徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔81〕よれよれ西国旅(2)徳島市街、そして吉野川(というより中央構造線)を遡上

脇町・うだつの町並み

吉野川河口にて

眉山としか呼びようのない姿

 徳島市街の名所に「眉山(ひざん)」がある。標高290mの低山ではあるが、徳島市街のどの方角からも眉のような姿に見えるため、そう名付けられたとのこと。『万葉集』に「眉のごと雲居に見ゆる阿波の山……」とあるところから、相当に古くから眉山と呼ばれていたことが分かる。

 天辺付近には公園が整備されており、徒歩でも自転車でも自動車でも、そして「阿波おどり会館」から出ているロープウェイを使っても公園に行き着くことができる。ただし、山頂付近にNHKなどの送信所があり、かなりの高さを有するアンテナが何本も立っているので、眉にいくつものゴミが付着しているように思えて少し興ざめだ。

 写真は、吉野川の河口付近から眉山を眺めたもの。市街地からだと高い建物がいろいろとあって現在では眉の姿をはっきりくっきりと見づらくなっているために出掛けてきた次第だ。もっとも、今回は吉野川河口を訪ねるつもりでいたので、そのついでということもあった。

川幅が相当にある吉野川河口

 眉山については後で触れるとして、まずは吉野川の河口を訪ねてみた。この川の長さは194キロと驚くほどの長さではないが、川幅は広く荒川に次いで日本では二番目だ。ただ”暴れ川”として中央構造線内をうろうろと流れるために土手間が広い(これは荒川も同様)だけで、最大2380mの川幅があるといっても、通常は河川敷のほうが圧倒的に広い。

 それでも「四国三郎」の異名を持つ(利根川は”坂東太郎”、筑後川は”筑紫次郎)だけに、河口近辺は写真から分かるように相当に広く水量もたっぷりとある。

 この日の旅は、この吉野川そのものを遡上するわけではなく、川の南北にある名所を訪ねることにあるため、川の表情を写しているカットはほとんどない。

眉山公園にて

駐車場から山頂付近を眺める

 徳島市周辺の姿を見渡すには、先に挙げた眉山の山頂近くにある「眉山公園」から眺めるのが好適だ。たとえ標高290mといっても歩いて上るほどの元気はないので、車で出掛けた。

 駐車場(標高248m)は山頂近くのやや窪んだ場所にあり、写真のように階段を上がって展望の良い場所から周囲を眺めることにした。もっとも見晴らしの良いのは無料の展望デッキ(標高265m)からで、西側以外の眺めは相当に良い。

 それにしても、アンテナ群は邪魔な存在だ。

山頂展望台から四国山地方向を眺める

 まずは西側を眺めた。遠くには四国山地の山並みが続いている。駐車場の向かいにあるのが眉山の山頂(標高290m)で、私が立っている場所は260から277m付近にある広場。休憩室やトイレ、それにのちほど訪ねる「阿波おどり会館」に通じるロープウェイの駅もある。

展望台から鳴門市方向を眺める

 展望デッキからはまず北側を眺めた。吉野川の向こう側には北島町松茂町、鳴門市があり、少し分かりずらいが「大鳴門橋」の姿も見える。橋の手前の山には「鳴門スカイライン」が整備されており、素敵な景観が楽しめる。昨日、晴天であったならその景色に触れる予定だった。が、大雨のためにその希望が成就しなかった。もっとも、その景観に触れる以上に価値のある偶然の出会いがあったことは前回に触れている。

 いずれ紹介することになるが、徳島から和歌山に渡る前日にその「鳴門スカイライン」に出掛けることができた。しかも好天に恵まれたためいつもは訪ねることのない場所にも行けたのだった。まさに、雨に恵まれ、晴にも恵まれたのだ。

 なお、大鳴門橋の向こうに見えるのは淡路島の山々である。 

徳島市街地を見下ろす

 目を北東方向に移動し、今度は徳島市の中心街を眺めた。左手に見える森はかつて徳島城があったところで、そのすぐ手前に徳島駅がある。

吉野川河口方向を眺める

 吉野川の河口方向を眺めた。川に架かる「阿波しらさぎ大橋」が完成したことで、国道11号線の「阿波大橋」の混雑がかなり解消された。

 紀伊水道に横たわる島が、前回にも取り上げた「沼島」だ。徳島市和歌山市とをつなぐフェリーはこの島の近くを通るので、その際にも紹介することになる。

新町川河口方面を眺める

 新町川方向を眺めた。この川は、かつては吉野川の一部だったが、河口付近に三角州が形成されたために本流とは分離され、現在では「新町川」と呼ばれるようになった。この川筋が徳島市ではもっとも賑やかだ。

 私が定宿にしているホテルはこの川の右岸側にあり、隣には徳島県庁がある。のちに紹介するが、和歌山市に至る「南海フェリー」の発着所はこの川の左岸側にある。 

小松島市方向を眺める

 南東側に目を転じると、小松島市方面の海岸線が目に入る。吉野川の右岸側には埋立地が広がるが、写真から分かるとおり、小松島市に近づくと大神子や小神子と名付けられた自然のままの海岸線が現れてくる。

麓の「阿波おどり会館」に向かうロープウェイ

 麓にある「阿波おどり会館」は何度も目にしたことがあるがその中を覗いたことはなく、今回、初めて訪ねてみることにした。写真のように、眉山公園からは阿波おどり会館の5階に通じるロープウェイが走っているのでとても便利だからだ、という単純な理由もあった。

阿波おどり会館に少しだけ立ち寄る

会館の正面側

 ロープウェイを下り、まずはエレベーターで1階まで行き、外から会館を眺めることにした。

休憩所の屋根も編み笠(おけさ笠)風

 会館の前には小さな広場があり、写真のような編み笠風の屋根を有する休憩所が二か所あった。

踊る人形たち

 館内に戻り、折角なので展示室を少しだけ見て回った。2階には「阿波おどりホール」があり、毎日、躍りの実演がおこなわれているようだがそれはパスして、3階の「阿波おどりミュージアム」だけをのぞいてみることにした。

 阿波おどりの起源は念仏おどりが原形のひとつと考えられているが、現在に伝わる盆踊りは江戸時代になってからとされている。日本三大盆踊りのひとつ(あとの2つは秋田県羽後町の”西馬音内の盆踊”、岐阜県郡上八幡市の”郡上おどり”)としてあまりにも有名だ。

 「踊る阿呆に見る阿呆」の掛け声がよく知られ、写真の人形の表情や動きからも激しい踊りが展開されることがよく分かる。もっとも、個人的には富山市八尾町で繰り広げられる「おわら風の盆」のような、どことなくもの悲しさを感じさせる風情の踊りのほうに興趣がそそられる。

昔の踊りをミニチュア模型で再現

 写真は、いにしえの「阿波おどり」を模型で再現したもの。現在の”激しい”ものとはずいぶんと様子は異なる。

鳴り物の今昔

 盆踊りには何かしらの「鳴り物」が必要で、ミュージアム内にはかつて使われたものや現在に使われているものとが対比されて展示してあった。

 阿呆には違いないが、躍ることも見ることもしなかった私は、早々に会館から引き上げることにした。ロープウェイで眉山公園まで上がり、そして駐車場に向かった。

国分寺とその界隈

府中バス停を通過

 眉山を下りて一旦、国道318号線に出てしばらく西に進んだ。この国道は吉野川の南側を走っている。もっとも中流域では吉野川とはかなり離れており、どちらかと言えば四国山地の北麓に沿って走っているといった方が妥当性がある。

 昨日には府中(こう)駅に寄ってからこの国道を使って東に向かい宿を目指したが、この日は西に進んで次の目的地に向かった。途中、写真にあるように府中(こう)バス停を通過した。

国分寺(十五番札所)の山門

 国府町にある大きな交差点を左折して国道192号線を南に進み、十五番札所である国分寺に向かった。ちなみに、八十八か所霊場には国分寺は4か所あり、阿波は十五番、土佐は二十九番、伊予は五十九番、讃岐は八十番となる。

 国府(府中)があるので、その近傍に国分寺があるのは、けだし当然である。ただし、令制国時代の国分寺がすべてそのまま残っているわけではなく、同じ場所に何度も建て替えたもの、近くに移動したもの、場所が特定されないものがある。

 写真は山門で、その右側の碑に「聖武天皇勅願所」とあることから、ここが国分寺であることの証左になっている。

 写真に写っているお遍路さんのグループはマイクロバスで乗り付けて来た一団で、私がやってきた後に到着し、私より先に次の札所(順番通りなら観音寺)へと向かっていった。案内役としてお坊さんも同行していた。

本堂

 本堂では一人でやってきた(彼も車で)お遍路さんが般若心経を唱えていた。

大師堂

 本堂の斜め横にはお定まりの「大師堂」がある。本堂前にいたお遍路さんは、つぎにこのお堂の前にやってきて、やはり般若心経を唱えるのだろう。

七重塔心礎

 山門のすぐ横には、写真の「七重塔心礎」が残されていた。国分寺には『金光明経』と『法華経』の写本が安置されることになっている。その七重塔がここにあったということは、聖武天皇の時代の国分寺がここら辺りに存在していたことの証明になる。

弥生時代の住居を再現

 国分寺からほど近い山裾に「阿波史跡公園」があり、写真のように弥生時代の竪穴式住居が再現されている。

史跡公園はやや高台にある

 この史跡公園は国分寺より一段高い場所にある。国分寺から6キロ北にある吉野川右岸の河川敷の標高は約5m、府中駅は7.8m、国分寺は12.7m、そして史跡公園は34.9m。国衙は洪水にあって流されても再建は容易だが、国分寺、とりわけ七重塔は令制国にとってもっとも重要な建物なので、洪水に遭いにくい場所に建てられる。

 さらに、弥生時代の人々は自然災害を避けるために少し高台に住む。それゆえ、住居は山裾に建て、田畑にはその下部の平地を利用したのだろう。

◎十一番札所・藤井寺(ふじいでら)

仁王門

 国道318号線に戻り西進した。第十一番札所の藤井寺に行くためだ。この藤井寺だけが「寺」を「てら」と読み、他の87の霊場は「じ」と読む。寺の読み方は通常は音読みなので藤井寺はなぜか「とうせいじ」ではなく「ふじいでら」と読ませる。これは、弘法大師が堂宇の前に5色の藤を植えたためという説明を目にするが、さほど説得力があるとはいえない。すぐあとに出てくる「切幡寺」は「きりはたじ」と読むが「きりはた」では訓読み(音読みでは”せつばん”か)で寺だけが音読みになる。ならば、藤井寺も「ふじいじ」と読んでも良さそうに思えるが。ともあれ、藤井寺だけが「てら」と読むのだということを知っておくとクイズ大会には勝利できるかも。

 藤井寺は三方が山に囲まれており、境内の裏手には険しい山道が続いている。写真の山門は標高33mなので丁度、山の入口に位置する。

本堂

 本堂の標高は38m。一帯はよく整地されており境内をうろつく限りは何の問題はない。

般若心経を唱える

 ここでは、バイクで乗り付けた若者が、真剣に「般若心経」を唱えていた。やや遅れて来た隣のおばさんも、これから読経を始めるようだった。

大師堂

 お定まりの「大師堂」は本堂のすぐ横にあり、お遍路さんを迎い入れようとしている。

お遍路の行く手に立ちはだかる難所

 境内の裏手にあるのが十二番札所の焼山寺(しょうさんじ)へ続く遍路道だ。「焼山寺みち」と呼ばれるこの山道は、歩き遍路にとっては最初のそして最大の難所と言われている。

 距離は約13キロなのだが、標高38mの地点から750mまで上り、そして400mまで下ってからまた上って705m地点にある焼山寺にやっとたどり着く。おおよそ6から8時間掛かると言われている山道だ。

 ハイキングだと考えれば中程度の難所なのだろうが、歩き遍路の場合、全行程は1400キロもあり、これと同程度の難所がいくつも控えているのである。

この先に「遍路ころがし」がある

 私が聞いた話では、折角、標高750mに達したにもかかわらずそこに札所はなく、それからさらに350m下ってまた305m上るという先行きの困難さを考え、その結果、750m地点で歩き遍路を断念して藤井寺まで引き返すという例が多いとのこと。そうしたこともあって、「焼山寺みち」の入口には、写真のような注意と励ましとを併せた看板が掲げられているのだ。

 こうした難所のことは「遍路ころがし」と呼ばれており、一般には全部で6か所あるとされている。

挫折者のために

 焼山寺道の入口付近には、「ミニ八十八か所」が設けられており、焼山寺みちのすぐ横には、写真のように、最後の札所(順打ちの場合)である八十八番札所の「大窪寺」の祠がある。

 一番から通し打ちをして八十八番まで到達するには、一日30キロほど歩いても約50日掛かる。初心者の場合、この焼山寺みちは概ね3日目に挑むことになる。余裕をもって60日の期間を予定してお遍路に挑んで、たったの3日目に転がされるのは屈辱以外なにものでもないだろう。が、何事においても「挫折」や「後悔」はいずれそのことに感謝する日が訪れると考え、他の事柄に挑戦してみてほしいものだ。

 私なぞ、転がされる前に、すでに転んでいる。

挫折者が利用する駅

 徳島線鴨島駅藤井寺の最寄り駅で、あえなく転がされた人々が挫折感を抱きながら帰途に着く場所として知られている。

 普段着に着替え、ここから徳島駅に戻り、ロープウェイで眉山に上り、紀伊水道を眺めながら悲嘆に暮れ、そして屈辱感を抱いたまま立ち上がり、また明日に向かって歩き始めよう。

◎八番札所・熊谷寺

多宝塔

 一番札所(霊山寺)から十番札所(切幡寺)まではほぼ撫養(むや)街道に沿った場所にある。撫養街道は鳴門市撫養町から三好市池田町に通じ、吉野川の左岸側を東西に結んでいる。というより、讃岐山脈の南縁を走っているといった方が分かりやすいかもしれない。

 この街道は比較的平坦な場所(中央構造線の北辺)にあるため、一番から十番までの札所もまた標高の低い場所にある。一番の霊山寺は21m、二番の極楽寺は12m、三番の金泉寺は6m、五番の地蔵寺は23m、六番の安楽寺は20m、七番の十楽寺は38m、九番の法輪寺は38mで、歩き遍路にとっては行きやすい場所にあるが、私のように霊場のある風景を好むという変人にとっては少々、魅力に乏しいという感を抱いてしまう。

 その点、4番の大日寺は70m、八番の熊谷寺は104m、十番の切幡寺は156mと、少し山脈に入り込んだ場所にあるために変化に富んでおり、それが私の好みなのだ。

 そんなわけで、鴨島駅の次に向かったのは八番札所の熊谷寺(くまだにじ)だ。国道318号線は鴨島駅近辺で北上し、「阿波中央橋」で吉野川を越えて、最終的には讃岐山脈まで突き抜けて東かがわ市に到達する。

 讃岐山脈を越えてしまっては目的地を通り過ぎてしまうので、徳島道の土成インターの少し先にある県道139号線に入るために左折すると、まもなく熊谷寺に至る。

 この辺りは溜池が多い場所なのでついのぞき込んで見たくなるが、その気持ちを抑えてまずは写真の多宝塔を眺めた。

中門

 熊谷寺の仁王門は、四国霊場ではもっとも古くて大きいものなのだが、やや離れた場所にあるためにそこまでは行かず、写真の中門でお茶を濁すことにした。

大師堂

 中門の先に写真の大師堂がある。

鐘楼と大師像

 中門のすぐ隣には鐘楼と弘法大師像がある。特筆すべきものはないが、山中にあるだけに、鐘楼であっても閑さを感じてしまう。

法輪寺に向かうお遍路さん

 写真の左手にある溜池をのぞき込んでいるとき、眼前を歩くお遍路さんが目に入った。この坂を下って道なりに進むと九番札所の法輪寺に至る。直線距離にして4.1キロほどだ。

 お遍路さんの前方右手に見える大きな屋根を有する建物が、熊谷寺の仁王門である。

◎十番札所・切幡寺

中門

 撫養街道沿いにある札所の中ではこの寺がもっとも趣きがある(個人の感想です)。

 初めて出掛けた時は、県道139号線沿いにある駐車場に車をとめ、参道をえっちらほっちら上り、仁王門を通過してさらに坂道を上がり、なんとか写真の中門までたどりついた。駐車場の標高は62m、中門は102mなので比高は40mしかないが、坂道を歩き慣れていない怠け者にはここでほぼ体力を使い果たしてしまうのだ。

 ところが、だ。中門の近くにも駐車場があることを知って以来、この寺を訪ねるときはもはや県道沿いの駐車場は使わず、直接、中門までやってきてしまうことになった。

 参道には白衣、金剛杖、納経帳などいわゆる遍路用品を扱う店が何軒かあり、どこかの寺で知り合った歩き遍路常習者の若者の話では、ここの用品がもっとも良質かつ安価であるということを聞いた覚えがあった。もっとも、私の場合は「お遍路さん」ではなくただの徘徊者であるため、遍路用品は不要なので、彼のアドバイスだけはありがたく頂戴し、私の身の回りに居る遍路希望者にその旨を伝えるだけであった。

本堂までの階段はややきつめ

 中門から本堂への道程は”楽"かといえば決してそんなことはなく、本堂までは333段の階段が待ち受けている。それも写真のように案外、急な場所もあるため、手抜き観光者といえども少しは体力と気力とを振り絞る必要がある。

女やくよけ坂

 写真にあるような「女やくよけ坂」「男やくよけ坂」を上がると、やっと本堂に達する。中門と本堂との比高は54mだ。

本堂

 切幡寺の名は、以下のような話が由来になっている。

 ここには機を織る乙女がいた。大師は結願の七日目、ほころびた僧衣を繕うための布切れを求めたところ、、その乙女は織りかけていた布を切って大師に差し出した。

大師堂

 そこで大師は千手観音像を彫像し、乙女を得度させて灌頂を授けた。すると乙女はたちまちのうちに即身成仏し、身体からは七色の光を放ち、千手観音菩薩に変身した。 

はたきり観音

 こうした言い伝えからこの寺は「切幡寺」と呼ばれるようになり、大師堂の裏手には、写真のような「はたきり観音像」が建てられている。

大塔

 切幡寺では、写真にある大塔もよく知られている。そこからの眺めは素晴らしいものがあるが、すでに疲れ切ってしまっていた私は、今回はその眺めに触れることをパスした。私には生まれた時から信心はまるでないが、もはや体力もなくなりつつある。

◎国の天然記念物~吉野川からの授かりもの

かなり見応えがある土柱

 本日の最終目的地は「脇町」だが、その途中にある「阿波の土柱(どちゅう)」に立ち寄った。切幡寺から県道246号線を西に進むと、徳島自動車道の阿波PAの上に出る。その北側にあるのが国の天然記念物に指定されている「阿波の土柱」だ。

 これは「世界三大土柱」のひとつ(残りはチロルの土柱、ロッキーの土柱)とされてている。ロッキーの土柱に較べると規模は圧倒的に小さいが、それでも「世界の~」という言葉を抜きにすれば、十分に見応えのあるものだ。

休憩所の裏手の崖にも

 この辺りの地質は、吉野川が生み出した砂礫の堆積層で、それが120万年前頃に隆起したのちに浸食作用を繰り返してできたものだ。一帯は公園として整備され、土柱内に入ることは禁じられているが、上部に登って上から見下ろすことも出来るそうだ。

 写真は天然記念物の場所からは少し離れたところにある休憩所兼駐車場の裏手にある崖だが、よく見ると、ここにも土柱らしきものがある。

こちらにも土柱はあるが

 より近づくと、たしかに規模は小さいながら、件の土柱と成り立ちはほぼ同じである。こちらももう少し隆起してくれさえすれば、もう少し崩れてくれさえすれば、ロッキーには及ばないものの、もっと壮大な土柱が展開されていたかも知れない。残念なことである。

◎うだつの町並み~脇町を訪ねる

うだつの町・脇町

 江戸中期から昭和初期にかけて建築された85軒の商家が、その豪勢ぶりを競うように豪華な「うだつ」を設けた家々が立ち並んでいることから、脇町(美馬市脇町)は”うだつの町並み”として全国的に知られている。

 うだつがまったく上がらない私にはそうしたものにお金をかける甲斐性はまったくないが、藍や繭の集散地として繁盛した商家にとっては”成功の証”として「うだつを上げた」のだろう。

立派な”うだつ”

 「うだつ」は本来、屋根の軒木を支える柱の役割のために存在するものだが、付随して類焼を撒逃れるための防火壁の役目も果たしている。そうしたものに贅を尽くすことは金持ちの証にもなるために、こぞって立派なうだつを立ち上げたのだ。 

鬼瓦にもこだわりが

 そればかりか、うだつの上がった家々は「鬼瓦」にも金に糸目をつけずに競い合っている。

脇町は藍の集積地

 脇町の北には讃岐山脈が、南には吉野川、そして四国山地が迫って来ており、また、讃岐平野にも比較的行きやすい場所に存在するため、商業の拠点として格好の立地条件があった。かつては舟運が荷物の運搬の主力であったため、この辺りに来ると流れが緩やかになる吉野川は行き来にはとても利便性が高かったのだろう。

懐かしさあふれる”脇町劇場”

 脇町にはうだつの町並みだけでなく、写真の脇町劇場『オデオン座』がある。1934年に芝居小屋(脇町劇場)として建てられ、その後は映画館に利用された。1995年に廃業・取り壊しが決定されていされたが、たまたま山田洋次監督の目に留まり『虹をつかむ男』という作品の舞台(オデオン座)として利用されたため存続されることになった。現在では映画館、芝居小屋としてだけでなく、住民たちの芸能文化の発表の場としても利用されているとのことだ。

夕間暮れをむかえる吉野川

 この日は美馬市に宿を取っていたので、脇町見物のあとは吉野川左岸をのんびりと散策した。「道の駅・藍ランドうだつ』のすぐ近くには、写真のような沈下橋(脇町橋)があった。脇町と穴吹町(どちらも美馬市)とを結ぶ橋だけに比較的、交通量は多かった。

 河川敷から沈下橋を眺めながら、次の日の旅程を思い描いた。陽は傾き、水面や橋、山や空、そして通過する車を染め始めたので、私は思考を止め、ただ刻々と変わりゆく光が織りなす芸術に目を奪われた。