終わりなき日常を旅する

徘徊老人・まだ生きてます

〔08〕徘徊老人・足尾~渡良瀬川上流紀行

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足尾砂防ダムから渡良瀬川が始まる

5月11日は足尾銅山鉱毒事件の転換点の日

 1974年5月11日、国の公害等調整委員会は当時の古河鉱業の加害者責任を認め、鉱毒事件の被害者に対する補償金の支払いを命じた。これは、1970年の「公害国会」以来、高度経済成長による”歪み”が社会問題化し、これ以上環境悪化を放置できないということをやっと認識しはじめた国の対策のうちの象徴的出来事であった。今から46年前の5月11日のことであるが、そもそも、足尾銅山鉱毒事件はすでに1880年代から問題化し、91年からは、田中正造が度々、当時の帝国議会で指弾してきたことだった。国が企業の社会的責任を認めるまでには、実に90年近い歳月を必要としてきたのだ。

 古河市兵衛足尾銅山を買収したのは1877年のこと。今話題の渋沢栄一も、買収資金の多くを拠出している。江戸時代にはすでに掘りつくされていると考えられていた銅山だが、80年代に入り有望な鉱脈が次々と見つかり、83年には早くも産銅量は日本一となっている。一方、精錬所から出る多量の亜硫酸ガスによる被害は地元の松木村などに広がり、ここは廃村となった。

 煙害は山の樹木も死滅させ、周囲の山々には一木一草もない状態となった。森林が失われたために山の”保水力”が失われ、その結果、渡良瀬川下流域は度々、大洪水に見舞われた。そればかりか、鉱毒が肥沃だった田畑に広がり大きな被害をもたらした。

 この対策のため、治山工事として”はげ山”への植林活動が1956年頃から始まっているが、写真からもわかるように源流域の山々の緑はさほど回復していない。

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足尾砂防ダムの上部には3つの谷川が流れ込む

砂防ダム内は大量の土砂が堆積

 はげ山となった山々からは大きく、3本の谷川(久蔵川、松木川、仁田元川)が流れ込んでいる。そのうち、松木川が主流で、日本百名山の一つである皇海山(すかいさん、2144m)に源を発している。松木渓谷はその景観から”日本のグランドキャニオン”とも呼ばれているらしいが、峡谷化した主要因は煙害による樹木の喪失なのである。

 3つの谷川が砂防ダムの直上でひとつになり、渡良瀬川となってダムから落下している。谷川が削り取った山肌は細かな土砂となって下流域を襲うため、1947年のカスリーン台風の大被害を切っ掛けとして砂防ダムの必要性が認知され、55年にダムは完成した。

  砂防堰堤の谷川面では大量の土砂が積もっており、3本の川は谷を流れるというより、砂浜を這うように流れるといった感じである。前述のように、まだ山の養生は始まったばかりのような状態のため、山からの土砂の供給は当分続くことが予想されるので、今度は堆積した土砂の掘り起こしが課題となりそうである。

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小さな流れの中には、赤銅色に染まったものもあった

 堰堤にほど近い場所の細い流れの底には赤銅色の堆積物が見られた。本流筋こそ比較的綺麗に見える谷川だが、こうして細部を観察してみると、ここが銅山であったことの素性は隠しようがない。

砂防ダムから渡良瀬川の物語は始まる

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3本の谷川が1本の流れになって渡良瀬川がはじまる

 砂防ダムの堰堤は一部低くなっており、ここから3本の川が集めた水が1本の川となって流れ下る。この落下点から渡良瀬川が始まる。もちろん、河川全体としての渡良瀬川は、皇海山が貯めた湧水の一滴から始まってはいるのだが、堰堤の上までは松木川の名前で支流の水を集めつつ多くを蓄えてきた。

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川は谷を一気に下ることがないよう、いくつもの段差がつけられている

 砂防堰堤から解放された水の流れは、本来であれば一気に流れ下りたいところだが、落差が急で両岸の岩が比較的もろいため、勢いを減じるための段差がいくつも造られている。この先にも小さな堰堤が多数作られ、流れを抑え込むのと同時に砂止めの役割を持たされている。

1989年、精錬所は事実上、操業を停止した

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30年前に役目を終えた旧精錬所

 川の右岸にある巨大な煙突が特徴的な旧精錬所だが、ここを訪れる度に劣化の度合いを増しているように感じられる。大きな富と、そしてより大きな害悪をもたらした”象徴”として往時の姿を残しているのは、「足尾銅山世界遺産登録を推進する会」の運動と関係があるのだろうか。それはともかく、この精錬所跡は”負のレガシー”として可能な限り、その姿を留め置くべきだろう。 こんな谷底に精錬所を造ると、煙が谷間に充満し被害が拡大するということすらわからない無知の印として。

足尾の産業遺産

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集落と精錬所をつなぐ橋

 「ふるかわばし」は、それまでの木造の「直利橋」に代わって1911年に建造された。長さは48.5m、幅員は4.8m。この上を電気鉄道のレールも引かれたそうだ。一時は歩道として利用されたこともあったが、老朽化のため現在は立ち入り禁止になっている。日光市によれば”足尾銅山の誇れる産業遺産”とのこと。

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間藤駅から精錬所をつなぐ線路。現在は廃線

 かつては主要な輸送路として鉄道が用いられていた。現在は”わたらせ渓谷線”として桐生から間藤までの運行で、間藤から精錬所までは廃線となっている。鉄道跡は危険防止のため全面立ち入り禁止となっている。

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銅山が活況を呈して頃は、この間藤集落は大賑わいだったらしい

 川の左岸には、間藤集落がある。谷のすれすれのところまで住居があったと思しき石垣や石積階段が残っている。また山側も同様で、山裾まで住居跡がびっしりある。集落の中央を通る県道250号線は幅員に余裕がある。往時の往来の激しさを物語っているようだ。一方、写真のように住宅と住宅との間の道はとても狭い。山間の狭い空間に多数の家を建てる必要があってのことだろう。

 足尾町は2006年に日光市編入された。間藤集落の北側の山を越えれば、そこには中禅寺湖があるのだ。銅山が盛んな頃、足尾町は栃木県内では宇都宮市に次ぐ人口数で、約4万人が住んでいた。それが現在では2千人を下回っている。足尾でもっとも活況を呈していたのがこの間藤地区だったそうで、集会場に残っている当時の写真を見ると、今となっては信じられないぐらいの賑わいだったようだ。

無縁石塔

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松木村の無縁石塔

 間藤集落にある龍蔵寺は一見、どこの田舎にもある小さなお寺だが、その本堂の小ささに比べ、墓所の広さに、墓の多さに驚かされる。それはそのまま、現在の集落の閑散さとかつての繁栄との対比を象徴している。

 境内には、ひときわ目立つ石塔がある。旧松木村の”無縁石塔”だ。かつてあった松木村は、銅山からの悪影響をもろに被った。かつて盛んであった養蚕は、煙害のために桑の木が全滅したことで廃業した。20ヘクタールの農地は、煙害のため無収穫地となった。このため、1902年、一戸2名のみを残して廃村となった。石塔は、悔しさを抱きつつ、かつてあった村を静かに見つめているようだ。

わたらせ渓谷線の終着駅

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平日の間藤駅はひっそりとした空気がただよう

 休日は「トロッコ列車」で渓谷美を楽しむ旅行客で賑わう間藤駅だが、平日はごく普通の車両が、桐生駅間藤駅を行きかう。写真は昼時の運行車両なのでとくに利用者は少ないのかもしれないが、車内を見回したところ乗客の姿は1名だった。1、2時間に1本という数の運行では、定期的に鉄道を利用する住民はいないのだろう。もっとも、間藤集落で見かけた住民とおぼしき人はすべて高齢者。山の手入れをする業者の姿もあったが、この人々は車利用なので、渓谷線を使う合理性はない。

 桐生市から足尾へはよく整備された国道122号線が走っている。この国道は足尾の集落をバイパスし間藤の手前で北上を続け、15キロ先で”いろは坂”の下に出る。日光観光のための乗用車や物資流通のトラックが多い国道だが、99%以上は間藤集落に入る直前の旧道と合流する”田元交差点を右折して日光市街方向に進む。

 トロッコ列車の利用客は途中の”渓谷美”を味わう。間藤駅は、ただその列車の終着駅以上の意味を有してはいないのだろう。一方、産業資本主義の”廃墟”と渡良瀬川の源流点を幾度となく訪ね歩く私のような存在は、単なる”変な人”にすぎない。

草木湖とダムと渡良瀬川の第二の源流

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草木湖の先には男体山がそびえる

 1976年に竣工した草木ダムは、渡良瀬川の氾濫抑制と発電事業、それに飲料水、農業用水の確保、さらに鉱毒の沈殿などを目的に造られた。利根川水系に造られた大規模多目的ダムのひとつで、東京都民にもここの水が供給されている。ここでは他のダムにはない水質検査が適宜おこなわれており、異常な数値は計測したことがないとのことだが、”ニッポンの統計”は簡単に操作されるので、真偽は不明だ。

 ダム湖の草木湖は群馬県みどり市にある。湖のバックウォーターあたりから渡良瀬川はしばし栃木県を離れ、群馬県を流れることになる。重力式コンクリートダムであるここは堤壁の高さが140mもある巨大構造物である。今回訪れて初めて知ったのだが、堤壁の下に行く道があり、公園として整備されたその場所からは140mの高さの構造物を下から見上げることができる。

 堤壁の近くには”東第二発電所”の建物があった。ダム湖の水の多くは他の目的のために別のところに誘導されるのだが、渡良瀬川の本流の水量を維持するために、ほんの少しだけ放水路を伝って放水されているのだ。この流れを利用して発電事業を行っているのが第二発電所なのである。

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草木ダムの巨大な壁と小さな放水口

 私は、可能な限り堤壁に近づいてみた。そして、放水口を見つけた。写真の右手にある小さな流れが、中下流渡良瀬川の源なのである。ここは、渡良瀬川の第二の源流といえる存在なのだ。

 小さな3本の谷川が渡良瀬川を造った。しかし、人の手が山を荒らし、本来、森が蓄えるはずだった雨水をほとんど直に放出し、大きな流れを造ってしまった。渡良瀬川が暴れ川になったのは、人為によるものだった。それを抑えるために足尾砂防ダムを造り、草木ダムを造っている。

 足利市渡良瀬川右岸で出会った老人との会話を思い出した。「私が幼いころは、よく橋の上から川に飛び込んで遊んだものです」。このダムがまだない頃は、渡良瀬の流れはもっと豊かだったのだろう。「でも、川は時々、真っ赤に染まることがあり、そんなときは、地域や学校から、すぐに川遊び禁止の指令がでました」とも寂しそうに語ってくれた。

 それでも渡良瀬川は流れている。いや、川が流れているのではなく、水が流れているのである。そのように、渡良瀬川は、いつもそこにある。 

 

◎追記

 この小さな旅のときも足利市に宿をとった。この日は前回とは異なり終日、晴れだった。夕方、私は川の右岸に立ち、沈みゆく夕日と金色に染まる川面を眺めていた。渡良瀬橋に沈む夕日を撮影する予定だったのだが、景色に見とれていたため、写真を撮るはずだったと思い出したときは、日はほとんど沈んでおり、残光だけが橋をそして天を染めていた。

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渡良瀬橋の向こうに沈んでしまった夕日