徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔106〕やっぱり、羽州路も心が落ち着きます(1)男鹿半島周遊~男鹿駅から海岸線を走る、そして男鹿水族館へ

男鹿と言えば「なまはげ

ジオパークと生態系公園

男鹿は地質学の宝庫

 男鹿半島は私の〇番目の「ふる里」である。もっとも、私にとって本当のふる里は府中市であるが、放浪癖のある私には、居心地の良い場所を発見してしまうと、そこが〇番目の「ふる里」になってしまうのだ。

 ここで紹介する男鹿半島も、いずれ触れる象潟も、すでに何度か紹介している和歌山県古座川町の小川(こがわ)も、奈良の山の辺の道も、長野の安曇野も、京丹後の久美浜も、倉敷、尾道、鳴門も、みな「ふる里」なのである。

 男鹿の場合は、そのに住む人々があまりにも温かい心性を有しており、また地質学的に特異な存在であり、大型のクロダイが数釣れるところから、勝手に「ふる里」と称しているのだ。もっとも、男鹿の魅力はそんな半端な言葉では言い表すことができないほど深い魅力に満ちているのだが、心中を具現化する能力に乏しい私には、他の語を継ぐことができないのだ。

男鹿市若美庁舎の2階にある

 私が宿泊した大潟村のホテルからほど近い場所に「男鹿半島・大潟ジオパーク」があるとのことなので出掛けてみた。写真の庁舎の2階にあり、かなり広いスペースを取って様々な展示をおこなっていた。ただ、観光客には寄りにくい場所にあるためか、見学客は私ひとりだった。そのためもあって学芸員の方が懇切丁寧に説明してくれることになり、私にとっては歓迎すべき出来事となった。約2時間、付きっ切りで案内してくれ、また、私の拙い疑問に対してもきちんと回答してくれた。そのためもあって、私は話に夢中になってしまったことから、室内の写真撮影を失念したことを後で気づいたほどであった。

 ジオパークは日本各地の至るところにあるが、内容が充実している点では、この「男鹿・大潟」と群馬県の「下仁田」が双璧であると思えた。

資料は豊富、解説は丁寧

 男鹿半島には、かつて日本がユーラシア大陸と陸続きであったころからの地層が数多く残っていることで、地質学ファンには堪らない場所である。

 日本はかつて、海洋プレートの沈み込みのときに、その上部が削り取られて大陸の東岸に付加された。その最後の付加体が、中央構造線の下部(東京もその一部)である。もっとも、日本列島が形成されてからも、今度はフィリピン海プレートの沈み込みによって付加されたものとして伊豆半島丹沢山地があり、いずれは大島も八丈島も付加されると思われるので、日本全体が付加体だといっても過言ではないのだけれど。

 日本が大陸から離れたのは約2000万年前とされているが、その理由はまったくと言っていいほど解明されていない。さらに、日本海が現在のように広くなったり、列島がやや折れ曲がった形になっている原因も諸説ありすぎて定説と言えるものはまったくない。個人的には「ホットリージョンマイグレーション説」が正解に近いと考えているが、それはあくまで素人の推察にすぎない。

 1500万年前は、まだ男鹿半島は浅い海の底にあり、1000万年前には沈降して、一時は海底2000mほどのところにあった。

 それが徐々に上昇し、本州と陸続きになったのは1万年ほど前の縄文時代の頃だ。それが6000年前の縄文海進によって半島の付け根部分が水没して島となった。が、北からは米代川、南からは雄物川が土砂を海岸まで運んできたために砂州が伸び、2000年前の弥生時代には南北の砂州が島とほぼつながり、やがて現在のような長靴型の男鹿半島が形成されたのである。つまり、男鹿半島は陸繋島であり、南北の砂州が埋め残した場所が八郎潟だ。つまり、八郎潟海跡湖に定義される。

 こんな話を学芸員の方に教えてもらい、さらに大陸と陸続きであった痕跡の残る場所や、男鹿の変遷を見られる場所などを指摘していただいた。実は、その大半の事柄は私にとって既知のものであったし、とりわけ、海岸線については釣り場探しも兼ねてよく出掛けていて知っていたのだが、彼の熱心な説明に敬服して、私にとっては例外的なことであったが、その解説をひとつひとつ頷くように聞き入っていたのであった。

 というわけで、ジオパーク見学は収穫の多いものであり、24年の5月にも男鹿に出掛ける予定でいるので、この場所には是非とも再訪したいと考えている。

生態系公園の温室

 八郎潟の多くは1957年に始まった干拓工事で埋め立てが進み、64年に工事が完了したときには、その規模はかつては琵琶湖に次ぐ大きさであったものが、現在では日本で18番目のサイズに縮小し、名前も「八郎潟調整池」に変更された。

 その埋立地に写真の秋田県農業研修センター・生態系公園があるというので、初めて訪問してみた。公園自体は散策に適しているような場所だが、埋め立て地の多くが未開発の場所なので、わざわざ公園まで出掛ける必要はないと思えたが、そこに温室があるということなので、それを目当に訪ねてみた次第だ。

マンデビラ(商品名はサンパラソル)

 温室の中には、珍しい熱帯性植物や、普通の花壇でも観られるような数々の植物が育てられていた。ここは「研修センター」なので、普通の花の育成も重要なのだろう。とはいえ、花も私の趣味のひとつで、以前にこのブログでもしつこいくらいに花たちを紹介しているので、ここでは、以前に触れていない種類のものを取り上げてみた。

 写真のマンデビラはキョウチクトウ科マンデビラ属の多年草。つる性で、高さは30センチから3mにまで伸びることがある。春から秋にかけて長い間開花する。南米原産の植物なので耐寒性は弱く、8度以下になると枯れてしまうことがある。

 サントリーが「サン・パラソル」の名で発売して人気を博したことから、マンデビラの名よりもサンパラソルで流通していることが多い。 

フェイジョア・クーリッジ

 フトモモ科アッカ属の果樹。ウルグアイパラグアイなどが原産地。果実は10月下旬から12月中旬に収穫される。キュウイに続く果実として日本にも輸入されたがほとんど広がりを見せていない。

 グレース、マンモス、トライアンフ、クーリッジなどの品種があり、写真のクーリッジが食味が良いとされている。写真のように花が美しく、丈夫な常緑低木なので、庭木や公園樹に用いられることがある。

ニューサイラン(40年に一度咲く花)

 キジカクシ科フォルミウム属の多年草。茎はなく、地面から革質の鋭い葉を扇状に伸ばす。葉からは繊維が採れ、織物、マット、漁網などの原料にもなり、原産地のニュージーランドでは重要な産品になっているとのこと。

 花は40年に一度咲くといわれるほど珍しいそうで、この温室ではたまたま花芽を付けていたため、「注目」の張り紙が傍にあった。私にとってはとても幸運なことで、少なくともこの場所では二度と花を目にすることはできない。偶然の出会いに感謝である。

バロータ・スペキオサ

 ヒガンバナ科キルタンサス属の球根植物で夏に開花する。原産地は南アフリカのケープ地方。属名のキルタンサスは花筒が曲がっているところから名付けられた。

 写真のように、クンシランによく似た美しい花を咲かせることで、日本でもまずまずの人気がある。

◎男鹿駅界隈

男鹿ではおなじみの釣具店

 大潟村を離れ、寒風山に今一度寄ったのちに、男鹿駅を目指した。写真は20数年前からお世話になっている男鹿を代表する釣具店で、店長は釣りの名手で磯釣りの全国大会で優勝した経験をもつ。

 ここにくれば男鹿の釣況はすぐに入手できるが、今回は釣りで訪れたわけではないのでどこの釣り場が良いかの情報を聞くことはせず、まずは久方ぶりの邂逅を喜び、互いの近況報告をおこなった。とはいえ、店長は地元ラジオ局の取材、翌日は友人の結婚式への出席が控えていたため、ゆっくりと語り合うという訳にはいかなかった。

 24年には釣り具を積んで、5月末の船川港祭りの時期に合わせてこの地に出掛け、久しぶりの男鹿磯でのクロダイメジナ、ホッケ釣りと、地域色豊かな祭りを楽しみにして再度出かけてくるという約束をして、私はすっかり様相の変わった男鹿駅周辺を探索することにした。

男鹿駅の出入口

 釣具店のすぐ西側にあるJR男鹿駅に立ち寄った。そのあまりの変貌ぶりに驚いた。かつての駅舎は古民家風を装っていたが、2018年に建てなおされたものは、いかにも今風という感じで、これが男鹿駅である必然性はまったく感じられないのである。

 駅の利用者が急増して、今までの木造駅では乗降客が溢れかえってしまうのならば、防災上の観点からも致し方ないかもしれないが、実際には利用客は私がよく男鹿を訪れていた時に比べると急減している。

 2000年代は1日の乗降客数は550~650人、10年代は270~550人に減り、22年は247人まで減じているのである。

 この新駅舎は、駅前周辺の整備事業と関係しているものと考えられた。駅の南側には「道の駅・おが」が出来ていた。それと連携するためか、駅の出入口は、以前は西向きだったが、新駅舎は南向きになっているのである。

ここにもなまはげ像が

 新駅舎の西側ロータリーには、写真のなまはげ像があった。これは男鹿の民俗を代表する存在なので、駅前にあって当たり前なのだが、以前にあったものより小振りになってしまったようで、もはや、なはまげだけでは観光客を呼び込めないと考えたのかもしれない。

 そうだとすれば、残念なことである。

男鹿線には未だ乗車せず

 列車の姿も大きく変わった。かつてはローカル色豊かなディーゼル車(気動車)であったが、2017年に導入された「ACCUM」(交流用一般型蓄電池駆動電車)に置きかえられていたのである。

 これならば、ディーゼルでなくとも架線は不要で、しかも音も静かだ。が、ローカル線のイメージが欠落してしまったため、情緒や郷愁を感じることはもはやできない。

 私は男鹿線には一度も乗車したことがなかったが、下に挙げる定宿の古典的ホテルからはしばしば男鹿駅を眺めていたし、そもそも駅前ロータリーによく車を止めていたことから、いつかは男鹿線に乗ろうという思いがあった。が、この「電車」や駅舎からは是非とも乗ってみたいという気持ちは完全に消えてしまった。

跨線橋から男鹿駅方向を眺める

 かつて、駅の出入口は西向きだったことから、駅のすぐ北側には跨線橋が造られていた。しかし、出入口が南向きになってしまったために、跨線橋そのものはまだ残っていたものの、利用者はほとんど皆無に近い状態なので、それはすっかり古びたものとして放置に近い扱いになっているようだった。

 その跨線橋から男鹿駅と電車を眺めてみた。電車の向こう側にある白い平面的な建物が新駅舎である。

かつてはここにもサケが遡上した

 跨線橋の近くには、写真の小さな水路がある。現在はコンクリートの三面張りになっているが、かつては自然のままの小川といった感じだった。そのためもあり、こんな小さな流れにも産卵のためのサケが遡上し、地元の釣り仲間はこのサケを網で捕獲して、卵を数多く手に入れていた。もちろん、違法行為なのだが地元の人々は結構、普通の行為として収穫していた。

以前はよく利用した古典的ホテル

 写真は西側のロータリー兼駐車場に面した場所にある古いホテルである。私が初めて男鹿に宿泊したときこの古めかしいホテルを利用した。というより、男鹿駅近くにはこのホテルしかないため、朝早く起きて地元の釣り人とともに釣り場に向かうには便利な場所にあったからだ。

 3階建てだが、宿泊できるフロアは3階部分だけだ。部屋は狭く、設備は相当に年季の入ったものであったが、昔の建物は壁が厚かったので、昨今のビジネスホテルとは異なり、隣の部屋の人が発生する声や物音はほとんど聞こえなかった。もっとも、宿泊客も少なかったというのが最大の理由だが。

 今回の旅でも久し振りに利用してみる予定だったが、近年はレトロブームなのか、単に安いからなのかは不明だったが、部屋は埋まっていて予約することはできなかった。話によれば、息子の代になってサービスが良くなったというのも理由のひとつらしい。

さびれた駅前通

 駅の出入口の向きが変更されたためか、ロータリーに面した駅前通りはすっかり寂れ果てていた。その理由は簡単明瞭で、周囲に近代的施設ができたからである。

 駅の向かいには「道の駅・おが」が出来、その中には観光施設の「オガーレ」がある。また、男鹿マリーナの北側には「ОGAマリンパーク」が新設され、船川港の構内には「男鹿ナマハゲロックフェスティバル」なる会場も造られていた。

 こうして男鹿駅周辺は、もはやどこにでもある何の変哲もない場所に変わり果ててしまった。男鹿に限ったことではないが、日本全国、町は金太郎飴のようにどこに行っても同じような表情になってしまった。

◎鵜ノ崎海岸

泥岩層の海岸が沖合まで続く

 男鹿駅周辺を歩いても私の目を惹くものは特になかったため、市街を離れて半島の魅力が満載の海岸線を見て歩くことにした。先にも触れたように、半島は長靴の形をしているが、見ごたえのある海岸線は靴のかかとからつま先部分にある。ただ、地層という点では甲の部分も見逃すことはできないが、それらについては次回に触れることになる。

 最初に出会う魅力的な海岸線は”かかと”部分に位置する「鵜ノ崎海岸」だ。写真のように、ここは浅い海岸が沖合数百m続いており、傾斜した泥岩層の端の部分だけが顔を出し、干潮時には洗濯板状(鬼の洗濯板とも言われる)に見える。これは波によって削られたもので、波蝕台と呼ばれている。もっとも、1000万年前は水深2000mの地点にあり、それが次第に隆起して現在の位置まで盛り上がった。

 深海層に在った際にケイソウ類の植物プランクトンが大量に発生し、その死骸が泥になって積み重ねられた。その時代には秋田県内の各地の海でも大量発生したことで、これが石油の源(石油根源岩)になった。そういえば、この海岸線に接したとき、かつて秋田は新潟と並んで石油の生産地として知られていたということを思い出した。

大きな褶曲を受けて盛り上がる

 写真のように泥岩の固い部分がやや盛り上がって残っている部分がある。かつて、夏の暑い最中に、竿を担いでこの岩まで歩いて渡り、ここから溝(満潮時の水深は1.5mほど)にスイカを餌にした仕掛けを沖まで流し、クロダイを狙ったことが何度かあった。クロダイは悪食で有名なので、夏場はスイカを好物にしているのである。

一部には丸い小さな岩が顔を出す

 写真のように、海をよく見ると、泥岩の端とは異なる半円形、もしくは球形をした岩が点在することが分かる。

望遠レンズでのぞくと姿がよく分かる

 その姿は望遠レンズでのぞいてみるとよくはっきりと分かる。この日のこの時間は生憎と満潮時なので半円状にしか見えないが、大潮の時、とりわけ春の大潮時には、この海岸線はほとんど干上がった状態になるので、その際には楽に沖合近くまで歩いて行くことが出来、かつ、球形をした数多くの岩の塊を間近で目にすることができる。

この丸岩(小豆岩)が一番有名

 この丸岩は小豆岩と呼ばれ、形が可愛らしく見えることから「おぼこ岩(おぼことは小さい子を意味する)とも称されている。

 岩が球形なるのは、ケイソウ由来の泥にカルシウムやマグネシウムを含む炭酸塩鉱物が混じるからで、とても硬い塊(ノジュール、コンクリーション)になる。

 なお、カルシウムは死んだクジラ由来のものだという説がある。

小豆岩(おぼこ岩とも)のモニュメント

 私のように、満潮時に訪ねた見物客には、今一つ小豆岩のイメージが湧かないので、岸辺の公園には写真のような小豆岩が展示されている。大潮時の干潮時に訪れると、写真のような丸い岩があちこちに点在している姿を見て取ることが出来る。

 洗濯板状の岩の行列だけであれば、この海岸が「日本の渚百選」に認定されることはなかったと思われるが、この小豆岩の存在が、この海岸が日本でも珍しい光景を展開し、人々の関心を惹きつける。

 とはいえ、この日、海岸を見物していたのは私だけだったが。

◎館山崎のグリーンタフ

知る人ぞ知る館山崎の海岸

 鵜ノ崎海岸を離れ、次の目的地に向かった。その場所は県道59号線(おが潮風街道)から少し離れた場所にあるため、先の鵜ノ崎海岸のように、海岸線を走って入れば自然と目に入るという訳ではない。そのため、よほど地質に関心がある人でなければ、わざわざ訪れることはないかもしれない。しかし、地質学にとっては極めて重要な役を果たした貴重な場所なのである。

 ここへ行くためには県道から「椿漁港」に入って、しばらく構内を走ってから海岸線に出る必要がある。そうすると、写真のような崖が目に入る。ここが「館山崎のグリーンタフ」と呼ばれる火山礫凝灰岩が造った崖である。

 この崖が存在することで、県道は海岸線から少し離れ、しかもこの崖の上あたりではトンネルになっているため、なんとなくそこには崖があることは分かっても、ここが世界的にも貴重な場所であることは、興味のある人にしか知られていないのだ。

緑色凝灰岩がよく目立つ

 ここは2100万年前の火山噴出物から形成されたもので、大量の火山灰や火山礫が積もってできた岩場である。

 風化が進んでいるために少し分かりづらいが、岩はやや緑がかった色をしている。熱による変性を受けて緑色に変色したのである。これをグリーン(緑)タフ(凝灰岩)と地質学の世界では呼んでいるが、このグリーンタフの名は、この岩から名付けられたのである。緑色凝灰岩は日本、いや世界の至るところに存在するが、その英名であるグリーンタフの名は、この場所が嚆矢なのである。

この岩もグリーンタフ

 林の中にもグリーンタフが存在していた。東北をよく旅行して数多くの記録を残した菅江真澄(1754~1829年)は、この岩を「まいたけ岩」と名付けたことで知られている。のちに、この緑色凝灰岩がグリーンタフと名付けられたということは、さしもの菅江にとっては想定外のことだっただろう。

◎潮瀬崎の奇岩~名勝・ゴジラ岩など

男鹿の中でも人気が高いゴジラ

 潮瀬崎は男鹿半島ではもっとも南に位置し、写真の「ゴジラ岩」があることから観光客がよく集まる場所として知られている。県道沿いに駐車スペースがあり、必ずと言って良いほど数台の車がとまっている。

 もっとも、この辺りは基本的には波蝕台になっており、鵜ノ崎とは異なり足場が海面から1,2mあるので、磯釣りの名所としても知られている。そのため、訪れている人が皆、ゴジラ岩見物を目的としているわけではなく、ゴジラよりもメジナクロダイを目当にやってくる人も少なくない。

 晴れた夕方にここを訪れると、美しい夕陽をみることができ、さらに角度によってはゴジラが太陽をくわえていたり、口から火を放っているように見えることもある。

 個人的には決してそうは思っていないのだが、一般には、男鹿半島の自然の景色と言えば、概ね、このゴジラ岩が第一に取り上げられる。

三角形の岩が双子のように並ぶ

 ゴジラ岩と並んでよく取り上げられるのが、写真の「双子岩」で、三角形の帆のような形をした岩が仲良く並んでいる。

これはトカゲ岩?それともカエル岩?

 写真の岩に名前があるのかどうかは不明だが、たまたま顔と思われる場所に小さな丸い穴が開いているため、何かの動物の顔のように見えるのだ。それはトカゲのようでもいありカエルのようでもある。

凝灰岩と泥岩層の境

 この潮瀬崎は3500万から3000万年前の噴火によって積もった火山礫凝灰岩から成り立っているが、写真のように凝灰岩の層の下の泥岩層が露出している場所も存在する。写真ではその層が整合的であるが、中には不整合に重なっている場所もある。

 その他にも不思議な形をしている岩がいくつもあり、ゴジラ岩だけ見て帰るというのはとてももったいない。地質に興味がなくとも、いろんな形をした岩を見て回り、自分が興味を抱いた岩の姿に名前を付けてみるのも面白い行為である。

 いざ名前を付けてしまうと、どんどんそのように見えてくるから不思議だ。それを他者に告げても多くは納得してくれないが。これも錯視のひとつだからだろう。

◎戸賀湾のマールと男鹿水族館

 潮瀬崎の先から海岸線は断崖絶壁が続くようになるため、県道は山坂道に入ってゆくことになる。その坂道が始まった場所に、冒頭に挙げた「なまはげ立像」がある。私の場合、男鹿には両手両足の指を使っても数え切れないほど男鹿には立ち寄り、大抵、その像を目にしているのだが、写真撮影をおこなったのは、実は今回が初めてだった。

 ただ、この像を目にすると、道はしばらくの間、山坂道になり、海は遥か下に存在することとなる。それはここに取り上げる戸賀湾まで続くことになる。もっとも、途中に海岸線に降りられる場所があり、そこは加茂漁港と言って磯釣りの基地としてはあまりにも有名な場所である。

 その漁港から小さな瀬渡し船に乗って、眼下に続いている磯に渡礁して釣りをおこなうのだ。大半は地磯(陸続きの磯)なのだが、よほど根性があるか命知らずの人でない限り、歩いて磯に降りる人はいない。

 今回は磯釣りにやってきた訳ではないので、加茂港には寄らず、戸賀湾の高台にあるマールを見物した。マールとは水蒸気爆発の結果で生まれた火口のことで、基本的には一回の爆発で形成されたものを指す。内陸にあるものはその河口に地下水などが溜まり湖や池を形成する。

二ノ目潟

 日本でもっともよく知られたマールは伊豆大島の波浮港か、伊豆の伊東にある一碧湖だろうか。波浮港は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の『波浮の港』で、一碧湖は、昭仁上皇が皇太子の時期に、寄贈されたブルーギルを食糧増産のために放流し、その理念に反し、在来種を食い荒らす害魚となってしまった原点の湖として知られている。

 男鹿半島の戸賀地区にはマールは4つあり、そのうちの3つは「目潟」と名付けられている。写真は「二ノ目潟」であり、「三ノ目潟」はその下方にあるはずだが、森の中を進まないと目にすることはできない。クマとは遭遇したくないので、「三ノ目潟」との対面は行わなかった。

一ノ目潟

 写真の一ノ目潟は、直径が600m、水深が44.6mある。6~8万年前の噴火でできたと考えられ、噴出物のなかには地中深くにあるカンラン石が含まれており、日本でも貴重なマールとして注目されている。

 実は、四ノ目潟も存在する。一つ上の写真に写っている入り江がそれであり、一般には戸賀湾と呼ばれている。マールの西半分が入り江になったためにマールだとは気付きにくいが、約42万年前の噴火で形成されたもので、航空写真や地図で湾の形を確認すると、確かに半円状になっていることが分かる。

水族館の外観

 男鹿水族館GAOは2004年に落成した。Gは地球、Aは水、Оは海を意味するとのことだ。この水族館に立ち寄るのは初めてだったが、映画の『つりバカ日誌・15・ハマちゃんに明日はない!?』の舞台になったことはよく知っていた。というより、男鹿での釣りでよくお世話になった人々がエキストラで撮影に数多く参加していただけでなく、知り合いの釣り人が「釣りの指導」をおこない、さらには、夜はしばしば西田敏行などと宴会を開いていたという話を聞いていた。西田は映画のまんまの人物で、三國連太郎は意外にもかなり気さくな人物だったという感想も聞いたことがあった。

 あまつさえ、画面に登場する生きたマダイ(ハマちゃんが釣りあげた魚)を養殖場から数十匹仕入れることもしたという裏話も知人が話してくれた。

 ということは、この水族館は鈴木建設が造り上げたことになっているのだ。

メインの巨大水槽

 どこの水族館にもあるように、ここでも入り口付近に写真にある巨大水槽が設置されていた。この中には男鹿の海でよく見かける魚たちが入れられており、この点に好感が持てた。規模で言えばここよりも大きな水槽は全国各地で見ることができるが、地域に特化している場所は意外に少ないのだ。

 何事も大きければ良いという訳ではなく、地域に根差した様態を有していることが重要で、巨大なものは地域性を失った大都会にある水族館に任せれば良い。

ここにもゴジラ岩が

 巨大水槽の中には、男鹿の岩場が再現されていた。写真の岩は明らかに潮瀬崎のゴジラ岩を模したものであろう。

チンアナゴ

 チンアナゴは四国から沖縄にかけての暖かい海に生息するウナギ目アナゴ科の魚なので、男鹿の海に生息することはまず考えられないが、温暖化が進むにつれて、この海で見られるようになるのはそう遠くないことかも。

 もっとも、この魚が正式に認知されたのは1959年のことというから、その生態については不明な点が多々あるので、もうすでに男鹿の海にいるという可能性はまったく排除はできない。 

ヤドクガエル

 このヤドクガエルはコスタリカからブラジルの熱帯林に生息するので、男鹿とはまったく関係がないが、興味深い存在だったのであえて掲載してみた。

 大きさは2.5センチほどだが、毒性はかなり強く、中には一匹で十人の成人を致死させることが出来るほど。毒は餌とするアリやカブトムシなどの昆虫を介して生成されるようで、生息域とは無関係な場所で育つと毒は持たなくなるそうだ。ということは、水族館にいるこのカエルは無毒だろう。

 なお、この毒から抽出させる成分には鎮痛剤として利用できることが分かっており、現在、その研究が進められているとのこと。

ミズクラゲ

 クラゲを飼うことが静かなブームになっている。私としては、クラゲは敵のような存在で、泳いでいるときに何度が刺されたり、釣り場一面にクラゲの大群が流れ着いて数時間、釣りを中断させられたりしたことがあったからだ。それゆえ、クラゲを食べることはあっても飼育する気持ちはまったくない。

カラージェリー・フィッシュ(タコクラゲ)

 それにしても、水族館や熱帯魚店などでクラゲの姿を見るのは嫌いではなく、時には一時間以上も見入ってしまうことがある。その際は、クラゲそのものに興味があるというより、果たしてクラゲは「この私(この場合はクラゲ自身)の存在」を認知しているのか否かを考えさせられるからだ。

 この私が私であるということは、私の過去の記憶に由来する。それは一時間前でも一年前でも五十年前のことでも良い。年々、物忘れが酷くなってはいるものの、それでも過去の、とりわけ象徴的な事柄は鮮明に記憶しており、それらのいくつかは同じ時を過ごした知人に聞いてみても確かな事実として私の内に存在する。

 今から約60年前に流行った植木等の無責任男の映画は同級生の親が経営する映画館で、友人たちと無料で入り、大笑いをしながら見て、自分もあのような大人になりたいと一大決心したことは今でも鮮明に覚えているし、小学校時代の友人に尋ねても、確かにお前は植木等に憧れていたという証言を現在も得ることが出来る。その限り、「この私」は確かに現在しているのである。

インドネシアン・シーネットル

 しかし、海を(ここでは水槽の中)漂うクラゲたちは、「この私の存在」の自覚があるのだろうか、と、いつも気になるのである。犬や猫にも尋ねることはあるが、ほとんどの場合、答えの代わりに私の前から立ち去り、一部は吠え付くのだ。

 が、クラゲの場合はまったく無反応で、ただ漂うだけなのである。その限りにおいてクラゲには「この私」の自覚はなく、現在そこに「ある」だけなのだろう。

ホッキョクグマ(シロクマ)

 この水族館で一番人気があるのは写真のホッキョクグマ(豪太くん)のようだ。水族館や動物園のクマというと寝ていることが多いのだが、私が訪れたときは結構、活発に歩き回っていた。

 メスのマキとの間で繁殖行動が見られたようなので、長い間、マキの様子を観察していたが、今年(24年)になって、今回は行われなかったそうだ。

 23年は「熊騒動」で日本中が沸きかえったが、それでも、こうしてシロクマ君の行動を観察していると、凶暴さよりも可愛らしさを感じてしまう。これも人間から見た意識に過ぎず、クマからしたら狭い場所に閉じ込められて見世物にされ、誠に迷惑な話だろうが。

 それでも、彼の動作を見ていると愛着が湧いてくる。その不条理な点こそが人間らしさなのかもしれない。

水族館裏の岩脈

 水族館の裏手には、写真のような岩脈が幾筋も走っていた。凝灰岩の割れ目をマグマが貫入して冷え固まったものである。本ブログでは、和歌山県串本町の「橋杭岩」や古座川町の「一枚岩」(古座川弧状岩脈)をすでに紹介しているが、この岩脈はそれらの小型版といったところである。

 ずっと先になるだろうが、いずれ周囲の凝灰岩が削り取られ、この岩脈が「橋杭岩」のような姿になる可能性は高い。もっとも、そのころには人類は絶滅しているので、それを目にするのは人間以外の存在だろうけれど。

〔105〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(7)小泊、十三湖、鯵ヶ沢から十二湖、そして秋田へ

岩木山ともお別れ

◎眺瞰台から小泊へ

眺瞰台から龍飛崎を望む

 五所川原市のホテルに三泊した。私の部屋は最上階の岩木山側だったので、部屋からは「お岩木やま」がよく見えた。冒頭の写真は三泊目の夕方に撮影したもの。翌日は鯵ヶ沢に出て、それから津軽半島の西海岸を南下するため、この角度から岩木山を眺めることは、もうない。もっとも、西海岸からでも岩木山はよく見えるが、太宰に言わせれば、「西海岸から見た山容はまるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。」そうだが、私には、どの角度から見てもこの山は他に類比するものがないと思えるほど素敵な姿をしていると思っているのだけれど。

 ところで、龍飛岬には五所川原に入って三日目に出かけたのだから、冒頭の写真を撮影する前に龍飛も小泊も訪ねているのである。前回は龍飛岬で、というより「津軽海峡冬景色」の歌碑で終わっているので、今回はしばらくその続きとなる。

 まずは国道339号線を使って小泊に向かった。大宰が小泊を訪れた時代(1944年)にはこの道は通じていなかったということはすでに触れている。道が開通したのは1984年のことで、大半は陸上自衛隊の力を使って山を切り開いた。

 龍飛崎から小泊までは「竜泊(たつどまり)ライン」という別称がつけられ、この約20キロの区間は冬期には厳しすぎるということで、例年、11月中旬から翌4月下旬までは閉鎖されている。

小泊半島方向を望む

 歌碑がある場所の標高は72.3m。そこから少しの間は道は下り、58m地点まで降りる。それからが大変で、中山山地の尾根筋を九十九折れの道が続き、標高505m地点まで上昇する。

 その最高地点の場所に、写真の「眺瞰台(ちょうかんだい)」と名付けられた展望広場があり、北を見れば龍飛岬、津軽海峡、北海道」の姿が目に入り、南を見れば小泊半島の全貌が視界に入る。

 この20キロの「竜泊ライン」は私のお気に入りのひとつで、以前によく小泊半島に釣りに出かけた際には、半日は釣りを休んで、この道を使って龍飛岬まで出かけた。もちろん、帰りも三厩方面には出ずに、竜泊ラインを使って小泊から定宿にしていた五所川原のホテルに向かったものだった。

西海岸に落ち込む七ツ滝

 坂本台と名付けられた展望台を過ぎると、道はほどなく西海岸に出る。この西海岸沿いの道は5キロほど続き、小泊の集落に入って行く。

 その途中にあったのが、写真の七ツ滝。高さは21mとそれほどないが、写真からわかるように流れは七段を経て下ってくる。滝の横には上部に出られる道があるようだったが、私は体力を温存するために、上流部へ上ることはしなかった。

西海岸から中山山地方面を望む

 滝の上部に行く代わりに、海岸線を眺めることにした。海は浅い岩礁帯が続き、その先は山地が海岸線に落ち込んでいるため、道はやむなく山の中を通っているのである。先に触れた吉田松陰宮部鼎蔵は、海岸伝いを歩き、そのあとは山中に入り、苦労の末に龍飛岬へ向かった。ひとえに、日本の海防を憂う一心から行動であった。

この小さな磯で釣りをしたことがあった

 小泊半島側の海岸線もやはり浅瀬が続くが、ところどころにやや大きめの岩礁があった。海が荒れていて、半島の先端部に出られなかった際には、この辺りにあるやや大きめの岩礁に乗って磯釣りをしたことが数度あった。決して大きくはないが、40センチ程度のクロダイはよく釣れた。

泊漁港から中山山地を望む

 竜泊ラインから離れ、私は小泊漁港へと足を向けた。港の東端に出て、半島や北海道の姿を眺めた。かつては毎年のように津軽に訪れ、多くは半島の先端まで出掛け、海峡と北海道を眺めた。景色は変わらないけれど、その景色に接する私の心情は毎回、異なっていた。

泊漁港は相当に広い

 小泊漁港イカ釣りをはじめとして刺し網、延縄の基地としてよく知られ、マイカメバルヤリイカなどの水揚げでは日本海に面した漁協では屈指の存在である。私は食さなかったが、小泊は”イカの街・小泊”を売りにしている。次回に訪れる機会があったならば、イカを食してみようと、あとから考えた次第である。

小説『津軽』の像記念館横の広場

 太宰が『津軽』の取材で最後に、そしてもっとも訪れたかった場所が小泊である。そこには、乳母の「越野たけ」が住んでいるはずの場所だった。

 「三つから八つまで、私はたけに教育された。」「こんどの津軽旅行に出発する当初から、私は、たけにひとめ逢ひたいと切に念願をしてゐたのだ。」「私はたけのゐる小泊の港へ行くのを、私のこんどの旅行の最後に残して置いたのである。」

 そうして大宰は、五所川原から津軽鉄道を使って終点の津軽中里まで行き、そこから一日一便しかない小泊行きのバスに乗り、二時間、立ちっぱなしで小泊に到着した。

 太宰はたけを探した。歩いている人に尋ねたがすぐには見つからなかった。小泊には越野姓が多いようだった。そこで彼は、前に金木にいたことがあるというと、それなら分かるといい、たけの家を教えてもらった。家を訪ねると留守で、しかもしっかりと鍵が下ろしてあった。田舎では少しの外出では鍵はかけないはずだ。

 落胆した彼であったが、筋向いの煙草屋で尋ねてみると、「運動会へ行つたんだろう」と教えてくれた。

大宰と乳母たけの像

 運動会が開催されている国民学校へ行ってみたが、なかなか見つけることはできなかった。「逢へずに帰るといふのも、私のこれまでの要領の悪かつた生涯にふさはしい出来事なのかも知れない。」と思い、午後一時半に出る中里駅行のバスに乗ることに決めた。

 ただ、バスの出発にはまだ30分ほどあったので、未練たらしく、今一度、たけの家に出かけてみた。すると鍵が外れていて戸も少し開いているのが分かった。大宰は声をかけると中から女の子が顔を出した。その顔を見て、すぐにたけの子であることが分かった。女の子はたまたまお腹が痛くなったので、薬を取りに家に戻ったのだった。

 こうした偶然があって太宰はたけとの再会を果たした。大宰はたけの隣に座ってぼんやりと運動会を見ていた。「胸中に一つも思ふ事が無かった。もう、何がどうなってもいいんだ、といふような全く無憂無風の情態である。平和とは、こんな気持ちの事を言ふのであらうか。もし、さうなら、私はこの時、生まれてはじめて心の平和を体験したと言ってもよい。」

 そのあと、太宰とたけは竜神様の森に出掛けた。たけはそこで堰を切ったみたいに能弁になり、矢継ぎ早に、太宰に質問を発した。「私はたけの、そのやうに強くて不遠慮な愛情のあらはし方に接して、ああ、私は、たけに似てゐるのだと思った。きゃうだいの中で、私ひとり、粗野で、がらつぱちのところがあるのは、この悲しい育ての親の影響だつたといふ事に気附いた。」

 写真は、小泊小学校のすぐ北側にある「小説『津軽』の像記念館」の庭と、たけと太宰が並んだ像である。記念館の東側には「龍神宮」もあった。

 記念館には入らなかった。その一方、像にはしばし目を奪われた。たしかに、しっかり者のたけと、いかにも「はにかみや」の太宰の姿がよく表現されている。松本健一が評するように、太宰は「含羞の人」であったことがよく分かる。

 たけと再会した4年後、太宰は自殺した。

徐福の像

 私が小泊に出かけたのはあくまで磯釣りのためであった。それゆえ、半島の北側、もしくは先端部にしか出掛けたことはなかった。そこで、今回は釣りをしに来たわけではないので、初めて半島の南側をのぞいてみることにした。

 R339は半島の入り口で90度左に折れ、半島の付け根を横断し、今度は西海岸に出たところで90度左に曲がる。その場所を右折してしばらく海岸沿いを進んだ。道は「下前漁港」で行き止まりとなる。

 漁港には特筆すべきものが見当たらなかったため、私は途中にあった「ライオン岩公園」に車を止め、上の写真の徐福像と、下に挙げる「ライオン岩」を見物した。

 徐福像は新品同様だったものの、この地には古くから徐福が上陸したとの言い伝えがあるとのこと。徐福の上陸地と称する場所は日本各地にあるが、もっともよく知られているのは和歌山県新宮市である。

 この地が上陸地のひとつだということは初めて知ったが、対馬暖流に乗ってしまえば、この地までたどり着くことは十分に可能だろう。 

ライオンに見えないライオン岩

 肝心のライオン岩を見付けることがなかなかできなかった。公園までの道はよく整備されており、「ライオンゲートブリッジ」や「ライオンベイブリッジ」なるものがあったので、海側にライオンの形をした岩があることは確かなのだろうが、すぐには判明しなかった。

 ライオンには決して見えないが、ライオンの体に似ている岩と言えば、上の写真にあるものしか存在しなかったが、これをライオン岩と称するのは相当に無理があるように思えた。

近くで見るとライオンに見える

 しかし、この岩のために道を奇麗に整備し、かつ、公園まで造成したのだから、確かにライオンらしい姿をしている部分が存在する必要があった。それを見出すため、私はその岩に近づいた。

 すると突然、岩の先端部がライオンの顔に見えてきたし、上部には”たてがみ”らしきものが存在するように思えてきた。そのように見えてくると、確かに目も耳も鼻も口もライオンそっくりなのである。

 一旦、ライオンに見えてくると、もはやライオン以外には見えなくなった。これは一種の錯視に違いないのだが……。

 この岩を、初めてライオンに見立てた人は立派である、と、私は尊崇の念を抱いた。

◎ひとつだけれど十三湖

ヤマトシジミが特産品

 小泊から南下して、十三湖畔に出た。かつてはR338よりも西海岸沿いを走っている県道12号線を用いて五所川原に戻るのだが、今回は初めて国道を使った。この湖はヤマトシジミが特産品で、県道のほうがそれを食べられる店は圧倒的に多い。もっとも、私はそこでは一度も食したことはなかったが。

 十三湖は周囲が31.4キロある結構、大きな湖で、青森県では三番目の大きさとのこと。津軽平野の北端に位置するためか広さはあっても水深は最大でも3mほど。内湖だった時代もあるようだが、現在は一部が海とつながっているため汽水湖である。

 ところで、十三湖といっても湖はひとつしかない。「十三」と名付けられたのには諸説あるようだが、13もの河川が流れ込んでいるから、周囲に13の集落があったから、アイヌ語のトーサム(湖の傍ら)に由来するものなどが有力だ。個人的にはトーサム説が有力に思える。

 海岸に極めて近い場所にあるため、荷物の集積地としてよく利用されていたようで、蝦夷管領でもあった安東氏が12~15世紀ごろにこの地を支配していたと言われている。

津軽平野の北端に位置する

 国道は湖の北側のやや高い位置を走っているため、十三湖を見渡すにはまずまずの場所が数カ所あった。

 十三湖はかつて十三湊(とさみなと)と呼ばれていた。が、十(と)三(さ)では「湯桶読み(訓音読み)」になることから、「じゅうさんみなと」というようになったという説がある。

 写真からわかる通り、湖の南側には水田が広がっている。ここは津軽平野の北端に位置しており、県道のほうは津軽平野の真っただ中を走るコースをとっている。一方、国道は津軽山地の西縁を通っている。

近年では”大型扇風機”が湖畔に林立

 途中に、湖畔に出られる道があったので立ち寄ってみた。この湖はオオハクチョウコハクチョウの飛来地として知られているが、季節の違いか、その姿はまったくなかった。

 その代わりになるかどうかは不明だが、西からの強い季節風を利用するためか、湖畔には「大型扇風機」が数多く立っていた。気候変動の悪影響を少しでも抑えるためには化石燃料の依存度を下げ、太陽光発電風力発電への移行は必至である。

 近年、どの場所にいってもこうした施設を数多く見掛けるようになった。「景観」という点ではいささか難があるものの、気候変動を抑制するためには避けて通れない「道」なのであろう。くれぐれも、安易に原子力に依存することは絶対に避けなければならないからだ。

鯵ヶ沢から西海岸を南下する

やきいか街道

 鯵ヶ沢は西津軽では古くから知られた土地で、1491年に津軽藩の基礎を築いた大浦光信が入部したことが発展の始まりで、のちの大浦為信(津軽為信)が始祖となった弘前藩津軽藩)の御用港として西回り航路で大坂(大阪)に津軽米を運ぶための主要港となった。

 秀吉の時代から江戸時代にかけては石高制が採用されたために、米が年貢米として流通した。それゆえ、弘前藩としては米の積出港として鯵ヶ沢の港を重用した。が、明治初期の地租改正によって石高制は廃止され、貨幣が経済の中心になるにつれ、大坂・江戸への廻米は不要になったことから、鯵ヶ沢港の重要度は急速に低下した。

 いつもは鯵ヶ沢の中心部を抜けて北上したり南下したりするのだが、今回はあえて海岸線の道(県道3号線)を走ってみた。写真はその県道の一部であるが、鯵ヶ沢名産のイカを用いた「焼きイカ」がこの地の名物となっていることから、通りは「やきいか街道」と名付けられていた。

 その他、この地ではヒラメが通年、獲れることから「ヒラメのズケ丼」も名物らしいのだが、ヒラメと聞くと高価な魚だとの思い込みがあるためか、私の目に留まることはなかった。

大戸瀬崎界隈は「千畳敷」としてよく知られる

 鯵ヶ沢を離れ、私は南下を続けた。次は深浦町である。深浦町は南北に広く、千畳敷のある大戸瀬海岸、風合瀬、行合崎、森山海岸、十二湖、白神山地の中心にある白神岳向白神岳など、青森西海岸の名所の多くはこの町に属している。そのすべてに出掛けることは時間的にも体力的にも気力的にも無理なので、もっとも行きやすく、それでいて景観の良い場所を数カ所選んで訪ねてみた。

 深浦には磯釣りに適した岩場が数多くあり、小泊まで行けない時にはよく竿を出していたので、府中市から遥かに離れた場所でも、私は地理には意外に詳しいのである。それはどうでも良いことなのだが。

こうした奇岩がやたらと目に入る

 千畳敷の名は、この場所で津軽の殿様が平らな岩場に千畳畳を敷いて宴会を催したことが由来だとされている。下の写真にあるように、確かに広々とした岩棚は見事であるが、私には上の写真のように不可思議な形に風化した岩の林により目を奪われた。

 この辺りの地質は緑色凝灰岩(グリーンタフ)と呼ばれるもので、この岩については、いずれ男鹿半島の項で触れることになる。

確かに「千畳」ほどの広さがある

 千畳敷は波蝕された段丘面が1792年の鯵ヶ沢地震(西津軽地震マグニチュード7~7.5と推定)によって3mほど隆起したものだが、これだけ平らな場所が広がっている場所はかなり珍しい。海岸沿いを走っている国道や五能線から沖合まで100~200mもある。

 近くには「千畳敷駅」があり、無人駅で、かつ駅舎も壁もないため、列車の中からでもこの景色が堪能できるらしい。また、列車の中には駅に15分ほど停車するものもあるようなので、つかの間、列車を下りて海岸を散策できる。

 なお、この地は「日本の夕陽百選」に選ばれている。私はこの場所には相当な数、訪ねているけれど夕陽の時間には通過したことがない。

風合瀬(かそせ)漁港と弁天島

 私がまだ「中年」と呼ばれていた頃、深浦から鯵ヶ沢に向かっていたとき、写真の風合瀬(かそせ)地区にある漁港とその先にある鳥居埼灯台のある風景が目に留まった。現在はその近くに「道の駅・ふかうらかそせ・いか焼き村」があるが、当時はそうしたものはまったく存在しなかった。

 こんな美しい海岸があることは予想だにしていなかった.。私は漁港の近くにある広場に車をとめ、漁港の先端にある不思議な形をした岩礁と、その上にある紅白に塗られた灯台をしばし眺めていた。とりわけ、自然が織りなす岩礁群の姿は私の心を魅了したのであった。

 どのくらい、その姿に見とれていたのかは記憶にないが、相当な時間、その場所に居続けていたことは確かだった。いささか名残り惜しさはあったものの、私は次の目的地である鯵ヶ沢に向かうために車に戻ることにした。

 そんなとき、こちら側に向かってくる一人の女性の姿があった。どことなく、その歩き方に見覚えがあるような気がした。そして、彼女の顔立ちが分かる距離まで近づくと、私は20年前までの記憶がすべて蘇った。私が最初に愛した女性であった。

 彼女も私だと気が付いたようだった。20年の歳月はそれなりに彼女の顔立ちに変化を与えていたが、その美しさは不変だった。長い髪も、左の頬にある小さなほくろも覚えていた通りの場所にあった。

 無口な女性だったので、かつても話が弾むというほどではなかった。ただ、近くにいてくれるだけで私は幸福感を覚えた。故あって出会ってから5年後に離れ離れになってしまたが、そのことは、今現在に至るまで私にとって痛恨の極みであった。

 話したいことは無数にあった。最大の疑問は、なぜ、彼女がこの場所にいることであった。左手の薬指にある指輪がすべてを語っているようであり、それに気づいたときに私は言葉をほとんど失ってしまった。

 結局、いくつかの形式的な会話を交わしただけで別れを告げ、私は車に向かい、彼女は漁港方向に進んでいった。車に向かう刹那、私は何度も振り返りたい心持になったが、それではあまりにも自分自身が哀れに思えるため、まっすぐに車に近づいた。

 ドアを開けるとき、やっとの思いで彼女がいるであろう場所を目で追った。しかし、その姿はどこにもなかった。完全に消えてしまったのだった。日本海の青い風に誘われて、あるいは白神のブナ林から降りてくる緑の風に乗って、彼女は別の世界に旅立ったのだろうと、私は茫然とする反面、そう納得することにした。なぜなら、ここは風合瀬なのだから、と。

 風合瀬の名は、この地が異なった方角から季節風がぶつかり合うというところから付けられたとのこと。これには、北上する対馬暖流と、北からくる冷気、さらに山から下る空気が関係しているのだろう。「風が合う瀬」⇒「かぜおうせ」⇒「かぞせ」⇒「かそせ」と変化したと考えられている。

この島の成り立ちが知りたい

 この地の岩礁は中央部が割れたように陥没しているところに特徴がある。岩礁は凝灰岩でできているため、風化しやすい。おそらく、波によって出来た海蝕洞の天井部が崩落して写真のような姿になったのだろう。天井部の崩落は、1792年の「鯵ヶ沢地震」が関係していると私には思えた。

五能線に出会う

 今回の旅では五能線に初乗車することを予定していたのだが、男鹿半島に出掛ける日程に縛りがあったことから、それは断念した。もし次回があるとすれば、その時は必ず実現したいと考えている。

 国道と五能線はほとんど並行して走っているため、時折、列車に出会うことがある。写真は、運転しながらカメラを用意し、丁度、列車が私の車を追い越してゆく姿を見掛けたので、車を止めて望遠レンズで車内から五能線を撮影したものである。

 画面の中央部にボケた点のようなものがあるが、これは窓ガラスの汚れである。

五能線驫木(とどろき)駅~『男はつらいよ』にも登場

 写真の驫木駅舎はドラマや映画でよく用いられる。確かに、ただぽつりと木造の駅舎があるだけの姿はある意味、とても印象に残る。

 この駅舎は、『男はつらいよ・奮闘編』(第7作)に登場し、映画の内容よりもその佇まいがより話題となった。

 夕日がよく見える場所なので、駅舎と夕日と列車との共演は最大の見物であろう。

◎十二湖を訪ねる

すっかり観光地化した「十二湖」の駅舎

 道々の海岸線には降りてみたいと思われる多くの岩礁帯があったが、そんなことをつれづれなるままに行動していると、とても時間が足りなくなるため、私はできるだけ視線を道から離さないように車を進め、目的地のひとつに決めていた「十二湖」に向かった。

 ここは五能線の駅の中ではもっともよく知られる存在になったため、写真のように立派な駅舎に変貌していた。私が初めて十二湖に訪れたときは、さして人気のある場所ではないように思われたのだが。それは、白神山地世界遺産に選ばれて多くの人にその存在が知られたことが最大の要因だったと考えられる。

王池を望む

 十二湖は白神山地の主峰の白神岳(標高1235m)と最高峰の向白神岳(1250m)の北西にあり、ブナ林に囲まれた標高140mから250m地点に存在する。湖沼の数は33あるが、十二湖を造った原因とされる大崩から望むと12の湖沼がみられるということから「十二湖」と名付けられたという説が有力らしい。

 湖沼のすぐ西には大崩山(940m)があり、その西側の中腹が崩れ(これを大崩という)、この山体崩壊によって多くの沢が埋まり、沢の水や伏流水が溜まって湖沼ができたと考えられている。

崩山の大崩を望む

 写真のように、林道からは大崩(標高694m)の姿を見て取ることができる。現在はなんとか安息角を維持している。この山体崩壊は1704年に起きた能代地震が原因と考えられており、いずれまた大きな地震が発生すれば、この十二湖や大崩の姿は変貌してしまうに相違ない。

越口の池を望む

 十二湖周辺には登山道や林道が整備されているが、もっともよく知られている「青池」までは自動車道があるので、怠け者の私は、いつもこの道を使ってその近くにある池を眺めている。

 白神山地はブナ林に覆われているが、昨今話題になっている熊の出没はこのブナと大いに関係があり、ブナの実が豊作のときには熊は人里に現れず、今年のように凶作のときは餌を求めて人里まで降りてくるのである。

ビジターセンターの展示

 越口の池(標高185m)のすぐ隣には「十二湖ビジターセンター」があり、写真のように、十二湖周辺に住む動植物の模型が展示してある。登山道や林道を歩けばこうした生き物などに出会うことができるだろうが、さすがにツキノワグマに対面したとならば、気の弱い私などはすぐさま卒倒し、心ならずも「死んだふり」状態になってしまう。

 なお、センターの裏手にはイトウの養殖場があったのでのぞいてみたが、イトウたちはいずれもボロ切れのようだったので、撮影は見合わせた。

鶏頭場の池

 深い緑に取り囲まれていることは確かに、白神山地の中にある湖であることの証左であろうが、さりとて、そうした湖は他にも数多くあるため、十二湖でなけれな見ることができないという表情というものが存在しているわけでもない。

 それでも、写真のように倒木が多い場所を見つけると、朽ちかけた木々たちには、長い間のお勤めご苦労様でした、と言いたくなる。もっともそれですら、十二湖に限ったわけではないのだけれど。

人気の青池には緑がよく似合う

 十二湖を代表する湖沼と言えば、写真の「青池」であろう。この近くには広い有料駐車場が整備されているが、空いている場所を探すのに苦労するほどの混雑(人気)ぶりであった。

 標高246mのところにある小さな池なのだが、他の湖沼に比べると水の透明度が高いために、光の当たり具合によって水が青く見えるのである。もっとも、写真のように、入射角度によっては、青よりも周囲の木々の緑が映り込んでしまうため、青池というよりも緑池と言ったほうが妥当性があると思えてしまうのだが。

 とはいえ、日本古来では青と緑を区別することはなかったので、仮に平安や鎌倉時代の貴人がこの池を見たとすれば(実際にはまだ池は存在していなかったのだが)、緑池と名付けた蓋然性は高い。

 小さな池だけに、見栄えの良い場所には多くの好事家が陣取っており、撮影に適した格好の場所は見つからなかった。とはいうものの、この池を訪ねる度に「俗化」と「透明度の低下」が進んでいるようなので、私にとって、十二湖巡りは今回で「店じまい」となることはほぼ確定した。

◎森山海岸を散策

象岩~見たまんま

 十二湖からは早々に撤退したため、その代わりとなる場所を考えた。すぐに浮かんだのは、十二湖駅からほど近い場所にある森山海岸であった。少しだけ戻る形にはなるけれど、それはたかだか1キロほどなので何の問題はなかった。

 ここには「がんがら穴」と名付けられた奥行き50m、高さ10mの海蝕洞があり、その穴にはコウモリが生息しているというのだが、それを見るためには小舟を手配する必要があるので、それを見学するすることは叶わなかった。

 一方、写真にある象岩は駐車場の目の前にあることから、誰もが目にすることができる。確かに象の顔に見え、「象岩」と名付ける以外はないだろう。先に触れた「ライオン岩」は苦労の跡が偲ばれるが、この象岩は他の名前を思いつく人は皆無かと思われる。

細かな柱状節理が印象的

 象岩を含め、細かな柱状節理が目立つ。これは岩質が花崗岩であるからだ。とはいえ、周囲の岩を見ると緑色凝灰岩の存在も目に付く。

こちらは堆積岩

 さらに、写真のような堆積岩からなる岩もある。このことから、深浦地区の成り立ちがいかに複雑なのかが分かる。

この地層の乱れがなんとも美しい

 波打ち際の模様にも目を惹かれた。欠けている部分が多いので分かりづらい点もあるが、それでもかなり激しい褶曲と、小さな断層の姿を目にすることができる。まさに大地は「生き物」なのだ。

五能線のトンネル

 大きな穴を見つけた。が、これは海蝕洞ではなく、人工的に造られたトンネルである。このトンネルから出てくる、あるいはこのトンネルに入り込む列車を見たかった。

 スマホ五能線の時刻表を見れば、いつここを列車が通過するかは簡単に判明するのだけれど、私はそこまで「撮り鉄」ではないので、この人工的な穴を撮影することで納得することにした。

 十二湖のついでではあったけれど、満足度は十二湖よりも高かった。

◎寒風山~いよいよ秋田県

大潟村から寒風山を望む

 私は南下を続けた。当初は能代市に宿を取り、五能線に乗る予定だったがそれをキャンセルすることになったということはすでに述べた。その代わりに男鹿市内に宿泊するつもりでいたが、以前には必ずと言ってよいほど利用していた男鹿駅前の古いホテルが近年、俄然、人気が出てしまったらしく予約することができなかった。

 仕方なく、大潟村にあるホテルを2泊分予約し、そこを起点に男鹿巡りをすることにした。大潟村のホテルからは寒風山が近いので、その山まで足を伸ばした。この山はハゲ山に近いので、頂上から360度、男鹿やその周囲にある場所を頂上から眺めることができる。もっとも、最初の日は時間がやや遅めだったこともあって、景観は抜群という感じではなかったため、翌日も立ち寄り、下に挙げたようになんとか、ぐるりと360度の風景に触れることができた。

山頂から鳥海山を望む

 寒風山の標高は355mで、約3万年前から活動を始めた成層火山だが、現在ではその活動は完全に止まっている。また、頂上からの噴火というわけではないので、ひとつ上に挙げた山の姿を見ても、遠くからでは噴火口の姿は分かりづらい。

 基本的には大小の噴火を繰り返し、安山岩質の溶岩が積み重なって現在の姿になったと考えられている。現在では大半が表面を天然の芝生が覆っているため、説明書きを読まないと、ここが火山であることがイメージできないかもしれない。もっとも注意深く見ると、数カ所に溶岩の塊が地下から押し上げられて岩山のようになった場所がある。私は最初、山を芝生で覆うために、散らばった溶岩を集めて小山のように積み上げたのかと思ったが、それは全くの誤認で、自然にできた岩山であった。

 頂上からの眺めは絶景と言って良く、大げさに思われるかもしれないが(私もそう思う)、ある地理学者が「世界三景」のひとつに挙げられると主張した。残りの二つはグランドキャニオンとノルウェーフィヨルドとのこと。あるいは、ナポリブエノスアイレスらしい。

 それはともかくとして、男鹿半島に訪れる機会があれば、寒風山の頂上からの眺めは必ず体験すべきであることは確かだ。頂上には回転展望台(有料)もあるが、必ずしもそれを利用しなくとも、同等に近い景観を楽しむことができる。

大型扇風機だらけの秋田湾岸

 潟上市天王から秋田市街の海岸線に至るまでには、写真のような”大型扇風機”が立ち並んでいる。いかに秋田は風力発電に適した場所であるか、この姿に触れれば一目瞭然である。

男鹿半島の山並み

 写真は男鹿半島の背骨を望んだもの。左から「毛無山」(標高677m)、「本山」(715m)、それに「なまはげ」の神事で有名な「真山」(567m)が並んでいる。

能代方面と白神山地

真北方向を眺めると、能代まで続く海岸線には風力発電の設備が並び、その先の山の連なりは白神山地のものである。

八郎潟調整池方面

 八郎潟の大半は埋め立てられ、大潟村を築いて米作を本格化する予定でいたが、時すでに遅く、日本国内の米消費は低減し続けているため、結果として埋め立ては米以上に大きな借金を生んだ。

男鹿の中心部方面

 男鹿の中心部である船川港の姿も良く見える。沖合には石油備蓄タンクが並び、また洋上風力発電の計画も進んでいる。

第二噴火口

 足元を見ると、第二噴火口が口を開けている。この窪地を見れば、この山がかつては火山であったことがよく分かる。ちなみに、現在ではこの山は「活火山」の分類からも外れている。

見事なぐらい高木が少ない

 こちらは男鹿半島の先端部(入道崎)方向を眺めたものだが、手前の広い窪地は第一噴火口である。

 こうして、ぐるりと寒風山頂から景色を俯瞰すると、男鹿半島自体がいかに自然豊かで変化に富んだ場所であるかがよく分かる。

 ちなみに、男鹿半島には、日本が2000万年前までは大陸と陸続きであったという痕跡がはっきりと残っている。美しい風景だけでなく、地質学上でも貴重な存在なのである。

 もちろん、私のような釣り人にとっても竿を出してみたい場所は無数にある。残念ながら、結果として釣りをすることは叶わなかったのだけれど。

〔104〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(6)斜陽館、外ヶ浜、龍飛岬まで

龍飛岬から津軽海峡、北海道を望む

◎斜陽館~太宰治の生家を訪ねる

とても個人の家とは思えない大きさ

 五所川原市金木(かなぎ)町にある太宰治(津島修治、1909~48)の生家である『斜陽館』を訪ねた。金木町は何度も通過しているが、この大きな屋敷を見学に出かけたのは今回が初めてである。

 敷地680坪、1階は278坪で11室、2階は116坪で8室ある。青森ヒバで造られたこの屋敷の建築費は当時のお金で4万円。その頃の公務員の初任給が50円だったので、800倍もの費用が掛かっている。仮に現在の公務員の初任給が20万円とすれば、1億6000万円になる。まさしく豪邸である。

 これは父親の津島源右衛門衆議院議員貴族院議員を歴任)が青森でも有数の資産家であったからこそ建てることができたのであろう。なお、この豪邸が完成したのは太宰が生まれる2年前のことである。太宰はこの家で14歳まで過ごし、青森中学校に入学するために青森市内に寄宿することになって家を離れた。

 1950年に売却され、その後は地元の実業家が旅館と太宰治記念館として利用したが、1996年に廃業し、98年に「太宰治記念館=斜陽館」としてオープンし現在に至っている。

 入館料600円也を払って私も内部を見学したが、結構、若い人(とりわけ女性)が多く見学に訪れていることに驚かされた。3つある蔵のうちのひとつは太宰治に関係する資料が展示されてあるそうだが、私はそこには行かなかった。 

時代を感じさせる囲炉裏端

 太宰治の名を聞くと、すぐに連想されるのが『走れメロス』(1940年)だろう。この作品は現在でも中学2年生用の国語の教科書に採用されているので、大半の人の記憶に残っているだろう。次は「玉川上水」で、1948年の6月13日に太宰は三鷹市(当時は三鷹町)を流れる上水に愛人と入水心中をした。なお、太宰は35年に自殺を試みているが、このときは失敗している。もし成功していれば、太宰の名は全くと言っていいほど人の口の端に掛かることはなかっただろう。

 3番目は各人によって異なるだろうが、私は『津軽』(1944年)という作品を挙げたい。太宰の作品にしては「はみかみ」を意図的に表現することなく、自分の気持ちを正直に記述している名作である。他の人は、『富嶽百景』(1939年)か『斜陽』(1947年)を挙げるかも。とりわけ後者は、太宰の作品としては珍しく、当時からベストセラーになったからである。

二階の南側廊下

 『津軽』を読むと、彼の古典に対する知識の豊富さに驚愕される。確かに、彼は旧制青森中学ではほとんど首席で通し、4年修了で旧制弘前高校に入学している。ただここでは文学活動と高校紛争に興味が向けられていたため成績は中位だった。大学は東京帝大の仏文科に入ったが、フランス語はまったくできなかったらしい。

 その一方で、コミュニズム活動は熱心におこなっていた。自分がブルジョワ出身であったこともあり、その「反抗心」からそうした活動に嵌った可能性がある。大宰には相当程度「偽悪的」なところがあるからだ。

 太宰の名言のひとつに「文化と書いてハニカミとルビをふれ」というのがある。のちに、「私のはにかみが何か他人から見ると、自分がそれを誇っているように見られやしないかと気にしています」と述べているように、彼は自意識が過剰すぎるきらいがあったのである。もっとも、そうでなければ小説家などにはならなかっただろうけれど。

二階の応接間。調度品も上質なものが多い

 彼がコミュニズム運動から離脱したのは1933年ころである。小林多喜二が築地警察署内で虐殺されたことも一因と考えられている。そうした「気の弱さ」「お坊ちゃん育ち」が影響しているのかも。

 この挫折が、心に大きな傷痕を残すこととなり、35年には自殺未遂、36年にはパビナール(麻薬性鎮痛剤)中毒になり、何度か入院を繰り返していた。当時、パビナールはカレーライス2皿分の値段で簡単に入手できた。

二階の和室。襖を外すと大広間になる

 こうした自堕落な生活を続けていた太宰に「救いの手」を差し伸べたのが井伏鱒二で、彼の紹介で、甲府市で女学校の教員をしていた石原美知子とお見合いをし、38年に結婚をした。彼は、「人らしい人になりたい」という願望も有していた。

 しばらくは甲府で暮らしていたが、39年に東京の三鷹町に転居した。45年には空襲で危険を感じたために一時、金木町に疎開していたが、46年に三鷹に戻り、48年に自殺するまで、その地で過ごした。

二階北側廊下から庭を眺める。もう少し庭は広くても良いのに、と私は思った。

 三鷹駅と隣の武蔵境駅との間には「三鷹跨線人道橋」がある。この橋の上からの眺めが良いこともあって太宰はこの跨線橋にはよく出かけたそうだ。1929年に造られたこの建造物は、残念ながら強度不足のために今年の12月から撤去工事が始まることが決定された。

 武蔵境にはたまたま知人がいたために、その家を訪れた際に何度がこの跨線橋を渡ったことがあった。橋の上から富士山を望んだ時、太宰のことをちょっぴり思い出したという記憶が私にはある。

調度品や装飾品も豪華そのもの

 『津軽』では、その最後の部分で、小泊に住む乳母の越野たけと再開するシーンが登場する。彼の母親は病気がちであったため、太宰は乳母に育てられた。とりわけ、3歳から8歳まで世話になっていた「たけ」の存在は、太宰に大きな影響を与え、忘れることのできない存在として心に残っていたのである。

 そのシーンは、太宰らしくない(本来の太宰の姿)振る舞いで乳母と再会したときの様子がよく描かれている。この点については次回に触れることになっている。

 それは丁度、『走れメロス』の終わり方のようである。白樺派を敵視し罵倒を続けた大宰であったが、実は、太宰も心性は白樺派だったのである。

斜陽館前にある観光物産館

 斜陽館の無料駐車場は、道路の向かい側にあり、その敷地内に写真の金木観光物産館「産直メロス」がある。

 ここでは、地元野菜、総菜、馬肉、工芸品など金木で産出される商品が販売されているそうだ。また、”赤~いりんご”の関連商品、十三湖しじみなど、津軽の特産品も取り扱われている。

 ”メロス食堂”では「昔中華」が売りだったらしく、この存在を知った今となって、それを食さなかったことを残念に思えた。

物産館の隣にある津軽三味線会館

 写真の「津軽三味線会館」も同じ敷地内にあった。津軽三味線は金木が発祥の地と考えられていることから、そのルールや発展の歴史などが紹介されているそうだ。また、金木出身者ではないが、津軽三味線を全国的に広めた人物として、三橋美智也のステージ衣装などが展示されているらしい。

 津軽三味線の歴史は案外新しく、幕末の頃にボサマ(男性の視覚障碍者)の”仁太坊”が始めたという説が有力らしい。

 もっとも私としては、いささかしつこいようだが、松村和子の『帰ってこいよ』を聞くだけで十分に満足している。

津軽鉄道金木駅に向かう

金木といえば太宰治

 駅に向かう通りに出た。道路の傍らに写真のような案内標識があった。やはり、現在の金木にとっては太宰の存在は大きく、彼抜きでは「売り物」がないのかも知れない。

メロス坂通り~私は歩いた

 写真が先ほどの標識から金木駅へ向かう「メロス坂通り」である。標識のあった場所の標高は9.4mで金木駅前は15.1m。長さは320mなので、写真からもわかる通り、相当に緩い坂道である。

 『青春の坂道』ならばそこには古本屋があったり、ペンキの剥げたベンチがあったり,長い髪の少女がいたりするのだが、このメロス坂にはそうしたものは存在しなかった。

 メロスなら、暴君ディオニスのいる王宮まで半裸状態でセリヌンティウスとの約束を守るために走るのだろうが、私はただ、津軽鉄道金木駅を見物するのと、あわよくば「走れメロス号」に会うために行くのだから、「歩け、徘徊老人!」と自己に命じてのんびりと進んだ。

太宰が45年に疎開した家

 途中には、太宰が戦争中に疎開していた古い家があった。少しだけ立ち寄ってみたが、太宰の実家とは異なり、とても質素な造りであり、彼の生き方からすると、こちらのほうがお似合いだと思えた。

ローカル線とは思えない立派な駅舎

 メロス坂を進み、王宮ならぬ、金木駅舎前に到着した。津軽鉄道のイメージでは、あまり真っすぐではなく、かなり歪んだ鉄路と古ぼけた木造の駅舎を想像するのだが、金木駅に限っていえば立派な建物であり、さすがに太宰治ワールドの玄関口だと思えた。

五所川原行きが入線

 駅のすぐ隣の踏切の警報機が鳴り、上り列車が間もなく到着することを私に教えてくれた。私はすぐに踏切前に移動し、走れメロス号の姿を目撃した。車両もまた、私の思い描いていた使い古したものとは異なり、奇麗な姿に改造されていた。

金木駅は列車交換駅

 津軽鉄道は全線が非電化の単線である。唯一の列車交換駅がここなので、写真のようにメロス号が並んでいる。両者は全く同じ意匠なので、少し興ざめした。やはり、メロスは一人の存在であるごとくに、「走れメロス号」も一編成だけにしてほしいものだと誠に勝手ながら率直な感想をいだいた。

下り線(津軽中里行)が発車~走るメロス号

 終点の「津軽中里駅」に向かうため、まずは下り列車が先発した。

 『走れメロス』はもちろん太宰の作品であるが、すべてが彼の創作というわけではなく、最後に「古伝説と、シルレルの詩から」という断り書きがある。つまり、すでにあった作品を下敷きにして、太宰がそれをひとつの物語に仕立てあげたのである。

 このことを残念に思う人も多いようだが、これは盗作でもなんでもなく、ただ、古い作品に新しい魂を注入して太宰ワールドのひとつとして蘇らせたのである。つまり、この短編小説は100%、彼の世界の内にあるのだ。

 ちなみに、シルレルとはフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)のことであり、彼の『真の知己』という作品が下敷きになっている。

上り線も発車

 下り列車が去ったのち、上り列車も金木駅を離れた。

 大宰が憧れた芥川龍之介は、元々、翻訳者として出発し、やがて短編小説家として世に出て、次々と素晴らしい作品を発表し続けた。その作品の多くは『今昔物語』や『宇治拾遺物語』を素材にしている。

 太宰に影響を受けた三島由紀夫は、最後の作品として『豊饒の海』四部作を書き、原稿を編集者に渡した後に自衛隊の市谷駐屯地に向かい、そこで割腹自殺を遂げた。この『豊饒の海』も、菅原孝標女(『更級日記』で有名)が書いたとされる『浜松中納言物語』から多くのヒントを得ている。

 三者の共通点は、かつての資料を基にして優れた作品を残したこと。それに、三人とも自殺していること、である。

◎外ヶ浜海岸を行く

蟹田港から夏泊半島を眺める

 「外ヶ浜」の原義は「最果ての地」だとのこと。確かに、青森は明治2年までは最北の地だった。令制国五畿七道に区分されているが、この中に北海道は含まれず、「令外の地」であった。それが、明治2年になって北海道が令制国に組み込まれ、五畿八道として日本国に加わったのである。ちなみに、武蔵国は当初、東山道のひとつであったが、のちに東海道に入った。

 それゆえ外ヶ浜は、かつての日本の最北端であった現在の青森県の海岸線全体をさしていたようだが、今日では、夏泊半島から龍飛崎までを言うようになった。ただ、現在ではその一部に外ヶ浜町(2005年に成立)があるし、しかもその町域は平舘(たいらだて)と三厩(みんまや)とに分かれ、その間に今別町があるので、結構ややこしい。そのため、本項では蟹田から龍飛崎を外ヶ浜として話を進めてゆく。

 蟹田には大きな港がある。下北半島の脇野沢港との間をフェリー(一日2往復)がつないでいて、60分で下北に出かけられる。この脇野沢については「仏ヶ浦」の項で少しだけ触れている。

 また、津軽山地名産の青森ヒバの積出港としてもよく知られている。が、蟹田の名の通り、ここでは毛ガニの仲間である「トゲクリガニ」が獲れることでも知られている。ただし、希少なカニのため、現在では1年でわずか10日間しか漁ができないことになっている。

 太宰は、この地に住む青森中学の同級生であったNさん宅を訪問し、山盛りのカニをご馳走になっている。なお、このNさんは太宰とともに、外ヶ浜を巡る旅に出て、龍飛崎まで同行している。

青函フェリー下北半島西岸

 津軽半島を南北に走る山地は、半島の中心ではなく大きく東寄りにあるため、外ヶ浜には平地が少なく、平野の大半は西側に存在する。それゆえ、西側の人は東部を「かげ(陰)の地」と呼んでいる。ただ、精米業を営むNさんが住む蟹田付近は蟹田川が形成した平野がそれなりの広さがあるため、米作も盛んである。が、蟹田から北は平地はほとんどなく、国道280号線はほとんど山の際を走っている。

 なお、このR280は、かつて松前藩の藩主が参勤交代のために使った道なので「松前街道」とも呼ばれている。

 太宰は津軽山地を「梵珠山脈」と呼んでいるが、厳密にいえば、梵珠山地は津軽山地の南側を指し、北側でYの字をつくるように山地は東西に分かれており、東側を「平舘山地」、西側を「中山山地」と名付けられている。

 津軽山地はいわゆる地塁山地で、南北に走る2つの正断層の間が盛り上がったものであり、標高は200~700m程度である。梵珠山地は梵珠山(標高468m)から北に向かい、途中に大倉岳(677m)がある。V字型に分かれる場所には小国峠(130m)があり、平舘山地には丸屋形岳(718m)、中山山地には増川岳(714m)がそれぞれピークを形成している。

  太宰の表現を借りれば、山地は海に転げるように落ち込み、一方は「高野崎」、もう一方は「龍飛崎」がそれぞれの終点になっている。

 平舘海峡を青森港に向かって進む写真のフェリーは「青函フェリー」の「はやぶさⅡ」で、津軽海峡フェリーの船よりかなり小さい。

平館(たいらだて)灯台

 私はトゲグリガニを食することなく、R280を北に進んだ。写真は、平舘海峡が最も狭くなる場所にある平舘灯台で、僅か標高2.5mの地点にある。対岸の下北半島との間は10.5キロほどしかない。

 かつてオランダ人が上陸したことから、守りを固めるために台場が造られた。一方、青函連絡船が通行する場所でもあるため、その航行を見守るために1899年に23mの灯台が造られたのであった。

 灯台のすぐ西側には「道の駅」が整備され、海岸線には散策路があり、砂浜も結構な長さがあるので、夏場にはかなりの賑わいを見せるらしい。

綱不知海岸

 R280をさらに北に進んだ。道は次第に北東方向に向きを変え、対岸の下北半島は徐々に遠い存在になる。

 地図を確認すると、「綱不知(つなしらず)海岸」という名の名所があることが分かり、少しだけ車を止めて海岸線を散策した。綱不知の語源は不明だが、場所柄からいって、潮の速い津軽海峡からはまだ少し離れているため、船を泊めておくために綱を張らなくても良いからか、あるいは浅瀬が多いので、船を留めて置くのが容易なので綱が不要なのかのどちらかであろう。

 なお、この綱不知海岸で外ヶ浜町平舘はいったん終わり、そのすぐ先は今別町の区域になる。

◎高野崎~津軽半島もうひとつの北端

高野崎灯台

 先に触れたように、津軽半島は先端部で東西に分かれており、東側の最北端が写真の高野崎である。岬は文字通り「みさき」であるが、先端部を意味する「先」に敬称の「御」をつけて「みさき」と言うようになっと考えられている。海から陸に戻る人にとっては「みさき」は大きな目安になる。それだけに「御」を付ける気持ちが分かるような気がする。

 東側の高野崎と西側の龍飛崎との間には大きな入り江があり、その開けた場所に今月町の中心街がある。この入り江は三厩湾と名付けられている。

 高野崎は東の先端であるが、西の龍飛崎ほど形状は険しくなく、長さもそれほどないので、知名度は龍飛崎に比べると圧倒的に低い。ただ、写真のように可愛らしい灯台があり、周囲の岩礁帯も見どころがないわけではないため、見学に訪れる人は決して少なくない。ちなみに、高野崎の標高は31m、龍飛崎は111mである。

西側を眺める

 高野崎の先端近くに立って、西側の海岸線を眺めた。左手に入り江があり、それが三厩湾であり、奥側に今別の街並みがあるはずだ。右手に長く伸びているのが中山山地で、その先端部が龍飛崎である。岬というより半島のように見える。

 ところで、「半島」という言葉を造語したのは、明治初期の啓蒙家である中村正直(1832~91年)で、サミエル・スマイルズの『自助論』を訳した『西国立志編』や、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を訳した『自由之理』がよく知られている。彼はスカンジナビア半島を訳すために、「ペニンシュラ」を「半島」に置き換えたのである。

東側の岩場を眺める

 東側を眺めると、まだまだ下北半島の姿が目に入る。手前側にある岩の上には、よく見ると、木で造られた鳥居や看板らしきものがある。高野崎周辺は浅瀬が続いているので、この比較的背の高い岩は浅瀬の存在を知らせる目印の役割を果していたのかもしれない。もちろん、鳥居は弁才天を祀るものだろう。漁師にとって、弁才天は「水の神」として極めて重要な神なのである。

先端部の岩礁

 先端部には平らな岩礁帯が露出しており、2つの溝には橋が架けられていた。ということは、その岩礁帯に行くことが可能なのであろう。

岩礁帯に降りようとしたのだけれど

 そのため、私はその場まで降りようとしたのだけれど、そこには誰もいないことで躊躇した。私の周りには若い人が何人もいたのだが、誰も降りようとはしないのである。一部の足場がやや悪い可能性はあるにしても、たかだか比高は30mほどである。

 年寄り夫婦が少しだけ足を踏み出したのだが、すぐに戻ってきてしまった。それを見た私は降りることを完全に断念した。きっと、見た目以上に坂はキツイのかも。

 けっして、そんな風には思えないのだけれど。「それならお前が行け!」という声が聞こえたような気がした。いや、それは海鳴りだろう、海は案外、穏やかだけれど。

青函トンネル・起点の今別側

青函トンネルの今別側

 青函トンネルは1961年に建設がスタートし、85年に本坑が全開通し87年に初走行が行われた。2006年には新幹線の工事が始まり、14年に試験走行が開始され、16年に正式開業した。これによって在来線は廃止され、旅客鉄道は新幹線だけとなり、その他としては貨物列車が走っているのみである。

 貨物列車は在来線の軌間1067ミリ、新幹線は標準軌の1435ミリを使用するため、レールは上下線とも3本ある。これを「三線式スラブ軌道」という。

こんな神社があった

 トンネルの入り口近くには、写真の「トンネル神社」があった。祠のカバーはトンネル型をしており、祠の中には本坑貫通時に掘り出された「貫通石」が安置されている。祭神は「叶明神」というらしい。なお、この神社は新幹線の開業を記念して建立されたものなので、まだ歴史は浅い。神社の横には小さな売店があり、そこで御朱印がもらえる(300円也)。

 折角なので、新幹線の姿も撮影したかったため、売店のおばちゃんにコーヒーを入れてもらいながら(もちろん有料)、時刻表を確かめたところ、新幹線の通過には相当な時間をここで待つことになるため、それは断念した。

残念ながら新幹線ではなかった

 おばちゃんとは話が弾み、娘が龍飛岬の売店で働いているので是非、寄ってみてと言われた。岬の売店は3軒並んでおり、その真ん中の店が娘のいるところだと念押しされた。

 そんな時に、列車が走ってくる音が聞こえたので、慌ててカメラをトンネル方向に向けたところ、機関車が顔を出した。

長い長い貨物車両

 機関車の後ろには、結構な数の貨物車がつないであった。JRのレールは全国に網羅されているので、鉄道による貨物輸送は相当に便利だろうと思えた。飛行機やトラックでは一度に運べる量は限られるし、青函連絡船ではやや時間が掛かってしまう。

 その貨物列車を見送った後、またまた売店のおばちゃんと話が始まりそうになった。そうしていれば新幹線もやってきそうだが、そうすれば龍飛岬に辿りつく時間が遅くなるため、適当なところで話を切り上げ、売店を離れ、次の目的地に向かうことにした。

 おばちゃんには、「真ん中の店だよ」としっかり、再度念押しされた。

三厩(みんまや)から龍飛崎に向かう

三厩(みんまや)にある義経

 三厩地区は今別町の西隣にあり、先にも触れたように外ヶ浜町に属する。今別町には取り立てて私の興味を惹くものがないように思われたので、国道280号線のバイパスを通って三厩地区に入った。

 三厩の名前は「義経北行伝説」に関連する。この伝説はあまりにも有名なので、わざわざここに記す必要はないと思えるが、その一方で、それに触れないと「三厩」などという不思議な名前がこの地区に付けられた由来が分かりづらくなるし、これから紹介する「義経寺」についても説明しづらくなっるため、あえて簡単に触れたいと思う。

寺は高台にある

 義経は1189年の衣川の戦いで自害し、また弁慶は戦死したことになっているが、実はひそかにこの地を離れ、三陸海岸を北上し、それから広義の外ヶ浜を移動し、津軽半島の先端部まで至った。

 この地から津軽海峡を渡ろうとしたところ、海が荒れてなかなか渡れず、やむなく義経は持参していた観音像に祈願した。満願の暁、夢に白髪の翁が現れ、竜馬を三頭与えると伝えた。

 目が覚めて厩石(うまやいし)をのぞくと、三頭の竜馬がつながれていた。それに義経、弁慶、亀井六郎の三人が乗り、無事に蝦夷地に渡ったという話だ。

 この厩石には浸食を受けて三つの洞穴があった。その中に一頭ずつ馬がつながれていたので、この石は三馬屋石と呼ばれるようになった。この三馬屋が三厩に転じたのである。

境内から港を眺める

 この北行伝説には続きがあって、義経一行はさらに大陸に渡り、義経はチンギス・ハン(1162~1227年)なったという話まである。これが広まるきっかけを作ったのは1823~30年まで日本に滞在して医学や植物学を教授したシーボルトだったという。彼は新井白石の『蝦夷志』の参考にして、義経北行説を主張し、それが明治時代になって広がり始め、1924年には『成吉思汗ハ源義経也』という本がベストセラーになったとのことだ。

 これに対し太宰は、「故郷のこのやうな伝説は奇妙に恥づかしいものである。」「どうも津軽には義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけじゃなく、江戸時代になっても、そんな義経とか弁慶が、うろついてゐたかも知れない。」と揶揄している。

山門

 頼朝との対抗上、後白河法皇義経を持ち上げ、左衛門少将・検非違使に任命した。検非違使令外官で、不法を検察する天皇の使者という位置づけである。別名を「判官」という。

 平家を打ち取ったのはひとえに義経の功績であったにもかかわらず、頼朝は彼の存在が自分の立場を脅かすということで、厳しい仕打ちを行い、結局のところ衣川の戦いで自害に追いやった。こうした義経の悲しい運命から、とりわけ東北の人々にとって義経奥州藤原氏に育てられ、そして頼朝の圧力があったものの藤原氏の手によって死に追いやられたということが誠に口惜しいために、心の中で義経を生かせて蝦夷の地に渡らせたのだろう。

 「判官びいき」という言葉は、こうした義経に同情する立場の人々から生まれたのだろう。本来、判官は権力側にあるのだから、人々にとっては決して好ましい存在ではないにもかかわらず。

 こうした北行伝説が影響したかどうかは不明だが、修験僧の円空(1632~95年)が三厩にやってきて、観音像を彫り、その中に義経が持っていたとされる観音像を収めた。そして小さなお堂を建てて、観音像を安置した。これが、写真の「義経寺」である。

 円空は北海道の松前にも渡ったという記録が残されているので、三厩の地を訪れたことは事実であろうし、義経のために観音像を彫った可能性は極めて高い。ただし、お堂を建てたことは定かではない。

弁財天堂

 義経北行伝説はともかくとして、この義経寺の境内は標高41mの地点にあるために見晴らしはとても良い。ここに写真の弁才天堂が建てられていることが義経に関係するかどうかは不明だが、水の神である弁才天が、津軽海峡を進む船の航海の安全を見守っていることは確かである。 

◎龍飛漁港にて

太宰治文学碑

 龍飛漁港は2カ所あって、双方は約500m離れた位置にある。写真の「太宰治文学碑」は手前側の漁港の傍らに設置されている。向かいには、太宰が宿泊した「奥谷旅館」を改修して設立された「龍飛岬観光案内所」があった。

 文学碑には『津軽』の一節が彫られている。「ここは本州の袋小路だ。読者も銘肌(めいき)せよ。諸君が北に向かって歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」

 このあと太宰に同行したN さんは「誰だって驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひってしまった、と思ってひやりとしたからね。」と述べている。そしていつものように酒宴を重ねて寝入ってしまったが、翌朝、寝床の中で、童女が表の路で手毬歌を歌っているのを聞いた。

 「私は、たまらない気持ちになった。今でも中央の人たちに蝦夷の地と思ひ入まれて軽蔑されてゐる本州の北端で、このやうな美しい発音の爽やかな歌を聞かうとは思わなかった。」と感じ入っていた。

龍飛崎の先端にある帯島

 私はもう一つの龍飛漁港に向かった。この港のある集落こそ、太宰の言うまったく道が尽きる場所にある港なのだ。

 沖には「帯島」という名の岩礁があるが、現在は橋でつながっているため自由に行き来できる。

 帯島の名も義経北行伝説に由来し、義経がいよいよ津軽海峡を馬で渡るとき、この場所で、しっかりと帯を締めなおしたということからその名がつけられた。

海の安全を守る弁才天

 島には、写真のような「弁才天宮」が建立されていた。しつこく繰り返すようだが、「弁才天」は水の神様で、漁師たちの航行の安全を見守っている。

帯島から津軽海峡を眺める

 帯島は火成岩からなる岩場で、柱状節理がはっきりと分かる姿を見せていた。この岩で義経は帯をきりりと締め、一行(3人)は津軽海峡を渡って向かいに見える蝦夷の地を目指したのである。

 天が授けた竜馬なので、海を渡るぐらいは造作ないことかもしれない。私は小学生低学年のころ、多摩川の水の上を歩いて渡ることができないのか何度も試したことがある。理屈は簡潔で、まず片方の足を川面に乗せ、その足が沈まないうちに別の足を出せば良いのだ。これを素早く繰り返すことによって沈まずに川面を歩いて行けるという寸法だ。が、実際はなかなかの難題で、中学生の時は学校のプールでも試みたものの、やはり3歩ぐらいが限界だった。義経が乗った竜馬とは異なり、私は駄馬に過ぎなかったことを思い知らされた。

龍飛埼灯台は高台にある

 帯島から龍飛岬の高台を眺めた。前述したように、龍飛埼灯台は標高111mのところにある。確かに、太宰が言うように、奥羽山脈から梵珠山地を経て中山山地と続いてきた山の連なりは、この龍飛岬において海に転げ落ちるのである。

高台に至る階段~これが国道399号線

 三厩本町で、国道280号線からバトンを受け取った国道339号線は、引き続き外ヶ浜の海岸線を龍飛崎方向に進み、いよいよ太宰の言う「すぽりとこの鶏小屋に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである」という岬の先端に到達する。

 しかし、この国道はここで終わるわけではなく、今度は津軽半島の西岸に出て、さらに五所川原市街を通過し、南津軽郡藤崎町で、国道7号線(新潟市青森市を結ぶ一般国道羽州街道羽州浜街道)に突き当たる。

 このため予定では、龍飛岬でUターンして岬の上に出る計画もあったらしいのだが、実現は困難ということで、その役割は別の取り付け道路にまかせ、R339は日本で唯一の「階段国道」になっているのである。

階段国道を歩いての上るつもりだったが

 写真は、階段国道の上り口付近のものである。最初はスロープだが、標高5.4mのところから、写真のような階段が始まる。もちろん当初は上まで行くつもりだったが、この日はまだまだ立ち寄る場所が多いことから、と自分に言い聞かせて、その無謀な試みは早くも挫折してしまった。

ここが階段国道の終点

 結局、車に戻って取り付け道路を走り、岬の上方に出た。ここは標高75.6mである。比高はたかだか70mなので根性を出せば(出さなくとも)十分に上ることができる(に違いない)。

◎龍飛崎にて

龍飛埼灯台

 龍飛埼灯台は高さが13.7mとそれほどの大きさはない。もっとも、すでに標高111mの地点に建っているため、海を照らし、また海からその位置を知るには十分な高さがあると言える。2005年までは一般公開していたが、無人灯台ということもあり現在は立入ることはできない。

 日本の灯台50選に入っているとのことだが、ここが選ばれたのは、やはり見晴らしの良さからくるもので、灯台そのものの姿ではないように思える。

津軽海峡の激流

 灯台の周囲には見晴らしの良い場所がいくつもある。写真はほぼ真下の海の様子を眺めたもの。西から対馬暖流が流れ込むため、その潮の速さがよく見て取れた。この潮は東に進んで陸奥湾の海水を温めている。

北海道がよく見える~最短距離で19.5キロ

 この日は晴天に恵まれたために北海道がよく見えた。案内図には写真にある山の名前が出ていたが、私はメモをしないし、記憶力は相当に衰えているため、その名は完全に失念してしまった。

 対岸の松前町にある白神岬が龍飛からはもっとも近く、その距離は約19.5キロである。義経御一行は、その岬を目指して竜馬を走らせたのだろうか?

西海岸と小泊半島

 西海岸を眺めた。横たわっているのは小泊半島で、私は何度か半島の先端まで船で渡って磯釣りを楽しんだ。現在は制約が多いらしいが、ここは磯からホンマグロが釣れる場所として知られていた。もちろん、私が使っていたタックルでは、一瞬でラインが切られるだろう。

 写真に見える道路は竜泊ラインと呼ばれており、相当に快適な道である。なお、太宰は知り合いを訪ね小泊まで出かけているが、当時は道はまったくなかったため、後日、列車とバスをを使って移動している。

 なお、吉田松陰は1852年に小泊から龍飛崎まで、相当な苦難の連続の末、龍飛に到達している。国防を憂える動機から、友人の宮部鼎蔵(ていぞう)とともに山や沢にしがみつくようにしてやってきたのである。しかも、松陰はこの旅のために脱藩までしている。

ほぼ真下に青函トンネルが走る

 私は、青函トンネル入り口にあった売店のおばちゃんとの約束を果たすため、三軒並んだ売店の真ん中の店に入った。女性店員にトンネルのおばちゃんの話をすると、「旦那の母なんです」と言った。折角なので、ホタテの串焼きの大を注文した。

 写真は売店付近から中山山地を眺めたものである。確かに、中山山地は龍飛まで続いている。正面に見える施設は、「青函トンネル本州側基地」である。この下の地中深くにトンネルは走っている。私は電車を使った長旅は苦手なので直接、トンネルにお世話になることはない。

龍飛岬といえばこの唄~実は一回しか出てこないけれど

 龍飛岬といえば『津軽海峡冬景色』の唄だろう。とくに龍飛岬をテーマにしたわけではない歌詞だが、「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと、見知らぬ人が指をさす」ので、「息でくもる窓のガラスふいてみたけれど、はるかにかすみ見える」だけだった。

 この日のような晴天であれば青函連絡船からも龍飛岬はかすかに見えるだろうけれど、雪の日であればおそらく見えないのではないか。これが下北半島やその北端の大間崎であれば見えるかもしれないけれど。ちなみに連絡船の航路から大間までは20キロ、龍飛までは27キロである。

 これは心象風景を唄ったものであろう。たしかに、龍飛なら情緒があるけれど、大間では、それはあまり感じられないからだ。

 なお、この歌碑は新しくできたもののようで、かつては道端にあった。また、この唄がガンガン流れるのが興ざめだった。今回はそれが気にならなかった。

〔103〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(5)三内丸山、弘前城、岩木山神社、立佞武多など

立佞武多の館に立ち寄る

三内丸山遺跡を見学

立派な建物が出入り口付近にある

 「北海道・北東北の縄文遺跡群」は2021年に世界遺産に指定されているが、その遺跡群の中でもここで取り上げる国の特別史跡である「三内丸山遺跡」は群を抜く規模で、私たちがそれまでイメージしていた縄文時代の人々の生活様態を見事に打ち砕いてくれた。

 2017年に出版(日本語版は19年)されたジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史』は、我々が抱いていた穀物生産が定住や国家の成立条件であったという見方に異議を唱え、狩猟・採集の時代の半定住生活こそ、人々の暮らしの「豊かさ」があったことを、多くの資料を提示しながら証明してくれた。

 三内丸山遺跡は、縄文時代前期から中期にかけての大規模集落跡で、現在から約5900年から4200年前(紀元前3900年から2200年)に存在したと推定されている。竪穴建物は550棟以上発見されており、一時期に存在した住居は20棟程度で、縄文集落としては稀に見る大きさであったと推察されている。

 現在では、人間が安定的な社会生活を維持できる規模は150人程度と考えられている。これをダンバー数といい、オックスフォード大学の人類学、進化心理学を専門とするロビン・ダンバーが提唱し、様々な資料から、この数値は現代社会でも当てはまると考えられている。確かに、人が他社の顔やその特徴をある程度認識でき、「仲間」だと思える上限はこの程度だろうし、私が個人的に仲間だと思っているニホンザルの群れも、100頭程度が上限と考えられている。

 が、この三内丸山では一度期に500人が暮らしていたと想定されている(異論も多い)。遺跡の規模は約40haと推定されているが、ここは青森の市街地に近いため、発掘できるのは今の規模が限界だと考えられるので、実際にはもっと広かったと考えるのが妥当だろう。とすれば、いくつかの集団が、たまたま同居していたとも想像しうる。

 なにしろ、縄文時代では、北東北が日本列島ではもっとも住みやすい地域だったと考えられているのだ。それだけ、海も野原も山も自然に満ち溢れていたのだろう。

遺跡のジオラマ

 出入口付近には立派な建物「縄文時遊館」があり、いかにも「世界遺産です」と言いたげな姿を誇っている。その建物の中に入り、「時遊トンネル」を通って遺跡と対面することになる。そのトンネルの前に存在していたのが、写真のジオラマである。

 これから分かることは、遺跡のある場所は広い丘だということだ。標高は17.2m地点にあり、北側にある最寄り駅の新青森駅は8.8m、フェリー港は2.2m、県庁は2.5m地点にある。

 この遺跡に人々が暮らしていたときには海面は現在よりかなり高く、青森市の中心部はほぼ海の中にあったと考えられている。それゆえ、「縄文のムラ」は丘に造られたのであろう。

 ちなみに、周囲の地名には、「石江」「両滝」「浪館」「沖舘」などがあり、いずれも水に関係している名前になっている。また、周囲には池や沼が多いことから、かつては海もしくは湿地帯であったことが想像できる。

縄文のムラに入る

 時遊トンネルを抜けると、広々とした「縄文のムラ」があった。林の右手は他でもよく見かける竪穴式住居跡だが、やはり、この遺跡を象徴する「大型掘立柱建物」の存在だ。もちろん、その先にある鉄塔は、遺跡とは何の関係もない。

竪穴式建物群(復元)

 竪穴式建物には、”茅葺き(かやぶき)”と”樹皮葺き”と”土葺き”の三種類が復元されているが、写真にあるのは茅葺きと土葺きの2つである。こうした建物はすべて住居用に建てられたものと考えられている。

大型掘立柱建物(復元)

 この遺跡でもっともよく知られているのが、写真の大型掘立柱建物だろう。この姿を見ただけで、それが三内丸山遺跡のものであるとすぐに判断できるほど、有名なものだ。

 6本の柱の間隔はすべて4.2mで、柱の穴の深さは2mである。このような建物が何故に存在するのかは不明だが、一説には、海で漁をしている船が自分たちの位置を知る上で役立ったのではないかというものがある。つまり、ランドマークとしての役割である。確かに、そう考える以外のことはなかなか思いつかない。

掘立建物(復元)が並ぶ

 掘立建物は、おそらく倉庫として用いられたのだろう。とりわけ、大型掘立柱建物のそばにある大型掘立建物は、長さが35m、幅が10mもある。もちろん、内部見学も可能だ。

竪穴式建物(復元)の内部に入る

 写真は、竪穴式建物の内部を撮影したもの。ここで、縄文人はひと家族5,6人が生活していたと考えられている。

小学生が造った竪穴式建物

 写真の樹皮葺き建物は小学生が中心となって縄文人の家づくり体験によって復元されたもののようだ。このような貴重な体験は、生涯、忘れることがないだろう。もっとも、私だったら、共同作業をしていると見せかけて、実はサボっていただろうけれども。

縄文のムラを今一度、眺める

 縄文のムラをひと通り見て回ったので、次は「時遊トンネル」をくぐり抜けて、様々な展示物を見て回ることにした。

 建物内からはムラの景色を見ることはできないので、トンネルに入る前に、その全体を今一度、目に焼き付けることにした。

縄文人の暮らしを再現

 常設展示室(さんまるミュージアム)には、縄文人の暮らしぶりを再現した展示がおこなわれている。漁労や狩猟、それに数々の土器製作などの様子が立体的に模してあるが、もちろん、私のお気に入りは釣りをする場面で、陸奥湾では多彩な魚が釣れたはずである。私は縄文人に生まれ、毎日のように釣りに出かけたかった。

縄文式土器がいっぱい展示

 いろいろな形の縄文土器が展示してあるが、「縄文」の言葉から連想される姿とは異なり、簡素な造りが多い。私たちがイメージする縄文土器は華美なものだが、それらは日用品というより、呪術的な要素が含まれているからであって、普段使いは「100円ショップ」で見掛けるような形のもので十分なのだろう。

糸魚川産・ヒスイの首飾り

 企画展示室ではヒスイの飾り物が多く展示してあった。ヒスイは現在の新潟県糸魚川市で産出されたもの。今から5000年ほど前に、新潟と青森とを結ぶ道(海の道だろうか)があったことに驚かされるが、極めて硬いヒスイを加工する技術をすでに有していたことにも驚愕せざるを得ない。

 狩猟・採集時代は実は豊かで、定住して稲作をせざるを得なくなった時代こそ階級格差が生まれ、大半の人は抑圧された暮らしを強いられたのかも。それでも、「ブルシット・ジョブ」が跋扈する現代社会よりは格差は小さかったことだろうけれど。

◎板柳から弘前城

板柳中学校付近から岩木山を眺める

 弘前へ移動中に板柳町に立ち寄った。連続射殺犯で小説家の永山則夫(1949~97)が育った土地に触れたかったからである。彼が板柳中学校の生徒だったのは約60年も前のことだったので、町の様子や中学校の校舎は今とはまったく異なるものであっただろうし、実際、彼はほとんど学校には通っていなかった。

 町の様子は変わったっとしても、おそらく、彼が毎日のように目にしていた岩木山の姿はほとんど変化していないだろう。

 時代は変わり、町は変わり、人は変わり、今ではこの土地にいっとき、永山が存在していたという記憶はほとんど消えかかっているはずだ。

 それでも、岩木山は変わらずに厳然として聳え、人々の営みを見守り続けてきた。その事実だけは、これからも続くことは確かであろう。

弘前城丑寅

 弘前藩津軽藩)は、南部藩の被官であった大浦為信が1590年に豊臣秀吉から4万5千石を賜って津軽地方を統一して、南部藩から独立した。さらに、1600年の関ヶ原の合戦では徳川家康側に味方して2千石を加増され、名実ともに弘前藩を確立した。

 初代藩主となった大浦為信は津軽姓に改称し、大浦(弘前)城の整備に専心したものの07年に死去したため、第2代目の信枚(のぶひら)の手によって本格的な工事が開始され、天守閣は11年に完成した。堀と石垣に守られた城は東西600m、南北1000mの広大な敷地を有し、現在では「弘前公園」となり、桜の名所としてよく知られている。

 大手門は敷地の南側にあるが、私は北側に車をとめたので、堀に架かる「一陽橋」を渡り、現在は青森懸護国神社のある旧四の丸から城内に入った。途中から進路を南に変えて本丸を目指した。

 賀田(よした)橋跡から賀田御門跡を過ぎ、物産館の前に出ると、写真の丑寅櫓が見えてきた。その櫓がある場所から二の丸になり、いよいよ城の中心は近くなってきた。

思いのほか小さい弘前城天守

 写真が、弘前城天守を正面から見たものである。三層構造のとても小さなものであるが、現存する木造十二天守のひとつで、司馬遼太郎は「日本七名城」のひとつだと述べている。

 本来の天守は五層の立派なものだったが、1627年に屋根の鯱に雷が落ち、火災が発生して焼失してしまった。1810年に辰巳櫓を改修して天守にした。それが現存するものなので、小さいのもやむを得ない。 

天守の内部

 内部は史料室になっており、往時に使われた籠などが展示してある。三階まで上がることは可能だが、階段は急で、かつかなり狭いことに驚かされる。

小型だが気品がある

 現在は石垣が補修されているため、本丸の中ほどに移動されている。補修完了後は、再び、その上に乗せられるので、本丸らしい姿に戻るのだろう。

 瓦は通常、粘土製のものが用いられるが、東北の厳しい寒さにあっては粘土では割れてしまう危険性が高いため、銅製の瓦が用いられているのも特徴的である、

 写真の角度から見ると、他の櫓とは出自は同じであっても、天守らしい意匠が随所に施されているため、規模は小さくとも気品を感じさせる美しい天守であることには間違いはない。

城内から岩木山を望む

 城内からは岩木山の姿が見て取れる。雄大、かつ秀麗な山と、小型であっても気高さのある天守との共演は、弘前の、いや津軽の宝であるともいえる。

岩木山神社(いわきやまじんじゃ)

岩木山神社に向かう

 「したたるほど真蒼で、富士山よりもっと女らしく、十二単の裾を、銀杏の葉を逆さに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮かんでいる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。」

 これは、太宰治の小説『津軽』に出てくる岩木山(標高1625m)への賛辞である。『富嶽百景』では富士山に対し、「富士には月見草がよく似合う」とか、「これでは、まるで、風呂屋のペンキ画である。」などと揶揄した太宰だったが、故郷の岩木山に対しては、これ以上ない褒めようである。

 私個人としても、日本にあまたある山の中では、この岩木山大菩薩嶺がもっとも好みで、この二つの山に触れると、何やら敬虔な気持ちになってしまうのだ。もっとも、富士山は太宰が腐すほどありふれた山ではなく、いろいろな角度から眺めると結構、異なった姿に見えるので、興味ある山のひとつなのだが。

 弘前城を離れた私は、次の目的地である岩木山神社に向かった。写真は、その道中から眺めた岩木山の姿である。裾野はなだらかでありながら、山頂に近づくにつれて急速に姿かたちは変化に富み、しかも、見る角度によってはまったく異なった山と表現して良いほど、無数の顔を有しているのだ。

 写真は弘前方向から眺めたものだ。太宰は『津軽』では「弘前から見るといかにも重くどっしりして、岩木山はやはり弘前のものかも知れないと思う一方、また津軽平野の金木、五所川原、木造あたりから眺めた岩木山の端正で華奢な姿忘れられなかった。」と記している。

 ただし、「西海岸から見た山容は、まるで駄目である。崩れてしまって、もはや美人の面影はない。」と評している。この西海岸というのは「鯵ヶ沢」のことである。

一之鳥居

 岩木山神社にやってきた。近くの駐車スペースに車を置き、まずはなかなか格調のある「一之鳥居」を眺めた。参道はまっすぐに岩木山に向かう。実際、この道は岩木山頂までの登山道の一つにもなっているそうだ。私の場合は本殿までたどり着くのがやっとなので、登山道まで行くつもりはもうとうなかった。

五本杉

 参道の脇には土塁が整備されており、一角に写真の「五本杉」があった。樹齢は500年とのこと。名前は五本杉だが、根はひとつしかない。根元で芯止めをしたために幹が5本に分かれたそうで、杉の姿としてはなかなかお目にかかれないものだ。高さは24mで、幹回りは7.85mとのこと。

巨大な楼門

 岩木山津軽の地の神の山、霊山であって、伝承では780年に山頂に社殿が創建されたそうだ。800年には坂上田村麿(さかのうえのたむらまろ)がこの山を整備して、山頂には奥院、山麓に下居宮を建造したと伝えられている。

 坂上田村麿といえは、初代の征夷大将軍として東北の蝦夷征討が有名だが、実際には今の奥州市水沢に胆沢城、盛岡市の南に志波城を築いただけで、津軽地方にはまったく足を運んでいない。

 遣唐使が皇帝に言い伝えたことによると、蝦夷は大きく三つの勢力があり、南の熟蝦夷は従順であったが、北の荒蝦夷はあまり従わず、さらに北方の都加留はまったく従う様子はなかったという。つまり、田村麿は現在の岩手県の南側を「攻略」しただけで、岩手の北側やまして青森にはまったく手を付けることはなかったようだ。身の程を知っていた田村麿はなかなかの知恵者でもあったようだ。それだからこそ、彼は津軽の人々にも愛されているのだろう。

 1091年には神宣によって下居宮を現在の地に遷した。かつての地には現在、巌鬼山神社が建てられている。下居宮の地には百沢寺(ひゃくたくじ)が田村麿によって百沢の地に別当院として建てられていた。

 1589年 岩木山の噴火によって下居宮や百沢寺は焼失したが、1603年、津軽為信によって再建され、その後も歴代藩主によって整備された。

 写真の楼門は、かつては百沢寺の山門として1628年に造られた巨大な建物で、高さは18m近くもある。上層部には十一面観音や五百羅漢像が安置されていたが、明治の廃仏毀釈によって取り除かれてしまった。

中門と拝殿

 楼門のすぐ先に、中門と拝殿がある。私はいつもの通り、参拝はしないので中門のすぐ手前から中の様子をあちこちと窺がった。はた目から見れば怪しい人物と思われそうだが、私自身はずっと以前からそうした姿で、寺社とは対面していたのであるから、たとえ、そう思われていたとしても特段のことを感じることはない。

 中門は切妻造りの四脚門で、かつては百沢寺の大堂(現在の拝殿)の門として建てられた。柱の黒漆塗りが特徴的で、拝殿の丹塗りとは好対照になっている。

 拝殿は百沢寺の大堂(本堂)として、1640年、第三代の津軽信義のときに完成した。外部は全面丹塗りで簡素に見えるが、内部は極彩色に意匠された部分もあり、なかなかの見応えだそうだ。真言宗の寺院らしく、密教寺院本堂のとしての佇まいを有しているようだ。

末社の白雲神社

 本殿の東側に、末社の白雲神社があった。祭神は多都比姫神(たつひひめのかみ)といい通称は「お滝さま」だそうだ。神社そのものよりも白雲大龍神の幟の数の多さに驚かされる。裏手の森は深く、さぞかし湿気の多いところのようなので、霧が白雲となってお岩木様を守護するのだろうか。 

手水舎の水

 白雲神社の裏手に滝があるが、その水もまた伏流水となり、写真にある手水舎のところから再び姿を現す。長い年月をかけて雪解け水や雨水が地下に染み込み、それが清らかな水となって龍の口から吐水される。

 手や体、心を清めるには最適な水かもしれない。もっとも、私はただ、写真を撮っただけだが。

異なる角度から岩木山を眺める

 岩木山神社を離れ、次の目的地に定めた大森勝山遺跡に向かうため、県道30号線を北へ進んだ。この道は「岩木山環状線」の名がつけられているように、岩木山の東側の裾野を取り囲むように造られている。なお、山の西側には県道3号線(弘前鯵ヶ沢線)があるので、岩木山をぐるりと一周できる道が整備されていることになる。

 360度、どの角度から眺めても岩木山は美しい表情を見せてくれるが、活火山らしく、近くで見るとなだらかに思えた裾野はそれなりに変化しており、山頂は富士山の天辺よりも遥かに起伏に富んでいる。それだけに、独立峰でありながらも極めて豊かな姿を人々の前に展観してくれているのである。

 岩木山神社は山の南南東に、大森勝山遺跡は山の北東に位置するため、私はいろいろな角度から、”お岩木山”の姿に触れたのだった。『帰ってこいよ』の歌は流さなかったけれど。 

◎大森勝山遺跡(国の史跡)

環状列石

 写真の大森勝山遺跡は、縄文時代晩期の集落遺跡であり、紀元前1000年頃まで集落として存在していたと考えられている。岩木山の北東側裾野から伸びる舌状台地(標高143~145m)の上にあり、とりわけ環状列石(ストーンサークル)がよく保存されている。

 祭祀に利用されたと考えられている環状列石は、盛土された楕円状のサークル(長径48.5m、短径39.1m)の上に77基の石組みが置かれている。この石は、近くを流れる大森川や大石川から運ばれたもので、大きさは1から3mの輝石安山岩である。また、250点以上の円盤状石も発見されている。

 また、その他の遺物として石鏃、石斧、石皿、土偶なども発掘されている。 

冬至の日には山頂に太陽が沈む

 環状列石と岩木山との間では、大型竪穴建物の跡が1棟見つかっている。

 冬至の日には。集落から岩木山を望むと、ちょうど夕日が山の頂に沈むそうだ。縄文人(もちろん、彼・彼女らが自称していたわけではない)が、あえてこの地に集落を構成した意味が私にはよく理解できる。

津軽富士見湖に立ち寄る

ため池に架かる”鶴の舞橋”

 北津軽郡鶴田町に、岩木山からの流水を集めた人造湖の「廻堤大溜池」があり、その愛称が「津軽富士見湖」と言うらしいので、立ち寄ってみることにした。人造湖とそれに映る津軽富士(岩木山)の姿を眺めるためであった。

 が、溜池には写真の「鶴の舞橋」と名付けられた木造の美しい橋があり、良い意味で、その偶然に感謝した。

 溜池は1660年に津軽藩第四代の津軽信政が新田開墾のために造成を命じたもので、現在でも、津軽平野の田んぼ約400haに水を供給しているという、なかなか価値の高い人造湖である。

 江戸時代には、この地に鶴が数多く飛来したという記録があり、なかでもタンチョウヅルがもっとも多かったそうだ。こうした田んぼに鶴がやってくるという光景から、この地は鶴田と名付けられたそうだ。なかなかドラマチックな名前ではないか。

丹頂鶴自然公園内の鶴

 湖の一角には「丹頂鶴自然公園」があった。現在では、丹頂鶴は北海道にしか飛来しないため、1997年にロシアからつがいを譲り受けて開園した。その後、この地で生まれたり、多摩動物公園から借り受けたりして、現在では10羽の鶴が飼育されている。

端麗な橋と岩木山

 鶴の舞橋は、樹齢150年以上の青森ヒバを利用し、三連のアーチを描いている太鼓橋で、この手のものとしては日本一の長さ(300m)を誇っている。

 もっとも、誇示するべきは長さではなく、その曲線の美しさであり、何よりもその先には美しさを極めた山が存在しているのである。どこかの知事やそのシンパが「万博リング」とかいう無駄金を使って木造の日よけ・雨よけを造っているが、どう工夫したにせよ、この橋の美しさには遥かに及ばないはずだ。

 偶然とは言いながら、やや遠回りしてこの湖に立ち寄った甲斐は十二分にあった。もっとも、ツアー客は結構な数が訪れていた。つまり、私がその存在をただ認識していなかっただけだったらしい。

◎亀ヶ岡石器時代遺跡を少しだけ訪ねる

遮光器土偶のモニュメント

 現在、東京国立博物館に所蔵されている左足のない大型遮光器土偶が発掘された(1886年)のは、つがる市木造にある「亀ヶ岡石器時代遺跡」からである。眼窩が誇張され、両目は顔から大きくはみ出している。これが、イヌイットエスキモーが使用するスノーゴーグル(遮光器)によく似ていることからそう名付けられた。

 その後は各地で同様のものが発見されているが、亀ヶ岡からのものが最初だったことで、この遺跡の名は全国的に知られるようになり、2021年に世界遺産に指定された「北海道・北東北の縄文遺跡群」のなかでは、三内丸山遺跡につぐ知名度があると思われる。

 なお、亀ヶ岡の地名は、由来のわからない甕(かめ)が数多く出土するところから、“かめがおか”と呼ばれてたことによるそうだ。

 写真はその遮光器土偶のモニュメントで、この背後の台地から無数の遺物が発見されている。この地は縄文海進の時代に古十三湖が誕生し、現在でも数多くの池や沼が周囲に点在している。

 海と砂浜と内陸を分かつのは、屏風山と呼ばれる砂丘である。この砂丘のために内陸から流れてくる多くの小川は出口を失い、内陸部に広い湿地帯を生んだ。それが広大な津軽平野を形成したのである。現在でも、十三湖から鯵ヶ沢まで約30キロもの長い砂浜が続いており、その海岸線は「七里長浜」の名称を持っている。

 なお、亀ヶ岡はその長浜の少し内部にあり、かつ、やや台地状になっているため、集落を形成するにはとても利便性の良い場所だったのだろう。 

発掘後なので看板のみ存在

 亀ヶ岡の遺跡群は発掘が終わって、すべて元の姿に戻されているので、写真のような看板があるほかはここが著名な遺跡なのだという面影はない。ただ、遮光器土偶のモニュメントと、プレハブの小さな小屋とトイレがあるのみだ。それゆえ、ここを訪れる大半の人は、モニュメントをバックに記念撮影をおこなうだけである。

 もちろん、近辺では発掘は禁じられているので、新発見を期待するのは断念すべきだろう。

 なお、土偶の足が欠けているのは、たまたまのことではなく、儀式に用いられるときに、あえて体の一部を切断して供えたからだと考えられている。そのため、完全な形で発見されることはとても少ないそうだ。 

農薬散布用ドローン

 亀ヶ岡にいてもとくに目に付くものはないので、この地からは早々に引き上げ、津軽平野の真ん中の道を通ってホテルのある五所川原市街へと向かうことにした。

 その途中で、ドローンが田んぼの上を飛んでいるのを見掛けたので、車を路肩に止め、しばしその様子を見学した。数分後にドローンを操縦している人が私のところにやってきた。そして、田んぼに農薬を散布しているのだということを教えてくれた。

 どの農家も人手不足なので、ドローンが使えるようになって随分と作業が捗るようになったとのことだ。そういいながら、その人はドローンを写真にように軽トラに積んでしまった。それまで、私はただ口を開けたままドローンが飛翔している様子を見ていただけで、撮影することをすっかり忘れていたのだ。

農薬散布中のドローン

 もう作業は終わりなのかと尋ねたところ、奥のにある田んぼで作業するために軽トラで移動し、そこでまたドローンを飛ばすというので、私は今いる場所で待つことにした。少しばかり(実際には結構長かったかも)話をしたあと、彼は作業のために軽トラに乗り込んで、奥の田んぼへ移動した。私は、ドローンが働く姿をここで撮影しますから、と告げ、改めて謝意を表した。

 私は350ミリのレンズをセットし、ドローンが飛び立つのを待った。彼はまず、目的の田んぼには農薬を散布せず、私が撮影しやすい場所までドローンを飛ばしてくれた。それが上の写真である。

 何とか合点のゆくカットが撮れたと思ったので、私は彼に大きく手を振り、さらに何度もお辞儀をした。彼もそれが分かったようで、ドローンを奥の田んぼの上空に戻し散布作業を再開した。

 私は車に乗り込み、窓を開け、そして何度か大きく手を振った。エンジンに火を入れ、私はその場をゆっくりと離れた。

 こうした、偶然の小さな出会いが、心を温かく、そして豊かにしてくれる。

立佞武多(たちねぷた)の館内を見学

高さ20m以上の立佞武多

 ホテルに戻る途中の道に、「立佞武多の館」という6階建ての建物があった。駐車場の係員に聞くと、立佞武多の展示場は午後5時までだとのことだった。時間は50分ほどしかないが、どのみち私の場合はそれだけあれば十分すぎるくらいなので、入館してみることにした。

 立佞武多のことは、耳にタコができるくらい、五所川原に住む知り合いの釣り人から聞かされていた。「一度は見にきてくださいよ」と何度も言われていたが、8月4日から8日の五日間で160万人もの人出があるらしいので、混雑が苦手な私には到底、無理な相談だと思えた。

 しかもその時期は、アユ釣りのハイシーズンなのである。

館の内部は1階から4階まで吹き抜け

 建物自体は6階建てで、それそれの階にいろいろな施設もあるが、1から4階の半分以上は吹き抜けになっており、そこに3基の立佞武多が置かれている。高さは23mもあるので、4階までの高さが必要になるのだ。

 ちなみに、下部には「漢雲」の文字があるが、これは雲漢と読み、「天の川」を意味する。ねぷた祭りの淵源は諸説あるらしいが、ひとつ確実なことは、「ねぷた」とは「眠気」を意味するということだ。

 夏の暑い盛りの畑仕事は眠気をもよおす。眠気を吹き飛ばすために”ねぷけ流し”の行事が行われるようになり、いつしか旧暦の七夕の日にお祭りが行われるようになった。その眠気流しの行事が、やがて冒頭の「ねぷた」の言葉だけが残り、伝統的な催事になったのである。

見事な細工

 「ねぷた」、または「ねぶた」は現在、青森市弘前市五所川原市で、いずれも八月の初旬に催されているが、五所川原のものはとくに「立佞武多」といって、山車の上に高い細工物が置かれているのが特徴的だ。他の地域では横に扇型に広がるものが造作されている。これは津軽藩の初代藩主の津軽為信の幼名が「扇」であったことから、扇ねぷたが一般的なのである。

 五所川原だけは理由は不明だが、高さのあるねぷたが造られた。明治から大正時代にかけては高さが十間(約18m)の山車が造られたそうである。しかし、市内では電化が進み、至るところに電線が張り巡らされたために、立佞武多の運行は困難になり、他の町と同様に扇型のものになってしまった。

 それが、1993年に立佞武多の設計図と写真が古家から見つかり、有志がそれをもとに立佞武多を作製し、96年には岩木川の河川敷で披露した。こうしたことから町中で立佞武多を運行しようという気運が持ち上がり、98年には五所川原市の支援の下、夏祭りで立佞武多が復活したのであった。

 なお、意匠には坂上田村麿をモデルにした武家ものが多いそうだが、上の写真のような女性を描いたものもある。

金魚ねぷた

 立佞武多は三基あり、例年、一基づつ更新される。お祭りでは、立佞武多のほか、写真の「金魚ねぷた」も登場する。なぜ金魚なのかは不明ながら、藩主が津軽錦という品種の金魚を大切にしたからだという説が有力らしい。

 なおお、立佞武多の館の5階にある「遊楽工房かわらひわ」では金魚ねぷたの製作体験ができる(有料)そうだ。また、金魚だけでなく、団扇の製作も行われている。

館内には3基の立佞武多が並ぶ

 写真のように、館には三基のねぷたが収められており、8月4日から始まる祭りの際には、大きな扉が開かれ、ここから立佞武多が出陣するのである。

 なお、立佞武多の製作には半年掛かるそうで、50のパーツを製作し、最後にクレーンを使って2日かけて組み立てるそうである。

 また、4~6月の紙貼りの際には一般の人も無料でその作業を体験できるとのことだ。もちろん、私はたとえ請われたとしてもその紙貼りに参加することは絶対にない。理由は簡単で、不器用だからである。

 私が加わったならば、その立佞武多は質の悪い佞武多になってしまうのは確実である。

 ともあれ、短時間ではあったが、この館に立ち寄ったことは意義深く、件の釣り仲間が、しつこく私に見学に来ることを勧めた気持ちが、今になって分かるような気がした。

〔102〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(4)大間崎、恐山、そして青森市へ

恐山の境内にあった石碑

佐井村願掛岩を訪ねる

国道の脇から願掛岩を望む

 仏ヶ浦を離れ、大間崎に向かった。仏ヶ浦駐車場は標高113m地点にあるが、それからしばらくはまだワインディングロードが続くものの、佐井村福浦漁港を過ぎたあたりから国道338号線は海岸線に沿って進むようになる。

 写真の「願掛岩」は何度も目にしていたはずだが、今までその存在はとくに気にかけていなかったようで、印象は極めて薄かった。が、今回は車を止めて観察してみたのだが、実際には相当に見るべき価値のある姿があちこちに存在していた。今まで、意識に上がってこなかったのは不思議というより、私がただ、迂闊なだけだったのだろう。

 ちなみに、右側が男岩、左側が女岩。男岩の方がやや高く標高は101mだ。

すぐ沖にあった柱状節理の岩

 願掛岩そのものも見応えはあるが、その手前の海岸線に点在している岩礁帯も見るべき価値は十分にあった。その代表が、柱状節理に満ち満ちた岩で、そのひとつひとつの向きが異なっていることから、大きな褶曲作用が働いて造られたことが分かる。

岩礁近くでコンブ漁をする漁船

 この浅い岩礁もすべて節理の姿がはっきり確認できる。表面が平らであることから人工的に切り取った可能性が高いが、そうした行為を行う必然性は感じられない場所にある。周囲には浅瀬が広がっているので、波食棚だとも思えるが。

 この不思議な岩礁帯の周囲にはコンブ漁?をしている漁船が幾艘も見られた。そのはるか先には陸地の姿がぼんやりとはしているが視認することができた。おそらく、津軽半島の姿だろう。

変化に富んだ岩礁が並ぶ

 これもまた柱状節理の姿が明瞭な岩礁だが、平らな部分は縦方向、一方、小山のような場所は横方向に節理が存在している。この小さな岩礁の中に、地球の表面の巨大な活動の痕跡が表現されていることには感動を覚えずにはいられなかった。

激しい褶曲があったことを示す

 願掛岩の近くには「佐井村がんかけ公園」が整備されており、駐車場もあったことからそこに車を止め、岩の姿をあちこちの方角から観察してみることにした。

 この岩は1000万年前に出来たと考えられており、岩質は流紋岩である。写真から分かる通り、各所に激しい褶曲の跡が見られる。

岩肌が見物

 流紋岩の岩肌が露出している場所では柱状節理が確認できる。こうした岩肌を見ているだけで、十分に満足できるため、私にはとくに願を掛ける事柄はない。

岩全体がご神体

 古くから神の宿る岩山として考えられていた。八幡宮の鳥居に鍵状の桜の枝を掛け、恋しい人への想いが叶うようにと願を掛けたという風習?があったことから「願掛」「鍵掛」といった名前で呼ばれており、現在は「願掛岩」の名前が定着している。

◎まぐろの町、大間崎を訪ねる

大間発北海道行きフェリー

 大間崎のフェリー港には、大間崎と函館港とを90分で結ぶ「大函丸(たいかんまる)」が停泊していた。このフェリーは1964年に就航した。長さ91m、1912トンのサイズで、一日二往復している。

 私は大学生のとき、友人と3人で北海道を一か月かけて車で巡り、帰りに函館からこの大函丸に乗って大間崎にやってきた。1929年に就航した歴史のある航路ということで「ノスタルジック航路」と運営会社が呼んでいるが、確かに私にもノスタルジーを感じさせるフェリーであった。

ここが下北半島の最北端

 大間崎は下北半島最北端、ということは本州最北端の地である。ただし、津軽半島最北端の龍飛崎のような哀愁を感じるような風景が展開されている訳ではない。それは、尻屋崎の項でも記したように、この岬の標高は3mほどしかないからであろう。

 大間といえば、現在では「まぐろの一本釣り」の町として全国的に知られている。例年、築地市場のマグロの初競りといえば、大間産のものが定番になっており、2019年には278キロの本マグロが3億3360万円で競り落とされた。ちなみに、2023年は212キロのものが3604万円であった。ここでも、日本経済の凋落が露呈している。

大間崎沖に浮かぶ弁天島

 大間崎には灯台はなく、600m沖合の弁天島に1921年に竣工したものが建っている。これは岬と島との間に「クキド瀬戸」という速い潮が走っていることから、島側に建設したのだろう。

 弁天島の名前はもちろん、島に弁才天が祀られているからであろう。弁才天は水の神なので、航海の安全を祈願する重要な存在なのである。しかし、現在では商売繁盛の神にもなっていることから弁才天ではなく弁財天と記されることがほとんどだ。確かに、大間では一匹数千万円もするマグロが釣れるので、安全よりも商売が優先されるのは致し方ないことかも。 

土産物店にはお年寄りがいっぱい

 大間崎周辺は観光地化しており、数多くの土産店や売店、食堂などが並んでいる。写真は、大間崎のモニュメントから一番近い場所にある土産店で、お金があって時間もあるお年寄りが土産品を買い漁っていた。

タコの足を焼いたものが多く売られていた

 一方、駐車場近くには小さな食堂や売店があった。店の人が焼いているのはタコの足で、結構な値段で売られていたため、私は購入には至らなかった。

 食堂ではマグロ定食が定番になっていると思われるが、昼食をとらない私には無縁の存在であった。大間に出掛けてもマグロを食べない。これは鮎を釣っても食べないし、先日は磯で型の良いイサキがたくさん釣れたが、全部、知人にあげてしまった。

マグロ漁の基地、下手浜漁港

 大間崎の東側に、写真の下手浜漁港があった。晩秋からは大型の本マグロを狙って一本釣りの船が多数出向し、一獲千金を夢見るのである。一方、私がありつけるのはせいぜいのところ、回転ずしのマグロぐらいである。

◎薬研温泉に立ち寄る

かつての賑わいは無かった

 大間崎を離れ、国道279号線を南下して、次の目的地とした「薬研(やげん)温泉」に向かった。むつ市大畑町に入ると、大畑川の流れが見える。その川の左岸側に沿って県道4号線を西に進むと、薬研温泉地区に到達する。

 薬研温泉は、大間崎のところで触れたように、大学生1年生の秋に秋休みを利用して小中学校時代の友人らと3人で北海道を約一か月掛けて車で旅をして、帰りは礼文島で知り合ったヒッチハイカーを2人加えて5人で札幌に至り、そこで一人を下ろし、4人で函館に出て、フェリーで大間崎に着いた。その道中で宿を物色したところ、薬研温泉の存在を友人が見つけたので、公衆電話で予約を取ったのだ。

 友人が薬研温泉に宿を決めた理由は実に明瞭至極で、その温泉地はすべてが混浴だったからである。思えば、北海道の温泉旅館も大半は混浴であった。友人は、現在ではアメリカンフットボールの不祥事で一層、名前が知られることとなった大学に在籍していたが、大学に通うのは年に10日ほどであったが、留年することなく3年生になっていた。一方、フーテン生活をしばらく送っていた私は彼より二年遅れて大学に入ることにしたので、まだ1年生だった。

 彼は大学には通わず、テレビ局などでアルバイトをしながら、ひたすら風俗の世界を探求していた。卒業後は風俗専門のライターを目指していた。それゆえ、宿泊地を決める基準は常に混浴であるか否かが最優先事項だったのである。

 そんなことを半世紀以上を経て思い出したことから、直接、恐山を目指さず、薬研温泉に立ち寄ってみた次第だった。

奥薬研には足湯場だけが存在していた

 私たちが宿泊したのは県道4号線よりもさらに奥にあった「奥薬研温泉」の旅館だったため、その地を訪れてみたのだが、旅館はまったく存在しておらず、ただ、写真の足湯場と、2か所の露天風呂があるだけだった。その露天風呂は最近までは混浴だったらしいが、現在はそうした風習はなくなってしまったとのことだった。

 ひとつ上に写真にあるように、薬研温泉地区には結構、大きなホテルがあったのだが、それも現在は閉鎖され、今では小さな旅館が一軒だけ残っているにすぎないが、そこすら、営業しているかどうかは不明だ。

 この場所に温泉があることは、恐山を開いた慈覚大師円仁が、この地で怪我をした際にカッパに運ばれて温泉で傷を癒したという伝説があるように、相当に古くから一部の人には知られていたようだ。そんな由緒ある場所も、現在では廃墟になりつつある。時の流れは、場合によっては深い哀愁を誘うことがある。

◎恐山を2回訪ねた~お参りはしないけれど

正津川は「三途の川」とも呼ばれる

 薬研温泉を離れた私は、県道4号線を下って恐山には北方向から入ることにした。薬研から恐山まで約15キロの間、車には一台もすれ違わなかった。道はかなり荒れており、落石も多く路上に転がっていた。途中では雨が激しくなってきたので、この道を選んだことを後悔していたが、その一方、次第に空気が硫黄の臭いを有し始めると恐山が近いことを感じらるため、選んだのは必ずしも不正解であったとは思えなかった。

 正津川に近づくと深い森が途切れ、あの独特な景観を有した恐山の姿が見えてきた。強い硫黄分が森を枯らしてしまうことから、その地だけ緑が消失するのである。

奪衣婆と懸衣翁

 正津川(三途の川)が宇曽利山湖に流れ込む場所の左岸側にあるのが、写真の奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)の像。今までその存在に気が付かなかったので、新しく建てられたのかもしれない。

 奪衣婆は三途の川で亡者の衣服をはぎ取る老婆の鬼で、衣領樹の上で待つ懸衣翁に衣服を渡す。衣領樹に掛けた衣服の重さによって生前の業が現れ、枝の曲がり具合で罪の大小が計られる。この二人?が、人が死んだあとに最初に出会う冥界の官吏である。

三途の川と太鼓橋

 写真の太鼓橋(反り橋)は三途の川に掛けられたもので、この橋を渡ると人は冥界に入る(実際には地獄?)ことになる。この日は修理中だったようで、歩いて渡ることはできなかった。もっとも、私の場合(ほとんどの人も同様だか)はこの橋のすぐ上流側に架けられた県道4号の橋を渡って、恐山の駐車場を目指した。

総門

 ”地獄の沙汰も金次第”と言われるが、恐山に入るには総門の右手にある受付で入山料500円を払う。とりあえず、境内の地獄を覗くのには一律の料金(個人の大人の場合)で済む。私のような罪深い存在であっても善良な市民と同様な金額で済むのは、恐山の鬼たちも意外に優しいようだ。

 半世紀前、薬研温泉に宿泊したのは、この恐山に寄るためでもあった。風俗ライター志望の友人は、その地では心霊写真を撮るのだと張り切ってシャッターを押していた。北海道旅行中はどんなに雄大な景色、心身が温まるような風景に接しても滅多に写真を撮ることはなかったにもかかわらず、恐山では撮影に夢中になっていた。

 彼は帰宅後すぐに写真屋に行き原像を頼んだのだが、数日後、がっかりした姿で私の家にやってきて、おどおどろしい写真は何もなかったと肩を落としていた。彼については、実は小学校の時からそう思っていたが、この日に、やはり彼は正真正銘のバカ者であると100%確信した。もっとも、そんなことは小学生の頃から知ってはいたが。

 バカは死んでも治らない!

総門から仁王門に至る参道

 恐山の開基は円仁(794~864、慈覚大師)とされている。下野国の出身であるためか、関東や東北地方には円仁が開基したと言われる寺は数多くある。すでに触れた中尊寺や、いずれ触れることになる立石寺がそうであり、松島の瑞巌寺も開基者になっている。また、遣唐使として中国に渡り、『入唐求法巡礼行記』という旅行記を表わしたことでもよく知られており、第3代天台座主も務めている才能豊かな人物であったようだ。

本堂

  恐山の名を聞くと、ほとんどの人は「イタコ」を連想するが、実際にイタコがこの地に集まるようになったのは大正時代の終わりごろからなので、まだ百年程度の歴史しかない。しかも、イタコがこの寺に集まるのは夏と秋の例大祭(通算7日)のときがほとんどで、境内に常駐している訳ではない。恐山としては、イタコがこの地で活動することを黙認しているだけで、この寺に所属しているのではない。したがって、イタコの口寄せを見物する、あるいは実際に行ってもらうためには、例大祭の日にこの地に立ち寄るのが確実だ。私自身、恐山には10回ほど訪れているが、イタコの姿を見たのは一度しかない。

本堂前の石灯籠や石積み

 イタコは東北地方の呼び名で、イタコと同じ活動をしている巫女の姿は日本全国で目にすることができるが、地域によって呼び名が異なっている。

 盲目もしくは弱視の女性の職業のひとつで、降霊術をおこなう。死者の霊がイタコに憑依するので、彼女が語る言葉は死者のものであり、これを口寄せという。私も一回だけ見物したことがあるが、強い東北弁の訛りがあるため、ほとんど何を語っているのかさっぱり分からない。しかし、口寄せを依頼した当事者(遺族)にとっては、イタコの口から出る言葉は身内だった者の言葉として理解、納得できるようだ。

 イタコが発する言葉が、事実であるかどうかはまったく問題ではない。遺族がその言葉をどう受け止めるかが重要なのであって、ありていに言えば、中身はどうでも良いのだ。大事なのは、死者が遺族の心の中に一時的に蘇るという事象が重要なのであろう。

塔婆堂横の卒塔婆

 もともと、下北半島にはイタコはほとんど存在していなかった。東北地方の紀行文を数多く残した菅江真澄は、1793年に恐山に立ち寄り、『奥の浦うら』にそのときのことを記しているが、イタコについての話はまったくない。

 東北地方では、津軽地方でイタコの活動が盛んであった。1920年に大湊線が開通し、津軽から下北までの交通の便が良くなった。そこで、イタコたちは恐山の地蔵会(じぞうえ)に参加するようになり、いつしか、恐山での活動が有名になり、あたかもこの地が「本場」であるように人の目に映るようになったのである。

 津軽のイタコにとって、恐山は重要な出稼ぎの場となったのである。ちなみに、現在の相場は一人、1時間で4000円前後とのこと。仮に父、母、兄の3人の口寄せをするとなると1時間で12000円となる。出稼ぎとしては悪くない仕事である。

 が、高齢化が進んだ現在では、イタコの数が激減しているようで、いつしか、その存在は伝説になってしまうかもしれない。

仁王門

 写真のように、仁王門(山門)はかなり立派なものである。恐山の本坊は円通寺曹洞宗)で恐山はその菩提寺として位置づけられている。院代の南直哉(みなみじきさい)氏が相当な「やり手」であるため、若い人が恐山を訪れることが多くなった。彼は数多くの書物を出版しているが、若者にも理解しやすいような仏教解説書を何冊も出している。そのことが、恐山の認知度を高めているのだろう。

 今どきの若者は私よりも遥かに信心深いたため、実際、この地では年配者よりも若い人の姿を多く見掛けた。心霊スポットという興味本位の人も多いのだろうけれど。 

恐山温泉の男湯

 恐山の境内には4つの温泉がある。「古滝の湯」「冷抜の湯」「薬師の湯」「花染の湯」と名付けられており、かつてはすべて混浴であったが、現在は、「花染の湯」以外は別浴らしい。

 写真は「薬師の湯」で、こちらは男湯である。入山料さえ払っていればこの湯には無料で入ることができる。もっとも、温泉にはほとんど興味がない私は、わざわざ湯に浸かる気持ちはまったくなかった。

恐山温泉の女湯

 参道の左手にあるのが女湯で、左側が「古滝の湯」、右側が「冷抜の湯」である。

 ちなみに、恐山には宿坊の吉祥閣があり予約すれば誰でも宿泊することができる。私は硫黄臭いのは我慢できないので、例え頼まれても宿泊する気にはなれない。その宿坊の右手に混浴の「花染の湯」がある。

地蔵殿

  仁王門の先に、本尊の地蔵菩薩が納められている地蔵殿がある。この裏山に奥の院があり、不動明王が安置されているが、雨で道がぬかるんでいたために、そこまでは行かなかった。

無間地獄入口

 恐山が心霊スポットなどと称されている所以は、境内の北東側に広がる割れた火山岩の山や岩の隙間から水蒸気や火山性ガスが噴き出ている異様な風景からであろう。確かに荒涼としたガレ場、きつい硫黄の異臭がする場所は、確かに恐ろしさを感じさせる場所である。半世紀ほど前はもっとガスが噴き出ていたという記憶があり、「無間地獄」に例えてもあながち見当外れとは言えない雰囲気を醸し出していた。

 が、近年では水蒸気や火山性ガス、硫黄臭はやや薄れているようで、いずれは地獄の言葉は適さなくなるかもしれない。

大師堂、宇曽利山湖、大尽山を望む

 写真は、無間地獄を少し進み、やや高い場所から大師堂、宇曽利山湖、そして恐山の最高峰である大尽山(おおづくしやま、標高827m)を望んだもの。ここからの景色は、地獄というよりもある種の美しさを感じてしまうほどだ。

 恐山は、ハート型をした宇曽利山湖を囲む八つの山の総称で、恐山という名の山はない。これは、八ヶ岳という山がないのと同様である。実際にはもっと多くの峰があるはずだが、あえて八つとしたのは、八葉の蓮華を例えたからだろう。

大師堂

 大師堂に立ち寄ってみた。もちろん、ここでいう大師は、この山を開いたとされる円仁・慈覚大師のことである。われわれは大師と聞くとすぐに空海を思い浮かべるが、それはミスターと聞くと長嶋茂雄を、メガネの間抜け野郎と聞くと岸田首相を連想するのと同様で、実際にはミスターは無数にいるし、メガネの間抜け野郎も国会内外にはたくさんいる。

 大師は天皇が高僧に授けた諡号で、日本には25人いる。最初の大師は伝教大師最澄)と慈覚大師(円仁)の2人である。また、法然は9つの大師号を授けられている。

 ちなみに、私は大師と聞くとマグマ大師とすぐに言いたくなるが、あれはマグマ大使であり、しかもそれは仏教とはまったく関係がなく、地球を救うために造られた人造人間である。

大師像

 円仁という人は、とても心優しい人柄であったと言い伝えられている。写真の像にもその心性がよく表現されている。最澄空海のように偉そうな感じがしないのがとても良い。

大平和観音像

 大平和観音像と永代無縁碑が並んでいた。ロシアのウクライナ侵略、そしてイスラエルパレスチナ紛争と、平和とは程遠い厳しい状況が続いている。出口はまったく見えず、場合によっては戦争が拡大する危険があり、関係者の中には核使用の声をあげる人物さえ増えてきている。

 こうした戦争で、真っ先に被害を受けるのは名もなき市民である。写真のように、平和を祈る像と無縁碑は一体となって、地上からも地下からも戦争終結の声が上がっている。

 されど、人間の歴史を見ると、平和が続いている状態は稀で、戦争の一時停止が平和であるに過ぎない。そう考えると、人類の歴史はそろそろ終末期に入っているのかもしれない。

八葉地蔵菩薩

 境内の西北端に建造されたのが八葉地蔵菩薩。先に触れたように八葉とは蓮華を表わし、泥沼から出て汚れることなく美しく咲く蓮の花は、仏陀の存在を象徴している。

慈覚大師座禅石

 八葉地蔵菩薩像のすぐ近くには、写真の座禅石があった。円仁はこの石の上で何を悟ったのだろうか。私が思うに、一切皆苦と無常無我という真理とともに、苦しむ衆生の救済であろう。

木に吊るされたワラジ

 木々には、写真のようなワラジがアチコチに吊るされていた。死出の旅に出た故人のために、お参りに来た人々が残したものである。

木に吊るされたタオル

 写真のタオルや手ぬぐいも同様で、故人の旅路には苦労が多いだろうから、汗をぬぐうためのものを枝に掛けたのである。これは死者への思いやりと同時に、自分もいずれ旅立つことは必然なので、自分自身のために用意したのかもしれない。

 恐山には、ワラジやタオル以外にもいろいろなものが林に置かれている。寺としては、こうしたものを置くことはまったく禁じていないし、撤去することもない。他の寺では許されそうにないことでも、ここでは格別に迷惑にならないものでない限り、黙認している。こうした点に、私は大いに共感するため、恐山に何度も足を運ぶのである。

木の下にはたくさんの小地蔵や飲み物や賽銭が

 木の根元には、小さな地蔵像や飲み物、賽銭などもたくさん置かれていた。また、積み石もあり、一見、雑然とした感じを受けるが、これもこの寺ならではの光景である。

 曹洞宗の寺なので、自力難行を旨とするはずではあるが、こうした大衆的な行為もまた受け入れている。

血の池地獄

 名前は「血の池地獄」となっているが、池の水はかなり澄んでいるので、その命名にはやや違和感を覚える。かつては硫黄分を多く含んだ水がこの池に流れ込んでいたので、水は血のような色をしていたのかもしれない。

東日本大震災供養塔と休憩所

 宇曽利山湖畔にでた。この辺りは極楽浜と名付けられている。地獄には不整形の石や岩が無数にあったが、この浜はそれらが湖の波で磨かれているため、浜辺は小石や砂で覆われている。

 右手にあるのは「東日本大震災供養塔」。左手には簡易休憩所。周囲には積み石があり、それらには風車が差されているものも多い。

 恐山ではあちこちで風車を見掛ける。これは風向きを知るにはベストのもので、かつては亜硫酸ガスが相当に多く噴き出ていたため参拝者の中にはガス中毒になる人も結構、多かったらしい。そのためもあって、風車が多用されているのである。

無縁仏のための石積み

 祀ってくれる人がいない場合の死者を無縁仏というのなら、私を含め、大半の死者は無縁仏になるだろう。写真の石積みは、そうした無縁仏を不特定の人が弔うためのものだそうだが、私に限って言えば、とくに祀ってもらおうとは思わないので、無縁の存在だ。というより、死んだらただ無になるだけなので、無縁であろうがなかろうが仏になることもない。

 とはいっても、こうした場所に立つと、私のような無信心者であっても、敬虔な気持ちにはなる。いずれ死んで行く大半の無名者に対し、幾ばくかの共感の気持ちがあるからかもしれない。

極楽浜と宇曽利山湖と大尽山(おおつくしやま)

 白砂に敷き詰められた極楽浜、強酸性のカルデラ湖である宇曽利山湖は光が差したときはコバルトブルーに輝き、その向こうに見える大尽山の存在。恐山にではもっとも美しい景色のひとつだろう。

胎内めぐり入口

 極楽浜から山門に至る「道」には「胎内めぐり」の道標が掲げられていた。この先がある種、もっとも恐山らしい景観が広がっている。すなわち、水蒸気や亜硫酸ガスが多く噴き出している場所である。

石の上に置かれた数珠

 「地獄」を思わせる場所であっても、写真のような光景に触れると、心は安らぐものである。

重罪地獄

 重罪地獄と名付けられた場所は、水蒸気やガスが多く噴き出ている場所で、極めて硫黄臭い場所だ。それでも、以前に訪れたときよりはずっと噴気は小さくなっている。

金掘地獄

 金掘地獄の名称の由来は不明だ。恐山の地下鉱脈には多くの金鉱が眠っているらしい。その一方で、硫黄分も非常に高い場所なので、コストの面から採掘はおこなわれていないとのこと。

 それゆえ、この地獄は、重罪を犯した死者が金の採掘に割り当てられ、金を掘りだせずに硫黄成分に苦しみ続けるところなのかもしれない。

 昨今は、金の亡者がどんどんと数を増しているので、この地獄は遠くない将来、満杯になってしまうかもしれないと考えられる。

あちこちから噴気が上がっている

 こうして、少し離れた場所から金掘地獄周辺を眺めてみると、減少したとはいえ、やはり噴気の量は相当に多い。こうした姿に触れると、心霊写真を撮影したくなる気持ちも分からなくはない。とはいえ、そんなものはただの錯覚に過ぎず、いわゆる地獄は、日常生活の中に常に存在している。

来年もまた訪れる予定

 帰宅後に、こうして恐山関連の写真を整理すると、まだまだ立ち寄っていない場所が数多くあることに気付いた。イタコの存在はともかくにして、恐山巡りはとても「楽しい」ので、来年もまた、訪ねてみようと考えている次第だ。鬼には笑われるかもしれないけれど。

◎ここも横浜

かなり立派な横浜町の漁協の建物

 恐山を離れ、私は次の目的地に考えていた夏泊半島に移動するために下北半島の付け根部分を南下した。

 その途中に「横浜町」があったので、少しだけ立ち寄った。そういえば、山陰の旅に出掛けた際にも「横浜」の名の場所に出掛けた。ことほど左様に、横浜とはありふれた地名なのである。

 横浜にはやや大きめの漁港があり、写真のような立派な漁業組合の建物があった。その名の通り、横浜は南北に長い砂浜海岸が陸奥湾側に続いている。西からの波を避けるように、長い沖堤防が横たわっており、また陸地の護岸や突堤も長い距離、整備されている。

 横浜漁港の名産品としてはナマコがよく知られ「横浜なまこ」として地域ブランドになっている。が、近年は水揚げ量が減少の一途をたどり、消滅の危機にさらされているようだ。気候変動は、こうした海の生き物にも大きな影響を与えている。

壁のいたずら書きは「よこはま」を強調!

 堤防の壁面では「横浜」を強調する落書きが多く書かれていた。「ヨゴハマ」の文字が東北らしさを感じさせる。この地の人と話す機会はなかったが、来年は是非とも話を伺って、「ヨゴハマ」が東北の訛りなのかどうかを確認したい。

 ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく (啄木)

夏泊半島を初めて訪ねる

半島の先端部東側の浜

 陸奥湾の中央部に青森側から突き出しているのが夏泊半島だ。その優雅な名称から、いつかは巡ってみたいと思っていたのだが、実際に訪れたのは今回が初めてだった。

 夏泊の名は小さい頃から知っていたが、少し興味を抱いたのは内田康夫の『夏泊殺人岬』を読んでからのこと。もっとも、内田の作品としては初期に属し、まだ「浅見光彦シリーズ」の前だったこともあり、私を惹きつけたのは名称だけで、それ以上の興味は湧かなかった。

平内町のホタテの養殖は日本有数

 半島は山がちなので、半島を取り巻く道路(県道9号線、夏泊ホタテライン)を走ることがメインとなる。陸奥湾の真ん中に位置するため、半島の東側を野辺地湾、西側を青森湾と呼ぶそうだ。東側には、椿山という椿の名所があり、7000本のツバキが開花したときはさぞかし美しいだろう。なお、この地がツバキの北限とのことだ。

 先端に近づくにつれ、東側の浜はひとつ上の写真のように浅い海岸線が続くようになる。周囲は公園になっており、そこに車を停めてしばらく海岸線を散策してみた。

 そこで目に入ったのが写真の「ほたて養殖・顕彰碑」だった。ここでは1960年頃から養殖事業が開始され、現在では、半島のある平内町は日本有数のホタテの水揚げ量を誇り、何度も日本一になったことがある。

 ただし、ホタテだけでは町民の所得を飛躍的に増やすわけにはいかず、町民所得の平均は全国平均の3分の2程度である。同じ頃にホタテの養殖を始めた北海道の猿払村が、貧乏村から日本有数の金持ち村に変貌(ホタテ御殿が並ぶ)したのとは勝手が違うようだ。

東浜から先端部にある大島を望む

 半島の先端部に近い場所から海を眺めると、比較的大きな島の姿が視野に入ってきた。そこで、私は車に戻り、先端部まで出掛けてみることにした。

大島へは橋で渡ることができる

 半島の先端と大島との間には長さ200mの大島橋が架けられていた。周囲約3キロの大島は、自然の宝庫(とくにカタクリが有名)と呼ばれているので、遊歩道以外の場所に立ち入ることは禁じられているそうだ。

 以前は、島との間に砂州が延び、大島は陸繋島であったが、やがて浸食されて砂州はその面影を残すばかりで、現在は干潮時でも橋を使って渡るしかないそうだ。

 ここからは見えないが、島の先端部には「陸奥大島灯台」が建っているとのこと。

青森市街に到着

青函連絡船は今何処

 青函連絡船は1988年にその役目を終えた。その後は道南自動車フェリー(東日本フェリーのグループ会社)が2000年から旅客輸送を開始し、08年に東日本フェリーから完全に青森・北海道間のルートを引き継ぎ、09年には名称を津軽海峡フェリーと改めた。

 写真は、「ブルーマーメイド」(8820トン)なので青森と函館を結ぶものではなく、青森・室蘭間を担当している。「ブルードルフィン」(8850トン)「ブルーハピネス」(8851トン)「ブルールミナス」(8828トン)の三隻が青森・函館間を担っており、現在では一日六往復している。

 大間で見た津軽海峡フェリー(大函丸)とは異なり、やはり利用者が多いことからかなり大きめの船舶が使われている。

フェリー港には釣り人が多くいた

 思えば、私は今まで5回しか北海道には渡っていない。その理由は明白で、北海道には寒流系の魚がほとんどだし、アユも道南の一部に生息しているだけなので、北海道に行く理由がないのだ。

 1回目は修学旅行、2回目は上に何度も挙げている友人との旅、その他3回は「行かされた」旅行だった。青函連絡船は1回目だけで、2回目は青森・室蘭、3回目以降は飛行機利用だった。6回目があるかどうかはまだ検討中だが、行くとすれば津軽海峡フェリーを使うことになるだろう。

 しばらくはフェリー港で船を眺めていたが、その東にある空き地に釣り人が並んでいたので、少しだけ見物していたが、釣れている様子はまったくなかった。

翌日はやっと晴天に恵まれた

 下北の旅を終えた私は、今度は五所川原に3泊し、津軽半島青森市街、岩木山弘前城などを巡ることにした。

 写真のように、青森市内の「三内丸山遺跡」も見学した。本当は、フェリー港の次に立ち寄ったのだが、生憎の休館日だったため見学は叶わず、日を改めることにして、この日は五所川原の宿に向かった。

ホテル内から眺めた岩木山

 五所川原では最上階の角の岩木山側の部屋を取った。私には、岩木山は富士山以上に美しい山に思えた。

〔101〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(3)寺山修司記念館、尻屋崎、仏ヶ浦などなど

 下北半島の北東端に立つ尻屋崎灯台

八戸港にあった建物

 蕪島から次の目的地である「寺山修司記念館」に行くにはどうしても八戸港を通過しなければならない。この港は619haの敷地を持ち、東北では仙台塩釜港に次ぐ大きさである。広いことが特徴的な港だけにとくに立ち寄りたい場所はなかった。
 写真の建物は港湾施設の構内にある道路を走っていたときに目にしたもので、おそらくマルヨ水産の倉庫なのだろう。この道には倉庫らしき建物が数多く並んでいるので、それ自体は格別に特徴があるものではないのだが、壁に書かれた「かもめちくわ」の文字が気になったのだ。

 冷静になって考えれば「カモメ」を原材料としたちくわなどあるはずはないのだが、少し前に蕪島で無数のうみねこ(カモメ科カモメ属)を目の当たりにしたことから一瞬、あのうみねこが原料にされたのかと思ってしまったのだ。

 実際は、スケトウダラのすり身が100%使われているちくわで、DHCやハチミツが加えられて製造された「かもめちくわ」という商品の名前であった。考えてみれば、いや考えなくともカモメを原料とした食べ物などあろうはずがないのだが。それだけ、蕪島の光景が印象的だったのだ。

寺山修司記念館に立ち寄る

小川原湖畔に立つ記念館

 小川原湖下北半島の付け根付近にある汽水湖で、湖の大きさとしては日本で11番目である。もっとも、全国にある湖としては、その大きさに比して知名度はかなり低いだろうと思われる。ちなみに、私は上位25位までの湖はすべて訪ねているが、印象度はこの小川原湖がもっとも低い。実際、下北半島に出掛けるときは国道338号線か394号線を利用するが、そのどちらを使っても小川原湖がチラリと見えるのだけれど、わざわざ車を止めてまでその湖を眺めてみたいとはさして思わなかった。見物時間は数分程度が一二度あった程度。回数すら記憶にないほど印象は薄かった。

 小川原湖はワカサギ、シラウオヤマトシジミの水揚げ量が多いことで一部の人に知られているが、南側に自衛隊三沢基地や米軍基地があることがもっとも話題になる事柄かも知れない。自衛隊や米軍が事故を起こす際に、小川原湖の名が何度か登場したからである。今日では、米軍が排出する有機フッ素化合物(特にPFOSとPFOA)が話題になるかもしれない。

 今回、小川原湖畔を訪れる契機となったのは、湖畔に「寺山修司記念館」があることを知ったからである。記念館は1997年に開館しているので、私が寺山修司についてさほど関心を抱いていなかったことが、その存在を認知しなかった最大の理由だろう。

記念館の入口

 国道338号線を北上し、途中から県道170号線に移る。その道をさらに北に進むと、左手に「青森県立三沢航空科学館」がある。そのすぐ西側に三沢基地があることから、航空機好きの人々が集まることだろう。私の場合は特に関心はないのでそこは通り過ぎ、「三沢市民の森」に向かった。その敷地の一番北外れに記念館がある。

 平日の昼間だからか、場所が辺鄙だからか、寺山修司に対する人々の関心が年が経るにつれて薄くなっているからか、訪問者は私以外にはひとりだけしか居なかった。

舞台のセットその1

舞台のセットその2

 寺山修司が主宰した「天井桟敷」は唐十郎の「状況劇場」とともに60年代半ばから始まったアングラ演劇ブームをリードした。知人にはこうした流れに乗ってその世界に足を踏み入れた者もいたが、私はそもそも演劇というものにはまったく無関心だったため、アングラだろうが正統派だろうが、そちら方面に目が行くことはなかった。

 本ブログでは何度も記しているが、そもそも私は客席に落ち着いて座ることができない性分なので、集中して何かを見物するこということができず、いつも学校の友人と授業をさぼっては、あちこちを歩き回りながら馬鹿話に花を咲かせていたのであった。

 ただ、若松孝二の映画が好きな友人がひとりいたので、彼に誘われて映画館に入ったことがあったものの、相変わらず席に座り続けることができなかったことから、食い入るようにスクリーンを凝視していた友人を尻目に、館内をただうろつきまわるだけだった。少年時代には植木等主演の映画は何度も見たけれど。

 寺山修司の存在をはっきりと認知したのは、フォーク・クルセダースの『戦争は知らない』(1968年)からだった。これは前年に坂本スミ子が歌っていたのだが、多くの人に知られるようになったのはフォークルが歌ってからのことだろう。

 「野に咲く花の名前はしらない、だけども野に咲く花が好き」で始まるこの歌は「反戦歌」に位置付けられているが、そうした枠に閉じ込められない抒情的な詞に私は心を打たれ、そのときに初めて寺山の存在を意識したように思う。

私の知らない寺山の姿がたくさんあった

 寺山修司(1935~83年)は青森県弘前市紺屋町に生まれ、戦争中や戦後は現在の三沢市に住む。父は戦病死し、母は働くために福岡の米軍ベースキャンプに移ったため、彼は青森市の大叔父の家に引き取られた。

 中2のとき、友人の影響で俳句、詩、童話を創作するようになる。県立青森高校では1年生のときに全国学生俳句会議を結成した。

 1954年、早稲田大学教育学部に入った。そこで、私がもっとも高い評価をしている脚本家の山田太一と同窓になった。手紙魔と言われた寺山は、後で紹介するように山田とはよく手紙やはがきでやり取りをおこなっていた。

 学生時代に短歌作りに没入するようになり、『短歌研究』編集長である中井英夫から高い評価を得るようになった。

 57年からドラマの脚本を書き始め谷川俊太郎に認められたことから人脈が広がり、60年頃から浅利慶太篠田正浩の劇や映画の脚本を書くようになった。

ポスターの数々

 63年には『現代の青春論』と題して「家出のすすめ」をまとめた。64年にはNHKの放送詩劇『山姥』によりイタリア賞グランプリを受賞に注目を浴びた。そして67年に横尾忠則らと「天井桟敷」を結成した。

 先に触れたように、私が寺山修司に着目したのはフォークルの『戦争は知らない』の詞だったが、その後、67年に出版されていた『書を捨てよ、町へ出よう』を目にしたことで、ますます彼の存在が気になった。されど、演劇にまでは関心は至らなかった。

 それゆえ、写真に挙げたポスターの作品名は知っていたものの、実際に観賞したものはひとつもない。69年にカルメン・マキが歌った『時には母のない子のように』や六文銭の『さよならだけが人生ならば』の歌詞だけで彼の才能は十分に理解できた。

 70年代に入ると、私の関心は藤圭子と『男はつらいよ』に移り、また、車で各地を徘徊するか、ボーリングやパチンコに夢中になり、寺山の存在はほぼ完全に関心の外になってしまった。

寺山の詩

 今回、寺山の歌や詩に久し振りに触れてみて、改めて彼の才能の高さを再認識した。上にある詩は分かりやすさと奥深さが同居しており、誰もが作れそうに思える半面、いざ文章にしてみるとほとんどの場合、凡庸なものにしかならないと思える。

 詩だけでなく彼の評論の中にも、ドキリとさせられる文章がある。例えば、「死」について語っているものでも、以下のような思いつくようで意外に思いつくことのない言葉がある。

 「死者は、たとえば背広のポケットに入る位の大きさで充分だ。なぜなら、死者は最早、ただの〈ことば〉に過ぎないのだから。」

 「生が終わって死が始まるのではなく、生が終われば死も終わる。死は生につつまれていて、生と同時にしか実存しない。」

 「他者の死は、かならず思い出に変わる。思い出に変わらないのは、自分の死だけである。」

寺山と山田太一とのやり取り

 寺山は「手紙魔」であったらしい。手紙は「魂のキャッチボール」と考えていたようだ。私が記念館を訪れたときには、寺山没後40年の特別企画展として、寺山の送ったハガキや手紙が多く展示されていた。

 私がとくに印象に残ったのは、早稲田の同級生で後に脚本家として優れた作品を数多く残した「山田太一」とのハガキのやり取りであった。

 山田は数多くのテレビドラマの脚本を書いたが、とりわけ印象に残っているのは『岸辺のアルバム』『ふそろいの林檎たち』『男たちの旅路』で、同時代には倉本聰向田邦子がいたが、私にとっては山田が傑出した存在だと思えた。

 とくに『男旅の旅路』では、鶴田浩二や水谷豊を上手く使っており、今現在でも、ドラマとしては最高傑作だと思っている。

 寺山修司とは友人ではなく知り合い程度で十分だが、山田太一なら「お友達」になってみたいと思う。生きた時代が違うのだけれど。

散策路に並ぶ道標のひとつ

 記念館の裏手(小川原湖側)の森は散策路になっており、写真のような寺山の短歌を記した道標が15本あった。なかなか興味深い森で、寺山の歌に触れたり、小川原湖を望んだり、下の写真にある小田内沼を眺めたりできる。徒歩で20分程度の路だが、充実した時間を過ごすことができた。

散策路から小川原湖の内湖である小田内沼を望む

 池や沼を望むには、写真のところがもっとも良い場所であった。

寺山の顕彰文学碑

 小田内沼を望む場所の近くには、写真のような結構、大きめの文学碑があった。これには寺山の歌が三首、刻まれている。

 歌集『田園に死す』から谷川俊太郎が中心になって選んだ歌が刻まれているのだが、もっともよく知られているのが、三番目の歌だろう。

 「マッチ擦る つかのま海に 霧ふかし 身捨つるほどの 祖国はありや」

 ちなみに、私が選者であったなら、以下の二つの歌を必ず選んだはずだ。

 「吸いさしの 煙草で北を 指すときの 北暗ければ 望郷ならず」

 「間引かれし ゆゑに一生 欠席する 学校地獄の おとうとの椅子」

◎六ケ所原燃PRセンターを訪ねる

PRセンターの標識

 寺山修司記念館を離れ、国道394号線に出て北上し、次の目的地の六ケ所村に向かった。「六ケ所村再処理工場」の建設現場を覗き見するためである。1993年に着工し97年に完成予定であったが、トラブル続きで現在に至っても完成せず、今のところ2024年の9月までに竣工することになっている。ただし、それまでに原子力規制委員会の審査が終わる見込みはなく、またまた延期されることはほぼ確実だろう。

 4年で完成するはずのものが、現実には30年以上かかっても完成の目途はたっていない。日本の原子力行政やその技術水準がいかに低レベルであるかを象徴している。この程度の技術力しか持ち合わせていない国が、福島原発から排出される汚染水を「処理水」と呼べと強くメディアに圧力をかけ、それを大半のメディアや国民が唯々諾々と従っているのだ。

 残念ながら建設現場の覗き見には失敗したが、その代わりに原燃のPRセンターが近くにあったことから、それを見学することにした。写真はその建物を示す看板で、「あぶにーる」は付設されたカフェの名のようだ。アブニールはフランス語で、日本語に直せば将来とか未来とかの意味になる。

 福島県双葉町には「原子力明るい未来のエネルギー」という標語が掲げられていた。3.11で判明したのは、原子力の未来は決して明るい未来はもたらさなかったということだ。それゆえ、このカフェの名も「あぶにーる」ではなく「危にーる」に変更したらいいのではないのか、と思った次第である。

PRセンターの外観

 PRセンターは1991年にオープンした。地下1階地上3階の建物で、黒川紀章氏の設計だとのこと。

 原子燃料リサイクルを推進する側のセンターだけに、どれだけ美辞麗句が並べられているのか楽しみにして見て回った。

再処理工程の図解説明

 写真の図解説明が「再処理工程」の基本図式である。図と解説文だけを見るととても分かりやすく、簡単に再処理ができそうである。

 簡潔に文章化すれば、再処理は以下の行程を経る。原子炉の炉心に挿入された燃料は3,4年燃やすと当初には3,4%含まれていたウラン235の濃度は1%にまで低下し、プルトニウム239が1%発生する。こうなるともはや燃料としては使用できず、ただの「死の灰」となる。

 この「死の灰」からウラン235とプルトニウム239を取り出して、これを新たな燃料にして使用するというのが核燃料サイクルなのである。

 しかし、この再処理はコストがかかり、より高度な安全保障施設が必要となり、さらに核セキュリティを確保しなければならないため、未だに日本原燃では実現できていないため、これをフランスやイギリスに委託しているのが現状である。

МOX燃料が造られる工程

 プルトニウム239は当初、高速増殖炉もんじゅ」で増やす予定でいたが、1兆円という途方もないお金を使った結果、失敗に終わって現在、その計画は休止中である。

 その代わりに、「死の灰」を処理してウラン235とプルトニウム239を取り出し、ウラン・プルトニウム混合酸化物にして軽水炉原発で利用しようと考えられたのが「MOX燃料」である。MOXとは「Mixed Oxide」の略語で、これにはプルトニウム239が4~9%含まれているので、原発の燃料として使えるのである。

 しかし、その技術も日本では実用化できていないため、主にフランスに依存している。つまり「死の灰」をフランスに送り、フランスでMOX燃料となり、残りの死の灰はガラス固化体にして、両者が一緒に日本に送られてくるのである。しかし、フランスでは再処理はコストが高く安全性にも問題があると考えられているので、いずれその作業はおこなわれなくなる可能性が極めて高い。

 現在、輸入しているMOX燃料は価格が非常に高く、通常のウラン燃料の約10倍もする。しかも、軽水炉発電所ではMOX燃料は10%しか利用できないことになっている。る。それゆえ、六ケ所村の再処理工場の完成が急がれているのだが、現実には完成の見通しはとても暗いのだ。 

再処理工場は極めて安全というPR

 この展示にも「安全神話」は遺憾なく発揮されており、再処理工場から発生する放射線量は約0.022ミリシーベルトで、公衆線量の上限である1ミリシーベルトを遥かに下回っているという「お触書」なのである。

 こうした安全神話は3.11を見るまでもなく、とっくに破綻しているはずなのに、今に至っても臆面もなくこうした表示を堂々と展示していることにある種の「哀れさ」を感じざるを得ない。

 もっとも再処理工場そのものが完成の目途が立っていない以上、こうした数値表示はまったく意味を有していないのだが。

 ともあれ、使用済み核燃料は現在、各地にある原子炉の敷地内のプールで保管しており、すでに容量の80%以上にも積み上がっている。それゆえ、「中間貯蔵施設」なるものの建設が急がれているのだが、ニュースでも山口県の上関町などが話題になっているが、いずれも不可思議な原発マネーを乱発することで、無理矢理に「過疎地」を候補に挙げているのである。

 しかし、そのマネーの原資は税金なのであって、国や原子力村のものではないということをきちんと認識しておかないと、全く信用できない現在の政権に任せることなど決してあってはならないことである。

下北半島北東端の尻屋崎周辺

青空によく映える尻屋埼灯台

 下北半島で唯一、訪ねていなかったのが尻屋崎であった。下北半島は斧や鉞(まさかり)の形になぞらえられるが、尻屋崎は斧でいえば「斧頭」に当たる。

 半島の北東端に位置するが、そこに至るまでにはさして魅力を感じるような場所がないように私には思えていたので、半島自体には10回以上訪れてはいたものの、尻屋崎まで足を運ぶことはなかった。その分、恐山には必ず立ち寄っているのだった。

灯台と記念碑

 岬の最先端には写真の「尻屋埼灯台」がある。津軽海峡に面した場所にあるので、どうしても龍飛岬からの連想で高い位置に存在すると考えてしまうのだが、実際には、灯台のある場所は標高16m地点に過ぎない。もっとも、下北半島最北端の大間崎は標高3m足らずの場所なので、下北半島北部の海岸線を走る道路(国道279号線)は全体的に低位置にあると考えて良い。

 また、地図で確認するとよく分かるのだが、岬は津軽海峡に、というより太平洋側にやや傾いて突き出ているため、岬の西側が津軽海峡、東側が太平洋と言ったほうが良いのかもしれない。

 津軽海峡には対馬暖流が流れ込んでおり、想像する以上に海水温は高い。一方、尻屋崎の東側には親潮が下ってきているため、海水温はかなり低い。それゆえ、岬周辺には霧が発生しやすく、「海の難所」と言われ、長い間、南回り航路は八戸が終点であった。

尻屋崎の東海岸

 尻屋埼灯台は1876(明治9)年に完成した。東北地方では第一番目に造られ、高さは32.8mある。灯台に上ることは可能なのだが、高所が苦手なので私は敬遠した。

 灯台の周囲、というより尻屋崎周辺は草原になっており、その地には寒立馬(かんだちめ)と呼ばれる農耕馬が放牧されている。藩政時代の南部馬を祖として明治時代に外来種との交配が進み、大型化して軍用馬にも用いられたことがあった。

 放牧地では人間を避ける訳ではないが、かといって人馴れしていることもないようなので、私が訪れたときには灯台がある場所からは相当に離れた場所にいたため、撮影をおこなうことができなかった。

 私は岬の西側から入ってきたので、帰りは東側、つまり太平洋側を通って尻屋崎を離れることにした。写真は、岬の太平洋岸の姿を写したもので、岸近くは浅い岩礁帯が続いていた。

尻屋漁港

 岬の先端から4.5キロほど南下したところに「尻屋漁港」があった。サケ、マイカ、コンブ、タコが主に水揚げされるもので、以前はアワビがよく獲れたそうだが近年は激減しているとのことだ。

 港を見ると釣り人の姿を探すのだが、わざわざ最果ての地?まで訪れる釣り人の姿はなかった。場荒れすることはまったくないので、こうした場所で竿を出してみるのも面白いかもしれない。次の旅では、釣り道具も持参しようと思った。といって、この場所を再訪することはないのだが。

石灰石の積出港

 尻屋漁港から岬を南下することはできないため、県道6号線に沿って進み、再び、津軽海峡側の海岸線に出た。

 津軽海峡側には尻屋岬港があり、ここは石灰石の積出港になっている。山側には相当な量の石灰岩があるらしく、工場設備はかなり大きなものだった。

 また、採掘した石灰石を船に運ぶために相当に長いベルトコンベアがあり、それは沖にある弁天島を中継点として、写真からも分かる通り、かなり沖合にまで伸びているのだった。この景色はなかなか見所があり、尻屋埼灯台周辺にいるときよりも長い時間をこの尻屋岬港で過ごしてしまった。

◎悲劇の斗南藩

悲哀に満ちた斗南藩の歴史

 この日の宿泊地はむつ市内のホテルで、そこに2泊して下北半島の名所を少しだけ時間を掛けて見物する予定だった。この日は尻屋崎訪問で予定を終えたので、県道6号線を南西方向に進んでむつ市内へ向かった。市街地に入る少し手前にあったのが、写真の「旧斗南藩墳墓の地」だ。

 斗南藩と言えば誰もが知っているように、戊辰戦争で敗北した会津藩が、維新政府から厳しい制裁を科され、火山灰層が積もり痩せた土地で、さらに冬にはマイナス20度まで下がるという土地に追われて立藩されたものである。保科家の会津藩の石高は23万石だったのに対し、斗南藩は名目上は3万石であるが、実際には7400石ほどの生産力しかない場所であった。

 そのため、会津藩の人々の中には、そのまま会津に残ったり、北海道に渡って新天地を求める人も多くいた。

 会津藩の家老職にあり、斗南藩でも中心的役割を担ったのが、のちに明治政府に招聘され、貴族院議員まで務めた山川浩(1845~98)である。彼は、斗南の地を以下のような歌にした。

 みちのくの 斗南いかにと 人問はば 神代のままの 国と答えよ

 斗南の貧しさは原始時代に比肩されると山川は嘆いたのである。実際、斗南の人は犬の死骸まで口にしていたのであった。

哀愁を誘う墳墓

 山川は後に谷干城に見いだされ、西南戦争では征討軍団参謀として活躍した。彼の活動の原動力になったのは「薩摩憎し」の一言であったようだ。

 彼は後に東京高等師範学校の校長、陸軍少将、貴族院議員を歴任した。ずば抜けた才能があったゆえに明治政府からは重用されたものの、こうした生き方ができたのはほんの少数であり、大半の人は飢えに苦しみ、多くの餓死者や人身売買の対象になったのであった。

 会津といえば白虎隊の「飯盛山の自刃」がよく知られているところだが、斗南藩の人々が強いられた大きな苦しみにも目を向けなければならない。会津の人が未だに長州人を認めない気持ちは心底から理解できる。

◎仏ヶ浦を散策する

やっと岩場が見えてきた

 翌日は下北半島の斧の歯にあたる場所にある「仏ヶ浦」に向かった。むつ市から大間崎を結んでいる国道338号線は、まず陸奥湾を南側に見ながら進む快適な道で、遠くに夏泊半島が望める。

 この国道は、斧の歯の最下部まで西進すると「脇野沢」に至り、今度は斧の歯に沿って大間崎を目指して北上する。北に向かう途上にここで紹介する「仏ヶ浦」がある。以前はこのルートを使って出掛けていたのだが、R338はまだ西進している途上にある「川内町」を過ぎると道が少し悪くなり、さらに北上を始めた際には上ったり下ったりを続けるワインディングロードとなる。それはそれで興味深いのだが、仏ヶ浦を目的地にするには少々、気力を使いすぎる傾向になるため、目的地を目指す道にはやや適さない。

 なお、脇野沢から北上を始めたR338は「海峡ライン」の別名が付けられているが、仏ヶ浦駐車場近辺までは海岸線には沿っておらず、山中をいやというほど曲がりくねりながら北に向かう。ただ、r253と合流する辺りから直線路が増えてきて、仏ヶ浦の先からは海峡ラインの名にふさわしく、海岸線に近い場所を進むことになり、その状態をほぼ維持しながら終点の大間町まで続く。

 川内町の中心部当たりから「かもしかライン」と名付けられた県道46号線(r46)が、斧の歯の中央部を北に突き抜けるよう整備されているので、3度目ぐらいからはR338をそのまま進まず、途中からr46に入り、さらに「かわうち湖」方面に進む県道253号線(r253)に移動して今度は西進する。するとこのr253は北上してきたR338に繋がるので、右折して国道に入り北に進み、やがて仏ヶ浦の崖上に整備された無料駐車場に到着する。

 ただ、この無料駐車場は標高113mの崖上にあり、初めこそ緩やかな下り坂なのだが、崖際に至ると九十九折りの階段が続くので、かなりの労力が必要となる。そのため、大半の観光客は、先に挙げた「脇野沢」の港、あるいは仏ヶ浦の先にある佐井村の港から発着する観光船を利用している。これらを使えば、海上から2キロ続く仏ヶ浦の雄大な景色が眺められるし、海岸には観光船が停泊できる堤防もあることから、楽して仏ヶ浦散策が楽しめる。

 もっとも、私は観光船は一度も利用したことがないので、海上からの眺めは体験していない。上の写真にあるように、急な階段のために膝をガクガクさせながら下り、やっと奇岩の姿が視界に入ってくるその刹那の感動を味わうために、船ではなく、陸路で海岸に進むのである。

 とはいえ、この道はクマが出ることも多いし、帰りの上りは大変だし、海上から眺めることも一度は体験したいような気がするので、来年には観光船を利用してみようかと思っている。実現するかどうかは、健康と体力と気力次第ではあるが。

脇野沢港や佐井港から発着する観光船だと楽に海岸に到着できる

 先に触れたように、観光船は脇野沢か佐井から発着している。やや距離のある前者は往復4370円、後者は往復2700円である。どちらの船も片道料金も設定されている。ただ、片道利用だと途方もない時間と体力を使って港まで帰る必要がある。2人以上で出掛ける場合は、誰かひとり(二人以上でも良い)が「犠牲」になって乗船は諦め、車で駐車場まで行く必要がある。

巨大な奇岩と出会う

 仏ヶ浦には大小さまざまな形の奇岩が多数存在する。これだけなら南伊豆の石廊崎の眺めとさして変わりがないと考えてしまうのだが、それとは決定的に異なるのは、後者が崖上からか遊覧船で海上から眺めることしかできない。しかし、この仏ヶ浦では、巨岩、奇岩の間を散策できるのである。前回に取り上げた宮古市浄土ヶ浜も奇岩が林立していたが、やはり基本は陸から眺めるという楽しみ方だった。その点で、仏ヶ浦の優位性は圧倒的なものであると考えられる。

自然の造形美

 国の名勝、天然記念物に指定されているこの地は、約400万年前(約2000年前や約1500万年前という説もある)の海底噴火によって発生した火山灰などが押し固められてできた緑色凝灰岩(グリーンタフ)から成り立っている。

 もっとも、地上に現われている部分は風雨にさらされているためか緑色に見える部分はほとんどなく、浅瀬に見える岩にその面影が残っている。浅場の海が淡いグリーンに見える場所は多いが、一部は藻の影響があるにしても、多くはグリーンタフによるものと思っても良いかもしれない。

 このグリーンタフについては、いずれ男鹿半島を紹介する項で触れることになるが、ここでは岩が熱水による変質作用で緑色に変性したということだけを押さえておきたい。

天辺の浸食に妙味有り

 特に目立つ岩には名前が付けられており、写真のものは「天龍岩」と呼ぶらしい。こうした大岩が崖から少し離れたところに屹立し、なおかつ海中から聳えるのではなく、海岸上に存在していることが、何度もこの場所に訪れたくなる最大の理由だ。

 仏ヶ浦が全国的に知られるようになったのは、1922年に発表された大月桂月の以下の歌によるところが大きいようだ。

 「神のわざ 鬼の手つくり 仏宇陀 人の世ならぬ 処なりけり」

 この歌には「仏ヶ浦」ではなく「仏宇陀」とこの地が記されているが、かつてはそう呼ばれていたからのようだ。「ウタ」はアイヌ語で「海辺」を表わすことから、仏の居ます海辺=仏宇陀、となったのではないかと考えられている。

 なお、国土地理院地図では仏宇多(仏ヶ浦)と表記されている。宇陀にしろ宇多にしろ「ウタ」に漢字を当てただけなので、どちらが正しいというものではない。

巨岩の間を抜けるとまた巨岩に出会う

 巨岩・奇岩が存在する場所には大抵、歩いて行ける。足場が低かったり悪かったりする場所には写真のような設備が施されているため、波が少し高かったりして海岸線が少し潮で洗われている場所でも行き来できるのだ。

岩の間の祠。これは素掘りかも

 この地は信仰上でも貴重な場所らしい。下北半島の斧の歯の中心部のやや北側にあるということは、全体が西海岸に存在している。一応、津軽海峡陸奥湾とを結ぶ平舘海峡に面しているとされているが、実際には津軽海峡に属しているといっても過言ではないほど、対岸の津軽半島の最北端よりは北に存在している。

 したがって、西側に開け、その先には西方浄土が存在するという、浄土への入口とも考えられてきた。仏にせよ、宇陀にせよ、岩の名称にせよ、仏教と関連付けられているのは、その姿が仏に似ているだけでなく、その位置関係も重要なのだ。

 仏ヶ浦を出発して西方に進む。すると地球は丸いので、元の位置に戻ってくる。その到着地点が、宮古市にある浄土ヶ浜なのであろう。もちろん、これは浄土ならぬ冗句ではあるが。

如来の首

 この姿をみれば、この岩が「如来の首」と名付けられているのは当然のことと思われるが、私が名付け親ならば「如来の横顔」とした。

雨水が造形した蓬莱山

 写真の岩の名は「蓬莱山」。これは仏教というより中国の神仙思想に由来する山の名前。三神山のひとつで、山東半島の東方海上にあり、不老不死の薬をもつ仙人が住む山のことである。

 蓬莱山といえば「徐福伝説」があまりにも有名だが、始皇帝に命じられた徐福は、もしかしたら和歌山の新宮ではなく、この場所に来たのかも知れない。

 それにしても、縦に入った無数の筋が特徴的で、これは雨水が長年かけて装飾したと考えられている。粒の細かい凝灰岩で、かつ、ここは非常に寒い場所にあるため、雨水は隙間に入り込んでやがて凍結し、それが亀裂を大きくしたと考えられている。

 ただ、それだけの理由であれば、これほど整った姿になるはずがないし、他の岩も同じようになるはずだ。こうした造形美を奇跡と呼ぶのかもしれない。もっとも、「たまたま」という考え方もあるが。

見飽きることのない奇岩群

 こうして、海岸から大小さまざまな形をもった岩たちを眺めているだけで、私の満足度は相当に高くなるのだが、それでも、この岩たちの成り立ちまで思いが及ぶと、いろいろな資料に当たりたくなる。

 400万年かけて造られた奇岩群だけに一年程度ではその変化を見つけるのは難しいかもしれない。が、かなり脆い凝灰岩であることは確かなので、もしかしたら、来年に訪れたとき、その僅かな変化に気付くことがあるかもしれない。実際、大岩の直下には小さく砕けた凝灰岩が散乱している場所もあった。そうした思いもあって、いろいろな場所をいろいろな角度から写真撮影をおこない、次回との比較を楽しむことにした。

 そうした期待があるからこそ、来年まで元気でいようという気持ちが沸き上がってくるのだ。

波食洞の中の祠

 仏ヶ浦の名の通り、各所に写真のような小さな仏さまと賽銭箱が置かれている。私は相変わらず、それらをじっくりと見ることはするが、拝むことや賽銭をあげることはしない。

 私はこうした景色が大好きなのだけれど、信仰心はまったくない。ましてや西方浄土の存在など決して認めることはない。

 死んだら、ただただ、無になるだけだ。それが仏陀の教えであると、私は確信している。

〔100〕やっぱり、奥州路は心が落ち着きます(2)岩手県の海岸線・浄土ヶ浜から青森県八戸まで

あちらこちらの海岸線に設置してある慰霊碑

◎東北地方の東海岸を北上する

多くの海岸線に新設された巨大堤防

 14時46分、その時私は病院の待合室にいた。処方箋を貰うだけなのに非道く待たされていた。やっと自分の順番がやってきたときに揺れがはじまった。府中市震度5弱程度だったので揺れの大きさこそ強烈なものではなかったけれど、長さは強弱を繰り返しながら10分ほど続いたように思えるほどだった。

 診察室の棚からいろいろなものが落ちる音が聞こえ、待合室の天井に貼り付けられたパネルが何枚か剥がれて落ちそうになっていた。医者や看護師は、何かで頭を保護してと診察室から大声を出し続けていたが、私は自分の名前が呼ばれるのをそのまま待ち続けながら、パネルの剥がれ具合やテレビの画面、それに待合室にいた多くの人たちの表情を観察していた。

 揺れが収まると私は病院の入っている8階建てのビルから外に出た。結局、処方箋はもらえなかった。建物は京王線府中駅のすぐ近くあったので、外には府中名物の「くらやみ祭り」のときと同じぐらいに人が集まっていた。皆、周囲の建物から外に逃れたのだろう。

 恐怖心はまったくなかったが、自宅にある水槽が倒れているかもしれないということが最初に浮かんだ心配事だった。床が水浸しになることはともかく、ヒーターが露出して火事になることが気がかりだったのだ。

 が、家に戻ってみると、水槽は台から落ちて倒れるどころか、水は一滴も零れてさえいなかった。また、溢れかえるほど積み込んだ本棚から本が落ちた様子もなかった。もっとも、もともと床には本が散乱しているので、本当のところは不明だが。

 武蔵野台地は地盤が比較的強固だと言われてきたが、確かに、私の家や兄姉の家、そして友人の家にも被害はまったくなかったので、その日の地震に限って言えば、武蔵野台地強固説は事実であった。

 それからは睡眠時間を大幅に削ってニュースを見続けた。最初は津波の被害の大きさに驚愕したが、翌日からは原発事故が話題の中心になった。確かに地震やそれに付随した津波での犠牲者は非常に多かったが、復興が遅れ、またいびつな形で復興が続いて今日まで至っているのは、ひとえに原発事故が大きく影響している。

 現在、話題になっている「汚染水」問題もその象徴のひとつである。政府もマスコミも一部の識者も、さらにネットに書き込むことが好きな人も、「処理水」という言葉で統一し、「汚染水」という言葉を使う人を非難しているが、これは明らかに真実を隠蔽するための「言い換え」に過ぎないことは明白である。日本政府は、そしてそれに追随するマスメディアは言葉の言い換えが大得意で、琴の真実を覆い隠すことに全身全霊を傾けるのである。

 トリチウムの大半は生物濃縮はしないが「有機結合トリチウム(ОBT)」はその限りではない。また、他の国のトリチウム水は他の核種を含んでいない蓋然性が高いが、福島原発から発生する「汚染水」は、例え「ALPS」で処理したとしてもトリチウム以外の核種をすべて取り除くことはできず、一説には12種は残存するらしいのである。

 さらに、30年でタンク内の汚染水を処理すると喧伝されているが、現在でも汚染水は発生し続けており、さらに核燃料デブリの除去は不可能に近いゆえ、いずれ、30年が100年になり、さらに300年になることは確実である。そう考えるなら、核種による汚染も半永久的に続くことになる。

 それにしても政府による情報統制は恐ろしいし、市民がそれに同調する空気はさらに危険である。

 今回は、震災に関係する場所にはほとんど立ち寄っていない。来春に、千葉県から青森県の太平洋沿岸を久し振りに走破する予定なので、その際に、復興の姿を詳しく紹介するつもりでいる。

宮古市浄土ヶ浜を散策する

浄土ヶ浜の桟橋

 遠野から釜石に出て、次の目的地にしていた宮古市の「浄土ヶ浜」に向かった。今回は下北半島の西端にある「仏ヶ浦」にも立ち寄っており、いずれも奇岩が林立する浜として東北を代表する観光名所になっている。

 この場所に立ち寄るのは今回が5度目だが、いずれも好天に恵まれたので海の青、空の青と、流紋岩の比較的白っぽい岩肌とのコントラストが美しく思えたが、この日は生憎の雨降りで、傘なしにはとても歩けないほど強い雨にも遭遇した。それゆえ、記憶の中にある浜の姿とは異なり、薄ぼんやりとした景観が少し残念に思えた。

 土砂降りに近い状態もあったが、雨は強弱を繰り返していたので、写真撮影はどうにか可能であった。また、念のために防水カメラも持参した。

 写真は、遊覧船用の桟橋である。この日は休業日ということもあって人影はまったくなく、観光客が面白がって船上から空中に撒く餌(お菓子類)を目当てに集まるウミネコやウミウの数は少なく、姿もどことなく淋し気であった。

小型船舶用の桟橋

 こちらは、「青の洞窟」を見学するための小型船(さっぱ船)が発着するための桟橋。「青の洞窟」と呼ばれる波食洞は世界の至るところに存在する。洞窟の入口付近に光が差し込み海底に届き、青い光だけが反射するので、あたかも海が青く染まって見えるところから「青の洞窟」と名付けられている。これは澄んだ川の淵でも同じ現象が起こり、とくに有名なのは高知県仁淀川の支流で見られる「仁淀ブルー」である。また、私がよく出かける和歌山県南端にある古座川の支流の小川(こがわ)でも条件次第で見られる場所は多い。が、今季は悪天が多くてなかなか小川には出掛けられないため、気分がブルーである。

 なお、浄土ヶ浜の青の洞窟は、別名を「八戸穴」という。これは、この穴に入った犬が数年、行方不明になり、八戸で発見されたことで、穴は八戸まで通じているという俗説から名付けられそうである。

波静かな入り江にはスワンもある

 浄土ヶ浜の深い入り江は南東側だけ外海に開かれ、あとは浜や岩礁に囲まれていることからスワンボートも置いてあった。それでも、池や沼ではないので、私には利用する勇気はまったくない。なお、手漕ぎボートも置いてあった。

大小の岩礁が入り江を塞いでいる

 こうして、ボート乗り場から入り江の奥を覗いてみると、確かに岩礁は北側と東側を塞いでおり(西側は陸地)、波は極めて静かだ。この日、ボートが一隻も浮いていなかったのは、波ではなく雨降りのためだと思われる。

白い砂浜(小砂利も)が特徴的

 浄土ヶ浜の名は、約300年前に某僧侶がこの姿に触れ、「さながら極楽浄土のごとし」と述べたことから名付けられたとされている。

 確かに美しい景観だとは思われるが、どこをどう見立てると極楽浄土に見立てられるかは不明だ。そもそも、私には信心はまったくないので、ここが極楽浄土のようであろうがなかろうが関心はない。ただ、白い浜と青い海とナンブアカマツの緑を着たてた白く、かつ変化に富んだ岩礁が素敵だと思うだけである。

 1917年には宮沢賢治がここを訪れ、

 うるはしの海のピロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ

と、詠んだとされている。

海岸線には荒々しい岩礁

 海中に没する岩礁はやや黒っぽく見えるが、基本的に流紋岩は二酸化ケイ素(シリカ)が70%以上含んでいることから白っぽく見えることが多い。もっとも、縄文時代にナイフとして用いられた黒曜石も流紋岩の仲間なので、マグマの噴出条件や結晶度などから黒く見えるものもある。

 なお、流紋岩の名は、マグマが流れた模様(流理構造)からその名が付けられたとのこと。岩肌をよく観察すると、流理構造や節理を見ることができる。

浜の東側にある奇岩の列

 浜の西側を塞いでいる岩は変化に富んだ形をしている一方、いずれも三角形状に天辺が尖っている。とりわけ中間部はこの三角形の岩が列をなしているため、「剣山」と呼ばれているとのこと。針の山ほど尖ってはいないが、それでもその名で呼んだとしてもとくに疑問を抱くことはない。

奇岩に囲まれて

 浄土ヶ浜の先端部近くは、写真から分かるとおり、岩が極端に低くなっている場所があり、波の高いときはこの辺りから海水が流れ込む。これも一種の「タイドプール」なのかも知れない。水がかなり澄んでいるところから、海水は頻繁に出入りしているのだろう。

 こうした場所に出くわすと、私は必ず中を覗き込んで魚の姿を探すのだが、残念なことに一匹も見つけることはできなかった。

沖にも数多くの岩礁が存在

 浄土ヶ浜の沖にも小島が点在している。高台から浜周辺を見下ろすと、また違った顔をした姿に出会い、この浜に対する愛着は深まるはずだ。雨模様なので沖が霞んで見えるのが残念である一方、淡い墨絵が展開されていると思えば、晴れの時とは違う興趣が湧いてくる。

 そう思うと、この「浄土」に今一度、訪問しなければならないのかも。私には信仰心はないので、浄土そのものの存在には否定的なのだが。

◎震災遺構・たろう観光ホテル付近を歩く

震災の爪痕が当時のままに保存されている

 宮古市の田老地区には「震災遺構」のひとつとしてよく知られた「たろう観光ホテル」の建物が保存されている。1986年に建てられた6階建てのホテルだが、津波によって1,2階は外壁ごと流失し、3回は壁こそ残っているがガラスはすべてなくなってしまった。4階にも浸水の跡が残っている。

 2014年に宮古市が取得し、震災遺構として津波の脅威を構成伝えるために保存されている。 

津波によって破壊された姿がそのまま残る

 建物の中に勝手に入ることはできないが、見学の申し込みをすれば、たとえ一人であってもガイドの人の案内で内部に入ることができる。

 この写真を撮り終えた後、中学生の団体が数台のバスでやってきて建物の隣にある駐車場に集合していた。社会科見学か何かの行事として、津波の恐ろしさを学ぶのだろうか。

新設された巨大堤防

 田老地区といえば、度重なる津波の被害を受けている場所で、1896年の明治三陸津波では1859人、1933年の昭和三陸津波では911人の犠牲者を出している。そこで町では1978年に高さ10mのX字型の防潮堤を築いた。「万里の長城」とも言われた巨大な堤防だった。人々はこの堤防の存在に安心感を抱き、いつしか、堤防の間の敷地にも人が住むようになった。

 3.11の時、防災無線では津波の高さは3m、地元の消防でも高さは4mと発表していたため、10mもある堤防なら十分に安心できると考えた人は多かった。しかし、実際には17mの高さの津波が町を襲ったのだった。

 結局、181人の犠牲者を出すことになった。高い堤防が目の前に立ちはだかっていたために、海の様子を視認できなかった人も多くいたはずだ。

 写真は、3.11の後に建造された14.7mの高さの新堤防である。

堤防上から町側を眺める

 私はその新堤防の上に立ち、たろう観光ホテルと、その向こうの高台に造成された新しい住宅街を望んだ。観光ホテルのある場所の標高は3.3m、新住宅街は標高30m以上の場所にある。

堤防上から海側を眺める

 堤防内には数多くの港湾施設が立ち並んでいる。もちろん、この場所からいつでも避難できるように各所に鋼鉄の扉が設置されており、通常は扉が開いた状態になっており、津波警報が出されたときは扉が閉じられる仕掛けになっている。

港の近くにある「三王岩

 田老漁港の東側にあるのが写真の「三王岩」。震災以前は海岸線を歩いて行けたが、遊歩道が津波で大きく破損したために、現在では高台を走る市道を進んで、「三王眺望公園」または「三王岩展望台」からその姿に触れることになる。

 3つの大きな岩が海岸線近くに屹立し、中央の男岩は高さが50m、左手の女岩が23m、右手の太鼓岩が17mある。一億年前に出来た地層が浸食や風化によって、このような奇岩として残っている。

 男岩の上部は砂岩層、下部は礫層で、太鼓岩は男岩の転石だと考えられている。津波によく耐えてその姿を残してくれたのは見物人にはありがたいことだが、上部の砂岩層の風化具合を見ると、いつの日にか崩れ落ちることは必定であろう。

 もっとも、人間の寿命よりは長く生き残るだろうことは確かなことだが。

未だに崖崩れが続く

 眺望公園の東側を崖を望むと、至る所で崖崩れが発生していることが分かる。大震災による影響が崖に及んでいるのだと思われる。改めて、自然の大きさと猛威を実感させられる景観である。

鵜の巣断崖

海面からの高さが200mもある断崖

 陸中の典型的なリアス式の断崖が続く場所が、写真の「鵜の巣断崖」と「北山崎」。いつもは後者ばかり訪れているので、今回は初めて前者に立ち寄ることにした。どちらも田野畑村に存在するが、田野畑の中心部の北にあるのが北山崎で、こちらは南側にある。

 断崖の中腹にウミウやカワウの巣があることから「鵜の巣」と名付けられたと言われている。

高い断崖が北に向かって連続する

 作家の吉村昭はこの断崖からの景色を眺め、『星への旅』という作品を生み、太宰治賞を受賞した。

 「水平線に光の帯が流れている。漁船の数はおびただしいらしく、明るい光がほとんど切れ目もなく、点滅してつらなっている。……光が水平線から夜空一面に広がる星の光と同じまたたきをくりかえしている」。断崖の近くには、『星への旅』を一部を引用した文学碑が建てられている。

 展望台から北方向の断崖を眺めた。リアス式海岸というには少し単調な姿だが、ほぼ規則正しい姿で、断崖が浸食されている様子は、自然が生み出した芸術といっても過言ではないだろう。

 北方にある北山崎の断崖は、高さはここと同じく200mほどあるが、海成段丘が不規則に浸食されているため、崖下には数多くの岩峰や奇岩が連なっている。一方、こちらは壁面をスパッと切り取ったようで、豪快さと潔さを抱く。

足下に見えた奇岩

 隆起海岸であるこの場所は、三面からなっていたと考えられている。上面は200m地点、中面は160m地点、下面は海面近くにあった。それが鵜の巣断崖では激しい波の浸食作用によって大きく切り崩された一方、眼下を見下ろすと、写真のような海食洞を残した岩礁が確認できた。

南方向の断崖

 これは展望台の南側の海岸線ではやや顕著に現れている。海上に露出した岩場も、海中に没しながらも、海中スレスレに存在する岩礁が視認できる場所(これを沈み根と呼ぶ)もある。

 断崖の各所に崖崩れの跡が確認できる。これらは度重なる三陸地震(その代表が東日本大震災)の影響だろう。

岩手県小袖海岸から青森県種差海岸へ

小袖海岸にあった奇岩

 この日は久慈市に宿を取っていた。今にも雨が落ちて来そうな雲行きだったが、ホテルに入るにはまだ少し早い時間だったので、久慈漁港から南下して野田村まで続く県道268号線を走って見ることにした。道幅は狭く曲がりくねっているが、岩場の景色が見事な道路である。

 この小袖海岸は2013年に放送されたNHKの連続ドラマ『あまちゃん』のメインロケ地となった場所。といっても、ドラマ自体はまったく見たことはなかったが。そのドラマが好評を博したらしいことから、この道は通称「あまちゃんロード」と呼ばれるようになったそうだ。

 それはともかくとして、千変万化する岩礁帯は見応えは十分であり、撮影に適した場所は多数あったものの、道が狭くて車をとめる場所がほとんどなかった。

 写真の「つりがね洞」と名付けられた岩場の近くには駐車スペースが確保されているので安心してその姿に触れることができた。海食洞の上部からは釣鐘状の岩があったそうだが、1896年の明治三陸地震による津波によって破壊されてしまったそうだ。

 たとえ、その釣鐘が消失してしまったとしても、十分に見応えのある岩場であった。

追越漁港

 久慈ICから八戸久慈自動車道に入った。次の目的地は階上(はしかみ)町だった。三陸(陸前、陸中、陸奥)海岸のうち陸奥海岸はその階上から始まる。といっても、その階上には格別に目を惹くような海岸線がある訳ではなかった。おそらく、この階上の地名すら知る人はほとんどいないと思われる。が、私にとっては思い出深い場所なのである。

 階上の海岸に至るためには自動車道を「洋野有家IC」で下り、国道45号線に移ってしばらく北上し、青森県に入ったところで、県道1号線に移動し、海岸線を進むことになった。

 東北地方の太平洋側は親潮の影響を強く受けるために海水温がとても低い。例えば津軽海峡対馬暖流が流れ込むために意外にも温かいことから、三浦半島でよく見かけるような魚を目にすることができるが、三陸海岸では三浦では冬場のいっときにしかお目にかかれない魚が堤防釣りのメインの対象魚となる。投げ釣りではアイナメ、ウキ釣りではウミタナゴといった具合に。しかも、両魚ともにこちらでは巨大になり、前者は60センチ、後者は30センチにも成長する。

 そんな魚たちを狙うためには当然、関東とはやや異なった仕掛けを用いることから、私は三陸海岸の釣り具店を覗いて、いわゆるご当地仕掛けを探し歩いたのであった。

何度かお世話になった釣具店

 写真の釣り具店は、ご当地仕掛けをいろいろと見せてくれ、さらに、ひとつ上の写真の追越漁港がアイナメウミタナゴがよく釣れる場所であると教えてくれた。港内では多くの人が大型のウミタナゴ狙いで竿を出していた。25センチサイズはよく釣れていたものの、魚拓で見た30センチアップの魚に出会うことは叶わなかった。

 写真から分かる通り、釣り具店の店舗は私が訪れた当時とは異なって綺麗な建物に変わっていた。旧店舗は、3.11の津波によって破壊されてしまったからである。 

天然の芝生が広がる種差海岸

 県道1号線は「三陸浜海道」の別名があるが、今では「うみねこライン」の名の方が通りが良い。

 追越漁港からうみねこラインを北上するが、しばらくはさほど荒々しいとは思われない海岸線が続く。が、4キロほど先にある「大久喜」と呼ばれる地域に入ると、様相が一変する。この大久喜地区から北に12キロほどの場所に位置する「蕪島」までの海岸線が、国の名勝に指定されている「種差(たねさし)海岸」である。

 この種差海岸は4つのエリアに区分され、南から「大久喜エリア」「天然芝生エリア」「葦毛崎・大須賀海岸エリア」「蕪島エリア」と呼ばれている。個人的には天然芝生エリアと蕪島エリアが好みなので、この2か所を紹介する。

 芝生エリアは、一見するとゴルフ場の敷地と見紛うが、よく見るとあちこちに大岩が点在し、さらに海岸線には荒々しい岩礁帯が続いている。

芝生広場の下には荒々しい海岸線も存在

 司馬遼太郎は『街道をゆく』の「陸奥のみち」で、「どこかの天体から人がきて、地球の美しさを教えてやらねばならないはめになったとき、一番にこの種差海岸に案内してやろうと思った」と記している。確かに、天然の芝生と荒々しい海岸線のコントラストは美しいが、私であれば、やはり山陰海岸を一番に挙げるだろう。

北方向では一層、岩礁帯が目立つ

 そうは言っても、写真のような姿を目にしたときには、「ここでも良いかな」と思ってしまうことがなくはない。

 今回は触れていないが、芝生エリアの北側に伸びる2.3キロの白い砂浜も変化に富んだ種差海岸の素晴らしさを象徴するものであり、「鳴き砂」が存在することもその美しさの証左となっている。もっとも、第76回で紹介したように、白い砂浜と鳴き砂といえば、山陰の琴引浜にもあるのだが。

◎八戸・蕪島(かぶしま)~ウミネコの島

蕪嶋神社が見えてきた

 ウミネコの繁殖地としてよく知られている蕪島蕪嶋神社が見えてきた。この先は八戸港で、三陸海岸はここで終了となる。

どんな魚を狙っているのだろうか?

 近くの岩場では投げ釣りをしているオジサンがいた。おそらく、アイナメを狙っているのだろう。観光地の近くで竿を出すというのは結構、勇気がいることだが、そんなことはまったく気にならないのか、それとも釣果が上がるポイントなのかは定かではない。見ていた範囲では、前者である蓋然性が高かった。

観光客は結構、多かった

 私個人は蕪島そのものに興味があり、神社にはさほど関心を抱かなかったのだけれど、相当に多くの人が階段を上がって神社へ参拝しているようだった。

 蕪島はその名の通りにかつては島だったのだが、1942年に旧日本軍は2年がかりで工事を進めて陸続きとした。北の防衛には欠かすことのできない存在であると考えてのことだろう。その「お陰」もあり、島とは言いながらも歩いて簡単に上陸できるのである。

 蕪島とは奇妙な名前なので由来は諸説あるようだが、神島(かむしま)が蕪島に変化したという説が有力なようだ。

島はウミネコだらけ

 ウミネコの島というだけあって、至る所でその姿を見ることができる。毎年、3月上旬に飛来し、4月から産卵が始まり6月にはヒナがどんどん育ち、8月には旅立ちをする。3~4万羽のウミネコが暮らしているので、騒々しいこと、フンだらけであることがこの島の特徴である。

傘はウミネコの糞除けのため

 標高17m、面積1.8haの島の天辺には蕪嶋神社がある。1296年に江ノ島弁才天勧進して創建されたと言われている。宗像三女神を主神とし、海の守り神として信仰されてきた。

 弁才天は弁財天と表記されることがあるように、現在では商売繁盛の神として、かつて八戸藩主に子が授からなかったためにこの神社に祈願したところ男子が誕生したことから子授けの神としても崇められている。

 社殿は新しいが、これは2015年に全焼したものを5年がかりで再建し、2020年に落慶したものだからである。

 参詣者の多くは傘をさしているが、これは雨降りだったからではなく、ウミネコのフンから身を守るためで、鳥居の横に無料で借りられるビニール傘が備えられている。私は参拝はしないのでどうでも良いことなのだが、信仰心が篤い人なら傘は不要なのではないかと思われる。なぜなら、フンを浴びればウンが向くのではないのだろうか?

人前でも平気で巣作り

 周囲の草むらの中には至るところに営巣している姿があった。カメラを向けてもまったく動じることがなく、懸命に卵を温めていた。警戒心の強い海鳥のはずなのに大勢の人が訪れるこの地で、あたかも日常性の延長のごとくに人前で営巣する姿に、私は感銘を受けてしまった。

 そのため、この先数日は、トリのから揚げを食することを禁じることにした。