徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔52〕狭山丘陵(1)~台地に浮かぶ島

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尾根と尾根との間の谷筋には住宅が立ち並ぶ

狭山丘陵は多摩川が造った武蔵野台地上の島

 「秩父山麓より海岸に至るまで殆んど高低なき僅かの波状を有てる此の台地(武蔵野台地のこと)の上に、此の如き丘陵(狭山丘陵のこと)を発達して居るといふことは實に不思議である。丁度平面にして見れば武蔵野台地に島のやうな形になって居るのである。されば小藤博士の如きは、此の狭山の丘陵を称して”ジオロジカル・アイランド”即ち”地質学上の島”といって居られる」。これは大正時代に狭山丘陵を調査した著名な学者の言葉である。

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狭山丘陵の西側部分を国道16号上から望む

 研究者を不思議がらせた狭山丘陵は、青梅市の東側に存在する孤立丘陵で、東西に10~11キロ、南北に3~4キロに広がり、上空から見ると紡錘形をしている。近くにある多摩丘陵、加住丘陵、草花丘陵、加治丘陵はすべて関東山地に接続している。というより、もともと関東山地の東縁にあったものが、谷川によって南北が開析されたために東もしくは東北東方向に丘陵部が舌状に残ったものである。しかし狭山丘陵は、元々の成り立ちは多摩丘陵などと同じなのだが、丘陵形成過程がそれらとは異なっていて、関東山地とはまったくつながっていない。武蔵野台地の西縁(武蔵野扇状地の扇頂)である青梅市東青梅と、狭山丘陵の西端がある瑞穂町箱根ヶ崎とは約10キロも離れているのだ。

 狭山丘陵が浮かぶ武蔵野台地は、下末吉面、武蔵野面(武蔵野段丘)、立川面(立川段丘)の3つの基本構造を有しているが、研究が進むにつれて構造はさらに細分化され、最新の知見では11に区分されることが分かっている。しかし狭山丘陵はその11区分のどれにも属さず、あくまでも孤立丘陵としての立場を維持し続けている。というより、古期の武蔵野扇状地は古多摩川が狭山丘陵の北側を流れていたときに形成され、新期の武蔵野扇状地府中市はここに属する)は古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたときに形成されたのであった。

 しかも、古多摩川が狭山丘陵の南側を流れていたとき、丘陵の後端部に「乱流」を発生させたようで、その名残河川である「空堀川」「黒目川」「白子川」の不安定な流路が新期武蔵野扇状地の同定を複雑にさせたようである。

 かように、狭山丘陵は武蔵野台地の形成過程に重要な役割を果たしているのだが、肝心の狭山丘陵そのものの成り立ちについては不明の点が多い。ただ、古多摩川が北東や南東方向に流路を変更した際に「削り残した」とされるばかりである。古多摩川が素直に東に進めば狭山丘陵は存在せず、そうなれば武蔵野台地の様相は大きく変わっていたに違いない。とはいえ、東進は案外、難しいのかもしれない。「いつ削るの?」「15万年前でしょ!」

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狭山丘陵の北側を流れる不老川

 写真は、狭山丘陵の北側を流れる不老川(ふろうがわ、としとらずがわ)。入間市宮寺地点(標高125m)の流れで、県道179号線の向こうに見えるのが狭山丘陵である。不老川は古多摩川の旧河道を流れる名残河川であり、後述する「狭山池(狭山ヶ池とも)」の伏流水を源流にすると考えられている。この川は、古多摩川の名残河川の多くがそうであるように北東方向に進み、川越市の南部(川越市砂)で新河岸川に合流する。荒川水系に属するので一級河川の扱いとなる。地形区分としては”Tc”と表記される武蔵野台地の「立川面」を流れている。

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狭山丘陵の南側を流れる空堀川

 写真は狭山丘陵の南側を流れる空堀川で、源頭は狭山丘陵の南側にある野山北公園の池とされているが、実際には丘陵から湧き出た水がいくつか集まって川を形成したのだろう。しばらくは狭山丘陵の南側に沿って流れ下るが、やはりこの川も古多摩川の名残河川なので北東に向きを変えて進み、清瀬市中里で後述する柳瀬川に合流する。その柳瀬川は志木市の中心部で新河岸川に合流するので、不老川同様に空堀川荒川水系一級河川である。

 狭山丘陵の南西側の大半は立川面であるが、空堀川国分寺崖線の北側に位置するため、武蔵野面(M2)に属する。が、前述したように狭山丘陵の南側の地形は古多摩川の乱流によってかなり複雑になっているため、現在では武蔵野面ではなく「武蔵野面群」と表記されており、空堀川は武蔵野面群の「黒目川上位面(M2c)」と「黒目川下位面(M2d)」との間を進んでいく。

狭山丘陵の西端を訪ねる

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狭山丘陵西端の盛り上がり

 高層ビルの上からならともかく、地べたからでは狭山丘陵の連なりを見ることはなかなか叶わない。丘陵なので高さはさほどないし、近年は周辺の宅地開発がますます進んでいるので、丘陵の姿は建物と建物との隙間から望めるばかりなのだ。とりわけ丘陵の南側(東大和市武蔵村山市など)は宅地造成が相当に進んでいるので、丘陵の横の連なりを撮影できる場所は見いだせなかった。一方、北側(入間市所沢市など)には茶畑などが広がっているので丘陵の姿を見ることが容易な場所はいくつもあるのだが、今度は陽の光が邪魔になってはっきりくっきりとした写真を撮ることができなかった。

 そんなわけで、南北からの撮影は諦め、丘陵の西端(瑞穂町箱根ヶ崎)と東端(所沢市松が丘)の撮影に限ることにした。

 新青梅街道都道5号線)を西進して「箱根ヶ崎西交差点」を右折し国道16号線(R16)の東京環状・瑞穂バイパスに移る。その道を入間市方向に進むと、まもなく「八高線跨線橋」に出た。そこからの眺めが結構良さそうだったので、次の信号(瑞穂斎場入口交差点)を右折して「瑞穂斎場」の敷地に入り、斎場の広大な駐車場に”無断駐車”して徒歩にて移動した。跨線橋上からじっくり狭山丘陵西端付近を観察することにしたのである。冒頭から2枚目の写真が、その跨線橋上から丘陵を望んだものだ。

 西端のピーク(標高170m)には狭山神社、北斜面には「さやま花多来里(かたくり)の里」がある。その写真の中央付近にあるピークは、狭山丘陵ではもっとも標高がある高根山(194m)だ。

 グーグルマップで調べると、跨線橋から丘陵西端までは直線距離で900mほどなので、歩いて西端付近まで出掛けてみることにした。上の写真は、その途中にある野菜畑から西端のピークを撮影したものである。 

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住宅街から西端部を望む

 途中までは畑の中の小道だったが、丘陵西端に近づくと住宅街に入った。撮影場所の標高は139mなので、狭山神社のあるピークとの比高は31mである。この住宅地は八高線箱根ヶ崎駅から700mほどのところにあり、すぐ近くには、瑞穂バイパスができる前まではR16であった(現在は都道166号線)道路がある。その都道を南に行くとほどなく八高線箱根ヶ崎駅東口に至り、さらにその先には新青梅街道、そしてその南には横田基地の北端がある。なかなか交通至便な住宅地である。

 住宅地内を移動中、爆音の発生源が空を移動しているのが分かった。見上げてみるとオスプレイが飛行していた。静かそうで利便性の良い郊外の住宅地なのだが、基地の真北すぐのところにあるので騒音には悩まされるはずである。

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狭山池から丘陵を望む

 丘陵西端のすぐ西側には「狭山池」がある。写真は、その狭山池から狭山丘陵の西端を望んだものだ。狭山池と狭山丘陵との間には「立川断層」が走っていることが判明している。ひとつ上に挙げた写真の中にある住宅街の道は、その断層帯と同じ向きにある。

 狭山池は、古多摩川が造った窪地に周囲から湧き出た水が溜まってできた池と考えられている。その窪地が造られた理由は判然としていないが、東進してきた古多摩川が立川断層に行く手を阻まれてしばしその地点で渦を巻き、そのために地面が掘られたと考えられる。古多摩川は断層の手前でしばらくはオロオロし、やがて行く先を北東もしくは南東方向に変えていったと考えることも可能だろうか。

 狭山池は、かつては「筥(はこ)の池」と呼ばれていたそうだ。「筥」には箱の意味もあるので、水の入れ物=池になる。が、そうなると「筥の池」では”池の池”となってしまうが。その点はご愛敬といったところか。

 鎌倉時代後期に編まれた歌集に以下の歌がある。

「冬深み 筥の池辺を 朝行けば 氷の鏡 見ぬ人ぞなき」

 古く、その窪地は18haほどあったと考えられているが、多くは埋め立てられ、現在はその1.5haほどが「狭山池公園」として整備されている。

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多摩川が造った窪地にできた狭山池

 池は「自然観察池」「庭園鑑賞池」「釣り池」に区分されている。冬の寒い時期だったこともあり、釣り人の姿はなかった。もっとも、写真からも分かるように、昼近い時間だったけれども、まだ池面には氷が溶けずに残っていた。しかし、その氷の鏡を利用する人の姿はなかった。朝ではなかったからだろうか?溶けかかった氷面に映る姿では、たとえナルキッソスでも満足はできまい。そう考えると、疑問は氷解した。

 先に述べたように、狭山池は不老川の水源とされているが、その源頭は見出せなかった。それもそのはず、その川は狭山池から直接に流れ出ているのではなく、伏流水が地表に現れるのは1500mほど北東に進んだところであるからだ。不老川は古多摩川の旧河道を辿っていると考えられているので、狭山池を源流としているに過ぎないのかもしれない。

 一方、立川市柴崎町(立日橋のすぐ下流)で多摩川に流れ込む残堀川はこの狭山池を水源とするが、それは江戸時代初期の改良工事によるものである。もともとは狭山丘陵の西端付近から流れ出る湧水が小川となり、ほぼ立川断層に沿って南南東に下っていた。それを玉川上水が出来たとき、立川市一番町にある天王橋付近で残堀川を上水に合流させ、上水の助水としたのだった。玉川上水の水量を確保するためには、残堀川の水も必要になり、そのためには残堀川そのものの水量も安定させる必要があったのだろう。なお、残堀川と玉川上水との関係については、本ブログで玉川上水を扱ったとき(第30回)に触れている。

狭山丘陵の東端付近を訪ねる

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都立八国山緑地の東端が狭山丘陵の東端でもある

 狭山丘陵の西端は明瞭に残っているが、そこから10~11キロ離れた東端は明確ではない。その理由は後述することになるが、ここでは一応、写真の都立八国山緑地の東際を狭山丘陵の東端としておきたい。写真の都立八国山緑地の案内図がある場所の標高は67mで、カメラを構えている場所(東村山市諏訪町)は65mである。

 狭山丘陵は標高139m地点から盛り上がり始め、最高地点は194m(高根山)だということはすでに触れている。丘陵の基盤である上総層群は西へいくほど高度を上げていくので当然、その上に乗る狭山丘陵もまた西へいくほど標高があり、東に進むのにつれて低くなる。

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八国山緑地を住宅地から眺めてみた

 八国山の東端にあるピークの標高は89mで、カメラを構えた場所は62m地点である。写真からも分かる通り、丘陵の東端であるはずの場所はまだまだダラダラと下っている。周辺の東村山市諏訪町、松が丘、久米川町は緩い斜面を利用して宅地開発が進んでいるので、地形は大きく変貌している蓋然性は高い。それらの地区は標高60m前後の場所にある。が、その北にある所沢駅の標高は74mもある。それでは狭山丘陵は所沢方向に伸びているとも考えそうになるが、「所沢台(所沢台地)」は関東ロームの「下末吉面」に属し、多摩ローム層が覆う狭山丘陵とは異なるのである。それゆえ、本項では、この標高60m近辺で狭山丘陵は消えていると考えることにした。

狭山丘陵の面白さ

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村山貯水池(多摩湖)と関東山地の山並み

 私の家から狭山丘陵までは直線距離にして10キロ以上ある。府中街道など結構、混雑する道を使うので40分以上かかり、ときには1時間を超すこともある。それでも年に数十回、そこに出掛けるのは、いろんな魅力をその丘陵は有しているからだ。詳細については次回に触れる予定なので、ここでは、丘陵にある代表的な散策スポットについて簡単に触れることにした。

 狭山丘陵を代表する観光・散策スポットは写真の村山貯水池(多摩湖)周辺で、堤体の上から望む景観は何度触れても見飽きることはない。とくに、貯水池の向こうに連なる関東山地の姿がもっとも私の好みだ。望む角度が少し違うため、府中の多摩川沿いから見える山々の姿形とは少し異なり、その比較に興味と妙味がある。とりわけ、府中からだと手前に位置する鷹ノ巣山と、そのやや奥にある雲取山とがほとんど重なって見えてしまうのに対し、ここからだと雲取山の勇姿をはっきりと見て取ることができるのだ。それゆえ、雲取山に対峙する「芋の木ドッケ」もまた、より立派に見える。もちろん、私のお気に入りの大岳山はしっかり確認できる。が、キューピーの「頭髪?」部分が府中から見えるものと少し異なる。その点にも惹かれてしまうのだ。

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狭山公園から村山貯水池の堤体を望む

 村山貯水池の東側には都立狭山公園がある。適度な起伏があるため、散策には”もってこい”の存在だ。とりわけ、写真にある「薄野原」が好みで、ススキの穂が生長し、やがて枯れ尾花になる時期には毎回、この野原の中にある散策路を徘徊している。

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山口貯水池(狭山湖)はまた趣きが少し異なる

 村山貯水池の北側にあるのが山口貯水池(狭山湖)で、村山貯水池よりはやや遅れて整備された貯水池である。同じ狭山丘陵内にある人造湖であるにも関わらず、雰囲気は少し異なる。村山貯水池のほうは近くに無料の駐車場があるが、こちらには有料駐車場しかないので、観光客や散策・暇つぶしに訪れる人が少ないのも、私にとっては嬉しいことなのだ。

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野山北・六道山公園にある「里山民家」

 写真の「里山民家」は「野山北公園」と「六道山公園」との間にある。近くに無料駐車場が整備されているので、そこを起点としてまず民家の佇まいに触れ、それから北側にある谷戸沿いの散策路をのんびりと歩き、六道山公園に至るというのが、私の馴染みのルートである。

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六道山公園の天辺にある展望塔

 里山民家地点の標高は137m、写真の六道山公園は192m。比高は55mあるが傾斜が緩やかなので少しだけ強度を求める散策に適している。展望塔(展望台)の高さは13mほど。その上まで上れば標高は205mになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mなので、この展望塔の上が、丘陵ではもっとも高い地点になる。

 傾斜が緩やかなピークにある展望塔なので案外、周囲の木々が視界を遮ってしまうために、期待するより展望は良くない。それでも、丘陵の頂点に居るという実感が持てるので、満足度は低くない。観光客は結構の数が上ってくるが、展望の貧弱さにやや拍子抜けするのか、長居をする人をまず見掛けたことはない。なお、ここでも横田基地で発生する騒音(とりわけC130の)がよく耳に入る。

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林の中の湿地帯

 狭山丘陵には湿地帯が多く存在する。丘陵の多くが自然の混交林に覆われているため、土壌は保水力に富んでいて水に恵まれている。そのために丘陵の周囲には入谷戸が多く、人の手が入っている場所も少なくないが、それでも自然林が保護されている場所では写真のような湿地帯に出会うことがよくある。この豊かな自然があったからこそ2つの貯水池が造られることになったのだが、それについては後述する。

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狭山といえばお茶。丘陵の北側に茶畑が広がる

 狭山といえば茶所で、「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」と『狭山茶摘み歌」に歌われるほど狭山茶は全国的に有名だ。もっとも、埼玉は緑茶生産の経済的北限地と考えられているので、より温暖な静岡に比べると生産量はずっと少ない。反面、寒い冬があるからこそ、狭山のお茶は味わいが深くなるそうで、これは埼玉県農林部の話なので信憑性は高そうだ。

 狭山茶といっても、それは「狭山茶どころ情(なさけ)が厚い東村山四丁目」産は少なく、その中心的生産地は入間市で、ついで所沢市狭山市となる。いずれも狭山丘陵の北側に存在する。なお、写真の茶所は瑞穂町なので、「東京狭山茶」として出荷される。

狭山丘陵に人造湖が出来る経過など

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村山下貯水池(多摩湖)の取水塔。日本一美しい取水塔とも言われる?

 1907(明治(以下Mと表記)40)年の東京市では、1月1日から3月23日まで雨が一滴も降らず、市民は断水に苦しんだ。本ブログでは何度も触れているように、当時の東京市の水源は玉川上水にほぼ頼っていたからである。そのため、市では「東京市上水道拡張計画」をスタートすることを決め、09(M42)年、東京帝国大学の中島鋭治博士に抜本的な調査計画を委嘱した。博士は2年半をかけて多摩川の水源地などを踏査し、計画案を確定した。

 第一案は、西多摩郡大久野村(現日の出町)に貯水池を造り、多摩川の氷川(現在の奥多摩町)から導水路を使って多摩川の水を引き入れるというもの。その場所では平井川や秋川からの導水も可能で、上流の水を用いるので水質が良いという利点があった。ただし、山間渓谷に造る導水路の建設が難儀で、多くの隧道(トンネル)を設置する必要もあるため、工期は長くなり、工費もかさむという欠点があった。

 第二案は、狭山丘陵内の村山に貯水池を造り、羽村から水を取り入れ、武蔵野台地に導水路を造って貯水池に導くというもの。貯水池からは武蔵野村境(現在の武蔵野市浄水場)に導くというもの。乏水に備え名栗川の水を導くことも考慮している。

 第一案の工費は2460万円、第二案の工費は2072万円であった。第二案のほうが安価であり工期も短くて済むということもあって、12(M45)年の議会で、第二案の村山貯水池案が、導水路の羽村村山線、村山境線建設とともに採択された。翌13(大正(以下Tと表記)2)年に内閣の認可が下り、13(T2)年から19(T8)年までの七カ年継続事業としてスタートすることになった。

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尾根筋に囲まれている村山上貯水池

 狭山丘陵が貯水池建設に適した場所であることを説明するときは、3本の指を用いると分かりやすい。3本であればどの指でもよいのだが、ここでは左手の人差し指、中指、薬指を用いることにする。3本の指だけ伸ばしてその指間を少し広げる。手の甲を上にして指先は東に向ける。手首が狭山丘陵の西端になり、東に行くにしたがって尾根筋は3本に分かれる。この3本の尾根筋をここでは北尾根、中尾根、南尾根と呼ぶことにする。指の間からは沢が流れ下り、2つの河川を生み出す。上方が柳瀬川、下方が宅部(やけべ)川となる。

 上の写真は現在、村山貯水池の上池の堤体の改良工事がおこなわれているために水抜きされた状態の上貯水池の姿である。これから分かるように、両尾根(ここでは右側が中尾根、左が南尾根)には谷戸が多くあって尾根を侵食している。湧水が確保できる場所なので、相当に古くから尾根内には人が住み着いていた。遺跡調査によると、縄文以前の旧石器も見つかっている。貯水池に水没する前の復元図を見ると、宅部川沿いに民家が点在しているのはもちろんのこと、溜池が全部で21個あったことが分かる。

 手の甲に当たる丘陵部は豊かな自然混交林であって水を豊富に蓄えることができたので、中指(中尾根)と人差し指(南尾根)との付け根付近からは湧水を集めた川が西から東へと流れ下っていた。これは所川といって各集落で川の呼び名が変わり、最奥の石川地区では「石川」もしくは「石川川」、中間点ほどの内堀地区では「内堀川」、貯水池の堤体が築かれた宅部地区では「宅部川」と、その地区の名が付けられていたようだ。

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現在の宅部川。堤体から東へ500m付近

 このように尾根と尾根との間は宅部川が開析していたので、出口部分を堰堤で塞げば貯水のための空間は容易に形成できるのだ。ただし村山貯水池は東西に細長く、地形の関係もあって貯水池の容積を確保するために上貯水池と下貯水池の2つに分けられている。ちなみに、上池の堤体上部の標高は118m、下池の堤体上部は104m地点にある。なお、下の写真にあるように、上貯水池と下貯水池とを分かつ上貯水池の堰堤上は「多摩湖通り」(都道・県道55号線)として使用されている。狭山丘陵を南北に通じる道はほとんどないので、車が集中しやすくかなり混雑する。

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上貯水池の堤体の上は都道(県道)55号線として利用されている

 村山貯水池の計画地内には当時、161戸(163戸とも)の家があった。また田畑や山林などを所有する人々も多くいた。それらの用地買収交渉は15(T4)年に始まった。貯水池計画そのものはそれ以前に明らかになっていたので、移転地に住む住民たちは14年1月、住民大会を開き、「東京市ニ於テ該土地買収ノ協議ニ対シテ住民ハ極力共同一致ノ行動ヲ採リ各人別ニ応セサル事」などの決議文を採択していた。

 15年2月に市から買収価格が発表されたが、その価格が予想よりも相当に低かったため、住民や地主は結束して拒絶行動をすることを誓いあった。その『承諾書調印拒絶書』には、「敷地買収価格ノ二六新聞に顕ルルヤ当時売買格ノ半額ニ達セス其ノ低廉ナルニ驚キ……移住民約弐百名地主四百名余会同シ買収価格ハ不当ノ甚シキモノナルヲ以テ之ニ応セサルハ勿論該用地ハ他ヘ変更ヲ期セント決議シ……」とあり、共同して反対運動を展開することを誓った。

 しかし、市側は個々に切り崩しをおこない、大半の人は買収に応じてしまった。早くは15年12月に移転を完了するものも出て、17(T6)年までに買収に応じなかった人はわずか8名だけになった。残った8名は結束して反対運動を展開したが、最終的には、19(T8)年に土地収用法の適用が決まり、同年の12月には土地の強制買収がおこなわれてしまった。

 土地買収が完了したのは19年であったが、工事の準備は着々と進められており、15年2月には工事資材を運ぶための村山軽便鉄道の免許申請がおこなわれ、8月には貯水池に関する図面が完成していた。16年5月には下貯水池堰堤工事がスタートし、6月には東村山村回田(めぐりた)で地鎮祭が挙行された。17年10月には上貯水池堰堤工事も始まり、19(T8)年には資材運搬のための東村山駅・貯水池間の専用鉄道敷設免許が交付された。同年の「土地収用法」適用以前に工事はかなり進展していたのであった。

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羽村堰から貯水池までの導水路の上は現在、遊歩道兼自転車道とし使用されている

 22(T11)年に上貯水池堰堤が竣工し、23年には羽村堰から上貯水池までの通水がおこなわれ湛水(たんすい)が開始された。24年には貯水池から武蔵野村境浄水場までの通水が開始され、同年、下貯水池の堰堤、同取水塔が完成し、26(昭和2)年に村山貯水池工事はすべて完了した。

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山口貯水池(狭山湖)の取水塔

 山口貯水池(狭山湖)は村山貯水池のすぐ北隣にある。両貯水池の距離は、もっとも接近した場所では200mほどしか離れていない。

 山口貯水池も立地条件は村山貯水池とほぼ同じで、先に3本の指で説明したように、指(尾根のこと)と指との間から流れ出た柳瀬川が丘陵の内部をすり鉢状に開析した先に堰堤を造ってそれを塞ぎ、そこにできた空間を貯水池として利用している。

 ただし、村山貯水池とは形状がやや異なっていて、村山のほうは東西に細長いのに対し、山口のほうは極太のY字形をしている。それゆえ、指で説明する場合は、薬指は折って(実際には折り曲げるだけで、本当に折ってしまうと薬だけでは治療できない)、小指を伸ばし、中指の小指の先を塞ぐと山口貯水池の形をイメージしやすくなる。

 地図を確認すると北側(小指と折り曲げた薬指との間)の谷のほうが深いようで、この谷間を西にたどっていくと、先に少しだけ触れた「六道山公園」付近にまで至る。その一帯は狭山丘陵ではもっとも標高の高い場所なので、その分、水量も豊富だったのかもしれない。

 山口貯水池の場合、当初は羽村堰から村山貯水池までの導水路(羽村村山線)を借りて、導水路が村山貯水池に至る直前に「引込水路」を造って、南側の谷間から山口貯水池に流し込んでいた。

 現在では、R411の項でも触れている「小作取水堰」から新しい地下導水路(小作山口線)を造って北側の谷間の先端部に多摩川の水を引き入れている。前に触れているように、東京水道・羽村村山線の上の多くは現在、遊歩道・自転車道として利用されているのでその位置は地上からでも判明できるが、さすがに小作山口線は新しく造られたものだけに、地表からではそのルートを探ることはできない。地図で確認すると、それは日野自動車羽村工場の北を通り、そののちに進路を東に向けて、狭山池のすぐ北側、狭山神社がある丘の真下、都立瑞穂農芸高校の敷地下を抜けて山口貯水池に導かれていることが分かる。

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堤体から2.3キロ離れた地点を流れる柳瀬川

 山口貯水池に沈んだ山口村の旧勝楽寺付近には、280戸余りの家屋があったそうだ。貯水池ができる前の地図を見ると、北の侵食谷はかなり険しそうなので家屋は少ないが、一方、南の谷には道路が通じていて、それは現在、「多摩大橋通り」と呼ばれている道につながっている。というより、山口貯水池ができたことによって道は途中から東に折れて両貯水池の間にある「中尾根」を進むことになり、先に触れた都道・県道55号線の「村山上ダム北詰」に至っているのである。

 貯水池ができる以前は、その道は北上して南の谷間を進み、やがて貯水池に沈んだ場所のほぼ中央部に降り立ってから柳瀬川に沿って進み、山口村の中心部を抜けて所沢に至るかなり重要な道だったのだ。それゆえ、その道に沿っていくつかの集落が存在していたので、湖底に沈んだ家の数は村山貯水池よりも多かったのである。

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狭山湖展望台から山口貯水池の堤体付近を望む

 本項の冒頭の写真は、山口貯水池堰堤から所沢市山口の住宅地を望んだものである。北尾根と中尾根の間にある平地は柳瀬川が開析したもので、現在でも住宅は相当に多いが、この地は古くから開発が進んでいた。それは、武蔵七党のひとつである村山党の有力者であった山口氏が拠点にしていたからだ。「村山」の名からは武蔵村山や東村山を連想しがちだが、かつての村山党は狭山丘陵の北側が本拠地であった。主力は金子氏(現在の入間市金子)、山口氏(現在の所沢市山口)、仙波氏(現在の川越市仙波)であった。その山口氏の拠点であった山口城は山口貯水池堰堤の東1.7キロのところにあって、本丸が存在したとされる場所は県道55号線沿いにあり、そのすぐ南側に柳瀬川の流れがある。

 上の写真は、「旧展望台」から山口貯水池の堰堤付近を望んだもので、いかにも長閑そうな風景が展開されているが、その堤の東下には、平安時代末期から活躍していた関東武者のいち拠点が存在していたのである。

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山口貯水池の取水塔とその先にあったY字谷の名残り

 山口貯水池の築造計画は1926(昭和(以下Sと表記)2)年にスタートし、翌27年に地質調査が開始された。村山貯水池だけでは急増する東京市上水道需要が間に合わなかったためとされているが、実際には、すでに村山貯水池建設のための調査に引き続き、この地域も調査は15(T4)年には完了していた。つまり、山口貯水池の建設は、初めから想定の範囲内だったのだ。

 28(S3)年に工事が着工され、32(S7)年に通水式、34(S9)年に竣工式が挙行されて工事が完了しているので、用地買収なども村山貯水池に比べるとスムーズにおこなわれたようだ。というより、村山貯水池計画における買収過程の顛末を見れば、抵抗するだけ無駄だという諦めがあったのかもしれない。

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狭山湖畔から富士を眺める

 村山貯水池の通称は「多摩湖」、山口貯水池は「狭山湖」だが、なんとも紛らわしい。名前を覚えることが苦手な私は、今でも混乱してしまう。

 もともと、両貯水池は一括して「多摩湖」と呼ばれていたようだ。どちらも、多摩川の水を導いているからだ。しかし、それでは地元の人にとっては不便だったようで、村山貯水池の下には都立狭山公園が整備されているので、両者を区別するため、そちらを狭山湖と呼ぶようになった。が、村山貯水池のある場所は旧北多摩郡なので「多摩地区」だが、山口貯水池は所沢なので「多摩地区」ではないから多摩湖のままでは変だという意見があった。それなら、両者を一括して「狭山湖」と呼ぼうということになった。それはそれで不便そうだが。

 戦後、この地域の開発の主力になっていた西武鉄道は、新聞社と協力して改称キャンペーンをおこない、その結果、村山貯水池を「多摩湖」、山口貯水池を「狭山湖」と呼ぶことに決した。そうした過程を経て、現在ではその通称が一般的になった。

 つまり、村山貯水池は、多摩湖狭山湖多摩湖、山口貯水池は、多摩湖狭山湖狭山湖、と変遷したのだ。とはいえ、これはあくまで通称にすぎないので、本項では正式名称を用いて記述した。実際は、常に混乱しているので、その都度、東村山に近いほうが多摩湖と、心の中で念押しをしているのであった。

 それは、志村けんが流行らせた『東村山音頭』の「東村山 庭先きゃ 多摩湖 狭山茶所 情(なさけ)が厚い 東村山四丁目 東村山四丁目」という歌詞のお陰でもある。東村山に四丁目はないが、確かに庭先には多摩湖がある。

 志村けんに感謝である。合掌。