◎金剛頂寺~二十六番札所
四国の旅は後半を迎えた。2日後には徳島港からフェリーを使って和歌山に移動し、今度は紀伊半島を巡る旅となる。
四国の旅で欠かすことができない場所はいくつかあるが、そのひとつが「室戸岬」だ。四国の岬といえば「足摺岬」と「室戸岬」が双璧となるが、かつては釣り場に近いこともあって前者にばかり足を向け、後者に出掛けたのは四国詣でが霊場巡りをも兼ねるようになってからのことだ。
すぐ下に紹介する最御崎寺(ほつみさきじ)を訪ねたついでに室戸岬に立ち寄ったのだが、その変化に富んだ海岸線に触れた瞬間にすっかり魅せられてしまった。また、足摺岬とは違って海岸線に簡単に降りられることも楽しさは倍加するのである。
その点については後に触れることにして、まずは二十六番札所の金剛頂寺について簡潔に記すことにする。
室戸岬はなめらかに鋭く尖った先端部にあるが、西海岸をよく見ると、やや大きめの出っ張りがある。これが行当岬で、その岬の付け根部分の高台にあるのが金剛峰寺。本堂は標高161mのところにある。国道55号線から細い山道を上がってゆくが、前回に紹介した神峯寺ほどの高さはないため、困難度は3分の1程度であろうか。もっとも、私はただ車で行くだけなので歩き遍路とは比較にならないほど楽な点は同じであるのだが。
弘法大師伝によれば、当寺の二代智光上人は世に隠れた二人の聖人の一人で行力第一の人だったとのこと。もう一人は室生寺の聖恵大徳で知恵第一の人だった。
当寺は平城天皇の勅願により空海が薬師如来像を彫像して807年に創建された。当初は「金剛定寺」と名付けられたが、嵯峨天皇が「金剛頂寺」の勅額を奉納したことで、現在の名に定着した。
本堂は1982年に再建された立派なものである一方、大師堂は現在改修中とのことなので、写真のように本堂の右端に「仮大師堂」が設置されている。
◎最御崎寺(ほつみさきじ)~二十四番札所
室戸岬のほぼ先端部にあるこの寺も、やはり国道55号線から山坂道を上った場所にある。写真は、駐車場から行当岬方向を望んだもの。手前側にある比較的大きな港が室戸漁港である。
その先にも港(室津漁港)が見えるが、その港のすぐ山間に二十五番札所の「津照寺」がある。この寺の規模は小さく、ここが八十八霊場のひとつ?といささか首を傾げたくなるほどの存在であるため、今回は(も)立ち寄らなかった。私は信仰心に触発されて霊場巡りをしている訳ではまったくないので、その寺には一回しか出掛けていない。
写真の「お迎え大師像」はひとつ前の写真を撮影した場所のすぐ南側、つまり駐車場のすぐ隣に存在する。ここから右手にある階段を上がってゆくと山門に出る。なお、この場所の標高は139m、山門は163m地点にある。
山門は南側に向いており、左手には修行大師像がある。
最御崎寺は土佐国最初の霊場で、阿波国最後の霊場である薬王寺(のちに紹介)からはなんと76.7キロも離れている。海岸線を通る平坦な道が多いが、その多くは国道55号線を歩くことになるので自動車の動きにも注意を払う必要がある。その点から、一種の”遍路転がし”のひとつでもあると思われる。
ちなみに、阿波国の霊場(1~23番)は「発心の道場」、土佐国の霊場(24~39番)は「修行の道場」、伊予国の霊場(40~65番)は「菩提の道場」、讃岐国の霊場(66~88番)は「涅槃の道場」と言われている。
境内はかなり広めで多くの「見どころ」がある。
嵯峨天皇の命で空海は無限の知恵を持つとされる「虚空蔵菩薩像」を彫像し、本寺を開基した。なお、「最御崎」は「火(ほ)つ岬」が由来とされている。海に向かって聖なる火を焚くという風習があったことから、この岬の先端という位置は、航海の安全を祈願する場所に選ばれていたのだろう。
この古い鐘楼堂は、土佐藩主第二代の山内忠義が1648年に寄進したとされている。現在は新しい鐘楼堂が建てられており、この堂は用いられていない。
通常は本堂から先にお参りし、それから大師堂へと進むのだが、この寺では大師堂のほうが手前にあるため、本堂の前に参拝してしまう人が多いそうだ。もちろん、「形式」にこだわるお遍路さんにとって建物の位置関係などは問題にせず、まず先に本堂に参拝するだろうが。
本堂には虚空蔵菩薩像が安置されている。なお、ご本尊が虚空蔵菩薩なのはここと、21番の太龍寺、13番の焼山寺の三寺だけだそうだ。この2つの寺は次の回で紹介することになっている。
◎室戸岬~数々の奇岩と対面
大好きな室戸岬に立ち寄った。駐車スペースの近くには写真の中岡慎太郎像がある。1935年に高村光雲の弟子であった本山白雲が作出した。
高知県出身の白雲は土佐の偉人の彫像を多く残している。桂浜にある坂本龍馬像、高知城にある板垣退助像、山内一豊像はいずれも彼の作品である。
誰の選択かは知らないが、室戸岬に坂本龍馬像ではなくて中岡慎太郎像を置いたのは極めて賢明であった。
室戸岬周辺は、南からの圧縮を絶えず受け続けているために地層が変形しやすいことから奇岩が多いことでも知られている。写真は、その奇岩越しに室戸岬灯台(標高142m)を望んだものである。
中岡慎太郎像の前方にある海岸は「灌頂ヶ浜」と呼ばれ、ここに夥しい数の奇岩が林立している。
この浜の岩質は基本的には「タービダイト」といって混濁流や乱泥流によって堆積した砂岩と泥岩の互層からなる地層で、水深約4000mのところで形成された。興味深いことに、ここの泥や砂は遠く富士川の河口から南海トラフに沿って運ばれてきたものとのことだ。それがフィリピン海プレートからの圧縮を受け、多くは沈み込んでしまったものの一部は付加体として地上に姿を現した。
その際、横からの圧力を大きく受けたため、水平に堆積した層が褶曲(しゅうきょく)したり、回転したりして、ねじ曲がったりほぼ垂直に切り立ったりしているのである。
上の写真では、そのタービダイトがほぼ垂直に屹立してしまった様子が確認できる。
上の写真の場所はいわゆるスランプ構造といって、地層が極端に不整形になっている。
これもスランプ構造のひとつかも知れないが、地層が本来の姿である水平状態を保っているものと圧縮されて垂直になってしまったものとが同じ場所で見られるのである。
こうした地層が変形してしまった姿が至るところで見られるのが室戸岬の魅力である。中岡慎太郎は明治維新を見ずに生涯を終えてしまった。が、その後の維新政府の無様な経緯を目の当たりにするより、こうした大地の、人知を超えた想像を絶する営為を眺めている方が、彼にとっては心の平静を保ち、心豊かに日々を過ごせるのではないだろうか。
室戸岬を少しだけ東に回り込んだ場所に、空海が修行した場所として知られる海食洞がある。灌頂ヶ浜から遊歩道を歩いていくこともできるし、洞窟の前の広場に車をとめて見物することもできる。
一時は崩落の危険もあって見学は中断されていたが、現在は中をのぞくことが可能になっている。
なお、写真右手にある洞窟前の囲いは「神明窟」の出入口である。
出入口には写真のような無粋な囲いが設けられてしまった。が、こうした落石防止措置が取られたため、見た目はかなり不細工ではあるが、洞窟内に入ることができるようになったので、致し方ない処置と考えるべきだろう。
中には、写真のような石碑が置かれ「弘法大師修行之処」の文字が掘られている。
延暦11(792)年、青年如空(空海の前の法号)は、この洞窟内で修行を続けた。「土州室戸崎に勤念す。谷響を惜まず、明星来影す。心に感ずるときは、明星口に入りて、虚空蔵光明照らして来たりて菩薩の威を顕し、仏法の無二を表す」と『三教指帰』にあるように、如空はここで悟りを得た。その時、洞窟内から見えたものは空と海だけだったため、彼は法号を「空海」と改めたとされている。
お隣の神明窟が主に修行の場とされており、悟りを開いたのは御厨人窟ではなく、神明窟とされている。御厨人窟が生活の場、神明窟が修行の場と考えられているからだ。
その神明窟の奥には写真の祠(神明宮)が置かれている。
洞窟前の海岸沿いには写真の「弘法大師行水の池」がある。この窪地はノッチ(波食窪)と呼ばれるもので、空海はここで行水をしたそうだ。現在でも波が荒い時にはここに海水が入り込むだろうし、ましてや空海の時代には地面は現在よりも6mほど低かったので、ここには海水のみが溜まっていたはずだ。伝説では海に近いにもかかわらず真水で満ちていたということになっているが、当時の地形を考えれば海水以外には考えられない。
海水浴はかつて「塩湯治」と呼ばれていたので、塩水に浸かることは不思議でもなんでもない。また、この辺りの海食崖には真水が湧き出す場所はいくつもあったはずなので、水の確保にはさして苦労はいらなかっただろうと考えられる。
御厨人窟の眼前には灌頂ヶ浜とは異なる岩質の岩場が広がっている。多くは玄武岩質の「斑レイ岩」という黒色の中粒から粗粒の深成岩(火成岩)で、斜長石、輝石、かんらん石で構成されている。
1400万年前にマグマがほぼ水平に貫入し、それが冷え固まったのちに横からの圧力を受けてほぼ垂直に傾いた形状を成した。それが写真のビシャゴ岩や、下に挙げたエボシ岩の元になった。それらは浸食の影響を他よりは少なく受けたために、このような形状を残している。
また、マグマが砂や泥から成る地層に入り込み、それらを焼いて岩の性質を変えたものをホルンフェルスというが、写真の岩のうち黒く変色しているのがそれで、”岩のやけど”と言われている。
エボシ岩の名を聞くと茅ケ崎沖の岩礁を思い起こす。一時はよくクロダイ釣りに出掛けた場所だからだ。ここにあるエボシ岩は湘南のものよりは”エボシ度”は小さくて低いが、そう言われてみれば納得するしかないという代物だった。
表面をよく見るといくつか穴の開いている箇所がある。これはタフォニという現象で、本ブログではお馴染みの用語だ。今回も後ほど、その典型が登場する。
各地にジオパークセンターがあり、ただパンフレットを置いただけの場所もあれば、周辺の地質について詳しく紹介しているものもある。こちらは後者で、室戸岬の特徴を理解するのに大いに役立たせてもらった。
◎鹿岡(かぶか)の夫婦岩
国道55号線を北上していたときに目に入ったのが、この大きな石が並んだ風景だった。ロードマップには「鹿岡(かぶか)の夫婦岩」とあったので、2つの岩を想像していたのだが、実際には大小の岩がいくつも並んでいた。
いつもはこの姿を車の中から眺めるだけだったのだが、今回は初めて駐車スペースに車をとめて間近の距離からこの巨石群を眺めた。
しめ縄は海側の2つの巨石に結ばれており、この組み合わせが「夫婦岩」の名の由来になっているようだ。が、個人的には、いくつもの巨石群全体に見応えがあるのだから、他の名前でも良いような気がしている。
巨石群は海に向かって一列に並んでいるので、これらはマグマの貫入によって造られ、それが長い間に風化して現在のような形になったのだろう。以前に紹介した和歌山県串本町の橋杭岩はこの大型版である。あちらは弘法大師が造ったという伝説があるが、こちらは誰が造営したことになっているのだろうか。御厨人窟で悟りを開いた空海が、少しばかり出張して、手始めにこの巨石群を作成したのかも?
◎宍喰(ししくい)の海岸線
室戸市から東洋町を過ぎて宍喰(ししくい)の町に入った。現在の住所名は徳島県海部郡海陽町宍喰浦である。再度(正式には再々度)、阿波の国に入った(戻った)のだ。
宍喰とは奇妙な名称だが、阿波の釣り人には馴染みのある地名だ。徳島県人は私が好むメジナ釣りをもっとも得意とし、数多くの名人を輩出している。関東では釣りといえば船釣りがメインだが、徳島では釣りといえばグレ(メジナの地方名)を狙うウキ釣りか鮎の友釣りを指す。「阿波釣法」という言葉があるほど、この地の釣り方は全国に波及している。
私は取材で何度も徳島の名人に同行してもらったが、彼ら彼女らがメインフィールドにしていたのがこの宍喰の磯なのだった。それだけに、この風景に触れると、当時のことが懐かしく思い出される。
今回の旅は釣りとは全く無関係なので、磯場に出掛けても竿を出すわけではなく、沖にある小さな島に囲まれた水床(みとこ)湾の地磯に大きな「風化穴」があるというので見学に出掛けた。
写真から分かるとおり、岩肌の一部が大きく欠落し、その中にハチの巣のような小さな穴が無数に開いている。これはタフォニという現象で、本ブログでは何度も登場している。
溶岩が固まるときに塩分を含んだ海水が岩の間に入り込み、やがてその塩分が結晶化すると岩の隙間が大きくなる。それが風化によって岩肌の一部が剥がれ落ちると写真のような穴が現れるという次第である。内部にタフォニが数多く出来る場所では、それを覆っていた広い体積の岩肌が崩落することがある。それが大きな風化穴で、その内部には小さな風化穴を数多く見ることができる。
大きな風化穴を有する二つの大岩の間に別の岩が挟まった状態にあった。山陰の項で見た「はさかり岩」の小型版である。
今回は触れてはいないが、近くにはリップルマーク(漣痕)の様子を観察できる場所がある。これは海水がさざ波を規則的に繰り返すことで、堆積層の表面に波状の痕跡を作るもの。三浦半島の海岸線でもよく見られるので、釣りの合間(三浦はあまり釣れないので退屈しのぎに岩の様子を見て歩くことが多くなる)に探し回ることがある。
◎DМVに初乗車
徳島県南部を流れる海部川はかつて「日本一の清流」と言われ、NHKでも何度か紹介されたことがある。水質が良いので美しい鮎が釣れるとのことだった。そのため、徳島南部や室戸岬に出掛ける際に何度か下流部分をのぞいてみたのだが、とくに美しいとは思えなかった。
そこで今回は、中上流部まで様子を伺いに行った。が、確かに水は澄んでいたものの、周囲の景観が必ずしも水の美しさとはマッチしていなかった。どうも、古座川の支流の小川(こがわ)に触れてしまったあとでは、採点の基準が厳しくなってしまうようだ。
海部川探索を断念して国道55号線に戻るとき、鉄道が走っているはずの高架にバスが通過している姿を見たのだった。この不思議な光景を解明するために、私は最寄りの海部駅に立ち寄ってみた。
阿佐海岸鉄道の海部駅から甲浦駅間はJR牟岐線の延長部分として運行されたが、あまりにも乗客数が少ないために減便を余儀なくされた。そこで阿佐海岸鉄道としては独自の運営を行うため、2017年にDMV(Dual Mode Vehicle)の導入を決定し、2020年までの運転を目指した。しかし、世界初の本格的運行ということで問題がいくつか発生したために、実際に運行が始まったのは21年12月のことだった。
DMVは鉄道の軌道と一般の道路の双方で走ることが出来るものだ。写真から分かるとおり車体はボンネットバスに似ているが、軌道を走る時は格納してある車輪を下ろす。
右側に写っているのは、それまで阿佐海岸鉄道を走っていた気動車(ディーゼル車)で、DMVは普通の車両に較べるとはるかに小さいことが分かる。
私が、高架線をバスが走っていると見間違ったのはむべなるかなで、本当にバスが車輪で鉄道を走っていたのである。
この姿を見て、是非とも乗ってみる必要があると考えてしまった。が、次に来た赤い車体の車両(バス?)も上りだった。海部駅からだと終点までいくらもないので、それでは面白みがない。
時刻表を見ると、最初に見た青い車両がさほど待たずに来るようなので、それに乗車することにした。
青い車両がやってきた。確かに鉄輪で走行し、タイヤ(前輪)は浮いた状態であることが分かる。
定員があり(座席18人、立ち席3人)、定員を超すと乗車できない。そのために、会社では予約を推奨している。もちろん私はそんなことは知らなかったので予約はしていなかったが、最初に乗った下り線は10数人の団体客が乗っていたので座席はかなり埋まっていたものの乗車は可能だった。
鉄輪で走るのは「阿波海南駅」から「甲浦停車場」まで。出発点の「阿波海南文化村」から「阿波海南駅」までと、「甲浦停車場」から「道の駅・宍喰温泉」はバスモードとなる。
写真は、後部の鉄輪を浮かせてタイヤのみで道路を走ることができるようにしているところ。ただ、画面はあくまでもビデオなので実際にモードを切り替えている場面を見せている訳ではない。
バスモードに変わったDMVは一般道を走るために高架を下りてゆく。
終点の「道の駅・宍喰温泉」で下車した。
この車両はトヨタ製で、トヨタのマイクロバスにボンネットを付けて前輪を格納できるスペースを作っている。基本的にはバスなので運転はハンドルとペダルで操作する。もちろん、鉄輪走行のときはハンドル操作は不要。アクセルとブレーキは鉄輪走行の際でもペダルを利用する。
宍喰温泉バス停?ではとくに用事がないため、トイレに行ったり道の駅の売店をのぞいたりして時間を潰した。
やがて上りのバスがやってきた。今度の車両は赤色の3号車だ。ちなみに、DMVは現在3両体制で、1号車は青、2号車は緑にペイントされている。
また、1号車は「未来への波乗り」の愛称があり、側面にはサーフィンの絵が、2号車は「すだちの風」で、すだちとシラサギの絵が、3号車は「阿佐海岸維新」で、龍馬と輝く太陽の絵が、それぞれ描かれている。
次の停留所は「海の駅・東洋町」で、そこまでは国道55号線を進む。
両停留所の間には「古目峠」を貫くトンネルがある。バスはなんと南下しているのだ。
「海の駅・東洋町」が見えてきた。宍喰は徳島県、東洋町は高知県にある。バスは一旦南下して高知県に入り、東洋町にある甲浦を目指すのだ。
甲浦停車場は海岸線からやや離れた内陸部にある。そのため、国道55号線を離れてかなり狭めの道を進むことになる。
甲浦停車場で高架にある軌道に移るので、写真のように少し坂を上がることになる。
こうしてDMVは道路から軌道へと移動することになる。
「停」の場所でDMVは一度停車し、ここでバスモードから鉄道モードに切り替えるため鉄輪を下ろす。
鉄輪を下ろす様子もビデオで確認することができる。
鉄道モードに切り替わり、甲浦停車場を鉄道として出発する。
DMVは宍喰駅に到着した。写真から分かるとおり、この駅は列車交換駅として建設されたが、運行本数が激減したため、もはや片側の線路は不用になったために撤去されている。
海部駅に戻って来た。ここも、かつては列車交換駅として利用されていたが、現在は不用になった気動車が展示?してあるのみだ。また、右手前にあるホームは気動車が走っていた当時のもので、DMVはマイクロバス程度の地上高しかないため高さのあるホームは必要ない。そのため、写真ではやや分かりづらいが、古いホームの先にDMV用の低いホームが造られている。
車両のドアからは小さなタラップが出て、ホームに降りやすいようになっている。完全にはバリアフリーではないが、足腰が弱い人には少し助かる。
DMVは次の「阿波海南駅」に向けて出発した。そこでまたバスモードに切り替わるのだ。
なお、DMVは後輪駆動で後部タイヤを回して動いている。前輪がレールに接地しているとカーブが切れないが、後輪タイヤはレールに接地していて、それで駆動力を得ている。そのため、車体は前方が少し浮き上がっているのだ。
DMVに今一度乗りたいかと聞かれたら「否」と答えるだろう。また、DMVそのものの必要性もあまり感じられない。国道55号線は十分に整備されているので、バスでの代用は可能であろうし、津波対策のための高架橋を利用するなら、「バス・ラピッド・トランジット(BRT)」の方が安上がりなのではないかと思われる。つまり、軌道をて撤去して舗装し、バス専用レーンにすれば良いのだ。このBRTなら、全国各地で行われている。以前に挙げた八高線だって、いずれはBRTに変身するかも知れない。
確かに「世界初」は話題になるだろうが、それも一時的なのではないだろうか?実際、行きは団体客がいたが、フリーの客は私ひとりだけ。帰りは海部駅までの乗客は私ひとり。以降は空気を運んでいるだけだったのだ。
いずれ、赤字を解消するために「銚子電鉄」のような作戦に出るような気がしてならない。ただそれも、銚子電鉄は首都圏に近いというメリットがあっての作戦成功なのだが。
◎南阿波サンラインを走る
室戸岬や予定外のDMV乗車があったため、牟岐町に予約してあったホテルにはやや遅い時間に到着した。初めは阿南市に宿泊する予定だったが、たまたま牟岐町に良さそうな宿泊施設があったので、こちらに決めたのだった。それがたまたま正解だったようで、もし阿南市に泊まるスケジュールだったらDMVには乗れなかった蓋然性が高い。
牟岐町には釣りによく来ていたので馴染みはあった。しかし町中を散策することはなく、朝暗いうちに渡船に乗って「牟岐大島」に渡り、夕方に港に戻り、それからすぐに徳島市内の宿に戻るというスケジュールであった。それゆえ、牟岐町の名には馴染みがあっても町の様子に触れたことはなかった。
牟岐町を通過するだけのとき、さらにいえば時間に余裕のあるときには、内陸部を走る国道55号線は使わず、海岸線を走る県道147号線を利用した。この道は「南阿波サンライン」の別名があり、海食崖の上を走る道のため眺めはかなり良い。反面、道が曲がりに曲がっているため走行にはかなりの注意を必要とし、もちろん時間も多く掛かる。
写真は、サンラインの展望台から牟岐大島を眺めたもの。10数年前は、この島に渡ってメジナ釣りをよくおこなった。もっとも阿波釣法の名人の取材が主だったが。
道は標高90から120mのところにある。結構、森の深い場所を通るときもあるが、こうして真下の海岸線を望めるところもあって、なかなか楽しい道なのだ。しかも車はほとんど通らないので自分のペースで走ることができる快適なワインディングロードなのである。
◎薬王寺~二十三番札所
県道147号線は、日和佐の町並みに近い場所で国道に合流する。
日和佐町は隣の由岐町と2006年に合併して美波町となった。町村合併にどれだけの意味があるかどうかは不明だが、日和佐の名が小さく扱われるようになったのは残念なことである。ただし、日和佐駅、日和佐川、日和佐城、道の駅・日和佐などのほか、コンビニの名にも日和佐が残っているのは賢明な措置だ。「日和佐」ならばすぐに徳島の町をイメージできるが、「美波」では海岸線がある場所なら日本全国、どこにでもありそうな名前だ。
その日和佐にあるのが二十三番札所の薬王寺である。先にも触れたようにここは阿波国最後の札所で、次の札所までは80キロ近くもあるのだ。
医王山無量寿院薬王寺が正式名称で、厄除けの寺として全国的に知られている。山門から写真の「女厄坂」33段、「男厄坂」42段を上がると本堂に出る。
聖武天皇の勅願によって行基が開基した。815年、空海が42歳のとき、自分と衆生の厄除けを祈願し、厄除薬師如来像を彫像して本尊とした。
写真の本堂は1908年に再建されたもの。
丘陵の斜面にあるので、日和佐の町並みが一望できる。境内自体はこじんまりとしているが、なかなか味わいのある寺で、信仰心がまったくない私でも立ち寄ってみる価値は十分にあると思っている。
◎平等寺~二十二番札所
平等寺には特別な思いがある。もっとも、それはこの寺そのものではなく、この寺の仁王門前で、ある若者と話し込んだことによる。
彼は30代半ばの壮健そうな人物で、現在(といっても彼と出会ったときなので20年以上も前のこと)は歩き遍路を中心に生活しており、普段はアルバイトなどで収入を得ているとのこと。
私は普段着であったが、彼にしてみれば普段着姿にはとても見えず、遍路姿をしていないだけで十分に薄汚れた姿で遍路旅をしているように見えたらしい。そのため、彼の方から私に話しかけてきたのだった。
問わず語りに彼は私に、歩き遍路に生涯を掛けるようになったいきさつを話してくれた。彼は大学卒業後、大手の自動車会社に技術者として勤め始めた。大学といいその会社といい、西日本では超エリートが進む道を順調に進んでいた。しかし、20代の後半になって日常がマンネリ化をしたと感じたために、長期休暇を取って歩き遍路に挑戦した。
そこで彼はそれまで順風満帆であった人生に疑問を抱き、家に帰るとすぐに辞表を書いて会社を去り、それから本格的に歩き遍路の人生をスタートさせた。が、遍路を何度も繰り返すうちに1400キロの道程はまったく苦ではなくなり、楽々30日以内でクリアーできるようになったそうだ。
が、そんな遍路生活では今までのエリート生活とは何ら変わりがないことに気付き、今ではのんびりと、かつあちこち寄り道をしたり、出会う人に話しかけたりしながら霊場巡りを年に6回ほど行っているとのことだった。
私には信仰心はまったくなく、霊場を巡っても参拝は一度もせず、ただただお遍路さんが存在している姿を見るだけのために四国に来ているのだと話をすると、彼はそのことを十分に理解してくれたようだった。
仏に何かを祈願するのではなく、仏がいるであろう寺(世界)や遍路道に居て、仏も忘れ、自己も忘れ、ただひたすら旅を続けることに意味があるのかも知れないし、仮に意味など見つからなくても、自分自身が無であるという境地に至れることが、彼を遍路道に誘っているとのことだった。
と言いながら、彼は「まだまだお遍路を続けたい」という「我」があるうちは駄目ですよね、と笑っていた。
そんな彼に出会ったことで、私は霊場巡りにすっかりのめり込んでしまったのだった。久し振りではあるが、相変わらず、参拝はしないという態度は不変のままに。
平等寺は、人々の心と体の病を平等に癒し去るという誓いをたてた空海が814年に創建したとのこと。
本尊の薬師如来像はいつでも拝観できるそうだ。というより、いつでもどこでも自由に拝観でき、もちろん写真撮影もすべて可能というのがこの寺のポリシーなのだ。
本堂には3台の箱車が置いてある。医者に見放された足の不自由な人がここで霊験を授かって足が治ったことから箱車を奉納した、という由緒があるらしい。
想い出に耽っていたために、絶えることなく湧き出ると言われる「白水の井戸」に立ち寄ることを失念してしまった。「弘法の霊水」とも言われ、万病に効くとも言われる湧水のことを、湧水好きの私は忘れていた。
「白水山医王院平等寺」の湧水は体や心の病は癒すが、私の馬鹿は死んでも治らない(治せない)。