徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔67〕三島界隈を訪ねる(1)三島溶岩、湧水とバイカモ、三嶋大社など

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中郷温水池(三島市)から富士山を望む

◎初めて三島をじっくりと訪ね歩いてみた

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愛染院跡の溶岩塚

 三島と聞くとすぐに「おせん」を連想してしまうのは、いささか『男はつらいよ』の見過ぎかもしれない。が、通常であれば三島からは、「溶岩」「湧水」「三嶋大社」「うなぎ」が思い浮かぶはずだ。

 前回の小田原と同様、通過点としての三島ならば数百回は通り過ぎている。狩野川のアユ釣り、中伊豆の観光、天城越えから南伊豆へ出る際はもちろんのこと、西伊豆に出掛けるときにも大抵は三島を通過していた。

 かつては東名高速を沼津ICで下り、「沼津グルメ街道」から国道1号線に出て、南二日町交差点を右折して国道136号線を南下した。昨今は、これが新東名の長泉沼津ICから伊豆縦貫自動車道を南下するルートに替わったが、いずれにしても三島市を通過することには変わりはない。

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柿田川・八つ橋近くの湧水口

 狩野川でのアユ釣りのときなど、釣りを少し早く切り上げて(実際にはオトリアユが過労死したため釣りの続行が不可になったから)、三嶋大社柿田川湧水群などに何度か立ち寄ったことはあるが、それはあくまで付随行為であってそれを第一目的としていたわけではなかった。それでも、大社の歴史や湧水群の成り立ちについて調べる機会があったときは、「いつかは三島へ」という思いは少なからず生じていた。

 もっとも私の場合、「いつかは〇〇へ」という場所があまりにも多すぎるため、結局、三島行きが実現したのは今年に入ってからとなった。前回、同じく通過点的存在であった小田原では多くの見所を発見したことから、箱根宿の西(三島宿のこと)もじっくりと訪ねてみたいと誘引されたことも確かであった。

◎三島溶岩流の露頭を見て歩く

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三島スカイウォークから富士山と愛鷹山とを望む

 現在の富士山の原型が出来上がったのは今からおよそ1万年前のことらしい。その形成過程で新富士火山は何度も噴火を繰り返し莫大な量の溶岩を流出した。南面に下った溶岩流は、前方にある愛鷹山に遮られたため、その山の西側と東側とに分かれて流れ下った。西側は今の富士川流域を進み、東側は愛鷹山と箱根古期外輪山との間を進んだ。

 東側は深い谷状の地形であったが、そこに大量の溶岩が流れ込んできたため、谷はかなり埋まり緩い傾斜の平地が生まれた。この平地こそ今の三島の原型となったのである。それゆえ、この溶岩流は「三島溶岩(流)」と名付けられた。

 上の写真は愛鷹山と富士山、手前の尾根は箱根古期外輪山のもので、その間の谷を三島溶岩流が埋めたのだ。なお、写真にはシグリスヴィル・パノラマブリッジ(愛の不時着でお馴染み)ではなく「三島スカイウォーク」の一部が写っているが、それについてはいずれ触れることになる。

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黄瀬川の中流にある「五竜の滝」

 写真は裾野市にある名勝の「五竜の滝」(標高133m地点)。解説では三島溶岩流の末端にあると記してあるが、溶岩流の一部は駿河湾に達しているので末端は言い過ぎかもしれない。もっとも、この下流部には愛鷹山麓が東に張り出しているため西側の末端である可能性はなくもない。

 この滝のすぐ下では西から佐野川、東から黄瀬川の分枝流が流れ込んでいるため、左右からの圧力を受けて節理部分が崩落して滝となったという可能性も素人目には考えられる。

 ともあれ、ここでは三島溶岩流の露頭(高さ12m)が見られる。ひとつひとつの溶岩の厚さは1mほどで、これが何層にもなっていることから噴火は何度も繰り返し発生したと考えられている。

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三島溶岩流の末端に出来た「鮎壺の滝」(長泉町

 写真は、五竜の滝から直線距離にして6キロほど下流にある「鮎壺の滝」(標高38m)。同じく黄瀬川にある滝だが、こちらは三島溶岩流の末端にあると言っても問題はないようだ。滝の下流部の河床は「愛鷹ローム層」なのがその理由だ。

 滝の高さは9mだが、やはり五竜の滝と同様に、溶岩流の露頭を見るとそれぞれの厚さが1mほどであることが分かる。なお、滝の右側には「溶岩小洞穴」がある。

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楽寿園内にある溶岩小洞穴

 写真は、三島駅のすぐ南側にある「楽寿園」(国の名勝、伊豆半島ジオサイトなどに指定)にある溶岩小洞穴。洞穴が形成される仕組みは諸説あるが、一般には、溶岩流の上部と下部は冷却されて固結するものの、内部は未固結状態で流れ出るために空洞ができると考えられている。

 なお、楽寿園は三島溶岩流の最上層部末端部に位置しているため、いろいろな姿の溶岩が露頭しているのでとても興味深い場所である。

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パホイホイ溶岩特有の縄状溶岩

 写真の「縄状溶岩」も楽寿園内にあった。富士山が生み出した溶岩は、日本では例外的に玄武岩質である。日本で著名な火山の大半は、安山岩かデイサイトを噴出する。なぜ富士山が玄武岩質なのか理由はまったく分かっていないそうだ。富士山の真下には、40万年前に噴火を開始した先小御岳火山、20万年前に生まれた小御岳火山がありこれらは安山岩質で、10万年前に噴火した古富士火山、1万年ほど前に噴火した新富士火山(現在の富士山)は玄武岩質である。玄武岩安山岩より粘り気があるため、これが富士山の標高をより高くしているのだろう。

 それはともかく、玄武岩質であっても流動性があって連続性が保たれているため、三島溶岩流は岩塊状態(クリンカー)のアア溶岩ではなく、パホイホイ溶岩である。その特徴は、写真の「縄状溶岩」に見て取れる。これは楽寿園内では至るところで見られ、後述するお隣の「白滝公園」内にもよく残っている。

◎三島溶岩流を覆った御殿場岩屑流と御殿場泥流

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三島扇状地の形成に一役かった黄瀬川

 三島溶岩流は谷底を埋めて平地を生み出したけれど、それだけでは人が住めるようにはならない。現在の三島扇状地が形成されるためには次のステップが必要だった。それが、2900年前に発生した「御殿場岩屑(がんせつ)なだれ」だ。これは富士山の東斜面が山体崩壊したために起こったとされる。このときに流出した土砂は18億立米だったと推定されている。1707年の宝永噴火の際の噴出物の量は7億立米だったと考えられているので、その2.5倍の量が流出したことになる。現在の御殿場駅では厚さ10mほど、山麓東富士演習場・滝ケ原駐屯地付近では厚さ40mほどだったそうだ。

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三嶋大社のすぐ東側を流れる大場川も扇状地造りに参加

 このなだれで堆積した土砂は、その200から300年後に発生した「御殿場泥流(土石流)」によって流れ出し、東方向では酒匂川流域、そして南方向では三島溶岩の上を覆った。この砂礫層が黄瀬川や上の写真の大場(だいば)川によって開析されて現在の三島扇状地ができたのだった。

 三島駅のすぐ北側でおこなわれたボーリング調査によれば、この砂礫層は表土を含めて5mほどの厚さがあり、その下に三島溶岩の最上層(厚さ5m)があることが分かっている。

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三嶋大社・神池の際にあった大石

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丸池の底に残る大石

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白滝公園の清水の中にある大小の石

 三島は石の町とも言われている。三島大社の境内に、丸池公園内に、道路脇に、川や池の中に大小さまざまな石が、意図的にあるいは自然な状態で置いて(もしくは放置)ある。石の中には三島溶岩由来のものもあるがこれは意外に少なく、より大きな石ほど出自は異なっている。

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稲荷神社に残る三島溶岩

 写真は、「稲荷神社」(長泉町)に残る溶岩塚の中で、とくに三島溶岩の特徴が分かるものを撮影した。これから分かる通り、なぜか三島溶岩は多孔質なのだ。三島溶岩は1万年前の新富士火山が生み出したということはすでに触れているが、同じ時期に愛鷹山の西側(富士川方向)に流れた溶岩は密度が高く80~95%なのだが、東側に流れた三島溶岩は70%以下の密度なのである。

 溶岩が多孔質だということは水の浸透性が高いということにつながる。この性質が、地下に膨大な水を育み、それが豊富な湧水群を生み出してくれているのだ。私が三島を訪れる第一の理由は、これら湧水たちに触れることである。そうでなければ、存在するかどうか不明な「おせん」を三島宿界隈で探し続けることになりかねない。

 上に挙げた3枚の写真にはいずれも多孔質ではない大きめの石が写っている。それらは三島溶岩のものではなく、御殿場岩屑なだれが富士の山体から生み出したものであり、それが御殿場泥流に乗って辿り着いたものだと考えられている。御殿場岩屑なだれは富士山の東斜面由来だが、当時、その辺りには古富士火山の斜面が顔を出しており、その部分が山体崩壊したとされている。それゆえ、新富士火山が生み出した石とは性質が異なっていたとしても格別、問題はない。

◎湧水は、いったい何年かかって我々の前に姿を見せるのだろうか?

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柿田川湧水群の代表的な”湧き間”

 三島界隈の湧水と言えば、三島市のすぐ南に位置する清水町を流れる柿田川湧水群がもっともよく知られ、その中でも第2展望台から見られる写真の”湧き間”は極めて有名だ。この辺りには公園として整備される以前には紡績工場があり、この場所はその工場の井戸として利用されていた。それゆえ、周りが円形状に囲ってあるとのこと。

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第1展望台から湧き間を眺める

 一方、第1展望台から見られる湧き間は写真にあるとおり、砂地底(この一帯の地べたは海成砂層)から砂を舞い上げながら水が湧き上がってくる様子を観察することができる。美しさはともかく、こちらの様子のほうが個人的には好ましく思っている。

 ところで三島界隈の湧水は、富士山の雪解け水や三島扇状地に降った雨が三島溶岩流の下(もしくは間)に浸透して下ってきて、溶岩流の末端部や砂地底(一部は砂礫底)から湧き出すのだが、いったい、水たちはどのくらいの期間、地下に滞留しているのだろうか?こんな誰しもが抱く疑問を私も持っていたので、若い頃にそうしたことに興味を有している知人に訊ねたことがあった。彼曰く、「数百年はかかるはずだ」。

 こうした疑問は科学者ならば誰もが解明しようとするはずで、対象とする湧き水を、1953年に始まった核実験由来のトリチウム濃度を計測して、湧水の涵養時間を調査するという作業がおこなわれた。それによれば、核実験開始の6年後にトリチウムが検出されたそうだ。もっとも、そのトリチウムが富士山の雪に含まれていたものなのか、三島扇状地のものなのか、さらに言えば、降雨地から湧出口までの距離も不明なので、地下に滞留していた期間が6年であるとは簡単には判断できないことは言うまでもない。それゆえ湧水の涵養期間は、一般的には5年から40年ほどだろうと考えられていて、柿田川公園にあった説明書きには「十数年涵養された雪解け水……」と記されていた。

◎湧き間(湧水口)を探して

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柿田川の湧き間(第1展望台より)

 湧水を訪ねる散策でもっとも興味深いことのひとつが「湧き間」(湧水口)探しである。本ブログでは54,55回の落合川、56回の秋留台地、61回のぶつぶつ川で湧き間(湧水口)を見つけ出してその面白さを堪能した。今回に訪問した三島地域は湧水の本場であるため、いろいろな湧き間と出会うことができた。

 上の写真は、柿田川第1展望台から見つけられた湧き間で、黒みがかった砂が湧き水と一緒に踊っている様子が見て取れた。

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柿田川の湧き間(第1展望台より)

 これも柿田川第1展望台から見つけた湧き間。左側の砂地底も周囲にはゴミが溜まっていないので、このときは湧き出す様子は確認できなかったものの、湧き間であることは確かだ。

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柿田川・八つ橋付近の湧き間

 柿田川の左岸に整備された遊歩道(八つ橋)脇にあった湧き間。ここは第2展望台の下にあった湧き間と同様、丸囲いが施してあった。

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丸池公園の湧き間

 丸池公園は柿田川と同じく清水町にあり、柿田川公園の北東650mほどのところに位置する。昨年、池の周囲が公園として整備された場所で、散策路や水遊び用の池などが存在する。近隣の人々にとっては格好の憩の場所となっているようだ。もっとも、丸池自体は農業用の溜池として16世紀の後半(小田原北条氏による)に造られ、現在でもその役目を負っている。

 湧水はかなり豊富な場所のようで、写真のような湧き間は十数か所あって、大半の湧き水は東隣りを流れる境川に落とされている。

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丸池公園の溜池に整備された湧き間

 こちらは溜池として使われている丸池にあった湧き間。現在は農閑期なので池全体の水量は少なく、いくつかあるこうした湧き間から溢れ出てくる水のみが池に蓄えられている。

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丸池の湧き間のひとつ

 同じく溜池を潤している湧き間。

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こちらは丸池公園の湧き間

 溜池としての丸池の北側には「丸池公園」と「境川・清住緑地」が整備されており、丸池とは少し異なった姿の湧水、それに湧水が生み出した川の流れに触れることができる。写真は、その丸池公園の湧き間である。

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境川・清住緑地の池にあった湧き間

 緑地にも池があり、やはりその池も湧水が水源になっている。ただ、写真から分かる通り、こちらは湧水口が自然のままなので池の底から水がぼこぼこと湧き出している様子を見ることができる。写真ではやや分かりにくいが、この池の底は砂礫が敷き詰められている場所が大半なので、柿田川で見られた砂が舞い上がる姿ではなく、水面の盛り上がりから湧き間を見つけることになる。こうした湧き間は池のアチコチに見られたが、写真の場所が一番、岸に近かったので撮影が容易だった。

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楽寿園内にあった湧水口

 写真は「楽寿園」で見つけた湧水口。ここは三島溶岩流最上層の末端に位置しているため、溶岩と溶岩との間を流れてきた涵養水が地表に顔を出す姿を見ることができる。府中崖線や国分寺崖線、あるいは秋留台地などでよく見られる湧き水と同じような姿をしている。

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白滝公園の湧水口

 楽寿園の東隣にある「白滝公園」でも湧き水が姿を見せる様子を視認できる。ここも楽寿園に同じく溶岩流の末端部に位置しているため、溶岩の下?から清水が湧き出してくる姿を確認できる。

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カルガモは温かい?湧水に浸かって気持ち良さそう

 湧水の水温は一年中、約15、6度なので夏は冷たく冬は温かい。白滝公園を住処としている?写真のカルガモは湧水の温もりが気持ち良いのか、私が近づいても動こうとはしなかった。

 以上のように、三島とその周辺の町(主に清水町)には湧水そしてそれが生み出した小河川、用水路、池などが数多く存在しているので、水好きの人間は極めて魅了されてしまう場所なのだ。

◎ミシマバイカモとウナギ店と温水池と

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ミシマバイカモの群生(ただいま増殖中)

 ミシマバイカモはかつて、楽寿園の中にある湧水池(小浜池)に自生していたそうだが、工場進出で地下水が大量に使用されたこと、宅地化が進んで生活排水による汚染が進んだことなどの結果、すべて消失してしまった。

 この水生植物は水温が一定で冷たく、かつ清流であることが生育条件であることから柿田川ではなんとか生き延びていたようで、三島の人々は柿田川から水草を移植して、「三島梅花藻の里」にて増殖活動が続けられている。 

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源兵衛川に移植されたミシマバイカモ

 梅花藻の里で育ったミシマバイカモは近くを流れる源兵衛川に移植されており、5月から9月にかけて梅の花に似た小さな花を咲かせる。ひとつ上の写真は、梅花藻の里の育成池のものだが、通年、花が咲くように温度管理がなされているとのこと。ただ、冬の時期は開花条件にはもっとも不適なので、この植物が本来的に見せてくれる可憐な花とはほど遠かった。

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ミシマバイカモが自生していた柿田川

 ミシマバイカモバイカモの地域変種のひとつ。私が初めてバイカモの姿に触れたのは、滋賀県米原市醒井(さめがい)にある地蔵川だった。20数年前だったと記憶している。その時分はよく若狭湾方面に取材に出掛けていて、大半は滋賀県近江八幡市に住む知人が同行してくれた。帰りはしばしば近江八幡市内や安土城彦根城見物をしたが、中山道の宿場であった醒井宿に、地蔵川という清流があることを聞き及んだので立ち寄ってみることにした。なお、醒井には『古事記』や『日本書記』に記されている「居醒の清水(泉)」があるということもそのときに知った

 私の目的は地蔵川の清流と、その中に生息するハリヨという魚を見ることだった。が、たまたま7月でバイカモの開花期ということもあり、それらよりも川の中の水草が無数の可愛らしい花をまとっている姿のほうに魅入られてしまった。それが『愛の水中花』(松坂慶子)ではなく、バイカモという水草であることを初めて知った。なお、花は水中ではなく水上で咲く。愛の水上花なのだ。”これも愛”である、たぶん、きっと。

 写真は、ミシマバイカモが自生する柿田川下流部。右岸の水草はミクリ類で、深緑色の水草がミシマバイカモだ。

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三島市ではバイカモの育成に努めている

 写真の「三島梅花藻の里」は三島駅南口から国道1号線(R1)に向かって南下する県道51号線(r51)沿いにある。この道の傍らには「楽寿園」「白滝公園」「水の苑緑地」「佐野美術館」などがあるため、今回の徘徊では、r51を何度も行ったり来たりしたことで、すっかり馴染み深い道になった。この道がR1と出会う交差点(三島玉川交差点)は朝夕の渋滞ポイントとしてよく知られているおり、私がかつてR1とR136を使って狩野川や中伊豆へ行き来したときに渋滞に悩まされた交差点として記憶はあった。

 三島を代表する清流の源兵衛川はr51にほど近い場所を流れているので、この道沿いにあるコインパーキングに駐車して「三島梅花藻の里」や下の写真のミシマバイカモ育成地(水の苑緑地内)などを訪ねた。

 梅花藻の里はミシマバイカモの増殖基地として、写真から分かるように湧水を引き入れたいくつかの池でこの水草を大切に育てている。もちろん、園内は出入り自由なので育成中のものをじっくり眺めることができる。

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開花期の初夏に向かってただいま生育中

 先にも記したように、増殖されたものは源兵衛川中流に整備された「水の苑緑地」の一角に移されて成長する。写真に挙げた場所ではとくにしっかりと根付いて大きく育っているので、初夏には数多くの花を咲かせて人々の目や心を潤すことだろう。 

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清流の恩恵はウナギにも

 三島はウナギの産地という訳ではないが、界隈には実にウナギ店が多い。私もかつて、取材の帰りに何度かR136沿いにある高級そうな店に入ったことがある。なかなか美味だった。

 三島のウナギが多くの人に好まれているのは、独特の「さっぱり感」からのようである。ウナギを敬遠する人は「生臭さ」「泥臭さ」「多すぎる脂肪」を理由に挙げる。三島では豊富な湧水が簡単に手に入るため、ウナギをその湧水の中で5日ほど晒すと、それらのマイナス面はすべて取り除かれるそうだ。

 美しい清流は、人々の腹をも満たすのだ。

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冷たい水を天日で温める

 湧水は農業用水として利用されることが多いが、その欠点としては水が冷たすぎるということだ。稲は中国西南部からインド東北部が原産地であり、元来は高温多湿を好む水生植物だ。もちろん品種改良が進んでいるために、現在では寒冷地でも盛んに栽培されているが。それでも農業用水は冷たいよりもやや温かいほうが良いことは言うまでもない。

 そこで、源兵衛川の最下流域に写真のような「温水池」を造り、一旦、ここに水を溜めて天日に晒して水温を上げ、それから各用水路に配している。

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温まった水は用水路へ

 写真は、その中郷温水池の出口のひとつである。実際にどれだけ温まっているかは不明だが、池の上層部ほど水温は高いはずなのでそれなりの効果はあるはずだ。

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ゴイサギも温まりに来る

 他の鳥たちは概ね、群れを作って暮らしているのだが、ゴイサギは三島界隈でよく見かけたのだけれど、いつも孤高の存在だった。中郷温水池の個体も他の鳥の群とは離れた場所で明るい日差しを浴びていた。 

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温まりに来た人は鳥たちと遊ぶ

 温まりに来るのは水だけでなく、人間もやってくる。中郷温水池は富士山がよく見える場所なので散策に訪れる人も多い。写真の人は鳥に餌を与える常連のようで、この人の姿を見掛けただけで、鳥たちは大勢が集まってきた。

 鳥たちに餌を与えることの是非はあるだろうが、いったい、この地上に人間が介在していない存在はどれほど残っているのだろうか?餌を与えることへの非難はたやすいが、それでは、この池自体の存在は?池の周りの構造物の存在は?所詮、善悪は相対的なのである。

三嶋大社

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思ったよりも小さい大鳥居

 普通の人であれば、三島を訪れる最大の目的地は三嶋大社であろう。普通でない私でも数回は訪れている。もっとも、境内をぶらぶらするのが主目的で、いわゆる参拝をしたことはもちろんない。

 写真の大鳥居はこの神社の社格や規模に比してあまりにも小さい。敷地には余裕があるのだから、もっと大半の人が威厳を抱きそうな規模のものにしてもよさそうなものだが。実際、撮影時にも近くにいた人がこの鳥居を見て、「案外小さいね」と言っていたのを耳にした。

 前の通りは旧東海道で、撮影地点にある参道は下田街道だ。ここは三島宿の交通の要衝でもある。

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ウナギが住みやすそうな神池

 大鳥居から北に進むと写真の神池が見える。残念なことに池の水は相当に濁っている。近くに湧水由来の小河川や用水路があるのだから、それらを利用してもう少し透明度の高い水にしていただきたい、と思った。ウナギにとっては住みやすいのかもしれないけれど。

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厳島神社

 池には、お定まりの「厳島神社」があった。これは北条政子の勧請にて創建されたとのことだ。厳島神社は市杵嶋姫命(宗像三女神の一人)が祭神。市杵嶋姫の本地は弁財天なので「水の神」として崇められている。三島には最適な神様であろう。

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1931年に造られた総門

 三嶋大社の創建年は不明とのことだが、奈良・平安時代の書物には記録が残っているとのことなので、相当に由緒のある神社だ。この地には伊豆国国府が置かれていたこともあり、ここは伊豆国の総社でありかつ一宮であるとされている。

 三嶋=三島の由来は諸説ある。三島は「伊豆三島」、つまり伊豆諸島を指すという記録があり、火山島であり、かつ黒潮の流れが速くて航海に難儀する人々の安寧を願って伊豆半島南部に創建され、それが現在の地に遷座したという説が私の好みだ。伊豆諸島のひとつである神津島は黒曜石の産地として有名で、古く縄文時代にはこの島の黒曜石は日本列島の各地に広まっていた。伊豆諸島と本州とは相当な昔から交流があったのだ。

 三嶋大社三島神社)が現在の地に遷り、伊豆国の中心地として発展したため、この地は三島と名付けられた。三島にあるから三嶋大社なのではなく、三嶋大社があるから三島という地名になったのだ。

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総欅造りの神門

 かつての総門は1854年の「安政東海地震」によって倒壊したため、1867(慶応3)年に再建されて現在の姿になった。

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舞殿

 舞殿は神楽祈祷をおこなう場(祓殿)として造られたが、現在では舞の奉納がおこなわれているそうだ。

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私は参拝しない拝殿

 拝殿はその背後にある幣殿、本殿と一体になっている。ここも「安政東海地震」で倒壊したために1866(慶応2)年に再建されている。

 三嶋大社には大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのみとこ)の御ニ柱が祭神で、合わせて三島大明神という。前者は山森農産の守護神、後者は福徳の神で、商工漁業者の崇敬を受けている。

 この社殿は拝殿・幣殿・本殿からなる複合社殿のため奥行きのある立派な建造物で、参拝はしない私はその荘厳な姿に敬服はした。

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天然記念物のキンモクセイ

 樹齢1200年と言われる写真のキンモクセイは年に2回咲くという。相当な老木なので支えがなければ倒れてしまいそうだ。キンモクセイの花は誰もがよく知っている香りをもつが、この老木はどれほどの薫香を発するのだろうか。

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シカは神の使い?

 シカは古くから神の使いとして知られ、とくに奈良の春日大社では神鹿(しんろく)として大切に扱われている。三嶋大社でも写真のように「神鹿園」が整備されている。

 シカが何故、神の使いという位置づけになったのかは不明だが、シカの角は一年で立派に育って春に生え替わる。それゆえ、死と再生のシンボルになったという説を聞いたことがある。

 田畑を荒らす害獣を追い払うための仕掛けが「ししおどし」で、一般的には「鹿威し」の字をあてる。ということは迷惑な存在でもあるのだろう。というより、案外、神それ自体がはた迷惑な存在なのかもしれない。

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源頼朝北条政子腰掛け石

 大社の境内には写真の「源頼朝北条政子腰掛け石」があった。頼朝が源氏再興を祈願するために三嶋大社に訪れた際、休息のためにこの石に腰を掛けたとされている。

 頼朝が深く崇敬していたとされる三嶋大社を訪れたからという訳ではないが、たまたま『ダーウィンが来た』を見終わったときにテレビを消し忘れたため、大河ドラマの『鎌倉殿の13人』が始まってしまったので見てみることにした。

 その非道さに呆れてしまった。まずは脚本がまったくダメで、出来事の表面をただなぞっているにすぎない。著名な脚本家の手によるものなので現場の人間は訂正を言い出せないのだろう。出演者の演技下手も相当なもので、小学校の学芸会のほうが熱意が感じられるだけマシというレベル。あれでは、頼朝が可哀そうだ。もっとも、他の演技者も素人以下なので、頼朝だけが突出していたわけではない。それにしても、今どき、こんな低レベルのドラマを制作して良いのだろうか?

 ちなみに、頼朝・政子夫妻は夫婦別姓だ。夫婦同姓は日本の伝統でもなんでもない。

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 次回の三島界隈(2)では、今回に挙げた場所を含め、観光ガイド的に順を追って紹介する予定。