徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔17〕浅川旅情、いや遡上(そじょう)です(前編)

f:id:haikaiikite:20190727105924j:plain

高幡不動土方歳三菩提寺

浅川には浅からぬ縁がある

 浅川は多摩川の大きな支流のひとつである。もう一つの大支流である秋川は渓谷が美しかったり鮎釣りが盛んだったり、右岸に「サマーランド」があったりと流域に住む人以外にもその存在はよく知られている。「夏休みに秋川に行く」と知人や近隣の人から聞くと、大方の人は、その人たちが「キャンプ」か「河原でバーベキュー」に出掛けるのだろうと想像する。秋川に行く人が釣り好きであると知っている場合は、「鮎釣りですか、渓流釣りですか」と尋ねるかもしれない。一方、「夏休みに浅川に行く」と聞いてもおそらく99%の人は返答に窮し、「そうなんですか‥‥」としか言えず、ただ当惑するばかりだろう。浅川それ自体には特別、「遊び」を連想させるものはないからである。

 私の場合、浅川には以前から浅川ならぬ浅からぬ縁があり、かなり身近な存在だった。とはいえ、浅川それ自体というより川の周辺にいる(ある)存在が関係しているのだけれど。

 私の鮎釣りの師匠は浅川左岸近くに住んでいた(いる)ので、教えを乞うために浅川に掛かる「新井橋」を渡ってその自宅を訪ねた。私の初恋の少女は浅川左岸にある高校に通っていたので、新井橋を高幡不動側から立川方向に渡るときはいつもその高校の校舎を目で追っていた。その学校の制服を着た女子生徒を見掛けたときは、もうとっくに卒業してそこにはいるはずはないのに、その姿にはいつも心が騒めくのだった。

 高幡不動尊にも多摩動物園にもよく出掛けたが、それらの近くには浅川が流れている。釣りを本格的に始める前、中学校の同級生と釣りの練習をよくおこなったのだが、その道場は京王線平山城址公園駅近くの浅川だった。その友人は八王子の北野に引っ越して住んでいたし、この川は多摩川より規模が小さいので練習場には最適だった。教員を辞めしばらく釣りの研究に没頭していると、別の知人から「専門学校を設立するので、申請のための文書作成と役所との折衝をお願いしたい」と乞われたので一年間、京王八王子駅近くの事務所に通った。浅川が近くにあったので、心身の休息を口実にその河原でタバコをよく吸っていた。浪人生専門の大学受験予備校で教えたとき、八王子にも教室があったので昼休み時には浅川の河原まで出かけて付近を散策し、体を動かすようにしていた等など結構、浅川周辺ではいろいろな想い出が形成された。

多摩川との合流点付近を歩く

f:id:haikaiikite:20190725200803j:plain

多摩川とは日野市落川付近で合流する

 高尾山系に源を発した浅川は、約30キロの旅を終えて、日野市落川あたりで本流の多摩川右岸側に合流する。写真の対岸に見える建物は府中市四谷にあり、写真にはないがすぐ下流には、野猿街道の「府中四谷橋」が掛かっている。この橋もまた私の散歩コースのひとつに属しているので、この多摩川と浅川との合流付近を橋上から眺めることがある。橋上から川を望むと右手からは多摩川の、左手からは浅川の流れが見えるのだが、両者が合流してもしばらくは水の色が2つに分かれ、ほとんどの場合、浅川からの流れのほうが澄んでいる。

 川を歩く場合、通常は川上から川下へ、つまり川の流れに身を任せながら探索するのだが、今回は川下から遡上(そじょう)してみた。特段の理由はなく、今の時期は鮎釣り真っ盛り(今年の7月は例外として)なので、鮎を真似て「天然遡上」してみただけなのだ。なので、この合流点が今回の散策の出発点となった。

f:id:haikaiikite:20190726091822j:plain

新井橋の直上を走る多摩モノレール

 最初に出会った橋が「新井橋」だ。今回は遡上しているので、実際には浅川に掛かる橋としては最後のものだ。私にとってもっとも馴染みのある橋で、浅川を渡るときの80%以上ははこれを使っている。多摩モノレール多摩都市モノレール線)はこの直上を走っており、写真の列車は「万願寺駅」を出て次の「高幡不動駅」に向かっている。

 新井橋は「新井」にあるが、橋の北には「新井公園」があり、南は「大字新井」という地名だ。つまり、川を挟んで南北に「新井」があることになる。こうしたことは本家の多摩川にはとても多く、例えば、「押立」は府中市と対岸の稲城市にある。同様に「布田」は調布市と対岸の川崎市、「和泉」は狛江市と対岸の川崎市、「宇奈根」は世田谷区と対岸の川崎市にある。下流に行けばさらに多くの分断された地名を見出すことができる。これらの地名は元は別々に存在していたわけではなく、同じ場所にあったものが多摩川の流路が変わったために川によって分断され、此岸と彼岸に位置するようになったのだろう。

 この「新井」はどうか?多摩川と同じように浅川も「暴れ川」であったため、その蛇行によって新井地区が分断された蓋然性が高い。一方、新井という地名は「新しい井戸」を表し、そういった場所は水が豊富な日野ではどこにでも見られるので偶然、川の南北の土地が新井と名付けられたという可能性もなくはない。さらに、どちらかが先に新井という地名を付け、まだ名をもっていない方が新井を訪ねてその地名を聞いたところ、「新井というのか?あらいいね」と言って自分のところも新井にした。といったことは、まぁ、ないだろう。

f:id:haikaiikite:20190726094131j:plain

新井橋から下流方向を眺める

 新井橋に立って下流方向を眺めた。右岸の右手には多摩丘陵(多摩の横山)の連なりがよく見える。右手に見える高台は「京王百草園」がある百草地区の台地だ。ここも多摩丘陵に属している。写真中央部分にある建物群は京王線聖蹟桜ヶ丘駅周辺のものだ。その右手には多摩丘陵につながる坂道(通称いろは坂)があり、その坂上に立って「耳をすませば」、「カントリーロード」の歌声が聞こえてくるかもしれない。少し見えづらいが、左側にある白い塔は「府中四谷橋」の主塔である。 

土方歳三の生誕地を歩く

f:id:haikaiikite:20190726095358j:plain

土方歳三銅像高幡不動の境内にある

 新選組の副長だった土方歳三は旧石田村(現在の日野市石田)出身である。石田は浅川左岸と多摩川右岸に挟まれた場所、つまり両河川の合流点のすぐ西側に位置する。歳三の家は石田村随一の豪農で、地元では「大尽」と呼ばれていたそうだ。日野市石田には歳三ゆかりの地があるので私は何度となく訪れているが、広い敷地をもった邸宅があると、決まってその家の表札には土方姓が掲げられている。これは、広大な農地が土方一族に分配されたこと、維新後、平民も姓を公然と名乗ることができるようになったため、この地の多くの人が歳三にあやかって土方姓を名乗るようになったことなどによると考えられる。

f:id:haikaiikite:20190727113334j:plain

歳三の生家があったとされる「とうかん森」

 写真の「とうかん森」は歳三の生家があったとされる場所の一部である。かつては鳥居や祠があり樹木も生い茂っていたが、 現在は樹齢250年余のカヤの木が2本残っているだけである。周囲の宅地開発が進み、多くの木々は周囲の住宅を覆い、大樹の根は宅地の地面を掘り起こしてしまうため、他の木々は処分されたそうだ。土方家自体、幕末期の多摩川の氾濫によって流されそうになったため、やや川から離れた地に移築された。現在、「土方歳三資料館」になっている場所が移築後の生家である。「とうかん森」のすぐ北東側には「北川原公園」や「浅川水再生センター」があるが、この辺りに元の生家があったらしい。それゆえ「とうかん森」は土方家のほんの庭先といったところだろうか。

 歳三は1835年に石田村に生まれ、69年の箱館戦争のさなか、一本木関門付近で戦死した。新選組の話はいずれ別の項をたててその足跡をたどる機会があると思うので、ここでは多くを記さない。

 歳三は、小さい頃はかなりの悪ガキで「石田村のバラガキ」と言われていたそうだ。バラガキとは「茨垣」のことで、トゲがあって手が付けられないという意味をもつ。私の場合はただ単に「クソガキ」と言われたが。歳三は末っ子なのでどんな「大尽」の子供でも、自分で手に職をつけるか婿養子に入るかしなければならなかった。11歳のころいったん丁稚奉公に出たが、馴染めずすぐに辞め、14歳のころ再び奉公に出たらしい(異説多し)。23歳ころに奉公を終え、しばらくは自宅の家業のひとつであった「石田散薬」の行商に出た。

 石田散薬は打ち身、捻挫に効く薬らしい。今でいえば「バンテリン」のようなものかも。この散薬は浅川で刈り取った雑草(ミゾソバ)が原料で、それを乾燥させてから黒焼きにして、薬研(やげん)ですりおろしたものだ。これを酒と一緒に飲むと効き目が良かったらしい。「良薬は口に苦し」ではないが、ミゾソバタデ科の草なので、かなり苦いはずだ。「タデ食う虫も好き好き」という言葉があるくらいなので、酒で一気に飲んでしまわなければとても耐えられなかったのかもしれない。それでも昭和初期までは土方家の家伝薬として存在していたらしいので、効能は確かだったのだろう。

 ミゾソバの刈り取りは「土用の丑」の日におこなわれたが、この日は村人が総出で草刈りをした。製薬までの一連の作業は、基本的には土方家の当主(歳三の兄)が指揮をするのだが、幼い歳三が指揮をしたときのほうが効率よく作業が進展したらしい。子供の頃から人心掌握に長けていたのかもしれない。

 歳三はこれを甲府や川越、厚木などの家々を訪ね売り歩いた。その間、自己流で剣術の稽古をおこない、各地で剣術道場を見つけては試合を挑んで腕を磨いた。

 25歳ころ天然理心流に入門した。道場は日野宿の名主だった佐藤彦五郎宅の日野本陣にあった。ここに新宿牛込にあった「試衛館(場)」から近藤勇が出稽古に訪れ、天然理心流の同志としての交流が生まれた。佐藤彦五郎は歳三の姉の嫁ぎ先、近藤勇は近藤家に養子に入る前は宮川姓であり、上石原村(現在の調布市)の出身であった。お互い多摩の田舎者同士のため、三者の間には深い絆が生まれたのである。

 歴史に「もし」を言っても意味はないかもしれないが、もし姉が佐藤家に嫁がなければ、もし勇が近藤家の養子にならなければ、このトリアーデは生まれなかった。結果、新選組は成立せず、仮に成立したとしても近藤勇だけでは冷徹な組織原理は駆動せずすぐに瓦解していただろう。すると、司馬遼太郎の『燃えよ剣』は作られず、私のチャンバラ熱は「赤胴鈴之助」レベルにとどまり、結果、その熱は小学生時代で冷めていたはずで、大人になってもチャンバラをすることはなかったかも。いやまったく。

f:id:haikaiikite:20190727125456j:plain

歳三の墓は日野市の石田寺にある

 歳三は1869年、箱館(函館)戦争にて戦死した。満34歳、数え35歳だった。歳三の墓は「とうかん森」近くの石田寺(せきでんじ)にある。真言宗の末寺で本寺は高幡山金剛寺(通称高幡不動)だ。位牌はこの本寺の大日堂にある。

 今年は没後150年にあたり、それを記念して『燃えよ剣』の映画化が決まり、2020年に公開される予定だ。歳三を演ずるのは岡田准一だそうだ。何者かは知らないが、写真で見た範囲では美男子だ。NHKの大河ドラマ新選組!』は2004年に放送されたが、このときに歳三役を演じたのは山本耕史だ。これも美男子であった。この名を聞いた当初、山本浩二が野球界から転身するのかと錯覚したが、彼の場合は美男子というより野人という感じなので似合わないと思ったが、そうではなかったことに安堵した。歳三の容姿は唯一残る「ざんぎり頭の洋装写真」から推測するしかないが、史料には「身丈五尺五寸(約167センチ)、眉目清秀にしてすこぶる美男子たり」とあるので、写真通りの顔立ちだったのだろう。女性に大人気だったのも頷ける。

 ところで、大河ドラマは毎年、初回から見るのだが、最後まで見たのは『新選組!』と『龍馬伝』と『花燃ゆ』だけだ。すべて幕末ものだ。最近は我慢しても3回ぐらいまでで止めしまう。今年の『いだてん』は最初の20分で馬鹿々々しくなって止めた。脚本が非道過ぎた。NHKから正しい大河ドラマを守る会を作りたいぐらいだ。

f:id:haikaiikite:20190727130720j:plain

土方康氏が建立した「土方歳三義豊之碑」

 石田寺の境内に入ると写真の石碑が目に入る。「土方歳三義豊之碑」とある。義豊はは歳三の諱(いみな)で通常、成人してから付けられる。この石碑は、土方家の家禄を継いだ実兄(喜六)の曾孫である土方康氏が1968年、明治維新100年という切りの良い年を選んで建立したものである。

f:id:haikaiikite:20190729202356j:plain

石田寺にある歳三の墓。思いのほか小さい

 1868年、戊辰戦争の緒戦である「鳥羽伏見の戦い」に敗れた歳三は「これからの武器は鉄砲でなければだめだ」と悟り、羽織袴姿を捨てて西洋式の軍服姿になり、髪型も「ざんぎり頭」に変えた。唯一の写真に残る歳三の姿は、洋装に変えてからのものである。

  近藤勇を失った新選組旧幕府軍に加わり会津に向かった。途中、宇都宮城を陥落したもののすぐに奪還された。会津もまた陥落し歳三は仙台に向かった。ここで、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚と出会った。榎本や歳三は新政府軍と闘うつもりだったが、元号が明治に変わった直後、仙台藩も新政府軍に降伏した。こうして、歳三は榎本らとともに蝦夷地へ向かうことを決意した。このとき、歳三に同行していた新選組の隊士は24人にまで減っていたが、他藩の藩士新選組に加わることになり隊士は総勢75人になった。

 仙台では、元奥医師で将軍の治療にもあたっていた松本良順と再会した。かつて新選組が京都にいたとき近藤勇以下隊士が治療を受けていた名医である。良順は歳三に降伏を進言したが、歳三は「幕府が倒れるときに命をかけて抵抗する者がいなくては恥ずかしいことで、勝算などない」と言い、「君(良順のこと)は有能なので江戸へ帰るべきで、われらのごとき無能者は快く戦い国家に殉ずるだけ」と自らの覚悟を語った。

 箱館戦争では序盤に勝利し、箱館政権には総裁に榎本武揚、陸軍奉行に大鳥圭介箱館奉行に永井尚志といった旧幕府の要人が閣僚に入ったが、歳三も陸軍奉行並(陸軍大将クラス)として閣僚に加わった。しかし、歳三は戦闘の際は常に最前線に立ち、彼が指揮した部隊だけは常に戦闘に勝利した。が、戦局は悪化の一途をたどり、もはや箱館政権の敗北は濃厚となった。最後の戦闘の直前、歳三は若い隊士である市村鉄之助を自室に呼び、「横浜に行く船があるのでそれに乗って多摩に帰れ。そして、佐藤彦五郎宅に寄り、これを渡せ」と言って写真1枚、遺髪、辞世の和歌の書付を市村に渡した。私たちが目にすることができる歳三の写真は、そのとき市村に託したものである。

f:id:haikaiikite:20190729202538j:plain

歳三の墓石の横書き

 『燃えよ剣』では、歳三の最後をこう記している。私のへたくそな文よりも遥かに感動的なのでここに引用する。

 新選組副長が参謀府に用がありとすれば、斬り込みにゆくだけよ」

 あっ、と全軍、射撃姿勢をとった。

 歳三は馬腹を蹴ってその頭上を跳躍した。

 が、再び馬が地上に足をつけたとき、鞍の上の歳三の体はすざまじい音をたてて地にころがっていた。

 なおも怖れて、みな、近づかなかった。

 が、歳三の黒い羅紗服が血で濡れはじめたとき、はじめて長州人たちはこの敵将が死体になっていることを知った。

 歳三は、死んだ。

 箱館政権の主要閣僚8人のうち、戦死したのは歳三ただひとりだった。

南浅川の源流部を訪ねる

f:id:haikaiikite:20190729094029j:plain

甲州道中守りの要だった「小仏関」跡

 甲州道中(甲州海道、甲州街道)は江戸五街道のひとつだが、参勤交代に使うのは諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の三藩だけだった。また、京都から宇治茶を運ぶルートとしても使われた。一方、徳川家康は、江戸城にもしものことがあった場合には甲府城に逃亡するつもりだったので、この道はまさかの場合の避難路として重要な存在であった。

 甲州道中の起点は日本橋で当初、最初の宿場は高井戸にあったが、日本橋からはあまりに遠いので、その中間付近にある内藤家(高遠藩)の中屋敷があった四谷新宿に、新たに宿場を設けた。布田五宿・府中宿・日野宿は多摩川沿いにあり、八王子宿・駒木野宿・小仏宿は浅川沿いにある。それから小仏峠を通って相模国に入り小原宿・与瀬宿と続く。

 江戸の守りにとって重要なのが小仏峠で、峠と八王子宿の間の駒木野宿跡付近に写真の小仏関跡がある。関所は「入り鉄砲に出女」を取り締まる場所だ。つまり、江戸に武器を持ち込ませないこと、大名の妻子を江戸から出さないことが主たる目的だった。ここ関所跡あたりから、道は南浅川を左にみながらだらだらとした上り坂が続き、次の写真の場所あたりから急坂に入る。

 さて新選組だが、1868年の鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に戻ると、上野寛永寺で謹慎する徳川慶喜の警護を申し付けられた。しかし、それでは新選組の名誉回復にはつながらないので、甲府城に立てこもり新政府軍の侵攻を食い止めるという作戦を提案した。これには陸軍総裁となっていた(すぐに移動させられたが)勝海舟も同意し、軍資金と大砲2門が提供されることになった。もっとも、慶喜の命で江戸城無血開城を企図していた勝にとっては新選組は邪魔な存在でもあったため、厄介払いの良き口実になったのだった。

 甲陽鎮撫隊を名乗った新選組だが、隊士は70人ほどしかいなかったため、浅草弾左衛門配下のものを加え約200人の部隊を揃えた。3月1日、内藤新宿を出立し甲州道中を西に進み、その夜は府中宿に泊まった。2日に日野宿を通過する際には佐藤彦五郎宅に立ち寄った。近藤や歳三にとっては故郷に錦を飾るようだった。その日はさらに西へ浅川沿いの道中を進み、八王子宿、小仏宿、小仏峠を超え、与瀬宿に泊まった。

f:id:haikaiikite:20190728175602j:plain

南浅川の源流点付近。この先に小仏峠がある

 3日には猿橋宿、4日には駒飼宿、5日に勝沼宿に入った。しかし、政府軍はすでに4日に甲府城に入っていた。よく、故郷の多摩で宴会ばかりしていたので進軍が遅れ、その結果として甲府への到着が間に合わなかったと言われるが、この行程を見ると格別に遅いとは思えない。調布では少し遊んだかもしれないし、府中宿では宴会ぐらいはしただろう。日野でも熱烈歓迎を受けたかもしれないが、府中から一日で小仏峠(標高548m)を越えて与瀬宿まで行軍したのだから、さほど寄り道ばかりしていたとは言えないと思うのだが。その一方で、近藤や土方をはじめとして、だれも本気で政府軍に勝てるとは思ってはいなかったことも確かだろう。

 浅川は八王子市役所付近で分岐し、南浅川は高尾駅のすぐ先まで国道20号線の北側に並走する。国道は西浅川交差点を南下し、高尾山の東そして南を通り、高尾山系の大垂水(おおたるみ)峠(標高392m)を抜けて相模湖方向に進む。一方、甲州道中は西浅川交差点を右手に進み高尾山の北側を抜ける。南浅川は道の南側を並走する。中央本線はこの道中に並走し、また中央高速(中央自動車道)も小仏関跡辺りから並走する。やがて中央本線小仏トンネルに入って姿を消し、中央高速もそれ続いてトンネルの中に消える。南浅川は源流点がある谷に溶け込む。西浅川交差点から小仏トンネルまでの約4キロは南浅川・甲州道中・中央本線・中央高速の4者が並走しているのである。

 私は、中央高速を走るたびに、この旧甲州道中や南浅川や中央本線の存在がとても気になってはいたが、実際にこの道中を通ったのは今回が初めてだった。地図を見るのが好きなので、この道の存在は子供の頃から知っていたし、この道から蛇滝を通る高尾登山道の存在も知っていた。さらに、道中の小仏峠を抜けると「美女谷」という思わずヨダレが出てしまうような場所があることも知っていた。が、なぜかこの道には来たことはなかった。

 小仏関所は1869年に廃止された。旧甲州道中では車の通行ができないので、自動車用の道路は、より開発しやすい場所が選ばれ大垂水峠を通るルートが88年に完成した。以来、旧甲州道中を通るのは沿道に住む人々か、小仏峠を趣味で越える人、小仏城山、景信山、陣馬山などに登る人たちにほぼ限られるようになった。

浅川を渡って高幡不動に向かう

f:id:haikaiikite:20190729202645j:plain

浅川左岸から高幡不動を望む

  浅川左岸で土方歳三の足跡を追った後、浅川の土手沿いを上流に向かって歩いた。夏草が生い茂っていたのでミゾソバを探してみた。夏から秋が花期なので簡単に見つけられると思ったが、左岸側の河原には葛が繁茂しており近づくことが容易ではなかったため簡単には見出せなかった。他の場所ではすぐに見つかるのに、何故かここでは目にすることができなった。

 足元ばかり見ながら歩いていたので、「ふれあい橋」の北詰を通り過ぎたことを忘れていた。次の高幡橋方向に進んでしまったとき、対岸にある高幡不動五重塔が目に入った。かつての塔はかなり古ぼけたものだったが、1980年に建て直されたこれは鉄筋コンクリート造りだが、古の姿を思い起こせるほどよく再建されている。毎年4月28日だけは内部が公開され、上層まで上がることができるらしい。

f:id:haikaiikite:20190729202754j:plain

ふれあい橋と呼ばれている万願寺歩道橋

 通り過ぎた橋の北詰に戻った。この橋は「万願寺歩道橋」という正式名をもつが、通常は「ふれあい橋」と呼ばれている。歩行者や自転車専用の橋で、車やオートバイは通ることができない。 斜張橋風で、どことなく「鶴見つばさ橋」に似た優雅さをもつ。日野市の観光ガイドには必ず出てくるほど地元では知名度は極めて高い。なお橋上からは、晴れて空気が澄んでいるときは、富士山をはじめとして高尾山系の山々がよく見える。

 浅川が日野市の南北を分断しており、京王線高幡不動駅は川の南側にあるため、この駅に行くために北側に住む人は下流の「新井橋」か上流の「高幡橋」まで迂回しなければならなかった。浅川の水が少ない時期であれば、屈強な人は写真に写っている「向島用水取水堰」を使ってショートカットできるだろうが、普通の人には難しい。1991年にこの橋が完成した。多くの人にとっては「救いの橋」になったことだろう。この橋を渡ると高幡不動駅までは数分の距離である。この橋の周囲には個人住宅、集合住宅が多いので、橋は散策路によく使われ、まさに「ふれあい橋」の名がよく似合う。もっとも、もし私が命名者だったら「ふれあい橋」ではなく「ふれあいの小径」にしただろう。なぜなら、「径」には「ショートカット」という意味が含まれているからだ。

 なお、写真は浅川の右岸の土手上から下流方向に橋を写したもので、写真の左側が橋の北詰になる。右側に写っている護岸の周囲はよく整備され親水広場になっている。土手には緩やかな階段があり、夏休み中のこの時期には多くの子供や若者、親子連れが集っている。

高幡不動尊は土方家の菩提寺

f:id:haikaiikite:20190729202933j:plain

高幡不動の建物は大改修され、朱が鮮やかに復活したものも多い

 高幡不動は浅川の右岸側にある。京王線の特急停車駅なので、この鉄道を利用する人は誰でも知っている名前だ。「高幡不動に行く」というと、高幡不動駅もしくはその周辺に行くのか、それとも高幡不動にお参りに行くのかはっきりしない。話の脈略で判断するしかない。おそらく前者の場合で使われていることが多いだろう。とくに「多摩モノレール(正式には多摩都市モノレール線)」が1998年に開業してからはその傾向はより強くなった。たとえば、「高幡不動から万願寺に行く」というと「お寺巡りをするなんて、なんと信心深い人なのだろう」と思われるかもしれないが、実際には京王線高幡不動駅までいって多摩モノレールに乗り換えて万願寺駅で降り、馴染みの釣具店に行くという次第なのである。信心深いどころか、殺生の相談にいくのである。

 高幡不動は「高幡不動尊」とも通称され、正式には「高幡山明王院金剛寺」という。よく「関東三大不動のひとつ」と言われるが、成田山と高幡山はすぐに出てくるもののあとのひとつは難しく諸説あるらしい。この「三大~」とか「四大~」は皆大好きで、「三大瀑布」「三大美林」「日本三景」「三名園」「三大盆踊り」「三大霊場」「三筆」「御三家」「三大改革」などはよくクイズに出る。

 私が初めて高幡不動に来たのは小学校の遠足のときだったと記憶している。たぶん「多摩動物園」の”おまけ”だったように思う。こうした”釣り”は遠足ではよくおこなわれ、その代表が「江ノ島・鎌倉」だろう。ガキンチョには寺はほとんど興味がない。

 しかし、ここが土方歳三菩提寺あることを知り、歳三の銅像が建てられたことを知って以来、私にとって高幡不動多摩動物園より重要な存在になった。とはいえ、お参りはほどほどにして、境内にある多摩丘陵ハイキングコース(かたらいの道)を散策するという楽しみも付属しているからである。国の重要文化財である仁王門から入って土方歳三像を見て、不動堂、五重塔、奥殿、大日堂から大師堂に戻り、山内八十八カ所巡拝コースを経てハイキングコースを進み、多摩動物園の裏側(北側)から動物園内をのぞき見しつつ西に向かい、平山城址公園に立ち寄って平山城址公園駅まで行き、京王線に乗って高幡不動まで戻るというのが、晩秋から春にかけての徘徊コースなのだ。

f:id:haikaiikite:20190729220852j:plain

大師堂があることからわかるようにここは真言宗の寺である

 境内には大師堂がある。大師堂とは大師号が贈られた僧(27名)を礼拝するもので、多くの場合、この僧は空海弘法大師 )を指す。もちろん、最澄伝教大師)も円仁(慈覚大師)も覚鑁(興教大師)も親鸞見真大師)も法然(円光大師)も日蓮立正大師)も大師なのだから、必ずしも弘法大師を指す訳ではないけれど、「四国八十八カ所巡り」があまりにも有名なので、お大師様といえばほとんどの場合、弘法大師を指すと考えて良いだろう。ミスターと言えば長嶋茂雄を指すようなものかも。

 高幡不動真言宗の寺である。したがってその末寺である石田寺も同様だ。ただし、真言宗の場合(この宗派だけではないけれど)、大きく「古義真言宗」と「新義真言宗」に分かれ、ここは「新義真言宗」の智山派に属する。

 寺の解説によるとここを開いたのは円仁で、「清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる」とある。円仁は第3代天台座主なので、当初は天台宗系であったと考えられる。しかし、次の説明を見ると「1335年の大風によって山中にあった不動堂は倒壊したが、住職の儀海上人が1342年、ふもとに移して建てたのが現在の不動堂で」(一部簡略化)とあり、さらにこの寺の法号碑には「中興第一世儀海和上」とあるので、今日続く高幡不動は儀海を開基と考えられる。とすれば、儀海は紀州根来寺(ねごろじ)で奥義を極めたので、ここは事実上「新義真言宗」の寺として再スタートしたと考えてもよさそうだ。

f:id:haikaiikite:20190729225054j:plain

不動堂は1342年に創建され、修理を重ねながら現在に至っている

 根来寺の名を聞くと、私の場合はすぐに「根来衆」を思い浮かべ、すると「忍者」を連想してしまう。忍者といえば伊賀者や甲賀者があまりにも有名で、「伊賀の影丸」や「甲賀忍法帖」が懐かしい。根来衆といえば根来寺僧兵の長だった「津田監物」がよく知られている。もっとも、津田は忍者(忍術使い)というよりスパイ(諜報員)という感じで、根来寺の命を受けて全国を情報収集に飛び回り、種子島に日本に初めて鉄砲が二挺入ったということを聞くとすぐさま種子島に入り、その一挺を無償で譲り受けたという功績がある。さらに彼はその鉄砲を基に日本人に作らせ、火縄銃の使い方の基礎を編み出した。このことで戦国時代の戦闘の在り方が根底から変わり、やがて織田信長の台頭を許したのだった。津田は鉄砲隊を組織したので以降、根来衆は「鉄砲隊」のイメージが強くなった。

f:id:haikaiikite:20190730093315j:plain

1982~87年にかけて大改修された大日堂。歳三の位牌が安置されている

 根来寺の話に戻る。開基は覚鑁(かくばん、1095~1144))である。「鑁 」は難読漢字で、かつ今日でもなぜこの字が成立したのかは不明だという珍しい漢字だが、このブログを読んでくださっている奇特な方は「鑁」には見覚えがあると思う。6回目の「渡良瀬紀行」の中で取り上げているからである。足利氏の菩提寺である「鑁阿寺」の「鑁」がこれだ。

 覚鑁空海の300年後に出た真言宗の高僧だ。空海真言宗の教えをあまりにも緻密に作り上げてしまったため、同期にできた最澄天台宗に比べてその広がりは遥かに後れを取っていた。一方、平安中期以降は大陸から民衆にもわかりやすい「浄土信仰」入ってそれが広まったため、厳格で高尚すぎる真言の教えはますます後塵を拝する結果となっていた。そこで覚鑁真言宗にこの「浄土教」の教えを取り入れることにした。大日如来はこの宇宙の不動の一者ではあるが、人間の救済のために「阿弥陀如来」に変じて地上に現れるというものである。これが覚鑁の「蜜厳浄土」観だ。

 しかし、高野山ではこの宗教観を異端と考え、覚鑁はこの地を追われ、和歌山の根来の地(現在の和歌山県岩出市)に逃れた。その地に寺を建て新しい真言の教え、すなわち「新義真言宗」の確立を目指した。覚鑁鳥羽上皇の信認が厚かったため多くの寄進を受けた。こうして根来寺は規模を拡大し、最盛期には寺に付属する建物は3000棟近く、住む人も2万人と大きな宗教都市に成長した。また宗教活動だけでなく、対中国貿易や商工業活動も盛んにおこなった。そして、全国からいろいろな情報を集めるため、各地に「根来衆」を放っていた。この一例が、上に挙げた「鉄砲話」である。

 根来寺織田信長とは協力関係をもっていたが、秀吉とは敵対関係になり根来寺は壊滅に瀕した。が、徳川家康が再興の手を差し伸べ、ひとつは京都の智積院根来寺の教えを受け継ぎ、ひとつは奈良の長谷寺が受け継ぎ、それぞれが総本山になっている。前者が「新義真言宗智山派」となり、後者が「新義真言宗豊山派」になって今日に至っている。ちなみに、高幡不動は前者で、新義真言宗智山派別格本山の地位にある。

f:id:haikaiikite:20190730103311j:plain

高幡不動の仁王門の裏側から参道方向を望む

 京王線高幡不動駅の南口を降りると右手に短い参道があり、それを抜けると野猿街道に出る。信号を渡ったところにあるのが、国の重要文化財に指定されている仁王門だ。この門は室町時代に造られ、修理を重ねながら今日に至っている。表側には「高幡山」の扁額が掛かっている。私が訪れたときは仁王門の真上に太陽があり逆光が強くて撮影ができなかったため、やむなく裏側から撮った。短い参道の正面にある建物が高幡不動駅だ。

f:id:haikaiikite:20190730104010j:plain

土方歳三像と新選組両雄の碑。後ろにあるのが弁天池

 境内に入り、左手方向を見ると大きな土方歳三像が見える。1995年、地元のロータリークラブが寄贈したもので、歳三のりりしい姿がよく再現されている。私はお寺に入っても頭を下げたり手を合わせたり、ましてやお賽銭をあげることはほとんどないが、この歳三像には頭を下げる。私には全く備わっていない心情をすべて有していた人物だからである。

 その右にあるのは「新選組両雄の碑」で、高幡不動の住職やかの佐藤彦五郎を中心に近藤勇土方歳三を顕彰する碑の建設を推進していたが、新選組は維新政府にとっては賊軍であったためになかなか許可が下りず、1888年になってやっと建てられた。

 これらの背後には小さな弁天池があり、今はたくさんのハスが花径を伸ばしている。小さな橋の先には朱塗りの弁天堂ある。全体がコンパクトだが、趣きは豊かである。

f:id:haikaiikite:20190730105703j:plain

新築の五重塔はやはり境内では一番目立つ存在だ

 鉄筋コンクリートで造られた塔だが、平安初期の様式をよく再現している。塔の高さは約40m、総高は45mある。天辺の相輪が金色に輝きとても美しい。

 上から釈迦の遺骨を納める「宝珠」、高貴な人を乗せる乗り物「竜車」、火炎の透かし彫りの「水輪」、五大如来と四大菩薩を表す「宝輪、九輪」、以上を受ける「請花」、お墓の形の「伏鉢」、その土台である「露盤」から成っている。1980年に新築されたものだが今でも輝きはまったく失われず、高幡不動のランドマークになっている。

 高幡不動名物といえば「高幡まんじゅう」で、約100年の歴史を誇る。しかし、まんじゅうだけにマンネリ化しているのか、最近では「土方歳三まんじゅう」(冒頭の写真)が主力になっているようだ。歳三の生き様が「まんじゅう」に相応しいどうかは不明だが、地元の発展に寄与しているとすれば郷土愛の強い彼のこと、まんじゅうであっても「満充」しているかもしれない。いや本当に。

  *  *  *

 浅川沿岸紀行は1回で終わる予定だったが、話に寄り道が多くなったので、まだ日野市を出られないでいる。次回は南北浅川の合流点から北浅川の源流点付近、南浅川の一部を巡る予定だ。

*今のタイトルならまだ前の方がマシだと言われたので、元に戻します。もう変更はありません。