徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔40〕八王子の城跡を歩く(3)悲劇の八王子城(後編)

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麓にある管理棟。左に行くと御主殿跡、右に行くと本丸跡

豊臣秀吉との決定的対立

 1578年頃より、北条氏(後北条氏、小田原北条氏。以下北条氏と表記)と真田氏とは沼田領問題で抗争が続いた。沼田領は北関東の要衝で関東平野の北西の縁にあり、北に進んで谷川岳連峰にある清水峠(標高1448m)を越えて下れば新潟(越後)の南魚沼市街に入る。北条氏にとって沼田領を支配することは単に上野国を治めるということだけでなく、越後や信濃からの防御点を確保することにつながる。一方、真田氏にとっては、沼田領のある東上野を支配することで領地のさらなる拡大を図る拠点にもなる。こうした地政的な価値を有した場所だけに、沼田領は北条⇒武田(実質は真田)⇒滝川一益(実質は織田)⇒上杉⇒真田と、めまぐるしく支配勢力が変転した。

 1582年の本能寺の変後、真田昌幸は情勢を見て一時的に北条氏側に就いたものの、やがては徳川家康側に転じて沼田領の確保を図った。一方、徳川氏と北条氏さらに上杉氏は、武田家の滅亡と織田信長の死という混乱に乗じて甲斐、信濃、上野の支配権を巡って戦いを始めた。これを天正壬午の乱(1582年)という。この争いは上杉氏と北条氏、徳川氏と北条氏との講和(家康の娘の督姫と北条氏直(5代目)との婚姻など)によって終結し、領地問題はいったん解決した。

 この講和によって沼田領は北条氏に帰属することになったが、これに納得しない真田昌幸は家康に抗議した。家康は沼田の替地を昌幸に提案したが、受け入れずに徳川氏側を離れ上杉氏の配下に移った。85年、徳川氏は真田氏の上田城を攻め、北条氏も沼田城に攻め入ったが、真田氏側はよくこれに耐えて領地を死守した。

 87年、上杉氏は台頭著しい豊臣秀吉に降った結果、真田氏も豊臣側に降った。これにより秀吉の全国統一の障害は関東を仕切る北条氏と奥州の伊達氏だけとなった。そこで秀吉は、家康に命じて大名間の死闘を禁じる「惣無事令」を発することにした。この惣無事令に関しては研究家の間には異論が多いようだが、秀吉がこうした動きに出たことは確かなようであり、その背景には北条氏が沼田領への侵攻を止めないという点がひとつにあった。

 89年7月、秀吉は沼田領問題を決着するための裁定をおこない、沼田の3分の2は北条氏へ、3分の1は真田氏の支配領になることに決した(真田氏はその替わりに信州の伊那郡を得た)。そして、この裁定は北条氏政(北条氏4代目)が年内に上洛することで発効することになっていた。こうした動きによって、沼田城には北条氏邦鉢形城主、氏政の四男)の重臣である猪俣邦憲が城主として入り、沼田城の支城であった名胡桃城(利根川右岸の山城、沼田城とは5キロの距離)には真田氏の重臣である鈴木重則(鈴木主水)が城主として入った。ところが同年11月、沼田城主の猪俣は策略によって名胡桃城を奪取し、これを恥じた鈴木重則は自害に至った。

 北条氏政は上洛を渋り、さらに北条氏による名胡桃城強奪を「惣無事令」違反と考えた秀吉はこれを奇貨として11月、ついに北条氏の本拠地である小田原城攻めを決した。これに対し、北条氏は臨時の小田原評定を開き、北条氏邦は積極的侵攻策で豊臣・徳川勢と戦うことを、一方、北条氏の重臣である松田尾張守は小田原籠城策をそれぞれ提案した。北条氏の軍事外交権を担っていた北条氏照八王子城主)は、当初は弟の氏邦同様に積極策を主張したもののほどなく沈黙し、なぜかその後の発言はまったくなかったらしい。その理由ははっきりせず、病気説や捕囚説などがあって諸事情により評定には出席していなかった蓋然性が高いとのことだ。

戦いは八王子城へ迫る

 秀吉は翌年の小田原征伐を決め、徳川家や真田家など諸大名に5カ条の宣戦布告文を通知した。家康は北条氏とは姻戚関係にあることもあって征伐への参加には戸惑いを見せていたものの、12月10日に聚楽第で開かれた軍議に参加し、北条氏との仲介を断念し戦いへの準備を進めた。一方、北条氏は氏直の名で各所にいる家臣や国衆に対して翌年の1月までに小田原城に参陣せよとの通知を発した。

 こうして90年の2月、豊臣側の約21から22万といわれる軍勢が小田原に向かって出立した。小田原城攻めに関してはいずれ小田原城に訪れる機会があるのでそのときに触れたい。ここでは八王子城の戦いに関係する軍勢の動きを追うことにする。

 八王子城に攻め入ったのは北国支隊と呼ばれる3万5000の軍勢である。前田利家勢18000、上杉景勝直江兼続勢10000、真田昌幸勢3000などが主体で、信濃松代城に集合して碓氷峠を越えてまず、松井田城(群馬県安中市)に攻め入った。守る大道寺政繁は3月20日、碓氷峠にて迎え撃とうとしたが、35000対2000の戦いではどうにもならず、結局、籠城戦を続けることになった。約一か月、猛攻撃によく耐えたが4月22日、降伏して開城することになった。大道寺政繁の軍勢は北国支隊側につくことになり、その先導役を任されることになった。

 北国支隊は5月22日には武蔵松山城(埼玉県吉見町)を攻め落とし、松山城にこもっていた軍勢を支隊側に組み入れ、すでに戦いが始まっていた鉢形城(埼玉県寄居町)に向かった。一方、小田原城包囲を完遂した秀吉軍は、北条氏邦(4代目氏政、八王子城主氏照の弟)が籠城戦を展開している鉢形城へ家康傘下の浅井長政本多忠勝の軍勢を送り、北国支隊と共同して攻め続け、結局、鉢形城は6月14日に落城した。

 北国支隊はいよいよ、北条氏の最大で最強の支城と目されていた八王子城に軍を向けることになった。前田利家率いる北国支隊は、これまでは硬軟両策で降伏や開城を認めて籠城兵の命を助けてきたが、八王子城は一気に力攻めで落とすようにと秀吉からの命を受けていた。しかし前田利家はできれば多くの犠牲者を出したくないと考え、攻撃の前に降伏・開城を求めるための使者を派遣した。が、その使者は刺殺されてしまった。これによって強硬策が展開されることに決定した。

 北条氏照には4500の家臣がいたと考えられているが、精鋭の大半は小田原城籠城策のために八王子城にはおらず、城に籠っていたのは約1000(500とも)の家臣と、守備兵として集められた農民、番匠、大工、鍛冶職人、石切職人、神官、僧侶、山伏、さらに家臣の妻子などであり、合計で3000だったといわれている。八王子城に残っていた有力な家臣には、本丸防御担当の横地監物、小宮曲輪担当の狩野一庵、中の丸・松木曲輪担当の中山家範、山下曲輪担当の近藤助実、金子曲輪・柵門台担当の金子家重、松木曲輪担当の大石照基などがいた。

八王子城跡には3回訪ねた

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本丸跡にある祠

 私が八王子城跡を訪ねたのは今年が初めてだった。その存在はずいぶん前から知っていたし、八王子城山(深沢山)の腹の中を通る圏央道の「八王子城跡トンネル」は馴染み深いものだった。地図でもその場所は何度も確認していたし、グーグルマップの航空写真でその地形も調べてはいた。しかし、昨年まで訪ねることはなかった。理由は簡単で、山道を登るのが大変そうだったからだ。私は山を遠目に見るのは大好きだし、山の名前やその成り立ちを調べるのは趣味のひとつでもある。しかし、登ることには興味はなかった。疲れるのは嫌だし、虫に襲われるのが怖いし、高いところが苦手だからである。北条氏照の前の居城であった滝山城ぐらいなら、登るルートによって異なるものの比高はせいぜい40~70m程度なので、心地よい疲労程度で済むので十分に許容範囲だった。しかし、八王子城跡となると、駐車場の標高(例によって標高の分かる国土地理院のweb地図による)は236m、本丸跡は460mと、比高は224mもある。おまけに森が深いので虫からの攻撃に耐えなければならないのだ。御主殿跡(標高267m)であれば比高は30m程度なので楽ちんだが、それでは八王子城跡を訪ねたと威張ることはできないので結果、それまで出掛けることはなかった。

 しかし、滝山城跡で出会ったボランティアガイドの3人が、北条氏照についてより詳しく知りたいのなら、八王子城跡にも行ってみるべきだと強くそして熱心に勧めてくれた。この言葉だけなら単に聞き流すだけなのだが、別れ際に3人が異口同音に語った内容が私を惹きつけた。「八王子城跡からは午後3時半までに下山する必要がある」とのこと。その理由がふるっていたのだ。「3時半すぎると”怖い思いをする”ことになる」そうで、それは「亡霊が出る」ということだった。3人はボランティアガイドにうってつけの勉強熱心な人たちであり、とっても生真面目な人柄であった。私のような無知な人間に対してさえ、滝山城の魅力を分かりやすく説明してくれた。その3人が真顔で亡霊の話をしたのだ。この顛末は本ブログの36回目「滝山城跡を中心に」の最後に触れている。

 残念ながら、私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことがない。そういう存在と出会えた経験がある人はとても幸せだと思う。そういう邂逅がない不幸な私は、老い先は短いしこのまま魅力的な体験がないままこの世を去るのは誠に残念なことだと思っていた。そこに、亡霊との出会いの機会があることを3人が教授してくれたのである。これは「もう行くしかない!」と、私は決心を固めたのだった。

 224mの比高は克服可能だ。ゆっくり登ればいいのだから。時間はたっぷりとある。遅い時刻になればなるほどチャンスは増大するのだから。ただ、問題は「虫」の存在だ。これは無視できない。もっとも、私の嫌いな虫は「ヘビ」と「クモ」なので、人出の多い日曜日に出掛ければ奴らも人が怖いだろうから出陣数は少なく、たとえ遭遇したとしても何とか攻撃をかわせるのではないかと考えた。さらに登山道から絶対に外れなければ奴らとの接近確率はゼロに近づくのではとも思った。人の道からは外れても山の道からは外れない。この覚悟をもって八王子城跡に挑むことにした。

 それでも決意が揺らがないように、城跡登山の話を知人にすると、彼は「ヘビ」は虫ではないという言い掛かりをつけてきた。無知ほど恐ろしいものはない。「ヘビ」は虫以外の何物でもない。そもそも「虫」という漢字は「マムシ」を象形したのであり、狭義の「虫」はマムシを指すのである。広義の「虫」は本来「蟲」と書いていた。それが後世に簡略化されて「虫」となっただけである。人の心を蠱惑(こわく)する「蜻蛉」や「蝉」や「夜の蝶」にはすべて虫偏が付いているが、この「虫」は元来、「蟲」だったはずだが、そうなると画数が多すぎて書ききれなくなるので省略形が用いられたにすぎない。ちなみに、ヘビの「蛇」だけは省略形ではない。さらに言えば、蛇中の蛇こそ真虫=マムシなのである。

 というわけで、とある日曜日、私は車で八王子城跡へ向かった。道筋はよく知っていた。城跡の近くにある元八王子町や恩方町は私の散策地に加わっていたからである。ただし、都道61号線にある「八王子城跡入口」交差点があることは知っていても、そこを西に曲がることがなかっただけだ。

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根小屋地区を通る道。その先に城山が見える

 交差点から城跡の駐車場までは約1.3キロ。この道は八王子城の「根小屋地区」と呼ばれていた場所にあるもので、かつては道の両側に家臣の居宅が並んでいて、一部には農地もあったようだ。庶民の住む町自体は現在の元八王子町あたりにあった。写真のやや右手に見えるのが八王子城の本丸がある深沢山(現在の(八王子)城山)だ。あの山に登るのである。ここから見れば、電柱よりも低いではないか、と言っても何の慰めにもならない。

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駐車場入り口にある碑とその先にある城山

 駐車場に到着。前述したようにここの標高は236m。ここから写真にある道を進むとほどなく管理棟に至る。本項の冒頭に挙げた写真がその管理棟(標高242m)だ。 ここには八王子城跡を案内してくれるボランティアガイドが詰めていて、北条氏照の居宅跡である「御主殿跡」まで解説付きで案内してくれる。

 ここで少しだけ迷った。先に本丸に行くか、それともまず足慣らしも兼ねて御主殿跡に行くか、である。八王子城について熟知することが最優先であれば、まずガイドを頼んで御主殿跡に行き、そこで得た情報を携えて本丸に向かうというのが常道だと思う。しかし、私の優先順位は「亡霊との出会い」が第二位であった。散策そのものが第一位で、八王子城を知ることは第三位である。つまり身体的行動が一番で知的行動は三番、その間に好奇心が入る。もしかしたら、亡霊とは身心の狭間にある存在なのかもしれない。

 ここに来る数日前から八王子城跡について下調べをしていた。ネット検索では、八王子城跡と入力すると「心霊スポット」の情報が無数に出てきた。私はこういったものにはまったく関心がないのですべて無視したが、もし仮に「亡霊」が存在するとするならば、それはこの世に対する恨みや心残り、無念が原因であると考えられる。そうであるなら、戦場で散った人々よりも、心ならずも死を選ばざるを得なかった人々のほうが、その想念はより強いと考えうる。それゆえ、戦場となった山上の曲輪や本丸、御主殿跡よりも、大勢が自害したとされる「御主殿の滝」周辺において亡霊との遭遇の機会が高いと考えられる。何しろ、午後3時半までは十分に時間があった。という理由から、私はまず本丸に向かうことにした。

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本丸へ至る登山道入口

 ガイドブックによると、管理棟から本丸跡までは約40分掛かるとされている。これは平均的な人々の平均的なペースでの登山時間なので、私のような怠け者はこの倍の時間が掛かると想像される。帰りは下りなので所要時間は40分とするなら、往復で約2時間、山頂で1時間ほど探索しても合計3時間だ。出発時間は午前11時なので、道中が無事であれば午後2時には管理棟まで戻ることになる。それからすぐ近くのガイダンス施設を見学し、午後3時過ぎに御主殿跡、御主殿の滝へ向かうことができる。そちらのほうは道がよく整備されているようだし、高低差もあまりないので体力的には楽だし、虫に襲われる心配も少ない。そうしてその辺をブラブラしていれば、午後3時半という「未知との遭遇」時間に突入することができる。我ながら、実に明瞭なロードマップであると感心してしまった。

 管理棟のすぐ裏手に、上の写真にある登山道入り口がある。本来なら真っすぐ行ける道があったらしいのだが、昨秋の大洪水で谷川に架かる橋が崩壊してしまったため、少しだけ迂回して入り口へと進むことになった。城山(深沢山)全体が八王子神社の境内でもあるので、入り口には鳥居がある。この地点の標高は250m、残り210mだ。日曜日とあって訪れる人は多いが、その半数は登山者スタイルである。そういえば、私が参照した資料の中には、本丸へ行く場合はスニーカーではなく、トレッキングシューズの使用が安心・安全だとあった。しかし、私はスニーカーとサンダル(便所サンダル)しか所有していない。それでも、滑り防止のため、できるだけ底がすり減っていないスニーカーを着用してきた。新品の便所サンダルもあったけれど、さずがに登山向きではない。私にもそのくらいの常識はある。

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最初の登坂路。これがかなり厳しい

 標高275m地点(推定)。この坂が厳しかった。戻るなら今の内だと思った。が、前を行く人は私を簡単に追い越してワシワシと登っていく。振り返れば、ハイカーらしき小集団が私に近づいている。私だけが落ちこぼれになりそうなので、背後の集団をパスさせてから、私はシズシズと歩を進めた。というより、そのような状態でしか進むことが叶わなかった。

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第一関門の金子丸(曲輪)にたどり着く

 きつい上り坂が続き、もはやこれまで、と思いかけたとき、第一関門である「金子丸」が見えてきた。坂が途切れている状態が視認できたからである。

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尾根を削平して造った金子曲輪

 金子曲輪(標高314m)の名は、金子家重を中心とする「金子一族」がこの曲輪を造成し、さらに八王子城攻防戦ではこの曲輪で前田利家軍と死闘を繰り広げたことからその名が付けられたとされている。金子姓は埼玉県入間市にある金子という地名に由来する。八高線金子駅があり、周辺は狭山茶の産地としてよく知られている。お茶を扱う有名な店に「金子園」があるが、そちらは金子の土地とどういう関係があるかは不明だ。

 金子一族は武蔵七党のひとつである村山党から派生した。村山の地名は「武蔵村山市」や「東村山市」が継承している。狭山丘陵の南に村山があり北に金子がある。金子一族は15世紀半ばに北条氏康(北条氏3代目)に降り、氏康の息子である北条氏照に伴っておもに下野国方面の戦いに加わっていた。くだんの金子家重がこの金子一族の出身であるかは不明だが、「氏照=八王子城」の関係を考えれば無縁というわけではなさそうだ。

 金子曲輪は尾根筋を削平して造成しただけに細長く、尾根を登る道以外の周囲は急な角度に落ち込んでいる。この斜面を必死に攻め登る前田軍は曲輪から転がり落ちる大石のためにかなりの犠牲者を出したと言われている。

 金子曲輪の所在地の標高は314m(推定)。本丸まではあと146m上る必要がある。そう考えると大変そうだが、もうすでに78mも上ったと考えれば意気軒昂になる。もっとも、その時点では標高は分からず、ただ、そこが三合目付近だということを知っていただけだが。

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登山路の足場はとても脆い

 金子曲輪で少し休憩をとり、次に目指す「柵門台」(標高365m)に向かってオロオロと歩を進めた。写真から分かるように足場はとても脆く、砕けた小石があちこちに散らばり、70から80度に傾いた堆積岩の角が露出している場所も多く、転ぶと怪我は必至と思われた。

 城山は関東山地に属し、地質は四万十層群の小仏層に属している。約一億年前にできた海成層がプレートの圧縮によって盛り上がったものなので、堆積層が大きく傾斜している。基本的には砂岩と泥岩の互層だが、泥岩層は脱水して固結した頁岩(けつがん、シェール)や千枚岩になっているために剥がれやすいのだ。シェールといっても間にガスは含まれていないのでオイル漏れはないだろうし、もしそれがあればますます滑りやすくなる。

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柵門台。ここに下からの道が集まる要衝

 八合目の柵門台に到着。ここの標高は365m(推定)。駐車場との比高は129m、本丸との比高は95mなので「六合目」ぐらいが妥当だと思われるのだが、石標にそうあるのだから致し方ない。しかし、誰かの悪戯か風化かは不明だが、「八」はなんとなく「六」にも見える。さらに言えば、私の場合は駐車場を起点にしているにすぎないし、城山(深沢山)の標高は三角点の位置からか446m(この場合は後述する小宮曲輪付近の場所を頂上としていると考えられる)とされているので、446÷10×8=356.8なので、柵門台の位置は標高の8割相当になる。

 こんなことを考えても道中が楽になる訳ではないのであまり意味はない。それよりも管理棟から金子曲輪に至る行程より、金子曲輪から柵門台に来るときのほうが、体はずいぶん楽だったような気がした。少しだけだが、山道に体が慣れてきたのかも知れなかった。

 柵門台の名の由来は不明らしいが、この場所は新道と旧道、北側にある陣馬街道(案下道)からの登山道、御主殿を見下ろす場所にある山王台からの道の合流点になっている。それだけに、この場所は金子曲輪に続く第二の要衝と考えられる。

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山腹の至るところに石碑があった

 柵門台から頂上までは九十九折れの道となる。そのためもあってか傾斜はやや緩やかになったような気がした。斜面には写真のような石碑が数多く建てられていた。ここがかつては神護寺山と呼ばれる霊山であり、修験者の修行の地であったことを思い出させてくれる光景だ。

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木々の間から都心の様子が望めた

 山頂が近いのか、ときおり、木々の間からは麓の景色が望めるようになった。八王子の市街地だけでなく、やや霞んではいるものの遠くには都心の高層ビル群も見て取れた。

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九合目付近にある「高丸」

 九合目付近には尾根を削平した曲輪があり、それには「高丸」の名があった。陣馬街道側に向いているので、「搦め手(からめて)」からの攻撃に備えて築かれたものかもしれない。ここから石を転がせば、敵に(一部は味方にも)打撃を与えることは容易なはずだ。斜面があまりにも急で崩れやすくなっているため、先端部は立ち入り禁止になっていた。もっとも、たとえ立ち入れたとしても私には怖くて近づけない。

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九・五号目からの眺望

 高丸を過ぎて道がほぼ平坦になる場所(標高432m)に出ると、視界が一気に開けた。東・南側では斜面が急な場所の尾根を横切るように造られた道だからだ。写真はその地点から東北東を望んだものだ。写真の中央部を横切って見える丘陵地は加住丘陵で、この中に滝山城跡がある。その向こうに見えるのは狭山丘陵で、写真では判明しづらいが西武ドームも確認できた。写真にはないが、筑波山も視認できた。八王子城攻防戦の前には敵の動きを確認するため、周囲の木々はすべて切り取っていたはずなので、視界はさらに良かったはずだ。そのことは敵(北国支隊)も当然、知っていたはずなので、戦闘は深夜に開始されたのだった。

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中の丸から八王子神社に向かう階段

 先ほどの場所からは道は少し下り、そして中の丸(標高429m)に到着した。西側前方に階段があり、それを上がると八王子神社の建物がある二の丸(標高435m)に至る。

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二の丸に鎮座する八王子神社

 二の丸には八王子神社が鎮座している。神社については本ブログの37回・悲劇の八王子城前編にて触れている。

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本丸を南側から守る松木曲輪

 北条氏照の家臣団では随一の実力を有していたと言われていた中山家範が守備についたのが写真の松木曲輪(標高439m)で、眼下には御主殿がある。現在は休憩所・展望台として整備され、登山客はここでの眺めを楽しむ。記念撮影場所でもある。到着時、おばちゃんハイカーの一群がベンチを占拠し、大声で〇〇が見える、△△はあれかも、などと喧騒の最中だった。

 そう、私がここを最初に訪れたのはコロナ騒ぎが拡大しつつあったもののまだ「自粛騒動」が始まる少し前だった。それが、追加撮影で2度目に訪れたときはすでに資料館や管理棟は閉鎖され、さらに3度目は駐車場すら利用できなくなっていた。その結果、資料収集が遅れ、本項の記述が伸び伸びになってしまったのだ。というのは単なる言い訳で、真相は花の撮影が面白かったこと、磯釣りが佳境に入っていたこと、ネットフリックスの『愛の不時着』にはまってしまったことが主な理由なのだが。

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横浜方面の眺め

 松木曲輪からは横浜みなとみらい地区の高層ビル群が見えた。中央にそびえているのはランドマークタワーだ。その背後に横たわっている山並みは房総半島である。実際にはかなりぼやけて見えていたので、350ミリの望遠レンズを用い、さらに輪郭をはっきりさせるために強めのフィルターを使用している。色は変だが、建物や山並みの様子は少しだけだがくっきりとしたようだ。

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相模湾や江の島が見える

 目を相模国方向に転じた。白く光って見えるのは相模湾で、やや左側にある2つの盛り上がりは江の島だ。左側の盛り上がりの上にそびえるのは「江の島展望灯台(シーキャンドル)」である。

 往時、八王子地域に住む庶民の大半は海を見たことはなかっただろう。戦国時代の末期、農民や職人は心ならずも城建設や城の守備兵に徴収され、そこで初めて城山に登り南側の景色を望んだとき、八王子からも海が見えるということを知ったに違いない。多くの人は命と引き換えに。

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標高460mのところにある本丸へ至る道

 松木曲輪から一旦、八王子神社のある二の丸にもどり、そこから階段や登山路を使って本丸の地まで上がる。最後の登り道だ。

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本丸の全景。かなり狭い

 本丸は標高460m地点にある。城山の頂上にもかかわらず平坦なのは造成したためだろう。広さは250平米、80坪弱である。通常、本丸というと堂々とした天守閣がある場所を想像するが、ここにはそういったものの痕跡はなく、そもそも広さがまったく足りない。資料によれば、ここには見晴らし台程度の建物があったようだ。八王子城そのものが権威の象徴というより防御に徹した砦という意味合いが強かったので、策略家であった氏照としては当然の造りだったと考えられる。ここは八王子城に残った家臣団のまとめ役だった横地監物吉信が守備していた。

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八王子城落城のカギとなった小宮曲輪

 小宮曲輪(標高445m)は三の丸とも呼ばれ、狩野一庵が守備していた。ここは私が登ってきた道の真上に位置するため、山頂曲輪の中では重要な防御拠点であった。正面から攻め上る北国支隊の主力の攻撃をよくしのいでいたものの、背後から忽然と現れた上杉軍によって制圧された。それにより守備側の体勢は一気に崩れ、結果、八王子城は落城した。

ガイダンス施設、そして御主殿跡を訪ねる

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城跡に関する情報が集約されているガイダンス施設

  城山からは一気に下り、無事に管理棟まで戻ってきた。時刻は午後2時少し前。松木曲輪で地元の老人(散策と体力維持を兼ねて週に3回は城山に登るそうだ)と話し込み、八王子城跡の見どころを詳しく教えていただいた。彼にとって「亡霊話」は価値領域に加わっていないようで話題にはまったく上らなかった。

 その老人から得た情報をさらに肉付けするために、駐車場の東にある「ガイダンス施設」を訪ねた。解説パネルや映像、さらに氏照やその家臣が使用していた鎧・兜などの武具(のコピー)などの展示品も多く、北条氏の歴史、氏照の生涯、八王子城の歴史とその模型など、とても分かりやすく、そして興味深いものが多かった。

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ベネチア製レースガラス器の複製品

 なかでも、ベネチアで作られたとされるレースガラス器の複製品が私の目を惹きつけた。日本でこのレースガラス器(の破片)が出土したのは八王子城跡のみらしく、氏照が単に有能な軍事外交家として歴史上に存在していたわけではないということの証明として、このガラス器がよく取り上げられるからである。

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大手門があったとされる場所

 ガイダンス施設を後にして、最終目的地である「御主殿跡」を訪ねることにした。管理棟の南にある林道を城山川沿いに西に進むと、写真の「大手門跡」に出る。八王子城跡一帯は国有林として保護されていたが、1951年に国の史跡に指定されて以来、何度も発掘調査がおこなわれている。写真の大手門跡は1988年の調査で、門の礎石や敷石などが発見された。現在は埋め戻されて広場のような形に整備されているのでその姿を見ることはできない。写真にある遊歩道のように整備されている道が御主殿に至るかつての道(古道)だとされている。

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古道は次に挙げる曳橋に続く

 古道は城山川から少し離れた場所にあるが、かつての城山川は水量が豊富だったと考えられているので、やや高い場所に道を造るのは当然のことと考えられる。

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城山川右岸から曳橋を望む

 古道は川の右岸に沿って造られ、写真の曳橋(ひきはし)を渡り、左岸の高台にある御主殿跡に至る。当時のものはもっと簡素で、位置ももう少し低い場所にあったと考えられている。曳橋の名から分かるように、綱で引けば簡単に橋を壊すことができるように造られていた。これは御主殿を敵軍の侵入から防ぐための当時では当たり前のように造られていた様式である。

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復元された虎口

 曳橋を渡り少しだけ下流方向に進むと、写真の虎口(出入口のこと)が見える。当然のごとく「枡形虎口」になっており、敵軍が進入してきたときは左右にある土塁上から攻撃する仕組みになっている。これもまた、当時ではごく普通に見られる様式である。そういえば、根小屋地区の一角にも道路がクランク状になっており、それは氏照が再興したと考えられている宗閑寺(神護寺、第37回に写真あり)付近にその姿は今でも残っている。その道の形状から、そこにも大手門があったと推定されている。

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当時の形を復元した冠木門

 虎口の階段を上がると写真の冠木門(かぶきもん)があり、これをくぐると御主殿(城主の館)の敷地内へ入る。

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敷石だけが残る城主の館跡

 1590年6月23日の戦闘で御主殿は焼け落ち、後には廃墟となって時が過ぎた。土砂が覆い、緑が育ち、御主殿跡はまったく姿を消した。それが発掘調査が進むにしたがって礎石が見つかり、それらには焼け焦げが残っていたことから、館のものであることが判明した。それらは調査が終わると埋め戻されているので、写真に見える石は形も位置もすべて復元したものである。したがって、焼け焦げを見ることはできない。本物はこの地下に眠っている。

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庭園跡も復元されている

 調査の結果、石の配置から写真の場所には庭園があったと推察されている。平安時代に記されたとされる日本最古(世界最古とも)の庭園書である『作庭記』によれば、庭の価値は石の配置で決まると考えられていた。写真の配置が優れたものなのかどうかは私にはまったく不明だが、庭園でありそれには池もあったということが判明しているようだ。池には遣水(やりみず)が付き物だが、これは城山からの湧水を利用したと想像される。滝山城跡にも大きな池が2つあったが、それらは飲料水や生活用水としても利用されていた。こちらの池はその規模からいって、庭園を彩るものだったと思われる。

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会所跡

 調査の結果、ここには会所があったと考えられている。写真のものはもちろんすべてが復元されたもので、これからその会所の広さが想像できる。ここでは、城主と重臣が集まって重要な会議が開かれていただろうし、戦闘直前には多くの人々がここに詰めて入念な準備がおこなわれていたと考えられる。

八王子城落城

 1590年6月22日、北国支隊の主力である前田軍は元八王子の月夜峰(現在、共立女子中高がある辺り)に陣を構え、搦め手から攻める上杉・真田軍は下恩方付近に陣を構えていた。無血開城を要求した前田利家は使者が殺害されたため、実力で城を落とすことを決定した。戦いは22日の夜半に開始することが決まった。しかし、この夜は霧が濃かったようで、実際に戦闘が始まったのは23日の午前2時ころだったという説が有力だ。

 大手口から攻め入ったのは大道寺政繁(元松井田城主)が先導する軍勢だった。大道寺は北条党であったが、松井田城落城後は北国支隊の先導役を務めていた。攻め手は約15000とも35000ともいわれるほどの軍勢、一方の城の守り手は約3000。しかし武士は500~1000ほどで、あとは戦闘経験がまったくない農民、職人や婦女子だった。氏照は小田原城に籠り、4500といわれた家臣団の大半も城主にしたがって小田原城にいた。

 金子曲輪や山王台が落とされたものの柵門台辺りで戦闘は膠着状態となった。とくに小宮曲輪の守りが固く、多勢であるはずの攻め手は打開策を見いだせずにいた。そんなとき、搦め手から攻めていた上杉軍の武将である藤田信吉の配下に属していた平井無辺が八王子城の地理に詳しいということを藤田に告げた。八王子市の北隣に日の出町がありそこに平井という地名がある。平井無辺はその地の出身だったのだろうか、藤田にしたがう前には北条側いて八王子城の普請をおこなっていたことがあった。大道寺のように戦闘に敗れてやむなく秀吉側についた者は何人かいたが、平井のように秀吉陣営に寝返ったのは平井ただ一人だったと考えられている。それだけ、北条側の結束力は強かったのだ。

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搦め手の拠点のひとつになった心源院

 搦め手は下恩方に拠点を構えていた。写真の心源院も搦め手側に占拠され、拠点のひとつになった。北浅川(当時の名前は案下川)の支流である滝沢川(当時は滝の沢)は八王子城の北側を流れ下る谷川だが、その途中に東沢という小さな谷川があり、それを伝って登っていくと小宮曲輪の北側(つまり裏手)に出ることが可能だった。よほど地理に詳しいものでなければ知らない小径で、小宮曲輪を守備していた狩野一庵の部隊も背後はまったく固めていなかったのだった。平井無辺が先導する上杉勢はこの小径を利用して、攻め手がもっとも苦労していた小宮曲輪を一気に攻め落とした。

 先述のように小宮曲輪の標高は445m、一方、中の丸は429m、二の丸は435m、松木曲輪は439mと、小宮曲輪を制すれば他の山頂曲輪に攻め込むのは容易だった。勝敗は決した。本丸にいた横地監物は落ち延び、檜原村辺りで自害した。その他の重臣はいずれも戦いの場所で戦死、もしくは自刃した。

 こうして、難攻不落といわれた八王子城は僅か一日で落城した。平井無辺の裏切りがなければ八王子城は相当の期間、持ちこたえたと考えられている。しかし、歴史に「もし」はない。

 八王子城で生け捕りにされた人々のうち、小田原城に籠城する者の父母妻子は小田原に送られた。戦死した中山家範や狩野一庵などの首は小田原に運ばれて河原に晒された。かくして小田原勢は戦意を失い、7月5日、小田原城は開城され、北条氏5代100年の歴史は幕を閉じ、同時に戦国時代は終了し豊臣秀吉の天下統一が達成された。

御主殿の滝にて思うこと

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御主殿の滝への降り口

 御主殿跡を出て御主殿の滝に向かった。城山川の右岸は切り立った崖になっていて人を寄せ付けず、河岸への降り口は左岸側、つまり御主殿跡の直下にあった。写真にある通り、墓碑があり新しい卒塔婆もあった。新しめの花も手向けられていた。

 御主殿は火を放たれ、完全に焼け落ちた。戦闘で命を奪われた者もいた。山林の中に逃げた人もいた。逃げまどう人の一部は捕虜になったが、捕虜になることをよしとしない人々は自刃し相次いで滝の下の淵に飛び込んで命を絶った。氏照の正室の比佐もその一人だったという説があるようだ。このため、城山川は3日3晩、流れが血に染まって真っ赤だったという言い伝えが残っている。

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水量の乏しい御主殿の滝

 滝の水量は乏しく、多くの人々が入水したといわれる淵もない。河原の全体の様子を見れば私のような釣り人にはすぐ分かることだが、かつては水量が豊富だったということは簡単に判明できる。河川敷の広さを見れば、かつての流路や流量は容易に推定できるのである。流量が減った理由はただ一つ、圏央道の「八王子城跡トンネル」工事が原因だ。施工側もそのことはトンネル設計時点から分かっていたようで、帯水場所を傷付けないように設計し、かつ工事を進めたのだ。しかし、現実には帯水層は大きく破損し城山川は水の多くを失った。現在、リニア新幹線のトンネル工事が静岡県の反対でストップしているが、これも理由は同じで、そのまま工事を進めれば帯水層は破壊され、大井川は多くの水を失うからだ。

 ともあれ、こうした顛末から「亡霊」や「心霊」話が生まれたのだろう。が、私は3度、ここを訪れているが、そんな気配はまったく感じられなかった。当たり前の話で、亡霊や心霊の存在など、マルクス・ガブリエルの言葉を借りて表現すれば、私の「意味の場」にはないからである。人は、2つ丸が並んでいるだけでそれを顔としてイメージする場合がある。「幽霊(化物)の正体見たり枯れ尾花」という言葉があるように、人は恐怖心からススキをお化けに見間違えることができる存在なのだ。幽霊の実在を認めている人のみが幽霊は「意味の場」に現われ、それに出会うことができるである。

 亡霊や心霊とはいったい誰のことを指しているのだろうか?妖怪でもそれに名を与えなければ、仮に出会ったとしても「出たな妖怪、何か用かい?」というだけだが、それらに「砂かけばばあ」「子泣きじじい」「いったんもめん」といった名が付与されることで具体性を帯び、実在性が高まり、認識が共有できる。しかし、亡霊にはどのような名を付けるのだろうか?「比佐の亡霊」と名付けることは可能だが、比佐がそこで自害したという証明は不可能だ。他の名もなき人々がそこで自害したということは事実だろうが、その名を特定できる人のみが亡霊として現れるのだろうか?

 ホモサピエンスは誕生以来、1000億人を数えるという話を聞いたことがある。その数が正しいかどうかは不明だとしても現存するH.サピエンスが80億人だとすれば、今まで920億人が死んだことになるが、その中で納得して、あるいは好んで死んでいった人はどれほどいるのだろうか?大半は「心ならずも」死んでいったはずだ。とすれば、この世界には920億の亡霊や心霊が存在することになる。なぜ、八王子城跡の御主殿の滝付近に偏在する必要性があるのかまったく理解不能だ。

 こういった話をすると、「お前はその存在を信じてないからだ」と言われる。結局、信仰のレベルになる。あるいは「お前はまだ出会ってないからだ」とも言われる。とするなら、亡霊は”a priori"な存在となる。経験に先立つ存在であり、経験がその存在を証明することになるなら、それは帰納的(inductive)な推理にすぎず、今まで仮に亡霊が存在したとしても、これからもそれが存在し続けるとことに確然性はなく、単なる蓋然性にすぎないことになる。

 私は亡霊にも幽霊にもUFOにも宇宙人にも神にも出会ったことはないが、それらはすべて経験的存在ではなく「純粋存在」だと考えている。つまり、アプリオリな存在ではなく、超越的(transzendental)存在なのだ。それゆえ、それらの普遍性は証明できず、その存在を信ずる人々の「意味の場」にのみ実在することになる。私の価値領域にはそれらは含まないので、興味の対象としたときにのみ存在するだけである。

 ただし今回、私が亡霊との出会いを感じることができたならば、以後、亡霊は純粋存在でありながら私の意味の場の中に立ち現れてくるようになる。しかしそれは経験を越えた存在なので、いつでもどこにでも現れるといわけではなく、私が恐れを抱く、たとえば虫が襲ってくるような深い森の中で、あるいは暗い薄野原で、亡霊は私に呼びかけをするようになる。そんな場面に遭遇したとき私は、それに応答し、名付けをすることになるだろう。親近感を増すために。これ以上、恐怖の対象を増やしたくないので。

 が、そんな出会いが生じる可能性は限りなく小さい。なぜなら、純粋存在に出会えるほど人生は長くない。