徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔36〕八王子の城跡を歩く(1)滝山城跡を中心に

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本丸跡にある石碑

八王子界隈には城跡が多くある

 平らなだけが取り柄の府中市にはこれといった城跡はなく、せいぜい浅野長政屋敷や高安寺館が拡大解釈されて「城」に含まれるといった程度だ。一方、山がちな八王子市界隈にはたくさんの城跡がある。日本100名城に選定された八王子城、続100名城に選定された滝山城をはじめ、高月城浄福寺城片倉城などがよく知られている。私はとくに城好きというわけではないが、日本各地の名所を訪ね歩くと、当然のごとく城跡にも出掛けることになる。例えば、100名城に選定された城だけでも五稜郭若松城水戸城、足利氏館、小田原城松本城金沢城名古屋城彦根城、二条城、大阪城、姫路城、福山城、萩城、宇和島城高知城、熊本城、首里城といった具合に。実際に訪ねたことのある100名城はもっと多い。

 が、八王子にある城跡の名前は知っていても八王子市内を観光で訪れることは滅多にない(高尾山くらいか)ので、私のお気に入りの散策コースである滝山城跡以外には立ち寄ったことはなかった。その滝山城跡でさえ、歴史に興味があるというよりは、適度にアップダウンがあり、かつ一部にだけだが見晴らしの良い場所があるので、葉っぱと虫や獣たちが少ない冬場の徘徊場所として出掛けていて、とくに「遺構」については関心を示さなかった。たまたま今回は未踏の八王子城跡に出掛けてみようと思い立ったとき、その城と滝山城とが密接に関係があるということを改めて認識を深めたので、まずはそうした視点から滝山城跡を訪ねてみようと思った次第だった。

滝山城跡は加住北丘陵にある

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多摩川右岸河川敷から見た加住北丘陵

 滝山城跡のある加住丘陵は八王子市中心部の北側にあり、関東山地の東縁から東南東方向に舌状に伸びている。南側は川口川、北側は秋川・多摩川に接している。中央には谷地川が流れて丘陵部を開析し、北部分を加住北丘陵、南部分を加住南丘陵と呼ぶこともある。また、東縁は日野台地と接しているが丘陵と台地とは成り立ちが異なるとされている。丘陵の基盤は上総層群で、下部は加住礫層、上部は小宮砂層と呼ばれている。この上総層群の上を関東ロームが覆っている。ローム層と小宮層と間に不透水層があるために丘陵上であっても水の確保は容易であり、後述するが本丸跡には井戸があり、周囲にも数か所、井戸跡があるらしい。また、城の中腹には2つの大きな池跡があることからみても、水源に恵まれたこの場所は丘山城を築くのに適していることがよく分かる。籠城戦には飲料水の継続的確保が必須だからである。

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加住丘陵を開析した谷地川

 谷地川は加住丘陵を開析し丘を二分した。写真は谷地川を上流方向に見ているので、左が南丘陵、右が滝山城跡がある北丘陵である。撮影場所は新滝山街道沿いにある「道の駅滝山」のすぐ北側だが、ここの標高は110mほどで、左右に見える丘陵上はどちらも170mほどである。写真では鮮明でないが、南丘陵には創価大学の、北丘陵には東京純心女子大学のキャンパスがある。川の北側には国道411号線(滝山街道)、南側には新滝山街道が走っており、街道沿いには大きくはないものの集落が続いている。

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北丘陵の北側には河川敷が続く

 写真は加住北丘陵の北側、すなわち秋川・多摩川の河川敷部分だ。この部分は多摩川の氾濫原のために住宅地は少なく、田畑やグラウンドなどに使用されている。

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北丘陵の北側斜面をよく見ると

 写真は河川敷に整備された「滝ケ原運動場」から滝山城跡のある北丘陵の斜面を見たものだが、これからも分かる通り急峻な崖になっており、暴れ川である多摩川によって大きく削られている様子が見て取れる。実際、この場所は東京都建設局から急傾斜地崩壊危険箇所に指定されている。運動場の標高は96m、滝山城の本丸は167mの位置にあり、敵方は多摩川を渡り、かつ急峻な崖を上る必要があるため、城の北側の守りはかなり固いものだったと考えられる。

大石氏と北条氏照との関係

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大石家の拠点になった二宮にある「二宮神社

 滝山城武蔵国の有力者であった大石定重が16世紀前半に築城し、その後に大石家の養子になった北条氏照(小田原北条氏3代氏康の三男)が16世紀半ばに大幅改修したとされてきた。しかし、「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が発行するパンフレット(2018年)によると、北条氏照は定重の子である定久(道俊)の子の憲重(綱周)の養子となり、氏照が初めから築城したと最近の研究では考えられているらしい。ただし別の歴史書では、大石氏が手掛け氏照が改修したという点を強く主張しているので、どちらが正しいのかは未だ解明されていないと考えて良い。いずれにせよ、北条氏照の動向を追うときには必ず、養父筋に当たる大石家の存在を考慮しなければならないので、ここではまず大石家の足跡を簡単に追ってみることにした。

 八王子市の旧家に保存されていた『木曽大石系図』(江戸時代中期に整理されたと考えられている)によれば、大石家は木曽義仲を祖とし1356年、大石信重が多摩郡入間郡の十三郷を賜り武蔵国目代に就いた。信重は現在の埼玉県ときがわ町辺りを拠点にしていたが、その際に現在のあきる野市二宮に居を移したとのことだ。大石家が二宮を拠点にしていたということは15世紀初頭に足利荘代官を務めた大石道伯が「二宮道伯」を名乗っていたことからその蓋然性はかなり高い。ただし、「二宮城」の場所は未だ特定されていない。

 あきる野市の二宮といえば武蔵国六宮の二宮に位置付けられた二宮神社があるところだ。このことは以前にも少し触れている(cf.32普通の府中市2)が、改めて二宮神社について述べてみたい。ここは10世紀前半に編纂された『延喜式』にはない式外社だが、古くから武家の尊崇を集めていたようで、大石家はこの付近に居を構えていたとされている。境内には大石家が築いた「二宮城」があったという記録が残っていたが、発掘調査ではその証拠品は出なかったそうだ。後述する北条氏照滝山城に拠点を構えていたときは、この神社を祈願所にしていた。

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あきる野台地のヘリから湧き出た清水を集めた「お池」

 神社の本殿はあきる野台地の上にあるが、写真の「お池」は台地の下にある。ここも神社の敷地内である。台地のヘリからは清水がこんこんと湧き出てくるようで、池の水量は豊富で、ここから流れ出た水は小川を形成している。二宮の東隣にある町の字名は「小川」であるが、その由来はこの池の水にあるのかもしれない。二宮神社は別の名を「小川神社」「小河大明神」というのだから。

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本殿は台地のヘリの直上にある

 本殿は参道の階段を上がったすぐ上にある。周囲には社叢林が広がっているが、境内自体はさほど広くない。周辺は新興住宅地に変貌しているが、かつては広大な敷地を有し、そのどこかに大石家の館があったのかもしれない。境内の脇には神社の由来が書かれた表札があるが、ここが武蔵国の二宮であったことを誇らしげに述べている。

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大石氏は拠点を浄福寺のある案下に移した

 先に挙げた系図によると、1384年に大石信重は案下(あんげ、八王子市下恩方町)に居を移したとされている。これが事実だとすれば、大石家と八王子との結びつきはこのときに始まったと考えられる。案下は関東山地の東縁にあって、ここから和田峠を通って藤野に抜け、さらに甲斐の国へ至る重要な場所であり、かつては案下道、現在は陣馬街道が通っている。江戸時代、この道筋は甲州街道脇街道としてよく整備され、富士参詣道としても用いられた。浄福寺城は大石信重が案下に移った14世紀末に築城したという記録があるが、現在では16世紀前半、大石定久・憲重父子が築城し、北条氏照も一時ここを本拠にしていたという説が有力視されている。

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浄福寺城の主郭跡は標高356mの所にある

 浄福寺城跡は浄福寺の裏手にある小高い山の上にある。「案下城」「新城」「二城」などの別名がある。『武蔵名勝図会』には、大石氏が高月城(後述)に城居し、新たに城を築いたので「新城」と呼ばれるようになったと記述されている。現在では、浄福寺(城福寺)を開基したのが大石氏で、城を裏山に築いたために浄福寺城と呼ばれるようになったとするのが主流となっているようだ。

 浄福寺真言宗智山派の寺で、創建は13世紀半ばとされているが、16世紀の前半に大石氏が再興して現在に至っている。ひとつ上の写真にあるように、なかなか立派な本堂を有している。

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城跡に続く道

 当初は城跡を訪ねる予定でいたが、何しろ人影はまったくなく、道筋を示す図もなく、林道入口の標高は201m、山頂は364mと比高は163mもあるので登山は断念した。何しろ私は、釣り以外では意気地も根性もないのだ。

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浄福寺境内にあった石仏その一

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石仏その二

 意気地も根性もないが、好奇心だけは少しあるので、登頂を断念した代わりに境内を散策してみた。そして、上の写真にあるような石仏に出会った。真言宗の寺だけに弘法大師像が本堂前にあったが、私にはこの二つの像のほうに「帰依」したいと思った。もちろん、信仰心はまるでないので、ただそのように考えたにすぎないが。

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15世紀半ば、大石氏が拠点にしたとされる高月城がある丘

  先に挙げた系図によれば、大石氏は1458年、加住北丘陵にある高月城に本拠を移したとされる。後述する滝山城とは同じ丘陵上にあり、直線距離にすれば1.5キロほどしか離れていない。この地は系図では「高槻」の名で登場するが、現在では「高月」という風雅な字が用いられている。私は時折、あきる野辺りから都道166号線(瑞穂あきる野八王子線)を南下して東秋川橋を渡って滝山街道に出ることがある。橋を渡るとまもなく、右手に写真にある「円通寺」が見えてくる。その寺の裏山に高月城跡がある。

 円通寺は10世紀初頭に創建された天台宗の古刹であるが、16世紀後半に大石氏の支えによって約3万坪の境内をもつほどの大寺院になったそうだ。もっとも、丘陵の西側は絶えず秋川の流れによって削られ、東側は秋川と多摩川の合流点に位置するため氾濫の危険性を常に留意せねばならないという土地柄だった。反面、西側は関東山地によって視界が遮られるものの、三方の見通しはとても良い場所にあるため敵方の動きを探るには適した立地だった。一方、守勢に回ると耐え抜くのはかなり困難だと容易に想像できる。

 系図では高月城からより守りが固い滝山城に移ったとされるが、近年ではこの説を否定的に捉えることが多いようで、他の資料では15世紀の大石氏の拠点は現在の志木市に残る「柏城」であった蓋然性が高いとのことだ。そうなると、大石氏が14世紀後半に案下(浄福寺城)に居を構えたということの信憑性も失われることになる。

 その一方、1525年に大石道俊(定久)とその子である憲重が城福寺(現在の浄福寺)を再興してして棟札を奉納したという極めて信憑性の高い記録が残っているので、遅くとも16世紀の前半には大石家と八王子との結び付きが出来上がったと考えることは可能だ。その後、高月城を経て滝山城に至ると想像すると、大石家と円通寺との密な関係が生まれたことも首肯できる。

いよいよ滝山城に上る

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滝山城跡へ上る「大手門」口の看板

 先述したように、大石氏が先鞭をつけたかどうかは論が分かれるにせよ。大石家に養子に入った北条氏照が滝山丘陵(加住北丘陵の一部)を開削して、中世城郭の最高傑作と称される「丘山城」を築いたことは確かなようだ。当時の建築物は残っていないが、丘陵の地形を生かしながら巧みな設計によって大規模な空堀を配し、堅固な防御ラインを造り上げている。氏照は甲斐(武田氏)からの守りを重視する必要が生じたため、結局、滝山城は未完成に終わっていると考えられ、1587年頃までには、やはり自らが築城した山城である「八王子城」に移転している。

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八王子市が整備した無料駐車場

 写真の無料駐車場は八王子市が整備したもので、滝山街道(国道411号線)と「瑞穂あきる野八王子線」とが交差する「丹木三丁目交差点」のすぐ東側にある。出入口は滝山街道側のみにある。駐車場のすぐ横にひとつ上に写真にある「滝山城跡入口」の看板が立っていて、ここから本丸まで続く道が伸びている。上り坂だが、入口の標高は127m、本丸付近は167mなので比高は約40m。足元もよく整備されているためハイキング気分で登れる道だ。

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大手口から天野坂を進んで本丸を目指す

 駐車場の近くに大手口があったらしく、写真の道を上っていくと「三の丸」「千畳敷」「二の丸」「中の丸」「本丸」に至る。

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滝山城址・丹木一丁目入口

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滝山城跡・少林寺参道入口

 滝山街道側には「丹木一丁目」「少林寺参道」にも写真のような看板が立てられており、滝山城跡へ観光客に足を運んでもらいたいという八王子市民や滝山城跡愛好家の強い思いを感じることができる。

 私は現在では先の駐車場を利用して滝山城跡付近を散策するが、駐車場ができる以前は、丘陵の北側にある「滝ケ原運動場」か、南側の「道の駅・滝山」の駐車場を利用していた。運動場側の入口は多摩川の河川敷にあり、先述したように急斜面を上ることになるのでやや苦労を強いられるが、一気に本丸にたどり着くことができる。一方、道の駅からは谷地川を渡り滝山街道を少し西に進んで少林寺参道を行き、東京純心女子大学の裏手を通って、加住北丘陵の尾根道に出てから散策路を西に進んで本丸方向を目指すことになる。ハイキングに来たと思うと決して苦にはならないが、滝山城跡そのものを目的にするとやや長い道のりになる。

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少林寺本堂

 少林寺の名からは「拳法」を連想してしまうのだが、ここは曹洞宗の寺で拳法とは何ら関係がない。北条氏照が1570年に開基した寺で、開山した桂厳和尚は氏照の乳母の子だとのこと。かつては参道の西側に八幡宿、東側に八日市宿、横山宿があり、現在の滝山街道の多くは「古甲州道」だった。八王子の原点はこの辺りだったと考えられている。

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境内にあった二つの菩薩像

 少林寺本堂は1887年の大火で焼失し、現在ある本堂は1993年の建築されたものだ。本堂の前には写真の二つの菩薩像が立っていた。右のものは火災にあった菩薩像かもしれないが、災厄にあってもしっかりと屹立している。私に信仰心が少しでもあれば、右の像に向いて手を合わせるかもしれない。

氏照と北条氏の動向

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滝山城には戦略家・氏照が考案した「空堀」が至るところにある

 北条氏照は1542年、小田原北条氏三代氏康の三男として生まれた。46年に武蔵国の有力者であった大石家の養子となった。幼名は藤菊丸で、長じてからは「由井源三」を名乗っていたらしい。55年、氏照は父の氏康とともに古河公方足利義氏元服式に兄弟で唯一参加している。氏康は氏照のもつ能力への期待感が高かったためだろうか。それとも、たまたまだったのだろうか。

 北条氏は1560年代に勢力を拡大し、武蔵国東部、さらに房総への侵攻を強めた。越後の上杉謙信は61年から関東管領の職に就いた(78年まで)こともあって、関東における上杉方の勢力を総動員してこれに対抗した。その象徴的な争いが65年に開始された関宿(せきやど)合戦で、74年まで3回、戦闘が繰り広げられた。関宿は利根川水系の要衝にあり、この場所を支配するということは関東の水運を押さえることにつながっていた。しかも、現在の千葉県野田市にあった関宿城は反北条氏の拠点であって、直接には北条氏対簗田(やなだ)氏との戦いであったが、簗田氏側の背後には上杉氏が存在していた。第一次の合戦は北条側が優勢であったが、上杉勢がこの戦いに加わるという報が入ったために和睦が成立した。

 68年、北条氏側の軍事外交権を掌握する立場になっていた氏照は下総の栗橋城を落とし、ここを拠点として関宿城への攻撃を再開した。これが第二次関宿合戦の始まりだった。ところが、北条氏をとりまく情勢が大きく変転したためにこの戦いは中断を余儀なくされた。それは、武田信玄の「裏切り」であった。

 54年、「甲相駿三国同盟」が、武田・北条・今川間でそれぞれ縁戚関係を結ぶことで成立したが、68年、武田勢が東海地方への進出を画策し駿河侵攻をおこない、三国同盟は破棄された。これに対し、北条氏は今川氏側を支持してその救援をおこなった。さらに氏照は上杉氏に同盟の申し入れをおこなった。甲相同盟が崩壊した代わりに「越相同盟」を成立させ、あわせて甲越の対立を利用しようとしたのだ。しかし、交渉は難航した。これまでの間、北条氏は上杉側についていた勢力をことごとく廃し、北条氏側に取り込んでいたからである。結局、氏照は同盟の成立を最優先し、北条氏側が拡大した領地を上杉氏側に返還することで決着をみた。

 69年、越相同盟が成立し、「血判起請文」を交わした。氏照には上杉謙信から刀一振りが贈られ、氏照はその返礼として太刀一腰を進上した。

武田氏の関東侵攻

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武田軍が攻め入った滝山城三の丸付近

 こうした北条氏や上杉氏の動きに対し、武田氏側は関東への出陣を決定した。まずは埼玉県の寄居にある「鉢形城」(日本100名城のひとつ)を攻略し、さらに南下して氏照のいる滝山城に向かった。いよいよ「滝山合戦」が展開されるのだ。

 『甲陽軍鑑』ではこの滝山合戦は69年の10月2日から4日におこなわれたとされているが、他の資料では武田勢は9月27日は相模国に入った、10月4日には小田原城下が放火されたとあるので、滝山合戦は遅くとも9月下旬(9月27日まで)におこなわれたと考える必要がある。

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滝山城中の丸跡から拝島市街方向を望む

 武田軍の主力は、滝山城の北側を流れる多摩川左岸の拝島付近に陣を構えた。先述のように、滝山城多摩川側は急峻な崖がそびえているので攻略は困難を極める。誰しも当然、滝山城に攻め入るのは谷地川側からと考える。先鋒は甲州から八王子に向かってくる小山田信重の軍勢だった。問題は、その侵入ルートにあった。

 第一は大月、藤野を東進し、北上して陣馬山の北にある和田峠から北浅川沿いを下って案下(下恩方)、そして楢原から加住南丘陵を越えてくるルート、第二は塩山から小菅、小河内、檜原、秋川と進むルートが想定されていた。第一は「旧案下道」(現在の陣馬街道)であり、第二は「古甲州道」(現在の青梅街道、奥多摩周遊道路)である。ところが実際には、小山田軍は「こぼとけ城」を越えて八王子に侵攻してきたのであった。これは江戸時代の旧甲州道中ルートだが、当時は未開拓の道であった。氏照は第二のルートを想定していたようで、とくに檜原付近の守りを固めていた。 

 戦闘は「とどり」(廿里)付近で展開された。現在のJR高尾駅の北側、つまり、現在の「森林総合研究所」や「武蔵陵」がある辺りである。これに続いて武田軍の本隊も谷地川側から攻め入ってきた。信玄の息子である武田勝頼(当時24歳)は三の丸まで駆け上がり、一方、氏照は二の丸にいた。勝頼と氏照の配下の侍大将である諸岡山城とは3回、槍を合わせたといわれている。勝頼の戦死を心配した信玄は戦いの継続を望まず、兵を引かせることになった。武田軍の目的は小田原城攻撃だったからだ。

 それでも滝山城下にある集落はことごとく焼き払われたようである。先の「少林寺」の項で挙げたように、当時の八王子は八幡、八日市、横山の三宿が中心だった。史料には「宿三口へ人衆を出し、両日とも終日戦を遂げ、度々勝利を得て敵を際限なく打ち捕り……」とあるが、これは北条側の記録によるものと思われる。実際には苦戦を強いられたのだった。

 ともあれ、この69年の戦闘によって氏照は丘山城である滝山城の欠陥・限界を知り、次の攻撃に備えるため、「八王子城」の築城を構想したと考えられている。

滝山城跡を歩く

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本丸と中の丸とを結ぶ復元?された「引き橋」

 滝山城跡というより加住北丘陵、都立滝山公園は私の冬場の散策場所であって、とくに城跡の遺構を意識して徘徊したことはなかった。他の城跡のように天守閣や櫓、石垣が残っていたり復元されたりしているわけではないので、散策中でも「城跡」を感じることはなかった。しかし、今回は「城跡」という観点でここを2度訪れたため、今まで見落としていた、というより気にも留めなかった遺構に感心する場面がいくつかあった。さらに、一度は休日に訪れたため、「滝山城跡愛」に満ち溢れるボランティア案内人の人々にも接したので、いつもなら素通りしていた場所にも触れることができたのは大きな収穫だった。

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千畳敷

 大手口から天野坂を上がり、右手に三の丸を見てから少し進むと左手に写真の千畳敷がある。ここには郭があったのか兵士の集合場所だったのかははっきりしない。この隣に角馬出があって城兵が控えているので郭だった蓋然性が高い。現在は周囲を木々が取り囲んでいるので見晴らしは良くないが、北側の下方には「弁天池」があるので、景観の良い場所だったはずだ。

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結構広い中の丸

 千畳敷を過ぎて本丸方向に進むと、右手にこの城の守りの拠点である二の丸があり、その北側に写真の中の丸がある。千畳敷ほどではないがここもかなりの広さをもつ。本丸はさほどの広さがないので、ここが事実上、城の拠点だった蓋然性が高い。北側の見晴らしはとても良く、拝島に控えていた武田軍の様子もはっきりと見て取れたことだろう。写真奥の建物は、2000年まで営業していた国民宿舎の一部が残されたもので、休日にはボランティアガイドの控え場所に用いられている。資料が多く置いてあり、ボランティアの人々に疑問点を質問したり、城内のガイドを依頼することもできる。ここにはきれいなトイレがあり、敷地内にはソメイヨシノが数多く植えられているので、花見シーズンにはかなりの賑わいを見せるとのこと。

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中の丸と二の丸との間の空堀

 中の丸と二の丸とはこの城の最大の要所であるため、間の空堀は相当の深さがある。滝山城の見どころはこの空堀の深さ、その複雑な配置にある。

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本丸。中の丸とは引き橋でつながっている

 本郭があったと考えられる本丸と中の丸とは引き橋(木橋)でつながっている。先に挙げた写真の橋は人々が行き交いやすいように造られているが、当時のものはもっと下方にあり、しかも非常時には簡単に壊せるように設計されていたとのこと。もちろん、下の通路を使っても行き来は可能で、本丸には敵が簡単に入れないように、狭い枡形虎口が造られている。

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本丸内にある井戸跡

 滝山城跡を訪れて一番気になったのが飲料水の確保という点だった。麓には多摩川や谷地川が流れているので、平時であれば水を汲みに行ける。しかし戦時では不可能だ。籠城戦のときに一番困難なのが飲料水の確保だ。この滝山城の本丸には写真のような井戸が残っている。

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井戸の中をのぞく

 井戸の中をのぞいてみた。といっても、本当にのぞいてみたわけではなく、手を伸ばしてカメラにのぞかせたのだ。写真からも分かるように内部はよく整備されていた。本項では先に加住丘陵について簡単に解説しているが、この滝山部分はとくに地下水の確保が容易な地形・地質になっているので、水に不便したことはまずないはずだ。というより、水が十分に確保できる場所に城を築いたのである。

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本丸にある霞神社

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本丸にある金毘羅社

 本丸には2つの建造物がある。これは北条氏や滝山城との関連はなく、後に建造されたものだ。霞神社は1912年、在郷軍人会加住村分会が日露戦争で戦死した15柱を祀ったのが最初で、今日まで220柱が合祀されているとのこと。金毘羅社は江戸時代の創建で、多摩川での水運の安全を祈願して建てられたものらしい。神社は高台の上、寺院は町の中というのが基本形なので、北条氏という主を失った滝山の丘陵地は信仰の場所として利用されるようになったようだ。

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本丸の下にある小さな曲輪から弁天池を望む

 加住丘陵は地下水が豊富だったために、丘陵の中腹には大きな溜池が2つある。本丸の直下にあるのが写真の弁天池で、往時は生活用水を確保するためだけでなく、舟遊びもおこなわれていたらしい。中央に見える盛り土は中の島と呼ばれ、池には欠かせない築山だったそうだ。現在では地下水は大分枯れてしまったようで、水はほんの一部にしか残っていなかった。

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守りの要である二の丸の周囲には空堀が多く巡らされている

 二の丸は城の守りの要で、武田軍が攻め入ったとき、氏照は二の丸に控えて指令を発していた。周囲にはかなりの深さの空堀が造られていて、防御に重点を置いた設計がなされている。以前は堀の中にまで多くの杉が茂っていたが、最近ではこの空堀を当時のままの姿で人々に見てもらえるようにと、杉の伐採が進んでいる。ご苦労様。

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行き止まりの堀(ふくろのねずみ)

 空堀は写真のように行き止まりになっている場所があり、敵側はここで「ふくろのねずみ」になる。この場所の近くにはいくつかの「馬出」があり、ここに守備兵が控えていて、敵兵を一網打尽にする。

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馬出のひとつ

 二の丸の周囲には写真のような小さな曲輪が3つあり、これらを「馬出」と呼んでいる。ここで守備兵は敵の襲来を待ち構えている。

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大池は城のための生活用水の確保だけでなく、麓にある谷戸に水を供給する

  城内の東側に写真の大池がある。写真にも少し写っているが、僅かながら水たまりがある。この池も湧水を集めた溜池として利用されていた。

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大池にある切れ込み

 大池には写真のような切れ込みがあり、ここから下方にある谷戸に水を供給している。この日はほんのチョロチョロという流れではあったが、確かに水は流れていた。

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丘陵の斜面には写真のような谷戸がいくつもある

 丘陵の南斜面には写真のような谷戸がいくつもある。日当たりが良いというだけでなく、丘陵からの湧水が比較的豊富だったためか、農業が盛んだったようだ。ここで生産された農作物は城内の兵士たちに供給されていたと考えられる。

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古峯の道と呼ばれるハイキングコース

 大池の上部からそのまま東に進むと城跡からは離れ、散策には格好の尾根道が続く。ここは「古峯の道」と名付けられているが、公園の看板には「かたらいの路・滝山コース」とある。「かたらいの路」といっても高幡不動から続くわけではないようだが。

 このコースはJR八高線小宮駅を起点(終点)として、滝山城跡から円通寺高槻城跡、東秋川橋を歩いてJR五日市線東秋留駅を終点(起点)とする、全長約10キロ、約4時間の道のりだ。私のような寄り道大好き人間にはとてもこの距離・時間で収まるはずはないので、一日で制覇することは絶対に無理だろう。

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谷戸谷戸との間にあった御嶽神社

 谷戸谷戸との間に「御嶽神社」があることは今回初めて知った。グーグルマップでその場所は表記されていたが、そこに至る道がなかった。というより、グーグルマップの経路ではたどり着けなかったのだ。それでも谷戸をうろつくとなんとか神社に上がる細い道を見出すことができた。滝山街道沿いにも神社の場所を示す看板はなく、ただ山中にひっそりと佇んでいる社だった。

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人の気配がまったくなかった御嶽神社。確かな由緒はある

 御嶽神社で検索すると出てこないが「丹木御嶽神社」で調べると見つけることができる。かつては高月村の山中にあったらしいが、後に滝山城跡の山頂付近に遷座したらしい。それが北条氏照の築城によって16世紀の半ばに現在の地に遷されたらしい。当時は「蔵王権現」との名であったが、明治維新後に「御嶽神社」に変わったとのこと。

 写真以外に建物はなく、人気(ひとけ)もなかった。滝山城跡にも建築遺構はなかった。しかし、つぶさに観察すれば、氏照の創意工夫はいたるところに残っていた。「神は細部に宿る」のか「悪魔は細部に宿る」のかは不明だが、私には神も悪魔もどちらにも存在していない。

 ただ、滝山城跡で出会った3人のボランティアの方々はいずれも「亡霊」の存在を信じているようで、私が次に「八王子城跡」を訪れると言ったとき、異口同音に「午後3時半までに下山したほうがいい。そうしないと怖い思いをするから」との返答があった。怖い思いとは山道が暗くなって危ないからではなく、その時刻になると亡霊が参上するからとのことだった。三人とも、その経験を何度かしたらしいのだ。

 それを聞いた私は、なるべく遅い時間に八王子城跡に出掛けることにした。果たして、生涯初の「亡霊との出会い」が実現するのであろうか。誠に楽しみである。