徘徊老人・まだ生きてます

徘徊老人の小さな旅季行

〔88〕よれよれ西国旅(8)四国から和歌山、そしてちょっぴり奈良へ~魅力的な川を発見!

紀伊半島の南端~古座川・小川(こがわ)の朝

南海フェリーに乗って阿波から紀伊

南海フェリー徳島港ターミナル

 淡路島と四国東半分の旅は昨日で終え、今日は10時55分発のフェリーに乗って和歌山港へ向かい、今度は和歌山、奈良の旅を始める。翌日の夕方、50年来の友人が和歌山の南紀白浜まで自分の車でやってくることになっている。彼は和歌山、奈良で5泊するので、明日の夕方からはしばし二人旅となる。

 南海フェリーの発着所はホテルから車で10分以内のところにあるので、朝はのんびりとホテルで過ごし10時少し前にホテルを出ることにしていた。しかし、こんなときに限って朝早く目が覚め、といってホテルにいてもやることがないので、ターミナルには予定より30分以上も早く着いてしまった。

 新町川左岸の河口近くにあるターミナルは小さな売店しかなく、周囲にもこれといった施設もないため、ただただ乗船時間まで無為に過ごした。おまけに、ホテルからフェリーの割引券をもらっていたのだが、ドライブスルー方式を利用して乗車券を購入したため割引券を使うことを失念してしまった。窓口で購入すれば2千円ぐらいは安くなったのに。早起きは「三文の損」であった。

 和歌山港着は13時05分。2時間10分の船旅は退屈そのものと考えられるし、かといって寝込むこともできないため、とにかくデッキに上がってのんびりと景色を眺めるしか方策はないだろうと思った。 

かつらぎ丸が離岸

 「かつらぎ丸」は全長108m、総トン数は2620t。僚船の「あい」は長さは同じで総トン数だけが200tほど重いだけ。紀伊水道を行き来するには手頃な大きさなのかもしれない。

 車両も乗客も定員の7割程度。トラックの運ちゃんたちは専用のスペースでゆっくり休息を取り、一般の乗客はデッキに上がって景色を眺めたり、客室で仮眠、談話、食事などで時間を潰していた。

 定刻通り、かつらぎ丸は離岸し、新町川の河口へ進路を取った。

徳島市のランドマーク・眉山とお別れ

 私は最上段のデッキに上がり、まずは徳島市内方向に目を向けた。写真にあるとおり、眉山が航行の安全を祈願するように、船の方向を見つめていた。もっとも、眉山はどこから見ても眉の形をしているため、山の周囲にいる誰もが眉山に見守られているように感じるのかもしれないけれど。

こちらはオーシャン東九フェリーの大型船

 河口付近には写真の大型フェリーが鎮座していた。こちらは東京・徳島・新門司を結ぶ長距離フェリーなので、全長は191m、総トン数は12636tもある。外洋を航行するため、これくらいの大型船でなければ十分な安全が確保できないのかも。

 私は大昔に川崎と宮崎とを結ぶ長距離フェリーを一度だけ利用したことがあるが、ガタイが大きいこともあって、設備はかなり充実していたという記憶がある。その点、かつらぎ丸は竹芝桟橋と伊豆諸島とを結ぶ東海汽船と同程度か少し格下の船であろう。

小松島方向を望む

 河口は左右に伸びる防波堤で守られている。徳島県人は釣り好きが極めて多いので、こうしたかなり沖まで伸びている防波堤の上にも、竿を出している人の姿がかなりあった。「何とかと煙は高いところにあがりたがり、かんとかと釣り人は先端に行きたがる」という格言はありやなしや。

 河口の先に見えるのは、小松島市の大神子海岸や和田の浦だ。きっと、あの岩場にも磯釣り師が何人もいて、メジナ(こちらではグレ)を狙っているに違いない。

牟岐大島も見える

 船が紀伊水道和歌山港方向に舳先を向けると、牟岐大島の姿が視認できるようになった。こうして、徳島の海を眺めていると、この地であったあまたの出来事、この地で出会った多くの人々のことがいろいろと思い出される。

 今年の晩秋には四国の西半分を回る予定でいる。今度は高知や香川の西側、そして愛媛に立ち入ることになる。その際は瀬戸大橋やしまなみ海道を使うことになることから、徳島に立ち入ることはまず無いだろう。

 ということは、徳島に足を踏み入れるのは今回が最後かも知れない。その蓋然性は相当に高いと思うと、ちょっぴり感傷的にならざるを得ない。

日本の始まり~沼島の南岸線

 行く手の左側、つまり北側に、第80回でも紹介した「沼島(ぬしま)」が見えてきた。先には土生(はぶ)港から島の北側を望んだ姿だったが、今度は島の南側である。こちらには集落はまったくなく、荒波に洗われた海岸線が続いている。

 写真の中央付近には、かすかに上立神岩の姿が見えている。先にも述べたように、この三角錐岩礁が、天沼矛からの最初の一滴によって造られたとされるというお話がある。私は何度か、この近くの岩場で磯釣りを経験した。そして毎回、結構な釣果を得た。これは天の助けではなく、ただの偶然の重なりか、あるいは場所が荒れていないので魚影が濃いという事情であろう。 

 なお、沼島の向こうに見えている山々は淡路島のものである。

和歌山の磯ノ浦が見えてきた

 沼島の姿が遠のくと、今度は和歌山市街の北側の台地が見えてきた。紀伊水道の航海はかなり穏やかだったけれど、和歌山港に近づくにつれ、ますます海は平静を保つようになってきた。

 私はデッキから離れ、早々に車に乗り込んだ。何しろ徳島港への到着が早かったので、車は先頭部近くに置いてある。下船の順番が早いのだ。

和歌山港が近いので車に乗り込む

 右手に見えるシャッターらしきものが開くと下船である。係員にしたがって降りることになるが、私は三番目の順番であった。

扉が開き、いよいよ和歌山に上陸

 扉が開き始めた。私はエンジンに火を入れ、上陸の順番を心待ちにした。

根来寺に向かう途中で「府中」に出会う

和歌山にも府中があった

 最初の目的地は岩出市にある根来寺(ねごろじ)であった。直接に寺へ向かうのであれば国道24号線か、または阪和自動車道(一部は京和奈自動車道)を使えば良いのだが、岩出市に向かう途中に「府中」があると聞いていたため、あえて県道7号線を使って東へ進んだ。

 写真のように、確かに「府中薬品」の看板があった。住所は和歌山市府中である。

紀伊国府は岩出市近くの和歌山市にあった

 その薬局の近くで、県道7号線の北沿いには、写真の府守神社があった。狛犬の前には「紀伊国府跡」の石標が立てられていた。この辺りの発掘により、国衙跡と考えられる遺跡も発見されている。

紀伊府中のパーキングは格安

 神社の近くには「府中パーキング」という名の駐車場があった。連絡先には和歌山市太田とあるが、この住所は駐車場の管理会社の所在地で、駐車場そのものは府中にある。

 さらに言えば、この近くにJR阪和線紀伊駅がある。和歌山駅からは8キロ離れた場所に存在するが、少なくとも、令制国当時は現在の和歌山市街ではなく、この府中辺りが紀伊国の中心地であったことは確かであろう。

 紀伊国の元は「木の国」または「紀の国」であったが、国名は2文字が好字であるとされたため、「木」もしくは「紀」ではなく「紀伊」となったのである。たしかに、木や紀を声に出すと「い」という音を引く。

 ちなみに、我が「武蔵」も本来は「武蔵志」であるはずだが、これも2文字にするために「武蔵」と表記し「志」を削ってしまったのだ。我が府中市が中途半端な存在であるのは「志」を失ってしまったからである。

◎もうひとつの真言宗総本山~根来寺(ねごろじ)

新義真言宗の総本山

  和歌山にある名所(私自身がそう考えている)は概ね訪れていたが、いつも候補に挙げておきながら立ち寄っていない場所がいくつかあった。その代表格がここに取り上げた、岩出市にある根来寺(ねごろじ)だ。

 新義真言宗の総本山というからには古義真言宗があるわけで、それは空海が打ち立てた真言密教である。空海の教えは完璧すぎて、彼の後継者はただその教義の解釈を進めるばかりだった。そのために教義を深化させるための「伝法会」も形骸化してしまった。

 そんな真言宗の低迷状態を打ち破るべく、空海の二百数十年後に登場したのが覚鑁(かくばん、1095~1144)であった。彼は8歳ころには出家を決意し、10歳の時に仁和寺に入り、その後、興福寺東大寺でも修行を積んだ。そして20歳のときに高野山に入った。

 当時は「末法の世」であったことから治安は乱れ、人々は日々の生活に苦しんでいた。それゆえ、誰もが念仏を唱えさえすれば西方浄土に行けるという阿弥陀信仰が広がっていたのである。

 覚鑁空海の教えを広く分かりやすく伝えるために、空海の『菩提心論』にあった「密厳浄土」の考えを阿弥陀信仰を加えた上で新しい解釈をおこなった。空海の三密による即身成仏という困難な教えではなく、一密の行だけで西方浄土に行けるという教えを確立した。

 この三密の回避の教えが高野山の怠け坊主に嫌われ、1140年に覚鑁高野山を追われることになった。彼は鳥羽上皇の病を治したことから上皇の信頼が厚かったため、岩出市(当時は石手荘)に所領を得て、この地の名をとって根来寺を開創したのだった。

本堂(大伝法堂)

 覚鑁にとっては教義の深化が第一だったために高野山では「伝法会」を復活して怠け坊主どもをことごとく論破した。そのために山を追われたのだが、新天地では正々堂々と教義研究をおこなった。そのことで、覚鑁の新しい教えは徐々に力を得るようになり、1288年に高野山から根来寺に移った頼瑜(らいゆ、1226~1304)が、「大伝法院」と「密厳院」をこの地に建て、新義真言宗を確立した。

国宝の大塔(多宝塔)

 根来寺の名はあまり一般的ではないが、「根来衆」と聞くと鉄砲を担いだ僧兵や全国を旅して情報収集する隠密(忍者)をイメージする人は多いのではないか。私は『少年サンデー』や『少年マガジン』で知識を得ていたので、根来衆は秀吉の敵役という位置づけが出来ていた。当時は80%ほどサル的性格に支配されていたので、秀吉贔屓だったから、根来衆は悪役だった。

 その後、サル度が40%程度まで低下してからは秀吉に対する評価は変わり、彼の負の面も認識できるようになった。現在はまたサル度が上昇しているが、秀吉に対する評価は是々非々で行うことができている。サルは300匹以上の群れになると、必ず内部に対立が生じて分裂するというから、私のサル度が上がったとしても、秀吉に対する評価は若いときとは必ずしも一致しないのである。

大師堂

 根来寺には一時、2700ほどの建物があり、数百の塔頭を有するほどの繁栄を極めていた。また、この寺で忘れてはならないのが鉄砲の製造だ。

 1543年、種子島に漂着したジャンク船に同乗していた三人のポルトガル人が鉄砲を有していた。その内の二挺を種子島の当主である時堯(ときたか)が二千両で買い取った。そのうちの一挺を根来衆の行人(僧兵)が無償で譲り受けたのだった。

 戦国時代に根来寺の僧兵がはるか薩摩沖の種子島にいたということは、根来寺が単なる新義真言宗の寺院というだけでなく、戦国大名に匹敵する勢力にまで成長していたということを意味する。何しろ最盛期には70万石以上の領地を有するまでになっていたのである。

 鉄砲を譲り受けた行人の首領であった津田監物(杉之坊)は、根来寺にいた堺の鍛冶屋に命じて、鉄砲づくりをおこなわせた。こうした結果、根来寺、堺、そして秀吉の城があった長浜の国友が、日本の三大鉄砲生産地となったのである。 

覚鑁(かくばん)の御廟へ

 一大宗教都市にまで発展した根来寺であったが、1585年、秀吉の紀州攻めによって焼き討ちにされた。

 これは前年に起きた羽柴秀吉VS織田信雄徳川家康の「小牧・長久手の戦い」の際に、紀州雑賀衆根来衆が後者側に付いて戦った。が、織田や徳川が秀吉とそれぞれ単独講和を結んでしまったために紀州勢は孤立し、翌年、秀吉の攻撃にあって、大塔や大師堂は辛くも戦火を逃れたものの、大半の建築物は焼け落ちてしまったのだった。これを「天正の兵火」というが、このことについては徳島にある霊場を紹介した際にも少しだけ触れている。

覚鑁には興教大師の諡号が贈られている

 覚鑁根来寺に移ってから4年後に、48歳の若さで病死してしまった。その後は頼瑜が覚鑁の教えを教義にまで高め、新義真言宗が確立したということはすでに触れている。

 天正の兵火にあった根来寺の僧は奈良や京都に逃れ、奈良では長谷寺豊山)、京都では智積院(智山)において、それぞれ新義真言宗の流れを継承した。

 江戸時代に入り新義真言宗は徳川家の庇護を受け、とりわけ関東において大いに栄えた。例えば、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院高幡不動土方歳三菩提寺)、竹林寺(31番札所)、土佐国分寺(29番札所)はいずれも智山派の寺院。

 また、豊山派の寺院には、西新井大師、南照山寿徳寺(近藤勇菩提寺)、妙光院(私のガキンチョ時代の遊び場)、石手寺(51番札所)、津照寺(25番札所)などがある。

 なお、京都の智積寺、奈良の長谷寺が、それぞれ智山派、豊山派の総本山である。 

御廟に対面

 江戸時代に入り、覚鑁には「興教大師」の諡号が贈られた。写真にあるように、奥の院には興教大師の御廟がある。残念ながら、高野山奥の院に較べて訪れる人ははるかに少なかった。平安末期から鎌倉初期には多くの著名な祖師が誕生しており、教科書にもよく登場するが、残念ながら覚鑁が取り上げられることは少ない。何しろ、漢字が難しい。

聖天池

 根来寺和泉山脈の南側の斜面の裾野近くにあり、北は150~170m、南は130mほどの山の間に東西に細長く敷地を有しており、境内は標高100mほどの位置ににある。焼失し、再建されなかった建物は無数にあるため、何もない空間に、今ではかえって清々しい雰囲気がある。

 写真の庭園も気持ちが晴れやかになる感覚を抱いてしまうほどにすっきりとした佇まいであった。

いかにも根来衆の拠点といった感じ

 その一方で、写真のように谷を利用して敷地に段差を付けるなど、寺院というより城郭と言ってもおかしくないほどの姿も併せ持っている。

わずかに残る塔頭のひとつ

 数百を数えたと言われる塔頭も今ではほとんど姿を残していない。ただ、この空間に立って往時を偲ぶと、修行に励む僧、一方で武装した行人が行き交う様子が目に浮かんでくる。四百数十年前、この地は70万石を超える領地を有する一大宗教都市(国家)の中心地だったのである。

根来と言えば、現在では根来塗

 根来と聞けば私は根来衆を思い浮かべる(少年漫画の影響)が、アユ釣り仲間で、このブログにも何度か登場しているケンさんは「根来塗」をイメージするらしい。いつか、古座川・小川での釣りの帰りに根来寺に立ち寄り、根来塗の漆器類を見てみたいという希望があるようだが、今のところ実現していない。

 そこで、漆器にはまったく興味も知識もない私だが、ケンさんの代わりに根来塗の品々を見学することにした。根来寺の隣(実際には根来寺の境内だったのだろうが)に、写真の「岩出市民俗資料館」があり、そこには古根来を含めて数々の根来塗の漆器類が展示されている。

 そればかりか、根来塗工房が付設され、週に二回程度、市民が根来塗を体験できる講座まで開かれているそうだ。

かつては鉄砲が有名だった

 この資料館は根来寺にまつわる物品が展示されているので、根来塗だけでなく、先に紹介した鉄砲(種子島)も披露されていた。私にとっては、漆器よりは鉄砲の方に少しだけ関心があったので、まずは、そちらの方に目が行ってしまった。

朱が美しい椀類

 根来塗が盛んになったのは、根来寺が栄えはじめて多くの什器が必要になったためだろうか?素材の木や漆の木は無数にある。なにしろ木の国なのだから。黒漆を作るためには鉄分が必要だが、これもありがたいことに紀伊には砂鉄が多い。古代からたたらで鉄を生産した場所なのだ。また、朱の色を出すためには辰砂(しんしゃ、硫化水銀)が用いられるが、これには丹砂を採掘する必要がある。紀ノ川の上流部には丹生(にゅう)と名の付く川がある。丹(に)は硫化水銀のことなので、おそらく、辰砂は比較的容易に手に入ったに違いない。

 こうして、根来寺の学侶(がくりょ)たちが木地屋が作った素材の上に黒漆を塗り、さらにその上に朱漆を重ね、写真のような素朴だが独特の風合いを有する什器が完成するのである。

 これは資料館にあった記述だが、この色を重ねるには26の工程が必要とのことだ。塗っては磨き、また塗っては磨きという工程を重ねてはじめて、根来塗は完成するのである。

古くなるほど独特の風合いを見せる

 写真は室町時代、つまり根来寺がもっとも栄華を極めていた時代に作られた菜桶である。朱に塗られた場所の一部に、下地の黒が少し現れている。使い込まれ、磨き込まれると徐々に下地が現れてくる。この色合いが、また風雅なのである。

和歌山城に初登城

初めて和歌山城に登城

 和歌山県にはよく出掛けた(今ではアユ釣りで出掛けている)が、いずれも紀南を中心にした磯釣りのためだったことから、紀北にある和歌山市街は通過するだけで、当地に宿泊したのは一回だけだった。しかも、急いで次の場所に移動する必要があったため、和歌山城の姿は遠目に触れただけで、城のある和歌山城公園に立ち寄ることはなかった。それゆえ、城を間近に見るのは今回が初めてだ。

天守閣を見上げる

 公園には天守のある本丸と、その下に控える二ノ丸だけで、三ノ丸があった場所は官庁街になっている。それゆえ、敷地はかつての四分の一ほどだというが、それでも見て歩くには十分の広さがある。なにしろ、敷地内には動物園まであるのだから。

 昔は開かずの扉だった不明門から園内に入って車をとめる。すぐ横に坂道があるのでそれを上ると「お天守茶屋」がある広場に出る。写真は、そこから天守閣を見上げたものだ。

 なかなか美しい天守ではあるが、これは先のアジア太平洋戦争のときに米軍の空襲に遭って焼失したものを1957年に再建したもの。鉄筋コンクリート製だが、往時の姿が再現されているということは言うまでもない。

二ノ丸からの坂

 1585年、紀州攻めによって根来衆雑賀衆(さいかしゅう)を壊滅させた秀吉は、虎伏山と呼ばれていた小山を若山と名付け、藤堂高虎に命じて城を築いた。それまで紀の川下流域は雑賀衆が支配していたのだが、雑賀の名から若山に変わり、さらに和歌山と記されるようになった。和歌に多く読まれるほど風光明媚な場所だったからだろう。

城がある山の名は「虎伏山」(標高48.9m)

 公園内を散策すると、写真の「虎伏」の像があった。城が建てられる前の小山は、このような姿だったのだろうか?

往時の石垣が残る

 城にある多くの建物は戦後に再建されたものなので少し有難味を感じない。が、この城の見所は写真のような「石垣」にある。写真の角度から見ても、手前の石垣と櫓の下の石垣とは様式が異なる。

 戦国時代初期には石垣はほとんどなかったがやがて守りを堅固にするために石垣が組まれるようになった。それを始めたのは信長が築かせた安土城が始まりで、担ったのは穴太衆(あのうしゅう)という石工集団だった。

 穴太は滋賀県大津市にあり、位置としては比叡山の東裾にある。京阪電鉄石山坂本線の停留場(駅とは呼ばないようだ)がある。ただし、停留場は「あのお」と読むらしい。古代には景行、成務、仲哀の三代の天皇が高穴穂宮を設けていたほど由緒のある場所で、『日本書紀』には穴穂と表記されている。

 その穴太衆が、切り出した野面石(とくに加工を施していない自然の石)を積み上げて、和歌山城の石垣を築いた。上の写真でいえば、右手の石垣がそれで、これを野面積みという。

 石は緑色片岩で、中央構造線のすぐ南側の「三波川変成帯」でよく産出される。和歌山城紀の川のすぐ南にある。ちなみに、紀の川中央構造線の大断層帯を流れている。このためのあって近くの山には緑色片岩が多いので、素材は容易に集めることができたであろう。

 ちなみに緑色片岩は変成度がやや低い変成岩で、関東では荒川の長瀞の岩畳、神流川の支流の三波川で採掘される三波石がよく知られている。

 野面積みの部分は苔むしている場所が多いので石の表面の色は分かりづらいが、それでもところどころで、青みがかった石を見ることができる。 

この城の見所は石垣にあり

 もっとも、穴太衆は野面積みだけが得意なわけではなく、石の凹凸部を打ち込んでできるだけ石の間の隙間を狭くした「打ち込み接ぎ(はぎ)」や、石を加工して隙間をなくした「切り込み接ぎ」の技術も、もちろん習得していた。

 和歌山城の大天守や小天守は近代的な鉄筋コンクリート造りであっても、石垣には室町末期から江戸初期の石垣がよく残されている。上記の三種類の石垣を探し歩くのが、この城を楽しむにはもっとも「正しい」鑑賞法ではないかと思った次第である。

天守

 とはいえ、こうして、やや遠めから大天守を眺めてみると、やはり御三家の城としての風格を有していることがよく分かる。

紀州東照宮を訪ねる

紀州東照宮

 風光明媚と言われる和歌の浦を訪れたが、想像とはやや異なる風景だったために深入りはせず、その中心部に位置するとされる「紀州東照宮」を覗いてみた。

 1621年、紀州初代藩主である徳川頼宣(家康の第十子)により東照大権現(家康のこと)を祀るために創建した。

 鳥居には「東照宮」の額があり、敷石には緑色片岩を砕いたものが使われている。参道に石灯篭が立ち並んでいるが、これらは家臣団が寄進したものだそうだ。 

長い侍坂~結構な階段

 突然に長く急な坂が現れた。社殿は雑賀山に置かれているので、写真のような坂(侍坂と名付けられている)を上る必要があった。階段は108段、煩悩の数だけある。段数はともかく、一段一段が高いのがやや厳しい。

楼門

 楼門が見えてきた。かなり凝った装飾が施されている。さすがに「東照宮」を名乗ることだけはある立派な建築物であった。

社殿

 社殿は相当に贅を究めて建造されている。手前には唐門があり、その先に拝殿がある。私はとくに拝むことはないので、この場所から眺めるだけで十分だった。

 本殿には左甚五郎の彫刻や狩野探幽の襖絵などがあるそうだ。こうしたことから、ここは「西の日光」とも称されているとのこと。

和歌の浦を望む

 木々が深くて全体を眺めることができなかったが、東照宮を含め、この一帯を和歌の浦と名付けられている。

 森に隠れているが、右手には雑賀崎があり、一部は漁港になっている。雑賀漁港といえば、最近、遊説に来ていた首相が狙われた場所である。犯人を取り押さえたのは勇気ある漁民だったようだが、もしかしたら、彼は雑賀衆の末裔かもしれない。

 左手には片男波砂嘴が伸びている。かつては美しい風景が広がっていたのだろうが、こうしてみる限り、どこにでもある地方都市の海岸線にしか見えない。

南紀白浜界隈

紀州ミカン

 友人は、横浜を夜中に出て車を走らせ、どこかで仮眠をとってから南紀白浜までやってきて、そこで合流することになっていた。横浜から白浜に来るには大阪から南下して阪和自動車道を使えば、一般道に降りることなく白浜近くまで来られるのだが、紀伊半島の海岸線を走って見たいという願望があるため、三重方向から半島を時計回りでやってくるとのことだった。

 大学や大学院時代には相当に時間にルーズな男であったが、社会人になってからは一般常識が多少なりとも身に付いたようで、待ち合わせをしてもほとんど時間通りに来るようになった。反帝国主義の考え方は一貫しているが、定刻主義者に変貌したことは誉めてあげて良いと思っている。

 それはともかく、串本周りだと700キロ以上も走ることになるし、しかも途中からは自動車専用道ではなく一般道を走って海岸の風景に触れたいと言っていたので、到着時間は読めなかった。最悪、宿泊する白浜の旅館の名を知らせてあったので、そこで合流すれば良いと考えていたので、こちらものんびりと一般道を南下して、久し振りに紀北から紀中の海岸線を進むことにしていた。

 紀州は日本一のミカンの山地で、しかも、私がいる場所は有田(ありだ)だったので、ミカン畑を眺めながらのんびりと車を進めていた。

 道路沿いには実をたっぷりと実らせているミカンの木が無数にあった。しかも、道路沿いのものは敷地からはみ出ているものも多いし、道の上にはたくさんの美味しそうなミカンが落ちていた。

 ミカンを採って、あるいは拾って食べたいという誘惑に何度となく駆られたが、私も老人になって少しは常識と自制心が身に付いたので、悪魔の囁きを拒絶することができた。だが、木に実っているものはともかく、道に落ちているものは「無主物」と考えらえるので、拾って食べても良いと思えるのだが。

 そんなときに友人から電話があり、「今、白浜に着いた」との知らせ。私がいる場所から白浜までは一時間近く掛かりそうだと告げ、私はミカン畑を去って白浜に向かった。

 本当は印南から南部(みなべ)の海岸線を走りたかったのだけれど、早めに白浜に向かうには紀勢自動車道を使うしかなかった。

三段壁

 友人とは白浜で合流し、まずは断崖絶壁のある「三段壁」に出掛けた。三段とあっても実際に三段になっている訳ではなく、高台から海や魚の様子を見るのに絶好の場所だったことから「見段(みだん)」と漁師たちが呼び、その「見」が「三」と書かれるようになっていつしか「三段壁」となったそうだ。

 この辺りの地層は新第三紀時代(2303万~258万年前)に形成され、田辺層群と呼ばれている。この田辺層群は下位の朝来層と上位の白浜層から成り立っている。白浜層といっても厚さは600~700mもあり、基本的には粗粒砕屑(さいせつ)物が堆積してできたもので、砂岩が多く、その他泥岩、礫岩、角礫岩など浅海性堆積物から構成されている。

海食台

 この海食台は高さが50m以上もある場所が多いので、かつては「自殺の名所」だったらしい。

 足下には海食洞があり、熊野水軍の船の隠し場所として利用されていたとのこと。その洞窟にはエレベーターで行けるらしいが、私はまだ行ったことがないし、今回も行かなかった。なお、その洞窟内には「牟婁(むろ)大辯才天」があるとのこと。

千畳敷

 一方、三段壁のすぐ北側は「千畳敷」と呼ばれる低い岩場が広がっている。ここも三段壁と地質は同じだが、形状が異なるところが興味深い。おそらく、かつては入り江になっており、それが隆起して現在のような姿になったのだろう。表面が比較的平らなのは浅海にあったころに波によって上部が削られたからだろう。これを波食台という。

地層がくっきり

 千畳敷では海岸近くまで降りることができるので、写真のような白浜層の地層を見ることができる。砂岩層が主で、砂岩と泥岩との互層の部分では泥岩層が削られて隙間が出来ている。

 こうした地層を眺めるのはとても楽しいことだが、似たような地層は三浦半島の城ケ島でよく目にしているので、見飽きることはないにせよ、格別に珍しいものを見たという思いは少ない。

円月島

 白良浜の近くに、写真の円月島がある。本来は「高嶋」というそうだが、中央に丸い穴が開いているのが興趣を誘う。が、この海食洞も城ケ島にある(馬の背洞門)ため、同様の姿はしばしば目にしている。

 この近くには岩礁が多いので、10数年前には何度かこの周辺の岩場でクロダイメジナを狙った磯釣りを地元の名人としたことがある。そんなときは、陸からではなく、沖から円月島を眺めながら竿を出したのだった。

◎奇絶峡

大小の岩がゴロゴロ

 奇絶峡は右会津川の中流域にある渓谷で、田辺市街からもそう遠くない場所にある。一度、龍神温泉に向かう途中で通過し、さほど広くない渓谷にもかかわらず、河原には大きな石がゴロゴロ転がっている様子が少しだけ気になる存在だった。そこで、白浜温泉に宿泊した翌日に友人と共に向かってみることにした。

 気絶するほど見事な渓谷という訳ではなかったが、形の変わった大石が点在している様子は見るべき価値はあると思った。

不動の滝

 この渓谷でよく知られているのは、写真の「不動の滝」。滝見橋と名付けられた赤い橋を渡って左岸に行くと滝が見えた。規模はさほど大きくはないが、やはり滝のある風景は興味深い。

 この滝の上に行くと、一枚岩の表面に「磨崖三尊大石仏」が刻まれていると記されてあったが、坂道がやや滑りやすそうだったこともあってそこまでは見物に行かなかった。本当は、ただの怠け癖が出ただけであったが。

◎第三の故郷~古座川界隈

鯛島

 この日は、古座川の支流の小川(こがわ)にある民宿「やまびこ」に泊まる(2泊)予定だった。この民宿や小川については本ブログではすでに紹介済みで、私はこの2年間ですでに7回も宿泊していた。本項の冒頭の写真は、その宿のテラスから小川が目覚める様子を撮影したものだ。毎回、この姿に触れ、そのあとヤマガラと少し遊び、それからアユ釣りに出発するというのが、毎朝の儀式になっていた。もっとも、今回は釣りはシーズンが終了しているので竿は出さず、友人にこの小川の魅力を体感させるためにやってきたのである。

 彼自身、釣りはまったくしないが、この「何もない風景」にはすっかり魅入られたようで、23年のアユ釣りシーズン(6月から10月)にもこの景色の中に自分の身を置くためだけのために、横浜からやってくるそうである。

 という訳で、私たちは私の先導で車を連ねて「紀勢自動車道」それから国道42号線を南下して串本町に向かった。途中、「橋杭岩」(これも本ブログではお馴染み)で小休止したのち、引き続きR42を進んで、古座川河口右岸に向かった。

 写真は、古座川の河口近くに浮かんでいる「鯛島」である。この島が見えれば古座川は近い。この島がタイに見えるかどうかは各人によって異なるだろうが、一般にはこうした形の魚はタイをイメージするはずで、私のような磯釣り師にはタイよりもメジナに見えてしまう。ただ、「目仁奈島」では一般に人には意味不明だろうから、やはり「鯛島」が無難かも。

古座川右岸河口にて

 私たちが向かったのは「古座大橋駐車場」で、古座川河口右岸にある駐車場兼小公園である。それだけならわざわざ訪ねる意味はないが、ここには「第五福龍丸建造の地」という記念碑があるのだ。

 1947年、第5福龍丸の前身である「第七事代(ことしろ)丸」はカツオ漁船として串本町で建造された。その後、焼津港でマグロ漁船に改造され、名前は「第五福龍丸」と改称された。

ここで第五福龍丸が建造された 

 この船を全世界に知らしめたのは、54年に行われたアメリカによるマーシャル諸島ビキニ環礁での水爆実験であった。この近くで操業していたこの船では乗員23人全員が被ばくし、そのうちの一人は半年後に亡くなった。日本では、広島、長崎についで3度目の核による被害を受けたのである。

 数々の調査や補修がおこなわれたのち、56~67年までは東京水産大学(現在の東京海洋大学)の練習船はやぶさ丸」となり、引退後は夢の島に廃棄された。

 その後、反原水爆運動の象徴としてこの船の保存運動が展開され、2000年に夢の島公園に「第五福竜丸展示館」が設置され、被ばくによる被害の現実を多角的に紹介・展示している。 

古座川と言えば一枚岩

 古座川に出掛けても今回は釣りをするわけではないけれど、やはり古座川の象徴である「一枚岩」に対面しなければならない。

 友人も、私やケンさん同様、駐車場からその姿を見た際には、大きな岩だとは思ってもさほどの感動は生まないようだが、一旦、河原に降りてその姿を見上げてみると、その大きさには圧倒されていた。

◎谷瀬の吊り橋~恐ろしい!

谷瀬の吊り橋

 古座川・小川の「やまびこ」では2泊した。到着した日は小川の上流に向かい、私とケンさんが良く竿を出している場所を数か所、訪ね歩いた。彼は何度か、アユ釣りに同行しているのだが、小川と他の川との違いはすぐに認識できたようで、その自然の豊かさに驚嘆していた。

 もちろん、ヤマガラとの戯れも体験し、かつ、宿の眼の前にある大きな岩盤のポットホールが赤く染まっていることに興味を示し、来年(つまり今年)は顕微鏡を持参して、赤く染めている物質の正体を暴くことを決意したようだ。

 彼には釣りの才能は皆無なので、釣りの中でも最も難しいとされるアユの友釣りを体験する気はまったくないけれども、小川の素晴らしさには”ぞっこん”だったようで、早ければ6月の釣行に同行すると言い出している。

 残念ながら二日目は大雨でほとんど宿に籠り切り状態になったけれど、宿の子供と遊んだり、刻々と変化する川の状況をつぶさに観察したりしながら、豊かな時間を過ごしていた。

 まったくもって、この川に接していると、時間は「物理的」な存在ではなく「主観的」な存在であることがよく認識できる。

 こうして、和歌山での優雅な時間を過ごした私たちは、次の宿泊地である奈良県天川村に向かったのであった。

対岸の集落への道

 国道42号線を北上して新宮市に向かい、そこから国道168号線に移動し、熊野川、そして十津川沿いを北方向に進んだ。

 途中にも素敵な景観は数多くあったが、やはり、ここで紹介したいのは、先ごろまでは「日本一長い歩道吊り橋」として知られていた「谷瀬(たにぜ)の吊り橋」である。

よくぞ造った

 橋ができる以前は、一旦、十津川まで降りて川に架けられた丸木橋を渡り、また山道を登って対岸に出るという行程を強いられていた。が、十津川は増水しやすい川なので、丸木橋はしばしば流失した。

 そのため、住民たちは橋を架けることを決意し、費用の8割を住民が負担して1954年に吊り橋が完成した。長さは297.7m、高さは54m、幅は2m。ただし、ほとんどの場所では中央部に板が置かれているだけなので、実質は80センチの幅しかない。しかも橋はワイヤーで吊ってあるだけなので大きく揺れる。 

怖いもの知らず

 南側、つまり私が写真を撮っている側の字名は上野地で、対岸が谷瀬。現在ではこの間には村道が出来ていて、川には谷瀬橋が架けられているので、車での移動は容易におこなえる。したがって、この橋を利用するのはほぼ観光客に限られているようだ。

 見学していると、平気の平左で渡る人もいれば、おっかなびっくり渡る人も、途中で断念する人などいろいろといて、見ているだけで面白い。

臆病者

 高所恐怖症の私もチャレンジしたが、10mほどで引き返した。一方、友人は写真のように5mほどで足がすくんだようで、すぐに引き返してきた。ということは、私の方が2倍だけ勇気があることになる。と言いたいところだが、お互い、単なる臆病者なだけなのだ。

天河神社浅見光彦に教えてもらった場所

天河神社の鳥居

 この日の宿泊は天川村の旅館。料金はそれなりに掛かったが、宿の人は極めて親切で、かつ、料理は地のものがほとんどであり、ここでしか食べることができないものが多かった。また出掛けたいところだが、実際には、今までも何度か予約しようと思っていたがいつも満室で、泊まることができたのは今回が初めてだった。

能舞台

 天川村を宿泊地に選んだのは、写真に挙げた「天河神社」に立ち寄りたいためであった。その天河神社の存在を知ったのは、内田康夫の『天河伝説殺人事件』が読んでからだった。もちろん、内田康夫といえば「浅見光彦シリーズ」が有名で、件の作品は第23弾で、そのシリーズの中ではかなりの長編になっている。

 ちなみに、内田康夫浅見光彦シリーズは100巻以上あるが、私はそのすべてを読んでいる。また、テレビドラマになったものもほぼ100%見ている。著名な観光地が舞台となっている作品は内田以外にも無数にある(例えば西村京太郎)が、内田康夫はその中でもきちんと下調べしているほうなので、観光ガイドを読むよりは数段、役に立つ。

 という理由で、いつかは天河神社へという願いがあったが、宿泊先の確保が難しかったため、やっと今になって実現した。

芸能の神に祈る

 天河神社の正式名は「大峯本宮天河大辯財天社」と言い、日本の三大霊場とされる高野、吉野、熊野を結んだ三角形の中心に位置する。

 開祖は役小角役行者)とされ、大峯蔵王大権現に先立って勧請され、弥山の鎮守として祀られたのが天河大辯財天であった。空海も、高野山の開山に先立ってこの地で修行を重ねたそうだ。

 桃山時代から江戸初期にかけての能面や能装束が多く保存され、現在では芸能の守り本尊としてよく知られている。毎年、例大祭のときに能楽狂言の奉納がおこなわれている。したがって、浅見光彦シリーズでも、能が中心テーマになっている。

 ところで、弁財天は「水の神」でもある。国道168号線から天河神社に向かうため、県道53号線を東に進んだのだが、この道沿いには「天の川」という清流が流れていた。途中には鮎のオトリを売る店もあった。渓相は小川の上流に似ていた。水の透明度も相当に高かった。

 弁財天は、新しいアユ釣り場を紹介するために、天河神社へ私を呼び寄せたのかも知れない、と考えてしまった。いや、確実に!