日野台地形成の一翼を担った浅川
日野台地にいる。
少し前まで、国道20号線(甲州街道)の日野橋交差点からJR中央線の日野駅辺りまでは渋滞の名所だった。府中から八王子に行くとき、この渋滞区間が嫌で、多摩川に掛かる関戸橋を渡って川崎街道・野猿街道を西に走り、高幡不動を左手に、浅川を右手に見つつ八王子方向に走った。現在では、渋滞区間を避けるようにバイパスができてこちらが国道20号線になり、上の渋滞区間は都道256号線に「格下げ」となった。
かつての20号線は日野駅を過ぎると上り坂があり日野台地の上を走った。浅川右岸側を走る野猿街道は、この日野台地を右手やや遠めに見ながら八王子市に入る。2007年に開通した「日野バイパス」はこの台地のほぼ中央部を東西に貫く。八王子方向に進むときは上り坂になるのでそれほど高低差は感じられないが、八王子から府中方向に進む際、空気が澄んでいるときは府中市街地だけでなく、そのはるか前面には都心の高層ビル群が視界に入り、スカイツリーまで見えるため、その眺望の広がりから台地の高さを意識することがある。
日野台地は東西に約5キロ、南北に約3キロに広がる。東には多摩川と浅川合流点が作った低地があり、北には多摩川、南には浅川が造った低地、西には南東方向に流れ下る浅川が関東山地の東丘陵部と日野台地とを分かっている。台地は「下末吉段丘」にあり標高は100m程度だ。台地の南側は河成段丘の存在がよくわかり、まず細長く立川段丘面があり、さらに浅川が造った沖積低地があって浅川の流れにいたる。
このうち、下末吉段丘と立川段丘との間の段丘崖の存在は明瞭で、段差は約20メートルある。JR中央線・豊田駅の北側にある「東豊田緑地保全地域」はよく保存され、湧水が造った池や小川は「黒川清流公園」として整備され、絶好の散策路や親水公園になっている。また、この段丘崖は中央線を挟んだ東側にも続き、そこには「神明野鳥の森公園」がある。浅川の蛇行は耕作地に大きな被害をもたらす一方で、こうしたありのままの自然に触れる機会を多くの人々に与えてもいる。何事にも善し悪しの両面があり、善悪は常に相対的なのだ。
八王子の市街地を少しだけ歩く
国道20号線は浅川に掛かる「大和田橋」を過ぎると、五差路として知られる明神町交差点に至る。京王八王子駅やJR八王子駅に進むにはこの交差点を直進するが、西八王子や高尾方向に行きたい場合は、この交差点や横山町の市街地の混雑を避けるため、大和田橋を渡ったすぐのところにある「大和田橋南詰交差点」を右折し、「北大通り」を進んで「追分町」交差点から再び国道20号線に戻る。
この北大通りは「元横山町」を通るが、この通りの南側に「妙薬寺」という小さなお寺がある。墓地の左手に小さな門扉があり、これを開けて中に入ると写真の「横山塔」を見ることができる。横山塔は、この地を支配した横山党の供養塔で、寺ではこの横山氏の墓をそう呼んでいるのだ。実際、「横山塔」と記したものが写真の左手に見える。
多摩丘陵は『万葉集』に「多摩の横山」と記されているということはずいぶん前の回にも紹介したが、これは武蔵国の国府があった府中からは、多摩川の向こう側に横に連なる山々が見えるというところからそう呼ばれたと推察されている。私たちは子供の頃からずっと、多摩丘陵のことは「向こう山」と呼んでいた。
この横山は町の地名にも残り、八王子市には横山町と元横山町がある。この横山を拠点として平安時代後期から鎌倉時代にかけて活動したのが「横山党」と呼ばれる武士団だ。この頃の武蔵国には「七党」といわれる有力武士団があったが、この横山党はその筆頭勢力だったらしい。
横山党は平安末期に出た横山義隆(義孝)がその祖といわれ、義隆の父である隆泰は、もとは小野隆泰を名乗っていたが、この横山の地に来て姓を改めたとのこと。この横山(小野)隆泰の系図なるものを見ると、7代前に歌人として知られた小野篁(たかむら)にさかのぼり、さらに5代前には小野妹子(遣隋使として有名)までたどれる。この小野一族からは小野小町(絶世の美女)や小野道風(書の大家)が出ている。いずれも日本史の教科書にも必ず出てくるほどの著名人だ。まぁ、こうした系図はあとからなんとでも作成できるので、言ったもん勝ちのような気もするが。
もっとも義隆の孫の横山経兼の家系からは畠山重忠の母や和田義盛の妻、梶原景時の母などを輩出しており、また奥州藤原氏の最後の当主である泰衡(やすひら)の首級を掲げたのが横山時廣(経兼のひ孫)だったので、祖先がだれであろうと、この横山一族はそれなりの足跡を歴史に残しているのは確かである。
北浅川と南浅川との出会いの場
浅川はいくつもの支流をもっているが、それ自体も八王子市役所の西側で2つの流れに分岐する。もっとも、遡上しているから「分岐」というのであって、通常ではここで2つの流れが合流するといったほうが正確だろう。写真の右側に見える流れ込みは北浅川、左側の流れ込みは南浅川と名付けられている。それゆえ、私は勝手に「浅川の出会い」と命名した。なお、北浅川は陣馬山と堂所山との間の谷を、南浅川は小仏峠付近を源流としている。
多くの水を集める浅川はよく洪水を起こして氾濫原を造る。その浅川が造った低地に八王子市街はある。この市街地一帯は「八王子盆地」とも呼ばれ、東は日野台地、北は舟田丘陵、西は関東山地、南は小比企丘陵によって取り囲まれている。よく八王子は「夏暑く冬寒い」と言われるが、これは盆地にある町ではよく聞く言葉だ。確かに、夏の最高気温は都心と変わらないが、冬の最低気温は都心より5度以上低いことがしばしばある。
写真にあるように、合流点のすぐ下には黄褐色の「露頭」がよく見える。ちなみに、下流の橋は「鶴巻橋」、右手に見える建物は「八王子市役所」の庁舎である。露頭とは地層や岩石が露出していることを表し、たとえば写真のような場合、川床は通常は砂や小砂利、小石などで覆われているが、速い流れなどによってそれらが下流に流され、その下にあった地層が姿を現すときに使われる。一般には「滑(なめ)」と呼ぶ場合が多い。土木・建設の世界では「土丹(どたん)」と呼んでいるようだ。
私が住んでいる府中市の多くは「立川段丘面」にあり、表面を関東ローム層の「立川ローム」が覆い、その下には多摩川の蛇行によってもたらされた堆積物があり、その下に「上総(かずさ)層群」がある。この上総層群は関東平野一帯の基盤を造っているもので、海底の堆積物によって形成されている。つまり、関東平野の多くの部分はかつて海だったのである。
”浅川の出会い”付近もかつては海の底にあった。それが隆起活動によって海退が進み、丘陵や台地には谷が形成され川が誕生した。平地には川がもたらす堆積物が覆い、その上に富士山や箱根連山、赤城山、浅間山などから噴出したローム(粘土やシルトなどを多く含む粘性の高い土壌)が地表を覆った。が、やがて川はそれらを洗い流し、自らが削った岩石などによって河原を造るが、流れが強い場所などではその下にあった海成層を露出させるのだ。
露頭がもたらした文化
上総層群の露出は地層研究者や野外観察者に意外な発見をもたらす。川の露頭と聞くと、多摩川流域に住む人はすぐに昭島市にあるJR八高線の多摩川鉄橋周辺の「滑(なめ)」を思い浮かべる。この辺りの多摩川左岸側には広大な露頭があることはよく知られている。これは自然に露出したものではなく、周辺における過度な砂利採集がもたらしたものである。
ここで1961年、当時小学校教員だった田島政人さんが化石を発見した。それがクジラのものらしいことが分かると、本格的な調査が始まり多くの骨の化石が見つかった。約一年の調査を終え、骨の復元がおこなわれるとその長さは約11mに達し、これから体長が15、6mのクジラのものであることが判明した。さらに研究が進んだ結果、そのクジラは約200万年前のものであり、未発見の新種だということも分かり、「エスクリクティウス・アキシマエンシス」という学名が付けられた。
この発見は昭島市にとっても朗報であり、これを記念して「昭島市民くじら祭」が開催されるようになった。今年も第47回目の「くじら祭」が8月3、4日に開かれ、花火大会や模擬店、ダンス大会などだけでなく、もちろん、巨大なアキシマクジラ(の模造品)が登場するパレードもおこなわれた。
ところで、クジラの化石は上総層群から発見された。つまり200万年前、昭島市のある場所は海の底だったのだ。現在は標高100mの地点にあるが。
一方、浅川でも上総層群からは大きな発見があった。当時、小学校教員だった相場博明さんが浅川の露頭で2001年、大型脊椎動物の化石を発見した。02年に本格的な調査がおこなわれ、約230万年前の古代ゾウのものであることが判明した。そして10年には未発見の新種であることが認定され、「ステゴドン・プロトオーロラエ」という学名が付けられた。一般には、「ハチオウジゾウ」と呼ばれている。陸上動物のゾウの化石が海成層から発見されたということは、当時、八王子のその地は海と陸との境目に位置していたと考えられている。
川の露頭ではこうした偉大な発見があることを知った私は、化石に関してはまったく無知であるものの、できるだけ注意深く河原を観察する習慣が身に付いた。そして、今回の浅川探訪の折、ある場所の露頭で銀色に光るものを発見した。それは化石ではなく、100円玉だった。暑い最中の発見だったので、それはすぐに缶コーヒーに化けた。
私が天皇陵を訪れるなんて
「浅川の出会い」の南側にある国道20号線には「追分交差点」がある。追分とは道が2つに分かれる場所を指し、新宿には甲州街道と青梅街道に分かれる「新宿追分」、軽井沢には中山道と北国街道に分かれる「追分宿」、美空ひばりには、彼女の人気を不動のものにした「りんご追分」がある。八王子にある追分は、南浅川の流れに沿う甲州街道と、北浅川に沿う陣馬街道(案下街道)に分かれる交差点である。
国道20号線を追分交差点から高尾方向に約3キロ進むと、多摩御陵入口交差点に出会う。ここを右折して広々とした道を進むと写真の南浅川橋を渡ることになる。橋を渡ったすぐ左手には「陵南公園」があり、先に進むと「武蔵陵墓地(多摩御陵)」に至る。
写真にある南浅川橋はこの御陵に至る「重要」な橋ゆえにかなり豪勢に造られている。実用性より「立派さ」が重視されている。写真に見えるように橋の欄干には豪華な装飾がある。が、近寄ってみると案外、汚れはひどく、なかなか細部までは清掃が行き届いていないのは少し残念な気がした。
橋上から南浅川の流れを眺めてみた。清流とまではいかないが、かつての浅川の汚れを知っている者にとっては隔世の感を抱くのも事実だった。高度成長期、浅川は「どぶ川」と呼ぶのに相応しいものだったからである。橋からは高尾山の姿がよく見える。私にとってこの山は、「向こう山」「浅間山(せんげんやま)」の次に身近な存在だ。かつてこの山の標高は600mとされていたが、再計測の結果、現在では599mになっている。
当初は「陵南公園」だけを訪れ、「多摩御陵」に入る予定はなかった。しかし、こうした探訪の機会がなければ御陵に行くことは絶対にないだろうと思い、陵南公園からケヤキ並木を西に進み、御陵の敷地に入った。「多摩御陵」は通称で、現在は「武蔵陵墓地」が正式名称のこと。これは1989年に昭和天皇の「武蔵野陵(むさしののみささぎ)」が出来たとき、かつての「多摩御陵」から変わったらしい。が、ほとんどの人は「多摩御陵」と呼び、交差点名を始め多くの場所で今でも「多摩御陵」の名を目にする。
墓地の正門から御陵までは120本の北山杉から構成される並木道がある。この杉はわざわざ京都から取り寄せて植樹されたらしい。4陵あり、大正天皇陵(多摩陵)、貞明皇后陵(多摩東陵)、昭和天皇陵(武蔵野陵)、香淳皇后陵(武蔵野東陵)が広大な敷地の中にゆったりと並んでいる。いずれも上円下方墳で南面している。「天子(君子)南面」は中国の『易教』に由来するもので日本でも古くから踏襲されている。私が尊崇する歌人の西行(佐藤義清)は極めて優秀な武人でもあって、出家する前は鳥羽上皇を守る「北面武士」であった。南面する天子を警護するため、武士は北面するのである。
昭和天皇や皇后は同時代を生きたことのある私には記憶が新しいので割愛するが、大正天皇や皇后は「歴史的存在」になるのでとても興味深い存在だ。大正天皇は生まれつき健康に恵まれなかったため、また「人間味あふれる行動」などによって、後世ではあまり芳しくない評価を受けているが、ときには優れた歌を作り、自由闊達に生きようとした姿は、肯定的にとらえる必要があると考えられる。御簾の奥にいて権威を象徴するのではなく、積極的に庶民と交わろうとしたその姿勢は、明仁上皇の天皇時代(平成)の有り様に大きな影響を与えたと考えられる。
大正天皇が病弱であったのは彼ひとりに帰されるわけではなく、当時の宮中の生活様式に原因があったらしい。というのも、明治天皇には正室と5人の側室との間に5男10女の子供があったが、2人が死産、6人が夭折した。さらに10人の皇女の死因はすべて髄膜炎(当時は脳膜炎)で、大正天皇自身も髄膜炎で苦しんでいた。これは高い身分の男女は首から胸まで白粉を塗っていたが、この粉には鉛分が多く含まれていた。このため、一般庶民にはあまり見られなかった髄膜炎は、天皇家や公家の子弟にはこの病気がかなり蔓延していたようだ。この事実が判明したのは1924年(大正13年)のことだった。
病弱だった皇太子は学校を休学・中退するなどふさぎ込んだ生活を送らざるを得なかったため、側近は早めの結婚を画策した。満18歳の皇太子に嫁いだのは満15歳の九条節子(さだこ)で、公家出身でありながら農家に里子に出され「黒姫」とあだなされるほど健康的に育った女性だった。明るい性格と極めて健康であり多産系の家系であるという点が皇太子妃に選ばれた理由だった。外見は二の次だったらしい。
皇太子はこの女性を得てからは性格が明るくなり社交的になった。また、それまでの天皇家は世継ぎの存在を確実にするために側室制度を有していたが、大正天皇は生涯、この「黒姫(貞明皇后)」を大切にしたため、以来、側室制度は廃されて「一夫一婦制」が確立した。皇太子妃は結婚後すぐに懐妊し、1901年4月29日、第一皇子の裕仁親王(昭和天皇)を出産した。
良き伴侶を得て明るい性格に変貌した大正天皇だったが、残念なことに病状は進行し、1921年には裕仁親王を摂政に任命するまでに至った。そして26年(大正15年)12月25日、葉山御用邸にて崩御し大正時代は終わった。一方、貞明皇后は51年(満66歳)に亡くなるまで、「癩(らい・現在のハンセン病)予防協会」の活動、滝乃川学園(日本最初の知的障碍者施設)の活動支援など、すぐれた社会奉仕活動をおこなった。
北浅川を遡上する
甲州街道の追分交差点に戻り、今度は陣馬街道を進むことにした。しばらくの間、北浅川はこの街道の北東側のやや離れた場所を流れるために視界に入らないが、八王子市弐分方町にある日枝神社あたりで街道は北浅川に突き当たるために左へほぼ直角に曲がり、それからはほぼ北浅川の流れに沿って陣馬山方向に進んでいく。圏央道の下をくぐり、山間に入りはじめた場所の右手に写真の八王子市立恩方中学校があった。
この学校の前は何度か通ったことがあり、数か月前にも和田峠からの帰りに通ったはずだが、この横断幕を目にしたのはこれが初めてだった。前からあったが目に留まらなかったのか、最近になって取り付けられたのかは不明だが、今回はしっかりと目に留まり、いそいで車を脇道の路肩に留めて撮影をおこなってみた。羽生永世七冠が国民栄誉賞を授与されたのは昨年のことなので、最近掲げられた可能性が高いのだが。
この栄誉は、恩方中学校の関係者にとっては十分に誇りたい事なのだろう。一方、私の母校である府中市立第一中学校には、果たして誇れる卒業生はいるのだろうか。恩方中学校に比べると府中一中の規模ははるかに大きいので卒業生の数も数倍多いだろうが、羽生永世七冠に比肩できるような有名人の名前は思い浮かばない。私が知る限り、偉大なる先輩といえば歌手の布施明ぐらいである。歴史だけは古く、かつ卒業生も多いはずなのに、この二人の存在を比較すると、この先、我が母校が優れた人物を世に送りだし、その栄誉を記した横断幕を作成して国分寺街道沿いにそれを掲げる日が来るだろうことはおそらくないだろう。府中一中の見通しは「霧の摩周湖」よりもなお暗い。
恩方中学校のすぐ近くに北浅川が流れている。橋上から浅川の流れを眺めた。羽生永世七冠は中学生時代の夏に、この流れを見ながら将来、将棋界に大きな旋風を巻き起こすだろうことを思い描いていたに違いない。この小さな流れが南浅川と出会い、やがて多摩川に出会って東京湾にそそぎ、さらに湾流に乗って黒潮に至り太平洋で勇往邁進するように、いずれ棋界を制するということを、浅川の流れを目で追いながら心に誓っていたに違いない。一方、私が中学生時代にこの流れを見たとすれば、明日のことは考えずにすぐに川に飛び込み、ひたすら魚を追っていたに違いない。いや絶対に。
陣馬街道をさらに遡上すると道は次第に高度を増し、谷戸(やと)に入っていった。斜面には八王子市の市の花であるヤマユリが多く咲いていた。先端部に直径20センチほどの大きな花をいくつも付けるため、その重みでお辞儀をしているかのように咲いている。単独でも見事な姿を見せてくれるが、群生地ではことのほか美しさを感じさせる。息を呑むほどに美しいとは、この花を前にしたときに使う言葉かもしれない。
「夕焼小焼」の故郷~夕やけ小やけふれあいの里を散策する
街道をさらに遡上すると、「夕やけ小やけふれあいの里」にでる。ここは1996年、農村体験型レクリエーション施設として出発し、2001年に現在の名称に変更され、少しずつ設備を拡張しながら現在に至っている。ここが「夕やけ小やけ」を名乗っているのは、すぐ近くに童謡「夕焼小焼」を作詞した中村雨紅(本名髙井宮吉) の生家(宮尾神社)があるからだ。
「夕焼小焼」の歌詞や曲を知らない人はまずいないと思えるほど、誰もが口ずさんだことがある名曲で、この歌に触れたときには思わず自分の故郷を思い出し、子供時代を懐かしむ人はとても多いに相違ない。八王子駅では発車のメロディにこの曲を使っているし、全国にある自治体が、防災無線で夕刻を告げるメロディとしてこれを使っている例は多いようだ。
私はこの「ふれあいの里」には何度も訪れているが、毎回、山中にある宮尾神社を訪ね、写真にある歌碑を目にしている。
この歌詞を書いた中村雨紅(1897~1972)は前述したように宮尾神社の宮司の次男として上恩方に生まれ、師範学校を卒業して1916年に都内にある小学校の教師になった。理想とは裏腹に、下町に住む子供たちのすさんだ生活に触れ、彼は情操教育の必要性を痛感し、担当クラスでは文集の作成を進めると同時に子供に語るための童話を作り始めた。
「夕焼小焼」はいつ頃に作ったのかは諸説あるが、1919年説が有力である。21年には「髙井宮」の名で童話を雑誌に投稿し野口雨情の目に留まった。23年、やはり小学校教師をしていた草川信が「夕焼小焼」の詞に曲を付け童謡として世に出ることになった。26年に高等師範学校を卒業した雨紅は厚木市の高等女学校の教師になり、国語教師を続ける傍ら、童謡や詩を作り続けた。
中村雨紅のペンネームだが、「中村」は一時、おばの家の養子に入っていたときの姓で、「雨紅」は、私淑していた野口雨情から「雨」の一字をもらい、それに雨情のような才能に自分も染まりたいという念願から「紅」を付けたらしい。なお、野口雨情についてはこのブログでも以前に少し触れたことがあり、代表作の「赤い靴」についても触れている。
「ふれあいの里」には「夕焼小焼館」があり、写真にあるように中村雨紅に関する資料や展示をおこなっている。真面目に関心を抱く人にはとても参考になるものなので訪れる価値はあると思うし、景色は当時とは同じではないものの、彼が幼い頃に触れていた世界の一端を共有することは可能かもしれない。
しかし、私のような不真面目者には、彼についての「逸話」のほうがとても気になるのである。ひとつは、彼が小学校の教師をしていたときの「通勤話」であり、もうひとつは、彼が「夕焼小焼」を作詞する際、イメージしていたのは「どこの寺の鐘の音なのか」、ということである。
まず「通勤話」では、彼は日暮里の小学校まで毎日、上恩方の実家から通勤していたというものである。当時は恩方と八王子駅を結ぶバスはなかったので、徒歩で約16キロの道のりを行き来したというのだ。当時の小学校は何時に始業し終業するかは不明だが、仮に8時半始業、15時終業としよう。ちなみに日暮里駅から彼が最初に勤務した第二日暮里小学校(当時と現在ある学校が同じ場所にあったと仮定)までは徒歩8分である。朝は職員会議があると考えると、最低でも8時には日暮里駅に着きたい。授業は15時に終わっても、教師には雑用が多い。授業の予習やテストの作成・採点などは汽車の中でおこなうにしても、子供と遊んだり、教師仲間と教科内容の検討会議などがある。もちろん、職員会議もあるだろう。彼は子供のために童話を作ったり文集を作ったりする熱心な教師だったらしいので、子供との面談だけでなく、地域や家庭を訪問することもよくあったと考えられる。とすれば、早くても日暮里駅には17時頃に着くと想定できる。
当時の中央線は完全には電化されていなかった。立川駅と浅川駅(現在の高尾駅)との間の電化完了は1930年である。彼が日暮里の小学校に勤務したのは16年からなので、彼が通っている間、八王子と立川の間は汽車が走っていたのである。現在の中央線の最高速度は100キロである。私が幼い頃に知っていたオンボロ南武線は、電車であっても60キロがせいぜいだった。当時の汽車が時速何キロで走っていたかは不明なので、仮に八王子駅から日暮里駅の間を現在の中央線と山手線を使って通勤するとして「ジョルダン・乗換案内」で調べてみた。
日暮里駅に8時に着くためには6時40分発の中央線・快速電車に乗る必要がある。新宿駅で山手線に乗り換えて日暮里駅に着くのが7時58分である。一方、帰りは17時ちょうどの山手線に乗り、中央線の快速で八王子に着くのは18時16分である。先に述べたように駅と自宅間は16キロあり、すべて徒歩での移動だ。自宅から駅までは緩い下り坂なので、健脚ならば約3時間というところか。帰りはやや上り坂でしかも恩方は山間の地なので日没が早い。とすると、日が長い季節でもほぼ真っ暗な道を歩くことになる。よく舗装された現在の道でも灯りが乏しいので車利用ですら少し怖い思いがする。ましてや、当時の道路状況(泥道)や自然状況(クマやイノシシが出るかも)を考えると、帰りは約4時間掛かると想定したい。
すると、6時40分の汽車に乗るためには3時半には家を出たい。家に戻るのは22時をかなり過ぎる。とすると、自宅に居られるのは5時間ほどだ。これでは食事も入浴も睡眠も満足に取ることはできない。しかも、これは今の電車を利用しての話であって、これが私が知っている幼い頃の南武線程度の電車でも片道30分ほどは余計に掛かると考えられる。とすれば、自宅滞在時間は4時間になる。彼がナポレオンだったとしても、睡眠時間は4時間必要だ。つまり、これは不可能な想定なのである。
彼は教育熱心な教師だったのだ。できるだけ長い時間、子供たちと一緒に居たかったはずだ。そうであるなら、無駄な通勤時間(1日10時間以上)はカットしたはずである。だが、彼に関するエピソードでは、古い時期のものほど、この長い通勤時間を彼の熱心さとともに取り上げている。しかし、ここ数年前ほどの新しい記述では、日暮里の小学校での教師生活のときは本郷に下宿し、休暇のときに実家に戻ったとある。これが実情であろう。努力の人ほど、伝説は偽造されやすいのだ。
次は「寺の鐘」についてだ。歌詞に「山のお寺の鐘が鳴る」とあるが、いったい彼はどの寺の鐘の音を聞いてこの歌詞を作ったのかという論争だ。
八王子では、いくつもの寺が「我が寺の鐘の音である」と主張しているらしい。とくに、市内の「宝生寺」、下恩方の「観栖寺」、上恩方の「興慶寺」の3つの寺の間では本家争いが激しかったらしい。これだけならば、いかにもありそうな話だが、論争はこれだけでは終わらない。この童謡は詞もそうだが、曲調により抒情性がある。夕暮れどきに寺の鐘がゴーンとなり、子供たちに今日一日の終わりを告げるといった「もののあわれ」を誘う雰囲気は、歌詞よりも曲の調べのほうに強く込められているというのだ。私も同感だ。ならば、この曲を作った草川信は長野市出身なので、彼が幼い頃に聞いていた鐘の音こそ本家なのだという主張が起こったのである。こうして、長野市では善光寺と往生寺が本家争いをしたという話が残っている。
これだけならまだ良かった。これに、町田市相原町が参入したのである。なぜ相原町かといえば、中村雨紅は先に述べたように一時、中村家の養子に入っていた(1917~23年)からである。彼が「夕焼小焼」の詞を作ったのは1919年説が有力で、仮に21年説、さらに童謡として発表されたのが23年なので、19~23年の間に作られたとしても、彼の当時の本名は髙井宮吉ではなく、中村宮吉だったのであり、下宿先から実家に戻る場合、上恩方の髙井家ではなく、町田市相原町にあった中村家なのである。そうだとすれば、彼が帰宅時に聞いた鐘の音の主は相原町にある寺なのだというのである。しかし、彼の帰宅ルートには、鐘の音の音源となる寺がなかったのだった。が、相原町は負けてはいない。鐘の音は彼が幼い頃に恩方で聞いたものだとしても、彼が作詞するときに思い描いた夕焼けの景色は、彼が日暮里からの帰宅時に見た相原町のものだという主張を成立させたのである。そして、2019年、つまり今年は『夕焼け小焼け』100周年だとして、相原町では式典をおこなうらしい(おこなった?)。
こうした「本家争い」に対し、彼は生前、歌詞の鐘の音は「心の中にある夕焼けの鐘の音」と発言し、どの寺の鐘の音であるのかというやや見っとも無い特定争いに終止符を打とうとしていた。考えてみれば、いや考えなくとも、実に当たり前の話なのである。
そもそも、詩や詞はイメージの中で創られるものであって、創作者たるもの現地を見なくても想像の世界から創り上げられなければならない。中村雨紅が崇拝した野口雨情は伊豆大島に行くこともなしに「波浮の港」を生み、平尾昌晃、水島哲、布施明の3人は茅ヶ崎にある平尾の家で酒を飲みながら適当に詞と曲をでっち上げ、名曲「霧の摩周湖」を生み出したのである。一方、私は現地に行き、無数の写真を撮りながらその地を徘徊し、しかし、こうした駄作しか生み出せない。創作は、才能の有無が大きく左右するのだという実感がある。いや絶対に。
「夕やけ小やけふれあいの里」には「夕焼小焼館」をはじめとして「農産物直売所」「ふれあい牧場」「キャンプ場」「ふれあい館」などの施設があり、敷地内の山林を通る「夕焼けの小道」には「カタクリ」「河津桜」「アジサイ」「ヤマユリ」などが植えられており、四季折々の散策に色どりを添えている。
施設にある展示物の「夕やけ小やけ号」と名付けられたボンネットバスは、ある年代以上の人々の郷愁を誘う。陣馬街道では1982年から2007年まで写真のバスが使われていた(京王八王子駅・陣馬高原下間・休日のみ)。ボンネットバス自体は1950年頃までが全盛だったので、陣馬街道にこの形のバスを走らせたのは懐古趣味の側面が強かったのだろうが、「ふれあいの里」の前を行き来するにはよく似合っていたはずだ。もっとも、バスの運行が先で「ふれあいの里」の開設のほうが後なのだが。なお、このバスは2009年に運行会社である西東京バスから寄贈されたとのこと。
ふれあいの里の散策路では多くのヤマユリが花を付けていた。夏の時期は、このヤマユリとホスタ(ぎぼうし)の二大共演だ。艶やかなヤマユリの花と可憐なホスタの花、対照的で美しいが、私はクロアゲハの助演を好ましく思った。大きな羽を小さく打ち震わせながら蜜を探している懸命な姿に。
さらに上流に向かって遡上する
ふれあいの里を出て、さらに北浅川を遡上した。
街道を陣馬山方向に進むと右手に写真の「上恩方郵便局」に出会う。この街道には古い建物が多いが、この郵便局はまだまだ現役である。建造年は1914年説、28年説、38年説がある。どれが正しいのかは窓口で聞けば分かるだろうが、まだまだ歴史的建造物というほどには古くないので、あえて尋ねることはしなかった。わたしが子供だったころには、こうした建物はたくさんあり、この存在は日常そのものだった。過ぎ去った昭和時代を思い起こせれば、それ以上は望まない。ただし、あえて望むとすれば、赤いポストは昔の円筒状の丸型のものが良いと思った。
郵便局のすぐ先にあるのが「口野番所跡」である。この存在自体は見落としてしまいがちだが、この番所がかつては重要な役割を果たしていたということを思うと、ここで取り上げないわけにはいかなかった。それは、この陣馬街道(かつては案下街道と呼ばれていた)は甲州街道の裏街道もしくは脇街道であったからだ。八王子の追分交差点で甲州街道と別れたこの道は、和田峠(標高700m)を越えて相州に入り、JR中央線の藤野駅付近で甲州街道に合流する。本街道は小仏峠を越え、裏街道は和田峠を越えるのだ。本街道に「小仏関所」があったように裏街道にも「口野番所」があって「入り鉄砲出女」を取り締まっていたのだった。写真の説明書きにあるように、ここの番所は村持ちで、村方36人が交代で警備に当たっていたらしい。
番所跡から少し遡上すると、写真の合流点に出会う。右からの流れが醍醐川で、左の細い流れが本流の北浅川である。醍醐川は和田峠のすぐ北側にある醍醐山(標高867m)の谷に源を発している。上流部には集落が少ないので、水の透明度はかなり高い。ただし、こちらには写真からわかるように段差があるので、私が魚であったら醍醐川には遡上できない。この点、北浅川方向の流れなら楽勝である。したがって、私も魚も左の北浅川方向に進む。実際、陣馬街道もこちら方向である。
北浅川を源流に向かって遡上する。やがて、右手に「陣馬高原下バス停」が見えてくる。陣馬山に登るハイカーはここでバスを降り、登山道へと向かう。登山道は和田峠のある陣馬街道方向にあるが、北浅川はここで街道と別れ、陣馬山と堂所山とが造った谷へと向かう。この泣き別れの場所には「陣馬そば山下屋」がある。私は入ったことはないが、お手頃価格なので結構、人気があるらしい。
陣馬そばと聞くと、私はかつて府中駅横にあった立ち食いそば店を思い出す。そこは京王線の子会社が経営していたと思うが、いつも腹を空かせていた私は、よくコインを握りしめながらこの店に走った。天ぷらそばは40円、天玉そばは55円だったと記憶している。もっとも、私はそばではなく、より量が多いと思われるうどんの方をいつも注文していた。とくに美味しいとは思えなかったが、腹の虫はおとなしくなった。こうした駅内外にある「立ち食いそば店」は便利なので、中央線を利用したときにも入ったことはよくあるが、京王線の「陣馬そば」のほうが味は少し良かった。
バス停近くにある「山下屋」は京王電鉄と関係があるのかは不明だが、子会社である西東京バスを利用して陣馬高原下に来る人がメインの客であると想定できるので、資本関係はともかく「関係」はあるだろう。どうでもいいことだが。
陣馬街道に別れを告げた北浅川は峠道を進む。右手に「辻野養魚場」があった。この辺りが車で入れる限界なので、路肩に車を止めて少し歩いてみた。浅川の流れは、とてもか細く、魚の姿を見出すことは困難だった。
だから私は、遡上を止めた。
出発点に戻る
私は「府中四谷橋」の上にいる。多摩川と浅川とが出会う場所が見られるからだ。夕焼けに染まる出会いの地を撮影したかったのだが、あいにく、この時期の夕方はほぼ毎日、西側の山々には雷雲が発生するので、太陽は早い時間帯から雲に隠れてしまった。隠れる刹那、残光を残した太陽は心なしか川面を染めた。高圧線には多くの鵜が止まっている。多摩川を遡上する鮎を狙っているのだ。
四谷橋から多摩川左岸の土手に移動した。前回の2枚目の写真にある出発点の写真は向かい側の河原から撮影したもので、今度は府中市四谷側から合流点を望んだ。周囲は相当に暗くなっていたので、目いっぱい増感して撮影した。写真ではやや明るく見えるが、実際には夕焼けの光はもちろんなく、小焼けの光すらない。
川はこうして多くのものと出会うが、人は晩年、多くのものと別れる。仲良しとは別れ、小良しとも別れる。
それにしても、「小焼け」とは何だ。「小良し」とは何だ。それらは結局、「夕焼け」や「仲良し」という言葉の語調を整えるだけの存在にすぎず、それ自体には意味はない。さすれば、「夕焼け」や「仲良し」にも実体はなく、それらを考える主体が存在するだけなのだろう。否、それですら、当体の思い込みにすぎないのではないか。