渡良瀬川との出会い
渡良瀬川の名前を知ったのは、小学生のときだった。本を読むことはまったくなかったが、地図や図鑑を見るのはさほど嫌いではなかった。悪天のために外で遊ぶことができなかったときは、兄と一緒に地図帳を広げ、地名探しゲームをよくおこなった。片方が地図帳の中から気になった地名や川、湖、山の名を読み上げ、それをもう一方が地図の中からそれを探すという他愛もない遊びなのだが、これが結構面白かった。地図の上だが、このころからすでに徘徊の兆しがあった。その遊びの中で、もっとも印象に残った川の名前が”渡良瀬川”だったのである。
中学生になると、この川は「音の清らかさ・情緒深さ」とは異なり、長い間つらく厳しい戦いの舞台となっていた(現在も解決したわけではない)のだということを知った。断片的ではあるが、「足尾銅山鉱毒事件」「田中正造」「天皇への直訴」「谷中村の廃村」「渡良瀬遊水地」という言葉が情報として目や耳から入り込んだ。それでも「わたらせがわ」という音は、私にある優美で甘美な思いを抱かせ続けた。
放浪が始まった高校時代からは、旅の友が『おくのほそ道』になったため、渡良瀬川についての思いは次第に消え、たとえ"マドレーヌを紅茶に浸し"ても、あの「音の清らかさ」は戻ることがなかった。もちろん、「鉱毒事件」は日本資本主義の典型的な汚点として満腔の怒りを込めて非難し、そのことを肌で感じ取るため足尾町へは何度も出かけていた。田中正造の”非立憲”に対する批判について学び、併せて田中正造の生家や墓地へも行った。当然、渡良瀬川にはかなり多くの回数、触れていた。しかし、川に対する抒情的な思いが蘇ることはなかった。
それが、ある切っ掛けにより、渡良瀬川への切なる思いが再び私の心に生じたのである。それは、森高千里の傑作、『渡良瀬橋』を聞いたことからだった。
渡良瀬遊水地に立ち寄る
渡良瀬遊水地の南側にあって、その中核をなすのが”谷中湖(渡良瀬第一貯水池)”である。地図や航空写真で渡良瀬貯水池を見ると、ハート型をした池があるのがすぐに分かる。ハートの窪みあたりには史跡保存ゾーンがあり、遊水地を造るために廃村になった谷中村の役場跡や住居跡などが残されている。
渡良瀬川は利根川の支流だが、一級河川として流域面積は広く、沖積平野に流れ込むと高低差が小さいので、よく洪水・氾濫を起こした。鉱毒を含んだ水があふれ各地の田畑を汚染した。渡良瀬遊水地、とりわけ谷中湖はここで氾濫を抑え、また鉛毒を沈殿させて下流域、つまり利根川へ汚染が広がるのを防ぐ役割を持った。このために、利根川との合流直前の地にあった谷中村を潰したのだ。
また渡良瀬川は、利根川との合流直前に思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)という大支流を合流させているので、水量は相当に豊富だったのだろう。このために、谷中村一帯が標的にされたのである。それにしても、渡良瀬川といい思川といい、なんて抒情的な名前を付けたのだろうか。
私が出かけた日は午前中、雨模様であったので、谷中湖も両河川の合流点も雨に煙っていて見通しは悪かった。
村役場や住居があった場所は必ず土盛りされている。これはもちろん、洪水から住居を守るための工夫である。史跡保全ゾーンには、こうした土盛りが点々として残っている。確かに、渡良瀬川の洪水・氾濫には厳しいものがあったことがうかがえるが、それだけなら、中部地方の木曽川や長良川河口付近にみられる”輪中”という対処の仕方があったはずである。やはり、「鉱毒の沈殿」という条件があったために、広大な湿地帯と沈殿池が必要とされたのだろう。
谷中湖一帯は現在、運動公園や釣り場、散策路などが整備されている。また、渡良瀬遊水地は「ラムサール条約」の保全地に認定されている。しかし、土中には依然として多量の鉛毒が含まれていることを忘れてはならない。
田中正造の墓(他にもあるが)は、渡良瀬川左岸の雲龍寺(群馬県館林市)にある。ここは彼の運動の拠点でもあった。衆議院議員選挙に6回も当選した田中ではあったが、資産をなげうって反対運動を率いたため、72歳で病死したときは一文無しで、残ったものは袋ひとつ。中には聖書、大日本帝国憲法、小石3個などだけだった。
私には墓参りの習慣はないが、ここ十数年、渡良瀬川を訪れたときは、ほとんどといっていいくらい、この寺に立ち寄り田中の活動のことを想う。そして、”小石3個”の重さをずっしりと感じる。
足利市の中央には渡良瀬川が滔々と流れる
足利市は観光地として年々、訪れる人を増やしているが、その多くは「あしかがフラワーパーク」で、今頃は”藤棚”で大賑わいだろう。私にとって花は好きなもののひとつだが、わざわざ混雑する場所にはいきたくないので、”日本一の藤棚”にはあえて近寄らなかった。
足利市の中心部は渡良瀬川の北側(左岸側)にある。足利荘の発展に大きく寄与したのは足利尊氏だろうが、その基礎は彼の先祖が築いた。市街地の観光スポットとしては「足利学校」と「鑁阿(ばんな)寺」が代表的。これらはお隣同士なので、周囲の石畳の道ともども、散策には絶好の場所だ。ただし、学校の方は入学料(参観料420円也)を徴収される。
学校事務局が発行するパンフレットによれば、この学校は”日本最古の学校”とのことだ。創建は奈良時代とも平安時代とも鎌倉時代とも言われてはっきりしないが、確実な資料としては室町時代の上杉憲実(のりざね)がこの学校を再興したことが記録にあるらしい。学校の住所は”足利市昌平町”とあるので、ここはすぐに「儒教」を中心にした学校であったということが分かる。昌平は孔子の生誕地だからだ。校内にある”孔子廟”は現在改装中なので、その姿を見ることはできないが、以前に見た記憶によれば、なかなか見事な建築物である。
鑁阿寺は学校のすぐ近くにある。元々は足利氏の居宅跡で、周囲を土塁と堀が取り囲んでいることから”城”とも目されており、実際、日本100名城のひとつに数えられている。鑁阿(ばんな)は難読漢字だし、難筆漢字ではあるが、何故か、漢字の書き取りテストではいつも平均点を下回っていた私はこれが書けてしまうのである。何しろ、”憂鬱”だって簡単に書けるのだから‥‥これにはトリックがあるのだが、これを教えると誰でも簡単に書けるようになるので内緒にしているが。
鑁阿は、ここを寺とした足利義兼の戒名である。本尊が大日如来というから宗派は真言宗である。国宝(2013年に指定)である本堂と大きなイチョウが見事だが、私のお気に入りは入口にある橋と山門だ。そして堀には大きなコイ(人によくなついている)が多数泳いでいる。この日も、本堂を参拝する人より、写真のようにコイやハトに餌を与える人の方が多かった。仏のご利益よりも、現世の束の間の楽しみの方が価値が高いのだろう‥‥私も因数分解すれば同類項である。
学校や鑁阿寺がジジババに人気があるとすれば、織姫神社は若者が多く訪れる場所だ。足利市は織物産業の長い伝統があるので、”織姫”を祭るのは当然のことだろうが、ここが人気スポットになっているのは、ここの地理的要素と派手な色彩と「宣伝上手」なことからであろう。
ここは織姫山の中腹にあり眺めがかなり良い。なにしろ渡良瀬川のみならず、森高千里の「聖地」である”渡良瀬橋”を望むことができるからである。ここに来るには230段ほどの階段を上がるのだが、階段の装飾はとても良くできているので、疲労度を若干、和らげることができる。なお、この階段はトレーニングにもよく使われるようで、神社の御触れには「トレーニングより参拝客が優先」というのがある。
朱塗りの派手な外装はふもとからもよく見え、入口には「ひめちゃんひろば」が整備されている。そして境内には「恋人の聖地」(2014年に選定)として「恋人の聖地の鐘」(西伊豆の恋人岬や能登の恋路海岸にあるのと同類)もある。縁結びの神としても知られ(何しろ織女といえば彦星なので)ここを訪れる若いカップルや良き出会いを求め祈る若い女性の姿も目立つ。
ここ一帯は「織姫公園」としても整備され、またその周囲はハイキングコースにもなっているので、健康という病を罹ったジジババも多い。なお、神社裏や公園までは駐車場があるので車でも上がれる。楽をして上がる分、ご利益は少ないかも。
森高千里の聖地としての渡良瀬
「わたらせ」という言葉の響きは森高千里をも惹きつけたようで、彼女は橋を題材にした詞を作る際、自分のイメージにあった橋の名を地図を手掛かりとして探したそうだ。そして、自分のイメージに合致する「渡良瀬橋」の名を見出した。たまたま、足利には学園祭等のコンサートで訪れる機会が何度かあり、その際には渡良瀬橋だけでなく、その周辺の街並みを散策し、歌詞の素材をあれこれ探した。そのひとつが”八雲神社”だった。
八雲神社は「スサノオの命」を祭神とする。スサノオの歌の「八雲立つ」から採った神社名で全国各地にある。足利市にも数社(8社とも言われている)あるようで、神社本庁のサイトで調べたのだが、本庁に登録されているだけでも3社あることが分かった(同系の八坂神社を含めると4社)。したがって、名曲の『渡良瀬橋』の歌詞にある八雲神社がここであるどうかは分からないが、他の聖地との関係上、ここであるとの蓋然性は高い。
もうひとつの聖地とは、床屋の角にある公衆電話である。上の八雲神社のほど近い所にある。NTTとしては利用度の低いこの公衆電話を撤去する予定だったが、足利市や森高ファン、”渡良瀬橋”という曲のファン(私はここに属する)の強い要望もあって、今現在もポツンと立っている。交差点の近くにあり、かつ、ここは交通量が比較的多いので、写真を撮るにはかなりの勇気が必要だった。
午後2時頃からは渡良瀬川の右岸、5時頃からは左岸の河原に下りて、ずっと流れを見ていた。南風が心地よかったので、風邪をひかずに済んだ。
夕日に映える渡良瀬橋を撮影したかったのだが、晴れ間は日中のわずかな時間だけで、午後5時前には雲が厚く空を覆ってしまった。川の左岸の砂利場から渡良瀬橋を見つめ、雲の切れ間から日が差して橋を金色に染めることを期待したのだが、西の空がほんのりオレンジ色になっただけだった。
今回の渡良瀬の旅はここで終わった。
善と悪、有と無、生者と死者、神の存在と非存在という命題であれば、弁証法的に答えを出すことは可能だろうが、渡良瀬川という名の「心地よい響き」と鉱毒が産んだ絶対悪との関係は、どうしても解きほぐすことはできない。
それでも、その答えを探すべく、連休後、渡良瀬川の上流部を訪ねる旅が始まる。