終わりなき日常を旅する

徘徊老人・まだ生きてます

〔14〕ヨーコを探して港へ(1)横浜慕情

ヨーコの原像を探すために横浜へ出掛けた

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山下公園の正門付近から海方向を望む

 ヨーコの名には格別な思いがある。ありふれた名なので、記憶にあるだけでも同級生には「洋子」「庸子」「陽子」「容子」がいたし、社会人になってからも「燿子」「葉子」「曜子」「瑶子」という名の知り合いができたように思う。

 が、私が探しているヨーコはそのどれでもなかった。追い求めてきたのはヨーコの原像となりえる存在であり、かつヨーコのイデアともいえる存在なのである。この思いが強くなったのは1975年からなので、すでに45年ほどの歳月が流れている。齢を重ねるにつれてその思いは次第に弱まってきてはいたものの、それでも通奏低音のようにこの思いは心の奥底にとどまり続け、今になっても消え去ることはなかった。それどころか、散策という名の徘徊を始めてから、内側に閉じこもりがちだったこの思いは再び心を強く支配するようになった。そこで、今回はヨーコの原像を探すべく「みなと横浜」に出掛けてみることにした。

 ヨーコを探すカギは3つあった。これは1975年に受けた啓示だ。「港周辺」「長い髪」「仔猫と話す」の3点だ。

 「長い髪」はカギではあるがヒントにはならない。なぜなら女性の「半分弱」が長い髪だからである。そういえば今は亡き「范文雀」もその半分弱に属し長い髪を有していた。美貌と演技力で高い評価を受けていた女優だが、私には「ジュン・サンダース」のイメージが強かったので、彼女がシリアスな役でドラマに出たとしても、いつも気分は『サインはV』なのであった。それはともかく、「長い髪」はヨーコを探すヒントにはならないことは確かだろう。

 「仔猫と話す」もダメだ。猫好きの人は大抵、猫に話しかけるからだ。私がよく徘徊する公園では、話しかけるどころか餌まで与えている人が結構いる。そもそも仔猫が微妙だ。小猫なら小さい猫だろうが、仔猫は子供の猫ということなので判断が難しい。ジャイアントパンダは「大熊猫」と表記され、「シャンシャン」はまだ生後一年なので「仔猫」には違いないが、「シャンシャン」の見物客は大半がその仔猫に話掛けている~私は何を言っているのだ。

 ともあれ、「長い髪」や「仔猫と話す」はヒントにはならない。が、「港周辺」は重要なカギになりそうだ。女性は大方、港好きだし、長い髪を潮風になびかせている。それに港周辺には公園が多いので仔猫も居そうだ。田舎の港では概ね、暇なオッサンが釣りをしているだけなのでここは避け、やはりオシャレな都会の港を訪ねてみたい。そうなると横浜港か神戸港が双璧だ。という訳で、今回は私にとって身近な存在である横浜の港周辺でヨーコの原像を探してみることにした。

鶴見の港~ここも横浜

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鶴見線の終着駅のひとつ「海芝浦駅」

 鶴見が横浜市編入したのは1927年のことである。それまでの鶴見町は京浜工業地帯の中心として川崎市との結びつきが強かった。実際、鶴見は橘郡の一角を占めていたのだ。神奈川県の一部(大半は旧相模国)は旧武蔵国の南部三郡(橘郡、都筑郡久良岐郡)にあり、橘郡が現在の川崎市、後二郡が横浜市に該当する。

 鶴見は東海道が整備されてからは商業地として発展していたが、20世紀に入って海岸の埋め立てが推進されて以来は工業地帯に変貌する。それにともなって宅地造成も進んだが、肝心の水道設備が未発達だった。とくに京浜急行が開発を進めた生麦住宅地は上水道がないため、住民は「水汲み人」を雇い入れて飲料水を確保する状態だった。そこに手を差し伸べたのが横浜市で、合併を条件に上水道の供給が行われることとなり、編入した27年には上水道が開通した。

 その間も臨海工業地帯は発展し、26年には鶴見臨海鉄道(現在の鶴見線)が輸送を開始、29年には旅客輸送が認可された。鶴見線には現在、鶴見駅から扇町駅(川崎市)の本線と、海芝浦駅(鶴見区)や大川駅川崎市)を結ぶ支線がある。私はどの線に乗ったのかは忘却したが50年ほど前、一度だけ鶴見線を利用したことがある。大半が工業地帯で働く人が利用する鉄道のため実用本位で、南武線以上にボロの電車だったと記憶している。

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南武線と同格になった鶴見線の車両

 50年振りで鶴見線に乗った。鶴見駅から海芝浦駅までである。日中は本数が少なく、この路線は2時間に1本だ。鶴見駅を11時に出て海芝浦駅には同11分に到着する。初めはこれに乗って海芝浦駅で降り、駅の隣にある海芝公園で海の景色を観察し、帰りは適当な場所まで歩けば良いと考えた。が、よく調べてみると海芝浦駅は東芝の敷地内にあるため関係者以外は外に出られないことが分かった。一方、海芝公園は駅構内にあるためそこで時間をつぶすことは可能だが、乗ってきた電車は11時25分発なので滞在時間は14分しかない。しかし次の電車まで待つと、13時25分発となるのでその地に2時間14分もいなければならないのだということも判明した。公園自体は小規模で、間近に「鶴見つばさ橋」を見ることができる程度でしかない。駅自体は海に面しているのでこの点は興味深いが、外海に面しているわけではなく対岸にある扇島との間にある田辺運河に接しているだけにすぎない。こうした点から、2時間以上滞在する理由は見当たらなかったので、現地でよほどの発見がない限り乗ってきた電車で鶴見に戻るという計画にした。

 日中発なので鶴見駅からの乗客は少なく、3両編成の車両内はガラガラだった。その中の5名(私を含め)は首からカメラをぶら下げているので、私と同じ目的のようだった。実際、同じ電車で皆、鶴見駅に戻った。次の国道駅では大勢のガキンチョが乗り込んできた。聞けば、「社会科見学」で海芝浦駅まで行くとのこと。車内は一気に賑やかになった。

 それにしても、鶴見線の車両は写真のように現代化され、カラーさえ変えればそのまま山手線にも使えるという残念なものになってしまっていた。かの南武線の車両だって新しくなったので、いまさら焦げ茶色の車両は使っていないだろうと想像はしていたのだが。

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車内からつばさ橋を望む

 鶴見つばさ橋首都高速湾岸線にあり、大黒ふ頭を経て横浜ベイブリッジにつながる。つばさ橋の主塔は鶴の姿を連想させるのでベイブリッジより個人的には好ましく思っているが、駅から望む橋の姿は周囲の景観が単調なため、丹頂鶴のような優雅さは持ち合わせていなかった。これだけでは単調鶴になってしまうので、周囲の景色は無視して車内から駅と橋の主塔を撮影しようとした。そんなときに、騒がしいだけだったガキどもが公園から戻ってきたので、こいつらを画面に入れた写真を撮ることにした。枯れ木(いや若木か)も山(海か)の賑わいである。

 彼または彼女らの社会科見学は私同様、鶴見線に乗ることが目的だったようだ。これらガキども(100人以上いた)の何人かは50年後、再び鶴見線に乗り、感慨にふけることがあるやなしや。

パーキングと有料の釣り施設で知られる大黒ふ頭

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横浜港の入口にある大黒海釣り施設

 つばさ橋とベイブリッジをつなぐ位置にあるのが大黒ふ頭で、ここには首都高速湾岸線と神奈川大黒線をつなぐジャンクションもある。さらに、ジャンクションが造るループの間には、パーキングエリアがある。ここは世界的にも有名な!?PAだ。かつては暴走族のたまり場となり、現在でも車自慢の人々が多く集まることから、外国のメディアが取材に来たことがある。私は以前にはこのPAを使うことがあったが、いつも駐車場所を探すのに苦労したので、近年では入ることもなくなった。

 一方、ふ頭の先端(南端)には「大黒海釣り施設」があるので、以前は最低でも年に一度は取材で訪れていた。近年は管理者が変わり取材には事前申請が必要になったため、その手続きが面倒なのでここ数年はパスしていた。が、ここの釣り場は獲物こそ大したことはないが、景観は魅力的なので、PAの立ち寄りを止めてこの釣り場を久方振りにのぞいてみることにした。

 ここは横浜港の出入口に位置するため、港に入る(出る)大半の船はこの釣り場の目の前を通り過ぎる。先端にある赤灯台は、ここが入港時の右側であることを示している。向かいにはガントリークレーンが立ち並ぶ本牧ふ頭があるが、写真の左手にはそのふ頭にある「横浜港シンボルタワー」が見える。こちらは、入港時の左側を示す「白灯台」にもなっている。この赤灯と白灯の位置は、どこの港でも同じルールになっている。もちろん、出港時はこの逆に見え、外海に出るときは左手が赤灯台となる。

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釣り場の内湾側からの景色。横浜を彩る多くの建造物が見える

  釣り場の内湾側は写真の通り景観が良い。この釣り場は突堤(釣り場が造られる前は大黒赤灯堤防と呼ばれていた)の上に造られており、その形状は湾口を少しだけ狭めるようになっている。なので、外海側でも内湾側でも潮の動きはさして変わらないにも関わらず、そこは釣り人の性なのか少しでも外海側の方が好ポイントであると考えてしまうようだ。このため、景観の良い湾向きの方が釣り人の数は圧倒的に少ない。折角、景観が楽しめる釣り場なのだから、のんびりとベイブリッジ横浜市街の風景を眺めながら竿を出した方が心地よいと思うのだが。

 後姿が素敵な女性は、遠くの景色に目を向けることもなく懸命に釣りに専心していた。同行したと思われる隣の男性は、その熱意に感じ入る様子で温かい眼差しを送っていた。私が見ている間には何も釣れなかったが、その女性は終始、竿先に神経を張り詰めていた。その姿に私は、ほんの少しだけヨーコの原像を見出したのだった。

横浜を造った人のこと

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高島山から横浜港方向を望む

 私は高島台に立ち、今はビル群が壁となって視界を塞いでいるので見えないが、その先にある横浜港のことを思った。さらに、この横浜の地を造った人のことを。

 高島嘉右衛門は幕末に横浜村の土木工事で財をなし、いつしか国家的な事業を行いたいと考えていた。彼は、伊藤博文大隈重信を自分が作り上げた割烹旅館の「高島館」に招き、日本の発展のためには鉄道事業が必要不可欠であることを熱心に説いた。実際には、維新政府もすでに鉄道建設のプランを立て、東京・横浜間の鉄道敷設の建議書を作成していた。

 政府はイギリスから若き鉄道建設技師のエドモンド・モレルを呼び、彼を鉄道建設師長に任命し、新橋・横浜間の鉄道敷設の総指揮をとらせた。この際、もっとも難事業であったのが、神奈川(現在の神奈川区青木町付近)から横浜(現在の桜木町駅付近)間だった。当時ここは入海で、鉄道を敷くには大きく迂回するか堤防を築くかのどちらかしか選択肢はなかった。

 伊藤や大隈は堤防を築くことを提案し、その事業を請け負ったのが、高島嘉右衛門だった。長さ約1300m、幅約80mの巨大な堤防だ。幅80mのうち、20mほどは鉄道や道路に使い、残りは請負人すなわち高島のものになるという計画だった。ただし築堤期限はわずか135日、完成が一日遅れるごとに高島の権利は少しずつ奪われるという罰則付きだった。

 高島は築堤現場の背後に控えていた高台(大綱山、現在は高島山)に立ち、工事が完了するまでその場から連日、進捗状況を監督し無事、期限内に完成させた。晩年、高島はその監督の地を「望欣台(ぼうきんだい)」と名付けた。鉄道、道路以外の場所は横浜の中心街として大いに発展した。入海の多くはその後に埋め立てられた。それが、現在の西区高島を一帯とするところである。また、大綱山一帯も宅地整備が進み、現在は高島台と呼ばれている。その一角には高島山公園があり園内には「望欣台の碑」がある。

 高島嘉右衛門は易者としても名を成している。若き日に『易経』を暗記し、晩年には「易断」をおこなった。伊藤博文の暗殺を予言したことはよく知られている。彼の易断はよく当たったらしいが、彼は「占いは売らない」といってこれを商売に用いることを戒めた。現在、占いの本の多くは高島にあやかって「高島易断」を名乗っているが、これは高島嘉右衛門の占いの確かさの証左だろうか。

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井伊直弼の像。彼なくしては横浜の発展はなかった

 1853年にペリー艦隊が来訪し、翌54年に日米和親条約(通称神奈川条約)が締結された。これにより下田と箱館(函館)の開港が決まり、「鎖国」体制は終焉した。さらに米国は自由貿易を推進・拡大するために58年、日米修好通商条約(通称ハリス条約)の締結を迫った。これには神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港条項があった。大老井伊直弼天皇の勅許なしの調印を当初は拒んだが、ハリスの強硬姿勢に抗せず孝明天皇の勅許を得られぬまま調印した。

 神奈川の開港は1859年が期限。問題は神奈川のどこに港を建設するかだった。井伊は横浜村を勧めた。当時の横浜村は入海があって港には適した地形で、かつ東海道から離れた所にあり、民家は百軒程度という寒村だったからである。井伊は外国人をこの地に閉じ込め(第二の出島化)、できるだけ日本人との接触は避けたいという意向だった。一方、外国奉行の永井尚志や岩瀬忠震らは条約通り、東海道の宿場町である神奈川に港や外国人居留地を造るべきだと主張した。

 ハリスは、横浜だと東海道から遠く、途中には入り江や川があり、交通上とても不便であると主張して井伊の提案を拒否した。が、井伊はあくまでも横浜にこだわり、日本の外国奉行たちも結局、井伊の提案に沿って横浜の港町化を進めた。現在の海岸通りに住んでいた百軒程度の農民は元町に強制移住させ、港造り町造りが行われ、予定通り59年に横浜港が開港した。今から160年前のことだった。

 これにはハリスは激怒したものの、外国商人は横浜港の利便性の高さから続々とこの地に移住するようになった。結局、既成事実が条約の取り決めを上回ることになり、横浜港は順調に発展することになった。

 一方、井伊直弼には「安政の大獄」という負の側面を抱えていたため、1860年(万延元年)、桜田門外で水戸藩薩摩藩の脱藩者によって暗殺された。保守派ながら現実主義者だった井伊は、孝明天皇徳川斉昭らの排外主義によって46年の生涯を閉じたのだった。

 井伊直弼の墓は世田谷区の豪徳寺にあるということは第9回の「世田谷線」の項で紹介した。一方、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼の銅像は、桜木町駅の西側にある高台(掃部山公園)にある。直弼が倒れてから50年後の1909年に建造(54年に再建)された。日本経済発展の功労者でありながら、勤王の志士を弾圧し、天皇の意向に逆らったという点から、薩長を中心とする維新政府はなかなか許可を下ろさなかったのである。

 井伊が横浜村での港建設にこだわらなければ、時代の趨勢として神奈川に港が建設されたはずだ。江戸との交通条件を勘案すれば、神奈川区から鶴見区あたりが発展の中心となったはずで、現在の横浜市の中心街は、新興住宅地か工業地帯になっていた可能性は高い。こう考えると、今の横浜市の利害当事者にとって井伊直弼は「横浜市建設の父」と言えるだろう。井伊の強硬姿勢がなければ今頃は、神奈川県神奈川市に県庁があり、横浜区は18ある行政区のひとつだった蓋然性は意外に高いのである。

 こう考えると、ランドマークタワーを見つめる井伊直弼は「俺のおかげでお前はそうして立つことができたんだぞ」と威張って語っているような気がした。いや実際に。

みなとみらいの中心に足を進める

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臨港パークから高層ビル群を望む

 みなとみらい地区には3つのペデストリアン軸(歩行者動線)があり、写真の臨港パークはキング軸(横浜駅新高島駅から海岸線)の終点に位置する。みなとみらい地区では一番大きな公園だが、この周囲は開発がもっとも遅れている。10年ほど前はこの辺りにはよく来たが、周囲は空き地がほとんどで「みなとみらいの開発は失敗に終わった」などとよく言われていた。今回、久しぶりに臨港パーク周辺に来たが、空き地にもかなり建造物ができていた。これは「紙幣本位制バブル」が大きく影響していると思う反面、建物や会社名、店舗名を見ると、「未来の都市」とはおよそかけ離れた空間ができてしまったようにも感じられる。これらは田舎の郊外にあるショッピングモールと同等の姿であり、これが「みらい」なら未来には何の希望もないと言っていいだろう。

 臨港パークからの眺めで気に入っているのはランドマーク、クィーンズスクエア、2つのホテルの並びだ。これらは通常、汽車道大さん橋山下公園側から見ることがほとんどなので、この眺めは裏から見た「みなとみらいの表情」に思えてしまう。空間の逆位相と考えられてしまう点が面白い。

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臨港パークでは釣り人をよく見かける

 写真にはないが、この右手には「ぷかり桟橋」の建物がある。写真にあるのは桟橋の一部で、山下公園とを結ぶ水上バスや横浜港を周遊する観光船の発着場所となっている。パシフィコ横浜会議センターの裏手にあるためあまり目立つ場所ではない。このためか、写真のように地元の釣り人がよく集まる場所でもある。臨港パーク自体、みなとみらい地区では一番人影が少ないので、おじさんたちが集まって釣りの会議をするには最適なのかもしれない。向かいにはベイブリッジが見えるのでここが横浜であることはすぐに分かるが、橋がなければ、無名の港に集う老釣り人たちという風情だ。

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日本丸とランドマーク

 日本丸は大型練習帆船として1930年に竣工した。84年に引退してからは写真にある旧横浜船渠会社の第1ドックに係留・保存されている。全体が”日本丸メモリアルパーク”として公開され、ときには”総帆展帆”されるそうで、”太平洋の白鳥”と言われるほど美しいらしい。なお、姉妹船の「海王丸」は富山県射水市の新湊港に展示保存されており、こちらでは帆を広げているのを見たことがある。確かに息を呑むほどの美しさだったと記憶している。

 ランドマークタワー(高さ296m)は”みなとみらい”では一番高く、その横のクィーンズスクエアの3本のビル(一番高いA棟で172m)は海に近いほど低くなっている。つまり、このビルの並びは全体でひとつの波を表現しているのだ。その前にある美しい帆船がこの高い波を超えて前進する。演出が行き届いた、なかなかいい風景だと思う。

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横浜港内をスタンドアップパドルで散策

 汽車道に向かう途中、港内をスタンドアップパドル(SUP)で散策し、さらに大岡川方向に進む一群を見かけた。SUPは今、流行らしくあちこちの川や池、港などでよく見る。日本語では”立ち漕ぎボード”というらしいが、バランスを取るのが難しいように思われた。どこかのクラブの一行のようで、インストラクターの指示で川に向かって進んでいた。日本丸から汽車道に進む道は観光客がとても多いので、彼・彼女らは無数の視線を浴びていたはずだが、漕ぎ手は態勢を維持するのに必死で、ギャラリーの存在には気づいていない様子だった。大都会の中心を立ち漕ぎボートが行く。これもまた、波静かな入海をもった横浜ならではの光景なのかもしれない。

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かつての臨港線の鉄道を残したまま道は赤レンガパーク方向に進む

 臨港線は1911年に開通した旧横浜駅と新港ふ頭とを結ぶ貨物輸送鉄道だった。戦後は旅客列車も運行されるようになったが61年に旅客運送が、86年には貨物輸送が廃止され事実上廃線となった。それが、一部線路を残しつつプロムナード(散策路)として整備され、赤レンガパークからさらに山下公園付近まで続くのが写真の「汽車道」である。

 写真の桜木町付近では高層ビル群が間近に望め、改修された古い橋梁を渡って運河パーク方向に進む。ホテルの開口部を抜け、万国橋交差点を渡ると新港中央広場に至る。

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新港中央広場から赤レンガ倉庫2号館を望む

 新港中央広場には白いアジサイアナベル)が多く咲き、それにヤマアジサイが色どりを添えていた。さらに、ハクチョウソウが優雅な花を風に揺らしていた。その先に見えるのが、みなと横浜で随一の人気スポットとなった赤レンガパークである。

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赤レンガ倉庫2号館内には商業施設がある

 赤レンガパークには赤レンガ倉庫1号館、2号館、イベント広場などがある。1号館には文化施設、2号館には商業施設があり、人々の多くは2号館に集まっている。

 赤レンガ倉庫は、横浜築港の二期工事(1900~17年)のときに造られた。この二期工事で新港ふ頭は完成し、大型船舶が横付け可能となり、前述したように臨港鉄道が敷かれ、旧横浜駅(現在の桜木町駅)を経て東海道線につながった。

 1923年の関東大震災横浜市は壊滅状態となったが、赤レンガ倉庫2号館はほとんど被害を受けなかった。この倉庫に収容されていたのはアメリカ向け生糸だったとのこと。戦後は一時連合国軍に接収されていたが、56年に返還され日本の高度成長を担った。しかし、横浜港には新たに山下ふ頭や本牧ふ頭、大黒ふ頭などができ、また貨物のコンテナ化が進むにつれて赤レンガ倉庫の役割が逓減し、89年にその役目を終えた。一方で、みなとみらいの整備計画が進むと赤レンガ倉庫の新活用が早くから検討されており、2002年に整備が完了し、現在の赤レンガパークとなって再出発した。

横浜港の歴史遺産あれこれ

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塔が有名な横浜税関庁舎

 税関は開港当初は「運上所」と呼ばれ、入国管理事務と税関の仕事をおこなっていた。1859年の開港と同時に造られた。場所は現在の神奈川県庁の一角にあった。この運上所を中心に東側が外国人居留地、西側が日本人居住地と定められた。

 1866年の横浜大火(通称”ぶたや火事”)で運上所が消失したのち、68年、同所に新庁舎が建てられ名称も「横浜役所」に改められ管轄権は政府に移った。72年には現在の名称である横浜税関になった。

 1923年の関東大震災で庁舎が全壊し、34年、場所を少し港側に移し、海岸通りに面したところに現在の庁舎が竣工した。写真にある通りこの建物は緑色の高い塔を持っている。高さは51mで、当時、横浜ではもっとも高い建物だったそうだ。ちなみに、横浜港近くには高く特徴的な塔をもった建物が3つあり、横浜に入港する際に船員からもその塔の存在がはっきりと視認できたので、いつしか「キング」「クィーン」「ジャック」というトランプ(人ではなくカードのほう)から拝借した名前が付けられた。この税関の塔は「クィーンの塔」と呼ばれ、現在でもその名が残っている。

 横浜観光の通(つう)の間では、この「横浜3塔」が同時に見られる場所を訪れるのが流行だそうだ。年々、周囲には高い建築物が増殖するので、今では一遍に視認できる場所はとても少ないそうである。私には流行に乗じる習慣はまったくないので「聖地探し」に興味はないが、この3つの塔のある建物には個別に訪れている。

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象の鼻パークからみなとみらいを望む

 象の鼻防波堤は古く、1859年の開港時に”イギリス波止場”として造られたのがその原型である。当初は直線状だったが、これでは波に弱いので、67年に形を湾曲にして”防波堤”としての役割をもたせるようになった。この頃から「象の鼻」と呼ばれるようになったらしい。しかし、関東大震災で大きく損壊してしまったため、今度は先端だけが少し曲がった形の突堤として再建された。

 現在は、かつての「象の鼻」の形に復元されている。これは、周囲を「象の鼻パーク」として整備した際の一連の事業の中でおこなわれたものであり、2009年に竣工している。堤防自体には見るべきものはさほどないが、写真のように赤レンガ倉庫からコスモワールドの大観覧車、みなとみらいの高層ビル群がよく見え、とくに夜景が美しいことからここも人気場所となっている。

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よく大型客船が接岸することで知られる”大さん橋

 大さん橋は、大型豪華クルーズ船がよく接岸するのでニュースにも取り上げられることが多い。金と暇をふんだんにもつ富裕層の間では、一番贅沢な旅である豪華客船による長期クルーズが人気らしいが、日本に立ち寄る場合、ほとんどは神戸か横浜の港に接岸する。横浜港のメインになるのが大さん橋で、7月だけでも「ダイヤモンド・プリンセス」「ぱしふぃっくびいなす」「飛鳥Ⅱ」「にっぽん丸」「マースダム」の入港が予定されている。

 大さん橋の前身は1894年に完成した鉄桟橋で、その後、幾たびかの改修を経ながら現在の形になっている。とくに1964年の東京オリンピックに備えた大改修によって、豪華客船が多く接岸するようになった。75年に「クィーンエリザベス二世号」の接岸の際は50万人以上が訪れ、伝説にもなっている。

 わたしにとってこの大さん橋はとても馴染み深い存在だ。おそらく、100回以上は利用している。もちろん、豪華客船を利用したのではなく、磯釣りに出掛けるためだった。とくに30代前半からの10年間、週末のほとんどは仲間と伊豆大島、新島、式根島神津島に出掛けた。当初、伊豆諸島行きの東海汽船は浜松町にある竹芝桟橋からだけ出ていたが、途中から週末だけは大さん橋にも寄港するようになったので、私はその利便性の高さからここを利用することにした。金曜日に予備校での講義を終え、急いで準備をしても竹芝桟橋では午後10時発なので、ギリギリ間に合うという状況だった。それが大さん橋では午後11時30分になるので、余裕たっぷりに出かけられた。帰りも一時間半早く横浜に帰港するので、船が竹芝に着く頃には自宅に戻れた。

 行きは桜木町駅で降り、海岸通りをガラガラと大型カートの車輪の音を立てながら、多くのカップルが散策する中を勇躍、大さん橋まで進行した。帰りは日本大通りから横浜公園をトボトボとした足取りで抜けて関内駅に向かう。釣りの、とくに磯釣りの荷物は餌と魚の臭いが染みついているので独特の素敵な香りがする。このため、釣り人の周りだけは混雑した電車の中でさえ大きな空間ができるので、車内での押し合いへし合いからは解放された。

 2002年までの大改修で、大さん橋の屋上には広々としたデッキ(クジラの背中)ができて観光名所となった。山下公園の全景や赤レンガパーク、高層ビル群がよく展望できるためかカップルの数がとても多い。それもきちんと海に向かって等間隔に並ぶのが面白い。

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開港広場にある日米和親条約締結の碑

 大さん橋から大さん橋通りに向かう交差点の南側に開港広場がある。1854年、条約締結のために再び日本を訪れたペリーは、条約調印場所として江戸を希望した。一方、異人(外国人)を入府させたくない幕府側は浦賀か鎌倉を希望した。ペリーはこれを拒絶したが、幕府が代案として示した横浜村での調印を受け入れた。寒村であった横浜村の原野に突貫工事で応接所を建設し、ペリーと林大学頭との間で日米和親条約が調印締結された。横浜という土地が初めて注目を受けた場面だった。

 写真はその締結場所である。現在は開港広場になっているが、この碑を目にとめる人は皆無に近い。私はこの辺りを釣り道具を持って何度となく歩いていたのだが、特にその存在には気づかなかった。日本の歴史の転換点、横浜の歴史の出発点なのだが、その存在感はあまりにも小さい。

 私自身、この碑の存在より、写真にある向かいのオシャレなレストランのほうがいつも気になっていた。が、一度も利用したことはない。店内には素敵なハマの女性たちがいつも多くいた(通るときは必ず店内をのぞいた、無意識のうちに)が、餌のオキアミと魚の臭いが染みついた釣りのベストを着た格好では入る覚悟はなかった。もっとも、そのいで立ちでは”入店お断り”となっていただろうが、いやまったく。

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海岸通りと横浜公園を結ぶ日本大通り

 1866年の大火は豚肉業者のところで出火したので「ぶたや火事」と言われた。この大火事で日本人町の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼け落ちた。外国人居留者から「防災都市づくり」を求める声が上がり、延焼を防ぐために海岸から横浜公園まで結ぶ幅36mの道路の建設が決まった。それが写真にある”日本大通り”だ。完成したのは79年で、車道と歩道を区別した当時ではもっとも新しい設計の道路だ。横浜税関のところでも述べたように、この通りを挟んで東側が外国人居留地、西側が日本人居住地になっていた。

 街路樹にはイチョウが植えられ、今でもその緑が大きく歩道を覆っていて、涼を求める人、カフェでくつろぐ人で賑わう。この通りには神奈川県庁、横浜港郵便局、横浜地方裁判所、日銀横浜支店などが立ち並び、とても落ち着いた雰囲気を醸し出している。

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神奈川県庁の天辺にあるのがキングの塔

 日本大通りに面する神奈川県庁本庁舎は1928年に竣工した。23年の大震災で旧庁舎が焼失してから5年後のことだった。高さ48.6mの塔屋は「キングの塔」と呼ばれている。向かいには現在、13階建ての分庁舎を建設中だ。それ以外にも新庁舎や第二分庁舎などが周囲にある。

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開港記念会館の時計塔はジャックの塔

 高さ36mの時計塔(ジャックの塔)をもつ横浜開港記念会館は1917年に竣工した。大震災で全焼したものの、一部を残して当初の姿に復元された。89年、手前のドームも復元され、完全に以前の姿に戻った。

 キングの塔(48.6m)やクィーンの塔(51m)に比べてジャックの塔は36mと低いので、横浜3塔では一番、周囲の高層ビル群に埋もれやすい。その一方、間近にで望むともっとも優美な姿をしている。

山下公園にいると、なぜか心がとても穏やかになる

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公園からみなとみらいを望む

 山下公園は1930年、関東大震災で生じたガレキの山が海に投入されて造られた。震災では横浜全市だけで3万8千戸が倒壊した。これは市の建造物の3分の1に上る数だった。そうした犠牲の上に造られたのがこの美しい公園である。

 今回、冒頭に挙げた写真は山下公園の中央口から入ったところにある噴水広場、それに公園を象徴する氷川丸を望む風景だ。噴水の中央にあるのが「水の守護神像」で、横浜市姉妹都市であるサンディエゴ市(カリフォルニア州)から1960年に贈られたものだ。このため、この噴水広場は「サンディエゴ友好の泉」と名付けられている。

 ここに挙げた写真は、公園からみなとみらい方向を望んだもの。私が小さい頃に訪れたときはこの方向がここでは一番面白味のない景色だったが、みなとみらいの整備が進んだ現在では、もっとも気に入られている景観かもしれない。中華街をまず訪れ、それから山下公園を散策し、この写真の景色を見ながら赤レンガパークに進むというのがお定まりの観光コースだ。

 写真の中には、みなとみらいを代表する建造物がほとんど入っている。右手には赤レンガ倉庫、その上方にパシフィコ横浜会議センターの上部に独特の形状でそびえる”グランドコンチネンタルホテル”、その左に”ベイホテル東急”、コスモワールドの観覧車、”クィーンズスクエア”、”ランドマークタワー”と、みなとみらいの”全部乗せ”といった景観がここにはある。

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往年のスター、マリンタワーとニューグランド

 目を反対側に転じると、かつて横浜を代表した建物が見える。マリンタワーホテルニューグランドの本館だ。マリンタワーは現在休館中(19年3月より)だし、ニューグランドは隣にある新館がメインとなっている。

 小さい頃、横浜にはよく遊びに来た。山下公園で遊んだ。氷川丸を見学した。マリンタワーに上った。ニューグランドは外から見るだけ。中華街には行けなかった。元町は通るだけ。港の見える丘公園や外人墓地でも遊んだ。みなとみらいはまだなかった。遠足でも横浜には来た。小さい頃と同じ。20~30代にもよく来た。小さい頃とほぼ同じ。

 マリンタワーは1961年に開業した。開港100年(1959年)記念事業の一環として建設された。高さは106m。360度見晴らしは良かった。しかし、みなとみらい地区に超高層ビルが林立し始めると、マリンタワーは見晴らしを誇ることはできなくなった。ランドマークとしての地位も、ランドマークタワーに席を譲った。開港150年の年に改修が行われたが利用客数は回復しなかった。2022年までに大改修して再開する予定だそうだが、果たしてどうなることやら。

 ニューグランドは1927年に開業した。23年の大震災でほとんどの宿泊施設は壊滅したため、外国人観光客を受け入れるホテルがなくなった。そこで、ニューグランドが建設されたのである。丁寧な対応とおいしい料理、客室から眺める美しい景色が評判を呼び、外国の要人が多く利用した。イギリス王族やチャップリンベーブルースジャン・コクトーなども宿泊した。もっとも有名なのがマッカーサーが利用したことだろう。

 連合国軍総司令部GHQ)は最初、クィーンの塔のある横浜税関に設置された。マッカーサーはニューグランドの315号室を利用した。すぐにGHQは東京に移ったのでマッカーサーの利用は短期間だったが、この部屋を相当に気に入っていたらしい。現在、315号室は「マッカーサースイート」として一般に開放されている。私も利用してみたいが先立つものがない。

 かように、マリンタワーとニューグランドは、かつて横浜を代表する建物であった。小さい頃からこの景色を知っている私にとって郷愁を誘うとともに時の流れの速さを実感する。世界は無常であり無情でもある。

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氷川丸は常に山下公園とともにある

 氷川丸は1960年に除籍され、解体される 予定だったが市民らの要望が強く観光船に改造(現在日本丸が係留されているドックで)され61年、山下公園に係留されて現在に至っている。総トン数は12000トン。全長は163m。

 氷川丸が竣工したのは1930年。奇しくも山下公園が開園した年だった。名前は旧武蔵国の一宮である大宮氷川神社から採られている。横浜港から北米シアトルの航路に就航し引退するまでに太平洋を254回渡っている。38年にはIOC総会から帰国する嘉納治五郎を乗せたが、横浜に到着する2日前に嘉納は船内において肺炎で死去した。

 戦争中は一時、病院船に改造されて任務に当たった。3度触雷したが、他の船に比べて鋼板が厚いために沈没は免れている。戦後は復員兵や民間人の引き揚げ船に使われ、その後、旅客船に復帰し60年に引退した。61年以降は山下公園に係留され、当初はユースホステルなどの宿泊施設もあった。老朽化した現在でも博物館船として公開されている。

 氷川丸が係留されている場所の山下公園側には2016年に整備された「未来のバラ園」がある。園内には160種、1900株のバラが現在ある。すでに”現在もバラ園”であり、私が訪れたときには花期は終盤を迎えていたが遅咲きのバラがまだ多くの花をつけていた。ここにはバラだけでなく様々の園芸種も植えられており、夏咲の品種がたくさんの花を咲かせていた。写真の女性はコンパクトではない本格派の一眼レフを構え、熱心に被写体を探していた。ここでは私のカメラよりはるかに立派な一眼レフをもった女性を数多く見かけた。

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赤い靴はいていた女の子像と氷川丸

 童謡の「赤い靴」(1922年)の2番の歌詞に「よこはまの はとばから ふねにのって いじんさんに‥‥」とあるので、赤い靴を履いた少女は横浜港から外国人に連れられて旅だったのだろう。3番には「いまでは あおいめに なっちゃって‥‥」とあるので、この外国人は欧米人の可能性が高い。野口雨情は前年に「青い目の人形」を発表していて、歌詞の1番にはその人形は「アメリカうまれのセルロイド」とあるので、「青い目の人形」と「赤い靴」との関連性を指摘する声はかなりある。さらに、この赤い靴の少女にはモデルがいるという意見や、雨情は社会主義者だったので「赤」は社会主義もしくは「ソ連」の暗喩という説すらある。

 考えすぎという他はない。雨情には「七つの子」という作品がある。これも「七つ」が7羽なのか7歳なのかという論争があるらしい。通常、カラスは卵を3~5個産むので仔は最大でも5羽だろうし、カラスの寿命は20年ほどといわれているので7歳は子供ではないだろう。大体、カラスは「可愛い可愛い」とは鳴かない。カラスが鳴くのはカラスの勝手だし、大抵は「カー」とか「ギャー」と鳴く。

 童謡だけでなく歌詞一般に作者の特別な思いを見出そうとするのはさほど意味のあることではなく、聞き手が想像を膨らませてその人なりのイメージを生み出すことに意味がある。いろいろな聞き手がそれぞれに思いを抱けるのが良い歌なのであって、作者がどんなに出鱈目な人間であっても構わない。実際、雨情の「波浮の港」の歌詞は間違いだらけだが、それでも曲調に合致して伊豆大島に暮らす人々の哀愁は聞き手に十分に伝わる。波浮の港からは三原山が邪魔して夕焼けは見えないし、伊豆大島には鵜はいないにしても、だ。

 「赤い靴」は「横浜の波止場」と「異人さん」という言葉、それに本居長世(私は最初、本居宣長だと思った。多分そう考えた人は多いはず)の曲調が、少女の孤独と悲哀を聞くものに感じさせるので、名曲として伝わっているのであって、それ以上でも以下でもない。

 山下公園にある「赤い靴はいてた少女像」は「赤い靴を愛する市民の会(現在は赤い靴記念文化事業団)」が寄贈したもので、横浜の姉妹都市であるサンディエゴにも同型のものが贈られているそうだ。

 この像の少女はしっかりと海の方を見つめている。横には北米航路に使われた氷川丸が控えている。やはり、彼女を連れていった異人はアメリカ人なのだろうか。シアトル在住なのだろうか。少女の郷愁が青い目の人形として日本に戻ったのだろうか。青い目の人形は1921年、赤い靴は22年発表、氷川丸は30年就航。時間の整合性はない。

 でも、それでいいのだ。いや、これこそヨーコの原像かもしれない。

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・表題が「徘徊老人・まだ生きてます」から上記に変わりました。URLは変更なしです。

・この項のため(それ以外の理由の方が大きいが)3回、横浜を訪ねました。日にちが異なっているので写真の空模様も晴れあり曇りありです。

・横浜篇はまだ続きます。中華街、元町、港の見える丘公園本牧などは次回に登場します。