当初は、約2週間をかけて四国か東北の旅を計画していたのだが、どうしても外すことができない私用が入ったため、最長でも9日間しか取れなくなった。そのため、より近場を目的地にせざるを得なくなり、それならば日本一美しい海を有していると考えている(沖縄を含め)山陰海岸へ出掛けてみることにした。
体力と気力がある時代であれば初日に兵庫県豊岡市まで出掛ける(府中から610キロ)のだが、すっかり老人になり果てた現在ではそれは無理な相談なので(もっとも、今夏も行く予定の古座川までだって590キロあるのだが)、初日は福井県敦賀市まで(440キロ)に留め、そこから徐々に西進することに決した。
走行距離・475キロ、歩行・13765歩、宿泊・敦賀市・ニューサンピア敦賀~一泊朝食付きで7810円
◎府中から敦賀まで
・府中発:6時35分
・八ヶ岳PA(中央道)着:8時05分 府中から(以下同じ)127.3キロ
敦賀でも少しだけ市内を見物するつもりだったので運転は無理せず、しっかり休息を取ることにした。まずは、写真の「八ヶ岳PA」で最初の休憩を取った。ここは周囲の景色が美しいところなので目を休めるにも都合の良い場所だ。
八ヶ岳に初めて足を踏み入れたのは、小6のときの林間学校だったと記憶している。
本ブログでは何度も登場している「甲斐駒ヶ岳」だが、見る場所によって山の形に違いがある点(あたりまえだが)が趣深い。
・神坂(みさか)PA:9時38分着、259.7キロ
朝が早かったためにバナナ、キュウリ、トマトを食っただけだったので、神坂PAですこし遅めの朝食をとる。このPAはバカ長い「恵那山トンネル(下りは8489m)」を抜けた先にあるため、これまでに何度も利用している。ただ、周囲の景観については特記事項はない。空いている点に価値がある。
・賤ケ岳サービスエリア(北陸道):11時34分着、413.0キロ
ここに停車したのは、最初に訪れる予定の「気比の松原」の駐車スペースまでのルートを確認するためにナビをセットする必要を感じたため。賤ケ岳は近くにあるはずだが姿は見えず(私には判断できないだけかも)。
・12時14分着、440.3キロ~16時20分に再訪
あと2つは三保の松原(静岡県)と虹の松原(佐賀県)。後者は未訪だ。ここは次に挙げる「気比神宮」の領地だったそうで、神宮の神職が管理していた。三保の松原との主観的な比較だが、こちらのほうが松の数は断然に多いように思われた。ただ、松林を散策する人は少なく、99%以上(個人の感想)は砂浜遊びが目的のようだった。
向こうに見えるのは敦賀半島。明日(16日)最初に訪れる場所。
この砂浜に限ったことではなく西日本全体の印象なのだが、砂浜だけでなく堤防にも磯にも実に釣り人の数が多い。東日本では船釣りが中心だが、西日本で釣りというと陸からの釣りがメインとなる。
この砂浜では投げ釣りの人が大半だった。誰も竿を曲げていないので、どんな魚を狙っているのか釣り人に聞いてみたところ「シロギス」との答えが返ってきた。
訪れた日は日曜日ということもあって、家族連れで海遊びをする人が目立った。また、松林近くではキャンプをするグループも散見された。
写真のように松林には散策路が整備されているのだが、歩く人は数少なかった。
向こうに見えるのは敦賀本港。砂浜が延々と続いているのだが、波打ち際には海藻類が打ち上げられていたり、ゴミも捨てられていたりと、必ずしも「美しい」とは言い切れないところがあった。
◎気比神宮
・12時49分着、443.1キロ
気比神宮は古くから北陸道の総鎮守として崇められ、越前国の一宮の地位にあった。写真の大鳥居は「日本の木造三大鳥居」のひとつ(あとは春日大社一之鳥居、厳島神社大鳥居)とされている。私はこの鳥居のある道は何度も通ったことがあるが、気比神宮の境内に足を踏み入れるのは今回が初めてだった。どのみち、私には信仰心はまったくないので参拝することはないのだけれど、折角なので由緒ある神社の中をのぞいてみることにした。
大鳥居をくぐったすぐ左手に「猿田彦神社」があった。猿田彦大神といえば、物事の最初に現れて万事を良い方向へ導いてくれる存在なのだが、信仰心のない私は「偶然の出会い」を最重要視しているため、この神に近づくことはなかった。
ここでも若い人の参拝が目立つ。もちろん、私はのぞいたり撮影したりするだけ。
気比神宮の主祭神は「いざさわけのみこと」で、天日槍(あめのひぼこ)と同一視されている。もっとも天日槍はひとり?の神というより、朝鮮半島から北九州にやってきて当時の最新技術を日本に伝え広げるために東進した新羅系の集団(神武の東征との関連性も考えられている)と考える方が理にかなっている。
その集団の族長とされる息長(おきなが)宿禰は琵琶湖周辺に居を構え、近江地方の発展に寄与した。息長氏は海の民でもあったため、近江に近い天然の良港を有する敦賀(旧名は角鹿)を重要視したことから、航海の安全を祈願するため、ここに神宮が建てられたと推察できる。
どこの寺社に出掛けてみても、近年は参拝者が増えている。とりわけ、若い人が激増していることは、将来に対する獏たる不安感の反映とも思われる。訪れる若者が増えていることから、この神社でも写真のような「恋みくじ」が取り扱われていたが、私が見ている範囲では、このおみくじを引く人はいなかった。賢明なことである。
かつては相当に広い社領を有していた(なにしろ気比の松原も社領だった)はずだが、諸般の事情で大きく減じられてしまったためか、境内摂社のいくつかは写真のようにコンパクトに取りまとめられている。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅で気比神宮に立ち寄っていくつかの句を詠んでいる。彼が敦賀に宿を取ったのは旧暦の八月十四日のことだった。
「その夜、月殊に晴れたり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神サビて、松の木の間に月のもり入りたる、おまえの白砂霜を敷けるがごとし。……」
月清し 遊行のもてる 砂の上
十五日、亭主の詞にたがわず雨降る
名月や 北国日和 定めなき
芭蕉像のすぐ脇には、句碑が設置されている。この芭蕉の句によって、昨年、「気比にのぼる月」は、「日本百名月」に認定された。
東門(ここが専用駐車場に一番近い)には、「日本百名月」に認定されたという事実を誇らしげに表記されていた。
最後に、東門の近くにあった「亀の池」に立ち負った。なぜか、色鯉は囲いの中に入れられ、真鯉だけが自由遊泳を許されていた。その不自然さをのぞけば、なかなか趣のある池ではあった。
◎横浜海岸
・13時30分着、455.0キロ
気比神宮を離れ、国道8号線を北上してみた。別に福井市に立ち寄るつもりではなく、この道は若狭湾の東岸を走っており、対岸にある敦賀半島がよく望めるからだ。ナビを見ながら進んでいると、「横浜海岸」の名が表示されたので、さしあたりその海岸まで足を伸ばしてみることにした。
横浜といっても神奈川県横浜市があまりにも有名なのだが、その名の場所自体は日本にはいくらでもある。浜が横に長ければ横浜、あるいは横須賀という名前が付けられるのだ。
横浜海岸は敦賀半島に向かって小さく突き出た半島の北半分で、南半分は「杉津」という字名になっており、そこには「杉津漁港」があった。
小さな半島の北半分が横浜であることは、海岸の近くに「横浜集落生活改善センター」なるものが存在することで明らかだが、写真のように、海岸線にあった柱には、きちんと「ヨコハマ」の文字が掘らていて、ここが横浜である証拠になっている。
さらに、海水浴シーズンに営業されるのであろう建物(すぐ横にはトイレとシャワー室もあった)の売店の名は「よこはま」である。現在は敦賀市横浜だが、かつては「横浜村」だったことがこの看板からも分かる。
横浜海岸には港湾施設は見当たらなかったが、写真のように、消波ブロックにボートをつなぐことができるU字の金具が打ち込んであった。
冬場の北風から海岸線を守るために、すぐ沖には護岸堤防と消波ブロックが何重にも並べられていた。横浜集落は標高の低い場所にあるため、波消しのためのブロック群は必須の存在だ。
いかにも漁村、農村といった風情ではあるが、本家?の横浜だって開港前は寒村だった。
横浜の半島の先端部には小高い山がある。集落の標高は3.6m、先端部の高台は81mもある。それゆえ、先端部の高台はかつて島であり、そこに砂州が伸びて陸続きになったのだろう。これを陸繋砂州(トンボロ)という。
先端部の麓には横浜集落を見守るように「劒神社」がある。劒神社の本社は丹生郡越前町にあるが、ここはその末社だと考えられる。ちなみに、劒神社の祭神は「気比大神」である。したがって、ここも新羅系渡来人の伝統を有している。
◎敦賀新港
・14時19分着、467.0キロ
敦賀新港のもっとも北側の護岸には無料の釣り施設が設置されている。ここには10年以上も前に取材で何度か訪れたことがある。釣りをしたのは一回だけで小メジナがたくさん釣れたという記憶がある。
安全な堤防の上からではなく、わざわざ足元の悪い消波ブロック上から竿を出す人が何人もいた。その仕掛けからメジナ狙いであることは分かったが、釣果は芳しくないようだった。
敦賀新港の主目的は釣り場の整備ではなく、敦賀港と苫小牧港とを結ぶ新日本海フェリーが利用するためのもの。ここを出発するフェリーは舞鶴、新潟、秋田にも立ち寄る。
私の場合、苫小牧発のフェリーと聞くと「仙台行き」を思い出す。吉田拓郎の『落陽』の歌詞だけれど。私の人生もサイコロを転がしているようなものなので。
◎敦賀本港~金ヶ崎緑地界隈
・15時01分着、469.5キロ
敦賀本港の東側に整備された緑地公園で、2003年にオープンした。ボードウォークとボードデッキ、芝生広場といくつかのモニュメントからなり、港の景色に触れながら散策できる場所。
緑地広場に隣接していくつかの施設が整備・公開されているが、写真の「赤レンガ倉庫」に多くの人が集まるようだ。
倉庫の目の前には白衣を着用した恐竜君が見学者を歓迎している。初めはこの存在の意味がよく分からなかったが、敦賀市が福井県であることを考えれば答えは簡単に導き出せる。福井は恐竜を売り物にしている県だからである。なにしろ、福井県立大学では現在、恐竜学部(仮称)の創設を準備しているのだから。
赤レンガ倉庫は2棟あり、南棟はレストラン館、北棟はジオラマ館として公開されている。レストランは利用しなかったが、ジオラマ館(有料)に入場してみた。昭和初期の敦賀港周辺の町並みが再現されているのだが、私のお目当ては鉄道模型だった。
HOゲージの鉄道模型はとてもよく造られており、見飽きることはなかった。また、壁面には古い記録フィルムが上映されていた。
倉庫の北側には写真の気動車が展示されていた。通常は車内が公開されているのだが、時節柄か公開部分は限定的だった。
ボードウォークから港の一角を撮影してみた。近海郵船(日本郵船の子会社)はかつて旅客船も運行していたが、現在は貨物専用となっているそうだ。赤い船の向こう側に見える山は敦賀半島のもの。
本港にはかつて鉄道が敷かれていて、シベリア鉄道経由でヨーロッパにもつながっていた「欧亜国際連絡列車」も走っていた。敦賀港駅(敦賀・ウラジオストク航路)はその列車の発着駅だった。
写真の建物は1999年に再現されたもので、室内は鉄道資料館になっている。敦賀周辺を走っていた鉄道に関する資料が豊富にあるので、鉄道ファンには必見である。
資料館内には、写真のように欧亜国際連絡列車が運行されていた当時の敦賀港の風景が模型で再現されている。
二階の床には、写真のような「だまし絵」が張られていた。床から機関車が飛び出してくるように見えるし、切符も立体的に見えるから不思議だ。
緑地の北側には、写真の「敦賀ムゼウム」があった。他の場所で多くの時間を費やしてしまったために、ここに立ち寄ることはできなかった。
基本的には敦賀市の地域歴史博物館だが、とくに杉原千畝の業績について詳しく紹介されている。ムゼウムはポーランド語。英語ではミュージアム。杉原が「命のビザ」で救済したユダヤ人はポーランド人が多かったこともあり、ムゼウムの語を使ったそうだ。解放された多くのユダヤ難民はウラジオストク経由で敦賀にたどり着いた。
金ケ崎緑地に入り、最初にこれを目にしたときには意味不明だったが、杉原の行為と結びつけることができたとき、この扉の意味が得心できた。
この日の旅は、この緑地の訪問をもって終了とした。