徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔66〕小田原界隈(2)~石垣城・早川港・酒匂川そして二宮尊徳など

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早川新港入口にある小田原提灯

石垣山一夜城を訪ねる

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石垣山一夜城登城口にて

 前回の最後に記したように、石垣山一夜城は一夜にして出来たのではなく、約80日、延べ4万人とも言われる大工事によって築かれた。考えてみれば(考えなくとも)当たり前すぎる話だ。完成したのは1590(天正18)年の6月26日で、28日に秀吉が入城している。

 秀吉と小田原北条氏(以下、北条氏と記す)との対立はかなり前まで遡れるし、おおよそのことは、すでに本ブログの第40回(悲劇の八王子城)で述べている。が、前回に小田原城を取り上げていることもあるので、今回も簡単に触れてみたい。

 天下統一を図る秀吉は、1587(天正15)年の12月に「関東奥羽惣無事令」を出した。これはまだ秀吉に従属していない北条氏と伊達氏の動きを牽制するもので、建前としては、大名間の私的な領地紛争を禁じ、違反者は処分するというものである。

 沼田領を巡る北条氏と真田氏との対立は1589(天正17)年の7月、秀吉の裁定があって、その3分の2を北条側、3分の1で真田側にすることで決着を見た。しかし、10月に北条側が「名胡桃(なぐるみ)城」強奪事件を起こし、秀吉の裁定を覆すことになった。このため秀吉は同年11月、北条側に対して宣戦布告をおこなった。12月の軍議には家康も参加しているため、もはや北条側は援助を頼める勢力はなくなった。

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一夜城に向かう農道から小田原市街方向を眺める

 石垣山一夜城へは、小田原厚木道路・小田原西ICを下りて「一夜城下通り」を早川交差点方向に進み、「箱根ターンパイク」入口のすぐ先を右折して、標識にしたがって農道を上っていく。写真は標高81m地点から小田原市街、相模湾西湘バイパス方向を眺めたもの。一夜城までは行かないときでも私は、この辺りから見る小田原の景色が好きなので、早川港取材に出掛けた際に立ち寄ることが何度もあった。

 *  *  *

 秀吉による小田原城攻めは北条側でも覚悟をしていたので、1587年の末には軍勢に大動員をかけるとともに、小田原城の周囲約9キロに空堀や土塁を廻らす、いわゆる総構(そうがまえ)と呼ばれる大城郭の構築を開始した。また、武器の増産も進めていて、大磯の土を大量に小田原に運び込み、鋳物師が鉄砲や弾薬の鋳型を造って鋳造した。この時期には、八王子城北条氏照は領内の寺社から梵鐘の供出を命じている。

 ただ、87年末の時期には家康の仲介などもあって秀吉による北条氏の追討には至らなかったが、先に触れた名胡桃城強奪事件の結果、秀吉による宣戦布告が発せられた。これを受けた北条氏側も対戦を覚悟して、領国内の家臣ならびに他国衆に小田原への参陣を命令、あるいは各城(松井田城、鉢形城津久井城、八王子城山中城韮山城など)に防御態勢を取らせた。 

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農道の両側にはミカン畑が広がっている

 写真は、標高150m地点から、先と同じ方向を望んだもの。この辺りに来ると道の両側にミカン畑が広がっていて、以前にその景色を眺めかつ撮影していたとき、何度か農家の人からミカンを頂いたことがあった。

 上の写真はそのミカン畑に焦点を当てているため、小田原市街の風景はややピンボケになっている。この辺りは市街地の夜景を見るための人気スポットなのだそうだが、私にとっては夜景よりもミカン畑のある情景の方がお気に入りだ。

  *  *  *

 北条氏は対決を控え、一部には積極的侵攻策に打って出るべきだという意見もあったが、結局、90(天正18)年の1月に籠城作戦を取ることに決した。

 秀吉軍は同年の2月、家康などの各大名が小田原に向けて出陣し、3月1日には秀吉が聚楽第を出て関東に向かった。3月3日、伊豆・駿河国境にある黄瀬川で家康、織田信雄羽柴秀次を主力とした東海道軍が北条軍との戦闘を開始し、いわゆる小田原合戦の火ぶたが切られた。

 3月27日に秀吉が沼津の三枚橋に着陣すると本格的な戦いが始まった。29日には北条側の西の要衝である山中城(標高580m、現三島市)にて激戦が展開された。ただ、6万7千対4千では如何ともしがたく、わずか半日で落城した。

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野面積みの石垣は崩れている場所も多い

 一夜城の駐車場は標高224mのところにある。久しぶりに来てみて驚いたのだが、駐車場は広くかつ綺麗に整備されており、その傍らには洒落たカフェ&レストランがあった。おまけに駐車場は比較的混雑していた。そのとき、巷では「一夜城ブーム」が突発したのかと訝った。が、石垣山に登ってみるとさほど見物客はいなかった。

 これは後で知ったことだが、同じ一夜城であっても人気があるのは城跡の方ではなく、駐車場横にあった「一夜城ヨロイヅカファーム」なのだそうだ。その経営者は川島なお美(故人)の御主人で、店舗の前には相模湾が一望できる散策路が整備されており、川島なおみ美の慰霊碑まであるという。

 それゆえ、大半の人は美味しいケーキを食するために、相模湾を眺めるために、川島なお美を偲ぶために訪れていたのであって、小田原北条氏や秀吉、家康に思いを馳せているわけではなかった。

 ”一夜城”という名の店は、私の感覚では”紅灯の巷”に多く存在しそうなのだが、この店に関しては「石垣山一夜城歴史公園」に隣接しているため、いかがわしさを抱く人は皆無だろう。が、そうであっても「一夜城」に行ってきたとは、とても大きな声では言えそうになく、「一夜城ヨロイヅカファーム」か「石垣山一夜城」といえば、事が穏便に済むように思われる。私ならそうする。 

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二の丸の石垣を眺める

 石垣の多くは1923年の関東大震災のときに崩落してしまったが、当時のままの姿を残している場所や、綺麗に修復された場所もある。

 *  *  *

 4月1日、家康軍は箱根まで進み、2日には足柄城が落城。同日、秀吉は箱根峠まで進んできていた。4日に家康軍は小田原城近くに到達し、5日に秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を据えた。こうして秀吉軍の小田原包囲網は完成し、北条側は徹底籠城を余儀なくされた。

 一方、前田利家上杉景勝真田昌幸を主力とする北国支隊(北陸道軍)は3月15日に碓氷峠に到達し、28日から北条側の北の要衝である松井田城を攻撃し、4月20日に攻め落とした。以来、松井田城代であった大道寺政繁は秀吉側に加わり、5月22日の武蔵松山城、6月14日の鉢形城、同23日の八王子城攻略に加担した。

 伊豆の韮山城(北条氏第3代当主・氏康の四男である北条氏規が城代)は3月に始まった秀吉側の攻撃によく耐えていたが、6月24日に落城した。こうして、他国衆である成田氏長の本拠地の忍城(本ブログ第16回参照)以外はすべて攻略された。

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二の丸の全景

 二の丸広場(標高243m)では、かつて秀吉がここで茶会を催したという話が伝わっていることから、おととしの冬には、12万個の黄金色の電飾を使って「イルミネーション大茶会」というイベントがおこなわれたそうだ。

  *  *  *

 北条側では戦況が悪化の一途をたどっていたためか、内通者や逃亡者も相当数出ていた。こうしたことから、6月に入ってからは秀吉側との和睦を模索していた。6月24日には織田信雄の家臣滝川雄利と秀吉の家臣黒田孝高小田原城内に入った。7月1日には北条氏第5代当主の氏直が、勧告にしたがって秀吉の下に出向くことの合意が成立している。

 このような動きがあったことから、秀吉はあえて武力で小田原城攻めはおこなわず、6月28日に完成した石垣山一夜城に入ると、側室の淀君を呼び寄せたり、千利休と茶会を開いたり、天皇の勅使を招いたり、家康と連れションをしたりした。

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本丸の様子

 本丸(標高257m)は木が覆い茂っていて景観はあまり良くない。それでも、小田原城に向かう場所には展望台が設置され、周辺の木々も伐採されているため、前回の最後の写真のように、小田原城天守閣を望むことは可能だった。

  *   *   *

 結局、北条氏直は弟の氏房と共に7月5日、滝川雄利の陣所に投降した。その際、氏直は自らの切腹と引き換えに城内の兵士の助命を嘆願した。ただ、氏直は家康の娘婿であったため高野山送りとなり、4代当主の氏政、北条一家衆を代表して八王子城主の氏照、家臣団のうち松田憲秀、大道寺政繁の4人が責任をとって切腹を命じられた。

 こうして5代、約100年続いた小田原北条家は滅亡した。

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本丸の展望台からの眺め

 上の写真は、展望台から相模湾方向を眺めたもの。この方角の眺望では必ず、早川左岸を走る西湘バイパスの姿が視界に入る。その道路の存在は小田原の風情を破壊しているものの時代の趨勢としては致し方ないのかもしれない。もっとも、この部分の西湘バイパスは距離が短いくせに料金はしっかり徴収されるので、私は滅多に利用しない。

 *  *  *

 北条氏滅亡後は、家康の三河以来の家臣だった大久保忠世が4万石で小田原に入封した。その子の忠隣(ただちか)の代には6万5千石に加増された。が、1632年に改易となり、稲葉正勝徳川家光の乳母であった春日局の子で家光の側近)が入封した。

 1633(寛永10)年の大地震小田原城が壊れたため、正勝そして正則が天守閣、本丸御殿などを建設し、近世的城郭として復興された。

 1686(貞享2)年、稲葉家は越後高田に転封となり翌年、下総国佐倉から大久保忠朝(ただとも)が10万3千石で入封した。稲葉家以前の大久保家の復活で、廃藩置県まで小田原の歴代藩主を務めた。

 この藩主の名は後半、二宮尊徳について触れたときに出てくる。 

報徳二宮神社に少しだけ立ち寄る

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この神社は小田原城址公園に隣接

 報徳二宮神社小田原城跡に隣接しているというより小田原城址公園の一角を占めている(旧小田原城二の丸小峰曲輪の地)と言った方が適切だろう。私が小田原城に出掛けるときは通常、公園の南側にある有料駐車場を利用する。その目の前には大正天皇が感じ入ったという「御感の藤」と名付けられた藤棚があるが、そのすぐ西隣に写真の大鳥居がある。

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農民聖者の二宮尊徳

 二宮尊徳(たかのり、通称は”そんとく”)が小田原出身だということはすでに述べた。内村鑑三の言う「農民聖者」である尊徳は小田原だけでなく、北関東や東北などの600以上の村を復興させており、至る所に尊徳の足跡が残されている。そうした場所には金次郎像ではなく、総合的農村復興事業(これを仕法という)を成し遂げた二宮尊徳翁の像が建っている。

 なお、内村鑑三の『代表的日本人』(岩波文庫)には、農民聖者・二宮尊徳のほか、新日本の創設者・西郷隆盛、封建領主・上杉鷹山、村の先生・中江藤樹、仏僧・日蓮上人が挙げられている。興趣が尽きない本なので一読を御奨めしたい。 

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拝殿を眺める

 二宮報徳神社は1894(明治27)年に創建された。その3年前、尊徳に従四位が追贈されたことから、6か国(伊豆、三河遠江駿河、甲斐、相模)の報徳社の提案により尊徳翁を御祭神として創建されることになった。1909(明治42)年には、本殿、幣殿が新築され、写真の拝殿が大改修された。併せて敷地も拡げられて現在の姿になっている。

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やはり二宮金次郎はこの姿

 二宮尊徳と言えば写真の金次郎像に馴染みが深く、かつては小学校にも多く存在した。が、その大半は撤去された。その理由がすごい。「児童の教育方針にそぐわない」「子どもが働く姿を勧めることはできない」「戦前戦中教育の名残り」「歩いて本を読むのは危険」というのだ。こんな「バカ丸出し」の空語の上に戦後教育が成り立っているとするなら、それは100%否定しなければならない。

 件の『代表的日本人』を少しでも読めば、金次郎像の撤去を要求したその理由がまったくの見当外れだということは幼稚園児でも分かる。現在の日本は衰退途上国であるし、もはや先進国であるとは恥ずかしくてとても言えない。金次郎像を否定する人々がこの国の多数派であるとするなら、この先にあるのは”絶望”のみだ。

 ともあれ、二宮尊徳については、本項の最終部で触れることになっている。

小田原市界隈を徘徊する

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思い出深い「だるま料理店」

 お城とは違った顔の小田原に触れるため、市街地を少しだけ徘徊した。

 写真は、私が”小田原”から連想する第一の存在である「だるま料理店」の本店だ。城址公園の東端を走る”お堀端通り”の160m東、国道1号線が直角に曲がる”小田原市民会館前交差点”の70mほど北にある、老舗の和食料理店だ。

 私が自動車の免許を取った時分、母と近隣のオバサン2人を乗せて、何度もこの店に出掛けた。私が免許を取る前、3人は小田急を使ってここに食事に来ていたのだが、私が運転できることになってからは便利屋として酷使された。おまけに、ついでだからと、箱根や熱海の案内もさせられた。

 確かに料理は美味しかったが、2時間以上も掛けてわざわざ小田原に来るほどでもない。これなら魚元(府中人しか知らない)で十分だろうと思った、徒歩5分で行けるし。もっとも、日頃忙しくしている3人にとって、「だるま」に出掛けるのは良い気晴らしになっていたのだろう。

 大の親不孝者であった私ができた、数少ない孝行だったのかもしれない。

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かつての小田原の中心地にある松原神社

 小田原の総鎮守とされた写真の松原神社は「だるま料理店」から260mほど南にある。大森氏時代にはこの辺りが小田原の中心地であったらしい。

 創建年は不明だが、小田原北条氏の第2代当主である氏綱はこの神社を相当に尊崇していたようで、社領一万石を与えている。江戸時代に入っても大久保家や稲葉家の保護は厚く、社費はすべて藩の財政で賄われていたとのことだ。

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網問屋の建物を改修して開かれた「なりわい交流館」

 松原神社から40mほど南に進むと東海道の旧道に出る。その旧道を60mほど西に進んだところに国道1号線(新道)の本町交差点があり、その南側に写真の「小田原宿なりわい交流館」がある。昭和7年に建てられた旧網問屋の家屋をリニューアルしたもので、一階は”お休み処”や観光案内所、二階はイベントスペースになっている。

 私はすでに行きたい場所のアタリを付けていたため、ここはのぞき込んだだけで先を急いだ。それにしても、小田原城やだるま料理店以外の立ち寄り先を探したい人は大勢いるようで、案内所やお休み処は結構な賑わいをみせていた。

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御幸の浜の名は明治天皇に由来する

 国道1号線とお堀端通りが交わる場所が写真の「御幸の浜」交差点で、写真は交差点から北方向に進むお堀端通りを見ている。左手に見える白い建物は「三の丸小学校」のもの。その先に小田原城の東堀がある。

 この交差点から南へ300mほど進んだところに砂浜海岸がある。後述する早川港(小田原漁港)が造られる(1953年)前までは、この辺りの砂浜に漁師船は直接に船を付け、定置網で取れた魚を水揚げしていたそうだ。

 1873(明治6)年、天皇・皇后が箱根宮ノ下へ行幸啓(御幸)する際に小田原の浜に立ち寄って地引網漁を見学したことから、浜一帯は「御幸の浜」と呼ばれるようになった。海水浴場として地元の人には人気があるそうだが、駐車場がないために西湘海岸としては混雑度は低いそうだ。 

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通りは今、さびれつつある

 御幸の浜と旧東海道との間に一本の通りがある。通りは写真にあるように「小田原かまぼこ通り」と名付けられている。先に触れたように、この辺りの浜は定置網漁の水揚げ地だった。網では大小さまざまな魚が取れる。その一部(雑魚か?)をかまぼこの原料に用いたということは容易に想像できる。

 私は立ち寄らなかったが、この通りに小田原かまぼの老舗のひとつである「籠清」本店がある。本店の佇まいはなかなかのものらしいが、本ブログでは、店の構えの代わりに籠清のトラックを前回に掲載している。お城通りから天守閣を眺めた写真にその姿が写っている。

 残念ながら、かまぼこ通りは閑散としていた。もはや浜を使って水揚げする船は存在しないし、賑わいは駅周辺か大通りに移っているし、かまぼこはどこの食料品店やスーパーでも簡単に入手できるため、もはや”小田原かまぼこ”の名だけで人を集めるのは困難な時代になったのかも。

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こちらは老舗の薬局

 写真の済生堂小西薬房は、国道1号線沿いにあって、先に挙げた御幸の浜交差点から西に80mほど進んだところに位置している。1633(寛永10)年からこの地で薬種商を営んできたそうだ。旧店舗は関東大震災で倒壊したが、建材の一部を用いて、建て直しをおこなった。限りなくかつての店舗の風格を継承しており、江戸初期の店のイメージは十分に伝わってくる。国の登録有形文化財に指定されているとのこと。

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小田原名物店が立ち並ぶ

 小西薬房の斜め向かい側には、老舗のかまぼこ店と小田原城を模した立派な店舗を有した「ういろう」とが立ち並んでいる。下に挙げているように、「ういろう」のほうは見事な造りだが、東隣のかまぼこ店は、看板の「こ」がなくなったままなのが哀愁を帯びており、時代の変転を感じてしまった。

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小田原城を模した?ういろう店

 「ういろう」というと羊羹に似たお菓子をイメージし、それはほとんど「名古屋ういろう」を指し示していることになる。が、写真の「ういろう」は「薬のういろう」として1504(永正元)年、この小田原の地で創業した。

 朝廷に仕えていた「外郎(ういろう)家」の第5代の定治が伊勢宗瑞に招かれて店を開いた。外郎家は京都で代々「ういろう薬」を製造してきたが、京都の本家が衰退してからは小田原の外郎家がその伝統を守り続けてきた。現在は第25代が伝統を受け継いでいる。ここの外郎家が”お菓子のういろう”の製造販売を始めたのはかなり後のことらしいが、それはただのお菓子ではなく、いかにも薬業を営む店らしく「栄養菓子」であるとのこと。

 店舗はお城にしか見えないが、内部には博物館が併設されているらしい。事前に調べたときは入場無料とのことだったので立ち寄ってみようと思っていたのだが、生憎、私が訪れた日は定休日だった。

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箱根口ガレージ報徳広場

 御幸の浜交差点の西、230mのところに箱根口交差点がある。その近くに新しく出来た施設が、写真の「箱根口ガレージ報徳広場」である。ここには、1935(昭和10)年から56年まで小田原市内を走っていた路面電車の”モハ202号”や、お馴染みの金次郎像、それに「きんじろうカフェ&グリル」「パティスリーヒンナ」などの店舗もある。運営者は報徳二宮神社で、昨年の3月12日に開業した新しい施設である。

 「きんじろうカフェ&グリル」は神社内に次ぐ2号店、「パティスリーヒンナ」はその名から分かる通りスイーツを扱っている。パティシエが北海道出身なので、原来料は北海道産のものが多いそうだ。”ヒンナ”はアイヌ語で”いただきます”や”ごちそうさま”を意味するとのこと。

 小田原の新しい観光スポットとして人気が高まっているようで、訪れる人にはぜひ、口やお腹を満たすだけでなく、二宮金次郎の人となりに興味を抱き心も満たしてほしいと思う次第だ。

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三浦道寸の息子の三浦義意を御祭神とする居神神社

 国道1号線を箱根口交差点からさらに西に進んでみた。530m先のところにあるのが早川口交差点で、ここを左折すると伊豆半島に向かう国道135号線(R135)に入る。熱海や伊東、そして下田に行く場合はこのR135を使うことになるが、この道は早川口が終点(起点は下田市新下田橋東詰)だ。

 ただ今回は伊豆半島が目的地ではないし、この交差点の先に行ってみたい場所があるために、私としては例外的なことだがR1を直進した(もちろん、この間は徒歩で移動していた)。といっても早川口からは120mの距離だが。

 写真の居神(いがみ)神社は、1520年に北条氏綱(小田原北条氏第2代当主)の意向によって創建された。御祭神は、相模三浦氏最後の当主の三浦義意(道寸の息子)だ。義意は通称”荒次郎”といい”八十五人力”の勇士であった。が、1516年、伊勢宗瑞に攻め込まれて父の道寸とともに自害した。

 伝説によれば、その際に義意の首は三浦から小田原に飛び、井神の森の古松にかぶりついて3年間、通行人を睨みつけた。これを久野総世寺の和尚が成仏させた。そのとき、空から「われ今より当所の守り神にならん」という声がした。こうした伝説もあったことから、北条氏綱は義意を居神大明神として祀ったのかもしれない。

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小田原早川上水の守り神でもある水神社

 私がこの居神神社に訪れたいと思ったのはその伝承に興味を抱いたからではなく、写真の「水神社」を拝覧したかったことが理由だ。水神社の案内書には下に触れる湧水の守り神であるとあったが、他では、この下を通る「小田原早川上水」の守り神としているものもある。

 小田原早川上水の成立年は不明だが、3代当主の氏康の頃には通じていたとされているので、16世紀の半ばには完成していたようだ。小田原の中心地は当初、旧東海道筋から発展したので、飲料水の確保が喫緊の課題であった。そのため、北条氏はすぐ南を流れる早川の水に目を付け、やや上流部(国道1号線・上板橋交差点付近、標高20m)から上水路を整備して飲料水の確保を図った。

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この崖から水が湧く

 神社境内の奥には写真のような崖があり、この崖下から湧水が顔をのぞかせていたらしいのだが、このときは確認できなかった。が、写真のように湧水点付近には古石碑(小田原市重要文化財に指定)が立ち並んでおり、ここの湧水が人々の暮らしにとって大切な場所であったことが分かる。

 ただ20数年後、すぐ麓に小田原早川上水が開通したことで湧水の重要度は低下した。が、周辺の人々にとっては大切な水源であったという記憶は残っていたことだろう。

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小田原早川上水の開渠部分

 居神神社境内を離れ、上水の姿を探すことにした。西へ800mほど進めば取水口があるのだが、車をとめてある駅西口まで戻ることを考えると、これ以上歩くと他の場所を訪ねる体力も気力もなくなる。このため、地図を確認して、神社から近い上水の開渠部分を探した。

 写真はその開渠部分で、ここは神社からは200mほどの距離だった。神社のすぐ東側には東海道新幹線の高架があり、その下を通って住宅地に向かった。北側は城山と呼ばれる高台になっており、上水はそのキワに掘られている。新幹線下からは暗渠になっているので、居神神社の下ではその姿を見ることはできない。

 なお、写真の場所の標高は14.4mだが、高台の住宅地は30m地点以上のところにある。また、上水の取水口の標高は20m、居神神社入口は13.3m、水神社は20.4m、古石碑は26m地点にある。

 小田原早川上水は日本最古の上水といわれ、今のところこれより古い上水施設は発見されていない。小田原北条氏に強い影響を受けている徳川家は、この上水をモデルにして江戸の市街地を拡大整備するために神田上水玉川上水を建造したと考えられている。小田原での小さな一歩が、巨大都市・江戸を産む契機となった。小田原の知恵を知っていた家康だからこそ、未開発地ながら彼の巨大構想が実現可能な江戸の地を拠点に選んだのだろう。本ブログの57回・58回で触れている「小名木川」だって、北条氏の遺産を利用したものなのである。誠に家康は賢いヤツだった。 

◎早川港を訪ねる

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小田原漁港が正式名称の早川港

 ずっと以前はよく、早川港で小物釣りの取材をした。午後であれば港内に比較的自由に駐車でき、仕事の邪魔にならない場所であればいたるところで竿が出せた。しかし、釣り人のマナーが悪いこともあって次第に釣り場や駐車は制限され、現在では南側の一角だけが釣り可能となっている。

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小田原提灯の形をした白灯・赤灯

 釣り可能な南側は「小田原ちょうちん灯台ビュースポット」として整備され、小突堤を含めて小物(おもにイワシ)釣り場として賑わう。写真のように、港の出入口に設置してある白灯も赤灯も、ともに小田原型提灯の形になっている。他の漁港であればとくに目を引く存在ではないが、ここが小田原の港であることで有意味を形成している。

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早川橋から川の流れを眺める

 河口近くに架かる早川橋(旧早川橋とも)から早川の上流方向を望んだ。川がなだらかな部分は少なく、すぐに箱根の山間の中に入っていくため、天然遡上のアユは多いものの、釣り場は限定されている。

 早川橋の北詰辺りにかつて、小田原城の総構の南端があり、そこは海からでも陸からでも攻め込まれやすい場所であったため、北条側は最有力の武将を配置した。八王子城主で第4代当主氏政の弟であった北条氏照(秀吉が処刑を命じた4人のうちの一人)がその任についていた。

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小田原さかなセンター

 早川港に隣接した場所(早川橋南詰のすぐ近く)に「小田原おさかなセンター」がある。その入り口のひとつに写真の「鳥の氏綱」の看板があった。まもなく開店する店らしいが、鳥と第2代当主との関係は不明だ。が、氏康ならともかく、氏政でも、ましてや氏直でもないところに意味があるのかもしれない。

◎酒匂海岸にて

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酒匂川河口から上流部を望む

 酒匂川は富士山東麓(抜川・鮎沢川)や丹沢山地南麓(玄倉川・河内川)などに水源を有する2級河川で、上流部の前者は西から東へ、後者は北から南へ流れ、神奈川県山北町川西辺り(比較的近い場所に東名高速・鮎沢パーキングエリアがある)で両者は合流する。鮎沢川水系の方が河内川水系よりも長いので、鮎沢川を酒匂川の上流部とし、河内川は支流に位置付けられる。

 河内川の最上流部は山深くかつ雨量が多いため、途中に丹沢湖で水量を調節している。最上流部のひとつである玄倉川(くろくらがわ)は、20年ほど前に13人の死者を出す水難事故でその名が知られるようになった。

 鮎沢川は東名高速道路に沿って流れており、大人気の御殿場プレミアムアウトレット(私は何度も足を運ばされた)のすぐ北側にあるのだが、その川が酒匂川の上流部であることはほとんど知られていない。

 その酒匂川が海に溶け込む場所が酒匂海岸(狭義には川の左岸側)と呼ばれる砂浜で、広めの無料駐車場があるため、サーフィンや投げ釣りを楽しむ人、ただボケーッとして口を開けたまま海を眺める人などで賑わう。

 写真は、その酒匂海岸の河口部から上流方向を見たもの。最下流部は極めてなだらかで、かつ川には数多くの橋が架かっているのがよく分かる。

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流れの一部はなんとか相模湾に到達

 比較的流量が豊富な酒匂川だが、河口部は砂浜が広がっており、かつ傾斜が極めて緩やかなため、瀬切れを起こすことがよくある。河口部は波の作用によって自然堤防のようにやや高くなっており、その一方で川床は浸透力の高い砂地のため、流れの大半は地下に染み込んでしまって海にまで到達できないのだ。

 河口の瀬切れによる障害として、春に海で育った稚アユの遡上が困難になるという事態がよく知られている。天然遡上の稚アユに多くの期待を寄せている河川(例えば静岡県興津川)では、この瀬切れを回避するため漁協をあげて砂浜を掘って河道の確保に努めている。

 残念ながら、酒匂川では漁協の体力が相当に失われたため、こうした労力を割くことがなくなっているようで、結果、アユの魚影が薄くなり、それが釣り人の減少につながっている。そのことは漁協の収入減という事態を生じさせ、そのことが放流アユの減少、さらなる釣り人の減少という悪循環に至っている。

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富士山と西湘バイパスと砂の富士と

 海岸の一部に砂山の集団があった。初めは工事か何かで盛られたものかと思ったのだが、写真のような角度から砂山を見たときに得心した。西湘バイパスの向こうに富士の姿を見たからである。

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酒匂海岸は投げ釣り場として知られている

 酒匂海岸は何度か、投げ釣りの取材でやってきたことがある。一度は、私の友人でかつ写真の師匠でもあるK氏にカメラマン役を頼んでここに来たことがあった。彼は釣りをするということに関してまったく興味がなかったのだが、このときに初めてリールの付いた竿を持って、仕掛けを海に投げ入れるという作業を体験することになった。

 狙った場所に仕掛けを投げ入れるのは慣れないと意外に難しいのだが、少なくとも誰でも前方に投げることはできる。が、彼は5回試みたがすべて仕掛けは前には飛ばず、良くて真横だった。不器用なわけではなく、彼はすべて理屈から入る性格なので、どのタイミングでラインを押さえている指を放せば良いかを考えたらしい。理論が明らかになればすぐに身体的協応構造が確立するので上手に投げられるそうだが、その理論の解明・確立に時間が掛かるようだ。 

◎久しぶりに酒匂川を訪ねる

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かつてアユ釣りが盛んだった酒匂川

 南関東およびその周辺のアユ釣り場では狩野川がもっとも知られる存在だったが、一時は酒匂川がそれを凌ぐ勢いだった。アクセスの良さから釣りの全国大会や関東地区大会の会場にもなった。そのメインの場所が写真の冨士道橋周辺だった。

 私もその時分にはよく酒匂川を訪れた。流れが緩やかで小石底が大半なのでとても釣りやすく、かつポイントは無数にあった。写真にあるように、この川には砂の流出を防ぐための小堰堤が沢山あるので、その周りも良いポイントとなった。

 が、いつからか”川が荒れて”からは訪れることはなくなった。酒匂川自体には2019年までは訪れている。本ブログの第61回で紹介したケンさんとも何度かこの川にやってきている。しかし、その際は上流部の山北地区に出掛け、かつては大賑わいだった下流部に来ることはなかった。それゆえ、冨士道橋から流れを見るのは10数年ぶりであった。それでも、こうして川を眺めると当時のことが思い出される。

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天井川状態の酒匂川に架かる冨士道橋

 酒匂川は、足柄山地から解放されると流れが急に緩やかになる。そこから川は東西に大いに暴れて、足柄山地と東の大磯丘陵との間に足柄平野と呼ばれる沖積平野を生んだ。次第にその流路は定まりつつあったものの、平野部では洪水に襲われることが度々あった。そこで小田原藩は、洪水の流速を弱めるため山北地区に春日森堤、岩流瀬(がらぜ)堤、大口堤などを築いた。

 が、1707(宝永4)年に富士山が大規模な宝永噴火を起こしたため、酒匂川流域には大量の降下火砕物が降り注ぎ、山北地区では火砕物が60センチ以上も堆積した。これが降雨の度に下流方向に移動するため川床は上昇して土砂氾濫を誘発した。

 上の写真から分かるように、現在でも周囲の平地(住宅地、工場、田畑が多くある)よりも川床はやや高い。写真の富士道橋地点では、川床の標高は20.4mあるが、右左岸の宅地は19.9mとなっており、酒匂川は天井川の様相を呈している。 

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橋上から富士を眺める

 1711(正徳元)年に発生した大洪水は未完成だった岩流瀬堤とすでに完成していた大口堤を完全に破壊し、平野の扇頂部にあった岡野村や班目(まだらめ)村など6つの村を水没させた。このため、「大口水下水損六ヶ村」は幕府に大口堤修復の嘆願書を提出した。

 幕府がこの嘆願書を受け入れて、公儀負担で堤の改修工事をおこなうことになったのは、大洪水からかなり後の1726年だった。当時の江戸町奉行大岡忠相は、23年から川除御普請御用の任にあって荒川や多摩川の治水をおこなっていた田中丘隅(多摩郡平沢村=現在のあきる野市出身の農政家)に酒匂川改修工事の指揮を命じた。

 丘隅は2月に着手して6月に工事を完成させた。大口堰は「文命東堤」、岩流瀬堤は「文命西堤」と命名された。ここでいう「文命」とは黄河の治水を成功させた夏王朝の「禹」の名である。なお、この禹については本ブログの第62回ですでに触れている。

 が、この堤の完成によっても酒匂川の氾濫は完全に収まった訳ではない。そのことは、最終項(二宮金次郎)で触れることになる。

 上の写真は、富士道橋から足柄山地の向こうに鎮座する富士山を眺めたもの。この山の山体崩壊による岩屑なだれや噴火による降下火砕物が酒匂川流域の人々を長年に渡って苦しめてきた。が、この山に責めを負わせるわけにはいかない。富士山はただ、自然物としてそこに存在するだけなのだから。

◎上府中公園を訪ねる

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上府中公園の入口

 相模国は66ある律令国の中で唯一、国府の位置が特定されていない。国府については本ブログの第31回で触れているのでここでは述べない。武蔵国であれば府中市国府があったことは判明しているが、相模国ではそれがどこにあったか不明なのだ。

 主に3つの説があり、第一は海老名市⇒平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第二は小田原市平塚市⇒大磯町と三遷したというもの、第三は平塚市⇒大磯町と二遷というものだ。

 平塚(かつての大住郡)の名は平安初期の『和名類聚抄』に、大磯(余綾郡)は鎌倉初期の『伊呂波字類抄』にあって、それぞれ国府らしい記述がある。実際、平塚市では発掘調査の結果から二遷説を採用している。

 問題は、小田原と海老名市である。海老名市(高座郡)には国分の字名があり、そこには相模国分寺跡があって国指定の史跡にもなっている。それゆえ、国府には欠かすことのできない国分寺の存在が明らかになっている以上、海老名市もしくはその近くに初期の国府があったと考えることは十分可能だ。

 問題は小田原である。小田原市東部には国府津の地名があり、その北側には写真の「上府中公園」がある。国府津と上府中との間には「千代廃寺(千代寺院跡)」があってここが初期の国分寺であると考えられたのだ。

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これは我が府中の府中公園

 上の写真は小田原とは何の関係はなく、私の家の近くにある「府中公園」を紹介しただけのこと。私の日課となっている徘徊は、まずこの公園を廻ってからそのときの気分次第で東西南北に移動を開始するのだ。景観は、完全に上府中公園に負けている。

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大きな池でカルガモマガモが遊ぶ

 ところが、その千代廃寺は2006年からの発掘調査によって、初期の国分寺の特徴であるはずの東大寺式伽藍配置ではなく、法隆寺式であるらしいことが判明したのだ。また、近くにある曽我遺跡(永塚、千代、高田の三集落)に国府があったと推定されたが、現在では、ここも地方豪族の拠点だったと考えられている。

 こうしてみると、公園がある場所にはかつて上府中村があった(下府中村も)が、これは国府の意味の府中だったのか、たまたま(上下)府中村と付けたのかは判然としない。分かっていることは、この府中は「ふちゅう」とは読まず、「ふなか」と読むということだけだ。府中は不忠だけれど、府中も不仲で縁起は良くない。

 また、南にある国府津国府の港を意味する「国府津」(全国に数か所ある)ではなく、かつてこの地域は「粉水」と呼ばれていたのを、ここが国府の港であれば良いのにという願望が「国府津」の漢字を当てただけなのかもしれない。

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やはり、ここにも金次郎

 この上府中公園の敷地は広々としており、写真のようによく整備された池や郷土の誇りである二宮金次郎像がある。たとえこの地が相模国の初期の国府でなかったとしても、大偉人を生んだ土地であるということで十分に誇ることができる。

◎金次郎の生誕地を訪ねる

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尊徳生誕の地

 二宮金次郎(金治郎)は1787(天明7)年、酒匂川右岸にある足柄上郡栢山(かやま)村に生まれた。父の利右衛門は二宮本家の次男としてのんびり育ち、大変な読書家で将来は学者になりたいと考えていた。しかし、分家した利右衛門の父の弟の家に養子に入ったため農家を継ぐことになった。この父の下で金次郎は5歳のときから読み書きを習い、さらに漢文の本を2冊与えられそれを熱心に素読した。実に勉強好きだったのだ。

 その5歳のとき、酒匂川に暴風雨による大洪水が発生し右岸堤防が決壊したため、二宮家の水田はすべて流出してしまった。刈り入れ直前の米は収穫できず、小作人に貸し出していた田からの賃料は見込めず、さらに小作人に貸していたお金の返却も見込めなくなり、二宮家は大きな負債を抱えることになった。

 金次郎が11歳のとき、父親が病に倒れた。栢山村では春先に土手修復のための賦役が課せられていたので、金次郎は父に代わりに働きに出た。竹で編んだ蛇篭に玉石を詰めたものを決壊しそうな土手に運ぶのだ。が、子供の金次郎には荷が重かった。そこで金次郎は夜なべをして草鞋(わらじ)を編み、賦役に駆り出された人々に与えた。初めはその行為を小馬鹿にしていた村人たちも、睡眠時間を削って草鞋を作り、しかもその出来栄えが良かったため、やがて感謝の言葉が人々から発せられるようになり、さらに少額ながら代金を払うものまで出てきた。

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尊徳記念館

 12歳のとき、名主の岡部伊助が孫の子守を探しているという噂を聞いたので、金次郎はその役に就くことを願い出た。その役を懸命にこなし、手間賃として二百文をもらった。そのお金を寝込んでいる父親に見せた。すると父親は『管子』にある故事を金次郎に聞かせた。「一年の計は穀を植うるにしくはなし、十年の計は木を植うるにしくはなし、終身の計は人を植うるにしくはなし」と。

 金次郎はその話を聞いて、松の苗を買ってそれを酒匂川の土手に植えることを決意した。土手に大きな木が植えてあれば、木の根が張り渡って地盤がよく締まり、決壊を防ぐ効果があることを知っていたからだ。金次郎は植木屋に行き、苗の購入をもちかけた。金次郎の話を聞いた植木屋は丁度、間引きしたクロマツの苗があるからと、1本1文、都合200本の苗を金次郎に渡した。彼はそれを土手に運び、1本ずつ丁寧に植えていった。

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金次郎の生家

 金次郎が14歳の時、父親(48歳)が死去した。一家を支えるため、彼は日の出前に起きて、入会地である久野山に行き薪(たきぎ)を運んだ。その行き帰りにだけ金次郎は好きな読書ができた。薪は自家用であると同時に売ることもできた。日中は野良仕事に精を出し、夜は草鞋作りに勤しんだ。草鞋はまとまった量になると小田原城下に出掛けて販売した。

 懸命に働いたものの借金返済のめどは立たず、結局、一部の土地を手放すことにした。土地が減れば小作料収入は見込めなくなるが、さりとて借金の返済ができなければ負債は雪ダルマ式に増えていくことになるからだ。土地を売却して借金の返済は完了したものの、残りの土地を金次郎の手だけで耕すことは不可能だった。

 こうした極貧のさなか、母は病死した。父親を失ってから2年後のことだった。残された金次郎以下3人の子供は一旦、離散することがきまったものの、金次郎と2歳下の弟の友吉が協力し、父の兄で本家を継いだ萬兵衛の指導の下に二宮家の土地を耕作することに決まった。稲は順調に生育し刈り入れ直前に達したとき、台風が到来して大雨となり、酒匂川が氾濫して金次郎の田は全滅した。

 これによって、金次郎は本家に引き取られ、二人の弟は母親の実家に引き取られることになった。金次郎は懸命に働いた。そして深夜には行灯を点けて読書した。これが油を無駄に使うという理由で本家の萬兵衛とその妻の怒りを買い、行灯の使用が禁じられ、読書は不可能になった。

 そんなとき、知人の油売りから「アブラナは土地を選ばないので自分で育てたらどうか」という助言の下、油商を紹介してもらった。5勺の菜種を借り、翌年に倍の一合を返却することで相談が決まった。金次郎は荒地を耕し、丹念にアブラナを育て、翌年には八升の菜種を収穫することができた。一合の菜種を返却するとともに残りの菜種をそれに相当する油に換えてもらった。菜種が取れるまでは自らも読書を禁じていたが、「これで本が読める」と金次郎は大いに喜んだ。

 春の田植えのとき、あぜ道に捨てられた苗を見つけた。苗は多めに用意されているため、余った苗は処分されるのだ。金次郎はそれを拾って、沼地となり果てた二宮家の土地だった場所を水抜きして耕し、そこに植えることにした。幸い、稲は順調に生長し一俵の米となった。しかもその土地は検地から外れているため年貢はかからなかった。

 荒地から自力で生み出した「米一俵」と「八升の菜種」。これがその後の金次郎の心の糧となった。金次郎が17歳のときである。

 「積小為大(小を積めば大と為る)」これは金次郎の言葉だが、彼のその後の人生は、このときの成功体験が原点となっている。

 やがて、金次郎は小田原藩の家老や藩主(大久保忠真)に見いだされ、数々の業績を残して、70年の生涯を終えた。

  *   *   *

 私はかつて、酒匂川にアユ釣りに出掛けた際、何度も写真の生家に立ち寄って金次郎の生涯を思った。私には100%真似の出来ない生き方だが、唯一、私に出来ることといえば、彼を尊崇することである。

 

*次回は三島市を訪ねます。三島大社だけでなく、豊富な湧水のある町を徘徊します。一部、三島から少しだけはみ出て柿田川などにも立ち寄る予定です。