◎散歩中の拾い物
入間川に別れを告げる途中で橋梁を走る下り列車を目にしたので、慌ててカメラを向けた。日は傾き始めていたために電車の姿はかなり見づらいが、私の心の中に強く印象付けられた一コマだ。
上の2枚の写真は、前回に掲載し忘れたもの。入間川右岸を散策中、上の看板に出会った。これは八高線入間川橋梁の下に整備された散策路にあったもので、その道は写真のとおり「真善美の小径」というそうだ。
「真善美」はこの散策路のすぐ南側にある「飯能市立加治中学校」の校訓とのこと。学校では生徒にカントの三批判書の熟読を強いるのだろうか。もっとも、校訓や校歌の言葉は象徴的なものに過ぎない。私の母校の府中市立第一中学校の校歌にも、「自主」や「真理」などという言葉がちりばめられていたが、それをまっとうに理解していた生徒は皆無に近かった。それは良いとして、「真善美の小径」の命名は相当にまずいのではないか。
「真善美の散策路」であればアリストテレスの逍遥学派(ペリパトス派)を連想させるので実に良いのだが、いかんせん「小径」はいただけない。『論語』の雍也編に「行くに径(こみち)に由(よ)らず」の言葉がある。物事は地道に進めるべきで、径(小径、近道や抜け道の意味)を求めてはならないとの教えである。ましてや「真善美」を探求するのに近道や抜け道などあり得るはずがない。それでは、たとえば生徒がレポートを作成する際にウィキペディアの丸写しさえ認めるということになりかねない。小径ではそうした安直な道を許すということになる。
伊豆の下田湾には「ハリスの小径」がある。あのハリスなら近道や抜け道はお似合いだろうが、真善美を求めてやまない生徒には小径に由ることを禁ずるべきだろう。それでも、私が生徒なら進んで抜け道を探すだろうが。
◎高麗神社と聖天院を訪ねる
高麗神社は高麗川駅から徒歩20分ほどのところにある。私は何度もこの神社を訪れているが、すべて車で立ち寄っている。今回は高麗川駅から歩こうかと思ったが途中で止めて、別の日に車で出掛けることにした。
この神社は、私に学問の面白さを覚醒させてくれた記念すべき場所なのだ。以前にも本ブログで少し触れたが、予備校の英文解釈の講師が日本古代史の話ばかりするのに触発されて、私は彼の主催する研究会に参加するようになった。研究発表は難解すぎてほとんど理解不能だったが、現場での実地調査研究はとても興味深かった。その調査研究に私が最初に参加したのが、ここ高麗神社(と聖天院)だったのだ。
若手研究者が侃々諤々と激しく、しかし楽しそうに議論する様を間近に接したことで、私も彼・彼女らのように探求心を抱いてみたいと思ったのだった。実際には、学問以上に釣りの面白さの方に魅せられてしまったのだけれど。
神社へは車で行ったのだが、折角なので駅と神社をつなぐルートを少しだけ歩いてみた。少し見えにくいが、電信柱には高麗神社の方向を示す看板が掲げられている。道の角には、お墓やお地蔵さん、庚申塚があってなかなか興味深かった。
道の角には写真のような道標もあった。
道沿いには新興住宅地もあったけれど、写真のようなのどかな景色にも触れられる場所が多々あった。高い木立の向こうに高麗神社の境内がある。
写真の「出世橋」の北詰を少し直進すると、すぐ左手に一の鳥居や専用駐車場、将軍標などが目に入る。
出世橋の名は、高麗神社が「出世明神」の別名を有することに由来する。高麗神社に参拝した政治家が6人も立て続けに総理大臣に就任したことからその名が付けられたそうだが、出世した政治家が立派な政治をおこなったかどうかは不明である。出世を自分自身のために利用したことは明らかだが。
出世とは無縁の人生を送ってきた私には、橋そのものよりも下を流れる高麗川のほうが興味深かった。右岸の河原にはオッサンがいて弁当を食っていた。彼もまた出世とは縁遠い存在に思われたが、暖かい日差しを受けて気持ち良さそうにときを過ごしているということは確かなようだった。
高麗神社は高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を主祭神とする。7世紀後半、若光は高句麗使節団の一員として渡来したが、高句麗が新羅によって滅ぼされたために、そのまま日本に残ることになった。
大和朝廷に仕えた若光は、大宝三(713)年に王(こきし)の姓を賜った。また霊亀二(716)年に駿河や甲斐など七カ国から高麗人1799人が武蔵国に遷され高麗郡を創設した。その際、若光は郡長に任命されたという。
こうした動きは『続日本紀』に記されており、写真の石碑はその一部を抜粋したものである。
神社は秩父山地の東裾にある。境内の標高は76mほどで、すぐ西側には140m前後の山が連なっている。実地調査に参加した韓国人の研究者は、この地域の姿は朝鮮半島によくある景観に酷似していると語っていたことを記憶している。高麗王若光御一行は関東地方の開拓のために大磯を手始めとして、高座郡(現在の神奈川県大和市)、北上して高麗郡に辿り着いた。
当時、朝鮮半島の自然にはまったく関心を抱くことはなかったが、後に韓国を旅行するようになり、さらに『愛の不時着』を見るにつけ、確かに日本と朝鮮半島の里山の風景はよく似ていると実感し、かの研究者の言葉が思い出されるこの頃である。
実地調査では、神奈川県大磯町にある高麗山(標高168m)や高麗神社(現在の高来神社)周辺にも出掛けた。そこが高麗王若光の最初ともいえる「仕事場」だったからだ。大磯丘陵もやはり、ここと同じような景観を有していた。半島からやってきた高麗人は故郷を想い、よく似た姿を有した場所を開拓地に選んだのだろう。
参拝する習慣のない私は、この神社でも御神門や本殿をただ眺めるばかりだった。
本殿の裏手に、代々の宮司の住まいが残っている。そこに立ち寄るために本殿と参集殿の間の道を通った。そのとき僅かに拝殿や本殿の屋根が見えたので撮影してみた。
代々の宮司である高麗氏の旧宅は慶長年間(16世紀末から17世紀初頭)に造られたもので、現在は国の重要文化財に指定されている。左手に写っているシダレザクラは樹齢400年とされ、茅葺の家とともにこの地の歴史を見守ってきた。
若光の菩提寺として751年に創建された「高麗山聖天院勝楽寺」は、高麗神社のほぼ南側350mほどのところにある。高麗神社同様、ここにも門前には将軍標(チャンスン、ジャングンピヨ)がある。聖と俗との境界線であると同時に災厄からの守りを固めている。
山門の右手に写真の高麗王若光の墓(高麗王廟)がある。中には五つの砂岩を積み重ねた塔がある。四隅には石仏があったらしいが現在は風化してしまってその姿を見ることはできない。
威風堂々とした山門(風雷神門)には、大きな「雷門」と書かれた提灯が掛けられている。
この寺は真言宗智山派に属するため、山門と王廟との間には写真の弘法大師像もある。なお、ここは武蔵野観音霊場の第26番札所でもある。
中門をくぐった左手にあるのが写真の阿弥陀堂。室町時代に建てられたもので、この寺では最古の建築物とのこと。
本堂の左手には新しく建てられた鐘堂がある。写真にも少しだけ写っているが、裏手に古い鐘堂が残っている。
鐘堂は一般開放されており、一回100円で鐘を撞くことができる。
本堂までの階段脇には写真の仁王尊がある。かなり新しく造られたもののようだが十分に迫力がある。
本堂前の舞台(標高111m)からは、高麗丘陵や日高市街などが一望できる。私がこの寺を訪ねる一番の目的はここからの眺めを楽しむことだ。
本堂は2000年に落成した。京都の神護寺をモデルにしているとのこと。本尊は若光が日本に持ち込んだとされる聖天像(歓喜天)である。
本堂の裏手(西側)に、写真の「在日韓民族慰霊塔」がある。終戦前までの36年間に亡くなった無縁仏を供養するため、個人が私財を投じて造成・建立したとのこと。石塔の高さは16mもある立派なものだ。
慰霊塔の周りには、朝鮮に所縁のある人物(檀君、広開土王、王仁博士など)の石像が配置されている。
慰霊塔の近くには写真の八角亭が休憩所として整備されている。カラフルではあるが派手ではないところに好感を抱いた。
かつて、高麗神社と共に実地調査のためにここを訪れたことがあったが、以前の面影はほとんど残されてはいなかった。それでも新しい建造物たちが個性を発揮しているので、周囲の景観に触れることを含め訪問する価値は十分にある。
◎毛呂駅と鎌北湖
高麗川駅を出た列車は次の毛呂駅に向かった。毛呂駅は毛呂山町の中心部にある。現在は埼玉医科大学の城下町といった風情で、八高線の駅前にもかかわらず?結構な賑やかさがある。
毛呂とは古代朝鮮語の「ムレ」が転化してモロとなったと考えられている。三鷹市にある牟礼も「ムレ」を語源とする。高麗人の足跡は武蔵野にはいたるところに残されている。
毛呂駅から南西に3キロ、実際に歩くとなると4キロの位置にあるのが写真の鎌北湖。農業用水の溜池なのだが、かつては「乙女の湖」と呼ばれ、それなりの賑わいを見せていた観光地だった。
しかし現在では、ヘラブナ釣りに来る人、ハイキングに来る人、私のように「湖」の名に惹かれてなんとなく車で来てしまう人が散見されるだけだ。それを証明するかのように、写真の旅館は廃墟になっている。
駐車場の近くには「鎌北湖レイクビューホステル」があるが、ここも今は営業していないようだ。それでも室内灯には火が入れられており、こうした点が「心霊スポット」などというくだらない呼び名が付けられてしまう所以なのだろう。
岸にはレンタルボートとスワンがあった。出番があるかどうかは不明だが、スワンはいつでも出航できるようにと笑顔で利用客を待ち望んでいるようだった。
鎌北湖はヘラブナ釣りの好場所として一部の釣り人に知られている。湖面には写真のように、放流された型の良いフナたちが群を成していた。
ヘラブナ釣りは繊細さが要求される釣りなので私には無縁の世界なのだが、こうして竿を出している風景に出会ってしまうと、釣果が出るまでずっと眺めてしまう。これが釣り人の性なのだ。幸い、この湖は魚影がすこぶる濃いので、それほど待たずに結果を出してくれた。
毛呂駅の次は越生(おごせ)駅。駅に近づくと、右側にもう一本の線路が見えてきた。八高線には架線がないが、お隣の線路にはそれがあった。
まもなく越生駅に到着で、ホームにはお隣の線路を利用する電車の姿があった。それは東武越生線のもので、越生・坂戸間を結んでいる。坂戸駅では東武東上線に接続しているため、都心に出るには便利そうだ。秩父山地の山裾を行き来する人には関係ないけれど。
八高線の車内からお隣の東武線の電車を眺める。こっちはディーゼル車なので屋根周りがすっきりしているが、電車のほうは煩雑な姿だ。設備費用も大変に掛かりそうだ。あちらは電気が止まると動けない。こちらは動くことは可能だが、信号や転轍機(ポイント)がストップするので、動けるが動かない。
越生駅周辺については、本ブログの第7回で詳しく触れている。越生と言えば「梅の里」なので、町のいたるところに梅林がある。個人的には里山の梅が好みなのだが、折角なので、久しぶりに「越生梅林」に立ち寄ってみた。
2haの敷地には色とりどりの梅が約1000本植えられている。人気スポットは越辺川(おっぺがわ)左岸の梅並木と枝垂れ梅。
園内には写真のフクジュソウの群生地もあった。梅は白を基調に、桃、紅の色の花を付けるので、フクジュソウの黄は重要なアクセントになっていた。
園の中心部には写真の枝垂れ梅が多く植えられていた。白梅は実用性(梅干し、梅酒用)重視で、群生していると見ごたえがあるものの、日常の延長線上に位置する。その点、写真のような桃色の枝垂れ梅は、それだけで華やいだ雰囲気を醸し出す。
越生には魅力的な観光スポットが数多くある。興味のある方は本ブログの第7回を参照していただきたい。
越生駅から明覚駅に向かう。駅を離れるとすぐに越辺川を越える。こうした小鉄橋は子供たちにとっては格好の遊び場になってしまうはず。そのためもあってか、「鉄橋立入禁止」の看板が掲げられている。警告(けいこく)とあるが、子供には「けいこく」の意味が分かるのだろうか。
列車は明覚駅に入線。車内で知り合った撮り鉄おじさんから「明覚駅で列車の交換があるので撮影し忘れないように」とのお達しを受けていたので、しっかりと写すように心掛けた。
写真の明覚駅舎は「関東の駅百選」に選ばれている。地元の丸太を用いたカナダ風ログハウスの駅というのがその選定理由だ。しかも第一回選定の26駅の中に入っている。東京駅、原宿駅、柴又駅、鎌倉高校前駅、横川駅など錚々たるメンバーのひとつなのだ。
ちなみに、我が府中駅、国立駅、勝沼ぶどう郷駅は第二回選定、御嶽駅、根府川駅、極楽寺駅は第三回選定なので、これらよりも明覚駅のほうがずっと「格上」なのである。本来なら、車内から手軽に撮影し、それで済ましてはいけない場所なのだ。
明覚駅を出た列車は都幾川(ときがわ)を越えて行く。明覚駅は「ときがわ町」にある唯一の駅なのだが、なぜか「ときがわ駅」ではないのが面白い。
明覚駅と次の小川町駅との間は県道30号線と並走する部分が多い。山裾や山間部を通過するために、線路も道路も通りやすい場所に限定されるからだろうか。県道からは線路の存在がよく分かるのだが、道路幅が案外に狭いために、車をとめて八高線が通るのを待つという適当な場所がないのが残念だ。
写真の直線部が、県道を走っている際に線路の存在がもっとも気になるところ。車内からは道路の存在は無視できるが、道路からは線路を無視することはまずできない。ただ、これまでこの場所を走っているとき、列車が通過する場面に遭遇したことは一度もない。私にはこの場所は、偶然も運命も切り開かれてはいないようだ。
和紙の町・小川には清流の存在が不可欠となる。それが写真の槻川(つきがわ)で、小川盆地の中心部を蛇行しながら流れている。
写真の巨大マンションは小川町のランドマークになっており、この建物が見えてくると小川町の市街地は近いと認識できる、私にとって。
まもなく小川町駅。ここには東武東上線の駅もあるため構内は広々としている。
小川町駅に入線。この駅にも私のように列車にカメラを向ける人がいた。八高線の乗客の中には確かに、この鉄道に乗るだけのために利用する人が一定数、居るように思われた。車内で出会った撮り鉄おじさんのごとくに。それだけ、東京近郊の人にはディーゼル車の存在が珍しいのだ。JRの電車はみんな同じ姿になってしまっただけに。
◎小川町駅と駅前風景
小川町にはよく訪れるが、それは後述する理由であって、駅前を歩いたことは一度もない。旧道こそ車で通ることは何度もあるが、駅にまで出向いたことは一度もなかった。折角、八高線の旅を始めたのだから町の玄関口に少しでも触れてみようと、この駅で一旦下車して、次の列車が来るまで少しばかり駅前を散策してみることにした。
駅構内から小川町の様子に少しだけ触れてみた。小川町は盆地にあるので周囲は山だらけである。この地形と和紙作りの長い伝統から武蔵国の小京都とも呼ばれている。もっとも、小京都は日本に39か所あり、本家の京都を含めて40の市町村で全国京都会議を結成している。
栃木、足利、佐野、角館、郡上八幡、大洲、中村、倉吉、津和野、尾道、萩などその地名を聞けば多くの人に小京都と納得される都市が属しており、数えてみると40のうち、私が訪れたことのある都市は32あった。まだ、8つも行ったことのない場所があることを知って残念に思った。
小川町は比企郡に属している。写真の幟は、現在放映中の『鎌倉殿の13人』にあやかって比企一族(比企能員)や武蔵武士(畠山重忠)のことを知ってもらって、ついでに比企丘陵の町々にも関心を抱いてもらおうという魂胆から掲げられているのだろう。が、ドラマの出来が酷いので、三島市同様、この目論見は失敗に帰するだろう。
駅から南に伸びるメインストリートは閑散としていた。通りには歴史のありそうな餃子店があったのだが、残念ながら閉店中(昼休み)のようだった。
路地には、写真の小鳥店があった。ここも店を開いている様子はなかった。以前は府中にもこうした小鳥の専門店があり、私が小学生のときはこうした店で鳩の餌を買っていた。今ではペットショップやホームセンターが跋扈しているので、こうした専門店は駆逐されてしまうのだろう。残念な風潮である。
小川町は和紙の生産地として知られており、江戸時代後期には750軒もの紙すき屋があったとのこと。それならば、現在でもいくつかの和紙店があると考えて探してみたが、見つけられたのは駅近くにあった写真の店だけであった。もっとも、30分ほどうろついただけなのだが。
1300年の歴史とは、正倉院文書に「宝亀五(774)年、武蔵国から武蔵国紙480張が納められた」との記述があることに由来するらしい。この地に紙の製作技術を定着させたのは高麗人であることは言うまでもない。
店の中に入るほどの興味はなかったので外観だけの撮影で済ました。写真を見て後で気が付いたことだが、暖簾の「和紙」の「紙」には点が打ってあった。篆書にも隷書にも行書にも草書も点はない。もしかしたら、これで「和紙店」と読ませるのかもしれないが、もはやその理由を尋ねる機会も勇気もない。
◎和紙の町とカタクリの里と
駅から東北東2キロほどのところに「道の駅おがわまち」がある。国道254号線沿いにあり、ここからは「カタクリとニリンソウの里」や槻川、西光寺、大聖寺、それに「カタクリとオオムラサキの林」が近いので、年に2、3回はそこに車をとめて付近を散策する。
道の駅には「埼玉伝統工芸会館」があり、小川和紙をはじめとして、埼玉県内の特産品などが展示してある。今回は小川和紙について少しだけ深く知りたかったため、和紙の展示コーナーだけをうろついてみた。
小川和紙は「細川紙」の流れをくみ、強くて厚みがあって光沢もあるという特徴を有している。元来は紀州の細川村(高野山の近くらしい)で生まれ、江戸時代に多く流通した。西からの輸送ではコストがかさむので、江戸の商人が紙作りの伝統がある小川町の紙すき職人に当地での製作をうながした。それが切っ掛けとなって細川紙作りが盛んになって、先にも触れたように江戸後期には750軒もの紙すき屋がこの地には生まれたとのこと。
ここでは和紙作り体験ができるのだが、不器用な私にはとても無理な相談なので見学だけに済ました。
道の駅から槻川の左岸に出て対岸にある「カタクリとニリンソウの里」に向かった。下流に架かる橋を渡れば里の南入口に至る。
写真は橋上から槻川の流れを望んだもの。この辺りには結晶片岩の露頭があちこちにあるので川沿いを散策するだけでも興味は尽きない。
このときは、今年2度目の訪問で、あえて混雑を恐れずに満開の時期を選んで出掛けてきた。写真の通り、斜面には無数のカタクリの花が楽しそうに羽根を広げようとしていた。
一方のニリンソウはまだ3分咲きといったところ。カタクリの開花が終了する頃に満開時期を迎えるため、この里では二度の楽しみがある。どちらもスプリング・エフェメラル(儚い春)と呼ばれる花たちだ。
こちらは、「カタクリとオオムラサキの林」のカタクリの群生。こちらの方がカタクリの里としては先輩格なのだが、現在は後輩のカタクリの里のほうに席を譲っている。年々、カタクリの数は減少している一方、カタクリの里はどんどん敷地を拡げているために数を増している。もっとも、ここでは何度かカタクリの盗掘現場を見ており、それも減少に拍車をかけているのかも。
小川町は盆地で、かつては一帯が海だった。それが260万年前頃に急激に隆起して現在の盆地の原型が形成されたと考えられている。盆地の中心部には都幾川の支流である槻川が蛇行して流れている。
仙元山(標高299m)の北東裾を流れる槻川沿いでは、カタクリとニリンソウの里辺りで写真のような結晶片岩の露頭がよく見られる。岩盤は急な傾斜を現わしていることから、それらが受けた圧力がいかに大きなものであったかを見て取ることができる。
カタクリの二大群生地の間にあるのが写真の西光寺。曹洞宗の寺とのことだが、私は相変わらず参拝はしないが、この寺の鐘楼門はなかなかの造りなので毎回、拝観ならぬ拝見だけはする。ここも裏手は仙元山の斜面になっており、そこでもカタクリの群生を見ることができる。
小川町駅を出発して寄居町に向かうことにした。左に並走する線路は東武東上線のもの。八高線と同じ単線ではあるが、そちらはがっちりとした架線を有している。
しばらくの間、両線は並んで寄居町を目指す。
ほぼ正面に見える金勝山(標高263m)の向こう側に寄居駅があるのだが、八高線はその西裾を、東武線は東裾を回って両者は寄居駅で再び出会うことになる。写真では東武線が西裾を通るように見えるが、実際にはこの先で八高線は左手に大きく曲がる進路を取り、東武線の下を通って金勝山の西裾を目指す。
まもなく竹沢駅に到着する。線路がホーム側に曲がっているが、よく見ると右手にはホーム跡がある。ここは以前には列車の交換駅だったのだが、本数が減じたために不必要になった。そのため、転轍機(ポイント)は撤去されたもののホームの位置をずらすのは面倒なので、線路だけを取り換えたようだ。
竹沢駅舎はすぐ横を走る国道254号線からもよく見える。まことにこじんまりとした駅舎なので一度立ち寄って撮影しようと思っていたのだが、結局は空いている国道を軽快に走り抜けてしまうために撮影はできずじまいだった。
竹沢駅から次の折原駅へ向かう。ここもポイントは撤去されており、線路の曲がり具合からその位置を推察するだけである。
里山を縫うように八高線は進む。寄居駅以北(とりわけ児玉駅より先)は関東山地からは離れてしまって平坦な場所を走ることが大半となる。それだけに、この場所を進む八高線の前面展望は貴重な撮影ポイントになる。
竹沢駅の次は折原駅。周囲には数軒の人家と工場がひとつ。それ以外には人工物があまりない場所だ。
折原駅自体は八高線ではよく見掛ける田舎駅のひとつしかない。ただ、秩父困民党きっての過激派であった新井周三郎の生家がこの近くにあったということから、本ブログの第20回、「秩父困民党に学ぶ(2)」でこの駅について触れ、その周囲の写真を掲載している。
折原駅の次は寄居駅。寄居町域にはすでに竹沢駅と折原駅との中間辺りで入っているのだが、寄居駅や寄居市街地に入るためには、写真の荒川を渡る必要がある。
荒川といえば多摩川と並んで東京ではもっとも馴染み深い河川であり、本ブログでは秩父困民党に触れた項ですでに紹介済みだ。結晶片岩の岩畳が連続する長瀞は関東有数の観光地だ。
釣り人であり、アユ釣りと磯釣りがもっとも好みの私には、荒川上流は一時期、アユの友釣りのためによく通った場所だ。が、川が荒れてからは通うことがなくなってしまった。そんな場所が、「日本一早い鮎釣りの解禁」をうたってこの4月29日に友釣りをスタートさせたというニュースを聞き、私は驚きをもってそれを受け取った。だが、いっときは話題になるだろうが、私にはもはや過去の河川になってしまったため、釣りのために荒川上流に通うことはないだろう。秩父市街や奥秩父観光は別だとしても。
車窓からも荒川の流れは見て取れた。ここは玉淀ダムの下流側に位置するので、この辺りで釣りをしたことは一度もない。
寄居駅が近づいてきた。この駅には前述したように東武東上線や秩父鉄道が乗り入れているため、構内はかなり広い。
寄居駅に入線。この駅でも毎度おなじみの”撮り鉄”の姿があった。
この青年も、ディーゼル車には大いに関心を抱いている様子だった。
私は鉢形城に立ち寄るため、この駅で下車した。私を乗せていた列車は高崎に向けて出発した。
駅構内から秩父の山々を眺めた。あの山々の間に荒川上流の流れがある。
寄居駅南口は閑散としていた。駅前ロータリーとその近辺はかなり大掛かりな工事中だったが、完成後にどれだけの賑わいを取り戻すのだろうか。
私は工事現場をきわどくかわしながら南に進み、荒川の流れとその先にある鉢形城跡を目指した。