徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔57〕記憶を継承する水の道~江東区・小名木川(1)

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小名木川横十間川に架かるクローバー橋

小名木川は1590年代に整備された!?

 小名木川隅田川(住田川、角田川、澄田川とも)と中川(現在の旧中川)との間を東西に結ぶ5キロほどの人工水路である。通説では、16世紀の末に徳川家康小名木四郎兵衛に命じて開削させたとある。1590年(天正18年)に江戸に入府した家康は関東経営のための基礎作りを始めたが、物資調達政策のひとつとして下総・行徳の製塩業に目をつけ、その地から江戸城まで安全に塩を運搬するための水路の要として小名木川を整備したとされている。当時、東京湾奥(当時では江戸前の海という表現が適当かも?)には南方向へ大きく浅瀬が広がっており、それが舟運の妨げとなっていたために運河開削の必要性が生じたのだった。

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ウナギも釣れそうな小名木川(昨秋のハゼ釣りシーズンの様子)

 一方、家康入府までは小田原(後)北条氏が武蔵国下総国を支配しており、後北条氏の下でも隅田川から中川の東にある葛西、さらには浦安まで舟の行き来がおこなわれていたとする資料(宗長『東路の土産』)もある。その経路にあった澪筋(みおすじ)は「宇奈岐沢(宇奈木沢とも)」と呼ばれていたそうだ。そこではウナギがよく取れたからなのだろうか?その澪筋は自然に出来た水路であった蓋然性は否定できないが、一方で人工的に開削された可能性もあるようだ。干潟が多く、葦の覆い茂っている湿地帯に小舟の舳先を突っ込むのは、あまりにも危険すぎるからだ。

 だとすれば小名木川は、すでに存在していた宇奈岐沢を小名木四郎兵衛が拡張整備したとも考えられる。通説には小名木四郎兵衛が開削したので小名木川の名が付与されたとあるが、小名木川を開削した功績で四郎兵衛は小名木姓を賜ったのかもしれない。あの、玉川兄弟のごとくに。

小名木川開削前の東京湾奥の様子

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大川とも呼ばれていた隅田川。写真の橋は「新大橋」

 隅田川の名は、かつて古利根川の最下流部を意味していた。鎌倉時代頃の東京湾地形想像図を見ると、現在の墨田区江東区、いわゆる江東デルタ地帯は古利根川河口の南側に位置し、当時は水中にあったことが分かる。ただし、古利根川の流路は関東平野の低地にあったため、多くの土砂が河口部に運ばれて前置層を形成し、浅瀬が広がっていた。浅草寄りには牛島(現在の向島辺り)という浮洲(浮島)も出来ていた。何しろ、古利根川が南東向きから真南に進み始めたのは今の埼玉県久喜市栗橋辺りで、小名木川北岸まで直線距離にして51キロもあるにもかかわらず、その栗橋の標高は13mしかない。ちなみに、多摩川で同じ距離を遡ると青梅市千ヶ瀬付近となり、その標高は147mである。いかに、古利根川が平坦な場所をゆったりと流れてきていたかが、この点からも想像しうる。

 室町時代頃になると、河口部にはさらに土砂が運ばれて広大な干潟が形成され、一部には「柳島」「亀島」などと呼ばれる浮洲も出来つつあった。亀島には井戸があって「亀井戸」と呼ばれ、周囲の陸化がさらに進むとその地域は亀戸と呼ばれるようになった。室町後期の汀線は、現在の総武線辺りにあったと想像しうるのだ。もっとも、塩性湿地はそれ以南にも広がっていた可能性は大いにある。湿地には川からの真水が入りやすいので当然、葦原も多くあったはずである。

 こうして古利根川河口には「三角州」が出来上がり、西側の流れが隅田川(東側は現在の荒川)と呼ばれるようになった。なお、武蔵国下総国との国境は古利根川にあったが、それは江戸時代初期(この頃は隅田川)まで続いていた。

小名木川の開削と埋め立て地の拡大

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深川八郎右衛門が発願したとされる深川神明宮

 小名木川は幅20間(約36m)、深さ1間(約1.8m)の大きさで造られた。浚渫(しゅんせつ)された土砂は主に北岸に積まれたらしい。これが江東デルタ地帯埋め立ての第一歩と考えられている。陸化しつつあった小名木川北岸を本格的に開拓したのは、摂津国から東国に下ってきた深川八郎右衛門であったというのは定説化している。摂津国のある大阪湾は埋め立てによって整備された港湾の先駆的存在なので、深川氏にとって東京湾奥は格好の開拓地となったようだ。

 「東照宮此辺御遊猟ノ時、彼八郎右衛門ヲ召サセラレシテ地名ヲ御尋アリシニ、モトヨリ一円ノ茅野ニシテ村里モ隔タリユエ、定マレル地名モアラザル由申上ゲシカバ、然ラバ汝ガ苗字ヲ以テ村名トナシ……」と『新編武蔵風土記稿』にある。この開拓地が深川村と名付けられたのは深川姓に由来するという点は確かなようだ。

 写真の深川神明宮については後述するが、八郎右衛門はこの神社近くに居住していたらしい。神社から小名木川北岸までは290mの距離である。当然、この辺りまで埋め立てが進んでいたはずだ。そのための土砂はどこから運んできたのだろうか?残念ながら、深川家は18世紀半ば、七代目で家名断絶の処分を受けてしまったため、詳しい資料は散逸したらしい。残念なことだ。

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右手に入り込んでいるのが小名木川スカイツリーも、もちろん埋め立て地内にある

 先にも挙げたが、隅田川に架かる清洲橋から上流方向を眺めたのが上の写真で、今度は小名木川合流点やスカイツリーも画面内に収めている。スカイツリーまで撮影地点からの直線距離は3.5キロほどである。スカイツリーのすぐ西には言問橋が架かっているが、これはもちろん、平安時代歌人である在原業平(9世紀の人)の歌に由来する。当時、この一帯は古利根川の河口域内にあったので、業平は当然、船の上から都鳥に言問いをしたのであり、その故事を懐かしんだ菅原孝標女(11世紀の人)も船の上からだった。当時、墨田区押上辺りはまだ完全に水中にあり、小舟が行き交うことが可能だった。1000年ほど前までは海中にあり、その後に干潟化して埋め立てされた場所に、あんなにも高いものを建てて地盤は大丈夫なのだろうか?

 ちなみに、スカイツリーの高さが634mなのは武蔵国に由来することは誰でも知っているが、その場所は平安時代には古利根川内に位置するので、当時なら武蔵、下総のどちらに所属するのか、その点も都鳥に出会ったら言問いたい。

 それはともかく、隅田川左岸の埋め立ては深川八郎右衛門によって始まったとも言えるのだが、一帯の埋め立て事業が本格化したのは1655年の「ごみ処理令」が切っ掛けとなり、さらに57年の明暦の大火(振袖火事)以降、一気に加速した。

◎埋め立ての進展

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深川江戸資料館内にある江戸時代の町並み再現

 江東区白河一丁目にある『深川江戸資料館』内には、江戸時代の町並みを原寸大に再現した展示室がある。残された史料をもとに隅田川の左岸にあった佐賀町の様相を室内に「復活」させているのである。なかなかリアリティーがあった。通りの右手には八百屋、左手には肥料問屋が店を開き、問屋の並びには土蔵もある。写真内の人物は本物で、生まれも育ちも深川だそうだ。現在はここでボランティアガイドをおこなっている粋なオジチャンであった。

 深川佐賀町は1620年代の後半には成立していたようで、小名木川の南側にあって隅田川左岸沿いにある。成立当初は「深川猟師(漁師)町」と呼ばれており、漁民たちがイワシ漁の基地にしていた場所なので、小名木川南部の埋め立てが進展する以前でも利用可能だったのだろう。周辺には汽水域が広がっており、そうした場所はプランクトンが豊富なのでイワシは無数に捕れたはずだ。そのイワシは干鰯(ほしか)にされて肥料として重宝されたのである。漁民たちの中心は、やはり西国(とくに摂津方面)から移住してきた人々で、干鰯の一部は大坂(大阪)方面に送られていたそうだ。 

 小名木川南部の埋め立てが進展する切っ掛けとなったのは1655年(明暦元年)の「ごみ処理令」であった。4代将軍家綱(在1651~80)の時代である。江戸府内は次第に整備され人口は急速に増加した。そのため、屋敷内だけでなく空き地や川にもごみが捨てられるようになり、江戸府内はごみの町になってしまった。そこで家綱は「ごみ処理令」を発し、以降、ごみは永代浦(今の永代、福住、冬木、富岡辺り)に運ばれて捨てられることになった。こうして、永代浦にはごみの島・永代島が誕生した。

 江東区のごみの島といえば「夢の島」がよく知られている。今でこそ公園として整えられ、陸上競技場、マリーナ、熱帯植物園などが設置されているが、1957~67年にはごみ処理場として「名高い」存在だった。それは経済成長が急速に進展したためにごみの処理が追い付かなったことによる苦肉の策であった。江戸初期の町造りも急速に進んだために、小名木川南部の浅瀬や干潟がごみ処理場として選ばれたのだ。

 当時の資料を見ると、「ごみの島」は永代島だけでなく、越中島東陽町、砂町など多くあり、それらはごみを主体にして埋め立てられた場所で、小名木川南部の埋立地の6割ほどの面積になる。粋でイナセでおキャンな下町の地盤は、江戸版の「夢の島」であった。

◎振袖火事と人工水路の拡張

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かつては「亥ノ堀川」と呼ばれていた大横川

 小名木川は東西に走る人工水路だが、江東デルタ地帯には「北十間川」「竪(たて)川」「仙台堀川」など小名木川同様に東西に走る(いくつかは曲がっているが)運河があり、一方で、大横川や横十間川のように南北に走る運河もある。ここで「横」というのは、江戸城から東方向を見たときに横に走って見える水路だからである。現在は首都高速7号線(小松川線)の真下にあるために存在感が薄い「竪川」は、城からは縦に走っているように見えるのでそう名付けられた。

 スカイツリーの真下に掘割があるが、それは「北十間川」の名残りである。

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ハゼ釣りが盛んな時期の横十間川(20年9月撮影)

 小名木川は16世紀末から工事が始まったとされているが、他の水路は1659年に開削が始まっている。これは2年前の明暦3年に起きた「明暦の大火」(振袖火事とも)が大きく関係している。この大火について触れると今回分はそれだけで終わってしまうためにここでは触れないが、この大火によって密集地であった江戸の町の大半が焼けてしまった。その復興のためには居住地の拡大が必要不可欠となった。そこで、江東デルタ地帯の開発が一挙に進展したのである。

 それまで小名木川北部は農業、南部は漁業の拠点に過ぎなかったが、大火災後は防災に配慮した町づくりを進める必要があった。江戸城周囲の混雑緩和のために大名・旗本屋敷や寺社などが埋立地に移転してきた。日本橋からは木場も移ってきた。埋立地内の交通の便を良くするために小名木川を基軸として、埋立地の縦横に掘割を整備した。それが竪川であり横十間川などであった。それ以外にも中小の水路が網の目のように掘られた。現在ではその大半が埋め立てられてしまっているので目にすることはできないが、かつての江戸の下町は、明らかに「水の都」を主張していた。それゆえ、下町をヴェネツィア(ベニス)に比肩すると考える人も多い。

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新大橋方向を見つめる芭蕉

 隅田川を渡る橋が「千住大橋」しかないのは不便かつ危険ということで、1661年には「大橋」(後の両国橋)、93年には「新大橋」、98年に「永代橋」、1774年に「吾妻橋」が架けられた。

 小名木川近くの深川に住んでいた松尾芭蕉は、新大橋完成の直前には

 初雪や かけかかりたる 橋の上

 橋の完成直後には

 有り難や いただいて踏む 橋の霜

 という句を残している。

小名木川界隈を隅田川寄りから散策する

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萬年橋から小名木川隅田川に合流する地点を眺める

 小名木川界隈を散策するスタート地点は萬年橋上に決めた。ここは小名木川に架かる橋ではもっとも隅田川寄りに位置する。なお、この小名木川の水路の筋をそのまま西に進んで行くことが可能であれば、2220m先には東京駅の日本橋口に至る。

 小名木川河口右手に「芭蕉庵史跡展望公園」があるのが見える。ひとつ上に挙げた芭蕉像はその展望公園内にある。

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史跡展望公園からの眺め

 萬年橋からその史跡公園に移動した。展望公園上から小名木川隅田川下流を望むと「清洲橋」が視界に入る。その橋は関東大震災2年後の1925年に着工された。ドイツ・ケルン市にあった「ヒンデンブルク橋」がモデルとのこと。橋はなかなか美しい姿をしているが、ヒンデンブルクの名前が出てくると「なんだかなぁ」という気がしてくる。ヒンデンブルク大統領はナチスの台頭を許し、飛行船のヒンデンブルク号は大爆発を起こしたからだ。芸術は爆発なのかも知れないが、芸術品の爆発は危険極まりない。

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現在の萬年橋は1930年代に建て替えられたもの

 萬年橋の往年の姿は、葛飾北斎歌川広重の作品で見ることができる。両作品とも富嶽が描かれているので、当時は深川からでも富士山がよく見えていた。橋の姿は北斎の作品でよく分かり、広重の作品では、ダジャレのように亀が吊るしてあって橋の全体像は不明だ。

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小名木川の川番所は、初期には萬年橋の北詰にあった

 小名木川は交易の要衝であっただけでなく人の移動も激しかった。その監視のために川船番所が置かれたが、当初は萬年橋の北詰にあったものの、1661年に中川側に移された。いわゆる奥川筋から物資が大量に入り込むようになったため、監視は物資や人の流入点でおこなうほうが合理的だと考えたからだろう。その中川船番所については次回に触れる予定である。

芭蕉について少しだけ考える

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境内付近に芭蕉庵があったとされる芭蕉稲荷神社

 萬年橋北詰からほど近い場所に写真の「芭蕉稲荷神社」がある。この辺りに芭蕉庵があったとされているので、地元の有志が1917年頃に建てたものである。

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1917年に発見された芭蕉遺愛の石の蛙(芭蕉記念館所蔵)

 芭蕉稲荷神社の場所に芭蕉庵があったとされる根拠は、1917年9月の台風の後に写真の”石の蛙”がその地で発見されたためである。この石の蛙は現在、「芭蕉遺愛の石の蛙」として後述する「芭蕉記念館」に所蔵されている。

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石の蛙が発見された場所は「芭蕉翁古池の跡」と認定された

 稲荷神社の祠の横には「芭蕉庵跡」の石碑がある。深川の芭蕉庵は3か所にあるはずで、最初の庵は「八百屋お七の火事」で焼失、二番目は「おくのほそ道」の旅に出掛ける直前に譲渡、三番目は武家屋敷の横にあったがやがて取り込まれたり、小名木川沿岸の整備で消失したりなどの理由で存在地は不明となっている。一般に、芭蕉庵は門人で富商(魚問屋)の杉下杉風(さんぷう)が所有していたコイの生け簀の番小屋を改築したものといわれている。それが3か所のうちのどれだかは不明だ。

 旅に出ることの多かった芭蕉だけに、住んでいた場所が不明であってもまったく問題はないと、私には思えるのだが。

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稲荷神社の240mほど北にある「芭蕉記念館」

 最初は稲荷神社辺りに記念館を造る計画があったが、そこでは手狭ということもあり、240mほど北の場所に1981年、写真の「芭蕉記念館」が開館した。

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芭蕉記念館の石標の周りには芭蕉が植えてある

 入口にある石標の周囲には、バショウ(学名Musa basjoo、ジャパニーズ・バナナ、原産地は中国)が植えてあった。芭蕉は以前には「桃青」の俳号を用いていた。深川の草庵は、隅田川小名木川を行き交う船にヒントを得て「泊船堂」と名付け、俳号の別号にも使用していた。しかし、門人の李下が草庵の脇に芭蕉の苗を植え、それが大きく育つと彼はそれが気に入ったようで、1682年からは芭蕉の俳号を使うようになった。

 芭蕉館には芭蕉が相応しいと誰しもが考えるようで、この記念館にも写真のようにバショウが数本植えられている。

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記念館の庭園の最上部には芭蕉庵を模した芭蕉堂がある

 記念館の西側には隅田川の流れがある。記念館の建物の南側には庭園が整備されており、西側が川の流れを見下ろせるような高台になっている。その一角に写真の「芭蕉堂」がある。

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芭蕉堂の隣には「ふる池や~」の句碑がある

 芭蕉堂の東隣には句碑がある。1686年の作品で、芭蕉の句ではもっとも有名な「ふる池や~」の文字が刻まれている。

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芭蕉堂の隣の水溜まりには蛙が飛び込んでいた

 庭園には小さな流れが造られていて、写真のような「古池」もあった。その中には偶然なのか作為なのかは不明だが、一匹のカエルがいた。飛び込む音は聞こえなかったので、カエルはすでに古池に飛び込んでしまっていたようだ。

 私には「ふる池や~」の作品の良さはまったく理解できないが、おそらく、こうした調子の作品を初めて世に出したということに価値があるのだろう。二番煎じであったとするなら、名作どころか佳作にすらならない(と思う)。

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常設展示室内にあった旅する芭蕉の模型

 展示室には、写真のような旅姿をした芭蕉の人形も飾ってあった。こうした装束を目にすると、私はまた、東北への旅に出掛けたくなる。こんな姿形には絶対にならないけれど、なぜかこの風体は旅情に誘うのである。

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展示室にある芭蕉の足跡を記した地図はとても参考になった

 写真の展示はとても参考になった。本では小さな地図を目にすることが多いので細部まで配慮することはあまりできないが、このような大きな図に触れると、今までさほど気に留めることがなかった場所にまで関心を抱くことができるのだ。

 芭蕉は西国の出身だけに旅は西日本に向かうことが多かったようだ。それだけに、「おくのほそ道」のルートは芭蕉だけでなく、その紀行文に触れる人々にも無数の発見があっただろうし、これからもあるはずだ。

 私自身、『おくのほそ道』には15歳の梅雨期に初めて触れ、すぐさま、片雲の風ではなく雨雲に誘われて漂泊への想いはやまず、結局、東北方面へ野宿の旅を始めてしまった。今は、楽天トラベルで宿だけは探すけれど。

小名木川の北部を少しだけ散策する

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深川神明宮の本殿と手水舎

 芭蕉記念館から280mほど東に進むと、先に挙げた「深川神明宮」の鳥居前に至る。神明宮は深川八郎右衛門が勧進して創建されたとあるので、慶長年間に造られたのだろう。深川発祥の地であるにも関わらず、境内には幼稚園があることもあって、かなり手狭であった。

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境内にある神輿倉

 神明宮の例大祭では十二基ある町神輿が町内を練り歩くそうだ。その町神輿は、鳥居から本殿に続く参道の横に保管されているようで、写真のような神輿倉が左右に並んでいる。シャッターの地の色だけでは無機質すぎると考えたのだろうか、各扉には神輿などの絵が描かれている。 

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のらくろ~ド商店街

 神明宮から「高橋夜店通り」に出て、「のらくろ館」のある森下文化センターに向かった。少し前の地図には「高橋夜店通り」とあったのだが、現在は「のらくろ~ド商店街」に改名したようだ。そういえば、高橋夜店通りから西に進む道は「深川芭蕉通り」と地図にはあったが、実際にはその名を目にすることはなかった。時代は変遷する。

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森下文化センター内にある「のらくろ館」

 「のらくろ」の名前はよく知っているが作品についての記憶はまったくない。作者の田河水泡についても名前だけ知っている程度。決して漫画が嫌いだったわけではなく、小中学校のときは『少年サンデー』『少年マガジン』は欠かさず読んでいたし、田河の内弟子だった長谷川町子の『サザエさん』の単行本は100冊近く所有していた。

 田河は墨田区立川(当時は本所区)の出身だが江東区臨海小学校(当時は深川区尋常小学校)に通っていた。成人してからはあちこちに移り住んでいたはずだが、彼の遺族は遺品の多くを江東区に寄贈した。そのためもあって、江東区では「森下文化センター」の1階に「田河水泡のらくろ館」を設立した。

 入場無料なので少しだけ覗いてみた。作品が展示されていた。のらくろの顔の印象は深く残っていた。ただし、内容に関してはまったく記憶を蘇らせるものはなかった。顔の記憶だけは残っている。それは素晴らしいことである、と思った。サザエさんバカボンのパパの顔をいつまでも記憶しているごとくに。

小名木川南部の地を散策する

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小名木川南部の地に移動するために「東深川橋」を渡った

 小名木川南部にも寄ってみたい場所がいくつかあったので、写真の東深川橋を渡って川の南詰に出て、南岸の遊歩道を西に進んだ。

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西深川橋の北詰にある魚の像が気になった

 東深川橋から写真の西深川橋までは約260mの距離である。南岸の遊歩道上から西深川橋の北詰を望むと、橋のたもとに魚の像らしきものが見えた。そこで、橋を渡って北岸側に出ることにした。

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西深川橋上から西方を望む

 橋の上から西の方向を眺めた。下流側(隅田川方向)に高橋があり、その先の「新小名木川水門」の姿も見て取れる。その先は東京の中心である。  

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シーラカンス小名木川を見て何を思う

 橋の北詰にあったのは写真のシーラカンスのオブジェだった。長さ4.5m、高さは2mある巨大なもので、1990年に設置されたそうだ。もちろん、小名木川で釣れたものではなく、たんなる芸術作品である。

 このシーラカンスはまだ30歳ではあるが、それでもずっと小名木川南部地域の変遷を見てきたはずなので、可能であれば、その移り変わりの是非について尋ねてみたい。

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高橋の東側にある遊覧船乗り場

 西深川橋から西へ200mほどのところにあるのが「高橋」で、その橋の北岸東側に写真の「遊覧船」乗り場がある。遊覧船には乗り合いや貸し切りタイプがあるようで、小名木川界隈だけでなく、大横川や横十間川に入ってスカイツリー亀戸天神に立ち寄るもの、さらに隅田川を遡上したり神田川巡りなど、いろいろなコースがあるらしい。

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遊覧船は不定期運行らしいので浮き桟橋は閉まっていることが多い

 桟橋の周囲を見回してみたが、とくに時刻表などはなかった。休日に小名木川界隈に出掛けた際には遊覧船が走っているのを見かけたことがあるので、定期便といっても休日限定なのかもしれない。

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清澄白河駅のすぐそばにある石像彫刻師の家

 高橋を渡って川の南岸側に出た。地下鉄の清澄白河駅は橋の南詰のすぐ近くにある。駅(といっても地下鉄なので地べたからでは駅は見えないが)の南側に「清澄庭園」があるので通常なら覗きに行くのだが、あいにく、都立庭園であるために臨時休業中であった。

 路地に入ると、道端に石像を並べている年季の入った家が目に留まった。「石彫」との文字があったので、石工(いしく)職人の家なのだろう。並べてある石像彫刻は仏教系のものがほとんどだ。近くには仏教寺院がたくさんあるので需要は多いのだろう。

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1630年に創建されたと伝えられる深川稲荷神社

 深川七福神のひとつである「布袋尊」が祀られている神社があった。深川稲荷神社の創建は1630年(寛永七年)というから、小名木川南部地区では相当早くに創られている。神社のある場所はかつて「西大工町」と呼ばれていて、船大工が多く住んでいた場所であった。

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稲荷神社を象徴する「布袋尊

 独特の表情そして体型をしている「布袋尊」は、中国では弥勒菩薩の化身として信仰され、日本に伝えられてからは大気度量を人々に授ける福神として愛され、絵画や置物などでよく見かける。

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深川には相撲部屋が多くある

 相撲にはほとんど興味がないので、今はどんな力士が存在するのかさえ知らないが、子供のときはそれなりに関心があって取り組みをテレビで見ていたような記憶がある。「栃若時代」や「柏鵬時代」のときが相撲人気の全盛だったのではないか。

 両国に近いこともあってか、深川には相撲部屋が多くある(そうだ)。「大嶽部屋」というのはよく知らないが、「大鵬道場」とあったので撮影してみた。相撲部屋があるとされる路地を少しだけ歩いてみたが、布袋尊のような腹をした力士らしき人物に出会うことはなかった。 

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小名木川水門を東側から望む

 高橋と先述した萬年橋との間(橋間は360m)に「新小名木川水門」がある。写真はそれを東側(高橋側)から見たものである。萬年橋側から見るために遊歩道を進もうとしたのだが、現在、修理中とのことで行き止まりになっており、西側に出ることはできなかった。結局、迂回して萬年橋上まで行くことになった。分かっていればスタート時に撮影しておいたのだが。

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萬年橋上から新小名木川水門を望む

 新小名木川水門は津波や高潮の影響が小名木川流域に及ばないようにするために設けられたものである。竣工は1961年で、現在は耐震補強工事中で3門あった扉は2門となっている。なお、隅田川左岸からこの水門までの距離は180mである。

 先に挙げた「芭蕉稲荷神社」の標高は2m、大嶽部屋は1.1m。江東区ハザードマップを調べてみたが、小名木川流域の標高は極めて低い場所にあるので内水氾濫の危険性はかなり高いようだ。

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明暦の大火後に霊巌島から移転してきた霊巌寺

 霊巌寺は1624年(寛永元年)、雄誉霊巌上人(のちに知恩院三十二世)が江戸中島(現在の中央区新川)に創建した浄土宗の寺。57年の明暦の大火で消失し、翌58年に現在の地(江東区白河)に再建された。

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霊巌寺には松平定信墓所がある

 霊巌寺でもっとも知られているのは、寛政の改革をおこなった松平定信墓所があることだ。写真のように、関係者以外は立ち入ることができないが、墓は墓に過ぎないので私にとってとくに問題とはならない。

 白河の清きに魚の棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき

 これはあまりにも有名な狂歌なのでとくに説明は不要だろう。松平定信白河藩の第3代藩主であり、白河楽翁と号した。その定信の墓が霊巌寺にあるので、一帯の地名は白河となった。

 ところで田沼意次だが、『剣客商売』に出てくる彼はなかなかいい奴そうだ。秀才の定信には興味を抱かないが、清濁併せ呑む田沼には政治家としての意気を感じる。それにつけても、今の政治家は「濁」だけだ。しかも「小濁」の奪い合いなので話にもならない。みんなスカである。

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江戸六地蔵の第5番。かなり大きい

 江戸六地蔵は1706年(宝永3年)に発願され、20年(享保5年)までに造立された。霊巌寺の銅造地蔵菩薩坐像は17年に出来た。高さは273センチ。六地蔵はいずれも丈六の大きさ(座像なので八尺)である。なお、第6番は富岡八幡宮別当寺であった永代寺に造立されたが、明治の廃仏毀釈によって廃棄された。

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霊巌寺の東隣にある「深川江戸資料館」

 霊巌寺の東隣にあるのが、写真の「深川江戸資料館」で、常設展示室には江戸の町並みが再現されているということはすでに触れている。

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江戸の町並みが再現されている

 町並みが再現されている場所は3階までの吹き抜けになっているので見応えは相当にある。入口は2階部分にあり、まずは写真のように全体を見渡すことになる。長屋の屋根の上には案内役であるネコの実助(まめすけ)がいる。

 町中にはボランティアガイドがいるので、町の様子や当時の暮らしぶりを詳細に教えてくれる。

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江戸の水路を行き交っていた猪牙(ちょき)舟

 乗船することはできないが、江戸下町の水路を行き交っていた「猪牙(ちょき)舟」も展示してある。残念ながら大きな魚籠の中にも水路にも魚はいなかった。

 猪牙舟の語源は明確ではなく諸説ある。舳先が猪の牙に似ているので猪牙の字を当てているが、これはたまたまらしい。吉原通いのために「山谷堀」をこの舟で行き来したことから、山谷舟の別称があるそうだ。

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漁師の賄い飯であった「深川めし」の店

 深川界隈を散策していると、当然のごとく「深川めし」屋をよく見かける。深川は漁師町だったので、彼らのファストフードとして「深川めし」が広まったそうだ。素材は米と貝類、それに長ネギ。貝と長ネギを塩水で煮て、それをご飯にかければ出来上がり。貝はアサリやアオヤギ、ハマグリが用いられ、長ネギは体を温める作用があるので必須。現在はアサリが主体で、いろいろな具を入れた炊き込みご飯が主流となっているようだ。元祖「深川めし」についても諸説あるようだが、要は、深川界隈の漁師たちの賄い飯と考えればよい。浅瀬が広がっていたので貝類は豊富だっただろうし。

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大横川は桜の名所でもある

 小名木川南岸の遊歩道を東に進んでみた。写真の大横川と交差している場所で遊歩道は南に向きを変える。一旦、大横川沿いにある遊歩道を南に150mほど進んで扇橋の西詰に出てさらに橋を渡らなければ、小名木川南岸をこれ以上東に進むことはできない。

 大横川の遊歩道にはソメイヨシノが植えられている。今は開花が進んでいるだろう。

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小名木川沿いにはマンションが立ち並ぶ

 小名木川河畔にはかつて漁師町があり、そして大名・旗本屋敷、そして寺院が並び始め、明治期から昭和の高度成長期までは工場が進出した。今はそれらの跡地に大型マンションやショッピングモールが続々と建設されている。

 小名木川は移り行く400年の歴史を記憶し、川を訪ねる人は、流れに親しみながら、それらを想起することに努める。