府中には不忠者もいるが、ごく普通の町なのだ
私は府中市生まれの府中市育ちで、人生の大半を府中市で過ごした。とはいえ、実際にはしばしば全国各地を放浪していた(いる)ので、住民票が府中市にあった(ある)というだけかもしれない。また、府中市内といっても同じ場所に住み続けたわけではなく、調べてみると7か所を転々としていた。府中市が好みというより、たまたま府中市で生まれ育ち、それで特別な不都合が生じていないので、勝手知ったる土地のほうがいろいろと利便性が高いので、というぐらいの理由だろうか。
日本全国47都道府県すべてを徘徊しているので、あちこちで「どこから来たのか」という質問を受ける。「東京」と答えると質問者は少しだけ羨望の眼差しに変わる。しかし、「東京の府中市」と言うと、「あぁ」という声が漏れる。それには「東京」で都会を、「府中市」で田舎をイメージするからのようだ。熱せられて冷めるという感覚が、ため息の発生理由らしい。これには当初、やはり東京者は「区民」でなければならず、「市民や町民」であってはないからなのだろうと想像したのだが、どうやらそれは違っていて、「市」ではなく「府中」のほうにより強く反応しているのだということが後に分かった。「府中」という地名は全国津々浦々に存在しているので、普遍性が強く「特別感」を抱くことがない、というのがその理由らしい。このことは実際に何度か相手に確認したことがある。「府中なら、オラの田舎にもあるだよ」と。ちなみに「東京都」は全国にひとつだが、「東京亭(とんきんてい)」という名の中華料理店なら日本各地にある。
私が放浪中に出くわした「府中」は多数ある。例えば四国に行ったとき、香川県(讃岐国)の坂出市(瀬戸大橋を倉敷市から渡った先)には府中町があり、府中湖があり、高松自動車道には府中湖PAがあって、そこでよく休息をとった。JR予讃線には讃岐府中駅がある。徳島県(阿波国)徳島市を走るJR徳島線には府中駅があって、その所在地は徳島市国府町府中だ。ただし、この「府中」は難読駅名としてマニアにはよく知られている。もちろん「ふちゅう」とは読まず、「こう」と読むのだ。これは、「国府」は「こくふ」とも「こう」とも読むところからきている。一説には、「府中(ふちゅう)」は「不忠(ふちゅう)」と音が同じなため不敬に当たるというので、「こう=孝」と読むようになったというのがある。しかし、地理や歴史を少し学んだ人であれは、「国府津」は「こうづ」と読むし、国(国府)は郡(こう)が元になったと考えられているので、府中を「こう」と読んでも何の問題はない。
日本三景の一つ、「天橋立」を観光した人ならご存じだろう。そこは京都府の宮津市(丹後国)にあるが、天橋立を一望できる名所として「天橋立傘松公園」がある。それは高台にあるので多くの観光客はケーブルカー・リフトを使って麓から公園に出向く。その出発駅を「府中駅」という。字名として「府中」は残っていないようだが、駅の近くには「府中公園」「府中小学校」「府中こども園」「府中駐在所」などがある。若狭湾には福井県小浜市(若狭国)がある。ここには古い町並みが残っているので何度も出掛けたことがあるが、若狭舞鶴自動車道・小浜ICは小浜市府中にある。
ことほど左様に、「府中」はいろんな場所にある。千葉県南房総市(安房国)にも、岐阜県垂井町(美濃国)にも、和歌山市(紀伊国)にも、鹿児島県霧島市にも、石川県七尾市(能登国)にも、大阪府和泉市(和泉国)にもあり、広島県には府中市(東京の府中のライバル)も府中町もある。つまり、府中は日本各地にあるごくありふれた普通の町なのだ。もちろんこの理由は、ご存じのように旧律令国(令制国)の国府があった場所を、後に府中と呼ぶようになったからである。
府中を知ってもらうためのキーワード
前述したように、「府中から来た」と返答しても、東京以外の人々には「東京にも府中があるの?」と、さらなる疑問を抱かせてしまう。この疑念を解くためには、「東京の府中」ならではの紹介の仕方があるはずだと考えてみた。重要なのは「周知された事柄」と結びつけることだ。それにはカギとなる言葉が必要だ。「東京の府中といえば〇〇である」の〇〇を探すことである。
府中市ともっともよく結びつく出来事として知られているのが「三億円強奪事件」であろう。1968年12月10日に発生したので、あれからすでに50年以上を経ている。当時、三億円といえば巨額に思えたが、今でも同様なのは三億円強奪が並外れた事件であったというだけでなく、50年もたったのにそれが今でさえ大金と思えるほど、日本経済がそれほど発展していないということのほうに驚かされる。
私は府中警察署の近くに住んでいたので、事件発生後は、ほぼ毎日のように警察署周辺の喧騒に触れるためにうろついていた、やじ馬根性丸出しで。友人からは「お前が犯人ではないのか」と言われたが、モンタージュ写真が出回るに及んで、その声は静まった。犯人はかなり色男らしかったからだ。私が犯人でないことは自分がよく知っていた。その日は学校に行っていたからだ。火曜日は授業が7時間もあったので、多分、2、3時間は授業に出ていたはずだ。仮に出ていなくとも悪友と学校付近にいたことは事実だ。帰りの電車の中で、事件の発生を知ったという記憶がある。私には現場不在証明があった。その証言は「悪意の友人」からだけでなく「善意の同級生や教員」からも得られるはずだ。しかし、共犯の可能性は排除されないのだが。
何度か刑事が自宅に聞き込みに来たということは兄から聞いた。近所の人は犯人に疑われ、マスコミにも明らかに当人と特定できるように取り上げられた。そのため、彼れはノイローゼになってしまったらしい。今ならSNSで晒されるが、当時はマスコミがこぞってプライバシーを蹂躙した。
事件現場は府中市栄町三丁目で、府中刑務所北側の「学園通り」上で発生した。白バイに偽装したオートバイは栄町一・二丁目の間の路地から学園通りに出てきたのだが、その路地は私にとって単なる想い出以上の価値がある通りだった、犯罪とは無縁なことで。
府中を知らない人にも「三億円事件があった府中ですよ」といえばよく通じたし、こちらから東京の府中市から来たと言えば、相手側から「三億円事件があった場所でしょ」との言葉が返ってきた。今では事件そのものは風化してしまっただろうが、老人界隈では「懐かしい出来事」として最近でも語られることが時折はある。その語り口は一応にうらやまし気、である。本当に羨ましい。
日本ダービー(東京優駿)がおこなわれる東京競馬場は府中市にある。目黒にあった競馬場が手狭になったため、広大な空き地(多摩川の氾濫原)がある府中(当時は府中町)に1933年、移転してきた。府中競馬場とも呼ばれることがあるので、競馬好きの人ならすぐに府中市と結びつく。田舎に住む釣り好き(とくに磯釣り好き)は概ねギャンブル好きなので、土日の釣行時にはラジオ持参で釣り場に来る輩が結構いた。
田舎の釣り仲間に「家から競馬場までは徒歩10分の距離にある」と告げると、いかにも羨まし気な表情をする。「中学生のころから馬券を買っていた」と言えば彼らは尊敬の眼差しに。さらに、「小学生のころはレースコース(当時、そんな言葉は知らなかったのでたぶん馬場と思っていたような)を走ったこともある」と語れば呆れ顔になり、「競馬場のスタンドではかくれんぼ、場内の池ではザリガニ釣り、正門前の水路では魚取りをした」とまで述べると、彼らは平常心に戻った。ともあれ、子供・少年時代は、競馬場が恰好の遊び場だった。あの頃は今とは異なり、いつでも自由に競馬場内に入れたのだった。
三億円事件の現場は府中刑務所の北隣だが、たとえその事件が起こらなくとも、この刑務所は府中を代表する「公共施設」であると主張されるだろう。上述の競馬場には「府中」の名は冠されていないが、刑務所のほうは立派に「府中」と名乗っているのだから。この刑務所は都内から田舎の府中に1935年に移転してきた。
しかも今はどうだか知らないが、かつては「初犯では府中のムショには入れない」と言われていたほど、刑務所としては「名門」だったのである、累犯者限定刑務所として。写真の表札は国分寺街道沿いにあり、その向かいには東京農工大学の農学部キャンパスがある。大学には勉強すれば入れるし、キャンパス内にはたとえ勉強嫌いであっても誰でも自由に入ることができる。しかし、府中刑務所内には誰もが自由に入れる、とはいかないのだ。入るのが難しい。これが名門の名門たる所以である。
中学校(母校の府中一中は刑務所の近くにある)の卒業式間近、悪ガキ仲間と「将来、府中刑務所で再会しよう」と誓った。仲間すべてとそこで会えるとは思わなかったし、中には網走や仙台送りになる可能性を有した奴もいた。しかし確実に言えたことは、ムショ内で再び出会っても何の不思議もない馬鹿者ばかりが遊び仲間だった。残念ながら、まだ私はその約束を果たせずにいる。私の記憶が確かならば、府中刑務所には初犯では入れないだろうし、それに何より、私は初犯者ですらないのだから。
以上、「三億円事件」「東京競馬場」「府中刑務所」の3点が東京都府中市をイメージする際のキーワードになると考えうる。人生の多くのときを府中の地で過ごした者としての率直な意見である。あえて、あと2つ挙げるとすれば、「多摩川競艇場」か「関東医療少年院」だろうか。しかし、後者は最近、昭島市に移転してしまった。残念なことである。
上記のような府中市のイメージを写真撮影の前に、やはり私と同様に府中に長く住む小中学校時代からの知人に話したところ、「武蔵国府のまち府中市」の存在も有名なのではないかと諭されたのだった。そういうわけがあって、冒頭には「武蔵国府跡」の写真を掲げた次第である。
国府・国衙・国庁・府中などなど
中世史の研究書によれば「府中」の初見は1190年の丹後国の記録とのこと。文書等に「府中」の名が頻出するのは14世紀前半の「建武の新政(建武中興)」以降のことで、国府に代わって多用されるようになったようだ。武蔵国府の場合、府中と呼ばれるようになったのは1319年からである。しかも当初、府中は国府全体を意味せず、国府にある建物や国府の中の役所の一角を示していたにすぎなかった。それが後醍醐天皇の新政が始まると官人層の士気が高まり、国司や守護を積極的に補佐することで政治化し、役所の力が強まったことで府中は役所名から都市名へと変化した。つまり、府中の名は、単に国府というより中世政治都市という意味合いを有していたようだ。律令国家体制の維持は7世紀後半から10世紀頃までが盛んだったので、それ以降は「国府」という概念自体があまり重要視されなくなったこともあるのだろう。
9世紀後半からは世界規模での温暖化現象があって海進化が進んだため、海に近いあるいは川に近い低地にあった国府は移転を余儀なくされた。武蔵国府は同じ場所にあり続けたが、お隣の相模国府は3遷説まである。まるで孟子の母親みたいだが。しかも、初期国府は海老名市辺りか小田原市辺りかは判明せず、最盛期は平塚市付近、後半期は大磯町と、4か所が候補に挙がっている。
さらに、遷府以前に国府の位置が特定できていない場合も多い。国府があった場所を探すためには『日本紀略』『三代実録』『和名抄』『拾芥抄』などの資料を参考にするか、発掘調査、「国府」「府中」などの地名、さらには国分寺や総社の位置からの推定などに頼っていることもあるようだ。五畿七道(66国のみ、2島は除く)を調べてみても、国府所在地が一か所に定まっているのは「和泉国」「駿河国」「伊豆国」「武蔵国」「安房国」「下総国」「飛騨国」「越前国」など19国に留まっている。これに対し、後述する国府と対で存在する「国分寺」のほうが、はるかに多く実物も資料も残っているので、場所が特定されている割合は相当に高い。
武蔵国府が現在の府中市にあったことはほぼ確かなこととされている。上の写真は、大國魂神社の東隣にある「武蔵国衙跡地区」のものであり、本項の冒頭の写真は「国司館地区」のものである。どちらも最近に整備され公開されているもので、府中のイメージアップ作戦の一環だろう。ただし、国庁の位置はまだ定まっていない。
ここで新たに「国司館(こくしのたち)」「国衙(こくが)」「国庁」という言葉が出てきたので整理してみよう。文化庁では以下の通りに定めている。
「国府の施設は、国内行政の中枢施設である国庁、行政事務を分掌する曹司、国司が宿泊する国司館、庸丁らの居所である民家から構成されている。このうち、国庁と曹司群とを合わせて国衙という」
そもそも、ここまで出てきた「国」という概念は7世紀半ば以降のものを指す。いうまでもなく、その発端は645年の「乙巳(いっし、おっし)の変」で、それ以降におこなわれた、いわゆる大化の改新で展開された律令国家体制における「国」のことである。この国概念は明治維新まで続き、今でも江戸時代の「藩」と並んで地名を表す重要な指標となっている。ただし、藩といっても大名領を示す通称でしかなく、しかも変遷が大きい。さらに幕府の天領はこれには含まないので日本全土を表す用語としては必ずしも適当ではない。このため、現在でも7世紀に定まった「国」のほうが「藩」よりもはるかに利便性は高い。会津藩と長州藩との対立を理解する場合は別にして。
全国という言葉がある。これは世界の国々すべてを意味しない場合がほとんどで、通常は日本全体を表す。ここでいう国は、律令制で定められた国=令制国と考えると良い。全体があれば必ず部分がある。ここでの部分が令制国、すなわち武蔵国や相模国など66国・2島(壱岐、対馬)であってそれら全体を表現するときに使う言葉が全国であると考えると分かりやすい。
律令国家以前にも国はあった。基本的には国や県(あがた)があり地方の有力者が国造(こくぞう、くにのみやっこ)や県主についていた。こうした地方分権的なシステムから中央集権的な律令体制に変わる切っ掛けが乙巳の変であり、それに伴う大化の改新だった。記録によれば、旧国を支配していた国造は全国に135あったとされている。この135の国を解体して、新たに国・郡・里(のちに郷)という形に組み替えた。
たとえば武蔵国には、无邪志(むざし、無耶志、無射志など)国造と知々夫国造があった。无邪志国造は現在の埼玉県行田市付近にあったようだ。以前に本ブログで埼玉(さきたま)古墳群を紹介したことがあるが、その辺りが旧无邪志国の中心であり、そこに残っている大きな古墳はその国の有力者の墓と考えられている。こうした旧国が解体され、まず評(こうり)に編成替えがおこなわれた。これをおこなったのは中央から派遣された統領、太宰であり、彼らが地域事情に照らして数評をまとめ令制国を造り、評(こうり)が郡(こうり)となった。評(郡)の編成が先であったのか、評の編成替えと国の編成とがほぼ同時に行われたのかは諸説あり、私が参考にした書物でも相反する見解が多く、今でも一致は見られていないようだ。考えうるに、この作業の進展には地域差がかなりあったのだろう。評の長官(評督)と次官(評助)には旧国造などの有力者が任命されており、評の拠点である評家(のちの郡家)と呼ばれた官衙の力量によって郡が先であったり、国と郡の成立がほぼ同時であったりしたのだろう。ただし、国の中核をなす国司は中央から派遣されており、しかも7世紀半ばの国司は仮のものであったらしく、数評(数郡)をまとめた国も670年代では確定されたものではなく、正式な国境画定は683~85年の天武天皇期だったとされている。
この流れをまとめてみよう。評が設置されたのち、670年頃に仮の国司が有力な評に派遣され、まずは国司館(こくしのたち)が造られた。その近くに行政作業をおこなう曹司(局、つぼね=官司の庁舎)が整備され、国の体制造りがおこなわれた。680年代に国境が画定されると曹司が国庁(中枢施設)・曹司(行政施設)に整えられ、その一帯が国衙と呼ばれるようになり、その国衙がある場所を国府と呼ぶようになったようだ。
武蔵国府としての府中
上で述べたように天武天皇期に国境が画定され、武蔵国は東山道の一国として出発した。王朝があったとされるヤマトを中心にする畿内には五国(山城・大和・河内・和泉・摂津)、それに他の地域を七つの道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に分けた。これは明治維新まで続き、維新以後、蝦夷の地が加えられ、そこは北海道と呼ばれるようになった(五畿八道)。ただしこの七道は行政区ではなく、中央の巡察使が国司を監察するため、便宜的に分けられた区分に過ぎない。武蔵国は当初、東山道に入れられていたが、771年には東海道に組み入れられている。各道には巡察使が移動しやすいように直線的で幅広(9~12m)な官道が整備された。府中市でも、国分寺・国分尼寺の間から京王線・分倍河原駅の西側辺りまで東山道武蔵路が直線的に通っていたことが判明している。
ところで武蔵国だが、先に挙げたように「无邪志」と「知々夫」とが合わさって「无邪志(むざし)国」が成立した。したがって初期のころは「むさし」ではなく「むざし」と発音されていたらしい。これが8世紀の初頭に国印を鋳造するためにすべての国を2字で表すことに決められたことから「武蔵」の字があてられるようになった。
武蔵国には21郡(多麻・秩父・久良・橘樹・都築・荏原・豊島・入間・足立・埼玉・新羅(後に新座)・高麗など)が属し当時としては大国に数えられていた。无邪志の中心はギョーザが美味しい店がなかなか見つからなかった「行田」だったにも関わらず、「おおさわや」というギョーザが美味しい店があった「府中」になぜ国府が造られたのだろうか?それには、行田に「埼玉(さきたま)古墳群」が残っているように、府中には「熊野神社古墳」があることから類推できる。
熊野神社古墳は府中市西府町2丁目にあり、国道20号線・西府2丁目交差点のすぐ横にある。神社自体はそれほど大きくはないが、社の裏手には小山があり、それが古墳かもしれないという噂は古くからあったらしい。そういえば次回に触れる予定でいる浅間山だって府中の庶民界隈では前方後円墳らしいと勝手に噂していたが。
その小山が調査されたのは20世紀末からで、2003年から本格的に調査・発掘が進められたことで、古墳の中でも珍しい形をした「上円下方墳」であることが判明した。この形のものは奈良と京都にまたがる地にある「石のカラト古墳」が一例目で、ここの熊野神社古墳は三例目だった。しかも他の2つより規模が大きく、上円の直径は16m、下方の辺は32mあり、面積でいえば「石のカラト古墳」の4倍の大きさがあった。府中市では「日本最大の上円下方墳」と自慢していたが2013年、六例目である川越市の山王塚古墳(直径47m、辺63m)が発見されたことで、 一番の座を降りることになった。「2位じゃダメなんでしょうか?」
古墳時代は3世紀半ばに始まり、当初は「前方後円墳」が中心だった。最古の前方後円墳は奈良県桜井市にある「箸墓(はしはか)古墳」で、卑弥呼の墓と噂されており、私は桜井方面を訪ねたときは必ずこの墓に会いに行っている。7世紀に入り、古墳時代も終末期をむかえると、六角形や八角形といった多角形のものが大半となる。なかでも天智天皇陵(山科陵、御廟野古墳)は上が八角形、下が方形で一見すると上円下方墳を思わせる。このため、この上円下方墳は天皇陵の原型と考えられおり、以前に紹介した多摩陵(大正天皇)や武蔵野陵(昭和天皇)はこの形に造られている(cf.18・浅川旅情後編)。
こうしてみると、この熊野神社古墳もよほど位の高い人が埋葬されていると考えられるが、残念ながら今のところ人物は特定されていない。しかし、多麻郡の有力者であったことは確かだろう。さすれば、この多麻郡は埼玉郡に劣らず大きな勢力を有していたのだろうから、国府がこの府中にあったとしても何の問題もないようだ。
石室内を見ることはできないが、墳墓の前には写真のような図が掲げられている。私にはまったく不明だが、研究者によれば、この石室の形は武蔵国の他の古墳でもよく見られるもので、終末期古墳特有のものではないらしい。外観は新型だが内側は古典的なところから、埋葬されていた人物は多摩土着の田舎の有力者と推定されているようだ。
国庁はどこだ?
武蔵国府は現在の府中市にあることはほぼ判明している。他の多くの国のように何か所に遷府したこともなく、資料不足で特定できないということもない。1700か所を超える発掘調査の結果、国衙の位置や国司館の位置もほぼ特定されている。国衙の中心は大國魂神社の東側にあり、本項でも先に国衙跡の写真を掲載している。年末年始以外はほぼ無休(9~17時)で国衙跡の見学ができる。また、初期国司館があったとされる場所も、JR府中本町駅の東側の御殿地地区といわれるところにあったことが発掘調査によって判明している。この場所もまた2018年11月に史跡広場として一般公開されている。さらにここでは、「武蔵国府スコープ」をゴーグルのように装着して、当時の建物の様子をVR(ヴァーチャル・リアリティ)で再現した映像を見ることができる(無料)。ここもまた年末年始以外はほぼ無休(9~17時、ただしスコープの貸し出しは一部制限有り)で見学することができる。
国司館があった場所は立川段丘のキワに位置しているために眺めはたいそう良かったらしい。過去形なのは現在、南側は大規模マンションの建物で、南西側は府中本町駅から競馬場につながる遊歩道設備のために視界が塞がれているからである。中央から派遣された国司たちはここから多摩の横山や丹沢山塊、その先にある富士山、西にある大菩薩連嶺や大岳山などの山々を望んでいたに違いない。さらに徳川家康はこの地に「府中御殿」を築き、しばしば鷹狩りや鮎漁を楽しんだとされている。しかし1646年の大火で焼失し、それ以降は農地として利用されていたようだ。
このように、国衙や国司館はその場所は特定できているにもかかわらず、国府の中枢機関である国庁の位置はいまだに不明のようだ。
国衙跡が判明し、その中心部に大きな建物があったことが発掘調査でほぼ判明しているので、国庁の位置は、写真で紹介済みの「武蔵国衙跡」で決着が着きそうなものだが、まだ特定はされていないようだ。
1820年頃から武蔵国庁の場所探しは始まったようで、今まで5か所が候補に挙がった。「京所」のほか「御殿地」「坪宮(つぼのみや)」「高安寺」「高倉」である。「御殿地」は直前で述べたように国司館があったことは判明している。府中本町にある「坪宮」は大國魂神社の境外摂社で、ある資料によれば无邪志国の初代国造があったとされる場所だ。「高安寺」は足利尊氏が再興した寺として知られ、武蔵国安国寺として位置づけられた。ここが国庁と考えられたのは国分寺との関係で、国分寺の金堂・講堂の中軸線を南に伸ばすと高安寺に至ると考えられたためらしい。これは判明済みの出雲国庁と出雲国分寺との関係の類比から考察されたものらしい。「高倉」は京王線・分倍河原駅の西側にあり「高倉塚古墳群」として知られている場所である。ここでは国府関係の遺跡があったとされる言い伝えがあり、古墳群の中には无邪志国の国造のものがあるだろうと思われてきたかららしい。
国衙の場所の特定により、国庁があったとされる場所は、現在ではほぼ「京所」で間違いないとされている。ただし決定打が未発見なのである。これには9世紀に発生した2度の大きな地震が関係しているとも言われている。武蔵国では9世紀の初めの弘仁年間にマグニチュード(M)7.7の、9世紀末の元慶年間にはM7.4の大地震が起きており、それらによって国庁の施設は壊滅し、移転を余儀なくされたことにより詳細な場所特定が不可能になってしまったと考えられている。
武蔵国庁には少なくとも9人の国司がいた(その他、員外国司というものもいた)。守(かみ)、介(すけ)は各1人、掾(じょう)、目(さかん)は各2人。この順番で位が下がる。これを四等官といい、さらに書記官である史生(しじょう)が3人いた。広義の国司はこれら9人を、狭義には守のみを指す。武蔵守の初代は特定できていないが、初見は「引田朝臣祖父(ひけたのあそんおおじ)」で『続日本紀』にある。
やや有名人といえば「高倉(高麗)朝臣福信(たかのくらあそんふくしん)」で、祖父は高句麗滅亡に際して日本に渡ってきた渡来人である。660年代の朝鮮半島は非常に不安定となり、663年の白村江(はくそんこう、はくすきのえ)の戦いでは日本・百済(ひやくさい、くだら)連合軍と唐・新羅(しんら、しらぎ)連合軍の戦闘、664,667年には唐の高句麗出兵などがあって、朝鮮半島から多くの人が日本に渡来した。彼らの多くは追っ手を避けて東国に移動した。716年には高麗郡、758年には新羅郡(のちに新座(にいくら)郡)が成立し武蔵国に編入した。
高倉朝臣福信は高麗郡出身で、伯父の肖奈行文(しょうなのこうぶん)が儒学博士として朝廷に仕えるために一緒に奈良へのぼり、福信はその地で名をあげ従三位の地位にまで出世した。さらに「朝臣(あそん)」の姓まで受け、高麗から高倉に改姓した。朝臣は天武天皇が684年に制定した「八色の姓(やくさのかばね)」では第二位の地位に当たり、第一位の「真人(まひと)」は皇族にのみ許されているので、一般人としては最高の地位を得たことになる。この高倉福信は二度、武蔵守に任じられているが、実際には府中には赴任していないようだ。これを遥任(ようにん)といい、次の位の「介」が事実上のトップに就く。これを受領(ずりょう)という。
ところで、高麗郡は現在、埼玉県日高市になっており、そこにはJR川越線・八高線の高麗川駅があり、西武池袋線の高麗駅もある。近くには高麗川が流れ、高麗神社もある。ここへは、私は予備校生時代に敬愛してやまない鈴木武樹先生(故人)や大学院生、若手研究者とともに、古代日本における朝鮮文化の影響をテーマとした資料調査に訪れたことがある。記憶にはないが当然、話題の中では高倉福信の名が挙がっていたはずだ。
武蔵国とは関係はないが、相模国の国府が大磯町に移転したということは先に述べたが、この大磯にも高麗山、高麗神社(高来神社)、唐ヶ原など、朝鮮文化の影響を受けた史跡があり、ここにも鈴木先生らと調査に出掛けた。日高市の高麗も大磯の高麗も、渡来人の故郷である朝鮮半島の地形によく似ているらしい。そんな話も同行した在日韓国人の研究者から聞いたことがある。
なお大磯調査の日は3月2日で、大学入試の前日だっため鈴木先生の忠告もあり早めに引き上げたという記憶もある。合掌。
国府と国分寺
国府を語るときには国分寺(2島の場合は島分寺)についても触れなければならない。先にも述べたように国府の場所は特定できなくとも、国分寺は国家だけでなく地域住民の保護もあってかよく保存されているものが多く、武蔵国分寺の場合のように、建物は存在しなくともその位置は明確になっているものも多い。
私は四国が好きでよく出掛けたが、ついでに八十八か所霊場に訪ねることも多かった。阿波国(徳島)では15番霊場、土佐国(高知)では29番霊場、伊予国(愛媛)では59番霊場、讃岐国(香川)では80番霊場として、国分寺はすべて八十八か所の中に組み込まれていた。
国分寺の名は地名としてもよく残り、武蔵国の国分寺は市にまでなっているが、日本全国に国分寺町、国分町、字名として国分寺、国分が多数あり、それは府中や国府以上に多いようだ。さらに、国分尼寺もあったことから尼寺という字名も残っている。
国分寺は741年、聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって建設がスタートしたが、その先駆けとして737年には「各国には釈迦仏像を安置せよ」という命が出されていた。背景には天然痘の大流行があり、当時、政治の実権を握っていた藤原不比等の4人の息子は相次いで命を落とし、光明皇后も4人兄弟を失っていた。この天然痘は猛威を振るい、なんと日本人口の3分の1が失われた。ヨーロッパ中世ではペスト(黒死病)で人口の3分の1や4分の1が失われ国の有り様が大きく転換したことが何度もあったが、日本ではこの天然痘の流行が天皇に「鎮護国家」を決意させ、各地に国分寺の建立を命じたのである。ちなみに政治は藤原四兄弟が死去したのちに橘諸兄が実権を握り、留学生だった玄昉(げんぼう)や吉備真備をブレーンとして安定を図ろうとした。
国分寺は、「国の華として仰ぎ見るのに良い場所」「水害の憂いなく長久安穏の場所」「南面の土地」「雑踏から離れた場所」が選ばれ、国司が国分寺を監督するために交通至便で国府に近い場所も必要条件となっていた。
武蔵国分寺は国府の約2.5キロ北側にある。先に挙げた国府に近い場所というだけでなく、交通至便な場所という条件も満たしている。国分寺と国分尼寺の間に東山道武蔵路が通っているのだから。
国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」で国分尼寺は「法華滅罪之寺」である。国分寺は僧20名からなり、国分尼寺は尼僧10名からなる。広義の国分寺は尼寺も含むので、狭義の国分寺は国分僧寺と言って区別する。国分僧寺は「金光明最勝王経」を国分尼寺は「妙法蓮華経」を書写し、それぞれ10巻を建立した「七重塔」に納めることになっていた。この三者が国分寺の必要条件だった。
大国とされた武蔵国の国分寺にふさわしく、ここは広大な敷地を有していた。東西約1.5キロ、南北1キロという国内最大級の寺院だった。面積だけでいえば、平城京四大寺院をしのいでいた。国分寺崖線前の立川段丘面には、それだけの広さを持つ平地があったのだった。
国分寺の伽藍は、基本的には北から「講堂」「金堂」「中門」「南大門」が中軸線を通して造られる。ただし、相模国分寺のように金堂が中軸線から外れているものもある。七重塔は武蔵国分寺の場合、中軸線の東側にあるが、安芸国分寺のように塔は中軸線の西に建てられている場合もある。いずれも、その場所の地形に配慮してのことだろう。しかし、南面に関しては例外はない。
武蔵国分(僧)寺跡の西側に国分尼寺跡がある。この間をかつては東山道武蔵路が通り、現在はJR武蔵野線が走っている。僧寺に比べると敷地はかなり狭いものの、こうして見ると広々としているとの感じを抱かせる。
写真のように、金堂跡もよく整備されている。二寺とも国分寺市西元町にあり、市の努力によってどちらもよく管理されている。
二寺制を主張したのは天然痘で4兄弟を失った光明皇后の強い願いでもあった。しかし、尼寺は規模が小さく、国分寺の研究自体が僧寺中心だったこともあって、尼寺の場所が特定されていない国は約半数あり、そもそも未詳のものさえ30%ある。ここにも日本女性の地位が世界ランキングで121位と非常に低いことが関係しているのかもしれない。墓に眠る光明皇后の心中はいかばかりか?
急遽、国分寺についても触れることにしたので、27日、慌てて自転車にて国分寺跡に向かった。国分寺街道を北上し、明星学苑前交差点を左折し、すぐ先にある路地に入る。それが写真の場所だ。三億円犯人は雨除けのビニールカバーを偽装した白バイにくっつけたままここから出てきて右折し、東芝府中に向かう現金輸送車を追った。当時は一方通行ではなかった。現在は一方通行になっているので、今なら偽装白バイは逆走してきたことになり、本物の白バイに捕まった蓋然性もある。そうであるなら、強奪事件は発生せず、結果、府中の知名度は低いまま推移した。
もちろん、そんな過去はない。自転車で慌ててこの路地に入るとき、別の想い出が蘇った。来た道を少し戻りこの場を撮影し、そして国分寺跡に向かった。
犯人はこの道から出てきた。私の少年時代の甘くも切ない想い出はいつもこの道を入っていった。あの事件があった時期、私はまだ夢の途中だった(cf.4・国分寺崖線)。
そして今も夢の途中だ。かつては「亜麻色の髪の乙女」とこの道を歩き、今は青みがかり、場所によっては茶色がかった黒っぽい磯の魚を追い求めている。
これでいいのである。
*府中の項は次回に続きます。