春を探しに徘徊する
私にとって、春の到来をしみじみ感ずるのは、暦の上でも、日差しの温かさでもない。徘徊中、路傍にある草の花を見出した時である。彼女らが葉を伸ばし始めたことに気が付いたとき春が近いことを思い、その草の花を一輪でも見出した時、私は心に春の訪れを実感するのである。
その花は「オオイヌノフグリ」であるが、ときには「ヒメオドリコソウ」や「ホトケノザ」、「オランダミミナグサ」であることも。いずれも、いかにも”雑草”という風情であり、ほとんどの人は目にとめることはないので、道の辺にけなげに咲いていても、踏みつけられてしまう場合が多い。それでも、彼女らは毎年、花を付け、私に春を告げてくれる。
スプリング・エフェメラル
スプリング・エフェメラル~春は儚い。エフェメラルとは命の短さをいう。華やかな時期はいつも短いからこそ、そこに艶やかさと悲しみが同居している。
中島みゆきの名作に『春なのに』がある。”春なのにお別れ”という表現が秀逸で、「春は別れ」と言ってしまえば、単に卒業を意味するだけだし、「春は出会い」ならば入学や入社を意味し、どちらも当たり前田のクラッカー。それを「なのに」と表したところに名作の名作たる所以がある。
この心象は、仏詩人のコクトーの「人は多くの人々を知っているが、彼らがどうなったのかは知らない」という言葉にも通じていると思う。
歴史上の出来事でも、春は「華やかと儚さ」が同居している事柄の場合に使われることがある。1848年の「諸国民の春」であり、1968年の「プラハの春」である。いずれも、背景は異なるにせよ、自由化を求めた運動が束の間の勝利を得たももの、その後はさらなる圧政を生んだという事件だ。自由を完全に勝ち取り、その後も発展を続けたのなら、決して「春」という言葉は使わないはずだ。ここにもスプリング・エフェメラルが含蓄されている。
スプリング・エフェメラル~儚い花たち
エフェメラルは、生き物にも使われる。カゲロウは幼虫の時期はともかく、成虫の時期はとても短い。「カゲロウのようだった」という言い方は、カゲロウの成虫のように、華やかな時が短かったことを表現する時に使われる。 実際、カゲロウ目の学名はEphemeropteraであり、”エフェメラ”が用いられている。
狭義では、スプリング・エフェメラルは、3~4月ごろに咲く多年草の植物を指すことがある。大半はキンポウゲ科のもので、落葉林の多い里山や渓谷、野辺に見られた。が、自然のものは林の喪失、破壊、盗掘などで多くが失われており、今では、保護林や自然園、山野草店や園芸店、趣味人の庭などで見ることが多い。
私も以前、庭のある家に住んでいたときは、カタクリ、フクジュソウ、イチリンソウ、ニリンソウ、アネモネ、レンゲショウマ、ミヤマオダマキ、セツブンソウ、ミスミソウ、オキナグサ、ラナンキュラス、クレマチスなどを育てていたことがある。
以上がすべて、スプリング・エフェメラルと呼ばれるわけではなく、特に、フクジュソウ、イチリンソウ、ニリンソウ、セツブンソウ、オキナグサ、キクザキイチゲ、アズマイチゲなどが代表的な存在だ。アネモネ、オダマキ、ラナンキュラス、クレマチスは、今では改良園芸品種として、ガーデニングファンの家やホームセンターの園芸コーナーでは早春から初夏の間、かなり長い期間、見ることができる。
花を落としたエフェメラルたちは、入梅のころまでは葉のみで生活し、日の光から活力を得る。 が、いつのまにか地上からは姿を消し、初夏から冬の間は根のみで土中にて栄養分を吸収し、春の訪れを待つ。
多くは3月の初めころ葉を見せ始めるが、中には、花芽が先に伸びて地中から顔を出し、まずは花を開かせてから葉が広がり始め、その後多くの花を咲かせるという品種もある。いずれにせよ、開花期は短く、美しい時はとても儚い。
イチリンソウやニリンソウは群生することが多いため、ひつひとつの花期は短くとも、全体を望めば、ある程度の期間、花に接することができる。
スプリング・エフェメラルと呼ばれる花たちは、土中にいる期間が長く、その間に根を広げて仲間を増やしている。自然環境の急変がなければ、数株だった花でも、次の春には十数株に増えることが多い。その限り、”世界にたった一つの花” などというものはなく、花はあくまで”類として存在“しているのだ。
この点、人もまったく同じで、”オンリーワン”を主張するのは幻想にすぎず、単なるエゴでしかない。