徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の徘徊模様

〔11〕駒込界隈を巡る

武蔵野台地のヘリを訪ね歩いてみた

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六義園の内庭に至る門

 駒込界隈には特別な用事はほとんどないのだが、時折、この町を散策してみたくなることがある。この地では時(とき)は幾筋もの流れをもっていて、人の歩みでは追いつけない時、数百年いや数千年前に止まってしまった時、文明の流れより遥かにゆったりと流れる時、人の息遣いに同調して流れる時など、この地はいろいろな容貌を有しているようだ。

 本郷に用事があって、それが早く終わったときは本郷通りをゆっくり北上し、都度、寄り道をしながら駒込駅まで歩く。まれに駒込に行く必要が生じたときは、予定された時間よりかなり早く到着し、駅周辺を散策する。駒込の町は豊島区に属するが、南へ行くとすぐに文京区になり、北や東に行くとすぐに北区になる。駒込武蔵野台地のヘリにあり周囲には坂が多い。このため行政区域の境が複雑に入り組んでいるのだろう。

 駒込の地名の由来は、駒=馬、込=混、で「馬が多く集まっているところ」だそうだが、その一方、駒も込も同時に混に通じるとするならば、「地形が入り組んでいるところ」と解することもできそうだ。どちらが正しいか、あるいはどちらも異なるかは別にして、この地形がこの地の魅力を生み出してきたのは確かである。

谷田川の流れが駒込の地形を造った!?

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駒込駅の横にも坂がある

 「大地は神が造った。ただ、オランダだけはオランダ人が造った」という有名な言葉があるが、駒込の地形は、地区の東を流れていた「谷田川」がその創造に貢献している。この川は現在は暗渠化されているのでその流れを見ることはできないが、その上を「谷田川通り」の名の道路が走っている。この川は、現在は台地のヘリから出る湧水が道路下を流れるだけだが、かつては石神井川の主要な通路でもあった。このため流路はかなり広かったようで、現在の駒込駅の東側まで段丘崖を造っている。

 もっとも、駒込は山手線の駅がある町なので周辺の開発のスピードはすさまじい。段丘崖であったという痕跡は少なく、なだらかに整地された斜面が大半だ。その限り、「駒込の地形は谷田川が造った。ただ、駅周辺はデペロッパーが造った」といっていいのかもしれない。

六義園を初めて訪ねる

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入口すぐにある記念撮影どころ

 六義園駒込駅のすぐ南側にある。もっとも、駅近くの染井門(駅から徒歩2分)は通常時には閉鎖されており、入口(正門・駅から徒歩7分)は庭園の南側にある。入園料は300円。敷地が8万8千平米もある「回遊式築山泉水」なので見どころは多い。とくに内庭に入るとすぐ目の前にある「しだれ桜」の巨木は有名で、3月の開花期には大名行列ならぬ大行列ができる。秋の紅葉シーズンも人気があり、ともにライトアップされることでいっそう艶やかになる。駒込六義園がある場所は文京区本駒込)はツツジも有名な場所だが、私が訪れた5月末は時季外れでツツジは終末、アジサイは尚早といった感じで花は少なかった。それでも新緑は美しく、とても都会にある庭園とは思えないほど緑は濃かった。

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藤代峠から大泉水を望む

 六義園徳川綱吉側用人だった柳澤吉保が、和歌の趣味を基調として造らせた大名庭園だ。吉保は「むくさのその」と呼んでいたが、現在は「りくぎえん」と読まれている。「ろくぎえん」でも良さそうだが、ここは漢音できちんと「りくぎえん」と呼ばれている。意外に知られていないが「六」は”りく”が漢音で”ろく”は呉音だ。

 呉音は6世紀ごろ、仏教とともに大陸から流入されたので、仏教用語の多くは呉音で読む。「六道」は「ろくどう」が呉音読みで「りくどう」が漢音読みだ。また古く(平安期以前)から日本に流入した言葉も呉音で読むことが多く、律令用語や万葉仮名も呉音読みが基本だ。たとえば「令」は呉音で「りょう」、漢音で「れい」。当然、『万葉集』の言葉は呉音で読むはずなのだが‥‥。

 一方、現在は呉音や漢音の区別は良い意味でいい加減で、読み方にこだわると「東京」は漢音読みで「とうけい」、呉音読みで「とうきょう」となる。実際、明治期には漢音読みにこだわり、東京を「とうけい」と言っていた人が多かったらしい。まあ、言葉は融通無碍なので「言ったもん勝ち」なのである。「れいわ」のような例は多い。

 閑話休題、「六義」の名から儒教思想を連想したのだが、実際は中国詩の六つの類型にならった和歌の六体を意味しているそうだ。「風」「雅」「頌(しょう)」「賦」「比」「興」の六つで、前三者は詩の性質・内容、後三者は詩の表現を意味するとのこと。このため、万葉集をはじめとして多くの和歌にうたわれた和歌山県の名勝地(本家は中国の古典)が庭の素材になっている。写真のキャプションにある「藤代峠」は園内の築山だが、この名は和歌山県にある峠名から借りたものだ。

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大泉水に浮かぶ蓬莱(ほうらい)島。向かいにあるのは吹上茶屋

 海をイメージした”大泉水”には「蓬莱島」が浮かんでいる。この島の名の”蓬莱”は神仙思想のひとつで、蓬莱という仙境には仙人が住んでいると考えられた。

 ”蓬莱”と聞いてすぐに思い浮かぶ人物といえば、秦の始皇帝に使えた方士の徐福だろう。始皇帝に”不老不死の霊薬”を探すといって、蓬莱島(山)へ出掛けるための莫大な資金を拠出させ、東方に旅立って秦に戻ることがなかった人物だ。

 彼は山東省出身なので、その地の東方にある島といえば日本とも考えられる。実際、日本には”徐福伝説”が多く伝承されている。たとえば、和歌山県新宮市には”徐福の墓”とされるものがあり、その地は現在「徐福公園」として中国風の楼門や大きな徐福像があり、私もそこには何度か訪れたことがある。もっとも、徐福公園に行くことが目的ではなく、第一には作家、中上健次が18歳まで過ごした土地の空気に触れるため、第二には「熊野速玉大社」や「熊野本宮大社」へ訪れるための拠点として新宮市に宿泊し、たまたま散策中にその公園を見出しただけなのだが。

 ともあれ、ここ六義園には、和歌山の景観や和歌に詠まれた名勝地、古代中国の伝承などが吉保のイメージによって再現され「八十八境」として具象化されている。

江戸庶民の富士山信仰が生み出した神社

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江戸庶民が熱狂した富士信仰の一拠点

 六義園の次に向かったのは、やはり文京区本駒込にある「駒込富士神社」だ。

 江戸時代の庶民の間には「富士信仰」が流行した。富士は”不死”もしくは“不尽”に通じるため、富士講と呼ばれる巡礼組織が数多く作られた。最盛期には「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど盛んだったらしい。もっとも庶民には本当の富士山に出掛けるのは体にも懐にも負担が大きいので、富士山の小型版を町内に築いた。これが富士塚と呼ばれるもので、高さは4~10mのものが大半だ。

 駒込富士神社にある富士塚は、この地にあった前方後円墳の円墳部分を利用したという説がある。写真にはないが、右手には本物同様、岩穴もある。ここの特徴といえば、町火消の人々に愛されたということから、彼らの旗印である”纏(まとい)”の絵や火消の組を表す石碑がたくさんあることだろう。

坂を下ると都電の姿が目に入った

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坂の下に見えた都電の姿

 神明都電車庫跡公園に向かった。駒込界隈は細い路地が複雑に入り組んでいるので、どの方向に進んでいるのか分からなくなることがある。しばらく迷ったのち、写真の景色が目に入ってきた。視線の先に”都電”の姿があったので、そこが目指す公園に違いなかった。この緩い坂もかつては急だったはずだ。

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1949年に造られた6063号。最後は荒川線で活躍した

 公園内には写真の車両だけでなく貨物車もあった。しかしどちらも柵の中に鎮座しているため、乗ることはおろか触れることさえできなかった。この6000形の車両は都電では一番多く用いられていたため、私がイメージする”チンチン電車は”はこの姿だ。

 公園内には緑が少なく、やや厳しめの日差しの下では長居はできそうになかった。植物としてはビヨウヤナギとランタナ(写真の花)がよく咲いていたが、アジサイは開花の始まりで、七変化の一変化目だった。

段丘のヘリに造られた駒込東公園

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緑が多い公園で、しっかり段差もある

 駒込東公園は豊島区にある。文京区からまた駒込駅近くに戻ってきた。前の公園は段丘崖の下にあったが、また坂を上ってここにやってきたのだ。ここは丁度、崖のヘリにあり、公園自体もこの段差を利用して造られている。もちろん、この段差は前述した谷田川が生み出したものである。さほど広くはないが、緑がとても多いためか木陰にあるベンチに腰掛けて休憩している人が4人いた。ここでは、時間はゆったりと流れているようだった。

アザレア通り駒込駅東口に通じている

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庶民的な香りがするアザレア通り商店街

 公園を出て、次なる目的地である「中里第二踏切」へ向かう途中、「アザレア通り商店街」に出た。この通りの背中の先には駒込駅東口がある。 なかなか庶民的な香りがする商店街で、下町ならではといった感じだ。

 アザレアはツツジの英名で、写真のようにツツジの花がしっかりと描かれている。ツツジソメイヨシノと並び、駒込を代表する花だ。豊島区の花にも指定されている。もっとも、元園芸ファンとしては簡単には肯けないものがある。アザレアは園芸の世界では西洋ツツジを意味するからである。ここはせめて「つつじ通り」と呼んでほしかった。

 こういうことはこの世界ではよくあり、アジサイといえばガクアジサイや西洋アジサイを指し、小型に改良された園芸品種は学名から採ってハイドランジアと呼んでいる。ちなみに、ハイドロは水のことである。アジサイには雨がよく似合う。

今のうちに見ておきたい、山手線唯一の踏切

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山手線唯一の踏切。もうすぐなくなるかも

 駒込界隈に来たとき、必ずと言って良いぐらいの頻度で立ち寄るのが、ここ「中里第二踏切」だ。駒込駅と田端駅との間にある、山手線唯一の踏切である。駒込駅東口から徒歩数分のところにあるので、さほど時間に余裕がないときでさえ大抵の場合、この踏切の近くに立って、山手線が通り過ぎるのを待つ。これが中央線だったり南武線だったりすれば当たり前すぎる景色なので、わざわざ見に出掛けようとはしない。山手線の踏切であることに価値がある。

 しかし、山手線と谷田川通りが交差するこの踏切も、2020年に立体交差に向けた概要が決定されるというので、そう遠くない将来この姿は見られなくなる。そうなると、私にとって駒込に来る動機は相当希薄になる。そのように思うと、山手線の車両にデコレートされた「スシロー」の宣伝写真が悲しみを帯びて見える。クルクル回る寿司も、最近は回らなくなってきているし、クルクル回る山手線には踏切がなくなるし‥‥近代化は人の心身を疎外する。

初めての旧古河庭園~美の背後にあるもの

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5,6月はバラの季節。訪れる人は多い

 旧古河庭園は北区西ヶ原にあるが、駒込駅からも10分ほどの距離にあるので最寄り駅のひとつになっている。本郷通りの妙義坂を下って上って庭園の入口に至る。この下り上り、すなわち谷状の地形も、谷田川が形成したものだろう。

 六義園同様、この庭園に入るのは今回が初めて。「浅見光彦」を探しにこの近くへは何度も来たことがあるが、たとえ150円という格安料金で美しい建物や庭園に触れられるとしても、やはり「古河」の文字には抵抗があった。

 大正時代に整備されたこの庭園は、古河財閥の3代目の古河虎之助(古河市兵衛の実子)の邸宅として1919年に整備された。石造りの洋館は段丘上に、洋風庭園は段丘崖に、日本庭園は段丘下というように、武蔵野台地のヘリをうまく使ったとても趣きのある空間である。広さは約3万平米で、おおよそ六義園の3分の1だ。

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心字池を中心にした日本庭園

 バラが開花中のこともあってか日本人女性の姿が目立ち、男女比は2:8といったところ。外国人観光客も多いが、こちらは日本庭園の方に興味がありそうだ。洋館や洋風庭園に見られた騒々しさもないので、のんびりと散策するには断然、こちらの方が良い。雪見灯篭、枯滝、十五層塔などの配置も素敵だ。

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大滝は段丘崖の段差を利用している

  段丘崖の西側はなだらかに成形され、そこにバラ園やツツジ園を配置し、東側はその段差をうまく利用し、森の中で音を立てて落下する滝を演出している。写真ではうまく表現できていないが、実物は見事に「自然美」を再現している。

 この広大な敷地は、幕末から明治期に活躍した陸奥宗光が明治20年(1888年)頃、別宅にするために購入した。陸奥といえば幕末には坂本龍馬と常に行動を共にし、勝海舟の海軍操練所にも入った。維新後は一時、不遇期はあったが、伊藤博文山縣有朋らの助力もあって、政治家として活動した。とくに外交面で手腕を発揮し、幕末期に結ばれた不平等条約の改正(治外法権の廃止)を成し遂げたことは、歴史の教科書にもよく出てくる業績だ。

 が、勝海舟陸奥を”人に使われるときは才能を発揮するが、人の上に立つ器ではない”というように評したように、負の一面がある。それは、1891年の帝国議会での対応に現れる。田中正造足尾鉱毒事件における古河側の責任を問う質問主意書を提出した際、陸奥は「主意書の意図は不明」として誠意ある回答を示さなかったのだった。

 陸奥の次男であった潤吉は、当初、実子のなかった古河市兵衛古河財閥一代目)の養子となり二代目を継ぎ古河鉱業を興した。この二代目のときに足尾鉱毒事件は最悪期を迎え、田中正造の戦いは本格化した。田中が私財を投げうって反対運動を進めているとき、陸奥は西ヶ原の一万坪弱の土地を別宅にするために購入したのだ。この土地は二代目のときに古河財閥のものとなり、三代目によって大庭園が完成するのである。

 私の心のどこかにこの知識が居着いてため、この庭園を避けていたのかもしれない。政治家としての陸奥への評価は高いが、人としての評価は格段に低い。

ソメイヨシノ発祥の地

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ソメイヨシノはこの蔵のある地で栽培された

 写真の旧丹羽家住宅蔵は駒込3丁目にあるが、かつてこの一帯は染井村と呼ばれていた。”染井”は地名としては残っていないが、写真の掲示板のようにこの名前を使うことは多い。”染井通り”、”染井稲荷神社”、”染井霊園”などで、私が旧古河庭園から歩いてこの住宅蔵のある広場に来たときも”染井坂通り”を上ってきた。この住宅蔵は1936年に造られたものなのでソメイヨシノには直結しないが、この蔵を建てた丹羽家とは大きな関連がある。

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門と蔵のある広場は植木職人の丹羽家の敷地だった

 丹羽家はこの染井地区では有力な植木職人だったことは、写真の”腕木門”からも想像できる。腕木と呼ばれる梁(はり)で屋根を支えることから腕木門というそうだが、一介の職人ではこのような立派な門を構える家を持つことはできない。この地で江戸後期、エドヒガンザクラとオオシマザクラが偶然なのか意図的なのかは不明だそうだが交配され新種のサクラが誕生した。いくつか生まれた中からもっとも特徴的な1本を選び、それを接ぎ木して増やしたということが現在分かっている。

 はじめはサクラの名所である奈良の吉野山にちなんで”吉野桜”と名付けられたが、吉野にあるヤマザクラとは異なる種であることが分かり、この地にちなんで”ソメイヨシノ”と名付けられて日本中に広まった。あくまで"吉野"にこだわっている点が面白い。学名は"Prunus×yedoensis"である。ここには染井も吉野もなく、江戸が入れられている。

 ここで160年ほど前、ソメイヨシノが誕生したと考えると、この何の変哲もない広場がなんだか輝かしく見えてくるから不思議だ。

太田道灌ゆかりの神社

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太田道灌が3度祈願し3度とも勝利した「戦勝の宮」

 グーグルマップを見て駒込駅へ行く道を探していると「妙義神社」の名を見つけたので立ち寄ってみることにした。神社にではなく”妙義”のほうに惹かれたのだ。群馬県にある妙義山はその奇妙な形に興味があるのでよく出掛けるが、その地にある妙義神社駒込妙義神社の関係にも少し関心があった。が、その関係は不明だった。もっとも、”妙義”そのものの語源が諸説ありすぎてまったく解明できないのである。

 群馬の妙義神社は家内安全、商売繁盛、交通安全、合格祈願など庶民の現世利益を実現してくれるようだが、駒込のほうは”戦勝の宮”、”勝負の神様”という群馬のそれとは少し毛色の違う神社のようだ。その理由は、ここに戦勝を祈願した太田道灌と関係があるようだ。

 戦上手としてよく知られた道灌だが、やはり神にすがることはあったようで、この妙義神社には3度戦勝を祈願し3度とも勝利した。そのために道灌は様々なものを寄進したという記録が残っているそうだ。残念ながら太平洋戦争でそのすべては焼失した。それでも、道灌との関係を知る資料は他に残っていたようで、再建する際には”道灌霊社”が造られている。

 現在は古くなった社殿や境内にある建物を復興造営中のため境内は狭くなっているため、ここでゆっくりすることはできなかった。

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四辻の中央にある電柱

 妙義神社から本郷通りに出る参道はとても細い。現在は住宅が密集しているが、利便性を高めるためか安全性を確保するためか、少しだけ道が拡張されている。しかし、電柱だけはかつてからあった位置に残されているので、四辻のほぼ中央に立っていることになった。これも、下町ならではの光景かもしれない。

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妙義坂にある子育地蔵尊

 本郷通りに出た。駒込駅方向からくると下り、旧古河庭園方向に進むと上り、この坂は”妙義坂”と命名されている。妙義神社があるからだ。東京には坂が多い。当然、近くの神社に由来するものも多い。”阿弥陀坂”、”無縁坂”、"観音坂”、”地蔵坂”、"不動坂”など無数にある。

 妙義坂の途中にあるのが写真の子育地蔵尊だ。地元の有志が子孫繁栄を祈願してお堂と地蔵尊を建立したのだが、戦争末期の空襲によって消失し、地蔵尊だけが再建された。地蔵堂の中には二人の少女の供養碑もある。かつてこの近くで交通事故で亡くなった少女を供養するものだそうだ。以来、この地蔵尊は子孫繁栄だけでなく、交通安全も見守っている。

下町情緒のある駅前通り商店街

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駒込駅東口に通じる駒込銀座通り

 谷田川通りと駒込駅東口を結ぶ細い通りが駒込銀座通り。写真のようにここを通る人はかなり多い。その狭さとおおらかな雰囲気は下町情緒たっぷりといったところ。実際には、どこの駅前にもある店も多いのだが、その一方、地元ならではの店が混在し、感じの良さを生み出している。

 最近では「さつき通り」の垂れ幕を飾り、「銀座通り」からの脱却を図っているようだ。前述した、駅の東口から南東に伸びるのが「アザレア通り」、北西に伸びるのが「銀座通り」改め「さつき通り」となれば、ツツジの仲間での対比が生まれる。4から5月はツツジ、5から6月はサツキの季節。いい塩梅である。

 駒込界隈を巡り、関連するいろいろな人物名に出会った。古河市兵衛であり田中正造であり太田道灌である。このブログで触れた人物だ。徘徊にはいろいろな発見がある。次はどんな人物や事柄に出会うことができるか、楽しみは尽きない。

 

★このブログは毎週土曜日の更新を心掛けてきましたが、6から9月は鮎釣りシーズンのため、しばらくは10日、20日、30日に更新させていただきます。天気と気分と出会い次第で変わりますが。