徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔19〕秩父困民党に学ぶ(1)~蜂起の地を訪ねて

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椋神社内にある記念碑

秩父困民党事件とは?

 1884年(明治17年)11月1日、鉄砲、刀、槍などで武装した約3000人の民衆が下吉田村にある椋(むく)神社に集結した。秩父郡の西谷(にしやつ・秩父北西部の山間地)にある各村ならびに大宮郷(現在の秩父市)の農民を中心として、男衾(おぶすま)郡や榛沢(はんざわ)郡、上州の上日野村、信州の北相木村などからも参集した。ここで組織の役割表が発表され、総理に田代栄助、副総理に加藤織平、会計長に井上伝蔵、参謀長に菊池貫平が就任した。併せて菊池の手になる「軍律五か条」も示された。

 1日午後8時、蜂起軍は二手に分かれて椋神社を出発し、小鹿野町に向けて進軍した。途中、高利貸宅や質屋を襲い軍資金の調達や邸宅の焼打ちや打ち壊し、役場や警察署にある証書類の焼却などをおこなった。この日は小鹿野町にある諏訪神社(現在の小鹿神社)で夜営した。

 2日早朝、大宮郷に向けて進軍を開始、小鹿坂峠を越えたところにある音楽寺(秩父札所23番)の鐘を乱打し、鯨波声(ときの声)をあげながら坂を下り、荒川を渡って大宮郷に突入した。蜂起軍は郡役所を制圧し「革命本部」を置いた。この地でも高利貸宅を襲い軍資金調達を敢行。また、周辺の村から人集め(駆り出し)もおこない秩父神社で野営した。ここに困民党による「無政の郷」(コンミューン)が成立した。集結した民衆も1万人ほどに膨れ上がっていた。

 3日、憲兵隊・警官が来襲するという報を受けたので、困民党軍は大宮郷を確保するため部隊を3つに分けて移動を開始した。が、情報が錯綜したために各隊は混乱し、結局、本部を皆野村に置くことになった。蜂起軍の多くは皆野村とその隣の大淵村に屯集した。

 4日、大淵村にいた幹部の新井周三郎が捕虜の警察官に斬られて重傷を負ったことから、本部は混乱に陥った。また、戦況が不利に傾いたため、田代栄助や井上伝蔵、さらに加藤織平ら主要幹部7人が逃亡した。大野苗吉(風布村)に率いられた一部の部隊は児玉町に向かい、金屋にて鎮台兵と激闘の末、多くの犠牲者を出して敗北。一方、信州から来た菊池貫平を新たな総理として本部を再建し上吉田村へ移動し、信州への転戦を決定した。

 5日、本部は峠を越えて上州の神流(かんな)川沿い(通称山中谷)に入り西進。神ヶ原(かがはら)で夜営。

 6日、神流川沿いの魚尾(よのお)村で自警団に敗北。西進し、十石峠の手前にある楢原村にて住民の依頼に応えて黒沢家を焼打ちし、白井宿で夜営。

 7日、十石峠を越え信州に入る。大日向村の竜興寺で屯営。

 8日、高利貸宅を打ち壊しつつ千曲川沿いの村に入る。ここでも高利貸宅を襲い軍資金の確保や人集めをおこなう。東馬流(ひがしまながし)の戸長宅に宿営。

 9日、東馬流の天狗岩付近で高崎鎮台兵と激闘。鎮台兵がもつ新式の村田銃の放火にさらされ多くの犠牲者を出す。千曲川上流へ敗走し、八ヶ岳山麓の野辺山付近でも砲撃を受け、困民党軍は完全に潰滅した。

決起せざるを得なかった背景を考える

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困民党の主体はこうした山間の地の出身だ

 日本近代史を教えている友人から、秩父困民党ゆかりの地を巡らないかという誘いを受けた。なんでも、昨今の若い衆は講義だけでは興味を抱かないし、そもそも山間地の暮らしというもののイメージがまったく湧かないらしい。現地の写真があれば少しは話しに惹きつけられるかもしれないと考え、現地調査と写真撮影に出掛けるのだということだった。夏真っ盛りの時期なので「ご苦労様」の一言で断ろうとも考えたが、秩父であればそれほど遠くはないし、そこにはかなりの土地鑑もあるので運転手を買って出た。

 秩父困民党については若い頃に関連本を数冊読んだだけで、とくに興味は持続していなかった。風布(ふっぷ、ふうっぷ)には何度も出かけていたが琴平(金毘羅)神社に足を運んだことはなかった。皆野にはかなり通ったが、それは荒川での鮎釣りのためか長瀞見学のためだった。荒川左岸の丘にある「秩父ミューズパーク」に行っても、それは秩父盆地武甲山の「哀れな」姿を望むためであって、音楽寺の鐘を打ち鳴らすことはなかった。国道299号線沿いにある小鹿野町内をよく通ったが、それは神流川での鮎釣りのための往来の通過点でしかなかった。しかし今回、出掛ける直前に慌てて困民党関連の本を数冊買い込み、彼らの行動について少しだけ知識を吸収してみると、その事件の歴史的意義と、そこに登場する人々の生きざまにすっかり魅入られてしまった。

 民衆思想家の色川大吉秩父困民党事件を「江戸時代から続いた百姓一揆の最後の形態」であると見るか「自由民権運動の最後の、そしてその質をもっとも高く受け継いだ事件」と見るかのどちらかだと位置付けているようだが、私にはそのどちらでもあると同時にどちらでもないと思われた。というより、どちらでもないというのが正しいのではないかと考えた。ではどう位置付けるのかと聞かれたら、すぐに答えを出すことはできなかった。この答えを探すため、今回の秩父行きは私にとっても重要な意義をもつようになった。

 困民党が決起せざるを得なかった背景には、「産業構造の転換」「生糸価格の暴落」「松方財政による不況と増税」「自由党本部との考え方の相違」などがあった。

▼産業構造の転換

 1859年の横浜開港によって欧米との貿易が急拡大した。秩父は古くから養蚕や「秩父絹」の生産が盛んであったが、フランス、イタリア、イギリス、アメリカなどの要求によって生糸輸出が増大した。山間地に住む農民は、開港以前は「秩父という小さな世界」で経済的に自足していたが、開港後は「世界経済」の動きに翻弄されるようになった。女たちの家内工業による絹織物の作製という道は長い期間閉ざされ、欧米への原料供給地という立場に位置付けられた。

 欧州での生糸の生産は1840年代にフランスで発症した蚕病によって停滞し、50年代からは目に見えて低減した。フランスでは、50年には318万キログラム生産したものが57年には111万キロ、63年には65万キロまでその量は落ち込んだ。その後も20世紀に至るまで年に50~100万キロの生産量で推移した。蚕病が蔓延しなかったイタリアでも、57年に500万キロあったものが80年には200万キロと生産量は落ち込んだ。

 欧州では原料の生糸を確保するために中国市場から輸入を拡大した。1850年に124万キロだったものが57年には360万キロにも増加した。一方、59年、日本の開港に伴って交易が始まり、欧州産生糸には劣るものの中国産生糸よりは品質がやや良く、かつ安価である日本産生糸の輸出がスタートした。当初は、日本の製法と欧州の製法が異なるために輸出量はさほど伸びなかったが、72年に富岡製糸場の設立など欧州基準の製法を開始することによって輸出量は大幅に増加した。70年に41万キロだったものが70年代後半には100万キロ、80年代前半には140万キロ、80年代後半には210万キロにもなった。さらに1910年頃には中国を抜き、生糸生産量で世界一になるまで成長した。

▼生糸価格の暴落

 「養蚕から秩父絹」という流れで自足していたこの地は、前述のように世界経済の流れの中に放り出された。秩父絹は秩父地方の中で消費されていた。毎月、1,6日は大宮郷、2,7日は野上、3,8日は吉田、4,9日は皆野、5,10日は小鹿野で市が立ち、食料を自給できない山間部の農民は秩父絹を市に持ち込んでは食料に換えていた。が、原料供給地に変わってからは、生産した生糸を仲買商人に売り、仲買商人は売り込み商人へ、売り込み商人は外国商館へという、今までとは全く異なる貨幣経済の流れの中に組み込まれたのだった。

 現金化するには時間が掛かるため、生産農民は「前貸し金」の貸与を受けて養蚕活動をおこなった。1880、81年、繭(まゆ)生産は順調に拡大した。カイコの餌である桑の葉が不足し、カイコを破棄せざるを得ないほど生産量は拡大した。が、これが仇となった。農民はさらに繭の生産量を増やすため、陸稲、麦、粟(あわ)、稗(ひえ)、インゲン、大角豆(ささげ)などの食料生産をおこなっていた畑までも桑畑に転換した。そのために「前貸し金」という名の借財を増やした。が、82年にフランスで恐慌が起こり、ヨーロッパは不況に陥った。その結果、83年に生糸価格は暴落した。84年、秩父では天候不順が影響したためか繭の生育は不調で、前年の6割しか生糸は生産できなかった。しかも、フランスのリヨン生糸市場はさらに大暴落したのだった。この結果、農民が抱えた借財は返済不能の水準にまで達した。

▼松方財政による増税デフレーション

 1881年に大蔵卿に任命された松方正義は、西南戦争対策のために乱発された紙幣を回収することでインフレへの対策をおこなった。82年には日本銀行を設立し、銀本位制による通貨価値の安定化を図る道筋の第一歩を踏み出した。日本銀行銀兌換券の発行・流通をおこなう前に、まずは市場に出回っていた政府紙幣国立銀行紙幣といった不換紙幣の回収が必要だった。不換紙幣の回収をおこなうと同時に官営工場の払い下げ、たばこ税や酒税などの増税などで準備金(正貨)の確保を試みた。軍事支出の増大や鉄道建設などはおこなったものの一般財政には資金を多くは拠出しないという消極基調の政策をとったため、国内経済はインフレからデフレへと一気に落ち込んだ。その一方、不況と貿易収支の改善で正貨備蓄が進んだため、85年に銀兌換券の発行に漕ぎ着け、86年に銀本位制による日本資本主義経済体制の基盤が確立した。

*資本の本源的蓄積

 資本の本源的蓄積とは、資本主義が本格的に成立するためには資本の蓄積と賃金労働者の供給が必要だったとする考え方である。

 資本の蓄積過程は、その出発点は「重商主義」にあったと考えられる。地理上の発見によって欧州の貿易活動は著しく拡大した。絶対主義国家はその体制を維持するために軍備と官僚制を必要とした。多額の費用を捻出するために国際貿易を活性化させた。この結果、商業資本は国王の庇護の下、多くの富を蓄積した。一方、賃金労働者は囲い込み運動(エンクロージャー)によって農村部から供給された。第一次エンクロージャーは規模が小さかったために影響は一部にのみ広がっただけだったが、ノーフォーク農法という新しい土地利用方法が導入された第二次エンクロージャーは広範囲に及んだため、農地から土地を追われた農民が仕事を求めて都市部に集まった。

 欧州と明治期の日本とは資本の本源的蓄積過程は異なるが、官営工場が政商へ安価に払い下げられ財閥を生み出したこと、開港によって貿易が活発化して富が蓄積されたことは資本の集積を促した。一方、松方デフレによって困窮化した農民が流浪化したこと、1889年に町村制が確立して地主と小作人の階層分化が生まれ村落共同体の連帯感が失われたことなどは、都市に賃金労働者を送り込むことにつながった。秩父困民党の運動も、足尾銅山鉱毒事件も、こうした資本の本源的蓄積過程を背景にしたその抵抗のための闘争だったのである。

自由党本部との落差

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秩父自由党は写真の重木耕地が発祥の地

 自由党は1881年、国会開設の詔をきっかけに成立した。自由党の盟約には「自由拡充、権利保全、幸福増進、社会改良」「善良なる立憲政体」「主義を共にし目的を同じくする者との協力」があるが、基本的には「自由主義」「議会主義」「憲法の制定」を目的にしたと考えられる。一言でいえば「自由民権運動」だ。しかし、活動主体は旧士族、豪商、豪農であったため、党内急進派は貧農層と結びついて過激な事件を度々起こした。これがいわゆる「激化事件」で「福島事件」「群馬事件」「加波山事件」などが起こり、結局、急進派の動きを抑えることができず、84年10月29日に党は解体した。

 秩父では本部との結びつきは弱く、秩父自由党の幹部であった村上泰治は困民党の動きには冷やかに対応した。84年に急進派の大井憲太郎が2月に秩父遊説をおこなってから入党者が増加した。3月には困民党組織化の立役者となった「高岸善吉」「坂本宗作」「落合寅市」の3人が、5月には「井上伝蔵」が入党した。大井は困民党を指導したと一般に言われているが、11月1日の蜂起には反対していた。

 1910年に出版された『自由党史』では上記の激化事件を「福島の獄、群馬の獄、加波山の激挙‥‥、埼玉の暴動」と評価している。「獄」は政府に弾圧されたこと、「激挙」はやや行き過ぎた出来事を示すのに対し、埼玉の暴動=困民党事件は明らかに否定的に捉えていることが分かる。つまり、他の事件は自由民権運動の延長線上の出来事と考えているのに対し、困民党事件は自由民権運動埒外の暴挙と位置付けているようだ。所詮、自由党は議会開設と憲法制定を目指した豪商・豪農の運動に過ぎなかったのだと思われる。このことは、『自由党史』の中にある困民党の運動を評価する次の言葉にも現われている。「実に、一種恐るべき社会主義的性質を帯びるを見る」。

なぜ秩父で困民党が決起したのか

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のちに田中千弥が祠官となった椋神社の本殿

 上吉田村田中耕地出身の田中千弥(1826~98)は貴布禰(きぶね)神社や椋神社の祠官(しかん)を務めた村随一の知識人であったが、困民党の運動に対しては一歩距離を置き、かといって支配者側にも与せず、第三者の眼でこの事件の推移を見つめていた。彼は49年間にもわたる『田中千弥日記』を残し、その中の「秩父暴動雑録」でこの事件についての詳細な記録を残している。

 ここで田中は困民党事件の原因を以下の通りに記述している。「今般暴徒蜂起するや其の原因一に非ず。高利貸なる者其一、自由党と称する者其二、賭博者其三、警官の怠慢其四」。これからわかるように、この事件の一番の原因を「高利貸し」の存在としているのである。

 先に述べたように、生糸の生産農民は前貸し金の貸与によって養蚕をおこなうのである。が、生活費や実際の生産量の不足などを考慮に入れると、「高利貸し」からの借金が必要になる場合が多い。この高利貸しの金利が法外のものだったのだ。

 当時も「利息制限法」が存在し、年率は20%以内と決められていた。しかし、実際には年率が200~300%のものがほとんどだったのだ。たとえば、8円の借財に対して一年後の利息が18円46銭にもなったという記録がある。今なら「過払い金請求」ができるだろうが、もちろん当時にはそういった制度はなかった。不当な利息請求を役所や警察に訴え出てもまともに対処してくれることはまずなかった。

 当時の風布村にある耕地の例でいえば、24戸の農家の借財は総額2144円あった。一戸平均90円である。当時、農民たちが所有していた土地の評価価格は一戸平均65円であった。つまり、全戸が破産状態であったのだ。その上に、高利貸しの暴利がこの借金に追い打ちをかけてくるのである。

 江戸時代や明治時代初期では土地はすぐさま取り上げられることはなかった。10年後までに返済すれば所有権は維持できた。しかし、事件が発生する頃になると裁判制度が確立していたので、返済が滞ると裁判所の判断で土地所有権の移転が直ちにおこなわれるようになった。近代的制度は村落共同体にあった「温情主義」を排した。「身代限(しんだいかぎり)」といって、借金が返済できなければ土地を追われたのだ。このため、秩父だけに限らず、1884年には全国で146件の農民騒擾があったという記録が残っている。

 大宮郷秩父市)ではある貧農が「マネーゲーム」に目覚め、わずか10年で5万円もの財産を得た。もちろん「高利貸し」によってである。当時の平均月収は10円程度と想定されるので、この人物の財産は月収の5000倍だ。仮に今日の月収が25万円と想定すると当時の5万円は今の1億2500万円に相当する。この莫大な資金がさらにマネーゲームに投入されるのだ。当然のことながら、この人の家は、大宮郷に入った困民党軍によって真っ先に焼き打ちにあった。

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加藤織平の墓

 田中千弥は、暴動の原因のひとつに「賭博者」を挙げている。確かに、困民党の総理であった田代栄助は「博徒」であった。副総理の加藤織平も「博徒」の一面があった。博徒が率いた運動だったから暴動という「博打」に出たとも考えられなくもないが、そもそも、山間部に住む農民の娯楽といえば賭け事が一番だったのだ。今はあまり流行らないのだろうが、昨今でいえば友人との「賭けマージャン」程度だったと思われる。実際、田代は当時はかなり難しいとされた「天蚕」にもチャレンジしていた。また、仲間を助けるために代言人(弁護士)の真似事もしていた。このため、田代は「子分200人」と言われたほど多くの人から慕われていた。「生来、強くをくじき弱きを助けるを好み、貧弱の者頼り来るときは付籍(血縁関係がないものを自分の戸籍に入れること)いたし、人の困難に際し中間に立ち仲裁等をなすこと実に十八年‥‥」と、田代自身が回顧している。加藤織平は豪農で金貸しもおこなっていたが、彼は困民党に参加する際、貸していた150円をチャラにしている。田代や加藤は、単なる博徒というより「律儀な任侠」と呼ぶのが相応しい。

 警官の怠慢は酷かった。また、運動の参加者に対する扱いも酷いものだった。田中千弥は先の雑録で「警察官吏は、明治16年よりして、小民等が高利貸の苛酷なる督責に苦しみ、彼の高利貸に説諭あらんことを縷々(るる)哀訴するも、しりぞけて受理せず‥‥」と記し、警官の怠慢を詰った。さらに、「警察官等が、人民を訊問するありさまは、警吏自ら三尺ばかりの生木の棒を携持し、訊問所に入る者をば、未だ何等のことを問わざる前に、先ず面部頭部を言わず一擲(てき)、或いは二三擲(うち)て後訊問に及ぶ」など暴力的な取り調べをおこなった。中には、取り調べ中に熱した鉛を背中に浴びせられた者もいて、獄死するもの、釈放後に病死する者も少なからずいた。

蜂起直前までの経過

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風布の村民が10月31日に集結した琴平神社

 困民党の一斉蜂起は1884年の11月1日だったが、すでに前日には大きな動きがあった。そのひとつが「風布(ふっぷ)組」と呼ばれた荒川右岸の高地にある風布村(現在は寄居町風布と長瀞町井戸)の決起だ。

 風布村は困民党の中核部隊だった「上日野沢」「下日野沢」「石間(いさま)」「上吉田」「下吉田」の諸集落とは少し離れた場所にある。このため、11月1日に椋神社へ行くためにはやや早めの時間に風布村の集結場所である琴平(金毘羅)神社に集まる必要があった。当初は11月1日の午前8時が集合予定時間だったが、血気盛んな人々はすでに前日の昼ごろには大多数が集合していた。風布村は80戸の集落だが、他の集落からの参加者を含め、約140人が結集していた。江戸期の農民一揆同様、挙村参加だった。 

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蜂起前に良く幹部会議がおこなわれていた小前耕地

 上日野沢村の小前耕地で幹部会議がおこなわれるということから、大野福次郎をはじめとする先遣隊が31日の午後3時に琴平神社を出発した。ところが、この先遣隊は荒川を渡る前、通称「おんだし河原」(現在の長瀞ライン下りの出発点付近)で逮捕されてしまった(約半数は逃亡したが大野は捕縛された)。すでに風布村の動きは警察側に把握されていたのだった。この報を受けた本隊の約120名は、動きを警察側に捕捉される前に琴平神社を出発し、警察官が集まっている皆野村を大きく迂回して荒川を渡り、山中を西進して上日野沢村方向に進んだ。

 31日には、宝登山の南東側にある金崎でも困民党軍の動きがあった。金崎には約200人が出資して組織された高利貸会社である永保社があった。ここを困民党の幹部である新井周三郎、柴岡熊吉、村竹茂市ら数十人が襲い、刀や槍を奪うとともに、借用証書約1万円分を焼却した。あわせて、その隣にある高利貸し宅の打ちこわしもおこなった。

 11月1日にも、椋神社での総決起前に「阿熊村」や「清泉寺」で警官隊との衝突があった。ここでは蜂起軍の2人、警察官の1人が死亡した。この争いの後、警察隊は下吉田村戸長役場に引き上げた。が、ここは椋神社にほど近い場所にあるため、神社に集まった蜂起軍の一部がこの役場を包囲した。逃亡を図る警察官のうち、逃げ遅れた1人を捕虜にした。捕らえられたこの警察官=青木与市巡査は蜂起後もそのまま小鹿野、大宮郷、皆野と蜂起軍に連れ回わされたが、皆野にて困民党幹部の再三の説得に応じ、困民党軍に協力することになった。彼には刀が与えられ、新井周三郎の隊に組み入れられた。このことが、困民党本部が解体する切っ掛けを作ることになったのは、歴史の皮肉としか言いようがない。

困民党が組織されるまでの経過

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困民党軍が集結した椋神社の大鳥居

 かくして秩父困民党は椋神社に集結し、約3000人の軍勢が甲乙の二大隊に分かれ、1日午後8時、小鹿野に向けて進軍を開始した。なぜ、かくも大勢の人々が一堂に会したのか、あるいは会することができたのか、その出発点は1883年12月、下吉田村の高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人による「高利貸説諭請願」にあった。

 三人は大宮郷にある秩父郡役所に出向き、高利貸しへの返済で苦しんでいる農民の実情を話し、負債の据え置きと償還の年賦払いの要求を郡長におこなった。前述したように、負債の利息には法律上、年20%までに制限されていたが、実情は200~300%だった。しかし、要求は全く受け入れられず、「身代限」の農家は700戸にも達するほど困窮を極めていた。

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高岸善吉の家

 1884年2月、大井憲太郎の秩父遊説を切っ掛けとして上記の3人は3月に自由党に入った。自由党本部の大会に出席した高岸善吉はその報告を兼ねて彼の「親分格」である石間(いさま)村の加藤織平の家を訪れ、坂本や落合らとともに加藤家の土蔵に7人が会して以下のような盟約5か条を作り血判した。なお、この内容は警察側の密偵が情報を入手し、鎌田沖太警部のメモに残されて後世に伝わった。鎌田はこうしたスパイ活動の業績が認められたためか、後には秩父郡長に出世している。権力の手先になったものが出世街道を進む点は今も変わらないが。

1、我々は日本国にあり圧政官吏を断て直正の人を立つるに務むること。

2、我々は、前条の目的を達するため恩愛の親子兄弟妻を断ちて生命財産を捨てること。

3、我々は相談の上、ことを決すること。

4、我々の密事を漏すものは殺害すること。

5、右の契約は我々の精心にして天に誓い生死を以て守ること。

 これらの内容は、後述する困民党の4か条や軍律5か条につながっていく。

 春から夏は農民にとってはもっとも忙しい時期で、養蚕もまたこの時期が勝負になるため、彼らの動きが表面化するのは8月に入ってからのことだった。上記の3人が中心となって各村・各耕地へのオルグ活動がおこなわれ、困民党に加わる人々が増加した。風布村の石田造酒八(みきはち)、石間村の新井繁太郎や柿崎義勝など困民党の中核を担った人物もこの時期に加わっている。活動は和田山や巣掛峠、井上伝蔵宅での集会や、各債主への年賦償却の談判や警察への請願だったが、成果は得られなかった。

 9月6日、阿熊村の新井駒吉宅で、井上伝蔵や坂本宗作らと後に困民党の総理になる大宮郷の田代栄助が初の面談。ここで「債主に対して4年据え置き40年賦償却」の方針が提案される。続いて7日、困民党の基本方針である「4か条」が田代、井上、高岸、坂本、落合、上州自由党リーダー格の小柏常次郎(上日野村)などの会合によって決定された。

1、高利貸しのために身代を傾けもっか生計に苦しむ者多し、よって債主に迫り10年据え置き40年賦に延期を乞うこと。

1、学校費を省くため、3年間の休校を県庁に迫ること。

1、雑収税の減額を内務省に請願すること。

1、村費の減額を村吏に迫ること。

 収入の少ない農民にとって「学校費」は多大な負担であった。当時、授業料は有償で、松方財政による不況で文部省から県への補助が減ったため村民の負担はさらに増大した。実際、椋神社内にあった椋宮小学校では、学齢人口は474人だったのに対し、実際に通学できたのは200人弱という有様だった。

 雑収税は国税で、たばこ税や酒税がこれに該当した。ここでも不況による国や県、町村の税収減を増税で賄おうとしていたという背景を読み取ることができる。

 この「4か条」によって困民党の運動が日常化したのに対し、警察は「山林での集会」は取り締まったものの、「債主に対し穏やかに掛け合うならば差し支えない」という姿勢で臨んだため、債主への直談判が増加した。これに対し債主側の反発も強まり、負債農民に対する裁判所から召喚が増え、対立は泥沼化した。

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復原された井上伝蔵宅

 10月12日(13日説もある)、井上伝蔵(上吉田村きっての豪農自由党員)宅で田代、加藤、坂本といった中核メンバーが集まり、これまでの個別交渉では問題は解決せず、これからは「衆力を要して年賦据え置きを各債主に迫り、村費削減を村吏に迫り、雑税減額・学校休校を県庁に請願すること」を決した。その上で、準備金強借などの非合法活動をおこなうことも決めた。

 14日、新井周三郎や坂本宗作が中心となって横瀬村の高利貸し宅を襲い、家族を縛り上げた上、金銭や物品を強奪した。

 18日、門平惣平宅(上日野沢村)に田代、坂本や小柏、大野福次郎らが集まり、「これよりは暴民とともに高利貸しの家を壊すつもりなのでその時は共に力を合わせよう」と決した。さらに田代は「中山道の鉄道破壊、電信機の切断」までも提案したとされている。

 25日、上記の動きを知った自由党本部は「軽率に事を起こすな」という指示を出した。秩父では自由党が直接に指揮する運動がなかったため、あくまでも「通達」の域を脱してはいなかった。

 26日、粟野山(あのうやま)で会議がおこなわれ、田代と井上は11月1日の決起を30日延期することを提案した。田代は、早い決起では秩父だけの運動になるが、一か月の猶予があれば群馬や長野など周囲の勢力と一斉蜂起できると考えていた。が、困窮した農民はもはや家には戻れない状況だったため、大多数が延期案を認めず11月1日の蜂起を決定した。

 27日、小鹿野町にある小鹿(おしか)神社の神職が、「困民党軍は28日に決起する」という「密告」を警察におこなった。このため、多くの警官が各所で警戒をおこなったが、困民党軍のはっきりとした動きは確認できなかった。この神職の息子は困民党の幹部になり蜂起にも参加したが逮捕後に無罪放免になっているため、神職と警察との間には何らかの裏取引があったという主張もある。が、一方、困民党側のかく乱作戦という見方もあり、研究者間でも意見が分かれている。

 28日、信州南佐久郡北相木村から菊池貫平と井出為吉が秩父に来て加藤織平宅に宿泊。秩父と信州とは9月段階で交流があり、萩原勘次郎(大田村)が剣道指南役と称して度々北相木村を訪れていた。29日、両名は田代と面会した。田代は「我々は借金党である。大尽より借りた金円の返済据え置きを迫り、場合によれば大家を潰すつもり」と言ったため両名は「左様な儀であるなら私らは帰国する」と答えた。すると、田代が「この場に至っては、仮に外人たりとも帰ることは相ならぬ」と言ったため両名はやむを得ず留まることにした。 

 なお、この28日には自由党が解党宣言をおこなっている。

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小前耕地の天王さま。この辺りで最終会議がおこなわれたらしい

 30日、小前耕地の山中(天王さまあたりか?)で幹部会議が開かれ、田代は再度、30日間の延期を迫ったが却下された。31日の会議でも田代、井上は延期を迫ったがやはり却下された。

 かくして、11月1日の決起が最終的に決まり、先述のように、早くも風布村では31日に村を挙げて総結集、金崎村では「永保社」の襲撃がおこなわれた。

 これより、秩父困民党は9日間の戦いを繰り広げるのである。

*以下は次回にて(30日頃更新予定)

*現地での写真撮影はまだ終わっていないので、終わり次第、今回の項にも写真を追加いたします。