徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔84〕調子はどうですか?銚子はいいですよ!!

初めて銚子電鉄に乗った!

落陽を受けて赤く染まる犬吠埼灯台

銚子電鉄に乗る

銚子駅舎を望む

 銚子市には何度も足を踏み入れていたが、この地を目的として出掛けたことは一度もなかった。日本一の取り扱い高を誇る銚子漁港や、イセエビ釣りが可能だった黒生(くろはえ)漁港、それに犬吠埼灯台には立ち寄ったことがあるが、あくまでも別の場所での取材や旅の途中にそれらに触れただけであって、銚子見学そのものを目的としたわけではなかった。

 いつも旅の途中であったためもあり、以前から銚子電鉄にはちょっぴり魅力を感じていたにも関わらず、時間の関係(何しろ運行本数が少ない)で、やむを得ず乗車は見送っていた。

 それが今回は、50年以上の付き合いのある友人が銚子電鉄への乗車を希望していたということもあって、初めて銚子を目的地とした2泊3日の旅を実施することにした。

 彼は信仰心は別にして一度ぐらいは成田山新勝寺に寄ってみたい(本当の理由は参道に立ち並ぶウナギ店で国産のウナギを食することにあった)という希望があったし、さらに私同様、元来の怠け者であるゆえに集合時間は遅く、かつホテルでの朝起きも遅いということもあって、実際上では1泊2日の予定でも十分な程しか「観光」はしなかったのだけれど。

銚子駅

 今回の旅の目的の第一は「銚子電鉄」、第二は「犬吠埼」、第三は「屛風ヶ浦」にあったものの、直接には銚子に向かわず、まずはアクアラインを経て房総半島を横断し太平洋側に出て、友人がかつて何度か通ったという大原漁港(いすみ市)にある海鮮料理店で遅い昼食をとることにした。

 その店は、地元産の新鮮なサザエやハマグリを自分で焼きながら食べられるという誠に結構なところなので、午後2時過ぎにもかかわらず順番待ちを強いられた。が、実際に食してみると待ち時間が苦にならなかったと思えるほど美味だった。

 私としては望外な昼食を堪能したので、房総に来た目的の半分は達成したと考えてしまった。が、しかしそれは目的外の仕業であったため、本来の旅程を実現するべく、九十九里海岸を北上して、まずは「屛風ヶ浦」を目指した。

 屛風ヶ浦は旭市の飯岡漁港の東側から始まり、銚子市の名洗漁港の西部まで続く高さ50m程度の断崖絶壁だ。私は飯岡漁港の東側高台に「刑部岬展望台」があることを思い出したので、その地まで車を進めた。

 久しぶりに訪ねた展望台には新しく「展望館」が建っていた。確かに展望館からの眺めは見事ではあるが、それは九十九里方面や太平洋の景観であって、肝心の屛風ヶ浦の断崖は足下にあるので、その姿に触れることはできなかった。実に当たり前のことながら、まったくもって間抜けな所業であった。

 それゆえ、反省を込めて売店でソフトクリームを食しただけで早めにその場を立ち去った。もっとも、ソフトクリームと反省との連関はまったくないのだが。私は普段、アイスクリームやソフトクリームには目もくれないのだけれど、なぜか、旅に出るとそれらがしきりと恋しくなる。

駅前通りと「大型扇風機」

 犬吠埼に向かうべく、国道126号線を北東に進み、途中で、県道286号線に移って(三崎町二丁目交差点を右折)東進した。この県道は「銚子ドーバーライン」の別名を有しており、かつては「銚子有料道路」であったことから想像しうるように、屛風ヶ浦の上を走る快適な道路(現在は無料)である。

 という訳で、何とか一日目は犬吠埼に到達したものの、すでに夕間暮れ時を向かえていたために長居はできず、やや赤く染まった岩場や灯台を撮影しただけで、つぶさな観察は翌日に回すことにした。メキシコの格言~「今日できることは明日でもできる」~これは私のモットーでもある。

改札口はJRと共用

 2日目の予定は、旅の第一の目的である「銚子電鉄」に乗ること。朝7時台こそ銚子駅発の電車は2本出ているけれど、その他の時間帯は1時間に一本。朝寝坊の私たちには9時16分発は間に合いそうにもないので、10時20分発の電車を選んだ。

 私の方が若干、友人よりも早起きが可能なので、友人とは銚子駅で落ち合うことにして、当方はホテルを9時40分に出た。ホテルには連泊するので車は駐車場に置いたまま。駅までは徒歩5分程度なので、上の何枚かの写真にあるように、駅前の風景を少しばかり撮影した。

 銚子駅構内の大半はJRが占めており、銚子電鉄はホームの東端に「間借り」している状態。改札口も共用だが、私たちのように「一日乗車券」(700円)を購入する場合は、車内で車掌さんから買うことになるため、改札口は駅員がいる右端を通る。その際、駅員には「銚子電鉄に乗る」という一言を添えることになっている。上の写真は、その旨が表示された貼り紙を撮影したものである。

階段も宣伝場所に利用

 銚子電鉄は1923年に開通し、銚子駅から外川駅間の約6.4キロを約20分で走るローカル鉄道である。その前身である「銚子遊覧鉄道」は1913年に開通したが、そのときは銚子・犬吠を結んでいた。ただし、軌間国鉄と同じ1067ミリを採用していたので、相互の乗り入れが可能な設計にはなっていた。直通の貨物列車の乗り入れを想定していたという説もあるらしい。ただ、この遊覧鉄道は考えていたほどの集客力はなく、わずか4年で廃業となった。

乗り場はJRのホームの東端

 銚子鉄道の場合、1950年代には黒字経営になったそうだが、60年代になると経営は厳しくなり、バス会社である千葉交通に買収され、一時は廃線が決定された。さらにモータリゼーションの台頭が経営を逼迫させた。それでも、地元の人々の「銚子電鉄愛」は強かったようで、人々の心からの叫びと協力とによって、何とか運行を維持することができた。

 日常の足としては、車を持たない人には多少便利だろうが、それでもバスには太刀打ちできない。一方、観光客の立場から見ると、沿線の風景にはほとんど魅力が感じられない。家々と林、そして畑が続くだけで、海が近いにも関わらず、窓に広がる青い海の姿は存在しない。

 観光地としては犬吠埼があるが、こちらも、駅から歩く(徒歩10分程度)よりも車で行った方が便利なので、電車を利用していく人は極めて限定的かと思われる。

 ことほど左様に、銚子電鉄を利用する必然性は極めて低いこともあって赤字状態が続いてきた。これを打開するため、電鉄側では1970年代にたい焼きの製造販売を始めた。理由は、『およげ!たいやきくん』という歌がヒットしていたからだそうだ。

 また、1995年には「ぬれ煎餅」の製造販売を始めた。銚子市は醬油の生産量が日本一で、かつ米の生産も盛んなことから、古くから煎餅の生産は盛んだった。1960年頃には某メーカーが「ぬれ煎餅」の販売を始めるとそれなりの評判を博したことから、銚子電鉄でもそれを製造販売したところ、爆発的なヒット商品となり、電車の運賃よりも煎餅の売り上げ高の方が多いという状態になり、それは現在でも続いている。

 さらに、2018年には「まずい棒」の製造販売も始め、この自虐的な商品名が受けたためか、これもよく売れているそうだ。

 こうした結果、帝国データバンクでは、銚子電鉄は鉄道会社ではなく米菓製造業に分類するまでに至っている。

 なお、この両商品は犬吠駅で購入し、実際に食しているので、のちほどその感想を記すことにしている。

 鉄道分野では、「メルヘン電車」のイメージの一環として建物をヨーロッパ風のものに造りかえた。写真の銚子駅の建物はオランダ風に設えたが、肝心の風車が破損し、かつ修理代を捻出することができないため、風車がない状態の姿をさらしている。写真の建物の上部にバツ印が見て取れるが、かつてはそこに風車があったそうだ。

銚電の決意表明

 このように、銚子電鉄は数多くの苦難と、それを乗り越えるための創意工夫を続けている。2021年度は純利益21万円と黒字を達成した。総売上高は5億2830万円で、このうち、物販部門が約4億5000万円であり、なんと鉄道部門は全体の15%を占めているにすぎない。

 やはり、銚電は鉄道業ではなく米菓製造業として生きながらえている。「絶対にあきらめない」という姿勢が、赤字からの脱却を果たした。もっとも、電車を走らせてこその銚子電鉄であり、本年は開業100周年にあたることもあり、鉄道部門での奮起を期待したいところだ。

私たちが乗る電車が入線~どこかで見たことのある車両

 私たちが乗る電車がホームに入ってきた。どこかで見たことのあるような姿をしていた。銚子電鉄の車両は私の自宅近くを走っている京王線の古い車両を使っていることを思い出した。

 京王線時代は2000系と呼ばれ、全体を緑色に塗られていた。1957年からの製造なので、私がまだ児童(悪ガキ)と呼ばれていた頃に現役だった車両で、私が初めて都会(新宿の伊勢丹)に連れて行ってもらったのもこの型の車両だった。

 京王線を引退してからは伊予鉄道で活躍し、それから銚子電鉄に引き取られた超古参の車両なのである。

こちらの車両も京王線のお古のお古

 2両編成なのだが、先頭車両(外川方面行きの)はやはり京王線のお古のお古で、京王線時代(5000系)は全体をアイボリーに塗られ、エンジの帯を締めていた。1963年から製造されたもので、当初は特急や急行列車に用いられていた。田舎臭い京王線がスマートに変身した時代のもので、私がもっともよく乗っていた車両である。

 まさか銚子で、児童から少年時代に身近に存在してた(自宅は京王線府中駅のすぐ近くにあった)電車に出会うとは、奇遇としか言いようがない。もちろん、楽しい思い出や苦い想い出も同時に蘇って来たのだが。

一日乗車券は車内で車掌さんから購入

 銚子駅から外川駅まで片道350円。一方、一日乗車券は700円。どのみち銚子駅に戻るのだからと一日乗車券を購入した。ただし、銚子駅の窓口では購入することができず、写真にあるように車内で車掌さんから直接、買うことになる。この時間帯(午前10時台)では大半の乗客が観光のために利用するのだろうから、ほとんどの人が切符ではなくこちらを購入していた。

 なお、この1日乗車券には「弧廻手形」の別名が付いており、さらに犬吠駅売店銚子ポートタワー展望室入場の際などでは割引サービスを受けることができる。

車内には古い広告がいくつもあった

 運転室横の前面展望場所は空いていたが、ここは立ち入り禁止になっていた。私のような馬鹿者が占拠してしまうことを防ぐための心優しい配慮だと思えた。

 窓には簡素な装飾が、そして運転席の後ろには、あえて古めかしい写真や看板が貼ってあった。

こちらも相当に古い

 また、写真のような広告も吊り下げられていた。レトロな車両にレトロな広告、そしして古さをイメージさせる窓ガラスの装飾など、なかなか良い出来栄えではないかと感心した次第だ。

観音駅は金太郎ホームが命名権を有する

 お隣の「仲ノ町駅」には銚電の本社と車庫があった。それらを覗き見ているうちに電車は次の駅に向かってしまったため、写真撮影を失念した。

 その次は「観音駅」。銚電では少しでも運転資金を稼ぐために、2015年から「駅名愛称のネーミングライツ」を始めた。その結果、観音駅千葉市の賃貸マンション専門の施工会社である「金太郎ホーム」が命名権を取得した。

 この「金太郎ホーム」の看板を見たとき、最初は金太郎という駅はあったかな?と訝ったが、後でネーミングライツのことを知って得心した。観音駅の近くには「飯沼山・圓福寺」という真言宗の古刹があり、長年、飯沼観音として親しまれてきたそうだが、金太郎ホームの下に「かんのん」とあるだけではこの寺の存在感が薄れてしまうようで、少し残念なことではある。

 そういいながらも、実は昨晩は飯沼観音のすぐ近くの小さなラーメン店で夕食をとったのだが、その際、ライトアップされている大きな寺があることを見出していた。が、それがまさか銚子はその寺の門前町として発展したということはつゆ知らず、結局、圓福寺を訪れてはいないのだから、あまり偉そうなことは言えない。

 ちなみに、「仲ノ町駅」は「パールショップともえ」と命名されているが、これはネーミングライツを獲得したパチンコチェーン店の名前とのこと。 

あえぎながら坂を上る

 観音駅の標高は11.3m、次の本銚子(もとちょうし)駅は26.7mと結構な上り坂になる。新しい車両であれば難なく上れるだろうが、中古の中古車両でおまけに供給電圧が低いときているのでかなりの苦行のようである。

まもなく本銚子駅

 どうにか本銚子駅に到着。現在では銚子駅近辺が町の中心だが、かつてはこの本銚子駅のある辺りが銚子の中心地だったそうだ。先にも触れたように、圓福寺の参道はこの付近にあったからだ。

本銚子駅の看板~こちらも企業が命名権を使用

 この駅も写真のように命名権が行使され、「上り調子本調子京葉東和薬品」の愛称が付けられている。車内アナウンスでも、「上り調子本調子」の部分が強調され、古い車両が苦心して上り坂を進む苦難を叱咤激励していた。

まもなく笠上黒生駅

 上り坂の場所では林の中を進むという感じだったが、本銚子駅を過ぎて平坦な場所に入ると、のどかな田園風景が広がってくる。電車はまもなく「笠上黒生駅」に到着するが、この駅の愛称が秀逸なのだ。

ダジャレ風の看板~実はネーミングライツの第一号

 銚子電鉄ネーミングライツを募集したとき、真っ先に手を挙げたのが東京の新橋にある「メソケア」というシャンプー製造会社で、会社は笠上黒生駅命名権を希望し、しかもその名前が「かみのけくろはえ」だった。このあまりにもセンスが良くしかも爆笑してしまう名前は、あっというまに全国的に有名になった。この「髪毛黒生」の成功があったために命名権は他の駅にも広がり、銚電は1000万円以上の収入を得ることができたそうだ。

髪毛黒生こと笠上黒生駅の駅舎

 写真のように、駅舎にも堂々と「髪毛黒生」の愛称が掲げられている。廃線になってもおかしくない銚子電鉄が生きながらえているのは、こうした必至かつ遊びの要素を持った努力の賜物なのである。

髪毛黒生駅舎内~毛染めシャンプーは販売しているのかな?

 この駅では電車は少しだけ停車時間をとっているため、私はホームに降りて駅舎内の様子を撮影した。特筆すべきものはとくに見当たらなかった。どう頑張っても、この駅の名前以上のものを見出すこと、生み出すことはできないはずだ。

車窓から春キャベツ畑を望む

 銚子は「春キャベツ」の生産地としては日本一。車窓からは何度もこうした畑の姿に触れる。私は三浦半島へよく釣りに出掛けるが、その地も春キャベツ生産は盛んで、銚子市と三浦、横須賀市とはこの点ではライバル関係にある。

堂々としたネーミングライツ

 次の西海鹿島駅は直球勝負の愛称で、笠上黒生駅とは好対照的で興味深い。お遊び風の愛称でないことに感心した。それはたまたまのことであろうが。 

銚子市は関東最東端にある

 写真にもある通り、次の海鹿島駅は関東最東端にある電車の駅だ。そもそも、銚子市そのものが関東最東端の自治体なのである。

何かが足りない「君が浜」駅

 駅から徒歩5分のところにある「君が浜」は日本の渚百選に選ばれた海岸で、犬吠埼灯台を見上げるには良い場所だ。

 この駅の愛称は「ロズウェル」で、アメリカ・ニューメキシコ州ロズウェルの名が元になっている。ロズウェルはUFO墜落?の発見現場として知られ、のちにはドラマでも有名になった場所。ここ銚子もUFOの目撃現場?として知られているため、ロズウェル命名されたそうだ。

 ところで、駅前にある白い柱は何か中途半端な感じがする。以前はこの上にパルテノン神殿を模した装飾が施されていたが、災害のために破損し、その後は改修されないまま、ただ柱だけが残っているのだそうだ。もしかしたら、UFOが持ち去ったのかも?

樹木のトンネル

 銚子電鉄には橋もトンネルもないが、写真のように樹木のトンネルだけは存在する。

分かりにくいが「犬吠駅」です

 銚電では一番有名な駅がこの犬吠だろう。もっとも、写真のように意味がよく分からない愛称が付けられているので、「いぬぼう」の存在が霞んでいる。

 この駅には立派な駅舎があるがそれは後に紹介する。

終点の外川駅に入線

 終点の外川(とかわ)駅が見えてきた。6.4キロの短い電車の旅はここで終了となる。

乗車に感謝か~これも命名権のひとつ

 外川駅の愛称は「ありがとう」である。これは当初、乗客への感謝の言葉だと思ったのだが、実は愛称なのだそうだ。松戸市ハウスメーカー命名だが、社名ではなく終点にぴったりの愛称を付けたのは極めて秀逸なネーミングライツの行使である。「早稲田ハウス株式会社」は自然素材で造る健康住宅の専門店だとのことで、さもありなん、と感激した。

古い車両だけでなく、何故か郵便局のバイクも放置プレイ

 外川駅には写真の「デハ801」が展示してある。1950年に製造されて伊予鉄道で利用され、85年に銚子電鉄に移り2010年に引退。その後は外川駅に展示・開放され(何度か中断)現在に至っている。私が出掛けたときは開放は中止されていた。

 写真には廃車となった郵便局のバイクもあったが、なぜここにあるのかは不明だった。なお、構外にあるポストは現役である。

外川駅舎内~手書きの運賃表

 外川駅舎内ものぞいてみた。手書きの運賃表が印象的であった。また、銚子電鉄に直接的、間接的に関わる資料なども置いてあった。

外川駅舎と上り車両

 外川漁港に出掛ける前に再度、駅舎と出発を待つ電車を眺めた。赤いポストも含め、いかにも昭和的な風景である。

◎外川漁港を散策

広々とした外川漁港

 外川漁港には一度だけ車で来たことがあった。この港では堤防釣りは全面的に禁止されているために取材は行えなかった。それゆえ、その後は訪れることはなく、今回が2度目で、約20年振りの訪問だった。

銚子沖では洋上風力発電建設中

 前回は釣り禁止とのことだったので早々に引き上げたが、今回は釣りとは無関係な旅行なので、少し時間をとって漁港の周辺を見て回った。

 銚子沖は浅い岩礁帯が多く、洋上風力発電には格好の場所ということで、その建設が始まっている。西欧では洋上風力が自然エネルギーの主力なのだが、日本だけその開発が遅れている。しかも、日本では着手から完成まで8年と、他の国の2倍の時間を要する。これは、より慎重な建設を行うためというより、様々な利権と原発温存という目論見があるためと思われる。 

遠くには屛風ヶ浦の姿も

 写真のように、遠くには屛風ヶ浦の姿が見て取れた。外川港の隣には名洗港や銚子マリーナがあり、そこまで行けば屛風ヶ浦下の遊歩道を散策することができるのだが、今いる場所からはいささか距離があり過ぎるため、その場所にはあとで車で出掛けることにして、さしあたりは、外川漁港散策に留めた。

砂岩の岩場に空いた海食洞

 漁港の西端には写真の「千騎ヶ岩」(せんがいわ)があった。源義経が千騎の兵とともに立てこもったという伝説が岩の名の由来とのこと。比較的大きな岩場だが、私には中ほどに開いた海食洞に興味を抱いた。

海水を汲みに来たおじさん

 千騎ヶ岩の北側にある船揚げ場のスロープでは、地元のおじさんが空のタンクを持って海に入り海水を汲んでいた。こうした場所は砂が入りにくいので海水を汲むには最適な場所だ。私には、スロープに付着したアオノリのほうが魅力的に思えたが。

名所?の犬岩

 千騎ヶ岩の西側にはガイドブックにもよく登場する「犬岩」があった。犬と名付けられているので「犬」に見えないことはないが、もしも無名岩であったならば、違った感想を抱く人も多いのではないか?「名体不二」の言葉は誠に至言である。

 なお、この犬岩も先に挙げた千騎ヶ岩も砂岩でできており、その形成はジュラ紀(2億から1億5千年前)と考えられている。銚子は、地質学の宝庫でもある。この点についても後述する。

イワシイカを下処理中

 港の陸では2人のおばさんが、コウイカイワシの下ごしらえをしていた。今年の冬から春にかけては異常とも思えるほどイワシが豊漁である。ただし、イワシが多すぎるとサバは深い海に潜ってしまう傾向があるので、イワシの豊漁は必ずしも歓迎させる状態とはいえない。

 それにしても旨そうなイワシだったが、おばさん曰く、冬場のイワシは脂の乗りが今ひとつなので、夏場に較べると味はやや劣るとのことだ。

細い道を上って外川駅に戻る

 漁港の散策終えたので外川駅に戻ることにした。駅は標高24mのところにあるので港からは上り坂が続く。昔ながらの町割りが残っているので、道幅はかなり狭い。こうした細い路地を歩くことは、私の好みのひとつである。

駅舎裏のモニュメント

 銚子行きの電車が来るまでは少し時間があったので、私は駅の周囲をうろついてみることにした。写真のように、駅舎の裏には花壇らしきものがあり、その中にヒマワリを模したモニュメントがあった。

どこか悲し気な”ひまわり娘”

 ヒマワリ娘の表情はどこか悲し気であった。銚子電鉄に元気を与えるなら笑顔で青い空に向かうべきだと思うのだが。思うに、廃線寸前のときに建てられたのではないか?しかし、いささか失笑含みではあるが、銚電は立ち直りつつある状態である。ひまわり娘も微笑みを取り戻してほしいものだ。

犬吠駅に向かう

銚子行きが入線~残念ながら来た時と同じ車両

 銚子行きの電車が入線した。来た時とまったく同じ車両である。銚子電鉄には3編成の車両が運行しているが、日中は一時間に1本なので、同じ車両が行き来しているのだろう。

キャベツ畑の中を走る

 外川駅を離れ次の犬吠駅に向かう。沿線にはお馴染みの春キャベツ畑が広がっている。

犬吠駅が見えてきた

 次第に犬吠駅の存在が明瞭になってきた。この駅では、右手にある駅舎の存在が際立っている。

犬吠駅に入線~ガキンチョの体験乗車組もいた

 犬吠駅には幼稚園児(保育園児かも)が引率者とともに電車を待っていた。子供たちに地元が誇る銚電に体験乗車させ、この電車の実存を心に深く印象付けようとする算段なのだろうか?それはそれで良いことではある。

おしゃれなポルトガル風「犬吠駅舎」

 犬吠駅の駅舎はポルトガル風の立派な建物である。中には銚電名物が陳列されている売店がある。

 駅舎がポルトガル風だというのは、ポルトガルが誇る観光名所である「ロカ岬」と銚子市が誇る「犬吠埼」とがほぼ同緯度であること、ロカ岬がユーラシア大陸の西端、犬吠埼が関東地方の東端という共通点?があるというのがその理由だそうだ。ともに、「ここに地終わり、海始まる」という場所なのである。

ホームの意匠も頑張りました

 ホームの壁面や駅前広場の意匠にも工夫の跡が見られる。また、車で来た人にも売店に立ち寄ってもらおうと広めの駐車スペースも確保されている。

銚子電鉄の救世主~乗車券の数倍の売り上げを誇る

 売店では、銚子電鉄の危機を救った2大名物を購入し、かつ食してみた。写真は銚電の主力商品である「ぬれ煎餅」だ。「ぬれ煎餅」自体は何度も食していたが、銚電製は初めてである。千葉県に住んでいて、よく釣りへ一緒に出掛けた古い友人が毎回、ぬれ煎餅を持参していて、そのおすそ分けを食したが、個人の感想としては草加煎餅のような普通の煎餅の方が食べやすいと思った。

 その知人は「ゆで落花生」も必ず持参した。こちらもカリッとした普通の落花生のほうが数段美味で、「ゆで落花生」は歯ごたえがまったくないので美味しいと感じたことは一度もなかった。ただただ、「きっと千葉県人は嚙む力が弱いのだろうか?」という疑問を抱くだけだった。

 銚電の「ぬれ煎餅」にはいろいろな味のものがあるようだが、私は写真の「青のうす口味」を買って食べたが、感想はかつて食べたときと同じ印象だった。というより、歯にくっつきやすいだけ、普通の煎餅よりも老人には食べづらいのでは?とも感じた。

名は体を表す?~こちらも救世者

 一方の「まずい棒」にもいろいろな味のものがあるようだったが、私は「岩下の新生姜」味のものを購入した。本家の「うまい棒」とは当初、いろいろな軋轢が生じたらしいが、結局は「黙認」という形で「まずい棒」の名で販売することができた。

 私は本家の「うまい棒」を食べたことがないので味の比較は不可能だが、値段は銚電のほうが数倍、高いそうだ。それでもかなりの売り上げがあるのは、「まずい棒」愛ではなく「銚電」愛によるものだろう。

 こちらは本家との比較は不能だが、駅舎で1本食べた感じでは「名体不二」そのものと思われた。友人は初めから食べることを拒否したので、残りは家に持ち帰ることになった。捨てるのももったいない気がしたので、恐る恐る食してみたが、一度目の感想よりは抵抗感は少なく、決して美味しいものではないが、「まずい」というほどではないと思われたので結局、一日2本のペースで食べ終えた。

 両者をつぎに購入する機会はないと思うが、仮にあるとすれば後者の可能性は少しだけあり得る。ただし、その動機は「食べること」ではなく、銚電の救済の一助である。

銚子駅に戻る~銚電とJRとが並ぶ

 銚子駅に戻ってきた。JRのホームには銚子名物の「醤油樽」が展示してあった。そのホームには東京行きの特急列車、隣の線路には総武本線、その向こうには銚子電鉄の電車が止まっていた。かつては電車好きだった私だが、現在はほとんど乗る機会はない。仮にこの三者のどれかに乗りたいとすれば銚子電鉄以外にはないだろう。他の二者は移動手段として乗るという以外の理由はないが、銚子電鉄だけはその世界に触れるために乗るという、移動手段とは別次元に存在しているからだ。

◎車にて犬吠埼に向かう

イセエビもよく釣れた黒生漁港~岩礁も多い

 銚子駅を降り、ホテルに戻って車を取りに行き、今度は車で犬吠埼周辺を見て回ることにした。時間的にいって、漁港を見て回ってもすでに活気は収まっているので水揚げの様子を見学することはできない。そのため、漁港近辺はただ通りすぎるだけになった。

 写真の黒生港は、利根川右岸や河口付近にある、いわゆる銚子漁港とは異なり、太平洋に面した浅瀬に造られた大きめの護岸に囲まれた漁港である。この辺りは白亜紀に堆積した泥岩や砂岩がかなり沖まで伸びているため海の難所としても知られている。幕末には、榎本武揚率いる軍艦の一艘の「美加保丸」が岩礁に乗り上げ、13人が死亡するという事故が起こっている。

 釣り禁止の場所が増えているので現在までおこなわれているかは不明だが、20年ほどまでは釣りが盛んで、とくに消波ブロック周りではイセエビが釣れることで人気があった。

君ヶ浜から灯台を望む

 君ヶ浜は日本の渚百選に選ばれている名勝地で、本家の舞子浜(兵庫県)に対し「関東舞子」と称されるほど白砂青松の美しい海岸線を有している。

 また、写真のように、南側の高台には犬吠埼灯台が屹立しているので、海岸線だけでなく周囲の景観もすこぶる見ごたえのある場所である。

歴史を感じさせる灯台

 犬吠埼灯台は、世界灯台100選に選ばれているほど著名な存在で、1874年に建設されたレンガ造りの灯台だ。国産のレンガで造った灯台の第一号である。

 ちなみに、世界100選のうち日本からは5つの灯台が選ばれている。犬吠埼のほかは佐渡の姫崎灯台、下田沖の神子元灯台、松江の美保関灯台、出雲日御碕灯台である。私はこの4つの灯台にも上っているか間近で見上げている。

灯台上から岩礁帯を望む

 高いところが苦手な私だが、友人は私以上に臆病なので彼に私の勇気を見せつけるために300円を払って灯台の上に上った。

 99段の狭く急な階段を上がると出口があり、レンズ室を取り巻くように展望台が設けられている。彼も展望台前には上がって来たものの外に出る勇気はなく、一方、私は勇気を振り絞って展望台に出た。一人で来たのなら絶対に行うことのない蛮行である。

 写真はその展望台から崖下にある岩礁帯を望んだもの。この辺りの岩質はとても複雑で、砂岩だけのもの、砂岩と泥岩の互層からなるものが見られる。いずれも白亜紀前期のものと考えられている。

君ヶ浜を望む

 写真のように、君ヶ浜の全景を望むこともできる。恐ろしい!

犬吠埼は地質の宝庫

 灯台を下りて犬吠埼の周囲に設けられた遊歩道を散策した。写真は、白亜紀前期に堆積された銚子層群のうちの犬吠埼群の砂岩・泥岩の互層が露頭している場所を撮影したものである。

一部には津波の爪痕が残る

 遊歩道はかつて、海岸線近くにもあった。写真から分かるとおり石を削って造った階段や、手すりのついた道もあったが、大津波によって破壊されたために現在は立ち入り禁止になっている。

岩を見ているだけで十分に満足

 写真は「石切り場」の跡。この辺りでは「銚子石」と呼ばれる砂岩が採掘され、砥石や供養塔などに用いられたそうだ。現在は採掘はおこなわれておらず、こうして採掘場の面影に触れるだけである。

 写真を見て気付いたのだが、左手にある岩礁はどことなく猫の横顔に見える。この角度からだけなのだろうが、個人的には「猫岩」と名付けても良いと思っている。

 ちなみに、犬吠埼の名は、義経が奥州に逃げる際に愛犬の「若丸」(現在では犬岩となって生き続けている)をこの場所に置き去り、その若丸は居なくなった主人に呼びかけるように吠え続けたという伝説に由来するとのこと(諸説あり)。

お馴染みの「東映岩」~撮影位置は異なるけれど

 犬吠埼灯台の次に有名なのが写真の「東映岩」。東映の映画の始まりには必ず「荒磯に波」が映し出されるが、そのときに登場する岩が写真の3つの岩礁だ。現在は、撮影場所は立ち入り禁止になっているために、このように上から望むしかないが、結構な数の人たちが高台からこの岩を撮影していた。

◎屛風ヶ浦をちょっとだけ見学

名洗港から屛風ヶ浦を望む

 車で名洗港まで出掛け、屛風ヶ浦の断崖を間近で観察することにした。まずはやや遠めから断崖の様子を眺め、それから銚子マリーナの先にある遊歩道を歩き、地層の変遷を確認することにした。

単調に見えて、実はなかなか複雑な構造

 屛風ヶ浦は「東洋のドーバー」とも言われているそうだ。ドーバー海峡には「ホワイトクリフ」という有名な断崖があり、屛風ヶ浦の崖は色こそ違えど姿形はよく似ていることからそのように名付けられたとのこと。

 名洗港から刑部岬まで約10キロ、海面からの高さは40から50mの断崖が続くこの屛風ヶ浦は、下総台地が荒波によって削られた海食崖で、年に1mずつ崖は後退してきたそうだ。現在は消波ブロックを海岸線に積み、波食を防いでいるものの自然の猛威にはなかなか太刀打ちできずにいるようで、崖の姿は少しずつ変化している。

 基盤は犬吠埼でみた白亜紀のものであろうが、その場所は海底にあるため、我々が視認できるのは新第三紀鮮新世(500万~258万年前)から第四紀更新世(~40万年前)のもので、その上に関東ロームが乗っている。

浸食の痕跡

 波の破壊力は凄まじいもので、写真のように断崖に大きな穴を開けていく。こうした猛威によって屛風ヶ浦の姿は徐々に変化してゆく。が、僅か百年ほどしかない人の命の長さでは、特別に大きな天変地異でもない限り、その変化を見て取る機会はないだろう。それゆえ、こうした場所に触れることで、人間の力がいかに弱いものであるのかを実感する必要があると思う。

 もうひとつ気付くことがあった。屛風ヶ浦の断崖と、犬吠埼周りの断崖とはまったくその姿が異なることだ。片や500万年前からの姿であり、片や2億から1億2000万年前の姿が露頭している。

 つまり、犬吠埼を先端部とした銚子市の「拳骨」部分と、名洗から始まる下総台地とは成り立ちがまったく異なるということである。つまり、銚子の拳骨部分は古い時期から小島として存在し、一方の下総台地は新しい時代に隆起し、その結果、両者が陸続きになったと考えることができるのだ。

 この観点から地図上で銚子市の形を今一度確認すると、自然活動の不思議さ奥深さを改めて実感することができる。たかだか人間ごときが自然をコントロールするなど、土台無理な話なのである。

◎佐原(さわら)を歩く

佐原の水郷~水質は今一つ

 佐原は現在は香取市の一部をなしていることになるが、かつては「江戸優り」といわれるほど繫栄した時期があった。それは、利根川水運の中継基地となる場所に位置していたことによる。

 かつての繁栄の様子は「重要伝統的建造物保存地区」として小野川沿いに立派な商家が立ち並んでいることからも納得できる。

古い家屋を保存

 私が初めて佐原にやってきたのは、潮来の水郷や鹿島神宮鹿島港魚釣園、鹿島灘突堤霞ケ浦、北浦などに出掛けるついでだったが、一旦、この地を知ってしまってからは、取材先での消化時間はできるだけ短くして、この町並みを散策することに時間を割いたものだった。

 しかし、いつしか茨城方面の取材がなくなってからはこの地に立ち寄ることも皆無となってしまった。したがって、この地を訪れたのは十数年ぶりのことで、訪れた理由のひとつには、友人に是非ともこの町の良さに触れてもらいたかったからである。

つかの間の舟の旅

 小野川では写真のように「舟めぐり」で小江戸の風景を堪能できる。残念ながら水質はあまり良くないが、目を水面に向けずに町並みにひたすら向ければ、佐原の素晴らしさを体感することができるだろう。

伊能忠敬記念館

 佐原出身の偉人といえば『大日本沿海輿全図』(1821年、以下全図と略す)を作成した伊能忠敬がすぐに頭に浮かぶ。写真のように小野川に近くには『伊能忠敬記念館』があり彼の足跡や彼が測量の際に使用した用具類、さらに全図のコピーなどが展示されている。入場料は500円だが、個人的にはその数倍の料金でも十分に見学する価値はあると思っている。

 もっとも、厳密にいえば伊能は佐原出身ではなくて生まれは九十九里(幼名は神保三治郎)で、17歳のときに伊能家に婿入りした。伊能家は佐原を代表する旧家で酒造業を営むほか、忠敬は名主や村方後見なども務めていた。また、利根川の堤防普請でも活躍した。

 歴学や天体観測に興味を抱いていたが、本格的に学問を始めたのは隠居が認められた時からで、50歳になって江戸に出て深川黒江町に暮らしながら、幕府天文方でのちに「寛政の改暦」を成し遂げた高橋至時(よしとき)に弟子入りして学問を深めた。                                                                          

伊能忠敬旧宅

 彼が日本全国の測量を始めたのは55歳(1800年)の時で、それから17年をかけて10回、測量をおこなった。彼が歩いた距離は3万5千キロと言われている。

 全図は大図214枚、中図8枚、小図3枚から構成される。あくまでも沿岸部の測量が中心なので内陸部は簡素化されているが、その緻密で正確具合は、梵天を目印として象限儀で角度を測りながら距離を決めていくという導線法によって測量したとは考えられないほど正確なものである。

 小野川を挟んだ向かいには、写真の伊能忠敬旧宅が保存され、こちらは無料で見学できる。いかにも豪商の邸宅といった感じの立派な家である。

 伊能のような異能の傑物を生み出した佐原の町が心底、羨ましいと思った。

成田山新勝寺を訪ねて

成田山新勝寺の総門

 成田山に立ち寄ったのは、友人が一度ぐらいは行ってみたいと望んだことと、参道にある店で美味しいウナギを食べたいという希望があったことからである。

 ウナギは子安駅前にあった「うな清」と決めており(第35回参照)、それ以外の店は眼中になかったのだが、その後に閉店してしまったので行き場を失っていた。以来、ネット等で名店を探したのだが、ネットでの評判は良くても「うな清」に敵う店は見出せないでいた。

 たまたま、成田をよく知っている知人から、参道のウナギ店がなかなか美味しいという話を聞いていたので、それを同行者に伝えたところ、彼の頭と心からは成田詣での気持ちはかなり薄れ、ウナギ店詣でが主となったようだった。それゆえ、広大な敷地を有する新勝寺見学は最小限に止まることになった。

 写真は、2007年に落慶した総門である。参詣人は比較的多めで、成田空港が近いこともあって外国人旅行客の姿が目立った。

仁王門

 1831年に再建された仁王門には、写真のように「魚がし」の文字が書かれた大提灯が吊るしてあった。これにより、友人の頭と心はさらに「ウナギ」に占拠されることになった。

放生池とお賽銭

 仁王門周りには写真の放生池があり、亀を模した溶岩と無数のお賽銭が投げ入れられている姿が目に入った。

大本堂

 1968年に落慶した大本堂は誠に見事な大きさである。もちろん、信心のあまりない友人と、その欠片すらない私は、ただ本堂を撮影するだけで参拝はしなかった。

 本堂の左隣には旧本堂であった建物が移築され、釈迦堂と名付けられた、やや歴史を感じさせる建物があった。が、やはり遠目に見るだけに終わった。

三重塔

 この三重塔は、約25mの高さがある。 

派手な塗

 この塔はよく磨かれているようで、とりわけ塗が豪勢であった。仏教建築物は概ね絢爛豪華なのもが多いが、これは極楽浄土を表しているのだろうが、信心のない私はもちろん極楽などの存在は信じることはなく、死んだらただ無になるだけだと思っている。

 成田山新勝寺の開祖は寛朝大僧正(宇多天皇の孫)で、朱雀天皇の勅命で、不動明王の御尊像と共に関東に下ったことが切っ掛けとなっている。この御尊像は空海みずからが敬刻開眼したものだ。

 時あたかも関東では平将門の乱が起こっていた。大僧正は成田の地に御尊像を奉安し護摩を焚いて21日もの間、戦乱が収まるように祈願した。その結果、将門が敗北して戦乱は終息した。

 大僧正は京に戻ろうとしたが御尊像はまったく動こうとしなかったため、大僧正はこの地にとどまることを決意したのである。940年のことであった。

 こうした成田山の歴史を少しだけ知ったので、もはやここに留まる必要性はなくなった。いそいそと、友人と私は予約してあったウナギ店に向かった。

 「うな清」ほどではないにせよ、第二番目の地位を与えても良いと思えるほど美味だった。おまけに全国旅行キャンペーンと千葉とくキャンペーンのお陰で、ホテルでもらったクーポンだけで支払いは十分に賄えた。

 たとえ信心はなくとも、ご利益はきちんといただけたのである。