徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔33〕「とはずがたり」に「かたらいの路」を語る~多摩丘陵散歩

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高幡不動尊の見晴台から府中、都心方向を望む

まずは「高幡不動尊」から多摩丘陵

 鎌倉時代末期に記されたとされる『とはずがたり』は、後深草院二条(本名不詳)が14歳から49歳までを回想するという形式をとる日記文学だ。前半3巻には作者が後深草院の女房(宮中に仕える女官)であったときの数々の情交が生々しく記され、後半2巻では31歳で出家した二条が諸国を遍歴した記録をはじめ、終盤では後深草院崩御やその菩提を弔う様子を記している。前半の愛憎劇はそれなりに面白みがあるが、徘徊好きの私としてはやはり後半の2巻に心惹かれる。二条は西行法師の影響を受け、後世の松尾芭蕉と同じように「片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず」(おくのほそ道)、歌枕を求めて各地を旅した。

 「清見が関を月に越えゆくにも、思ふことのみ多かる心の内、来し方行く先辿られて、あはれに悲し」

 「富士の裾、浮島が原に行きつつ、高嶺にはなほ雪深く見ゆれば……煙も今は絶え果てて見えねば、風にも何かなびくべきとおぼゆ」

 「業平の中将、都鳥に言問ひけるも思ひ出でられて、鳥だに見えねば、『尋ね来し かひこそなけれ 隅田川 住みけむ鳥の 跡だにもなし』」

 以上は巻四からの抜粋だが、前回少し触れた『更級日記』同様、「清見が関」(静岡市清水区興津)、「富士山の噴火」、「在原業平の和歌=『名にし負わば いざこととはむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと』」など同じ歌枕や人物を描いているのは平安・鎌倉貴族の基礎教養なのだろうか?

 俗世を捨てて出家した彼女だが、それでも煩悩は捨てきれずに後深草院との情交を回顧するなど、世俗的な欲望を完全に断ち切り「遁世者」として自由に生きることはできなかった。その悔悟と苦悩が「とはずがたり」せざるを得ない行為として客体化されたのだ。そのおかげで、750年後に生きている私は、その艶めかしくも美しい日記に触れることができているのだが。

 今回は、3年ほど前まではよく徘徊した多摩丘陵の「かたらいの路」を久しぶりに歩いてみた。この道の基本コースは高幡不動尊境内から丘陵地に入り、多摩動物公園の北側フェンスに沿って尾根道を西にたどり、旧多摩テック方向へ進むルートである。しかし、私の場合は、多摩テック方面にはあまり行かずに、住宅街を西に抜けて平山城址公園へ進むのが好みだった。今回もそのルートを取ったため、「かたらいの路」を完全にトレースしたわけではない。

 多少、アップダウンのある道を進むのだが、大半は丘陵の尾根伝いに開かれた道のため、高低差は40m程度(標高131~173m)でしかない。ただし全ルートでは、高幡不動尊の仁王門がある場所の標高は約69m(いつものように国土地理院・標高の分かるweb地図参照。以下、標高や約を省略する場合あり)、尾根道の最高点は173mと比高(高低差)は100mほどになるので、全ルートを歩くことを考えると少しの苦労ぐらいはあると言えなくもない。

 「かたらいの路」とはいえ、ここへは一人でぶらりと出掛けることが大半なので、誰かと語らいながら歩くわけではない。しかし、現地で出会う人とはときおり言葉を交わす場合があり、そんなときには「問われて」から語り始める。が、ときには「問わず語り」までしてしまうこともあるし、今回のように誰にも問われていないのに勝手に「かたらいの路」について「とはずかたり」を始めてしまうことすらある。

 基本的には尾根道を歩くので周囲は林ばかりだが、ときには視界が開けて山麓や遠くの街並み、多摩地区に住む人々にはなじみ深い山の連なりを見通すことができる場所もある。とくに冬場は木々が葉っぱたちを脱ぎ捨てるため一層、見晴らしは良くなる。が、今冬はまるで春の初めのような天気が多いためにやや湿気が多く、以前に訪れたときよりも遠くの景色は少し霞んで見える。冒頭の写真は高幡不動尊境内にある巡拝路の見晴らし台から府中市にある3棟のタワーマンション、ならびに都心のビル群やスカイツリーを望んだものだが、乾いた北西風が強い真冬らしい天候の日であれば、遠くの景色もはっきりくっきり見えるのだが。それが少し残念な日和だった。

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仁王門前の交差点から高幡不動尊の境内を見る

 高幡不動尊については以前述べている(cf.17・浅川旅情)ので今回はあまり触れない。 不動尊へはいつもは車で行くのだけれど、一月は参拝する人も多いだろうから駐車場探しが大変になるかもと考え、さらに平山城址公園駅まで歩く予定もあるため、珍しく電車で出掛けた。京王線高幡不動駅からは徒歩3分で写真の仁王門前に着くので電車利用でもアクセスは便利だ。初詣はいつまでに行えば良いのかは不明だが、一年間の無事を祈願するのだから早い時期のほうが良いのは当然だろう。個人的には祈願する気持ちは全くないのでどうでも良いことなのだが、初詣の意味合いからすると「一月中」というのが答えになるだろうか。ともあれ、一月中旬であっても結構な人出があった。

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土方像や五重塔より、「かき」の存在が気になった

 前に紹介したように高幡不動尊は私が敬愛する土方歳三菩提寺であり、写真左手の露店の上に見えるように土方歳三像がある。また、整備された五重塔もこの不動尊を代表する派手な建造物で遠くからでもよく目立つ。今回は境内を抜けてすぐに「かたらいの路」を進む予定なので、双方ともちらりと見上げるだけで目指す方向に歩を進めようとした。が、その前に露店に並んでいる「あたご柿」が気になり、像や塔よりも山盛りの柿に惹きつけられてしまった。柿は果実の中ではもっとも好きな存在だからだ。

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山内八十八ケ所巡拝路入口

 かたらいの路へ進むには北山麓の平地にある不動尊の中心部から坂を上がって境内の南側に至る必要がある。かたらいの路は丘陵の尾根筋にあるのだ。したがって、境内の森(多摩丘陵自然公園)にある道を南方向に上ることになる。歳三像と五重塔との間にある道を入るとすぐに大きな立て札が目に入る。写真の「山内八十八ケ所巡拝路入口」の表札は「かたらいの路」方向へ進むルートに当たるため、この場所が「かたらいの路」の出発点と勝手に考えた。

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巡拝コースには何番札所かを示す表札と空海像がある

 四国八十八ケ所霊場巡りは私にとって永遠の課題となっている。車移動中心の霊場巡りは何度もおこなっているが、歩き遍路は未経験だ。年齢を考えると、1300キロすべてを歩き通すのは不可能だし、今までの経験から思うに、歩き遍路といっても移動には一般車道を用いることが意外に多いので、歩き甲斐のある道だけを選んでとぼとぼと進もうと考えてきた。が、釣りへの関心がますます高まっているので、一年365連休(今年は366連休)の生活なのになかなか時間が取れないというのが実情になっている。

 高幡不動尊にあるような八十八ケ所巡りは各地にあって、その多くは四国八十八ケ所を巡るのと同じご利益があるという「うたい文句」が掲げられている。不動尊の巡拝路は約一時間で完歩できる。これで本場と同じご利益があるとはとても考えられないし、そもそも私の場合は「ご利益」そのものの存在を認めていない。ただ、巡りたいという気持ちがあるだけだ。

 当初は最短コースを通って境内裏に出る予定だったが、写真のような表札があると「十一番札所は何という寺だったか?」と考え、その名が浮かぶと今度はその寺がたたずむ風景を思い出そうとし、かつその行為が楽しく思えたので、すべてとは言わないまでも少しだけ寄り道をすることにした。

 写真の「十一番霊場」は徳島県吉野川市(表札では麻植郡だが現在は吉野川市)にある「藤井寺(ふじいでら)」だ。八十八ある寺の内、「じ」ではなく「てら」と読むのはこの寺だけだ。一番の霊山寺(りょうぜんじ)から十番の切幡寺(きりはたじ)までは比較的平坦なところを通る撫養(むや)街道沿いにあるため、歩き遍路でもほとんど困難さはない。八番の熊谷寺(くまだにじ)と十番の切幡寺が少しだけ街道から丘に上がる山寺風だが、私の足であってもまったく問題はない。十一番の藤井寺は街道を離れて一気に南下することになるが、それでもまだ四国山地の北山麓にあるため、その寺の標高は35mに過ぎない。しかし、次の十二番焼山寺(しょうざんじ)が関門で標高は705mある。十一番との比高は670mだが、途中には750m地点、430m地点がある。つまり、藤井寺から一気に715m上がり、320m下っては385m上がることになる。通常は6時間コースと言われているが、歩き遍路を試みる人の多くは750m地点で断念するらしい。折角、頑張って高みまで来たと思ったらまた一気に下りそしてまた上るという行く末を思い、残念無念にも麓に降り、徳島線鴨島(かもじま)駅で涙に暮れるのだ。こうした難所はいくつか先にも控えており、お遍路の行く手を阻むことから「遍路ころがし」と呼ばれている。私の場合は初めから「ころび遍路」のため、難所は車やケーブルカーを使った。

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二十四番は室戸岬にある最御崎寺(ほつみさきじ)

  二十四番札所は最御崎(ほつみさき)寺で室戸岬の高台にあり、境内の標高は165mもある。二十三番の薬王寺から土佐(高知)最初の札所である最御崎寺までは国道55号線を南下して75キロ進み、最後に国道の標高9m地点から急坂を156m上ることになる。ここも「遍路ころがし」のひとつだ。私は相当の昔、磯釣りに出掛けるために雨中の国道55号線を車で走っていたとき、大雨の中びしょ濡れの姿で室戸岬方向に歩を進めるお遍路の姿に触れた。このときから、私の霊場巡りは始まった。それまで何度か四国には出掛けていたものの霊場にはまったく関心がなく、たとえば足摺岬に出掛け三十八番札所の金剛福寺が駐車場の目の前にあっても立ち寄ることはなかった。それが、雨の舗装路をひたすら歩き続けるひとりのお遍路の姿に数秒触れただけで、四国霊場巡りという趣味が私に加わったのだ。私は「狂なるもの」に興味を惹かれる。

 空海(俗名佐伯真魚)は、室戸岬にある「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれる隆起海食洞で悟りを開いたとされ、そのとき彼が目にしたのは空と海だけだったので「空海」を名乗るようになったとされている(異説多し)。私は空と海との間にある岩場で、いまだ悟りは開けずただ磯釣り(鮎釣りも堤防釣りもだが)ばかりしている。釣りに関しては片目ぐらいは開いたと思っているのだけれど。

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見晴台から高幡不動駅周辺の街並みを望む

 巡拝路は境内の南側にある標高128mの愛宕山を取り巻くように整備されているので、ところどころに見晴らしの良い場所がある。写真は「見晴らし台(標高120m)」として整備された場所から足下の景色を写したものだ。立川市方向に伸びる多摩都市モノレール、画面を横切る多摩川とそれに架かる石田大橋も見える。

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見晴台から国分寺市方向を望む

 中望遠レンズを使って、少し詳細に周囲の景観を撮影することにした。上の写真は国分寺市方向を見たもので、右の2棟は国分寺駅の、左の1棟は西国分寺駅の近くにあるタワーマンション。 下の横に連なる茶色の帯は多摩川の土手だ。

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都心方向を望んだもの

 都心方向を中心に写してみた。中央にはスカイツリー、右手には新宿駅西口の高層ビル群や都庁などが見て取れる。冒頭の写真にある景色のやや右寄りを見たものだ。

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立川駅方向を望む。遠くには男体山が微かに見える

 立川駅方向を見た。中央は立川駅の西にある高層ビルだが、その右側にうっすらと見えるのは日光の男体山、ビルの左手に見えるのは赤城山だ。空気が澄んだ晴れた冬の朝方ならもう少しはっきり見えるはずだ。多摩丘陵からは、足尾山地、日光連山、赤城山榛名山の姿を見て取ることができるのは案外知られていない。筑波山だって十分に見える。なお、低い位置に横たわっているのは狭山丘陵だ。

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西側には関東山地の連なりが見える

 見晴らし台では西側が林で展望が開けていないので、巡拝路に戻って関東山地が望める場所に移動した。左からピークをたどっていくと、奥側にあるのが大菩薩連嶺(2057m)、その右が三頭山(1531m)、雲に霞んでいるが奥側に飛竜山(2077m)、手前側に奥多摩湖のすぐ横にそびえる御前山(1405m)、隣はご存じ大岳山(キューピー山、1267m)、その右の手前の連なりの一番右側が御岳山(929m)、その奥側には2つのピークが重なり合って見えるが、右のほうが鷹の巣山(1737m)、すぐ左のピークが雲取山(2017m)、雲取山に向かい合ってやや尖った山頂をもつのが芋の木ドッケ(1946m、ドッケは鋭い頂という意味)、右にたどって酉谷山(とりだにやま、1718m)、一番右にある少し手前側の小ピークの連なりが有間山(1213m)だ。府中市多摩川左岸側からもこれらの山々は晴れて澄んだ日には見えるのだが、高幡からとは見え方が微妙に違うので少し異なる表情に接することができて嬉しくなる。

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中望遠レンズで大岳山周辺をのぞいた

 今度は中望遠レンズで多摩地区のランドマークである大岳山周辺をのぞいてみた。中央の大岳山は、やはり「キューピー山」の俗称に恥じない姿をしている。左の御前山は、小河内ダムへ遊びに行く人にとってはお馴染みの山だ。右手には前述のようにピークが重なって見えるが、右側のやや反り返った頂をもつのが鷹の巣山で、後ろにある左側がややなだらかなピークをもつのが東京都の最高峰である雲取山だ。大岳山の右に連なるやや平坦な尾根をもつ山が鍋割山(1084m)で、写真に入れ忘れたがその右に続くのが御岳山の奥の院(1077m)となる。

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大好きな大菩薩連嶺の雄姿

 私は幼い頃から大菩薩連嶺を望んでいて、これらの山が雪を被った姿を見て、南アルプス赤石山脈)と勘違いをしていた。小学3年の頃だったと思う。今はそんな思い違いはしない。国道20号線を大月市方向に進むと大菩薩はよく見えるし、そのまま笹子トンネルを抜けて日川筋に北上すると大菩薩湖(1476m)や上日川峠(1545m)に至る。この道が好きで何度も出掛けたことがあり、そこでは間近に大菩薩嶺を見ることができる。峠からは高低差は500mほどなので、京王線高尾山口(190m)から高尾山(599m)に登るよりやや厳しい程度だ。それでも気象条件は相当に異なるので、手軽なハイキングと洒落込むわけにはいかない。熊が顔を出すことも多いようだし。私は山を見るのは大好きだが、山に登るのは好きではない。

 イギリス人の登山家であるジョージ・マロリーはエベレストに登る理由を問われて「そこにエベレスト(山)があるから」と答えたが、私が「なぜ山に登らないのか」と問われたら「山に登るとその山が見られないから」と答える。本当は、ただ無精なだけなのだが。

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秩父の山もなんとか望めた

 秩父方向もなんとか望めた。左のピークは大持山(1294m)、右のピークは秩父の象徴である武甲山(1304m)だ。右の2棟のタワーは国分寺駅北口の、その右に見えるのが立川駅の高層マンションだ。

高幡不動尊を抜けてかたらいの路の山道を進む

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高幡不動を抜けて住宅街に入る

  巡拝路から離れ、かたらいの路を進むとすぐに写真の住宅街に出る。ここの標高は115mなので、高幡不動尊の境内にあった巡拝路入口を示す表札のところからは45mほど上った場所が不動尊境内と南平一丁目の住宅地という境外との境となる。聖界と俗界のボーダーであるこの地点は、すでに多摩丘陵の中腹なのだ。

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かたらいの路から外れないように、住宅街にある標識通りに進む

 しばらくは住宅地(南平一丁目、三沢五丁目)を歩くことになるが、写真のように分岐点には道標があるのでこれにしたがって進めば山道の入り口にたどり着くことができる。

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写真の「南平東地区センター」の建物が目印

 道標通りに進むと写真の「南平東地区センター」が見える。この地点の標高は131mだ。住宅地内でもすでに16mほど上ったことになる。この辺りが住宅街の分水嶺となり、北側は野猿(やえん)街道まで下りその地点は79m、南は京王線多摩動物公園駅近くまで下り、その地点は93mである。したがって、この住宅街の天辺付近に住む人は、京王線南平駅(78m)からだと53m、動物公園駅からでも38mの高さを上る必要がある。多摩丘陵を削って造られた住宅地なので道もかなり急勾配であり、路面が凍結する時期では車の移動ですら難儀しそうだ。

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南平東地区センターの上(山道入口)から見た都心方向の景色

 東地区センター横の階段を上がり、かたらいの路は住宅街から山道に入る。その入り口(標高138m)から都心方向を眺める。新宿の高層ビル群やスカイツリーまで見通せる。

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ハイキングコースはよく整備された道になっている

 かたらいの路は、かつては野猿峠ハイキングコースと呼ばれ、しばらくは左側に多摩動物公園のフェンスを見ながら進むことになる。

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武州江原山講社。とくに云われは記されていない

 道を進むと、間もなく写真の「武州江原山講社」(標高156m)の新しい建物が見えてくる。とくに由緒書がないので詳細は不明だが、木曽の御嶽山への登拝の安全を祈願するための講社なのだろうか?

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コースは小さなアップダウンが続く

 かたらいの路は小さなアップダウンを繰り返しながら西へ進む。写真のように大半は左手に動物公園との境界を示すフェンスがある。右手には麓の住宅街や遠くの山々が樹木の間から顔をのぞかせる。

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道は下りに入り、展望の良い場所に至る

 道は南平住宅の南端に至るため徐々に標高を下げていく。写真の足元の地点で141mで、住宅地の手前で北側の林が途切れるために視界が開けてくる。

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今まで視界に入らなかった丹沢山塊の姿も見えるようになる

 道は南平二丁目住宅の南端に降りる直前に北側の樹木が伐採されていることで視界が大きく開ける。関東山地だけでなく、一部ではあるが丹沢山塊を代表する山も見えてくる。左のピークは丹沢の最高峰である蛭ヶ岳(1673m)、右のピークは大室山(1587m)。大室山は丹沢山塊の北西側に位置し、山の北側には道志川津久井と山中湖を結ぶ「道志みち(国道413号線)」が通っている。私の地元の府中市からもよく見え、雲に隠れた富士山の位置を探す手掛かりとなる山であり、鮎釣りで何度も訪れている道志川の位置を他人に教えるランドマークとなる山でもある。

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真西方向には人気の高尾山がよく見える

 大室山方向から視線をやや右に向けると、近年、ますます人気が高まっている高尾山(599m)が見える。1972年以前は標高600mと言われ、私自身もそのように記憶していたのだが、再測量の結果599.0mとなり、最新のデータでは599.3mとされている。かつて、標高を600mに戻す計画がおこなわれ、登山客に頂上まで石を運んでもらう計画が画策されて挫折したが、今ならあと20センチなので、600mまで回復することは、登山客ひとりひとりに石一個を運んでもらえば可能なのではないだろうか。何しろ年間260万人が訪れる世界一登山者数が多い山なのだから。600mにすることに意味があるとは思われないものの。

 2007年以前は平日に行けばさほどの混雑を感じなかったが、2007年のミシュラン観光ガイドから三つ星が与えられてから人気が沸騰し、さらにジジババの間に登山ブーム、健康ブームが広がったこともあって、都心の雑踏のような光景が展開されるようになってしまった。高尾山は、私が自力で登ったことのある山の最高比高(409m、599-190)であり、これを更新するためにはあと一時間頑張って隣の小仏城山(写真右側、670m)に至ればよく、比高は479mとなり自己新記録の達成となる。そのためにも是非、混雑の緩和を期待する。

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ここでも関東山地の眺めは良い

 大岳山(キューピー山)を中心とする関東山地の低山の連なりがよく見える。鍋割山の隣の御岳山奥の院(1077m)も、その右の御岳山(929m)や日の出山(902m)などがしっかり確認できる。奥側の雲取山や鷹の巣山の並びは、ここからだと重なりが弱くなっているので、はっきりと区別がつく。一方、芋の木ドッケは雲に覆われて見づらくなっている。

 手前には、最近とみに賑やかになったJR中央線豊田駅周辺の街並みや、浅川の流れを見ることができる。それにしても、日野台地上はとても速いスピードで開発が進んでいるようだ。少し速すぎるのでは、と思う。

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北側の風景。狭山丘陵や遠くの日光連山が美しい

 北方向に目を向けると、狭山丘陵の連なりだけでなく、遠くに男体山をはじめとする日光連山や赤城山が見える。高幡不動尊の「見晴らし台」からと同じ場所を見ているのだが、立ち位置が少し変わるだけでも景色がかなり異なって見えるのが、尾根歩きの楽しみのひとつである。

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山道はここで一旦終了し、少しだけ住宅地の際を進む

 山道は写真の地点(標高137m)で一旦終了し、南平二丁目にある住宅地の際を100mほど西に進む。左側のフェンスは多摩動物公園との境で、まだしばらくはこのフェンスが左側に立ちはだかっている。

再び山道へ、そして動物公園内を覗き見する

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再び山道へ。ここで見返りする

 住宅街から再び山道に入った。写真は、その住宅地方向を振り返って見たものだ。このため、今までとは逆で、右が公園側になる。一方、左側は急斜面になっていて住宅はなく、麓に都立南平高校がある。

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見返り写真。園内の「チンパンジー舎」が見える

 さらに山道を上り、再び振り返る。正面に見えるのは「チンパンジー舎」で、彼・彼女らが動く様子も見て取れた。この地点の標高は163mだ。

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柵の中央部に張られている鉄板についての但し書き

 今までの写真でお気づきだと思うが、金網の柵の中央にはずっと鉄板が張り巡らされている。視線の先の高さにあるために「目隠し」と思われるが、動物園側からのお願いとして、写真のような但し書きが至るところに張られている。鉄板は目隠しではなく、動物が柵を上って園内に侵入することを防ぐための策とのこと。この但し書きがないと、鉄板は散策者による覗きを防止するための対策だと誤解される可能性があると考えてのことだろう。最近はさして重要でないことでもクレームをつける輩が多くなっているからなのか。

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折れた幹の傷をかばう葉っぱたち

 おそらく昨年の台風によって幹が折れてしまった樹木と思われるが、その傷をかばうようにそこにだけ色づいた葉っぱが残っていた。小枝の向きからして隣の木のものと思われるが、周囲の木々には葉は散り去ってすでになく、ただここだけに残っている不思議を感じ、思わず撮影してしまった。林の中の景色としてはこれが一番、印象深かった。

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コアラ館前の広場

 散策路からは柵越しにコアラ館前の広場が望めた。金網の間にレンズを入れ、園内をのぞき見したのだ。多摩動物園のコアラと言えば、1984年に日本に初めてコアラがやって来たときに6頭のうちの2頭がここに導入された。それを見るために6時間も行列したことを記憶している。自分ではまったく興味はなかったが、半ば強引に見学同行を迫られ仕方なく行列に加わった。コアラが見えたのはほんの一瞬だったように思う。

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かたらいの路の最高点から山々を望む

 かたらいの路の最高点に近い場所(170m)にきた。動物園内はさらに高く、172m地点に「みはらし広場」が整備されている。そのこともあってか見晴らしはかなり良い。何度も挙げているように左の大菩薩連嶺から右の日の出山までを一枚に収めた。三頭山と御前山との間、写真中央付近にあるのが飛竜山(2077m)で奥秩父を代表する存在。秩父市と山梨の丹波山村との境にある。やや雲がかかり、さらに山は雪を被っているので少し見づらいが、標高170m地点だからこそ見えるのであって、府中市多摩川左岸からは背伸びしてもほんのわずかしか見ることはできない。

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低空を飛ぶ米軍機。本当に五月蠅い(うるさい)

 低空飛行訓練するC-130米軍輸送機が発する音は本当に五月蠅い(うるさい)。私はよく福生市多摩川左岸にも出掛けて山々を眺めるのだが、その際、わが愛する大岳山を中心にして爆音を発しながら低空飛行する横田基地所属の輸送機をしばしば見かける。横田空域(横田進入管制区、横田ラプコン)には一切法的根拠がないにもかかわらず、日米合同委員会によって米軍の専制的使用が認められおり、日本側はその空域を通るときはその都度、米側に許可を受けなければならないことになっている。一年前に羽田空港に着陸する飛行機の一部通過が認められ、その結果、羽田空港の増便が可能になった。が、日本の上空を飛ぶのにわざわざ米側の許可が必要であることの不条理はまったく解消されていない。C-130の低空飛行も合同委員会によって認められ、しかも合意内容を超えた無法を米側はしばしばおこなっている。この日も2機の輸送機が訓練をおこなっていた。合意の範囲内の高さだと思うが、こんな低空で日本の飛行機が飛ぶことは非常時以外にはあり得ない。

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オランウータンがいる施設を望む

 園内にある「みはらし広場」の下には写真のようなオランウータンがいる施設がある。園内からこちらを見ている2人の女性は、オランウータンではなく、カメラを構えている私の姿に驚いている、あるいは興味を抱いているようだ。おそらく、園外に散策路があることを知らないからだろう。いや、脱走したオランウータンがカメラを持って遊んでいる姿を想像して、驚きつつも興味を抱いているのかもしれなかった。半分、当たっていると言ってもいいかも。

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最高点(173m)から一気に下った場所。ここで動物園ともお別れ

 オランウータンの施設が見えた場所(170m)から道は159mまで下がるとまた上りになり写真にある送電線の下をくぐると標高173mの最高点まで上る。そして下った撮影場所(165m)が多摩動物公園と別れを告げる地点になる。この写真は最高点(送電線鉄塔が立っている場所近く)方向を振り返っているので動物園は右手に見える。そういえば、ずいぶん昔になるが、私には送電線の行方を追う趣味があった。こうして高圧鉄塔を間近に見ると、「送電線の旅」を再開したくなった。

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動物公園に別れを告げると道は徐々に下りになり、一般道に出る

 かたらいの路は多摩動物公園に別れを告げると下り坂になり、もうまもなく一般道に出ることになる。写真は、やってきた道を振り返って見たもので、写真の奥から手前側に下ってきた。公園と別れた場所(165m)からは少し上り坂となり、標高171mに達し、そこから一般道(139m)までは下りが続く。写真のように道には落ち葉がたっぷりと積もっているのでとても滑りやすくなっている。階段を設置している場所もあるが一段の落差が大きいために少し歩きづらい。といって際を歩くと滑りやすい。山道では下り坂のほうが要注意である、とくに年配者は。

平山城址公園から平山城址公園駅まで

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閉鎖された「さかい公園」

 坂を下りて一般道に出たら、かたらいの路は左折して旧多摩テック方向に進むのだが、今回は右折して「さかい公園」の北側から住宅地に入り、平山一丁目住宅の南端を進んで平山城址公園を目指すことにした。理由は、こちらのほうが楽だったから。

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「さかい公園」閉鎖の通告

 「さかい公園」で少し休息を取ろうと思ったのだが、公園の入り口は写真にある階段部をのぞいて閉鎖されていた。階段以外の入り口は車を簡単に横付けできるので、園内にゴミを投棄する人が多かったからのようだ。たしかに多摩丘陵中に車が進入できる林道には粗大ごみの投棄が目立ち、それは近年、ますます増加している。「日本人はマナーが良い」というのは一般論としては嘘で、人が見ている前では「マナー良く」ふるまうが、人が見ていないところではがらりと態度を変える場合が多い。人目がなくても神の目がある。しかし、神はいない。

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平山城址公園入口に達する

 平山城址公園は東西に長い敷地をもつ。多摩テック側から来る場合は東口が利用でき、園内を上り下りしつつ写真の場所にたどり着くのだが、今回は住宅地から京王電鉄の研修所前を通ってやってきたので、アップダウンはやや少なかった。

 写真の正門(北中央口)付近を見ると城跡風だが、それは写真の場所だけで園内にはとくに城の跡はない。「城址」よりも「公園」に重きを置き、アップダウンのある散策路で体力を増強したいという人に向いている場所だ。

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正門前から秩父方面を望む

 正門は標高168mの地点にあるため、北側の見晴らしが良い。写真中央には豊田駅の建物群があるが、遠くには有間山、大持山、武甲山の連なりが見える。その右には丸山(960m)、堂平山(876m)など東秩父に広がる山並みが見える。さすが、公園は平山氏の見張り所があったところだ。

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歩いてきた丘陵地を望む

 視線をやや右に転じると、平山住宅地の向こうに今まで歩いてきた丘陵地が見える。中央部にある鉄塔が、かたらいの路の最高地点付近にそびえていたものだ。

 こうして眺めると、鉄塔や送電線がいかに尊大な存在であるのだろうかが分かる。ちなみにこの「府中線・柚木線」は、町田市真光寺町にある電源開発西東京電力所から多摩動物公園日野バイパス(新20号線)と旧20号線が合流(または分岐)する高倉町西交差点の上を通り、八王子市石川町にある南多摩変電所から創価大学の上を通り、JR五日市線武蔵五日市駅の南にある小峰公園脇の新多摩変電所に至る。

 高圧鉄塔や送電線の雄姿にはしびれるが、高圧電流にはしびれたくない。

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城址公園の中。城跡というよりよく整備された公園

 公園内に入ってもとくに城郭だった徴はなく、丘陵地帯にある整備された公園という風情で、散策路や展望台、広場が点在する。

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湧水が集まってできた猿渡の池

 園内は凹凸が激しいため、窪地には写真のような湧水を集めた池がある。湧水というと清水をイメージするが、底に泥が堆積した沼といった感じでエビやザリガニの住処か?

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野猿峠散策路からみた柿の実

 正門を出て少しだけ西に進んだ。かたらいの路と同じ多摩丘陵の尾根にある散策ルート(背後に動物園はないが)なのでこの日はこれ以上進まずに道を戻り、平山季重(すえしげ)神社に向かうことにした。

 林を見ると、1月中旬にも関わらず柿の実が生っているのに気付いた。近所に住みこの散策路をよく歩くという人もそれには気づかなかったようで、私がカメラを向けているので初めてその存在を知ったとのことだった。柿の実は日常性の中にひっそりと溶け込んでいたのだが、柿が大好物の私はその存在をすぐに見抜くことができた。しかし、実を収穫することは不可能だ。何しろ、足元は急峻な崖だったからだ。

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平山季重神社の鳥居と祠

 平山季重神社のさほど広くない敷地(標高170m前後)は平坦だ。住宅地に向かって突き出している部分にこの神社はあるが、その左右の崖下には住宅地が広がっている。神社の東側の住宅地は標高150m、西側は135mなので、かつても突き出ていたことは確かだろうが、土地開発のために崖を掘り込んできたとも考えられるので、境内はもう少し広かったに相違ない。先ほど挙げた公園の正門付近にも広くはないが平坦な場所があり、その標高は168mなので、神社や正門がある一帯にかつて城郭があり、その城郭跡に神社が造られたとすると合点がいく。

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小さな祠は北を向いている

 神社の祠は平山季重の武勇に比してとても小さい。季重(1140?~1212?)は武蔵七党のひとつである西党を組織した日奉(ひまつり)氏の流れをくむ。武蔵国船木田荘平山郷を本領としたため平山姓を名乗った。源義朝軍に加わり保元・平治の乱で活躍し、1180年以降は頼朝の配下となった。その後、義経の平家追討軍に加わり、84年には木曽義仲軍と戦い、その勇猛果敢さは「豪座随一」と称された。一谷合戦では熊谷直実(なおざね)と先陣を競い、屋島壇ノ浦合戦でも精力的に戦った。89年には頼朝の奥州合戦に加わり、95年には頼朝の東大寺落慶供養に供奉(ぐぶ)した。

 平山城が建てられたのは15世紀半ばから16世紀前半ということなので、季重が生きた時代からは300年後となる。小さな祠は北を向いている。彼がもっとも華やかに戦ったのは義経と生きた時期だった。奥州衣川に散った義経の無念に思いを馳せているのだろうか。

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この日の終着点は平山城址公園駅

 今回の徘徊の終着点は京王線平山城址公園駅だ。この地点の標高は86m。平山季重神社の170m地点から一気に下り降りたことになる。この軽やかさは義経の「ひよどり越え」のようだと自画自賛した。

 駅の近くには平山図書館があり、それに付設された「平山季重ふれあい館」を少しだけのぞいた。季重の資料は図書館内にあるとのことだったので参照しなかったが、下の巨大な絵幕には圧倒された。それだけ、平山の地に季重は大きな存在なのだろう。

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ふれあい館の壁に掲げられた絵幕の一部

 駅で電車を待った。この駅で上りの電車を待っているとき、はるか昔にここに立っていたことを思い出した。小学校の3、4年頃だったように思う。周りにも自分と同じようなガキどもがいたので、遠足の帰りだったのだろうか?行った先はまったく覚えていないが、この駅の周辺で遠足先といえば平山城址公園以外にはなく、しかし、公園には子供が学んだり楽しんだりする場所はない。が、この駅であったことは確かで、駅舎は新しくなり、周囲の景観もまったく変わってしまっているはずなのに、ホームのすぐ横にあった家の庭の木の存在は記憶にある。それは柿の木だった。実がたくさん生っていた。それだけはしっかり覚えている。当時から一番好きな果物だったからだ。

 かたらいの路でとはずがたりに語るもの。それは「柿」である。