「タマちゃん」そして「ウタちゃん」は何処に?!
2002年8月、アゴヒゲアザラシが多摩川の丸子橋付近に現われて大騒ぎになったことがある。新聞やテレビではその海獣の動向が連日のように報道され、多摩川の河原は見物人や報道陣や私のようなやじ馬で大賑わいとなった。その迷入アザラシは「タマちゃん」と名付けられ、「タマちゃんソング」や「タマちゃん音頭」など便乗企画まで現れた。
この動きは東北地方にも広まり、同年9月に宮城県歌津町(当時、現在は南三陸町歌津)を流れる伊里前川の河口付近にはワモンアザラシが現れ、ここでは「ウタちゃん」と名付けられた。河口近くにあった汐見橋は「ウタちゃんはし」と名付けられ、そう呼ぶことで歌津の名を全国に広めようとしたかったのか、青く塗られた橋の主桁には白いペンキで「ウタちゃんはし」と書いてあったような記憶がある。実際、このころは取材でこの近辺を年に数回は訪れ、わざわざ何度かこの橋を渡ったことがあった。ウタちゃんを探すことはなかったが。
石巻市から国道398号線を北上して女川町、雄勝町を抜けて北上川の河口付近を抜け、現在の南三陸町の中心である志津川そして歌津、本吉町を通過し、気仙沼市に入った。2011年、東日本大震災による津波でもっとも大きな被害を受けたところへ、2000年代前半にはよく通っていたのだった。それゆえ、ニュースでよく取り上げられた被災前の女川や雄勝の町並みも、北上川右岸にある「大川小学校」の校舎も、町ごと流された志津川も、奇跡的に橋は残ったが家並みは完全に流失した歌津もすべて記憶にしっかりと収納してある。写真データもPC内や外付けハードディスクに残してあったはずだが、どちらも故障して今現在は復元不可となっている。
「タマちゃん」や「ウタちゃん」に人々は何故、あれほど熱狂したのだろうか?それには大きく、時代背景に要因があると思われる。1990年ころにバブルが崩壊し、人々は夢から覚め、一転、今度は冷水を浴びることになった。それでもなんとか名目GDPは97年まで増加した。が、その年を頂点に2016年まで、1997年の実績を上回ることはできなかった。17、18年こそ1997年をわずかながら超えているが、これは実に「統計上のからくり」ともいうべきもので、内容不明な「その他項目」が増加した(1997年は減少された)ためであって、実質的にはまだ超えてはいないのだ。
こうした閉塞状況を打ち破ってくれるだろう存在に人々は期待を抱いた。「異なるもの」の到来を希求する心性が「メビウスの輪」のように働き、従来の感性では否定的であったものへの肯定感が現実を揺り動かす要因になった。それが小泉政権や民主党政権誕生につながり、また日常の中に非日常を求める心情が「タマちゃん」や「ウタちゃん」現象として現れたのだった。
しかし、東日本大震災を経験した私たちは、大きな非日常は幸福ではなく大なる災いをもたらすことを知り、やがて日常の中に埋没するとこで些細な幸せ感を抱くことに満足することになった。それが現在まで続く「奇妙な安定」意識であり、何もしないことが現政権の支持理由になってしまったのだ。反面、50年に一度という災害が毎年発生するようになった今日、人々は内奥に「異化」を再び求める傾向性が生じ始めている。この「異化現象」を善き方向に導くため、今こそ新たなる「タマちゃん」の顕在が必要になってきているのである。
そこで私は、多摩川の河原や土手、その周囲を歩き、真なる「タマちゃん」がこの地上に再びめぐり来る気配を探し求めることにしたのだ。
多摩川について知っていることなど
多摩川は私の育ての親である。小学校に入る前から多摩川の河川敷、砂利穴で遊び、小中学生の時は流れの緩い場所を探してフナやコイを釣り、南武線の鉄橋に無断侵入して多摩丘陵側に行って山でターザンごっこをした。高校の教員を辞して後、半年間、コイ釣りに専念した。河川敷に居住するホームレスといわれる素敵な人々とも仲良しになった。彼らの幾人かは川の増水で流され行方不明となり、人の存在の不条理を知った。ここで半年間学んだことが、その後の釣り人生を決定づけた。今、私がこうして立派な怠け者になれたのは、多摩川が育んでくれたお陰なのである。
多摩川は山梨県甲州市笠取山(標高1953m)にある水干(みずひ、標高1865m)に源を発し、138キロの旅を経て東京湾に注ぐ。江戸時代は都市部の重要な水源であって、豊かな水を保持するために水源付近は天領となり森林地帯はしっかり管理されていた。明治期になり一時、荒廃したものの20世紀に入り、東京府が本格的に水源地森林経営案を具体化し、1913年には青梅町(現在の青梅市)に水源林事務所を置き、多種類の広葉樹による混交多層林を維持管理することで水源地の保水力を守ってきた。
多摩川でよく知られているのは、流域で織物業が盛んだったこと、アユが名産だったこと、砂利の採集がやり放題だったことなどだ。
万葉集に「多麻河に さらす調布(てづくり) さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しく」(詠み人知らず)とあるように、この川に面する地域では古くから織物が盛んだった。調祖にはその地の産品が選ばれるが、「調布」の地名から分かるように多くの流域では「布」が納められていた。川の名にあるごとく、ここでは「麻布」が特産品(葛布も)であり、のちに綿布、さらに絹織物が盛んになった。「調布」の名は現在では調布市が有名であるが、古くは青梅市の南部一帯も「調布村」であって、現在でもこの地に架かる橋の名前に「調布橋」として残っている。また下流部では高級住宅地として知られる田園調布の名もある。その他、府中にある「染屋」、調布にある「布田」「布多」「染地」などの地名は、織物業が盛んだったころの名残といえる。
多摩川がかつて「清流」(玉のように美しいので玉川と呼ばれたという説もある)だったころは天然アユの遡上が多く、とくに府中付近はアユ漁が盛んで、将軍に献上されたり、租税としてアユが納められたりした。また、長良川でおこなわれている「鵜飼い」と同様なものがおこなわれていたこともあったらしい。工業化・都市化が進んで川が汚染され、アユの遡上は絶滅状態にあったが、最近では水質がかなり改善され、それに伴って天然アユの姿が多くみられるようになった。
砂利採集はかつてとても盛んであり、一時は日本の採集量の3分の1ほどがこの川から運び出された。多摩川に沿って鉄道が何本か走っているが、その起源は川の砂利を運搬するために敷かれたものであった。河川敷の多くには砂利を掘った穴が残り、「砂利穴」として、大きなものは「競艇場」になるほどであり、小さなものは子供の遊び場となった。しかし、砂利穴にたまった水の低層はとても冷たく、ここで遊ぶ子供が犠牲になったこともあった。このため、私の子供時代は「砂利穴遊び」は禁止されていた。が、もちろん、そんな決まりを守るはずはなく、水遊び、釣り、度胸試し(蟻地獄のように穴から這い上がるのが難しかった)などの道場として盛んに利用した。
府中市には武蔵国の国府があった。というより、国府があったから「府中」と呼ばれるようになった。国府跡は大國魂神社付近にあるが、この神社は国府ができる500年以上前に創建されたという説がある。「たま」は霊魂の魂であり、聖なるもの、清らかなものを象徴している。この神社は府中崖線のすぐ上にある。ということは、かつて、多摩川はこの神社のすぐ下近くを流れていたこともあったのだ。それゆえ、この川は魂の下を流れる川、すなわち魂川⇒玉川となったという説もある。なお、国府につきものの国分寺はこの神社から2キロほど北にある。このことに関しては、すでにこのブログの「国分寺崖線」の項で触れてある。
多摩川の渡り方
府中付近の多摩川には深場はあまりなく、増水時以外は歩いて渡ることも可能である。今回挙げた写真は台風19号後のものなので、平水時より水は高く、また濁りが強いので渡渉は不可能だが、普段なら浅瀬を選べば出来なくはない。もちろん、現在の私は絶対におこなわないが。
子供のころはこの川をよく渡った。理由はとくになく、あるとすれば向かいにある多摩丘陵(私たちは向山と呼んでいた)で遊ぶためだった。府中崖線や国分寺崖線での遊びは日常化しつつあったので、異界を求めて向山まで出かけたのである。今思えば、これもひとつの「タマちゃん現象」なのであった。
川の渡り方は幾通りもあった。一番簡単なのは写真の「関戸橋」か下流にある「是政橋」を徒歩か自転車で渡るもの(もっと簡単なのは電車に乗ることだったが子供のときはすこぶる貧乏だったので電車賃がなかった)。次は両橋の間にある「大丸用水堰」付近を徒歩か泳ぎで渡るもの。さらに、自転車を曳いて渡ることもあった。
最も危険だったのは鉄道の橋の端を歩いて渡ることだった。橋上の端には点検作業のための狭いスペースがあり、電車が通過するときには作業員の身を守るための待避所もあった。このため、もちろん違反行為なのだが、かつては運行本数がかなり少なかったので見つからずにここを歩くことが可能だった。今なら常時監視されているため逮捕されることは必至だろうが、私が子供のころはこの困難に挑むことが誇りだったのだ。
南武線の橋梁のほうは何度か成功した。しかし、京王線のほうは運行本数がやや多かったためかいつも失敗に終わった。途中で必ず電車と出会い、大きな警笛を鳴らされるのである。そうなると急いで走って逃げるしかなく、かといって川に飛び込むわけにもいかなかった。このときほど、川の水深の浅さを恨んだことはない。京王線に乗ってこの橋を渡るたびに、あの頃の悔しさが蘇ってくる、今に至っても。
今回は京王線の多摩川橋梁から下流の是政橋との間を歩いた。まず憎っくき京王線の橋梁を左岸の土手上から撮影し、すぐ下流にある関戸橋方面に向かった。 関戸橋の向こうには多摩丘陵の連なりが見える。今は公園や住宅、それにゴルフ場が造成されているが、かつては樹木に覆われた、ただの小高い山だった。その山に分け入り、ターザンとしての修行やタマのサルとしての自立を画していたのだった。今は昔である。
台風に荒らされた河川敷を歩く
台風19号がもたらした大雨によって多摩川は増水し、知人が住む府中市四谷辺りでは越水まであと1.5mほどにまで迫り避難指示が出されていた。写真はその12日後の関戸橋下の河川敷の様子だが、そこにはまだ多くの爪痕が残っていた。この日は空気が比較的に澄んでいたため、橋の向こう側には私が大好きな山並みがかなりはっきりと見て取れた。手前側の山並みは左から景信山、陣馬山、醍醐山、生藤山、市道山、臼杵山、さらに馬頭刈山から多摩地区のランドマークである大岳山(キューピー山)が見える。中ほどには三頭山や御前山があり、左手後方には大菩薩連嶺が姿を見せている。右手の白い建物が視界を遮っているが、もう少し上流側から見れば東京都の最高峰である雲取山(標高2017m)も望める。多摩川左岸の散策は、これらの山々に接することができる(蓋然性がある)のですこぶる楽しいのだ。
少しだけ下流に移動した。この辺りには、沖積低地のすぐ下を流れる伏流水が河原から顔をのぞかせる場所があるはずだ。しかし、河川敷の様子は大増水前とは一変してしまったため、目印となっていた樹木たちの姿を見出すのに苦労した。上流から流れ着いた草や枝やゴミが木々にまとわりつき、かつての容貌を失わせてしまっていたからだ。
それでも本流に近づくと、その手前に、透き通った湧水が美しい流れを形成している場所が見て取れたので、自然の回復力に安堵した。
湧き出し口を探すと、かつて見ていたときよりその数は多く、そして流量も増していた。大量に降った雨が地面に染み込み、その圧力で地下に蓄えられていた清水を普段より強く押し出していたのだろう。それは、汚れ切ってしまった流れを早くに清めようと、見えざる力が湧水に勇気を与えているかのようだった。
この辺りの様相はかつてとは大きく変わってしまったけれど、決して忘れることができない場所なので、全体像からここであることは十分に認識できた。35年前、私はここで釣りへの接し方を大転換させた。よくある釣り好きから「釣りは人生そのものである」というコペルニクス的転換を図った場所なのである。私は単なるバカから、釣りバカへと大跳躍した。
* * *
元大工の棟梁は非常に辛口で、いつも私が仕掛けを投じる姿を見ては「下手くそ!」と背後から罵声を浴びせてきた。棟梁の横にいる元職人のゲンちゃんは、毎度のことながらゲラゲラと笑うだけだった。それを気に留めることなく、私の左隣で竿を出している支店長は黙々と川面を見つめコイからの魚信をひたすら待っていた。一方、右隣りにいる久我山の旦那は、ホームレスのノボルさんに豪華弁当を与えていた。
35年前の8月、事情があって教員を辞めた私は、本格的に釣りバカへの道に踏み出そうと思案していた。目標は磯釣り師であったが、まずは修行の第一歩として多摩川の河原でコイ釣りに専念することにした。9月1日に修業が始まった。まだまだ仕掛けの投入が不得手だったので、コイ釣りはその練習に最適だったのだ。当時、多摩川左岸の脇を走る沿線道路は未完成で、車止め付近は路駐可能だった。コイ釣りは意外に荷物が多いので、土手近くに止められるのはとても便利だった。
先客がいた。2人が竿を並べ、あとの3、4人は見物人のようだった。いずれも顔見知りのようなので少し割り込みづらかったが、これも修行の道と考え、彼らの脇で竿を出すことにした。餌のダンゴを作り仕掛けをセットした。一投目、ポイントがよくわからないので正面20m沖に仕掛けを投じることにした。しかし、人指し指で押さえていた道糸を離すタイミングが早すぎ、餌は右手のほうに飛んで行ってしまった。
「素人だな」。見物人のひとりが私にはっきり聞こえるようにその言葉を投げつけ、そしてすぐ脇まで近づいてきた。彼の横には背の小さな職人風の男がいた。そ奴は無礼にもただゲラゲラ笑うだけだった。私を罵倒した男は少しだけ右足と右手が不自由なようだった。私は彼が命じるまま仕掛けを再度セットし、竿を構えた。「初心者は斜めから投げるより、竿を真後ろに構えて正面に振り下ろすように餌を投じればいい。それなら距離はともかく正面に飛ぶから」と、私の構えを修正させた。確かに正面に飛んだ。しかし、道糸を離すタイミングが少し遅れたため、仕掛けを川面にたたきつけるような勢いで飛んでしまったため、餌のダンゴは割れて釣りにはならなくなった。あの小男はさらに大声で笑った。
そんなこんなで、私は彼の前で30回ほど仕掛け投入の練習をさせられ、少しだけだがコツをつかんだような気がした。そのあとも夢中で練習を続けたが、いつのまにか2人は姿を消していた。隣りで釣りをしていた折り目正しそうな老釣り師が私に声をかけてきた。「あの人は脳梗塞を患う前は大工の棟梁をしていて、横にいた小男は彼のところで働いていた職人です」と教えてくれた。私が指導されたように、その老紳士も彼に馬鹿にされ、揶揄われながら釣りの指導をしてくれたそうだ。元日銀マンだったその人物は、定年退職後に彼の地元にある小さな銀行に勤め、その年の3月末で仕事を辞し、4月からコイ釣りを始めたそうだ。棟梁からはなぜか支店長と呼ばれていると教えてくれた。私は当初、きちんとYさんと呼んでいたのだが、いつの間にか棟梁に倣い、私もYさんのことを「支店長」と呼ぶようになってしまった。
もう一人の商人風の男は有名メーカーの高級磯竿をずらりと並べ、餌作りや仕掛けの投入はすべて、彼に付きしたがっている若い男(ノボルさん)にやらせていた。コイがハリに掛かり、道糸が走り出して竿が大きく曲がり始めると、それまで用意していた椅子に座ってのんびりと構えていた商人風の男の出番となった。この釣り人もここの常連のようで、支店長の話によれば、久我山に住む金持ちで、自宅の庭には大きな池があり、全長70センチ以上の大型ゴイが釣れたときだけそれを持ち帰り、池に放すそうだ。すでに50匹以上いて、100匹になるまでそれを続けるとのことだった。
ノボルさんは釣り場の近くにあるアパート暮らしだったが、仕事を辞め家賃を滞納しているうちに河原に住み着いてしまったそうだ。2年ほど前から、久我山の旦那が釣りに現われると釣りの世話をするようになったという。旦那が居眠りをしているときは魚の取り込みまで自分でおこなう。そんなときは、旦那にもらう豪華弁当を受け取ったときよりうれしそうな顔になる。彼もまた、大いなる釣りバカだった。それを旦那も知っているようで、時折、ノボルさんが魚が掛かったことを彼に告げたときも、わざと寝ているふりをしていた。
たまに現れるホームレスのAさんとBさんは、釣ったコイを欲しがった。30センチほどのものが好みのようで、いつもそれを持ち帰って、橋の下の「自宅」で焼いて食べるそうだ。ある時など、よほどお腹がすいていたのだろうか、魚を渡すとAさんはその場で生のままかぶりついたことがあった。私はそれを止めるように言い、「ここで少し待ってて」と告げて、車で当時、関戸橋横にあったスーパーまで行き、弁当2個とワンカップ大関2本を購入して釣り場に戻った。弁当はA、Bさんに渡し、日本酒は棟梁とゲンちゃんに渡した。A、Bさんはすぐに無言で立ち去り、ゲンちゃんはいつものように酒を一息で飲み干した。
翌日、Aさんだけが現れ、昨日のお礼だと言って、手にしていた折詰を私に差し向けた。中河原にあった「大国」という料亭から(正式にはそのゴミ箱から)もってきたとのことだった。「なかなか旨いぞ」というのだが、私は彼に「今は満腹なので後で食べます」と告げて有難く頂戴した。本当に有難い(滅多にないという意味)経験だった。
* * *
こんな風に、左岸の河原ではこれらの人々と約半年付き合い、私は釣りの技術を磨き、人の存在の深奥を知った。人生は不可解であるが大いに愉快でもあった。そして翌年の4月から予定通り磯釣りの世界に飛び込み、今度は式根島、神津島、新島、八丈島などへほぼ毎週通うという生活を始め、またまたヘンテコな人々と出会うことになった。
多摩川左岸でのあの風変りな人々との触れ合いは、今でも決して忘れることのない素敵な半年間であった。高校教師という日常化された生活から飛び出した私は、河原に通い続け、そこで多くの「タマちゃん」と邂逅し人生の目的まで見出すことができたのだった。
府中市郷土の森公園を訪ねてみた
多摩川の左岸にある府中市の是政地区には数多くの砂利穴があった。それを埋め立てたのちにできたのが府中市郷土の森公園である。1987年に開園したというから、その近くで釣りの修行をしていた時期の2年後である。その際に、未開通だった川の左岸の沿線道路が開通した。もし、この計画が2年前に完成していたら、私はあの場所ではコイ釣りをしてはいなかっただろうし、そうであるならばあの素敵な人々との出会いはなかった。そう思うと、少しだけ「運命」というものを感じた。また本来、存在しないはずの時間の存在を、理性ではなく感性は受け入れた。
郷土の森公園には「交通公園」「市民プール」「総合体育館」「バーベキュー場」「観光物産館」などがあるが、なんといっても「郷土の森博物館」がここの中心的存在だ。博物館といっても建物内にすべてあるというものではなく、野外型の施設で、14haある敷地全体が「博物館」なのである。もちろん、郷土資料展示施設とプラネタリウム施設は写真の本館内にあるが、その他は府中市の自然の有り様を敷地内にコンパクトに再現し、そのなかに様々な移築復元建築物、遺跡、崖線、小川などが展示されているのだ。樹木や花々も多く、とくにウメやアジサイの開花期は見事だ。博物館の入場料は大人300円で、プラネタリウムは別料金となっている。
博物館に入ると右手に本館があり、左手に移築復元建築物の並びがある。最初に目にするのが「旧府中町立府中尋常高等小学校校舎」の玄関周りと教室の一部だ。校舎そのものは1935年に造られ、79年まで現役だった。途中から市立第一小学校(私の母校)の校舎として使われた。もちろん、保存されているのはほんの一部にすぎず、私が通っていたころは6学年で千数百人の児童が在籍していたので、かなり細長いコの字型の校舎だったと記憶している。この中にも入ることは可能で、教室内の造作も見ることができる。私の場合、授業を聞いた記憶がほとんどないので、教室に入ってもとくに感慨はなかった。わずかにあるとすれば、それは叱られた記憶のみである。
写真の建物はなんとなく覚えているような気がした。もっとも、昭和の時代に造られた(今だって変わらないが)公共施設の外観はどれも似たり寄ったりなので、記憶違いかもしれない。
この建物はかつて旧甲州街道沿いにあったような気がする。しかし、この建物の様相も「歴史的町並み」が保存されている地区に行くと、多くの場所でよく見られるようなものなのかもしれないため、記憶の混同が作用している可能性もある。身も蓋もない話だが。
呉服店を営む大商家で、たぶん、府中を代表するお大尽だったのだろう。この建物の奥座敷は、明治天皇の御座所としても使われていたそうなので、格式も高かったはずだ。当方にはまったく無縁なことなのだが。
説明書きには「ハケ上の養蚕農家」とある。ハケとはずいぶん前の「国分寺崖線」のところでも述べているが、段丘崖の地方語である。この家の場合は立川段丘にあったはずなので、このハケとは府中崖線を指すことになる。上の4つの復元建築物とは異なり、この農家の佇まいだけには感慨を覚える。私には田舎が似合うし、こうした風情の他人の家で、よく悪戯をした記憶があるからだ。これだけは間違いのない思い出だ。
川崎平右衛門定孝(1694~1767)は立派な人物だったようだ。府中にはもったいないくらいの存在である。しかし、彼がいなければ多摩地区や川崎市は今とは異なる風景が展開されていたかもしれないということを考えると、少しぐらいは感謝の念を抱く必要はあるかも。しかし、彼がいなければ私は別の私であったかもしれず、それはそれで少し残念なような気もする。もっとも、そうであれば別の私は今の私の存在を認知できるはずはないので、そう考える必然性はないと言えるだろう。
閑話休題。押立村の名主の長男として生を受けた定孝は、1742年に発生した多摩川の大飢饉に際し、貧窮した民を救うべく私財まで投じて、多摩川の治水や武蔵野新田の開拓を推進した。武蔵府中の郷土かるたの「き」の項には「ききんを救った平右衛門」とある。また、大国魂神社の修復にも尽力している。
のちには、現在の岐阜県瑞穂市において長良川の逆水で苦しんでいた農民の田畑を救う治水事業をおこない、また島根県にある石見銀山の経営にも従事した。写真の定孝像の右手は瑞穂市や石見銀山方向を指し、かの地の安寧を祈っている彼の心情を表現しているとのことだ。
府中市には滝らしい滝はないはずだが、府中崖線には「瀧神社」(府中市清水が丘)があり、小規模とはいえ絶えることのない清水が湧き出てわずかな段差を作って流れ落ちているので、これを「滝」と呼んでも間違いであるとは言えない。博物館内の庭にある段丘崖を模した場所では明らかに立川段丘から落下している様子を表現しているのでやり過ぎの感はなくもない。が、こうしたデフォルメは私は嫌いではないので、瀧神社への敬意を込めて、「よくできました」の判を押すことにしよう。
上の「滝」から流れ下る沢の先には「水遊びの池」があり、暖かい最中には多くの子供たちがこの池の中に入り、写真の噴水を浴びたりしながら愉快そうに遊んでいる姿を見かける。が、この日は晴れていたとはいえ気温は20度前後だったこともあり、さすがに子供をこの中で遊ばせている家族はいなかった。背後から日が差し込んでいたため、噴水が作る霧の中に小さな虹が見えたので写してみた。
先述したように、「博物館」は郷土の森公園内にある有料施設で、一方、写真の広場は出入り自由な公園になっており、その中心に写真の蓮池があり、「行田蓮」を紹介した回のときに触れた「大賀博士の胸像」はこの池の傍らにある。今の時期のハスはすっかり枯れていてみすぼらしいが、来年の夏にはまた見事な花を咲かせてくれる。もちろん、ここの蓮池の中心は「大賀ハス」である。大賀博士も府中に所縁がある人で、やはり郷土の誇りだ。
公園の北側には写真の「つり池」がある。開園期は4~10月なので現在は閉園期に入ってしまったので利用できないが、なんと、ここは利用料だけでなく貸し竿、餌、タマ網まで無料で借りることができる。池にはかなり大きなコイが泳いでいるので、手軽な場所でコイ釣りの醍醐味を体験することができる素敵な場所だ。撮影日は10月後半の平日だったので、釣り人はほとんどが常連さんのようだった。
大増水が残した爪痕
郷土の森公園の南側にある多摩川左岸河川敷の一角はバーベキュー場として開放されている。写真のようにまだまだ増水後の荒れ果てた様子が残っているものの、平日にもかかわらず結構な人数が野外活動を楽しんでいた。写真手前側に大きく写っている樹木はクルミで枝々には多くの実を付けていた。もうすぐ「収穫期」を迎えるので、例年、たくさんの人々がクルミを求めて集まってくる。
ずっと以前の是政の河原は、写真のような「蛇籠(じゃかご)」が敷き詰められていた。石をぎっしり詰めた金網の籠を並べて河原の土台にしていたのだ。私が子供時分に遊んだこの河原はこの蛇籠だらけであり、かなり歩きづらかった。それが面白かったのたが。昨今はこの上に小石、さらに土で固められているので表面は平らになっているため、バーベキュー場として利用しやすくなっている。子供たちがこの広場内を走り回っても比較的安全なのだ。しかし、この度の増水で表面が削り取られ、かつての姿が露出した。凹凸があるので遊び場としては少し危険だが、河川敷などというものは自然に土が積もって草木が育つか、人の手が加わったとしても、こうした蛇篭河原のままでいたほうが変化があって素敵なように思えるのだが。
多摩川の河川敷の多くは公園・広場としてだけでなく野球場やサッカー場としてよく利用されている。上に挙げたバーべキュー場から武蔵野南線橋梁との間にはサッカー場と野球場があって、とくにサッカー場は平日にもよく利用されていたようだ。しかし、台風19号の増水によってしっかり洗い流され、写真のような無残な姿をさらけ出してしまっていた。当面、復活する状況にはないようだ。ここをよく利用する人には残念なことだが、優先順位の高い復興事業があるので致し方ない。
河川敷は増水時の湛水(たんすい)場所として確保されている。こうした場所は自然のままが一番良いのだ。浸透性が高いため保水力が確保されるので越水や決壊を防ぐ可能性が高まるからだ。しかし、こうしてグラウンドとして整備されてしまうと浸透率は低くなり、その結果、水位は容易に高まり越水の危険性が増加する。
野球場の東側はかなり深くえぐられていて水圧の威力を実感させられる。前の写真から分かるようにこの場所のすぐ下流側には武蔵野南線や南武線の橋梁がある。川の流れは橋脚にぶつかり乱流を発生させる。このため、橋脚の前方にある部分の土地がより大きな水圧を受け、このように被害を増大させるのだ。橋脚があることで流れの断面積が小さくなるので乱流の発生は必至で、だからこそ、川の氾濫はこうしたこうした構造物の前後でよく発生する。野球場の破壊だけで済んだのは幸いだったのかもしれない。
是政橋から多摩川右岸方向を散歩する
府中街道に架かる是政橋は長い間、粗末なコンクリート橋で、しかも片側一車線しかなかったため、いつも混雑していた。もっともこれは是政橋に責任があるわけではなく、府中から川崎方向に進むには、橋の先に南武線の踏切があり、さらに大丸交差点という渋滞ポイントがあったためだ。写真から分かるように南武線の南多摩駅周辺やさらにその先の多摩丘陵一帯は宅地開発が進み、かつての「のどかな風景」を望むことはできなくなってしまった。そしてこの是政橋の美しい姿だ。もはや「多摩の田舎」とは表現しづらくなった。一方、外観だけ整えることを優先するのは田舎者の性といえなくもないが。
是政橋は2011年に完成し、4車線となった。また、わが愛する田舎電車の南武線も高架となったため踏切もなくなり、東京競馬場の開催日を除けば渋滞は激減した。橋の工事は1998年に始まった。13年かかって完成にこぎつけたのである。全長は約400mの斜張橋だ。
ところで、是政は人の名前である。かつて横山村と呼ばれていた土地を開拓したのが井田是政で、是政の地名は彼の名にちなんでいるのだ。是政の祖先をたどると「板東武士の鑑」といわれた畠山重忠にいきつく。是政は小田原北条氏の家臣だったが、北条氏が豊臣秀吉によって滅亡したとき、彼は八王子城を離れて横山村に移り住み、その地を開拓した。地名から姓を受けたり、姓から地名がつけられたりすることはよくあるが、名からつけられた地名というのは珍しいかもしれない。
井田是政の墓所は東京競馬場のコース内にある。競馬好きや呪い話が好きな人なら誰でも知っている話だ。東京競馬場の第3コーナーはこのコース特有の最後の長い直線が控えているため、ここで各馬はペースを上げてレースの主導権を握ろうとする。そんな重要な場所なのに内側に大きな樹木があるため、客席からはとても見づらくなっている。この木は「府中の大ケヤキ」と呼ばれているが実際にはエノキだ。当然、伐採対象になるはずなのだが、井田家の子孫が日本刀をふるって反対しつづけ、さらにその木の枝を切った職人が急死したという話も流布し、その後、伐採を引き受ける人はいなくなったらしい。その樹木のある場所こそ、井田是政の墓所なのだ。
是政橋を渡り、今度は多摩川右岸側を大丸用水堰方向へ西進した。再び南武線橋梁に出会った。川の本流は右岸側を流れているので、増水跡がこちら側からよく分かった。橋脚のかなり高い部分に枯草や小枝が絡みついているので、そこまで水かさが増したようだ。橋梁の真下辺りの土手は他の部分よりやや低くなっているので、ここでは土手まで水が上がった痕跡があった。
橋梁をくぐった。橋の南詰に数本、柿の木があった。秋は柿の実の季節だ。ポピュラーな果実は周年、市場に出回っているが柿の大半は季節限定だ。大好きな果物なので、手に入る時期にはほとんど毎日のように食する。食べるだけでなく、柿が実っている木を見るだけでも嬉しくなる。写真の木は実が少なかった。それでも青空にはよく映えていた。そこで、南武線の電車と一緒に写そうとカメラを構えて電車が来るのを待った。かつての南武線であればそれは一日仕事になるが、近年の南武線はまるで都会の電車のように本数が多くなった。少しだけシャッタースピードを抑え、南武線が鉄橋上を疾走する躍動感を演出した。今、南武線は疾走するのである。時代は確かに進んだ。この電車は、私が時代を認識するためのメルクマールなのだ。
是政付近の河原で象徴的存在なのが写真の大丸用水堰だ。稲城市や川崎市方面に多摩川の水を送るための取水口がこの堰にある。向かいの府中市側は固定堰だが、手前側は可動堰になっている。この写真は可動堰を管理するための建物の脇から写したもので、ここから上流部には土手はなく、多摩丘陵の崖が堤防の役目を果たしている。このため、ここから上流部に移動することはできない。
増水時の写真なので水は濁りその量も多いが、通常は比較的透明度は高く、歩いて渡ることが可能なほど水量は少ない。私が子供のころはこんな立派な可動堰はなかったし、管理も行き届いてはいなかったので、渇水時には、この堰堤下を歩いて、あるいは自転車を曳いて府中と多摩丘陵との間を往復したものだった。
堰より上流側には行けないので、左岸まで戻ることにした。右岸の土手上には一軒?の新居があった。少し前まで左岸側の河原にはテント小屋やあったが、台風襲来前にここに移動してきたのだろうか。上流にある日野市の河原では一人の犠牲者がでたが、ここに転居してきた住人は無事だったようで安心した。
左岸に戻り、郷土の森公園付近まで来たとき、パラグライダーを広げて風を把捉する練習をしている人の姿が目に入ったのでしばらく様子を見ていた。風はさして強くない日だったが、パラグライダーがうまく風をつかむと上昇する気配を見せる。河原では上昇気流はほとんどないので大空に舞い上がることはできないのだろうし、この老人?も地面から離れる気持ちはないようだった。あくまでも訓練にすぎないのだろう。
それにしても、あの「風船おじさん」は今、どの空を飛んでいるのだろうか?1992年11月23日が旅立ちの日だったので、もう27年間も飛行を続けていることになる。飛び立った2日後には消息が不明となった。大半の人は墜落したと考えている。しかし、船の名は「ファンタジー号」である。船長の鈴木さん(本名は石塚)はまだ79歳だ。十分に飛翔し続けることは可能だ。たかだか食料がなくなったくらいで、ヘリウムガスがなくなったぐらいで飛行を中断するわけがないのだ。今風に言えば、鈴木さんは星になっているのかもしれないが、しかし、日本の、いや世界の危機に際しては必ず、天から舞い降りてくるはずである。彼もまた、「タマちゃん」なのだから。
それが、異能の人の宿命なのだ。