徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔22〕これっきりではなかった!ここも横須賀

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地質学的に貴重な存在である荒崎海岸

横須賀西海岸を探訪する

 近代的横須賀は東海岸東京湾側)にあるが、私がより慣れ親しんでいる横須賀は西海岸側、つまり相模湾に面したほうに多くある。東京湾側はすでに紹介したように大半が埋立地であるのに対し、相模湾側は自然海岸のままだし、自衛隊の施設がある場所以外のほとんどに立ち入ることができるからだ。決して好場所とまではいえないが磯釣りが可能な岩場もある。小さな漁港が多くあり、かつては堤防釣り場として賑わっていたところもあった。残念ながら、その大半は現在、釣り禁止となってしまったが。空気が澄んでいる日には富士山や伊豆半島伊豆大島がよく見え、とくに夕方には全景が茜色に染まり、まことに見栄えのする景観が眼前に広がるのだ。釣り場としては合格点には届かなくても、景色の豊かさには十分、合格点が与えられるし、ことに夕景は満点に近い。

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砂浜が広がる和田長浜海岸

 和田長浜海岸に来た。ここは三浦市との境にあり、写真の砂浜の大半は三浦市に属し、撮影場所辺りから手前側が横須賀市となる。東京湾側と異なり人工物が少ないためか、海水はかなり澄んでいる。陽気はすっかり秋の気配が漂っているため、海遊びの人は少なかった。 

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横須賀側の和田長浜は岩場が多くなる

 同じ和田長浜でも横須賀側は岩場が多くなる。干潮時にはタイドプールが多くできるので、海辺の生物を観察するのには絶好の舞台となる。ただし、岩場は洗濯板状で凹凸が激しいのでかなり歩きづらい。磯遊びには足ごしらえをしっかりしないと危険度が高くなる。撮影場所には何かを祭っているような石組みがあり、花も添えられていた。この辺りで亡くなった人への手向けなのかもしれない。

 写真の背後あたりの場所から岩場が水際までせまり、本格的な磯場の風景が連続する。岩場は入り江奥にある小さな港まで続く。この暮浜港には一時期、堤防釣りのためによく通ったものだった。

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和田長浜と荒崎との間にある暮浜港

 暮浜港はかつては栗谷浜港と呼ばれていたが、夕方の景色がとくに美しいためか「くりやはま」の音に近い「くれはま」の名が当てられるようにもなったらしい。もっとも、私がよく通っていた20年以上も前では、ここが雑誌などに紹介されるときはほとんど「栗谷浜」の名称が用いられ、「暮浜」とする記事は滅多に見かけなかった。そこで私は、この港を新聞や雑誌に紹介するときには必ず、「暮浜」を用いることにした。それが切っ掛けになったのかどうかは不明だが、最近ではほぼ「暮浜」の名が定着したようだ。

 私が「暮浜」の名前にこだわった理由は、写真にある白い建物が大きく関係していた。その建物はかつても今も「介護老人保健施設(通称老健」)として利用されている。私が老健という施設を間近に接したのはここが初めてだった。とくにこの施設に関心があったわけではない。この小さな港に出掛けるためにはこの建物の横を通るしかなく、また港には車を置くスペースが少ないため、よくこの老健横の空き地に駐車していたからだった。

  施設横を通るとき、施設横に車を止めるとき、釣りをしながらときにふと建物のほうに目をやるとき、荷物を取りに車に戻るとき、いつしか私は老健の利用者の姿を追い求めるようになった。それは、将来の自分の姿を見出したいがためだったのかもしれなかった。が、利用者の姿を見かけることは滅多になかった。介護を要するお年寄りが利用しているのだから外に出て散歩する機会は少ないのだろう。しかし、それだけではなかった。窓際にいて、港や海を見つめているお年寄りの姿も見受けられなかった。そうなると、ますます利用者の存在が気になった。目の前に綺麗な海辺が広がっているにもかかわらず、それに接する時間はほとんど有していない。そんな姿に、人生の暮方の「あわれ」を感じてしまった。それゆえ、この港は「暮浜」と呼ぶのがふさわしいと思ったのだ。

 このころ、たまたま横浜市金沢区老健でボランティア活動をする機会を得た。施設長や職員を説得して、近くにある公園に利用者が出掛ける機会を増やした。外に出られない人のために窓の外にある庭を整備して花壇を造り四季折々の花を植えた。たとえ「人生の暮方」であっても、自己の外部には違った世界が広がっているのだということを忘れずにいてもらうために。

 久しぶりに暮浜港に立ち、老健の窓に目をやった。相変わらず、人の姿は確認できなかった。ふと考えた。もはや私の半分は、あの窓の内にいるのだということを。

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荒崎は地質史の最前線にある

 荒崎でもよく磯釣りをおこなった。大物が釣れるというわけではないし、なにより足場が悪い。先端部に出るだけでも一苦労だ。それでもここへしばしば訪れたのは、写真のような地形に出会えるからだ。

 荒崎は、三浦半島の先端部にある城ケ島、三浦市中心部、剣崎などと同じ「三崎層」にあり、三浦半島を構成する地層では葉山や武山を構成している葉山層群についで古い。鎌倉や逗子、横須賀市街などはこの葉山層群の上に積もった泥岩層(逗子層)にある。

 三浦半島は海底にあった堆積層がフィリピン海プレートに乗って南から北に移動し、本州に押し付けられて地上に現われた付加体であり、泥岩とスコリア凝灰岩が交互に積もった層がそのあとから南からやってきて葉山層群に押し付けられて現われたのが三崎層だ。その後、多くは初瀬層や宮田層がその上に堆積したため、三崎層が地表に現れているのは前述した荒崎や城ケ島、三浦市街、剣崎などだ。プレートの移動は現在でも続いているので、将来、城ケ島は三浦市街とは陸続きになるはずだ。

 ともあれ、荒崎は南からやってきて三浦半島に押し付けられた付加体(世界でもっとも新しい付加体のひとつ)なので、地層はその力で大きく湾曲し、さらに上層が侵食されたため、写真のように斜め60度ほどに切り立っているのだ。スコリア凝灰岩は暗色で泥岩は淡色なので、地質のサンドイッチが明瞭だ。スコリア凝灰岩は硬いが多孔質のため脆くもある。

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荒崎の高台。三崎層の上にロームが積もっている

 荒崎には高台が多い。三崎層の上にロームが積もり、そのロームを土台にして樹木が茂っている。こうした地層の不整合は荒崎のいたるところで見られるため、たとえ釣果が芳しくなくとも、荒崎では違った楽しみを見つけ出すことができるのだ。ありのままの自然に触れるのは本当に面白い。その不思議さ奥深さには毎回驚嘆するし、そしてまたさらなる不可思議なものに出会う楽しみをたえず抱かせる。

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ドンドン引きは荒崎海岸の代表的存在

 写真の細長い入り江は「ドンドン引き」と呼ばれている。引き潮のときは海水がどんどんと引いていくからとか、波が高いときは入り江奥に当たる波の音がドーンと響くからなど、名前の由来はいくつかあるようだが、この自然が削り出した光景には圧倒される。反面、この入り江の出入り口周辺(写真上方)は水深があるために磯釣りに適したポイントなので、釣り人は造形そのものに感嘆するよりも、その造形による恩恵にあやかりたいという気持ちのほうが優先順位は高い。

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荒崎海岸の入口にある荒井港

 荒崎海岸から北上すると、小さな漁港にいくつか出会う。その最初が写真の荒井港だ。荒崎海岸バス停の目の前にある。かつてはここも興味深い堤防釣り場だったが、御多分に漏れず、現在は釣り禁止となっている。以前はここで大型のクロダイがよく釣れたのだったが。手前に見える岩場の造形から、ここが荒崎海岸の延長上にあることがよくわかる。

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荒崎海岸北側から大楠山を望む

 荒崎周辺は公園としてよく整備され、駐車場も付設されている。その公園の北側には水産研究所があり、さらにその北側の岩場は冬場をのぞけば波穏やかなことが多いため、格好の磯遊び場になっている。しかし、観光客のほとんどは荒々しい海岸に触れることを希望するためか、こちら側で人の姿を見かけることはほとんどなかった。私自身、この場をじっくりと歩き回ったのは今回が初めてだった。岩場の形状は先の写真と同じように、大きく斜めに傾いた地層が整然と並んでいる状態で、とても歩きづらい。写真に見える荒井港対岸の岩場も、私が撮影のために立っている場所と同じく、荒崎海岸と同時に形成された地層だ。

 写真の漁船は、荒井港の北隣にある漆山港に帰るものだ。この北にはさらに新宿港がある。船の向こうにみえる山は「大楠山」といって三浦半島一の高さを誇る。かつては242mの高さと言われており、私が最初に登ったときもこの高さの表記があったが、現在では241mに訂正されている。山頂の左手に見える白い塔は国土交通省の「大楠山レーダー雨量観測所」のもの。かつては大楠山の頂がランドマークだったが、現在ではこの塔が山頂にとって代わっている。

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この地域の中心的存在である長井港

 荒崎公園をはじめとして暮浜港、荒井港、漆山港はすべて横須賀市長井にある。写真の長井港はこの地区の名がそのまま付いていることから分かるように、この辺りではもっとも大きな漁港だ。港の構内には水産会社の直売店だけでなく、漁協直営のレストランや売店もある。かつては堤防釣り師の数も多かったが、近年では観光客のほうが目立つ存在だ。写真にはないが、北側の突堤はまだ釣りが可能なようだ。周囲が岩礁帯なので釣果もそこそこ望める。

 港の北側には団地があるが、その向こう側には小田和湾と名付けられた大きな入り江がある。その入り江の奥には陸上自衛隊の基地や学校、航空自衛隊分屯基地などがあり、ここはヨコスカの一角なのである、ということを忘れさせない存在となっている。

少しだけ海を離れた~ここもヨコスカ

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かつて基地だった場所にできたレジャー施設

 和田長浜の北側から長井港の東側、つまり長井地区の内陸部にあるのが「長井海の手公園(愛称ソレイユの丘)」だ。開園したのは2005年で、私が暮浜港や荒崎海岸によく通っていたときはまだこの施設はなかった。海岸線の道はとても狭く、かつ荒崎海岸行きの大型バスや水産関係の車がよく通るためにこの道を避け、高台に走る農道を利用して海にでたものだった。そのころ、ソレイユの丘がある場所は大半が空き地で、一部が航空自衛隊の無線施設として使われているだけだった。空き地は南北に細長く伸びていたことと、一部、滑走路らしきものが残っていたので、かつては飛行場として使われていたのだろうという予想は立った。実際、戦前は海軍の第二横須賀航空基地として使われ、戦後は一時、在日米軍の住宅地になっていた。

 通う回数がめっきり減ったころ、この場所で何やら工事がおこなわれているということには気付いていたが、さほど関心は抱かなかった。それが広大な公園として整備されたのには少なからず驚きを禁じ得なかった。場所がかなり辺鄙だったからである。もっとも、公園になったのは農道の南側で、北側には広大な駐車場があるものの、それ以外に施設はないようだ。

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園内には農場が広がる

 愛称から、そして建築物の造形から、フランス南部の風景を模しているということはすぐに分かった。高台にある公園とはいえ、南と西側はすぐ海である。つまり、相模湾は地中海というわけだ。園内には今回、初めて足を踏み入れたが、プロヴァンス風の建物や遊具施設があるとはいえ、多くは農場のようだ。確かに、フランスは農業国でもあるので、この景観からフランスの香りを感じられなくはない、かも?

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ソレイユといえばすぐにヒマワリを連想する

 公園を入ったすぐ右手(西側)にはヒマワリ畑が広がっていた。すでに秋を迎えていたが、ヒマワリはなんとか枯れずに咲いていた。もっとも、ここを訪れたのは台風15号が来る直前だったので、強い風によって現在はすっかり倒れてしまっているかもしれない。この日はかなり大勢の職員が畑を見て回っていたのは、今から考えれば台風にどう対処するべきかを皆で苦慮していたのだろう。

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園内を巡回するロードトレイン。ただし有料

 園内は結構広いし、遊具施設があちこちに点在しているので歩きではある。このためか、写真のように園内を巡回するロードトレイン・ソレイユ号が走っている。ただし、利用料は1回310円(9月20日現在)するので、短い区間の利用だと歩いたほうがお得に感じる。入口ゲートからは南に石畳の道が伸びていて、プラタナスの並木道になっている。写真のように道に沿って花壇が続き、その色彩がよくソレイユ=太陽に映えていた。この時期は桃色のペチュニアが敷き詰められていた。この花は徒長しやすいが、よく手入れされているようで間延びは見られなかった。また、適度に四季咲きベゴニアが使われていて、このアクセントも美しかった。ペチュニアもベゴニアも様々な色があるのだが、あえて単色にしている点が見事で上品さすら感じられた。これもフランス仕込みなのだろうか?

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キッズ広場にある遊具。これは無料

 ちなみに、入園料は無料なので、散策にはもってこいの場所なのだが、なにしろ車利用でなければ行き来にはとても不便だし、しかも駐車料金は1000円(9月20日現在)なので、そう簡単には利用できないと思ってしまう。

 遊具は「芝そりゲレンデ」「ゴーカート」「観覧車」など多くあり、「ふれあい動物村」「農業体験」などで楽しむこともできる。また、レストラン、ショップ、キャンプ場、温浴施設などもあるので、ここで1日を過ごすこともできそうだ。ただし、「八景島シーパラダイス」と一緒で、入場料は無料だが、施設利用はほとんどが有料なのが少し厳しいか?

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ソレイユの丘がある高台から三浦三山を望む

 ソレイユの丘を離れ、農道を北に走った。東側には「三浦三山」が見えた。左から「武山」「砲台山」「三浦富士」と名付けられている。

 武山は標高200m(実際には206mあるらしい)。大楠山と並んで三浦半島では著名な山である。この三山のある地区の字名は「武」なので、この武山がこの辺りではもっとも目立つ存在なのだろう。砲台山(標高204m)はかつて、その形状から大塚山と呼ばれていたそうだが、昭和初期、その山頂付近に海軍が砲台を設営したために砲台山(通称?)と呼ばれるようになり、この名が定着したようだ。今でも砲台跡や弾薬格納庫跡が見られるようだが、これに接するためには歩いて登らなければならない。三浦富士は通称で、地図には富士山と記されている。前回、名前だけは知っていたが、その存在を確認したことはなかったと記した山だ。この三山の光景ならば以前から何度も目にしていた。この中に富士山がそびえて?いるとは意外だった。だがしかし、どのように見れば、これを富士山と判別できるのだろうか?今もって不明だ。

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ファーマーズマーケット・すかなごっそ

  「帰りに、すかなごっそに寄りますか?」。城ケ島や剣崎に仲間と釣りに行き、駐車場で別れる刹那、横須賀在住のオッサンにこう聞かれた。寄るも寄らないも「すかなごっそ」がいったい何物だかがまったく分からなかった。この言葉をそのオッサンから何度か聞くうち、いつも「安い」という文句が入るので、店らしいという想像はついた。しかし、横須賀弁には疎いのでそれ以上のことは分からず、オッサンの日ごろの行動を思うと、「危ない店」とも考えられた。

 仲間との釣りは現地集合なので、いつものように国道134号線沿いにある釣り具店で餌を購入し釣り場に向かおうとしたときだった。釣具店の対面には農協が経営しているマーケットがあるのは知っていた。釣りのときは集合時間が早いので店は始まっていないのだが、その日は少し遅れて行くことになったので、店は始まっていた。交通量が比較的多い道を右折進入する車のために道は少し渋滞していた。このため、釣具店前から国道に合流するのに少し時間がかかった。そのせいもあってか、マーケットの入口にある看板が目に留まった。初めてのことだ。それには「すかなごっそ」と記してあった。かのオッサンが何度も口にしていたものの正体がこのときやっと判明した。「人は見たいものしか見ない」ということを改めて実感した。もっとも、「すかなごっそ」が何物かは分かっても、その意味するところは不明のままだ。イタリア語かも?

 この日も帰りにオッサンは「すかなごっそ」に寄るかどうかを聞いてきた。スーパーには寄る用事がないので「いいえ」と答えた。今までは正体が不明だったので曖昧な返事しかできなかったが、このとき初めて、明確に否定することができた。

 彼と別れた直後、スマホで「すかなごっそ」を調べてみた。「すか=横須賀、な=菜、ごっそ=ごちそう」から生まれた造語で、横須賀で採れた新鮮な野菜はなによりのご馳走という意味のようで、このファーマーズマーケットはそれを扱うJA横須賀が経営する農産物直売所だったのだ。

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すかなごっその店内。結構、賑わっていた

 今回、初めて店内に入った。平日の午後でありながら結構な賑わいを見せていた。別棟には、水産物を扱う店もあった。横須賀は水産物の水揚げも多いので、この分野でも流行りそうだ。「すかなごっそ」の水産物版だが、「すかすごっそ」ではなく、「すかなごっそ・さかな館」というようだ。言葉は言霊で、すでに「すかなごっそ」は当初の意味を離れ、横須賀産の新鮮な商品を取り扱う店という意味に拡大しているようだ。それなら、「な」は名詞扱いにして「肴」を当てれば「横須賀の肴(副食品のこと)はご馳走である」という意味になる。また「な」を格助詞として扱えば、「な=の」になり連体修飾語を形成するので、「横須賀のご馳走」となる。せっかく、「すかなごっそ」という言葉が生まれ拡散しているならば、後者の解釈を使って、農産品や水産品のみならず、パンやプリン、ケーキ、カレー、ハンバーガーなども含め、横須賀産のすべての食品に応用できる。余計なお世話だが、私が横須賀市民ならそう進言する、あの小僧にも。

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衣笠山公園内にある衣笠神社

 国道134号線を北上し、「武駐屯地」前にある渋滞の「名所」である林交差点を右折し、衣笠方向に向かった。目的地は衣笠山公園だ。この公園は桜の名所として人気が高いが、それ以外としては近隣に衣笠城跡があるくらいだろうか。

 衣笠山公園を訪れるのは2回目だ。1回目は学校の遠足でここを訪れたという記憶しかない。小中学校のどちらかだろうがそれも分からない。小中学校の同級生に会うことがあるので衣笠山遠足のことを何度か尋ねたが、誰も記憶がなかった。府中市からわざわざ遠足で行くような場所ではない。隣の衣笠城址であれば「三浦一族の本城」があったところなので、日本史には少し出てくるだろうが、小中学生レベルの話ではないはずだ。しかし、衣笠の地名は私にとっては極めて身近なもので、衣笠インターは三浦半島へ出かける場合は必ずといっていいほど使うし、渋滞で有名な衣笠十字路ではいつも苦虫を噛み潰しながら混雑に耐えている。この衣笠の地名に触れるたび、ここへは遠足できたということを思い出す。だが、それがいつだったかはまったく思い出せない。

 2回目?であるが、今回は自分の車で公園の駐車場まで上がった。とても細い道だ。こんな道を大型バスが通れるはずもなかった。でも、遠足なのでバス以外で行くはずもなかった。ふもとでバスを降り、山道を登った可能性はあるが、そんな苦労をした記憶もない。

 駐車場脇には衣笠神社があった。14世紀に三浦氏が信州の諏訪神社勧進して創建したそうだが、今の形になったのは17世紀、衣笠村の人々が農漁業の守護神とし尊崇するようになってかららしい。

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笠神社狛犬はすべて目が赤い

 建物自体はいかにも古い神社といった趣で特筆すべきものはなかった。しかし、写真の狛犬が意外だった。写真のものは大鳥居をくぐったすぐのところにあるものだが、境内には小さなものを含め、何対もの狛犬があったが、そのすべての目が赤く塗られていた。写真からも分かるように、この狛犬自体は新しく作られたものではなく、それなりの年季が入っている。目には赤い石が埋められているわけではなく、いかにもペンキで着色したということがすぐにわかるものだった。他の狛犬の目も同様で、赤く塗ること、そのことのみに意義があり、美しく丁寧に塗るという主義はまったく感じられなかった。

 周囲には誰もいないので目を赤くする理由を尋ねることはできなかった。そこでスマホでこの神社の由緒などを調べたのだが、赤目の理由は記してはいなかった。別の項にここを訪ねた人のブログなどがあったのでそれを読んでみたが、やはり多くの人が赤目について触れ、その理由を知りたがっているようだったが、今のところ、その理由を明らかにした人はいないようだった。

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衣笠山の山頂広場にあった桜の木

 衣笠山の山頂に向かった。この道では何人かの人に出会ったが、いずれもハイカーではなく、山道をトレーニングに使っている人ばかりだった。山頂には展望台があった。が、周囲の樹木は背が高く、この時期は枝葉は生い茂っているので、景観はよくなかった。説明書きには三浦半島が一望できるとあったが、ほとんどは樹木が立ちはだかっていて、一望ではなく0.1望といった感じだった。

 桜の名所なので広場には多く植えられていたが、写真のものには「大介桜」の木札が付けられていた。これは衣笠城合戦で畠山重忠に敗れた 三浦義明(仮名大介)に由来して名付けられたものだろう。この公園の桜は日露戦争の慰霊のために植えられ始めたらしいので、古いものは樹齢は110年以上ある。ソメイヨシノの寿命は60年説が有力だが、実際には130年のものもあり100年以上はざらのようだ。この大介桜はここでは一番古株らしいので、最初期に植えられたものであるとすれば、現在112歳となる。頑張って生き続けてほしいものだ。

 それにしても、衣笠山遠足の記憶は蘇ってこなかった。ただし、次に湘南の海に立ち寄ったということは思い出した。ただ、それだけ。

再び、西海岸を訪ね歩く

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佐島の丘から小田和湾を望む

 再び海に向かった。県道を西に進み林交差点に出て右折し国道134号線を葉山方向に向かった。左手には自衛隊の駐屯地や市民病院などがあり、それを過ぎると「佐島入口交差点」に出る。これを左折し海に向かった。佐島は半島状に西に突き出たところにあり、小田和湾を北から抱いている。この佐島にも高台があり、三浦半島の起伏の激しさを感じさせる。

 私が佐島によく通ったのは堤防釣りをするためで、佐島マリーナから南東に伸びる堤防が釣りのポイントだった。マリーナからはここに行くことができないので、佐島漁港から渡船を使って渡るのだ。この渡船業を営む店が佐島入口交差点に近い場所にあるため、佐島から北からではなく南から入るのが便利で、いつも横浜横須賀道路の衣笠インターから林交差点に進みここを右折して北へ進んだ。つまり今回、衣笠山公園から佐島に向かっているのと同じルートなのだった。

 しかし、ここによく通っていた20年ほど前とは決定的に変化した点があった。何もなかった高台がすっかり開発され、「湘南佐島なぎさの丘」として綺麗な住宅が立ち並んでいたのだ。住宅が造られ始めたのは2006年ころで、いまでも土地の整備が進んでいる。一区画は200~300平米あり、かなりゆったりとした敷地の中に最新の建物が並んでいる。思わず価格を調べてしまった。完成価格で3000~4000万円が大半だ。これが高いのかリーズナブルなのかは不明だが、東京や横浜方面に通勤する人には不向きかもしれない。なにしろ駅までが遠いのだ。

 横須賀市東京湾側の開発が圧倒的に進んでいるのは交通の便が良いからだ。京浜急行が海岸線近くを浦賀三崎口まで走っているし、高台近くであっても横須賀線が通っている。一方、西海岸側には鉄道の便はなく、ここ佐島からでは横須賀線衣笠駅京急逗子線新逗子駅まで出なければならない。しかも前者には衣笠十字路という難所が控えているので、朝夕のラッシュ時は身動きが取れない。開発業者はアクセス方法としてバスにて新逗子駅まで28分と表記しているが、このルートも葉山大道交差点や長柄交差点という準難所があるので、ラッシュ時は時間計算ができない。

 不動産会社もその点は了解済みらしく、余裕のあるリタイア組の移転先か富裕層のセカンドハウス的なものと位置付けているようだ。そうであれば、アクセスの不便さはあまり苦にならず、ここの立地条件は大きくプラスに働くことになる。景観は相当に良く、空気も海も澄んでいるので快適な生活が送れる。車で移動すれば新鮮な農産物や水産物が近いところで手に入り、少し足を伸ばせば横須賀や横浜の市街地にも、葉山、鎌倉、江ノ島といった観光地にも出かけられる。それでいて自宅では静かな暮らしを送ることができる。もっとも、こうした生活ができるのは恵まれた少数者だけであろうが。

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風光明媚な佐島港

 佐島港は横須賀市の漁港の拠点的存在だ。写真は小型船舶の係留場だが、表側には中型の漁船が並んでいる。道路沿いには水産品を扱う商店が立ち並び、結構な賑わいを見せている。市場をのぞくと「大楠漁協」の名前が目立つ。漁港名は佐島であっても 漁協名は大楠だからだ。地域名としての大楠は今はなく、先に紹介した大楠山や、小学校、中学校、高等学校の名として残っている。1943年、横須賀市編入される前は三浦郡大楠町が存在していたからである。

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市場の前にある突堤では釣りが可能

 近年では漁港では釣り禁止措置が取られている場所が多いが、ここは現在でも釣りは可能で、仕事の邪魔にならない限り車の乗り入れも黙認されている。この日は5名の釣り人が竿を出していた。釣果はさほど芳しくないようだったが、皆、それなりに楽しそうだった。この港は遊漁船の基地にもなっているので、釣り人には寛大なのかもしれない。

 写真の右手に見えるのが「佐島マリーナ」で、正面に見えるのが、私が以前によく渡っていた佐島沖堤である。佐島マリーナにはプレジャーボートの係留施設のほか、ホテルやレストランが併設されている。私は船に弱いため、釣り以外では船には乗りたくないのでこうした施設は無縁の存在だ。以前、この辺りはよくウロチョロしていたので、同じ海好きでも釣り人(とくに磯釣り師)とヨットマンとの佇まいの違いを実感させられた。前者は地を這うような、後者は天を遊弋するような世界に生きていると思えた。私の場合、地を這うというより、岩場に這いつくばる生活だったし今も似たようなものだ。

 佐島マリーナのすぐ横に天神島と笠島があり、前者には天神島臨海自然教育園がある。島とはいえ陸とは地続きのようなもので天神橋を渡ればすぐのところにある。今回は久しぶりに散策しようと思ったのだが、あいにくこの日(火曜日)は休園(月曜日が休園、ただし月曜日が祝日の場合は火曜日が休み)していて渡ることができなかった。なお、この島はハマユウの北限地とされている。

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敷居が高い芦名マリーナ

 写真のマリーナは佐島マリーナのすぐ北側にある。かつては芦名マリーナと呼ばれていたが、現在は「湘南サニーサイドマリーナ」が正式名称だ。というより、2001年に芦名マリーナが買収されたのが名称変更の理由だ。写真のようにおしゃれな建物が並び、一見さんお断りといった風情で、一介の老釣り師が立ち入れる場所ではなさそうだ。実際にはレンタル事業もおこなっているので私のような極貧生活者でものぞくぐらいはできるだろうが、空気が私の普段、吸っているものと大きく違うようなので、遠くから眺めるだけにした。

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運慶の真作が5体ある浄楽寺

 海沿いの道から再び国道134号線に戻った。国道はまだ少し内陸を走っていて、秋谷海岸から葉山町にいたるところから海岸を左に臨みながら北上する。

 佐島から国道に出たすぐのところに「浄楽寺」がある。別伝もあるが、1189年、鎌倉幕府初代侍別当であった和田義盛が七阿弥陀堂のひとつとして造営したとされている。この寺は2つの点で有名なので少しだけ寄ってみた。写真からわかるようにさほど大きくはなく、屋根瓦の何枚かは台風15号の影響ではがれており、本堂前には近づくことができなかった。

 この寺でよく知られていることのひとつは、東大寺金剛力士像の制作などで著名な運慶の作品が5体も所蔵されていることだ。運慶の真作とされているのは31体なので、ひとつの寺に5体あるというのはとてもすごいことだろう。運慶は奈良の興福寺の再興に尽力していたが、1186年に北条時政の依頼により静岡の韮山にある願成就院において阿弥陀如来像などを造り、そして89年に和田義盛の依頼によって浄楽寺の阿弥陀三尊像などを作成している。その後は奈良に戻り東大寺の再興に尽力している。運慶の作品は浄楽寺本堂裏の収納庫に安置されているが、いつでも拝観できるわけではない。春と秋の御開帳の際か、一週間前までに予約をしたものに限られるそうだ。なお、収納庫には北条政子が献納したと伝えられている銅製の懸仏も納められている。

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前島密の胸像。前島の墓は浄楽寺にある

 もうひとつは、近代郵便制度の父といわれる前島密の墓がこの浄楽寺にあるということだ。前島密の名を私が知ったのは、小学生の頃に切手収集をおこなっていたことによる。1円切手の肖像が前島だったからである。最初は名前が読めなかった。「蜜」を「ひそか」と読めるようになったのは切手収集という趣味のお陰だ。「趣味は人生を救う」のだろう。前島の胸像は郵便ポストになっており、ポスト部分に「郵便は世界を結ぶ」とある。この「郵便」も「切手」も「葉書」も前島が定めたものだ。

 前島は新潟出身だが、晩年は浄楽寺の敷地内に「如々(じょじょ)山荘」を造りここで暮らしていたそうだ。焼き肉を焼いていたかどうかは不明だが、多分、そういうことはなかっただろう。なお、前島夫妻の墓は浄楽寺の収納庫奥の墓地にある。

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よく整備された前田川遊歩道

 前田川は大楠山の沢に源を発し、後出する秋谷海岸に流れ込む。全長3.4キロほどの短い川だが、そのうちの1.4キロにわたって遊歩道が整備されている。国道134号線から少し入ったところにある「お国橋」から遊歩道が整備され、ところどころに板張りの道や飛び石が並び、とても歩きやすい道になっている。道の途中からは大楠山の登山道があり、そのまま源流部に進むか大楠山に登るかの分岐点となっている。ただし、9月20日現在、源流部方向に進む遊歩道は崖崩れで通行不能となっているようだ。前田川の流れはもう少し澄んでいるはずなのに、水は少し白濁し、川底に泥が堆積しているのはこの崖崩れの影響だろう。

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かつては釣り人で大賑わいだった秋谷港堤防

 秋谷港に出た。ここに前田川が流れ込むため海水が白濁している。通常は透明度がもう少し高いのだが。漁港はこの左奥あり、写真の突堤がかつて横須賀を代表する堤防釣り場だった場所だ。かつてはどの場所でも釣りができたが、現在は大幅に制限され、写真の突堤の先端部の沖向きだけとなった。しかも午前7時から午後3時のみと時間制限され、さらに漁協の都合で全面禁止になる日もあるそうだ。私が訪れたのは火曜日で、この火曜日は港内に入ることすら禁じられている。

 こうした制限が課せられたのは釣り人側の背信行為だった。危険な消波ブロックに上がって転落事故を起こす。こうなると漁は中断され、漁業関係者は捜索作業に駆り出される。ゴミは捨て放題、堤防上には臭い釣り餌を撒き散らしたまま、係留されている漁船に悪戯をするなどは当たり前だった。漁港内には車を止め放題で作業の邪魔をしても平気だった。こうした悪徳行為が重なったため、漁協側は大幅な制限に出たのだ。当然のことだ。秋は回遊魚の季節で、本来ならばカツオやイナダ、大サバなどがこの堤防では釣れ盛るのだ。自業自得とは、この現在の秋谷港堤防の空間を言うのだろう。

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秋谷港から立石公園まで広がる秋谷海岸

 秋谷港と北側に見える立石公園をつなぐのが秋谷海岸だ。この海岸と国道とは間が少しあるので、その狭い土地に民家が林立し、細い路地が入り組んでそれらを結んでる。私はこの道が好きで以前はよく徘徊していたのだが、今回は海岸の小径を使って立石公園に向かった。右手の丘は湘南国際村につながる子安の丘で、その向こうにあるのが葉山牛で名高い葉山の丘である。その左に突き出ているのが長者ヶ崎で、今回の小さな旅の終点である。

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高さ12m周囲30mの立石

 安藤広重が「相州三浦秋屋の里」と題して富士山をはるかに望む風景画を残したことでも知られる奇岩、立石は岸周辺が小さな公園となっており、あまり広くはないが無料の駐車場がある。あいにく、この日は湿気がやや多いせいか晴れていたが視界は良くなく、伊豆半島の姿もうっすらと見えるばかりで、肝心の富士山は姿を現さなかった。それでも、この立石を見るだけでも価値を感じるのか、それとも駐車場横にあるお洒落なレストランが人気が高いためにそこに訪れる人が多いためか、駐車場は順番待ちの車が列を作っていた。

 立石は高さ12m、周囲が30mの奇岩で、日本各地にこうした立ち姿の岩が残っている。そのほとんどはマグマの貫入が造った柱状のものが侵食作用によって残ったことによるものが多い(和歌山県串本の橋杭岩がその典型)が、この立石はそれとは異なり、海中で起きた火砕流が堆積したものが侵食作用で削られてできたものらしい。これと同等のものは千葉県の鴨川漁港横にある荒島にも見られ、そちらはまだお椀状の島として残っている。が、将来は侵食作用が進み立石のようになるだろう。もっとも、その頃には立石は消え、人類もまた消えているだろうが。

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釣り場としても知られる梵天の鼻

 立石公園から西に伸びるのが「梵天の鼻」と呼ばれる岩場で、写真の場所のほか、右側にももうひとつ鼻が伸びている。岩場の高さはあまりないので波の高い日や満潮時には危険だが、ここは磯釣りの好場所として知られている。写真にも先端部で竿を出している釣り師の姿がある。私も一回だけここで釣りをしたことがあるが、小さなメジナが多数釣れた。なお、ここも立石と同時期に堆積した凝灰岩によって成立したと考えられている。

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湘南国際村から大楠山を望む

 先に「佐島の丘」を紹介したが、この湘南国際村はその先駆け的な存在だ。ただここは規模がとても大きく、三浦丘陵に大きな爪痕を残している。私の好きな作家は湘南の景色をこよなく愛しているのだが、この開発によって丘陵地帯が大きく削り取られ、その上に巨大な人工物を築き、なおかつその計画が失敗に帰していることを指し「人類の汚点」とまで非難していた。

 1994年に造られたこの人工村は葉山町横須賀市にまたがる丘陵地帯を削り190haにも及ぶ広大な土地開発をおこなった。その名の通り国際的視野に立った学術研究、人材育成、技術交流、文化交流を掲げているが、そのほとんどが計画通りには進まず、赤字続きで計画の多くはとん挫し、今では森の再生事業をおこなっている始末だ。

 住宅地は結構広がっているので、雄大な景観を求めて移り住んだ裕福な人がいるのだろう。不動産会社のサイトをのぞくと中古住宅が売り出されていた。築23年で敷地240平米のものは3000万円台の後半で、築19年で敷地が600~800平米の物件では1億6800万円というのが数軒あった。JR逗子駅行きのバスは一時間に1,2本程度。かなりの高台にあることから自家用車での移動は必至だ。

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長者ヶ崎の横須賀市

 長者ヶ崎は相模湾に400mほど突き出た岬で、この南側が横須賀市、北側が葉山町となる。南からやってきた葉山層群の上に積もった逗子層が乗った地層がたまたまここだけ侵食されずに残って岬を形成している。基本的には泥岩層でここだけが周囲より硬かったために残ったのかもしれない。かつては海岸線を歩けたが、現在は崩落が続いているので先端方向へは行くことができない。先端部に島があるが干潮時にはかろうじて歩いて渡ることができた。以前のことである。

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長者ヶ崎の葉山側。ここは有名な海水浴場だ

 長者ヶ崎の北側は葉山町になるので、ここは横須賀ではないが、あえて触れておきたい。18歳になってまもなく、私がはじめて海釣りを体験した場所だからである。

 釣り好きな友人がどうしても海に行きたいと私に乞うてきた。私が自動車の免許を取得したからである。川釣りの道具は所有していたが海用は持っていなかった。一方、友人はその兄が釣り好きだったのでそれを借りる約束を取り付けたらしい。もう一人も同行することになり、中学校時代に三馬鹿と教師や同級生から言われていた3人で三浦半島に向かった。今のようにナビはまったくないので道路地図を頼りに道を進んだ。釣り場は決めていなかった。というより、3人とも海釣りは初めてなので、どこを釣り場にして良いか分からなかったのだ。人生、行き当たりばったり。これは昔も今も不変だ。

 写真の長者ヶ崎が見え、その付け根に駐車場があった(今もある)ので、そこへ車を止めた。3人は磯釣りをやりたかった。が、その前にリールの使い方を練習せねばならなかった。そこでまず砂浜でリールの使い方を練習し、それから長者ヶ崎の岩場で磯釣りをしようということになった。

 今の道具とは異なり、使い方は結構複雑で、仕掛けは前になかなか飛ばなかった。糸は絡み、投げる練習よりもトラブル解決の方に時間がかかった。結局、何も釣れずに別の場所を探すことにした。リールというものを使わずに釣りができるということなら堤防しかないと考え、しかし、三浦半島の地理は皆目分からなかった。このため、相模湾側はあきらめ、東京湾側に向かうことにした。東京湾側なら堤防はたくさんあるだろうと考えたからだ。

 逗子まで戻り、そこから半島を横断して東に向かった。あれこれ探しているうちにたどり着いたのが野島周辺だった。そこでは竿先に糸を結び、リールを使わずに釣りができた。小さいながらカラフルな魚が数多く釣れた。今でこそ野島周辺は私にとって庭みたいなところだが、どこで竿を出したのかは不明だ。景色には覚えがある。しかし、それがどの辺りかはまったく分からない。野島周辺は造成が進んでいるので半世紀前の地形は残っていないのかもしれない。いや、記憶違いかも。

 記憶はまったくあてにならない。夢が勝手に刷り込まれたのかもしれない。写真や映像が自分の見た景色と記憶されているのかもしれない。今浮かぶ過去の映像は今、勝手に生み出しているものに過ぎないのかもしれない。そうであるなら、私は今しか生きていないのかもしれない。今は今として認識したときはすでに過去になる。となれば、私は今、生きていないのかもしれない。