◎別格本山・箸蔵寺に初参詣
金刀比羅宮への参詣は早めに挫折してしまったので、予定が大幅にくるった。当初はこんぴらさんで大半の時間を費やし、その後は一気に南下して徳島県に入り、国道沿いにある名勝にいくつか立ち寄りながら高知城近くにある予約済みの宿に入るつもりでいた。ところが、大半どころか一時間も経過しないうちに階段から「拒絶」されてしまったため、別の訪問場所を探すことになったのである。
国道319号線を南に進んでいるとき思い出したのが吉野川左岸の山中にある「箸蔵寺(はしくらじ)」であった。ここは空海が金毘羅大権現から「箸を挙(あ)ぐる者、我誓ってこれを救わん」という神託を受けた場所とされている。「箸を挙ぐる」というのだから人間一般を指すのだろう。ということは、この時点ではまだ、「山川草木」は救いの対象になっていなかったと推察できる。
そこで空海は自ら御神像を彫って本尊(秘仏)としてこの寺を開基したという。こうした由来から、ここは「こんぴら奥の院」として位置づけられ、多くの人が参拝するようになった。
本家の金刀比羅宮を参詣できなかったダメ人間でも、この箸蔵寺であればロープウェイが麓から寺まで通じているので境内に上がることは可能なのだ。
ここは八十八か所霊場には属さず、四国別格二十霊場の十五番に位置付けられているため、今までその存在は知っていても訪れることはなかった。それが今回は、自分への言い訳のための良き場所としてその存在に気付いたので訪ねてみた次第である。
ロープウェイ登山口駅の標高は158m、箸蔵寺駅は502mの地点にある。比高は344mもあるが、歩く必要がないために楽して上がれる。
写真の「中門」は駅からすぐのところにあり、中に見えるのは本坊だ。
写真の護摩殿は本坊のすぐ右隣にある。屋根の一部が崩れる危険性があるためか、金属の柱で支えている。
護摩殿の横に階段があり、この階段を上った先に本堂がある。写真にあるように、この階段は「般若心経昇経段」と名付けられ、一段に一文字が記されている。般若心経は266文字から成るお経なので、階段は当然のごとく266段ある。
こうして階段を見上げてみると結構な長さと高さがあるが、あくまでも自分のペースで上がれば良いので、この程度ならどうにかなるさ、と自分に言い聞かせた。やはり山にあるお寺は、たとえロープウェイや自動車を使って上がっていっても、最後にはそれなりの高低差のある場所を歩くことは覚悟しなければならないのだ。
ちなみに、階段のスタート地点の標高は504m、本堂は549mなので、比高は45mということになる。
階段を3分の2程度上がったところの右手に、写真の「薬師堂」があった。お堂の左手には、写真では分かりづらいが修行大師像もあった。
薬師堂をお参りすると病を治癒してくれるとのことだが、どうやら私の「なまけ癖」までは手に及ばないようだった。
階段を上がり切った正面に、写真の「御本殿」があった。ここでは本堂とは呼ばないようだ。本坊や護摩殿、薬師堂などと並んで国の重要文化財に指定されている。
正面からではその立派さはさほどに感じられないが、写真のように斜め横から見ると、その装飾の豊かさにしばし目を奪われることになる。何事においても、視点を変えてみるということは重要な所作なのである。
他に誰もいないのを良いことに、御影堂の中をのぞいてみた。規模は小さくとも装飾は美しかった。しかし、信心もなくのぞき行為だけを続けていると大師から説教を受けるかもしれないため、早々にこの場を離れた。
般若心経の階段を下りる途中で写真の「鐘楼堂」に立ち寄った。ここの鐘は綱を引っ張ると鳴るそうで、御本殿に行く前に鳴らすことになっているとのこと。帰りに鳴らしてはいけないのだとのことだった。
なお、この鐘楼堂も重文に指定されている。
一応、おおよその場所は訪問したので、ロープウェイ駅に向かった。運良く、発車時間の直前だったために待たずに乗ることができた。
写真は車内から見た「仁王門」の姿である。歩き遍路であれば当然、この立派そうな門をくぐることになるが、ロープウェイ利用者は車窓から眺めるだけだ。もちろん、中には山を少し下って見物に行く人も存在するとは思うが。
眼下には吉野川の姿があった。この辺りだとまだそれなりの川幅を有しているが、次に立ち寄る「大歩危」付近で川相は一変する。
◎大歩危で大ボケに気付く
三好市池田町と言えば、かつて甲子園を沸かせた「池田高校」があるところ。「さわやかイレブン」「やまびこ打線」「蔦文也」「水野雄仁」の言葉や名前を聞いて懐かしさを覚える人はかなりの年配者である。
その池田高校がある辺りで吉野川は流れの向きを南北に変える(正式に言えば北に流れていたものが東に向きを変える)と同時に、川相もゆったりとしたものから渓流相に変化する。
最初に姿を見せるのが「小歩危」、つぎが「大歩危」となる。写真は「大歩危」の姿で、ここはまだ流れはさほどきつくない。
しかし、さらに上流部に進むと荒瀬が続く場所になってきた。そこで路肩に車を停めて、しばらく川を眺めていると、激流をカヌーで下る姿が目に入ってきた。
それまで激流を順調に下ってきたが、ここで見事?に転覆した。
カヌーは逆さになったまま下流へと進んでいった。
が、流れがやや緩やかになった場所で起き上がり、同時に仲間のカヌーが救助の手を差し伸べていた。わざわざ厳しい流れを選んで下るので転覆は日常茶飯なのだろうが、相当に危険なのではないかと思いながらも、興味深い場面に遭遇できて運が良かったという気持ちを抱いたのも事実だった。
というような光景に触れたことで撮影を終え、近くにある道の駅に車をとめてしばしの休息を取ることにした。
が、なんとその時、車のメインキーをどこかに落としたことに気付いたのだった。ポケットに入っているはずのキーが見当たらないのだ。実に「大ボケ」である。予備のキーはカメラバッグの中に入れていたために、ドアを開けたりエンジンを掛けたりする場合は何も問題はなかったので、箸蔵寺を出発するときや路肩に停めて大歩危を覗く時には、キーを落としたことには気付かなかったのだった。
落とすことがないはずのものを落としたということは、ポケットの中身をすべて外に出したということに他ならない。そうした場所はひとつしかなかった。それは、箸蔵寺境内にあった古いトイレの中である。
そのトイレは1960年頃には当たり前のようにあったと思しきもので、便器の中に物を落としたらすべて沈没してしまうといった形式のものだ。それゆえ、ポケットの中身をすべて外に置いてから用を済ませた。所用が済んでそれらを回収するときにキーだけ拾うのを忘れてしまった可能性が極めて高かった。
私は電話をかけてロープウェイ駅の係員にその旨を話し、今から駅に戻ることを告げた。結局、予想通りトイレの中にあったようで、私が駅に着いた時分には、登山口駅まで届けられていたのであった。
駅員の女性は「想像通りの場所にありましたよ」と私に言い、私はお礼と共に「場所が場所だけにウンが良かった」というと、周囲にいた駅関係者は皆、大笑いをした。
◎杉の大杉~日本一の大杉
本来の予定では国道319号線から祖谷口を左折して、祖谷渓沿いを走る最高に景観の良い県道32号線を進んで東祖谷まで達し、念願の国道439号線(通称ヨサク)に移って落合集落近辺まで進む。そこでUターンをしてヨサクを西方向に進み豊永でR319号に戻るという計画を立てていた。
それが金刀比羅宮で挫折したために、予定を変更して箸蔵寺に変更することになった。さらに、キーを落とすというヘマをしたために箸蔵寺ロープウェイに戻ることになるという無駄な時間を費やしてしまった。せめて「祖谷のかずら橋」ぐらいまでは訪ねようという計画すらも断念せざるを得なかった。
結局、次の目的地は高知県大豊町にある日本一の樹齢を誇る「杉の大杉」となった。そこはR32号線沿いにあるので立ち寄りやすく、当初から予定していた場所だった。
杉という字名の場所にあるために「杉の大杉」と呼ばれているが、そもそも字名の杉はこの大きな杉があることから名付けられたはずだ。
大杉は八坂神社の境内に聳えている。まずは神社の拝殿で参拝してから大杉と対面するというコースになっているが、いつものように私の場合は、参拝せずに写真撮影だけ行い、それから大杉へと向かった。
大杉は須佐之男命が植えたという言い伝えがあり、樹齢は2000から3000年と言われている。国の特別天然記念物にも指定されている。
写真から分かるとおり、2本の杉は根元で合着している。そのため「夫婦杉」の別名がある。南側の杉は周囲が20m、樹高は60m。北側の杉は周囲が16.5m、樹高は57mで、写真左側の南の杉の方が若干大きめである。
この杉を全国的に有名にしたのは美空ひばりである。彼女は幼い頃に大豊町へ巡業に来た際にバス事故に遭った。療養後に八坂神社を訪れ、大杉に「日本一の歌手になれますように」と願をかけたそうだ。実際に、日本一の歌手ともいうべき存在になったため、この大杉は「出世杉」という別名も有しているとのことだ。
私には日本一を目指すものはまったくないし、実際、そうした能力は皆無だ。さらに言えば満足できる人間であるよりは不満足な愚者のままで良いような気がしている。J.S.ミルさん御免なさい。
写真の通り、幹は非常に複雑な形状をしている。私がもし杉であったならやはりこうした姿であると思う。まだまだあれもしたいしこれもしたいと思うことがたくさんあり過ぎるからだ。そうした気分屋の点が凹凸を表している。少なくとも、一本、筋の通った存在ではないことだけは確かである。
◎高知城に上る
まだまだ寄れる場所、寄ってみたい場所はいくつかあったが、予定外の行動が入ったことでいささか気疲れした。それゆえ、この日は高知城を最後の目的地とすることにした。そのため、大杉からすぐに高知自動車道に乗り、最短の時間で城に向かうことにした。
それでも日が傾くのが早い時期だったため、高知城の天守がやや西日に染まり始める時間になっていた。天守内に入る時間には間に合いそうになかったが、元々、上るつもりはなかったので何の問題は無かった。
高知城は17世紀の初頭に山内一豊によって造られた。一豊は尾張国の出身で、父は信長の家臣だった。が、信長勢によって攻め込まれて討ち死にした。一豊は流浪の生活に陥り「ぼろぼろ伊右衛門一豊」と言われるほど窮していた。
父の仇であった信長に仕官を申し入れ、与力として秀吉に仕えることになった。一豊は妻の支援もあってめきめきと頭角を現し、1585年に近江長浜2万石、90年には遠州掛川5万石の城主となった。さらに豊臣方から徳川方に移り、1600年には土佐一国を得たのだった。
1601年に一豊は土佐国に入り、初めは浦戸湾に近い「浦戸城」に入ったが、周囲は湿地帯であったために不便だったことから、現在の高知城がある大高坂山(標高45m)に新城を築くことに決した。
1603年には本丸、二ノ丸の石垣工事が完成し、一豊は高知城に移ることになった。その際、大高坂山を河中山と名を改めた。確かに、城の北には「江の口川」、南側には「鏡川」が流れており、それぞれ天然の要害になっている。
写真の「追手門」は江戸時代からのもので、お定まりのように枡形虎口の形を成し、三方が石垣で囲まれている。
城内には写真の「板垣退助」像があった。板垣(1837~1919)は自由民権運動のリーダーとして知られ、1882年に岐阜で遊説中に暴漢に襲われ、「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党臨時報)の言葉があまりにも有名だが、維新前までは主戦派のリーダーとして大活躍をしている。それでも、常に敵側(新撰組や会津藩)に敬意を表して接しており、軍人としてだけでなく人間性も優れていたようだ。それゆえ、高知城内に板垣の銅像が建てられてことは、けだし当然のことと思われる。
山内一豊を語る際に欠かすことができないのは彼の正室であった「千代」(見性院)の存在であった。「良妻賢母」の代表格として知られ、夫に馬を買わせるために持参金や「へそくり」を差し出したこと、築城監督の費用を捻出するために髪を売ったことなどがよく知られている。
こうした言い伝えから城内には「一豊の妻」の像がある。それゆえ、逸話として最もよく知られている馬の鏡栗毛が、千代と並んで銅像に登場しているのだろう。
三ノ丸が完成したのは1610年のことで、これによって城の全城郭が整った。1727年に大火災がありほぼ全焼したが49年に再建され、それが現在まで引き継がれている。
写真の詰門は、本丸と二ノ丸との間に架けられた櫓門で、一階部分は特別な場合を除いて閉じられている。ここは家老たちの待ち合わせ場所に使われていたこともあって「詰門」と名付けられた。
天守閣には多くの観光客が上がっていた。9時から17時まで有料で公開されているが、入場できるのは16時半までだった。私がたどり着いたのは16時35分だったために天守に上がることはできなかった。西日を受けてやや赤く染まり始めていた天守は美しさを際立たせていた。
現存する木造12天守のひとつで、展望はかなり良さそうに思えたが、下の写真にあるように二ノ丸からの景色でも十分に満足できた。
なお、手前に見える長い屋根は詰門のものである。
写真は二ノ丸から北東方向を望んだもの。遠くには四国山地の山々が連なっている。
この石垣を下れば追手門は近い。宿は車で数分のところにある。この日は想像外の出来事が勃発したためにかなりの疲労感があった。今晩はゆっくり休めると思った。
◎竹林寺・三十一番札所
竹林寺や牧野植物園がある五台山(標高145m)は山全体が公園になっており、多くの人々が様々な目的をもって出掛けてくる高知有数の名所である。
五台山の本家は中国で、そちらは3000m級の山であり、文殊菩薩の聖地とされている。聖武天皇は文殊菩薩に導かれる夢を見たことから、行基に対し、日本にも五台山に似た山があるかどうかを探せと命じた。その行基が発見したのが土佐にある山で、標高こそまったく異なるものの山容が似ていたのでここを五台山と名付けた。
行基はこの地で文殊菩薩像を彫った。724年のことである。文殊菩薩像はこの地に安置されたがいつしかこの場所は荒廃してしまった。それを、大同年間(806~810)に空海がこの地に訪れて再興した。これが竹林寺として現在まで受け継がれている。
現在、竹林寺は四国霊場の三十一番札所になっており、写真の大師堂は1644年に建造されたものである。
写真の本堂に秘仏の文殊菩薩が安置されている。日本三文殊のひとつで、あとは京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊である。
竹林寺では本堂とは呼ばずに文殊堂と呼んでいる。またこの寺の開基は行基が文殊像を彫った724年とされているため、今年は開基1300年に当たる。それを記念して、4月中旬からから5月中旬の間、秘仏の文殊菩薩が開帳されるとのことだ。
五重塔は1980年に再建された。古くは三重塔であったが1899年に倒壊した。鎌倉様式の塔は総檜造りで高さは31.2mある。中には仏舎利が収められている。
個人的にはこの「一言地蔵尊」が好みで、一言だけ願いを叶えてくれるのだ。もちろん、私の願いは「車のカギをなくさないこと」であった。この願いの有効期限は不明だが、少なくともこの時の旅では、これ以降に紛失することはなかった。ただし、帰宅後、別の車のカギを置き忘れたことがあった(数日後に見つかった)ので、やはり有効期限はあったのかも。もっとも、信仰心がない私にはただの偶然としか考えていないのだが。
竹林寺からお隣にある県立牧野植物園に移動する際、写真の老遍路さんが階段を下りる姿を目にした。息子だか孫だかが手を携えている姿が印象的だった。この三人の遍路さんは大師に何を願ったのだろうか?
いろいろな姿の遍路さんに出会い、一体、何のために霊場周りをしているのかを聞いてみたくなる時があるが(実際、何度か尋ねているのだが)、理由は様々であっても、共通するのは「心の平安」なのだろうか?
◎今年注目の県立牧野植物園を訪ねる
竹林寺には夢窓疎石が造営した庭園があり、いつもはその場所を散策するのだが、今回は牧野植物園の徘徊に時間を掛けることにしたのでそちらは省略した。
植物学者の牧野富太郎(1862~1957)は、現在の高知県高岡郡佐川町で裕福な商家の長男として生まれた。12歳の時に小学校に入るも14歳の時に退学。『本草綱目啓蒙』などを参考に独学で植物学を学んだ。
22歳の時に東大理学部植物学教室に出入りを許されるも28歳の時に禁じられた。が、31歳の時に嘱託、そして助手として採用され、50歳の時に講師となった。65歳の時に理学博士、77歳の時に東大講師を辞任した。
86歳の時に天皇に植物学を御進講、88歳で学士院会員となった。94歳の時、五台山に「牧野植物園」の設立が決定されたが、完成を見る前に翌年、94歳9か月で死去。植物園が開園したのはその翌年の1958年だった。
この4月から、牧野をモデルにしたNHKの連続ドラマ『らんまん』が放映されるそうで、その効果もあってか、私が植物園を訪れたときにはかなりの観光客がやって来ていた。が、晩秋の時期だったために花の数は少なかったこともあり、多くの人は足早に植物園を通り過ぎ、五台山の展望台に向かっていった。
なお、写真の牧野富太郎が手にしているのは「カラカサタケ」というキノコである。
牧野は多くの名言?を残している。写真の碑は「草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して九十年」と書かれている。
もっともよく知られている言葉は「雑草という草はない」だろう。これが彼の言葉であるという根拠は必ずしも見つかってはいないが、一番有力なのは、山本周五郎が雑誌記者だった時代に牧野にインタビューした際、「雑草」という言葉を口に出したときだった。牧野は山本に対しなじるような口調で「雑草という草はない。どんな草にだったちゃんと名前が付いている」と語ったという記録が残っている?とのこと。ただし、これも確証はないのだが。
この言葉には二重の誤りがあると私は考える。ひとつは、草の名前は草自身が発したのではなく人間が勝手につけたものだという点だ。したがって未発見の草には名前はない。ふたつめは、牧野は「雑草」という言葉を下等の草だと判断している節が感じられることだ。
確かに「雑」には精緻ではないという意味もあるが、「いろいろなもの」という意味もある。雑誌は「雑につくられた読み本」という意味ではない。実際にはいい加減な雑誌が大半であるが。それなら『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)はどうだろうか?プリニウスの『博物誌』に比肩されるほど諸事万般に渡った内容が織り込まれている。
このことは以前にも触れたことがあるが、ともあれ、この牧野の言葉は、植物を愛する余りの勇み足、と解しておきたい。
NHKのことだから、おそらくドラマの中でこの言葉を使うだろう。その時には笑ってやりたいが、残念なことに、私は連続ドラマはほぼ100%見ない。
最初に温室を訪ねたのは、花が少ない時期だからという理由ではなく、竹林寺から植物園に一番近いのは南門で、その門から入ると温室を通ることになるからだ。なお、植物園の入園料は730円だが、その規模からいって決して高いものではない。
最初に目についたのは写真のバナナの花で、マレー半島に自生しているとのこと。私たちが普通に食しているバナナの原種である。
ガウタマ・シッダールタ(仏陀)はこの菩提樹の下で悟りを開いた。それゆえ、私もしばしこの木の下にいたが何も思い浮かばなかった。というより、仏陀は確かに悟りを開いたのだが、それがどんな悟りだったかはまったく不明である。仏陀は悟りを開いていない人たちにその内容を「諸行無常」「諸法無我」「十二支縁起」などの言葉で伝えただけで、本当のところは皆目分からない。それらの言葉も「方便」にすぎないかもしれないのだ。そもそも本当のことなど何も無いというところに仏教の神髄がある。
それはともかく、印度菩提樹の学名は「Ficus religiosa」である。種名に「宗教」という言葉が含まれているところが興味深い。
マレー半島原産の多年草。ショウガ科ショウガ属。高さ60から120センチで地下茎で増殖する。花序は初めは緑色で次第に赤みを帯びてくる。
アオイ科ハイビスカス属の非耐寒性常緑低木。高さは2から3m。写真の通り、反り返った花びらと長い雄しべが特徴的。5から10月に開花する。日本では宮崎県以南で路地植えが可能で、沖縄県ではよく目にすることができる。漢字は風鈴仏桑花をあてる。
熱帯・亜熱帯に咲く常緑高木。高さは8~15m。台湾南部、フィリピン、マレーシア、ミクロネシア、沖縄本土、八重山諸島などに多い。マングローブの後背や川沿いの湿地に見られる。
ひとつひとつの花は一夜限りと短命。海や川にこの花が落ちて集まる姿は風雅であるらしく、日本ではこのサガリバナの見学ツアーが盛んにおこなわれているとのこと。
アネモネの仲間だが半常緑の多年草だ。いわゆるスプリング・エフェメラルとは異なり、9~11月頃に咲く。中国原産だが、京都の貴船地区に持ち込まれ自生した。これをキフネギクというが、その改良が進んでいろいろな形の花を付けるようになった。現在では八重咲きのものに人気があるようだが、私は一重のものを好む。
温室から出て最初に見つけたのがこの花で、しかも大好きな花のひとつなのでとても嬉しかった。
シュウメイギクに並んでダルマギクもよく咲いていた。花を見た感じではダルマを連想できないが、花を付けてない状態の時に茎が短くて全体がずんぐりむっくりしているところから名付けられたとされている。
そのダルマギクに偶然とまっていたのが蛾(ガ)の仲間の「サツマニシキ」。私はこの美しいガをどこかで見たことがあったような気がしたが、名前はまったく分からなかった。蛾の図鑑でも分からなかったので、知人にメールして聞いたところ、サツマニシキと即答してくれた。
日本では関西以西に生息しているので関東で見掛けることはまずない。私は西日本にもよく出掛けるので、そのときに見たのかも知れない。
名前が分かるとネットで検索できる。「日本一美しい蛾」という表現がよく出て来た。蛾とはあまりお友達になりたくないが、この蛾であれば知り合い程度にはなってみたい。
◎浦戸湾をつなぐ渡船
鏡川の河口に当たる「浦戸湾」は奥行きがあって東西に移動するには大きく迂回する必要がある。自動車であれば「浦戸大橋」を利用すれば少し遠回りになるとはいえ、さほど面倒とは言えないが、歩きや自転車の人はとてつもない困難がつきまとう。
そこで運行されているのが県営の渡船で、一般県道の弘岡種崎線の一部を成しているということで、人、自転車、125CC以下の小型自動二輪は無料で利用できる。
浦戸には観光地として有名な「桂浜」があり、そこでは大型の坂本龍馬像に出会うことができるが、個人的には桂浜自体はそれほど魅力的な浜とは思えない。「はりまや橋」ほどではないにせよ、期待を抱いて出掛けると「がっかり度」はかなり高いと思われる(札幌の時計台と同等ぐらいか?)
それに比して、写真の渡船のある風景は桂浜より数段、趣きは上だと思うので、あえて桂浜には立ち寄らず、浦戸湾の渡船の姿をじっくりと眺めた。
坂本龍馬像には対面しなかったが、渡船の「龍馬」号との邂逅は果たした。
私がいるのは種崎渡船場で、船は対岸の長浜地区にある梶ヶ浦渡船場へと向かっている。575mの距離を約5分で結んでいる。一日に20便とそれほど多くは運行されていないが、住民にとっては欠かすことのできない「足」であることは確かだ。
船は新川川の左岸にある梶ヶ浦渡船場に向かって行く。私は一度だけ利用したことがある(ただ往復するだけの乗船だったが)が、今回は渡船場近くに空き地に車を停めたので乗船はせず、ただ岸壁から龍馬号の姿を眺めるだけにした。
こうした短距離の渡船は私の好みのひとつで、本ブログでは浦賀港の渡船を紹介したことがあるし、4月には、もっともお気に入りの「尾道渡船」に乗る予定なので、いずれ紹介することになるだろう。
◎禅師峰寺(ぜんじぶじ)・三十二番札所
今回の旅は四国の東半分を廻るのが主なので、高知市から西には進まずに東に進路を取った。土佐湾沿いを東方向に進み、お気に入りの半島のひとつである室戸岬を目指すのである。もっとも、この日はそこまで到達せず、奈半利町に宿をとっていた。
そこでまずは浦戸からさほど遠くない場所にある三十二番札所の「禅師峰寺」に立ち寄った。仁淀川や鏡川が運んだ砂が堆積した海岸線の近くにあるにも関わらず、この寺の標高は84mある。境内は溶岩だらけなので、かつての海底火山が隆起して小さな丘を造ったのだろう。
溶岩の上や窪地にはいろいろな仏像が置かれている。写真のタヌキ像は比較的新しいもののようで、近年になって出家したタヌキなのかもしれない。
南アフリカ原産の観葉植物だが花に特徴がある。日本では極楽鳥花と呼ばれているが、英名はバード・オブ・パラダイス。極楽とパラダイスではまったく意味が異なるが、その一方、極楽には本来的意味のほか、パラダイスのニュアンスで用いられることも多い。さぞかし阿弥陀如来は「極楽とんぼ」の奴らめ、とお怒りのことと思われる。
日本の極楽鳥花の名はパラダイスとは関係なく、世界一美しい鳥といわれる極楽鳥の姿に似ているところから付けられたとされている。もっとも、あえて極楽鳥と和名を付けている点も本来の意味からすれば誤用と思われるが。
この寺にこの花が植えられているのは、極楽を宗教的意味で解したことによると考えられるのだが。
聖武天皇の命で、海上の安全を祈願するために行基が堂宇を建てたことがこの寺の始まり。その後、空海がこの寺を訪れたときに、山容が補陀落山の八葉の蓮台に似ているところから「八葉山」と号し、自ら十一面観世音菩薩を彫って納め「禅師峰寺」と名付けたとされている。
境内はこじんまりとしている。が、いろいろな岩があちこちに存在するので、岩好きの私としては見飽きることがない。
小高い場所にあるため、桂浜方面の展望もなかなか美しい。
この寺には松尾芭蕉の句碑があり、「木枯しに 岩吹きとがる 杉間かな」の句が書かれている。
◎神峯寺(こうのみねじ)・二十七番札所
土佐湾をさらに東へと進んだ。「高知龍馬空港」の南側を通り、国道55線に出会った。ここから国道は、土佐くろしお鉄道の「ごめん・なはり線」と並ぶかのように海岸線近くを走っている。山が海岸線近くにまで迫っているために鉄道も道路も海岸線を通らざるを得ないのだ。
さらにいえば鉄道は高架になっている。この鉄道をあえて高架にしているのは、踏切をなくす目的というより津波対策という面がその理由かと思われる。
阪神タイガースがキャンプをする場所としてよく知られている安芸市を過ぎ、安田町に入ると私は国道からも海岸線からも離れ、山の中へと車を進めた。急に山が恋しくなったという訳ではなく、二十七番札所である神峯寺(こうのみねじ)へ向かうためだ。
境内は標高400~430mのところにあり、海岸線からの登り道はかなり急だ。それゆえ、道路が整備されたのも近年になってからのことで、以前はタクシーを利用しても急な山道を30分は歩く必要があった。
現在では標高375mのところに駐車場が整備されているので、アクセスは案外、楽になったが、歩き遍路の人にとっては「遍路転がし」のひとつになっている。なにしろ、坂は急で、「まっ縦(たて)」と言われるほどの難所だったのだ。
もっとも、道が整備されたとはいえ、幅はかなり狭く、九十九折れの急坂が続くため、対向車とすれ違うにはかなりの困難と注意を必要とする。
寺の起源は神功皇后の世に天照大神を祀る神社であったとされ、聖武天皇の時代に行基が十一面観世音菩薩を彫って納め、さらに809年、空海が「観音堂」を建立したという歴史を有する。
写真のように本坊(標高401m)から本堂までにも写真のような急坂がある。比高は30mもないが、私のような怠け者にはかなりきつい階段だった。
隣の安芸市には岩崎弥太郎の生家がある。弥太郎の母は息子の開運を祈願するために片道20キロ、しかも「まっ縦」の道を21日間、毎日裸足で往復したという逸話が残っている。
母の願いが叶って弥太郎は三菱財閥を築いた。母や弥太郎にとっては運が開けたのだろうが、世の人々にとってそれが幸運だったのか不運だったのかは評価が分かれることだろう。
写真の経堂はかつては大師堂に用いられていたが、新たに大師堂が建てられたため、現在では聖観音堂として「聖観音立像」が納められている。また、正面には「仏足石」が置かれている。
正面から見る限り、本堂はかなりくたびれている様子だ。
が、この角度から見るとなかなか立派な造りで、神殿を思わせる雰囲気もある。
こちらが新しく建てられた大師堂。かつての大師堂は本堂と回廊で繋がっていたほど近くにあったが、現在のものは本堂とはやや離れた位置にあり、しかも本堂よりも高い位置に存在する。
写真の唐浜駅は神峯寺の最寄り駅。標高は11mのところにあり、境内までは3900m、比高は420m弱と、たとえ鉄道利用であっても結構な時間と体力を必要とする。私にはとても真似はできない。
次の目的地に行く途中、何気なく駅を振り返り見ると2人のお遍路さんが列車待ちをしていたので、車を路肩に停め、駅まで歩いていって列車を待つ姿を撮影することにした。時刻表を確認するとほどなく列車が来る時間だったので、ホームにて到着を待った。翌日は「ごめん・なはり線」という興味深い鉄道なので乗車を試みる予定でもあったからだ。
ところが、冒頭の写真にあるように、車両は土佐くろしお鉄道のものではなく、相互乗り入れをしているJR土讃線のものだった。しかも後で調べて判明したことだが、奈半利駅まで乗り入れているのはすべてJRのものだということが分かった。という訳で翌日の乗車は断念した。
このお遍路さんは高知行きに乗車するのだから、順打ちだとすれば「野市」駅で降りて二十八番の「大日寺」に向かうのだろう。
◎モネの庭・マルモッタン
北川村は中岡慎太郎の出身地で、生家や記念館が公開されている。中岡慎太郎の面影を追うために北川村に立ち寄ったのだが、その途中に「モネの庭・マルモッタン」があることを知ったので見学してみることにした。
モネは人生の多くを庭づくりにかけていたが、その「モネの庭」を再現してその名を用いることができるのは、北川村にあるこの場所が世界で唯一とのことだ。
敷地は3万平米あり、モネが1890年から1920年代にかけて庭づくりに勤しんだその姿を、とくに『睡蓮』に主眼をおいて「モネの池」を再現している。
写真は、この公園の代表的な池で、確かに睡蓮をテーマにしたモネの一連の作品群の中にありそうな姿ではあった。
一方、高台には「ボルディゲーラの庭」も「再現?」されている。1883年12月にモネはルノワールとともに地中海沿岸をマルセイユ、サンラファエル、モンテカルロ、さらにリヴィエラのボルディゲーラと旅をした。84年の1月からはそれらの中でもっとも気に入ったボルディゲーラを一人で旅し、多くの作品を残した。
そこで、この「モネの庭」では一連の作品からヒントを得て、ボルディゲーラの庭を作成した。個人的にはその庭の良さを理解できなかったが、敬意を表するために池だけを撮影し、上のように「ボルディゲーラの池」として紹介してみた。
今までだったら「モネの庭」という言葉にはほとんど反応を示さなかった私だが、大塚国際美術館で絵画への関心が高まってしまったため、入場料1000円を払って見学してしまった次第である。
◎中岡慎太郎に出会う
幕末の志士を一人だけ挙げよという質問が成された場合、大半の人は坂本龍馬の名を挙げるのではないか?実際、桂浜の一等地に巨大な坂本龍馬像があることからもその人気の高さをうかがい知ることができる。
坂本龍馬の人気が高いのは、その多くは司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響ではないかと個人的に思っている。ただ、この作品の竜馬像には誇張された部分、史実に反する部分が多いとの批判がよく挙がる。しかし、あくまでもこの作品は「娯楽小説」なのであって、歴史学の論文ではないのだから素直に楽しめば良いと思うのだがどうだろうか?
史実に少しだけ忠実であろうとするなら、坂本龍馬がおこなったとされるいくつかの出来事は、実は中岡慎太郎によるものである。その代表が薩長連合、薩土密約、大政奉還で、いずれも坂本龍馬ではなく中岡慎太郎が主導したとの説が有力になっている。
中岡慎太郎は1838年に北川郷の大庄屋の長男として生まれた。武市瑞山(半平太)に剣術を学び、武市が組織した土佐勤王党に加わっている。学問熱心で、久坂玄瑞と共に松代へ行き佐久間象山と議論を行っている。
下関戦争で長州が英・米・仏・蘭に敗れるのを目の当たりにしてからは、攘夷派から開国による富国強兵策に転じ、薩長同盟の実現を目指した。また、乾退助(のちの板垣退助)を京に呼び寄せて西郷に面会させた。
1867年11月15日に近江屋事件が起き、坂本龍馬とともに暗殺された。中岡は2日間生き延び、谷干城に襲撃の様子を詳細に語り、香川敬三に岩倉具視への伝言を託した。
後に板垣は、中岡慎太郎は人柄も立派であり、西郷や木戸孝允と肩を並べて参議になるだけの智略と人格を備えていた、と語った。
また見識、手腕、弁舌、剣術のいずれも、はるかに坂本に勝ると、後世に田中光顕は語っている。また、三条実美と岩倉具視を結びつけたのも中岡の業績だとも語っている。
モネの庭には大勢の観光客が集まっていたが、中岡慎太郎館を訪れていたのは私ひとりだけだった。ことほど左様に、中岡慎太郎への注目度は低い。残念なことである。