徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔20〕秩父困民党に学ぶ(2)~蜂起の流れを知る

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困民党軍は音楽寺から市街地へ駆け下った

困民党はコンミューン党である

 困民党は「借金党」「赤貧党」「貧困党」「負債党」などとも言われていたらしいが、やはり「困民党」の名が彼らの運動組織にはもっともふさわしい。困民は困窮民の省略形だろうが、私には「困民」=「コンミューン」に思えてならない。この考え方は研究者や文筆家、日曜歴史家にもよく見られ、困民党は大宮郷(現在の秩父市)で束の間の「無政の郷」(コミューン、コンミューン)を建設したといった表現はかなり多い。これは、彼らが「世直し」だけでなく「世均し(ならし)」をも目指したというところからきているのだろう。実際、前半戦は参謀長、後半戦は総理として戦った信州北相木村の菊池貫平は「拙者らは富者に奪ひて貧者に施し、天下の貧富をして平均ならしめんと欲するものなり」と述べている。

 菊池と一緒に秩父困民党軍に参加した井出為吉(25歳)は、北相木村豪農の息子で、若くして村会議員、戸長、学務委員などを務めてたり、学習会や討論会を組織したりしていた。1970年に井出の生家の土蔵から「仏蘭西法律書」「仏国民法契約編」「仏国革命史」「英国スペンサー社会学」「ボアソナード性法講義」など多くの書物が見つかっており、井出が15,6歳ころからこうした書物をよく読んでいたことが分かった。井出は困民党軍では「軍用金集方」の任についていた。軍が高利貸しや豪農から集めた強借金の受領書には「革命(党)本部」の名があるが、これは井出が書いたものとされている。また、井出は南佐久地方ではもっとも早く自由党に参加しているが、この頃にはすでに自由党本部には何の期待も抱いてはおらず、「自由党ニハ違イナケレドモ、他ニマタ一社ヲ設ケタシト存ジ」と語っている。北相木村といえば長野ではもっとも辺境の地なのだが、こうした場所にも優れた人物は輩出されるものなのだ。というより、優れた人材はどこにでも存在するのだが、あとはその人が誰によって、何によって認められるのかということに過ぎないのだとも言える。

 菊池や井出が困民党軍の理論的リーダーだったとすれと、彼らは1871年、フランスで起きた「パリ・コンミューン」の動きは当然知っており、これを秩父の蜂起軍に活かそうとしたということは当たり前のごとく考えうる。

 パリ・コンミューンは1871年、普仏戦争に敗北したフランスのパリで、2月26日から5月28日の3か月間、プロレタリア独裁自治政府を創った社会主義革命運動である。フランスは基本的には農業国家であるため、資本主義の発展は他の西欧諸国に比してかなり遅れていた。工業も伝統的な手工業が中心で、労働者はまだ社会の中核的存在にはなってはなってはいなかった。

 当時のフランスには大きく分けて3つの運動勢力があった。ひとつはフランス大革命以来の伝統である「ジャコバン的直接行動」をおこなっていた小市民や農民の勢力、ひとつは「財産は剽窃である」として大資本家や金融資本の搾取を批判する「プルードン主義」、ひとつは暴力的過激主義を標榜する「ブランキスト」グループだった。こうした勢力が、「公務の管理を自己のうちに掌握することによって、時局を収拾すべき時がきた」と考えてひとつの流れにまとまり、わずか3か月間とはいえ、コンミューンを成立させたのである。

 パリ・コンミューンにあったこの3つの勢力・思考・行動は秩父困民党軍にも見られる。高岸善吉、坂本宗作、落合寅市の3人は直接説諭請願運動を早くから始め、同時に多くの困窮農民を組織に加えていった。信州から加わった菊池貫平や井出為吉は「世均し」を標榜して富の平等化を図ろうとした。新井周三郎は高利貸し宅を襲ったり、警官隊と闘ったり、あるいは殺人を犯すなどの暴力的行動を果敢に実践した。

 初代総理の田代栄助、副総理の加藤織平、在地オルグを徹底した高岸、坂本(彼は後半からは菊池グループに加わる)、落合などの運動は「自由民権運動」の延長線上に位置付けることができるし、菊池や井出は「社会主義運動」、新井ら過激派グループは「暴力革命運動」と区分して考えることは可能だ。つまり、後の『自由党史』で秩父困民党の運動を「実に一種恐るべき社会主義的性質を帯べるを見る」と自由主義者が批判したことは真っ当な見方なのである。実際、社会主義的方向性を目指していたのだった。また、困民党の蜂起が長年、「秩父暴動」と呼ばれていたことを批判し、民主主義活動家たちの努力で「秩父暴動」が「秩父事件」と言い換えられるようになったが、実際にはかなり暴力的な運動だったのである。前回にも触れたが、1884年10月の段階ですでに「腕力にうったえ、中山道の鉄道破壊、電信機切断、高利貸しの家を破壊して貧民を救う」という意見が出ており、困民党を組織する過程でも「武力行使」は提案されているのである。

 つまり、困民党の運動は社会主義的であり、かつ暴力的である。この限りにおいて、困民党の蜂起は「秩父暴動」という位置付けが正しいのである。政府や自由党、後の民主主義勢力は「暴動」をマイナス面としてとらえているが、マイナスは容易にプラスに転換できるのである。地球磁場が逆転する「チバニアン」のように。

11月1日の動き

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3000人が集結した椋神社境内

 椋神社には1日午後8時に集結する予定だったが、警察の動きがかなり活発に見られたこと、風布村の蜂起が早かったこと、新井周三郎らが金崎村永保社の襲撃をおこなったことなどから、神社への集合時間は前倒しになった。小前耕地に住む神職の宮川津盛宅に泊まった田代栄助も午後4時には神社に到着した。参加者の逮捕後の供述によれば、椋神社に集まった人の数は500~1500人というものが多い。新井周三郎のように3000人と述べているものもある。鎮圧側の責任者ともいうべき鎌田冲太(ちゅうた)警部はその回想録で参加者を3000人余としているので、この3000人が事実に近いようだ。現在では主催者側発表の方が警察発表よりも多いのが通常だが、この時代では主催者側のほうが少なく見積もっているというところが面白い。

 午後7時頃より、田代栄助から「役割表」が発表された。

・総理    田代 栄助  51歳   大宮郷

・副総理   加藤 織平  36歳   石間村

・会計長   井上 伝蔵  30歳   下吉田村

・会計副長  宮川 津盛  56歳   上日野沢村

・参謀長   菊池 貫平  37歳   長野県北相木村

・甲大隊長  新井 周三郎 22歳   西ノ入村

・甲副隊長  大野 苗吉  22歳   風布村

・乙大隊長  飯塚 森蔵  30歳   下吉田村

・乙副隊長  落合 寅市  35歳   下吉田村

・上吉田村小隊長 高岸 善吉 35歳  上吉田村

・上日野沢村小隊長 村竹 茂市 45歳 上日野沢村

・下日野沢村小隊長 新井 紋蔵 31歳 下日野沢村

・軍用金集方 井出 為吉  25歳   長野県北相木村

・小荷駄方  小柏 常次郎 42歳   群馬県上日野村

・伝令使   坂本 宗作  29歳   上吉田村

・伝令使   門平 惣平  31歳   上日野沢村

 など、約70人の幹部が名を連ねた。

 この後、菊池貫平によって、「軍律5か条」が発表された。

第一条 私に金円を略奪する者は斬

第二条 女色を犯す者は斬

第三条 酒宴を為したる者は斬

第四条 私の遺恨を以て放火其の他乱暴を為したる者は斬

第五条 指揮官の命令に違背し私に事を為したる者は斬

 といった、簡潔ながら厳しい規律を参加者に課した。

 組織の役割分担が明示されていること、組織の規律が厳しく定められていることから、秩父困民党軍は一揆的色彩も、一部跳ね上がりの暴徒的色彩もさほど帯びてはおらず、正しい目標と規律、それに暴力装置を身に着けた人民の軍隊と呼ぶのが相応しい。また、参加者は全員が白ハチマキ、白タスキを付けていた。軍の指揮者は羽織、袴の正装で臨んだ。小隊は村ごとに組織され、隊ごとに小旗が用意されていた。

 午後8時ごろ、蜂起軍は二手に分かれて小鹿野町に軍を進めた。田代や新井が率いる甲大隊は下吉田から下小鹿野村に入り小鹿野町へは東から進出した。この間、高利貸し宅を放火した。一方、加藤や飯塚が率いる乙大隊は下吉田から井上耕地に進路を取った。やはりここで高利貸し宅を放火した。その後、巣掛峠を経て西から小鹿野町に侵攻した。小鹿野町では警察分署にある書類を焼き捨てたり署内の破壊をおこなった。また、高利貸し宅を襲い、放火したり打ち壊しをおこなった。なお、放火の際には濡れたムシロを用意し、隣家への類焼を防いだ。

 その後、諏訪神社(現在の小鹿神社)に集まり夜営した。

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小鹿神社の本殿。この神社は「バイク神社」として有名

 小鹿神社(おしかじんじゃ、おがのじんじゃ)には若者の参拝客が多かった。聞けば、小鹿野町はオートバイによる町おこし事業をおこなっており、この神社は「バイク神社」としてツーリングを楽しむ人々には名が通っているそうだ。

 私がこの神社に立ち寄ったのは「安全祈願」をするためではなく、「秩父困民党結集の森」の碑を探すためだった。しかし、境内をあちこち歩いてみたが碑は見つからなかった。案内板も見当たらなかった。参照した資料には「結集の碑」があると書いてあったのだが。小鹿野町にとっても小鹿神社にとっても困民党は「負のレガシー」なので撤去してしまったのかとも考えた。

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結集の森の碑ではなく看板だった

 この神社は国道299号線のバイパスの北側にある。バイパスに面した場所には赤い大鳥居があり、ツーリング客にもすぐに神社の存在が分かるようになっている。その大鳥居の脚の部分に写真の看板があった。碑ではなく看板だったのだ。あらためて資料を確認すると、確かに「秩父困民党結集の森の看板」と記してあった。手入れの行き届いている大鳥居と神社の石柱に対し、このくたびれ果てた看板との対比は、そのまま小鹿野町や小鹿神社が抱いている「バイクで町おこし」と「困民党」との今日的価値の落差を表現しているようだ。

 困民党とは関係がないが、国道299号線について触れないわけにはいかない。日本には魅力的な3ケタ国道が多くあるが、この299号線はその代表的な存在だ。起点は長野県茅野市にあり終点は埼玉県入間市だ。起点こそ上位の152号線と重なるが、山坂道に入ってからは299号線として蓼科高原を通り、麦草峠(標高2127m)を通過すると今度は八千穂高原を佐久市へと下る。「メルヘン街道」と名付けられストレート部分がほとんどないこの道はとてもスリリングで、いかにも運転自慢が好みそうなルートである。もちろん景観も良い。佐久からは武州街道と呼ばれ、やはりカーブがきつく十国峠(標高1351m)越えという難所がある。群馬県上野村に入っても難所は続く。というより、こちらのほうが道は険しい。志賀坂峠(標高780m)を越えてしばらくするとやっと道は落ち着き、小鹿野町の市街地へと進む。

 上野村群馬県ではもっとも人口の少ない村で、かつ居住可能な場所がほとんどないほど山が険しいところだ。1985年8月12日午後6時56分、通称「御巣鷹の尾根」に日航123便は墜落したのである。この事故を切っ掛けに上野村の存在は全国に知られるようになった。私はこの事故以前によく神流川(かんながわ)へ渓流釣りに行っていたので、事故現場付近の自然の苛酷さは認知していた。この事故を知ったことで、私は人生の大転換を図った。それだけに、上野村神流川、国道299号線は今となっても、私には極めて近しい存在なのだ。

 なお、渓流釣り師で哲学者でもある内山節(たかし)も、よく著書の中で、国道299号線や上野村のことを語っている。彼も、神流川での釣りの行き来には299号線を使っているのだ。

 299号線はやがて秩父市内に入り、正丸トンネルを抜けて飯能市に入る。ここもまた曲がりくねった道が続き、飯能市街を抜けてバイパスに入るとやっと道は落ち着くが、そこでまもなく終点となる。つまり、国道299号線は紆余曲折の道なのであって、わずかに正気になるのが小鹿野市のバイパスと飯能から入間へのバイパス部分だけである。ドライブ好きには、実に楽しい道なのである。

11月2日の動き

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小鹿神社前から武甲山方面を望む

 甲乙の大隊以外にも周囲の村への駆り出しに出たものもあった。駆り出しとはまだ参加していない人々に決起を促すもので、風布村の大野苗吉などは「恐れながら、天朝様に敵対するから加勢しろ」と触れ回って村人を動員したのだった。小鹿野集結のときの駆り出しの際には、「徳川の世にするから加勢しろ。出なければ火を付け斬殺する」という脅しを受けたという証言もある。が、これは取り調べの際の証言なので、罪を逃れるための「言い訳」だったかもしれない。

 坂本宗作や高岸善作らは、まだ困民党に人を出していない日尾や藤倉、三山、河原沢といった群馬や長野に近い山奥の集落に赴き、各村の戸長役場を襲って公証割印簿を焼き払い、家々からは火縄銃や刀、軍資金の調達や一戸一人の参加を要求した。この結果、数百人単位の人々を集めている。こうした強制的な駆り出しは、困民党もまた江戸時代の農民一揆の伝統を受け継いでいたと言えるのかもしれない。

 2日の午前6時ころ、困民党軍の本隊は小鹿神社を出発し、大宮郷に向けて軍を進めた。鉄砲隊を先頭に、竹槍隊、抜刀隊、大隊、小隊などが続いた。一方、進軍中にも随時、秩父盆地の最深部にある村々に駆り出し隊を派遣し、中には大滝村まで遠征したものもいた。

 午前11時、困民党軍の先頭部隊は荒川左岸にある長尾根丘陵の小鹿坂峠に達した。この長尾根丘陵一帯は現在、「秩父ミューズパーク」として整備されている。広さは375haにも及ぶ。この公園の北端部分に小鹿坂峠があり、この周辺は「旅立ちの丘」と呼ばれている。これはもちろん、ここから困民党が一気に駆け下り大宮郷秩父市)を制圧したことに由来する、というわけではない。秩父市の影森中学校発の卒業式ソングである『旅立ちの日に』が全国的に有名になったからだろう。この曲は卒業ソングの定番となり、現在では教科書にも載っているらしい。旅立ちの丘からは秩父市街地が一望できるし、武甲山の右手下あたりに影森中学校があるのが確認できるかもしれない。歌詞には「白い光の中に山なみは萌えて」とある。「山なみ」は、秩父の周囲はすべて山なのでどこを示すのかは特定しづらい。「白い光」は、無残にも北側の山肌が石灰岩を産出するために大きく削られた武甲山が発する白い悲鳴を通した光なのかも。たぶん違うだろう。

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秩父札所23番音楽寺

 小鹿坂峠を少し下ったところに秩父札所23番の音楽寺がある。困民党軍はこの辺りにいったん兵を留めた。荒川の武ノ鼻(竹ノ鼻とも)口で警察が指揮する銃を構えた守備隊が配備されているという報が入ったからである。そこで困民党軍は斥候を送り、時機が良ければ2発の砲声を合図とし、一方、本隊は音楽寺の鐘を乱打し、それを号砲として長尾根を一気に下って大宮郷に侵入するという手筈をとった。

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音楽寺から市街地を望む。11月であれば見通しは良いはずだ

  斥候が武ノ鼻を渡ったときには警備隊の姿はなく、見物人が少しいるだけだった。そこで、斥候は鉄砲を2発放った。正午ころだった。この合図を機に音楽寺の鐘は乱打され、蜂起軍は坂を一気に駆け下った。

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乱打された音楽寺の鐘

 鐘楼の横には現在、「お願い 鐘は静かに撞いて下さい」との立札がある。たぶん、困民党を真似て鐘を乱打する観光客がいたのだろう。

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秩父市街地方向に下る小径

 音楽寺の前には市街地方向に下る小径があった。写真のように現在は舗装されているが、おそらく困民党軍はこの道を駆け下ったに違いない。様々な資料を参照したが、いずれもこのときの様子を「鯨波をあげて」とか「鯨波声をあげて」とか「ときの声をあげて」と描写している。

 秩父盆地は狭く、高い山々が四方を取り囲んでいる。それでも、近代化の波が押し寄せる前は、山間の人々も市が立つ日には山を下り他の集落の人々と交流していた。狭い耕地(小集落)に住む人々にも他の耕地との行き来きはかなりあったはずだ。峠の向こうにはまた峠があったが、谷間に住む人々には峠を越えたつながりがあった。しかし近代化は人々を山間に押し込み、ひたすら生糸生産をおこなわせた。その結果、困窮した。

 彼らが坂を下って大宮郷を制圧するというのは、困窮からの解放だけでなく、人間存在の解放でもあった。その解放を勝ち取る「喜び」が「ときの声」になったのだろう。11月2日は、経済的に精神的に困窮する人々の『旅立ちの日に』なったのだ。「はるかな空の果てまでも飛び立つ」という高揚感に心は埋め尽くされていたのではなかったか。理想の世界を創るという志に。

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かつての武ノ鼻の渡しに掛かる武之鼻橋

 困民党軍は写真の武之鼻橋が掛かっている辺りを渡って大宮郷に侵入した。まずは裁判所や警察署に乱入し、書類を引き裂いたり焼いたり戸外に投棄したりした。また室内を破壊した。裁判官や警察官は名栗村へ逃亡した。その後、軍は郡役所を占拠した。

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困民党軍が宿営した秩父神社

 大宮郷を制圧した困民党軍は秩父神社境内に集まった。荒川近辺で様子を伺っていた田代栄助は午後4時ころ秩父神社へ赴いた。そして、本陣とした郡役所には午後6時ころ入った。

 大宮郷でも高利貸し宅を襲い、打ち壊しは5軒、焼き払いは4軒おこなった。とくに「刀屋」を営む稲葉貞助に対する破壊については多くの記録や証言が残っている。この稲葉は、貧民から身を起こし、わずか10年で5万円を蓄財した悪徳高利貸しの典型だったからだ。田代栄助は「現在の貸付金の半額を放棄し、残り半額を年賦償却とし、かつ軍用金として1000円を差し出すなら破壊は止める」といったが,稲葉側からは「50円を差し出すので破壊は免除してほしい」という回答があった。これでは納得できないので破壊を指示したところ、今度は「450円と証書類を一括して差し出し、これで勘弁してくれ」との再回答があった。しかし、こうした貪欲な稲葉の態度に困民党軍は納得せず、結局、稲葉宅を破壊したのだった。

 また金持ち宅には軍用金集方の井出為吉が赴き、「貧民を救うために兵を挙げた。おいおい、警察や憲兵隊が繰り出してくるだろう。是が非でも戦闘しなければ貧民を救済することができない。よって軍用金を無心する。首尾よく本懐を遂げたときはことごとく返金するが、不幸にして戦死したときは香料として恵みに預かりたい」と述べて、5軒から1220円を差し出させて「革命本部」と記した領収書を渡した。

 大宮郷では火薬・弾丸の補給もおこなっている。これには軍用金を当て、きちんと支払いをおこなっている。

 駆り出しも広範囲におこなわれた。とくに横瀬(よこぜ)村(現在、あしがくぼ果樹園がある辺り)では念入りにおこなわれたようだ。各戸一人ずつ出ることを要求し、応じなければ役場や民家を焼き払うという脅しもおこなわれたらしい。これに対し、村人は昼間は秩父神社まで出かけ、夜にはまた家に帰るという行動をとったという記録が残っている。駆り出しは、「正丸峠」越えて飯能町(現在の飯能市)までにもおこなわれた。こうして、困民党の軍勢は2日夜半から3日にかけて、最大では約一万人が集結したと言われている。

11月3日の動き

 一方、警察側は1日の午後3時ころには皆野村の宿屋に仮本部を置き、鎌田冲太警部を中心に情報収集をおこなっていた。が、戦況は警察側に不利だったので仮本部を寄居町まで戻し、あわせて埼玉県庁の書記官が内務卿の山県有朋憲兵隊の派遣を要請した。この結果、3日の午前中には憲兵隊が秩父からの出口である寄居の守りを固め、さらには熊谷、小川、川越、名栗などにも憲兵隊を配置した。

 困民党軍側は2日夜半から3日にかけて幹部会議をおこない、今後の運動方針を議論した。田代、菊池、井出はいったん信州に行き軍の基盤を固めるという方針を提案したのに対し、加藤、高岸、落合は東京への侵攻を提案した。議論の結果、東京への侵攻が決まった。まずは川越に出てから浦和の県庁を襲い、その勢いで東京に侵攻するというものだったらしい。

 田中千弥が記した『秩父暴動雑録』には「暴徒ガ言ヲ聞ケバ先ツ郡中ニテ軍用金ヲ整ヘ、諸方ノ勢ト合シテ、埼玉県ヲ打破リ、軍用金ヲ備ヘ‥‥沿道ノ兵ト合シテ、東京ニ上リ、板垣公ト兵ヲ合シ、官省ノ吏員ヲ追討シ、圧制ヲ変シテ良政ニ改メ、自由ノ世界トシテ、人民ヲ安楽ナラシムベシ‥‥自由党ノ兵ハ、汝等ノ父、汝等ノ兄ナリ‥‥」とある。これは田中が2日に記したものである。困民党軍の理念の中にはすでに、東京に進出して自由で平等な世の中を築きたいという目的があったのだ。作家の井出孫六は困民党が決起した年を「自由自治元年」としている。これには困民党をあまりに理想化していると批判されているが、困民党に対して中立的な立場を取った田中千弥の記録にあるように、困民党の「暴徒」の中にはこうした理念に基づいて行動した者がいたことは事実であろう。たとえ、板垣や自由党に対する思い入れは幻想であったとしても、だ。

 3日、憲兵隊の来襲に備えて困民党軍は編成替えをおこなった。とりあえず、大宮郷の守りを固めるためだった。甲隊は加藤織平や新井周三郎が率い、小鹿野や吉田からの襲来に備えて武ノ鼻口へ移動した。乙隊は菊池貫平や飯塚盛蔵が率い、皆野方面からの襲来に備えて大宮郷の北にある大野原に移動した。丙隊は田代栄助や落合寅市が率い、大宮郷に留まってその防衛に当たった。

 が、甲隊は、憲兵隊や警察隊が下吉田村へ大勢で進出したという知らせを聞いたことで、武ノ鼻を渡って小鹿野方向に移動してしまった。また、乙隊は熊谷方面で一揆が起こり寄居や野上、皆野の憲兵や警察までが出払ったという知らせを聞いたことで、皆野村への移動を開始した。どちらも誤報だった。しかし、甲隊も乙隊も戦線を伸ばし、甲隊は下吉田村へ、乙隊は皆野の旅館(1日に警察隊が仮本部を設置した場所)に本陣を構え、田代栄助もここに移動した。

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親鼻の河原は現在、長瀞ライン下りの出発点になっている

 午後4時ころ、寄居から金崎村に偵察にきた30人ほどの警官・憲兵隊と、親鼻の渡しを警備していた困民党軍の鉄砲隊との間で銃撃戦がおこなわれた。かたや最新の村田銃、かたや旧式の火縄銃であった。が、新式の村田銃に用いられた弾薬が旧式のもので合わなかったためか弾は出ず、憲兵・警察隊は短銃を用いた。一方、困民党軍の火縄銃は飛距離が50mほどしかなかったのでこの銃撃戦は20分ほどで終わり、困民党軍側に一人の負傷者が出ただけだった。その後、偵察隊は本野上村まで撤退した。

 一方、下吉田村まで戦線を伸ばしていた甲隊は皆野村の対岸にある大淵村に入り、大淵から野巻付近で野営した。

11月4日の動き

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長楽寺の門前で困民党本陣が瓦解する切っ掛けとなった事件が起きた

 4日未明、甲隊は国神耕地に向けて出発した。国神は宝登山の南にあり、ここには北の児玉町に抜ける新道があり、途中の出牛(じゅうし)峠に至ると、野上を背後から襲える道にも出られる重要な場所だった。

 しかし、出発すると間もなく、1日の下吉田村役場の戦いで捕虜にし、そのまま甲隊が引き連れ、新井周三郎の説得によって困民党軍に加わることになった青木与一巡査が、新井から与えられた刀で新井を背後から襲って重傷を負わせたのだ。

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長楽寺門前の真向かいには青木与一巡査の碑がある

 新井はなんとか反撃し、青木巡査を殺害した。写真にあるように、この現場近くの路傍には「青木与一巡査の碑」がある。

 負傷した新井は、3日に自身が小隊長を解任した上日野沢村の村竹茂市に担がれて皆野村の本陣まで運ばれた。その後、新井は困民党軍の誰かに担がれ、標高500~600mほどもある山か峠を越えて、生まれ故郷である西ノ入村(現在寄居町西ノ入)の明善寺まで運ばれた。そこで治療を受けていたが、住職の密告により9日、新井は逮捕された。

 困民党軍には魅力のある人物を多数見出すことができる。様々な書物や資料を読むと、いろいろな識者がそれぞれに焦点を当てたい人物を発掘していることが分かる。ある人は「田代栄助」に肩入れし、ある人は「井上伝蔵」、「菊池貫平」、「井出為吉」、「坂本宗作」、「落合寅市」に思いを寄せるが、私の場合は「新井周三郎」に一番の魅力を感じている。彼はここに挙げた人々とは異なり、「異界」の人物だった。田代、井上、坂本、落合は秩父盆地内に暮らし、菊池と井出は南佐久の山間に暮らしていた。しかし、新井は秩父盆地内でもなく峠の向こうの山間でもなく、東秩父連山の外にある集落で育った。困民党軍の多くの人々が持つ「山影の情念」(松本健一の言葉)は新井にはさほどなかったはずだ。 

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新井の家跡付近から東秩父方面を見る

 新井周三郎は男衾(おぶすま)郡西ノ入村に生まれた。実家は村きっての豪農だった。地元の小学校を優れた成績で卒業した。性格はとても温和で、彼があのような過激派に転じるとは誰も想像していなかったそうだ。上京するのは18歳の時で、和漢洋学を学ぶとともに剣の道も修めた。その後、地元に戻って小学校の教員になった。事情があって辞めることになったが、たまたま石間(いさま)小学校に空きがあるということを知って加藤織平宅を訪ねた。1884年9月初旬のことだった。 

 加藤宅には高岸善吉、坂本宗作、落合寅市、小柏常次郎らが集まって何やら相談をしていた。それを聞いていた新井は、大きな借財を抱えて困窮する人々の苦しみと覚悟を知った。「教員ノ念ヲ断チ、イチニ細民救助ニ尽力セン事」を決意した。西ノ入に戻った新井は、地元で負債延期の請願運動を組織し、高利貸しが返済の延期に同意しないときは打ち壊しをおこなうことなどを提案している。なお、この西ノ入で新井と一緒に行動した人たちは困民党の蜂起軍に加わっている。

 困民党軍の動きの中で新井周三郎の名が出てくるのは10月12日(13日説もある)の井上伝蔵宅での会議のときだ。個別交渉では問題は解決しないので、これからは集団行動で強く迫ること、準備金強借などの非合法活動を始めることを決議したときである。14日、新井は坂本宗作らとともにさっそく横瀬村で高利貸し宅を襲っている。15日には自宅に戻り、自分の兄をそそのかして仲間と一緒に地元の高利貸し宅を襲っている。

 困民党の会議では加藤織平が強硬な意見を発していたが、彼の主張の背後には新井の提言があったといわれている。また、田代栄助は31日になっても蜂起の延期を提案したが、これも加藤らの主張で正式に翌日の決起が決まったが、ここでも新井の働きがあったとされている。事実、1日の蜂起が決まるやいなや、31日の深夜、新井は大野苗吉、村竹茂市らとともに金崎村にある金貸し会社の永保社を襲っている。

 ただし、新井は単なる過激派ではなかった。仲間に対する強い思いれと、高い革命思想を有していた。次のことは新井がどれだけ優れた思想と志をもっていたかを示す事例として松本健一などがよく取り上げている。

 自由党員になるためには2名の自由党員の連署が必要だった。当時、秩父自由党のリーダーは井上伝蔵だったので、もう一人の署名が必要だった。新井は仲間12人の志願書をもって党員の福島敬三を訪ねた。新井の仲間12人は文字が書けなかった。そこで福島は「政事思想ヲ有セサルモノハ幾人アリトモ其用ヲ為サザル」と言って署名を断った。「いやしくも貴重な自由の2字を冠する者が借金党ごときの者にだまされるのは自由党としてはもっとも恥ずべきものだ」と困民党を切って捨てるような発言をおこなった。これに対して新井は、「仮令ヘ(たとえ)己レノ氏名ヲ記シ得サル者トイエトモ、其志シサヘタシカナル以上ハ幾人ニテモ自由党ヘ加入セシムル議ヲ主張」した。新井にとって、文字が書けるか否かは志においてはまったく問題ではなく、その人がどんな理想を有しているかが重要なのであった。

 新井は18歳で上京し、翌年には地元に戻って小学校の教員になっている。田舎の秀才がせっかく東京に遊学できたのにわずか1年しか滞在していない。また、彼が通った剣道場には板垣や星亨なども顔を出していたという。彼に上昇志向があればそのまま東京に留まり、多くの人脈を形成することは可能だったろう。しかし彼はそれをしなかった。この1年で、何か期するものが生じたのかもしれない。

 新井は地元に戻り、寄居町の教員となった。田舎の子供たちがいかに苦しい生活状況に置かれているかを肌で感じた。彼は山間の学校に移った。そこでさらに人々の苦境を知った。そしてこの苦境と戦う人々に出会った。「天下ノ政治ヲ直シ、人民ヲ自由ナラシメント欲シ、諸民ノ為ニ兵ヲ起ス」と考える人々とともに戦うことを決意したのだ。

 論語子路篇には「子曰く、中行を得てこれに与せんずば、必ずや狂狷(けん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」とある。中庸の人などめったにいない。ならば「狂者」のように進取の気概がある人か、「狷者」のように付和雷同しない人と接することを孔子は勧めているのだ。何かを打ち立てるためには狂者でなければならないのだ。新井周三郎はこの「狂」に目覚めて困民党軍に加わり、思想的、行動的なリーダーとなったのだ。ここに私は、吉田松陰との同質性を見た。

 が、志は達成せず、1885年5月17日、熊谷監獄にて処刑された。享年24歳。

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新井が傷の治療をおこなっていた明善寺はこの先にあったと思われる

 新井の生家はすでにない。JR八高線折原駅の近くに新井家はあった。が、生家があったと思われる場所は工場になっていた。その写真を撮っても仕方がないので、新井の生家があったと思われる場所の前から東秩父の山方向にカメラを向けてみた。彼が幼いころに通った小学校は山のすそ野にあった。その学校があった場所に明善寺もあったはずだが、見つけることはできなかった。グーグルアースで探しても寺らしい場所はなかった。上の2枚の写真は、新井がかつて見ていたと思われる風景である。鉄塔や高圧線などの建造物はなかったし、家々の形は異なるだろうが、山容はさほど変化はないと思われる。

 写真にはないが、彼の家は関東平野の西端にあり、写真の反対側に行けば、すぐに広々とした平地に出られるのである。それでも彼は山々の方に進むことを選んだ。どうして、人は「峠の向こう」に魅入られてしまうのだろうか?

 

秩父困民党(3)に続きます。しかし、「十石峠」が現在通行止めなので、次回(9月10日ころ)には間に合わないかもしれません。