◎八高線に乗るということ
八高線といっても線路の上を秋田犬が走っているわけではなく、駅前で犬がご主人の帰りを待つ姿をよく見掛けるというわけでももちろんない。八王子市と高崎市を結ぶ路線だからそう名付けられたにすぎない。
東京西部の中核市と群馬県最大の中核市とを結ぶ路線なのでさぞかし本数も乗降客数も多いと思いきや、なんと、八王子駅と高崎駅とを結ぶ列車は一本もないのだ。
上の写真は八王子駅にある中央線と八高線の時刻表だ。平日の中央線は7時台がもっとも多くて15本ある。日中の本数が少ない時間帯でも、特急の「あずさ」や「かいじ」を含めれば7から11本はある。それに対し、八高線は8時台に5本あるが、そのうちの2本は拝島駅止まり。残りの3本はすべて川越駅行きで高崎行きは一本もない。というより、八高線には八王子駅と高崎駅とを結ぶ直通列車はどの時間帯であってもまったくないのだ。
八王子駅から高崎駅に行くためには、途中の高麗川駅で高崎行きに乗り換える必要がある。が、その高麗川駅と高崎駅とを結ぶ列車の数は少なく、朝方は1時間に一本、日中は2時間に一本だ。八王子駅の時刻表でいえば、黒丸の付いた列車が高麗川駅で高崎行との連絡があるもので、8時30分のつぎは10時44分となる。
最大の理由は、その駅間の利用客が激減しているからだろうが、八高線の高麗川駅・倉賀野駅間が未電化であることも挙げられるかも。もちろん、高崎行きよりも川越行きのほうが需要ははるかに大きいということも理由のひとつに挙げられるだろうが。
上の写真は、高麗川駅の風景で、左(3番線)は川越発八王子行きの電車、真ん中(2番線)は高麗川発高崎行きの気動車、右(1番線)は八王子発川越行きの電車だ。八高線も川越線もともに単線だから、高麗川駅のように行き違いがおこなえる交換駅が必要となる。しかも、高麗川駅は高崎方面に行く列車の始終着駅なので、八王子方面から高崎方面に行く人も、川越方面からきて高崎方面に行く人もここで高崎行きに乗り換えることができるように発着時間が調整されている。なにしろ、日中であれば、一本乗り遅れると2時間待ちをしいられるのだから。
未電化区間では電車は走れないので、写真の110系気動車(ディーゼル車)が運用されている。1から3両編成で、私が何回か乗ったものはすべて2両編成だったが、1両だけのものも見掛けたことはあった。
ディーゼル車に乗ることは滅多にないが、上り坂のときはディーゼル機関特有のうなり音をあげるが、平坦地では思いのほか静かだ。
気動車の運転席のすぐ後ろには、写真のような運賃箱と運賃掲示板があって、乗客はこれに切符と料金を入れてから降車する。運行者と乗客との信頼に基づく制度でとても好ましいのだが、今では「切符」がIC化されているため、実際に使用されたのは私が見た限り一度だけだった。
私が八高線に乗ったのは今回が3度目と4度目。30歳台のときが1度目で瑞穂町に住む知人宅(箱根ヶ崎駅が最寄り)へ訪れる際にあえて利用してみた。2度目は昨年で、本ブログで紹介した脱腸手術のあとのリハビリを兼ねて鉄道での移動を試みたとき。その際は寄居駅まで利用して「鉢形城」を散策した。
3度目も寄居駅までだったので、4度目は八王子から高崎まで乗ってみた。10時44分に八王子駅を出て、13時丁度に高崎駅に到着。2時間16分、94.6キロ、1980円の旅だ。もっとも、高麗川駅で電車から気動車に乗り換える必要があった。これは八高線利用者の宿命なのだ。
高崎方面には何度も出掛けたことはあったが、すべて車利用だったために駅に近づくことはなかった。今回、初めて高崎駅の姿をみた。八王子駅よりも人の往来が多いのに驚かされた。それ以上に、街中が花で飾られている姿に感動した。映画の町高崎は、花の町でもあった。
思えば、高崎駅は上越・北陸新幹線の停車駅なのである。それゆえ、もし私が八王子市民であって、高崎市まで急いで行く必要が生じたときは、大宮駅経由で新幹線を利用するだろう。しかし、とくに急ぐ用事でなければ間違いなく八高線に乗る。車窓にはほとんどいつも、里山の風景が飾られているからだ。
八高線に乗るということは、他に手段がないという人をのぞけば、物理的時間よりも精神的時間に意味を見出すため、ということなのである。
八高線は関東山地の東麓を南北に進むためいつも西側には山々が見え、ときには山地から東に伸びた丘陵地帯を切り通しで越えていく。この変化に富んだ自然の中を進む路線なので、沿線には立ち寄ってみたい見所が沢山ある。
私はこの八高線沿いにある里山の風景が好みなので、年に数回、多いときには10回以上もこの方面に出掛ける。ただし、八高線を利用するとその本数があまりにも少ないために、1日に多くて2,3か所しか見物できないだろうことから、実際には鉄道は使わず、すべて車で出掛けている。
八高線に沿って県道30号線が走っているので、運転中によく八高線の線路を見掛ける。が、列車を見る機会は少ない。「撮り鉄」であれば良き撮影場所で列車が来るのを粘り強く耐えることができるだろうが、私にはその手の忍耐力はほぼ欠如しているので、今までそうした経験は皆無だった。
八高線沿線の見所と言えば、東福生駅の東側に広がる横田基地と、国道16号線沿いのアメリカ的風景がまず挙げられる。後者はいささか寂れぎみだが。
箱根ヶ崎駅からは上に挙げた狭山池、「さやま花多来里(かたくり)の里」と狭山神社、以前にも紹介した狭山丘陵の野山北・六道山公園などがお勧め場所だ。
金子駅からは、この地の代表的農産品である「狭山茶」の畑が近い。また、加治丘陵にある「桜山展望台」からは茶畑だけでなく関東山地の山々を広くそして間近に望めるので丘陵ハイキングの際に立ち寄りたい場所。
高麗川駅から徒歩で行ける高麗神社や聖天院といった朝鮮系の神社が興味深い。武蔵国は大陸からの渡来人を各地から招来し、大陸の進んだ技術を学んだ。そのため、武蔵国21郡(のちに22郡)のなかの2郡(高麗郡と新羅(新倉、新座)郡)の名が今でも地名として使用されている。
毛呂駅が最寄り(少し遠いが)の「新しき村」は以前から気になる存在だったが、今回、初めて村の中を散歩してみた。村の衰退は著しいようだが、それでも、ところどころに掲げられている「言葉」は今でもまったく色褪せてはいない。いやむしろ、今の時代こそ必要な言葉と精神であると感じた。
ヘラブナ釣り場として隆盛を誇っていた「鎌北湖」も毛呂駅が最寄り。現在の毛呂駅界隈はコロナ禍で一躍有名になった埼玉医科大学に席巻されている。
越生(おごせ)駅は写真の「越生梅林」、山吹の里、ツツジの里として名高い「五大尊」の最寄り駅。本ブログの第7回で越生の魅力を取り上げている。
越生の隣駅となる明覚駅はときがわ町役場に比較的近い場所にある。駅舎の姿が有名だが、駅の近くを流れる都幾川(ときがわ)には三波渓谷や嵐山渓谷があって川遊び場としても知られる。
小川町駅のある比企郡小川町は私の大好きな田舎町のひとつ。「武蔵の小京都」とも言われるこの町は古くから和紙作りが盛んで、町でも「和紙のふるさと」を標榜している。
町は盆地の中にあるので山の斜面が多い。それを利用して写真のようにカタクリを無数に植生している。現在では、和紙の町以上に「かたくりの里」として多くの観光客を集めている。
寄居駅のほど近くに荒川が流れ、その南側の高台を利用して写真の鉢形城が築かれた。この平山城を拡張整備したのが、北条氏照の弟である氏邦で、後北条氏滅亡に際しての籠城戦はよく知られているところだ。
上のような「名所」を訪ねるのもいいが、八高線の走る風景もそれらに劣らず興味深い。写真は入間川橋梁を走る列車を撮影したもの。入間川右岸に飯能市の阿須運動公園があり、私は先に触れた桜川展望台を訪れたあとに大抵、その運動公園を訪れて入間川沿いを散策する。
日中に訪れるのが大半なので、八高線が走る姿を見る機会は極めて少ないが、今回は八高線がテーマということもあって時刻表を調べ、橋梁の下で列車が通過するまで粘ってみたという次第だ。普段は、橋梁の姿だけに触れて帰るのだが。
今回は八高線に2回乗り、沿線の写真を撮影するために3回、車で出掛けた。八高線に乗ることはまずなかったが、花の時期だけでも八高線の走る地域を訪れることは毎年、4,5回はあるので、恒例行事のようなものになっている。菜の花、梅、桜、カタクリ、ニリンソウ、ツツジ、ヤマブキたちを着飾った里山の姿に触れにくるのだが、それ以上に、それらが咲き誇る里山に自分の身を置くというのが最大の理由なのである。
かつて、府中市にも色濃く存在していた私の原風景は、今も八高線沿線には無数に残っている。
生涯3回目の八高線乗車は八王子駅がスタート地点。9時15分発の川越行きに乗り、拝島駅と東飯能駅で途中下車、高麗川駅には11時27分に着き、11時32分発の高崎行きに乗って、この日は寄居駅で降りて荒川、鉢形城に立ち寄ってから駅に戻り、帰りは小川町駅にまで戻って駅前を散策した後、帰途に就くという計画を立てていた。
9時15分発を選んだのは、8時台だと通勤時間に重なって車内が混雑することを考えてのことだ。別にコロナの感染を気にしたわけではなく、混雑していると列車の最前方に陣取り前面展望を撮影することが難しいだろうと判断したためだ。
が、入線する場面や発車前の様子を撮影していたために乗り込むのが遅れ、最前方の好場所は確保できなかった。
写真は、車窓から浅川の下流方向を眺めたもの。八王子駅を出てからすぐに電車は北に向きを変え、まもなく浅川を越えて行く。前面展望は撮影不可能だったために扉の窓から川を写した。写真にある橋は国道16号線のもの。その向こうにある山並みは多摩丘陵だ。
北八王子駅の周囲には工場や研究所、ロジスティックセンターなどが急速に増えつつある。国道16号線や中央道・八王子インターが近くにあるので、そうした施設にとって交通の便が極めて良い。八高線を利用して通勤する人の至便性はともかく。
この駅には、別の日に車で立ち寄ってみた。なかなか立派な駅舎だ。ここだけでなく、八王子駅から東飯能駅までの駅舎は、東福生駅を除いて八高線の駅とは思えないほど立派なものになっている。
8時台ということもあって、それほど待たずに北八王子駅を出発して小宮駅に向かう電車を撮影することができた。
私が乗った電車は中央自動車道の下を抜けると、今度は写真にある谷地川を越えていった。本ブログでは、この川については何度か触れている。滝山城跡のある加住丘陵を南北に分断したのがこの川で、日野市の用水路を紹介した際にも写真を掲載している。
北八王子駅の次が小宮駅。ここは前者とは異なり、加住北丘陵の高台に開発された住宅地の中にある。
写真は小宮駅東口の様子。西口には少しだけ店があるが、こちら側には駐車場と駐輪場と住宅があるだけ。八王子市内にありながら、八高線の駅前の雰囲気をよく醸し出している。
小宮駅でも何人かが電車を降りたため、それからは私の前方にひとりの女性がいるだけとなった。なんとしても、八高線が多摩川を渡る姿を撮影したかったので、その女性に断わりを入れた上で前面展望にカメラを向けた。本項の冒頭の写真は、この多摩川橋梁を多摩川左岸にある昭島市の「くじら公園」から写したものだ。
写真は、車内から多摩川下流方向を眺めたもの。左手に武蔵野台地の基盤(上総層群)が露出している場所があり、そこからくじらの骨(アキシマエンシス)が発見されたことは、第18回に紹介している。
ただ現在は、冒頭の写真でも少し分かるように河川敷の改良工事が進められているため、その発見場所を含め、上総層群の露頭の姿は様変わりしてしまった。
橋の上流部の写真でも、その工事の姿を見てとることができる。一部、水たまりの上に基盤(土丹、滑)が少しだけ顔をのぞかせているが、工事前はこの場所一帯にも基盤が変化に富んだ姿で私を迎えてくれていた。
ここに来たのは八高線が橋を渡る姿を撮影するのが主目的だが、同時に上総層群との対面も楽しみにしていた。が、そちらの方は期待を裏切られたので、今一度、別の角度から八高線の電車を撮影することにした。
多摩川橋梁を過ぎると、まもなく拝島駅が見えてくる。この駅にはJRが3線、私鉄が1線乗り入れているターミナル駅なので駅周辺は広々としている。
私は拝島駅を少しだけ探索するために電車を降りた。手前が私が乗ってきた八高線で、向こうに見えるのが青梅線だ。
写真から分かる通り、この駅には八高線だけでなく、青梅線、五日市線、それに西武拝島線が通じている。4線あるが、これがすべてローカル色豊かなのが興味深い。青梅線は中央線に直通するのでローカル色は少し薄い。また、西武拝島線も西武新宿駅まで直通があるのでローカル線とばかりは言えないかも。が、五日市線、八高線はローカル線そのものといっても過言ではない。
拝島駅構内から私がやってきた方向を眺めた。駅周辺には高層マンションが多い。たとえば、7時2分発の青梅線に乗れば、7時53分に新宿駅に着く。拝島は十分に都内への通勤圏内駅なのだ。
私はもっともローカル色豊かな八高線で北を目指す。次の電車が到着するまでは時間があるので、何十年振りかの「駅そば」を食することにした。
それでもまだまだ時間的余裕があったので外に出てみた。北口のすぐ近くに「奇跡の玉川上水」が流れている。店はコンビニが1軒あるだけ(駅構内にはそれなりにある)。この点は十分にローカル駅の資格がありそう。なお、写真にある電車は西武拝島線のものだ。
南口は駅前ロータリーが整備されており、店も数軒あった。国道16号線が駅から240mほどのところに走っているので、バスやタクシー、それに送迎の自家用車はこちら側を利用する。
小散歩を終え、再び八高線に乗り込んだ。拝島駅で大半の乗客が降りるので、最前方(運転席のすぐ後ろ)の前面展望場所が完全に空いていた。もっとも、座席は4分の1ほどしか埋まっていないので、立っているのは私だけなのだ。
東福生駅近くはよく車で通るが、駅に近づいたのは今回が初めて。今までの駅と比較するとやや古めかしいままだ。
別の日に車で出掛け、東福生駅を外から眺めることにした。駅の東側には車をとめるスペースすらない様子だったので西側に移動した。西側にはタクシーが一台と警察車両が一台とまっているだけだった。
とくに駐車違反でもなさそうなので、写真にある公衆便所を利用した後、陸橋を渡ってみることにした。
その陸橋から写したのが上のカット。降車する客は一人もいなかった。駅に東側110mほどのところに国道16号線(R16)が走っており、その横には横田基地が広がっている。米軍や自衛隊の関係者が八高線を利用するとは考えられない。西に750m進めば青梅線の福生駅がある。そちらの駅前はそれなりの賑わいがあるので、東福生駅を利用する必要性はほとんどないのかも。それゆえ、駅周りの改装もおこなわれていないのだろうか。
進行方向右手に横田基地があるのだが、八高線とR16との間に建物があるため、なかなか基地は姿を見せない。が、たまたまC-130が着陸寸前のときに視界が開け、車内からその機体を撮影することができた。多少のボケはご勘弁。
横田基地を過ぎると、今度は新青梅街道と交差する。青梅や奥多摩方面に出掛けるときは、ほとんど写真の道を使うのだが、この度ばかりは車内から線路の下をくぐるその街道の姿を写してみた。
新青梅街道を越えると、電車はまもなく箱根ヶ崎駅に到着する。この駅を利用したことは一度しかないが、新しい駅舎になる前だったのでかすかに記憶に残るかつての姿とはまったく雰囲気は異なっている。もっともホーム自体は十分に年季が入っているが。
駅構内から関東山地方面を眺めた。左端のマンションの上方に、私がランドマークにしている大岳山がある。その山の右手には御岳山・奥の院も見えるが、光線の具合が良くなかったためにかなり見づらい。
東方向に目を転じると、狭山丘陵の山並みが見える。手前には住宅がかなり密に立ち並んでいる。今こそ八高線しか走っていないが、いずれ多摩都市モノレールがこの箱根ヶ崎駅まで延伸されることになっている。その時分には瑞穂町も人口増加に転じるのだろうか?
かつての面影はほとんどなく(一部に古い店舗が残っている)、駅前はずいぶんとこざっぱりしている。駅に立ち寄った(このときは車で駅前に乗り付けていた)ついでに、かつて狭山丘陵の項で紹介した狭山池周辺を少しだけ歩いてみることにした。
狭山丘陵の西端、つまり狭山池に向いた側の高台に写真の狭山神社がある。主祭神の伊弉諾尊、伊弉冉尊を含め祭神は八柱いる。創建年は不詳だが、源義家が奥州征伐の途上に立ち寄って戦勝祈願をしたという記録があるとのこと。
森の中にあるために外からは分かりずらいが、本殿はなかなか立派だった。
狭山丘陵には野山北・六道山公園に「かたくりの里」があることは以前に紹介したが、狭山池のすぐ近くには「さやま花多来里の里」もある。今季は寒い日が多かったことからカタクリの開花は遅れ気味だったため、ここを訪れた時には開花はほとんど進んでいなかった。
それでも、写真のように何輪かは早めにそして可憐に目覚めていた。
箱根ヶ崎駅を出た電車は次の金子駅に向かって北上する。金子は入間市の字名で、私は金子の名を聞くとすぐに狭山茶を連想する。それほどこの地には茶畑が多く広がっている。
車窓からも広大な茶畑が望める。金子のある入間市は狭山茶の6割を生産する。
金子駅も列車のすれ違い駅のため、写真のように駅部分だけが複線になっている。
八王子行きと線路を交換するために、私が乗ってきた列車はしばし金子駅に停車していた。
金子駅を出発した電車は関東山地から東に伸びる加治丘陵を越えていくことになる。それにしても、駅周辺には住宅が密集している。相当前だが、一度だけ金子駅の近くに住む知人宅を訪ねたことがあった。その時分には、家などほとんどなかった。
写真からも分かるとおり、沿線にある住宅はほとんど新築に近いものだ。
八高線は関東山地の東麓近辺を南北に進むため、いくつかの丘陵地を越えていくことになる。ただ、その丘陵地はそれほどの標高はないので、八高線にはトンネルはひとつもない。写真のように大半は切通しで丘陵を越えていく。
加治丘陵を抜けると、丘陵の北面を開析した入間川に出会う。この川は荒川の支流で、八高線がこれから通り過ぎるいくつかの小河川を集めて、川越市辺りで荒川に合流する。 入間川の上流部は旧名栗村を流れているため「名栗川」とも呼ばれている。「名栗渓谷」の名で観光地として知られている。
八高線の入間川橋梁は先に挙げた通り、阿須運動公園の西側から望めるので私の大好きな八高線見学ポイントになっている。もっとも、通過する列車は多くないので、橋梁を眺めるだけなのが大半だが。今回、その橋梁を初めて電車の中から確認しながら渡ることができた(昨年に乗ったときは座ったまま窓から川を眺めるだけだった)。
車窓から入間川の流れを視認した。阿須運動公園は写真の右手方向に、川の右岸方向に広がっている。向こうに見える山並は加治丘陵のもの。
東飯能駅は西武池袋線も入線しているターミナル駅だ。左に見えるのが西武線のホームとなる。線路脇には雑草がよく茂っており、いかにもローカル線という雰囲気を醸し出している。
以前、とある有名人が「雑草とはなんだ。それぞれの草にはちゃんと名前がある」と怒っていた。それを知った私は、「こいつはバカなのでは」と思った。彼は「雑」を「おおざっぱ」という意味にだけおおざっぱに理解しているようだ。しかし、「雑」には「分類し切れないいろいろなもの」という意味もある。もちろん、雑草の「雑」は後者なのだから、雑草には侮蔑的な意味はまったくない。
「雑草」の名をすべて知っている人は、植物学者を含めて皆無である。雑草は交雑や変異が多いので、発見されて以降に名前が付けられるものが相当に多いからだ。そもそも種の分類などというのは人間が勝手におこなっているので、植物自体とは何の関係もない。それゆえ、しばしば種の変更が人間の都合で勝手におこなわれてゆく。
件の有名人は、中国の名随筆である『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』でも読んで、「雑」の意味をきちんと認識すべきだと思った。
駅構内から北側を眺めた。隣の西武池袋線は秩父方面に向かって北西に進んでゆき、我が八高線は高崎に向かって北上する。
向こうに見えるのは高麗丘陵で、それを越えたところに高麗川駅がある。
写真は私がやってきた方向を眺めたもの。加治丘陵の手前に入間川、向こうに金子駅や狭山茶畑がある。
東飯能駅の東口から出てみた。東飯能駅は写真の「丸広百貨店」のすぐ隣にある。百貨店という響きが懐かしい。
高麗川駅に行くために駅に戻った。しばらく待つと電車が入線した。川越方面に行く人たちなのだろうか?平日の日中にも関わらず、ある程度の利用客が電車を待っていた。
西武線のホームには西武秩父行きが停車していた。西武池袋線は吾野駅まででその先は西武秩父線になる。が、基本的には池袋線がそのまま乗り入れているようで、写真の各駅停車も終点まで直通している。
私が乗ってきた電車は高麗川駅に向かって東飯能駅を離れていった。私は東飯能駅周辺を少し散策して、次の列車で高麗川駅に向かった。
沿線では親?に抱かれた子供が私の乗る電車に向かって手を振っていた。子供は早く電車に会いたかっただろうが、母親は電車がなかなか来ないことを知っている。何しろ、八高線なのだから。子供は嬉しそうだが、親は安堵の表情だ。
まもなく高麗川駅に到着。駅には3線あり、川越行きは左の1番線に停まる。
1番線ホームにもそれなりの数の乗客が川越行きを待ちわびていた。右側の2番線には高麗川駅と高崎駅を行き来する気動車が入線する。
高麗川駅から東飯能駅方向を眺めた。駅のすぐ南側には県道15号線(川越日高線)が走っている。この道を西(右手)方向に進めば、ヒガンバナ畑でよく知られた高麗川の「巾着田」がある。開花シーズンには大混雑必至だ。
向こうには高麗丘陵が見え、その斜面には開発の手が多く入っているようで残されている自然はそう多くはない。
高麗川駅を離れた川越行きの電車は一番左の線路から右手(東)方向に進んでゆき、次の武蔵高萩駅を目指す。一方、八高線は北にある毛呂駅から南下してこの駅までやってくる。
駅の東側には何本もの引っ込み線がある。架線がないので、ディーゼル車(貨物車のDD51?)が利用するためのものなのだろうが、その姿はまったくなかった。八高線では貨物の需要もなくなっているのかも。
高崎方面から2番線に気動車が入線した。電車の姿は八高線も中央線もカラーリングが異なるだけで形は同じものになってしまったが、やはり気動車は一時代前の姿や色使いをしている。
今度は3番線に八王子行きの電車が入線した。気動車でやってきた乗客の何人かはこの駅で電車に乗り換えて八王子方面に出掛けて(帰って)行く。
写真は、高崎行きの気動車内から前面展望を撮影したもの。気動車は前面中央のガラス窓は狭く、かつ運転席との間には薄い茶色のパネルが立っているために視界は限られ、景色はやや茶色がかって見える。写真にもその状態が反映されるので、気動車からの展望は上のような画面と調子になる。
八王子からやってきた電車はすべて川越行きなので、この駅から先は川越線となり、右に曲がっていって川越駅を目指す。一方、八高線は北へ直進する。
高麗川駅から先の八高線は電化が進んでいないので、架線は写真の場所で消滅する。
他日、車で高麗川駅を訪れ、沿線から列車の姿を撮影した。電車は川越線の線路に移動して東方向にカーブして進んで行く。
気動車なのでパンタグラフの無いの八高線は、すっきりとした姿で北を目指して行く。
ターミナル駅なのにもかかわらず高麗川駅舎は写真のように小さなもの。これから先が、八高線の真骨頂なのかも。
駅前ロータリーには写真のような建造物があった。中央の「ようこそ日高市へ」の写真にはこの地の観光名所である「巾着田」のヒガンバナの写真があった。鉄骨部分もそのヒガンバナをイメージしているように思われたが、私が巾着田以上によく訪ねる「高麗神社」や「聖天院」に立っている高麗人の武将の被り物のようにも思えた。
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今回はここまでで、次回はその高麗神社、聖天院訪問からスタートし、八高線沿線の観光スポットを交えて高崎駅まで紹介する予定です。