徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔番外編〕清水みなとの名物は?

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私の鮎師匠・興津川の名物釣り師の石垣さん

 静岡市清水区は、私の第3の故郷になりつつある。清水へは、少年期は家族で石垣いちご狩り、三保の松原、登呂遺跡見学(ここは駿河区だが)に何度か出掛けた。青年期は仲間とのドライブでいちご狩り、三保の松原に何度も出掛けた。壮年期は新聞、雑誌の取材、メーカーのフィールドテストでクロダイ釣りにとてもよく出掛けた。そして徘徊老年期、数年前から清水区を流れる興津川にアユの友釣りでしばしば出掛けている。この川の釣り期は長く、5月20日の解禁日から11月末頃まで6か月以上、友釣りが楽しめる。駿河湾からの天然遡上アユが非常に多いためでもある。放流アユに頼っている河川では釣り期は3か月ほどしかない。そうした川より2倍以上もの長期間、友釣りが可能なのである。

 水質はかなり良く、したがってアユの食味はとても良い。もっとも、私はアユはほとんど食さないので、もっぱら、釣り味を楽しむのだが。この川は魚影の濃さは折り紙付きだが、釣りづらさも特筆ものだ。魚が多すぎるのか、アユの「追いっ気」は薄いため、なかなかハリに掛かってくれないのだ。この難しさもこの川の魅力で、他の河川では友釣りが終了してしまう9月から11月までは、ほとんど毎週、この興津川に出掛けては、友釣りの難しさと格闘している。「困難に立ち向かうこそ勇気」と心に決め、自虐的態度をもって川に屹立しているのだ。

 が、この川の魅力は釣りの難度の高さ以上に、この川で出合う人々との交流にある。名前はよく知らない(私は人の名前を覚えることがほとんどできないからなのだが)、年齢も知らない、住んでいる場所も知らない、職業も知らない、価値観も知らない。唯一知っているのは「釣りバカ」ということだけだ。集合場所は、興津川の右岸に近い「いしがき小屋」。上の写真のモデルである石垣一至さんが経営するオトリ小屋である。このオトリ店に集まる釣り人は友釣りの世界ではよく知られた名手が多いが、誰一人として、それを誇るためにこの「小屋」に集っているわけではなく、この店主の人柄に魅せられて訪れるのである。

 石垣さんを語り尽くすことは不可能で、その不可思議さは、写真の表情がある程度、語っているように思われる。バカボンのパパがこの人物に出会ったならば、「不思議だが本当なのだ」との名台詞を漏らすことだろう。

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日程変更のため、少人数で開かれた忘年会

 この「いしがき小屋」での忘年会が12月8日に開催された。当初は7日の予定だったがその日は悪天候が予想されたため、急遽、8日に順延された。このため、約半数の参加予定者が出席不可となってしまい、昨年の会よりかなり寂しい人数となってしまった。写真は午前10時半、乾杯直前のものだが、その後、5人が遅れて参加し、一滴の酒も用意されていないにも関わらず、お開きになったのは午後4時過ぎである。

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料理の多くは石垣さんが調理した

 釣り人にお酒は必ずしも必要でなく、釣り談義で心を酔わせることができる。中心話題は、やはり昨今の河川環境。興津川は解禁当日は例年以上の釣果に沸き立ったが、翌日の大雨でしばし釣りは中断。その後も少し回復しては大雨の繰り返しで、釣果はいつもの年の半分以下。そもそも、増水で竿が出せない日が多かった。この影響は産卵期にも及び、11月中旬の最盛期でさえ、産卵行動をとるアユの数は激減していた。アユは一年魚なので、今秋の産卵減少は来春の稚魚の遡上数に悪影響を与えるのである。いつもは「バカ話」で盛り上がるのだが、今年ばかりは「地球温暖化」がアユ釣りに与えるリスクを話題にせざるを得ない状況だった。

 忘年会は、来年の5月20日の再会を約してお開きになったものの、「いしがき小屋」には釣り期が終わっても釣り人はほぼ毎日集まることになり、真冬は小屋内の暖房設備がある場所で「よもやま話」に花を咲かせるのだ。かく言う私も、冬場は伊豆半島や焼津、御前崎付近にも海釣りで出掛けるので、獲物があったときはそれを持参して小屋にはせ参じるのである。

 これが、ここ数年の、私の第3の故郷での生活である。

清水にある未訪問の場所にも出かけてみた

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日本平から清水港を望む

 忘年会の当日は、清水の定宿である「駿河健康ランド」(興津川河口の右岸側にある)に泊まり、翌日は西伊豆の堤防でウキ釣りを楽しむことにした。しかし、天気予報が「快晴」を告げていたので急遽、清水見学に変更した。清水には観光、釣りを合わせれば恐らく200回近くは訪れているはずだ。しかし大半は釣りであり、観光となるとその一割ほどである。しかも、調べただけでも、「日本平」「東照宮」「次郎長の墓」は未訪であり、それ以外の「観光地」にも訪ねていない場所があり、8日の晩はネットで清水の観光スポットを探し、9日は久しぶりの清水観光を行ってみた。

 今回は「番外編」なので、写真を中心に紹介していく。

日本平東照宮界隈

 9日の朝、空にはしっかり雲が覆っていた。天気予報を信じた自分が馬鹿だった。それでも出発を遅らせた以上、もはや釣りに変更する気力は失せていたので、富士山の見えない日本平三保の松原もまた趣があるかもしれないと考え、宿を出立して日本平に向かった。

 富士山はすそ野が見えるばかりで大半は雲に覆われていた。しかも、湿度がかなり高いようなので、視界もかなり悪るかった。そこで、景色見学は後回しにして、まずは「日本平ロープウェイ」を使って東照宮に向かうことにした。

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楼門

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東照大権現

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仁王ではなく武将

 まずは楼門があった。後水尾天皇が勅許した「東照大権現」の勅諡号(ちょくしごう)が掲げられていた。家康は単なる武将ではなく、薬師如来が仮の姿(権)として地上に現われた神となったのである。その神を守護するために、寺院であれば仁王が居る場所には武将の像がある。

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本殿の屋根

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拝殿

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気になった意匠

 50年に一度塗り替えられる東照宮の建物はとても煌びやかだった。もちろん、私は「拝む」という態度を表したことがないので、ここでもただその意匠を見るだけだった。

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家康廟所

 本殿の上には廟所宝塔があり、信心深い人が私の代わりに拝んでくれていた。右手にたむろす人は「金のなる木」が気になっているようだった。来世より現世利益である。もっとも、この現世利益を求める気持ち(釣果を含めて)も私にはない。すべては結果ではなく失敗を多分に含んだその過程が楽しい。それは限りなく苦痛でもあるのだが。

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久能山下のいちご街道

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天使の梯子が降りてきた

 久能山といえば東照宮かもしれないが、私にはその崖下にあるいちごハウスがとても気になる。そこの石垣いちご狩りが、私が初めて清水を訪ねた目的だった。もっとも、私の、ではなく私の家族の、であったが。

 海に目をやると、陽光を受けた輝きが広がり始めていた。雲間からは無数の天使の梯子が降り注いていた。海のヤコブはこれら天使とどう戦うのだろうか。

 少しずつ、晴れ間が顔を出してきている。日本平からの眺望に期待がもてた。

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デジタルタワーと夢テラス

 晴れ渡ってきた。デジタルタワーの隣には「日本平夢テラス」が2018年11月に完成し、360度の眺望を楽しむことができるようになった。

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静岡市中心部を望む

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富士と沼津市民が誇る愛鷹山と清水みなと

 人々の歓声が聞こえた。富士山に掛かっていた雲が切れ始め、その頂上が姿を見せてくれたのである。人々はテラスに並び、カメラやスマホを富士に向けてシャッターを切っていた。当たり前すぎる景色だが、やはり美しい。空気がさほど澄んでいないのでハッキリクッキリとはいかないが、それでも富士は富士である。

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夢テラスができる前のビューポイント

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赤い靴母子像

 野口雨情の『赤い靴』のモデルになった母子は清水の出身とのことなので、清水の住民が中心となって募金運動が展開され、1986年に写真の母子像が完成した。この女の子、実は異人さんに連れられてアメリカに行っちゃったのではなかったらしい。養子先のアメリカ人宣教師が帰国する直前に女の子は結核に罹り、完治することなく9歳で亡くなったとのこと。すると、横浜の波止場から船には乗らず、山下公園で養父の面影を追っていたのだろうか?氷川丸の間近で海を見るめる赤い靴を履いた女の子、君の名は?きみちゃんだった。

 本当だろうか?

三保の松原など

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羽衣の松三代目

 三保半島は安倍川が河口に運んだ土砂が海流や荒波によって運ばれて造られた砂嘴(さし)である。海岸には砂が堆積し、それから内陸部を守るために造られた防砂林が三保の松原だ。万葉集にも出てくるほど古くから知られた松林だが、ここが観光地となったのは「羽衣伝説」が広まったためだろう。ここを訪れる観光客は、天女が羽衣をかけた松はどれなのだろうかと気に病むので、地元では三代目、羽衣の松を写真のように保護している。伝説なので、それを探し求める必要ではないと思うのだが。人は観念よりも実体を求めるものらしい。

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松原には富士がよく似合う

 個人的には府中市から見る富士がもっとも美しいと思うのだが、一般には三保の松原から見る富士の人気が高い。

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御穂神社に続く「神の道」

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御穂神社のおみくじの評価を論じる若者たち

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天女が飛び立ちそうな御穂神社の屋根

 三保の松原からは500mほど御穂(みほ)神社に向かって松林の道が伸びており、これは「神の道」と呼ばれている。参道と考えるとごく普通だが、「神の道」と名付けられると厳かな感じを抱くことができる。

 御穂神社には天女が残した羽衣の切れ端が保存されているそうだ。このため、私は神社の屋根がひどく気になった。もしかしたら、天女が飛び立つ瞬間を目撃できると思ったからだ。残念ながらそれを目にすることはできなかったが、写真には、その姿があるかもしれない。

清水の次郎長

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梅蔭禅寺にある次郎長像

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次郎長の生家

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次郎長の墓

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石松の墓

 時代劇の代表的人物といえば「清水の次郎長」であり、配下の大政、小政、そして森の石松だ。あまりにも有名すぎるので実在の人物とは思えないが、実際の次郎長(山本長五郎、1820~93)は清水の発展に大きく寄与したことが多くの記録に残っている。しかし、私にとっては清水の開発に尽力した後半生よりも侠客・博徒であった清水一家の大親分であったころの次郎長が好みだ。

 侠客は職業というより「態度」なので、次郎長の職業は「博徒」だろう。しかし、清水発展のための公共的な仕事にも数多く従事していたため、清水一家を束ねる「団体役員」と表しても間違いはないはずだ。

 私が次郎長の生家を訪れた9日には、観光客は皆無だった。また、次郎長の像や墓がある梅蔭禅寺にも私以外はいなかった。

 「精神満腹」とは山岡鉄舟が次郎長に「悟りとは何か」と聞かれたときに答えた言葉で、のちに次郎長はこれを「座右の銘」にしていたようだ。梅蔭禅寺の碑にも、資料館の中にも、「精神満腹」の言葉が掲げられている。精神満腹=悟りの境地=解脱だろうが、解脱=永遠の死を意味するので、座右の銘にはならないような気がする。一切皆苦こそ真実だろうと、一切皆楽をモットーとする私はそう思う。

いちご海岸通りを行く 

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いちご海岸通りから見たハウスと久能山

 梅蔭禅寺から登呂遺跡に向かった。ナビは久能街道を使用することを勧めるので、南下して海岸線に出た。久能山下の海岸通りは、石垣いちご狩りが有名で、1月上旬から6月中旬まで、通りに並ぶいちご園で楽しむ(味わう)ことができる。久能山が所属する有度山(うどさん)は海底の堆積層が300m以上隆起してできた山だが、基本的には安倍川が山から運んだ砂礫層が中心のためにとても崩れやすい。このため、海流や荒波の影響を受けて海岸線は大きく侵食され、しかも崖崩れをよく起こしているので、現在、海岸線に近い部分はなだらかな斜面になっている。その斜面を利用し、石垣を組んでイチゴの栽培をしているのが久能山いちごで、観光地が近くにあることもあってか、いちご狩りも非常に盛んになった。私が初めて清水を訪れたのも、このいちごが目当てだったと記憶している。小学生の頃だ。

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シーズンに向けて、イチゴの栽培に余念がない

 久能街道は「いちご海岸通り」の名のほうが相応しいと思えるほどビニールハウスが無数並んでいる。私は車を止めて、そのハウス群の間を散策した。写真のように、ハウス内には石垣が組まれ、その上に栽培されている。いちごは水耕栽培も可能なので、水はけの良いここの土壌はこのフルーツには最適な土地なのかもしれない。しかも南側は海に面し、陽光に満ち、黒潮の流れによって冬でも暖かい空気が流れ込んでくる。

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東照宮の門前。久能山頂までは1100段以上ある

 有度山の一番南側の山を久能山と呼び、その頂きに東照宮がある。私は日本平からロープウェイを使って東照宮まで行ったが、写真の場所から1100段以上を登っても行くことができる。記憶の中には東照宮は訪問済みだったと思ったがロープウェイを使ったことはなかったはずだ。日本平に行ってはいないのだから。

 それが、この景色に触れたとき、記憶が蘇ってきた。いちご狩りを終えたのち、東照宮に行こうと家族皆でこの階段を上がり、森の中に少し入ったところで断念したのだ。わずか100段ほどで終了。家族そろって根性がなかった。

登呂遺跡

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復元された竪穴式住居群

 登呂遺跡は静岡県駿河区にある。もはや清水ではないが、清水を訪れた際に何度かここに寄ったことがあるので、今回、40年振りくらいに出掛けてみた。周囲は完全に新興住宅地になっているので、古の面影はなかったが、それでも住居群はしっかり管理され、弥生時代をイメージさせることは可能だ。なお、弥生時代は前5世紀から後3世紀頃と記憶していたが、近年では前10世紀頃に始まったとされるらしい。

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住居と高床式倉庫、それに火をおこす人

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こちらも復元された住居と倉庫

 「とろ」と聞いて、「登呂遺跡」を思い浮かべる人は歴史好き。「トロ」を思い浮かべる人は寿司好きか常識人。「トロツキー」を思い浮かべる人は革命家か単に変な人。「とろい奴」を思い浮かべる人は、神経質な人かS君の同級生。

清見

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清見寺山門

 清水に戻った。興津には由緒のある建造物がある。その代表が清見寺(せいけんじ)であり、西園寺公望が晩年を過ごした「坐魚荘」である。今回は前者の清見寺だけに立ち寄った。境内にある五百羅漢像が見たかったからだ。

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山門と本堂との間を走る東海道本線

 東海道が寺のすぐ前を通っているということで、東海道本線が街道に沿って敷かれる際、線路は境内を貫くことになった。山門と本堂との谷間を電車が通過する。線路は丘を切り通して敷かれているので、参拝者は山門をくぐると、線路を跨ぐように架かっている橋を渡って境内に立ち入ることになる。

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咸臨丸碑

 咸臨丸は日米修好通商条約批准書交換のために、勝海舟を艦長として米国に渡った船として名高いが、戊辰戦争では幕府軍の船として新政府軍と戦い、清水港内で敗北し多くの戦死者を出した。戦死した乗組員の遺体は逆賊として海や浜に放置され腐臭を放っていたが、その遺体を収容して清水の地に埋葬したのが次郎長だった。その後、次郎長と榎本武揚(元海軍副総裁)は清見寺内に「咸臨丸殉難碑」を建てた。碑文には「食人之食者死人之事」とある。「人の食を食する者は、人の事に死す」と読み下す。戦死者を放置した新政府軍のやり方を批判する意味合いがあるようだ。

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五百羅漢その一

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五百羅漢その二

 五百羅漢は、川越の喜多院や小田原の玉宝寺など各地にあり、都内にはそのものずばりの五百羅漢寺がある。清見寺の五百羅漢像は境内の斜面に置かれている。

 羅漢(阿羅漢、阿羅漢果)は初期仏教や上座部仏教では修行者の最高位を表していた。大乗仏教でも当初は菩薩の位であったが中国や日本に伝わるにしたがって大衆化され、単に修行僧を指すようになった。そのためか、五百羅漢像はそれぞれ異なった表情やしぐさを有しており、すべてが苦(一切皆苦)であることを示している。

 写真にあるのはほんの一部の像に過ぎないが、あなたの有している苦は、どの像に表現されているか探していただきたい。どれも当てはまらないだろうし、すべてが妥当するとも思われるだろう。それに相違ない。

**追加**

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富士宮市人穴付近から見えた赤富士

 12月20日にも清水に出掛け、帰りの道から赤い富士山が見えたので、思わず記念撮影をしてしまった。午後4時40分頃、静岡県富士宮市人穴にて。