徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔45〕野川と国分寺崖線を歩く(3)深大寺界隈(前編)

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深大寺法相宗の寺として733年に創建された

深大寺縁起ものがたり

 現在の調布市佐須町が「柏野」と呼ばれていたころ(市立柏野小学校の名前として残っている)、その地には右近長者という豪族が住んでいた。右近と虎女との間にはひとりの美しい娘がおり、右近は良き婿を迎えて跡継ぎにしたいと考えていた。そんな折、渡来系(高麗人=高句麗人)の福満という名の青年が娘の前に現れ、青年の猛烈なアタック(恋文を千通出したと言われている)によって、二人は恋に落ちたのだった。右近は氏素性の分からぬ男と娘との仲を裂こうとしたが、娘の心を動かすことはできなかった。右近は実力行使に出て、娘を大きな池の中にある離れ島に隔離してしまった。

 福満はしばらくの間、池のほとりに立って嘆き悲しんでいた。ある日、玄奘三蔵が流沙河(りゅうさが)を渡れずに難儀した際に深沙(じんじゃ)大王に祈願し、無事に河を渡ることが出来たという故事を思い出した。そこで、「私の願いが叶いますなら、一寺を建立して生涯、深沙大王を守り神としてお祈りいたします」と誓ったところ、大王の化身なのか一匹の大きな亀が現れ、福満をその背中に乗せて島に渡らせた。この奇瑞に右近長者は驚き、「神仏の加護を得られる男なら決して只者ではない」と二人の仲を許し、結婚を認めた。

 若夫婦は一人の男の子をもうけた。聡明なその子は成長し、父親の誓いを果たすことになった。中国に渡り、法相宗を修め、仏法の奥義を究めた。日本に戻ると、故郷の武蔵野に一寺を創建した。この人物が深大寺を開山した満功(まんくう)上人であり、寺は深沙大王寺(通称、深大寺)と名付けられた。

 こうして深大寺法相宗の寺として8世紀の前半に創建されたのだったが、9世紀の半ばの清和天皇の時代(貞観年間)に武蔵国国司の反乱が起こり、朝廷は天台宗の高僧を深大寺に送り造反国司の降伏を祈念させた。以来、深大寺天台宗の寺となった。

 以上は深大寺に伝わる「縁起絵巻」の概略のさらに概略である。深沙大王は青年と娘との仲を取り持つキューピッド(クピド)役を果たしているので、深大寺は「縁結びの寺」としてよく知られ、「ロマンティックな恋をしたい女性の願いを叶える」寺なのだそうだ。今回は3度、写真撮影をするためにこの寺を訪れたが、なるほど、他の寺以上に若いカップルや、一人で訪れる若い女性の姿をよく見掛けた。

 私がこれから触れることは、この「縁結び」とは何の関係がなく、(1)武蔵国と渡来人との関係、(2)はたして深大寺近辺に大きな池があったのかどうか、(3)玄奘三蔵の故事と福満との関係性、(4)法相宗から天台宗への転換、以上の4点である。

 (1)武蔵国に渡来人が多かったという点は本ブログでは以前にも少しだけ触れている(cf.第31回・府中は…普通の町です)が、ここでも改めて簡単に触れておきたい。武蔵国には21郡(『新編武蔵風土記稿』では22郡)あったとされているが、このうち直接に渡来人に関係するのは高麗郡新羅郡(のちに新座郡)の2郡である。どちらも入間郡から分かれたようだが、前者は716年、後者は758年に設立されたと推定されている。

 また、多摩郡の狛江郷(現在の狛江市、調布市三鷹市武蔵野市あたり)は「高麗江郷」と記されていたように、武蔵野の開発に際しては大陸から高度な文明を持ち込んだ渡来人の存在が不可欠だったようだ。ちなみに、井の頭公園にある井の頭池には「狛江橋」が架かっている。

 7世紀の朝鮮半島では唐の介入もあって、新羅高句麗百済の抗争が激しく、結局、663年に百済、668年に高句麗が滅亡し、以来、朝鮮半島からはそれまで以上に多くの渡来人が海を渡って日本列島に移動してきた。そもそも、日本列島に人が住むようになったのは、約3万8千年前に朝鮮半島からホモ・サピエンスが渡海してきたことが端緒であったので、半島と列島との交流が盛んになったとしても特別なことではないのだが。

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檀家世話人の中には今でも渡来系の人の名前が残っている

 『続日本紀』などの記録によれば、666年、百済人男女2千余人東国移住、684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す、687年、高麗人56人を常陸国新羅人14人を下野国へ移住、高麗の僧侶を含む22人を武蔵国へ移住、716年、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七カ国の高麗人1779人を武蔵国に移し高麗郡を設置、758年、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移し新羅郡を設置などとあり、7~8世紀の間、武蔵国には続々と渡来人が移住してきたのである。深大寺を創建した満功上人の父親である福満は、上に記載した移住者の中に含まれているかもしれない。深大寺は733年に創建したとされているので、7世紀後半に武蔵国に移住、もしくは渡来してきたのであろうか。

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神代植物公園・水生植物園はかつて湿地帯だったようだ

 (2)右近長者は娘と福満青年との仲を切り裂くために娘を池の中にある島に隔離したとあるが、はたして深大寺近辺にはそのような大きな池があったのだろうか?この話は深大寺の存立根拠に関わる点だけに見逃すわけにはいかない。さりとて、伝承を事実で否定するのも大人げない行為に相違ない。さしあたり、ここでは「池」に見立てられるような場所がこの地にある(あった)のかどうかだけを考えてみたい。

 写真は、深大寺境内の南側にある神代植物公園・水生植物園の湿地帯(通称、深大寺湿地)である。 ここは幅が80mほど、長さは220mほどある。植物園の入口付近にあるテラス(撮影地点)の標高(今回も国土地理院の標高が分かるWeb地図を利用)は40mほどだが、湿地帯は37m程度である。西側には後述する「深大寺城跡」の郭(くるわ)がありその標高は52mで、湿地の東側も「三鷹通り」が通る「高台」になっていて、そちらも52mである。

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神代農場も開析谷を使用している

 その「高台」の東側にも湿地帯があって、そちらは都立農業高校の「神代農場」として利用され、その標高は38mである。さらに、その東側には深大寺南町の住宅街が広がっていて、そちらの標高もまた52mである。ちなみに、国分寺崖線上にある神代植物公園の敷地の標高は55mである。

 以上のことから、2つの湿地帯は武蔵野段丘の南端を豊富な湧水が開析した緩やかな谷筋であることが分かる。水に恵まれている場所ゆえ、少し前までは谷戸が形成されていたようだが、古くはかなり広めの湿地帯であって、三方が標高差15mほどある高台なので、ここを池に見立てることは十分可能なのではないかと思われる。すなわち、湖や大きな池こそないものの、この湿地帯は娘を隔離することが可能なほどの広さをもち、周りを高台が取り囲んでいるため、監視も容易だったのではないか。

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山門の南西側にある亀島弁財天池

 渡来人である福満は、すでに高い灌漑技術を身に付けていた人物であったと推定するなら、彼には右近長者の後継者として十分な素養があり、いささか湧水が豊富すぎるこの地域の土地改良を進んでおこない、この地域の発展に寄与したことによって伝説上の存在になりえたのだと想像することは可能ではないだろうか。

 写真の「亀島弁財天池」は、娘が隔離された島とそれを取り囲む池を模して造られたのだろう。大幅に減水したとはいえ、この程度の池であれば現在湧き出ている清水でも十分に賄いきれるはずだ。

 (3)玄奘三蔵といえば、サンスクリット語の原典を求めて国禁を犯してインドに向かい多くの経典を持ち帰り、それらを中国語に翻訳したことで知られている。その旅の記録である『大唐西域記』(646年、弟子の弁機が玄奘から聞き取りをしてまとめた)によれば、インドではナーランダ僧院で唯識論を学び、北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝の名君とされるハルシャ・ヴァルダナ王に進講したこともあったそうだ。インドから持ち帰った膨大な経典のうち、もっともよく知られているのが『大般若経』であり、その神髄である「空思想」を簡潔にまとめた『般若心経』も玄奘が伝え広めたことで中国、朝鮮、日本などに定着した。

 玄奘その人についてよく知らなくとも、『西遊記』の三蔵法師のモデルであることは誰もが知っている。日本のドラマでは三蔵法師役を夏目雅子宮沢りえが演じているが、東京国立博物館に所蔵されている「玄奘三蔵像」と、その役を演じた彼女らの姿かたちとはまったく似ていない。

 『大唐西域記』では、タクラマカン砂漠で「流沙河」という流砂にあって玄奘は5日間も水を得ることができず死に瀕したおり、砂漠の民に助けられて九死に一生を得たという話が出てくる。ここでは「深沙大王」の名はまったく出てこないが、中国ではすぐに深沙大王との関りが論じられたようで、日本では8世紀初頭には深沙大王伝説が広まっている。このため、砂漠の流砂はいつのまにか水豊かな大河になり、玄奘の砂漠での渇きは大河を渡る際の苦難に転じているのである。中国と砂漠とは結び付きにくいが、中国と大河なら黄河や長江の名を挙げるまでもなくイメージしやすい。

 中国の歴代王朝は「夏」(前2100~前1600年)に始まるとされるが、その夏王朝を開いたのが治水に功績のあった禹(う)である。『書経』によると、堯(ぎょう)帝は禹の父親である鯀(こん)に治水を任せたが失敗したため、今度はその息子である禹におこなわせた。禹は水路を切り開き、それらに堤防を築いて大洪水を防ぐという「疏(そ)」という方式を採用して成功した。その結果、堯に認められた禹は中国の初代王朝を築くことができた。水を治めるものが中国を治めるという伝統はこのときに生まれたのである。現代ですら、中国は治水に苦労している。なお、禹は水神であり龍の化身と考えられている。

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深大寺水源地の際にある深沙大王堂

 このように、中国では砂漠での苦難より水での苦難のほうが身近であるため、『大般若経』を守護する十六善神のひとつである水神・深沙大王(深沙大将)が玄奘の苦難を救ったという故事が成立したのだろう。十六善神図があらわされるときには必ず、深沙大王は玄奘三蔵と対で描かれることになっている。

 福満青年は深沙大王の導きによって恋が成就したのであるから、深大寺には当然、深沙大王の像があると考えられる。この像は門外不出の秘仏中の秘仏で、たとえ住職であっても一代で一回だけしか拝むことができないそうだ。寺に伝わる話では、創建者の満功上人は父親の恋愛成就の恩に報いるために大王の像を祀りたいと念じたところ、ある日、白蛇に身を変えた大王が現れ、「多摩川に行けば神木が流れてくるので、それで我が像を刻め」と告げた。実際に神木が流れてきたので上人はそれでもって大王像を刻み、御神体としたのだとされている。

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千社札納札)がうっとうしい

 我々には深大寺の深沙大王像を拝見することができないが、大王像ならば高野山金剛峯寺にも日光・東照宮にもあるので、その姿を見ることができる。また、深沙大王は毘沙門天多聞天)の化身でもあると考えられているので、毘沙門天の像から想像することも可能だ。姿をイメージする限り、あまりお近づきにはなりたくないが、水神とあれば、アユが釣れないとき、川の中で転倒したときなどにお世話になるかもしれないので、無下にするわけにはいかないのかも。

 (4)深大寺法相宗でスタートしたのは、けだし、当然のことである。上に述べたように、深沙大王と玄奘とは密接な関係性を有しているからだ。玄奘三蔵はナーランダ僧院で学んだ唯識学を弟子たちに伝え、そのひとりである慈恩大師・基が法相宗を開いたのだった。

 日本においては、留学僧の道昭が玄奘から直接(同室で暮らしながら教えを受けたらしい)学び、帰国後は飛鳥寺元興寺法興寺とも)に禅院(瑜伽行(ヨーガ)をおこなうためか?)を建立して、唯識学の研究に努めた。ただ、彼は社会活動もおこなっていて、『続日本紀』には「天下を周遊して、路傍の井戸を穿ち、諸の津済(港のこと)に船を設け橋を造る。山背の国の宇治橋は和尚(道昭のこと)の造る所なり」とある。また、彼は死後、火葬に付されているが、これは記録に残る日本で最初の火葬といわれている。『続日本紀』には「弟子たちは遺言の教えを奉って栗原に火葬す。天下の火葬は之より始まれり、と世伝えて云う。火葬し終わって親族と弟子相争って、和上の骨を取り集めんと欲するに、つむじ風たちまち起きて灰骨を吹き上げて終にその行くところを知らず」とある。きっと「千の風」が吹いたに違いない。

 この道昭の弟子と言われているのが、聖武天皇の命によって大仏建立の勧進をおこなった行基である。彼もまた師匠に倣って貧民救済、治水、架橋などの社会事業をおこなっており、多くの功績によって日本最初の大僧正の位を得ている。

 ちなみに、道昭も行基百済人の後裔である。

 法相宗南都六宗のひとつ(他は三論宗成実宗倶舎宗華厳宗律宗)として奈良時代に栄えた教えで、現在は興福寺薬師寺大本山である。この宗派が伝える唯識思想は極めて難解で、俗に「唯識三年、倶舎八年」と言われる。これは「桃栗三年、柿八年」とは異なり、まず倶舎を八年研鑽して、その上で唯識を三年学べば何とか理解できる可能性がある、という極めて高度な思想内容を有しているということを端的に表している言葉なのだ。とてもではないが、100分de学べるような代物ではない。

 倶舎とは世親(ヴァスバンドゥ)が著した『阿毘達磨倶舎論』30巻であり、唯識の経典は玄奘が漢訳した『成唯識論』10巻である。『大正大蔵経』では倶舎論30巻は160頁に、唯識論10巻は60頁にまとめられている。1年で20頁学習・会得するなら、倶舎論は8年、唯識論は3年で終了することになる。つまり「唯識三年、倶舎八年」となるが、これはたまたまの偶然であろう。

 法相の法は「存在」、相は「あり様」を表し、存在すると思われるものには客観性はなく、唯々、自らの心によって顕現された主観的なものに過ぎないというのが唯識(唯、識があるのみ)の基本的な考え方である。人には前五識として眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚)、舌識(味覚)、身識(触覚)があり、これに意識を加えた六識が表に現れる意識だが、その下層には二つの無意識層があり、七識として末那識(自己自身に執着する心)、八識として阿頼耶識(すべての存在を生じさせる根本心)があるとするものである。この考え方に立てば、自分自身はおろか他者も、世界も宇宙も客観的な存在ではなく、ただ自分の心が生み出したものにすぎす、自分の心が消えてしまえば(死もそのひとつ)、他者も世界も宇宙も消滅するということになる。つまり、絶対的な存在などひとつとしてなく、すべては相対的でありかつ「空」であるという考え方なのだろう。そうであるならば、唯識思想もまた相対化されなければならず、相対者の立場で絶対者を否定してもそれは単なる相対的否定にすぎないと思われるのだが。

 この唯識思想に没入してしまったのが晩年の三島由紀夫で、この立場に立って書かれたのが、彼の最後の作品である『豊饒の海』四部作だ。これは平安後期に書かれた『浜松中納言物語』(菅原孝標女が著作者であるとされる)を下敷きにして、輪廻転生をテーマにした小説である。私には三島の作品の良さはさっぱり理解できず、彼の作品を読む機会はさほど多くはないが、この四部作だけは、彼が割腹自殺直前に書かれたものであること、輪廻転生をテーマにしているらしいので頑張って読んでみた。ただし、精読はしておらず、完全に読み切ってもいない。三部までは輪廻転生を「肯定」しているが、四部の『天人五衰』では転生を否定している(ようだ)。唯識論に立てば当たり前の話で、世界は客体としては実在せず、唯識論自体も自らの識が仮の説として顕したに過ぎないものなのであるから、転生の実在を最後まで認めてしまうなら、唯識論そのものの否定につながるからだ。この点において三島の思想や行動は正しいと思われる。

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深大寺は現在、天台宗の寺である

 先に述べたように、深大寺は9世紀の貞観年間に法相宗から天台宗に転じた。これには政治的な理由があったようだが、その後の仏教史を考えると天台宗への転換は間違いではなかったように思われる。

 天台宗は「本覚思想」を特徴とする。煩悩即菩提や娑婆即浄土といったように、迷いと悟りを対峙的に捉えるのではなく一体化するのである。それゆえ、すべての存在に仏性がある考えており、それを端的に表現したものが「草木国土悉皆成仏」である。同様な言葉は『涅槃経』にもあり、「一切衆生悉有仏性」と表現されている。人間や動物に仏性があるというのは理解可能だが、草や木や石や土にまで仏性があるというのは言い過ぎの感がある。反面、草花を育てるとき、美しい音楽を聞かせたり優しい言葉を掛けると綺麗に咲くという話は案外よく聞くし、実際、『愛の不時着』にもそうした場面がある。

 こうした天台宗の立場に法相宗からの批判が上がった。これが有名な「三乗一乗権実論争」である。一乗を主張するのは天台宗最澄で、声聞、縁覚、菩薩の三乗があるのはあくまでも衆生を教え導くための方便で、実際には法華一乗の教えから差別はなく、すべてに仏性があるとする。一方、三乗を主張するのは法相宗の徳一で、三乗によって悟りに至る境地は異なり、法華一乗は性の定まらない衆生を説くための方便であるとするものである。

 私は個人的興味からこの論争(実際にはおこなわれたのは著作物による対立)を調べたことがあったが、徳一の圧勝であると思われた。しかし、現実には天台宗のその後の「発展」を見れば明らかで、最澄比叡山延暦寺伝教大師は誰でも知っているが、徳一の名前は仏教に興味のある一部の人にしか知られていない。ただし、空海は徳一を高く評価していたようで、最澄とは絶縁したが、徳一には弟子を派遣したり、経典の書写を依頼したりしている。

 上にも触れたが、法相宗大本山のひとつに薬師寺があり、そこは私が奈良に出掛けた際には必ず立ち寄る寺である。行くたびに建造物は綺麗に改修されているが、その予算の出所は高田好胤が始めた百万巻写経勧進である。『般若心経』を写経したものを一巻1000円の供養料とともに薬師寺が集め、これを荒廃した建造物の改修費に充てたのである。高田好胤は話がとても上手であり、修学旅行で薬師寺を訪れた多くの生徒は高田ファンになった。私の姉もその一人で、せっせと写経をおこなってはかなりの数を薬師寺に送っていたのを記憶している。法相宗の寺には檀家制度がないので墓所などによる収入は期待できない。拝観料収入にも単なる寄付にも限りがある。その点、写経は送る人にも受け取る側にも双方に良き繋がりが形成される。

 興福寺はどうだろうか?そちらには、なんといっても「阿修羅像」がある。

 以上の4点が、私が深大寺を訪れた際に抱いた疑問に対する自分自身への簡単な解題である。

深大寺そばを食べずにそばを語る

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深大寺と聞いて、まず思い浮かぶのは「そば」である

  深大寺という言葉を聞いて、多くの人がまず最初に思い浮かべるのは「そば」であろう。それほど、深大寺とそばとの結び付きは強固なのである。何しろ、伝承によれば400年以上の歴史があるようなのだ。具体的には、3代将軍徳川家光が鷹狩りの途中にこの地に立ちよってそばを食し、その味の良さを激賞したという話や、上野寛永寺(江戸時代の深大寺寛永寺の末寺であった)にそばを献上したところ高い称賛を得たという話が残っているという。さらに、江戸後期の御家人かつ随筆家であった太田南畝(蜀山人)はこの地のそばを食し、その味の良さを広く宣伝したことから多くの文化人に愛されるようになったそうだ。

 1823年にまとめられた『新編武蔵風土記稿』にも「当国(武蔵国のこと)ノ内イツレノ地ニモ、蕎麦ヲ種ヘサルコトナケレトモ、其品当所(深大寺村のこと)ノ産ニ及フモノナシ。故ニ世ニ深大寺蕎麦ト称シテ、ソノ味ヒ極メテ絶品ト称ス」とある。この点で留意しなければならないことがひとつある。深大寺そばとは深大寺の門前そばを指すのではなく、深大寺村のそば総体を言うということである。それをさらに証拠付けるのが1836年に上梓された『江戸名所図会』の説明文で、「深大寺蕎麦 当寺の名産とす。これを産する地、裏門の前少し高き畑にして、わずかに八反一畝の程よし。都下に称して佳品とす。然れども真とするもの甚だ少なし。今近隣の村里より産するもの、おしなべてこの名を冠らしむるといえども佳ならず」とある。狭義の深大寺そば深大寺の敷地内(現在、神代植物公園が存在する場所のことである)で産したそばの実から作られたものを示していたようだが、やがて、その評判にあやかり周辺の土地でとれたそばの実からつくられたものも、こぞって深大寺そばを称するようになったのである。

 深大寺の門前にある写真の「元祖嶋田家」は、江戸末期の文久年間(1861~64年)に創業されたとある。深大寺の門前にあったそば店はここぐらいで、しかも本業は農業で、客が来ると農作業を切り上げて、それからそばを打ってゆでていたらしい。

 深大寺そばが大衆に広まったのは昭和30年ごろかららしいので、日本の高度経済成長の始まりとほぼ重なる。生活に少し余裕ができた人々が深大寺を訪れるようになると、「深大寺そば」の名を掲げる小さな店が嶋田家以外にも出来て、それなりの評判をとるようになったらしい。

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神代植物公園深大寺門。深大寺のすぐ北側にある

 本格的な転機は1961年(昭和36年)、深大寺の裏手に都立神代植物公園が開園されたことだ。寺詣でよりも花詣でのほうが大衆には圧倒的な人気がある。これによって観光客の数は一気に増え、「ついでに深大寺にも寄ってみよう」「名にし負う深大寺そばを食そう」という人々が多数訪れるようになり、「深大寺そば」の名を掲げる店が次々と出来てきたのであった。

 現在、深大寺そば組合加盟店は20数軒ある。各店のWebサイトをのぞいてみると、そば粉は北海道、長野、青森産などを使っているということを堂々とうたっている。かつて、深大寺そば深大寺の敷地内で産するそばの実を使っていた。それが深大寺村全体に広がり、今では深大寺とは無関係な土地のそばの実が使われている。深大寺そばは「深大寺内のそば」から「深大寺のそばのそば」になり、今では「深大寺の門前でもてなされるそば」へと転じている。それでいいのだろう。美味しければ良いのだし、美味しいと思って食べるのも良いし、深大寺そばを食べたという実感がもてさえすればそれもまた良し、なのである。

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地元愛を高めるためもあってか小学校でもそばを育てている

 そばは、タデ科ソバ属の一年草である。元来、焼き畑で作られていた品種なので、肥料はほとんど不要だ。排水が良い畑が必要だが、水分が多いと発芽率は極端に低下するので、稲作のような大量な水は必要としない。生育温度は0~45度なので日本のほとんどの場所で育てることは可能だ。

 深大寺のある武蔵野台地の上段の武蔵野段丘も下段の立川段丘も案外、水には恵まれていない。沖積低地にこそ多摩川があるが、武蔵野段丘面には川がないゆえに玉川上水が整備された。立川段丘の国分寺崖線際には野川があるので水が豊富のように思われるが、その流れは湧水を集めたものなので水温はやや低い。このため、水田耕作はあまり盛んにはおこなわれていなかった。イネは元来、やや暖かい地方を好む品種で、寒冷地でも育つように品種改良されたため、北陸や東北、北海道地方でも栽培が容易になったのである。

 この点、そばは環境からの縛りはイネよりもずっと小さいために、武蔵野台地の環境には適していた。ロームは水はけが良いのでそばには適し、火山灰は地味に恵まれていないがそばは養分をさほど必要としないので、この点も武蔵野の地に適している。深大寺に限らず、そばの栽培がこの地に広まったのはその性質上、必然だったように思われるのだ。香川県は瀬戸内気候のために雨が少なく水田耕作には不向きだったために小麦栽培が進み、その結果、讃岐うどんが誕生したとも言われている。深大寺近辺も、水には恵まれているもののそれは冷たいために水田耕作には不向きだったためにそば栽培が進み、その結果、深大寺そばが誕生したのかもしれない。

 武蔵野地方は水田耕作には不向きのために小麦栽培が盛んで、その結果、武蔵野うどんが誕生した。「山田うどん」(正式にはファミリー食堂山田うどん食堂)はその一派であり、私も十年ほど前まではよく通っていた。

深大寺そばを食べずに深大寺を巡る

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くねくねとした深大寺通り

 深大寺を訪れるのは今回が2度目である。もっとも、今回は暑さもあって一日ではとても多くを見て回ることができないので、3回も出掛けてしまった。したがって、通算では4度ということになる。

 1度目は母親のお供であったこと、今から50年近く前であったので、記憶にはほとんど残っていない。ただ、そのときは「深大寺そば」を食したことは確実である。それが唯一の記憶かもしれない。ただし、味はまったく覚えていない。そもそも、そばの味の違いは私には不明なのだ。

 私にとって、そばの記憶は京王線府中駅にあった「陣馬そば」のみと言って良い。知人には、そばを食べるだけのために日帰りで信州に出掛ける馬鹿者が3人いた(各々は知人関係ではない)が、私なら断然、陣馬そば推しなのだ。何しろ、家からは2分程度で行けたのだから。かつ、とても安く、立ち食いなのですぐに食べられたからだ。行って食べて帰ってくるまで10分で足りた。なぜ、好き好んで1日かけて信州くんだりまで出掛ける必要があるのだろうか?信州そばを食べることが目的ではなく、信州でそばを食べるという体験を味わうことが目的だろうと私は考えたのだが、彼らはすべて、その考えを否定した。そばが美味しいのだという。しかし、彼らは、コンビニ弁当を食べても、山田うどんを食べても、くるまやラーメンを食べても美味しいというので、やはり味音痴の馬鹿者には相違なかった。

 今回、深大寺を訪れたのは国分寺崖線や野川を訪れる散策の続きであったこと、神代植物公園をのぞくついでであったことが理由なので、深大寺そばは目的のひとつですらなかった。そばはともかく、寺巡りは趣味のひとつなので深大寺散歩には興味があった。ただし、関心があるのは寺そのものではなく、あくまで「寺のある風景」なのだが。

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復元された逆川にあった水車小屋

 ひとつ上の写真の「深大寺通り」を車で走ることは案外、以前から良くあった。景観はまずまずで雰囲気のある道だし抜け道としても便利だったからだ。かつては、バス通りにしてはかなり狭かったが、現在では道はよく整備されたので以前よりかなり走りやすくなった。しかし、整備されたとはいえ、くねくねと曲がりくねっている道筋は不変である。山坂道であるならともかく、ここは平坦な場所にある道なので、理由はひとつしか考えられない。ここにはかつて川が流れていたからで、その曲がりは川の蛇行を表しているのだ。後にも触れるが、ここには逆川(さかさがわ)が流れ、そこには小麦やそばを挽く水車小屋があった。逆川の名の由来は、武蔵野の川は通常、西から東に流れるのだが、この川はその向きが逆だからだそうだ。しかし、川筋も整備されてしまったので、今では西から流れている。とはいえ、順川に名称変更はされていない。

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深大寺通りから山門に至る参道

 深大寺通りはバス通りでもあり、京王バス小田急バスの停留所がある(別々に)。京王バスの停留所のすぐ東側に、通りから北に向かい山門に至る参道がある。長さは100mほどだ。この参道には4軒のそば屋兼土産物店がある。

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鬼太郎茶屋は水木しげるワールドを展開している

 4軒のうち、一番目立つのが写真の「鬼太郎茶屋」だ。深大寺のある調布市には水木しげるは1959年(37歳)のときからずっと住んでいる。「売り物」の少ない調布市にあって水木しげるワールドは一番の売れ筋「商品」といっても過言ではなく、調布市コミュニティバスの愛称は「鬼太郎バス」である。鬼太郎茶屋にも水木しげるの世界が全面展開されており、鬼太郎やねずみ男以外にも多くのキャラクターが飾られている。なお、水木しげる大阪市生まれだが、幼少期は父親の故郷である鳥取県境港市で過ごしており、境港でも「水木しげるロード」など、水木のキャラクター花盛りである。私自身、漫画大好き人間だったので水木の作品には数多く触れていた。しかし、水木が境港市で育ったということは、そこを拠点にして島根半島によく釣りに行くようになってから知った。

 鬼太郎茶屋の北側にあり、山門にもっとも近い場所にあるのが先に挙げた「元祖嶋田家」である。先の写真では、いかにも元祖らしい佇まいだが、山門側から見ると、下の写真のように「そば」だけでなく深大寺の二大名物である「だるま」も数多く扱っている。

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山門側から見た嶋田家の店先

 冒頭の写真にある「深大寺蕎麦」の幟を掲げているのが、嶋田家の対面にある「そばごちそう門前」である。「深大寺そば」を前面に掲げる店は案外、敷居が高そうな店構えをしているものが多いが、ここは比較的気軽に立ち寄れそうな店だ。私はそばを食する気持ちはまったくなかったが、この店のメニューをちらりと見たとき、 下の写真のある言葉が気に入ったので、もし今後、深大寺そばを食する機会があったとすれば、この店に入りたいと思った。

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そばごちそう門前にあったメニューのひとこと

 そばアレルギーというものは実際にあり、直接の知人ではないが、広島に住む釣り名人の仲間で、やはり釣りの世界ではよく知られていた釣り人が、このそばアレルギーでショック死したことがあった。彼はそばアレルギーを自覚していたはずなのに、釣りの帰りに高速道路のパーキングエリアにある立ち食いそば店に入り、うどんを食べてアナフィラキシーショックで死去したのだ。その店では、他でも多く見られるように麺のゆで湯がそばもうどんも共用だったので、彼のうどんには少量ではあったが、そばの成分がコンタミネートしていたのだった。

 こうしたことは近年ではよく知られているので、ゆで湯の共用は少なくなっていると思う。そばアレルギーの人は深大寺そばを敬遠するだろうし、「そばごちそう門前」でうどんを食する人もコンタミネーションには留意するはずだから心配はいらないだろうし、そもそも店の方でも気を付けているはずである。

 深大寺そばの店でうどんを食す。私の場合、こちらの行為に興味がある。

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前を行くオッサンが山門をくぐるところ

 冒頭の写真にあるように、深大寺の山門はかなりの年季が入っている。深大寺の建物のほとんどは1865年(慶応元年)の大火災で焼失した。被災を免れたのは、山門と、上の写真の右手に見える常香楼だけであったらしい。

 山門に残る棟札には、建造は1695年と記録されている。簡素な造りだが、なかなかの趣があって、印象に残る建造物である。

 前を行く見知らぬオッサンが山門をくぐった。そのあとを継いで、私も境内に入った。生涯、二度目の深大寺参りの始まりである。

 *次回に続きます