◎広大な敷地を有する栗林公園を訪ねて
栗林(りつりん)公園(国の特別名勝に指定)にはずっと以前に一度だけ訪れたことがあったが、そのときはほとんど時間がなかったためにほんの少しだけ中を覗いただけだった。そこで、今回は朝一番(といっても10時頃だが)に出掛け、少しだけ時間を掛けて園内を散策した。
何しろ敷地は16.2haもあり、借景にしている背後の紫雲山を含めると75haというとてつもない広さを有するため、一度に全部はとても周ることはできないので、南庭の外周部だけを歩いてみた。
車を国道11号線沿いのパーキングにとめたので、2つある門のうち写真の東門から入場した。入園料は410円だった。
明治32年に「香川県博物館」として建設されたこの建物は本館、西館、東館、北館ならなるかなり大きめのもので、現在は栗林公園に関する情報発信や伝統工芸品の展示などがおこなわれている。
私が興味を抱いたのは写真の大きなヒマラヤ杉。樹齢は120余年と樹木としてはそれほど年輪を重ねていないが、かなりの巨木であることは確かだ。
栗林公園は16世紀後半、地元の豪族が小さな庭園を造ったことが起源になっている。その後、この地を治めた生駒家の家臣である西嶋八兵衛が香東川の治水工事を行った。それまでは川は紫雲山を挟んで東西に流れていたが、東側を堰き止めて現在ある香東川となった。この結果、東側の地(つまり栗林公園のある側)は開拓が容易となり、本格的な庭園を造営できる下地となった。
1642年、高松藩の初代藩主である松平頼重が本格的な庭園づくりを始めた。頼重はここを隠居所と定めたことによる。その後の藩主もこの庭園の充実に努め、1745年、5代の頼恭(よりたか)のときに完成した。
園内には6つの池と13の築山がある。6つの池はすべてがつながっていて、その水源は吹上亭の裏あたりにある。かつて堰き止められた香東川の東側の流れが伏流水となって吹上付近で湧出しているため、この豊富な水を池の源にしているのだ。
なお、「栗林」の語源は諸説あってはっきりとは分からないそうだ。
西湖と名付けられた池の西側には「赤壁」と命名された石壁がある。蘇軾の『赤壁賦』が由来だと考えらえるが、実際、この石壁は少しだけ赤みを帯びている。
この壁がある紫雲山は讃岐岩質安山岩でできている。マグマの貫入の痕跡が地表に残っているという点では、以前に紹介した「古座川の一枚岩」と成り立ちは同じである。
こちらの石壁が赤いのは鉄分の多い溶岩の高温酸化によるものであろう。また、一部には柱状節理も見て取ることができる。
西湖から南湖に移動した。岸辺から楓嶼(ふうしょ)と掬月亭(きくげつてい)を望んだ。掬月亭は大茶室とも言われ、数寄屋風書院造の建物で、歴代の大名がもっとも好んだ場所とされている。
茶室が池にせり出し目の前に水面が見える。この造りから、「掬水月在手」という唐詩にヒントを得て掬水亭と名付けられたとされている。ここで大名は茶会や舞を堪能したらしい。
入亭料は煎茶とお菓子付きで500円、抹茶とお菓子付きで700円とのこと。
南湖には和船が就航しており、南湖に浮かぶ3つの島を辿り、さらに掬水亭を船の上から眺められる。乗船料は620円とのこと。
写真の船の左手にあるのが天女嶋。船頭の解説付きで、つかの間の船旅が楽しめるようだ。
写真は、栗林公園の中ではもっとも眺めの良い場所と言われている「飛来峰」からの望んだものである。南湖に架かる手前の橋は「偃月橋(えんげつきょう)」で、園内に20ある橋の中ではもっとも大きい。なお、飛来峰は富士山を模して造営されたとのこと。
栗林公園は広大な広さを有するので歩くのが大変だが、難読漢字が多いので読むにも難儀する。
写真は「芙蓉峰(ふようほう)」から北湖を眺めたもの。こちらは島の中にある木々の姿が特徴的だ。
栗林公園は「一歩一景」と称されるほど見る角度によって景観が変化するが、個人的には「石」の数が少し足りないこともあり、その点にやや不足感を抱いた。讃岐は石の国なのに……。
◎根香寺(ねごろじ)・八十二番札所
栗林公園を離れて西に進み「五色台」へと向かった。東西8キロ、南北10キロに広がる山塊で、1500万~1300万年前に形成された。花崗岩を基盤として、最上位に讃岐岩質安山岩、讃岐石が重なる卓状台地(メサ)である。五色台の名は陰陽五行説に由来するとされており、青峯、黒峯、白峯、赤峯、黄峯とされる場所がある。
瀬戸内海の景観が見事だと言われる場所だが、いろいろと回ってみたものの、特筆すべきものは見当たらなかった。それにより探索は打ち切り、予定していた目的地の五色台の南域にある2つの霊場を訪ねてみた。
写真は八十二番札所の根香寺(ねごろじ)の山門で、この門の周囲に駐車場があった。
写真のように大師堂までの階段はかなり急で、前を歩いていた老夫婦は金剛杖をつきながらおっかなびっくり上っていった。
根香寺は空海が修行の場のひとつとして開拓したが、円珍が千手観音像を彫って「千住院」を建てて安置した。その像は香木を彫ったものだったために良い香りを放った。そのことから「根香寺」と名付けられた。当初は真言宗の寺だったが、17世紀半ば、初代高松藩主の松平頼重(高松城や栗林寺の項でも登場)が天台宗に改宗した。
それゆえ、この寺は弘法(空海)、智証(円珍)の両大師が開基したということができる。
大師堂から本堂までは、写真のようにやはり急な階段を上ることになる。山門の標高は341m、本堂は357mで比高はたかだか16mだが、階段が急なので少々、閉口した。
本堂は青峯の中腹にあり、とても物静かな感じのする気持ちの良いお寺である。もちろん、参拝はしないのだけれど。
◎白峯寺(しろみねじ)・八十一番札所
根香寺を出て「鴨川五色台線」(県道180号線)を西に道なりに進むと白峯寺に近づく。県道からは取り付け道路が整備されているので、山門近くまで車で行ける。
山門の標高は267mだが、330mから380mほどの山々が境内を取り囲んでいる。
山門から一直線の参道を進むと突き当りに写真の「護摩堂」がある。後述するが、本堂や大師堂は相当に急な階段を上ったところにあるため足腰の弱い人(私もそのひとり)はやや難儀する。
そういった人でもきちんと参拝できるようにと、この護摩堂の中に御本尊が分祀され、大師も祀られているそうだ。
護摩堂前の参道を左に折れて少し進むと、崇徳院を祀った頓証寺殿とその入り口に当たる勅額門がある。その場所には帰りに立ち寄るので、まずは参道を右に曲がって写真のような急な階段を上っていく。階段下の標高は267m、本堂前は284mなので比高は17mではあるものの、かなり急な階段なので、先の根香寺と同様にかなりくたびれる。
それゆえ、階段が始まる直前に写真の但し書きがあり、急な階段はとても無理だろうと思った場合は護摩堂で願いを達成することができる(と思う)。
私の場合は例によって参拝はしないが参詣はするので、いささか閉口しながらもゆっくりと階段を上がっていった。つくづく体力の低下を実感させられる。
それでも、階段の左右に写真の行者堂(もちろん役小角が祀られている)をはじめとして、薬師堂や阿弥陀堂などが建てられているため、一気に階段を上がっていく必要性は少なく、疲れを隠す(癒す)ためにそれらの場所を覗くのも一興ではある。もちろん、信心のある人はきちんとお参りをするのだろうが。
白峯寺の縁起は先の根香寺とほぼ同じで、まずは空海が峯に如意宝珠を埋めて聖地となし、のちに円珍が流木から千手観音像を彫って安置したというもの。それゆえ、円珍が開基したとも、空海、円珍(空海の甥)の両人が開基したとも言うことができる。
本堂の脇には、写真のような石造りの五重塔があった。色とりどりの小石で装飾してあるので、なかなか興味深く感じられた。背があまり高くないので、下段の屋根の上にはお賽銭が多く置かれていた。
本堂に隣接する大師堂では熱心に般若心経を唱える人がいた。
大師堂を正面から撮影するために立ち位置を変更すると、もう一人、若いお遍路さんが加わり、二人で唱和はせずに独自のペースで般若心経を唱えていた。
1156年の保元の乱は、摂関家の凋落と武家の台頭という、その後の社会の大転換を生んだ戦乱であったが、決着は僅か一日で着き、崇徳上皇側の大敗北に終わった。
かかる世に かげも変わらず すむ月を 見るわが身さえ 恨めしきかな
と詠んだ。
その後、”讃岐の松山”に配流された崇徳院(当時は讃岐の院、または讃岐の廃帝とよばれた)は、仏道に目覚め「五部大乗経」を写本してそれを京に送ったものの、後白河天皇は「呪いがかかっているのでは」と受け取りを拒否した。
その仕打ちを受けた讃岐の院は、舌をかみ切り、その血で国を呪うことを書き足した。「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし、民を皇となさん」と。そして大乗経を収めた箱を竜宮に納め給え、と血書して海へ流したところ、海上に火が燃え上がったという。
これが「崇徳院の祟り」の始まりで、平将門、菅原道真とならんで「日本三大怨霊」に数えられている。
もちろん、こうした話は後世の作り話にすぎないが、天皇や上皇の配流は400年前の淳仁天皇の淡路島配流以来のことというから、相当に厳しい仕置きであったことは事実であろう。
白峯寺のすぐ北側に「白峯陵」が整備された。西行は崇徳院崩御の四年後にこの地を訪れている。
『雨月物語』では院が、
松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな
よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせむ
と答えている。
西行は、もうすでに亡くなっているのだから仏道に専心して成仏してください、とそっけなく答えている。この一点だけでも西行の秀逸さが理解できよう。怨霊伝説などというバカ話は西行は全く意に介してはいないのである。
怨霊伝説が頂点に達したのは1177年。前年には白河院が崩御し、この年には「延暦寺の強訴」「安元の大火」「鹿ケ谷の陰謀」などが相次いだために、後白河院は讃岐の院に正一位太政大臣の位と「崇徳院」の号を贈った。
第百代の後小松天皇は「頓証寺」の御追号勅額を奉掲し尊崇の意を表した。上の2枚の写真にある建物は高松藩主の松平頼重が再建したものだ。
先に触れたように、これらの建物は「護摩堂」前から北北西に進んだすぐのところにある。そして、白峯陵は「頓証寺殿」の裏手にある。訪れる予定だったがド忘れした。
◎瀬戸大橋記念公園
今から20数年前~10年ほど前は瀬戸内海地方によく取材に出掛けていたので、写真の瀬戸大橋は実に身近な存在だったと言える。多いときには月に2度はこの橋を利用したので、通算では何十回になるのか見当もつかない。
それだけでなく、橋の下や橋のすぐ近くにある小さな島に渡り、橋を望みながらクロダイ釣りを何度も行った。そんな時には岡山県側にある下津井漁港から渡船に乗って各島へ渡る。橋の東側にある松島や室木島や鍋島、西にある本島や広島、そして橋下に存在する三つ子島で竿をだしたことは、今でもときどき思い出すことがある。
ただ橋を渡るだけのこともあった。四国での取材の帰り、倉敷市内見物をするために利用した。また、先に触れた下津井は歴史のある漁師町だったので、瀬戸大橋を児島ICで下りて下津井漁港周辺を散策した。古き良き時代の町並みが保存されていたからである。
写真にあるように、瀬戸大橋は道路と鉄道(JR四国・本四備讃線)とが併用されている橋なので、岡山側の鷲羽山近くの高台から列車が通る姿を撮影したことも何度かあった。そんなときにも、児島ICを利用した。
馴染みの深い瀬戸大橋だが、香川県側の坂出市では2度、ビジネスホテルを利用しただけで、とくに市街地を見物したことはなかった。もっとも坂出市全体というなら、五色台も、白峯寺も坂出に属し、また讃岐府中駅(JR高松線)や府中湖も坂出なので、「坂出」を意識せずに訪れていることは数多くあった。
さらに、瀬戸大橋の中央部には「与島PA」があり、少なくともここは7,8回は利用しているが、この与島も坂出市に属する。
こうしてみると、実は坂出の存在は案外、身近だったのだ。
今回訪れた「瀬戸大橋記念公園」は坂出市にあり、公園が公開されたのは橋が全線開通した1988年と同じである。ここにはこれまで一度も訪れたことはなく、今回、折角、坂出に立ち寄るのだからとこの場所を選択したのだ。”坂出”を意識して訪ねた初めての場所が記念公園だった。
公園は10.2haの広さがある。一番海に近い場所に車をとめたこともあり、さしあたり、瀬戸大橋を展望してみることにした。
正面に見える大きな島が与島で、PAの利用だけでなく島内を散策することもできる。島の人口は私がよく出かけた時分には200人以上だったはずだが、2015年には77人にまで減少している。
早ければ今年の11月頃に四国の西半分(今回は東半分だったので)へ出掛けるつもりなので、できれば今一度、与島を訪れてみたいと考えている。もっとも、その際には「しまなみ海道」を利用する可能性が高いので、その場合は立ち寄れないけれど。
なお、写真から分かるとおり、島の手前側と向こう側とは橋脚の形が異なるという点も、瀬戸大橋の面白さである。
記念公園の中には回転式展望タワーがあった。高さは108mで、ゆっくり回転しながら上昇して行き、108mの天辺では約2分、その位置で回転するらしい。
高いところが苦手な私は、この手の施設は利用したことがなかった。が、「どうせもうすぐ死ぬのだから」と意を決して利用することにした。料金は800円。
ゆっくりと回転しながら上がって(下がって)いくので、途中の高さからでも360度の景観が楽しめた。椅子に腰掛けたまま窓から外の景色を眺めるのだから、それほど恐怖感はなかった。
ほぼ真下を眺める勇気も出てきた。写真は、記念公園の広い園内を見下ろしたものである。子供広場では課外授業で大勢のガキどもが集まり、そして走り回っていたが、その姿もよく見えた。
多島海といえばエーゲ海がその語源になっているが、現在では多くの島を有する地域を呼ぶ一般名詞になっており、日本では瀬戸内海がその代表的存在だ。
上の写真では小瀬居島と大槌島の存在がはっきり分かるが、その向こうにも直島や豊島、小豆島があるはずだ。が、その背後にある本州の山陽地域と重なってしまっているために区別はつきづらい。
この記念公園自体も「番の州」と呼ばれていた浅瀬を埋め立てた場所にあるのだが、この埋立地の東側部分には多くの工場や石油備蓄基地、発電所などが建てられており、一大工業地帯を形成している。写真の左手に小高い場所が見えるが、そこはかつては「瀬居島」と呼ばれた島だったのだが、周囲が埋め立てられた結果、現在では陸続きになっている。
坂出市の内陸部方向も眺めてみた(というより、回転するので内陸側も目にすることができる)。坂出市街まで橋脚が続いているのがよく分かるが、その先に見える山々はいずれも共通した形状をしている。先に見た「大槌島」も同じ形をしている。
瀬戸大橋を岡山側から香川側に進み、四国に近づくと、何よりもまずこの山々の居住まいが目に付く。これはただ単に私だけの思いではなく、瀬戸大橋を利用したことがある何人もの知り合いも、異口同音にこの山々の姿かたちのことを話す。
なお、この山々の代表的存在である「飯野山」については後述する。
◎丸亀城
丸亀市は私にとっては通過点でしかなかった。丸亀城の存在だけは少し気になってはいたけれど。ただ実際には、瀬戸大橋の坂出北ICを下りたら71番札所の弥谷寺(いやだにじ、私のお気に入りの寺のひとつ)に向かうためにひたすら西に進むので、丸亀市には立ち寄ることなく通過する。または76番の金倉寺や75番の善通寺(後述)に向かうために南に進み、丸亀市はあっさりと通り抜けてしまうことが今までのすべてであった。
しかし、今回の旅はこれ以上、西に進む予定はなかったし、またこの日の宿泊地は琴平町だったために時間的余裕はあった。そこで、日本一高い石垣を有すると言われる丸亀城に初めて立ち寄ることにした。
写真は「大手二の門」をほぼ正面から見たもので、そのすぐ右手にあるのが「大手一の門」だ。城ではお定まりの「枡形虎口」になっている。
それにしても、天守は相当高い位置にあり、あそこまで上がるのかと思うと、大手門に入る前から疲労感を抱いてしまう。
この城は亀山(標高66m)を利用して造営されているため、「亀山城」の別名を有する。山の形が「亀」に似ているところから亀山と名付けられ、その山を元に造ったのだから「亀山城」と、じつに明快だ。さらに言えば、亀は大体丸い形をしているので、この地は「丸亀」と呼ばれるようになり、それゆえ、亀山城は丸亀城になったそうだ。記録にはそうあったが、実際のところは生駒氏に聞いて見なければよく分からない。
城は16世紀末に生駒親正を中心に造られ、4層構造をもつ平山城だが、大手門から天守までの高さが60mもあり、日本一高い石垣をもつ城としてよく知られている。
写真からも、天守まで長い道のりがあることが分かる。長く、そして急な坂が続くので、「見返り坂」と名付けられている。見返ると確かに「はるばるとよく上ってきたな」と自分を誉めてあげたくなるが、下から見上げたときは気持ちがどんどんと萎えてきて、途中退場も視野に入った。
石垣の隅角部は「算木積み」という手法が用いられ、写真では分かりづらいが、なかなか美しい曲線美を有している。見上げるだけだと立派さに恐れ入るが、天辺まで上がることを考えると、美しいという気持ちは半減(いやそれ以上)する。
三の丸には写真の「月見櫓」の跡があって、現在は展望台として利用されている。写真にある遠くの山並みは中国山地のものである。また、写真では分かりづらいが、右手には瀬戸大橋の姿もある。
月見櫓から丸亀市街地を中心に撮影してみた。このカットだと瀬戸大橋の存在がよく視認できる。
丸亀市といえば「讃岐うどん」の名店が多いことでよく知られているが、丸亀なんとかという全国展開している店は一軒もない。というより、讃岐全体でも一軒しかない。
飯野山(讃岐富士、標高422m)は四国の山としては「剣山」「石鎚山」「眉山」の次ぐらいに有名な山ではないか、と個人的には考えている。瀬戸大橋の項でも触れたが、この山の存在感は際立っており、山の姿に触れたときは「思えば四国に来たもんだ」という感慨を抱くほどに、その山容は特徴的である。
讃岐にはこの形をした山が多い(先に触れた大槌島も)が、その代表格がこの飯野山だ。山の岩質を見ると、下部が花崗岩で上部が安山岩(讃岐石)。これはすでに触れている屋島とほぼ同じ性質で、屋島よりさらに差別浸食が進むと飯野山のような形になる。
すでに触れたように、屋島のような形を"メサ"といい、それがさらに開析が進んで頂面が小さくなると"ビュート"という孤立丘になる。なお、ビュートとは「小さくなった丘」を意味する。
サピエンスがこの宇宙から消え去ったずっと先、屋島は飯野山のような形になり、飯野山は少し出っ張っただけの丘になっているだろうか。
讃岐には これをば富士と いいの山 朝げの煙 たたぬ日はなし
この歌は「西行作」とされているが出典は不明だ。西行ファンの私としては、これほどの駄作を西行が詠んだとはとても思えない。
60mの比高を一気に上った訳ではなく、あちこちを眺めながら進んだため、どうにかこうにか本丸にたどり着くことができた。写真の天守の高さは15m。現存する木造12天守の中では一番低いそうだ。なお、入城料は200円とのこと。
丸亀城を離れ、次の目的地である『善通寺』に向かった。寺のある場所は、古くは仲村郷と呼ばれていたらしいが、空海が善通寺を開基してからは「善通寺」と呼ばれるようになり、現在は善通寺市の中心地に存在する。
境内は4万5千平米あり、西院(誕生院)と東院(伽藍)とに分かれている。正門(南大門)は後に触れる東院にあるが、車で出掛ける人の大半は、大駐車場が境内の西側にあるために西院から入ることになる。もっとも、信心深い人は回り道をしてでも東院からお参りすると思うが。
信心のまったくない私は、大駐車場から「善通寺物産会館」前を通り、弘田川に架かる「済世(さいせい)橋」を渡って、写真の正覚門から西院に入る。済世橋は1979年に架け替えられた石橋で、中国の天津橋を模している。
門の左手に見える「パゴダ供養塔」(1970年8月15日建立)は、ビルマ戦線で戦死した18万余人とビルマ独立のために戦死した英・印の人々の霊を合祀している。
西院は空海が生まれた地で、かつて佐伯邸があったとされる場所。空海の幼名は「真魚(まお)」という。現代ならばスケートの選手に向いていそうだ。父親の名は佐伯田公(たぎみ)といい、その諱(いみな)が善通(よしみち)で、善通寺はこの父親の諱を由来としている。
西院には御影堂(大師堂)があるが、これについては後述するとして、まずは写真の不動明王が祀られている護摩堂について簡単に紹介しておく。
護摩とは密教の秘法のひとつで、不動明王を奉じて供養し、壇上の炉に火を起こして護摩木を焼べて祈祷すること。護摩木に込められた願いは炎によって清められ、煙となって諸仏に届けられるとされる。
したがって「護摩の灰」は本来、貴重なもののはずなのだが、後にはただの灰を「護摩の灰」と称して人々を騙し金品を巻き上げる輩が増えたことから、転じて泥棒を意味するようになった。
護摩堂のすぐ横には写真の「親鸞堂」がある。ここには木造の親鸞座像が安置されている。
親鸞の師である法然は善通寺を参詣して「逆修塔」を建立しているが、弟子の親鸞はこの地を訪れることはできず、その代わりに座像を贈ったと言われているそうだ。
仁王門を通って東に進み、今度は伽藍のある東院を歩いてみることにした。写真から分かるとおり、境内は広々としており、こちらに金堂(本堂)や五重塔、釈迦堂、大楠、鐘楼などがある。大楠は、空海(真魚ちゃん)が生まれたときにはすでに存在していたとされている。したがって、樹齢は1250歳以上であることは確かだ。もっとも、史実が事実であればの話だが。
私が一番興味を抱いたのは写真の大楠だ。今年は空海の生誕1250年の年にあたり、4月23日から6月15日まで、大々的に『弘法大師御生誕1250年祭』が開催される。
写真は、善通寺の正門である「南大門」。礼儀正しく?お参りするのであれば、この南大門から境内に足を踏み入れるのであろう。私にはどうでも良いことだが。
「五岳山」の扁額が掲げられているが、これは善通寺は『屏風浦五岳山誕生院善通寺』が正式名称だからである。
西院の西側には、讃岐ではよく見られる特徴的な山容を有する五つの峰(五岳山)が存在し、それを屏風浦と称している。その有様は、すでに紹介済みである「五剣山」を背後に控えた「八栗寺」を思い起こさせる。
山門から入ると、すぐ左手に大楠があり、そして右手に写真の五重塔がある。基壇から相輪までは43mあり、木造の塔としては日本で3番目の高さだとのこと。
今までに倒壊や焼失が3度あり、現存する塔は4代目で1902年に完成したとのこと。塔の中には、密教の中心的存在である五智如来が安置されているそうだ。
毎年、ゴールデンウィーク時に1,2階部分が公開されるそうだ。
写真の金堂(本堂)は、山門からまっすぐ進んだところにある。1699(元禄十二)年に再建されたもので、「禅宗様」という建築様式からなり、本尊は薬師如来像である。
参拝者は必ずここをお参りするので人気(ひとけ)は絶えないが、私はただ、遠くから眺めるだけで十分に満足できる。人気がなければ間近で薬師如来像を眺めたいが、信心のない私が近づくのは真っ当な参拝者やお遍路さんに失礼に当たると考えられるため、こうして距離を取っている。そのぐらいの常識は、私にもある。
他の霊場では「大師堂」であるが、ここ善通寺は空海の生誕地でもあるため「御影(みえ)堂」と名付けられている。当初は、西院全体を「誕生院」と呼んで伽藍のある東院とは別の寺と扱と扱われていたが、現在では両者を合わせて善通寺とされている。
先にも触れたように、この御影堂を中心とする西院は佐伯氏の邸宅があった場所で、御影堂の奥殿には秘仏の瞬目(めひき)大師像や弘法大師像、それに空海の幼少時の姿を現した稚児大師像、両親の佐伯善通像や玉寄御前像なども奉安されているとのこと。
なお、この奥殿はかつては玉寄御前の部屋として利用されていたそうだ。つまり空海の原点がここに存在していたのである。
東院の端には、写真の五百羅漢像が並んでいる。私以外には見物する人はいなかったので、ひとりでじっくりと諸像を見ることができた。
五百羅漢の五百は第一回、第四回仏典結集に参加人の数とされたり、仏陀の弟子のうち優れた500人を選んだなど諸説があるが、いずれにせよ、500体の総てが異なる姿をしているので私は、五百羅漢の姿かたちを見るのが大好きなのだ。
どの像も極めて個性的な顔立ちをしているが、ここでは写真の像の姿が一番、印象深かった。理由は簡単で、小学校以来の友人で、今でも付き合いのあるМ君にそっくりだからである。
もっとも、羅漢(阿羅漢)は悟りの境地に達した人を指すが、М君は未だ煩悩に塗れているという違いがある。さして大きな違いではないと思うけれど。
◎満濃(まんのう)池
讃岐の国はいわゆる瀬戸内式気候なので雨が少ない。おまけに川が急なので農業用水の確保に苦労した。現在、香川県には約16000もの灌漑用ため池があり、農業用水の50%以上をため池の水に頼っている。
写真の満濃池は日本最大の灌漑用ため池として知られ、2016年には「世界灌漑施設遺産」に四国では初めて登録された。また、19年に国の名勝に指定された。
この池は700年代の初頭に国守の道守朝臣によって造られたが、818年に決壊し、821年に大規模改修が計画されたが不首尾に終わった。そこで、嵯峨天皇は空海を築池別当に任命し改修事業に当たらせた。
空海が当地を訪れたことで、作業に協力する人が多く集まり、僅か3か月足らずで改修作業は終了した。空海は堤体をアーチ式にし、余水吐きを造るなど現代にも通用する工夫をおこなった。
改修作業中、空海は岸辺に護摩壇を造り、護摩木を焚いて工事の安全を祈願した。写真は、護摩壇が造られたとされる場所を撮影したものである。
設計は近代的でも材料は古代のものだったため、その後も決壊は何度か発生した。1184年の大決壊後は改修作業すらおこなわれず池は干上がり、1628年に大改修がおこなわれるまでは池内に民家や田畑が造られ、池内村と呼ばれたこともあったそうだ。
◎こんぴら表参道(の入口近辺)
満濃池を離れ、その日の宿泊地である琴平町に向かった。辺りが薄暗くなっていたことと、歩き疲れたことから外出はせず、翌日の金刀比羅宮参詣のためにしっかりと休息を取った。
本宮(標高236m)までは785段、奥社(標高394m)までは1368段もある。琴電琴平駅は65m、参道の階段の始まりは73mなので、参道を起点とすると、本宮までの比高は163m、奥社までは321mである。ちなみに、高尾山は駅からの比高は408mなので、それを思えば楽勝なのかもしれない。
金刀比羅宮は象頭山(標高538m)の中腹にある。古くは琴平神社と呼ばれていたが、本地垂迹説の影響で「金毘羅大権現」と改称された。1165年には崇徳天皇を合祀した。明治に入ると「廃仏毀釈」の影響で金刀比羅宮に改められた。主祭神は大物主と崇徳天皇である。
象頭山はその山容が象の頭の形に似ているからとされているが、釈迦が千人の弟子に説法した伽耶山が象頭山とも呼ばれていたので、その影響を受けてその名が付けられたという説もある。
山の岩質は下部が花崗岩、中部が凝灰角礫岩、上部が讃岐岩質安山岩なので、その比較的なだらかな山頂は、メサが風化しつつある過程であると考えられている。
写真の場所から参道は緩い坂道から階段に変貌する。ホテルでの朝食の時、給仕のおばちゃんに階段は厳しいでしょうと尋ねたら、両側に店が立ち並んでいるので、それらをひやかしながら上がっていけば案外、楽ですよと答えてくれた。
確かに、写真の百段目あたりまではかなり緩やかな勾配で、かつ、店舗が並んでいるので、それらを覗きながら進めばさして疲労感を抱かない。
が、130段目あたりから階段はやや急になり、疲労感が一気に湧いてきた。何しろ、前日まで毎日、15000から20000歩をこなしていたので、疲れは相当に蓄積していたようだ。しかも、この日は四国山地の中を歩くし、最後は高知城に上る計画もあった。
時刻はまだ10時を少し過ぎたところ。今日の予定を思ったとき、さらに足が重くなり、一歩一歩がとてつもなく苦しいものになってしまった。当初は、せめて本宮まではと考えていたのだが、これではそれも厳しいかもしれないと思うと、早めに撤退の決断をした方が得策だと考え、200段も行かないうちに転進することにした。
金刀比羅宮では古くから「代理参拝」というものがあったらしい。有名なのは清水の次郎長の代わりに森の石松が参拝し、親分から預けられた刀を奉納したという話だ。
なかには犬を飼い主の代わりに送り込むというのもあったそうで、首に奉納品などを巻き付けて本宮まで行かせたとのことだ。これを「こんぴら狗」と言う。
どちらの作戦も私には出来そうもないので、どうやら、私のこんぴら詣では未達に終わりそうだ。
こんぴら参道にもたくさんのうどん店がならんでいた。香川県は「うどん県」を標榜している。雨の少ない香川は米が作りづらい場所柄なので、どうしても小麦作りが盛んになる。その結果の「うどん」なので、古くから親しまれてきたのだろう。というより、庶民には米は高価な存在なので、やむを得ず、うどんを主食にしていたのではないか。そもそも日本全国、庶民が米を主食に出来たのは、アジア太平洋戦争後なのだから。
実際、讃岐うどんが名物として取り上げられるようになったのは、今から60年ほど前にすぎないのだ。
私は若い時分には「天玉うどん」をよく食していた。が、次第に消費量は減り、現在では年に2,3回食べればいいほうだ。
四国には数えきれないほど訪れているが、香川で讃岐うどんを食したのは過去3回しかない。今回は一度も食べなかった。多分、次回に訪れたときも食さないだろう。
それでも、香川は十分に魅力的な県である。屋島があり与島があり猫の島がある。鬼ヶ島だってある。栗林公園があり金刀比羅宮があり丸亀城がある。ことでんが走っている。飯野山があり満濃池がある。大窪寺、善通寺、八栗寺、弥谷寺、白峯寺がある。
香川を訪れる理由は無数にあるのだ。