徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔27〕多摩川中流散歩(2)~水と府中崖線と

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復旧未定の日野橋を望んで

川の氾濫が生み出す功罪

 川の氾濫は人々に災いをもたらす。台風19号による大雨で数多くの河川が決壊や越水、逆流したことで流域に住む人々に多くの被害を与えた。反面、歴史的に見れば川の氾濫は流域の土地や人々に幾多の富をもたらしてきたという面も否定はできない。農地には水が不可欠だが、その源は川から引き込まれた水路であることが多い。近年では化学肥料の使用が当たり前だが、かつては洪水によって上流部から肥沃な土が田畑に運ばれたことで、中下流の農地では連作が可能になったという点も見逃せない。

 「暴れ川」だった多摩川でいえば、度重なる氾濫と流路変更で武蔵野の扇状地が形成されただけでなく、その地形に「起伏」という刻印を残し、厳しくもあるが豊かな自然環境を人々や動植物のために創造したのだった。ずっと以前に取り上げた国分寺崖線も、今回少しだけ触れる府中崖線も、わざわざ削り残したために多くの自然が残されている「狭山丘陵」や「浅間山」も、水の町といわれる東久留米市の地形も、玉川上水や野川の流れも、東京競馬場多摩川競艇場が沖積低地に造られたことも、皆、多摩川の恵みによると表しても決して過言ではない。この川の躍動が多くの犠牲を産み出したことも事実ではあるのだが。

 前回は多摩川中流域の川沿いを京王線多摩川橋梁から是政橋まで歩いたが、今回は府中四谷橋から日野橋まで、さらに範囲を少し広げて、古多摩川が約2万年前に削り出した府中崖線と流路が固定しつつある多摩川との間の沖積低地(氾濫原)を散策してみた。多くは川が育んだ「実り」に触れているが、やはり大増水がもたらした負の側面も語らないわけにはいかなかった。冒頭の写真は、そのマイナス面の現代の象徴で、一本の橋脚(写真では右から3本目)が流れの圧力によって沈降したために橋げたが少し傾き、それゆえに通行止めが続いている日野橋の現在の様子である。撮影日には点検車両が2台、橋の上に止まっていたが、まだまだ復旧活動へは一歩も前進してはいない。

府中四谷橋から日野橋まで

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1998年に開通した府中四谷橋

 前回に触れた京王線多摩川橋梁の上流側にあるのが写真の「府中四谷橋」で、1998年12月に開通した。府中市の四谷地区と多摩市の一の宮地区とを結ぶこの橋ができたことで、中央道・国立府中ICから多摩センター方向への移動がスムーズにおこなえるようになった。お陰で前回に触れた「関戸橋」の渋滞が減り、個人的にはとても助かっている。

 この橋を車で通ることはあまりないが、橋の北詰近辺に小中学校時代の友人が住んでいるので、彼の家に出掛けたときにはついでにこの橋まで足を伸ばし、橋上から多摩川や浅川、さらに西に広がる山々の景観に触れることがよくある。私にとってこの橋は、自動車のための通行路というより景色を眺めるための散策路として存在している。

 ところで「四谷」という地名だが、江戸時代初期に作成された『武蔵田園簿』には「四ッ屋村」の名で記載されている。この周辺には「谷」はとくに見当たらないので、のちになって「屋」がたまたま「谷」と記されるようになったのだろう。わずか四つの家から始まったとされるこの村の石高は『武蔵田園簿』によれば田方が83石、畑方が36石とあるので稲作の割合が高かったようだ。もっとも、同じ時期の是政村は田方が244石もあったので、その時期の「四ッ屋村」はまだかなり小さな集落だったと考えられる。

 京王線中河原駅から西に伸びる道がある。これは「四谷通り」と呼ばれているが、四谷4丁目辺りにはこれに直行する「三屋通り」がある。この通りのどこかに3軒の家から始まった集落があったのだろうか。それにしても、こちらの通り名にはまだ「屋」の名が残っているから面白い。

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汚水処理水の放流口

 府中四谷橋の北詰から多摩川左岸の土手(府中多摩川かぜの道として整備されている)を上流に向かって歩いた。次に目に留まったのが「北多摩二号水再生センター」で処理された水を多摩川に放流するための水門設備である。このセンターには国立市の大半、それに立川市国分寺市の一部の汚水と、この地区では合流式下水道方式を採っているために道路の汚れを飲み込んだ雨水が合わさって流入し、それを最新の技術で処理した上、この場所で多摩川に放流している。もちろんこの水門は、多摩川本流が大増水した場合の放水路への逆流を防ぐ役目も担っている。

 この水門のすぐ向こうの土手下側には多摩川沿線道路が走っていて、その道と北へ向かう道との丁字路(四谷五丁目交差点)がある。その北へ向かう道が先に触れた「三屋通り」であり、その交差点が通りの起点になっている。

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2007年に完成した石田大橋

 日野バイパスは、国道20号線の「国立インター交差点」から八王子にある「高倉西交差点」まで通じている。このバイパスが開通する前の国道20号線は、日野橋交差点から日野橋、中央線日野駅付近を通って八王子方向に進んでおり、かつ日野橋交差点以西は片側一車線であるためにかなり混雑していた。それが、バイパスが開通することによって渋滞がやや緩和された。バイパスの完成と同時に、その間の甲州街道都道256号線に格下げされ、代わってこの日野バイパスが国道20号線になった。

 写真の石田大橋(国立市谷保・日野市石田間)のすぐ下流には「西府本宿床止め」がある。写真左手にその一部が見える。水が高いのでブロックの頭は少ししか姿を見せていないが、平水時にははっきりとその存在を誇示している。この床止め(とこどめ)とは、早い流れによって河床が洗堀(せんくつ)され、川の傾斜が変わって流路が不安定になることを防ぐための構造物だ。このときのように、増水中に姿を隠すことで役目を果たしている。姿を見せているときには役に立たない。忍者のような存在なのかも。

 川の右岸側(日野市側)には高圧送電塔が2基見えるが、その間には雪を被った富士山の姿が現れている。これからの季節は空気が澄んでくるので、こうして河原の土手を散策しているとき、しばしばその存在に触れることができる。写真ではやや見えづらいが、富士山の姿を一部塞いでいるのが丹沢山塊の大室山で、この山は府中市近辺から富士山の姿を探すときの目印となっている。

 ところで、この石田大橋を見ている辺りはすでに市境を越え、国立市に入っている。

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中央道多摩川橋

 石田大橋の次の見えるのが中央自動車道多摩川橋だ。私の場合、中央自動車道は高速道路の中ではもっとも利用頻度は高く、自宅から中央道に入るときもそれから降りるときも国立府中ICを利用する。この橋を渡って山々の方角に進むときは高速道路の流れに乗り始めるときであり、山々を背中に背負いながらこの橋を渡るときは、もう出口が近いので追い越し車線から走行車線に戻ることにしている。写真撮影の前日にもこの橋を渡っているが、こうして橋を眺めていると、またすぐに出掛けたくなってしまう。山の連なりが視野に入るときは、私にとって出陣のサインだからだ。

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河川敷まであふれた水によって破壊された国立中央グラウンド

 前回にも触れたように、ここでも河川敷にあるサッカー場や野球場は台風による大増水で破壊され使用不能になっている。それでも河川敷に茂るハリエンジュ(ニセアカシア)は無事だったようで、来年の初夏には香りの強い白い花を纏うことになるだろう。木々が無事だったのは、この辺りの川幅は下流域より広がっているためだろう。土手自体もこの先でいったん途切れ、しばし青柳崖線(府中崖線の南延長線)が土手の役目を果たすことになる。

 この川幅の広さから流れも緩やかなことが多かったためか、かつて、ここには「万願寺渡船場」があったとされる看板がある。江戸時代のある時期には、この辺りに甲州街道の渡り場があり、人々は日野宿を、あるいは府中宿を目指して川を渡った。

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少し向斜している日野橋

 日野橋(立川市錦町・日野市日野間)は1926年に完成した。8月に開通したのでまだ元号は大正だ。昭和は同年の12月25日に始まる。それまで甲州街道を行く車は「日野の渡し」で、いかだの上に乗せて対岸まで行き来した。冒頭の写真にもあるように日野橋は台風19号の影響で橋脚が少し沈降したため、橋げたはその部分から少し向斜してしまった。これにより日野橋は通行不能となり、現在でも復旧の目途はまったくたっていないようだ。

 日野橋が通行不能となったために、車は再びいかだに乗って行き来するようになった、というわけではない。前に挙げた石田大橋、それに多摩都市モノレールの下には立日橋(立川市柴崎町・日野市日野本町間)があるので、これらが利用できるまでは”いかだの復活”はないだろう。

 ところで、「日野の渡し」はいつごろから「万願寺渡し」にとって代わったのだろうか?「万願寺渡し」は多摩川の北上によって府中崖線下を通っていた甲州街道そのものが崖線の上への移動を余儀なくされたために1684年に廃止され、代わって日野橋と立日橋との間にすでにあった「日野の渡し」が甲州街道の渡船場に格上げとなったのだった。

 石田大橋の完成が日野橋を格下げし、日野橋の完成が「日野の渡し」を格下げし、「日野の渡し」が「万願寺の渡し」を格下げした。そして今年、日野橋が陥没した。多摩川の流れは、こうして歴史を翻弄する。

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立川公園には野球場と陸上競技場がある

 日野橋北詰の東側に立川公園がある。野球場には入ったことはないが、陸上競技場には何度か入ったことがある。いや、入っただけでなく走ったこともある。はるか昔、私が中学生のときたまたま陸上競技部の部員だったので多摩地区の競技会に参加しここを走った。また、高校教師のとき、これもたまたま陸上競技部の顧問だったので、ここには引率という立場で来たことがあった。いずれも遠い昔のことなので記憶は鮮明ではなく、ただ何度かここに入り、そして走ったことがあるというだけ。それでも、少しは懐かしさを感じる。

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立川公園の北東端にある根川貝殻坂橋

 サイクリングロードにもなっている多摩川左岸の土手は、前に触れたように国立中央グラウンドの先で途切れている。このため、土手上を府中から立川方向に走ってきた自転車好きはいったん土手を離れて青柳崖線の上を少し西に進み、貝殻坂という名のついた細い道を多摩川方向に下り、根川に架かっているこの橋を渡って立川公園の南側に出ると、復活した左岸の土手に出る。

 貝殻坂の名の由来は、この辺りでシジミやハマグリ、イガイ、カキの貝殻が多く見つかったことにあるらしい。『新編武蔵風土記稿』には「土中をうがてば蛤の殻夥しく出づ。土人の話に古へはこの辺も海なりしと伝ふ」という記述があるという解説が橋のたもとにあった。実際には貝塚があったようで、しかも出土した貝殻の大半はカキだったらしい。ともあれ、橋の主塔にはカキ殻ではなさそうな貝のオブジェが付けられている。

 橋の下を流れる根川は、もともとは立川崖線から湧き出た水が集まったもので、途中で残堀川と合流し分水されて立川公園の北側、つまり青柳崖線下を東に進んで府中用水取水門の手前で多摩川に戻されている。根川自体は湧水が源になっているので清流だったらしいが、汚水を相当に含んだ残堀川に合流してからはかなり汚れが目立つようになったため、後には埋め立てられてしまった。しかし、かつての清流を懐かしみ復活させる動きがあったことから、水再生センターで高度に処理された水を下流側に流すとともに、かつてあった河道を含めて根川緑道として整備された。根川貝殻坂橋は、この「復活」した流れの上に架かっている。

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府中用水青柳取水口

 府中用水は、府中三村(本町、番場宿、新宿)、是政村、上谷保村、下谷保村、青柳村の七ヵ村の灌漑用水の確保のために、江戸時代の初期に開発されたとされている。しかし、別の資料によれば、現在の国立や府中、さらには調布や三鷹、ひいては江戸市中の上水確保のための開発計画が元になったとされている。何のことはない、玉川上水の先駆的計画だったようだ。

 現在の昭島市にある多摩大橋付近から多摩川の水を引き入れ、これを根川に流し込んで青柳崖線下に導き、写真にある青柳取水口から崖線を少しずつ切り通して青柳段丘、立川段丘に用水路を甲州街道まで導き、あとはほぼ街道に沿って東に流せば江戸市中まで流せると考えたようだ。そこで、国土地理院が公表している「標高がわかるWeb地図」で関係する場所の標高を調べてみた。

 府中用水の取水口の標高は約65m(以下標高と約は省略)、谷保天神の大鳥居付近は70m、青柳崖線上は68m程度なので、切り通せばなんとか谷保天神までは流せる。さらに現在の南武線西府駅は63m、府中駅は56mなので青柳段丘さえ越えられれば、立川段丘上へは容易に導ける。味の素スタジアム前は43m、調布駅前は37m、京王線柴崎駅は32mなので楽勝だ。しかし、京王線・仙川駅付近は49m、千歳烏山駅は48m、現在の玉川上水甲州街道に合流する桜上水付近が47mと柴崎から東に流すのはまず不可能に近い。立川段丘から武蔵野段丘との境に国分寺崖線が立ちはだかっているのだ。

 ちなみに、現在の玉川上水を見ると、早めに立川段丘に乗り、さらに国分寺崖線が高まる前の場所(玉川上水駅付近)で武蔵野段丘に乗っている。このため、小金井公園前で70m、三鷹駅で60m、井の頭公園(実際にはここは相当の難工事だが)で56m、そして桜上水で47m、明大前で44m、笹塚で42m、新宿駅南口で37m、終点の四谷大木戸で33mと順調だ。つまり、府中用水の上水化計画は国分寺崖線の存在がそれを白紙にさせたのだ。国分寺崖線は、私の青春だけでなく(本ブログ第4回参照)、府中用水の前にも立ちはだかったのだ。

 こうしたわけで、府中用水は結局、府中や国立近辺の田畑を潤すための灌漑用水路として開発が進められた。江戸初期は多摩川の流路が現在の位置に定まりつつあり、しかし、それまでの古多摩川の流路も網状流路として残っていたため、古多摩川が沖積低地に刻んだ河道を利用して開発されたのだった。後述するが、府中用水は実に多くの分枝流を有しているが、これは残されていた網状流路がそうさせたのだ。

 ところで、写真にあるように11月現在では取水口は閉じている。ここが開けられるは5~9月頃で、農業用水が不要な時期は手前の余水口から多摩川に戻されている。なお、取水口付近に流木などが多く散らばっているのは台風19号の際の大増水によるものだ。

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青柳崖線を刻んだ緑川排水樋管

 緑川は旧陸軍立川飛行場の排水のために造られた人工河川で当初は立川排水路と呼ばれていた。米軍が占領した時期は相当に汚れた水や油が流されたらしい。現在は全区間が暗渠化されており、写真の排水樋管からだけその流れを見ることができる。なお、府中用水はこの施設の下を横切り、青柳崖線に沿って東に流れる。写真左手の土手下あたりに府中用水取水口の設備が少し見えている。

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青柳段丘上に移設した青柳稲荷神社

 多摩川左岸から貝殻坂を上り、青柳段丘の際を東方向に進み、上記の府中用水取水口と緑川排水樋管に立ち寄ってからさらに府中方面に戻ることにした。写真の神社は段丘崖上にあるが、1671年の 大洪水によって多摩川の氾濫原にあったとされている青柳島が流失してしまったため、村人ともどもここに遷宮されたらしい。『新編武蔵風土記稿』によれば、「この社は府中本町安養寺の持」とある。府中の安養寺といえば、私の父母が眠っている天台宗の寺だ。東京競馬場のすぐ横にあり、競馬開催日は寺自体が現世利益を求め境内は有料駐車場と化す。

府中用水の流れを追って

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青柳取水口が閉じているため水がほとんどない府中用水

 稲荷神社を後にして、帰りは多摩川沿いには戻らず、府中用水の行方を追うことにした。用水は少しずつ青柳崖線から離れ、沖積低地の田畑を潤すために南東方向に向きを変える。写真は、用水が向きを変える直前の場所を撮影したものだ。河道はあるが水はほとんどない。もちろん、これは青柳の取水口を閉じているためだ。わずかに水があるのは、ここを訪ねる前の日にやや多めの雨が降ったのでそれが残したものだろう。開門される来年の5月には流れは復活するはずだ。

 この河道は前述したように古多摩川の流路であり、多摩川が現在の位置に移った後にも、増水時にはここにも流れは来ていたと考えられる。仮に先述の上水計画が成功したとしても灌漑用水も必要なことは確かなので、やはりこの河道は使用されているはずだ。

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府中用水谷保堰

 南東向きに進んできた府中用水は中央道の手前で二手に分かれる。写真は二手に分かれたすぐ下流で、写真左の空堀が府中用水本流、右手の水を少しだけ残しているのが谷保分水だ。ここの数百m手前を写した前の写真では水がほとんどなかったのに、ここにはやや濁った水とはいえカルガモが水遊びできる程度には水があるのは少し不思議だ。理由は、谷保分水のほうが灌漑用水として利用度が高いことから谷保堰では優先的にこちら側に導水していること、谷保分水のこの辺りはやや川床が深いので残り水が多いこと、前日の雨の影響、青柳崖線の湧水が少しずつ府中用水に流れ込んでいることなどが考えられる。

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青柳崖線から湧き出た水はやがて小川を形成する

 青柳崖線下にある特別養護老人ホーム国立市泉)の裏手あたりから清水が湧き出し、崖線に沿って湧水を集め小さな流れを形成している。この小川は清水川と名付けられているようだ。名は体を表すの言葉通り、湧水を集めた水だけにとても清らかだ。甲州街道の矢川三丁目交差点を南に下った「いずみ大通り」の下をこの小川は通過するのだが、その手前付近が小さな公園になっており、そこは「ママ下湧水公園」と名付けられている。”ママ”とは”崖”を意味しており、国分寺崖線の項で挙げた”ハケ”と同じく「段丘崖」を表している。写真のように、崖のいたるところから清水が湧き出している。とくに老人ホーム裏や大通り下で顕著なのだが、いずれも昼なお暗い場所なので撮影は難しかった。

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谷保分水ではもっともよく知られた「矢川おんだし」

 上に挙げた「いずみ大通り」を抜けた清水川は約60mほど崖下を進むと90度右に曲がる。この川が曲がる理由は写真からも分かるかもしれないが、北から南に下る、やはり湧水を集めた矢川の勢いに負けて曲げられてしまうのである。

 矢川は立川市羽衣町辺りの立川崖線から湧き出た清水を集めた小川で、源流域は「矢川緑地保全地域」として環境整備がおこなわれている。散策には絶好の場所で、私は立川や昭島方面に出掛けた帰りによく立ち寄っている。この場所を知らない人は案外多く、実際「グーグルマップ」ですらこの緑地を「羽衣公園」と誤って記載している(11月14日現在)。このブログを読んでいる奇特な方は、グーグルに訂正を求めてみると面白いかも。私はその緑地を大切にしたいためにあまり多くの人には知られたくないと思っているので、この間違いをそのままにしているのだが。

 ともあれ、西からきた清水川と、北からきた矢川が青柳崖線下で出会い、そして南に並走し、今度は西からきた谷保分水と出会い、ひとつの流れになって東へ進んでいく。写真でいえば、左下に少し顔を出しやや淀んでいるのが、府中用水から分岐した谷保分水、上方左手の流れが清水川、右手が矢川である。この出会いの場をこの地の人は「矢川おんだし」と呼んでいるそうだ。”おんだし”とは「押し出し」のことらしい。この名前からは三者の出会いの場というより、矢川が清水川の行く手を阻み南に押し出している状態を表していると思えるのだが。

 ちなみに、先述した緑川は人工河川なので北から南へ流れても問題はないが、湧水を集めた矢川が北から南へ流れるのは不自然なような気もする。武蔵野台地を流れるなら、やはり西から東方向に進むのがあるべき状態だと思うのだが。一説には、矢川が流れている辺りには立川断層が走っているので、その断層に沿ってこの川は南に下っているのではないか、というものがあるようだ。

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青柳崖線の段丘崖周辺にある城山公園

 青柳段丘上は多摩川の流れを見下ろせるので城を築くにも適地だったようで、国立市谷保には「谷保城」があった。現在は「三田氏館跡」として東京都の史跡に指定されている。館跡には現在も三田家の住まいがあるために城の本郭を見学することはできないが、周囲の山は「城山(じょうやま)公園」として環境保全されている。一帯は緑が色濃く残っているので、遠目でも公園の所在地が分かるほどだ。

 写真にあるようにここには湧水が流れ込んでいる。この流れの源も青柳崖線下にある。前述の清水川は矢川に押し出されてしまったが、その東側の崖線下からは少しずつ清水が湧き出し、それがひとつの流れとなって東に進み、中央高速道からもよく視認できる「ヤクルト中央研究所」の北側ではっきりとした流れとなり、その小川に沿って「ハケ下の散策路」が整備されている。その小川は城山公園に流れ込み微低地に浅い池を作り、そして水たちは短い表層の旅を終えて砂礫層に染み入り伏流水と交わる。

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城山公園内にある古民家

 城山公園の南端には写真の古民家がある。この旧柳澤家住宅は国立市に唯一残る茅葺屋根の建物だそうで、元は甲州街道沿いの青柳地区にあったものを移築復元したとのこと。ここを訪れた日には着付けのイベントがおこなわれていた。外国人観光客(留学生かも)も数人訪れていて、これから十二単の着付けを体験する様子だった。

 この建物の横には「城山さとのいえ」があり、公園の南側に残る農地で農業体験ができるそうだ。国立というと文教都市のイメージが強いが、かつては谷保地区が町の中心であって、多摩川左岸に広がる沖積低地での実りが長年、人々の暮らしを支えていたのである。

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ヤクルト中央研究所前を流れる谷保分水

 ”矢川おんだし”で水量を増した谷保分水は、その100mほど下流で「あきすい門」に出会う。ここで一部は「あきすい堀」に流れ込んで南へと下る。一方、谷保分水は水量を減らしながらも東に進み中央高速道に近づく。ほぼ同時にヤクルト中央研究所の南側にも出る。写真は中央道と研究所がもっとも接近した場所で、その間を分水の流れが抜けていく。最新の研究所と流通の大動脈との間を抜ける灌漑用水路。もちろん、ここで一番存在を誇示しているのは谷保分水の清き流れである。この景色も私が好むもののひとつなので、この日のように空気が比較的澄んでいる日にはここ辺りまで出掛けてきてのんびりと徘徊することがある。研究所の建物は見栄え良く、中央道は旅情を誘い、城山の森は子供の頃の遊びを思い出させる。が、やはり小川の流れに私は魅せられる。もっとも、大方は魚影を探しているのだが。

 中央研究所の東側は区画整理がおこなわれていて農地はすっかり整地されてしまった。ここで谷保分水は二手に分かれるのだが、この辺りは暗渠化されてしまったためにその分岐場所を見ることはできない。

 北東方向を目指す流れ(田中堀)は住宅街の北に姿を現し、周囲にある農地や市民菜園などの灌漑用水となっている。一方の三田家堀は住宅地や中学校の南側に姿を現しつつ、中央道国立府中ICの北側で田中堀と合流する。

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あきすい堀は寺之下親水公園脇を通って府中用水に合流

 谷保分水から”あきすい門”で分岐した「あきすい堀」は南に流れて国立市泉の農地を潤す予定で造られた水路なのだろうが、「あきすい」=「悪水」、つまり湧水を源にしているために水温が低く農業用水には必ずしも適していなかったことからこの名が付けられてしまったという説がある。

 農業には不向きだったためか、日野バイパスが開通したことで利便性が飛躍的に向上したためか農地は著しく減少し、大半は自動車会社や流通系会社の営業所、倉庫、流通拠点などに変じている。写真の「寺之下親水公園」は芝生広場と北側を流れる”あきすい堀”の流れからなる公園だが、周囲には住宅地は少ないため、はたしてどれだけの人がここを利用しているのだろうか?利用目的が先にあったのではなく、企業団地だけでは無味乾燥なので緑と清流を残しましたというお題目がまず優先したのだろう。

谷保天満宮に立ち寄る

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谷保天満宮の拝殿。七五三の祝いに集まる人が目立った

 谷保天満宮(谷保天神)の存在は、私にとってとても重要である。ここが「学業の神様」であるからというわけでは絶対にない。崖線好きにとって極めて大事な場所だからである。甲州街道は現在、天神様の北側を通っているが、江戸期以前は南側を通っていた。だから写真の拝殿は崖のやや下にあるのだ。それが多摩川の大洪水で甲州街道が流されたために段丘の上の今の場所に移された。このため、天神様の大鳥居は境内の北側、つまり甲州街道に面した場所に設置されている。

 もっとも、それも私にとってはさして重要な話ではない。大事なのは、その甲州街道が立川方向に進むとき坂を下っているということだ。多摩川の大洪水を避けるために甲州街道を段丘上に移設したにもかかわらず、天神様を通り過ぎるとまた崖を下るのでは、何のための移設だったのか意味不明と思えてしまう。

 ここでまた国土地理院のWeb地図が登場する。まず谷保天神前の標高は70.4m、天神下は57.1m。なので、かつての甲州街道と今とでは13mの差がある。確かにこの差があれば、段丘上に乗せたという安心感がある。問題は下り坂の存在だ。坂下の甲州街道沿いには国立天神下郵便局があるが、ここの標高は64mである。そしてその先にある矢川駅入口交差点では69.3mまで回復しており、日野橋交差点にいたっては74.9mもある。つまり、坂を下ったといっても多摩川の沖積低地までには降りていないのだ。甲州街道を段丘上に移した英知は確かに感じられた。

 この項の前から青柳崖線の名が何度も出てきている。ここでその正体が明らかとなる。府中崖線は東に進むと狛江付近で消える。狛江から西に崖線をたどると、谷保天神前あたりで崖線は南北2つに分かれる。北側を本線と考れば南側の崖線にも名前が必要になり、これを通常、青柳崖線と呼んでいる。北側の崖線は西北西方向に進み国立市富士見台から東京女子体育大学下、さらに矢川緑地上へ。それからほぼ真西に進み、多摩都市モノレール柴崎体育館駅辺りから少しずつ南に下り、中央線に突き当たる手前あたりで青柳崖線と合流する。つまり、青柳崖線は谷保天神辺りが東限、立川市柴崎町が西限となり、この間の立川崖線(府中崖線)との間を、通常、青柳段丘と呼んでいるのだ。青柳段丘以西の立川段丘崖は立川崖線、青柳段丘以東の立川段丘崖は府中崖線と呼ぶことが多い。その中間はどちらとも呼ばれているが、「立川段丘」の名に敬意を表して、ここでは立川崖線と呼んでおこう。

 ともあれ、先に述べたように崖下では府中用水がいろいろ分岐していたが、崖上でも崖線が分岐している。その分岐点が谷保天神なので(もう少し東の西府辺りという説もある)、私にとってこの天神様は重要な存在なのだ。というより、この辺りの地形が、なのだが。

 谷保(やぼ)天満宮に触れたのなら菅原道真について、あるいは谷保(やぼ)がどうして谷保(やほ)に変わったのかについても述べたいが、そうなるとこの2点だけでも膨大な量になるので、野暮なようだがここでは触れないことにした。

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崖下にある厳島神社

 写真の厳島神社は弁財天を祭っている。日本の海上神は「市杵嶋姫命(いちきしまひめ)」と考えられ、これが弁財天と同一視されてきた。「いちきしま」が「いつくしま」となり、厳島の漢字が当てられるようになったとされている。弁財天に「いつく=使える」のは蛇で、干ばつのときに蛇が現れると近いうちに雨が降ると農夫は信じてきた。弁財天信仰は農業と結びつけられてきたのである。このため、弁財天は池や沼、清水が湧くところに祭られることが多い。谷保天満宮のこの神社は段丘崖の下に建てられ、その周りには弁天池がある。

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崖線の生んだ湧水からなる弁天池は透明度が高い

 弁天池は府中崖線から集めた湧水からできており透明度が非常に高い。「常盤の清水」の名があるように、この池の水は絶えることがないそうだ。流木の上ではカメが甲羅干しをしており、池の鯉は気持ちよさそうに泳ぎ回っていた。

再び、府中用水の流れを追って

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北多摩二号水再生センター前の道路の下に府中用水が流れている

 空堀が続く府中用水だが、寺之下親水公園のところで触れた「あきすい堀」の流れが日野バイパスの南側で用水路に入るため、ここから水を得た水路となる。しかしバイパス下に潜るあたりから暗渠化され、その流れを追うことはできない。しかし、少し不自然な形で道路が造られているので、その行方を追うことはまったく不可能というわけではない。とにかく開渠場所を探せば良いのだ。

 この項では府中四谷橋の次に水再生センターの水門に触れたが、「北多摩二号水再生センター」は中央道・国立府中ICのすぐ南西側の日野バイパスにほど近い場所にあるが、その敷地の北側を取り囲むように府中用水は流れている。しかし、暗渠化が続いてので、府中用水の資料と航空写真とを照らし合わせて初めて流れを追うことができる。

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国立府中インター下から顔を出した府中用水

 府中用水が再び地上に現われるのは写真の場所である。国立府中インター料金所のすぐ南側で、写真の上方にある道路は、料金所のゲートを過ぎて新宿方向に進むための流路である。流路の下にコサギがいた。小魚を探しているようだ。「白鳥は哀しからずや」で、青くない水にも差し込む陽光にも染まらず、魚が見つからずにおろおろするだけだった。

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府中用水と国立府中インター

 姿を現した府中用水は住宅地脇を流れ、そしてインターの料金所の東側を進みつつ東方向に向きを変えていく。護岸上にも流れの中にもカルガモがたくさん集まっていた。今回はあまり見つからなかったが、いつもは小魚の姿をよく見かける場所なのだ。

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府中用水は府中崖線に向かって進む

 府中用水はインターチェンジを離れたのち、青果市場と都立高校との間を進み、野猿街道下を過ぎてひたすら府中崖線下方向に進む。写真にあるように住宅の向こうには地球防衛軍施設(本当はNEC府中事業場)が間近に見えるので、崖線はもうすぐだ。

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府中崖線下を流れる「市川」

 府中用水は日新町一丁目北交差点で崖線下の流れと出会う。しかし合流点直前で暗渠に潜り写真の市川とは合流せずにしばらくは並走する。が、府中用水は地上には姿を見せず、市川のみが開水路のまま、しばし分倍河原方向に進む。

 この市川は府中崖線下の湧水が集まったもので、この流れを遡ると谷保天満宮下に出る。ただし湧水の多くは府中用水方向に地下で導かれているため、水量は上流に比べるとそれほど多くはない。このため、湧水を集めたとは感じられないほど透明度はあまり高くはない。小川の両岸にはツワブキの黄色い花が咲いている。すでに晩秋だ。

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市川に沿って緑道公園が整備され、その一角に「河童公園」がある

 崖線上には南武線西府駅ができた。市川緑道をまたぐように陸橋ができ、その陸橋へ上るためのエレベーターも設置されている。緑道は崖の下、駅は崖の上にあるためだ。その陸橋のすぐ東側に写真の「河童公園」がある。暖かい日には子供たちがよく水遊びをしている。

 河童の像がある。近づくと、その顔は知り合いのMさんによく似ているので、思わず「Mさん」と声をかけそうになってしまった。河童がMさんに似ているのか、Mさんが河童に似ているのか?そもそも河童は架空の生き物なので、姿形は想像するものの自由である。であるならば、この像の製作者はMさんの知り合いで、その作者はMさんが河童の化身と信じているのかもしれない。そう考えることがあり得ると思えるほど、Mさんには人間離れしたところが多分にあるのだ。

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御猟場道は府中本町駅方向へ進む

 市川は、新府中街道に出会う直前に姿を隠す。しかし暗渠化される以前はこのまま姿を現し続け、鎌倉街道との交差点(分梅駐在所交差点)まで崖線下を流れ、交差点以東は崖線から少し離れ、鎌倉街道沿いを府中本町駅方向に進み、そして駅手前から少し南側に迂回し、府中街道辺りから再び崖線下を流れ、東京競馬場の正門前を通過していった。その姿を今では詳しくは記憶していないが、暗渠化される以前、この小川は幼いころの私の遊び場だったことは確かで、特に東京競馬場付近は、私が初めて川というものに触れた場所であり、そして魚採り、さらに釣りを覚えた水の流れなのだった。

 写真の御猟場道は、市川が暗渠化された場所に沿って新府中街道の本町一丁目交差点から鎌倉街道に出会うまでを指す。上に述べたように「御猟場道」の名こそ付されてはいないものの、この道はそのまま府中本町駅まで続いている。

 御猟場道の名は、現在の府中本町駅東側に徳川家康が建てたといわれる「府中御殿」があり、家康や秀忠はたびたび訪れて鷹狩りに出掛けたという話が元になっているそうだ。府中御殿跡は駅前にありながら最近になるまで格別に有効利用はできないでいた。が、いざ大型スーパーの進出が決定されたことで試掘調査が始まり(府中市には武蔵国国府があったため、開発の際には必ず史跡調査がおこなわれる)、国府跡であったと考えられる重要な史跡が見つかったためにスーパーの進出は沙汰止みとなり、結局、武蔵国府史跡広場という、いかにも府中市らしい半端な姿で現在に至っている。

 写真の御猟場道の下には私の幼い頃の思い出がたくさん埋まっている。しかし、それを掘り起こすことはない。過去なんかより、今日、そして、あるかもしれない明日が楽しいからだ。

 本ブログではいつもの通りの終わり方。これでいいのだ。いや、これがいいのだ!