徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔09〕徘徊老人・東急世田谷線散歩

こんなに立派になっちゃって

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世田谷線もすっかり今様に

 ボロっちい電車といえば、多摩の田舎では南武線、歌の世界では池上線というのが通り相場だった。

 南武線は、私の地元を通っているので、幼い頃から何度となく利用している。小学生の頃、母と、横浜に住む叔父のところに出掛けたときにも一度乗った。この電車のあまりのボロさと遅さと揺れ具合に母は閉口し、次からは渋谷周りで東急東横線を使うことになった。確かな記憶ではないが、車体の底板が一部壊れていて、車内からは曲がりくねった線路が見えたこともあったような。

 池上線は、知り合いの幾人かが旗の台駅洗足池駅の近くに住んでいたので、一年に数回、彼らの縄張りまで出掛けるときに利用した。駅間が狭く、いくつ駅を過ぎたのかすぐに忘れて友達に聞いた。電車は古く、ドアのそばに立っていると、隙間風に震えなければならなかった。

 とはいえ、1960~70年頃の電車といえば、概ねこんな感じだった。私が東京に行くとき(多摩の住民は新宿に行くときは”東京に行く”と言う)もっとも利用していた京王線ですら、60年代に初代の5000系車両が運行されるまでは、お世辞にも立派とはいえなかった。

 こんな南武線や池上線だが、彼ら?に言わせると、もっと格下の電車があるとのこと。それが、下高井戸と三軒茶屋とを結ぶ玉電(現在の世田谷線)だ。「俺たち(南武線や池上線)はいかにオンボロであろうとも一応は鉄道線だ。けど、ヤツ(玉電世田谷線)ときたら、”チンチン電車”じゃないか」。

 京王線に乗っていて、下高井戸駅を通過する際には、停車中の玉電の姿がよく目に入った。その古さと規模の小ささはある面、感動ものですらあった。「いつか乗ってみたい」、南武線や池上線にはない、そう思わせるような蠱惑(こわく)的なものが、玉電にはあった。

 そんな玉電も1969年に世田谷線に改称され、さらに1999年から現行の300系車両が導入された。「こんなに立派になっちゃって」。いささか魅力は減じられたものの、「チンチン電車」の香りは今でも感じられないわけではない。

世田谷線の起点は三軒茶屋

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三軒茶屋駅を出発する下り線

 世田谷線の起点は三軒茶屋駅で、終点が下高井戸駅になる。私には下高井戸駅に馴染みがあるので、この路線を語るときはどうしても下高井戸・三軒茶屋間となってしまうのだが、下高井戸駅発は上り線になる。今回は、下高井戸から三軒茶屋まで電車に乗り、帰りはあちこちブラブラしながら徒歩にて三軒茶屋駅から下高井戸駅間を訪ね巡った。路線延長は丁度5キロだが、寄り道が相当に多くなるので、約10キロは歩くことになる。

 世田谷線は、東京では「都電荒川線」とともに二つだけある「軌道線」のひとつである。軌道線というのは一般道路上に敷かれた線路を走るもので、”チンチン電車”とか”路面電車”などの名称で語られることが多い。が、荒川線の方は一部、道路上の軌道を走る(さらに駅とは言わず停留場という)ものの、世田谷線はすべて専用軌道(正式には新設軌道)であって、南武線や池上線と同等なはずである。世田谷線がそれにもかかわらず軌道線なのは、その出生背景に答えがある。

 世田谷線の前身であった「玉川電車(略して玉電と呼ばれることが多かった)」は、渋谷から二子玉川まで、そのほとんどを国道246号線の上に敷かれた線路の上を走る”路面電車”であった。そして1925年、その支線として三軒茶屋・下高井戸間を結ぶ世田谷線が開通した。この路線には主要な道路がなかったため、全区間に軌道が新設された。が、本線が軌道線であったため、1969年に本線が廃止されたあとも、世田谷線の法的な地位は、軌道線として位置づけられたままだった。

 ところで、世田谷線のレール間の幅(これを軌間とかゲージと呼ぶ)は1372ミリである。鉄道ファンはよく、「標準軌」とか「狭軌」とかの言葉を使うが、これは欧州の軌間が1435ミリであるため、これを標準軌と呼んでいるだけだ。日本では新幹線がこの「標準軌」であるが、JRや大手私鉄の大半が、1067ミリの軌間を使っている。日本ではこの1067ミリが「標準軌」で、1435ミリは「広軌」と呼んでも間違いではない。

 世田谷線の1372ミリは馬に引かせた客車の軌道の幅であるため、「馬車軌間」とも言われる。実は、京王線(本線のみ)もこの馬車軌間である。軌間が異なると、他の鉄道との相互乗り入れが困難になるため、都営新宿線は他の地下鉄とはちがい、例外的にこの馬車軌間を使っている。京王線は朝夕のラッシュ時には列車間がすぐに詰まりノロノロ運転を余儀なくされ一部からは”団子運転”と揶揄されているが、もしかしたら、今でも電気で動くのではなく、実は馬が引いているのかもしれない。

 ともあれ、世田谷線は出自が「馬車鉄道」であるため、すべて新設軌道を用いていても、扱いは”チンチン電車”になるのであろう。

路面電車扱いは、「若林踏切」を見ると分かる

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環状七号線と交差する世田谷線

 軌道線とはいえ、世田谷線には多くの踏切があり、電車が通過する際は遮断機が下り、人も自転車も自動車も通過待ちをする、一つの例外を除いて。それが、写真にある”若林踏切”だ。お分かりのように、ここには遮断機がない。

 環状七号線は交通量が非常に多く、通常の踏切では大渋滞が発生する。が、この踏切では「道路交通法」が車両側にも優先適用されるため、青信号の際は、自動車には「一旦停止」の義務はない。一方、電車の方も信号を遵守し、赤信号の際は踏切への進入はできず、青信号待ちとなる。それが下の写真だ。

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赤信号のため、電車も人と同様、信号待ちをする

 少々見づらいが、左手にあるトラックの屋根の上の信号を見ていただければ分かるように、道路を横断する側は「赤」なので、人も電車も信号待ちをしている。これが、”路面電車”たる所以なのである。 

松陰神社を散策する

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松陰神社の鳥居

 世田谷線には駅が10あるが、もっとも出掛けたくなる名前の駅が「松陰神社前」だ。駅からは参道のような商店街があり、その名も「松陰神社通り」という。駅から北へ300mほど行くと神社の鳥居が目に入る。鳥居の左側に、この神社の由緒が述べられた掲示がある。この地は長州藩主の別邸があったところで、松陰が刑死した4年後、門人たちによってこの地に墓が改葬され、さらに1882年に松陰を祀るための神社が創建された。私は、山口県萩市には幾度となく出掛けており、その際には必ず、当地の松陰神社に訪れるのだが、世田谷区にあるここは、今回で4度目の訪問だ。

 幕末には魅力的な人物(司馬遼太郎の影響が大きい)が多々現れているが、個人的には吉田松陰にもっとも好感を抱いている。その思想こそ私とは大きく異なるが、その壮絶とも言える生きざまに魅力を覚えるのだ。丁度、フランス革命時のロベス・ピエールの如くに。

 松陰は5歳の頃からスパルタ教育を受け、9歳のときには藩校の『明倫館』に出仕し、翌年には教授をおこなっている。神童という言葉が彼には相応しい。この点にはただ驚くだけだが、私が松陰を好むのは、友人との東北旅行の約束を守るだけのために脱藩したこと、日米和親条約の締結を終えたペリー艦隊が下田に滞在しているとき、その船に乗り込もうとしたことなどの行動力に、である。とくに後者は、「外国の文化を直に学ぶため」とされているが、一方で、「ペリーを暗殺するため」という説もあるようで、個人的には、”暗殺”を試みようとしたというほうが、松陰の生き方としては正しいように思われる。”至誠にして動かざる者は、いまだこれ有らざるなり”の言葉そのものの生き方をしたのだから。

 また、松陰は陽明学最左派の李卓吾の影響を受けており、彼の著作である『焚書』をよく読んでいたという点も興味深い。「相手が出世間の学人でなければ、一緒に学問を論じることはできない。しかし、世俗を超越した人とはなかなか出会えるものではない」(『続焚書』より)という隠遁生活を希求した李卓吾の考え方と、革命家でもある松陰の思いとは必ずしも一致するものではないかもしれないが、松陰の生き方にはどこか超俗的な面があるのは確かで、この点、相通じるものはあったのかもしれない。そういえば、李卓吾は「童心」を最重視していた。これは「いつわりのない真心」という意味で、この点では松陰とはピッタリ合致すると言えるだろう。

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神社内にある松陰像。視線の先には、松下村塾を模した建物がある

  神社内には吉田松陰像があり、その向かいには松下村塾を模した建物もある。松陰の門下生には優れた人物が多かったが、彼らは皆、早世した。あまり目立たなかった者が生き残って維新後に権力を握った。松陰の理想とする世界とはかなり隔たった政府の有り様だったろうが、このように”過激な思想”は歴史的には常にファインチューニングされ、大局的に歴史は”漸進的”に発展する。ロベス・ピエール後のフランスがそうであったように。

世田谷にも城があった

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建物はないが、空堀、石垣、土塁などが残っている

 世田谷にも城があった。目黒でも”サンマが取れた”ぐらいなので、ここに城があってもおかしくはない。15、6世紀にあった平城で、奥州吉良氏が城主だった。吉良氏は足利氏の一門で、元は三河を本拠としていたが、やがて奥州探題となって足利氏を支えた。しかし衰亡し、足利氏の援助を受けて世田谷に居を構え、小田原城攻略の際の豊臣勢にここを奪われるまで続いた。建物はまったくないが、写真にあるように石垣など、その痕跡はある程度残っている。

 現在は世田谷城阯(じょうし)公園として整備されている。ひっそりとした森があり、静かに読書する人、犬につられて散歩に来た人などが散見された。

上町車庫と「江ノ電601号」 

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上町駅の横にある車両基地には色とりどりの電車が待機している

 世田谷城と世田谷八幡宮は吉良氏つながりで関連性があるので、城阯公園の次は八幡宮と考えたのだが、三軒茶屋方向に進む電車から「上町車庫」が見え、それが気になっていたので寄り道をした。といっても、世田谷線は駅間が短いので、この寄り道でも数百メートルの距離でしかないが。

 世田谷線は2両編成の車両が10編成ある。各編成は色分けされているので、見ているだけで楽しくなる。写真左のオレンジ色の車両が三軒茶屋に向かっている上り線で、右手の3編成が待機中の車両だ。軌道には草が茂り、「草原(くさはら)電車」という名が相応しい、のどかな世田谷線である。

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宮の坂駅横に鎮座する”江ノ電601号”

 世田谷八幡宮は、宮の坂駅のすぐ西側にあるが、その駅の横を通るとき、古ぼけた車両が展示してあるのが目に入った。かつて玉電で使われていた車両で、玉電本線が廃線になった際、一部の車両は当時、東急の子会社であった「江ノ電」(現在は小田急系)に払い下げられたのだった。600系車両の1番なので”601号”なのだが、江ノ電での第二の生活を終えたのち、里帰りしてこの宮の坂駅横に展示された。乗り降りが自由にできるので、現在は、子供連れの女性たちの社交場にもなっているようだ。

世田谷八幡宮ののどかな境内では?

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世田谷八幡宮では神職がカメラマンも務める!?

 世田谷八幡宮は、世田谷城を拠点とした吉良氏がこの地を支配したときに整備したものだ。この地域の神社としてはなかなか有名なようで、秋の例祭では”奉納相撲”が農大の相撲部によっておこなわれるそうだ。

 敷地内には世田谷招魂社や厳島神社などがあり、のんびりと散策するのにも適した場所である。私は信仰心はまったくないが、こうした森閑とした場所を徘徊するのをとても好んでいる。

 この日はたまたまある家族の”出産祝い”があったのだろうか、神職がにわかカメラマンとなって記念撮影をしていたのがとても微笑ましかった。この風景は、神道だけでなく、プロテスタンティズムにも浄土真宗にも通じるものであろう。

豪徳寺と井伊家と招き猫

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豪徳寺の本殿は1967年に新造された

 かつて世田谷区の半分の土地を所有していたという豪徳寺は、彦根藩井伊家の菩提寺である。この辺りは先の吉良氏が所有していたのだが、それが滅んだ後、徳川家の譜代大名であった彦根の井伊家の所領になった。

 井伊家に伝わる伝説では、2代目藩主の井伊直孝がこの地で鷹狩りを行った際、寺の白い飼い猫が手招きをしたので、それに応じてこの寺で休息をとった。すると、急に猛烈な雷雨となり、近くの大木に落雷した。雷雨の被害に遭わずに済んだ直孝は、そのお礼に大量の資金を寄進し、そのお蔭で豪徳寺が再建されたとのこと。この手の話はよくあるので、あくまでも”伝承”にすぎないのだろうが、豪徳寺では”猫が福を招いた”ということで、”招き猫伝説”を広めることになったそうな。

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招福観音横には招き猫の置物がたくさんあり、観光名所になっている

 三重塔の干支(えと)の彫り物には、ネズミの中に猫が混じり、「招福観音」境内の中には、招き猫の置物が多数並べられている。私が訪れたときには大勢の外国人観光客がいて、とても興味深そうに招き猫の陳列を眺めていた。

 この招き猫はここで置物を買い求め、福が生じたのち再びここを訪れ、お礼にその置物を奉納したというものが多いそうだ。

 ここの招き猫は”右手”を挙げているが、他では”左手”を挙げているものもある。右手は”金”を招き左手は”人”を招くそうだ。豪徳寺の伝承では白い猫が右手を挙げて直孝を招いたので、ここの場合は”右手を挙げた白い猫”がすべてである。

 招き猫といえば、彦根市ゆるキャラひこにゃん”はこの豪徳寺伝説がルーツになっている。10年近く前、私が彦根城を訪れた際、いつになく騒がしい人の群れがあった。私も好奇心があるのでその群れに近づいた。なんと、”ひこにゃん”が地元のテレビ番組の撮影のために彦根城に来るとのことだった。それを聞くと、馬鹿々々しくなってすぐにその場を離れた。"ひこにゃん”はそれまでその顔つきからイヌだと思っていたが、そのとき、”にゃん”だからネコなのだと気づいた。にゃんとも恥ずかしい誤解だった。ともあれ、”ひこにゃん”の”白さ”は豪徳寺の猫の色に、その被り物の”赤”は「井伊の赤備え」に由来するそうな。

 豪徳寺以外では、両手を挙げたり、色も白以外のものもたくさんある。”招き猫伝説”は各地にある(空海説や浅草説など)ため、いろんな招き猫が”開発”されているようだ。私の場合、伝承には興味があるが、置物そのものにはまったく興味がわかないので、仮に招き猫の置物を頂いても、すぐに「もやさないごみ」の袋に入ることになる。

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吉田松陰とも因縁がある井伊直弼の墓

 豪徳寺彦根藩菩提寺であるため、井伊家代々の藩主とその室の墓がある。当然、”安政の大獄”で名高い井伊直弼の墓もある。吉田松陰はこの大獄に連座して1859年に処刑されたのだが、その翌年、井伊直弼も”桜田門外の変”にて暗殺されている。松陰が処刑されてから5か月後のことだ。

 吉田松陰は”松陰神社”に眠り、井伊直弼は”豪徳寺”に眠っている。因縁深いこの二人の墓は、直線距離にすれば約1キロのところにある。

山下駅豪徳寺駅

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山下駅を出て宮の坂駅に向かう世田谷線。上にあるのが小田急豪徳寺駅

 世田谷線から豪徳寺に行くには山下駅宮の坂駅を利用する。参道から山門に至るには宮の坂駅のほうが少し近い。しかし、小田急線の豪徳寺駅に隣接しているのは山下駅なので、実際には山下駅で下車する人の方が圧倒的に多いようだ。山下駅からは小田急豪徳寺駅の前を通り、結構にぎやかな商店街を抜けて豪徳寺に至る。

 世田谷線の車内でも”小田急線の豪徳寺駅をご利用の方はここでお乗り換え下さい”といったような放送がある。これならば、”山下駅”のような豪徳寺をまったくイメージできない名前より”豪徳寺駅”を使った方が、利用者にとっても分かりやすいと思うが。

 写真からも分かるように、世田谷線の白い車体には”招き猫”がデザインされている。猫は白く、右手を挙げている。いわゆる”豪徳寺パターン”である。ならば、豪徳寺には敵愾心はないと想像できるので、豪徳寺駅への変更は可能だろう。それとも、小田急線への敵愾心なのか。ちなみに、下高井戸駅世田谷線京王線も共通している。邪推すれば、世田谷線には”松陰神社前”があるからなのだろうか。

世田谷線には月見草がよく似合う

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草原の中を走る世田谷線

 世田谷線は沿線の人にも愛されているようで、線路脇には住民の協力によって花壇が多く設えられている。アジサイタチアオイが多いので、6月には美しい花の中を走るカラフルな電車が見られるし、一方、乗客も色とりどりの景色を望むことができる。

 私が徘徊していた時期は、上記の花たちは花芽を膨らませてはいたものの開花には至っていなかった。咲いていたのは大方、”貧乏草”(ハルジオンやヒメジョオン)だったが、松原駅と下高井戸駅の間にある赤松公園脇では、線路内に咲く”ヒルザキツキミソウ”が満開になっていた。これは植栽ではなく自生したものだろう。

 ツキミソウは初夏の花の中では好きなもののひとつで、これとアカバナユウゲショウが路傍に咲いているのを見ると、「もうすぐ鮎の友釣りの季節だなぁ」と想う。どちらもマツヨイグサの仲間で、5月初旬から開花する”雑草”の一種である。それにしても、名称が優雅で、牧野富太郎先生には叱られるが、この属の花だけはカタカナ表記ではなく漢字表記したい。”待宵草”属の”昼咲月見草”や”赤花夕化粧”というように。

 ともあれ、月見草が咲く中を走る世田谷線を撮りたかった(三軒茶屋に向かう電車の中からこの花が咲き誇る姿を見つけていた)ので、下高井戸駅に向かうときに、ここでカメラを花の前で構えつつ、電車が来るのを待った。

 富士ではなく、世田谷線には月見草がよく似合う。

古さが魅力の下高井戸駅界隈

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高井戸駅に入線する招き猫カラーの世田谷線

 下高井戸駅は新しくなり、車両もまた新しくなって古の面影はないが、下高井戸駅から一歩外に出ると、私が京王線の車内からずっと以前に見ていたままの景色がそこにはあった。下高井戸駅前市場や下高井戸商店街である。単なるノスタルジアだけでなく、ここでは人の営みを感じることができる。

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高井戸駅前市場には”人と人との近接感がある”

 私の地元では古い商店街をすべてつぶし、店は大部分、大きな建物の中に閉じ込められた。そこには歴史はなく、歴史を残すこともない。

 世田谷線は新しくなったけれど、沿線には数々の古い町並みが残っていた。人と人との距離の近さ、それがこの沿線の一番の魅力なのだ。