終わりなき日常を旅する

徘徊老人・まだ生きてます

〔04〕徘徊老人・国分寺崖線を歩く

崖線は私の青春の前に、いつも立ちはだかっていた

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国分寺跡から桜の向こうにある国分寺崖線の森を望む

 今ではとても信じられないことだが、半世紀ほど前の私にも青春時代があった。

 16歳のころ、市の北側に住む少女(同学年)の家を訪ね、国分寺跡のある方へ散策をした。今とは異なり、林や畑の中に住宅が点在している風景だったので、視界にはよく国分寺崖線の森が入ってきた。並んで歩いてはいるものの手をつなぐことはなく、緊張の壁がいつも二人の間にあった。道が細く時折、車や自転車が通りすぎる際、二人の肩が触れ合ったり、手が触れ合ったりすることもあったが、それ以上近づくことはなく、そんなときは決まって無言の状態が続いた。

 会話は少なかった。その少女はもともと口数は少なく、一方、私は男友達といるときは相当に雄弁であったものの、女性の前ではいつも緊張して寡黙になる。さすがに少女とは少しは話せるようになってはいたが、共通の話題を見出すまでには至らなかった。高校は別々だった。少女は学校生活の話を少しした。私と言えば、男子だけの学校だったし、学校生活には何の希望も抱いていなかったので、その手の話は何もなかった。

 私は大抵、前に連なる高台(国分寺崖線)を見て、その段丘崖の成り立ちを話した。また、小学生の時、その段丘崖の向こうまで遠征し、そこに住むベーゴマの名手(のちに中一で同級生になった)に勝利したこと、”たまらん坂”の近くの崖で「ターザンごっこ」をして遊んだことなどを話した‥‥まったく、場にふさわしくない、つまらない話題だった。

 国分寺跡が近づくと人影はほとんどなくなった。私の緊張感は高まり、ますます、話題は見いだせなくなった。思い切って少女の手を握り、明日に向かう覚悟を決めれば良いのにといつも思っていたのだが、それ以上、崖線に向かう勇気も一歩踏み出す覚悟もない私は「そろそろ戻ろうか」という言葉を口にするだけだった。少女のため息がかすかに聞こえた。

 もしもあの時に戻れたら、今度はきちんと前に進むことができるだろうか‥‥いや、戻れたとしても、今度は、カントの先験的弁証論や『チボー家の人々』の読後感想を延々と語るに過ぎないだろう。

 あの日の胸の高鳴りや締め付けられるような胸の苦しみ~今は持病として不整脈を抱えているが、もしや、あの日々に発症したのかも~馬鹿な話だ。

崖線が私のメインフィールドだった

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幼少時、私を育ててくれた府中崖線

 自宅からすぐ近くに段丘崖があった。地元では崖のことを「ハケ」と呼んでいた。府中崖線である。大国魂神社裏や今では競馬場の駐車場になっているハケは、5~10歳ごろ、ほとんど毎日、遊んでいた場所だ。とくに後者(写真の場所)は今とは異なり、もっと崖は急で、もっと下草は少なく、もっと木が多かったので、ターザンごっこをするには最適な場所だった。木によじ登って縄を結び、その縄をつかんで、木から木へと移る修行をしていた。ほとんど猿のような生活だったので、のちのちも私は「多摩のサル」と呼ばれていた。

 もっとも、猿のようにうまく飛び移ることはできないので、ハケ下に落ちることがしばしばだった。絶えず怪我をしていた。「刷毛に毛があり、禿に毛がなし、ハケに怪我あり」が日常だったのである。

 

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国分尼寺跡から段丘崖へ

 小学校高学年からは国分寺崖線まで遠征することが多くなった。同級生が崖線の上に住む生意気なガキ(写真の場所の崖上方向にある団地に住んでいた)にベーゴマの勝負で負けたというので、その敵を討ちに出征した。その地域は小学校こそ学区が異なっていたが、中学校では同学区になるので、同窓生になる前に早めに勝負を決めておく必要があった。

 勝負はあっけなくついた。もちろん、私の勝ちである。なんとそのガキとは中一のときに同級になった。かつての敵もそれからは仲間となった。こちらとしてはベーゴマの技を伝授してあげたかったのだが、中学生になってからは、さすがにベーゴマ遊びはしなくなっていた。技術の継承はそこで絶えた。残念なことである。

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忌野清志郎の歌でも知られている「たまらん坂

 国分寺崖線もテリトリーに入って以来、急坂として名高かった「たまらん坂」にも出かけることがあった。ターザン仲間の親せきが坂上に住んでいたので、その家にお菓子をねだりにいった折に、「多摩のサル」としての務めを果たしたのだ。

 坂上から望むこの坂はとても急に見え、「これはたまらん」と思っていたが、こうして改めて見上げてみると、国分寺崖線を上り下りするよくある坂のひとつにすぎないと思えてしまう。実際そうなのだが。

国分寺崖線を知らない人々

 国分寺崖線の名前は意外に知られていない。地元から国分寺に出掛ける時も小金井に出掛ける時も坂を上ることは知っているのだが、その坂と崖線の関係は知らないのだ。兄に聞いても、姉に聞いても、小中学校時代の知人に聞いても、近所の知り合いに聞いても、その名は知らないのだ。みんな「多摩のサル」なのかもしれない。

 だから、「たまらん坂」は知っていても、府中街道を地元から泉町交差点に進むときに坂があることも、国分寺街道を国分寺駅に進むバスが、駅の手前で急坂を上ることも、小金井街道小金井駅手前に前原坂という長い坂があることも、東八道路を自動車試験場から三鷹方向に進むときに坂があることも、国立天文台の前に坂があることも、神代植物園に行くときも、深大寺へそばを食べに行くときも、国道20号線を柴崎から仙川方向に進むときも、おしゃれして二子玉川に出掛けたときもみな坂があり、等々力渓谷を散策するときも、東急目黒線多摩川駅から多摩川を渡るときの急カーブが切通しを通ることを知っていても、それが、国分寺崖線がもたらしたのだということはほとんど知らない。皆、すでに「猿の惑星」の住人なのである。

国分寺崖線の成り立ち

 国分寺崖線は、古多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできた段丘崖の連なりである。前に述べた府中崖線(立川崖線)も成り立ちは同様で時代が異なるだけだ。

 多摩川は「暴れ川」として古くから知られていた。今では小河内ダムや護岸の整備など治水が進んでいるが、近年では狛江市の氾濫(山田太一原作の『岸辺のアルバム』でも知られる)も記憶に新しい。

 多摩川は源流域から青梅付近までは相当の高低差を短い距離で一気に下る。そこから広い扇状地を作ったため、緩斜面では自分で行き場を見失い、おろおろと蛇行するのだ。ただし、右岸側(川が下るときの右手側。川の右岸左岸を知らない人は多く、釣り人でもほとんど知らない。釣り人も多くはサルなのだ)には今話題の『万葉集』に「多摩の横山」とある多摩丘陵があるので、川はいつも左岸側に寄って蛇行する。こうして国分寺崖線や府中崖線(立川崖線)を形成した。

 国分寺崖線の痕跡が分かるのは、武蔵村山市の国立村山医療センター付近から、大田区田園調布にある多摩川駅付近までだ。村山辺りでは高低差が少なく、その位置を断定するのは難しい。実際、村山説もあれば立川の砂川説もある。詳しい調査と同定は地質の専門家に任せるとして、私のような単なる”崖線好き”は高低差の連なりを探して徘徊するのが楽しいのである。

 詳細は省くが、明確な段差がある立川市幸町にある古民家園の横手からその段差の連なりをたどった結果、私は武蔵村山市の医療センター付近を国分寺崖線の始点と考えたのである(下の写真参照)。右手には「さいかち公園」がある。

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この道の下方に小さな段差がある。大きな樹木が崖線の森の名残り?

国分寺崖線の始点から国分寺跡までを歩く

 崖線の距離はとても長く、寄り道も多くなるので全部を完歩するには数日かかる。今回は崖線の前半戦ぐらいの長さでしかないが、それでも11日、12日の2日かかった。もっとも初日は3時間ほどしか掛けなかったが。

 崖線は「さいかち公園」あたりから始まり、南東方向に進み、大南公園から佼成霊園、西武線玉川上水駅付近を通る。さらにそのままの方向で立川市幸町にある古民家園辺りに出る。

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古民家園の西側の道。この辺りまで来ると崖線ははっきりと姿を現す

 古民家園の東側には「川越道緑地」があり、ここの雑木林は、いかにも段丘崖の森という風情を見せている。

 ここから段丘は南南東方向に進み、”けやき台小学校”の下から、中央線国立駅の東側までさらに高低差を形成していく。けやき台では段差が3~5mほどだったものが、国立駅横では10~15mにもなる。この辺りは宅地化が進んでいるので、崖は削られ緩斜面化されている場所が多いが、神社や寺がある場所では、かなり明瞭に崖の姿を見て取ることができる。

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国分寺市西町にある神明社。崖線の高低差が分かる場所

 また、崖線は交通路を複雑にすることもある。その代表が国分寺市光町にある五差路。崖線の下を走る通りと崖線を南に下る通りと東側から崖線を下ってきて崖下を沿うように走る通りが複雑な交差路を造っている。国立駅のすぐ東側を南北に抜ける道はとても複雑なのだが、これも崖線が東側に構えているためだ。

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複雑な光町五差路。朝夕はかなり混雑する

 南下する崖線はほぼ同方向に、多摩総合医療センターまで続く。ここから向きを東に変え、府中市の武蔵台を東西に横切る。ここでは、崖線の周囲は武蔵台公園、黒鐘公園、国分尼寺跡へと続く。この辺りでは段差は15m以上になるため開発の進みは遅く、また史跡によって崖線の緑が守られている。

 ここから少し北上し、武蔵国分寺跡を崖下に抱え込みながら、崖線はほぼ東西方向に国分寺駅の下、武蔵小金井駅下方向へと続く。

崖線は命の水を造る

 国分寺跡へとたどり着いた崖線は、ここからそれまでとは異なる姿を見せるようになる。湧水群の存在である。武蔵野面に浸み込んだ雨水は出口を求めて段丘崖から湧水となって姿を現す。大地に濾過されているので、水はかなり清らかだ。かつては、この清涼な水を求めて多くの人が集い、それを飲料水などに使っていたことがある。現在では、「この水は飲料水には適しません」などという無粋な表示をよく見かけるが。

 名水百選に選ばれたことがある「お鷹の道、真姿の池湧水群」は国分寺薬師堂、武蔵国分寺跡、都立武蔵国分寺公園などに通じる遊歩道が整備されており、絶好の徘徊路となっている。

 今春は湧水の量が少ないため、お鷹の道に沿う小さな流れは例年のようには澄んでいない。それでも大地から染み出た水を求めてペットボトルに集める老婆の姿があった。

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お鷹の道、真姿の池の原点付近

 私は、この小さな流れの前にたたずみ、しばし思いを半世紀前に戻した。

 水面を見つめ続けていたとき、突然、聖書の一節が浮かんだ

 

 ”わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。”

           コリント信徒への手紙 二 (1987 新共同訳より)

 

 見えないものを支えてくれるのは神なのだろうが、しかし、私には神はいなかった。