々にとっては格好の憩の場所となっているようだ。もっとも、丸池自体は農業用の溜池として16世紀の後半(小田原北条氏による)に造られ、現在でもその役目を負っている。

 湧水はかなり豊富な場所のようで、写真のような湧き間は十数か所あって、大半の湧き水は東隣りを流れる境川に落とされている。

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丸池公園の溜池に整備された湧き間

 こちらは溜池として使われている丸池にあった湧き間。現在は農閑期なので池全体の水量は少なく、いくつかあるこうした湧き間から溢れ出てくる水のみが池に蓄えられている。

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丸池の湧き間のひとつ

 同じく溜池を潤している湧き間。

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こちらは丸池公園の湧き間

 溜池としての丸池の北側には「丸池公園」と「境川・清住緑地」が整備されており、丸池とは少し異なった姿の湧水、それに湧水が生み出した川の流れに触れることができる。写真は、その丸池公園の湧き間である。

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境川・清住緑地の池にあった湧き間

 緑地にも池があり、やはりその池も湧水が水源になっている。ただ、写真から分かる通り、こちらは湧水口が自然のままなので池の底から水がぼこぼこと湧き出している様子を見ることができる。写真ではやや分かりにくいが、この池の底は砂礫が敷き詰められている場所が大半なので、柿田川で見られた砂が舞い上がる姿ではなく、水面の盛り上がりから湧き間を見つけることになる。こうした湧き間は池のアチコチに見られたが、写真の場所が一番、岸に近かったので撮影が容易だった。

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楽寿園内にあった湧水口

 写真は「楽寿園」で見つけた湧水口。ここは三島溶岩流最上層の末端に位置しているため、溶岩と溶岩との間を流れてきた涵養水が地表に顔を出す姿を見ることができる。府中崖線や国分寺崖線、あるいは秋留台地などでよく見られる湧き水と同じような姿をしている。

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白滝公園の湧水口

 楽寿園の東隣にある「白滝公園」でも湧き水が姿を見せる様子を視認できる。ここも楽寿園に同じく溶岩流の末端部に位置しているため、溶岩の下?から清水が湧き出してくる姿を確認できる。

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カルガモは温かい?湧水に浸かって気持ち良さそう

 湧水の水温は一年中、約15、6度なので夏は冷たく冬は温かい。白滝公園を住処としている?写真のカルガモは湧水の温もりが気持ち良いのか、私が近づいても動こうとはしなかった。

 以上のように、三島とその周辺の町(主に清水町)には湧水そしてそれが生み出した小河川、用水路、池などが数多く存在しているので、水好きの人間は極めて魅了されてしまう場所なのだ。

◎ミシマバイカモとウナギ店と温水池と

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ミシマバイカモの群生(ただいま増殖中)

 ミシマバイカモはかつて、楽寿園の中にある湧水池(小浜池)に自生していたそうだが、工場進出で地下水が大量に使用されたこと、宅地化が進んで生活排水による汚染が進んだことなどの結果、すべて消失してしまった。

 この水生植物は水温が一定で冷たく、かつ清流であることが生育条件であることから柿田川ではなんとか生き延びていたようで、三島の人々は柿田川から水草を移植して、「三島梅花藻の里」にて増殖活動が続けられている。 

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源兵衛川に移植されたミシマバイカモ

 梅花藻の里で育ったミシマバイカモは近くを流れる源兵衛川に移植されており、5月から9月にかけて梅の花に似た小さな花を咲かせる。ひとつ上の写真は、梅花藻の里の育成池のものだが、通年、花が咲くように温度管理がなされているとのこと。ただ、冬の時期は開花条件にはもっとも不適なので、この植物が本来的に見せてくれる可憐な花とはほど遠かった。

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ミシマバイカモが自生していた柿田川

 ミシマバイカモバイカモの地域変種のひとつ。私が初めてバイカモの姿に触れたのは、滋賀県米原市醒井(さめがい)にある地蔵川だった。20数年前だったと記憶している。その時分はよく若狭湾方面に取材に出掛けていて、大半は滋賀県近江八幡市に住む知人が同行してくれた。帰りはしばしば近江八幡市内や安土城彦根城見物をしたが、中山道の宿場であった醒井宿に、地蔵川という清流があることを聞き及んだので立ち寄ってみることにした。なお、醒井には『古事記』や『日本書記』に記されている「居醒の清水(泉)」があるということもそのときに知った

 私の目的は地蔵川の清流と、その中に生息するハリヨという魚を見ることだった。が、たまたま7月でバイカモの開花期ということもあり、それらよりも川の中の水草が無数の可愛らしい花をまとっている姿のほうに魅入られてしまった。それが『愛の水中花』(松坂慶子)ではなく、バイカモという水草であることを初めて知った。なお、花は水中ではなく水上で咲く。愛の水上花なのだ。”これも愛”である、たぶん、きっと。

 写真は、ミシマバイカモが自生する柿田川下流部。右岸の水草はミクリ類で、深緑色の水草がミシマバイカモだ。

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三島市ではバイカモの育成に努めている

 写真の「三島梅花藻の里」は三島駅南口から国道1号線(R1)に向かって南下する県道51号線(r51)沿いにある。この道の傍らには「楽寿園」「白滝公園」「水の苑緑地」「佐野美術館」などがあるため、今回の徘徊では、r51を何度も行ったり来たりしたことで、すっかり馴染み深い道になった。この道がR1と出会う交差点(三島玉川交差点)は朝夕の渋滞ポイントとしてよく知られているおり、私がかつてR1とR136を使って狩野川や中伊豆へ行き来したときに渋滞に悩まされた交差点として記憶はあった。

 三島を代表する清流の源兵衛川はr51にほど近い場所を流れているので、この道沿いにあるコインパーキングに駐車して「三島梅花藻の里」や下の写真のミシマバイカモ育成地(水の苑緑地内)などを訪ねた。

 梅花藻の里はミシマバイカモの増殖基地として、写真から分かるように湧水を引き入れたいくつかの池でこの水草を大切に育てている。もちろん、園内は出入り自由なので育成中のものをじっくり眺めることができる。

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開花期の初夏に向かってただいま生育中

 先にも記したように、増殖されたものは源兵衛川中流に整備された「水の苑緑地」の一角に移されて成長する。写真に挙げた場所ではとくにしっかりと根付いて大きく育っているので、初夏には数多くの花を咲かせて人々の目や心を潤すことだろう。 

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清流の恩恵はウナギにも

 三島はウナギの産地という訳ではないが、界隈には実にウナギ店が多い。私もかつて、取材の帰りに何度かR136沿いにある高級そうな店に入ったことがある。なかなか美味だった。

 三島のウナギが多くの人に好まれているのは、独特の「さっぱり感」からのようである。ウナギを敬遠する人は「生臭さ」「泥臭さ」「多すぎる脂肪」を理由に挙げる。三島では豊富な湧水が簡単に手に入るため、ウナギをその湧水の中で5日ほど晒すと、それらのマイナス面はすべて取り除かれるそうだ。

 美しい清流は、人々の腹をも満たすのだ。

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冷たい水を天日で温める

 湧水は農業用水として利用されることが多いが、その欠点としては水が冷たすぎるということだ。稲は中国西南部からインド東北部が原産地であり、元来は高温多湿を好む水生植物だ。もちろん品種改良が進んでいるために、現在では寒冷地でも盛んに栽培されているが。それでも農業用水は冷たいよりもやや温かいほうが良いことは言うまでもない。

 そこで、源兵衛川の最下流域に写真のような「温水池」を造り、一旦、ここに水を溜めて天日に晒して水温を上げ、それから各用水路に配している。

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温まった水は用水路へ

 写真は、その中郷温水池の出口のひとつである。実際にどれだけ温まっているかは不明だが、池の上層部ほど水温は高いはずなのでそれなりの効果はあるはずだ。

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ゴイサギも温まりに来る

 他の鳥たちは概ね、群れを作って暮らしているのだが、ゴイサギは三島界隈でよく見かけたのだけれど、いつも孤高の存在だった。中郷温水池の個体も他の鳥の群とは離れた場所で明るい日差しを浴びていた。 

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温まりに来た人は鳥たちと遊ぶ

 温まりに来るのは水だけでなく、人間もやってくる。中郷温水池は富士山がよく見える場所なので散策に訪れる人も多い。写真の人は鳥に餌を与える常連のようで、この人の姿を見掛けただけで、鳥たちは大勢が集まってきた。

 鳥たちに餌を与えることの是非はあるだろうが、いったい、この地上に人間が介在していない存在はどれほど残っているのだろうか?餌を与えることへの非難はたやすいが、それでは、この池自体の存在は?池の周りの構造物の存在は?所詮、善悪は相対的なのである。

三嶋大社

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思ったよりも小さい大鳥居

 普通の人であれば、三島を訪れる最大の目的地は三嶋大社であろう。普通でない私でも数回は訪れている。もっとも、境内をぶらぶらするのが主目的で、いわゆる参拝をしたことはもちろんない。

 写真の大鳥居はこの神社の社格や規模に比してあまりにも小さい。敷地には余裕があるのだから、もっと大半の人が威厳を抱きそうな規模のものにしてもよさそうなものだが。実際、撮影時にも近くにいた人がこの鳥居を見て、「案外小さいね」と言っていたのを耳にした。

 前の通りは旧東海道で、撮影地点にある参道は下田街道だ。ここは三島宿の交通の要衝でもある。

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ウナギが住みやすそうな神池

 大鳥居から北に進むと写真の神池が見える。残念なことに池の水は相当に濁っている。近くに湧水由来の小河川や用水路があるのだから、それらを利用してもう少し透明度の高い水にしていただきたい、と思った。ウナギにとっては住みやすいのかもしれないけれど。

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厳島神社

 池には、お定まりの「厳島神社」があった。これは北条政子の勧請にて創建されたとのことだ。厳島神社は市杵嶋姫命(宗像三女神の一人)が祭神。市杵嶋姫の本地は弁財天なので「水の神」として崇められている。三島には最適な神様であろう。

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1931年に造られた総門

 三嶋大社の創建年は不明とのことだが、奈良・平安時代の書物には記録が残っているとのことなので、相当に由緒のある神社だ。この地には伊豆国国府が置かれていたこともあり、ここは伊豆国の総社でありかつ一宮であるとされている。

 三嶋=三島の由来は諸説ある。三島は「伊豆三島」、つまり伊豆諸島を指すという記録があり、火山島であり、かつ黒潮の流れが速くて航海に難儀する人々の安寧を願って伊豆半島南部に創建され、それが現在の地に遷座したという説が私の好みだ。伊豆諸島のひとつである神津島は黒曜石の産地として有名で、古く縄文時代にはこの島の黒曜石は日本列島の各地に広まっていた。伊豆諸島と本州とは相当な昔から交流があったのだ。

 三嶋大社三島神社)が現在の地に遷り、伊豆国の中心地として発展したため、この地は三島と名付けられた。三島にあるから三嶋大社なのではなく、三嶋大社があるから三島という地名になったのだ。

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総欅造りの神門

 かつての総門は1854年の「安政東海地震」によって倒壊したため、1867(慶応3)年に再建されて現在の姿になった。

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舞殿

 舞殿は神楽祈祷をおこなう場(祓殿)として造られたが、現在では舞の奉納がおこなわれているそうだ。

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私は参拝しない拝殿

 拝殿はその背後にある幣殿、本殿と一体になっている。ここも「安政東海地震」で倒壊したために1866(慶応2)年に再建されている。

 三嶋大社には大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのみとこ)の御ニ柱が祭神で、合わせて三島大明神という。前者は山森農産の守護神、後者は福徳の神で、商工漁業者の崇敬を受けている。

 この社殿は拝殿・幣殿・本殿からなる複合社殿のため奥行きのある立派な建造物で、参拝はしない私はその荘厳な姿に敬服はした。

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天然記念物のキンモクセイ

 樹齢1200年と言われる写真のキンモクセイは年に2回咲くという。相当な老木なので支えがなければ倒れてしまいそうだ。キンモクセイの花は誰もがよく知っている香りをもつが、この老木はどれほどの薫香を発するのだろうか。

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シカは神の使い?

 シカは古くから神の使いとして知られ、とくに奈良の春日大社では神鹿(しんろく)として大切に扱われている。三嶋大社でも写真のように「神鹿園」が整備されている。

 シカが何故、神の使いという位置づけになったのかは不明だが、シカの角は一年で立派に育って春に生え替わる。それゆえ、死と再生のシンボルになったという説を聞いたことがある。

 田畑を荒らす害獣を追い払うための仕掛けが「ししおどし」で、一般的には「鹿威し」の字をあてる。ということは迷惑な存在でもあるのだろう。というより、案外、神それ自体がはた迷惑な存在なのかもしれない。

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源頼朝北条政子腰掛け石

 大社の境内には写真の「源頼朝北条政子腰掛け石」があった。頼朝が源氏再興を祈願するために三嶋大社に訪れた際、休息のためにこの石に腰を掛けたとされている。

 頼朝が深く崇敬していたとされる三嶋大社を訪れたからという訳ではないが、たまたま『ダーウィンが来た』を見終わったときにテレビを消し忘れたため、大河ドラマの『鎌倉殿の13人』が始まってしまったので見てみることにした。

 その非道さに呆れてしまった。まずは脚本がまったくダメで、出来事の表面をただなぞっているにすぎない。著名な脚本家の手によるものなので現場の人間は訂正を言い出せないのだろう。出演者の演技下手も相当なもので、小学校の学芸会のほうが熱意が感じられるだけマシというレベル。あれでは、頼朝が可哀そうだ。もっとも、他の演技者も素人以下なので、頼朝だけが突出していたわけではない。それにしても、今どき、こんな低レベルのドラマを制作して良いのだろうか?

 ちなみに、頼朝・政子夫妻は夫婦別姓だ。夫婦同姓は日本の伝統でもなんでもない。

   *    *    *

 次回の三島界隈(2)では、今回に挙げた場所を含め、観光ガイド的に順を追って紹介する予定。

〔66〕小田原界隈(2)~石垣城・早川港・酒匂川そして二宮尊徳など

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早川新港入口にある小田原提灯

石垣山一夜城を訪ねる

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石垣山一夜城登城口にて

 前回の最後に記したように、石垣山一夜城は一夜にして出来たのではなく、約80日、延べ4万人とも言われる大工事によって築かれた。考えてみれば(考えなくとも)当たり前すぎる話だ。完成したのは1590(天正18)年の6月26日で、28日に秀吉が入城している。

 秀吉と小田原北条氏(以下、北条氏と記す)との対立はかなり前まで遡れるし、おおよそのことは、すでに本ブログの第40回(悲劇の八王子城)で述べている。が、前回に小田原城を取り上げていることもあるので、今回も簡単に触れてみたい。

 天下統一を図る秀吉は、1587(天正15)年の12月に「関東奥羽惣無事令」を出した。これはまだ秀吉に従属していない北条氏と伊達氏の動きを牽制するもので、建前としては、大名間の私的な領地紛争を禁じ、違反者は処分するというものである。

 沼田領を巡る北条氏と真田氏との対立は1589(天正17)年の7月、秀吉の裁定があって、その3分の2を北条側、3分の1で真田側にすることで決着を見た。しかし、10月に北条側が「名胡桃(なぐるみ)城」強奪事件を起こし、秀吉の裁定を覆すことになった。このため秀吉は同年11月、北条側に対して宣戦布告をおこなった。12月の軍議には家康も参加しているため、もはや北条側は援助を頼める勢力はなくなった。

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一夜城に向かう農道から小田原市街方向を眺める

 石垣山一夜城へは、小田原厚木道路・小田原西ICを下りて「一夜城下通り」を早川交差点方向に進み、「箱根ターンパイク」入口のすぐ先を右折して、標識にしたがって農道を上っていく。写真は標高81m地点から小田原市街、相模湾西湘バイパス方向を眺めたもの。一夜城までは行かないときでも私は、この辺りから見る小田原の景色が好きなので、早川港取材に出掛けた際に立ち寄ることが何度もあった。

 *  *  *

 秀吉による小田原城攻めは北条側でも覚悟をしていたので、1587年の末には軍勢に大動員をかけるとともに、小田原城の周囲約9キロに空堀や土塁を廻らす、いわゆる総構(そうがまえ)と呼ばれる大城郭の構築を開始した。また、武器の増産も進めていて、大磯の土を大量に小田原に運び込み、鋳物師が鉄砲や弾薬の鋳型を造って鋳造した。この時期には、八王子城北条氏照は領内の寺社から梵鐘の供出を命じている。

 ただ、87年末の時期には家康の仲介などもあって秀吉による北条氏の追討には至らなかったが、先に触れた名胡桃城強奪事件の結果、秀吉による宣戦布告が発せられた。これを受けた北条氏側も対戦を覚悟して、領国内の家臣ならびに他国衆に小田原への参陣を命令、あるいは各城(松井田城、鉢形城津久井城、八王子城山中城韮山城など)に防御態勢を取らせた。 

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農道の両側にはミカン畑が広がっている

 写真は、標高150m地点から、先と同じ方向を望んだもの。この辺りに来ると道の両側にミカン畑が広がっていて、以前にその景色を眺めかつ撮影していたとき、何度か農家の人からミカンを頂いたことがあった。

 上の写真はそのミカン畑に焦点を当てているため、小田原市街の風景はややピンボケになっている。この辺りは市街地の夜景を見るための人気スポットなのだそうだが、私にとっては夜景よりもミカン畑のある情景の方がお気に入りだ。

  *  *  *

 北条氏は対決を控え、一部には積極的侵攻策に打って出るべきだという意見もあったが、結局、90(天正18)年の1月に籠城作戦を取ることに決した。

 秀吉軍は同年の2月、家康などの各大名が小田原に向けて出陣し、3月1日には秀吉が聚楽第を出て関東に向かった。3月3日、伊豆・駿河国境にある黄瀬川で家康、織田信雄羽柴秀次を主力とした東海道軍が北条軍との戦闘を開始し、いわゆる小田原合戦の火ぶたが切られた。

 3月27日に秀吉が沼津の三枚橋に着陣すると本格的な戦いが始まった。29日には北条側の西の要衝である山中城(標高580m、現三島市)にて激戦が展開された。ただ、6万7千対4千では如何ともしがたく、わずか半日で落城した。

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野面積みの石垣は崩れている場所も多い

 一夜城の駐車場は標高224mのところにある。久しぶりに来てみて驚いたのだが、駐車場は広くかつ綺麗に整備されており、その傍らには洒落たカフェ&レストランがあった。おまけに駐車場は比較的混雑していた。そのとき、巷では「一夜城ブーム」が突発したのかと訝った。が、石垣山に登ってみるとさほど見物客はいなかった。

 これは後で知ったことだが、同じ一夜城であっても人気があるのは城跡の方ではなく、駐車場横にあった「一夜城ヨロイヅカファーム」なのだそうだ。その経営者は川島なお美(故人)の御主人で、店舗の前には相模湾が一望できる散策路が整備されており、川島なおみ美の慰霊碑まであるという。

 それゆえ、大半の人は美味しいケーキを食するために、相模湾を眺めるために、川島なお美を偲ぶために訪れていたのであって、小田原北条氏や秀吉、家康に思いを馳せているわけではなかった。

 ”一夜城”という名の店は、私の感覚では”紅灯の巷”に多く存在しそうなのだが、この店に関しては「石垣山一夜城歴史公園」に隣接しているため、いかがわしさを抱く人は皆無だろう。が、そうであっても「一夜城」に行ってきたとは、とても大きな声では言えそうになく、「一夜城ヨロイヅカファーム」か「石垣山一夜城」といえば、事が穏便に済むように思われる。私ならそうする。 

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二の丸の石垣を眺める

 石垣の多くは1923年の関東大震災のときに崩落してしまったが、当時のままの姿を残している場所や、綺麗に修復された場所もある。

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 4月1日、家康軍は箱根まで進み、2日には足柄城が落城。同日、秀吉は箱根峠まで進んできていた。4日に家康軍は小田原城近くに到達し、5日に秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を据えた。こうして秀吉軍の小田原包囲網は完成し、北条側は徹底籠城を余儀なくされた。

 一方、前田利家上杉景勝真田昌幸を主力とする北国支隊(北陸道軍)は3月15日に碓氷峠に到達し、28日から北条側の北の要衝である松井田城を攻撃し、4月20日に攻め落とした。以来、松井田城代であった大道寺政繁は秀吉側に加わり、5月22日の武蔵松山城、6月14日の鉢形城、同23日の八王子城攻略に加担した。

 伊豆の韮山城(北条氏第3代当主・氏康の四男である北条氏規が城代)は3月に始まった秀吉側の攻撃によく耐えていたが、6月24日に落城した。こうして、他国衆である成田氏長の本拠地の忍城(本ブログ第16回参照)以外はすべて攻略された。

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二の丸の全景

 二の丸広場(標高243m)では、かつて秀吉がここで茶会を催したという話が伝わっていることから、おととしの冬には、12万個の黄金色の電飾を使って「イルミネーション大茶会」というイベントがおこなわれたそうだ。

  *  *  *

 北条側では戦況が悪化の一途をたどっていたためか、内通者や逃亡者も相当数出ていた。こうしたことから、6月に入ってからは秀吉側との和睦を模索していた。6月24日には織田信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高小田原城内に入った。7月1日には北条氏第5代当主の氏直が、勧告にしたがって秀吉の下に出向くことの合意が成立している。

 このような動きがあったことから、秀吉はあえて武力で小田原城攻めはおこなわず、6月28日に完成した石垣山一夜城に入ると、側室の淀君を呼び寄せたり、千利休と茶会を開いたり、天皇の勅使を招いたり、家康と連れションをしたりした。

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本丸の様子

 本丸(標高257m)は木が覆い茂っていて景観はあまり良くない。それでも、小田原城に向かう場所には展望台が設置され、周辺の木々も伐採されているため、前回の最後の写真のように、小田原城天守閣を望むことは可能だった。

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 結局、北条氏直は弟の氏房と共に7月5日、滝川雄利の陣所に投降した。その際、氏直は自らの切腹と引き換えに城内の兵士の助命を嘆願した。ただ、氏直は家康の娘婿であったため高野山送りとなり、4代当主の氏政、北条一家衆を代表して八王子城主の氏照、家臣団のうち松田憲秀、大道寺政繁の4人が責任をとって切腹を命じられた。

 こうして5代、約100年続いた小田原北条家は滅亡した。

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本丸の展望台からの眺め

 上の写真は、展望台から相模湾方向を眺めたもの。この方角の眺望では必ず、早川左岸を走る西湘バイパスの姿が視界に入る。その道路の存在は小田原の風情を破壊しているものの時代の趨勢としては致し方ないのかもしれない。もっとも、この部分の西湘バイパスは距離が短いくせに料金はしっかり徴収されるので、私は滅多に利用しない。

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 北条氏滅亡後は、家康の三河以来の家臣だった大久保忠世が4万石で小田原に入封した。その子の忠隣(ただちか)の代には6万5千石に加増された。が、1632年に改易となり、稲葉正勝徳川家光の乳母であった春日局の子で家光の側近)が入封した。

 1633(寛永10)年の大地震小田原城が壊れたため、正勝そして正則が天守閣、本丸御殿などを建設し、近世的城郭として復興された。

 1686(貞享2)年、稲葉家は越後高田に転封となり翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(ただとも)が10万3千石で入封した。稲葉家以前の大久保家の復活で、廃藩置県まで小田原の歴代藩主を務めた。

 この藩主の名は後半、二宮尊徳について触れたときに出てくる。 

報徳二宮神社に少しだけ立ち寄る

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この神社は小田原城址公園に隣接

 報徳二宮神社小田原城跡に隣接しているというより小田原城址公園の一角を占めている(旧小田原城二の丸小峰曲輪の地)と言った方が適切だろう。私が小田原城に出掛けるときは通常、公園の南側にある有料駐車場を利用する。その目の前には大正天皇が感じ入ったという「御感の藤」と名付けられた藤棚があるが、そのすぐ西隣に写真の大鳥居がある。

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農民聖者の二宮尊徳

 二宮尊徳(たかのり、通称は”そんとく”)が小田原出身だということはすでに述べた。内村鑑三の言う「農民聖者」である尊徳は小田原だけでなく、北関東や東北などの600以上の村を復興させており、至る所に尊徳の足跡が残されている。そうした場所には金次郎像ではなく、総合的農村復興事業(これを仕法という)を成し遂げた二宮尊徳翁の像が建っている。

 なお、内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)には、農民聖者・二宮尊徳のほか、新日本の創設者・西郷隆盛、封建領主・上杉鷹山、村の先生・中江藤樹、仏僧・日蓮上人が挙げられている。興趣が尽きない本なので一読を御奨めしたい。 

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拝殿を眺める

 二宮報徳神社は1894(明治27)年に創建された。その3年前、尊徳に従四位が追贈されたことから、6か国(伊豆、三河遠江駿河、甲斐、相模)の報徳社の提案により尊徳翁を御祭神として創建されることになった。1909(明治42)年には、本殿、幣殿が新築され、写真の拝殿が大改修された。併せて敷地も拡げられて現在の姿になっている。

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やはり二宮金次郎はこの姿

 二宮尊徳と言えば写真の金次郎像に馴染みが深く、かつては小学校にも多く存在した。が、その大半は撤去された。その理由がすごい。「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦前戦中教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」というのだ。こんな「バカ丸出し」の空語の上に戦後教育が成り立っているとするなら、それは100%否定しなければならない。

 件の『代表的日本人』を少しでも読めば、金次郎像の撤去を要求したその理由がまったくの見当外れだということは幼稚園児でも分かる。現在の日本は衰退途上国であるし、もはや先進国であるとは恥ずかしくてとても言えない。金次郎像を否定する人々がこの国の多数派であるとするなら、この先にあるのは”絶望”のみだ。

 ともあれ、二宮尊徳については、本項の最終部で触れることになっている。

小田原市界隈を徘徊する

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思い出深い「だるま料理店」

 お城とは違った顔の小田原に触れるため、市街地を少しだけ徘徊した。

 写真は、私が”小田原”から連想する第一の存在である「だるま料理店」の本店だ。城址公園の東端を走る”お堀端通り”の160m東、国道1号線が直角に曲がる”小田原市民会館前交差点”の70mほど北にある、老舗の和食料理店だ。

 私が自動車の免許を取った時分、母と近隣のオバサン2人を乗せて、何度もこの店に出掛けた。私が免許を取る前、3人は小田急を使ってここに食事に来ていたのだが、私が運転できることになってからは便利屋として酷使された。おまけに、ついでだからと、箱根や熱海の案内もさせられた。

 確かに料理は美味しかったが、2時間以上も掛けてわざわざ小田原に来るほどでもない。これなら魚元(府中人しか知らない)で十分だろうと思った、徒歩5分で行けるし。もっとも、日頃忙しくしている3人にとって、「だるま」に出掛けるのは良い気晴らしになっていたのだろう。

 大の親不孝者であった私ができた、数少ない孝行だったのかもしれない。

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かつての小田原の中心地にある松原神社

 小田原の総鎮守とされた写真の松原神社は「だるま料理店」から260mほど南にある。大森氏時代にはこの辺りが小田原の中心地であったらしい。

 創建年は不明だが、小田原北条氏の第2代当主である氏綱はこの神社を相当に尊崇していたようで、社領一万石を与えている。江戸時代に入っても大久保家や稲葉家の保護は厚く、社費はすべて藩の財政で賄われていたとのことだ。

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網問屋の建物を改修して開かれた「なりわい交流館」

 松原神社から40mほど南に進むと東海道の旧道に出る。その旧道を60mほど西に進んだところに国道1号線(新道)の本町交差点があり、その南側に写真の「小田原宿なりわい交流館」がある。昭和7年に建てられた旧網問屋の家屋をリニューアルしたもので、一階は”お休み処”や観光案内所、二階はイベントスペースになっている。

 私はすでに行きたい場所のアタリを付けていたため、ここはのぞき込んだだけで先を急いだ。それにしても、小田原城やだるま料理店以外の立ち寄り先を探したい人は大勢いるようで、案内所やお休み処は結構な賑わいをみせていた。

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御幸の浜の名は明治天皇に由来する

 国道1号線とお堀端通りが交わる場所が写真の「御幸の浜」交差点で、写真は交差点から北方向に進むお堀端通りを見ている。左手に見える白い建物は「三の丸小学校」のもの。その先に小田原城の東堀がある。

 この交差点から南へ300mほど進んだところに砂浜海岸がある。後述する早川港(小田原漁港)が造られる(1953年)前までは、この辺りの砂浜に漁師船は直接に船を付け、定置網で取れた魚を水揚げしていたそうだ。

 1873(明治6)年、天皇・皇后が箱根宮ノ下へ行幸啓(御幸)する際に小田原の浜に立ち寄って地引網漁を見学したことから、浜一帯は「御幸の浜」と呼ばれるようになった。海水浴場として地元の人には人気があるそうだが、駐車場がないために西湘海岸としては混雑度は低いそうだ。 

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通りは今、さびれつつある

 御幸の浜と旧東海道との間に一本の通りがある。通りは写真にあるように「小田原かまぼこ通り」と名付けられている。先に触れたように、この辺りの浜は定置網漁の水揚げ地だった。網では大小さまざまな魚が取れる。その一部(雑魚か?)をかまぼこの原料に用いたということは容易に想像できる。

 私は立ち寄らなかったが、この通りに小田原かまぼの老舗のひとつである「籠清」本店がある。本店の佇まいはなかなかのものらしいが、本ブログでは、店の構えの代わりに籠清のトラックを前回に掲載している。お城通りから天守閣を眺めた写真にその姿が写っている。

 残念ながら、かまぼこ通りは閑散としていた。もはや浜を使って水揚げする船は存在しないし、賑わいは駅周辺か大通りに移っているし、かまぼこはどこの食料品店やスーパーでも簡単に入手できるため、もはや”小田原かまぼこ”の名だけで人を集めるのは困難な時代になったのかも。

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こちらは老舗の薬局

 写真の済生堂小西薬房は、国道1号線沿いにあって、先に挙げた御幸の浜交差点から西に80mほど進んだところに位置している。1633(寛永10)年からこの地で薬種商を営んできたそうだ。旧店舗は関東大震災で倒壊したが、建材の一部を用いて、建て直しをおこなった。限りなくかつての店舗の風格を継承しており、江戸初期の店のイメージは十分に伝わってくる。国の登録有形文化財に指定されているとのこと。

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小田原名物店が立ち並ぶ

 小西薬房の斜め向かい側には、老舗のかまぼこ店と小田原城を模した立派な店舗を有した「ういろう」とが立ち並んでいる。下に挙げているように、「ういろう」のほうは見事な造りだが、東隣のかまぼこ店は、看板の「こ」がなくなったままなのが哀愁を帯びており、時代の変転を感じてしまった。

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小田原城を模した?ういろう店

 「ういろう」というと羊羹に似たお菓子をイメージし、それはほとんど「名古屋ういろう」を指し示していることになる。が、写真の「ういろう」は「薬のういろう」として1504(永正元)年、この小田原の地で創業した。

 朝廷に仕えていた「外郎(ういろう)家」の第5代の定治が伊勢宗瑞に招かれて店を開いた。外郎家は京都で代々「ういろう薬」を製造してきたが、京都の本家が衰退してからは小田原の外郎家がその伝統を守り続けてきた。現在は第25代が伝統を受け継いでいる。ここの外郎家が”お菓子のういろう”の製造販売を始めたのはかなり後のことらしいが、それはただのお菓子ではなく、いかにも薬業を営む店らしく「栄養菓子」であるとのこと。

 店舗はお城にしか見えないが、内部には博物館が併設されているらしい。事前に調べたときは入場無料とのことだったので立ち寄ってみようと思っていたのだが、生憎、私が訪れた日は定休日だった。

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箱根口ガレージ報徳広場

 御幸の浜交差点の西、230mのところに箱根口交差点がある。その近くに新しく出来た施設が、写真の「箱根口ガレージ報徳広場」である。ここには、1935(昭和10)年から56年まで小田原市内を走っていた路面電車の”モハ202号”や、お馴染みの金次郎像、それに「きんじろうカフェ&グリル」「パティスリーヒンナ」などの店舗もある。運営者は報徳二宮神社で、昨年の3月12日に開業した新しい施設である。

 「きんじろうカフェ&グリル」は神社内に次ぐ2号店、「パティスリーヒンナ」はその名から分かる通りスイーツを扱っている。パティシエが北海道出身なので、原来料は北海道産のものが多いそうだ。”ヒンナ”はアイヌ語で”いただきます”や”ごちそうさま”を意味するとのこと。

 小田原の新しい観光スポットとして人気が高まっているようで、訪れる人にはぜひ、口やお腹を満たすだけでなく、二宮金次郎の人となりに興味を抱き心も満たしてほしいと思う次第だ。

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三浦道寸の息子の三浦義意を御祭神とする居神神社

 国道1号線を箱根口交差点からさらに西に進んでみた。530m先のところにあるのが早川口交差点で、ここを左折すると伊豆半島に向かう国道135号線(R135)に入る。熱海や伊東、そして下田に行く場合はこのR135を使うことになるが、この道は早川口が終点(起点は下田市新下田橋東詰)だ。

 ただ今回は伊豆半島が目的地ではないし、この交差点の先に行ってみたい場所があるために、私としては例外的なことだがR1を直進した(もちろん、この間は徒歩で移動していた)。といっても早川口からは120mの距離だが。

 写真の居神(いがみ)神社は、1520年に北条氏綱(小田原北条氏第2代当主)の意向によって創建された。御祭神は、相模三浦氏最後の当主の三浦義意(道寸の息子)だ。義意は通称”荒次郎”といい”八十五人力”の勇士であった。が、1516年、伊勢宗瑞に攻め込まれて父の道寸とともに自害した。

 伝説によれば、その際に義意の首は三浦から小田原に飛び、井神の森の古松にかぶりついて3年間、通行人を睨みつけた。これを久野総世寺の和尚が成仏させた。そのとき、空から「われ今より当所の守り神にならん」という声がした。こうした伝説もあったことから、北条氏綱は義意を居神大明神として祀ったのかもしれない。

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小田原早川上水の守り神でもある水神社

 私がこの居神神社に訪れたいと思ったのはその伝承に興味を抱いたからではなく、写真の「水神社」を拝覧したかったことが理由だ。水神社の案内書には下に触れる湧水の守り神であるとあったが、他では、この下を通る「小田原早川上水」の守り神としているものもある。

 小田原早川上水の成立年は不明だが、3代当主の氏康の頃には通じていたとされているので、16世紀の半ばには完成していたようだ。小田原の中心地は当初、旧東海道筋から発展したので、飲料水の確保が喫緊の課題であった。そのため、北条氏はすぐ南を流れる早川の水に目を付け、やや上流部(国道1号線・上板橋交差点付近、標高20m)から上水路を整備して飲料水の確保を図った。

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この崖から水が湧く

 神社境内の奥には写真のような崖があり、この崖下から湧水が顔をのぞかせていたらしいのだが、このときは確認できなかった。が、写真のように湧水点付近には古石碑(小田原市重要文化財に指定)が立ち並んでおり、ここの湧水が人々の暮らしにとって大切な場所であったことが分かる。

 ただ20数年後、すぐ麓に小田原早川上水が開通したことで湧水の重要度は低下した。が、周辺の人々にとっては大切な水源であったという記憶は残っていたことだろう。

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小田原早川上水の開渠部分

 居神神社境内を離れ、上水の姿を探すことにした。西へ800mほど進めば取水口があるのだが、車をとめてある駅西口まで戻ることを考えると、これ以上歩くと他の場所を訪ねる体力も気力もなくなる。このため、地図を確認して、神社から近い上水の開渠部分を探した。

 写真はその開渠部分で、ここは神社からは200mほどの距離だった。神社のすぐ東側には東海道新幹線の高架があり、その下を通って住宅地に向かった。北側は城山と呼ばれる高台になっており、上水はそのキワに掘られている。新幹線下からは暗渠になっているので、居神神社の下ではその姿を見ることはできない。

 なお、写真の場所の標高は14.4mだが、高台の住宅地は30m地点以上のところにある。また、上水の取水口の標高は20m、居神神社入口は13.3m、水神社は20.4m、古石碑は26m地点にある。

 小田原早川上水は日本最古の上水といわれ、今のところこれより古い上水施設は発見されていない。小田原北条氏に強い影響を受けている徳川家は、この上水をモデルにして江戸の市街地を拡大整備するために神田上水玉川上水を建造したと考えられている。小田原での小さな一歩が、巨大都市・江戸を産む契機となった。小田原の知恵を知っていた家康だからこそ、未開発地ながら彼の巨大構想が実現可能な江戸の地を拠点に選んだのだろう。本ブログの57回・58回で触れている「小名木川」だって、北条氏の遺産を利用したものなのである。誠に家康は賢いヤツだった。 

◎早川港を訪ねる

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小田原漁港が正式名称の早川港

 ずっと以前はよく、早川港で小物釣りの取材をした。午後であれば港内に比較的自由に駐車でき、仕事の邪魔にならない場所であればいたるところで竿が出せた。しかし、釣り人のマナーが悪いこともあって次第に釣り場や駐車は制限され、現在では南側の一角だけが釣り可能となっている。

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小田原提灯の形をした白灯・赤灯

 釣り可能な南側は「小田原ちょうちん灯台ビュースポット」として整備され、小突堤を含めて小物(おもにイワシ)釣り場として賑わう。写真のように、港の出入口に設置してある白灯も赤灯も、ともに小田原型提灯の形になっている。他の漁港であればとくに目を引く存在ではないが、ここが小田原の港であることで有意味を形成している。

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早川橋から川の流れを眺める

 河口近くに架かる早川橋(旧早川橋とも)から早川の上流方向を望んだ。川がなだらかな部分は少なく、すぐに箱根の山間の中に入っていくため、天然遡上のアユは多いものの、釣り場は限定されている。

 早川橋の北詰辺りにかつて、小田原城の総構の南端があり、そこは海からでも陸からでも攻め込まれやすい場所であったため、北条側は最有力の武将を配置した。八王子城主で第4代当主氏政の弟であった北条氏照(秀吉が処刑を命じた4人のうちの一人)がその任についていた。

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小田原さかなセンター

 早川港に隣接した場所(早川橋南詰のすぐ近く)に「小田原おさかなセンター」がある。その入り口のひとつに写真の「鳥の氏綱」の看板があった。まもなく開店する店らしいが、鳥と第2代当主との関係は不明だ。が、氏康ならともかく、氏政でも、ましてや氏直でもないところに意味があるのかもしれない。

◎酒匂海岸にて

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酒匂川河口から上流部を望む

 酒匂川は富士山東麓(抜川・鮎沢川)や丹沢山地南麓(玄倉川・河内川)などに水源を有する2級河川で、上流部の前者は西から東へ、後者は北から南へ流れ、神奈川県山北町川西辺り(比較的近い場所に東名高速・鮎沢パーキングエリアがある)で両者は合流する。鮎沢川水系の方が河内川水系よりも長いので、鮎沢川を酒匂川の上流部とし、河内川は支流に位置付けられる。

 河内川の最上流部は山深くかつ雨量が多いため、途中に丹沢湖で水量を調節している。最上流部のひとつである玄倉川(くろくらがわ)は、20年ほど前に13人の死者を出す水難事故でその名が知られるようになった。

 鮎沢川は東名高速道路に沿って流れており、大人気の御殿場プレミアムアウトレット(私は何度も足を運ばされた)のすぐ北側にあるのだが、その川が酒匂川の上流部であることはほとんど知られていない。

 その酒匂川が海に溶け込む場所が酒匂海岸(狭義には川の左岸側)と呼ばれる砂浜で、広めの無料駐車場があるため、サーフィンや投げ釣りを楽しむ人、ただボケーッとして口を開けたまま海を眺める人などで賑わう。

 写真は、その酒匂海岸の河口部から上流方向を見たもの。最下流部は極めてなだらかで、かつ川には数多くの橋が架かっているのがよく分かる。

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流れの一部はなんとか相模湾に到達

 比較的流量が豊富な酒匂川だが、河口部は砂浜が広がっており、かつ傾斜が極めて緩やかなため、瀬切れを起こすことがよくある。河口部は波の作用によって自然堤防のようにやや高くなっており、その一方で川床は浸透力の高い砂地のため、流れの大半は地下に染み込んでしまって海にまで到達できないのだ。

 河口の瀬切れによる障害として、春に海で育った稚アユの遡上が困難になるという事態がよく知られている。天然遡上の稚アユに多くの期待を寄せている河川(例えば静岡県興津川)では、この瀬切れを回避するため漁協をあげて砂浜を掘って河道の確保に努めている。

 残念ながら、酒匂川では漁協の体力が相当に失われたため、こうした労力を割くことがなくなっているようで、結果、アユの魚影が薄くなり、それが釣り人の減少につながっている。そのことは漁協の収入減という事態を生じさせ、そのことが放流アユの減少、さらなる釣り人の減少という悪循環に至っている。

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富士山と西湘バイパスと砂の富士と

 海岸の一部に砂山の集団があった。初めは工事か何かで盛られたものかと思ったのだが、写真のような角度から砂山を見たときに得心した。西湘バイパスの向こうに富士の姿を見たからである。

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酒匂海岸は投げ釣り場として知られている

 酒匂海岸は何度か、投げ釣りの取材でやってきたことがある。一度は、私の友人でかつ写真の師匠でもあるK氏にカメラマン役を頼んでここに来たことがあった。彼は釣りをするということに関してまったく興味がなかったのだが、このときに初めてリールの付いた竿を持って、仕掛けを海に投げ入れるという作業を体験することになった。

 狙った場所に仕掛けを投げ入れるのは慣れないと意外に難しいのだが、少なくとも誰でも前方に投げることはできる。が、彼は5回試みたがすべて仕掛けは前には飛ばず、良くて真横だった。不器用なわけではなく、彼はすべて理屈から入る性格なので、どのタイミングでラインを押さえている指を放せば良いかを考えたらしい。理論が明らかになればすぐに身体的協応構造が確立するので上手に投げられるそうだが、その理論の解明・確立に時間が掛かるようだ。 

◎久しぶりに酒匂川を訪ねる

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かつてアユ釣りが盛んだった酒匂川

 南関東およびその周辺のアユ釣り場では狩野川がもっとも知られる存在だったが、一時は酒匂川がそれを凌ぐ勢いだった。アクセスの良さから釣りの全国大会や関東地区大会の会場にもなった。そのメインの場所が写真の冨士道橋周辺だった。

 私もその時分にはよく酒匂川を訪れた。流れが緩やかで小石底が大半なのでとても釣りやすく、かつポイントは無数にあった。写真にあるように、この川には砂の流出を防ぐための小堰堤が沢山あるので、その周りも良いポイントとなった。

 が、いつからか”川が荒れて”からは訪れることはなくなった。酒匂川自体には2019年までは訪れている。本ブログの第61回で紹介したケンさんとも何度かこの川にやってきている。しかし、その際は上流部の山北地区に出掛け、かつては大賑わいだった下流部に来ることはなかった。それゆえ、冨士道橋から流れを見るのは10数年ぶりであった。それでも、こうして川を眺めると当時のことが思い出される。

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天井川状態の酒匂川に架かる冨士道橋

 酒匂川は、足柄山地から解放されると流れが急に緩やかになる。そこから川は東西に大いに暴れて、足柄山地と東の大磯丘陵との間に足柄平野と呼ばれる沖積平野を生んだ。次第にその流路は定まりつつあったものの、平野部では洪水に襲われることが度々あった。そこで小田原藩は、洪水の流速を弱めるため山北地区に春日森堤、岩流瀬(がらぜ)堤、大口堤などを築いた。

 が、1707(宝永4)年に富士山が大規模な宝永噴火を起こしたため、酒匂川流域には大量の降下火砕物が降り注ぎ、山北地区では火砕物が60センチ以上も堆積した。これが降雨の度に下流方向に移動するため川床は上昇して土砂氾濫を誘発した。

 上の写真から分かるように、現在でも周囲の平地(住宅地、工場、田畑が多くある)よりも川床はやや高い。写真の富士道橋地点では、川床の標高は20.4mあるが、右左岸の宅地は19.9mとなっており、酒匂川は天井川の様相を呈している。 

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橋上から富士を眺める

 1711(正徳元)年に発生した大洪水は未完成だった岩流瀬堤とすでに完成していた大口堤を完全に破壊し、平野の扇頂部にあった岡野村や班目(まだらめ)村など6つの村を水没させた。このため、「大口水下水損六ヶ村」は幕府に大口堤修復の嘆願書を提出した。

 幕府がこの嘆願書を受け入れて、公儀負担で堤の改修工事をおこなうことになったのは、大洪水からかなり後の1726年だった。当時の江戸町奉行大岡忠相は、23年から川除御普請御用の任にあって荒川や多摩川の治水をおこなっていた田中丘隅(多摩郡平沢村=現在のあきる野市出身の農政家)に酒匂川改修工事の指揮を命じた。

 丘隅は2月に着手して6月に工事を完成させた。大口堰は「文命東堤」、岩流瀬堤は「文命西堤」と命名された。ここでいう「文命」とは黄河の治水を成功させた夏王朝の「禹」の名である。なお、この禹については本ブログの第62回ですでに触れている。

 が、この堤の完成によっても酒匂川の氾濫は完全に収まった訳ではない。そのことは、最終項(二宮金次郎)で触れることになる。

 上の写真は、富士道橋から足柄山地の向こうに鎮座する富士山を眺めたもの。この山の山体崩壊による岩屑なだれや噴火による降下火砕物が酒匂川流域の人々を長年に渡って苦しめてきた。が、この山に責めを負わせるわけにはいかない。富士山はただ、自然物としてそこに存在するだけなのだから。

◎上府中公園を訪ねる

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上府中公園の入口

 相模国は66ある律令国の中で唯一、国府の位置が特定されていない。国府については本ブログの第31回で触れているのでここでは述べない。武蔵国であれば府中市国府があったことは判明しているが、相模国ではそれがどこにあったか不明なのだ。

 主に3つの説があり、第一は海老名市⇒平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第二は小田原市平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第三は平塚市⇒大磯町と二遷というものだ。

 平塚(かつての大住郡)の名は平安初期の『和名類聚抄』に、大磯(余綾郡)は鎌倉初期の『伊呂波字類抄』にあって、それぞれ国府らしい記述がある。実際、平塚市では発掘調査の結果から二遷説を採用している。

 問題は、小田原と海老名市である。海老名市(高座郡)には国分の字名があり、そこには相模国分寺跡があって国指定の史跡にもなっている。それゆえ、国府には欠かすことのできない国分寺の存在が明らかになっている以上、海老名市もしくはその近くに初期の国府があったと考えることは十分可能だ。

 問題は小田原である。小田原市東部には国府津の地名があり、その北側には写真の「上府中公園」がある。国府津と上府中との間には「千代廃寺(千代寺院跡)」があってここが初期の国分寺であると考えられたのだ。

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これは我が府中の府中公園

 上の写真は小田原とは何の関係はなく、私の家の近くにある「府中公園」を紹介しただけのこと。私の日課となっている徘徊は、まずこの公園を廻ってからそのときの気分次第で東西南北に移動を開始するのだ。景観は、完全に上府中公園に負けている。

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大きな池でカルガモマガモが遊ぶ

 ところが、その千代廃寺は2006年からの発掘調査によって、初期の国分寺の特徴であるはずの東大寺式伽藍配置ではなく、法隆寺式であるらしいことが判明したのだ。また、近くにある曽我遺跡(永塚、千代、高田の三集落)に国府があったと推定されたが、現在では、ここも地方豪族の拠点だったと考えられている。

 こうしてみると、公園がある場所にはかつて上府中村があった(下府中村も)が、これは国府の意味の府中だったのか、たまたま(上下)府中村と付けたのかは判然としない。分かっていることは、この府中は「ふちゅう」とは読まず、「ふなか」と読むということだけだ。府中は不忠だけれど、府中も不仲で縁起は良くない。

 また、南にある国府津国府の港を意味する「国府津」(全国に数か所ある)ではなく、かつてこの地域は「粉水」と呼ばれていたのを、ここが国府の港であれば良いのにという願望が「国府津」の漢字を当てただけなのかもしれない。

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やはり、ここにも金次郎

 この上府中公園の敷地は広々としており、写真のようによく整備された池や郷土の誇りである二宮金次郎像がある。たとえこの地が相模国の初期の国府でなかったとしても、大偉人を生んだ土地であるということで十分に誇ることができる。

◎金次郎の生誕地を訪ねる

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尊徳生誕の地

 二宮金次郎(金治郎)は1787(天明7)年、酒匂川右岸にある足柄上郡栢山(かやま)村に生まれた。父の利右衛門は二宮本家の次男としてのんびり育ち、大変な読書家で将来は学者になりたいと考えていた。しかし、分家した利右衛門の父の弟の家に養子に入ったため農家を継ぐことになった。この父の下で金次郎は5歳のときから読み書きを習い、さらに漢文の本を2冊与えられそれを熱心に素読した。実に勉強好きだったのだ。

 その5歳のとき、酒匂川に暴風雨による大洪水が発生し右岸堤防が決壊したため、二宮家の水田はすべて流出してしまった。刈り入れ直前の米は収穫できず、小作人に貸し出していた田からの賃料は見込めず、さらに小作人に貸していたお金の返却も見込めなくなり、二宮家は大きな負債を抱えることになった。

 金次郎が11歳のとき、父親が病に倒れた。栢山村では春先に土手修復のための賦役が課せられていたので、金次郎は父に代わりに働きに出た。竹で編んだ蛇篭に玉石を詰めたものを決壊しそうな土手に運ぶのだ。が、子供の金次郎には荷が重かった。そこで金次郎は夜なべをして草鞋(わらじ)を編み、賦役に駆り出された人々に与えた。初めはその行為を小馬鹿にしていた村人たちも、睡眠時間を削って草鞋を作り、しかもその出来栄えが良かったため、やがて感謝の言葉が人々から発せられるようになり、さらに少額ながら代金を払うものまで出てきた。

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尊徳記念館

 12歳のとき、名主の岡部伊助が孫の子守を探しているという噂を聞いたので、金次郎はその役に就くことを願い出た。その役を懸命にこなし、手間賃として二百文をもらった。そのお金を寝込んでいる父親に見せた。すると父親は『管子』にある故事を金次郎に聞かせた。「一年の計は穀を植うるにしくはなし、十年の計は木を植うるにしくはなし、終身の計は人を植うるにしくはなし」と。

 金次郎はその話を聞いて、松の苗を買ってそれを酒匂川の土手に植えることを決意した。土手に大きな木が植えてあれば、木の根が張り渡って地盤がよく締まり、決壊を防ぐ効果があることを知っていたからだ。金次郎は植木屋に行き、苗の購入をもちかけた。金次郎の話を聞いた植木屋は丁度、間引きしたクロマツの苗があるからと、1本1文、都合200本の苗を金次郎に渡した。彼はそれを土手に運び、1本ずつ丁寧に植えていった。

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金次郎の生家

 金次郎が14歳の時、父親(48歳)が死去した。一家を支えるため、彼は日の出前に起きて、入会地である久野山に行き薪(たきぎ)を運んだ。その行き帰りにだけ金次郎は好きな読書ができた。薪は自家用であると同時に売ることもできた。日中は野良仕事に精を出し、夜は草鞋作りに勤しんだ。草鞋はまとまった量になると小田原城下に出掛けて販売した。

 懸命に働いたものの借金返済のめどは立たず、結局、一部の土地を手放すことにした。土地が減れば小作料収入は見込めなくなるが、さりとて借金の返済ができなければ負債は雪ダルマ式に増えていくことになるからだ。土地を売却して借金の返済は完了したものの、残りの土地を金次郎の手だけで耕すことは不可能だった。

 こうした極貧のさなか、母は病死した。父親を失ってから2年後のことだった。残された金次郎以下3人の子供は一旦、離散することがきまったものの、金次郎と2歳下の弟の友吉が協力し、父の兄で本家を継いだ萬兵衛の指導の下に二宮家の土地を耕作することに決まった。稲は順調に生育し刈り入れ直前に達したとき、台風が到来して大雨となり、酒匂川が氾濫して金次郎の田は全滅した。

 これによって、金次郎は本家に引き取られ、二人の弟は母親の実家に引き取られることになった。金次郎は懸命に働いた。そして深夜には行灯を点けて読書した。これが油を無駄に使うという理由で本家の萬兵衛とその妻の怒りを買い、行灯の使用が禁じられ、読書は不可能になった。

 そんなとき、知人の油売りから「アブラナは土地を選ばないので自分で育てたらどうか」という助言の下、油商を紹介してもらった。5勺の菜種を借り、翌年に倍の一合を返却することで相談が決まった。金次郎は荒地を耕し、丹念にアブラナを育て、翌年には八升の菜種を収穫することができた。一合の菜種を返却するとともに残りの菜種をそれに相当する油に換えてもらった。菜種が取れるまでは自らも読書を禁じていたが、「これで本が読める」と金次郎は大いに喜んだ。

 春の田植えのとき、あぜ道に捨てられた苗を見つけた。苗は多めに用意されているため、余った苗は処分されるのだ。金次郎はそれを拾って、沼地となり果てた二宮家の土地だった場所を水抜きして耕し、そこに植えることにした。幸い、稲は順調に生長し一俵の米となった。しかもその土地は検地から外れているため年貢はかからなかった。

 荒地から自力で生み出した「米一俵」と「八升の菜種」。これがその後の金次郎の心の糧となった。金次郎が17歳のときである。

 「積小為大(小を積めば大と為る)」これは金次郎の言葉だが、彼のその後の人生は、このときの成功体験が原点となっている。

 やがて、金次郎は小田原藩の家老や藩主(大久保忠真)に見いだされ、数々の業績を残して、70年の生涯を終えた。

  *   *   *

 私はかつて、酒匂川にアユ釣りに出掛けた際、何度も写真の生家に立ち寄って金次郎の生涯を思った。私には100%真似の出来ない生き方だが、唯一、私に出来ることといえば、彼を尊崇することである。

 

*次回は三島市を訪ねます。三島大社だけでなく、豊富な湧水のある町を徘徊します。一部、三島から少しだけはみ出て柿田川などにも立ち寄る予定です。