徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔53〕狭山丘陵(2)~お気に入りの徘徊コースをご紹介

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多摩湖の給水塔と「水の精」像

 狭山丘陵へは散策目的で出掛けるのだが、その徘徊コースは幾通りかあって、そのときの気分次第で行く先を選択している。主要には(1)村山貯水池界隈、(2)山口貯水池界隈、(3)野山北公園界隈、(4)里山民家から六道山公園界隈が目的地となり、その4パターンの中であっても、さらにいくつかのバリエーションがある。今回(と前回)、改めて狭山丘陵の魅力と不思議さを発見したので、通い慣れた場所だけではなく初めて訪れた場所を加え、2つのコースを紹介することにした。

 いつもは写真よりも文章のほうが多いのだが、今回は自宅から比較的近い場所が目的地ということもあり何度も出掛ける機会があったので、写真を多めに掲載することにした。その分、文章は簡潔に済ますことに心掛けた。そうなるかどうかは不明だが。

山口貯水池とその近辺を訪ね歩く

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山口貯水池南側入り口

 わたしにとって山口貯水池(狭山湖)は、村山貯水池(多摩湖)よりも散策する機会はかなり少ない。もっとも、飯能市(名栗川方面)、日高市(高麗神社方面)、越生町越生梅林方面)、秩父市(困民党関連)などに出掛ける際は、ほとんどいって良いほど上の写真にある道を通過するため、この山口貯水池入口の風景はまったくもって見慣れたものである。

 この入口の手前側に有料駐車場(狭山湖第2駐車場)があることはよく知っているので、山口貯水池界隈を訪ねる場合は、その駐車場(一時間110円)に車を置いて周辺を散策している。

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山口貯水池堰堤の南側

 駐車場から200mほど北に進むと、写真の「狭山湖右岸四阿(あずまや)」脇に出る。撮影日はまだ正月休み中ということもあって結構な賑わいだったが、普段の日であれば数人と出会うのみだ。

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堰堤南側から北尾根方向を望む

 写真は、堰堤の南詰から堰堤上を望んだもので、その先に狭山丘陵北尾根の連なりが見える。堤頂長は716m、堤高は33.9mある。堤体そのものは1934年に竣工しているが、2002年に堤体補強工事が完了しているので、見た目はまったく古さを感じさせない(あたりまえだが)。

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堰堤上から北東方向を望む

 堰堤上を少しだけ進んだ場所から、北東方向を眺めてみた。緑の山の連なりは狭山丘陵の北尾根で、右手奥に見える高層ビル群は所沢駅前のもの。堰堤下には県立狭山公園が整備され、その一部は「狭山運動場」として利用されている。

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堰堤上から谷底平地などを眺める

 堰堤上の中ほどに移動し、柳瀬川が開析した平地を眺めてみた。左手が北尾根、右手が中尾根で、その間にある住宅街は所沢市上山口や山口地区のもの。写真のほぼ中央に見えるのが現在の柳瀬川の源頭域。

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堰堤上から貯水池方向を望む

 今度は堰堤上から貯水池と、かつて柳瀬川の源流域を形成したであろう2つの谷の様子を眺めてみた。右(北側)の切れ込みの先に狭山池や青梅市街があり、左(南側)の切れ込みの先に横田基地福生駅、秋川駅がある。貯水池の底には280戸あまりの家や田畑、いくつかの寺社が眠ったままでいる。

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堰堤上から中尾根方向を望む

 ふたたび、堰堤の東側に広がる風景を望んでみた。今度は中尾根方向に注目した。平地だけでなく、中尾根の北斜面にも開発の手が伸びていて住宅がかなり密集していることが分かる。それもそのはず、谷底平地には西武狭山線西所沢駅西武球場前駅間)が通じており交通の便がかなり良いのだ。西武球場前駅の時刻表を確かめると、午前7、8時にはほぼ10分間隔で西所沢行きの電車が走っている。

 仮に、西武球場前駅で午前7時00分発の電車に乗ると、西所沢駅所沢駅で乗り換えになるものの西武新宿駅には7時59分に到着する。ちなみに京王線でいえば、京王八王子駅を午前7時01分に出発する急行は午前8時01分に京王新宿駅に到着するので、通勤時間としては八王子市の中心地からと西武球場前駅周辺からとはほぼ同等なのである。こうした訳であるかどうかは分からないが、狭山丘陵の宅地開発が相当に進んでいることは事実である。

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堰堤の北詰付近から富士山を望む

 山口貯水池からも富士山がよく見えるためか、その方向にカメラを向けている人の姿を見掛けることが多い。左手には丹沢山塊も顔をのぞかせていて、丹沢の最高峰である蛭が岳(ひるがたけ、1673m)もはっきりと見て取れる。 

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県立狭山公園内から堤体を望む

 堰堤上から、堤体の斜面に沿って降りる道がいくつか整備されている。途中には「狭山運動場」や県立狭山公園が整備されている。狭山運動場が使用されているときには無料の駐車場が開放されているので、そこに車をとめて堤体を上ってくる人も多かった。

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柳瀬川の源頭付近から堤体を望む

 狭山公園内をうろついて、柳瀬川の「源流域」がよく見える場所を探した。もちろん柳瀬川の源頭は、かつて山口貯水池の西側にあったY字の2つの谷にあったはずだが、もはや多摩川から導かれた水によって谷は埋められているため、今となっては写真の場所が柳瀬川の源頭域であると考えるしかない。冬場は渇水期に当たるため、柳瀬川にもたらされる水は少なく、旧く、狭山丘陵に積もった多摩ロームを削り取って谷底平地を形成した勢いはまったく感じられないし、その面影すらない。

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狭山丘陵の森は「トトロの森」でもある

 狭山公園を離れて東に進んだ。『となりのトトロ』の舞台のひとつと考えられているのが狭山丘陵の里山の森。その雑木林の森を保存する運動が大きく展開される切っ掛けとなったのが、早稲田大学・所沢キャンパスの設立計画だった。大学の進出こそ許してしまったが、その一方で「狭山丘陵の自然と文化財を考える連絡会議」や「狭山丘陵を市民の森にする会」が発足した。

 1990年4月、こうした運動の中から「トトロのふるさと基金委員会」が設立され、91年8月には「トトロの森1号地」が取得された。以降、土地を買い取り保全するナショナル・トラスト運動が展開され、18年までに48か所の「トトロの森」が誕生している。これが単に「狭山丘陵の里山を守る基金委員会」だったら活動はこれほどまでに拡大しなかっただろう。これも一種の「アフォーダンス効果」かも知れない。実際には、トトロなど実在しないのにもかかわらず。

 所沢市上山口地区にある「トトロの森1号地」は、かつて所沢と武蔵村山とを結ぶ主要路であった道のすぐ北側にある。森に通じる道の脇には結構な数の車がとまっていた。”駐車しないように”という看板がいくつも出ているにもかかわらず。

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市街地に入りつつある柳瀬川

 写真は、「トトロの森1号地」に入る丁字路のすぐ近くを流れている柳瀬川のあり様。川の水量は山口貯水池の管理下にあるので、もはや氾濫を起こすことはまったく考えられないといえるほど、流れはか細い。

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柳瀬川の左岸にあった水神様?

 そのか細い流れのたもとにあったのが写真の朽ちかけた鳥居と小さな祠。水害の危険性が限りなく小さくなった現在では、水神様のご加護は不要になったのだろう。私は思わず神に同情してしまった。無神論者に同情される神も哀れな存在ではあるが。

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氷川神社の中心?にある「中氷川神社

 後述する「高橋交差点」を過ぎて県道55号線(r55、通称は所沢武蔵村山立川線)を東に進むと、沿道は賑わいを増してくる。そのr55の北側にあるのが「中氷川神社」。本ブログの第49回で青梅線奥多摩駅近くにある「奥氷川神社」に触れた際、「武蔵三氷川神社」について述べているが、その中に出てくる「中氷川神社」がここである。

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今年の初詣は自粛気味?

 鳥居をくぐり参道を少し北に進むと広場に至る。写真の社殿は東向きなので、鳥居からの道は写真の左手に存在することになる。境内は南北に細長いところから「長宮」の名があるそうだ。初詣の時期なのだが、今年は密を避けて分散参拝をおこなっているためか、思ったより人の姿は疎らだった。

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この交差点付近がかつての山口集落の中心地

 中氷川神社の鳥居前から300mほど東に進んだところに、写真の「山口城址前交差点」がある。r55と「山口城祉通り」が交わり、交差点の四隅に、反時計回りでマクドナルド、セブンイレブン、ファッション市場サンキ、バーミヤンがある。貯水池ができる前の地図を見ると、この辺りが旧山口村の中心であったことが分かる。もっとも、その時分にはまだ「十字路」ではなかったが。

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村山党の有力者であった山口家の城があったことを示す碑と看板

 ファッション市場サンキの脇にあるのが、写真の「山口城址」碑と山口城を紹介する案内板。前回にも触れたが、山口家は武蔵七党の村山党(平安末期より)の有力氏族で、写真の場所に山口城を築き、16世紀に小田原北条氏の下で活動するまで続いた。

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山口城の土塁の一部が保存されている

 山口城址といっても、それを示す碑と案内板、それに写真の土塁程度しか残されていない。隣はファッション市場で、写真の土塁のすぐ南側には西武狭山線が走っている。山城であればもう少し残るものはあっただろうが、平城では致し方ないのかも。

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山口地区ではもっとも車が集まる高橋交差点

 山口城址からはr55を西に戻り、写真の高橋交差点を眺めてみた。r55はこの交差点を左に曲がり、しばらくは西武狭山線に沿って南西に進み、村山貯水池手前で右に折れて両貯水池の間の「中尾根」を通って武蔵村山市街に至る。

 もっとも、山口貯水池ができる前はそんなルートは存在せず(細い道筋はあった)、それゆえにこの交差点も存在せず、写真でいえば直進(赤い車が進んでいく方向)して、現在は山口貯水池となっている柳瀬川の上流方向に進み、Y字の谷の左手(南側)に入って南尾根を上り下りして村山村の中心街に出た。

 その旧道と現在のr55とは、のちに触れる「村山温泉・かたくりの湯」がある場所で「出会う」。もちろん、旧道は貯水池に沈んでいるので出会うことは、もはやない。

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山口地区には旧柳瀬川の河道であったと思われる道がいくつもある

 その旧道筋に戻るとまた、「トトロの森1号地」の標識と面会することになるので、その高橋交差点を左折してr55に沿って歩くことにした。道の左手(東側)は鉄道路だが、右手は住宅街になっている。写真はその住宅街を西に抜ける道で、こうした道は幾筋もあるが、いずれも写真のようにくねくねと曲がったものになっている。それゆえ、建物も整然と南向きに揃っているわけではない。一見すると平地であるにもかかわらず曲がりくねった道が多いということは、それらが柳瀬川の旧河道であったことの証左である。

 柳瀬川は蛇行を繰り返しながら狭山丘陵の多摩ローム層を削り、谷底平地を少しずつ築いていったのだろう。

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野球開催日やイベントがあるときは混雑するかも?

 r55が中尾根を上り始めると右手の住宅地は途切れて里山風になる。左手の鉄道路は高架を形成し始め、その先に写真の「西武球場前駅」がある。野球やイベント開催日には改札口は全開となるのだろうが、普段はその多くが閉じていて、宴のあとさきといった風情である。私の家の近く(といっても約800m)に京王競馬場線の「府中競馬正門前駅」があるが、そこと同じ雰囲気だ。

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イベントのときに何度か入ったことがある

 駅名は「西武球場」だが、現在はネーミングライツメットライフ生命に与えられているので、「西武ドーム」とは呼ばずに「メットライフドーム」の名が付されている。

 このドームには野球観戦では入ったことはないが、ガーデニングショーか何かのイベントで数回、入ったことがあった。駐車場はかなり混雑していて、駐車係のオッサンが、「野球のときよりも人が集まるな」と感心していたのを記憶している。

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スキーは好きではないので利用したことはない

 ドームの隣には「狭山スキー場」がある。1959年に開設された屋内人工スキー場で、私の兄がよく出掛けていたことを記憶している。西武ドームは1979年に開設されたので、スキー場のほうが20年も早く始まっている。

 そういえば、私はスキーもスケートもそれぞれ一回しかやったことはない。ウインタースポーツとは無縁かといえばそういうわけではなく、もちろん、冬のスポーツといえば「寒メジナ釣り」である。スポーツの語源には「楽しみ」という意味もあるので、冬場の磯釣りも立派なスポーツだ。もっとも、冬場はなかなか釣果が上がらないので、スポーツの語源のひとつである「気晴らし」には、必ずしもならないのだが。

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こう見ると普通の寺なのだが

 r55をはさんで、西武球場前駅の反対側にあるのが写真の「狭山不動尊」。埼玉西武ライオンズがここで必勝祈願をするらしい。ライオンズの本拠地の目の前にある寺院なので、その点ではとくに不思議はないのだが、開基が「堤義明」で、創建が1975年と聞くと、やや怪しげな感じがしてくる。

 山門にあたる?「勅額門」は芝の増上寺から移築したものらしい。

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多宝塔は2つあり、こちらは第二

 多宝塔は境内に2つもあり、写真のものは「第二多宝塔」とされ、兵庫県加東市にある掎鹿寺(はしかじ)から譲り受けたものとのこと。なお、第一多宝塔は本堂の東側にある。

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普段は非公開の羅漢堂

 羅漢堂の建物は、明治期の政治家であった井上馨の屋敷から移築し、周りに並ぶ唐金灯篭は増上寺から移設された。

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天誅組でおなじみの桜井門

 山口貯水池側にある写真の「桜井門」は奈良五條市にある桜井寺から移築されたもの。桜井寺といえば幕末の尊王攘夷派だった天誅組が一時、本拠地としたところ。天誅組では公卿の中山忠光や土佐の吉村寅太郎が有名だが、私の場合は『大菩薩峠』の主人公の一人である机龍之介を思い浮かべてしまう。彼は天誅組に同行し、幕府軍との争いの際に目を傷め、やがて失明してしまうのだった。

 かように、狭山不動尊は日本各所からいろいろな建物を寄せ集めて、天台宗別格本山として開かれたのである。信仰に厚い人や仏教史・仏教建築にこだわる人などの間では相当に評判が悪いようだが、そもそも日本仏教そのものが仏教の世界では異端なので、狭山不動尊のような仏教建築テーマパークがあっても許せると思う。なにしろ仏教は「如是我聞」の世界であり、一切皆空なのだから。

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煌びやかな建造物

 こちらは、狭山不動尊の隣にある「山口観音」。山門は狭山不動尊と同じ側にあり、写真の門は奥の院に位置する。r55が山口貯水池と村山貯水池との間を通過するところに面しているため、写真の姿を目にする人はかなり多いはずだ。

 五重塔に見える「千躰観音堂」は中国風に見え、お隣の狭山不動尊とは異なる雰囲気を醸し出している。

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由緒のある山口観音

 もっとも、山口観音(金乗院放光寺)は歴史があり、主催者発表によれば弘仁年間(9世紀前半)、行基が開いたとされている。現在は新義真言宗豊山派に属している由緒ある寺院である。ただし、お隣の狭山不動尊とはライバル関係にあるためか、境内には奇異なる建造物が負けず劣らず揃っている(そうだ)。私はその全貌にはまだ触れていないが、ライバルは日本各地から寄せ集めたもので構成されているのに対し、こちらはインターナショナルな建造物が多いようで、写真の五重塔などは可愛いものらしい。こちらの寺院もまた、一切皆空の世界である。

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東京府水道局が建てた玉湖神社

 山口観音の奥の院が面するr55を300mほど西に進むと、写真の玉湖(たまのうみ)神社の鳥居が見えてくる。道路の南側なので、どちらかといえば村山貯水池の上池の敷地に近いが、この辺りは両貯水池間がもっとも近接している場所なので、東京府水道局はあえてここを選んだのかもしれない。1934年の竣工なので、32年に山口貯水池が概ね完成することを見計らって、両貯水池を見守るための神社が造営されたことになる。

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1967年、諸般の事情で神様は引っ越しました

 ただし、公共団体(東京都水道局)が特定の神を祀るということは、憲法第20条第3項(国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない)に抵触するという批判を受けた結果、1967年に御霊返しがおこなわれて神域ではなくなった。

 社殿は残されたが、2011年の大震災で被害を受けたために解体された。写真から分かるとおり小さな祠は残っているものの、そこに神は、もはや存在しない。

 境内には工事の際の殉職者を慰霊する碑が立っている。2つあるのは、村山貯水池関係者と山口貯水池関係者とを区別しているからだろうか。

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貯水池工事の残土で造った「狭山富士」

 玉湖神社の裏手(西側)には、工事完了後に残った土を盛って造った「狭山富士」がそびえて?いる。標高は151mとされており、麓のr55は132mなので、比高は19m。登山道?も整備されているようで、頂上からの眺めは案外悪くないそうだが、今回は登頂を断念した。

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信号はないが交通量は多い丁字路

 駐車場に戻るため、玉湖神社を離れて200mほど東進した。写真の丁字路を左折すると、私が車をとめた「狭山湖第2駐車場」に至り、直進方向には山口観音の建造物が左手に見え、さらにその方向へ道なりに進むと丁字路に突き当たる。その丁字路を左折すると西武球場前駅へ、右折すると村山貯水池を上下に分かつ上貯水池堤体上を通る道に至る。

 私は、山口貯水池界隈を巡る徘徊を終えるため、写真の丁字路を左折した。足取りは重かった。スタート前からのことだが。

野山北公園や不思議なトンネルなど

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噴水池、釣り池、ひょうたん池など水が豊富な野山北公園

 野山北公園は、狭山丘陵の南尾根の谷戸内にある。というより、ここは両貯水池の西端よりさらに西に位置するため、前回に触れた三本指の例えでいえば手の甲に属するので、もはや南尾根という表現は妥当性を欠くかもしれない。ともあれ、人差し指の付け根付近にあるといえば分かるだろうか?分かんねぇだろうな。

 村山貯水池や山口貯水池にはとくに季節に関わりなく訪れるのだが、この公園に関してはほぼ春のみといってよい。春は「カタクリ」の開花期だからである。公園内には釣りができる池がいくつかあるが、コイやフナ、クチボソなどは私にとって釣りの対象にはならないので、ここで竿を出したことは一度もない。ただし、そこは釣り人の性なのだろうか、他者の釣り姿を見ることは決して嫌いではない。というより、釣りをするしないに関わらず、水たまりがあれば必ず、魚の姿を探してしまうのだ。 

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丘陵の斜面を利用した「冒険の森」

 公園には里山の斜面の利用した遊び場が整備されている。隣には「村山温泉・かたくりの湯」という立ち寄り温泉、市民プール、運動場もあるためか広大な駐車場が存在するので、里山散策、池での釣り、そして遊び場に出掛けてくるのにも便利なのだ。

 写真の冒険の森には遊具やアスレチック、展望台などが整備されているためか、子供連れの姿が多いようだ。

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アスレチックが数多く設置されている「あそびの森」

 写真は「冒険の森」の隣にある「あそびの森」の入口付近。こちらのほうはアスレチック施設がメーンで、中にはかなり規模の大きなものがあるようだ。やはり子供連れが大半だ。

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カタクリの里」と「ミズバショウ池」

 私には冒険心や遊び心がないわけではないが、ガキどもに混じって興ずる気持ちはないので、2つの森はパスして、谷戸内を進んだ。

 写真の左手の斜面は、「カタクリの里」として整備され、下草を刈り取ってある部分にカタクリが無数に植えられていて春の開花を待っている。右手の湿地帯は子供たちに田んぼ作業体験をさせる学習の場となっているが、上方の数面はミズバショウを生育する田んぼに利用されている。

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春にはカタクリが群生して花開く(再掲載)

 写真は、昨年の春に撮影したカタクリの花の群生で、以前、本ブログに掲載している。カタクリの群生に触れるのは大好きなので、シーズンともなるとあちらこちらにある名所に出掛けている。もっとも好みなのは、埼玉県比企郡小川町にある「カタクリオオムラサキの林」で、そこではカタクリニリンソウとの共演が見事なのだが、昨春はすでにコロナ騒ぎが始まっていたので例外的にそこへは出掛けず、カタクリ見物はこの野山北公園が中心だった。ここは年々、人気が高まっており、それに応えるかのように規模も株数もずいぶんと拡大しているようだ。

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ミズバショウの花(再掲載)

 カタクリの里では小川町のようにニリンソウとの共演はないが、写真のミズバショウが助演者として登場する。この写真も昨年春に掲載したものである。

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北公園にある池の水の元を探る

 北公園の池は空堀川の水源とされているが、ではその池の水は何処から来たのだろうか。自分の中ではその疑問はほとんど解決しているのだが、念のため、公園を管理しているオジサンに尋ねてみた。オジサンは谷戸の上方を指さし、「あっちに谷から水が流れているのが見えるから行ってみるといい」と教えてくれた。それが空堀川の源流で、池はその水を集めたものとのことだった。

 という訳で私は、ミズバショウの田んぼの上方にある、か細い流れを確認することにした。とはいえ、この谷川は、私には既知のものだったけれど。

 写真は、田んぼのすぐ上にある流れだ。

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流れの元をさらに辿る

 流れの元をさらに辿ってみた。この辺りはまだすぐ脇に散策路が通じているので水路を間近に見ることができる。

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空堀川の源頭

 ところが、散策路は次第に川筋から離れ、しかも道の両側には低いながらも柵が設置されているので、流れの近くに寄ることはできなくなってしまった。おそらく、写真の辺りが水の湧出口だと思われるが、きちんと確認することはできなかった。

 狭山丘陵は、基盤である上総層群の最上層にある「狭山層群」の上に多摩ローム層が積もってできたものだ。狭山層群は下から「三木層」「谷ツ粘土層」「芋窪(いもくぼ)礫層」から形成されている。谷ツ粘土層からは貝の化石が多く発見されているので、かつては海底にあったことが分かっている。その上の芋窪礫層は、最初期の古多摩川関東山地を削って大武蔵野扇状地の原形を造った。約40~30万年前のことだ。そして箱根や八ヶ岳が噴火を繰り返し、礫層の上に多摩ローム層を形成した。約20万年前までのことだ。その後、古多摩川は狭山丘陵を残したまま大武蔵野扇状地を削って今の武蔵野台地の原形を造った。

 狭山丘陵の多摩ローム層は30~40mほどの厚さがある。その下の芋窪礫層は10mほどの厚さだ。清水の湧出口は芋窪礫層からだと考えると丘陵のピークから40mほど下のところから水が表面に顔を出すことになる。狭山丘陵の最高地点は高根山の194mだが、それは丘陵に西端近くにあり、空堀川の源頭があると思われる周辺のピークは170~180mほどだ(もっとも近い場所にある三角点は183m)。だとすれば湧出口は140m前後のところにあるはずである。実際、写真の湧出口は138~142mほどである。ちなみに、この近辺には谷戸が数多く存在しているが、すでに水が枯れてしまったところを含め、湧出口と思われる場所の大半は標高140m地点にある。

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谷をさらに辿ってみた

 写真は、空堀川が形成したと考えられる谷戸を上からのぞいたものである。左に写っているのが散策路だ。低い柵が施してあるのが分かると思うが、それを越えるわけにはいかなかった。

 空堀川の源頭を探すことはほぼ達成したものの、北公園の池を満杯にするほどの量がこの谷から湧き出るとはとても考えられなかった。せいぜい、ミズバショウを田んぼを満たす程度だろう。

 ではいったい、池の水は何処から来たのだろうか?それは、池のすぐ東側に市民プールが存在することから推察可能だ。それ以上を語るのは野暮というものだ。

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北公園の南尾根にある「出会いの広場」

 野山北公園の池の南側に、南尾根に上る散策路がある。存在は知っていたがその道に入るのは今回が初めてだった。ほどなく舗装路に出た。それを西に進み、尾根の南斜面にある「龍の入(たきのいり)不動尊」へ下る道を探した。

 写真はその舗装路沿いにある「出会いの広場」(標高161m)と名付けられた場所だ。休憩所とトイレがあるが、それ以外にはなにもない。なにもないものと出会うことほど難しいものはない。分かったことはただ一つ、その広場の西側に尾根を下る道があり、それが不動尊へ至る最短路であるということ。なにもない場所ではあったが、それでもなにかを見出すことができた。それゆえそこは、もはやなにもない場所ではなくなった。確かに、出会いはあったのだ。

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南尾根南斜面にある谷戸を下る

 その道を下ると、ほどなく写真の少々うらぶれた茶畑が視界に入った。ここにも谷戸が形成されており、目指す不動尊はその谷戸の西側(写真では右手)にあった。

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龍の入不動尊・弁財天付近

 本堂の上方に写真の建造物群があり、その中に弁財天が祀られている。弁財天は水の神様であり、ここには「白糸の滝」があるはずだった。滝といっても規模の大きいものではなく、清水の湧き出し口があるだけなのだ。が、かつては湧出量が多かったらしく「御神水」として崇められていたようだ。しかし、今冬は非常に雨が少ないためもあってか浸み出す水の量はとても少ないようだ。そのため、今回は「御神水」に触れるのは諦め、不動尊のある風景を味わうことに留めた。

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龍の入不動尊・ぼけ除不動明王

 本堂と弁財天との間の斜面には50体ほどの仏像が並んでいた。その中で私が一番気に入ったのが、写真の「ぼけ除不動明王」である。狭山丘陵内でも決して散策場所に適している場所ではないところにある不動尊なので、ここを訪れる人は暇な年配者がほとんどなのだろう。私を含め、そんな人たちがもっとも気にする事は、近い将来に自分を襲うであろう「ぼけ」なので、参拝者の多くがこの不動明王におすがりしたいらしく、とりわけ綺麗な花が飾られ、手入れもよくおこなわれていた。境内の一等地に屹立していることも理由のひとつであるのだろうが。

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龍の入不動尊と遊水地

 龍の入は「たきのいり」と読む。「瀧」ではなく「龍」の文字を使って「たき」と読ませる。グーグルマップでは「瀧の入」とあり、武蔵村山市のガイドには「滝の入」とある。この不動尊自体は「龍の入」を用いている。それはともかく、「滝」を形成するような水が丘陵から湧き出ることはもはやないだろうが、それなりの大きさの規模の谷戸が形成されているので、かつて水量が豊富だったことは事実だろう。

 谷戸の下方部には住宅地が形成されている。万が一、大水が出てそれが谷戸を流れ下った場合には麓の住宅地に被害を及ぼす懸念があるためか、不動尊の隣には写真のような「遊水地」が造られていた。渇水期の今、そこには一滴の水もなかった。しかし、「備えあれば憂いなし」。これも事実である。 

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ちかんが多いらしい、野山北自転車道

 村山貯水池や山口貯水池へは多摩川の水が送られている。そのルートは、写真の「野山北自転車道」の存在から分かる。羽村堰で取水された多摩川の水は玉川上水を流れ、すぐに東京都水道局羽村導水ポンプ所から地下の導水路を伝って村山貯水池に流入する。山口貯水池完成後は村山貯水池の敷地内で分岐した引入水路を伝ってそちらにも送られている。もっとも前回に触れたように、現在、山口貯水池へは小作取水堰から伸びる専用水路が主として用いられているが。

 羽村から村山までの導水路の道筋は地図を確認するとすぐに分かる。一部は横田基地内を通過するため痕跡が残っていないところもあるが、横田基地の東側から狭山丘陵までは「野山北自転車道」として整備されているため、はっきり・くっきりと分かる。

 かつて、ここには村山貯水池までに導水管建設資材を運搬するための「羽村・山口軽便鉄道」が敷設され、山口貯水池建設の際には堤体を築くための資材なども運搬された。両貯水池完成後に鉄道は廃止され、その跡地は自転車道などに利用されている。下には極太の導水管が埋められているので、いざというときには簡単に掘り起こすことができるように自転車道や散策路に用いているのだろう。写真は、その自転車道を望んだもので、羽村から狭山丘陵まではほぼ一直線である。

 それにしても、写真にあるごとく、この直線的な自転車道には曲がった生活を送る人たちも現れるようで、他の場所にもこの手の注意喚起の看板があった。「遠慮ください」の言葉は、その手の人に「変質行為はご遠慮ください」と呼びかけているのではなく、生活道路が並行しているので、「駐車はご遠慮ください」というものである。

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野山北自転車道・横田トンネル

 狭山丘陵に至ると、かつての軽便鉄道跡ならびに現在の導水路上はトンネルを何度か通過することになる。トンネル自体は6本あるらしいが、実際に通ることができるのは4本だ。写真はr55の東側にある「横田トンネル」の出入口である。

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横田トンネル内部

 トンネル内には照明施設があるもののさほど明るくはない。写真は少し増感しているので明るく見えるが、実際には、臆病な私には入るのに少しだけ躊躇いを抱いたほどの「暗さ」だ。もっとも、野山北公園や住宅地にも近い場所にあるトンネルなので、散歩に訪れるジジババ・オッサンオバサンもそれなりにいるので安心感もある。いや、そのほうがかえって怖いかもしれないが。

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野山北自転車道・赤堀トンネル

 トンネルを抜けるとまたすぐにトンネルとなる。横田トンネルの名の由来は、かつてその地域が横田と呼ばれていたからだ。写真の赤堀トンネルの由来は不明だが、おそらく「赤堀地区」だったのだろう。

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野山北自転車道・御岳トンネル

 3番目は御岳トンネル。名前の由来は不明。このトンネルは丘陵南側の尾根筋を貫いている。その尾根筋(標高150m)を御岳と呼んだののだろうか?現在では武蔵村山市中央4丁目となっており、いにしえの地名を思い起こさせるものではない。

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老朽化したトンネル内のひび割れ

 補修は何度も施されているだろうが、トンネル自体は1920年代に造られたものなのでかなりくたびれている。写真から分かるとおり、コンクリートの継ぎ目には少しのズレがあり漏水が目立つ。

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漏水防止のためのパネル

 漏水がとりわけ多い場所には写真のようなパネルが貼られている。新自由主義経済のトリクルダウンは幻想だが、古いトンネル内では天井から冷たい水がトリクルダウンする、確実に。

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御岳トンネルの先にある番太池

 御岳トンネルを出ると自転車道はやや右にカーブしている。写真の「番太池」を避けるためと思われる。トンネルの出口は標高128m地点にあるが、池は123mほどのところにある。

 番太池の近くには赤坂池もある。周囲には小さな谷が多くあり、そこから湧き出した水を溜めたものが両池である。近くにはかつて田んぼだっと思わせる場所があり、溜池はこうした田畑に水を供給するために造られたのだろう。

 両池は奈良橋川の水源とされている。川は東南東に流れ下り谷戸を形成している。そして丘陵の南側を進み、番太池から3キロほど先で空堀川に合流する。谷戸内から宅地開発が進み、住宅地はそのまま丘陵の南端に続いている。中藤、神明、芋窪などの住宅地はその奈良橋川沿いにある。

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番太池の上にある池は枯れていた

 かつての番太池はもっと広かったようで、写真はその池の谷奥の様子である。写真の奥側が恐らく奈良橋川の源頭だろう。源頭と思われる場所の標高は約130m。その近くにある三角点の標高は165m。奈良橋川の水も、やはり多摩ローム層の下にある芋窪礫層から湧き出たはずだ。その芋窪礫層の名は、奈良橋川の下流域にある芋窪地区で礫層が発見されたために付けられた。

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野山北自転車道・赤坂トンネル

 通行可能な最後のトンネルが写真の「赤坂トンネル」だ。トンネルの入口近くには住宅が多いものの、トンネルの先は林である。こんなところにも変質者は現れるらしい。

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整備された自転車道はここで終了

 赤坂トンネルを抜けると、自転車道は終わっていた。ただし道そのものは途切れていなかった。直進するか右折するか左折するかの選択肢があった。直進方向には5番目のトンネルがあるはずだ。しかし、そのトンネルに入ることはできない。それでは右折か左折か?が、私はほとんど迷わなかった。

 来た道を戻ることにした。そうして赤坂トンネルを抜け、番太池のほとりに出た。

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周遊道に出るために道なき道を進んだ

 さらに御岳トンネルに戻るのでは面白くないので、山道方向へ進むことにした。ひとつは奈良橋川が形成した谷戸脇の道、もうひとつは「たまこヒルズ」方向の道。前者の道には「かぶとばし」まで0.7キロという小さな標識があった。私は「かぶと」にはさほど興味がないので、後者の道を選択した。

 すぐに急坂になり、想像していたのとはまったく異なる「ヒルズ」前を通り、その裏手にあった小道をさらに進むことにした。

 そこに現われたのが、写真の朽ちた2本の柱と道を塞ぐ倒木だった。ここでまた、戻るか進むかの選択を強いられた。自転車道の末端では戻ることを選んだので、今度は前進することにした。

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いつの間にか私はフェンス内に居た

 道はどんどん細くなり、ほとんど消えかかった場所に写真のフェンスがあった。その向こうには自動車道と遊歩道があった。つまり私は、いつのまにかフェンス内に入っていたのだ。乗り越えるのは大変そうなので戻るしかないと考えたのだが、周りをよく見るとそのフェンスには扉のついた部分があることが分かった。しかも、その扉には鍵は掛かっていなかった。そのために、フェンスの外にある遊歩道に出ることができたのだった。

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多摩湖通りの自動車道と遊歩道

 写真の遊歩道をどちらに進むのかは不明だったが、日照の向きから判断して、さしあたり、扉の左手へ進むことにした。写真の方向である。

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武蔵野の路・かぶとばし

 ほどなく、「武蔵野の路」の標識が目に入り、「かぶとばし」が近いことが分かった。番太池のほとりから谷戸脇の道を選べば、迷うことなくこの橋に出たのだ。しかし、その選択をしてしまったのなら、一瞬ではあったものの「フェンスの中に閉じ込められてしまった」という思いを体験することはなかった。次回も、あの道を選択することは可能だ。しかし、結末が分かってしまった現在にあっては、もはや、あの「やばい、閉じ込められた」という思いを味わうことは不可能なのだ。その限りにおいて、あの時、私は自由だったのである。

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かぶとばしのかぶと

 かぶとばしの欄干にはかぶとの透かし彫り?があった。橋詰めの2つのアーチの上にも2匹ずつかぶとがいた。確かに、”かぶとばし”という以外の呼び方はないのではないか。くわがたばしでは、明らかに変である。

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左に多摩湖、右にr55と狭山湖のフェンス

 武蔵野の路から遊歩道に戻り、r55に向かった。私がフェンスから出た道は「多摩湖通り」だった。写真の場所で多摩湖通りはr55と出会う。r55は通り慣れている道なので、進むべき方向はすぐに分かった。

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かたくりの湯に至るr55の急カーブ

 r55は下りに入り、ほどなく、「村山温泉・かたくりの湯」が視界に入った。r55の左カーブこそ、私が今回の散策の掉尾を飾るものであった。

 1930年代にこの道は、写真のような急カーブではなかった。村山側から見れば、道は少しだけ右に曲がり、その後は直進して山中に入っていったはずだ。

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山口村に至る旧道が通っていた谷間

 その山中の道はもはや残っていない。写真から分かる通り、わずかばかり、道だった痕跡を残すのみだ。その道らしき場所に行くことはできない。山口貯水池の敷地内だからだ。私はフェンスの外側から望むだけだった。写真の左側に縦の黒い筋が写ってしまっているが、これはフェンスの縦軸である。隙間が狭いため、どうしても一部が写り込んでしまうのだった。

 かつて道だったそれは小高い尾根と尾根との間を進み、やがて柳瀬川の源流域が造った谷間を下り、その先で左から下ってくる谷川と出会う。そして、いくつかの小集落の間を通過し、柳瀬川筋を東に進んで山口城址脇に至る。

 その道は写真の場所から消え、貯水池の下に沈み、貯水池の堤体の東側で復活する。復活した道の北側に「トトロの森1号地」があることはすでに触れている。

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村山温泉・かたくりの湯

 写真はr55の西側にある「村山温泉・かたくりの湯」の建物である。その付近は、かつては田んぼだったようで、その裏手(南側)に空堀川が流れている。

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空堀川で餌を探すアオサギ

 空堀川の小さな流れの中に、餌を探すアオサギがいた。野山北公園の池から小魚が脱走してくるのを狙っているのだろうか?

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空堀川の水源域と野山北公園

 写真は、北公園の池から流れ出る空堀川の水源域とされる場所である。冒頭近くに触れたように、空堀川の源流域はさらに上方にあるのだが、公園としてはここを水源域と表記している。それゆえ、空堀川はここに始まり、私の散策はここで終わる。