◎薬師池公園(東京都町田市野津田町)
三浦半島方面へ出掛けるために保土ヶ谷バイパスを使うときも、東名横浜町田ICを使うときも、町田にある某予備校や某々予備校へ講義をしにいくときも、府中から町田方面へ出るときには必ず、都道18号線(府中町田線、鎌倉街道)を使う(使った)ため、いつも鶴見川を渡った先の右手にある「薬師池」の存在は気になっていた。おそらく、ムカデ10匹の協力を得ても数え切ることはできないほど、薬師池の傍らを通り過ぎ、「時間がある時には立ち寄ってみよう」と意識化されてはいた。しかし、実際に出掛けたのはまだ、昆虫一匹の足でも間に合ってしまうほどの数だった。
私の認識では、薬師池公園には格別なものはないけれど、多摩丘陵内に位置するので適度な起伏があるゆえにやや強度のある散策には最適というものだった(というほど訪れてはいないが)。それも、公園内だけでなく、七国山など周辺の丘陵地域を含めてのことである。
しかし今回、この公園は1976年に開園されて以来、82年には「新東京百景」、98年には「東京都指定名勝」、そして2007年には「日本の歴史公園100選」に選ばれていることを初めて知り、私のこの公園に対する評価があまりにも低かったことを知らされた。
何しろ、「日本の歴史公園100選」と言えば、偕楽園、日比谷公園、浜離宮、旧古河庭園、上野公園、六義園、兼六園、大阪城公園、岡山後楽園、高松栗林公園など、日本の名だたる公園が選ばれているのである。
もっとも、これらは一次選定で選ばれたもので、薬師池公園は二次選定であった。とはいえ、この二次選定グループだって、札幌大通公園、館林つつじが岡公園、さきたま古墳公園、新宿御苑、山下公園、登呂公園、天橋立公園、桂浜公園、熊本城公園など著名な公園が選ばれている。たとえ第二グループとはいえ、十分に誇って良い選抜であり、それを知らなかった私は不明を恥じなければならない。薬師池公園さん、御免なさい。
公園は花の名所でもあり、季節になると様々な花たちが咲き誇り、園内を華やかにする(らしい)。私がここを訪れるときにはいつも花の端境期だった。今回もそうで、理由は簡単。混雑を敬遠するからである。
だから、梅、椿、桜、花菖蒲、紫陽花、蓮、曼殊沙華、紅葉が見頃のときには立ち寄ることを避けていた。公園は鎌倉街道沿いにあるので、駐車場の混雑具合や園内の人だかりは、通り掛かりにでも簡単に確認できるのだ。そんなこともあり、私のこの公園に対する評価は「散策に好適」ぐらいだったのであった。
薬師池は、以前には福王寺池とか福王寺溜池と呼ばれていた。鶴見川右岸に続く緩斜面に田んぼを造成するために水田用池が必要となった。野津田村の武藤半六郎へ滝山城主の北条氏照(またまた登場)から印判状が下り、1577(天正5)年頃から開拓が始まった。溜池が完成したのは1590(天正18)年とされている。奇しくも、その年に小田原北条氏は秀吉の軍門に下っている。
1707年の富士山の宝永噴火の影響で、溜池は泥砂で埋まったために農民たちは掘り起こし作業をおこなった。こうした災害はその後もあったようだが、その都度、農民たちは泥砂を取り除く作業を余儀なくされたようだ。それだけ、この溜池は農民たちにとって重要な存在だった。
そんな貴重な溜池も、今では観光スポットになってしまった。池に架かる「タイコ橋」上にはカメラマンが数人いて、しきりにカルガモの子供たちが水遊びする様子を撮影していた。
公園の北側入口の南側にはハス田が広がっている。ここには大賀ハスもある。まだハスの季節ではないのだが、写真のように、しきりとハス田にカメラを向けている人々がいた。いずれも、高級そうな超望遠レンズを一点に向けていた。一番暇そうなオジサンに、何を狙っているのかを聞いてみた。
ここにはカワセミの親子が住み着いていて、今はその親が、腹をすかせた子供のためにハス田で餌を漁っている最中とのことで、超望遠レンズを構えている人は、親カワセミが餌をくわえる瞬間を狙っているようだ。なお子供は、ハス田とは反対側にある谷戸の柵上に止まっていて、親が子供に餌を与える場面になると、カメラマンたちは一斉に回れ右をする。
私にはカワセミを撮影する気持ちも超望遠レンズもないので、その代わりに、カメラマンたちを写してみた。彼・彼女たちはほぼ半日ここに居て、カワセミ親子の姿を追いかけているそうだ。それも毎日のように。趣味の世界に住む当事者の眼前には独自の空間が広がっているが、部外者にとってその空間は、ただの”空”であるように思われる。趣味人に実在する世界は、それが実在するという信念に基づいている。その世界に住んでいない人には何も実在しない。というより、その世界そのものが存在しない。その限り、実在とは概念ではなく観念である。
ハス田と薬師池との間にあるのが写真の「自由民権の像」。不思議な形をしているモニュメントだが、この像と自由民権との結び付きがよく分からないこともあってか、ここで足を止める人は少ない。
明治時代の初期に始まった自由民権運動は町田(当時は神奈川県南多摩郡野津田村など)の地にも広まり、石阪昌孝、村野常右衛門など後に衆議院議員として活動した人材を生み出している。薬師池のある野津田地区は、多摩の自由民権運動をけん引する拠点のひとつだった。
ところで、石阪昌孝と言えば、1896年に板垣退助の推挙によって群馬県知事に任命されている。しかし、97年の渡良瀬川の大洪水によって鉱毒の被害が県内に拡大したことで、石阪と田中正造との対立が決定的に深まったこともあり、同年に知事の座から下りている。若き日に抱いていた気高き理想・理念は、年齢を重ね、社会的に高いとされる地位に就くうちに失われ、精神の輝きすら消失しまうようだ。
もっとも、石阪の名前を聞くと私の場合、田中正造との関係より前に、彼の娘(美那子)が北村透谷と結婚したということのほうを思い出してしまうのだ。今回、この像に触れて石阪のことを思い出したときにも、まず、北村透谷の名が浮かんでしまった。
公園内には江戸時代に建てられた古民家が2軒、移築復元されている。上の写真は「旧荻野家住宅」で、東京都指定有形文化財に認定されている。江戸末期に建てられた医院兼住宅で、町田市三輪町にあったものを1974年にこの地に移した。
こちらは国指定重要文化財の「旧永井家住宅」で、町田市小野路町にあった農家のものを1975年、公園内に移築復元された。記録によれば、17世紀後半に建築されたとのこと。
ところで、薬師池公園は1976年に開園されている。ところが、荻野家住宅は74年、永井家は75年にこの地に復元されている。時系列が合わないようだが、実は、「薬師池公園」として整備される前に、この地は「福王寺旧園地」として存在していたのである。
薬師池の南側には谷戸が伸びている。その場所は水田ではなく花菖蒲田として利用されている。写真はその谷戸の裾部分で、菖蒲たちは順調に葉っぱを伸ばしていた。なお、この地の標高は63m。
菖蒲田は段々畑のように谷戸の上方に向かって伸びている。こうしたゆるい傾斜の道をうろつくのが、私の至上の楽しみなのだ。さしあたり、どこの谷戸でも。
谷戸の一角には水車小屋がある。花菖蒲に水車は不要だろうが、かつての田畑には必要不可欠なものだった。里山の景色をイメージさせるために水車小屋は、その象徴的な建造物である。
谷戸が谷戸である限り、上段の谷頭に近づくにしたがって幅は狭くなる。
谷戸の上端近辺(標高72m)に達すると菖蒲田は終わり、その上方には谷戸を生み出した谷頭がある。谷頭上の標高は105m。かつては、この場所から豊かな清水が湧き出していて谷戸の田んぼを潤していたのだろう。
旧荻野家住宅(標高63m地点)の裏手に回ると、写真のような流れの筋が見えたのでそれを追ってみることにした。
流れは丘陵の中腹部に続いており、その流れに沿うように遊歩道が整備されているので、流れを追うのは簡単だった。
その流れの大元が、写真の「大滝」だった。標高は72m。自然らしさを演出しているものの、いささか装飾が過剰なようでもあった。まあ、自然公園を謳っているわけではないので、許容範囲であろうか。
公園の西の高台に「薬師池」の名の由来となった「福王寺薬師堂」(通称は野津田薬師堂)があるので、お堂に続く遊歩道を登っていくことにした。写真は、その遊歩道上(標高75m)から、旧永井家住宅、東に広がる梅林、さらにその東にある薬師池を眺めたもの。
遊歩道から参道に移り、写真の薬師堂を訪ねた。私はお参りをする習慣がないので、ただ建物とその周囲を見ただけだった。中心に写っている石標には、「普光山福王寺 野津田薬師堂」とあった。
福王寺の開山は行基であるそうだが、それはとくに問うまい。1576年にこの地(暖沢(ぬぐさわ)谷戸)に再興され、現在のお堂は1883年に再建されたとのこと。お寺自身も「野津田薬師堂」の通称を名乗っているので、もはや福王寺の名への拘りはないのかも。
写真では伝わらないのが残念ではあるが、お堂の佇まいは十分、ここを訪れる価値のあるものだ……お参りはしないけれど。
◎町田ぼたん園を初めて訪ねる
薬師池から徒歩6、7分のところに「町田ぼたん園」がある。普段は「民権の森」として無料開放されているが、ボタンの開花期(4月中旬から5月中旬)には有料(大人520円)となる。ゴールデンウィーク期間が最高の見頃となるが、緊急事態宣言のために4月25日からは臨時休業となってしまった。私はその直前に訪れているので、無事、写真の「花摘み娘」の姿にも触れることができた。
薬師池を訪れた際にはこの辺りにも出向くことがあるが、ボタンの開花期に当たったのは初めてだった。私の場合、ボタンの名を聞くと「緋牡丹お竜」の藤純子を思い浮かべるが、この緋牡丹はサボテンの仲間なので、ぼたん園のボタンとは異なる。それゆえ、写真の花摘み娘は博徒ではなく、花柄摘みや花への水やりなどを担当している。
薬師堂からぼたん園へ移動することにしたが直には向かわず、少しだけ丘陵地を歩いてみた。人工的な公園も良いが、こうしたどこにでもありそうでいて、かつ、ここにしかない里山の風景に出会えることが、丘陵地の徘徊の奥深さだ。
ぼたん園に向かう坂道の傍らに写真の菜の花畑があった。多くの人が、ここで足をとめて写真撮影をおこなっていた。ボタンのような華美な花を見学にいく人が、こうした簡素な花にも惹かれるという点が興味深い。
菜の花の向こう側にはヤマフジの大きな木があった。菜の花を見ている人の視野には必ず、このヤマフジも入るはずなのだが、こちらにカメラを向ける人は皆無だった。人は視界に入ったものすべてを認識しているわけではなく、さしあたり見たいものしか見ていない。その限り、見ようとしないものは実在しないのと同等である。
写真は、ぼたん園のすぐ西隣にある「ふるさと農具館」の入口付近。この時期は幟にある「七国山そば」が人気らしいが、それを目当てに訪れる人が多いようで、この日は売り切れだった(そうだ)。ここも4月25日から臨時休業とのことだ。
ボタンには和傘がよく似合う。これは定型ともいうべきものだ。ボタンの花びらは雨に打たれるとすぐに染みができることによる。しかし、写真の場所には屋根があるから和傘は不要だと思えるのだが。しかし、それでもボタンに和傘があるのは、ここが入口すぐの場所であるからだろう。誰しもが、この取り合わせに定型美を抱き、ぼたん園に訪れたことを、改めて実感する。
ぼたん園といってもボタン(1700株)だけではないのは当然で、ボタンの同属であるシャクヤクも600株あるし、フジやセイヨウオダマキもよく咲いていた。
「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」は、美人の姿を花にたとえて表現したものだが、たしかにシャクヤクはすらりとした姿が印象的だ。
ボタンの葉っぱに似ているからという理由?で、写真のタイツリソウも多く植えてあった。ただし、似ているのは葉っぱだけで、それ以外に似ている点はない。こちらはケマンソウ科コマクサ属でボタンとはまったくの別種だ。しかし、藤ボタン、瓔珞(ヨウラク)ボタンという別名もあり、中国では荷包ボタンと呼ばれているそうだ。似ているのは葉っぱだけでも、花の王様と類似点があるのは凄いことらしい。
私は一時期、山野草を多く育てているときに当然のごとく、このタイツリソウも多く集めていた。何しろ、漢字で書けば鯛釣草なのだから。
ボタンには赤系統の花が多い。理由は明瞭で、ボタンは牡丹の漢字を当てているからだ。この名は、中国・明朝時代の薬学書である『本草綱目』にあるそうで、「丹」は赤色を表している。
今回、ボタンの開花期で混雑が予想される時機に敢えて訪れたのは、私なりの理由があった。ボタンとシャクヤクの見分け方を失念していたからだ。もちろん、ネット等で調べればすぐに分かるのだが、やはり、実際の花に触れる以上の説明力はない。
もっとも判別しやすいのは葉っぱで、写真のように、ボタンの葉っぱは先端部が3つに分かれているものがほとんどだ。また、葉っぱにはツヤが感じられない。
一方、シャクヤクの葉っぱは楕円形で、先端部が分かれていない。葉っぱ自体にツヤがあってテカテカしている。
ボタン(牡丹)は中国西北部が原産地で、元は薬草として利用された。落葉低木なので、背はそれなりに高くなる。富貴草、百花王、花王などの別名がある。近年では改良園芸種が出回っているので、花の色や形は様々である。
シャクヤク(芍薬)はアジア北東部が原産地で、漢字名から分かる通り、こちらも薬草として古くから用いられた。ボタンが木本性なのに対し、シャクヤクは草本性なので、冬場は根だけが残って茎などは地表から姿を消す。ボタンが花王の別名を持つのに対し、シャクヤクは花相とも呼ばれる。ボタンが花の王様、シャクヤクは花の宰相といったところらしい。
ボタンに比してシャクヤクは花の香りが強い。バラのような良い香りがすればシャクヤクとのことなので、鼻を花に近づけたら蜂に刺されそうになった。やはり、美人は近寄り難い。
丘陵の斜面を利用したぼたん園はそれなりの広さ(約16000平米)を有しているので、花を愛でながらの散策には良き場所だった。
写真の白いヤマフジと隣の藤棚とのコラボレーションはかなりの人気を博していたようで、ボタンやシャクヤクよりも撮影者は多かった。
カメラを構える人だけでなく、スケッチブックを持参してボタンを描いている人もいた。私には絵を描く才能が(も)まったくないので、ボタンのような複雑な花弁を有しているものを描く気にはまったくならない。もし美術の授業でボタンを描けという指示があったならば、私は牡丹ではなく釦を書くだろう。シャツの釦なら簡単に描けそうだ。それも平面的になら。
◎寺家ふるさと村をとぼとぼと歩く
横浜市青葉区にある「寺家(じけ)ふるさと村」は、かつては東京や神奈川でも日常的に展開されていた里山の風景が保存されており、のんびりと散策するには格好の場所だ。
かなり前のことなので何の用事だったかは忘却してしまったが、一時期、青葉区の市ヶ尾近辺に出掛けることが多くなった。府中市からだと、鶴川街道に出てから上麻生交差点を曲がって「上麻生横浜線」(県道12号)を南下して市ヶ尾方向に進むことになる。この道路は鶴見川中流に沿って整備されているので、道の左右に鶴見川によって泣き別れとなった多摩丘陵の片割れが、それぞれ南東方向に伸びている。
結構、渋滞する道なのだが、田舎っぽい道なので興味深く、時間があるときには枝道に入って、以前にはどこにでも広がっていたであろう空間に触れることにしていた。そうして出会ったのが、寺家ふるさと村だった。
かつての水田には、ごく当然のようにゲンゲ畑が広がっていた。ゲンゲ(蓮華草の名前が一般的か)は緑肥として利用されていたからだ。今では化学肥料が当たり前になってしまったため、ゲンゲ畑は緑肥としてではなく、かつてあった田舎の春の風物詩のひとつとして意図的に造作されているのだ。
それゆえ、レンゲソウは敷地の全面にではなく、ほんの片隅にだけ咲いている。
ここは単なる観光村ではなく、実際に農業を営んでいる人たちの空間を「ふるさと村」という緑地保全地区に指定しているのだ。コロナ禍の中、こうした開けた場所ならば安全度は高いとばかりに「避難プラス観光」する人々が増加した結果、無断駐車などのために農作業が滞る場面も多くなっているようだ。
日常と非日常とが交差する場所なので、写真のような水車小屋も設置されており、この村の数少ない観光スポットになっている。
谷戸に造られた水田を潤すために、村内には溜池がいくつも整備されている。写真の「むじな池」は、村の北側にある山田谷戸の水田に水を送るための溜池。池の三方には雑木林(ふるさとの森)が広がっているので、確かにタヌキぐらいは出没しそうだ。
村の南側にある熊野谷戸に水を送るための溜池(熊の池)は釣り堀にも利用されている。利用料は1日分で2200円と意外に高価だった。ヘラブナ釣り場の相場は私には不明だが、釣り人はそれなりに居て、しかもあちこちで竿が曲がっている場面が見られたので、魚の放流量は多いように思われた。そうでなければちょっと高い(ようだ)。
山田谷戸の田んぼに導水される溜池の主力が写真の「大池」。この大池周りの森が個人的には一番に気に入っている。
寺家熊野神社の創建年代は不肖ながら、古くからこの地に祀られていたという。再建は1867(慶応3)年におこなわれ、現在の社殿は1925(大正14)年に完成したとされている。
写真から分かる通り、本殿までは急な階段が続いている。鳥居は標高31m地点、本殿は45mのところにある。比高は14mだが、私は急な階段に恐れをなし、「病み上がり(脱・脱腸)」を理由に階段を上ることを断念した。
熊野神社の階段はパスしたが、森の中を歩き回れる散策路は自分好みであると思っているので、ペースは緩やかながら山坂道を進んでみた。写真の休憩所のある場所の標高は64mほど。
ふるさと村の西端に近い場所にある大池は逆U字形をしている。池の西側に遊歩道があるので、それを歩きながら、ついでに大池の源流点を探ることにした。上の写真の撮影地点の標高は39mだ。
遊歩道に沿って細流があり(本当はその逆だが)、その流れの元の方向に進むことができる。写真から分かる通り、流れの筋は最近になって整えられた形跡がある。もうすぐ、水田に水を張る時期になるからだろうか?
やや上りに入った場所に、写真のような湿地帯があった。この場所も遊歩道のすぐ脇にあるので、観察する場合、虫に対する恐怖心をさほど覚えずに済むのが嬉しい。
さらに進んでいくと、写真のような西に伸びる枝流の谷筋が現れた。丸太の先をのぞき込んでみたのだが、流れはまったくなかった。この谷はすでに涸れてしまったらしい。
道を直進すると、ほどなく本線と思われる谷が現れた。ここには確かに流れはあったが、それはほとんど藪の中に隠れてしまっていた。その場所に足を踏み入れようにも、足場が悪そうなのですぐに断念した。こういう場所では、私は諦めが早い。
遊歩道は写真から分かる通り、谷へは進まずに東に曲がって丘陵地を上っていくので、そちらに進んで谷頭の姿を東側から確認した。谷頭は標高43m地点に始まり、撮影場所は54mほどのところだ。
この地点から、いくつか前に写真に挙げた休憩所のある場所(標高64m)に出て、それから少しずつ下って、遊歩道は二股に分かれる場所(57m)に至る。ここを右に曲がれば「熊の池」(36m)に至り、直進すれば熊野神社本殿の裏手(46m)に出ることができる。
もちろん、私の場合は「熊の池」方向に進んだ。釣りの場面を見たかったことと、釣り人のための駐車場にはトイレがあることを知っていたからだ。
大池の西側には小さな谷戸があった。こうした何の変哲もない場所こそ、もっとも豊かな空間であるとも言える。
こうした場所では、無限の想像力が働くからだ。