徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔51〕3ケタ国道巡遊・R411(5)~盆地の辺縁から甲府市街へ

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愛宕山から富士山を望む

山があっても山なし県

 ガキンチョのとき、”県名言葉遊び”というのが流行った。今もあるかもしれない。「すべってころんで大分県」「山があっても山梨県」というのが代表的で、それ以外は無理矢理にこじつけたようなものだったのでとくに記憶はない。

 大分県のほうは言いやすさはあるものの、「すべってころんでアィッチ県」だって可能であり、大分県人がとりわけころびやすいという訳でもなさそうなので、単に語調が良いというだけのものだ。それに対し、山梨県は確かに山だらけだし、それなのに”山無し”というのが面白いので、誠に秀逸な作品だと思った。これを最初に考え(だれでもすぐに思いつくが)、そしてそれを堂々と表明した人(人々)は立派というほかはない。

 12,3歳の頃だったか、私がたまたまラジオを聞いていたとき、有名な作家がこの「山があっても山梨県」について触れ、「山梨県は周りをすべて山の連なりに囲まれている。山々が成した土地なので”やまなす”、それが転じて”やまなし”になった」というようなことを語った。私は感動し、翌日、それを悪ガキ仲間に教えた。一同は「ふうーん」というだけで、すぐに、「山があっても山梨県」と囃し立てるばかりだった。私は知性の無力さを実感し、結局は仲間と一緒に、いや先頭に立って、かの言葉を叫んで回った。

 大学受験のために社会科では「日本史」と「地理」とを選択した。「日本史」では律令国制について学び、山梨県は「甲斐国」であり、それは「山梨郡」「八代郡」「巨麻(巨摩)郡」「都留郡」からなることを知った。「地理」では、山梨郡甲府や塩山、勝沼あたりで、富士山や御坂山塊、大菩薩連嶺の東側は都留郡、南アルプス八ヶ岳巨摩郡に属することを知り、たしかに山梨郡には大菩薩連嶺の西側や奥秩父山塊の一部が属しているものの、その中心は甲府盆地にあることを学んだ。つまり、山梨郡は決して”山によって成された場所”だけではなかったのである。山梨県については後半に触れる予定なのでこれ以上は述べない。ただ一言、「作家というのは、実にいい加減なことを言う存在だ」。

盆地のヘリで樋口一葉に出会う

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県道201号は「一葉の道」でもあった

 県道201号線(以下r201)は前回に触れたように、「塩山停車場大菩薩嶺線」という通称をもち、大菩薩峠入口交差点から上日川峠へと伸びている。しかし通称から分かる通り、r201の出発点は塩山停車場(中央線塩山駅)である。つまり大菩薩峠入口は中継点であって、それからは重川(おもがわ)の左岸側を盆地へと下っていく。この道はR411とほぼ並行して南西方向に進んでいくのだ。

 前回に挙げた「大菩薩登山道入口バス停」近くの丁字路から塩山駅北口までのr201は「一葉の道」という別名を有する。上の写真にあるような標識を、r201沿いの至るところで目にする。樋口一葉は現在の千代田区で生まれ、台東区や文京区で生活しており、24歳半で死去するまでずっと東京に居住していた。それゆえ、「一葉の道」が塩山(現甲州市)にあることは、私のような無知なよそ者にはかなりの違和感を生じさせる。が、少し知識があればすぐに分かることだが、一葉の両親は塩山の中萩原出身で、その地にある慈雲寺で2人は出会い、駆け落ち同然に東京(当時はまだ江戸)に出て暮らしたのだった。

 一葉の晩年(といっても23歳)の作品に『ゆく雲』という短編がある。「我が養家(作品中の主人公の)は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々、垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ、魚といひては甲府まで五里の道を取りにやりて、やうやう鮪の刺身が口に入る位。」と、両親が育った村の姿を表現している。

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一葉の文学碑がある慈雲寺

 慈雲寺には寺子屋があり、一葉の父である大吉(のち則義)はそこで学んでいたときに、あやめ(一葉の母、のちに”たき”)と出会った。こうした縁もあり、1922年(一葉の二十七回忌)に、妹の「くに」(邦子、国子とも)や旧大藤村の有志、一葉の作品を高く評価した小説家たちの賛助もあって、慈雲寺境内に「樋口一葉文学碑」が建てられた。

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文学碑の建立には名だたる小説家が賛助した

 写真の文学碑の撰文は幸田露伴、建立賛助者には坪内逍遥森鴎外佐藤春夫田山花袋与謝野鉄幹与謝野晶子などの名がある。森鴎外は『たけくらべ』の読後、「われは作者が捕へ来りたる原材とその現じ出したる詩諏とを較べ見て、此人の筆の下には、灰を撒きて花を開かする手段あるを知り得たり。われはたとい世の人に一葉崇拝の嘲(あざけり)を受けんまでも、此人にまことの詩人といふ称をおくることを惜まざるなり」と絶賛している。

 一葉は1894年12月に『大つごもり』、95年1月から『たけくらべ』の連載開始、5月に『ゆく雲』、8月に『うつせみ』、9月に『にごりえ』、12月に『十三夜』、96年1月に『わかれ道』など、わずか1年2か月の間に優れた作品を次々に発表したため、この期間は「奇跡の14か月」とも言われている。が、一葉は96年2月20日の日記に「われに風月のおもひ有やいなやをしらず。塵の世をすてて深山にはしらんこころあるにもあらず。さるを厭世家とゆびさす人あり。そは何のゆゑならん。はかなき草紙にすみつけて世に出せば、当代の秀逸など有りふれたる言の葉をならべて、明日はそしらん口の端にうやうやしきほめ詞など、あな侘しからずや。かかる界に身を置きて、あけくれに見る人の一人も友といへるもなく、我れをしるもの空しきをおもへば、あやしう一人この世に生まれし心地ぞする。」に記し、名声の裏にある孤独感にいつも苛まれていたようだ。そのころから一葉は体調を崩し始め、4月頃に発病し、その後に肺結核と診断された。文学界の鬼才(奇才)である斎藤緑雨、医師でもある森鴎外などの奔走にもかかわらず、96年11月23日、一葉は死去した。

 1904年の読売新聞に「女子の天性に背いて、小説などを書き、男子に褒めらるるを鼻にかけて、ますます増長したる結果身体を傷けし也」との記事が掲載されている。死後8年ののちにも一葉を揶揄するような文が発表されているように、当時の女性(今でも似たようだが)の生き方には大きな制約があった。上に挙げた日記の続きには、一葉自身「我は女なり。いかにおもえることありども、そは世に行ふべき事かあらぬか。」と記している。

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慈雲寺参道にある一葉像

 大菩薩連嶺の西麓に配置される甲州市塩山中萩原地区(前回に触れた上日川峠、大菩薩湖、上日川ダム、大菩薩峠西、大菩薩嶺西、小金沢山西は上萩原地区にある)は”一葉の里”とも呼ばれ、甲州市では塩山駅から一葉の里を巡るウォーキングコースを「見どころ」として紹介している。中央線塩山駅(標高413m)から後述する「甘草屋敷」(415m)、上に挙げた「慈雲寺」(573m)で文学碑や写真に挙げた”樋口一葉女史像”などに接し、塩山桃源郷の眺めが素敵な日向薬師(604m)、かつての黒川金山への街道筋に位置し武田信玄の休息地でもあった滝本院(556m)などを見て塩山駅に戻るという回遊コースである。全長は8.7キロ、コースの最高地点は標高610mなので比高は197mあり、案外タフなコースといえる。慈雲寺には山梨県屈指と言われるイトザクラ(シダレザクラ)があり、日向薬師からは裾野に群なして咲く濃いピンクの桃の花たちが一望できるので、それらが開花する春に訪れるのが最高のようだ。

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塩山フルーツラインから塩山駅方向を望む

 少しだけ残っている後ろ髪を引かれるような思いをあとに、私は慈雲寺を出て「一葉の道」に戻った。この道を塩山駅方向に進めば「上赤尾交差点」でR411に出会うことができるからだ。が、その前に「フルーツ山梨農協大藤支所」の横にある十字路で、広域農道である「塩山フルーツライン」に交わってしまった。この広域農道は塩山地域を南北に走る道ではもっとも標高の高い位置にあり、かつよく整備された道である。以前に何度か塩山で「ぶどう狩り」や「さくらんぼ狩り」を楽しむために訪れたときに利用した道であり、甲府盆地のかなりの部分を見渡すことができる眺めの良い展望地があったことを思い出した。

 上の写真は、フルーツラインの脇に整備された「牛奥みはらしの丘」(標高500m)から、塩山市街や塩ノ山(553m)方向を望んだもの。そこからは甲府盆地だけでなく、北の奥秩父山地、西の南アルプス、南の御坂山地も見渡すことができる。麓には中央線の電車が走っていた。中央線は笹子トンネルを抜けて、大菩薩峠散策の起点駅となっている甲斐大和駅に至り、新大日影トンネルを抜けて勝沼扇状地に姿を見せたものの、盆地を横切って甲府市街に進むことはせず、さしあたり、山裾を北上して塩山駅へと向かうのであった。中央線の向こう側には重川(おもがわ)の護岸が見え、その先に塩山市街が広がり、塩山の名の由来となった「塩ノ山」が鎮座している。

 ”塩(しほ)の山 差出の磯にすむ千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく”

 これは『古今和歌集』にある賀歌で、旧山梨郡にある名勝の塩ノ山(甲州市)と差出の磯(山梨市、笛吹川右岸)が歌枕として取り上げられている。塩ノ山は、笛吹川と重川が造った複合扇状地の真ん中にあり、そこだけが削り残されたもので、府中市でいえば浅間山のような存在だ。塩ノ山といっても岩塩でできているわけではなく、四方がよく見渡せる(四方からよく見える)ところから四方の山と名付けられたのがその由来らしい。”四方の山”が”塩ノ山”にならなければ「塩山(えんざん)」の地名は生まれず、この地は「四方山(よもやま)」になっていたかも。そうなれば地元民はフルーツの花々だけでなく、よもやま話にも花を咲かせていたことだろう。

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なかなかオシャレな勝沼ぶどう郷駅

 勝沼駅が出来たのは1913年だ。中央線が開通したのは1903年なので、10年遅れて設置された。勝沼駅は93年に「勝沼ぶどう郷駅」(標高483m)に改称された。勝沼といえば甲州ぶどうやら甲州ワインがすぐに思い浮かぶので、この名称変更はうなずけなくもない。

 甲州ぶどうは日本の固有種だが、欧州種と中国原産種との交配種がさらに欧州種と交配してできたとの研究報告があるそうだ。甲州ぶどうの発祥には2説あり、ひとつは718年に行基大善寺勝沼町勝沼)を開き、そこでぶどうの栽培を始めたというもの。もうひとつは、1186年、雨宮勘解由(勝沼町上岩崎)が山ぶどうとは異なるつる草を見つけたので持ち帰って育てたところ、数年後に良質なぶどうが実ったというもの。第一は、日本の各地にある「行基伝説」のひとつに過ぎないと思われるが、大善寺自体は「ぶどう寺」を名乗っているため間違いであるともいえない。一般には第二の説のほうが有力のようだが、それにしても、甲州ぶどうの遺伝的特性は不思議というほかはなく、このぶどうがどうして甲斐の勝沼で育成されたのかは、いまだに不明のままのようだ。

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ぶどう郷駅から「ぶどうの丘」を望む

 ぶどう郷駅のすぐ西側に舌状台地の名残りのような南北に細長い高台があり、「ぶどうの丘」(標高500m)として整備されている。丘の周囲はほぼぶどう畑で、天辺には甲州市が運営する日本有数のワインショップや宿泊施設、温泉施設(天空の湯)などがある。私自身、数年前までは少しだけだがワインを口にしていたが、昨年から一切のアルコールを断つ(養命酒も含む)ことに決めたので、そのぶどうの丘には立ち寄らないことにした。ワインはともかく、丘からの展望は良さそうだ。 

塩山駅周辺から石和温泉へと向かう

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千野上交差点にある道路標識。ここでR411は青梅街道の名を失う

 塩山フルーツラインに戻って北上し、この道とR411が交差する「新千野橋東詰交差点」を左折して、R411の旅を再開した。かなりの後戻りである。まもなく、写真の千野上交差点に出た。陽光の都合で、写真は柳沢峠方向を写したものなので、実際には標識内にある矢印とは反対の方向に進むことになる。 

 少し古い地図(現在のグーグルマップも含め)では、この交差点は「千野駐在所前」と表記してあるが、今は「千野上」である。千野駐在所がなくなってしまったわけでもなさそうなのだが。ともあれ、この交差点で青梅街道としてのR411は終了となる。標識内の「塩山市街」の矢印方向の道が青梅街道筋で、ここからしばらく、R411は「大菩薩ライン」という通称だけとなる。

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塩山駅南口広場

 R411に戻ったものの、またすぐに離れて中央線塩山駅周辺を訪ねてみることにした。写真は塩山駅南口のロータリー広場。この近くに甲州市役所がある。撮影地点は市のメインストリート上だったが、人や車の動きはほとんど見られなかった。

 甲州市は2005年11月、塩山市勝沼町、大和村が合併して成立した。発足時の人口は37301人(塩山26238、勝沼9529、大和1534)だったが20年12月現在、30800人なので、この20年間で17%減少している。合併すると由緒ある地名が消滅してしまうことが多々あるが、甲州市の場合、旧塩山市域は塩山〇〇、旧勝沼町域は勝沼町▢▢、旧大和村域は大和町△△と、旧地名が残されているので、この点は評価に値する。

 写真から分かるように、2017年にリニューアルされた駅舎はとても立派なものだ。2019年における塩山駅の一日の乗車人数は2024人。2000年は2262人、10年は2055人なので、横ばいか漸減といったところ。列車の本数は、平日の甲府方面行きで、6時台が2本、7時台が3本、8時台が5本(内特急2本)、9時台が6本(内特急2本)となっており、私が想像したよりは少し多め。通勤通学には普通列車を使うだろうし、その場合でも甲府までの所要時間は22分なので、スケジュール通り動ける人(定刻主義者)には案外、便利かもしれない。

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北口ロータリー横に鎮座する武田信玄

 駅舎内の通路を使って北口に出た。写真の信玄像は甲府駅にあるものよりかなり小さいが、それでもこの像が駅前にあることから、塩山と信玄には結びつくものが存在すると考えられる。その代表が臨済宗恵林寺(えりんじ)で、1564年に信玄はその寺を武田家の菩提寺に定めた。宝物館には風林火山でおなじみの「孫子の旗」があるそうだ。

 武田家が織田信長に滅ぼされたときに寺も焼き討ちにあい、住職の快川和尚は「滅却心頭火自涼」の偈(げ)を残して焼死したとされる。その有名な偈は寺の三門に大きく掲げられている。なお、快川和尚は信玄の葬儀の際には大導師を務めている。

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甘草屋敷・高野家住宅

 北口ロータリーのすぐ北側に写真の「甘草屋敷」がある。国の重要文化財に指定されている建造物で、この地の長百姓・村役人を代々務めていた高野家の住宅であった。高野家は江戸幕府の命により漢方薬の主原料となる「甘草(かんぞう)」を栽培していたところから、この建造物は「甘草屋敷」とも呼ばれる。有料だが、室内は一般公開されている(らしい)。

 甘草は根に鎮痛・鎮咳、利尿作用がある。中国原産で日本には産しなかったため、中国からの輸入を続けていたが、享保の改革時に甘草の国産化を進めた。平賀源内が宝暦年間に著した書物(1763年)に「江戸と駿府の官園にある甘草は甲斐から得たものである」と記しているように、高野家の甘草栽培は日本における嚆矢(こうし、先駆けの意)であったようだ。

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塩山駅からR411に戻るためにこの交差点を左折

 かように寄り道が続き、R411の徘徊はなかなか進まない。塩山駅南口から道路(県道38号、塩山勝沼線)を東に進み、写真の赤尾交差点を右に曲がる。今度こそR411の旅が本格的に再開される。

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マンズワイン勝沼ワイナリー

 中央線は南西方向に進んで甲府を目指すが、R411は南南西に進んでいく。左手にワイン工場(マンズワイン勝沼ワイナリー)があった。塩山から勝沼に入ったのだ。

 この工場はマンズワインを代表するものらしく、マンズワインの製品の大半はこの工場で造られているとのことだ。ワイン工場としても山梨県下では最大の規模を誇るらしい。売店が併設されているが、アルコールを断つことにしている私には無縁の存在だ。

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葡萄工房ワイングラス館

 ワイン工場のすぐ先の右手には、写真のワイングラス館があった。ワイングラスだけでなく、天然石やガラスのアクセサリーなどを取り扱い、カフェやパンケーキ専門店などが併設されている(そうだ)。ワインには酔ってしまうがワイングラスならアルコールに触れることがないので、グラス館の内部を覗こうと立ち寄ったのだが、他には誰もいないことに気づいた。そんなところに進入してしまうと、ひやかしだけでは済まず何かしら購入しなければならなくなる。気の弱い私は店内に入ることを断念した。

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何でもあります!あすなろ園

 右手に見えてきたのが写真の「あすなろ園」。店自体はさほど大きくないようだが、看板を見れば分かる通り、山梨県の名産物がすべて取り揃えられている。多角経営、ごくろうさまです。

 塩山にはかつて養蚕のための桑園が広がっていたが、戦争時に食料生産のために畑に転換されてしまった。戦後は果樹栽培に主力を移したことで、山梨はフルーツ王国になったのであった。

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R411はこの交差点を左折して西進する

 あすなろ園から500mほど南に進むと、写真の等々力(とどろき)交差点に出る。R411はこの交差点を右折することになるが、左折すると先に触れた大善寺(ぶどう寺)に至り、そのすぐ先に「柏尾古戦場跡」がある。そこは、大久保大和(実は近藤勇)率いる「甲陽鎮撫隊」と板垣退助率いる官軍の「東山道軍」が戦ったところ。戦闘はわずか2時間ほどで決着し、甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走した。

 写真の交差点を直進すると国道20号線(甲州街道)に出る(南野呂千米寺交差点)。笹子峠を下ってきたR20は甲府盆地へ降り立ったところにある「柏尾交差点」で、それまでの片側一車線から二車線の快適なバイパスとなる。そしてそのバイパスが新甲州街道となり、旧甲州街道へと格落ちした旧来の狭い道は県道34号・38号線となって甲府を目指す。そしてその県道(旧甲州街道)は、写真の等々力交差点でR411にバトンタッチされる。つまりR411は、この交差点から旧甲州街道となって西進するのである。もっとも、「大菩薩ライン」の名もそのまま残している。

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甲州街道になったばかりのR411

 ”等々力”は、かつては「轟」と記した。音が鳴り響くさまを表すことばで地名によく用いられる。世田谷区には「等々力渓谷」があるが、これは渓谷が生まれるときに地面が何度も大きな音を立てて崩れ、その音が周囲に鳴り響いたから、というのが有力な説だ。一方、勝沼の等々力には地面の崩落がなければ、等々力渓谷のような「不動の滝」もない。その代わり、等々力の西隣には「上栗原」「下栗原」がある。

 『古事記』には、5世紀頃に中国から渡来した人々(呉人)を居住させた場所を「呉原」と名付けたとある。呉原はのちに栗原と呼ばれるようになった。呉(くれ)は、中国の呉(ご)というより大陸から渡来した人々全般を指していたと考えられている。さらに、呉(くれ)は「高句麗」(コクレ)を指し示すという有力な説もある。ともあれ、日本に朝鮮半島経由で馬が持ち込まれたのは4世紀後半と考えられており、山梨からは4世紀後半や末期の遺跡から「馬歯」が発見されている。山梨では日本でもっとも早い時期に馬の飼育がおこなわれていたようだ。なお、信州でも同時期の「馬歯」が発見されている。

 とすれば、馬は朝鮮半島から九州辺りや、若狭湾辺り(敦賀?)から畿内に入ったのではなく、西日本に至る予定だった船が北西風と対馬暖流とに流され、富山湾辺りで風待ちをしていたが、生き物ゆえにいつまでも船に乗せておくわけにはいかず、糸魚川直江津(現在の上越市)に陸揚げされた。そして諏訪湖や茅野、さらに釜無川を下って甲府盆地に入ったという可能性は大いにあり得る。いやむしろ、初めから越後や越中を目指していたという蓋然性は低くない。実際、この「大地溝帯フォッサマグナ)」は、現在の我々が想像するよりも相当に古くから物資の流通路として利用されていたのだった。

 その傍証は古墳の一形態である「積石塚」の分布にもある。高句麗の古い墓制である「積石塚」は、日本全体では全古墳の2%ほどの割合だが、信濃では古墳の30%、甲斐では20%を占めている。中央地溝帯は、物資だけでなく人の移動ルートでもあったのだ。

 ともあれ、栗原の地では馬の飼育や調教がおこなわれ、その隣に位置する等々力にも馬蹄の音が轟いていたと想像できる。それゆえ、等々力交差点の周辺地は「轟」と名付けられ、後に等々力(等力)と記された。山梨の地は律令国としては「甲斐」であり、その甲斐には、前にも記したように山梨、八代、巨麻(巨摩)、都留の4郡から構成された。いうまでもなく、巨麻郡には朝鮮半島からの渡来人(中心は高麗(高句麗)からの人)が多く住んでいた。巨麻郡は山梨県の西半分ほどの広さがある。東部に位置する栗原や等々力は地域としては山梨郡に入るはずだが、渡来系の住民が多かったためか当初は巨麻郡に飛び地として属した。のちに韮崎辺りに栗原郷や等力郷が成立したと推定されている。

 その巨麻郡には、かつて現在の韮崎あたりを中心に朝廷の馬を飼育する御牧が3か所あって、優れた馬を産出していたため「甲斐の黒駒」と称されて重用された。伝説に過ぎないだろうが、聖徳太子厩戸皇子)の愛馬も「甲斐の黒駒」であり、太子は富士山を訪れる際にはその名馬にまたがって飛翔してきたとされている。だとするなら、その馬の名は「ぺガスス(ペガサス)」だったかも知れない。

 ともあれ、R411はこの等々力交差点で向きを西に変え、甲府に向かって進路をとるのである。

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一町田中交差点。旧甲州街道はここを左折

 西進を始めたR411は勝沼町等々力から山梨市上栗原に入る。山梨市に入って2.5キロほど進んだ場所に、写真の「一町田中交差点」がある。道路標識では丁字路に見えるが、実際には十字路で左折することができる。旧甲州街道を進むなら左折して日川に突き当たらなければならない。が、現代の車は急に曲がることを避けたいと考えたのだろうか、この交差点を少し先に進んでから左にカーブをとり「日川橋」で日川を渡り、ほどなく右にカーブして日川の左岸側を進んでいく。

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日川の右岸から日川橋を望む

 私は一町田中交差点を左折して旧甲州街道筋を進んだ。もっとも、200m足らずで日川の右岸に出てしまった。写真はその突き当り地点からR411の日川橋を望んだものだ。

 日川(ひかわ、かつては”にっかわ”とも)は、前回に挙げた大菩薩湖を水源として、県道218号線に沿って南下する(実際には日川の形成が先だが)。川は大菩薩連嶺が途切れかけたところでやや西に向きを変え、今度は大菩薩連嶺と御坂山地との間、つまり甲州街道沿いに西へ流れて甲府盆地内に姿を現す。そしてそのまま旧甲州街道に並行して西進していく。

 日川の語源は氷川とも考えられるが、一般には、「三日血川」を基にすると伝えられている。織田信長軍に攻め込まれて山深くに逃げ込んだ武田軍の残党は最後の死闘を繰り広げ、戦いに加わって傷付き、あるいは戦死した人々の大量の血が谷を伝って川に流れ込んで、三日間、その川は血に染まった。そのために、川は三日血川と呼ばれるようになったということだ。どこかで聞いた話だ。以前、八王子城跡について記した際、御主殿の滝が自刃した北条家の人々の血で、城山川は三日三晩、赤く染まったという話に触れたことがあった。一日だと惨劇というほどではなく、五日というといささか大げさすぎるので、さしあたり、三日が良いのではないだろうかという判断が加わっていると考えられるのだ。

 ともあれ、三日血川と名付けられたらしいのだが、それでは不吉すぎるということで、"血”だけでなくついでに“三”も取り去って「日川」と呼ばれるようになったというのが、この川の名の由来らしい。そうすると、”三日血川”以前の名前が気になるが、多分、昔の人は川なんぞに格別な名を付けることはせず、単に川、せいぜい山川か谷川などと呼んでいたかと思われる。

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笛吹市を走るR411には甲州桃太郎街道とも名付けられている

 日川を渡るとすぐに、川の左岸沿いを走る道があることが分かる。それが旧甲州街道筋だが、R411はその道は使わず少し先で右に曲がり、1キロほど直線路をとる。それが写真の道で、「甲州桃太郎街道」の名が見える。ここはまだ大菩薩ラインなので、R411は2つの通称を有することになる。

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R411は、いよいよ笛吹川に出会う

 直線路の先でR411は少しだけ左に曲がる。それは、笛吹川の左岸で出たためだ。笛吹川富士川最大の支流で、奥秩父山塊甲武信ヶ岳(標高2475m)と国師ヶ岳(2592m)の間から発する東沢渓谷と、国師ヶ岳と奥千丈岳(2601m)との間に発する西沢渓谷とを源流とし、国道140号線の雁坂トンネルの南出入り口の西側辺りで両渓谷は合流し、しばらくは西沢渓谷(観光地としてとても有名)の名で下り、広瀬湖を経てほぼR140に並行して甲府盆地の辺縁部を下ってくる。

 山梨市駅付近からはR140とは距離をとるようになり、その一方、今度はR411に接近し、写真の場所で笛吹川とR411との出会いが生まれる。笛吹川はその出会いの直前に重川、ついで日川を飲み込んでいる。

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笛吹川左岸から大菩薩嶺と辿ってきた重川扇状地を振り返り見る

 写真は、R411と笛吹川とが出会った場所から東北東方向を望んだものだ。笛吹川左岸の土手に見える道が旧甲州街道で、右手上方には大菩薩嶺が、旧甲州街道の上方には重川が形成した扇状地が見える。その扇状地をR411は下ってきたのだ。

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笛吹川左岸を進むR411だが、すぐに笛吹橋を渡って右岸に移る

 R411は少しだけ笛吹川の左岸を進むが、写真からも分かる通り、この道の先は丁字路になっていて、R411はここを右折して笛吹川を渡り右岸側に出る。この左岸側の道は600mほどの長さだが、この間のR411は、大菩薩ライン、甲州桃太郎街道、旧甲州街道という3つの通称を有することになる。

 写真の丁字路を左折すると県道314号線(一宮山梨線)となり、その道を進むとR20の甲斐一宮IC、続いて中央道・一宮御坂ICに至る。石和(いさわ)辺りに住んでいる人にとって、その県道はかなり貴重な存在だ。

 私はR411を進むので、ここを右折して「笛吹橋」を渡り、すぐ先にある「石和温泉郷東入口交差点」を左折して1.5キロほど笛吹川の右岸を走る。その交差点を直進する車はさほど多くはなかったが、直進路を進むと中央線・春日居町駅に至るようだ。

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新しくなった石和温泉駅

 笛吹川の右岸側に出たR411は、1.5キロほど川の右岸沿いを「笛吹川通り」の名で進んでいく。どうやら、笛吹橋で大菩薩ラインの名前は消滅したようだ。旧甲州街道はR411が位置する土手上ではなく、土手下の少し離れた場所に通じている。

 R411は「八田交差点」で笛吹川右岸から離れ、さしあたり、かつて「石和温泉停車場線」と呼ばれていた県道302号線(r302)と重なり合って西へ進み、「石和温泉駅入口交差点」でそのr302と別れる。R411が進むルートは旧甲州街道と重なっているようだ。

 私にとって石和温泉駅は少しだけ記憶に残る存在なので、その交差点を右折して石和温泉駅に向かってみた。r302はそのルートをとるので「石和温泉停車場線」と名付けられたようだ。その道を北に800mほど進んだ場所に写真の「石和温泉駅」があった。記憶している駅舎とは全く異なっていた。写真の駅舎は2016年に完成したもので、私が何度か駅を訪れたのは20年近く前なので、変貌していても当然のことかもしれない。とはいえ、石和温泉駅を利用する人は、2000年では一日当たり2707人、2010年では2588人、2019年では2953人なので、駅舎の大変身ほど利用者数は変化していないようだ。

 石和に温泉が湧出したのは1956年だが、温泉地として知られるようになったのは61年、ぶどう園から高温の湯が大量に湧き出し、付近の川に流れ込んだこと。地元の人がその「青空温泉」に集まり、その姿が全国に紹介されたことが切っ掛けだった。大空の下で大勢の老若男女が、一様に丸裸で温泉に浸かっている様子を撮影した写真が、雑誌等に何度も掲載されているのを見たことがあった。

 その写真の効果は絶大で、石和には一時、100軒以上の旅館が建って、熱海温泉に匹敵するほど大いに賑わったらしい。ただし写真のイメージがあまりにも強烈だったので、「石和に行く」ということを表立って表明することはやや憚られていた。そのためか、フルーツ王国山梨県では、ぶどう狩りや桃狩り、昇仙峡観光とセットで温泉を楽しむというキャンペーンを繰り広げ、家族連れなどを積極的に呼び込むという労を取らざるを得なかったようだ。

 今では交通の便が良くなりすぎて十分に日帰り圏内にあるため、旅館の数は減少しており、その数は40軒余りとなっているそうだ。実際、石和温泉郷を巡ってみると、もう何年も営業していないと思われる建物が多々あった。

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かつての賑わいが見られなくなった温泉通り

やまなしには、確かに山はなかった!

 写真は、かつてのメインロードであった「さくら温泉通り」である。昼日中のせいもあり、人の姿はほとんど見られなかった。

 私がこの通りを訪れたのは石和温泉郷に臨むためではなく、甲斐の旧国府に接するためだった。が、石和温泉の現状に触れるとその目的を忘却してしまい、写真の通りや「湯けむり通り」をトボトボと徘徊することに専心してしまった。

 甲斐国国府は、上の写真を撮影した場所の北側付近にあった。さくら温泉通りは笛吹市石和町川中島にあるが、通りにほど近い場所の住所は笛吹市春日居町国府(こう)である。地名から明らかなように国府(こう)には甲斐国国府(こくふ)があった。国府は、9世紀後半から10世紀前半になって国府(こう)の南側3キロほどのところにある笛吹市御坂町国衙(こくが)に移るが、甲斐国最初の国府はその春日居町国府(こう)にあった。

 甲斐国には4郡があったということは先に何度か触れた。最初の国府があった場所は山梨郡に属したが、その山梨郡には10の郷があった。代表的なのは山梨郷(春日居町国府付近)、表門郷(うわと、甲府市和戸付近)、於曽郷(おぞ、塩山付近)である。八代郡は5郷からなり、中心は八代郷(国衙があった場所)である。このように、郡の名称は、その郡の中心的な郷の名を用いるのが一般的だったようだ。

 ということは、山梨の名は当初、山梨郷のみに付されており、山梨郡律令国家が成立したのちの話なのだ。山梨郷は笛吹川と平等川との間に位置し、山はまったく存在しない。そもそも、山梨の語源は「山をならした土地=平坦な場所」というのが定説になりつつあるので、「やまなし=山無し」がほぼ正しいのである。それはそうで、国府を造るのだから平坦な場所を選ぶのが当然なのだ。それが山梨郷を中心にして山梨郡が成立し、たまたま北に奥秩父山塊、東に大菩薩連嶺を含むようになったため、いかにも山が多い場所と思われるようになった。さらに甲斐国が、明治政府による廃藩置県によって甲府県になったものの、まもなく山梨県に改称されたため、いつしか、山梨は「山だらけの県」になってしまったのだ。

 本項の冒頭で「山があっても山梨県」の戯言(ざれごと)に触れた。真相は「山がないから山なし」なのであり、「山がない場所にも関わらず山ばかりの県の名前に使われてしまった」というのが事実である。不思議だが本当なのだ。

いよいよ甲府市域に入る

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R411がR140(秩父往還)と交差する横根跨線橋橋南交差点

 石和温泉郷をあとにしてR411に戻った。石和温泉駅入口交差点から西のR411は「城東通り」という名を纏う。R411の旅は滝川街道に始まり、城東通りで終わる。その城東通りは、写真の交差点で、南下してきた国道140号線(秩父往還、R140)に出会う。

 R140は先に触れたように雁坂峠(実は雁坂トンネル)を越えて笛吹川上流の”西沢渓谷”と出会い、共に南下してきたが山梨市駅付近から笛吹川とは一時、離別するものの、甲府市白井町で再会し、しばらくは川の左岸を進む。そして、笛吹川が本流の富士川に合流する直前に国道52号線に飲み込まれる。

 共に奥秩父山塊を越え、甲府盆地に降り立ったR411とR140とは、写真の交差点で出会うと同時に分かれ、それぞれの役割を全うする旅を続ける。

 ところで、石和温泉駅入口交差点を400mほど西に進むと「平等川」を渡ることになる。この川の西側は甲府市川田町なので、R411は旅の終着点である甲府市に、すでに入っていたのだった。なお、写真の交差点は甲府市和戸町にある。

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箱根駅伝知名度が上がった山梨学院大学

 R411は「山崎三差路」で旧青梅街道を吸収する。旧青梅街道の最後の姿は県道6号線(r6)だが、その道はR140の旧道につながっているために交通量は結構多い。また、R411も甲府市街に至るもっとも重要な道(旧甲州街道筋)であり、さらにr6には、交差点のすぐ近くに中央線の踏切があるため、その山崎三差路はかなり混雑する。それもあって、その交差点の撮影は断念した。

 その替わり(になるかどうかは不明だが)、その交差点から400mほど西にある「山梨学院大学」(甲府市酒折)の建物を写してみた。詳しく調べたわけではないが、日本に〇〇学院大学というのは63もあるらしい。青山学院や明治学院は古くからあるし元々、知名度も高いが、山梨学院大学のように比較的新しめの大学ではライバルが多く、その名を広めるのは結構大変なことと思える。誰にも思いつくことだが、手っ取り早いのはスポーツの世界で名前を売ることだろう。それは高校でも同じで、そちらは甲子園出場なのだが、関東とその近辺の大学のスポーツといえば野球ではなく「箱根駅伝」で、もっとも認知度が高く人気もある。かく言う私も大好きで、私が山梨学院の名前を知ったのもその駅伝である。一時は留学生を積極的に登用することで、あまり知られていない大学が優勝、もしくは上位を占めるようになった。そうなると「古豪」といわれる大学は学連に「圧力」をかけ!?留学生の出場を制限するようになり、結果、新興勢力は出場権を得ることは可能であっても上位に入ることは難しくなってきた。スポーツ界にせよ他の世界にせよ、既得権益者の「底力」(良く表現するとだが)は侮りがたい。

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甲斐国の名の原点である酒折

 山梨学院大学の最寄り駅は「酒折駅」だが、その駅の名前は近くに写真の「酒折宮」があることによる。『日本書紀』や『古事記』にも登場するほど酒折宮は重要な存在なのだが、実際に訪ねてみると案外、こじんまりとした存在だった。

 ヤマトタケルは、『日本書紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命と記されているが、東征からの帰途、甲斐国酒折宮に立ち寄っているという点では、両者に共通している。

 「すなはちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時、歌ひたまひしく、「新治(にいばり)筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」とうたひたまひき。ここにその御火焼(みたひき)の老人(おきな)、御歌に続ぎて歌ひしく、「かがなべて 夜には九夜(ここのよ) 日には十日を」とうたひき。これをもちてその老人を誉めて、すなはち東の国造を給ひき」と『古事記』にある。

 東征を終えた倭建命が、その完了を祝うためにわざわざ酒折宮に立ち寄って歌をうたい、それに応えた人物に東国の支配権を与えたということが読み取れる。この後、倭建命は北上して碓日の坂(碓氷峠)を通り、信州を経て尾張に向かっている。この文面から、酒折宮は東国と大和との重要な結節点であることが分かる。

 従来、甲斐の語源は、山の狭間を意味する「峡(かひ)」であるとされたが、甲斐(かひ)の「ひ」と峡(かひ)の「ひ」とは万葉仮名では発音が異なることが判明したことにより、「峡」は甲斐の語源ではないことが証明された。現在では、上記のヤマトタケルの東征伝説における酒折宮(古くは坂折宮と表記されていた)の役割に着目し、甲斐は東国と大和との「交ひ=交流点」であったとする説がもっとも有力になっている。そして、「かひ」の「か」には十干(じっかん)の第一である「甲」を、「ひ」には「美しい」を意味する「斐」を用いて律令国名にした。

 甲斐とは関係がないが、飛騨国岐阜県高山市には県立斐太(ひだ)高校がある。この斐太は『万葉集』に用いられている表記で、もちろん飛騨のことである。斐太高校に知り合いがいる訳ではなく、その高校の卒業儀式に「白線流し」があることから、飛騨高山に出掛けた際、ついでに斐太高校を見に行ったことが何度かあったということを、これを記しているときに思い出しただけだ。さらに言えば、スピッツの『空も飛べるはず』は私のカラオケの持ち歌だ。

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本居宣長の撰文による酒折宮壽詞(ほぎごと)

 酒折宮の境内には写真の石碑があった。何を記述しているのかさっぱり分からなかったが、それでもそれに興味を抱いたのは「本居宣長」の名があったからだ。本居宣長の思想に共鳴するわけでは決してないのだが、三重県松阪市に宿泊しても松阪牛を食さないことがほとんどだったが、本居宣長の旧宅(二階に宣長の勉強部屋だった鈴屋がある)見物には毎回出掛けた。私は宣長とは違って「鈴の音」にさして興味はないが。

 「なにごとの おはしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる」

 これは伊勢神宮を訪れた際に西行が詠んだ歌(山家集にある)だ。誠にかたじけないことだが、私は本居宣長の思想はほとんど理解していないのだけれど、なぜか彼の存在に惹かれてしまうのだ。

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甲斐善光寺はこの交差点を右折した先にある

 R411が身延線の下をくぐる直前に、写真の「善光寺入口交差点」がある。「武田神社に行く人は、この交差点を右折したほうがいいですよ」とまでは記していないが、実際、ここを右折して県道6号線に出ると、混雑する甲府市街域を避けて武田神社に至ることができる。

 善光寺というと長野市にある寺が圧倒的に有名だが、甲府にある「甲斐善光寺」はその「信濃善光寺」とは深いつながりがある。

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国の重要文化財に指定されている山門

 先ほどの信号を右折して善光寺通りを北に600mほど進むと、写真にある甲斐善光寺の山門前に至る。車道は山門の少し手前で左(西)に避けるので、車が山門に突入することはない。長野の善光寺は参道からすでに大いに賑わっているが、ここの善光寺通りは普通の住宅街にある道路といった風情で、とくに店が多く立ち並んでいるということはない。ただ、写真から分かる通り山門はかなり大きいので、離れた位置からでも、その先に寺院があるということは判別できる。

 この山門(三解脱門=三門)は1750年に創建されたもので、高さ20m、横20m、奥行7.8mの大きさがある。以前の屋根は檜皮(ひわだ)葺きだったが、2002~07年の大改修の際にサワラ板を用いた栩(とち)葺きに変更された。

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1796年に再建された本堂

 甲斐善光寺は、武田信玄上杉謙信との”川中島の戦い”で信濃善光寺が焼失することを恐れ、1558年に創建し、信玄は信濃善光寺の本尊や多くの寺宝を持ち出してこの寺に納めた。それゆえか、開山は信濃善光寺大本願三十七世の鏡空がおこなっている。なお、本尊は武田家の滅亡後、1598年に信濃善光寺に戻されている。

 写真の本堂は、1565年に創建されたものの後に焼失した旧本堂にかわって、1796年に再建されたものである。当初のものよりかなり小さくなったと言われているが、それでも相当な大きさである。なお、本堂の屋根は檜皮葺きである。

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身延線善光寺駅の南にあるR411のクランク

 善光寺からR411に戻る。先ほど挙げた交差点のすぐ先に写真の場所がある。道路は左カーブするが、すぐその先で右にカーブする。こうしたクランクは、戦国時代から江戸時代にかけて、敵からの攻撃を防ぐための拠点付近によく造られている。城の入口にある「枡形虎口」がその代表だが、大手門があった場所にもこうした意匠がよく見られる。そのことについては、本ブログでも「八王子城跡」の項で触れている。

 ともあれ、こうしたクランクがR411の道筋に残っているということは、甲府城が近いということ、この道はかなり古くからあるということを示している。R411が「城東通り」という通称を有することがよく分かる場所なのだ。なお、こうしたクランクは、ここから1.4キロ先にもある。

R411は、終点にたどり着く

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甲府警察署東交差点を左折するとすぐに甲府城舞鶴城)跡に至る

 2つ目のクランクを過ぎると、R411の両側には商店が立ち並びはじめ、いかにも甲府の中心街を走る道といった雰囲気に変わる。まもなく、八王子市左入町を出発したR411は120キロの旅を経て、終点の甲府警察署前交差点に到着する。

 写真は、R411が終点に到達する前に通過する最後の十字路となる「甲府警察署東交差点」である。そこを右折した300m先の右手には甲府城舞鶴城)、左手には山梨県庁がある。もちろん、道路標識にあるように、さらにその先には武田神社がある(ただし、道は一本、西にずれるが)。

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R411の終点直前に甲府市役所がある

 甲府警察署東交差点の先の北側に写真の甲府市役所がある。市役所の北側に県庁があり、市役所の南側に甲府警察署がある。R411は山梨県、そして甲府市の司令塔が並ぶ中枢部を通っているのだ。

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甲府警察署前交差点。ここでR411は旅を終える

 写真が「甲府警察署前交差点」と名付けられた十字路。ここでR411は終わり、左折すれば国道52号線となって静岡市清水区興津中町までの旅となる。清水区興津地区を流れる興津川は私のアユ釣りのホームグラウンドのひとつなので、R52は短い区間だけれどよく利用する。右折すれば県道6号線となり、600mほど北に進むと中央線、身延線甲府駅南口に至る。直進すると市道になり、その道は「ボランティア通り」と命名されている。その名のとおり道路沿いに「山梨県ボランティアNPOセンター」がある。1987年に開催された「かいじ国体」の際に「ボランティア通り」の名が付いたらしい。

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R52から見た甲府警察署前交差点

 上の写真は、甲府警察署前交差点を南側(R52側)から見たもの。直進すれば甲府駅に至り、右折するとR411の「上り」の旅が始まる。

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中央線・甲府駅南口

 甲府駅南口に立ち寄ってみた。南口広場は広々としたロータリーになっており、ここが山梨県随一の玄関口であることを主張している。甲府市の人口は20年12月1日現在で187007人。決して大都市という訳ではないが、駅前は府中よりも格段に立派である。

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甲府駅南口に鎮座する武田信玄

 その南口の一角にあるのが、写真の武田信玄像。武田信玄は1521年生まれ(73年没)なので、来年は「信玄生誕500年」となる。コロナ禍の収まり具合にもよるだろうが、甲府市山梨県ではいろいろな行事が企画されているはずだ。甲府城でボランティアガイドの人に少しだけ話を伺ったとき、彼は「甲府には信玄ぐらいしか誇るものがないんですよ」と、20%は自嘲気味、80%は誇らしげに語っていた。

 ところで甲府市は昨年、開府500年を迎えた。ということは、甲府は1519年に始まったことになる。信玄の父である武田信虎は現在、武田神社がある「躑躅(つつじ)ヶ崎」に居館を移し、その場所に城下町を築いた。それゆえ、甲府は「甲斐の府中=甲府」と呼ばれるようになった。武田神社の所在地は、甲府市府中町である。ただ、ここでいう府中は、律令国国府所在地という意味ではなく、政治の中心地ということを表している。

 ちなみに、私が住む府中市律令国国府所在地だっただけで、現在は単なる東京の田舎町である。甲斐の国府があった春日居町国府御坂町国衙も、今はただ、中心地から外れた、のどかな郊外である。旧律令国も人生も、いろいろである。

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愛宕山から望遠レンズで富士山を望む

 甲府駅のすぐ北東側にある「愛宕山」に出掛け、甲府盆地を一望してみた。甲府盆地については次回に触れる予定だが、ここでは冒頭に挙げた写真の撮影場所と同じ地点から望遠レンズでのぞいた富士山の姿を掲載してみた。富士山は、相変わらず、手前の山々(御坂山地)とは別の世界に佇んでいるように見える。

 富士山は自然が造った。甲府盆地も自然が造った。甲府は武田一族が造り、R411は無名の人々の往来によって造られた。

 *    *    *

 何とかの刃とかいう映画が流行ったらしい。友人も見に行ったようで、「大人にも泣ける映画なのでお前も見に行け」というお節介な連絡があった。「泣けるドラマ」なら『愛の不時着』があるが、今度見返せば14度目になるので、「それもなんだかなぁ」と思い、その映画を見てみようという気持ちが20%ほどまでに高まった。

 12月3日の夕刊に、その映画のコミック版の全面広告があった。

 「永遠というのは人の想いだ」「人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ」の言葉が記載されていた。

 この広告から私は、長嶋茂雄の引退セレモニーの言葉を思い出した。

 「我が巨人軍は永久に不滅です」

 広告では「永遠」と「不滅」、長嶋は「永久」と「不滅」。永遠は人の観念的時間、永久は物理的時間を表すので、長嶋のセリフは「永遠」を使うべきだった(3番は永久欠番だとしても)。中島みゆきの名曲に『永遠の嘘をついてくれ』というのがある。これは永遠で正解で、永久の嘘はあり得ない。なぜなら嘘をつく当の人は死ぬからだ。嘘は、甲斐で見つかった4世紀後半の馬の歯ではない。あちらは永久歯なので後世まで残るが、嘘は常に形を変え、やがて消える。もちろん、巨人軍だってソフトバンクに歯が立たないので、永久には続かない。しかし、奇特な巨人ファンの心には永遠に残るかもしれない。それは単に観念だから。

 それでいえば、広告の前半部の言葉は正しいが、後半部はまったくの誤りだ。個々の想いはあっても、「想い」そのものなど存在しないからだ。「想い」と聞くと、無邪気な少年少女は「善き想い」のみをイメージするかもしれない。が、「悪い想い」はもちろんあり、しかも「善悪」は相対的に存在するにすぎず、「善悪一般」はない。遅刻して飛行機に乗り遅れれば悔しく感じるが、当の飛行機が墜落したと聞けば遅刻に感謝する。が、代わりに乗った新幹線が脱線・転覆するかもしれない。それゆえ、「ひとつの想い」さえ時々刻々と変転し、さらに想う人は必ず死ぬのだから、想いは永遠でもなければ不滅でもない。他者に継承されたとしても伝言ゲーム以上に内容は遷ろう。私が想う夕陽の赤は、友人が想う赤とは多分異なる。仮に赤そのものは客観化できても、彼我の赤のクオリアは共有できない。

 善き想いが永遠に続くと信じるのは、ティーンエイジに満たない12歳までの少年少女の幼き空想である。人生が理不尽だらけであることを知る15,6歳になれば、たとえ夢であってもそれは「絶対善と絶対悪の狭間を不断に揺れ動く」ということに気が付く。そんなことを考えると、その映画を見ようという気持ちは10%にまで低下した。

 そして翌日(4日)の朝刊。またもや全面広告。

 「夜は明ける。想いは不滅。」

 同じ意味の言葉が2日連続。こうした言葉を広告に連続して挙げるということは、作者、ならびに出版社が、その作品でもっとも訴求したいと考えている「想い」なのだろう。

 その結果、同じような空語が館内に飛び交うであろう映画を見る気持ちは、0%になった。広告に大感謝である。