徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔82〕よれよれ西国旅(3)少しだけ逆打ち~そして屋島、高松港まで

金刀比羅宮に通じる高松琴平電鉄ことでん

大窪寺(八十八番札所)から車で逆打ち

大窪寺の山門

 徳島県美馬市の宿を出発。この日は香川県高松市に宿をとっていた。

 国道193号線を北上して讃岐山脈に入り、徳島と香川の県境を越えたところで国道377号線に移って東進し、八十八番札所の『大窪寺』を目指した。この日は「遍路ウォーク」なる体験会があるようで、多くの老若男女が大窪寺を目指して歩いていた。また休日だったこともあり、紅葉真っ盛りな山々に触れるためか車の数も多かった。

 大窪寺の山門に近い駐車場は満車で、もっとも離れた場所に何とか駐車できたほどの混雑ぶりだった。

 この日は大窪寺が最初の目的地で、その後は八十七番から八十四番まで順に訪ねる予定でいた。奇しくも「逆打ち(さかうち)」となった。霊場巡りはどこからスタートしても構わないのだが、すべての霊場を制覇したい(歩きでも自転車でも自家用車でもレンタカーでもタクシーでも)と考えている人は一番から始めて、写真の八十八番で結願するという進み方が大半だ。これを順打ちという。

休日なので参拝者と観光客で混雑

 一方、八十八番から始めて一番で結願する(これを逆打ちという)と考える人もいて、この方が順打ちよりも三倍ご利益があるという説もあるらしい。これは、弘法大師は今でも順打ちで霊場巡りをしているので、どこかで大師に出会っているからだ、というのがその理由だそうだ。また、うるう年には逆打ちが流行るらしい。

 いずれにせよ、ご利益を期待してお遍路をするというのはどことなく道徳的(カント的意味で)ではないような気がする。もっとも私の場合、参拝行為は一切しないので、順打ちでも逆打ちでも出たとこ勝負でも何でも良い。信仰心はまったく持ち合わせていないからだ。ただし、弘法大師には是非とも出会いたいと思うが……。

仏閣よりも背後の山に目を奪われる

 大窪寺の境内は標高450m付近にある。ここでは結願した巡礼者がすり減った金剛杖を奉納する場所があるのだが、この日は大混雑状態だったので境内見物は早めに切り上げてしまったため、その様子を見ることはしなかった。

 その代わり、本堂の背後にある高い石山(標高690m)をしっかり目にすることだけはいつもの通り、忘れずにおこなった。

色彩豊かな庭園

 大窪寺はよく整備された庭園も人気があり、この時期は紅葉と黄葉の対比が誠に見事だ。

紅葉狩りで大賑わい

 紅葉の見物場所は大賑わいだった。こうしたところは本来、私はできるだけ避けるのだが、逆光に映える木々があまりにも素敵だったため、少しだけ足を止めて撮影をおこなった。

長尾寺(八十七番)と志度寺(八十六番)

長尾寺の山門

 八十七番札所の長尾寺は標高36mの位置にある。大窪寺との距離は15.6キロ。逆打ちの場合は下りではあるが、順打ちの場合は比高414mの上りであり、かつ、距離は相当に長い。

 10数年前だったか、長尾寺からさほど遠くない場所(県道3号)で、70才代と思える御婆さん遍路とすれ違った。私は車で大窪寺から長尾寺に向かい、その方はこれから大窪寺に向かうはずだと思えた。午後2時過ぎのことだ。おそらく、一般の人の足でもそこからはあと4時間は掛かるはずだ。陽の長い時期だったが、山は暗くなるのが早い。そんな苦労を背負いながらひたすら結願所に向かうその姿に接したとき、私は路肩に車をとめ、まだ緩い坂道ではあったものの、しっかりした足取りで進んでいく後ろ姿にしばらくの間、見入ってしまった。その生き様に何とも表現できない感動を覚えたという記憶が、いまでも鮮明に残っている。

本堂

 大窪寺の喧騒が嘘のように、長尾寺の境内は静まり返っていた。

大師堂

 大師堂の前には一人だけお遍路さんの姿があった。その身軽そうな様子から、その人物は車で移動しているのだろうと思えた。だからといって、安直な遍路旅であるとは決して思えず、それぞれの人が、それぞれの困難を背負いながらそれぞれの道を進んで行く。どんな旅をするのかではなく、旅をすること自体に価値がある。

やや狭い長尾寺の境内

 写真のように長尾寺の境内はやや狭め。ここに参拝に来る人にとっては広かろうが狭かろうが信心には変わりないのだろうが、私のような不信心者にとってはあまり興趣が沸かないので、早めにこの寺を離れた。

志度寺の山門

 八十六番札所の志度寺志度港のすぐ近くにある。境内の標高は1.6mしかない。海岸沿いにある駐車スペースに車をとめて、山門へと向かった。

 参道のすぐ脇には行基が開いたと言い伝えのある円通寺がある。こちらは「さぬき三十三観音霊場」の三番にあたる。志度寺塔頭寺院なので同じ敷地にあって何の問題はない。

仁王像と大わらじ

 円通寺の境内が綺麗に整っているのに対し、志度寺は何となく雑然とした感じがある。山門の仁王像も相当にくたびれた様子だ。

本堂

 緑が多いと言えば聞こえは良いが、実際にはあまり手入れの行き届いていない境内を進むと、写真にある本堂が見えた。

般若心経を心底から唱える人々

 先の長尾寺に較べるとお遍路さんの数は多いようで、大半の人は仕来り通りに般若心経を唱えていた。

大師堂

 隣の大師堂の前には観光客らしき姿もあった。南側には薬師堂などの施設もあるが、とくに立ち寄らなかった。

うらぶれた鐘楼

 鐘楼はかなり見すぼらしい様子で、ほとんど使用されていないかのようだった。この寺には特筆すべきものは見当たらなかったので、早々に寺を離れ、次の八栗寺に向かった。

八栗寺(八十五番札所)と五剣山

八栗寺行きのケーブルカー

 屋島の東側にあって、四国最北端の竹居岬を有する庵治(あじ)半島の付け根付近の高台にあるのが八十五番霊場八栗寺だ。本堂のある場所の標高は221mなので歩いて上れないことはないが、大半の人は写真のケーブルカーを利用する。登山口駅は標高72mのところにあり、山上駅は230mである。 

寺社だけど鳥居あり

 ケーブルカーはひたすら山上を目指すだけで、とくに景観の良い場所はない。上りの時の左手にはときおり、歩き遍路の人の姿が見える。

 山上駅は本堂のやや南側にあるので、そこを目指す場合は舗装された緩い下り坂を進むことになる。写真のように、寺社でありながら鳥居を有する。これは神仏習合の影響であろうが、そんなことを気に掛ける人はほとんどいないようだ。

真新しい多宝塔

 鳥居の次に目に入るのは真新しい「多宝塔」だ。ここは十分に「絵」になるため、観光目的の人にはとくに人気がある。

八栗寺の天津甘栗

 次に目に入ってきたのは「天津甘栗」の露店。参道に堂々と店を構えることができるので八栗寺公認の店であろう。こちらは日中友好の証なのかもしれない。

聖天堂(歓喜天堂)

 ケーブルカーからの参道の突き当りにあるのが写真の「聖天堂」(歓喜天を祀ってあるので歓喜天堂とも言われる)。

本堂と五剣山

 聖天堂の右手にあるのが本堂である。背後に見えるのが独特の山容をもつ「五剣山」で、信仰心のない私がこの八栗寺を好むのは、唯々、この山がお寺の後ろに聳えているからだ。

 あとから何度も出てくるが、五剣山はその名の通り、五つのピークを有し、向かって左から「一ノ剣」「二ノ剣」……となる。四ノ剣がもっとも高く標高は375mだが、一ノ剣がこの山を代表していることから、五剣山の標高は366mと記される場合もある。また、五ノ剣は1707年の安永地震で崩落してしまった。

 空海は唐に出掛ける前にこの山に八つの焼き栗を植えて求法の成否を占った。唐から帰ると芽が出るはずのない焼き栗が皆芽吹いてことから、この寺を八栗寺(それまでは八国寺)としたという。

大師堂

 五剣山のことを八栗山と呼ぶこともあるそうだ。それだけ、この寺と五剣山との結び付きは深い。

納経所

 聖天堂の隣には、写真の「納経所」がある。お遍路さんは皆、納経帳を持参して、この場所でお参りをした証として記帳してもらうのだ。団体ツアーの場合は、ガイドさんが納経帳を集め、まとめてここに持参し、客が参拝している間に記帳を済ませておく。そうすることで時間の節約ができ、それだけ多くの寺を巡れるからだ。

こちらが山門

 本堂の南西側に写真の山門が見えたので見物に行った。この山門が八栗寺の正面入り口になる。大半の人はケーブルカー利用なのでこの山門の存在には気づきもしないが、歩き遍路にとってはここからが境内の始まりとなる。

 冬至の日に本堂から山門方向を眺めると、丁度、この山門のある場所に陽が落ちるとのことだ。空海はそのように図面を書いたのだろう。

山門前に展開される景観

 山門から本堂方向を眺めると、五剣山の姿がよく見える。今では「四剣山」になってしまったが。四つ並んだ団子状の山の一番右手のピークが375mの「四ノ剣」である。

ミニ八十八か所巡りができる。

 境内には、八十八か所霊場すべての名を刻んだ仏像が並べてある。こうしたミニ巡礼場はいくつかの寺に設置されている。忙しい人にはとても便利だ。もっとも、それでご利益があるかどうかは別だが。ご利益などまったく気にしない私は、のんびりとミニ巡礼をおこなった。他に人影はまったくなかった。

ケーブルカーから下りて来た御一同さま

 山上駅に戻った。丁度、ケーブルカーが到着したところで、写真のようにお遍路さんの団体が本堂方向へ歩を進めていた。この場所からは崩壊してしまった「五ノ剣」の姿が見て取れる。こうして眺めると、確かにそこにも「お結び型」の山があったように見える。

 五剣山の頂上付近の岩質は安山岩質凝灰角礫岩である。安山岩だけでできていれば崩落は免れただろうが、角礫岩では風化に弱いので、それも致し方ないことであろう。

駅舎横から屋島を望む

 ケーブルカーが発車する前に、次の目的地である「屋島」を眺めた。天辺が非常に硬い岩質でできているため風化に強く、差別侵食のためにテーブル状になって残っている。これを「メサ(卓状台地)」と言う。

屋島屋島寺(八十四番札所)

屋島を南側から望む

 ハ栗寺を離れ、次の目的地である屋島に向かった。八栗寺のある庵治(あじ)半島と屋島とは、狭い海峡を挟んだお隣同士にある。

 一旦、国道11号線に出てから少しだけ西に進み、高松交差点を右折すると、やがて屋島の天辺に向かう「屋島スカイウェイ」に出る。写真は、そのスカイウェイの手前で「ことでん志度線」の通過待ちをしているところである。

 ここからは屋島の南端がよく見える。屋島は南北に長く東西に細いため、この位置からは「メサ」というより一層浸食が進んで孤立丘となった「ビュート」にも見える。

観光客用?の山門(東大門)

 屋島寺屋久島から奈良に向かう途中の鑑真によって開基された。そのときは北嶺に普賢堂が建立された。815年には嵯峨天皇の勅願を受けた空海が、北嶺にあった伽藍を南嶺(つまり現在の地)に遷し、千手観音像を本尊とした。現在の本尊は10世紀に造られた十一面千手観音座像である。

 屋島寺のある屋島の天辺には大半の人は車で上がってくるので、屋島寺へは写真の朱塗りの門(東大門)から入る。一方、歩き遍路の人は仁王門、四天門を経て本堂に至る。

境内は相当に広い

 東大門は本来の正面口ではないため、本堂よりも先に大師堂に行き着く。境内はかなり広いので、大師堂に達する前にも鐘楼、千躰堂、三躰堂、一願不動尊にも出会う。

大師堂

 この日は人が多くても大半は観光客の姿だったので、大師堂で般若心経を唱える人の姿はなかった。駐車場は満車で、駐車できるまでには30分以上、屋島スカイウェイ上で待たされた。もっとも、帰るときには私が待たされた行列の2倍以上の長さができていたので、駐車するまでにはおそらく1時間以上は待たされるのではないか。それも修行である。

蓑山大明神の鳥居

 本堂の右隣にある「蓑山打大明神」の前には2体のタヌキ像がある。このうち、左のタヌキが「屋島太三郎狸」で日本三名狸の選ばれている。

 平重盛に助けられ、平家の守護を誓った狸の子孫が太三郎狸で、屋島に凶事が起きそうなときはいち早く寺の住職に知らせたということから、いつしか屋島の守護神になったとされる。

 スタジオジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』の太三郎禿狸は、この太三郎狸がモデルになっているそうだ。

本堂

 この本堂は1618年に再建され、元は桃山時代のものと考えられてきたが、1957年の解体修理の際、鎌倉時代のものと思われる古材や建築手法が見つかったことから、鎌倉様式を取り入れて再建された。

 それにしても、参拝客は少ない。その理由は明瞭で、ここを訪れる大半の人は境内の西にある「新屋島水族館」を目指すのだ。そこへは東大門から参道を歩く必要があるため、駐車場は満車になるのだ。

四天門

 本堂の南側に四天門がある。「増長天」「持国天」「多聞天」「広目天」の四天が前後に置かれているところから四天門と呼ばれている。仁王門はこのさらに南側にある。歩き遍路では仁王門、四天門を経て本堂に至る。この筋道がお遍路さんの本来のものである。

一願不動尊

 一心に願えば、一つだけ願いを叶えてくれるらしい。私がもし一つだけ願うとすれば、次のひとつである。「あの日にかえりたい」。

屋島の中腹から五剣山を望む

 屋島スカイウェイには島の中腹から庵治半島を眺められる駐車スペースがある。

 向かいの半島との間にある狭い海峡が、源平の戦いのなかでも重要な役割を果たした「屋島の戦い」(1185年)の戦場となった。

 現在、屋島は讃岐平野と陸続きになっているが、当時はその名の通り島であった。しかし、干潮時には浅瀬が生まれるために騎馬で島に乗り込むことができた。平家側が3000騎(諸説あり)だったのに対し義経側は僅か150騎であったのものの、奇襲によって義経側が勝利を得た。その結果、源氏が瀬戸内海の制海権を得たことで、源平の戦いの帰趨は決した。

 この戦いの逸話としては那須与一の『扇の的』がよく知られているが、それが史実であるとするなら、やはりそのエピソードはこの海峡で展開されたのであろう。

周回道路から五剣山を眺める

 屋島には海岸に沿って走れる周回道路があるので、庵治半島向きから左回りで進んでみた。ひとつ上の写真同様、やはり目に付くのは五剣山の特徴的な姿である。また、その左手(北側)の山肌は大きく削られているが、そこでは良質な花崗岩が産出されるからである。

 ここで採掘される「庵治石」は日本で最高品質の花崗閃緑岩と言われ、日本三大石材加工産地のひとつ(あとに二つは茨城県真壁、愛知県岡崎。どちらも御影石)に数えられている。

 一億から6500万年前に海底火山から溶岩が噴出して花崗岩が堆積し、それが2000万年前に隆起して地表に現れたものである。ここの花崗岩はとくにきめが細かく、石材としてはもっとも良質とされ、六本木ヒルズ首相官邸などにも用いられている。また、大金持ちの墓石としても使用されている。

 今回は時間の関係で、庵治半島を訪れることはできなかったが、いずれ機会があれば必ずその採掘現場を訪れ、また庵治漁港へも出掛け「世界の中心で、愛をさけぶ」というバカげた行為もしてみたい。

屋島の北端部の眺め

 屋島の北西部に浦生漁港があり、そこには西に大きく突き出た堤防があるので、その場所から屋島の北端部(長崎の鼻)を眺めてみた。

女木島方向を眺める

 一方、西に目を転じると「女木島(めぎじま)」が目に入ってくる。この女木島は日本に数多くある「鬼ヶ島」のひとつとされ、島の中央部には「鬼ヶ島大洞窟」がある。

◎初めて「ことでん」に乗る

初めて「ことでん」に乗る

 「ことでん」は愛称で、正式には「高松琴平電気鉄道」という。かつては「琴電」と略されていたが、現在は「ことでん」を用いている。ただし、駅名などには「琴電」が未だに用いられている。

 讃岐地方に行けば「ことでん」の名前には当たり前のように目にし、実際には何度も乗ってみようと思っていたのだが、結局、車での移動の方が楽なので利用したことは一度もなかった。が、今回は「ことでん」のターミナル駅である「瓦町駅」のすぐ近くに宿を取ったので、短い区間ではあるが高松城跡や高松港の最寄り駅である「高松築港駅」までを往復乗車した。

高松港方向に出掛ける

 瓦町駅は「コトデン瓦町ビル」の2階に改札口があり、ホームは1階にある。10階建ての駅ビルを見るかぎり、とてもローカル線の駅とは思えないほど立派である。おまけに私の所有しているICカードの「パスモ」も使用できた。

 写真の車両は、本来は青の部分は白色なのだが、ウクライナを支援する思いを込めて青色に染めたらしい。 

終点の高松築港駅

 写真の高松築港駅まではわずか1.7キロ。二駅の短い乗車ではあったが、色々なカラーに染められた電車に出会えたので満足度はかなり高かった。

いろんなカラーの電車がある

 写真の車両は通常色である白と黄色に近いのだが、何故か「蜂」をモチーフにしている。これは地元企業が開発したアプリ「veBee」の宣伝を兼ねたタイアップ活動の一環としてカラーリングされたものであるらしい。

玉藻公園(旧高松城)を散策

高松城跡は「玉藻公園」として整備

 万葉集讃岐国の枕詞として「玉藻よし」が用いられたことから、高松城跡は「玉藻公園」の名で公開されている。この城の敷地は北側が海に面している「海城」で、水軍が直接、瀬戸内海に出陣できるように設計された。

公園の出入口(西門)

 ことでん高松築港駅のすぐ隣に写真の西門があり、入場料200円を払えば城内(園内)を見学できる。

月見櫓は修復中

 高松城でもっともよく知られているのは写真の「月見櫓」であり、一般公開されることもあるが、このときは改修中だったために内部をのぞくことはできなかった。

天守閣などは石垣のみ残る

 いくつかの櫓(やぐら)は残っているが天守閣は老朽化が進んだためにすべて廃棄され、現在は石垣のみが残っている。

 写真の右手にある「鞘橋(さやばし)」は二の丸と本丸とをつなぐ唯一の橋で、ここを通って本丸跡に行くことできる。その本丸跡は展望台となっており、周囲を見渡すことができる。

堀には魚の大群が

 本丸の周囲には堀が巡らされている。この堀の水は完全に海水なので、この中を泳ぐ魚はすべて海水魚である。

 写の右手に魚の群れが見えるが、これらはマダイとクロダイだった。

餌を待つ魚たち

 西門のすぐ近くには水門(次の写真)があり、その横に餌やり場がある。自販機でガチャガチャに入った餌を購入し、写真にある竹筒の中に餌を落とし込むとその先端部から餌が水面に落ち、それをマダイやクロダイたちが食べるという仕掛けである。

 園内にはもう一か所、餌やり場があるが、「鯛の健康とお堀の水質保全のために、専用のエサ(ガチャガチャで販売)以外は与えないでください」という注意書きがある。

 なお、ガチャガチャはくじ付きで、当たれば「天守閣ピンバッチ」「鯛ステッカー」がもらえることになっている。こうした餌の販売と景品で観光客を釣るのは、この資金を元に天守閣を復元しようという願いが込められているからだそうで、これを「鯛願成就」というらしい。

 餌に群がる鯛を見る限り、マダイが3割、クロダイが7割といったところだった。もっとも、マダイはよく日焼けしているために体色は赤くなくて黒に近い。もちろん釣り人である私には簡単に見分けはつく。

お堀の水はこの水路から出入りする

 上述したようにお堀の水はすべて海水で、写真の水門から取り入れられている。もっとも、このときは干潮時であったために、お堀の水は海に向かって流れ出していた。

園内から高松築港駅を望む

 天守台に向かうために鞘橋を渡った。屋根付きの橋で、それが刀の鞘のように見える所からそのように名付けられたそうだ。

 この鞘橋の下にもタイが集まっていた。おそらく、橋の上からパン屑などを投げ入れる不届き者がいるためだろう。

 橋の上からは高松築港駅のホームがよく見え、先に紹介した「veBee」カラーにラッピングされた車両がとまっていた。

天守台跡から艮(うしとら)櫓を望む

 天守台の上はかなり人出が多く、とりわけ北側(瀬戸内海側)は大混雑していた。そのため、「フィジカルディスタンシング」(もはや死語か)を保持するために先端部は諦め、写真のように艮櫓方向を眺めた。

有名な水手御門

 二の丸から天守台を結ぶ橋は鞘橋ひとつしかない。したがって守りにはとても強い。その反面、長い籠城は困難だ。しかし、堀は海に繋がっている(いた)ために、いざとなれば船に乗って瀬戸内海に脱出できるのだ。

 そんな仕組みのひとつが写真の「水手御門」で、このときは干潮なので外堀は干上がっているが、潮が満ちたときはこの門の前に船が着けられるため、容易に瀬戸内海に出ることができる。

 城主はここから小舟に乗って沖に停泊している大船に乗る。その舟がこの門の前に着いたかどうかを見るために「着き見」転じて月見櫓と名付けられたらしい。

高松港を散策

高松港から女木島を望む

 夕間暮れ時を迎えつつあった高松港を少しだけ散策した。眼前に見えるのが先に紹介した女木島で、その先にあるのが男木島だ。私は前者には行ったことはないが、男木島には行ったことがある。ただし、その島の岸壁でクロダイ釣りをしただけなので、島の中を歩いたことはない。さらに言えば、対岸の岡山県玉野市の漁港から渡船で渡ったので、正式に言えば、男木島の岸壁だけ行ったことがある、ということなのだ。

瀬戸内海を渡るフェリー

 国際両備フェリーの第一こくさい丸(パンダ号)が出航した。船かこれから小豆島の池田港に向かうのだ。

女木島や男木島行きのフェリー

 港内には「めおん2」が停泊していた。「女木」の下には(鬼ヶ島)とある。それゆえ、これから桃太郎を乗せて鬼退治に出掛けるのかもしれない。もっとも、本当の鬼は女木島にはおらず、東京の永田町や霞が関界隈に無数居る。

◎瓦町に戻る

この電車で瓦町に戻る

 大分暗くなってきたので、瓦町に戻ることにした。入線してきたのはウクライナカラーではなく通常のカラーの車両だった。

 色は別にして、車両の形にはなんとなく見覚えがあった。そうだ。かつて京浜急行で用いられていた車両なのだ。赤に白線ではないけれど。

堀と鞘橋と石垣と月と

 発車までには数分の時間があったので、玉藻公園を覗いてみた。堀とそれに架かる鞘橋が見えた。明るい時分にはあの鞘橋からホームを覗いたのだった。その上方には天守台の石垣があり、さらにその上には月が輝いていた。

 明日も天気には恵まれそうだ。そしてどんな出会いがあるか、興味津々である。