徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔21〕これっきりですか?ここは横須賀

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浦賀港の渡し舟

横須賀には「軍港」と「ヨコスカ」以外の顔もたくさんある

 はるか以前に、横浜市金沢区に少しの間だが住んだことがある。金沢区のすぐ南側は横須賀市で、かつ三浦半島へは取材、磯や堤防釣りでしばしば出かけていたため、横浜市民でありながら、横浜よりは横須賀のほうが身近な存在だった。先の「ヨーコ」の項では横須賀市の一面を紹介したが、あのときのヨコスカは私がよく知っている横須賀とは少し異なる有様をあえて取り上げた。横須賀市街をうろつくと「軍港」とアメリカ化した「ヨコスカ」という生活様式が眼前に迫ってくるが、それらはさほど、私の関心を惹きつけなかった。もちろん、米軍や自衛隊の基地、首相官邸で結婚記者会見をした間抜けな代議士の存在について、私は否定的な意見を有している。しかし、これに類似したことは何も横須賀だけに限ったことではなく、日本全体を覆う「宿痾(しゅくあ)」ともいうべき事柄なので、ことさら横須賀の項で取り上げる必要性をとくに考えてはいない。それより、「軍港」でも「海軍カレー」でも「ネイビーバーガー」でも「小泉」でも「ドブ板」でもない、私がより好ましいと思ってきた横須賀の表情を取り上げてみたいと思い今回、改めてその地を訪ねてみた。

 横須賀市はかなり長い海岸線を持つ。東京湾側はもちろんのこと、相模湾側にも横須賀市は面しているので、「海の町」であることは事実だ。というより、横須賀のいう名前自体が「横に長い砂浜」を意味しているので、これは当然のことかもしれない。千葉県の鴨川市には「横渚(よこすか)」という地名や交差点名がある。東京方面から鴨川市へ車で出掛ける人であれば、多くの場合、「鴨川道路」を南下して鴨川市街を目指す。この道は外房を走る国道128号線に突き当たるが、その周辺が鴨川市の中心部の横渚で、交差点名も横渚である。お目当て?の「鴨川シーワールド」は前原横渚海岸にある。そこにも、横に長い砂浜が広がっている。

 福島県には須賀川市がある。この須賀川は「中通り」にあり、すぐ北側は郡山市だ。つまり、ここは内陸なので海には面していない。しかし、市内には東北を代表する一級河川である阿武隈川が流れている。ここには大河川が造った広く長い砂(小石?)場があったので「須賀」と名付けられたのだろう。静岡県掛川市には「遠州砂丘」と呼ばれる長大な砂浜海岸がある。ここは「大須賀海岸」と名付けられているが、かつては横須賀といわれ、そこには「横須賀藩」があったし、「横須賀城跡」が残っている。

 このように、横須賀は神奈川県の「専売特許」ではなく、長い砂浜を有する場所ではよく使われている地名なのだ。それはちょうど、旧国府があった場所はどこでも「府中」と呼ばれていたのと同じごとく、にだ。

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馬堀海岸からはショッピングモールが林立する横須賀平成町がよく見える

馬堀海岸と走水

 今回の小さな旅は「馬堀海岸」から始まった。長い間、「横浜横須賀道路(通称横横道路)」は佐原ICまでだったが、2009年に馬堀海岸ICまで延伸された。この横横道路は国道16号線のバイパスという位置付けで、北側は無料区間である「保土ヶ谷バイパス」につながっている。ところで、国道16号線は東京環状道路なのだが、横須賀の観音崎と対岸の千葉県富津市との間は未通であり、完全には環状になっていない。この間には「浦賀水道」があり莫大な建設費が必要なため、工事は永遠におこなわれないだろうと考えられるが、将来、地元出身の代議士が首相になった場合はこの限りではないかもしれない。景気対策の美名のもとに。

 この馬堀海岸は、私がよくこの辺りを訪れていたときには堤壁と消波ブロックだけの海岸線だったが、現在では広い幅を有する堤防が設けられ、その上には遊歩道が整備された。横須賀の海岸線は、一番北側の「追浜(おっぱま)」付近は工場・倉庫街、その南は自衛隊・米軍基地や施設、市役所以東は平成埋立地に造られた大型ショッピングモール群となり、自然海岸線はまったく残っていないが、その東端にある大津港以東は、堤防・消波ブロックに囲まれていたにせよ、かつてはここに横須賀=長い砂浜があったことを思い起こさせた。それが、この海岸線も綺麗に整備されてしまったことで、人工海岸線は馬堀海岸まで延び、写真のように、この東端だけがかつての姿を残している。

 もっとも、整備される以前の海岸線も実は埋立後のもので、元々は砂浜海岸だったのであり、現在、国道16号線が走っている場所は海の上か、砂浜の波打ち際だったと考えられる。したがって、写真の岩場の東側こそが元来の海岸線の始点であると言えなくもない。このことは、グーグルマップの航空写真図を見るとよくわかる。京浜急行馬堀海岸駅の北側に広がる住宅地は、明らかに埋立地上に造られたという様相が見てとれる。

 写真の辺りの場所からは三浦丘陵が海岸線まで迫っていて、それまで埋立地の平坦な場所を走っていた国道16号線は、明らかに起伏が感じられる道になり、カーブもきつくなる。南側の丘陵上には防衛大学校があり、カーブの先には旗山崎という岬がある。その岬に抱かれているのが走水港だ。

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遊漁船や漁師船の基地である走水港。向かいに見えるのが旗山崎

 この港の所在地は潮がよく動くし、海底は砂地混じりの岩礁帯なのでクロダイ釣りには絶好のポイントと考えられるのだが、かなり前から、というより私がこの場所を知ったときにはすでに「釣り禁止」になっていた。職漁師船の重要な基地なので、釣り人には荒らされたくはないと以前から考えていたのだろう。残念だが、それは正しい判断だったと思える。

 「走水」の地名は、この場所からは地下水が豊富に出たことに由来するらしい。この辺りの地質は、古い逗子層(鎌倉、逗子、三浦半島北部などの地表)の上に新しい横須賀層が乗っている状態である。この横須賀層は上部が礫層で下部が砂泥層のため、この間に水がたまりやすい。それで湧水が多いのだと考えられている。実際、明治初期にフランス人技師のヴェルニーはこの湧水を横須賀製鉄所の用水として使うため、レンガ造り貯水池などを残している。現在も水は湧いており、「ヴェルニーの水」(走水水源地)として地元の人などに利用されている。

 一方、『記紀』には、日本武尊が相模から上総に渡る際、「こんな小さな海など一跳だ」といって神の怒りをかったために海が荒れ、それを鎮めるために弟橘媛が命を投げ打って入水したことで渡海できたという故事から、「走水」という名が付けられたという説もある。

 この走水と対岸にある富津岬との間は東京湾ではもっとも狭い場所なので、当然のごとくこの辺りの潮はとても速く動く。それゆえに「走水」と名付けられたという話を聞いたことがある。私自身はこの説がもっとも有力だと思っているのだが。

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この神社は日本武尊弟橘媛命を祭神としている

 しかし、走水神社の説明によると、弟橘媛命の入水により風も波も穏やかになり、船は走るように進んで無事に上総国に着いたことから走水と呼ばれるようになった、とある。つまり、船が水の上をスイスイと走ったから「走水」と言われるようになったと考えているようだ。ここでは「入水」そのものではなく、入水の結果を強調しているのだ。もっとも、由来を『記紀』から採っている点には変わりない。

 上記の三説のどれが正しいのかはわからない。第二説では『記紀』の記述を取り上げて説明しているので、このあたりがもっとも適切な解釈ように思える。が、しかし、「馬堀」の語源を調べると、第一説が妥当であるとも思えるのだ。

 「馬堀」の語源は、主なものとしては3つある。ひとつは、この辺りには馬が多く放牧されていたというもの。二つめは、丘陵(防衛大がある辺り)から海岸線を眺めると「堀」のように見えるからというもの。三つめは、馬が足で地面を掘ったところ、そこから水が大量に湧き出てきたことからというもの。ひとつめは問題外として、二つめはかつての海岸線を想像すると考えられなくもない。前述のように馬堀海岸は埋立てられて現在は直線的な海岸線になっているが、丘陵のふもとのラインは結構、エグれた曲線になっている。名付けられた時期は当然、埋立て前だろうからこの曲線を「堀」に見立てることは可能だ。しかし、かつては砂浜だったらしいので、そうすると「堀」とは考えない蓋然性は高い。なおこの説の場合、「まぼり」の「ま」は「馬」ではなく「真」であったとするようだ。「真」にはとくに意味はなく、語調を整えるときに語頭に置かれる場合が多いので、ここでは問題にはならない。

 三つめの「馬が掘った」というのはかなり説得力がある。実際、この地の言い伝えには、上総の暴れ馬が浦賀水道を渡ってこの地に泳ぎ着き、喉が渇いたので地面を掘ったところ清水が湧き出た。それを飲んだ馬は駿馬になり戦で大活躍したというものがあるそうだ。この地には馬頭観音があり、「蹄(ひづめ)の井跡」の碑があり、名馬「池月」の像まである。これだけなら単なる伝承で終わってしまうが、この馬堀の隣にあるのが走水で、先述のように「ヴェルニーの水」が現在でも湧き出しているのである。この説を採れば、「馬堀」も「走水」もその語源は一挙に判明する。だからどうした、と言われると返す言葉は何も浮かばないのだが。

観音崎公園

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浦賀水道の航行を見守る観音埼灯台

 横須賀市で、もっとも東側に突き出た場所が観音崎だ。ここは東京湾の入口にあたるので、航海者にはとても重要な場所となる。浦賀水道東京湾ではもっとも狭く、かつ潮が速い場所なので、大型船舶はここを通過するときは航路幅が制限(右側通行)され、速度も12ノット以下に落とさなくてはならない。以前に何度も述べたように、私は東海汽船を使ってよく伊豆諸島へ磯釣りに出掛けたが、帰途、浦賀水道に入ると船は減速するので、客室内にいても東京湾内に入ったということがエンジン音で分かる。そんな危険個所に観音崎はあるので、高台にある観音埼灯台が船の航行の安全を見守っている。

 観音埼灯台は日本で最初の洋式灯台として1869年に完成している。設計者は走水のところでも挙げたヴェルニーで、レンガ造りの四角な灯台だった。ちなみに、ヴェルニーは千葉県の野島埼灯台や神奈川県の城ケ島灯台なども設計している。いずれの灯台関東大震災などによって倒壊し、写真の観音埼灯台は3代目である。

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観音崎の岩場。遠浅なので磯釣りには適さない

 観音崎一帯は公園として整備され、横須賀美術館観音崎自然博物館、花の広場、レストランなどがある。また、高台一帯には遊歩道も多く、江戸末期に造られた砲台の跡などを見学できる。海岸線にも遊歩道があり、砂浜や岩場に降りることができる。撮影日は真夏日だったので駐車場近くの砂浜では水遊びを楽しむ人々が多く見られたが、遊歩道を少し歩いたところの浜は人影は少なく、写真のように「プライベートビーチ」状態のところもあった。

 岩場が多いので磯釣りでも楽しみたいところだが、周辺の海は遠浅なのでこの手の釣りには不向きな場所だ。磯遊びには適するかもしれないが、何度も述べるようにここ一帯はとくに潮が速いところなので、入江の外に出るのはとても危険だ。のんびりと海にでも浸かりながら、浦賀水道を航行する大型船舶の行き来を眺めるのには最適な場所だろう。

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鴨居港の高台にある能満寺境内には会津藩士の墓がある

 観音崎から浦賀港に移動する途中、鴨居港の高台にある能満寺に「会津藩士の墓」があることを思い出したので立ち寄ってみることにした。20年以上も前になるが、この辺りにはよく取材に来ていたので、細かな道まで覚えているはずだった。が、釣り場としても有名だった「かもめ団地」付近の景観がすっかり変わってしまったため、寺のある場所を失念してしまい、地図で再確認しなければならなかった。ボケはかなり進行しているようだ。

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能満寺から鴨居港を望む

 以前、私がこの高台に来るようになったのは、写真のような景色が望めたからだ。鴨居港は走水港同様、釣り禁止場所だったので、港内をのぞくだけだったが、たまたま山の方を見たとき、「あそこからなら良い景色に出会えるかも」と考えたのが最初だった。折角だからと寺の境内を散策したとき「会津藩士の墓」を見つけたのだった。はじめは浦賀会津藩との結びつきが不明だったが、調べてみると、江戸時代の後期に一時、会津藩観音崎周辺の防衛に当たっていたということが分かった。そのため、走水や鴨居の寺には「会津藩士の墓」があるのだということを理解した。

浦賀港を訪ねる

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浦賀湾は幅が狭いが奥行きがあり、港には絶好のロケーションだ

 観音崎の南西側すぐのところに浦賀湾がある。奥深い入り江なので、港にするには絶好の地形である。江戸幕府は当初、江戸へ出入りする船舶のチェックは伊豆の下田でおこなっていたが、東北地方からの物資を運び込む東廻り航路が盛んになったことなどの理由もあり、1720年、下田奉行所に代わって浦賀奉行所が開設され、以来、浦賀は交易活動の要衝となった。
 19世紀になると異国船の姿が目立つようになったので、浦賀奉行所は交易の管理だけでなく異国船目撃情報の収集もおこなうようになった。そこで、幕府は会津藩白河藩に命じ、会津藩三浦半島側、白河藩は房総半島側から警備をおこなうことになった。会津藩は鴨居と三崎に陣屋を置き、観音崎浦賀湾の出入口にある燈明堂(和式灯台)の背後にある高台に台場(砲台)を築いた。

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和式灯台である燈明堂。観音埼灯台が造られまで東京湾の安全を見守った

 この燈明堂は1648年に建設され、堂内では照明として油を燃やした。当時の建物は崩壊して石垣のみが残っていたが、1989年に復元された。この周辺は公園として整備されている。燈明堂がある燈明崎は、観音崎の岩場よりは水深があるので磯釣り場として一時は結構、人気があった。この日は釣り人の姿は皆無だったが、この岬の周囲には砂浜も数か所あるので、そこでは多くの外国人家族が海水浴を楽しんでいる姿があった。

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御座船をイメージした愛宕丸が活躍する浦賀港の渡し船

 浦賀港は細長い入り江なので、対岸に住む人が反対岸にある病院やスーパーに出掛けるのは結構な遠回りになる。そこで活躍するのが写真の渡し船である。218mの距離を行き来するのだが、地元の住民にとってはとても便利なようで、始まりは1725年ころとされている。つまり、浦賀奉行所ができてすぐのことだ。最初は浦賀や鴨居、久里浜の住民が維持管理していたが、明治に入ってからは東西浦賀の町内会が共同管理し、さらに大正時代には浦賀町の運営になった。1943年に浦賀町は横須賀市と合併したため横須賀市営となり、現在では横須賀市が民間に委託して運営されている。冒頭の写真にあるように、料金は大人・高校生は1回200円だ。

 渡船と聞くと、私の場合はすぐに広島県尾道市のものを思い出す。ここ10年程は出掛けていないけれど、かつては毎年のように尾道を訪れては意味もなく渡船に乗り、尾道水道を行き来した。多い時には1日に5往復したこともある。それだけではなく、夕方や夜にもわざわざ渡船場まで出掛け、帰りを急ぐ人々や自転車、車を乗せた船の灯りを飽きることなく眺めていた。それは映画のシーンのような光景でもあったが、実際、いろいろな映画にその渡船は登場している。見る人たちの旅情をかき立てる風景だからなのだろう。

 「浦賀の渡し」は、そんな尾道の渡船とは比較にならないほど小規模だが、やはり浦賀に来ると、この船のある景色に最低でも30分は見入ってしまう。船の旅は本当に心地良い。時間がゆったりと流れることを実感できるからだ。もっとも、時間が実在するか否かは哲学の永遠のテーマなのだが。

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浦賀港西岸の渡し船乗り場

 渡し船は一艘だけなので、東西どちらの乗り場にいるのかは現場にいかなくては分からない。時刻表はなく、船は此岸にいなくても利用者が乗り場近くにあるブザーを押せば、船はすぐに迎えにきてくれる。もちろん、たった一人の利用でもOKだ。

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船から浦賀湾の出口方向を眺める

 船から湾の出口方向を眺めると、右手に高台が見えるがそのふもとから少しだけ突き出た岬があるのがわかる。それが燈明崎で、その先端部に燈明堂がある。燈明堂ができたのはこの渡し船が開通したときより早い。したがって、夕方にこの船に乗って岬方向を眺めると、燈明堂の灯りが視認できたはずだ。300年近く前にこの渡船を利用した人は、その明かりにどんな想いを託したのだろうか。

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願いが託せる叶神社

 叶神社は浦賀湾の東西にある。どちらも叶神社を名乗っているが、便宜的に東叶神社と西叶神社と呼んで区別している。写真は東叶神社で、西叶より少しだけ規模が大きい。私は西浦賀地区に駐車していたので、渡し船に乗って東浦賀に行き、この神社を少しだけ見学した。

 叶神社は平安時代末期、源氏の再興をを願った京都の文覚上人が応神天皇を祭神として建立したといわれている。これが西叶神社で、建立後、願いが叶って源氏が平家を滅ぼしたので「叶神社」と呼ばれるようになったそうだ。江戸時代に浦賀村が分かれて東浦賀村ができたとき、自分たちにも叶神社が欲しいと思い、勧進して東叶神社が建立されたとのこと。

 最近では、東西叶神社が縁結びの神として人気があるらしい。西叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色の勾玉(まがたま)が手に入る。渡し船を使って東叶神社にお参りしてお守りを購入すると2色のお守り袋が手に入る。このお守り袋に勾玉を入れて持っていると良縁に出会えるらしい。つまり、願いが叶う神社という訳とのこだ。話としては極めて単純だが、神社の名前、それに渡し船という「道具立て」が見事である。ここでは、浦賀湾は天の川の役を演じている。さらに燈明堂に灯がともっていたなら、演出度は満点だろう。

 東叶神社の境内には、「勝海舟断食の地」の標柱があった。1860年、日米修好通商条約批准書の交換のため、アメリカの軍艦ポーハタン号とともに太平洋を渡った咸臨丸は浦賀港から出港した。日本人の手で太平洋を渡るのは初めてだったので相当の覚悟が必要だったのだろう。そのため、艦長である勝海舟はこの東叶神社で断食修行をおこなったのだとされている。もっとも、勝は船酔いが酷かったので、断食をして腹をスッキリさせておく必要があったのかも。

ペリー上陸の地、久里浜

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ペリーはこの砂浜に上陸した

 久里浜は平作川が河口部分に造った砂浜海岸で、浦賀湾のすぐ南側にある。南東側に開いた湾なので風にはかなり強い入り江である。平作川の河口付近には開国橋が掛かっており、ここが日本の「鎖国」が終わる端緒を作った場所であることを表示している。

 1853年7月8日(新暦換算)、浦賀沖に現われた4隻の黒船は幕府や人々に衝撃を与えた。浦賀奉行所は与力の中島三郎助を米艦隊旗艦の「サスケハナ」に派遣し、米側の意向はアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を渡すことが目的であることを知った。ペリー側は幕府側の最高位の役人に親書を渡すことを要求したが、幕府側はこれを拒んだ。そこで米側は武装した短艇を出し、浦賀湾の測量を始めた。さらに、短艇ミシシッピ号の護衛の下、江戸の湾内へ侵入するなどの「脅し」をおこなった。それに屈し、老中首座の阿部正弘は親書を受け取ることを決断し、7月14日、ペリー一行は久里浜に上陸した。一行は浦賀奉行所に赴き、親書を渡すとともに「一年後の再来航」を告げた。浦賀を離れた黒船はすぐには引き返さず、江戸が見える横浜の小柴沖(八景島シーパラダイス付近)まで進入し幕府を威嚇したうえで引き揚げた。 

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ペリー公園内にある記念碑

 ペリーが上陸した地である久里浜には「ペリー公園」が整備されている。1901年、日米友好協会が建立した写真の記念碑や、1987年に開館し、昨年にリニューアルされたペリー記念館がある。碑文は伊藤博文の手によるもので、アメリカとの戦争中には敵国の記念碑は屈辱的として引き倒されていたらしいが、戦後にはすぐに復元された。碑文ではペリーを日本開国の恩人と称えている。今では毎年7月にペリー上陸記念式典、久里浜ペリー祭花火大会、開国バザールなどが開催されている。いかにも、激しやすく冷めやすいこの国ならではの一連の動きではある。

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久里浜と金谷とを結ぶ東京湾フェリー

 久里浜といえば、私にとっては「開国の地」以上に「東京湾フェリー」の存在が身近でかつ重要だった。ここしばらくはご無沙汰だが、一時はほぼ毎月のようにこのフェリーを利用していた。1997年にアクアラインができてからは時間的にはそっちのほうが有利になったが、当初は片道4000円だったので、フェリー利用ならば運転からは解放され、のんびりと海の景色を眺めていられるということもあり、まだこちらに優位性があった。が、アクアラインが3000円になるとフェリーの利用回数は少し減り、2009年に800円になるとフェリーの利用はほとんどなくなった。

 久里浜・金谷間は約40分で、料金は片道3990円、往復7100円(5m未満、運転手一人分含む)で、10月からはそれぞれ4100円、7400円となる。運行本数はシーズンにもよるが、基本的には1日12便で、朝夕は1時間に1本といったところ。鴨川や勝浦といった外房に出掛けるときは房総半島を横切って進むためにアクアライン利用が絶対になるが、館山や南房総に出掛けたときは、帰途はフェリーに乗りたくなることがある。また、乗るつもりはまったくなくても金谷港に立ち寄り、フェリーの姿に触れることもある。船の旅はいつでも非日常的な「特別感」があるからだ。

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船を降りても旅はまだ終わらない

 久里浜港に立ち寄ったとき、フェリーの到着を待つために30分ほど港内をうろついた。フェリー港周辺は以前から釣り禁止だったが、漁港の護岸は釣り可で、子供連れや老夫婦がよく車を横付けして竿を出している姿を見かけた。が、今では漁業施設に代わって大型のホームセンターができてしまったため、かつてののんびりとした光景は今はなく、ただ日常化された景色だけが残された。

 フェリーが到着した。平日の日中にも関わらず、降りてくる車の数は想像していたよりも多かった。船を降り、舗装された道路に出た瞬間、人も車も非日常から日常へと移行する。多くの人にとって旅はまだ終わってはいないのだが、旅自体の「質」はここで大きな変化を遂げる。この質的転換を楽しめるのがフェリー利用の醍醐味なのである。

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「くりはま花の国」の入口風景

「くりはま花の国」を散策する

 久里浜のもうひとつの楽しみは「くりはま花の国」の散策だ。久里浜港を見下ろせる高台にあり、その名の通り、四季折々、さまざまの花と接することができる。入園料は無料で、駐車場と園内にある施設の一部が有料となっている。入口は丘のふもとにあるため、移動には結構な体力を使う。一般の公園とは違い、体力を向上させる目的で訪れる人が多いようで、花でも眺めながらのんびり過ごすか、といった雰囲気はない。月曜日以外の10~16時には蒸気機関車型の「フラワートレイン」が運行されているので、苦労せずに丘へ上がりたい人は片道300円で利用できる。ただし、丘の上も起伏は案外激しいので移動は必ずしも楽とはいえない。

 9月はコスモスの季節なので、その開花を楽しみに出掛けたのだが上旬はキバナコスモスばかりで、通常の秋桜は準備中だった。台風15号の影響はかなり大きかっただろうと思われるので、開花状況はウェブサイトで確認するとガッカリ度が少なくて済む。また、駐車場も第一と第二とに分かれており、秋桜目当てならば第一駐車場を利用しないと移動に難儀する。今回は久里浜港の次に立ち寄ったので第二駐車場を利用した。写真はその駐車場から園内に入ったところのもので、ここから長い上り坂が始まる。

 白い花穂を揺らしていたパンパスグラスが陽に輝いていて見ごたえがあった。南米大陸が原産で、草原地帯を「パンパ」と呼ぶことからこの英名が付けられた。標準和名はシロガネヨシというが、その見た目から「お化けススキ」という人も多い。このヨシの周りをコバノランタナペチュニアニチニチソウなどが取り囲み、別にキバナコスモスの一群もあった。

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花の国の高台から久里浜港を望む

 丘を登る途中に展望台がある。久里浜港を一望できる素敵な場所で、ここに来るだけでも坂を上る価値がある。東京湾フェリーがちょうど離岸したところで、適度な場所までバックしてから港を出て、対岸にある房総半島の金谷港を目指す。向かいに見える丘陵は鹿野山やマザー牧場がある場所で、写真にはないが、この右手には鋸山に代表される丘陵があり、そのふもとに金谷港がある。

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久里浜沖にあるアシカ島。かつて、毎週のようにここに通った

 横須賀火力発電所のすぐ沖にある2つの小さな岩礁が通称アシカ島で、灯台のある小さな岩礁が「アシカ島」(右側)、海象観測ステーションのある大きな岩礁が「笠島」(左側)だ。ここへは平作川河口付近から出ている渡船でいく。潮がよく動く場所なので、磯釣りには絶好のポイントで、クロダイメジナ、イシダイが狙える。5~10月はコマセが禁止なので渡らないが、11~4月はクロダイメジナの好期ということもあって、一時は仲間と毎週のように出掛けた。ここで知り合い、その後、磯釣り仲間として伊豆諸島に出掛けるようになった釣り師も何人かいた。私にとって、「磯釣りバカ」への道場的存在だった。 

 手前にあるのが横須賀火力発電所で、かつては東京電力が頭に付いていたが、現在はJERAが付く。東電と中部電力とが50%ずつ出資して作ったエネルギー供給会社だ。現在は新規の発電設備を建設するための整備をおこなっているところで、私がかつてアシカ島に通っていたころの面影はまったくない。アシカ島が混雑するときは、この発電所のすぐ沖にある堤防でも釣りをしたものだったのだが。

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ゴジラは第一作で観音崎沖に出現し、現在は花の国で充電中

 ゴジラは1954年の第一作目に観音崎沖に出現した。そのことから地元では観音崎のたたら浜にゴジラを模したすべり台を作ったところ大人気となった。老朽化して廃されたのち、横須賀市民がゴジラの復活を目指して寄付金集めをおこない、1999年、この花の国の「冒険ランド」で復活を遂げた。高さは9mで、お腹にある階段を上がってしっぽの方に滑り降りる。冒険ランドの遊具施設は現在改修工事がおこなわれているため利用できないが、このゴジラは柵の外にあったので利用は可能かもしれない。中をのぞこうと思ったのだが、改修工事関係者がゴジラの前にいたので、のぞくことができなかった。

 ゴジラの前方には高圧線鉄塔がある。通常であれば鉄塔はこのゴジラに破壊されるのだろうが、他の遊具設備が改修中なので、この日のゴジラは微動だにしなかった。それにしても、ゴジラには鉄塔や高圧線がよく似合う。

津久井から野比へ 

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津久井浜から久里浜方向を望む

 久里浜の南側から三浦市の金田漁港まで長い弓形の砂浜が続く。東から野比海岸、津久井浜、三浦海岸、金田海岸と名付けられている。このうち、前二者が横須賀市に属する。写真は、ちょうど、横須賀市三浦市の境目から撮ったものだ。もちろん、市境は便宜的なものなので、海岸線が分けられていることはない。

 津久井浜や三浦海岸ではウィンドサーフィンを楽しむ人で賑わっていた。津久井浜側よりも三浦海岸側のほうが人数は圧倒的に多かった。海に違いはないので、多分、駐車場が三浦海岸側に圧倒的に多くあるため、単に利便性の違いに過ぎないと思われるが。私にはまったく興味がないので、理由はそれしか思い浮かばなかった。 

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津久井にあった庚申塚

 津久井浜から少し内陸に入ってみた。「三浦富士」の存在が気になったからである。富士があるのは知っていたが、本家の富士のような形の丘はこの一帯では見かけたことがなかったので、今まで見たことのなかった角度から丘陵地帯を望んでみようと考えたからだ。道はどんどん細くなり、しかし、たまにある路肩がやや広いスペースには決まって畑仕事に精を出す農家の軽トラックが止まっていた。ナビではこれ以上先には道がないというところに差し掛かったとき、写真の庚申(こうしん)塚が目に留まった。軽トラが前後から来ないことを確認しつつ、あわてて撮影した。

 あとで分かったことだが、庚申塚の先にある大きな木の向こうの丘が三浦富士のようだ。撮影の際、そちらに向かう細い道があることは目に入ったのだが、軽トラではない私の車では両側をこすりながら走らねばならないと思われたので、それを行くことは断念した。やはり、車の移動では、細かな旅では肝心なところで機動力が発揮できない。

 庚申塔はどこにでも見られる習俗のひとつで、民間信仰の一種と考えられている。庚申とは十干十二支の組み合わせで、庚は金の陽、申も金の陽を表わすため、庚申の日は金気が満ちて人の心が冷酷になりやすいとされたらしい。このため、庚申の日(60日に一日)は禁忌の日とされ、心穏やかに過ごさねばならないと考えられた。こうした戒めがなぜ庚申塔として各地に置かれているのかは不明だが、三浦半島では丘の上に写真のようなまとまった塔が置かれているのをよく目にする。庚申塔が丘にあるので庚申塚とも呼ばれている。そういえば、秩父地方でも何度も目にした。信仰というより習俗と考えれば、深く意味を探る必要はないのかも。挨拶だってひとつの習俗にすぎないのだから。なぜ「おはよう」なのか「さようなら」なのか、考え始めるときりがない。

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思い出が数多くある野比海岸の曲がり角

 野比海岸に来た。ここの海岸線はここからこの角度で見ることに意義を感じている。そんな風に考える人は、おそらく、私以外にはほとんどいないだろうが。

 1988年から94年にかけてフジテレビで計14話、放映されたドラマがある。『季節外れの海岸物語』という作品だ。片岡鶴太郎が主人公で、可愛かずみ田代まさし、渡辺美奈代、古尾谷雅人が脇をかためた。湘南海岸にある喫茶店のマスターである圭介(片岡鶴太郎)が毎回、異なる女性に恋をしてそして失恋するというドラマで、「寅さん」の湘南版であった。『男はつらいよ』と異なるのは、舞台が湘南で、ドラマが展開されるとき、バックにはサザンや松任谷由実の曲が常にといっていいほど流れるという点である。また、鎌倉、逗子、江ノ島、葉山の著名な風景が登場し、湘南の海を知っているものにとっては実に懐かしく感じられる作品だった。

 視聴率はそれほど高くはなかったが、一部には根強い人気があり、一時は何度か再放送された。しかし、今ではまったくおこなわれず、ビデオ化もされていない。まず、サザンやユーミンの作品が多く用いられているので著作権問題がクリアーできないこと、田代が不祥事を連発したこと、可愛や古尾谷が自殺したことなどがソフト化されない理由だ。もっとも、ユーチューブならば今でも見ることができる。

 なぜ、湘南を舞台にした作品が横須賀の野比海岸と関係があるのか。理由はものすごく簡単で、舞台となった喫茶店は、実は本物は野比海岸にあり、海岸が出てくる場面でも野比津久井浜がよく使われていたからだ。江ノ島を背景に片瀬海岸を歩いていても、重要な場面になると野比津久井浜に変転することがしばしばあった。そして、別れゆく女性が車で遠ざかるときは、写真の野比から久里浜に至るコーナーが出てくる。振られた圭介は、久里浜方面に遠ざかる車を見送るのだ。湘南はいつも人と車とで賑わう。ロケは大変だ。その点、野比津久井浜は人影がはるかに少ないので周囲に気兼ねなく撮影ができる。おそらく、そう考えたに相違ない。

 つまり、このドラマは湘南と三浦の両方の海をよく知っていると、話の展開だけでなく撮影場所まで推理できるという楽しみがあった。それゆえ、私にとっては見ごたえのある作品として今でも記憶に残っているし、今もときどき、ユーチューブをのぞいている。

 実に、いい趣味を持っている。これで、いいのだ。