◎「小田原といえば?」「〇〇です!」
「小田原から何を連想するか?」と私が問われたとすると、すぐに「だるま料理店」と答えるだろう。が、こんな反応をするのは私以外はほぼ皆無だと思われ、通常ならまず「小田原北条氏」、つぎに「小田原城」と答えるはずだ。
この2つ以外は案外、返答に窮するだろうが、歩きスマホが得意な人であれば「二宮尊徳(二宮金次郎)」を思い浮かべるかも。もっとも、二宮の金ちゃんが生誕したとき(1787年)、その生家は足柄上郡栢山(かやま)村(現在は小田原市栢山)にあったので、彼のことはよく知っていても、生まれたのが小田原市であると答えるのは少々、難しいかもしれない、小田原市在住の人は別にして。
「小田原提灯(ちょうちん)」もよく知られている存在だ。江戸時代の半ば、小田原在住の甚左衛門が、箱根越えの旅人のために考案して売り出したものがその起源と言われている。折りたたむと和紙の部分が上下の桶の中に収まるため携行性に優れている。
写真は、JR小田原駅の改札口の天井から吊り下げられている巨大な提灯で、このような形をしているものを小田原型提灯と言う。人間界はもちろんのこと、猿が運営する駕籠屋でも、この型の提灯が使われている。そのことは、さる著名な童謡が証明している。
小田原の名から「かまぼこ」を想像する人も多いかもしれない。「おせち料理」にはかまぼこは必須の存在だろうし、その大半は「板付け蒸しかまぼこ」であるはずだ。写真は「小田原かまぼこ」を代表する老舗の「鈴廣」が運営する「かまぼこの里」に掲げられていた幟を撮影したもの。本当ならば店内を写すべきなのだろうが、私には「鈴廣」は敷居が高すぎるので、入店をためらってしまったのだ。
「かまぼこ」の名の初見は室町時代の半ばと言われている。ただ、当時のものは「焼ちくわ」に似ていたそうだ。それゆえ、その姿が「蒲の穂」のようなので「がまのほ⇒かまぼこ」と呼ばれるようになったらしい。
現在のような板に付いた「蒸かまぼこ」は江戸時代末期に登場し、とくに小田原式の白かまぼこは江戸で大いに好まれた。京大坂(大阪)では蒸した後に焼いてから販売されたが、小田原のかまぼこは、蒸したまま販売された。写真の「鈴廣」は慶応元(1865)年の創業というから老舗には違いない。実は、私もおせち料理の一品として鈴廣のかまぼこを2本有している。もちろん、購入したのではなく「もらいもの」だ。
小田原市地場産業振興協議会では、小田原蒲鉾(かまぼこ)の伝統と品質を守るために「小田原かまぼこ十か条」を制定している。例えば2条には「原材料、副原料などをすべて吟味し、小田原蒲鉾の名をけっして辱めないこと。」、4条には「板付け蒸し蒲鉾であること。」とある。「小田原蒲鉾」を名乗るのも案外と大変なのだ。
写真は、小田原城址公園の南側を通る国道1号線の歩道を徘徊していたときに目にした老舗蒲鉾店の幟である。「かまぼこケーキ」の名があったので、どんなものなのか少しだけ興味がわいたため、さしあたり歩道から店内をのぞき見してみた。かまぼこの有する魚臭さを消すためにクリームチーズを加えたもののようだが、これはあくまでも変わり種のかまぼこなので、”小田原”の名は付していない。というより、板付けではないため10か条の第4条に相当しない。それゆえ、小田原産は名乗れても「小田原蒲鉾」と呼ぶことはできない。
以上のもの以外にも「小田原」を訪ね歩くと「ここも小田原なのだ」と気が付く名所はいくつもある。例えば、関東三大梅林のひとつ(あとは水戸の偕楽園と埼玉の越生(おごせ)梅林)に数えられる「曽我梅林」は、曽我兄弟の名と共によく知られている。ちなみに、三大梅林の中では、梅花・梅林だけに着目すると、曽我梅林の風景がもっとも美しいと思っている。他の2か所は、梅林そのものよりも梅林のある風景に興趣がある。それゆえ、今回は花の時期ではなかったので、あえて立ち寄らなかった。
◎小田原駅に初めて足を踏み入れた
小田原は何百回となく(それ以上かも)通過している(伊豆半島や箱根に行くために)が、小田原そのものを目的地としたことはそう多くはない。小田原駅近辺に出掛けた場所としては、「だるま料理店」が一番多く、次に小田原城と石垣山一夜城見物といった程度である。ただし、釣り目的で小田原方面に出掛けたことは結構あり、アユ釣りでは酒匂川、堤防釣りでは早川港や江の浦港が馴染みの場所だ。
もっとも、それらは釣り場がたまたま小田原にあるというだけ(酒匂川での釣りの場合は、小田原地区から開成町や山北町に移動する事もよくあった)で、小田原の存在を意識していた訳ではまったくない。そんなこともあって、小田原方面に出掛ける場合でもすべて車利用なので、小田原駅を利用したことはただに一度もなく、釣りの帰りに何度か知人(釣り仲間など)を小田原駅に送り届けたことがあるにすぎない。
今回は小田原界隈を訪ねることを主目的としたため、初めて小田原駅に足を踏み入れることにした。といっても、電車を利用して出掛けた訳ではなく、駅西口近くの駐車場に車を置いて駅の構内や小田原城、それに市街地をうろついたのだ。
東海道新幹線や箱根登山鉄道の駅は西口に近いし、さらに東口より西口のほうが車の乗り入れが容易なためもあって、旅行客にとってはこちらのほうが使い勝手は良さそうだ。その西口駅前広場には、小田原発展の礎を築いた「北条(北條)早雲公」像が高々とそびえ立っている。
北条早雲はあくまで俗称で、現在では「伊勢宗瑞(早雲庵宗瑞)」と表されるのが一般的になっている。実際、小田原北条氏(後北条氏)が北条を名乗るのは2代の氏綱からで、伊勢宗瑞が北条の名を用いたことは一度もない。
私が若い頃、北条早雲(伊勢新九郎)の出自は伊勢の素浪人で、のちに成り上がって相模国の支配権を得たとされていた。これは明治期以降に流布した俗説であって、実際には備中国伊勢氏の血筋で「伊勢新九郎盛時」という名を有し、室町幕府第9代将軍・足利義尚の申次衆や幕府直属軍を構成する奉公衆であったことが分かっている。
伊勢氏は代々、室町幕府の政所執事役に就いており、盛時の家系は伊勢本家の次に位が高かった。つまり伊勢新九郎は、素性の分からない「馬の骨」ではなく、名門の誉れ高い血筋だった。ちなみに、盛時の姉の北河殿は、駿河今川家8代当主の今川義忠(今川義元の祖父)に嫁いでいる。
伊勢宗瑞は今川氏の命で伊豆国や相模国西部に進出し、大森氏から小田原城を奪った。が、宗瑞の拠点はあくまで伊豆国の韮山城で、小田原城は出城のひとつにすぎなかった。その小田原城が後北条氏の拠点となるのは、これも2代の氏綱からである。
そうはいっても、今日の小田原があるのは「北条早雲」の活躍があったればこそなので、やはり小田原駅には「早雲公像」が相応しいだろう。いや、まったくもって。
早雲公像を目にした後、いよいよ駅ビル内に足を踏み入れた。人口188339人(21年11月現在)の駅にしては、我が府中市(同現在262900人)の京王線・府中駅の数百倍は立派である。これは、小田原が神奈川県西部を代表する都市というだけでなく、箱根の玄関口に位置するということも関係しているのだろう。それに、江戸時代には東海道を代表する宿場町として栄えたという点も影響しているし、箱根駅伝の中継点だということも関係しているかも。
それに引き換え、小田原よりも人口が多いだけの府中市は、東京競馬場や府中刑務所の玄関口というだけで、それ以外に誇るものはほとんどない(詳細は本ブログの31,32回参照)という有様なので、駅界隈が貧弱なのも致し方ない。
駅ビルの中に東西をつなぐ自由通路があり、その通路に面して東海道新幹線、小田急小田原線、箱根登山鉄道、JR東海道線などの改札口がある。もちろん、コンコースにはレストラン、土産物店なども立ち並んでいる。写真はその自由通路に至るための階段に描かれていた小田原城のイラストだ。やはり、小田原には北条早雲と小田原城が似つかわしい。
駅構内の柱の一部に、写真の家紋(ミツウロコ、三つ鱗)が描かれてあった。一般には、鎌倉北条家の家紋が平べったい二等辺三角形のミツウロコ、小田原北条家が正三角形のミツウロコとされているが、写真の小田原駅のものは正三角形には見えない。一方、鎌倉の寺社などの写真を調べてみると、確かに二等辺三角形のものが多いが、正三角形に近いものも少なからずあった。
ゆえに、北条家の家紋が「ミツウロコ」であるという点が肝要なのであって、その形が二等辺三角形か正三角形かどうかは、さして重要ではないのでは、と思えるのだが。
ネットでミツウロコについて調べたとき、「第2回鎌倉検定2級」の問題が出ており、それは鎌倉北条氏の家紋を選ばせるものだが、選択肢には正三角形と二等辺三角形のミツウロコなどが挙げられていた。その試験の正解は二等辺三角形の方のミツウロコとのことだ。とすれば、小田原駅のミツウロコは鎌倉北条家のものとなってしまう。
検定試験のための検定が必要なのではないか。
小田急電鉄は小田原急行電鉄が起源なので、小田原に駅があるのは当然のことだろう。箱根登山鉄道は小田急グループに属しているので、改札口が一緒なのも別に何の不思議もない。
小田急と言えばすぐに「ロマンスカー」を思い描くが、実は、私は一度もそれに乗ったことがない。正確に言えば、車両に乗り込んだことはある。しかし同行者が遅刻したために結局、発車前に降りざるを得なかった。
ロマンスカーについてはそれが二番目の記憶で、やはりもっとも印象深いのは、村下孝蔵の『ロマンスカー』という歌だ。メロディーはもちろんのこと歌詞が素晴らしく、歌は「君はいない」の言葉で終わる。確かに、君はいなかったので、私はロマンスカーに乗り損ねた。
自由通路を東に進んで東口に出た。東口周辺が、小田原ではもっとも賑わいのある場所だ。東口ターミナルの東端から駅ビルを眺めたのが上の写真。撮影地点の背後に、整った、かつ華やいだ町並みがある。
鉄道線に並行して大きな複合商業施設がある。「ミナカ小田原」という名称で、東口再開発事業の一環として整備され、昨年の12月にオープンした。14階建てのタワー棟と4階建ての「小田原新城下町」とからなり、写真はその江戸時代の町並みを模した新城下町の建物で、写真では分かりずらいが、その背後にタワー棟がある。
「ミナカ」とは「真ん中」という意味の古語で、万葉集では富士山を指すという。市民からの公募で「ミナカ」の名を選んだそうだが、小田原市民の教養の高さがうかがわれる。もっとも、この施設の運営主体は温泉施設で有名な「万葉倶楽部」なのだけれど。
この点、わが府中の再開発施設の名は「ル・シーニュ」「くるる」「ミッテン」「フォーリス」などであり、それらの名からは知性の欠片すら感じられない。
新城下町市場の一階には写真のコンビニが入っているが、それもまた、すっかり城下町の中に溶け込んでいる。なお、建物の4階には宿泊施設があり、ここもホテルというより旅籠風の外観だった。
新城下町(ミナカ小田原)があるのは「お城通り」と東海道線との間。そのお城通りを南に進んで小田原城址公園に向かった。ただし、通りと城址公園との間には「旭丘高校」があるため、高校の手前を左折して「弁財天通り」を東に進み、突き当りにある「お堀端通り」を南に進むと城址公園の東端に出る。
なお、その高校の敷地はかつて「弁財天曲輪」があった場所。なので、学校は城内に建てられたことになる。そういえばかつて、小田原には県立小田原城内高校という学校があったことを思い出した。ずいぶん昔、私が某予備校の厚木校舎に出講していたとき、その学校の女生徒が何人も受講していた。彼女らが履歴書を書くとき、学歴欄には「小田原城内高等学校」と記入することになる。それだけでかっこいいと思った。
残念ながら、その学校は県立小田原高校に統合されてなくなってしまった。それなら、小田原高校を小田原城外高校にすれば良かったのに。まったく恰好良くはないが。
それは、城内は規定された空間だが、城外は未規定の空間だからだ。ドーナツの輪の中の「空」と輪の外の「空」は、同じ空であってもまったく異なる空であることのごとくに。
お堀に架かる朱に塗られた橋は「学橋」と名付けられている。この橋を渡ると小田原城の「二の丸」に至る。写真では分かりづらいが、橋の向こうに天守閣が顔をのぞかせている。
城址公園のパンフレットによれば、正規登城ルートは「馬出門」から入るとのことなので、学橋は渡らずにお堀端通りをもう少し南下した。
写真は、馬出門に至る土橋の少し手前から、お堀と、二の丸の南角にある「隅櫓」と、その向こうにそびえる天守閣とを眺めたもの。城址公園の周りを何回か廻ったが、ここから見るお城の風景がもっとも美しく思えた。
写真は、お堀に架かる土橋から馬出門を眺めたもの。ここが「正規登城ルート」なので、わたしはしずしずと登城することにした。
先の写真から分かるように馬出門をくぐってもすぐに突き当りになる。これは敵が容易に進入できないようにするための形で、お城の構造では「お約束事」になっている。一般には「枡形虎口」と呼ばれている。
当然、進入路は直角になっているため、門も2か所あることになる。先の写真がお堀に近い門で、上の写真が内側にある「内冠木門」となる。馬出門は、写真の右手にある。向かいに見える屋根は隅櫓のものだ。
馬出門と内冠木門をくぐると「馬屋曲輪」に至る。その馬屋曲輪をクランク状に進むと写真の住吉橋と銅(あかがね)門が見えてくる。もちろん、そこも「枡形虎口」になっているため、門を2か所くぐって大手筋に出ることになる。
ただ私は、少しだけ寄り道をした。馬屋曲輪に続く御茶壷曲輪の土塁が気になったからだ。もっとも、橋を渡らずに100mほど西に移動しただけだけれど。
小田原城は伊勢宗瑞が大森氏から奪い取ったということはすでに触れている。それは1496年から1501年の間のこととされている。
小田原に城を築いた大森氏は承久の乱(1221年)を描いた軍記『承久記』に、北条泰時に従軍した大森弥二郎兄弟と記されているのが初見とのこと。その後は北条得宗家に被官したという記録が残っている。北条氏が滅亡したあとは足利氏の鎌倉公方の下で活動し、領地が駿河国の東端にあったために箱根や足柄山の関所を管理していた。
1416(応永23)年に上杉禅秀(氏憲)の乱が勃発し、鎌倉公方の足利持氏が追われ大森邸に逃げ込んだ。大森氏は公方側として乱を鎮め、その勲功によって相模国西部(足柄上郡、下郡)の支配権を得た。結果、小田原に進出して城を築いたのだ。
御茶壷曲輪には小田原北条氏時代に築いたとされる土塁が良く残っている。こうした土塁を見るために少し寄り道をしたのだ。
小田原城は酒匂川が造った沖積平野である足柄平野の南端にあって、東と南は相模湾、西側は箱根古期外輪山(約40万~18万年前に形成)の山裾に位置している。学橋東詰の標高は8.7m、馬出門は9.9m、御茶壷曲輪は10.8m、二の丸は11.9m、本丸は29.6mだ。ちなみに、早雲公像は14.3m、ミナカ小田原は10.7mのところにある。
写真の銅門(あかがねもん)は1997年に復元された。扉の飾り金具に銅が用いられていたことからその名が付けられとのこと。
伊勢宗瑞は、駿河今川氏の第9代当主で、彼の姉の北河殿の子(つまり宗瑞の甥)である今川氏親(うじちか)の政務を補佐するため、京都よりも駿河にいることが多かった。
1493(明応2)年、伊豆国の堀越(ほりごえ)公方(鎌倉公方の後進のひとつ)の内紛=豆州騒動(中心人物は足利茶々丸=第11代将軍・足利義澄の異母兄)を抑えるため、将軍の命で伊豆国に出兵(乱入とも)した。氏親などの支援を受けて茶々丸を伊豆大島に追放したため、宗瑞は「伊豆の国主」と言われるようになり戦国大名の仲間入りを果たした。そして、韮山城を拠点にして伊豆国の支配を開始した。
ただ、茶々丸側の勢力は各地に残存しており、宗瑞が甲斐国において茶々丸を自害に追い込んだのは1498(明応7)年のことであった。これによって宗瑞は、伊豆国の支配権を完全に掌握した。
なお、この伊豆出兵の際に伊勢新九郎盛時は出家して「宗瑞」を名乗るようになった。それまでの幕府奉公衆という立場から、独立した戦国大名への転換を図ったのであった。
住吉橋を渡り、その北詰にある門をくぐる。ここも枡形虎口になっているので、門の先を直角に左折する。その場所から銅門を眺めたのが上の写真。この門をくぐると二の丸、または本丸に向かう大手筋に出る。
江戸時代の二の丸には「二の丸御屋形」があった。本丸には将軍家の御殿があったため、小田原藩主の住居や藩の政務を司る政庁はその御屋形にあったと考えられている。
伊勢宗瑞が大森藤頼から小田原城を奪取したのは1496(明応5)年から1501(文亀元)年の間なのだが、その経緯は未だに明らかになっていない。軍記物には鷹狩りの話や、1000頭の牛の角に松明を結び付けた話などで宗瑞が城を奪った顛末を面白可笑しく描いているが、それらはまったくの作り話である。
宗瑞が小田原城を奪う以前は、宗瑞と大森氏はともに扇谷上杉氏の有力な与党であって、山内上杉氏側を敵にして戦っている。が、宗瑞が小田原城を奪ったと考えられている時期(1501年以降)から、大森氏は山内上杉側に転じている。
宗瑞が小田原城を奪ったということは、単に拠点を確保したということだけに留まらず、相模国西部をその支配下に置いたということになる。
大手筋から本丸方向に進むため常磐木門へ向かった。朱に塗られた橋を渡り、その先の階段を上っていくと常磐木門がある枡形虎口に至る。階段や周辺の土手の様子から、小田原城の本丸は箱根の古期外輪山が形成した山裾の傾斜地を利用して造られていることが良く分かる。
本丸の直下には東堀があったが、その場所は現在、菖蒲田として利用されている。私がここを訪れたとき、田では菖蒲の手入れがおこなわれていた。開花期はさぞかし見事だろう。
伊勢宗瑞の武蔵国進出としてぜひとも押さえておかなければならないのが1504(永正元)年の「立河原の戦い」だ。これは長享の乱(1487~1505年)を結末に導く引き金になった戦いでもある。
長享の乱は関東管領・山内上杉家(上杉家嫡流)と扇谷上杉家(本拠地河越城)との間の関東支配をめぐる争いだが、切っ掛けは扇谷上杉家の家宰として著しい台頭を見せていた太田道灌の暗殺だった。これによって上杉家同士の対立が本格化し、20年弱に渡る抗争が続いた。
立河原の戦いでは、伊勢宗瑞と今川氏親軍は扇谷上杉側を支援して勝利に導いたが、この戦いの後に宗瑞と今川勢は撤退したため、扇谷上杉勢は山内上杉側の反撃にあい、結局、越後上杉勢の支援を受けた山内上杉勢が河越城を包囲したことによって扇谷上杉勢は降伏し、長年に渡る争いは決着を見た。
が、この戦いで両上杉勢は疲弊したため、伊勢宗瑞が相模国東部や武蔵国南部に勢力を拡張する好機となった。
写真は、1971(昭和46)年に再建された「常盤木門」。この門内には、刀剣・甲冑を展示している「SAМRAI館」があるが、私は立ち寄らずに本丸へと進んだ。
本丸にはかつて「動物園」があったと記憶していたが、それはほとんど消滅状態で、ただサルの檻があるだけだった。調べてみると、1980年代の後半にはゾウ、ライオン、フラミンゴなど70種332点の動物がいたそうだ。それが次第に縮小され、現在は10匹ほどのサルがいるだけとなった。これもいずれ撤去されるそうだ。
かなりの広さをもつ本丸には、動物たちの代わりに、写真のような「小田原ちょうちん」が展示してあった。
これらの小田原ちょうちんは、地元の小学生が作成したもののようだ。見物してみると、ちょうちん自体はどれも同じようなので「提灯キット」があるのかもしれないが、描かれている絵や文字が面白かった。丁寧に仕上げているものもあれば、簡単な文字だけのものもあった。私は絵が大の苦手なので、自分ならばミツウロコか、”小田原”の文字を書くだろうと思ったが、実際、そうした作品は意外にも多かった。彼彼女は私と同じように、手抜きの人生を送るのだろうか?
◎天守閣に登ってみた
2016年に大改修された天守閣は近代的な建築物のように見えた。実際、1960年に江戸時代にあったとされる天守閣が復元され、さらに5年前に大改修され化粧直しもおこなわれているため、形は江戸様であっても建造物そのものは現代的なのだ。石垣からの高さは27.2mで、これは全国にある城の中では第7位の高さを誇るとのこと。
なお、現在ある小田原城の姿は、江戸初期に小田原に入封した稲葉正勝・正則父子が1633(寛永10)年の大地震によって大破した城を近世的城郭に仕上げたものを模したものである。
天守閣に入るには510円が必要だ。内部は現代の博物館のように整っており、北条氏にまつわる展示品も数多くあった。当日は小学生の集団が群がっていたので、そうした展示品に触れることはせず、ひたすら最上階を目指した。
当日は天気が良かったのでまずまずの展望が見られた。写真は箱根の山々を眺めたもの。箱根の古期外輪山が小田原城の西側まで裾野を伸ばしていることが良く分かる。
望遠レンズを用いて箱根の山々をつぶさに観察し撮影した。左から下二子山(1065m)、上二子山(1099m)、駒ヶ岳(1356m)、神山(1438m)と続いている。
本丸の真北には「御用米曲輪」がある。発掘調査によって、ここには第4代・北条氏政の居館や庭園があったと推定されている。1569(永禄12)年に、武田信玄軍が二の丸から本丸直下まで攻め込み氏政館を放火した、という信玄の記録(書状)が残っている。
小田原駅の姿もよく見えた。右手の高い建物が、「ミナカ小田原」のタワー棟だ。
現在の小田原城は大森氏や小田原北条氏時代のものを復元したわけではない。大森氏時代の城は、現在の二の丸や本丸辺りにあったということは発掘調査によって判明している。それを小田原北条氏も継承していることになる。よほど立地条件が良いのだろう。
相模国西部の支配権を確立した伊勢宗瑞は相模国中部・東部へ進出した。当時、その地域の支配権を有していたのは、三浦半島の新井城(三崎城、荒井城)を拠点としていた三浦義同(よしあつ)だった。出家名が道寸なので、以下、三浦道寸と記す。道寸は岡崎城(現在の平塚市・伊勢原市辺り)を軍事拠点として相模国東部の守りを固めていた。
1509(永正9)年、伊勢宗瑞はその岡崎城を攻め落とし勢力を鎌倉まで広げた。翌10年、現在の逗子市にあたる「住吉城(住吉要害)」で守りを固めていた道寸に対して宗瑞は総攻撃を仕掛け、鎌倉近辺で大激戦を展開した。この戦いのとき、藤沢にある時宗総本山の遊行寺は全山焼失した。箱根駅伝のテレビ中継では必ず、遊行寺の坂が出るので、テレビ観戦の際は、ここが宗瑞VS道寸の激戦の場だったことを頭の片隅に留めておきたい。
三浦道寸を三崎の新井城まで後退させたが、同城に籠城した道寸は激しく抵抗し、また扇谷上杉家の反抗もあって、新井城を落とすには3年も掛かった。1516(永正139)年、宗瑞は三浦道寸・義意父子を自害させることで戦いに勝利し、三浦郡の支配権を得た。これによって、伊勢宗瑞は相模国の総てを掌握した。
なお、伊勢宗瑞と三浦道寸については、本ブログの第24回で簡単に紹介している。
約100年、5代に渡る小田原北条家は1590年に滅んだ。拠点の小田原城は、豊臣秀吉の軍勢15万人(22万人とも)に包囲されて落城した。なお、秀吉が拠点とした石垣山一夜城は、小田原城の南西側約3キロのところにある。
写真は、その一夜城から小田原城方向を望んだもの。一夜にして出来上がったので一夜城と呼ばれているが、実際には約80日、延べ4万人を動員して築いた。
次回はその石垣山一夜城の話から始める予定だ。