徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔43〕野川と国分寺崖線を歩く(1)私は野川に入れるか?

f:id:haikaiikite:20200724200150j:plain

野川と中央線と

野川に入ることはできるか?

 「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」

 川について触れるとき必ずといって良いほど取り上げられるのが、上に記した『方丈記』(1212)の冒頭の言葉である。方丈記には、平安時代末期に起きた「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」「元暦の大地震」の五つを災厄として取り上げられ、世の無常が克明に記されている。なお、「辻風」は「つむじ風」と現代語訳されているが、記された内容を見るとその被害の規模の大きさからいって、明らかに「竜巻現象」であり、つむじ風とは異なる。竜巻とつむじ風とはまったく違う自然現象なので現在では明確に区別されているが、13世紀当時はとくに分けられてはいなかったのかもしれない。ともあれ、冒頭の表現といい天変地異の取り上げ方といい、『方丈記』は鴨長明の仏教的無常観が見事に表現された随筆集である。

 11、2世紀は8世紀から続いた温暖化が終期を迎え、気候変動が激しかった時期とされ、それに関連してか自然災害が多発した。また、温暖化の時期に農業生産力が飛躍的に向上したために荘園制度が進展し、それに伴って武家勢力の台頭、院政の展開、源氏と平氏による内戦など、社会的にも大きく変転する時代であった。こうした価値観が転換する時期に『方丈記』は著された。

 「仏の教へ給ふ趣は、事にふれて執心なかれとなり。いま草庵を愛するも咎(とが)とす。閑寂に着するも、さはりなるべし。」と、長明は最終章でも述べているように、世はすべて無常無我なのであり、「ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請の阿弥陀仏、両三遍申して止みぬ。」の言葉で筆を置き、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることすら執着心の表れであるとの悟りに達していた。

 川の流れから「転化」を読み取ることはなにも鴨長明の専売特許というわけではなく、紀元前6~5世紀、古代ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスはすでに似たような思想を表明していた。「君は同じ川に二度と足を踏み入れることはできないであろう(断片91)」というのが彼の有名な箴言である。長明の「行く川の流れは絶えずして、しかも本の水にあらず」は、人や世のうつろいのメタファーであるが、ヘラクレイトスの言葉は彼の育った小アジアのエフェソスを流れるマイアンドロス川(現在のメンデレス川)を見て直截的にそう表現したものかもしれない。もっとも、彼は「われわれは、同じ川に歩を踏み入れるとともに、踏み入れない。われわれは、あるとともにあらぬのだ(断片49)」とも述べているので、彼の箴言もメタファーかもしれないのだが。

 アリストテレスは、ヘラクレイトスも、彼に先立つ前6世紀初頭から半ばに同じ小アジアのミレトスを中心に活動していたタレスアナクシマンドロスアナクシメネスなどと同様、自然学者(ピュシオロゴイ)のひとりと考えていた。たしかに、彼については高校の教科書レベルでは、万物の根源(アルケー)を「火」と考え、「万物は流転する(パンタレイ)」と述べたギリシャ初期の自然哲学者のひとりに位置付けられている。しかし、「万物は流転する」という言葉はヘラクレイトス自身のものでは決してなく、はるか後世の学者あたりがそのように説明したと考えられるのだ。

 これは、ヘーゲル弁証法を教科書的に説明するときに必ず「正・反・合」の図式を使うのと同様、極めて分かりづらいヘラクレイトスの思想を、あえて「万物流転」の一言で簡略化してしまっているのである。へーゲルについては、彼はそんな言葉を使ったことはなく、またそんな図式化はまったくおこなっていない。そもそもその図式ではヘーゲル弁証法の要諦とは真逆の思考法になってしまうのである。なぜなら、その図式には彼の弁証法でもっとも重要な「主体性」がまったく欠如しているからである。

 一方、ヘラクレイトスについては「同じ川に二度と足を踏み入れることはできない」という言葉から想像しうるに、川の水は常に入れ替わっているので(長明と同じ考察法)、たとえマイアンドロス川の同じ地点に二度目に足を踏み入れたとしても一度目の流れとは異なった水に接しているという点は事実であるから、「万物流転」には妥当性があるようにも思われる。しかし、ここで忘れてはならないのは「同じ川」という言葉である。流れる水(質料)はたしかに変転するが、川自体(形相)の同一性までは否認してはいないのだ。

f:id:haikaiikite:20200730172639j:plain

君は野川に足を踏み入れることができた

 この点、ヘラクレイトスの後継者を自認していたクラテュロスは「君は一度ですら歩み入ることはできない」と述べており、川の水はたえず流動しており、流動する事物はそれを言語にすることは不可能であると考えた。つまり、川それ自体は存在せず、存在しえぬものを言語化するのは虚偽だと考えたのである。それゆえ、マイアンドロス川に歩み入ろうにも、そもそもマイアンドロス川そのものの存在を規定することは不可能なので、存在しないものに歩み入ることはできるはずがないとの主張であった。

 これについてアリストテレスは「ひとしく転化するといっても量におけるそれと性質におけるそれとは同じことではない」と退け、事物の把握には「質料因」だけで判断することは誤りであって、その他「始動因」「目的因」「形相因」を合わせた四つの原理を知ることが真の意味での知恵であると指摘している。

 ところで、クラテュロスを師と仰いでいたのがプラトンであり、クラテュロスの思考方法はプラトンの初期対話篇である『クラテュロス』から知ることができる。この対話篇には「名前の正しさについて」という副題があり(これがプラトンのものかどうかは不明)、第一部では、ヘルモゲネスという青年が友人のクラテュロスから「名前は事物の本質を表す」と聞いたので、それが正しいかどうかについてソクラテスと対話をし、第二部では、ソクラテスとクラテュロスとが対話をおこない、クラテュロスが名前の正しさをあくまで主張するのに対し、ソクラテスは「現実には、名前の正しさはある程度、使用者間の取り決めによることもある」という事例を挙げて、クラテュロスへの反駁をおこなっている。

 クラテュロスは、万物は流動するので言語化は不可能と主張する一方、名前は事物の本質を表すという矛盾した表明をおこなっているのである。それに対し、ソクラテスは流動するものの存在を認める一方、決して流動するものではないものとして「美そのもの」「善そのもの」の存在を意識しているのである。

 プラトンは、『クラテュロス』の中ではかつての師であるクラテュロスの考え方を全否定はしておらず、その人物像も否定的には叙述していない。事実、プラトンはクラテュロス的世界観を保持し続け、感覚的なものはたえず転化し、感覚的なものをすべて集めても普遍は生まれない、と考えていた。それが彼の、現実界イデア界との二元論に繋がっていくのである。『ギリシャ哲学者列伝』を著したディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンは「感覚されるものはヘラクレイトスに、知性の対象となるものはピュタゴラスに、倫理に関するものはソクラテスに学んだ」と記している。ヘラクレイトスとあるのはクラテュロスのほうが正しいようではあるが、しかしクラテュロスは「ヘラクレイトスの徒」と一般には位置付けられているので誤りとまでは言えない。

 ヘラクレイトスに戻れば、彼の思想を「万物流転」の言葉で片付けるのは誤りで、ヘーゲルが「ここで(ヘラクレイトスのこと)われわれは弁証法の祖国を見出す」と述べているように、彼の「自然観」=「世界観」は「万物流転」よりも深い意味をもつと考えたい。たしかに、「火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」という断片76があるので、「万物流転」的ではあるが、これだけなら、むしろニーチェの「永劫回帰」の原点と考えたほうが合点がいく。

 「反対するものが協調する、そして異なる音からもっとも美しい音調が生じ、万物は争いによって生じる(断片8)」「すべてはロゴスによって生じる(断片1)」「大いなる死は大いなる分け前に与る(断片25)」などの言葉に触れると、ヘラクレイトスからは「万物流転」を超えた不動の一者の存在の匂いが感じられる。さらに「私は自分自身を探求した(断片101)」「智あるありかたはただひとつ。すなわち、万物をあらゆる仕方を通じて操るその真の叡智を知ること(断片41)」という彼の言葉を知るに至り、ヘーゲルのいう「弁証法の祖国」をヘラクレイトスの思想に見出すことができるのである。

 もっとも、ヘラクレイトスは実に「変な人」であったようで、厭世的になった彼は世間を捨てて草や葉っぱを食べて生活し、やがて水腫を患った。治療のために町に戻ったのだが、その治療法が滑稽で、身体から水気を抜くために全身に牛糞を塗りたくった。が、気の毒なことにそのまま死んでしまった。友人たちは乾いた牛糞をはがそうとしたがそれはできず、彼の死体は犬に食べられてしまったのだった。「犬は自分の知らない人間に吠える(断片97)」。これもヘラクレイトス箴言である。

 ともあれ、野川の流れを見て今回、私が最初に考えたのはヘラクレイトスのことだったのである。私なら近所にある東京競馬場に行って馬糞を塗りたくるかもしれない。しかし、私の死体なぞ、犬も食わない。 

野川の水はどこから?

f:id:haikaiikite:20200730173103j:plain

野川の源流点は塀の内側の森の中にある

 野川は多摩川の一次支川で、世田谷区の二子玉川付近で本川に合流する。水源は国分寺市東恋ヶ窪に所在する日立製作所中央研究所の敷地内の「大池」にある。この池自体が湧水を集めて造られたものなので、源流点は池を形成するための水が湧き出る地点と思われるが、それがどの湧水点を指し示すのか私には不明である。私企業の敷地内にあるので、普段はそこには関係者以外は立ち入ることはできないからだ。年に春と秋の2回、一般公開されるのだが、このときばかりと集結する人が多いらしいので、人込みが嫌いな私はまだ水源地を見たことはないのである。

 野川の全長は20.23キロとされているが、始点は大池、終点は多摩川との合流点なので、長さはどうやって決めているのだろうか?どちらも結構、あいまいな場所なのだ。源流点は見たことはないが、合流点は大水が出ると位置はかなり移動しているのを見掛ける。川の長さは、源流点と合流点との間の流れの中心を結んで測定するらしいのだが、始点も流心も合流点も常に変化していると考えられるので、クラテュロスではないが、「君は一度として野川の長さを測定することはできない」のではないだろうか?

 ところで、日本一短い川は和歌山県牟婁(むろ)郡那智勝浦町粉白(このしろ)にある「ぶつぶつ川」で全長は13.5mである。イルカの追い込み漁で知られている太地町のすぐ南にあり、国道42号線にほど近い場所にあることもあって、それを示す看板を見たことがあるような気もするが、立ち寄ったことはまだない。コロナ禍がなく、さらに梅雨末期の大雨さえなければ、7月下旬には紀伊半島の南端にある古座川にアユ釣りに出掛ける予定があったので、その際に、日本一短い川に立ち寄ることができたはずなのだが。

 「ぶつぶつ川」の名の由来は、水がぶつぶつと地中から湧き出る様子にあるらしい。始点は水が湧き出るところに、終点は本川である粉白川との合流点にあるのだが、水が湧き出る場所などしばしば移り得るし、合流点も本川の水量や流路によって変わってしまうことは大いにあり得る。それゆえ、実際には13.4mや13.6mのときもあろうかと思う。ただ毎日、河川事務所としては川の長さばかりを測ってはいられないので、次の測定は地形が大きく変わったときにおこなわれるのだろう。

 いったい、川とは何か?と問われたら、答えるのに案外、窮する。大雨のときなどよく「道路が川のようになる」などと表現されるが(今年も日本各地で大洪水が発生し、川どころか町全体が湖のようになってしまっている)、これはあくまで「川のよう」であって「川そのもの」ではない。日本では河川法によって川は定義され、一級河川二級河川準用河川、普通河川の四つがあるとされる。しかし、前三者に河川法の適用がおこなわれ、普通河川は除外されている。したがって、雨後にできた流れは河川法のいう河川にはあたらないため、それが13.5m未満の長さであったとしても、日本一短い河川という認定を受けることはない。ちなみに、高瀬舟でよく知られる京都の高瀬川は普通河川に該当するため、法律上は河川とは見なされていないそうだ。

 野川に戻ると、源流点のある大池は窪地になっていることが地図を確認するとよく分かる。その池が所在する「恋ヶ窪」の地名の通り、大池だけでなく一帯には窪地が多い。杉並区にある荻窪も窪地になっていて、今でもその周辺を車で走ると高低差の大きさを実感する。その周辺には阿佐谷、天沼、清水などの地名があり、それらの名前からも高低差がいたるところに存在することが分かる。

 恋ヶ窪は武蔵野台地の武蔵野段丘面の南端に位置し、南側には国分寺崖線があり、崖線の下には立川段丘面が広がっている。武蔵野段丘は、黒土の表土、立川ローム層、武蔵野ローム層、武蔵野礫層、そして基盤の上総層群から成り立っている。ローム層は火山砕屑(さいせつ)物からできており、粘土とそれよりやや粗いシルトがその成分である。その割合は均等では当然なく、粘土の含有割合が高い場所では水は通しにくく、低い場所では浸透性はやや高い。雨水の多くは地下に浸透していくのだが、粘土質の高い場所は帯水性も高いために地下水が溜まりやすくなる。これを宙水といい井戸に利用される。地下水の利用が進むと地盤そのものが沈み込むため、こうした場所が窪地になるのだろうか。

 大池のある日立製作所の敷地内の標高を調べてみたい。例によって国土地理院の「標高がわかるWeb地図」を利用する。研究所の建物がある辺りの標高は76m前後。敷地の西側にある西恋ヶ窪は77m、東側の本町は75mなので、建物のある場所がとくに盛られているわけではない。しかし、建物がある場所の南側は緩やかな斜面になっており、建物から120mほど南側の標高は70m、さらにその先からは傾斜がややきつくなり、50m先の標高は63mである。この標高63m前後のところに湧水点があるようなのだ。この付近の地層を調べてみると、武蔵野ローム層と武蔵野礫層との境目辺りが標高63mほどのところにあるため、浸透性の高い礫層に達した地下水の一部が斜面の間から浸み出たと考えることができる。後述するが、野川の流れに合流する「お鷹の道・真姿の池湧水群」の湧水点も標高63mほどのところにある。さらに、東京経済大学の敷地内にある「新次郎池」の湧水点も62~63mほどのところにあり、小金井の貫井神社の湧き水も同程度の標高地点から流れ出ているのだ。

 大池から発する野川の源流の水も、お鷹の道・真姿の池湧水群の水も、後述する新次郎池から流れ出る水も、貫井神社境内から湧き出る水も、大半が野川の流れとなって多摩川を目指して進んでいく。ひとつとして同じ水はないものの、水たちは同じ原理で生まれ出る。水というヒュレー(質料、素材)は野川というエイドス(形相、本質)にしたがって流れ下る。この限りにおいて、野川は常に変化しつつも同一性を保持しているのである。

f:id:haikaiikite:20200730191537j:plain

野川は武蔵野段丘の縁に侵食谷を刻んでいる

 写真の道は人と自転車と動物が利用できる道で、日立と中央線・西武国分寺線の線路との間にある。西恋ヶ窪方面に住む人にとって、国分寺駅北口に出るには日立の敷地が立ちはだかっているので大きく迂回することを迫られる。その点、この専用道は中央線沿いに住む人にとってはとても便利な道になっている。ただし写真からも分かるように、野川が生み出した侵食谷(しんしょくこく)があるために下り上りを要求されることになる。写真を撮っている地点の標高は71m、道の谷は66m、中央線の軌道は69mのところにある。向かいに見えるタワーマンション西国分寺駅近くにあるもので、その敷地の標高は79mである。

 中央線は標高74m地点にある西国分寺駅まで緩やかに上っていく。一方、西武国分寺線は日立と西恋ヶ窪の住宅地を通過するためにほぼ70m地点を進むが、やがて武蔵野丘陵地の本来の高さにまで標高を回復するために上りに入り、次の恋ヶ窪駅は81m地点にあるため、10m以上の高低差を進むことになる。

f:id:haikaiikite:20200730202833j:plain

野川は正面に見える森の右下にある

 野川は日立の敷地に別れを告げると中央線・西武線の線路の下を通り、南南東方向に流れ下っていく。中央線の車両の向こう側には森が見えるが、その森は野川の左岸側斜面のものである。右手には住宅の屋根の連なりが見えるが、この住宅地は野川の右岸にある。本項の冒頭の写真がその住宅地の際から野川を望んだもので、中央線の向こうに見える木々は日立内のもの、右手の木々が上の写真でいえば正面に写っている森のものである。なお、冒頭の写真における野川の標高は60mなので、中央線の線路との高低差は9mあることになる。

野川の流れを追う

f:id:haikaiikite:20200801103350j:plain

中央線下から150m下流を見る

 中央線・西武線の真下から顔を出し、国分寺崖線を削りながら流れ下る野川は、住宅地に造られた三面コンクリート護岸の通り道に沿って南東方向に進んでいく。住宅地の間を縫うように流れる野川の護岸がこの程度の規模で済んでいるのは、流出量を大池で調整しているためだと考えられる。

f:id:haikaiikite:20200801104148j:plain

多喜窪通りの無名橋から流れを望む

 多喜窪通り都道145号線)は国分寺駅南口から西方向に進み、府中街道と交差する泉町交差点をさらに西へ国立市へと向かう。国分寺駅南口の標高は73m、泉町交差点は81mだが、写真の地点は61mである。このことからも、野川が国分寺崖線の南端に侵食谷を刻み付けていることが分かる。多喜窪の名の由来は不明だが、私は多喜=滝と考え、「かなり急な高低差のある道だから」と勝手に想像している。

 今はコロナ禍で中断しているが、私は月一回、小金井市国分寺市で開かれる懇話会(哲学カフェ)に参加していた。昼の部は武蔵小金井駅近く、夜の部は西国分寺駅近くでおこなわれるのだが、健康のためもあって、さらに時節柄、バスにも電車にも乗りたくなかったので、府中市から自転車を使って移動していた。行きは国分寺崖線を上って小金井に行き、西国分寺へは多喜窪通りを使って移動し、帰りは国分寺崖線を下って南下するといった行程を取った。私の自転車はモーターのアシストがないタイプなので、多喜窪通りの使用はかなりきつかった。そこで、日立中央研究所の北側を通ることに変更した。この道ならば野川を横切ることはなく、東恋ヶ窪の微低地を通るだけなので移動は楽になった。反面、自然の中に身体を置いているという感覚は希薄化された。何事も、いいとこどりはできない、のである。

f:id:haikaiikite:20200801110707j:plain

野川と「お鷹の道・真姿湧水群」の流れの合流点

 国分寺街道が国分寺崖線を上り始める地点のすぐ西側に写真の小さな調整池がある。写真の下側からは野川が流れ込み、写真の上側の右手からは「お鷹の道・真姿の池湧水群」の流れが入り込み、ここで両者の水が混ざり合って一本の筋になり、国分寺崖線の崖下を東に向かって進んでいく。写真の右側に少し写っているのが不動橋で、このたもとには小スペース(不動橋ポケットパーク)がありベンチも置いてあるので、この時期はここで涼を取る人の姿をよく見掛ける。ソメイヨシノの大木もあるので、開花期には見物や撮影に訪れる人も多い。

f:id:haikaiikite:20200801112327j:plain

橋の北側にる石碑と庚申塔

 不動橋の北側には大きなマンションがあるが、そのエントランスの一角にあるのが写真の「不動明王」の石碑と庚申塔である。不動明王は人間の煩悩を消し去ってくれる仏ではあるが、近年では「健康祈願」「交通安全祈願」などにも対応してくれる。不動橋のある地点は2つの流れが合流する場所なので、ここ一帯ではかつて氾濫が多発したのかもしれない。そう考えると、不動明王の存在にも得心がいく。

f:id:haikaiikite:20200801113546j:plain

お鷹の道・真姿の池湧水群の湧水点

 「お鷹の道・真姿の池湧水群」(以下「お鷹の道」に省略)については、本ブログの第4回「国分寺崖線」の項ですでに触れているが、この「お鷹の道」の流れは野川の一次支川(多摩川から見れば二次支川)にもなっているので、改めて取り上げてみた。

 先に述べたように、この湧水点は標高63m付近にあって、明らかに武蔵野礫層から清水が湧き出ている。写真左手の階段は国分寺崖線を上り下りするためのもので、崖線上には「都立武蔵国分寺公園」がある。なかなか趣のある公園で、散策にも適しているので、私の徘徊場所のひとつになっている。春秋の花探しにも出掛けてくる場所だ。

 湧水点はここだけでなく、武蔵国分寺跡の敷地内にある「おたかの道湧水園」からも湧出している。武蔵国分寺跡周辺は国分寺造営のためにか崖線を北側に切り込んでいると思われる地形をしている。そんな条件もあって、他の場所に比べて湧水点の数が多いようで、これらから湧き出る清水を集めて「お鷹の道」の流れが形成されている。

f:id:haikaiikite:20200801122500j:plain

真姿の池に鎮座する弁財天

 弁財天(弁才天、弁天様)は、日本では芸術(とくに音楽)や学問の神としてだけでなく、福徳や財宝の神としての性格が強いが、もともと古代インドでは川の神、水の神であった。日本でも一部ではその性格が引き継がれており、川の要衝には「弁天社」が、「水神社」「瀧神社」などとともに置かれていることが多い。水は命を守るものであると同時に命を奪う存在でもあるので、こうした信仰心が生まれるのは当然のことと考えられる。「お鷹の道」の湧水点に「弁才天」が置かれているということは、湧き水が枯れることのないようにとの祈りが込められているのかもしれない。

f:id:haikaiikite:20200801125157j:plain

野川に合流する直前の「お鷹の道」の流れ

 「お鷹の道」の流れはいく筋もの湧水を集めてやや北を向いて進み、先に挙げた調整池で野川に合流する。もっとも、合流点のある国分寺市東元町の住宅街を通る道を歩き回ってみると、細い道が幾筋もくねくねと曲がりながら進んでいく様子が見て取れる。つまり、住宅街を整備するために野川の流れも「お鷹の道」の流れもそれぞれ一本に集約され、さらに不動橋のところにある調整池でさらに二つの流れが一本化されただけであって、以前は国分寺崖線下の平地にはかなりの数の細い小川が流れていて、それを埋めて道にしたのであり、それを造るために流れを一本化したのだということが、街中の曲がりくねった細道の存在から判断できるのである。

 以前にも述べているように、国分寺崖線は約3万年前、多摩川の蛇行によって武蔵野台地が削られてできたものなので、崖線下にはかつての多摩川の流れの跡が残されいる。崖線から湧き出た清水たちは、その跡をたどっていくつもの小川を形成したのであろう。それらが、開発という名のものにどんどんと整理され、いまでは一本の流れとなって野川と呼ばれているが、野川=野にある川なので、今でこそ固有名詞になっているが、かつては普通名詞の「野の川」にすぎず、一本一本にはとくに名前はなかったか、地元の人が思い思いに名付けていたかのどちらかであろう。

 水はなくなっても、土地が川道の形を記憶しているのである。

f:id:haikaiikite:20200801172927j:plain

下流側から丸山橋方向を望む

 東元町内を散策するとかつての川道の痕跡が見つかるだけでなく、写真のような狭い小径を発見することができて嬉しくなる。右岸の道はとても狭く人と人がすれ違うことさえ苦労する。時節柄、向こうから人が歩いてきたとき、すれ違う際には極度の緊張を強いられることになるだろう。向こうに見える丸山橋は国分寺駅方向に進むには便利な橋なのだが、この小径を行く「勇気」のない人はいったん川筋から離れて住宅街を迂回してその橋に出ることになる。

f:id:haikaiikite:20200801174234j:plain

右岸沿いの道からは、崖線に立ち並ぶ住宅街と駅前のツインタワーが望めた

 農地の向こうの斜面には住宅街が広がっている。国分寺崖線のきつい崖を整地して緩やかな斜面を造り、そこを宅地に造成したのだ。その向こうに見えるのは再開発が進んだ国分寺駅北口にそびえる2本のタワービルである。撮影場所の標高は58m、国分寺駅は73m地点にある。駅まで徒歩圏内にある場所だけに崖を有効利用したのだろうが、毎日の上り下りは結構な苦労を強いられることになると思う。反面、体力の保持・増強に役立つという効能もあるかも。

f:id:haikaiikite:20200801175642j:plain

丸山通りを国分寺駅方向に望む

 写真の丸山通りは、小金井市貫井南町から国分寺駅方向に抜ける道で、国分寺界隈に向かう際によく利用される「裏道」だ。国分寺街道は道幅がかなり狭く、その上に大型バスがひっきりなしに行き交う道なのでいつでも渋滞している。このため、小金井や府中から国分寺の北側に抜けたいと考えるタクシーや運送業者や短気な私などが抜け道として利用するのが丸山通りなのだ。その丸山通りが野川を跨ぐところに架かる橋が長谷戸橋で、その場所の標高は56mである。この道は国分寺崖線を斜めに上り下りするために坂自体は長いものの傾斜は緩やかなので私の愛車(写真内にある自転車)でも移動は容易だ。橋の名前から想像しうるに、ここは緩い侵食谷が形成したものか、あるいは緩い斜面を使って農業をおこなうために開かれたものかのどちらか、あるいは両方だったと考えられる。

f:id:haikaiikite:20200801222720j:plain

鞍尾根橋の下で野川はまた北からの湧水を集める

 写真の鞍尾根橋は、「西の久保通り」が野川を跨ぐ際に架けられたものである。この橋の下で、野川はもうひとつ湧水からの流れ(源は新次郎池)を集める。 

f:id:haikaiikite:20200801223817j:plain

東京経済大学の敷地の東側にある「くらぼね坂」

 写真の「くらぼね坂」は西の久保通りにあり、この道も先に挙げた丸山通りと同様、抜け道として利用されることが多く、こちらは府中から小金井方面に移動する(その逆も)際に利用されている。私自身、新小金井街道が整備される前には何度も利用したことがある。今から40年ほど前のことであるが。写真の左手にある東京経済大学の建物群も、右手にある住宅群もすっかり様変わりしてはいるものの、道の広さ自体はまったくといっていいほど変化していない。

 鞍尾根橋の名は、「くらぼね坂」を下ったところにあるため、そのように名付けられたのかも。「くらぼね坂」についての由来書を見ると、急な崖(国分寺崖線のこと)に造られた坂道で、地面が赤土のために滑りやすく、鞍(馬)でも骨が折れるほど苦労したというわけで「くらぼね」と名付けられたらしい。そうであれば「鞍骨」の漢字が当てはまりそうだが、もっともその名前の由来自体に諸説あるようなので、「鞍尾根」が無難であると考えたのかもしれない。

 この坂の西側には東京経済大学のキャンパスがあり、その東端に「新次郎池」がある。その池は崖線から湧出した清水から形成され、かつては山葵田として利用されていたそうだ。池の周囲は憩い場になっており学外の人も自由に立ち入ることができるが、現在は大規模な改修工事がおこなわれているため、今回はその姿に触れることができなかった。

 この池を大学側が整備したときの学長の名前が北澤新次郎なので「新次郎池」と名付けられたそうだ。国分寺崖線には以前から無数に訪れているので、この池には何度となく訪れたことがあった。緑が多く、しかも崖あり池ありなので、ガキンチョ時代に知っていれば遊び場に加わっていたかもしれない。もっとも、その頃には未整備だったと思われるが。大学の敷地自体には中3の時に入ったことがある。全都でおこなわれる模擬テストの会場だったからで、半ば強制だったので仕方なく受けたのだが、高校受験を希望しない者は受けなくても良いということが分かったので、2度目はサボったという記憶がある。

 新次郎池から流れ出た水は小川となって斜面を下り、ほどなく鞍尾根橋直下でひとつ前に挙げた写真にある通り、野川本流に注ぎ込む。

f:id:haikaiikite:20200801232529j:plain

鞍尾根橋から野川の上流側を望む

f:id:haikaiikite:20200801232622j:plain

鞍尾根橋から野川の下流を望む

 写真から分かる通り、鞍尾根橋の上下で野川の姿は一変する。源流点からこの橋までの野川は三面コンクリート護岸だが、この橋の下流からは護岸の幅は大きく広がり、流れの両側に河川敷があって散策路として利用できる十分な広さが確保されている。もちろん、川遊びもできる。また、護岸上の両側(一部は片側)には遊歩道が整備されており、多くの人々が散歩やジョギングを楽しむ姿が展開されている。さらに、両岸にはソメイヨシノシダレザクラが数多く植えられているので、花見シーズンには大勢の人が野川沿いに訪れる。

f:id:haikaiikite:20200802155715j:plain

貫井神社はかつて貫井弁財天と呼ばれていた

 野川の流れからは北に100mほど離れるが、国分寺崖線の麓に貫井神社がある。貫井とは侵食されて崩れやすくなった川べりの土地という意味らしい。貫井といえば小金井だけでなく練馬区にもあり、その場所は千川と石神井川の間にあって、貫井中学校がある辺りは明らかに窪地になっている。高校教師時代はよくその辺りに出没していたので、高低差の存在は今でも記憶に残っている。

 貫井神社はかつては貫井弁財天と称していたそうだ。「弁財天」に関しては「お鷹の道・真姿湧水群」のところで触れている通り、「弁天社」は水神社であるので、この貫井神社も当然、水とは大いに関係がある。

f:id:haikaiikite:20200802161611j:plain

貫井神社の背後には崖線が迫っている

 神社の背後には国分寺崖線の崖が迫っており、崖際の数か所からは清水がこんこんと湧き出ている。

f:id:haikaiikite:20200802161835j:plain

保護された湧水点のひとつ

 野川の源流点のところで述べたように、貫井神社の湧水点も標高63m付近にある。雨水が立川ローム、武蔵野ロームにゆっくりと染み込んで、武蔵野礫層に達したときにその一部が崖から湧き出てくるのである。神社の境内には池があり、そこから流れ出た清水は南下して野川に流れ込んでいる。

f:id:haikaiikite:20200802162337j:plain

かつての野川の名残り

 貫井神社境内から湧き出た水は写真のような流れとなって野川本流に達するのだが、実はこの流れは、かつての野川の姿だったのである。野川の流れは先に挙げたように、鞍尾根橋から下流は大規模な改良工事がおこなわれ、周囲の地形から考えると不自然なほど整えられている。しかし、かつての川の記憶は至るところに残っており、写真の旧野川の流れもそのひとつで、この流れの痕跡を追うと、もっとも北上している場所は貫井神社のすぐ南側に達しているのである。現在でこそ野川と神社とは100m以上も離れているが、かつて両者は指呼の間にあった。したがって、貫井神社=貫井弁財天は野川の水の神であって、野川に多くの湧き水を与えて流れを豊かにする黄金井=小金井であったとともに、野川の水に頼って生活する人々の守り神でもあったのだ。

f:id:haikaiikite:20200802164307j:plain

かつての野川を記憶している道

 野川は新小金井街道の下を過ぎたあたりから南下を急いでいるが、そもそもこれは国分寺崖線が東に進んでいたものを南東方向に向きを変えたからであって、野川単独の選択ではない。が、いささか南に行き過ぎたようで、小金井市前原町3丁目辺りでほぼ直角に左折し、しばらくは東に進んで崖線に近づく。

 この直角に曲がる場所の右岸側に団地があるのだが、その団地の南側に旧野川の川筋だった痕跡が残る道がある。それが写真の道で、ここの標高は51m、右手はやや高台になっておりその標高は55mだ。その高台に行く手を阻まれて旧野川は、仕方なく左に曲がらざるを得なかったのだと想像できる。

f:id:haikaiikite:20200802173710j:plain

蛇行点の右手に立てられた辨財天

 こうした蛇行場所は氾濫を誘発することが多い。そのためか、この蛇行点の脇には辨財天(下弁天社)が建てられている。

f:id:haikaiikite:20200802174529j:plain

先の道をたどると、旧野川の護岸に出会えた

 先の道は団地を取り囲むようにして野川の右岸に出るのだが、よく注意して道筋を見ると、明らかにかつて川筋であったような細い道が別にあることが分かる。これをたどっていくと、写真の旧野川の護岸に出会えた。このことから、辨財天の前にあった道は、旧野川が蛇行して造った川筋の跡であることの蓋然性は極めて高いと確信した。

f:id:haikaiikite:20200802175119j:plain

整備された野川は前原小学校の下をくぐる

 一方、川筋を整えられた野川は先に挙げた団地の北側を通り、写真のように前原小学校の校庭の南端の下をくぐって学校の東端からまた姿を現す。この間、川沿いの遊歩道は途切れることになるが、一部は小金井街道の旧道だったと思われる「質屋坂通り」から現れ、小金井街道に架かる新前橋の下流からは再び、両岸に遊歩道が姿を見せる。

f:id:haikaiikite:20200802181551j:plain

親水護岸として整備されているので子供連れが多い

 野川は前原町2丁目辺りにも蛇行の痕跡を住宅街の道路に残すが、それに触れると際限がなくなるので、整備された現在の川筋に戻ることにする。写真に見える新小金井橋前後は川遊びを楽しむには最適な場所としてよく整備されている。世に「親水護岸」と呼ばれるものは多いが、実際には設計者の独りよがりであることが多く、川遊びしづらいものになっていることのほうがはるかに多い。しかし、ここ野川に関してはよくできていると思え、毎回、子供たちが川遊びに打ち興ずる様子を見掛ける。もっとも、それは設計者の意図が奏功したというわけではなく、川の規模が小さいために「安全に遊べる」という環境が元々あったというのが真相に近いのかもしれない。

 なお、新小金井橋に至る遊歩道には遅咲きのシダレザクラが両岸に植えられ、4月中旬から下旬の開花期には河原も遊歩道も大混雑する。写真にはその樹木は写っていないが、撮影場所の背後からその並木は始まっている。

 新小金井橋の下流から、野川はまた異なった表情に変わる。そして、その変化が生じるキワに、いくつかの大いなる「発見」があったのだった………次回に続く。