徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔80〕よれよれ西国旅(1)淡路、鳴門、そしてちょっぴり徳島

リヴィエール作『エデンの園』の一部分

◎18泊19日の旅に出る

明石海峡大橋を淡路SAから眺める

 体はすっかりヨレヨレになりながらも、心はまだまだあちこちに寄れ寄れと叫ぶため、少し無謀とも思えたものの18泊19日の旅に出ることにした。目的地は西国であった。アユ釣りでは昨年も紀伊半島の南端には何度も訪れていたが、いわゆる旅は少ししかしていなかったので、久しぶりに四国にも出掛けることにした。私にとって四国の地は東北同様、もっとも心が安らぐ場所だからである。

 淡路島から徳島に入り、それから香川に移動し、南下して高知、室戸岬まで行ったら今度は北上して再び、徳島を廻る。そして南海フェリーにて和歌山に移り、今度は紀伊半島を訪ね、恒例となった古座川界隈を散策したのち十津川を遡上し、最終的には奈良南部をうろついてから三重の一部を廻って帰途についた。

 長旅に出たのには諸事情があり、その最大の理由は31年ほど住んだ家の中を大リフォームするため、しばらく家を離れる必要があったからだ。もちろん、19日間ではリフォームは終わらないので、しばらくは仮住まいを続ける必要はあったのだが。

 リフォームそのものより、その前段階の不用品の片付けが大変だった。一番の不用品は自分自身なのだがそれをリフォームするわけにはいかないので片付けには及ばず、家の中の「物」で言えば、第一に書籍、第二に釣り具、第三に水槽だった。本と釣り具は9割、水槽関係はすべて処分した。愛着があるものもないわけではなかったが、必要性に拘泥すると少しも捗らないため、思い切って捨てることにした。

 次に、昨年に嵌ってしまった「古座川・小川」釣行が今年もさらに盛り上がってしまたため、片付けがなかなか進まなかった要因であった。さらに、6月から10月は「アユ釣り」シーズンのため、心はほとんど諸河川に飛んでいっており、ブログの更新はますますおろそかになってしまったのだった。

 それでも更新は少しは進んではいたのだが、古い写真に文章を付加するのは今ひとつ気乗りがしないため、こうして新しいテーマに取り組むことで、ブログ記事編集のページを開く習慣を再度、心に留め置く契機になるのでは、と、考えた次第である。とはいえ、実際に開始したのは1月の下旬になってしまったのだが。

◎まずは淡路島を廻る

 写真の淡路サービスエリアは淡路島の北端に位置し、明石海峡大橋を渡って間もない場所にある。府中から淡路SAまでは556キロ。5時45分に家を出て、ここには11時55分に着いた。

 淡路島は日本の国が産まれた最初の場所と言われているが、もちろんこれは単なる神話に過ぎず、日本列島の始原は約2000万年前に大陸の一部から切り離されたことによる。それがどうして起こったかは不明のままだし、さらに、ひとつの島として生まれたのか、それとも2つの島が合体してできたのかも解明されていない。

 そんなことは淡路島を旅する人にはどうでも良いことだ。ともあれ、本州から四国方面を目指すルートは主に3つあるが、おそらくその中でもっとも多く利用されるのは、この淡路島を経由するものだろう。

大橋をほぼ真下から望む

 私自身、四国へは3ケタに及ぶほどの数、足を踏み入れており、その3分の1ほどは明石海峡大橋を渡って淡路島を南に進んで大鳴門橋を経て四国に入る。ただ折角、淡路島を走るのだから通過するだけではもったいないので、一二か所は島の名所に立ち寄ることにしていた。

 淡路島そのものを目的地にしたことは5度ほどあるが、それはすべて釣り目的であり、釣り場は島の南側に浮かぶ沼島(ぬしま)なのだから、淡路島本島を目指したという訳ではない。

 今回の長旅は時間的余裕があるため、最初の宿泊地は鳴門市や徳島市ではなく淡路島を選んでみた。そういう訳なので、初めて島内を比較的余裕をもって見学してみることにした。それゆえ、明石海峡大橋の姿も、淡路SAからだけではなく、一般道(県道31号線)にある「道の駅あわじ」に立ち寄り、大橋をほぼ真下から眺めてみたという次第である。

大橋の下を漁船が行き交う

 道の駅の海側には遊歩道が整備されており、海岸沿いに降りることもできる。釣り人の姿も散見されたが、釣果の程は定かではなかった。近くに「岩屋漁港」があるためもあって案外、すぐ目の前を漁船が行き交う姿が見て取れた。

 漁港内には漁師めしを食べさせてくれる食堂もあるようだが、近年、めっきり食に関しては興味を抱かなくなったので、そこに立ち寄る気持ちにはまったくならなかった。

阪神・淡路大震災の爪痕に触れる

そのままの状態で屋内保存されている「野島断層」

 道の駅を離れ、次の目的地である「北淡震災記念公園」に向うために、島西部の播磨灘に面する海岸線を走る県道31号線を南下した。記念公園は県道から少し内陸部にあるが、案内板があるので場所は分かりやすい。

 1995年1月17日午前5時46分に発生した巨大地震阪神淡路大震災)は野島断層が動いたことが原因で、そのときの地面のズレを、当時のままの姿で写真のように屋内保存してある。

畑の畝のズレ

 写真のように、断層は上下に動いただけでなく横ズレも起こしたことが良く分かる。 

住宅の生垣のズレ

 さらに、屋外にある生垣を囲むレンガも大きく動いた様子も見て取ることができる。

地震直後の室内の状態を再現

 写真は、地震直後の室内の様子を再現したもの。先に挙げたように、地面があれだけ動いているのだから、室内が壊滅状態になるのは致し方ないことだ。

 そう遠くない将来、東南海地震の発生が危惧されている。阪神淡路大震災の規模はM7.3だったのに対し、東南海地震はM9クラスが想定されている。マグニチュードだけでその被害の大きさをそのまま測ることはできないが、それでもその規模には格段の違いがあるため、想像を絶する被害が生じることは明白だろう。

淡路国一宮~伊弉諾(いざなぎ)神宮

伊弉諾神宮の大鳥居

 淡路島が国の始まりなら、淡路島最古の神社である伊弉諾神宮が日本最古の神社であることは間違いない。伝説によると、この神宮がある多賀の地は伊弉諾大神天照大神に統治をすべて任せたのち、「幽宮」を構えて余生を過ごした場所とされる。

 写真の大鳥居は、大震災で倒壊した旧鳥居を再建したものである。

放生の神池(ほうじょうのしんち)

 神宮のある地は長年「禁足の聖地」とされていたため、現存する社殿などは明治時代以降に造営されたものとされる。写真の神池は、かつて聖地とされていた場所の周濠の遺構のひとつだったと考えられているとのこと。

 不老長寿や病気治癒を祈願するため、池には亀や鯉が放たれている。このため、「放生の神池」と呼ばれている。

祓殿

 写真の祓殿で心身の穢れを清めたのちに本殿に参拝することになっているとのこと。私は穢れ切った身であるため、ここでいくらお祓いしても清められることはないので、面倒なのでお参りは避けた。

夫婦大楠

 写真の大楠は樹齢が900年で、当初は2本だったものが生長して合体したと考えられている。奇樹であるためか、夫婦円満、子宝、長寿といった祈りをする人のための御神木であるらしい。

高田屋嘉兵衛記念公園

日露友好の像

 今回の淡路島徘徊でもっとも訪ねたい場所のひとつが「高田屋嘉兵衛記念公園」だった。彼については司馬遼太郎の『菜の花の沖』という小説で興味を抱いた。また、2000年にはNHKでドラマ化され、江戸時代後期になんと優れた人物が現れたものだと驚嘆させられたことを記憶している。司馬自身、1985年の講演会では、江戸時代を通じて最も偉かった人物として高田屋嘉兵衛を挙げ、それも二番目が思いつかなかいほど偉い人だったと語っている。

菜の花ホール

 司馬史観の影響を大きく受けている私としては嘉兵衛には大きな興味を抱き、一時は様々な歴史資料を漁ったことがある。それだけに、彼が生まれ育った淡路島の都志本村(現在は洲本市五色町都志)を訪れてみたかったのだが、今まで機を逸してしまっていて今回、初めて訪れることになった次第だ。

 写真の「菜の花ホール」には、嘉兵衛にまつわる資料が多数、展示してあった。また、公園は広々としており、ひとつ上の写真のように、「日露友好の像」などもある。今日のロシア情勢を見るにつけ、高田屋嘉兵衛のような傑物が存在すれば、少しは違った展開が期待できるのではないかと思ってしまう次第である。

高田屋嘉兵衛

 1769(明和六)年、貧農の長男に生まれた嘉兵衛は海によく親しみ、22歳のときに兵庫に出て樽廻船の水主(かこ)となった。大阪(大坂)から日本海を経て北海道を行き来する中、まだ未開の地に近かった箱館(函館)を商売の拠点と考え、28歳の時には当時では最大級の千五百石積の船(辰悦丸)を建造した。

 一方、当時のロシアは南下策を進めていたが、その動きを警戒するために嘉兵衛は幕府の要請によりエトロフ、クナシリ間の安全な航路を発見、開拓し、新たな漁場を開いていた。

ホール内の展示品

 1804年、ロシアはレザノフを長崎に派遣して幕府に通商を求めたが、鎖国政策を継続するためにこれを拒否していた。そんな中、11年に千島海峡を調査していたディアナ号がクナシリで水や食料の補給をしていたところを幕府側が拿捕し、艦長のゴローニンを幽囚した。一方、ロシア側はその報復としてたまたま近くで操業していた嘉兵衛の船を捉え、カムチャツカに連行した。

 嘉兵衛とディアナ号の副艦長のリゴルドは2人の間だけで通じる言葉を作り、ひと冬の間、辛抱強く交渉を重ねた。その結果、ゴローニンの解放が決定された。のちにリゴルドは、「日本にはあらゆる意味で人間という崇高な名で呼ぶにふさわしい人物がいる」と嘉兵衛を称した。

 先に挙げた「日露友好の像」は、こうした嘉兵衛の優れた功績を称えたものである。

当時の帆船の模型

 菜の花ホール内には、そうした嘉兵衛の業績のほか、写真のように当時の帆船の模型なども展示されている。また、2000年に撮影されたNHKドラマのダイジェスト版も大スクリーンで見ることができる。

 現在の国際情勢は、ひとりの傑物が登場したところで解決が可能なほど単純なものではなく、利害があまりにも重層化しているためその見通しは暗澹たるものだし、なおかつ、そこに登場しているあまたの政治家の質があまりにも低いということも、混乱に拍車をかけているのが現状だ。せめて、嘉兵衛のような人間的な魅力に富んだ人物が数人いれば、少しは展望が開けるだろうと、つくづく考えてしまう次第である。

瀬戸内少年野球団の像

 記念公園の中には、写真のように「瀬戸内少年野球団」の像もある。これは作詞家である阿久悠が郷里の淡路島での少年時代を参考にして生まれた小説を映画化したものがモデルになっている。「あのとき空は青かった」が映画のキャッチコピーであるが、この日の空も青かった。

都志漁港から記念公園方向を望む

 少年・嘉兵衛が海に親しんだ場所が写真の都志漁港である。当時の港の姿は片鱗すら残っていないだろうが、現在、ウエルネスパーク五色・高田屋嘉兵衛記念公園がある丘は、その建物群を除けば、当時と同じような姿形をしていたはずだ。

◎海岸線をひた走る

慶野松原にて

 県道31号線を南下する。写真の「慶野松原」は日本の白砂青松百選、渚百選、夕陽百選に選ばれている播磨灘沿いの名勝地である。ここで夕日を待っていても良いのだが、次の日は雨降りが予報されているため、この日に可能な限り各所を訪ねて置きたかったこともあり、いくつかのカットを撮影したのち、次の目的地に向かった。

土生海岸から沼島を望む

 この日の宿泊地は淡路島南端にある福良のホテルだが、まだ日があるうちに土生(はぶ)港まで行けそうだったため、その地から見える沼島(ぬしま)を眺めるために車を走らせた。

 港からは高い護岸堤が視界を遮るため、やや高台にある空き地に車をとめて沼島の姿を撮影した。

 この沼島が「おのころ島」であると考えられており、この島を起点に伊弉諾伊弉冉の二神は淡路島を生んだとされている。もちろん、ただのお話にすぎないだろうが。

 淡路島本島向き(つまり写真にある姿)の中央部に港があり、土生港とを結ぶ定期船が走っている。北向きは比較的おとなしい姿形をしているが、南側は荒波に洗われることが多いため、荒磯が続いている。とりわけ、少し沖にある上立神岩は有名な岩礁で、ここが「天沼矛」からの最初の一滴が造った岩礁とする説もある。

 私はこの沼島には5回ほど釣りに出掛けている。残念ながら上立神岩に渡礁することは叶わなかったが、すぐ近くの岩場からは竿を出すことができて、大好きなメジナ釣りを堪能したという経験が何度かある。

”うずの丘”から大鳴門橋を望む

 沼島を眺めたことで初日の予定はすべて終えたと思いホテルに向かった。が、その近くに「うずの丘・大鳴門橋記念館」があることに気付いたので立ち寄ってみることにした。

 夕間暮れ時だったので橋の存在は明瞭ではなかったものの、夕焼けの空と相まって興趣をそそるものがあった。うっすらとではあるが、鳴門の渦潮の姿もなんとか視認できた。

淡路島は玉ねぎの産地

 記念館はすでに閉じていた。駐車場には、何を販売するものかは不明(名産品の玉ねぎ関連であることは推察できた)ではあるものの、同じナンバーを持つ軽トラが停まっていた。「・251」の意味は未だに解けない謎である。

 (追記)その後、知人から連絡があり、「251」(ニコイチ)は自動車業界ではよく知られた数字で、事故で前がつぶれた車と後がつぶれた車を合体させて一台の車として販売することを表すそうです。写真の「玉ねぎ車」はその応用編で、左右の車を合体させるとひとつの玉ねぎになることから「ニコイチ」=「・251」にしたのではないかという知識を伝授されました。合点がいくとともに、彼の知識の広さに脱帽した次第です。

◎淡路島2日目~まずは鳴門海峡見物

ホテルの部屋から鳴門海峡を望む

 写真は、朝目覚めた際にホテルの窓から鳴門海峡方面を展望したものだ。昨日の予報では午後から雨とのことだったが、予想よりは雲が薄いようなので、それなりに鳴門見物はできそうに思えた。

鳴門岬先端からうず潮大鳴門橋を見物

 海峡方向に伸びる鳴門岬の先端部には「道の駅うずしお」があり、駐車スペースも広く取ってあるそうなので、朝食後、早速、海峡見物に出掛けた。この日は大潮に当たったので、潮の動きはかなり速かった。渦巻ができるまでには至っていないが、それでも潮の速さはしっかりと見て取れた。

自動販売機にも玉ねぎの写真

 道の駅の建物前には写真の自動販売機があり、ここにも玉ねぎの写真が大きく飾られていた。兵庫県は玉ねぎの生産量は全国第3位(1位は北海道、2位は佐賀県)ではあるが、兵庫県の生産量の大半は淡路島だと考えられる。

道の駅の入口にも玉ねぎの山

 入口にも、写真のように玉ねぎが置かれている。私は子供の頃は玉ねぎが苦手であったが、いまでは好物のひとつになっている。とはいえ、旅はあと18日続くため、ここで購入しても致し方ない。

伊毘(いび)漁港から大鳴門橋を望む

 予報よりも早く雨が降ってきたので道の駅を離れ、以前に訪れたことのある写真の港へ向かった。神戸淡路鳴門自動車道・淡路島南インターのすぐ近くにある漁港なので時間的なロスはなかった。

 天気のせいなのかは不明(良い釣りができるなら釣り人は天候は問わない)だが、前回訪ねた時は堤防上に釣り人がずらりと並んでいた。が、この日は2人を見掛けるだけだった。やはり釣果が芳しくないのだろう。

◎鳴門市側から鳴門海峡に触れる

大鳴門橋遊歩道からうず潮を望む

 伊毘漁港に長居する理由はなくなったので、すぐにインターに向かい大鳴門橋を渡ることにした。自動車道を鳴門北インターで降り、鳴門海峡に接するために県道11号線を北上して「孫崎」に向かった。そこには「大鳴門橋遊歩道・渦の道」があり、写真のように、自動車道に沿った歩道から渦潮を眺めることができる。さらに、橋の下にはガラス床でできた「渦の道・展望室」(有料)もある。

 ガラス床は怖そうだが、下が海ということもあってそれほど高さを感じないため、勇気と入場料を振り絞ってのぞいてみることにした。私にしては英断である。雨がかなり強くなり、外を歩くのが大変になってきたというのも理由のひとつだ。 

大鳴門橋遊歩道「渦の道・展望室」からの眺め

 完璧な渦潮とまではいかないが、潮の流れは相当に速いので、なんとか合格点を与えてもいいような気がした。

 鳴門の渦潮は「日本三大急潮」の筆頭である。かつては、しまなみ海道の終点(起点)にある来島海峡が第一位で、鳴門は二番、関門が三番といわれていた。しかし、海上保安庁の調査によって、鳴門の速さは10.5ノット(時速19.4キロ)で、来島は10.3(19.1)、関門は9.4(17.4)だと判明したため、鳴門海峡が急潮の筆頭に輝くことになった。

ガラス越しにうず潮を眺める

 こうした「日本三大なんとか」というのはいろいろな分野で見られ、例えば、三大美女では常盤御前小野小町静御前、三大急流は富士川球磨川最上川、三名瀑は那智、華厳、袋田、三大温泉は熱海、南紀白浜、別府などというものだ。一番有名なのは日本三景かも。

 なかには三大がっかり名所というのもあって、札幌時計台はりまや橋オランダ坂がよく挙げられるが、個人的には、札幌時計台の代わりに桂浜を入れたいと思っている。

渦潮と観潮船と

 渦潮を直接に体験するために、写真のような「観潮船」が何隻も走っていた。私の場合、鳴門と関門の両海峡は車で通過するだけだが、しまなみ海道の来島海峡は、大島から今治間をフェリーで移動することが多かった。理由は簡単で、潮の速さを体感できるからである。

◎雨宿りを兼ねて大塚国際美術館へ~奇跡の邂逅

システィナホールに圧倒される

 雨が相当に激しくなり、視界もかなり悪くなってきたので、当初に予定していた「鳴門スカイライン」や小鳴門海峡に触れることは断念した。この日の宿泊地は徳島市内。まだまだ時間は相当あるし、市内見物する場所も限られているため、致し方なく、「大塚国際美術館」をのぞいてみることにした。もちろん、初体験である。

 美術にはまったく興味がなく、有名な美術館に足を踏み入れたことは全然ない。倉敷では大原美術館のすぐ隣のホテルを定宿にしているが、美術館をのぞいたことは一度もない。よく割引券をいただくのだが。上野に出掛けても不忍池には行くが、美術館には見向きもしない。それゆえ、この美術館に入ったのは、単なる雨宿り以上の何物でもなかった。3300円の雨宿り賃は高価すぎるように思えたけれど。

 時間つぶしなので、特に興味を抱く展示品はまったく思いつかなかった。ここの展示品は「本当の偽物」が多数飾ってある。西洋絵画の代表作はほぼ網羅されている。もちろん本物ではないけれど。が、特殊加工された陶板に本物とまったく同じ絵が焼き付けてあるのだ。サイズもまったく同じなので、本物に触れるのと同じ感覚を味わえるそうだ。私には、本物を見た経験はないけれど。

 入口にあるシスティナホールからして見事なもので、礼拝堂の壁画が原寸大で再現されている。その大きさに圧倒されたが、それ以上ではなく、私は床に示された順路にしたがって移動を開始した。

中世絵画はキリスト教関連が大半

 古代の壁画や中世の絵画も数多くあった。ここでも、私は行儀のよい修学旅行生のように、ただただ歩みを進めた。何の感慨も抱かずに。

マダム・ポンパドゥール

 ここでは少しだけ立ち止まった。といって絵画に興味を抱いたわけではなく、ポンパドゥール夫人に関心があったからだ。

誰もが知っている名画

 誰もが知っている名画にも数多く触れたが、とくに感慨はなかった。堅気の仕事としてある程度の期間、世界史を高校生や浪人生に教えていたので、西洋絵画についての知識は多少あった。手持ちの資料集などで見知っていたからである。これも興味から生じた行為ではなく、仕事としての義務感からでしかなかった。

こんなにも大きいとは知らなかった

 資料集で見るのと異なる点はその大きさだけで、『最後の晩餐』がこれほど大きなものとはまったく知らなかった。

説明不要の名画

 絵画には興味がないので鑑賞眼はまったく持ち合わせていない。そのため、この作品の良さも理解不能なので、ただ「あれか」という思い以上のものはなく、撮影だけしてすぐに通りすぎた。

フェルメールの作品はどれもお馴染み

 フェルメールだけは少し興味があった。光と色の使い方が上手だからである。私は空間認識がまったく不得手で、三次元的にものを捉えることができない。それゆえ、光を上手に用いてくれないと立体感を抱くことがまったくできず、世界がすべて平板なものに見えてしまうのだ。

 私が韓国ドラマに嵌ってしまっている理由のひとつは、光の使い方が上手な作品が多いからだ。「冬のソナタ」はストーリーとしては平凡だが、絵がとても綺麗だったのでファンになった。そういえば、日本の『必殺仕事人』も光の使い方が上手かった。

 フェルメールのすぐ近所には微生物学者として著名なレーウェンフックが住んでいた。デルフトという小さな町で同時代に二人の傑物が存在していたというのは単なる偶然ではあるが、奇跡と言っても過言ではない。ちなみに、私の住んでいる府中市は傑物は一人も輩出していない。

真珠の耳飾りをしてないオバサン

 この美術館には「遊び心」が少しあり、名画の真似をして記念撮影できる場所が何か所かある。フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』(青いターバンの少女)のすぐ近くには、小道具が置いてあり、写真のように青いターバンと黄色の上着を身に付けて、少女の真似をすることができる。

 何の臆面もなくモデルを気取れるオバサンが少し羨ましく、そして大きく怖い思いがした。

ムンクの傑作

 以下の数点は、知らない人はほとんどいないというほど有名な作品ばかりだ。ムンクのコーナーでは「叫び」を撮影したかったが大混雑状態だったのでこちらにした。

ゴッホの自画像

お馴染みのヒマワリ

 ヒマワリにはどの作品にも人が群がっていたが、この作品が一番人が少なかったので、何とか撮影できた。

印象派の由来となったモネの名画

 「印象日の出」の良さは私には理解不能だ。この絵を理解できないことが、私の美術に対する認識力が圧倒的に欠如していることの証になっている。

*私の人生観を変えてしまった名画

人生最大の絵画との出会いとなった作品

 こうして西洋絵画の代表作に無数に触れてきたが、知っている作品は少し眺めるだけか写真撮影をした。本当の偽物の偽物を記録に残しても意味はないのだけれど。

 知らない作品はチラリと見るだけで素通りに近かった。それでも一応、ほどんどの作品の前を通り過ぎた。何しろ、外は土砂降りになっていたので、ここで時間を潰すのが最適な選択だと思えたからだ。歩数計を見ると、この美術館内だけで一万歩近くを歩いたことになっていた。

 そんな怠惰な鑑賞行為を行っていた私を、突如として虜にしてしまったのが、この作品である。私はこの作品の前で固まってしまった。絵の魅力が私を動かせなくしまったのだ。素人ながら、構図や色使いは完璧だと思えた。10分ほど不動状態にいた(この10分は観念的時間で客観的時間ではない)が、少し緊張が解れたときに右にある作者名、表題、解説文に目が行くようになった。

 ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール(英)の名は初めて目にした。作品名は『エデンの園』(1900年)。舞台はイギリスにある冬枯れた公園。人影がまったくない中、エヴァは温かいまなざしでアダムを見つめる。かつてエデンの園を追われた二人は数千年の時を経てこの公園で再会した。かつての園のような豊かさはまったくないが、二人には希望に満ちた世界が広がっている。もはやエヴァを唆す存在はなく(ヘビは冬眠中か)、彼女の微笑みをアダムは心底から受け入れている。

 構図が見事だ。当初は二人の位置がやや左に寄っているのではと思えたが、これは凡人の理解であって、見ているうちに、これ以上の立ち位置はないと思えてきた。エヴァは唯々アダムを見つめているだけだが、鑑賞者にはエヴァの視線の先には輝かしい未来があると思わせるのだ。それが右手が広い理由だろう。アダムの表情は分からないが、もちろん、かれはエヴァの存在をすべて受け入れている。

 ヘビに唆されたエヴァは神に禁じられた木の実を食べ、そしてアダムに与え、彼もそれを食べた。その結果、二人はエデンの園から追放されることになった。そうしたエヴァが犯した罪を、この世界ではアダムは完全に許している。神に禁じられた木の実も、命の木を宿しているエデンの園はすでに存在しない(あまたの木は冬枯れしてしまっている)が、二人の前途には新しき『エデンの園』が生まれ始めている。そのことは、背後からくる淡い光によって象徴されている。

 私はこの絵を30分以上は見つめていた。この絵に出合った以上、他の絵を見る必要はなくなった。そのときに私は決心した。今後は、上野に行った際には西郷どんに会うだけでなく美術館にも立ち寄ろうと。この年齢になって初めて、美術品の持つ魅力と魔力とを得心した。

 そして、雨降りも好きになった。森高千里の『雨』以上に。

◎第一番札所・霊山寺

第一番札所に立ち寄る

 エデンの園、いや大塚国際美術館に別れを告げ、四国霊場の一番札所である「霊山寺」に向かった。雨は小振りになっており傘がなくてもなんとか歩ける状態になっていた。

 四国に初めて足を踏み入れたのは40歳のとき。他の都道府県にはすべて出掛けていたが、四国4県だけは未知の場所だった。たまたま四国での釣り取材が入り、ついに出掛けることになった。

 愛媛県南端にある釣り場の取材が終わり、私は四万十市(当時は中村市)から国道56号線を東へ進み、その日の宿に決めていた高知市に向かった。その日も雨降りだった。それもかなり激しい雨になっていた。

 そんな中、若い女性のお遍路さんが歩く姿に出会ったのだ。もちろん、他の場所でも遍路姿の人々は見掛けていたが、特に気には留めていなかった。しかし、豪雨の中、次の霊場(おそらく三十七番の岩本寺だろう)を目指して懸命に歩く姿に触れたとき、私の心は激しく揺さ振られた。それまでは八十八か所の霊場巡りにはまったく関心がなかったし、だからこそ四国には足を向けてはいなかったのだが、その雨中の邂逅から私の興味関心は一新され、霊場巡りに魅惑的な感情を抱いてしまったのだった。

 以来、私は自分が企画するムック(雑誌風の単行本)には必ず四国特集を入れ、企画から写真撮影、記事、編集まですべてひとりでおこなうようにした。日程も長めに取り、取材の合間に霊場巡りを入れた。結果、数年で八十八か所にすべて訪れることができた。

 もちろん、私には参拝する気持ちはまったくないので、白衣姿になることも、同行二人と書いたすげ傘を被ることも、金剛杖や納経帳を持つことはせず、ただただ霊場を訪ねてはお遍路さんのいる風景を撮影するだけだった。そのためもあり、あまり風雅を感じさせてくれない霊場は一回限りの参詣で終わる一方、興趣のある霊場には何度も出掛けた。

霊山寺の仁王門

 一番札所の霊山寺は平地にあってあまり趣きが感じられない(やはり霊場には山が相応しい)ので、訪れたのは今度で4回目にすぎない。ただ、発心の道場の一番手ということもあって観光客で賑わうことは多い。

 この日は時間は遅く、雨降りということもあって観光客は私だけ。お遍路さんも二人いるだけだった。

雨とお遍路さんと

 お遍路姿の二人は、仕来たり通り、本堂そして大師堂という順序で参拝していた。一方の私は参拝はせず、ただ見物するだけだった。

大師堂

 写真は放生池と大師堂。私はただの参詣者(見物人)なので本堂より先に大師堂を覗いた。

中をのぞくだけ

 件の二人は大師堂に向かっていたので、もはや本堂には人の姿はなかった。参拝しない私は、興味心だけは人一倍あるので本堂内を見渡した。お遍路さんは般若心経を唱えるのだが、信心のない私は無言のまま帰途についた。

府中駅に立ち寄る

徳島線府中駅

 郷土愛があるわけではないが、「府中」の名を見ると必ず立ち寄りたくなる。律令国令制国)の国府のある(あった)場所がのちに府中と呼ばれるようになったので、全国にはたくさんの府中がある。阿波国国府は現在の徳島市国府町にあったとされている。しかも字名として府中があるため、JR徳島線のこの地の駅名は国府ではなく府中となっている。

府中と書いて「こう」と読む

 もっとも府中は「ふちゅう」とは読まず「こう」と読む。国府は「こくふ」とも「こう」とも読まれるため、府中をあえて「こう」と読ませているのだ。したがって、国府町府中は「こくふちょうこう」と読まねばならない。これは難読地名としてよくしられていることだが。

 こうして、第2日目の旅は府中駅を訪ねたところで終了。すっかり雨の上がった国道318号線を東に進み、徳島県庁の隣にあるホテルへと道を急いだ。

 雨のお陰でこの日の収穫は極めて大きかった。そのお礼も兼ねて、車中の音楽は森高千里の『雨』を繰り返し流した(ついでに『渡良瀬橋』も)。